カテゴリー
精神分析

テレビ、フランス精神分析家たち

今朝は空が少し濃い。少し目を凝らすとちぎれたり帯状になったりした雲がたくさんみえる。虫の声もだいぶ静かになった気がする。取り壊された家のあとにぐんぐん伸びた草むらではまだ声高く鳴いているけど。

今日は月曜か。あまり朝に見られないが朝ドラ「ばけばけ」もとても好きでみている。高石あかりが素晴らしくかわいい。華やかさもあれば妖怪味もあってなんでも演じられるとはいえおトキちゃん当たり役。怪談好きの怖がり仕草もすごくいい。せっかく怪談好きのお相手と出会えたのにこれからどうなってしまうのかしら。おトキちゃんに早く幸せになってほしい。早く、というのはこれからを知っているからで、今のおトキは幸せなんだから今を喜ぶべきだな。人生幸せだったり不幸だったりの集積でできているということか。高石あかりはNetflix「グラスハート」の歌姫役もすごく素敵だったけど明治の没落武士の娘の苦労を明るく演じてくれるおトキちゃんいいなあ。このあとも楽しみ。

Netflixといえば「ウンジュンとサンヨン」もみていたが思春期の彼らが愛しすぎてその後がどうもイマイチと思ってしまう。ストーリーは彼らのその後としてとても魅力的だし、韓国のいろんな事情も切なくて見続けてはぢまうけど長く思春期の子たちと会っているとその年代に特別な思い入れができちゃうのね、きっと。

Netflixはほかにも色々みてるけど大河ドラマ「べらぼう」は相変わらずすごい。蔦重が横浜流星でほんとによかった。過酷な事態にだいぶ嫌な感じになってきたけど愛されてきた蔦重は今でもみんなに叱ってもれえるしその場面もいい。厳しい取り締まりにめげずに面白いこと続けてくれよ。

昨日は小グループのセミナーでアンドレ・グリーンのThe Capacity for Reverie and the Etiological Myth(1987)を読んだ。私はThe Freudian Matrix of André Green Towards a Psychoanalysis for the Twenty-First Century Edited By Howard B. Levine (2023)に入っている英訳で読んだ。フランス語で読めたらいいのだけど道のりは遠い。

フランスは日本よりずっと精神分析が身近なので組織も乱立していて問題も多い。つい先日もジェラール・ミレールという77歳の有名な精神分析家が少女たちをレイプした罪で起訴された。精神分析家なのに催眠を使ってる時点でイカサマ感強い。人としてきちんと裁かれますように。ジェラール・ミレールはジャック・ラカンの娘婿でありラカン理論の継承、啓蒙をつとめてきたジャック=アラン・ミレールの弟。ジャック=アラン・ミレールについてはすでに入門書もでている。ジェラール・ミレールの場合、この問題が出るのは今回がはじめてではない。精神分析家として彼はいまだに組織に所属しているのか?本当に精神分析を悪用するな。というかそれは精神分析ではない。

アンドレ・グリーンの論文を読む楽しさについて書こうと思ったのにイラっとくる記事のことを書いてしまった。とりあえず今日も穏やかに過ごせますように。伊豆諸島が無事でありますように。良い一日を。

カテゴリー
精神分析

テレパシーとか。

空が薄い。羽毛布団に変えたせいかよく眠れた。カバーをかけるのが面倒だなあ、といつも思うけどがんばった。夏の始まりと終わり(もう10月も半ばだけど)の年2回だけなのにめんどくさいものよね、と思っていたせいか、PCに「取り替え簡単!」という掛け布団カバーの宣伝が出てきた。最近、検索もしていないのに思い浮かべていることと近い商品が出てくるから言葉のテレパシー性を振り返るべきよね、と今思った。というか、精神分析実践をしていると言葉は話されたものだけではないのは自明で、カウチ上で「何も思い浮かびません」「ちょっとぼんやりしちゃって」と言って何も言わないと「抵抗」とか言われることもあるわけだけど、この「抵抗」も意識的な行為に与えられている言葉ではない。自由連想なんて全く不自由だけど、「全然関係ないんだけど」「話ずれるんだけど」と自分でも「なんで?」と思うような事柄が思い浮かぶとき、それが鍵になる。夢と近いのはそっちだから。「夢は無意識への王道である」とフロイトが言ったことは言葉の機能を考えると本当に重要で、思い浮かべたことが広告として出てきてもそんなにびっくりしないな、と思う私はその機能を使って仕事をしているからだろう。オカルトじゃないよ、というのはフロイトが「夢とテレパシー」(1922 )の最初で言っている。もしそうだと思ったら期待外れですよ、この話、みたいな感じで始まるんじゃなかったかな。結構そういう書き方の論文多い気がするから違うかもしれないけど。岩波の『フロイト全集17』に入っているけどあれはオフィスにあるから後で確認しましょう。そうだ、カウチ上で「あ、それ夢に出てきた」と思うとき、本当に夢に出てきたかどうかは重要ではないし、確かめようもないわけだけどそれを思い浮かべて言葉にすること自体がすごく重要。連想を自由にできるようになると自分でも「あー、だからか」となんとなく仮説が立つようになるけどそれはかなり分析が進んでからだと思うので、それまでは精神分析家の技法が問われるわけです。ということで今日もがんばりましょう。色々やばいやばいとなっているから。

ちなみに『フロイト全集17 1919-1922年』はフロイトの大事な時期の大事な論文がたくさん入っています。「女性同性愛の一事例の心的成因について」は症例を使った最後の論文ではなかったかな(要確認)。断片的なものはその後も登場するけれど。

あとは「不気味なもの」「快原理の彼岸」「集団心理学と自我分析」など再読必至の論文たちも所収。「夢とテレパシー」はフロイトの夢シリーズとして光文社古典新訳文庫の中山元訳でもいいかも。ではでは。良い日曜日を。

カテゴリー
精神分析

ハンカチとか懐かしさとか。

早朝、まだ空が暗いことを確認して洗濯物を干す。昨晩取り込んだハンカチをたたむために広げる。薄いピンクのハンカチ。少し小さな穴が開いているのにはじめて気づいた。本当に若いときに誰かからもらったハンカチ。当時はとても高級なものに思えた。実際そうなのかもしれない。ハンカチっていろんな人にいただくけどどれが誰からでその誰はどこの誰だったか、というくらい昔のものが多い。結局、一番上に置いてあるのを使ってしまうからお決まりの数枚しか稼働していないけれどその一枚。私は自分でピンクを選ぶことはほぼないけれどこのハンカチは見るたびにレタリングがかわいいと思う。どこのだっけ、と思ってまじまじみてみたけど書いていなかった。なんとなくKENZOのだと思っていた。KENZOがすごく流行った頃のかもしれない。改めて見てみるとこれってマザーグースの数え歌だと気づく。多分知っていた。でも覚えていない。マザーグースは谷川俊太郎訳のをセットで持っていた。今もその辺にあるはず。イラストは堀内誠一。堀内誠一は今年はじめかな、立川のPLAY! MUSEUMでやっていた展覧館に行った。すごく懐かしくて楽しかった。あの懐かしさのひとつなんだろうなあ、このハンカチ。A was an apple-pieからはじまる数え歌。B bit it, C cut it,D dealt it,E eat it,F fought for it, G got it,とつづいてく。きれいにアイロンかけて壁に飾るようにしようかな。実用から思い出の品に意識的に変えていくのもいい年齢かも、50代。

今週も何も進まないまま土曜日になってしまった。昨日は本をもつ気力もなく頭の中にあった韓国の詩人、呉圭原の詩を思い浮かべていた。茨木のり子の『韓国現代詩選』にも入っているし、吉川凪訳の『私の頭の中まで入ってきた泥棒 呉圭原詩選集』もおすすめ。多分、昨晩はゴロゴロしながら頭の中で本を探しているうちに「私の頭の中」という文字と重なり合ってこの詩集がヒットしたんだろうな。

今度読むアンドレ・グリーンにトロイメライが出てくる。Schumann’s Reverieという形で。私にとってこれはオルゴールの音楽でやっぱり懐かしさのひとつ。もうだいぶ前かもだけど有村架純主演の『コーヒーが冷めないうちに』の主題歌がYUKIの「トロイメライ」だった。

♪雲の上で遊ぶトロイメライ 星に手が届きそう夢みたい 笑顔がよく似合うトロイメライ♪

この曲「トロイメライ」の言葉の乗っけ方がすごくいいんだよ。

最近、集中して音楽を聴くこともないけど久しぶりに聴いてみよう。良い1日になりますように。

カテゴリー
精神分析

暮田真名川柳、フロイト「小箱選びのモティーフ」

十月十日、東京の日の出は5時43分。まだ空は暗い。

シャトルバス以外は荒野なのだから

暗室に十二種類の父がいる

本棚におさまるような歌手じゃない

短歌(off vocal)

暮田真名第二句集『ぺら』からの引用。2019年5月から2021年4月までに発表した400句余りのうち200句を収録したでかい紙ペラ。B1らしい。B1なんてあるんだねえ。ぺらというよりべらという感じだけど視力検査みたいな並びがかわいい。さっき書いたのは遠くからでもよく見える上段の川柳。一番ちっこいのも老眼鏡で。

子供から遠近感を取り上げる

きゃー、と面白いのが目に入った。取り上げないでー。

臨床心理士の地域交流イベントにお呼びしたのが2022年夏。先月9月12日には柏書房からエッセイ集『死んでいるのに、おしゃべりしている!』を発売。重みと勢いをぎゅっと一気読みできる軽さに閉じ込めたかわいい本。暮田さんのおかげで川柳はポップな遊びになった。

さっきまで合格圏にいた虎だ

これも「ぺら」から。なんかよくわからない迫力と悲しみを感じるがよくわからないので本当には悲しくもないし面白い。確かな言葉を新しいコードに乗っけてくような作業を私は自分の領域でしていきたい。精神分析はそれにすごくふさわしいと思う。精神分析状況でないと発揮されないしそれを面白いと思うまでのもやもやや苛立ちもすごいけど。いずれいずれいずれと思いながら浮かんだ言葉を言ったり言わなかったりする日々を過ごすのが精神分析。そんなのに時間とお金をかけることは賭けかもしれないけど私はそれに賭けたおかげで今があるからそういう欲望に肯定的。

フロイトの書く文章は読み慣れてくるとたとえそれが悲観的な結びであっても結構ポップ。

1913年のエッセイ「小箱選びのモティーフ」なんて楽しそう。結びはこうだけど。

「ここに描かれているのは、男にとって不可避の、女に対する三つのかかわり方なのだ、とも言いうるのである。女とは産むものであり、伴侶であり、滅ぼす者である。あるいは、母の肖像が一生のうちに変化していく三形態、すなわち、母それ自身、ついで、男が母の似像に従って選択する愛人、最後に、男を再び受け入れる母なる大地である。年老いた男は、人生の初めに母から受け取った愛を、女から得ようと手を差し伸ばすが、むなしい。運命の女性のうちただ三番目の者だけが、口を閉ざす死の女神だけが、彼をその腕のなかに抱き取るだろう。」

フロイト全集12(岩波書店)かな、メモによると。男にとっての女三形態進化は面白くはあるし、重要でもあるのだけど、それはともかくこの結論に至るまでのシェークスピアとかギリシア神話とかグリム童話の引用が楽しい上質エッセイ。まだフロイトが症例に強いインパクトを受けていた頃。フロイトほど色々暴かれている人でもそれでもそんなのはほんと一部でフロイト理論の変遷はいまだにいろんな読み方ができる。誰がなんと言おうと誰かが話している誰かのことなんて本当に小さな一部でしかないから、というのが通じない世の中というか、自分のみたいようにみたいってことなのかもしれないけどそういうのは面白くないし、遊びとしてもつまらないと思うのでできるだけ逃れていきたい。がんばれるかなあ。鳥たちが鳴き始めた。柿をむこう。柿もだいぶ色づいてきた。このあとあの街のあの大きな大きな柿の木は濃いオレンジの小さな柿でいっぱいになって鳥たちがいっぱい訪れる。今年も出会えるといい。良い1日になるといい。

カテゴリー
精神分析

強風、Dana Birksted-Breenの本、「クライン派用語事典」

西側の窓はまだ暗い。ブラインドが時折風でカタカタいう音が少し大きいので布で対処。少し風が強い。台風22号の影響か。伊豆諸島7町村に暴風・波浪の特別警報が出ているとのこと。建物が揺れるくらいの風だという。眠るのも大変だったかもしれない。被害が出ませんように。

学会前なので教える側として出版情報をチェックしているが、自分の勉強をしなくてはならないし(大体英語の論文を読む作業)ここ数年、翻訳情報にも非常に疎いので既に翻訳が出ているのかどうかもパッと出てこない。

The Work of Psychoanalysis Sexuality, Time and the Psychoanalytic Mind By Dana Birksted-Breenの翻訳が出るのはいいことだと思う。女性の精神分析家たちで原著を読んでいるが翻訳があれば助かる。Dana Birksted-Breenは1946年生まれ、2024年1月に亡くなった。The International Journal of Psychoanalysisの編集長を2007年から2022年まで長く務めたDanaの論文のリストはこちら。国際色豊かな言葉の持ち主であることは明確で、今回翻訳された本を読めばそのワールドワイドな知識にも圧倒される。

精神分析の仕事 セクシュアリティ,時間,精神分析のこころ』 ダナ・バークステッド-ブリーン 著/松木邦裕,富田悠生監訳(金剛出版,2025)

Bulimia and anorexia nervosa in the transference以外の全訳である。この章のアブストラクトならこちらで読める。秀逸な臨床論文だと思う。私は、引用文献を探すためにDanaの仕事を参照する、ということをしている。 精神分析に向けられてきた批判を十分に意識した書き方も勉強になる。

批判といえばR.D.HinshelwoodのA Dictionary of Kleinian Thoughe(1991)は第二版で1989年の第一版への批判を受けて改訂された。2014年に衣笠隆幸総監訳で『クライン派用語事典』(誠信書房,2014)として全訳されている。第1版への批判は第二版へのまえがきに書いてある。その主なものの一つは「死の本能」と「羨望」のある側面について、もう一つは、ベティ・ジョセフに関連した最近の技法の発展について、ということでその内容が書いてある。

ヒンシェルウッドのこの第二版はクライン派の中心的な13の概念がエントリー。技法、無意識的幻想、攻撃性、サディズムおよび要素本能、エディプス・コンプレックス、内的対象、女性性段階、超自我、早期不安状況、原始的防衛機制、抑うつポジション、妄想分裂ポジション、羨望、投影性同一視。各見出しに定義と関係論文の年表がついている。この第二版では引用文献も1987年から1989年までのものに更新されている。

そしてこの事典のさらなるアップデート版がE.B.スピリウス版 The New Dictionary of Kleinian Thought(2011,Routledge).こちらは多分まだ翻訳されていないと思う。この第二版が翻訳された時点で既に出版されていたことは衣笠先生の総監訳者あとがきを読むとわかる。衣笠先生によるとこちらは「より整備された構成と記述からなっているが、やや教科書的で個性のないものに改訂されている」とのこと。原著で確認すると、こちらは無意識的幻想、子供の分析、内的対象、妄想分裂ポジション、抑うつポジション、エディプスコンプレックス、投影同一化、超自我、羨望、象徴形成Symbol-formation、病理的組織化Pathological organizations、で最後に技法というエントリー。クライン派関連文献はこちらも1989年まで。1989年だけみてもブリトン、フェルドマン、ヒンシェルウッド、スタイナー、ジョセフ、メルツァー、オーショーネシー、サンドラーなど重要文献がたくさん出版されている。

とまあ、事典、辞典、辞書は大事ですよね。ヒンシェルウッドが書いているようにクライン派の概念はフロイト派の思考の中から生じているからその枠組みを理解することが必要だし、そういうのを整理してくれることのありがたみをすごく感じる。ヒンシェルウッドがこの事典以上に説明が必要な人にはラプランシュとポンタリスの『精神分析用語辞典』とライクロフトの『精神分析学辞典』をお勧めすることしかできないと書いているけど、この二冊も必携と思う。私は若いときに古本で半額とかで入手したような気がする。学問としての精神分析を大切に思う人は信頼できる辞典に何度も立ち返りながら勉強を続けていってほしい。お互いがんばろう。

