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精神分析

つもり

冷蔵庫から麦茶を出した。そろそろ作り置きしなくてもいい時期かな。カフェでもフローズンドリンクに惹かれなくなってきた。まだまだ暑いのに身体はもう冷やされることを望んでいないみたい。真夏でも冷やしてはいけないのだろうけど美味しいフローズンドリンクを飲むと確実に喜んでるよね、身体。

昨日は仕事の合間にずっと専門書と睨めっこして疲れた。勉強すると賢くなると錯覚できるのはそれをテストにできる場合だと思う。私馬鹿なんじゃないかというか馬鹿なんだな、と自分の知的能力を否認できなくなることはあれど賢くなったと感じることはない。でもこの「私馬鹿なんじゃないかというか馬鹿なんだな」ってこれまでも何度も思っていることだから現実って本当にすぐ忘れ去られ否認による錯覚の世界を生きやすいってことだね、人間は、というか私。

否認も精神分析では重要な防衛機制と考えるが、精神分析には「否定」という重要な概念もあり、『否定Nagation』というそのまんまの名前の短いが重要な一本の論文にもなっている(フロイト(1925),『フロイト全集19』岩波書店)。この論文の冒頭は患者の言葉だ。精神分析の方法である自由連想、つまり思い浮かんだことをそのまま言葉にする、という方法において患者がする語り口、たとえば「そんなつもりはないのです」という否定、ある表象内容に対して無意識的な抑圧が働いていたことはこの否定によって明らかになる、という理解を精神分析はする。「そんなつもりはなかった」、よく聞くし、よく使う言葉だ。精神分析は無意識を想定するため、そんなつもりはなかったが現に今こういう出来事が生じているということに対して二者で思考するプロセスといえる。

昨日、睨めっこしていたのは精神分析の専門書で『アンドレ・グリーン・レクチャー ウィニコットと遊ぶ』(金剛出版)とラプランシュ&ポンタリスの『精神分析用語辞典 vocaburaire de la psychanalyse』(みすず書房)。「表象」について考えはじめたらドツボにハマってしまった。先述した「否定」はフロイトが「思考」に不可欠と捉えた機能であり、事物表象と語表象の区別にも関わるため同時に考える必要があった。

それにしても難儀。精神分析が使う「表象」は哲学で使うそれとは異なるのはわかる。でも何度学んでも自分で説明できるほどにならない。フロイトの初期の著作からずっと登場する概念にもかかわらずスッキリしない。大体フロイトの概念の使用は年代によって変わっていくのでスッキリしてしまったらどこかでついていくのをやめているということなのかもしれないが私の理解はそれ以前の話だ。難しく考えすぎなのかもしれないが難しい。

精神分析でいう表象は対象の痕跡からきたものであり記憶系である。フロイトが否定という機能に重きをおいたことで患者との関わりを思考するための複数、あるいは反転可能なパースペクティブを意識することができるようになった。それによって内部と外部、良いと悪い、存在ー非・存在といった二元性の判断についての探求はもちろん、患者が破壊欲動によって思考すること自体を攻撃し、こころを動かし続けることをやめてしまうこと、それは変形とそのプロセスにおける破滅に対する恐怖からかもしれないなどの仮説もたてられるようになった。

ということがあるので概念の理解とそれによる思考は重要であり、捉え難くともそこに身を置き続ける必要がある。だが難儀だ。今日もまたちょこちょこやるしかないが。精神分析は現実の二者のものなので私が作業をやめるわけにはいかない。ただ無意識的にはありうる。それを「そんなつもりなかったんだけど」と済ませることなくそういう事態が生じたら生じたで何がどうなってしまっているんだ、と二人のこととして考え直す、今日もその繰り返し。

また月曜日。嫌になっちゃうことも多いかもしれないけど毎日が続いていること自体になんとか希望を見出せますように。