昨日の雷はすごかった。雨が弱まったあともサイレンが次々に通り過ぎていくのが聞こえた。何事もなかったかのような夜空の下を歩きながら過ぎてしまっても痕跡は残るはず、と思った。電車がいつもよりずっと混んでるとか、いつも見かけない人が歩いているとか(雨宿りしてたんだろうなあとか)。
昨日、九鬼周造の「小唄のレコード」のことを書いたけど、そこに
「男がつい口に出して言わないことを林さんが正直に語ってくれたのだ」
という文章がある。ここがあるからこの話はなんとなくわかるものになる。が、しかし、と私は思う。私は久鬼ファンなのでこの情感を否定したくはないが、男のロマンチズムだなあと思う。林芙美子のことは知っていても林芙美子が書いてきた女たちのことは知っているだろうか。思いを馳せたことはあるだろうか、そういう心の世界だけではなく、そういう現実があることを。
いろんな本を読んだり映画をみたりしていると女に対する扱いのひどさに唖然とするが、それが女にとっても当たり前になっていることは現実だから唖然としない。満員電車での扱い、高い場所から大きな声を出されること、単なるモノ扱いを名言bot使用して誤魔化されること、それを当たり前としない女がどんどん孤独になりながらも戦い続けられるのは本や映画の世界だけで、現実では裁判に負けたり、身体を壊したり、仕事を失ったりしていること。
女がいくらなにをいっても通用しない世界はこれからもきっと続く。なのに女の代わりに当たり前のことを男社会で普通に表明してくれる男性の少なさときたら。もちろんそうしてくれる人はいる。具体的に思い浮かぶ。ただ、少ない。代わりに何かする以前に深刻な問題として耳を傾ける人が少ない。
まず自分が欲しいものがもらえなくては、というのはわからないでもない。与えられていないものを求め続けたくなる気持ちもわからないでもない。それが得られないとわかるまで求め続けることに耐えてくれる相手が必要なのもわからないではない。でも同じように、いや、それ以上に与えられていない環境に生きてきたのに、そういう要求をぶつけられ、それを与えることはできないという言葉を言えない、あるいは言っても言っても何かと理由をつけてそれができないおまえが悪いと言われ続ける、そういう立場を多くの女が担ってきて、だいぶおかしな関係が男女を支配しているという現実をただただ知って、「男だって同じだよ」「それができる女もいるんだよ」と簡単に男側に立つことをせず(身体の大きさが違うだけでもものすごく違う、どう考えたって就業率とか全然違うという現実がなくなるまでは)、それはおかしいよね、怖かったよね、言いにくいよね、自分が言ってみるよ、どう言ったら伝わるかな、と協力してくれる人は増えないものか。
多くの女性の苦しみを聞いてきた。同じようなひどい話をたくさん聞いてきた。同じようなのに絶対に何かに振り分けて考えることができない話に「ひどいですね」と私が本気で呟くとき、彼らがひどくびっくりすることがある。そんなふうに思えてなかった、そういう思いで話をしていた自分に気づいていなかった、当たり前だと思っていた、そう思ってもいいのか・・・こういう事態がどれだけ悲しく切ないことか伝わるだろうか。
誰かを勝手にカテゴライズして排除する動きに敏感でありたい。誰もが持っている不快なものをどっかにやってしまいたい心を簡単に知らない人にも向けることなんてしてはいけないに決まってる。自分の不快さも自分に向けられる不快さももっと個別に思考しそれぞれが引き受けていくためにも協力してくれる他者を必要とする。運動以前に生活において。
今朝は少し涼しい。いい一日にしていこう。