窓の外で時折、風がうねる音がする。都心はどうなるのだろう。どの地域にも早く平穏が訪れますように。どうぞお気をつけてお過ごしください。

カテゴリー
精神分析

寒露、団栗、茨木のり子

今日は十月八日。寒露。暦の上では晩秋となる。熱いお茶でちもとまんじゅうをいただく。あと柿も少し。

帰るのはそこ晩秋の大きな木 坪内稔典

寒露か、と思い、オフィスのそばの大きなシイノキを思い出した。殻斗にシュッと乗っかったどんぐりがきれいでよく写真を撮っている。昨日のブログの写真に載せたかな。

団栗の俳句は転がるのが多いけど私がみている団栗はあまりコロコロしなさそう。というかまだ木の上にいるのをよくみている。

団栗を押し傾けてうごく蜷 岸本尚毅

季語が二つ入っていても実景なんだと思う。こう動かされてしまう団栗の俳句はいいな。すこーしだけうごく。岸本尚毅の時間感覚は多彩。

疲れているとろくな話をしないわけで、昨晩の私は「ごんぎつね」と「てぶくろをかいに」を混同しており、どちらの狐も殺されてしまった。よくよく思い出すに、ごんのお話は子供があるおじいさんから聞いたという設定。「てぶくろをかいに」はお母さん狐の心情が主。と考えるとこの二つを同じ作者が書いていることは大変面白い気がする。

「ほんとうに人間はいいものかしら。ほんとうに人間はいいものかしら」

永遠の謎な気がする。新美南吉記念館が愛知県だと知ったので今度行ってみたい。

昨日は、茨木のり子のことを考えていた。蠍座を思い出したから。彼女は動員で東京の薬品製造工場にいくのだが、そこへの夜行列車を待つ駅でぎらぎらした蠍座を見た。「はたちが敗戦」という有名なエッセイの一場面。茨木のり子の『詩のこころを読む』(岩波ジュニア新書)は詩を書いていた思春期の頃の愛読書だった。茨城のり子の本がうちにあるのは知っているがどこにあるかがわからない。読みたいなあ。この前終わったNHK朝ドラ「あんぱん」の主人公のぶは茨城のり子みたいだと私は思うが、お父さんとの関係がだいぶ違う。

自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ

も有名だが、これは自分への怒りだろう、と読んだ。

ハングルに惹かれて50代から言葉を学び、『韓国現代詩選〈新版〉』(亜紀書房)の編者も務めた茨木のり子。斎藤真理子の解説でこれらの訳業が省略などの手直しを含んだものであることを知って驚いた。さすがに自らも詩人であり、取り上げられた詩人たちの交流もあると言葉への意識が研ぎ澄まされている。昨日か一昨日も書いたように言葉は内容ではない。

空がオレンジ色を増してきた。良い一日になりますように。

カテゴリー
精神分析

加藤陽子著、モリナガ・ヨウ絵「となりの史学」など。

空が薄い色になっていく。西側の窓を開けたら強めの冷たい風が一気に吹き込んできたけど一回だけだった。行き場をなくした風が溜まっていたのかもしれない。そしてヒヨドリの高くよく響く声。窓を開けると一気に音が増える。カラスと鳩も鳴いている。人間は朝は静かめ。小さな声で、できるだけ言葉少なめで、ということを保育園巡回の仕事で話すことが多い。言葉は内容ではない、というのを精神分析家の先生のスーパーヴィジョンで教わったことを私は精神分析以外の現場でも実感してきた。今はそれを私がいろんなところで伝えている。大事な教えだった。

昨日の夕方、郵便物をだそうと外へ出たらびっくりするくらい寒かった。部屋の中は蒸し暑い感じで冷房をつけていたのに。昼間は半袖でちょうどよかったはず。帰りは上着を忘れないように、と確認しながら温かい飲み物を買った。何年ぶりかの午後の紅茶ミルクティー。「冬の濃厚」という文字が身体にフィットしてしまった。温かいまま飲みたかったからサーモスのカップに移して飲んだ。

今朝は熱い緑茶。印度カリー子レシピでカリカリ豚こまを作っていたら冷めてしまった。「サラダ油を薄くひいたフライパンに入れ、中火で1〜2分揚げ焼き」とあるけど毎回中火で1〜2分では全然カリカリしなくて結構焼いている。カリカリでなくても美味しいのだけどヨーグルトの水分が多いのか、片栗粉が少ないのか。そもそも「サラダ油を薄くひく」のでは「揚げ」には足りないのではないか。でも豚肉から油が出るから揚げ物っぽい音は立てるのよね。印度カリー子さんにどこが問題かチェックしてもらいたい。クミンパウダーを使い切った。カリー子レシピで使うのは小さじ1/2とかなのに地道に減ってついになくなった。この年になってようやくスパイスを賞味期限内に使い切る人になれた。

冷めた緑茶といただくのは箱根の老舗和菓子屋ちもとの「湯もち」。久しぶり。ふわふわ。あっさり口の中でとけてしまいましたとさ。早かった。

昨日、イレギュラーな予定を確認してメールしないと、と思ってiphoneのカレンダーを見たら「しまった、ダブルブッキングしている!」となった。慌てて申し訳ないどうしましょうのメールを打ち始め、もう一度カレンダーを確認したら昨年の予定をみていた。そういえば昨年もダブルブッキングしそうになったから確実にあけられる時間に変えたのだった。昔はいろんな場所でいくつもの仕事ができていたけどやること定まってからは規則正しいのになれてしまって毎回ドキドキする。先方もわかっててリマインドのメールをくれたりするから助かるけど。

今、加藤陽子著、モリナガ・ヨウ絵の「となりの史学」(毎日新聞出版)を読んでいる。東京大学出版会のPR誌「UP」で2010年11月号〜2018年11月号まで連載されていたものに加筆・補正を加えたものとのこと。「UP」はたまにしか読んでいないから知らなかった。著者が書いているけどこれが連載されていたのがどういう時代かというのも大事。東京大学出版会が出した関連書物を読み込みながら書かれるこの本の第1章は井上陽水の「なぜか上海」で始まる。陽水の父親は衛生兵としてソロモン諸島で戦って俳句も作っていたとのこと。大変読みやすい。そしてモリナガ・ヨウさんのイラストがすごく味がある。この本の「おわりに」が書かれたのが2025年4月という。トランプ政権が二期目となり、世界がいよいよ歴史を放棄しはじめたような気がした頃だ。まだほんの半年前のこと。戦争は終わらず、生まれたばかりの子供も殺され、それに対するグレタさんのような人たちの戦い方もぶれない。戦後80年、私は井上陽水も身近だし、80年の前半30年は知らないけど50年は過ごしてきたわけで、今、昭和の出来事や景色を思い返すとなんだか違う色の世界を見ているような気持ちになる。実は私も世界も何も変わっていないのかもしれないけどいろんなことは相互作用だ。平和という言葉は今も重みがあると思う。戦争とは違って。若いお母さんが眠っている子供の隣でぼんやりしながら「へいわー」と言っていた。束の間でも平和を感じられる心を守るためにできることを考えながら仕事して勉強して生活をする。どれもこれもこういうことができるってまだかろうじて平和なんだ。

良い一日になりますように。

カテゴリー
精神分析

不思議だったこと

空が薄暗い、と思ったら太陽が出てきた。今日はまた少し暑くなるらしい。鳥たちは元気そう。田園都市線が大変なことになっている。沿線上の学校はどうするのだろう。休校だろうか。政治は相変わらずうんざりが続いている。平和を願わない人は政治に関わらないでほしいが真逆の方へ向かっている様子。

週末に行った店で飲み物以外の品が出てくるまでに1時間近くかかった。ゆっくりしか動けないが耳も声もよく外国からの人には「ドリンク」だけは何度も聞く。頼まないという選択肢があるのかないのかもわからない。文章はほとんど話さない。調理は妻。妻はおばあさんという感じはせず、夫へのサポートは的確で優しい。飲み物に関しては何の問題もなく食べ終わった人にはお茶も入れて持っていくように夫に渡す。お盆から自分で取るように仕草で促すおじいさんに外国の人が戸惑いつつも受けとる。定食を待っていた外国からのカップルは店内のテレビでアニメが始まると写真をとったり楽しそうだったが一本目が終わり二本目が終わりに近づくと明らかに苛立っていた。お魚にたくさんお醤油をかけていた。注文通っているのかな、と心配になって聞いてみると「順番に出している」「ナスは時間がかかる」とか申し訳なさそうにいうが順番でもないし、ナスはそんなに大変じゃないと思ったので聞いてみたからなんとも不思議な気持ちになる。観察していても何が起きてこうなっているのか本当にわからない。意図を感じないことの不思議さ。一方、店内のいろんな人たちの行動にそれを感じるかといえばそうでもなく、なんなら私たちの「普通」が問われているのではないか、というような気がした。

最近、世界のニュースも含め、何をどう考えればいいかわからない状況が続いている。目の前で起きていることのわからなさ、不思議さは具体的に共有しやすい。反応も大事にできる。今日も小さなことに立ち返って楽しいことやきれいなことと出会えたらいいな。

カテゴリー
精神分析

あたたかくつなぐ。

涼しい。昨日に引き続きお天気はイマイチか。昨晩の福島の地震、少し大きめだった。ちょうど能登の話、東北の話をしていたところだった。

今日は月曜日だと思ったら日曜日だった。イレギュラーな用事があるとすぐに曜日感覚がおかしくなる。昨日は長い一日だった、というより家に帰ったのはいつもより早かったけどこれまでの時間がぎゅっとつまった濃密な時間を過ごした。モーニングワークの大切さとワークスルーした人の柔らかさ。それに触れて流す涙とこの先の幸せを願う気持ち。悲しい出来事を共有した人たちみんなでその先の今を共有できるしみじみとした嬉しさ。日本の政治はあたたかみを大切にする意味を知らない人によって支配されつつがあるが、こういう細やかで長く続く関係が育んできたものは強いと信じたい。

50年近く続いてきた団体を引っ張ってきた世代はもう70を超えている。その下が私たちの年代。その下で中心になりつつある20代を支えていかないと歴史は途絶えるという危機感。簡単に歴史を変えたり捨てたりできるこの時代に自分たちの育ちに必要だった関わりや文化を残そうとしてくれる若者たちがいることはとてもありがたい。でもそれを支えていく私たちはいつも地味に忙しく、かつ、かつての体力はもうない。それでもできることは何か。それはかつてのつながりを生かすこと。誰かを失ったり、誰かが生まれたりするたびに回復してきたつながりを気楽に使っていくこと。若い頃は自分にも他人にも厳しかった自分たちを笑いながら最低限のことをしていく。そんな話をいろんな思い出話ついでにした。こういうのもついでにするくらいがちょうどいい。言葉だけのやりとりではなく行動を伴わせてきたのだから多くを言葉にしなくても大丈夫。心理療法の積み重ねだって同じこと。これらはもっと少ない言葉でゆったり語られるべきだと私は思ってきたのでこれも現代の人気者たちとは相容れないが育ててきてくれた環境に感謝しつつあたたかさをつなぎたい。

それにしても十月ももう五日。少しずつ困ったことになっているがどうにかなるといい。良い一日になりますように。

カテゴリー
精神分析

貧しい時代に。

窓を開けていると寒いくらい。気持ちいいけど急激な気温の変化に身体がついていっていないみたい。元気なんだけどどこか疲れている感じ。ちょっとしたことで元気なくなってちょっとしたことで元気出たり。私の場合、すっごく小さなことでの小さな浮き沈みだけど。かわいいスニーカーにするだけで姿勢が戻るみたいな。

元気なくなる、といえば、この前、住民税の督促状がきた。しれっと引き落とされるのが嫌で口座振替にしていなくて納付書で分割で払うようにしているのだけど2度目。私が遅れたのが違反というのはわかるがこの督促状は本当に心身に悪い。延滞金加算のみならず、給与調査、自宅捜索、差押などの文字が並ぶ紙っぺらを送りつけられることの負担がすごい。長年、毎月きちんと家賃も税金も納めてきたのに払うのは当たり前、払わなければ生活の基盤失います、みたいな感じ出してこなくてもよくないか?心身ともに貧しい時代にこれは本当によくない。この前書いたけどしれっと森林環境税が入っているのも住民税だ。思い出した。今回、私は少し遅れてしまったけどすでに払ってあったので行き違いだった、行き違いだよね?私、払ったよね?と不安になった。不安になるだろ、こんな督促状がきたら。取締りばかり厳しくなる社会。人の個人情報を色々間違えて使用したり無くしたりしても何もしてくれないのにね。理不尽。

で、嬉しかったのは、昨日発表された第17回TAMA映画賞の最優秀新進女優賞に桜田ひより&中野有紗が選ばれたこと。先日また読み直していた、と書いたばかりの辻村深月原作の『この夏の星を見る』の劇場版で二人は茨城と五島列島で暮らす高校生を演じた。力強さと繊細さを対照的に演じていた二人の受賞にすごく納得。若い役者の名前と顔が一致しにくくなっているが、本当に達者な人が増えていると感じるので日本の映画界もいろんな困難を乗り越えていい作品を作り出していってほしい。こんな心身ともに貧しい時代(2度目)だからこそ。

さあ、今日はいつもと違う動きがあるけど大丈夫だろうか。余裕を持って動こう。無駄な寄り道しないようにしよう。寄り道はあと。雨降るんだよね、今ちょっと太陽が出てるのだけど。このままであってほしいなあ。良い一日にしましょう。

カテゴリー
精神分析

オープンダイアローグとかひきこもりとか。

曇っている。これから晴れるのかな。光ってるグレー。もう10月3日になってしまった。オフィスのパソコン(Windows)を持ち帰ってよくわからなくなってしまったフォルダの整理をしようと思ったのにアダプターしか持っていなかった。帰宅してバッグを開けたらいつものMacBookが出てきてびっくり。君はオフィスのパソコンと交換こされて置いてこなかったっけ。私はこの子を一度出してそのまま戻すという作業をしたわけか。馬鹿だな。こういうことはよくあるので「ああまたか」と小さく失望してやや開き直って過ごすことになるわけだが夜遅くまで仕事して帰ってきてまだ仕事しようとしていたのがおかしい。どうせしないで持ち歩くだけになったりしていただろうに。自分に小さく期待してしまっているのだろう、そういうときは。大方裏切られるとわかっていても。自分に自分が。

10月13日(月)はそういえば祝日か。「スポーツの日」だって。10月10日は「体育の日」でお休み、というのをなかなか修正できない。月曜日にお休みを集められたのは助かるときと困るときがあるね。精神分析関係でいうと13日(月・祝)は藤山直樹&十川幸司主催の小寺財団の学際的ワークショップがあるらしい。四谷三丁目の小寺財団セミナールームで。今年のテーマはオープンダイアローグ。申込の締め切りは過ぎていても連絡してみるといいらしい。

オープンダイアローグ(OD)は今やオンラインでもたくさん紹介されている。主な紹介者は斎藤環、高木俊介か。ヴィゴツキー研究者の神谷栄司「オープンダイアローグの理論的基礎」という論文はセイックラが引用したバフチンやヤクビンスキーの対話論、ヴィゴツキーの側からOD理論の精緻化を試みている。学部生時代にヴィゴツキーのファンになったのでこういうの楽しい。今回の小寺財団学際的ワークショップのゲストはOD紹介の第一人者、斎藤環先生。社会的ひきこもりでも有名だけど、昨今のいろんな名付けによる症状理解を見るに「社会的ひきこもり」という用語はいいかげんに使えない感じがよかったような気がする。今回はひきこもり研究ラボなども立ち上げている精神分析家の加藤隆弘先生もゲスト。登壇者が男性医師ばかりだから参加者もそうなるのかもね。藤山先生と十川先生は医師というより精神分析家の仕事が主か。

今は斎藤先生が代表なのかな、わからないけど青少年健康センターとか、いのちの電話のデイケアで「ひきこもり」の状態にあるみなさんと週一回とか一緒に過ごしていたけどほとんど男性だった。自閉症の人たちの施設もそうだった。今はどうなのだろう。

