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精神分析

俯瞰、洋梨、グループ

きれいな空。遠くでカラスが鳴いている。鳥たちは街を俯瞰できるからいいな。中井久夫はいってもいない街の鳥瞰図を知識から書けたと聞いたことがある。患者さんでもたまにこれができる人がいる。これまで会ってきたたくさんの子どもたちの中にもいた。すごく素敵な能力だと思う。書けることがそのまま考えることに繋がるわけではないけれど立体的な思考がなければ書けないわけだから。平面に線もひけない状態を知る私はその状態に共感するわけだけれど。

上野原の「びりゅう館」で買ってきてくれた塩山の洋梨を食べた。常温で食べ頃を数日待っていた。昨晩、お、そろそろ、と思って冷蔵庫に入れて、今朝むいた。つるんと手から逃げられたりしながら。甘くて美味しかった。洋梨は独特の甘さがありますね。

開業して7年経つけどフロイトを読むReading Freud(そのままだけどキノドスの真似)とか事例検討グループを続けてきたのはよかった。心理職の世界は30代になってもまだ自分のことを若手、未熟、と言い続けている場合が多いけど私はそういう話がでるたびにそれでは困るのでは、と言っている。他の職種のみなさんとの仕事ではそういうことはないので臨床の難しさがそう言わせているのだろうとは思うけどあえていう必要もないと思う。なんかそういう言葉が親しみやすさ的なものと繋がっているようで、学問とは、といつもなる。臨床も学問も孤独だし、そこでもがくうちにできる相手が職業上はいい関係になりうるかもしれず、学術的な議論以外の繋がりばかり作っても、と私は思うので、ひたすら難しいフロイトを読み続けるとか初回面接を細かく検討するとかしつづけてきてよかった、となおさら思う。実際、メンバーの皆さんは学問としての精神分析や臨床を楽しめるようになっているし、資格によって何者かであるかを規定しようとする思考とは異なる世界でどんどん力をつけていってほしいと思う。外側からなにか言っていても飛び込まない限りは自分とは無関係だし、時間はどんどん経っていくし、飛び込んでみたら自分たちの想像とは全く異なることが起きているということがわかってあれはなんだったんだろうとなるだろう。今の自分が今どうしたいのかを考え続けることが私はとても大事だと思う。

それにしても頭が痛い。外側も痛い。ぶつけた覚えがないというのも怖い。病気も怖いけど、ぶつけたことを忘れているのでは、と思ってしまうのも怖い。自分の記憶の曖昧さはいつも信用できないけど信用できる部分を活かして今日もがんばりましょう。いいお天気になりますように。

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イベント 精神分析 趣味

ルイーズ・ブルジョワ展、共有

きれいな空。まだ濃い。熱い紅茶が美味しい。

六本木の森美術館でやっている「ルイーズ・ブルジョワ展:地獄から帰ってきたところ 言っとくけど、素晴らしかったわ」へ行った。もっとゆっくりみたかったがエネルギーも足りなかった。かなり疲れたがとてもよかった。27年ぶりの日本での展覧会ということだが、私はこの人の名前は知っていた。彼女が精神分析に長く通っていたので精神分析の文脈で。ジュリエット・ミッチェルが結構最近も取り上げてきた気がする。そしてメルツァーとの共著で有名なメグ・ハリス・ウィリアムズも彼女について書いている。ジュリエット・ミッチェルはフェミニストだとは思うけど、精神分析的にはラカン派でもなさそうだし、いまいち位置付けがよくわからない。メグ・ハリス・ウィリアムズはメルツァーと共著を書くくらいだからクライン的に作品を解釈するわけだけど、私は今回実際に作品をみて乳房とペニスの結合はこうやって表現できるのか、とすごくびっくりした。布と糸を使うのも彼女の人生にはずっとあったものなのだろうけど意識と無意識をそれらで表されるとものすごく新鮮でちょっと考えてみたいことが増えた。

昨日はネット上でもみんな谷川俊太郎の話をしていた。本当にたくさんの投影をうけている詩人なんだなぁ、と少しおかしかった。普段の人間関係で共有というと片方しかそれを喜んでいない場合もあるがあそこまで歴史も長く懐の深い音の世界だと誰もが密かに好きでいられる部分をもてるのもいい。おおざっぱな判断と解釈はみんながいっていることを自分の発見として自分だけが満足となる場合が多いけど特別なときだけではない感覚は共有できなくても全然いいが表面的ではないのでじんわり共有できる場合も多い。谷川俊太郎の詩のように押し付けがましくなくいきたい。あれこれ大変だが今日もがんばろう。

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精神分析

谷川俊太郎さん

谷川俊太郎さん、亡くなったか。いつまでも生きていると思ってしまっていたが。私が生まれてはじめて詩人として知った詩人はあの人だろう。そういう人は多いと思う。水木しげると妖怪がセットなように谷川俊太郎と詩は絶対的なまとまりだった。この場合の詩はジャンルとしての詩ではなくて谷川俊太郎のそれであってもうそれだけでひとジャンル確立されていた。昨年、友人のラジオで谷川俊太郎の「みみをすます」で遊ばせてもらった。私の開業の始まりのウェブサイトにも載せた。いくつかの展覧会も毎回最高に面白かった。言葉にはここまでの力があるのかと思った。彼はここ数年の日本をどう感じていたのだろう。自由な生き方に見えるがどの時代においても自由を獲得する努力を怠らなかった結果なのだろう。見習いたい。彼の詩を読めば文字は音そのものでどこにでも連れていってくれる乗り物になる。実際にお会いしたことはないけれど私の人生のこんなに長い時間、私の心にいてくれてありがとう、と思う。

今日も河口湖チーズケーキファクトリーの抹茶ケーキとあっつい紅茶。今朝はあまり寒くない。寒いといっていたようなのだけどあれれ。寒いはずが寒くないのは私としては大歓迎だけど。昨日は寒かった。かなり厚着をしていた。毎年着込む以外の調整をしていない。そうだ、オペラシティの雑貨屋さんに行ったら白湯専用のマグカップが売っていた。お湯を入れるとすぐに白湯と呼ばれるくらいまでに冷ました上に保温してくれるようなことが書いてあった。ペットボトルで白湯があるくらい貴重なものになったね、白湯。その店はクリスマス用の雑貨も売っていたけどまだ端っこに置かれていてメインになるのはこれかららしい。売り場移動中、みたいなことが書いてあった。オペラシティの地下一階、外の広場のイルミネーションの設営も始まって点灯の確認作業をしていた。ベーシックな色合いがかわいい。今年はどんなクリスマスツリーになるのだろう。雪国はもうとても寒そう。当たり前に雪が降っている。厳しい季節を無事に過ごしてほしい。富士山の冠雪はどうなったのだろう。この前、新幹線の中から見たときは白くなかったのだけど。今日もいろんな景色の中で自然に過ごせますように。どうぞよいいちにちを。

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精神分析 言葉

NHK短歌、ムーミン、精神分析

NHK短歌を見た。大森静佳さんのムーミンの歌、すごく良かった。ゲストは大好きな祖父江慎さん。ムーミンはいろんなことを教えてくれるしこうして今にも受け継がれている。すごいことだ。今、我が家にはムーミン谷のお土産が色々ある。埼玉のだけど。

空が水色。テレビ見てるとあっという間ね。

精神分析のことなんだけど、週4日も同じ人のところへ通っていると相当量アウトプットしつづけることになるわけで、あれは特異な体験だったな、と思う。沈黙も対話によって生じる沈黙と自分のなかで記号化できないなにかを感じ取っている間の沈黙では異なるし、こうやって一人でアウトプットしているのとカウチで分析家の隣でアウトプットし続けるのって全然違う。

今も昔もだろうけど精神分析を受けているといえば即、知りもしない人の家の台所事情やライフプラン、夫婦関係や家庭状況にまで言及してくる人もいますがそれはそれ。推測も憶測も自由。でも財産も生活も共有しているわけでもない人がプライベートな部分に踏み込むことがあるとしたらそれには守りが必要でしょう。自分の判断だ、自分の選択だ、と言ったところでそれは実に揺らぎやすいものなので誰かに何か言われるとすぐに揺らいでしまうのが私たちですがそういう揺らぎも大切にすべきだしされるべきでそういう作業を始めた人を邪魔しないでほしいなと思う。学術的な議論としてするならともかく。精神分析は侵入する、されるがたやすく生じやすい設定だけど、それは関係が近いからだけでなく、人の心は脅かされやすいから。そして脅かされると攻撃に転じやすいから。だから精神分析家の方は訓練を必要とする。特定の他人に自分を晒しつづけるという訓練を。それは同時に誰が相手であっても晒すものではない自分(境界)を作るプロセスでもある。他人とどう関わるかは自分の自由である、ということを各々の倫理において確立するプロセスと言えばいいのでしょうか。被分析者の方も精神分析家になるための訓練が目的ではないとはいえ体験としては同じ。狩野力八郎先生が患者さんの方が家族よりも自分のことをわかっていると思うとおっしゃっていましたがこれも単純に受け取るべき言葉ではないでしょう。私も「ある面では本当にそう思う」と思っていますが。ラカンが精神分析を受けた人は精神分析家であるといったのにも非常に納得していますがこれも単純な話ではないでしょう。精神分析家は偉い人でも優れた人でも性格のいい人でも全くなく(そういう人もいるでしょうけど精神分析がそうしたわけではないと思う)非常にマイナーな職業にも関わらず資格として考えるとなんとなく持っている人、待っていない人みたいな分類のもとに思考が展開してしまう場合もありますね。子供がいる人いない人みたいなものでしょうか。だったら子供がいない人にももっと寛容であってほしいな、同時に子供がいる人にももっと手厚いサポートをしてほしいな、とかも思いますがそうはならない思考が展開されるというか停止するというか、とにかく決めつけが入りやすい類の問題なのでしょう、何者かであるというだけで。外側から何かをいうことのたやすいこと!学問に対して自分倫理を持ち込むことに危機感はないのかと思うことはしばしばですが、自分は自分で誰かとは全く異なる生活と運命であるはずなので自分の考えや欲望に注意を向けることがとても大切でしょう。精神分析家としてはそのための時間と空間を提供しているつもりですが人と人との関係は操作できるものではないので一緒に作業できるようになるまでは安全や安心とは遠いのかもしれず、そういう現実と出会いながら対話を続けていくことが必要なのでしょうね。継続的な関わりの中で自分自身が実感を掴んでいくこと。その実感も一瞬にして幻に変わる場合もあるけれど、それにも素直に出会っていくこと、歳をとればとるほどそれまでの経験で様々なことを語りがちですし、若ければ若いで少ない経験で語りがちですが、事実として語り継ぐ責任はそれぞれにあると同時に、自分の体験の不確かさを他人の言葉でたやすく補完せずに持ちこたえていきたいものです。ムーミン谷の優しさを思い出しながら今日もがんばろう。

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散歩 精神分析

すずなり、無意識

先日、名古屋の知らない駅で降りて横断歩道を渡り終えたら後ろからおばあさんが呟いた。「すずなり」という言葉だけが聞きとれた。なんだろう、とキョロキョロ横を向いたり上を向いたりしていたら結構高いところに柿がすずなり!小さな丸いオレンジがたくさん。鈴なり、まさに。昨晩、いつもの遊歩道に小さな柿が落ちていた。こんなところに柿あったっけ、とまたキョロキョロ。あった。この狭い道だとその高さは見ないな、見えないな、という場所に柿がすずなり。あのおばあさんのことを思い出した。私に話しかけてくれたのかなあ。少し距離があったから柿を見つけてそのすずなりぶりにびっくりしてなんとなく後ろの方にいるおばあさんに会釈をしただけだった。教えてくださってありがとうございます。自分では見つけられない景色、毎日歩いてたってそうなんだからましてや知らない街でなんて。声を大事にしたい。

エレンベルガーの『無意識の発見』を少し読み直した。無意識を発見したと言われる第一人者のフロイトだが、それを発見させたのはブロイアーと一緒に治療した「アンナ・O」と言われた患者だ。後にアンナ・Oはベルタ・パッペンハイムという社会事業の先駆者であるとわかるのだが、エレンベルガーはこの治療の成果に関する嘘を指摘している。実は、患者もフロイトもこの治療は失敗だったと言っていた。ブロイアーはこれでフロイトと離れるわけだが、フロイトがブロイアーの非難をするのは『ヒステリー研究』の20年後だ。精神分析の設定はこの頃まだ使用されていない。ブロイアーは開業医であり、診察と入院によって彼女を治療していた。つまり無意識はカウチの上で発見されたのではない。もちろん無意識という言葉自体はずっと以前からあったわけで、しかし現代はそれはほとんど重要視されないわけで、それでも精神分析はそれについて考え続けているわけで・・・。うーん、いろんな気持ちになるが自分の立場を明確にしないことには前提の修正もできない。ふわふわと周りで何かいうことは簡単だが患者がいて自分がいてという状況が現実にあるのだから歴史の見直しと思考は続く。

今日もがんばろう。

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お菓子 精神分析 音楽

紅茶、人それぞれ

朝焼けがきれい。鳥たちが賑やか。熱いハーブティーと友人の紅茶のパウンドケーキ。戦後消滅しかかった国産紅茶(丸子紅茶)を復活させた村松二六さんの淹れてくださったミルクティーから着想を得たとのこと。静岡県に丸子という地名があるのですね。「まりこ」と読むのか!ちびまる子ちゃんも静岡だしね、とか思っていたのに。東海道の宿場町のひとつですって。宿場町は楽しいですよね。行ってみたいな。丸子紅茶も買ってきたい。お茶って葉っぱとしては緑茶、紅茶、烏龍茶、みな同じ。最初に知った時は驚きました。静岡の親戚のお茶畑でお茶摘みをしたことがあるけどものすごく大変で地道な作業。お茶のおかげでほっこりできる毎日。ありがたいことです。何事も丁寧な作業は大切。私は毎回原稿も俳句も当日過ぎてよくない。日々繰り返す作業に変えていかないと。今日締め切りの俳句もまだ作ってない・・・。複数のことを同時にするのが苦手だということは十分わかっているのだけど苦手すぎて自分の理解を超えている。あっという間に注意が逸れたり忘れてしまう自分に驚く。学会の発表原稿も時間を間違えていて結局当日の朝に書くことになったし。友達には「いつものことだよね」と笑って応援してもらえたが。私もいい加減直さないといけないがこうやって受け入れてくれる存在がいるとその場その場で助けられる。ありがたいことです。duolingoのフランス語は38日間続いている。今も一回やったから39日間。こうやって思い出したときにやるようにしてるからなんとかなってる。5分もかからないからNHKの講座より注意が逸れない。人の話をじっくり聞くのはできるのに対面でない講座は聞けない。人にはそれぞれいろんな特徴があるものですね。あとは心身の状態で感じ方や行動は変わってきてしまうから無理せず行くのがやっぱり一番いいかな。精神分析とか受けると結構「無理かも」と思う瞬間は増える。最初は週4日通うのに疲れるけど身体の疲れはリズムができればなんとかなる。学校に毎日通っていたことを考えれば。私は通っていなかったけどなんとかなった。身体化はすると思う。どうしても自分ではどうにかできないものが出てきてしまうから。知的な作業では全く追いつかないスピードでこころって動くから。だから「もう無理」という瞬間が何度も訪れる。だから密で硬い構造が必要。生身では守れないけど構造で守れるとして構造に対する吟味は常に必要。単に頻度とかそういう話ではない。こういうことは延々考え続けている。今日の隙間時間は俳句のことだけ考えねば。

