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精神分析

とりあえずの日々

昨晩もPCに向かったままいつの間にか眠っていた。あまり調子がよくないときほどきちんとした場所でしっかり睡眠をとらないと、というのは人には言えるが自分ではなかなか。こういうのは自分に甘いとはいわないな。ダメになってるわけだし。

さて甘さは今朝も果物とクッキーとチョコで補いました。柿と梨。どれも全く異なる甘さ。コーヒーで一気に身体が温まった。私は熱い飲み物を熱いまま飲みたくてしょっちゅう火傷をしている。これもダメじゃん、という例だけど熱いものが喉を通っていく感じ、身体に染み渡って暑くなっていく感じが生きている感じがする。ものすごく寒がりですでに身体は半分冬眠に入っているから一刻も早く蘇りたいという気持ちもあるのかもしれない。人には人の生活があるからな。世知辛い。もし私が熊とかだったら上手に冬眠できるかな。と思ってちょっと調べたらヒグマの「冬ごもり」すごい。なぜ「冬眠」ではなく「冬ごもり」というかというところから。そして生まれたての赤ちゃんのかわいいこと!動物ってすごい。

動物だったらすぐに死んでいただろうと思って生きてきたけどそれは幼稚園の頃からずっと小さい女(ここでは身体的な小ささのお話)だったことが関係していると思う。「ちっちゃーい、かわいー」とかいわれているのはほんのいっときでどちらかというと理不尽な体験の方が多かった。動物はもっとシビアだもんね。ああ。動物として生きていく自信もないけれど人間も難しすぎて辛いなと思う。

憎しみに覆われた自分が嫌で自分から引き剥がし分裂させ弱い相手の方へ追いやって自分のものではなくして責任を放棄することで自分を維持していることの多さたるや。誰にでもある心性。二者関係で巻き込みあう関係では特に。かわいくないと感じたその瞬間から近寄ってくるペットを邪魔と感じはじめ挙句の果てには捨ててしまうようなことだって決して他人事とはいえないかもしれない。もちろん私たちはペットではないのでなんらかの形で抵抗を示したり誰かに助けを求めたりあるいは投影同一化によって不毛な争いをしたりするかもしれない。巻き込まれるというのは相手との区別がつかなくなる部分を持つということなのでこれは自分のもの、そっちは相手のものと分けることは難しい。自分が感じたくないネガティブな部分を相手に投げ込む場合、保たれている表層に対する支持が維持されていればそれも「悪いのは自分ではなくおまえだ」という理由になる。そうされる相手もその時点で声をあげられない圧に囚われている場合が多いので誰にも言えないまま苦しみながら同じような心性に囚われていく。本当に、誰かを憎んでいるときにいいことなんてひとつも起きていない。それを知っているのは自分だけだから「バレない」とか思ってしまうのもそういうこと。どこまでもそういう発想になる。ほとんど言いがかりのような攻撃性を相手の側に見出しそれを攻め続ける。誰も責めていないのに言い訳ばかり探して防衛を強めていく。本当に悪循環で悲しいとか寂しいとかも感じられなくなる反射的な戦闘体制。心ない人、人でなし、とかいうのはそうじゃないのが人という前提があるからだろうけどなんにしてもそれは一時的で部分的だと私は思いたい。全体に及ぼす破壊力という意味ではそんなことも言ってられないけど私はやっぱり部分として扱うべきだと思う。潜在性に対して楽観的であるべきだと思う。そうじゃなきゃ辛すぎる。種の異なる敵対する動物たちであれば隙を見逃さず攻撃することには意味がある。でも人間なんて似たようもの同士だし、憎しみを向けるなら自分を守るためではなくて大抵の人は持っているのに相手は持っていない部分に対して執拗な攻撃を加える強者ぶっている人に対して向けたほうがいいのではないかと思う。でもそれはできなんだよね。どうしてもお手軽な場所に向けてしまう。それが安全でもあるから。弱者はそうやって作られていく。よっぽど集団的に余裕があるときでないと正当な戦いは難しい。だから知的に制度を整えていく必要があるのかな。

本当に難しい。だから辛い思いをしている人が壊れてしまわないように願うばかりになってしまう。もっと気楽にみんなの元気を願えたらいいのに。自分だって壊れないようにしないといけない。

こう考えると動物のあり方は常に絶滅と近いからという感じがする。というか人間がいかに絶滅(どころか自分の死さえ)を否認していることか、ということかも。人間で子供がいないことに苦しむのは圧倒的に女性だと思うけどそれも単なる個人の苦しみではなく動物的なものなんだろうな。誰かを攻撃しながら軽薄さも保っていられる余裕は女性にはない。それを「感情的」とかいわれる場合もあるわけだけだど命と時間が密接に結びつていることを実感するのは女性だから。女性の身体の時間に対して無責任であってはいけないと思うという話はスーパーヴィジョンなどでもする。この一年、この五年がその人の人生にとってどういう意味をもつのか、動物的な観点は必要だろうと。動物的なものといわなくても少なくとも個人的なものではないと私は思ってる。このことは学会のセミナーで議論になるかもしれない。小児科医で精神分析家のウィニコットがしたmeとnot-meの区別は私と私以外と考えるとローランド的な感じもするけどウィニコットの場合はまずその進化の歴史を含めた全体を出発点としているから、とかいう議論。これは彼が沈黙や解釈を控えることの重要性を示したことと重なる、など。

とりあえず今日もなんとか生き延びましょうか。とりあえず今なんとかそこにいること自体に小さな希望を見出せたら。とりあえず暖かくして過ごしましょう。毎日毎日とりあえず。

作成者: aminooffice

臨床心理士/精神分析家候補生