保土ヶ谷の坂の多い街の古いアパートだったと思う。あの日々で私は横浜の坂の多さを知った。その後、横浜の看護学校で仕事をするようになったときも似たような地形を歩きながら当時を懐かしんだ。もう記憶もおぼろだが、私はあのアパートの居間しかいたことがない気がする。常勤スタッフの方がいつもウェルカムでいてくれて楽しかった。そこでその日のお出かけの計画を立てていろんなところに行った。カラオケとか室内スキーとかも行った。いろんな経験をさせてもらった。スタッフさんが車で連れていってくれるのだけど神奈川だったから私はつい「ダイナミック! ダイクマ 」を口ずさんでしまってそこから生まれた一瞬の交流は今でも思い出すとほっこりする。当時は今以上にいろんなことが口をついてでてきてしまっていたから気づいたら色々伝わっていて失敗も多かったけどそういう瞬間も多かった。あのCMソング、今はどのくらい通じるのだろう。

今日もがんばりましょう。良い一日を。

カテゴリー
精神分析 読書

辻村深月『この夏の星を見る』、エリクソン

やっぱり秋の空はスッキリきれい。今朝は房州銘菓元祖牛乳せんべい。館山市の加藤菓子舗という老舗のおせんべいだそう。予想より少し硬い。そして予想より少し甘い。でも牛乳せんべいってこういう感じだった、そういえば、と思う。美味しい。

クリーニング屋さんから特別ご優待のハガキが届いていた。今月はクリーニングに出すお洋服を着るからありがたい。嬉しい用事があるということ。この年にならなくても、本当に急で、本当に衝撃的な体験をしている人たちがたくさんいる。辛く悲しい日々を超えて新しい体験に向かうのは躊躇いや恐れも生むけれどそれでも、とがんばっている人たちがその人のペースで歩めるように応援したい。

辻村深月『この夏の星を見る』をまた読み始めた。映画も見たがこうやって文字に戻っても引っ張られることもない。この作家はそれぞれの子どもの心が人との間で見せるうつろいを描写するのが本当にうまい。子どもに関わる支援者の人(多分全ての支援者がそうだと思う。みんなかつてそうだった)は専門的な本を読むのもいいけどこういう本を読むのもいいと思う。個別に見ててもわからない世界がリアルに、ポジティヴに書かれている。特にこの本はコロナ禍の中高生のお話。程度はともかく誰もが無気力、思考停止、排他的な心との葛藤を体験した日々。そこで特に中高生がどんな体験をしていたのか。フィクションだからこそ目を背けずに知れることも多い。空を見上げて繋がりを思った日々の複雑な感情も。爆音に命の危険を感じながら空を見上げる子どもたちが今この瞬間もいる。どこを向いても安心できる場所がない彼らの身体も心も持ち物すべてが守られることを望む大人がマジョリティになりますように。

一昨日、急にテーマを変えて書いた発表原稿は募集要項をみたら全然大会のテーマと関係なかったというか大会のテーマに関係していることが査読のポイントになっていた。あーあ、と思ったけど国外の同業者を意識したらああなってしまったからしかたない。昨年のシドニーで国外の人たちとの交流で自分が日本人であることとか彼らとの歴史とかに関する意識と自覚がすごく強くなった。多くはたやすく言葉にできないことだけどプライベートな場では多くを話し合った。自分の国が持つ加害性を他人事にすることはできない。そこで育っていたらどこかしら何か引き継いでしまっている。それに対する恐れと自分は狂っているのではないか、あるいはこれから狂うのではないか、という恐れは似ているだろうか、そんな問いを症例を通じて考えてきた。とてもデリケートな問題なので少しずつ考えたくて、今回もそのことについて直接書くことはしなかったけどエリクソンを引用した自分には驚いた。大学の頃は発達心理学専攻だったから身近だったエリクソンだが精神分析家になったら精神分析家として身近になった。それが急に自分の前に重要性を持って現れた。何かヒントがあるのだろう。もっと読んでみようと思う。

東京は良いお天気。良い一日を。

カテゴリー
精神分析

日光ラスク、原稿

雨?向こうのお家は濡れているけど雨が見えない。まだ暗い。少しずつ冬に向かっていく。オフィスはまだ冷房つけてるけど。

昨日は珍しく隙間時間もせっせと作業してぎりぎりではあったけど来年ソウルで開催されるIPA The Asia Pacific Conference5th用に演題提出して仕事もいつも通りやってようやく帰るぞ!という時間に怖い目にあった。駅員さんが駅のどこまでを安全管理の領域としているかわからないが混雑した駅で危ない行為をしているのをみたら止めてほしいな。警察を呼んでくれてもいいし。故意にぶつかってくる人には何度か会っているが自分の行きたい方角にいる人は蹴散らしていい、くらいな勢いの人には久しぶりに会った。怖かった。もし私が大きな男の人だったらまるで目に入ってないかのように向かってきたりしないのかな。こういうときはいつも思う。もし私が大きな男だったらって。

ということで昨晩はストレスが多かったのか、夜遅くに日光のお土産の日昇堂さんの「日光ラスク」を食べてしまった。パッケージがとても可愛くてもったいないから開けてなかったんだけど個包装された高級そうな袋を開けてみたら小さくコロンとしたラスクがいっぱい。おいしくてぱくぱく食べちゃった。最近、甘いものも食べられなくなってきたな、とか思ってたけど毎日どの時間帯もなんらかのお菓子を食べているからむしろ気をつけなくてはいけないのかもしれない。でも可愛くおいしいものは元気をくれるから昨日みたいな日は食べて正解。

私は書き始めがいつもいつも直前すぎて本当にダメだと思うのだけど、今回は内容も突然変えてしまったし、形式からよくわからないし(英語だから)困った。締切ギリギリになってしまったからサマリーとアブストラクトもバーって書いて送った。アブストラクトは完全に下手だな、というかここそんなに言いたいとこではないけど、とにかく時間がないからしかたない、と修正しなかった。日本語を修正するとそれをまた英語にしないとで、ただでさえ英語にしたときにずれている可能性があるのに急いだらもっと変な英語使うことになるからね。内容はオグデンが分析的枠組みの変更に関して述べていることをヒントに、beingとbecomingに関することを書いたつもり。難しいテーマにしちゃったけど今後も考えていきたいな、と思うことのきっかけになりそうな部分だけ書いた。そういえば6月に討論を担当した精神分析的心理療法フォーラムの校正原稿が届いた。早い。きちんとしている。ウィニコットフォーラムと精神分析研究は書いてからもうどのくらい経つのだろう。当時とはもう考え方が変わっているかもしれないが、ああいうのも自分的きっかけになればいいけどそんな得意なわけでもないのに時間割いて書いたのにーとなる。ウィニコットフォーラムは会員ではないけど今度大会があるらしいので興味ある方はチェックしてみて。大会はきっと面白いよ。ウィニコットを読む人が増えるのは私にとってはとても楽しいこと。さてさて、今月書くのは分析協会用。こっちはスケジュールが最初から提示されていて、それに合わせてきちんと進行すると知っている。昨年出したから。先生方は協会の仕事も普段の仕事も忙しい中で査読とか編集とかしてくれるからきちっと進めていかないとご自身も大変になってしまうのだろうけどありがたい。

空が明るくなってきた、と言っても紺色。この時間もきれいねえ。今日も長いぞ。がんばりましょ。

カテゴリー
精神分析

あつさとか静けさとか。

風が気持ちいい。カラスが大きな声を出しながら通り過ぎた。今朝は柿と葡萄とカントリーマアムの秋っぽいやつを紅茶と一緒に。温かい飲み物をエアコンなしで美味しくいただける季節、ありがたい。なんか昨日は暑かったけれど。あと夜、アイロンをかけたら暑かった。自分の家で手作業で仕上げているクリーニング屋さんは昔だったらすごく暑かったことでしょう。それに対しても素敵な工夫がありそうだけど。今はあまりみなくなったかなあ。地元で長くやってきたクリーニング屋さんもなくなってしまった。荻窪の小児科や保育園で働いていた頃、教会通りにごはん食べに行ったり、お散歩やお買い物に行ったりしたけどそこに東京社というクリニーニング屋さんがあって閉まっていても外観が好きでよく写真を撮った。きれいな水縹色の壁と不思議な作りの建物。この夏はこんなに暑かったけど作業はどうされていたのだろう。荻窪の古い商店がどんどんなくなっていくのをちょうど目にしてきたけど、再開発たって、ねえ。川勢も老朽化で無くなってしまったらしいし、街の顔としてありつづけてくれた店も大切にされないのっぺりした世の中って寂しい。

まだ朝の静けさが続いている。あと少ししたら駅に向かう人の足音が聞こえ始める。私もその一つになる。

つけたばかりのエアコンとかけたばかりの洗濯機とこうしてタイプをする音、そして時々、もぐもぐする音と飲み物が喉をごくんとする音、季節が秋で、これが夜だったらこれだけでものすごく静か。これが朝だと全然違う。朝は意外と音が多い。太陽が登り始めた頃。鳥が起き出した頃。谷川俊太郎の詩が書いてそうな景色が次々と立ち上がり始める時間。この種の音が少しする場合の静けさとただただ続く釧路湿原を行くときの静けさも全然違う。釧路湿原を歩き始めたら大地が揺れた。地震だった。どこにも誰もおらず、それ以上揺れないことを見込んでまた歩き始めたのは何年前か。比較的大きな地震だった。再生可能エネルギーの促進か自然保護か、って自然保護に決まってるだろう。釧路湿原をひとりで歩いてみたらいい。自分も自然の一部であり、常に生かされているという感覚が少しでもあるのであればわかるだろう。

私は今日までの原稿を書かねばならないのだった。当初とは異なるテーマを思いついてしまったのでまだ半分くらいしか書けていないのでほぼ無理だと思うのだけど。万が一書けたとしても内容的にも採択されなそうだけどこの数時間でできるところまでやって、今回無理なら次回の下地にしよう。続けていこうと思ったのに全然ダメだったな。まあ、お仕事は今日もがんばりましょう。良い1日になりますように。

カテゴリー
精神分析 精神分析、本

自律神経、『W・R・ビオンの三論文』

朝焼けがきれいだった。でもまだ早くて「自律神経を整えるには」と考えながらぼんやりしていた。南の窓からの風が冷たくて気持ちよくて離れたくなくてベッドに本を持ち込んでみたけど寝っ転がってぼんやり本を読むのが昔よりずっと億劫になってきた。好きなものを両立できないって悲しい、とか思いながらしかたなく起きて家事をした。今日も印度カリー子レシピにするか。きのこも色々買ってこよう。一年中食べてるけどやっぱり秋の食材といえばきのこでしょう。とはいえこの前どこかのファミレスで松茸のメニューがあって松茸はここで食べなくてもいいかなあなど話した。特別感あるものは食べられたら嬉しいけど食べなくてもいいし食べるなら特別な感じで食べたいとか思う。

日曜日は唯一早めに夕飯を食べられる日なのでダラダラ食べてしまった。夜に作業をする時間があるぞ、と思ったのに気づいたら寝ていた。ぼんやりやリラックスが得意なのはいいけど、私が個人的に怖いのはそれで消化が悪くなること。胃腸の働きを正常にしたい。色々気をつけているんだけどな。

こうしていてもなんかいつもと違うリラックスがほしくてラジオをつけてみた。昔は朝はずっと聴いていた番組。ラジオの台本を書くバイトに応募しようとしたこともあった。なんでしなかったのか。当時は今よりずっといろんなもの書いていたし、エネルギーあったから出しちゃえばよかったのに。採用されなくてもいい経験になったかもしれない。私のことだから郵送(当時はなんでも郵送)が面倒だったのかもしれない。すごくありうる。変わってない。

昨日、寝落ちする前に開いていたのは、昨日書いたフロイト「心理学草案」がらみで『W・R・ビオンの三論文』(2023,岩崎学術出版社)。この翻訳も日本の精神分析家の福本修先生。編者のクリス・モーソンは2020年に急逝。ビオンの二人目の妻、フランチェスカとともにビオン全集の編集に関わったクリス・モーソンの仕事を引き継げる人なんているのだろうか。この本は各論文(講演記録)にクリス・モーソンの編集後記がついていて、本の半分くらいの分量があるのではないか。そこがおすすめ。いろんな事情や背景やいろんな資料があるんだなあと驚くし、その内容も勉強になるし面白い。序言はロナルド・ブリトン。

昨日は午前も午後も別のグループで事例検討会をしていた。午前は初回面接のグループ。午後は仲間内で定期的にやっているグループ。ビオンは第一論文「記憶と欲望」(1965)で「臨床報告」と呼ばれるものは現実の経験だったものの変形物だという。でも、とビオンはそこを入り口にもっと広い問題を語っているので部分的に引用することはしないけど(したいけど)、ビオンがこの講演の中でフロイトに倣って言う「人は本当にほとんど盲目になる必要がある」の部分に関してフロイトを引用しておこう。いや、フロイトを引用しているモーソンの編集後記を引用しよう。

「フロイトは一九一六年五月二五日(原注だと五月一三日)のルー・アンドレアス=ザロメへ宛てた手紙の中で、それに言及した。フロイトが手紙で述べているのは文章を書くという行為についてだが、彼が「私は、すべての光を一つの暗所に集中させるために、意味のまとまり、調和、修辞そしてあなたが象徴的と呼ぶあらゆるものを放棄して、自分自身を人為的に盲目にしなければならない」と書くとき、彼は明らかに、精神分析的な注意自体に言及していたーーそれは、分析者が「自分自身の無意識を受信機のように、患者が送って来る無意識に向ける」(フロイト、一九一二、一ー五頁)ことを可能にする、平等に漂う注意にとって必要な条件である。」

フロイトを読んでいるとビオンの言っていることの含蓄も実感する。ビオンの方がフロイトより心揺さぶる書き方してくれるし。ウィニコットほど変なマイルドな感じがしないし。どの書き方も好きだけどビオンの誠実さは特に好きだな。原著で全集を買ったのはウィニコットの方だけど。

もうこんな時間だ。今日も暑くなるんだって。ただでさえ夏の疲れが残っているでしょうから無理せず過ごしましょう。お元気で!