さて今朝はクリスマス・ジャズのプレイリストを流していた。Norah JonesのChristmas Callingはとてもいい。東京はいいお天気。どうぞよい1日を。

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お菓子 精神分析

とりあえず

少し遅くなってしまった。鳥たち元気、というかとりあえず鳴いている。でもやっぱり大きな声で鳴けているというのは元気ってことでしょうか。人間だと概ねそうで、かなり早めに出してあげないと死んでしまうかもという状態で生まれた赤ちゃんが大きな泣き声をあげたときにみんな「ああ、泣いた」とまずは健康な機能の存在を思って安心したりする。

週末は名古屋にいた。大学の医学研究室ってはじめて入ったかも。そこでこじんまりと精神分析と訓練について話させていただいた。みなさんのいろんな思いも聞けてよかった。ひとつひとつ具体的に考えようとしても知らない世界のことはかなり想像しにくい。これからのライフプランを具体的に考えたところですぐに思った通りにいかない事態が生じるのと同じ。それはどっっかでそういうものとわかっていたはずのことかもしれないけれど。何かを知るには良くも悪くもモデルが必要だし、まあとりあえず、ってやってみることも大事かもね。

今朝はチーズケーキの残りとハーブティ。週末はお菓子もたくさんもらって元々ある我が家のお菓子と合わさってすごく豊富。ぬいぐるみとならお菓子屋さん開ける。年末の蓄えができた感じだから安心して11月を満喫しないとね(なんのこっちゃ)。今週もがんばれたらいいね。起きたり寝たり食べたりとりあえず必要なことを。

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俳句 精神分析

蚊とか。

秋の朝の空の雲の美しさ。知らない人の足音のひとりひとりの違いの判別。単に「の」をたくさん使いたい気分。今日も薄着で大丈夫そう。薄着でいられるのはいいけどまだまだ毎日刺されてる、蚊に。長いスカートの日も足首を刺される。なんなんだ。もっと楽に刺せる人おるでしょう。でも蚊にとっては大きなスペースなのかもね、長いスカートと足首の間。しっかし小さいのに威力あるわ。

秋の蚊のよろ〳〵と来て人を刺す 正岡子規

秋の蚊は季語。秋の深まりととも弱々しくなるというけどもたもたくるわりに逃げるのも遅いから結局居座るみたいになってこっちが刺される。むー。

前にここで(あ、なんか急にフォントが変わった。どう反映されるかわからないからこのままにしておこう)フロイトとラカンの「愛」について書いた。最近ラカンをたくさん読むようになって十川幸司&立木康介がいうようにラカンは本当に愛の分析家だった。愛といっても日常で使う愛ではなくて。

そうだ、原稿書かなきゃ。なんでいちいち忘れるんだ?締切間近なのに。意味わからん。がんばろう。気持ちいいお天気になるといいね。昨日は変なお天気だった。どうぞ良い一日を。

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精神分析

柿、懸濁など。

朝焼けが今日もきれいだった。今は随分秋の空。もう暑くなることはないかな。今の空もきれい。鱗雲だ。

柿が結構熟してて剥きにくかった。でも甘くて美味しかった。ちょっと小ぶりだったからずっしり大きな柿も食べたいな。そういえば私が通るような道には大きな柿はあまりなっていない気がする。柿の大きさって何によって決まるのかな。スーパーには大きなのも売ってるけど。もう少し注意深く柿の木観察をしてみたら意外と普通になってるかもね。

この前、「懸濁」って書いてある目薬をもらった。「懸濁」という言葉は普段は使わないねえと話した。薬剤師さんはしょっちゅう使うそう。「よく振り混ぜて点眼」とも書いてあった。今気づいた。注意書きは注意が向くきっかけがないと気づかないもんだね。自分で「よく振る!」とかマッキーの細い方で書く方が絶対忘れない。大体、今は老眼で小さい文字が見えないしね。まあ、口頭できちんと説明もしてもらって「懸濁」という文字のインパクトで覚えていられるけど。

この前、ラカン派ではないフランス精神分析の勉強会でウィニコットの父軽視について話したのだけど精神分析でいう父母って実際の父母をそのまま指しているわけでは全然ない、ということが精神分析を勉強している人の中でもわかっていない人が多いのではないか。逆に本当に実際の父母だと思って読んだらこんなの絶対変だよ。ラカンを読んだ方がそういうことは自然にわかるかもね。想像と象徴の絡み合いで説明できるから。そういえば昨日も隙間時間にラカン読んでてラカンはこの時期この言葉使わなくなってるんだ、そういえば、ということに気づいて書いている文章を修正したりしてたんだけど理論は個人内でも当然変わって行くもので同じ言葉が違う意味に使われるようになったりその言葉は絶対に使わないというこだわりがあったり、ラカンだったら造語も多かったりしてそこが面白味だからフロイト、ラカン、クライン、ウィニコット、ビオンは基本的なものとして時間かけて読んでいきたい。私はクラインとラカンが足りないな。クラインもかなり読み込んだ時期があるけど忘れてしまってるし。忘れたとしても訓練入る前にいっぱい読んでおいてよかった。今は時間がない。隙間時間に読むとつながりがつく前に時間切れになるから何度も同じところを読むことになってしまう。社会は教科書の最初しか詳しくなかったのを思い出す。周りで社会大好きっ子がいて朝、社会の教科書を読む余裕があった日は「今日はいい日」ってなるんだって。今ならわかるのだけど子供の頃は私は教科書でそんなこと思ったことなかったな。国語の教科書だけは渡されたらすぐ全部読んでたけど。あと道徳。道徳を学んだかどうかは相当疑問だけど読み物は好きだったな。社会の教科書もそのノリで読めたらよかったなあ。後悔、したところでねえ。今クイズとか出されても知らないことが多いけど今はとりあえず勉強はなんでも楽しいってなってる。いいことだ。今日もがんばろう。

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お菓子 精神分析

朝焼けがとってもきれいだった。あっという間に薄くなってしまうけどそのあとに広がる水色もきれい。今日は少し雲があるかな。最近、鳥たちが近い場所で賑やか。生活の仕方を何か変えたのかしら。柿をスルスル剥いて食べた。小さな柿。鳥たちも木の実に合わせて活動しているのかも?

gmailの調子がずっと悪い。フォントが変になってしまうし、iphoneだと立ち上がらないこともある。フォントはgmailに限らずか。改行やコピペすると大文字になったりする。画面上ではわからないのだけど送信したあとの画面でわかったりする。困った。

ポムポムプリンとコラボしたチロルチョコを食べた。生姜紅茶と。冷蔵庫にはチロルチョコがいっぱい。一個で十分すぎる甘さ。

ラカンを読みながら言語と身体、欲動と情動について考えている。精神分析は言語が治療に役立つと信じているというか大体の治療法はそうなわけだけど言語の効果をどこまでも探求し続けているのが精神分析。ペラペラだけど上手なおしゃべりに癒してもらえる部分、というか人が受け入れやすいのはそういう形式のものなのでそれはそれで大事で、患者さんでもそういう本などをお守りにしながらそれではどうにもならない部分をどうにかしようとやってくる。どっちも必要。いろんなものが必要。こっちの人とは気づかなかったことがこっちの人となら気づくという感じで人はいろんな人の間でいろんな出来事を体験していく。もちろん周りに誰がいてもいつも同じ反応ばかりしている場合もある。人の心はたやすく侵入されたくない部分も持っている。一方、誰かにたやすく明け渡さない自分で大切な人を大切にしていくには誰かと密な体験を積むことが必要なので侵入が避けられることはないといっていい。キレイゴトをいうのは簡単。自分はいつも「正しい」側にいるというのが前提のような言葉って簡単。でもそれは相手と距離が確保されているからたやすいのであって密になってくるとそういう言葉は薄っぺらくなる。だからレトリックに走る。書き言葉だとちょうどよくても目の前の相手には嘘っぽく聞こえる。それを語り方で調整しようとする。私もそう。自分で話しながら嘘っぽいなあと思うときがある。そういう時は通じていないのが助かるけど。もし私に権威があったらどんな言葉も通じる言葉に変換されてしまうかもしれない。臨床続けている限り気づくことはできると思うけど。精神分析家の場合、理想化されるのなんてほんのひとときで頻繁に会って同じこと繰り返していればお互いにお互いに侵入的になることもあるしいろんなことが起きる。何度もやり直す。先のことはわからない。生活と同じ。なんなんだろうね、楽になっていく感じって。今日もあれこれ頑張りましょ。

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精神分析

千葉へ

突然千葉へ行った。数年前まで高校のスクールカウンセラーをしに千葉へ通っていたがそれ以来。あれからもう何年が過ぎたのだろう。千葉のそごうはまだ残っている。周りも栄えていて特別感がないのがかえっていいのかもしれない。先日、上野で田中一村の展覧館に行ったが千葉市美術館所蔵の絵も多く飾られていた。一村は奄美大島に向かう前に千葉に長く住んでいた。その時期の絵も素晴らしく、上野へ貸し出されていない作品を千葉市美術館で見ることができた。こちらの方は人も少なくゆっくり見ることができた。やはり一村の絵は時間をかけて見るのがいいような気がする。企画展「Nerhol 水平線を捲る」もとてもよかった。千葉市美術館コレクションとのコラボレーションもやっていて李禹煥、ダン・グラハム、菱川師宣、恩地孝四郎などまで見られて嬉しかった。モノレールで千葉市動物公園にもいった。園内案内マップがシンプルすぎて面白かった。ちょうどクラフトビールのイベントもやっていて賑わっていた。ここはレッサーパンダの風太くんで有名な動物園。あれは2005年のことだったのね。もう21歳で国内最高齢らしい。小屋の中で丸まっていた風太くん、動物園の生活でなかったらどんな感じの生活だったんだろうね。動物たちをなんとなくかわいそうに思いながらも見始めると離れることがなかなかできなかった。なんでこの動き、あ、飼育さんがきたのか、とか彼らの行動をずっと追ってしまう。細かい動きもとても興味深い。動物行動学とか本当に面白いだろうね。私もそっちを選んだ生活だったら今とは全く異なる生活だったのだろうね。いつもと違う環境に出向いたせいか昨晩は目が痒くて起きてしまった。花粉もあるのだろう。金木犀もようやく強く香り始めた。眼科にいくか迷うな。今日は火曜日。無事に過ごしましょう。

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言葉とか。

早朝、鳥たちが面白いほど賑やかでずっと声を聞いていた。カーテンをそっと開けて覗いたら番いがみえた。何を伝えているのだろう。『葬送のフリーレン』で魔族が使う欺くための言葉というのがすごくよくて、というか、なるほどと思って、ひとつひとつの単語の重みとかその言葉が無意識に作用する力について考えていた。いつもそんな間にブログ書いてるんだけど今日は祝日と気づき二度寝した。二度寝する前に洗濯機かけておいたから干した。いいお天気。

私はかなり意識して使う言葉というのがあるけど「気持ち悪い」とか「シスターフッド」がそうかな。「気持ち悪い」は明確にネガティヴさを伝えるために意識して使うし「シスターフッド」は本当に貴重なものとして使う。とこれはフリーレンを見たからではなくSNSを見たから思ったことなんだけど、なんにしても人が使う特定の言葉だけに敏感に反応する世界になったもんだ。長い文章、長いやりとり、お互いの間に紡がれるものとしての言葉の力とはまったく別の力に脅かされたりそれによって争ったりするなんてしたくない。なんかそういうつまらない反応で使えなくなった言葉って結構ある気がする。もちろん使い続ければいいのだけどたやすく反応されることがわかっている言葉を使うのはめんどくさい。その点、「気持ち悪い」という言葉が持つ普遍的な嫌な感じはすごいね。できるだけ人に対しては使いたくないけどね。

隣に積まれている分厚い本たち、どうしましょ。私は読んでもすぐに忘れてしまうからなあ。昨日の課題テキストも既に読んだことがあるものだったのに勉強会があることから忘れていてお昼いつもよりいっぱい食べちゃって眠くて最後の方でようやく覚醒してKindleに似た文献あったかなあ、とチェックしたらその論文そのものが入っててもう既に読んだことあるやつじゃんと気づいてしかもめっちゃ線引いてあるじゃんと知ってやっぱ自分信用ならんわってなった。とりあえずフロイト『心理学草案』読み直さねばと思った。