カテゴリー
精神分析

早朝雑事、「心理学草案」、Kohon論文

今日は曇りなのかなあ。光はあるけど水色とグレーと白がどれも薄く混じり合ってる。どんよりしていないのはいいね。風も涼しい。

とだけ書いて果物とお菓子でお茶して、朝早くから大掛かりな掃除というか色々した。が、まだこんな時間。余裕で間に合う。

昨晩はReading Freudで「心理学草案」の第三部、主に「注意」について書かれているところをじっくり読んだ。欠席の人が多かったのともうすぐ読み終わってしまうのでかなり丁寧に読んだ。そしてアンドレ・グリーンを楽しく読むモチベーションが高まった。今年度はあれやこれやでグリーンの購読会にあまり参加できていないけど一、二年前と比べるとずいぶん理解が深まった気がする。「心理学草案」を精読せねば、という気持ちもグリーンを読んでから強くなった。オグデンはウィニコット発が多いけど最近の議論はそもそもフロイトの初期に戻りつつのアップデートな感じがしている。「心理学草案」だけ読んでも何が何だかだが、症例論集、技法論集、メタサイコロジー論をはじめ、フロイトの書いたものをずっと読んできたなかで読むと「注意」という概念ひとつとってもそれが精神分析の中でどう扱われてきたかに関心が向くから楽しい。ビオンはフロイトは「注意」に関する研究を展開しなかった、といってるけど、そう言いながら自分が展開しているわけなので源流を読んでおくのは大事。昨日は「草案」の中でも「接触障壁」について検討しているKohonの論文があると教えてもらったので帰ってからそれを読んでいた。2014年のInt. J. Psychoanal., (95)(2):245-270、Making contact with the primitive mind: The contact‐barrier, beta‐elements and the drives。

公開されている部分のアブストラクトはこんな感じ。正確には原文を

臨床ヴィネットを出発点として、ビオンの「接触障壁」の概念――「精神現象を二つのグループに分け、一方は意識の機能を、もう一方は無意識の機能を果たす」(Bion, 1962)――と、それがフロイトの欲動理論といかに関わるかが探究される。ビオンの概念は、フロイトが『心理学草案』(1950[1895])で記述した「接触障壁」と比較される。この比較を通じて、ビオンのメタサイコロジーのさまざまな側面、とりわけビオンが量的・エネルギー的に「刺激の付着‘accretions of stimuli’」と記述した「ベータ要素beta-elements」という概念が明らかにされる。接触障壁の機能を介したβ要素の処理は、フロイトが述べた欲動の「拘束‘binding’ 」の発展形として理解される。ただし、ベータ要素は内から生じる衝動だけでなく、「未処理の」外的刺激も含む点で異なる。「β要素」と「欲動」は、ともに心が知りうるものの限界を定める概念として理解される。さらに臨床素材が提示され、著者の主張――すなわち、ビオンの接触障壁および関連する概念(α機能、コンテインメント)は、フロイトのメタサイコロジーの経済的・エネルギー的側面に照らして理解されるべきである――が論証される。

最初から臨床ヴィネットがくる書き方で興味深いけど長い。長すぎる。のでちょっとずつ。こんなことよりすることあるけど関係ないことばかりしてしまうな。人間らしいといえば人間らしいか。さあ、いいお天気になってきた。いいことありますように。

カテゴリー
精神分析

よあけ、気づき、分析家の自由

どの向きの窓を開けても暗い。夜明けが遅くなってきた。ユリー・シュルヴィッツ作の「よあけ」を思い出す。静けさと美しさに驚く絵本。読んでなくても見たことがある人は多いかも。うちにもあるはずなんだけどどこだろう。あれは瀬田貞二訳。瀬田貞二は中村草田男の俳誌の編集長もやっていたはず。翻訳家は俳句も上手そう。あとで調べてみよう。

昨日の朝、馴染みのクリーニング屋さんの小さな花壇に朝顔が咲いていた。大きかった。少し散歩してまたそこを通るともう萎んでいた。びっくりした。

岸本尚毅の朝顔の句を読んで、私は本当に注意力が足りないなと思っていた。じっと観察してそのものになってから広がる世界。私には到底難しい。それにしてもどんな句だったか。朝顔のしぼみて暗き海があり、だっけ。岸本尚毅の先生だった波多野爽波の句も読んだがそれも忘れてしまった。注意力も記憶力も足りなすぎるが、自分のできていない部分に細かく気づくと「ちょっとそこ注意してやってみよう」と思えるのは彼らがいい先生だからだろう。押し付けるわけでもなく「あ、俳句ってこんな感じなのか」という直感的な良さをくれる。それがモチベーションになる。

小さな気づきも大事だが、もう本当に書き仕事は進まない。仕方なく自分の関心がなんだったかを忘れるというまさかの事態が起きないように細々とインプットを続けている。サンフランシスコで開業している精神分析家トーマス・オグデンの今のところ一番新しい著書、What alive means: On Winnicott’s “transitional objects and transitional phenomena”は表題論文という感じなので読み応えがあった、というか、オグデンが書いてきたこと、やってきたことがますます洗練されていくのを読むのはすごく勉強になる。オグデンも読者自身が発見し創造していくことを求める書き手なので私も色々考えながら読んでいる。オグデンはウィニコットと同じく精神分析家である、精神分析家になることをものすごく意識的に言語化している人なので、精神分析実践を伴うとその言葉にますます切実さを感じるし、まだその感覚わからないな、と感じることもある。この論文は、ビオン、シミントン、ピック、コルタートを引用しながら自分の症例を通じて分析家の考える自由と分析の形や枠組みを検討している。この作業はオグデンがフロイトを読み直すことを含めてずっとやってきている仕事だと思う。

オグデンがこの本のこの論文の最後の方で参照するNeville Symington (1983) “The Analyst’s Act of Freedom as Agent of Therapeutic Change”(International Review of Psycho-Analysis, 10: 283–291)の“a certain [restrictive] patterning of unconscious knowledge” なのだけど、この論文をPEPで読む権限は私にはないので(お金払えば読めるだろうけど)ネットで読める範囲のものを読んだ。でもこれこの論文のどこに書いてあるのか探せなかった。

オグデンの論文だとこんな感じで訳せる。

「Symington1983)は、分析家の「考える自由」についてBionの続きから論を起こす。Symingtonにとってthe analyst’s freedom to think は分析家が自らを「ある種の(拘束的な)無意識の知のパターニング “a certain [restrictive] patterning of unconscious knowledge” 」から解き放つ能力に依存する。分析の開始時から、分析の二者はひとつの「corporate entity」の一部となり、そこから分析家は、独立した思考が可能であり、かつそれに責任を持つ分析家としてのアイデンティティを回復しなければならない。」

シミントンの元の論文だと超自我と絡めた説明になってるようだけどオグデンは超自我という概念を好まないのか?この辺ももうちょっと見直し。オグデンはウィニコットを中心に引用するが結局フロイトに戻る。私はつまみぐいだとできない実践のために訓練積んできたから地道な作業だけどやらねばねえ。雑な言葉遣いで精神分析という治療文化を自分の理解の範囲に押し込むなんてことしないためにも。それじゃ面白くなくなってしまうものね。どうしても分析における二者はそういうナルシシスティックな共同体になりやすいわけだけど、そこから自由になる能力を発展させよ、ということなのだろうし。

それにしても・・と言っていてもキリがないのでとりあえず今日をはじめましょう。良いことありますように。

カテゴリー
テレビ 精神分析

朝の光

全方位、空がきれい。夏の間、大きな窓のせいで部屋が異様に熱くなってしまうのでブラインドの上に東側の窓に遮光シートをつけていた。朝の部屋が薄暗いのは嫌だったけどあの暑さだと通常溶けないものまで溶けそうだった。それを外した。ちょうど日の出の時刻。部屋が明る句なっていく。この1週間、家ではエアコンいらずでとても気持ちよかった。秋になって仕事が捗るような気分でいたが自分の書き物は全く進まず。締め切りに間に合わなそう。10月末までのはがんばろう。仕事ではない「お手伝い」は心も身体も普段とは違う部分を使っているが、個別に疲れる作業にしたくないので私の心身の全体に馴染ませていきたい。涼しくなって身体は楽になったから色々工夫できたらいいな。

花壇とベランダを有効したいと20年くらい言い続けている。引っ越してから数年はいろんな植物が部屋の中にもあったが枯らしているうちになにもなくなった。豆苗とか、キッチンで再生できるものはやるけど。あとミョウガはよかった。放っておいても何年もなってくれた。また植えよう。あとはとりあえずベビーリーフを植えよう。プランターだけはたくさんあるし、種まきにはちょうどいい時期みたいだし。それにしても体感では陽射しが気持ちいいけど視覚にはまだ結構強い。朝の光ではあるけれど。

今日は朝ドラ「あんぱん」最終回か。いいドラマだった。メルヘンという言葉が久しぶりに心に響いた作品でもあった。私はアンパンマンは大人になって子どもたちと関わるまでよく知らなかったけど「詩とメルヘン」は大好きだった。そのうち高知県香美市のやなせたかし記念館アンパンマンミュージアムに行きたい。アンパンマンはのぶさんとの子どもたちだからおうちを建ててあげないと、って建てたんだっけ。なんかそんな話をどこかで聞いた気がする。子供がいるんだからおうちがないと、というのは生きるには食べ物がないと、という発想と同じだと思う。そこに人がいて生きていこうとしてるんだから必要なものを、という感覚を忘れないでいたい。そういう「普通」の発想とは異なる行為が世界中で行われているわけだけど、だったらなおさら。

今日も寄り道しつつがんばろう。いい一日になりますように。

カテゴリー
写真 精神分析 精神分析、本 言葉

朝ドラ「あんぱん」、藤山直樹「精神分析家、鮨屋で考える 再び」、中井菜央「ゆれる水脈」

祝日があると曜日感覚も身体感覚もなんかおかしい。それでも明け方の空はいつもきれい。ずっとこのくらいの気温であってほしい。絶対そうならないってわかっていてもそう願ってしまう。

朝ドラ「あんぱん」、最近は毎日冒頭から泣いている。見る時間はバラバラだったがとても好きな朝ドラになった。SNSでのコメントも楽しかった。朝ドラも大河も大体決まった人たちの秀逸なコメントやとっても素敵なイラストを見て楽しんでいたのだけどたまに「え!フィクションにそんなこと求めるの?」「全部は書いたり見せたりできないのが作品ってものでは」「私たちがすでに知っているような人たちがいかに名を残さない人たちに支えられたかという話なのでは・・・」となるコメントを見かけたりもした。こういうことはみんなで話す会を開いたりして、そこにある程度知られた人がいる場合にもよくある。そんなとき私は「ハテ?」となる。すでに名もあって、語る場も持っている人の話はほかで聞けるけど、こういう場ではそうではない人の声こそ面白いのではないの?と思ったりする。そうやっていつも同じような人同士で対話?するグループみたいなのができて、そういう人が権威的に「権威」を語ったりするようになるのかもな、と思う。

話飛ぶけど、子供たちが口々にしゃべっていることをよくわからないけどなんだかすごいぞ、と一生懸命聞き取る方が、いつも同じ人が同じようなこと話しているのを聞くよりずっと楽しいんだけど、と私は思っている。子どもという生物の説得力は大人の言葉よりずっと力がある。

あるいは、ひっそりと、「うまく言えないんだけど・・・大きな声では言えないんだけど・・・ほんとは自分はこう思ってるんだ・・・」という語りを聞くことの貴重さ。それができる場はとても大事だし、誰にも知られていない自分の、誰にも触れられたくない自分を守ることの価値って今はほんの一部の人としか共有できなくなっているのかもしれない。守りたいのは本当に小さなことかもしれないのにあなたのことを知りもしないよく知られた人に抱えてもらいたい。そんな大きな願いで自分を保ちたくなる時代なのかもしれない。

この前、ハイキングで山から降りてくる途中、大きな鉄塔が立っていた。「すごい」と見上げているとそばにいた多分少し年上の人が「すごいよねえ、こんなの人間が立てるんだから」と笑った。本当にそう。いろんな山に道ができているだけでも「一体どうやって」と驚くのに、この鉄塔、これと同じものがあっちの山にもこっちの山にもずっと続いてるってことでしょう、一体どうやって、どのくらい時間をかけて、と思う。空高く伸びる鉄塔を一緒に見上げならちょっとお話ししてその人は先に降りていった。でもすぐに追いついてしまった。結構岩が多いしどうしようかな、と思って距離をとっていると向こうが止まってくれた。お互い「すいません」「ありがとうございます」と言い交わし、先に行かせてもらった。この日、その人と私は同じルートを歩いていたようだったけど時間をかける場所がちょこちょこ異なっていたようで抜きつ抜かれつした。そのたびに知っているような知らないような雰囲気で交わす一言がなんだか面白かった。

なんて話、どうでもいいようでいて、ハイキング仲間に話すと楽しく盛り上がったりする。みんな似ているけどちょっとずつ違う体験を話したり聞いたりしながら山でのコミュニケーションのあれこれに思いを馳せる。こういう「持ち寄り」が新しいコミュニケーションにつながったり、安全につながったりする。最近、熊が怖くて気軽に山道を歩けなくなっているが、これからもどうにか自然と過ごしていく必要がある私たちには大切な会話だ。

WEBみすずで精神分析家で日本精神分析協会の訓練分析家でもある藤山直樹先生の鮨の連載が再び始まっていた。みすずの連載は紙で届かなくなってからほとんど読まなくなったがこれはWEBで読んだ。藤山先生の連載は「精神分析家、鮨屋で考える 再び」。第一回は「鮨が生き続けること」。「生き続ける」ということに限界を感じつつ生き生きとそれにチャレンジしつづけるのは鮨も精神分析も同じだし、鮨屋の危機感を老齢となった精神分析家はもちろん強く共有している。

今は精神分析基礎講座と名前を変えたが、当時まだ対象関係論勉強会と呼ばれていたセミナーで、藤山先生の夏のグループの案内をもらった。申し込みからすごく緊張して、オフィスに伺ったのが先生の一冊目の単著『精神分析という営み』が出版されたときだから2003年。そのグループで一緒だった人たちの数人とはその後も関係が続き、当たり前だがそれぞれ20歳ずつ歳をとった。私もそうだが、精神分析家になった人もいる。

あの頃の日本の精神分析は活気があったと思う。小此木啓吾も土居健郎もいた。当然だが、彼らが遺したものは良いものばかりではない。まだ内側にいなかった私もそのあとすぐに様々な噂を聞くことになったが、自分のことで精一杯だった私は、精神分析でもなんでもただただ学べることが楽しかった。重度の自閉症の人たちと週末を過ごしながら教育相談員やスクールカウンセラーをやり、クリニックでの臨床も、塾の講師もしてた。とりあえず臨床家でありたかったし、精神分析を受けるためにも稼ぎたかった。若かった。

ここ数年、子育てがひと段落して久しぶりに学会にきたという友人やその頃からの付き合いの友人ともそんな昔話をすることが増えた。「あの頃はよかったよね」と言いたくなる感じを「なんか変わったよね」みたいな曖昧な感じで表現することも多くなった。時代が変わるとはそういうことなのだ。それでも修行の期間が長い私たちは簡単に去るわけにはいかない。私なんてまだ始まったばかりなのに、いつまで続けられるのだろう、と身体の不調や加齢を実感するにつけ不安になる。藤山直樹の年齢になればますます切実ななにかを感じることになるだろう。小さな日本の小さな訓練組織である協会の基盤づくりをしながら下の世代を育てることは、すでに整った組織で数多くの訓練分析家が機能している国のインスティチュートとは事情が異なる。今回の連載にはニューヨークに渡った馴染みの寿司職人、中澤親方という人を訪ねたときのことが書かれている。似たような危機を見据えながら下の世代を育て、自分が愛し、信じた文化が生き延びることを願い、自らも日々のそれを仕事として営む。しかも生き続けるためには生き生きと、というのはウィニコットとオグデンと藤山直樹の受け売りでもあり私の実感でもある。そんなあり方が人間にとってもっとも自然な姿だったらいいのに、と私は思うが、現実はそうではないような気がする。どうなるのかどうするのかどうしてくれるのか、とか言っていないで、私や私たちができること、したいことを模索していくことが必要だろう。何を言ったところで時間は有限だ。たくさんの支えを得ながら楽しめたらいい。

WEBみすずには8月号まで写真家の中井菜央さんの「ゆれる水脈 写真 表象の先に」が連載されていた。写真家ならではの細やかな観察と広がりのある言葉選びが魅力的で、知っている場所でまるで知らなかった景色を見せてもらっているような気持ちになる不思議で豊かな連載だった。新章を加えた書籍化が予定されているとのこと。楽しみに待ちたい。

カテゴリー
精神分析

心と身体

西の窓を開けたら向かいの家を薄いオレンジ色が覆っていた。南の窓から見える家はまだなのに。建物の高さで個々の家に訪れる日の出は違うということ。この時間の山の中はまだ暗いだろう。

頭を使う仕事の前に低山に登った。普段の筋トレに加え、時折、ハイキングをするようになってから、ハイキング用の筋力と体力が戻ってきたようで平均より(ヤマレコで比較)速いスピードで行って帰ってこられるし、帰ってからも仕事ができる。イレギュラーな用事と比べたら全く疲れない。標高300メートル台くらいなら簡単ではあるけど、遊びではなく合間にいくハイキングは、考えや気持ちを整理するためでもあるので岩場や水辺やそれなりの起伏はほしい。とはいえ、これも心の状態がよければそんなものなくても山は十分豊かで様々な驚きや発見をくれる。しかし、私がこういう目的でハイキングをするときは当然心の状態があまりよくない、あるいは少しでもよくしたい、というときなのできちんと目を開かせてくれるもの、耳を傾けさせてくれるもの、自分の貧しい感覚でも気づきをくれる外部を必要としているときだ。心が豊かなときはなんでもない見慣れた植物にレオ・レオーニが描いた平行植物を重ねたり、そういう知覚のジャンプができるわけだが、何かに囚われているときはまず自然界の秩序に触れて自分のちっぽけな囚われやこだわりに別の視点を持ちこみたい。しかもそれを限られた時間で、となると、環境に求めるものが増えてしまう。この前も「なんかこの道つまんない」とダラダラ続く緩いのぼりを歩きながら今私が「つまんない」と思っているありうる理由を口にしてみた。意識できている腹が立つ事柄と出来事が本当に腹を立てるようなものだったか、ということを考えながら一気に言葉にしながらこの山道を「つまんない」とか思っているのは「つまんねーな」「面白くねーな」という私の気分であって、道がやや整備されすぎて障害物がないとか薄暗い杉林ばかりで鳥も鳴いていない、とかそういうせいではまったくないんだよな、と思った。そしてそういえばなんでこの森、こんなに鳴き声が少ないの?オナガのぎゃーっとした声しか聞こえてこないぞ、とか耳がしてくれていた仕事に気づく。こうやって感覚が流れ出すのを動きながら待つ作業。

30代でまだ元気だった頃、心がそんなに健やかだったとは思えないが、分析を受ける前でまだ自分のダメさに本気で気づいていなかった分、何も考えずに生きていられたのだろう。やたら体力があってトレランをやろうと道具を揃えようとしたことがあった。トレラン用のリュックがあまりにも似合わずショックだったところまで覚えているが、その後忙しくなったのか、分析的な治療(分析ではない)を受け始めたせいか、トレランどころか運動もしなくなった。ヨガは続けていたか。時間さえあればどこまでも歩いていく癖はあったのとまだ自分で開業する前でいろんな勤務先が川や山が近くてしょっちゅう散歩していたのでなんとなく足腰の健康は維持されていたのかもしれない。50代になってこれだけ動けるのはとてもありがたい。こういうことを本当にありがたいと思うようになったのも加齢やいろんな理由で心身の様々な不調を経験したから。若いときに「若い人にはわからない」と言われた理由が本当によくわかる。経験した人にしかわからないことを共有するためにはその経験をすることが大事なのではなくてこの「わからない」という体験、つまり経験とは本当にその人独自のものだ、ということを身をもって体験する必要があるのだろう。

今朝はおいしいおいしい葡萄を食べた。ただ「ぶどう」と書かれた片面がセロハンで透明になっている三角袋に入って送られてきたのだけどすごくおいしい。巨峰なのかな。冷凍しておいたぐり茶の新茶も開けた。ようやく熱いお茶をのんびり楽しめる気候になった。身体も心もできるだけまともに動くように整えて行けたらいいなと思う。今日は水曜日。間違えないようにしよう。

カテゴリー
精神分析

睡眠、ロジカルに。

東の空がすごくきれい。ピンクがかった鱗雲。早朝から小皿を割ってしまった。随分前から使っているムーミンのお皿。最初は5個あったのに今は2個しかない。この1年で2つ割った。一番手に取ることが多いお気に入りのお皿だからその分リスクも高いのか。比較的きれいに割れると知っている安心感からかそれほどショックを受けずにあっさり片付けられた。昨晩もたくさん頭と心使って言語化もして疲れたのでとりあえず眠って回復せねば、と睡眠に挑んだ、といっても気づいたら寝ていた。睡眠に関する研究はたくさんあれど、なかでも信頼性の高い知見を参照しつつ、自分の生活と自分の感覚を頼りに自分にとって最良と思われる睡眠を確保するのがベターなのだろう、と思うのだけどなかなか難しい。私は同じ曜日の同じ時間に同じ人と会っていく仕事だからはじまりとおわりは毎日ほぼ同じだけど日中がごちゃゴチャする日がある。外部での仕事とか生活の色々とか、ここで時間を確保するぞ、と気合を入れてスケジュール調整しても毎日のことではないし、イレギュラーなことも多いし、私の管理を超えた部分が多いので、休息もうまく取れないし、睡眠もうまく取れないし、となる日もある。移動もものすごいラッシュとかはもう何年も避けてるけど東京のラッシュは朝早いし、昼間は行き先によって全く様相が異なるので、ルーティンになっていないことはリサーチも追いついておらず「今日は運がいい!」とか結果オーライ思考で、全部運のせいにしかねない。リサーチといっても、私の生活とメインの仕事のためにいかにエネルギーを確保するかが目的なので様々な情報を頼りに自分でやってみて「これならいける」「これよりはこっちのやり方の方がいい」とか実証していくしかないのである。そのうち慣れる、から、そろそろ慣れてきた、となるまでには身体が持たなくなるかもしれないし、また別の事柄で日常はたやすく崩れるかもしれない。そういういつ何が起きてもおかしくない毎日を「まあなんとかなる」と腹をくくることは気持ちではできるが疲れるとますます失敗が増えたりするので、そうそうなりゆき任せにもできないのが現状。若い頃の嘘みたいな体力なんてもうとっくにないし、それでも昔より観察力と思考力と忍耐は身についているはずなので細々と獲得してきたものを生かすべし。ということで毎日疲れ切りながら生活の仕方を模索するのは悪くない。

中年に差しかかってからずっと精神分析を受けながら年を重ねてきた。本当にたくさんの臨床現場を開業一本に変更していく中で、自分のやってきたことが何に繋がっているのかを考えられた時間は本当に助けになった。自分が精神分析家として仕事をはじめてから、それまでよりずっと、人々には本当に様々な、本当に複雑な事情があるという現実を突きつけられるようになったので、なにかをたやすく判断したりしないことがもっとも大事なような気がして、持ち堪えることにものすごくエネルギーを使うようになってきた。だから身体のメンテナンスにも気を遣うようになった。やりとりにおいては物事はもっと複雑なのだから論理的に考える必要があるのではないか、と主張するようになった。それはとても当たり前のことなのだが、大抵できていない、というというと反論もあるだろう。そういう反論にエネルギーで消耗したくないのだ。それはそうだろう、と。それだけのことだから。それにしても、まさか私が論理的であることを強調するようになるとは。でも精神分析を体験して、結局それがもっともシンプルにトライすべきことなのではないかと思うようになった。そもそも、に立ち返ったり、おかしくなったときにもう一度最初から落ち着いて、きちんと観察して、ロジカルに考えてみよう、と。そうできるようになるまでにものすごく揺さぶられたがそれもプロセス。自分ひとりでは独りよがりな論理を振りかざして怖くなったり恥ずかしくなったりしたかもしれない。二人でいると最初はもっと強烈に感じた。独りよがりで幼い自分に気づくための二人設定だから一方ではすごく抱えてもらっているのだけど渦中にいると悪いことばかり起きているような気さえした。自分がこんなに赤ちゃんみたいになるとは思っていなかった。大人が赤ちゃんみたいな心性になるというのは特殊な事態だが赤ちゃんってこんな感じに泣いたりわめいたりひとりで楽しそうにしたりしてるんだろうな、という体験だったってこと。赤ちゃんの鳴き声や笑い声と言葉ってシームレスだからそういう言葉を体験した。本当に大変だったけど。

今日は身体も頭も使う。体調崩さずに過ごしたい。

カテゴリー
テレビ 精神分析 精神分析、本

大河ドラマ「べらぼう」とか。

いいお天気。昨晩、部屋が少し蒸し暑くて窓を開けた。寒いくらいの風でも少し嬉しかった。夏掛けもほしくないくらいの暑さは楽しくない。季節はなにかしらで工夫して楽しみたい。

楽しくないといえば、昨夜の大河ドラマ「べらぼう」で恋川春町が死んだ。大好きなキャラクターだったし、その生き様死に様に泣きに泣いた。取り締まるやつなんて屁だ。「屁♫」をやるときにもう春町先生はいないのか…。悲しいし寂しい。洒落や皮肉を笑えない世界なんて全然楽しくない。

精神分析は面白いものだ、とアダム・フィリップスはいった。『精神分析というお仕事: 専門性のパラドクス』参照。妙木浩之訳。そうだよ。この「面白い」が通じない人にはなりたくないけど言葉の世界はどんどん危ない方へ向かっていると思う。もう超自我なんて機能しない心の世界が主流なのかもしれない。

週末お祭りの射的でピチッとした薄いTシャツを着たおじさんが男の子たちに「switch2もあるよ」といっていた。「switch2もあるの!」と驚きの声をあげる子どもたちのほうが嘘っぽくて笑えた。彼らはその露店の前でどこで手に入れたのかプラスチックの剣でチャンバラをしながらおじさんに見守られていた。

今日も今日という日常で面白さを探す。作る。「おもしろくねーな」という人のそばで軽やかに面白がる人がいてまた別の誰かの言葉に怒ったり笑ったりする。「べらぼう」はこのあと辛いことが増えていく。そこをどう面白がっていくのか。とても楽しみだ。

カテゴリー
俳句 精神分析

子規忌、岸本尚毅

曇り?うちから見える屋根が濡れてるけど降ってはいない様子?すこーし降ってたりするのかしら。窓を開けるととても涼しい風が入ってきた。やっとこさ秋二日目。気持ちいい。のんびり冬に向かっていってほしい。

昨日、九月十九日は正岡子規の忌日だったので青空文庫でも読める『墨汁一滴』『病牀六尺』をパラパラしていた。子規忌は糸瓜忌、獺祭忌ともいう。

糸瓜は秋の季語。子規が亡くなる直前、最後に作った三句

糸瓜咲て痰のつまりし仏かな

痰一斗糸瓜の水も間にあはず

をとゝひのへちまの水も取らざりき

糸瓜の水には去痰作用があるとされていた。子規はまさにこれから仏とならんとする自分のことを俳句にした。これらの句碑は東京都台東区根岸の子規庵にある。昨日は子規庵の糸瓜(へちま)が3年ぶりにぶらさがったそう。

まだすっごく暑かった8月31日、朝日新聞朝刊歌壇俳壇面で月1回掲載される「俳句時評」をデジタルで読んだ。担当しているのは俳人の岸本尚毅。軽やかで面白くて大好き。NHK俳句の選者でもある。

岸本尚毅が取り上げたのは今年四月に再刊(四十二年ぶりだそう)された正岡子規『俳諧大要』(岩波文庫)のこの部分。

“この本のなかで、子規は「空想と写実と合同して一種非空非実の大文学を製出せざるべからず」と説いた。”

ここでまず引かれるのは子規の四天王の二人、高浜虚子と河東碧梧桐。

赤い椿白い椿と落ちにけり 碧梧桐

流れ行く大根の葉の早さかな 虚子

ちなみに四天王のあと二人は石井露月、佐藤紅緑だ。記事を読むと子規がいった「一種非空非実の大文学」の「非空非実」とはなにか、という問いがいまださまざまな答えを導くものらしいとわかる。写実とは、というだけでも虚子と碧梧桐では異なるのだろう。

鶏頭の十四五本もありぬべし 子規

は私が好きな一句なのだけどこれはいかにも非空非実では?ない?わからないが「ぬべし」がいい。

この教えは『俳諧大要』「第七 修学第三期」の最初の方に書いてある。


「第三期は文学専門の人に非ざれば入ること能わず。」とある。「第二期は知らずの間に入りをることあり。第三期は自ら入らんと決心する者に非れば入るべからず。」と続く。なるほど。日本でIPAの精神分析家になるためには日本精神分析協会に入らなければならないというのと同じか。確かに入るかどうか決めるために別の分析家と分析をするくらい決心が必要だった。分析を受けることと生業としての精神分析家になることは全く違うから。この前後でも子規はいいことしか書いていない。本当そうだなあ、と思いながら読める。夏目漱石が子規と過ごした日々のことを書いている文章も相当面白いのだが、どこに入っているのか。とにかく子規は、岸本尚毅もいうとおり、若くして亡くなってもずっといろんな人の心に生き続けている。

岸本尚毅が俳句にした子規はこれらとか。

健啖のせつなき子規の忌なりけり

子規の世は短かりけり柏餅

子規の忌やわが子を刈つて丸坊主

子規の柿茅舎の柿と潰えけり

私は岸本尚毅の墓の句が好きなのでそれを引いて子規のみならずいろんな俳人を私の中で生き続けさせたい。

墓親し陰に日向に落花して

柿潰れシヤツだらしなく墓に人

カテゴリー
お菓子 精神分析 精神分析、本

涼しい。

昨夜はみんなが傘をさしているなかこのくらいならいいかなと折りたたみ傘を開かないまま歩いていたら駅に着いた。濡れていなかった。深夜、雨脚が強まる音が聞こえた。雷も鳴り始めた。停電になったら嫌だなあ、と懐中電灯を探したがなかった。実家から持ってきた真っ赤な大きいラジオ付き懐中電灯があった。これ間違ったとこをカチってやると大きなサイレンが鳴っちゃうんだよな、と思いながら慎重にライトの電源を探してカチッとした。案の定何もつかなかった。そりゃそうね、と電池カバーを外すと単1が3本。おお、大きな音がするわけだ。最近、電池を取り替える必要がある家電は単3ばかりだったから単1はどこかな、とちょっと探したけど、もう寝ないと、と結局何もせず朝になった。まだ暗いうちに起きてしまったけど停電にはならなかったみたい。雷はそんなにひどくならなかったのかも。起きなかったし。早朝はまだ結構雨が降っていたが明るくなるにつれて雨も止んだ。短くても秋らしさを感じられるのは嬉しい。

今朝は銚子のまちの駅、銚子セレクト市場で買った「ふるさと」の「地球展望館」というお菓子。丸くしたパイナップルが乗った丸いタルトみたいなお菓子。これが地球ってことね、きっと。地球と月ってこと?「地球展望館」って名前、「地球の丸く見える丘展望館」に違いないのだけど(違うのかな)結構大胆に略したなとちょっとおかしかった。第21回菓子博有功金賞だそう。有功金賞というのがあるのね。アールグレイと美味しくいただきました。

昨日はオグデンの最近の二冊、Coming to Life in the Consulting Room Toward a New Analytic SensibilityとWhat alive meansの自分用訳を少し整理した。結構たまっていた。でもファイルの整理が悪いせいか同じところを訳したものが複数異なるファイルに入っていたり、ちょこちょこ修正したのはどっちだろう、となったりした。うーん。

とりあえず今日をがんばろ。涼しい!