どうぞ良い一日を。

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同窓会

地震で起きた。被害はなくともこれまでの体験や感覚の違いが地震のあった今日を形作るのだろう。疲れが残りませんように。

昨日は大学の同窓会だった。昨年から再び繋がりはじめた同期と「変わらない」と言ってしまうことに笑う。老眼や更年期の話をしてしまうことに笑う。「こっちはもうそのターン終わった」など。長年生きていると色々あるね、と笑う。コロナが私たちに繋がらねばという切迫感を生んだのはある。無事でよかった。色々あっても無事でよかったと思う。最近、肉親を見送ることについて別の人とも話した。私よりずっと年上のその人の死を私は意識しているけれどその人は亡くした肉親の話をしていた。長生きしてくれたおかげで楽しく見送れたというような。時間があるというのは辛いこともあるけど時間のおかげで変えられる認識もある。私は精神分析において精神分析家が長生きするという誰にもどうにもできないことがもっとも重要だと思っている。常に死を考える。その中でなんとなく生かされている。大切な人たちをどう大切にできるかというのは瞬間瞬間の行為であとから相手が判断するもの。それが失敗だろうとなんだろうと相手に委ねることが大事なんだと思う。時間をかけて紡いでいかれるものを大切に。みんなといろんな話ができて本当によかった。小さな女子大がいつまで生き残れるかは深刻な問題だがあれだけ恵まれた環境が失われるとしたらそれこそ学問の敗北だと思う。児童文学、児童文化、発達心理学と錚々たる先生方から自由に、多様に学べた体験が今の私を生かしているという実感があるだけに静かに制限なく好きなことを学べる環境が守られることを願う。

ああ、昨日はいっぱいお菓子も持ち帰ってきた。その中からクッキーとラスクを紅茶と。美味しい。ホッとする。あとでお礼のLINEをしよう。今日もいいことありますように。

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おはよう。早起きをしても家事したりぼんやりしたりしているうちにどんどん時間が過ぎる。空がきれい。水色のバリエーションは多いね。昨晩、空に何もないと言いながら空を眺めてるうちに星をいくつか見つけた。冬の星座になっていくね。いつもの道のどっかの鏡状のところに月が映った気がして空を探したけどそこが狭い道で空が狭くしかみえないからではなく多分あの角度で映り込む月などないから月ではなかったんだ。どうしてすぐに視覚にとらわれるのかしら。大体どこで見たのかもあっという間に忘れてる。月は今どこかしら。というより地球は今どんな感じかしら。今日も晴れらしい。嬉しいな。

最近隙間時間は乱読ばかりでラカンとラカン派の本を読むのをサボっていたのだけど再び読み始めたら数ヶ月前よりだいぶ読みやすく感じた。ラカンを読むとキルケゴールを読みたくなる。ラカンと中世の思想はとても面白い対話になっていてもっと勉強したくなる。デリダとの論争はお互いどこを目指してるのかわからなくてあまり面白くないと私は思う。

今すごく羅列的にいろんなことを書こうとしてしまったけどそういうときはやめるにかぎる。私の場合。今日はいいことある予定。みんなにもいいことありますように。

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いいニュース

起きてすぐにカーテンを開けた。窓も開けた。東の空がきれい。この色はすぐになくなってしまう。

昨晩、オフィスを出て携帯を見たらノーベル文学賞にハン・ガンとあってびっくり!すっごく嬉しくなってハン・ガンの作品を日本に広めてくれた人たちにもすごく感謝したくなって涙が出そうになった。私は賞にあまり関心がないと思っていたけど自分でも不思議なくらい嬉しかった。韓国文学の歴史はあまりよく知らない。私が読むようになったのはここ3年くらい。このブログでも数冊感想を書いていると思う。韓国は日本とは異なる深刻な問題を色々抱えていることもそれらから学んだし学生時代、ケンブリッジの寮で仲良くなった同世代と少し上の韓国のみんなから教えてもらった韓国の風習は本の中にもあった。私は韓国文学独特のユーモアが好き。シニカルぎりぎりの内省的な一人語りも好き。会話のテンポも好き。すごく悲しいのに力強いのも好き。これを機に盛り上がり続けてほしい。

学会に向けて苦手な新幹線のチケット予約を完了。今回は司会の仕事はないけど別の役割と発表がある。それ以外はどこへいこうかな。俳人がよく使っている店や庭園には行きたいな、とは思っている。精神分析も学術的な議論が盛り上がればいいなと思う。

学びの多い毎日だが頭を抱えたくなる問題もある。抱えるほどではない。水漏れもシャワーホースの交換をしてもらって直った。一気にやってきた寒さにもなんとか対応。「先生には辛い季節になってきましたね」と言われた。寒がりすぎなのを大体の人は知っている。あったかいお茶がとても美味しい。近所の美味しい和菓子屋さんのお饅頭も美味しかった。今日も昨日みたいな素敵なニュースと出会えるといいな。どうぞ良い一日をお過ごしください。

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すべきでないこと。

まだ夜を残したような雲もあるけどすでに朝日を含んだような雲もある。隙間を埋める水色がきれい。

知らない人の咳が聞こえる。急に寒くなって体調を崩している人も多いかもしれない。鳥たちは元気かな。

昨日は五ノ井さんがカウンセラーの資格をとったという声に対する心理士・師たちの助言?に驚いた。世界で認められるほどに闘い抜いた人がさらなる努力をして得たものに対して、その喜びに対してなにをいっているのかと目を疑った。私は知らないアカウントの人たちなので誰か身近な人がいいねしたからタイムラインにあらわれたのだろう。いやな気分だ。他人の人生に対して自分の価値観を押し付けることに自らが抵抗するすべをもとうともしない人たちに五ノ井さんは傷つけられ大切な時間を奪われたのではなかったか。人は反復する構造に傷つけられる。人としてすべきこと以前にすべきでないことがあると私は思う。

先日ソメイヨシノが咲いていたと書いたが同じことをいっている人をみかけた。やっぱりそうだよねえと思った。金木犀の香りがうっすらとしかしない今年、地球どうなってる?フロリダには巨大ハリケーンがきてるというし。注意を向けるならこっちだろう。被害が出ませんように。

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冬景色へ。お菓子と紅茶。連鎖。

昨晩は寒かった。部屋の中も少しずつ冬景色になる。膝掛けとかが増えていくから。グラスよりマグカップになるし。出しておいたけどあまり使わなかったガラスのお皿もしまおう。昨年は枝豆によく使ったけど今年はほとんど茹でなかった。雨の音がずっとしている。能登を思う。何もできないのにただ思い浮かべて、映像をみて、何もしていないことを自分も政府と同じだなと思う。できることをどんどんしていこう。

朝は紅茶と文明堂のカステラ巻き、ハニー味。ハチミツ大好き。お料理にも使いたいけど買ったら買ったで使い切れる気がしなくて買っていない。固まってしまうと厄介だしこれまで幾度となく失敗している。それにしてもこのカステラと紅茶、どちらも美味しいがなんか合わない。別々だとたしかに美味しい。この紅茶が不思議な美味しさだからなんだろうなあ。これだけでメインという感じ。中国茶みたいな硬い茶葉というか中国のなんだけど中国語で書いてあることが自動翻訳でもよくわからなかった。「紅茶」と書いてあるからそうなのは間違いないのだけどこういう茶葉の紅茶もあるのだね。お店もどこのなんだろう。置きすぎちゃったと思っても出過ぎないし、とっても美味しい。また出会えるといいなあ。

被災地支援はスムーズになされないけどネガティブな感情の連鎖はたやすくなされる。どうして他人に起きたことにたやすく便乗するのだろう。どうしてそれをいつのまにか自分のことのように語るのだろう。自分がやってしまったことに関しては「みんなこういうことされたら嫌だと思うんだけどご本人はどうですか」みたいな感じで自分はしていない方にたやすくまわったりするくせに。そんなことは本人が本当に感じていそうでそれを伝えたいのに伝えられなくてということが明らかだったらいえばいいだけでそういう状況でも関係でもない人がそういうことをしているとキレイゴトで罪悪感をスプリットするのもたやすいなと思う。自分の中のことは自分の中のものとして大事にするために精神分析はあるのでそれは他人のことは他人のこととして大事なのであって、都合のいいときだけ自分はあなたとともにあるみたいな態度を取ることを私はしたくない。そうやって不必要にネガティブな連鎖が生じていくことに警戒する。そうやって時間とエネルギーを割くべき事態から注意をそらしているだけではないかと思う。私は今日もたやすく「共感」しない方向でがんばろ。みんなも良い一日でありますように。

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水漏れ、南アフリカのジャズ

昨晩、寝ようかな、と洗面所を使ったら足元に違和感。水漏れに気づいた。気づいてよかったのだがどうしたらよいものか、ととりあえず下の棚から洗剤などを取り除いた。いざ出してみると使っていないのも結構ある。もらった柔軟剤とか。私はあまり柔軟剤が得意ではないから使わないのだよな、など思いつつ作業。最近、シャワーヘッドがおかしいなと思って掃除をしたときにおかしなことになったのかなと思ったけど調べると水受けタンクというやつに結構水が溜まっていた。でも水がどこから漏れているのかわからない。水浸しになった部分はためておいた古いタオルできれいにした。もう一度水を出してみたら、あ、水受けタンクとやらからポタポタと水が落ちてくる。底に穴が開いているらしい。が、あんな量になるものか?わからないが水を使わなければ何も起きないことを確認して、水受けタンクの水を抜く。細いストローみたいなホースがくっついていたのでそれを洗面器に下向きにおいたら水がチョロチョロ出てきた。とりあえずタンクの中を空にした。これで水漏れは大丈夫らしいけど結構水浸しになったからタンクの穴のせいだけではないのかもしれない。いややわ。でもそれなりに早い対処ができたと思おう。あとはプロにお願いしよう。水が使えるだけ幸せなことだよな、とそっと思った。

被災地に手伝いに行きたいが今は難しい。被災地に音楽は流れているだろうか。個人的に聴く手段があれば好きな曲を聴けるかもしれない。侵入的に感じない音楽なら助けになるのだろうか。南アフリカのジャズピアニスト/作曲家/シンガーのタンディ・ントゥリ(Thandi Ntuli)の音楽を聴きながらこういう音楽ならと被災地に届くことを願ったりする。柳樂光隆さんのnoteでインタビューを読んだが南アフリカで生まれ育ち学び何者かになることの難しさと希望が丁寧に語られていた。歴史をいずれ愛せるようにと願うような優しく美しい音が多くの人に届けばいいと思う。嘘つきの言葉でさらなる絶望に突き落とされても自分を取り戻す作業を続けていける勇気をみんなが持てたらと思う。

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田中一村展へ行った。

『田中一村展』へ行った。場所は上野の東京都美術館。公園口から出れば近いのだが遠回りして散策しながら行った。公園内に入ると大きな木がたくさん。鳩がたくさんいた。その中にポツンと男性がいた。餌をあげてるのか、と思いながら歩いていると鳥たちが何羽もそこから飛び立ってきた。大きなパンみたいな餌を加えたカラスもいた。少し怖かったがこれだけ木があると彼らはすぐに居場所を見つけられるらしくまたすぐに静かになった。上野公園には新宿中央公園にもあるアメリカデイゴが咲いていた。この木って一気に花を咲かせないのかな。艶やかな大きな花を咲かせるから遠くからでも気づけるのだけど近づくとお花はどこ?ってなる。一方、ジュウガツザクラは葉っぱがなくなってて白い花が雪みたいにチラチラしていた。儚さはどこからでもみえた。儚さはあけすけにするものではないとはいえ勝手に儚さを見出したのは私か。一般的な印象でもあるが。そしてなんと春になると大勢の人が訪れるソメイヨシノの道でソメイヨシノが数輪咲いていた。狂い咲きか。やはり気候変動のせいなのだろうか。心配。いつ咲いてもかわいいけどなんでこれも数輪だったのかな。外界への反応が枝ごとに違うわけでもなかろうに。

『田中一村展』はすごいボリュームだった。1階から3階までたくさんの作品が並んでおり、私は一階ごとにベンチで休憩して少しウトウトした。3階の展示会場内のソファは混んでいてみんなで分け合っていた。すごく有名な絵は3階にあったのだけどみんな疲れるよね、とちょっと面白かった。田中一村の作品は昨年今年の年末年始、奄美大島へ行ったときに出会った。奄美パーク内にある田中一村記念美術館はとてもゆったりした作りで一村が描いた奄美の自然を実際に堪能してから巡れるので全然疲れなかった。大勢の人の列や背中を見ながら巡るのではなく自分のペースでただただ一村の作品と向き合える時間はとても素敵でその作品の繊細さと荒々しさの両方を感じながら彼の人生に思いを馳せることもできた。今回の東京での展覧会は大盛況だそうで、奄美の田中一村記念美術館の館長がラジオで「一村も喜んでくれていると思う」と生前あまり評価されず大きな展覧会を開くことはなかった一村の活躍を喜んでいた。

今日は誰からいただいたか忘れてしまったが中国茶みたいな包装の紅茶と「やわらか」という柔らかいクッキーみたいなお菓子をいただいた。この紅茶美味しい。温かい飲み物にほんわかする季節。昨日の上野公園はサルサのイベントが熱く繰り広げられていて気温の割に夏の雰囲気だったがそれも楽しかった。今日は月曜日。今週もがんばりましょう。

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日曜朝

窓を開けた。窓から首だけ出したらちょっと寒い。換気分だけ開けたままにして閉じた。エアコンと細長い換気扇の掃除をせねば。どうやってすればいいのだろう。取扱説明書を探さねば。みつかる見通しがたたないが型がわかればネットで見つけられるだろう。昨晩は髪も濡れたまま半袖で寝てしまった。寒がりなのに学ばない。一方で暖房もちょっとつけてしまった。遠赤外線パネルヒーター暖話室。なんかちょっとふざけた名前だったよなあ、と思い出そうとしていたのだが同じ会社の「夢暖房」しか思い出せずそれで検索したら「暖話室」の写真で出てきた。両方同じ会社。「夢暖房」は「床暖房」とかけてるのかな。「暖話室」と同じレベルでは難しいか。なんかないかな、とか考えているだけであっという間に時間は過ぎる。

蟄虫坏戸虹の欠片は入れてある 佐怒賀正美  

第四十七候「蟄虫坏戸 (むしかくれてとをふさぐ)」は自動変換されない。蟄虫戸は一文字ずついれれば出てくるけど杯みたいな時はなんて読むのかわからないから変換もできずまず蟄虫戸の三文字で検索。すると蟄虫坏戸が出てくる。そこから坏をコピーで取り出す。検索画面に貼る。すると最初に出てくるのは

AIによる概要

これ、いつからから最初に出てくるようになった。前はWikipediaのページが一番前にくることが多かったように思うのだけど。

「坏」には、次のような意味があります。

  • 壊す、壊れる、悪くする、悪くなる、ひどく~である
  • おか、盛り土
  • 物を盛る器の名

「坏」で「つき」と読む古代の飲食物を盛る器は、碗より浅く皿より深いのが特徴です。材質は土器や陶器、木製などがあり、脚の付いたものや蓋のあるものもあります。

とのこと。「つき」と読むのかと「つき」をうつと確かにあった。蟄虫坏戸の場合は「盛り土」の意味になるのかな。「坏孩子」だと「悪ガキ」って意味なんだって。漢字は面白い。

今日は福砂屋のカステラとほうじ茶。この前、もらった。小さなかわいい箱に入ってる。二つに切れてるのがいい。あっついほうじ茶おいしい。この季節がきたかあ。ミネラル補給のために作った麦茶が消費されない。なぜミネラルかって足がつりやすいから。マグネシウムとミネラルが良いと聞いたから。酸化マグネシウム

NHK俳句、今日は堀田季何さんの回。面白いなあ。具体的、読み手に連想が湧くように作るって本当に本当に難しい。

島すべて熊蝉領や朝より 小澤實

すごい。熊蝉の領地になってる島。季何さんの説明わかりやすいし面白い。いい句を季何さんが類想句に変えてあとから元々の句を見せるやり方いいね。全然違うー、とわかる。わかるー、のだが自分で作るとなると本当に難しいのよね。聞いてるだけなら自分でもできそうなのにね。まあなにができずともがんばりましょ。

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夢現

ブログを途中まで書いたつもりがパソコンの電源すらいれていいなかった。鳴らしっぱなしで寝てしまった携帯の音楽がブツっと切れたのでパソコンに戻るつもりがはじめてもいなかった。自分に驚愕。携帯いじる前に本を読んでいたのだけどそれが書く動作として脳に認識されていたらしい。なんという誤作動。昔、夢の中で学校に行ってしまいすでに本当に行ったつもりになっていたことがあった。あれも自分に驚愕した。そんな夢現で人生を送ってきてしまったとして、これまでもあれもこれも夢や思い込みだったとしたら・・・したら?どうってことない、今のところ。私はまだそれを実感できていないから無事。さっきのあれはまずかった、くらいの認識でいられる。本当はこういうことが幾重にも起きていて自分だけが気づいていないのかもしれない。

洗濯があと11分でできあがるというのでちょっとだけベッドへと思ったら朝まで眠ってしまった。朝といってもまだ真っ暗だけど。今日の日の出は5時40分。まだまだじゃ。少し放置してしまった洗濯物は無事に干された。ごめんよ。キミたちがいやーな絡まり合いとかじっとりした状態の世界からパリッと爽やかに空へ舞う絵本とか書いてあげたい。放置したのは私だけど。あ、少しうとうとしてしまった。よかった、パソコンついてるし、こうやって文章残ってる。まだ窓も開けていない。いや開けたまま眠ってしまったのだ、とまたうとうとしながら考える。のんびりしてる。でも少し疲れているのかもしれない。そうだ、〜行こう、の感じでベッドへ行こう。空が少し明るくなってきたけれど。

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伊香保、世田谷、徳冨蘆花

南側の大きな窓を開けた。向こうのほうに真っ白な大きな雲。朝日に照らされてきれい。今朝の東京の日の出は5時39分。私が起きたときにはまだ真っ暗で日の出が遅くなったと実感した。これまでは少しずつ感じていた変化が一気に次のステージにいくように感じることがあるが今日はそんな感じがした。「あ、冬の手前だ」みたいな。シャワーを浴びて色々窓を開けてコーヒーを淹れた。那須高原のお土産のプリンのリングケーキと伊香保のコーヒー。徳冨蘆花ゆかりの伊香保、千明仁泉亭のコーヒー。

「蘆の花は見所とてもなく」と清少納言は書きぬ。然も其見所なきを余は却って愛するなり。」(明治33年「自然と人生」)

盧花の蘆はあしのこと。学生時代、京王線の千歳烏山に住んでいて蘆花恒春園も近かった。千歳烏山の塾でバイトをしていたが大体の生徒は芦花公園を利用していた気がする。そのくらいこの二駅は近い。世田谷文学館は芦花公園駅が最寄りなので蘆花恒春園とセットで行くのがよし。

徳冨蘆花にとって

「伊香保は私共にとつて大切な生の策源地と何時の間にかなつて了ました。」(大正7年「新春」)

ということで明治31年にはじめていってから昭和2年、千明仁泉亭で亡くなるまで計10回訪れたそうだ。

徳富兄弟は仲が悪かったみたい。蘇峰は「徳富」のままで、蘆花は筆名「徳冨」なのもその現れ?あ、違うか?本名はどっち?まあ外からするとどっちでもいいのだが蘆花はちょっとこだわったらしい。二人とも別々にトルストイに会っているというのがすごいと私は思う。どうやったら会えるの?トルストイに会う、ってフロイトに会う、とかよりインパクトが大きく感じるのだけどなぜだろう。『夢解釈』より『アンナ・カレーニナ』の方がずっと幅広く読まれてるだろうし。蘆花がトルストイに会った時はもうキリスト教からは離れていたのかな。ちょっと変わった人だよねえ。芦花公園はオフィスのある初台と同じ京王線沿線だし時間があるときに久しぶりに行ってみようかな。紅葉もきれいな時期?まだこれからかな。どんぐりはいっぱい落ちてるけどね。

あ、また急に眠気がきた。昨晩はフロイトの読書会ついでに色々調べ物をはじめてしまい、その時も急に眠気がくるまで起きていた。今は寝てしまえないから動こう。なんで今朝は徳冨蘆花のことをこんなに書いたのか・・・。フロイト読書会の復習めいたことを書けばよかった。まあよい。なんでも心の向くままに。どうぞ良い一日を。

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鳥、本。

西の空がきれい。うっすらオレンジ。秋色なのかも。風は入ってこない。鳥たちが元気。東京は住みやすいかい?緑はあるけど山に入ったときに聞こえる鳴き声とは聞こえ方が違うよね、当たり前だけど。自然災害のときは鳥たちにとってどこが一番安全か、というより自然災害以前に自然を破壊してしはいけないね。ごめんよ。本来キミたちが住むはずだった環境とはもう出会えない時代の鳥なのかもしれない。私は戦争を知らない子供たちの一人だった(もう大人になってしまった)のだけどこれは知らなくて幸運だった。でもその影響は法や制度や時代の態度を通じてものすごく受けているということを今になって学ぶ。昨日は橋川文三『ナショナリズムーその神話と論理』である程度浮き沈みした気持ちとなるほどそう考えられるのかという頭になってから原武史の『平成の終焉』を読んだ。図書館にちょっと寄ったからそこで。私は原武史の鉄道の本が好きで持っている。天皇制に関する原毅の記事は新聞とかで読んできたので内容は想像の範囲内ではあったけどものすごい圧力の中で書き続けているということをあとがきから感じた。天皇制について語ることをタブーにしてはいけないね、こうやって戦ってくれる人がいるのだから。橋川文三の本も見たかったけど見当たらなかった。みる棚や検索の仕方が間違っていたかもしれない。今日は立花隆編『南原繁の言葉 8月15日・憲法・学問の自由』を持ち歩く。ちょっと読んだけど明快。精神分析の本を読みつつ、IPAという精神分析の組織のニュースなどを訳しつつ、1日のほとんどを臨床に費やしながらこういう本を読む。安易につなげない読み方を意識する。今の時代を生きているということを意識する。ほとんどのことは無意識だけど少しずつ繋いでいくための言葉を育てられたらいいなと思う。

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越冬、日本思想

曇り空。虫の声が減った。七十二候では蟄虫坏戸(むしかくれてとをふさぐ)だから?春頃の蟄虫啓戸(すごもりむしとをひらく)と対となる言葉。でもこの場合の「虫」は蛇かな。秋の虫は死んでしまったのかしら。そのままどこかに身を潜めて冬を越せる虫もいるだろうけどあんなに高らかに鳴いていた虫たちはどこへ?「卵で越冬」というけどそれは卵を産みつけてその子が越冬するということだよね?まさか自分が卵に戻ってしまわないよね?でもさなぎになるときは幼虫は溶けてしまう(わけではないのか?)のだから卵を産みつけるというのは卵になると言えなくもないか。人間の場合、子供産むこともできる人はできるけど言葉を残せるというのが「卵で越冬」とニュアンスに近い気がする。

最近、日本の戦中ー戦後思想を学ばなくてはと思っている。2024年4月からの朝ドラ『虎に翼』が男性中心ではない人権を一貫して描いたわけだけど、多くの人が胸打たれたのは自分がしてほしかったのにされてこなかったことに光が当てられたからだと思う。そしてそれが法という言葉に、あるいは人と人とのやりとりで言葉になっていくことの良さと難しさ、その葛藤を描いたのも個々人が何に価値を置いているのかは人それぞれであり、それが明確になることで協働が可能になり、言葉にすること自体が次世代に対するその人の態度になるという点で、ここでも言葉は卵だった。もちろんそこから生まれるものはまた別物になるわけだけど。言葉も人も難しい。引き継ぐのは構造だけではない。『虎に翼』で主人公は個人の権利を十分に守られながら育った女性だった。つまりそれは当時の社会を取り巻いた思想から距離を取れたということだと思う。彼女たちは当然法律以外の本も読んでいる知識人だと思うが、少なくとも主人公は本は本として読むことができた人なんだと思う。ある思想への強い傾倒は個人の怒りから生じる場合が多いと思うが、自分の言葉が大事にされている人はひとつの思想に依存することをせずに済む。だとしても当時の空気を作ってきた様々な言説があり、その背景にも様々な哲学や思想があるわけで、それがどんなものだったか、男性ばかりが著者のそれらについて考えてみたいと思った。丸山眞男(1914年生まれ)とか鶴見俊輔(1922年生まれ)とかは読んできたけど私は彼らの背景を知らないし色々繋がっていない。そしてとりあえず法と宗教、日本の場合だと天皇制を絡めて考えられそうな本ということで南原繁(1889年生まれ)、橋川文三(1922生まれ)を読んでみた。もっと読みにくいかと思ったら全くそんなことはなく、橋川文三の本は書き方からして学びが多い。が、読んだそばから忘れていくので日本の思想の歴史が私の中で繋がるのは相当先だろう。私自身の背景をなすものとして意識して学んでいきたい。

今日も眠い。なんとかがんばろー。

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服、ペリカン、『ウィル&ハーパー』

昨晩もTシャツで寝てしまった。今日もひんやり。寝具も冬に向けて変えていかねば。今年は夏用のひんやりマットみたいな仕様にしたのだけど効果はよくわからないけど多分あったのだろう。これはこれで冬に使ってもいいのだろうけどその上にあったかいもの色々重ねるのも変な話。きちんと交換しましょう。今年も少しずつ更衣してさっきもTシャツを片付けながら今年も失敗したなあと思った。今年こそいろんなのを着回せる仕組みを作ろうと思ったのに。秋冬はがんばろう。今日は薄手の七分袖ロングニットと八分丈ヨガパンツ。七分とか八分とかいまいちよくわかっていないけど全部覆われていないのは動きやすくて好き。でもまだ蚊がいてこのちょっと出てるところを刺してくるから油断禁物。かといって虫除けスプレーも上手につけないと服についてしまったら嫌だし。この時期の蚊は素早くないけど迫力あるししつこい気がする。そうそう、っていうほどのことではないのだけどさっきキッチンでコーヒーを入れていたら鳥がそばにいる気配がした。キッチンの窓をまだ開けていなかったから影を探そうとし他けどどこかいってしまったら嫌だなと思って静かに背中でその音を聞いていた。そうしたら雨が窓を叩くような音に変わった。え?雨?鳥?と思って迷って窓を開けたら鳥が飛びたつ影が見えた。あーあ。残念。ベランダにも鳥がくるけどそういうときに限ってまだカーテン開けてなかったりする。今は西側の大きめの窓からグレーの空が見えて時々鳥たちが通り過ぎる。鳥といえばこの前Twitterで

ペリカンは秋晴れよりもうつくしい 富澤赤黄男

という句を引用した。ちょっとおもしろびっくりする句。ペリカンと秋晴れを比べて断言してしまうのか!と。ペリカンというと私がすぐに思い出すのはサンタモニカ。普通にすごくそばにペリカンがいて普通にバッサバッサ飛んでいった。すごい存在感だった。うつくしいと思うよりびっくりだった。Netflixでやっている『ウィル&ハーパー』の最後に二人が語り合う海辺ってサンタモニカだと思ったけど違うかな。この映画はトランス女性であると親友にカムアウトしたハーパーが親友のウィルとロードトリップに出る話なんだけどとても良かった。悲しくて苦しい現実もそのまま見せてくれる一方で脚本家とコメディアンの熟年の技も見せてくれる作品だった。アメリカっていうのは、と可笑しかったり悲しかったりした。

それにしてもおなかがすいた。今日もがんばりましょ。

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睡眠

眠い。まだ寝ていればいいのだが起きて洗濯機をかけた。この一ヶ月、トロトロトロトロ眠ることが多い。暇さえあれば寝てしまうので何も進まない。睡眠というのは謎も多いが薬が効く場合もあるし状態のバロメーターになるし話のネタにもなるし夢見の場所でもある。「昨日眠れなくて」「最近寝つきが悪くて」「昨日変な夢を見て」「昔から」「昔は〜だったのに」など表現は色々だけど、これからの睡眠について話されることはあまりない。

これから睡眠の話をしよう、と書こうとしてなんかそんな本あったな、と思ったが『これらかの「正義」の話をしよう』というのはサンデル。『ここは今から倫理です』は漫画。意外と「これから〜の話をしよう」という作品はないのか。それはそれなのだが「これからの睡眠」は「今日は眠れたらいいのだけど」とか「修学旅行で眠れるかな」とかいう形で語られてはいるか。でもそれも過去の睡眠の体験に基づいているから未来単体で語られる睡眠は死に近いかもしれない。こんなダラダラと書いている場合ではない、と隣の家の雨戸が開く音で気づく。まだ眠っていてもいい時間なのに。

昨日からシャインマスカットがあるのだ。シャインを「社員」に変換されてしまった。急にイメージ変わるからやめて。「されて」をカタカナに変換するのもやめて。またひどい眠気が襲ってきそうな雰囲気。一気に寝落ちする場合ともやもやっと眠気が襲ってくる場合と、とかなると単に睡眠の話というより意識状態の話。「今日も朝が来てしまった」という言葉もいろんな状態の人によって使われるな、とか書き出すとキリがないのできちんと起きよう。おはよう、朝の空。今日は暗いね。グレーだね。お互いパッとしないわね。がんばりましょう。