カテゴリー
散歩 精神分析

寺家ふるさと村、Reading Freud

空が明るくなってきた。今日は曇りなのかな。ピンクがかってくるのではなくグレーが薄くなるしかたで朝になっていく。天気予報は東京は午前中は晴れ、午後は雨が降ったり雷が鳴ったりするみたい。今朝もエアコンはつけておらず扇風機で外からの弱い風を循環させている。明日は一気に気温が下がるらしい、といっても28度とかだけど。日本はどうなってしまうのだろう。

先日、横浜市の寺家ふるさと村へ行った。田園都市線青葉台駅、小田急線柿生駅からバスで行ける。横浜はみどり税だっけ、独自の税金をとって横浜みどりアップ計画を実施している。寺家ふるさと村四季の家もその「ウェルカムセンター」のひとつとして機能しているらしい。東京在住在勤の私も緑に関する税金をとられていると思うのだけど何税だっけ。こんなのとるならきちんと緑守ってよ、と怒った覚えがあるのに税金の名前を忘れてしまった。いかん。寺家ふるさと村の寺家は「じけ」と読む。バス停を降りるとすっかり実った稲が広がっている田んぼと藁で束ねられた刈り取られた稲が並べられた谷戸田が広がっていた。とてもきれい。その日もまだ暑かったけど素敵な里山の秋景色。春に田植えして夏には青青と育った稲たちもきれいだっただろう。それにしても子どもの頃はすぐそばにあった田園風景にいちいち感動するようになってしまった。GWに金沢から和倉温泉まで七尾線に乗ったときも空と雲がそのまま映り込む水田が続いていて何枚も写真を撮った。

横浜市のみどり税にも文句はでているだろうけど、この寺家ふるさと村は結構賑わっていて四季の家のレストランも混んでいた。お蕎麦と鰻のお店みたい。外のベンチでお弁当を食べている人もいた。四季の家では蕎麦打ちとかイベントも色々開かれているらしい。私たちはそこでお手洗いに寄ってから里山散策スタート。田んぼの脇の道をいくと熊野神社の階段が見えた。田んぼの向こうの人影に目をやると親戚の集まりらしき人たち。お墓参りかしら。家族っぽい集まりには友達や他人とは違う距離感が作り出す形、みたいなものがある気がする。熊野神社への階段は少し急でいかにも里山の神社という佇まいだった。脇道を降りて再び田園風景を歩く。いろんなカカシが田んぼを守っていた。少しいくと釣り堀の池に。誰も言葉を交わさず、ほぼ等間隔で動きのない池にただ静かに釣り糸を垂らしていた。釣り堀はいい。市ヶ谷のとか何度か行ったことがある。そこから森へ続く坂へ。通勤の距離で行けるハイキングコースは理想的。道もほどよく整備されていた。いろんな虫や植物がいてまだ青い柿もまだ緑の栗もまだ黄緑のどんぐりも待ち望んだ秋を地味に彩っていた。この前までどこにいってもたくさんいた蜂は少し減ってきたように思えた。スズメバチ注意の看板は一年中かかっているだろうし、スプレーは作業場のそばに置いてあったけど。途中の池はあまりきれいではなかったけど近くの木々でハンモックでくつろいでいる人たちもいて気持ちよさそうだった。森を抜けると再び田んぼ。小さな子どもたちが稲刈り体験かカカシ作りか田んぼの中で楽しそうな声をあげてるのをみられた。ミャクミャクのカカシもいたが、多くのカカシは名無しだろう。子どもたちに聞けば「あれが〇〇ちゃんの」と指差して教えてくれることはあるだろうし、近くによれば名札が付いていたりする場合もあるとは思うが。帰りはあまり本数の出ないバス停からちょうどよくバスに乗れた。ナスの畑とぶどう畑の間にあるバス停にはすでに二人並んでいてそれぞれ文庫本を読んでいた。何を読んでいるのかなあ、と思ったがわからず。結構厚い本だった。

そういえば、Reading Freudで精神分析の創始者であるフロイトがその早期に展開した神経学的な仮説「心理学草案」(『フロイト全集1895-99年 心理学草案 遮蔽想起』岩波書店)読んでいるが、メンバーのなかで、これがまるで「物語」かのように共有されはじめた瞬間があった。

「心理学草案」(1895)は

«[Aこの草稿の]狙いは、自然科学的心理学を提供すること、言い換えると心的諸過程を、呈示可能な物質的諸部分の量的に規定された状態として表し、こうして[SE/GW心的諸通程を]具象的で矛盾のないものにしょうとするものである。

というものであらすじがあるようなものでも要約できるようなものでもないにも関わらず。フロイトは精神分析を知らずとも多くの人が知っている名前だし、少し知識のある人ならフロイトとフリースの関係でこれが書かれたことも知っている。フリースを知らなくてもフロイトは常にそれなりに濃い関係で読み手なり聞き手なりを持っていたから自ずとその言説はコミュニケーションの結果として読まれ、そこに共通の物語が生じやすいのかもしれない。

今日はもう木曜日か。1週間早い。良いことありますように。

カテゴリー
イベント 精神分析

回帰

今日の東京の日の出は5時25分。毎日1分ずつ遅くなる。金曜日から急に涼しくなるらしい。明日は雷の予報も出ているのね。昨晩の新宿の空は大きな雲が層になっていて明るく感じた。東京だから?星かと思って眺めていた小さくて白いものはいつのまにか雲に隠れた。飛行機だったらしい。オフィスのそばでいつもみる飛行機は都庁やオペラシティに突っ込むのではないか、というくらい低空飛行だからあれはなんだったんだろう。UFO?と思うのはいろんなところでUFOの話を聞きすぎているからか。能登地震があった翌年の5月は石川県羽咋市の宇宙科学博物館、コスモアイル羽咋にも行った。宇宙人がたくさんいて展示も本格的ですごく楽しかった。最近だと千葉県銚子市の地球の丸く見える丘展望館でもUFOの映像をみた。経営困難による廃線の危機を「ぬれ煎餅」などで乗り切ってきた銚子電鉄の犬吠駅が最寄り。途中のひまわり畑が圧巻だった。以前は、展望館でUFO召喚イベントとかもしていたらしい。銚子電鉄に乗ること自体が目的の人もいるし、観光だと犬吠駅で降りる人がほとんどかも。駅前の回転寿司屋さんも犬吠埼灯台もとてもいい。そういえばこの前、京王線新宿駅の売店で銚子電鉄のぬれ煎餅を見かけてびっくりした。「まずい棒」もあったのかな。銚子電鉄と京王は何繋がりなのだろう。銚子電鉄が京王線の車両を使っているとか?私の実家の方のローカル線はたしか井の頭線の車両だったからそういうのもありうるかも。鉄道はそれ自体、旅の醍醐味。昔の面影も届ける大切な手段。盛り上がってほしい。

不注意で色々予定を入れまちがったり、アプリを使ったあれこれができないのは、最近の携帯が私には小さすぎるからではないかと思い至った。Duolingoだってパソコンでできればいいのに。。。と思っていたらパソコンでもできるというではないか。私が知らないだけだった。いざやってみたらやりづらいのは携帯が小さすぎるせいではなく、どちらにもメリットデメリットあるという普通のことに気付かされただけだった。でも携帯とPCではやれることが違う気がするので両方使ってみようと思った。これも少し前に書いた習慣を崩すことの一環になるかも、と少しワクワク。この話をしたら「ボケ防止ですね」と言われた。まあそうなんですけどね。

ボケ防止で思い出したのだけど、最近思うのは、私は死ぬまで本を売ることをしないだろうなということ。もちろん売るための本なんて書けないというのもあるけれど、本を書いている人たちは目的がはっきりしている人が多いなと気づいて、私は特に自分の中にそういうものを見出せないから、こういう毎日のパーソナルで他愛もない発見をメモ的に記しておくのがあっているんだな。もちろん国内外での発表は続けたいし、協会のジャーナルには投稿していくだろうけど。それにしてもこういうのだってすぐ忘れてまた少ししたらそういえばDuolingoってパソコンでもできるんだって、とか戻りかねない。自分だけのことならそれでいいわけで、というか、相手あることだって何度でも聞き直していいわけよね、人は。何度も同じ話するのだって人なんだから。精神分析なんてほんと何度も何度も同じ話をしたりする。けど、それも全く同じということは全くないのだな、とか考えているのがフフフという楽しみだったりする。自分のことってよくわからないから、何度も同じ道で迷っちゃったりはしないかもしれないけど、またここに出ちゃったよ、みたいなことはあるわけだし。回帰するともいう。

フロイトは「代替形成や症状は抑圧されたものの回帰の指標」であるとして欲動との関係で抑圧を精密に捉えようとした。メタサイコロジー論のひとつ「抑圧」論文でフロイトは三つの神経症、つまり不安ヒステリー(動物恐怖症など)、転換ヒステリー、強迫神経症を取り上げて抑圧のメカニズムを記述する。1915年の三論文「欲動と欲動の運命」「抑圧」「無意識」は、フロイトの症例とともにセットで読んだほうがいいと思うけど、私たちがReading Freudで読んでいる「心理学草案」が前提とした神経学的な仮説に基づいた思弁ではない方法、つまり臨床観察に基づく基礎づけをフロイトが試みたものたち。とても面白い。もちろん「痛み」とか「草案」からすでに印象的な取り上げ方をされているテーマは引き継がれている。

そういえばこれもどうでもいい話なんだけど、私はAmazonのオーディブルって無料期間に少し聞いたことしかなくて携帯の読み上げ機能でキンドル本を聞くことがある。これがかなりストレス、と同時に面白かったりもする。メタサイコロジー論は多分そんなに間違えて読まれないと思うけど、読まねば、みたいな目的があるときはそういう間違いはストレスでしかないかもしれない。ちょっとした息抜きとして聞いているときは読み上げの間違いは逆に面白みになったりもする。よくある読み上げの間違いは耳が自動変換するようになっているのでいちいち引っかからないけど、自然に思い浮かばない区切りや変換がされるときは、手を止めて文章を確認して「えー」となったり本当に知らない単語だったりする。英語の読み上げもフランス語が混ざっていたりすると急に声が変わったりして覚醒水準は上がるけど聞くだけではわからない場合が多いので、英語は地道に自動翻訳に助けてもらいながら書いたり読んだりしないといけない。自動翻訳もまだ辞書機能とかの使い方がよくわかっていないな、そういえば。そのポテンシャルを全然いかせていない気もするのだけどすごく助かってはいる。AI翻訳はみんな駆使しているみたいで私も教えてもらったのだけど使いこなせない。こんなでもどうにかなる世の中であってほしいな。パソコンだって普及していなかった時代に生まれているので素朴に自分の身の丈でやっていきたいよ。アナログ思考も大事でしょう。

この前、時計屋さんへ行ったときも思った。そこはこだわりの店主さんだからちょっと緊張するのだけど大事な時計を預かったのでみてもらいにいった。ついでに自分の時計も電池が切れてしまったので変えてもらった。そっちは1時間くらいでできるというので指定の時間を少しすぎたくらいに受け取りにいった。小さなビニール袋に小さなクッション付きで入れてくれていた。お礼を言いながら受け取ると携帯電話と近づけないように、と早口で言われた。一緒にいた人も少し驚く素早い指摘に「すいません!」と携帯をしまって時計をはめた。こういう切迫感は緊張するけどプロの仕事だもんね、と思う。私が文明の利器を使いこなせないという話とは全然違うけど。ところで、さっきから「携帯」と書いているけど書き言葉にするといつも違和感がある。iphoneとか書かないと通じなかったりして、とか。でも大抵は文脈で通じるよね、多分。

昨日、なんでだか忘れたけど倉橋由美子と三島由紀夫のことを考えていた。倉橋由美子が書くかっこいい登場人物に会いたかったのかも。いや、先日、神奈川近代文学館へ行ったからか。常設展には今回もいい感じの三島由紀夫がいた。お目当ては開催中の企画展「中島敦の手紙展――おとうちゃんからの贈り物」。行きたかったのだ。『山月記』は教科書で読んだのが最初だったか?覚えていないけど漢文の授業で読んだ気がしてしまっている。途中からはどんどん読めるけど最初が難しいんだよね。かっこいい文体で大好きだった。今回の展示は、パラオ滞在中に息子とやりとりした手紙が中心。次男は当時まだ小さくてお返事は書いていないけど長男の手紙が子供なりのしっかりさで次男の様子も伝えてくれている。中島敦の子供たちはあまりに早くに亡くなった父親の思い出とどう生きたのだろう、戦争の時代を。

昨日の朝ドラ「あんぱん」は戦争が終わったあとの父の顔も知らぬ子どもや孫世代が登場した。この重たさと悲しみに触れれば戦争が終わることがないんだと知る。だからこそすぐに終わらせねばならないのに。一日一日が平和を願う気持ちで過ごせたらいいのに。せめて今日、せめて明日、って少しずつ先延ばししながらずっと平和を願って、本当に平和が訪れますように。

カテゴリー
精神分析 精神分析、本

残暑、オグデン“Coming to Life〜など。

曇り。なんだかまだ蒸し暑い。よく動いてるし体温調節もできてると思うのだけど今年は汗に皮膚が反応しやすくて結構辛い。なんで自分の皮膚から出るものでやられないといかんのだ。しっかりして、と思うがいい子に薬を塗る。めんどくさいねえ。

週末、オンライン投句の締切に向けて、角川の秋の歳時記を電車でパラパラ見ていた。季語「残暑」の例句がいかにもじっとりしてて笑ってしまった。みなさん、さすが。

昨日は勉強をサボったが、そういえば、とオグデンのComing to Life in the Consulting Room : Toward a New Analytic Sensibilityの4章 Destruction Reconceived: On Winnicott’s ‘The Use of an Object and Relating through Identifications’を参照しようとメモを探したが、ない!これって2016年にInternational Journal of Psychoanalysisに掲載されたものだから、絶対どこかにメモしているはずなんだよー、と思ったがない。またか、と自分のこういうダメさに慣れているのもどうかと思えばないものはないのでもう一度読み始めたらやっぱりすごく難しい。これ、前も苦労したけどすごく面白かったのは覚えていたのでなんとか読んでいた。

オグデンのこの論文は、ウィニコットの「対象の使用と同一化を通して関係すること」の精読。Whar alive Means 6章 Like the Belly of a Bird Breathing: On Winnicott’s “Mind and Its Relation to the Psyche-Soma”. International Journal of Psychoanalysisでウィニコットの「心とその精神ー身体との関係」を読解しつつwrite Winnicottをするオグデンのことを前に書いた。


「私がウィニコットの論文を読解する「創造的読解creative reading」では、ウィニコットの文章を解き明かし解釈するだけでなく、主題に対する私自身の応答も提示する。ウィニコットが読者に各自の理解を委ねる箇所では、私が暗に含まれていると受け取る意味を肉付けすることで「ウィニコットを書くwrite Winnicott」。ウィニコットがほのめかすにとどめた着想を私が展開する。」

似たようなことはすでにこのDestruction Reconceived: On Winnicott’s ‘The Use of an Object and Relating through Identifications’の論文の冒頭にも書いている。こんな感じで。

「この論文ではあまりに多くのことがほのめかされるにとどまっているので、読者はそれを読むだけでなく、書くことにも参与しなければならない。本稿で私が展開するアイデアは、ウィニコットの論文に対する私自身の読むことと書くこと——私がそれをどう理解するか、そしてより重要には、それを用いて私が何を作り出すか——を示すものである。」

とか、その先でも

「それは、母親が「現実であるがゆえに破壊されつつあり、破壊されつつあるがゆえに現実になりつつある」瞬間に、対象が実際に生き残ることが決定的に重要であるという考えである。私は今なお、この言葉を読むと頭がくらくらする。この一対の考えを何とか理解しようとして、多くの時間を費やしてきた。対象が「現実であるがゆえに破壊されつつある」とはどういう意味なのか?ここで人は、ウィニコットの論文を「書く」ほかない。なぜなら、彼は決定的に重要な考えを、説明されることなく、ただほのめかされるだけの極めて捉えがたい形に残しているからである。」

ぶれないオグデン。この論文が面白いのは、オグデンがウィニコットを読む仕方が、理解が、変わってきたこと、その場所を明確にしていること。最初から丁寧に読んでいくことで明らかになっていくウィニコットの言いたいことに豊かな思考とともについていくオグデンは楽しそうだし、それを読む私も楽しい。読むことの楽しみだな。またすぐ忘れてしまわないように今度はメモの保存を工夫せねば。これまでも工夫してきたつもりなのになあ。どうすればいいんだろう。

まあ、今日は火曜日。これは要確認。今週もがんばろう。

カテゴリー
俳句 散歩 精神分析

祭り、花壇、フロイト

昨晩は少し暑くて起きたがエアコンをつけたらすぐに寒くなって消した。すごく暑かった数日前よりエアコンの効きが良くなっている気がする。この夏、エアコンも酷使されっぱなしで寿命が縮んだのではないか。よくがんばってくれたおかげで私は生き延びたが家電は高いから引き続きがんばってほしい。

昨晩は通りかかった神社のお祭りにもいった。といっても通り過ぎただけだけど商店街のスピーカーから流れる祭囃子、町内ならではの案内、提灯にしかない明るさ、自転車で走りながら子どもたちが大きな声で交わす「またあしたね!」。突然、雨が降り出して自転車置き場に避難。雨雲レーダーと巨人〜阪神戦の結果を確認している間に止んだ。よく歩いた。

年よりが四五人酔へり秋祭 前田普羅

暑すぎて放置していた我が家の小さな花壇と玄関も少しきれいにした。剪定の時期ではないが、時間があるときにやっておかねばと剪定鋏でジャキジャキとパキパキの中間くらいの力で根元で陽もあたらず黒くなっていた千両の枝とすっかり大きくなった山椒の木の枝を切った。土も少し耕したら知らない大きな根っこを発見。君は誰、とびっくりしたけどまだ確認できていない。なんの根っこだろう。それにしても、剪定用の鋏、もう少し鋏部分が大きいのを買えばよかった。山椒の枝は少し太くなるとすごく硬いしトゲトゲしているから切りにくい。安全で使いやすくはあるから枝が逞しくなる前に適切な季節に切ればいいのだろうけど。昨日は風も気持ちよく少し涼しくなったとはいえ大きなゴミ袋に葉っぱや枝を片付け終わる頃にはやっぱり汗だくでクタクタ。肩もバキバキになった。今日の筋肉痛を恐れていたけど今はまだ大丈夫みたい。遅れてくるかもしれないけど。

昨日からオグデンが引用しているフロイトの文章が見つからなくてなんでだろうと思っていたらオグデンの本の誤植だと思う、多分。Freud, S. (1911b). The history of the psychoanalytical movement. SE, 14とあるけどThe History of the Psychoanalytic Movementは1914年だと思います。私もたやすく引っぱられてしまった。論文名見ればわかるじゃんね。まだまだな。オグデンが引用するフロイトも私は好きで、今読んでいる論文はオグデンの主張も好き。こういうの読みながら自分でも「ああ、そうか、あそこでフロイトがこう書いていたのはここに繋がっているかもしれないんだ」という発見があるくらいにはフロイトを読み続けてきてよかったなあとしみじみ思う。すごく時間がかかるしエネルギーも使うけど精神分析が関わる人の心ってそういうものだからな。

今日もあれやこれやがんばろう。今日のNHK俳句は岸本尚毅先生。一番好き。良い日曜日になりますように。

カテゴリー
俳句 精神分析 精神分析、本 言葉

梨、子規、サンガマ

夜はクーラーがいらなくなった。喉の心配が少し減って嬉しい。ちょっと調子悪いとマスクをする癖がついているけど気をつけるべきことなんて少ないほうがいいに決まっている。今朝はまだ少し雨が降っているみたい。見えないくらいの雨が。

梨腹も牡丹餅腹も彼岸かな 正岡子規

梨を食べている。豊水。おいしい。子規って1867-1902(慶応3年-明治35年)で35年しか生きていないのに(「のに」ってこともないけど)お菓子とか果物とかの俳句が多いイメージ。楽しい。

牡丹餅の昼夜を分つ彼岸哉 正岡子規

うちも昔、おはぎのやりとりしていた気がする。毎年、あんこ・きなこ・黒ゴマの三色で作って持ってきてくれた人もいた。父の仕事の関係の人だったような気がするけど私の中では「おはぎの人」となっていた。

職業の分らぬ家や枇杷の花 正岡子規

という句も好き。枇杷が好きだからというのもあるがこれも私だったら「あの枇杷の家」「あの枇杷の家の人」とか言っていたと思う。面白い句だと思う。

毎日のように分析家のところへ通っていた頃、通り道に枇杷の木が一本だけあった。私は毎日、毎季節、身がなるまでも身がなってからも眺め続け写真もたくさん撮った。最初の数年はその大きな道に枇杷の木があることに気づいていなかった。

精神分析を受けるとこれまで気づかなかった景色に気づくことが増える。現実の景色のお話。心の景色も連動はしているに違いないが。私の患者さんたちもそうだ。そしてこんなに毎日のように通っていたのに、と自分で驚く。こういう驚きがとても多いのが精神分析だと思う。自分でもびっくり、という体験はいろんな情緒を引き起こすけど、それまでの年月はそれにお互いが持ち堪えられる準備期間でもあるのでなんとか二人でとどまる、味わう。

子規は病床にありながら一日一日を豊かに生きた。俳句は単に生活の切り取りではない。わずかな文字数が見せてくれる景色に潜む意外性に心躍る。

昨日、なんとなく出口顯『声と文字の人類学(NHKブックスNo.1284)』をパラパラしていた。

この本に、南米ペルーの先住民ピーロが植民地制度アシエンダのSIL教育のもと読み書きを身につけたという話がある。そこで引用されるのがSILの指導なし識字能力を身につけたサンガマの説明である。

「私は紙を読む方法を知っている。それが私に話しかけてくるのだ。彼女が私に話しかけてくる。紙には身体がある。私はいつも彼女を見る。私はいつもこの(文字が書いてある)紙を見る。彼女には赤い唇があり、それで語りかけてくるのだ。彼女は赤く彩色された口がある身体をしている。彼女には赤い口がある。」

サンガマは「書かれた文字(writing)を音声言語の表象とは考えていない」のである。

「西洋の人間にとって文字は発話を符号化(encode)したものであり、符号の解読コードを知る者は誰でもメッセージを読むことができる。声を物質化したものが文字であるという西洋の考え方にサンガマも同意したであろう。しかしサンガマが聞いていた声は、文字とは「別の声」であり、声を発する紙は「文字」の外見とは異なる身体を持つ。紙はメッセージを担う生身の女として現れサンガマに話しかける。彼が聞いているのは女の声である。サンガマにとって読み方を知っている者とは、コード解読の術をマスターした者というより、印刷されたページが女に見える「眼」を持ち、女が言うことを聞き分けられる「耳」を持つ者なのである。読むこととは女の話すことを聴くことなのである。」

俳句もオグデンがウィニコットを原著で読めというのも同じだな、と思った。俳句もその人の文字で書かれていると見えてくるものが変わる。ウィニコットも。その潜在性=創造性であり、読み手にもそれは求められるものなのかもしれない。

いい俳句作りたいな。言葉を豊かにしないと。とりあえず今日もがんばりましょう。

カテゴリー
精神分析

お手伝いとか精神分析とか。

風が気持ちいい。昨日は弱雨が降ったり一時的に寒いくらいだったり陽射しで暑くなったり強雨になったり空も大忙しだった。私もハードだった。書き物が全く進まない。でも身体を使いながら感じることも多く、この年齢になってわかることの多さ、この年齢までとりあえず生きてこられた幸運さなどを思うと同時に「お手伝い」を健やかになせる自分でありたいと思った。動けない人の代わりに動いている過程で出会うその人に関する評価とか出来事とかもあたたかく胸に留めたい。「ケア」とかとは違う「お手伝い」のなにか。それを大事にしたい。

精神分析を始めると親を知ろうとする動きが増える。自分を知ろうとすることは環境を知ろうとすることでもあるのだろう。頻回の設定でカウチに横になると自分でも「え、なんで?」「ずっと忘れてた」という記憶が次々と出てきたりする(それを言葉にできるかはまた別の話)。それは直ちにじぶんごととして語れるおものではない。ボラスの言葉でいえば乳児だった私たちは自分は最早期から人間的な過程の内部にいることを知っているし、それを変形性状況と認識するからこそ、変わりたい(最初は(相手を)変えたいだったりする)という欲望を持って分析の場を訪れるともいえる。だからかどうか、親と関われる状態なら色々聞いてみたくなるし、もう話せなくても次々に思い出される記憶と対話が始まったりもする。設定の力は大きいし、言葉の拘束力も可能性も大きい。

現代の精神分析は心の中の自己表象や対象を欲動、情動、記憶などが連動した力動的過程(退行を含む進化か)と見做している。私がオグデンやボラスを読むのは内的あるいは内在化された対象関係と外的あるいは外在化された対象関係の動きの詳細に関心があるが、欲動理論をそれと分けて考えるのも違うと思うのでフロイトの構造論を再検討しつつ主体が対象と、あるいは対象になしていることを論じるアンドレ・グリーンの存在も重要となる。フロイトは素朴な対人関係の記述はするが心的構造の記述に対象関係の文脈を持ち込むことはほとんどなかった。しかし『喪とメランコリー』の有名な一説に示されるように、動機づけ原理となる欲動に対する対象の影響力を無視していたわけでもない。しかし、内的な対象と対象関係を欲動論に付け加えたのはフェレンツィ以降だろうし、現実の対象との同一化に注意を向けることを強力に打ち出したのは小児科医でもあったウィニコットである。では、精神分析を特徴づけてきたエディプスコンプレックスはこれらのどこに位置づけられるか。私はエディプスコンプレックスという概念は今も今後も有効だと考えているが、それを発達的な観点でどこに位置づけるかは、環境の位置付けと同様、難しいものがあるなと感じる。精神分析は言葉と言葉のやりとりだが、この言葉が機能している水準というのを私は最も重視するし、それは情動が喚起される瞬間を正確に読み取っていくことと関係している。

こういうことを書いている間に先日思い浮かんだアイデアを思い出せないかなあと思っているのだが全然蘇ってこない。私ももう一度カウチに戻れば浮かんでくるだろうか。そんなことはないな。そういう水準で言葉は使われなくなっていた。今思うとカウチでのアウトプットはまさに記憶なく欲望なくとなっていった。これは分析家側の体験とも一致してると思う。分析状況は夢見の場でもあるが、その場合の夢とはなにかについても考えが変わった、というよりビオンがすごく読みやすくなる程度には体験を積み重ねられた。最初の数年間のあれはなんだったんだろう。偽りの自己との戦いだったか。過ごす必要のあった時間には違いないがきつかったな。しかし患者になることで知ることの多さたるや。もちろん知るべき、とは全然思わない。大抵の場合、それをしたい人がすればいいことばかり。「お手伝い」も大抵の場合はそう。が、しかし、となってくるとまた難しいことがたくさん。ケアとかなんとかいう言葉を使うことが増えそう。

オグデンの引用をしようかと思ったけど時間がなくなった。今日も少し雨が降るらしい。良い一日になりますように。

カテゴリー
精神分析 精神分析、本 言葉

言葉

空がきれいなピンクと水色。南側の大きな窓を開けたら涼しい風が流れこんできた。気持ちいい。鳥たちはまだそんなに鳴いていない。昨日も少し欠けて猫の目みたいになってきた満月が輝いていてきれいだった。それにしても見るたびに位置が全然違うように見えるのは絶対私の勘違いなのだろうけど変化が早く感じる。そういえばボラスの本にconstellationが出てきてここは「星座」って訳したいな、と思ったところがあった。

Being a Character:Psychoanalysis and self Experienceのintroduction

we do this many times each day, sort of thinking ourself out, by evoking constellations of inner experience.のとことか。

言葉は大切にしたい。

時折、SNSを開くとびっくりするような言葉遣いに出会うことがある。日常生活で知らない相手から言われたら暴力でしかないような言葉はSNSでも同じように暴力だと思うし、身内から言われたって暴力だと思うのだけど、つまり暴力的な言葉はどこで言ったとしても暴力的だと思うのだけど、向こうが「そんなつもりはなかった」といえばそう感じたほうに問題があるみたいになるのかもしれない。明らかにサイズも力も優っている相手が近距離で大きな声を出しているだけでも十分圧を感じるけど、そういう場合、優位なほうが調整をするものだろう。子供に対する大人がそうであるべきように。大人の場合、どうしようもない場合はこちらからきちんと離れることが調整となる場合も多いけど、それさえ叶わない場合もある。相手が個人であろうとなんでであろうと直感的に気に入らない、信頼できない、と感じたものに対して距離を取るのではなく、ある程度一般的な意見をもとに「ふーん、自分はそうは思わないけどね」で済ますでもなく、自分が納得できるような説明を求める、それがないと攻撃する、みたいな態度がとても多い場なのはなぜか。とても怖い。電車で知らない人に近距離で覗き込まれて何か言われたときと同じくらい怖い。合わなかったから、信頼できなかったら関わらない、という選択を行使してほしい。させてほしい。攻撃はそこに終始する限り何も生まない。とにかくよく知らない相手のあり方を印象で否定するものではない、というのは基本ではないのか。

今日はとても慌ただしい一日になる予定だけどお天気も気持ちいいし、私も気持ちだけゆったり過ごせるようにしよ。良い一日になりますように。

カテゴリー
精神分析 精神分析、本

実、ボラス、ワーズワース

日の出がゆったりしはじめた。朝のピンクは季節によって全然違う。昨晩は帰り道、月はあいからずピカピカで草むらからは虫の声が静かに絶え間なく響いていた。夏の蝉とは大違い。秋はざわめきよりもメロディー。地球の熱がちょうどよく下がりますように。今朝の私はゴージャスにシャインマスカットで熱を下げよう。秋の果物が送られてきて幸福。秋は果実の季節。小さな柿が道路にたくさん落ちてくるようになった。少しオレンジになっているものもあれば果実ならではの浅い緑のものも。みんな渋いのかな。つい食べることばかり考えてしまう。この前、縦に薄い線が入っているかわいい木の実を眺めながら柿だーとか言っていたけど、柿ってあんな線入ってないよね、と今、落ちた柿のことを思い浮かべながら思った。なんだろう、あの実は。よく通る道の大きな木で、たしかに柿の木だったと思うのだけど。

何をやっても曖昧だし、すぐに忘れてしまうのでここがメモ置き場となっているわけだけど、適当ながらも翻訳の断片を載せているので興味のある方には参考くらいにはなるだろうと思う。へー、そんなこと書いてあるんだ、自分も訳しちゃおう、と下訳くらいのものが集まっていけば翻訳されてないから触れられないという状況を防げる。今は自動翻訳があるわけだからどの言語でも下訳の下訳くらいは簡単にできる。

ということで今朝もChristopher Bollas(クリストファー・ボラス)の3番目の著書、Being a Character: Psychoanalysis and Self Experienceからウィニコットが引用されている部分を書いておこう。引用というか参照か。ボラスはその多くをウィニコットから引き出している。題名は「キャラクターであること 精神分析と自己経験」くらいでしょうか。

>>私たちは各自、世界を照らし出すこうした対象の無数の只中に生きている。それらは幻覚ではない(確かに存在する)。しかしその本質は、ラカンのいう「現実界」に内在するものではない。その意味は、ウィニコットが「中間領域」あるいは「第三の領域」と呼んだ場所——主体が物と出会い、対象によって存在が変形するまさにその瞬間に意味が付与される場所——に宿る。中間領域の対象とは、主体の心的状態と物の性質とのあいだの妥協形成である。

ボラスとオグデンは相互に引用したり参照したりしていないようなのだけど、いっていることはとても似ている(のか?)。対象をどう位置づけるかという観点は同じだと思う。

後に続く文章も世界中の文化に詳しいボラスならではの広がりで興味深い。ちなみにボラスは俳句にも詳しいので、翻訳されているどれかの本の日本語版への序文では芭蕉を引き合いに出している。その俳句をというより、詩集が本屋から消えることについてだった気がする。あとで見てみよう。さて、続き。

>>オーストラリアの荒野では、アボリジニの「ウォークアバウト(※通過儀礼のひとつ)」は「ドリーミングthe dreaming」と呼ばれる。神々が世界を夢見る以前、そこは何の変哲もない平原だった。だが今や風景は物質化した形而上学であり、一本の木も岩も丘も、夢見られたものの一部である。この世界を彷徨いながら、アボリジニは地物理的対象に出会い、それらに触発されて自らの神学・文化・共同体、そしてもちろん自己を想像し、それらを媒介にして自分自身を思考する。Cowan の言うところのこれはイマジナル知覚imaginal perceptionである。

このあと引用されるのはワーズワースとシェイマス・ヒーニー。素敵。大学の学部時代は詩人の先生の講義も受けられてとても楽しかった。ワーズワースは猪熊葉子先生の授業でやったのかも。いいねえ。ワーズワースの詩を思いながら草原を散歩したいね。でも今は熊が怖くて気軽に自然の中へ行けない・・・。もちろん彼らとてそんな気楽ではなかったかもしれないが。

今日はどんなことがあるかな。別の場所に忘れた日傘を取りに行かねば・・・。。なくしたのでないだけマシか。今日もがんばりましょう。

カテゴリー
精神分析 精神分析、本

パウンドケーキ、ボラス“Being a Character”

朝はだいぶ涼しくなってきた。まだ時折アブラゼミの声が聞こえる。鳥たちも元気。この前、近所でオナガが大きな声を出していた。山とは鳥の鳴き声もずいぶん違って聞こえる。

大きなトラックが通り過ぎた。この道を通るのは早朝から長距離を移動するトラックではないと思う。昨日の昼間も秋だなんて嘘だみたいに暑かった。日中の同じような時間にいろんな配送会社の人が汗だくで大きな荷物を走るようにして運んでいるのをみながら大変だね、ありがたいね、と話すことがいつもより多かった気がする、この夏。

季節ごとに届くパウンドケーキ、秋はハーブとスパイスのパウンドケーキと丸子紅茶のパウンドケーキ。この丸子紅茶はとっても美味しくてケーキにしても香りがとてもいい。

また余裕のない平日となり、日曜日に考えていたことがどこかへ行ってしまった。日曜の間にやっておけばよかった。

引用しないと決めたChristopher Bollas(クリストファー・ボラス)をちょこちょこ読んではいる。文学として魅力的でなんとなく読んでしまう。

例えばBeing a Character: Psychoanalysis and Self ExperienceのIntroductionの冒頭をなんとなく訳すと