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鳴き声、言葉、本

シャインマスカットおいしい。小鳥くる、、、黄緑に輝く大粒シャインマスカットを俳句にしようかと思ったが無理だった。「小鳥くる」は大好きな季語。ちょうど外で鳥たちがジュワジュワ鳴き出したから合わせられないかなと思ったけど難しい。朝の鳥は集団で飛ぶ時間があるらしい。夕方もあるだろうけど朝はちょっと違う感じがする。朝はバラけて夕は集まるからかな。そういえば昨日公園の木々の中を歩いていたらアブラゼミがまだシャーシャー言っていた。今年は夏の終わりがわからなかったもんね。なんだかかわいそうに、と思った。でもきっとアブラゼミには関係のないことね。メカみたいな身体をしっかり使って力尽きていく。気候変動で寿命が変わったり土の中での生活が変わったりしたとしてもやることは同じ、みたいな雰囲気だものね。人間界は困ったものでね、と蝉に語りかけたくなる。私は仕事できても最長30年だと思う。早く訓練分析家になって後進を育てないといけないと思う。だってこの日本の政治状況をどうにもできない中で生き残り変えていくには考える人を育てるしかないわけでしょう。ただただ普通に生きている人を邪魔しないために、邪魔されないために考えながら動く人が必要。それは知識人になることでは全くない。それぞれが他人の言葉に反射的に反応する前に自分の言葉を育てていくこと。それが誰かから見てどんなつたなくても自分の言葉にならない声も含めて徹底的に大切にしてみることが必要だと思う。精神分析は知らない相手と関係を作っていく自分を体験する中で自分が最も知らない相手であることに気づく方法。もちろん被分析者も分析かも同じようにそういう体験をするわけだけど分析家の方は一度はそれを通過しているので邪魔しないでいられる。週4以上、カウチでの自由連想という強力な設定でしか抱えられない言葉と情緒があることを私は知っているからその特異性を生かして自分の言葉を育てる作業をしてくれる人が増えたらいいなと思っている。本の読み方とかも変わる、自分の言葉と関わると。いかに自分が偏見に満ちた思い込みで生きているかを知るという体験は非常に嫌なものだけどそのまま生きていくのは結構無理をしないとで、突っ走る知力と体力があるうちはいいけど立ち止まる胆力の方が物事を見る力はつくし、多様な豊かさにつながっていると思う。

福尾匠の『非美学ージル・ドゥルーズの言葉と物』を読んでいる。出てからすぐに買ったけど読んでいなかった。博士論文の改稿版とのこと。ドゥルーズ、ベルクソン、フーコーのほかに平倉圭、千葉雅也、東浩紀の議論が俎上に上げられる。哲学は言語実践である、と書いていたと思うけどいろんな概念を固定させず動きを持たせるような書き方でわからないなりにワクワクする。いずれ時間をかけて読もう。今は余裕がないけど、色々やることやっている間に今よりマシな読者になれるかもしれない。がんばっていきまっしょい。

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伊香保土産、『極悪女王』

昨晩は少し暑かった。エアコンをつけるほどではなかったけど。南側の大きな窓を少し開けた。雨。吹き込んでくるほどの風もないけど開けっぱなしにした。カーテンも揺れていない。

今朝は伊香保温泉のお土産、素敵なカフェ&バー(宿泊もできるらしい)「樂水樂山 CAFE &BAR RAKUSUIRAKUZAN」のオリジナルブレンドとその帰りに高崎駅で買ってくれたという高崎市下滝町のケーキ屋さんCaprice de moiのきび糖のブールドネージュ。美味しい。高崎駅は改札前に大きなお土産屋さんがあって地元のお店がいろんな素敵なお菓子やコーヒーや色々を出しているからそこで買ってくれたのかな。違うか、その日は伊香保に出店していたという話だったかな。忘れてしまった・・・。一昨日は前橋市のFLAT Tableのパウンドケーキをいただいた。一緒に出店されていたのかもしれないわね。今、Caprice de moiのインスタを見たらフランスから帰国後、FLAT Tableで修行して独立した方のお店なんだって。小さな町でみんながんばってる。今度それぞれのお店にも行ってみたいな。こういうのは縁だものねえ。私が地元にいた頃にはまだなかったお店たち。今度連れていってもらおう。群馬は車社会だけど私車乗れないから。

Netflix『極悪女王』を観終わった。素晴らしかった。ダンプ松本を演じたゆりやんレトリィバァは言わずもがな、唐田えりかが今回も素晴らしかった、というか全ての俳優が素晴らしかった。剛力彩芽はいい意味での優等生。なんでもできるしクールでまっすぐな役柄がピッタリ。私はちょうどその世代だからプロレスの迫力という点では当然本物に劣るとわかるわけだけど演技であそこまでできるみなさんは本当にすごい。ブル中野役の堀桃子さんの変貌もよかった。あの髪型がかっこよく決まるなんてすごい。最終話の最後はなににそんなに胸うたれたのか言語化できないけれどボロボロ泣いた。それぞれのインタビューとかもとてもよかったのだけどオーディションのときに監督がいったこととかは結構嫌だなと思った。私だったらなんなんおまえ、ぅんなことわかって受けにきてんだよ、こっちは、と言い放ちそうな言葉にも真剣に答えないと受からないわけでしょう?なんだかなぁ、だ。そういうのにも慣れていく世界なのかな。嫌だなあ。技かけたくなってしまう。持ってないけど。でもプロレスは受け身のうまさなんだね、魅せ方ということでいえば。ちょっとやってみたい。ロープ使う技をやってみたい。クラッシュギャルズ好きだったなぁ。ピンクレディーも好きだったなぁ。最近、私が子供だった頃のあれこれと出会えて楽しい。最近は友達と身体の不調について話すことも減り(多分みんな慣れた)介護とか老後の話が増えている身だからねえ。20歳以上年上の人ともそんな話ができてしまうくらい私も歳をとった。色々懐かしんでいこう。雨強くならないといいね。能登にも引き続き支援を、と思いながらこれについても昨日からモヤモヤすることがあって、と書き出すと長くなるからこの辺にするけど現地の事情は複雑なんだから一度いらないと言われたものをSNS使って持ち込むのは支援としてどう作用しているのかな、と思ったツイートを見かけたんだ。みなさん、どうぞお気をつけてお過ごしください。

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レイクシア・ベンジャミン、道徳。

涼しい。少し雨が残っている。今日もまた降るみたい?昨日は半袖Tシャツにフリースでちょうどよかった。バスに乗る前にちょっと寄り道したらバスが行ってしまって雨も降り始めた。次のバスがくるまで薬局のひさしの端っこをちょっとお借りして雨宿りしていたらお邪魔だったらしく店員さんが何回もくるからお隣のビルの狭い入口にお邪魔した。その隣では献血をお願いするセリフを何度も何度も繰り返す人がいた。この喧騒では誰も足を止めないのに声を張り上げるでもなくずっと同じトーンで何度も何度もそれを繰り返していた。

今朝はニューヨーク出身のレイクシア・ベンジャミン(Lakecia Benjamin)を聴いている。ヌバイア・ガルシアとは全く違う感じのサックス。J-WAVE,SONAR MUSIC,2024 JAZZ 総集編,柳樂光隆@Elis_ragiNa セレクト、で紹介されたらしく柳樂さんのツイートで知った。今朝は2023年1月リリースの”Phoenix”の2曲目New Morningsから聴き始めた。1曲目のAmerikkan Skinは冒頭から雑踏に連れ出されるような感じだったがすごい細やかで確かな音。この曲!という感じで耳が止まるのではなくて全体へ流れ出していくようなリズムとストーリー性ある場面転換がかっこいい。声もいい。

昨日は隙間時間にちょっとずつヒュームの『人間本性論 第3巻〈普及版〉道徳について』を読んでいた。朝ドラ『虎に翼』で道徳と法についてのやりとりが少しあってから気になっていた。私は以前、ヒュームが好きで、きちんと読みたいと思って普及版も買った。しかし昨年からか、カリブ海諸国とアフリカ哲学を知るようになり、今年刊行後すぐに『アフリカ哲学全史』河野哲也著(ちくま新書)を読んでから、以前別の文脈でアーレント批判を読んだときと同じくヒュームの差別的な面を知らされガーンとなった。きちんと取り組んでもないのに幻想を維持しようとする自分にややうんざりした。『アデンアラビア』におけるポール・二ザンのような怒りを私は維持できない。しかし書物だけでもそのやり取りを横断したいのでモヤモヤしながら考えようと思う。

国家と宗教という言葉が浮かんだが日本において国家とは何か、という変な問いを立ててしまう。日本って何者?内村鑑三や鈴木大拙は宗教をもとに「日本」を基礎づけようとした。今は彼らがいう宗教はもう残っていないのだろう。夏に金沢の鈴木大拙館で著書を読んだ。数年前にも唸ったが今回も唸った。彼らが残してくれたものもまた大事にすべき、と思う、と自分に対してわざと「べき」を使ってみたのはヒュームを読んでいたせい。まあ、でも本は本。人間ありきなので人間と仕事して自分とも他人とも関わるなかで彼らの中にも存在するもういない人たちと交流しつつ今日も過ごそう。風邪ひかないようにしよう。

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寒い。ラカン。

薄着で寝たら寒い。喉がちょっとイガイガする。寒い季節を恐れているのに対策は下手なまま。今年は一気に寒くなったからなおさらついていけていない。でもジーパン履いたら上がTシャツでもあったかい。この時期は上着が楽しい。いつも同じのを羽織ってしまうけど今年こそ持っているのは全部着るぞ。同じことを夏服にしたときも思ったけどやらなかったので自分で自分を信頼できないけれど。

昨日、ラカン派のアイデンティティの論文と西洋と東洋の精神分析の関係に関する論文を読んだ。北山修が土居健郎の「甘え」は西洋でいう「依存」とは異なると書いた論文が引用されたりしていた。土居が世界に通じる言葉として「甘え」を残したからには私たちもそこで世界と繋がっていくのは大切なことだと思う。そういうことをせずに精神分析を我流で引用していくことは精神分析の倫理に反すると私は思っている。ラカンを読んでいるから「精神分析の倫理」という言葉を使いたくなっただけだが実際そう思う。しっかし、後期ラカンを勉強していると70歳超えてもめちゃめちゃ複雑に絡まった糸、しかも自ら複雑にした糸を解くように、そして解きながら別の絡まりを宿題のように残しながら進むラカンには驚きしかない。フロイトも死ぬまでそうだったがフロイトは流石に晩年、ちょい悲観的だったけどラカンは強靭。死に際は孤独だったと聞くが、フランスに精神分析を根付かせた功績はものすごく大きい。これに関しては医療制度との関連が大きいからなんともいえないところがあるけど精神分析を哲学、人文知に馴染ませながらも別物としたところが臨床家だなと思う。

論文の直訳、載せようとかと思ったけど前橋のケーキ屋さんがたまたま伊香保で売っていたパウンドケーキが美味しかったしコーヒーも美味しくて元気でたからもう出かけよう。どうぞ良い1日を。

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湯の花饅頭、文化

気持ちいい朝。光もきれい。

伊香保温泉のお土産といえば清芳亭の湯の花饅頭。実家にいた頃は父が何かのついでによく買ってきてくれました。一時期、どこかのお饅頭屋さんとの間でなにか大変だったという話を聞いたような気がしますが田舎の噂話だったのか観光地ではよくある話だったのかわかりません。私はここの湯の花饅頭以外は食べたことがありません。一択。皮の薄さも口あたりも甘さも大きさも本当にちょうどよくて大好きです。今回はお土産として和栗饅頭と一緒にもらいました。久しぶりのお味。待ち望んだ秋の風を少し寒く感じながら熱いお茶をいれていただきました。ようやくこういう楽しみを満喫できる時期がやってきました、か?疑問形になってしまいますよ、今年はさすがに。また暑くなったりしませんか?私たち人間の責任でもありますがこんなに暑い日が続いたり台風が変な進路をとるのは異常事態でしょうか。もう異常気象と言われて久しいと思うのですが異常がいつのまにか標準とか正常とかなってしまいそうで怖いです。水とか空気が変わったら和菓子の味も変わってしまうことでしょう。その土地のその気候や風土に合わせて長い間作られてきた自然の恵みを感じられる生活を維持するのはいまや観光客の立場の私でもあるのですよね。おいしいと感じなくなったなら別のおいしさで、と交換可能な世界を生きられる人もいるかもしれませんがそれではあまりに味気ないですし、と書きながら輪島の朝市とか世界に誇る文化を育んだ土地が元日から大きな被害を受け続けていること、それに対する支援の不足について考えていました。せめて言葉が、少しでも広く届くように、と瀬尾夏美さんなど常に現地の方に思いを馳せ、実際に出向いている方々の呟きをお借りしたりしています。私のSNSは全く拡散力はありませんが誰か一人でも彼らの言葉によって被災地への注意を維持しなくてはという気持ちを共有してくれたらいいなと思っています。清芳亭のお饅頭、美味しいです。どうぞ良い1日を。

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友、Netflix

雨。晴れるときいていたのに。やむといいなあ。能登の支援が進みますように。

友達がベランダのミントでミントティーを淹れてくれた。とてもおいしくてびっくり。若い柔らかい葉のうちがいいときいた。うちもやってみよう。いろんな生活がある。学びが多い。持つべきは友。友といってもこの歳になるとなんか昔とは意味が違う気がするけどまあなんでもいい。離れていても支えられているという感覚がないとこの仕事は厳しい。体験していないことを提供することは極めて難しい。この体験というのも見えない部分での話だけどってちょっと考えればわかると思うけど今はちょっと考えるというのが難しい時代なのは考えずともわかると思う。ちょっと考えたらわかってしまうので考えたくないという場合もある。

Netflixでアメリカの映画「喪う」(His Three Daughters)を見た。とてもよかった。「極悪女王」もみている。ダンプ松本やクラッシュギャルズの話をこの歳ですることになるとは思わなかった。唐田えりかがとてもいい。2018年の『寝ても覚めても』もとてもよかったが今回はまた全然違う良さがある。しっかし、みはじめると何も進まない。しっかりせねば。がんばろー。

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雨、能登、Sexual Identity

窓を開けた。雨が降っていた。顔を出したら涼しかった。能登の状況をパソコンで見ていた。動けなくなる。どうしようもない気持ちになってゴロンとした。雨の音を聞きながら眠ってしまった。河合優実が夢にでてきた。直前に読んだ記事と先日見たドラマの影響だろう。以前一緒に週末を過ごしていた自閉症の子も出てきた。あの頃、しょっちゅう感じていた私自身の見て見ぬふりを久しぶりに感じた。一瞬の見て見ぬふりが彼らに実際の傷をつけるかもしれないというヒヤヒヤした感じも。夢はドラマのハッピーエンドのような様子だった。洗濯物ができあがる音楽で目が覚めた。洗濯機だと確信している一方で炊飯器だっけと曖昧な頭のまま転がっていた髪ゴムをもってベッドから降りた。起きたらまたネットで見た能登の景色が蘇ってきた。今日もひどい雨になるらしい。本当になんて言葉にしたらいいのかわからない。ある人が「もう笑うしかない」と呟いていた。脱力感、無力感に心の奥底が乗っ取られてしまう前にできるだけ早く、あたたかな支援が届きますように。

昨晩は今年はじめに亡くなった元IPAジャーナルの編集長Dana Birksted-Breenの本、The Work of Psychoanalysis Sexuality, Time and the Psychoanalytic MindのChapter 2 Modalities of Thought and Sexual Identityを読んだ。1章に引き続きかなりの情報量だったがフランス精神分析の文脈からの引用も豊富で偏りなく学ぶには非常にありがたい。そしてこの章は精神分析理論の中でジェンダーアイデンティティを位置付けることの難しさに対して簡潔な答えとまではいわないが答えのようなものをくれた。

書いてあったのはこんな感じのこと。

原書の64ページからちょっと翻訳。

「さまざまな種類の同一化は共存可能であるが、どちらの様式が優位かでしか語れない。したがって、「性的アイデンティティ」は複雑な現象の最終結果であり、それは安定していることも不安定であることもあり、実際の身体と一致していることも一致していないこともあり、無意識の空想に満たされている。それは、抑圧や分裂を通じて一貫性を保とうとする試みにおける身体、対象選択、ラベリングに関連するさまざまな要素から構成されている。

 精神分析は硬直した一貫性を崩壊させ、別の性の側面や空想の位置の変化を明らかにする。
過剰にジェンダー化された立場や二者択一的な思考は、迫害不安や脆弱なアイデンティティを防衛する。」

みたいな感じ。転移関係では男女関係なく様々なものや人になる精神分析においてシスジェンダーである私はどんな感じなのか、意識的でありたい問題だ。

もう準備せねば。今日はのんびりとはいえのんびりしすぎた。能登から雨雲ができるだけ早く去ってくれますように。

追記:マクドゥーガルの引用も示唆的。

“The inherent difficulty facing the infant in his task of becoming an individual is of a more global, more ‘psychosomatic’ nature than the problems encountered in coming to terms with sexual realities” (McDougall, 1974, p. 436).

個人として成長する過程で乳児が直面する固有の困難は、性的現実を受け入れる際に直面する問題よりも、よりグローバルで、より「心身」的な性質のものである。

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りんご、自由連想

眠み。昨日もやたらめったら眠かった。少しお散歩にでたときが一番眠かった。普通は眠気覚ましに散歩したりするのだろうけど。体調崩すの嫌だからやるべきこと先延ばしして寝たけどいつもより早く起きてしまった。いつからこんなになったのかと思えばもうだいぶ前だけどいつだろう。低血圧で起きられなかった時代が嘘のよう。起きてすぐ元気だからすぐ家事できるのはいいけど勉強は捗らない。容量の少なさを感じる。ああ、カラスの大きな声。東の空がきれい。朝がくる。

りんごを一個もらった。むいた。いい香り。何十年経ってもりんごむくのが下手なのはどうしてかしら。まあ、包丁はどれもこれもうまくないか。

NPOでたくさんの子どもたちとキャンプをしていた頃、炊事場で小学生とりんごをむいていたら「あみさん、こうするとむきやすいよ」とさりげなく教えてくれた。その子のむいたりんごはめちゃくちゃきれいだった。おとなしくてしっかりしてて素敵な子だった。「どうでもいい話だけど」という言葉が思い浮かんでそういえばうちの両親はなにかと器用なのになぜ、と思った。小さい頃、父がりんごを丸ごと一個くるくるむいてながーい皮をみてびっくりというかすごーいというかどんな気持ちだったか忘れてしまったがその場面を思い出した。あれはなんだったんだろう。父はたまに何か披露してくれるのだけどこっちがせがんでとかではなかった気がする。チャップリンの真似とかうまくてあれはすごーいと思った。まあ、どうでもいい話だけど。

「どうでもいい話だけど」という言葉を使う機会が減った。分析が終わったから。自由連想は思い浮かんだことをできるだけ全部話すというのが一応のルールなのだけど(結構不可能なことやらされ、今はやってもらっているのだがこういう仕掛けというか設定)ほんとどうでもいい話が思い浮かんでしまう。分析家としてみれば全然どうでもよくないというか話の内容に重みづけして聞いていないからそういう前置きもいらないのだけどなんかつけちゃう時があるんだよね。まあ、こうやって書いてるのも朝の短時間自由連想だからどうでもいいことしか出てこないけど、日常ってそういうことが楽しいのだ、きっと。雑談ができない、という悩みも聞くけど頭の中ではかなりしているわけでそれを実際の相手にむけて出すのが難しい場合が多いんだよね。どう思われるかとか一瞬で色々考えるから。自由連想の難しさだってそこだもん。分析の終わりの方はすっごく自由に話してる自分に笑ってたけど。ごきげんな赤ちゃんみたいだった。自分がごきげんな赤ちゃんだった頃のことは忘れたけどたくさんの赤ちゃんのそういう様子は見てきたからあんな感じって気がした。色々あるけどそんな時間もあったなあ、というような思い出があると助けになるかもね。今日は土曜日。がんばろう。

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雲、学び

いわし雲。巻積雲というより目に浮かびやすい?鰯を思い浮かべてしまうとはて?となるかしら。鰯は群れで思い浮かべてね。巻積雲はうろこ雲ともいう。こっちのほうが「ああ!」となるかしら。

黒板に消し忘れたる鰯雲 佐渡美佐子

いわし雲いづこの森も祭にて 水原秋櫻子

今週末も秋祭りが多いみたい。オフィスのそばでは代々木八幡のお祭りの準備が本格化。良い季節!のはずなのに暑いですよね。日が落ちれば気持ちいいからみんな楽しめるといいですね。私も明日はどこか寄り道しちゃおう。

最近、ラカンとか難しい本ばかり読んでかえって頭悪くなってる気がする。でも長年の積み重ねでそういう状態にも慣れてきて言葉の通じない国にいるよりはずっと景色を描きやすい(積み重ねでわかりがよくなるわけではない)。精神分析の本だからどこを参照すべきかは大体わかるけどとんだ先も難解だったりするからなあ。とにかく時間が必要。こういう文献はいまだに読解の対象になっているから無理もないのだけどもうちょっと自分の教養と記憶力がほしい。昔学んだなぁ、ということは覚えていても内容丸忘れだから。ラカンあるいはラカン派は哲学や精神病理学がベースの人も多くて魅力的なトピックも多い。今、日本での精神病理学は随分変わってしまったらしい。私が読んできた本の頃が黄金時代なんだろうなあ。病者に対する理解も本当に変わってきたものね。もっともっと広く深く考えていけたらいいのだけど。と思っているせいか教える側になるときに精神病理の話をすることも増えた。木村敏とか内海健とかの引用しつつ。そうしたら結構響くものもあって逆にびっくり。伝えてみるって大事ね。学んだ。今日も実践に伴う学びを広げましょ。がんばっていきまっしょい。

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時間

鳥たちの賑やかなこと。群れをなして飛んでいく。昨日は猛暑日だったそう。たしかに暑かった。でも空気は秋なんだから不思議。どうなっているのかしら。長年かけて気象を異常にしてきまったということかしら。そしたら長年かかるだろうけど戻していかねば。

という話は面接でもする。長年かけてできたものには時間が必要なのではと。もちろん面接のためにということではない。こういう話をゆっくりして一回で落ち着く場合もあるから。精神分析が長くかかるのは自由連想によって効果をだそうとするものだから。人は「話す」までに時間がかかるし「話す」ことを積み重ねていかないと無意識が現れてこない。本当にただ「話す」ことで人は「そんなつもりじゃなかった」「意識してたわけではない」という部分につきあたる。そしてそこで何かと出会う。その何かが無意識であって「意識化」とかいうほど意識できるものではない。「話す」ことをしていくと「そういえば」ということもたくさんでてくる。怒りの感情もたくさんでてくる。そして不安が生じる。不安が先立っていろんな感情がごちゃごちゃになることもある。その気持ちの動きは日常で体験するものとはまるで異なる。不快で苦しくて受け入れがたいのは自分なのか誰なのかわからないままカウチでぶつける。分析家はなにかしてくれているだろうかと訝しがりながら。委ねることの困難にまた苦しみながら。そんなことを続けていくうちに「あれ?」となる。「なんかスッと」という人もいる。精神分析はなにがどうなるわけではないのになんとなく楽になった自分発見する機会になる。それには時間がかかる。

最近、私のメモはレシピだらけ。動画もたくさんみている。料理にも時間をかけたいが難しいのでいろんなレシピにお世話になる。といっても煮物とかでなければ切るだけ焼くだけ混ぜるだけでなんとかなる。とわかっているのにおなかがすいていると気が短くなるのかできあがりにむかって淡々と進むことができない。するけど。スーパーのお惣菜もおいしいものが増えたけどもう飽きてしまった。そういえば今度友達のうちで持ち寄り会をする。ポットラックパーティーっていうんだっけ。メインは友達が作ってくれるからそうはいわないのかな。勉強したあとゆっくり過ごす予定。なのでがんばろー。

暑さ寒さも彼岸まで、のはず。しのぎましょう。

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話す仕事。

昨晩は中秋の名月、きれいでした。高いところにいくと空に貼りつけたみたいな平面さ。でもその前を薄い雲がたなびくように横切っていくからそこが空間であるとわかる。精神分析をしていると平面的な心というのを知る。表と裏、こっちでなければあっち、自分と自分以外、そこでは時間も流れない、ずっと同じ、奥行きを持つことがいかに難しく、しかしそれが可能であることか。精神分析は「話す」のが主な仕事。精神分析は被分析家にとってもほぼ仕事。話さなくては始まらない。しかし「それは話しているとはいわないよ」という場合がある。本人不在、他者不在、なにかが生じることのない語りがあることもこの仕事で知った。簡単に憎むのに決して愛さない。愛と憎しみは両価的であるはずなのにそんなことなかった。私は最近なんでも一元論で考える方がいいのではないかと思っている。たやすく反転するかのような同質さで似て非なるものを語ることで難しくなっていることがたくさんあると感じる。ラカンが晩年「一者はある」という肯定的な公式に舵を切った。そこではシニフィアン連鎖以前の言語的なものを蜜蜂のように群れをなすララングという用語で示した。平面的な心もこの概念なら説明可能だろう。疎外も拒否というよりその契機をつかむことができない主体はララングにとどまり外部である他者の欠如に自分を見出すことができない。自らの固有の場を見出すこと、精神分析はそれを可能にするはずだが平面的な心に対しては様々な前提を取り払う、というよりあると思っていたものは本当はないということを自然に受け入れていく必要がある。精神分析の限界を精神分析によって体験しつつ精神分析の可能性を知ったとはいえ、その限界は到底日常用語では説明できないものなので色々と糸口を探している。とりあえずたやすく相対するものを作らず、そのものの内部に蠢くものがあるか、あるならその変化を観察し描写していくことからと思っている。

窓を大きく開けているけど風の気配がない。外に出れば感じることができるだろうか。虫の声は昨晩からずっと高らか。今日も色々あるだろう。がんばろう。

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祝日

冷房つけていない。昨日も気持ちよかった。田中一村展のために上野へ行った。昼間から賑わう居酒屋で自分を「おかま」と呼ぶ蛍光の黄緑の服を着た人と少し笑いあった。悲しい話も少し聞いた。自分のことをあえて「おかま」と呼ぶことについてまた能町みね子さんたちの対談を思い出した。上野公園をぶらぶら歩きながら東京都美術館へ。たくさんの人の後ろ姿。元気いっぱいに殴り合うふりをする子どもたち。そのそばで自分のやりたいことを主張する子ども。たくましい。で、東京都美術館。ガーン。田中一村展は19日からだった。2023−2024の年末年始は奄美大島で過ごした。そこで出会った田中一村。奄美の自然を実際に体験しながら多くの作品を見た。他人から見たら厳しい生活を選んだ一村の生き様もまた魅力的だ。また出直そう。前売りがまだ買える。昨日はショックだったが運よく東京国立博物館は無料拝観日。じっくり見られた。琉球とアイヌの部屋にアイヌの作品がなかった気がしたがなぜだ。アイヌの作品はものすごい迫力がある。ちょっとそれに触れたかったのに。

ちょっと放置していたらこんな時間。今朝はここまで。今日は火曜日。指差し確認するように確認せねば間違えてしまう。がんばろう。

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パンダ、パウンドケーキ

和歌山県白浜町アベンチャーワールドの良浜が24歳になった、と少し前の記事で知る。おめでとう。あなたたちの子どもパンダが赤ちゃんだった頃、ずーっとずっーとみさせてもらったよ。かわいかった。彩浜ちゃんのときともうひとパンダ。どの子だったか・・・。彩浜のときはコロナ前だったのと時期もよかったのかな、並ぶこともなく時間制限もなくずっとずっと見られた。コロンって寝てるだけなんだけなんだけどピクンとかなるだけでみんな声をあげるほどかわいかった。お外で遊んでいた兄弟姉妹もおもしろかわいかった。パンダってのんびりしてて間の抜けた動きとかそれって無理があるのでは、やっぱり無理じゃん、みたいな動きとかなにしててもかわいい。熊とかはああいう動きはしないだろうし、やっぱりあのまーるい感じがなんともいえず幸せな気分にさせてくれるのかしらね。上野動物園の方がずっと近いのにシャンシャンとか見たことないのよね。中国で元気にやってるかしら。

さっき南側の大きな窓を開けた。風がない。昨日は洗濯物が案の定大惨事に、でもないけど物干し竿が風で落ちた。その前に少し取り込んでおいたから被害は少なかったけどガーンって大きな音がして私もガーンってなった。で、ハンガーも壊れてしまった。ガーン。

今朝は甲州市塩山「Nelk」さんのパウンドケーキ。調べたらすっごくかわいいお店。こんな記事がありました。おいしい。クッキーももらったからそれは明日。楽しみ。今日はTWGのフレンチアールグレイと。これもいただきもの。我が家の紅茶ストックも充実させねば。今年は少しずつ少しずつ冬に向かっていくらしい。というかこんな暑い秋のまま一気に冬になったらいやね。ああ、地球、大丈夫じゃなさそう。大切にしよう。

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風、光、秋祭り

風が強い。洗濯物が飛んでしまうか?大丈夫か?心配だからパソコンを移動してテレビをみながら洗濯物も見る。いいお天気で乾くのは大変助かるが。そしてNetflixでドラマを見てしまう。いかん。午後はお仕事だからそれまでにやらねば。

キウイ美味しい。熱い紅茶暑い。洗濯物がすごい靡き方している。「なびく」って「靡く」って書くのか。自動変換便利。こんなに時折ぶおって持ち上がるくらい揺れても「靡く」でいいのか?靡くってこんな激しい感じにも使うのか?使うのだろうね。風の種類も色々あるからそれに合わせて動詞も変わったりするのかしら。私が知らないだけできっと色々あるのよね。こう書きながら洗濯物を眺めている時間が長い。そして洗濯物が激しく揺れるたび変な形の光が部屋を走る。洗濯物たちが作る影ではなくて光が部屋の中を走る。小さい頃は光でたくさん遊んだよね。今は見せられるまま。戯れることはしなくなった。それでも楽しいけどね。

昨日は秋祭りの音に誘われて八幡に寄り道した。いつもはほとんど人がいない神社に自転車がいっぱい。お店がいっぱい。裏の出口ですれ違った子供が父親の足にししがみつき押しとどめながら綿菓子をせがんでいた。楽しく出かけ盛り上がってもこうなっちゃうことってあるよね。私が行った時間帯は叱られている子どもが多かった。何度呼ばれても振り向かない子ども。結局連れ去られ大泣き。呼ばれるたび先に行ってしまう子ども。先に帰っちゃうよ、と言われても振り向かない。しばらくして振り向くともう親は見えない。泣いて追いかける。姿が見える。もっと泣く。叱られつつ抱っこされる。そうねえ。みんなお互い辛いところだよね。でも道に出たらもう電車に興味がいっちゃってニコニコだったり。外からはわからないそれぞれの親子。良い夜でした。

今日も色々あるでしょう。良い日曜日になりますように。

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時代、ゆっきゅん新アルバム

いよいよこのパソコンだめなのではないか・・・。朝焼けがきれいだったことも忘れてしまう。早朝、そっとカーテンあけてきれいな気持ちになったんだ、一瞬。このワードプレスのアプリ?ソフト?これも開くたび落ちる。今はなんだか大丈夫。まあ、こんなことしてないでやることやれよ、という警告かもしれない。しかしこのいろんな不具合は単にこのPCが対応できないモデルだからということかもしれない。どこに持っていってもヴィンテージとして驚かれ懐かしがられるし直せる部品がないかもしれないと言われている。いやだ。こんな長くもってくれたんだからいいじゃん、という話ではない。パソコンはとっても高いんだよ。ワープロで事足りていた私にパソコンなど本当は必要ないのかもしれないけどなんとなくパソコン時代に乗っかってきてしまった。私が大学生の頃はまだでっかいフロッピーディスクだった。プログラミング学んだりしてたんだ。こんなタンとしたらパッと出るみたいな世界ではなかった。全然ついていけないよ。このAI時代に何を、という話だが、AIが生活を変えていることはわかってる。私がこれから生きられたら生きるであろう2、30年にもいろんなことが変わるだろう。私はなんかついていけないと感じながら何が古くて何が新しいかわからないままいつまでも大きなフロッピーディスクとはじめて書いたプログラミング言語が別の姿に変わった感動をこうしてつぶやいてしまうのだろう。

今朝もゆっきゅんの新しいアルバム『生まれ変わらないあなたを』を聴いている。特設サイトはこちら。ヴィジュアルもインパクト強くていいが歌詞がいい。私がついていけない時代に20代を生きてきた人の言葉にも過ぎた瞬間を懐かしむような言葉が現れることににっこりする。ゆっきゅんの言葉に支えられる人は多いだろう。「たべっ子どうぶつ」は時代を超えて存在するわね。今すごくいろんな種類あるよね。

♪たべっ子どうぶつくれたぬくもりの裏に♪

ゆっきゅん「隕石でごめんなさい」の一部。新しいのに懐かしいわ、とても、なんだか。いい声だな。

さあ、週末。平日にはできないことをきちんとせねば。イレギュラーのグループも忘れないように。不安だわ。でも美味しい幸水もいただいたし、清里のお土産の「赤毛のアン」のコーヒーもとても美味しかったからがんばろう。

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引用、「普通」に共有

陽射しが強い。梨が美味しい。水分!

読書するとき、気になった言葉を抜き出しておく。それらはただメモとして溜まっていく。外向けに何かを書くときは自分がその本の全体を読んでいるものからしか引用していないと思う。この2年、フェミニズムに関する良書がたくさん出た。理論的なものは別として、私はそれらからはほとんど引用していないと思う。できないのだ。この問題はあまりに根深い。声をあげはじめたといってもその声は様々でありほとんど届いていないという現実に目を向けざるをえない。基盤のないところに理解を育てるには時間がかかる。これは教わるものではなく体験的な知として実感していかないと差別を反復するだけになる。私のフェミニズムに対する関心は精神病と重度の自閉症という自分の仕事の原点に関わるもので自分が女であることに対する意識はその存在の後にくるものである。これらの本を読みながらそういうことが意識に上ってくる。そして私はいまだに彼らの心を説明するすべをもたない。

昨日、Twitterで読んでほしい本をあげた。森山至貴 & 能町みね子 『慣れろ、おちょくれ、踏み外せ 性と身体をめぐるクィアな対話』(朝日出版社 )は引用できない本の一冊だ。そもそも対話というのは流れがあるものなので切り取るものではないというのもあるがどこかを抜き出すことでまた無知や誤解に基づいた誰かなりの理解にすいこまれ、さらには使われてしまったりしたらと思うととてもできない。だから「読んで」となる。知識は大事だけど知識を身に付けるのは簡単ではないというのもまた肝に銘じる必要がある。今、頭の中に浮かんでくる言葉も出してしまったら何かを妨げるだろう。まずは自分が知ったかぶりをしないように今日も学ぼう。いずれ多くの人と「普通」に共有できるように。

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秋、IPAPodcast

なんかまだ暑い。陽射しが強い。そして毎日眠い。すっきり起きるのにすぐまったりする。空の色はやっぱり秋。空高し。

仔馬爽やか力のいれ処ばかりの身 中村草田男

爽やかやたてがみを振り尾をさばき 山口誓子

仔馬と大人の馬では力の入れ具合が違う。どちらも素敵。

朝ドラ『虎に翼』のとらちゃんはこういう感じで変化したよねえ。今はいい感じに力が抜けて落ち着いている。

昨日、IPA(国際精神分析学会)のpodcast、Talks on Psychoanalysisを聞いた。お話はArgentine Psychoanalytic Associationの訓練分析家、スーパーヴァイザーのPatricia Alkolombre博士。テーマはThe Desire and Passion for a Child: Psychoanalysis and Reproductive Techniques。著書“The Desire and Passion for a child. Psychoanalysis and Contemporary Reproductive Techniques で扱われたテーマ、親であることの欲望と生殖技術について。

これまでポストフロイディアンやジェンダーセオリーで扱われてきた子供に対する欲望が含む複数のテーマが取り上げられている。

たしかに臨床現場でも様々な不妊治療の話を聞くことが増えた。人によっては卵子凍結の費用の話もランチタイムにするような話になっているようだ。そしてたしかに私のきき方もずいぶん変わった。いや、きき方は変わらないがこれはずいぶん多くの人に共有される問題になったんだな、という感覚をもつようになった。

 ポッドキャストできいた話は新しい領域において子供に対する欲望(来たるべき子供の不在をめぐって)も変化してきているという話と思っていたけど最後はこれまでとそんなに変わらないのではないかという話にきこえた。この話もmotherhoodの文脈で語られていてそれ自体に私は抵抗を感じてきちんと聞けていないというのもあるし、私の英語の聞き取りの問題も大いにあると思う。

しかし、これが変わったからこっちも変わる、というほど人間は簡単ではない気がする。むしろ変わりたくないという欲望の外在化としての技術では、という気もする。この場合だって変わりたくないというのは無意識のことをいっているのでそれがなにかを取り出すことはできない。それは常に事後的にあらわになるというのが精神分析の考え方であり、実際にそうだと思う。本人にも誰にもわからない。知る、わかるよりとりあえず自由連想。

今日もがんばりましょう。

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超回復とか引用とか。

虫の声。静かな朝。音があってはじめて感じる静けさもあるし静けさのおかげではじめて感じる音もあるね。

筋肉痛がひどくて時々ふらつく。都会の人は歩くのが早くてうまく避けられない。酔っ払ってるわけではないよ、というかこれは酔っ払いのイメージか、と心の中で呟きつつのったりふらりと歩く。破壊された筋肉が回復中なのよね、と思って筋肉痛について調べたら「超回復」という文字がありなんかすっごく強くなりそうと思った。漢字三文字だからか。「波動拳」みたいな。さて超回復には48時間から72時間かかるらしい。バスケ部やバド部だった頃、筋肉痛でフラフラになった翌日も練習していたけどあれは筋肉によくなかったってことかな。でも合宿で超回復待っていたら練習ほとんどしないことになってしまうものね。まあ、不真面目な俺たちにはそれで全く問題なかったがな。お部屋でゴロゴロダラダラおしゃべりしてるだけで全然楽しい、ってなってたと思う。

先日、GW中に開催された狩野力八郎先生の蔵書頒布会でいただいてきた本を読んでいた。そのメモを探していたらこんなのがあった。

「われわれ、特に日本人は「なる」という表現が好きで、「何々します」とは言わないで、「何々ということになります」という言い方をしますね。あるいは鳩山前首相も得意だった「・・・・・・させていただきます」というへりくだりの表現がありますね。」

これは別の本からの引用だ。

木村敏と坂部恵の「する」「なる」の区別を受けて「何々ということになります」について野家啓一が木村敏との対談で言った言葉。

「ある意味ではそれは、自己が責任をとらないという責任逃れの口実にもなるんだと思いますが、同時にその事態の展開というものを自分だけじゃなく、他者とも共有し合う場を形作る、という機能も「なる」という表現にはあるのかな、と思うのですが。」

中動態の話。どの本だったか。木村敏と野家啓一で検索するとなぜか全然関係ないサイトが出てきた。Googleが変になっちゃったと思ったら「野毛」で検索していた。とはいえ、どうして?「野家ではありませんか」とか出るのがいつもではなかったっけ。二人とも有名でしょう?それにしてもお二人の共同作業は多くてどれだけわからないな。「河合臨床哲学シンポジウム」シリーズのひとつだった気がするけど曖昧。出典が一番大事なのにメモしわれた。

さて、お目当ての本のメモはどれだ。ない。ラカンの不安概念と関連して気にしていたキルケゴールのことが書いてあったのに。でも書名ならわかる。実存主義とルドルフで検索。あった。

『実存主義と精神医学』 ルドルフ・アラーズ (著) 西園昌久/板谷順二 (訳) 判型:A5判 ページ数:113, 5 1965年6月15日初版 岩崎学術出版社 刊行時定価(税別)800円

とのこと。引用メモは見つからないけど西園先生はこの本の翻訳を小此木先生に強く勧められたとあとがきで書いていらした。精神分析に対する批判やそれに触発された対話の水準が高かった時代という気がする。最近、そういう時代の本ばかり読んでいるな。いや、そうでもないか。小説はわりと最近のも読むようになったし。とにもかくにももう亡くなってしまった先生方の仕事を忘れないように現在の精神分析を考えていかねば、というかその方がずっと豊かな気持ちになる。感謝だなあ。

冷房はつけてないけど少し暑くなってきたかな。森の方でいつもと違う鳥の声がする。どうしたんだろう。今日もがんばりるれろ(とか昔言ってなかった?)とか言ってるといいな。

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カステラ、『東京都同情塔』、Chat GPT

今日も光が強い。メロンをいただいた。甘すぎずジューシーで美味しかった。あと「甲州かすてら 槌や」のカステラ。石和温泉のお土産。包装も可愛いのだけどWebサイトだとよくわからない。どのお菓子も美味しそう。お味は色々あって今日は抹茶をいただきました。この甘みは美味しい。あ、インスタでなら見られる。「およそ70年前に花嫁と共にやってきたカステラを原点に持つ「槌や」」ということでこのデザインなのね。この地域の慣習かしら。お米とかお金の代わり?何か物語があるのかしら。

昨日、九段理江『東京都同情塔』(新潮社)を読んでいた。「生成AIを駆使して作った」という作品。すごいな。言葉言葉言葉で読みにくいがこのこだわりが「言葉って」という疑問を生じさせる。言葉の効果、というのを作者は熟知して使いこなしている。すごい。面白いとかそういうのとはだいぶ違うけどドライに書かれた強烈な皮肉を感じた。

ふと私もAIを使ってみようとchat GPTにログインした。登録はしたがほとんど使ったことがない。パスワードは保存されたままだった。目のマークを押してただの●で隠されていたパスワードを表示させる。なるほど。私はこれはこっちのパスワードにしたのか。とりあえず入力すればいいのだろう、と入れてみる。

最初は槌やのカステラのこと。勝手に物語も作ってくれた。

「新郎新婦はこの甘いお菓子のように、末永く甘い生活を送り、地域でも伝説的な夫婦として語り継がれることとなったのです。」

で終わっていた。うーん。

別のことも聞いてみよう。

「精神分析を受ける人ってどんな人?」

AI の答え。

「精神分析を受ける人は、さまざまな心理的な悩みや葛藤を抱える人々です。精神分析は、無意識の心の動きや過去の経験にアプローチして、深層心理を理解し、問題解決を目指す治療法です。一般的に、精神分析を受ける人には以下のような特徴があります。

1. 繰り返す感情や行動のパターンに悩む人

精神分析は、無意識の葛藤や欲望が、繰り返し似たような問題を引き起こすことに焦点を当てます。そのため、例えば同じ種類の人間関係のトラブルや感情的な反応を繰り返している人が対象になります。

2. 過去のトラウマや心の傷を持つ人

精神分析では、幼少期の経験や過去のトラウマが現在の問題に影響を与えると考えます。過去の経験を整理し、解消しきれない感情を理解したいと考える人が治療を求めることが多いです。

3. 自分を深く理解したい人

自己理解を深めたい、人生の意味を見つけたい、自分自身の本当の気持ちに気づきたいという人も精神分析を受けることがあります。これには、特定の悩みを抱えていなくても、自分の無意識に興味を持つ人も含まれます。

4. 不安や抑うつに苦しむ人

精神分析は、不安障害や抑うつなどの心理的問題に悩む人にも効果的です。これらの症状は、しばしば表面的な原因だけでなく、深層の無意識の葛藤に根ざしていることが多いため、精神分析的なアプローチが有効です。

5. 夢や象徴に興味を持つ人

精神分析では夢や無意識の象徴が重要な意味を持つとされます。そのため、夢の分析や、自分の中の無意識的なサインに興味を持っている人が精神分析に惹かれることもあります。

6. 長期的な治療に取り組む意思がある人

精神分析は、深層心理に働きかけるため、通常は短期間での成果を期待するものではありません。時間をかけてじっくりと自己理解を深めたい、根本的な問題に取り組みたいという人に向いています。

7. 自分の行動や思考の動機を探りたい人

自分がなぜ特定の行動をしてしまうのか、自分が持つ思考パターンの背後にある動機を探りたいという人が、精神分析の対象になります。

精神分析は、表面的な症状だけでなく、その背後にある根本的な原因にアプローチする方法であり、人生の意味や自己理解に関心がある人、または深い心の葛藤に取り組む必要がある人に適しています。

うーん。

間違ってはいないけどこう羅列されるとなんだかポカンとする。これらにひとつも当てはまらない人もいるだろう、というか、これらを意識して意気揚々と申し込んできた人が実際に精神分析を始める人はそう多くない気がしている。

しっかし、こういう感じなんだね、ChatGPT。うーん。これを駆使してこういう作品を作れる「人」の力がすごいな。私も課題もこなしてくれないかな、と思うけどどう言えばいいのかわからない。AIとの会話で何か思い浮かぶかな。とりあえずPCの前から離れなければ。今日もがんばろう。

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月曜朝

西側の窓を開けた。風がない。まだ昨日みたいな雲がもくもく。今日はどの果物を食べようか。

昨晩は電池切れ状態で眠ったせいか朝まで一度も起きなかった。学ぶことの多い週末だったが私のキャパは狭かったらしい。あ、光がオレンジになってきた。日の出から30分くらいたつか。

昨日はセミナーのあとオンラインのカンファレンスがあった。その間に料理をしながらNetflixを見た。ジャック・ブラック主演のミュージックコメディー映画『スクール・オブ・ロック』(2003)の続き(最高に楽しかった!)と『グランメゾン東京』。『グランメゾン東京』は以前やっていた連続ドラマだった。パリのレストランから始まるからフランス語学習に良いかと思ったけどこれはビストロスマップか!とただただ食欲が亢進するドラマだった。沢村一樹はいつも素敵だ。

昨日からなんか携帯の画面が変わった、と思っていたが自分が目線を向ける場所がそれまでと違うだけだ、と今気づいた。やっぱり老眼鏡作り直さないとかな。本も読みにくいとは思っていたが読みにくい本を読んでいるからそんなに支障もなかったが小説とか読むには不便。放っておくとまたメガネ屋さんに叱られちゃうかしら。いやー。

今日は今日でとりあえずはじめましょ。

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ジュリアン・ラージ、コンビニスナック、環境のせい

日の出が遅くなった。PCの動きも遅い・・・。東京の日の出はさっき、5時18分。もう空はだいぶ明るいけど。鳥たちが賑やかに通り過ぎていった。インスタでジュリアン・ラージを見かけた。短い動画。やっぱり素敵だなあ。Spotifyで”Speak to Me” を聴こう。今年でたアルバム。聴いている。やっぱりいい。ライブに行きたいな。もうすぐ来日。JULIAN LAGE “Speak to Me”ツアー。YouTubeも見ちゃおう。今年一月のSFJAZZコンサート。SFJAZZはサンフランシスコにあるジャズのための非営利組織。教育機関でもある。良い組織があるなあ。柳樂光隆さんによるインタビュー記事も後で読み直そう。ジャズの歴史はいろんなことにまたがっていていろんなこと考えさせられる。あ、読み始めてしまった。いけない。やることがある。

昨晩、週末気分でスナックを食べたら胃もたれ。セブンプレミアムベルジャンフリッツアンダルースソース風味。コンビニの独自商品の小さい袋のは全部試したくなってしまう。これはベルギーのフライドポテト「ベルジャンフリッツ」をイメージしたスナックということでポテトフライ好きな人にあげたことはあったのだけど自分でも食べてみた。こういうのはスナックとしては間違いなくおいしいけどスナックはいかんよ。止まらないもん。今日は初回面接グループもセミナーもあるというのに。コンビニに行くからいけないんだな。コンビニが近くにたくさんあるからいけない。というわけではない、というのはわかっている。環境のせいにしてはいけない。いけなくはないけど心理療法をしていても最初はすべて環境のせいにしたり、どうしてもそういう物語にしがちだった人が(というか大抵はそうだしそれはそれで大切なこと)自分の今のあり方は環境で説明するにはちょっと、となっていくことは多い。精神分析はそういうことを考えたい人にとても役に立つのだけど精神分析を始めるとまた環境のせいにすることが増えたりもする。それまでよりずっと実体験として。反復。再演。単に頭で考える物語ともう一度生き直されてしまう出来事は随分異なるし精神分析はそういうことが生じる仕掛け(=設定)のもとになされる。皮膚感覚が敏感になるので境界をめぐる話が増えるし、すると不安が生じやすくなるし、興奮も漏れ出しやすくなる。それはいかんともしがたいことで、それをどうにもできない時にどうにかしてよという気持ちが起こりそれは環境の不備の話としてでてきやすい。自分の欲望に触れるのはなかなか難しい。何を言ったところで結局自分なのだけど。

そうだ、ラカンが詩についてどう考えているかについてちょこっと調べたがフィンクが「私は、詩に関するラカンの主張について分かったふりをする気はないので、ここでは詳しく述べないでおく」と書いていたのでまあいいかとなった。とはいえフィンクのせいにしてはいけない。面白いと思ったことを追求できる人になりたい。ある程度なっているがなんか全然サボってる気もしている。もっといろんな場に出ていけばいいのだろうけど時間がないし気力もない。欲望をごまかしている。ああ。

みなさんどうぞお元気で。良い一日をお過ごしください。

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モルダウ、春の小川

今朝はまだ窓を開けていない。すぐに冷房をつけてしまった。冷房の音で外の音が遠い。大きな車がバックする音?わからない。

村上春樹がジャズを語っていた記事があった。あれはなんだったか。また読みたいけどネット上のどこにあるのかもうわからない。

「元気?」

「元気だよ、春先のモルダウ河みたいに」

村上春樹『スプートニクの恋人』で最も心に残る箇所、というわけではないが「元気?」と聞いたり聞かれたりすると心の中で続きを答える。

小さな頃、父親が市のオーケストラに所属していた。私も楽器を習っており、様々なクラシックコンサートに連れていかれた。眠っている時間の方が長かったがスメタナの「モルダウ」だけはいつも泣きながら聴いていた。それが祖国をおもう曲であると知ったのはずっとあとのことだ。村上春樹の作品は色々な言葉に翻訳されているが、チェコの読者はモルダウの部分は翻訳によって書き換えられたのではないかと疑ったと聞いたことがある。面白い。その感じでまた日本語に翻訳すると

「元気?」

「元気だよ、春の小川みたいに」

とかなってしまうのかしら。ちなみに高野辰之(作詞)、岡野貞一(作曲)の「春の小川」の舞台は渋谷区の河骨川。初台にある私のオフィスのそばだ。今は暗渠化されておりその場に行ってもマンションが建っているだけだが電柱に案内がある。渋谷区を巡回するハチ公バスの本町・笹塚循環は「春の小川ルート」という。

今朝も桃を食べた。「も桃」3つ「も」がつながった。何か回文を作ろうと思ったがダメだった。私は回文作りが好きだ。村上春樹の『またたび浴びたタマ』も愛読していた。満島ひかりと又吉直樹の『軽いノリノリのイルカ』も欲しい。つまらない話を真剣な顔で聞いている時の私の頭は大抵回文作りで忙しい。

今日は土曜日。東京はいいお天気。がんばろう。

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衝撃とか狂気とか。

果物がいっぱい。とても嬉しい。桃とキウイを冷蔵庫から出した。桃はしっかり。皮もしっかり。と思ったら一部が黒っぽくなっていた。中も薄い茶色に。こんなしっかりに見えてデリケート。ちょっと雑に運ばれてきたな、と思ったのはこういうとこに結果として現れる。味はとても美味しかった。キウイも断面がとてもきれいで瑞々しくてとても美味しかった。美味しいってこれまでの人生で最も使っている言葉だったりしないだろうか。しないか。

昨日、西加奈子の『わたしに会いたい』(集英社)のことを書いた。移住先のカナダで乳がんの手術をうけ治療の日々を書いた『くもをさがす』と同じ時期の短編だっただろうか。文芸誌に掲載されたものを集めたものだと思う。『わたしに会いたい』の中でも乳がんの話があった。胸、髪、それまで当たり前に自分の一部だったものを失うことは西加奈子自身の体験でもある。他の短編も女が受ける様々な行為が書かれていた。一見衝撃的だがどれも身近で、あるいは実際に体験したことがあるものばかりだった。私は日々こういう話を様々な雰囲気の中で様々な話され方の中で聞いているのになんでこんなに衝撃的なんだろう、というよりこんなことが実際に起きていること自体が衝撃で、でもこれは実際に他人事ではなくて、なのにこれらをまるで遠くの世界のように感じながら衝撃とかいっていることが衝撃的なのかもしれない。乳がんはまだ経験していないが患者さんたちの体験は聞いてきた。膣、子宮、こころ、見えないところにも容赦なく侵入してくるものたちに対する反応も様々だ。それでもこの話たちが希望をもたらすのはどの話にも観察して描写してくれる人が必ずいること。小説には他者がいないということがない。臨床では他者を不在にするこころの実際を思い知らされることがあるのだが、それは絶対に記述できない。だから小説に希望を感じる。そこには人がいてこころがある、なんだかんだいって。それは希望だ。特にこの本は一人称と二人称に貫かれているのが印象的だった。社会に殺されることなく生き残る基盤をどこに見出すかは自由だが精神分析は一人称と二人称、しかも一人の人間の中のそれらに貫かれた技法であることを私は強く意識しているのでこの本のその部分に注意が向いた。精神分析は社会の狂気ではなく自分の狂気と欲望を扱う。そういう技法が今は全く流行らないこともこの社会にいれば当たり前とわかるが女であることのどうしようもなさを生きるにも自分が誰であるかを知ることは助けになる。私がかなりの危機とともに体験してきた狂気が私を生かし患者とこころ合わせる術となっているという実感も今の時代は共有されにくいだろう。それも自分なのに、自分であるかもしれないのに、という恐れとともに生きるのはとても不安なことだから。

だいぶ爽やかになってきたとはいえ汗ばむ。今日もがんばりましょう。

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「あっらー」、西加奈子の本

静かな朝。昨日は弱々しくなったアブラゼミと秋の虫たちの声のトーンが同じくらいになったと感じた。梨をスルスルむいてくしゃくしゃ食べた。熱い紅茶にはまだ口をつけていない。西側の窓から車の音がたまに聞こえる。自転車がブレーキをかけた。隣のマンションをオレンジに照らしていた光が白くなっていく。1秒って案外長い。でもきっと今日もあっという間に過ぎる。

朝ドラ『虎に翼』で主人公寅子の更年期症状が梅子さんと共有される様子が描かれた。私もあれやってもらったなあ。会うたびに優しく明るく抱きしめるように迎えてくれる人生の大先輩が「あっらー」とああいう感じでようこそしてくれた。

若い患者さんに対して私の方が「あっらー、あなたもこちらに」と笑うことも多い。あちらは苦痛半分、笑い半分だがそうなるのも通過済みだからうんうん辛いよねと共有できる。

西加奈子『わたしに会いたい』(集英社)を読んだ。短編集だ。内容は集英社のウェブサイトから引用する。

・「わたしに会いたい」──ある日、ドッペルゲンガーの「わたし」がわたしに会いに来る。
・「あなたの中から」──女であることにこだわる「あなた」に、私が語りかける。
・「VIO」──年齢を重ねることを恐れる24歳の私は、陰毛脱毛を決意する。
・「あらわ」──グラビアアイドルの露(あらわ)は、乳がんのためGカップの乳房を全摘出する。
・「掌」──深夜のビル清掃のアルバイトをするアズサが手に入れた不思議な能力とは。
・「Crazy In Love」──乳がんの摘出手術を受けることになった一戸ふみえと看護師との束の間のやり取り。
・「ママと戦う」──フェミニズムに目覚めたママと一人娘のモモは、戦うことを誓う。
・「チェンジ」(書き下ろし)──デリヘルで働く私は、客から「チェンジ。」を告げられる。

以上。引用。

女の身体と性は本人たちにもわからないことだらけだ。「わたし」「あなた」「彼女」だけでなく固有名詞で明確に主語を示す短文が積み重ねられる文章は私が今朝西側の窓に感じた1秒1秒の変化と似ていた。快楽、それに伴う痛み、絶望、あどけなさ、幸せな瞬間、逞しさも混じる描写。「わたし」と出会うには相手がいる。ドッペルゲンガーではない相手が。秒で過ぎる出来事の積み重ねがこれからも続いていく。今日も明日も。先のことは「多分」の積み重ねでしかないけれどとりあえず今日も、と思う。