>私たちは皆、ある特定の香りが、まるで子ども時代の遠い村から呼びかけてくるかのように感じられる、あの胸を打つ瞬間を知っている。過去へ手を伸ばし、遠い昔の自己体験のエッセンスに触れられるかのように。人生のとても特別な時期に流行した音楽を耳にしても、呼び起こされるのは単なる記憶というより、イメージや感情、身体の鋭敏さに満ちた内的で心的な星座である。たとえ「この匂い、子どもの頃、うちの庭にあった花の匂いだ!」と誰かに言葉で説明しようとしても、内的体験の質感を伝えきることはできない。

みたいな。プルーストやシェイクスピアが偉大なのはもちろん、それを自由に取り込んで精神分析理論と重ね合わせて書く仕方が魅力的。おお、マドレーヌ、とパウンドケーキを食べながらでも喚起される香り。

ちなみにボラスがここで書いているのは、単なる対象としてというより過程として重要性を持つボラスが変形性対象(transfomational object)と呼ぶもののこと。この部分は国際精神分析学会(IPA)が無料で提供しているIREDという事典の日本語版でもすでに訳されている。そこから引用する。

>>Bollas(1987)は、母親が「全体的な対象として幼児にとって人間化される」前は、「母親は変形の領域あるいは源として機能している」と主張した。したがって、「母親は、他者としてまだ十分に同定可能ではないが、変形の過程として経験される。そして、この早期の存在の特徴は、大人としての生活の中で、 対象が変形のシニフィアンとしての機能のために求められる時、対象希求の特定の形式において生き続けている。」(1987)

Bollas の「対象の統合性」については、Bollas(1992, p4)は次のように書いている。これもIntroductionの一部。

>>かなり驚きなのであるが、対象関係論では、個人の投影のコンテ イナーとして見なされている対象のもつ際立った構造にほとんど思考が向けられていない。確かに対象は私たちを持ちこたえてくれる。しかし、十分皮肉なことに、まさに対象が私たちの投影を保持してくれるからこそ、一つ一つの対象の構造的特徴がさらにより重要になってくるのである。と言うのも、再経験の際に、 自身の自然な統合性に従って私たちを処理してくれるコンテイナーに、私たちは、 私たち自身をも預けるのだから。(引用ここまで)

そうそう。対象と環境の関係について表現する際にはここを押さえておきたい。精神分析の事典となるとここしか引用しないけど、このあとのボラスの表現に私はむしろひかれる。次は私の直訳だから間違っているかもだけどメモとして書いておく。ボラスが続けて書くのはこんな感じ。

>たとえば、思春期初期に野球の技に由来する喜びの感情をシューベルトのハ長調交響曲に投影し、同じ週にガールフレンドへのエロティックな反応をサリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』に投影したとしよう。大人になってこれらの対象に出会えば、そこに蓄積された自己体験が喚起されるだろう。

良き。とか言っていないでやることやりましょう。どうぞ良い一日を。

カテゴリー
精神分析 精神分析、本 読書

機能重視、write&read

東の空がきれいなピンク。昨日も昼間は暑かったけど確実に秋を感じたあとだと気持ちは爽やかでいられる。ある程度根拠のある明るい見通しを持てるだけで生活は大きく変わると思う。

この夏は登山用品が活躍した。あれだけ暑いとやや危険を感じるから機能性重視となり、私の場合、陽射しと汗から皮膚を守ることで皮膚科に行く回数を減らせるので、どうせハイキングもするし、ということでグッズを増やした。今年、購入してよかったな、と思ったのはモンベルのWIC.フィットロングスリーブTシャツ。モンベルは店舗が多いから行きやすいというのもあるけど機能的なものが多いと思う。この前、海辺を長く歩いたときにもダメージを受けずにいられた。一つあるだけで色々楽ちん、みたいなのがいい。結局同じものばかり使っちゃうし。

昨日はせっかくやる気を出したわりに作業は全然進まなかった。メモや書いたものの管理も下手すぎるんだと思う。同じ論文も何度も読んでは忘れてるし、読んだときのインパクトをもっときちんとした形にしておかないと、と何十年思えば実行に移せるのだろう。ツイート程度の量ならいくらでもかけるし、それを積み重ねておけばいいか、と思ったこともあるけど、扱う素材は羅列的に記述できるものではないので、膨らみを持たせながら思考を巡らすにはある程度の量できちんと書かないといけないんだな。わかっちゃいるが。

サンフランシスコで開業している精神分析家トーマス・オグデンの本を読んでいることは何度も書いているが、今のところ一番新しいWhat Alive Meansの6章に入っているOgden, T. H. (2023) Like the Belly of a Bird Breathing: On Winnicott’s “Mind and Its Relation to the Psyche-Soma”. International Journal of Psychoanalysis 104:7-22は2年前に読んでいた。オグデンのクリエイティブ・リーディングシリーズの14作目、ウィニコットの「心とその精神ー身体との関係」を読解しつつwrite Winnicottをするオグデン。この論文の面白いところはここだし、実際、Psycheは脳ではないし、Somaはbodyではないとか分けておくべきものを分けておいたり、内と外の間を安易に分けないという作業が必要な論文なので、write Winnicottは大事。オグデンがこれについて書いているのはこんな感じ。


「私がウィニコットの論文を読解する「創造的読解creative reading」では、ウィニコットの文章を解き明かし解釈するだけでなく、主題に対する私自身の応答も提示する。ウィニコットが読者に各自の理解を委ねる箇所では、私が暗に含まれていると受け取る意味を肉付けすることで「ウィニコットを書くwrite Winnicott」。ウィニコットがほのめかすにとどめた着想を私が展開する。」

よい。これについていくとウィニコットの理解も深まるという仕組み。ただ、ウィニコットを前もってしっかり読んでおくことも必須なので、writeの前にreadかよという感じになるかもしれないけど同時にやるのが大事。というのを私は頭ではわかってるけどこれが私の課題。読むのは好き。書くのがだめ。でも周りの人と会話しているとアイデアは色々浮かぶからまずはそこを書き留めるところからかな。いくつになってもベイビーステップ。とにかくオグデンがcreative readingする論文は大変重要な論文たち。途中までのは一冊の本にまとまっていると思う。

とりあえず良い日曜日を。

カテゴリー
俳句 精神分析 精神分析、本

秋、俳句、書き物

秋の朝だ。光が柔らかい。春のウキウキとは違う静かな喜びを感じる。嬉しい。

昨晩、久しぶりに中国茶の器を使った。白湯を飲んだなのにとても美味しく感じた。白くて小さな器。昨日は涼しかったからペットボトルでグビグビ水分補給をする必要もなかった。かわいい茶器を自然に手に取り冷めたお湯を注ぎ腰を下ろして一息。身体が季節に合わせた道具を勝手に手に取ったぞ、とそれも嬉しかった。

秋の訪れとともにさらに嬉しいニュースがあった。初対面でファンになった句友が念願の大きな賞をとった。俳句に対する情熱を知っているからとても嬉しかった。彼女ならこれらの瞬間もきっと素敵な俳句にする。私は俳句は全然だめだけどこういう瞬間を素敵だなと発見できる自分でいられただけで満足、とか言っていたら怒られそう。いや、私の師匠は怒らない。全然ダメでも俳句にすることを勧めるだろう。賞をとった彼女の俳句は誰でも知っているのに知らなかった日常を読む。絶対彼女みたいな俳句は作れないのに俳句、私にも作れそう、楽しそう、と思わせてくれるこれからの俳句界に必要な人。すでにいくつかの賞を取っているが、これからますます多くの人に知られていく。俳句界はいいな。楽しくなっていきそう。

私もがんばらなくちゃ、とひとつ書き物の目標を作った。できるのか。でもエントリーしちゃったから書く。子どもの遊びについても年内に書かなくては。年内なら大丈夫かな、と思ったけどこの過ごし方では無理な気がする。そろそろ暑さのせいにもできないから気持ちよさを感じつつしっかりしましょう。はい。

アメリカの精神分析家のクリストファー・ボラスのことを書いていたが、今引用するには理解が足りないのでウィニコットとアンドレ・グリーンに戻った。これはボラスを理解するのにも役立つのは間違いないとはいえ、精神分析の主要概念から振り返るような議論が多いから難しいは難しい。主体とは、とか。イギリスとフランスの違いが濃く出る言葉。フランス語よりは英語のほうができるのでとりあえず英国精神分析の伝統に乗るけど。ラカン派の勉強もまだまだ足りないし。まあ、足りずとも使える程度までは足らせましょ。

空がきれいで本当にうれししい。何度も言ってしまう。昨晩の月もとってもきれいだった。良い一日になりますように。

カテゴリー
Netflix テレビ 精神分析 精神分析、本

ドラマ、Mac、HOKUSAI、ボラス

夜中、雨の音で目が覚めた。今も結構降っている。ひどくならないといいがほかの地域はどうなんだろう。

今朝は野木亜紀子脚本の「連続ドラマW フェンス」をみていた。昨年映画「ラストマイル」をみて、それを楽しめるように関連ドラマ「アンナチュラル」「MIU404」もみた。どれもおもしろかったけど「ラストマイル」はそういう準備もして、かつ映画館で見たから面白かったという感じかも。昨年だったら友達に勧められてみた篠﨑絵里子脚本(子鹿ゆずる原作、大槻閑人(漫画・作画)「アンメット ある脳外科医の日記」の方がよかったかな。テレビドラマだと女性の脚本家が活躍しているようにみえる。

それにしても私のMacBook AirOSはもうだめかもしれない。Apple Storeに行くと「ヴィンテージ!」と「今はここにこんなのないんですよ」とか嬉しそうに教えてもらえるが高値で引き取ってもらえるわけではなく故障したらしたで「もう部品がないかも」と言われ続けながらなんとか生き延びている。OSはMonterey12.7.6からアップデートできないので入れられないアプリも増えてきた。どうしよう。でもこうやって動くうちは使い続けることは決まっている。

映画『HOKUSAI』監督は橋本一、脚本、橋本一、河原れん、葛飾北斎の青年期を柳楽優弥、老年期を田中泯が演じ、この切替の仕方は大胆ながら自然。大河ドラマ「べらぼう」のおかげで私の中の江戸文化年表の基準となった蔦屋重三郎も登場。阿部寛が静かな迫力(背の高さだけでもインパクトある)があって素敵だった。それにしても田中泯の動きがとにかく素晴らしい。表情も含め、全部が躍動している。鬼滅を見ながらも思ったが筋肉を全部動かせたらいいのに。筋トレしていると驚くが、自分でコントロールしながら使っている筋肉のわずかなこと。それでも少しずつ使い方うまくなっていると思うけど。肩こりとかは全然なくなって美容師さんにも驚かれた。今日は台風のせいだと思うけど身体が変。頭痛には耳くるくるマッサージをした。耳も大事ね。身体はみんな連動して補い合っているはず。そういう部分のひとつひとつに注意を向けられたら器官言語みたいに多義性が上手に伝われる言葉を紡げるのかもしれない。

昨日、クリストファー・ボラスが読めない、ということを書いたが、ボラスの精神分析以外の仕事に目を向けると、あ、なんか読めるかも、という感じになり、少し読み進めた。ボラスのいう
The Evocative Object はウィニコットの移行対象の変形だと思うが、より動的で情動に関わるものらしく、ウィニコットの使うingをくっきりと浮かび上がらせる対象のように思う。ボラスとグリーン、ボラスとオグデンをつなぐのもこういった対象の機能なんだろうな、と思うとなんかわかる気がする、という感じになった。ボラスもオグデンもアメリカにしっかり根ざしているのに英国精神分析に馴染んでいるというところに独特の香りを感じるのかもしれない。英国精神分析は豊かだよね。

ということで今日は台風に気をつけつつ過ごしましょう。

カテゴリー
Netflix 精神分析 精神分析、本

鬼滅とかボラスとか。

南側の大きな窓を全開にしても風が入ってこない。気温がまだそんなに高くないからいいけど。昨晩は半月がもっと膨らんできれいだったのにベランダからは見えなかった。なぜ半月基準か、といえばその日に月と星の話をしたから。8月の月の暦は1日:上弦 9日:満月 16日:下弦 23日:新月 31日:上弦だった。キッチンの窓からはすごく気持ちのいい風。ありがたい。

深夜、早朝と『鬼滅の刃』を見続け、ようやく追いついた。でも今のところ無限列車編までが一番よかったかな。ここまで見たら『劇場版「鬼滅の刃」無限城編 第一章 猗窩座再来』も見ないとか、と調べたらまだ混んでるのね。すごい人気だ。“英語字幕版上映”もそろそろ始まるとのこと。

勉強がなかなか進まないから読み慣れてきたオグデンばかり読んでいたけどナルシシズムに関する文献はちょこちょこ読んでいる。ウィニコットとアンドレ・グリーン関連でクリストファー・ボラスもチェックしてるが読みにくい。邦訳はすでに何冊か出ているのだけど私が確認したかったThe Mystery Of Thingsの邦訳『精神分析という経験 事物のミステリー』Dead mother,dead childとWording and telling sexualityが割愛されている。ガーン。

Three Characters: Narcissist, Borderline, Manic Depressive: by Christopher Bollas, Bicester, Oxon, Phoenix Publishing House, 2021もチェックした。

iphoneのメモが煩雑でボラスが書いていること以上に自分の言いたいことがわからないが、キャラクターは「性格」で訳していいのか、とかなんでボーダーラインと躁鬱と「ナルシスト」なの(ナルシシズムじゃなくて)、とか、これって「性格」の類型なの、とかナルシストのところで神話から入るのは大賛成なんだけどエコーの解釈ってこうなの、とか思っていたらしい。


ボラスの思考を詳細に追いたいならStreams of Consciousness: Notebooks 1974–1990とStreams of Consciousness: Notebooks 1991–2024が出たけど、ビオンの自伝と理論を合わせて読むようには読めない気がする。精神分析の文献でさえ追いにくいのだから楽しめなさそう。ビオンの自伝なんて辛くてそういう意味では楽しくはないけど読書体験としてはとても豊かだったが。私に文学的要素が乏しいからボラスを読めないのかなあ。関心領域はものすごく被っていると思うのだけどな。

台風はどうなったか。被害が出ませんように。

カテゴリー
精神分析 精神分析、本

オグデン(2025)の論文を読んだ。

空がまだグレー。昨日のちょうどお昼頃、外に出たら熱中症になったかと思った。夜は気持ちいい風が吹いていたけど日中の日差しは危なかった。休日とかで外にいる時間が長い場合は登山用の夏用長袖Tシャツを着ていたからなんとかなったけど、普通に半袖着てたら皮膚が大変。日光と汗にやられやすいから薬常備。

サンフランシスコの精神分析家、トーマス・オグデンの最新刊を読みながら、ひとつ前のも読んだり、今年のIPAジャーナルに掲載されたOgden TH. Inventing psychonalysis with each patient. Int J Psychoanal. 2025 Jun;106(3):473-488.も読んだりした。これ前にも読んだ気がすると思ったけど読んでもすぐ忘れてしまうし、考えるために読んでいるからまあいいかとなっている。ジャーナルは電子版で読めるから移動時間に自動翻訳でサクサク読めてありがたい。公開されているアブストラクトの冒頭はこちら。

The author posits that for an analytic treatment to be alive and effective, the analyst must invent psychoanalysis with each patient. In responding to the question, “What does it mean to invent psychoanalysis with each patient?” the analyst must first ask himself, “What does it mean to become a psychoanalyst?” and “What is it that defines psychoanalysis.” Further, “What is distinctive about the practice of psychoanalysis?”

直訳だと

著者は、分析的治療が生き生きと効果的であるためには、分析家は患者ごとに精神分析を新たに発明しなければならないと主張する。「患者ごとに精神分析を発明するとはどういう意味か」という問いに答えるにあたり、分析家はまず自らに問わねばならない——「精神分析家になるとはどういうことか」「精神分析を定義づけるものは何か」と。さらに「精神分析実践において特異なものは何か」と。

そして「著者は、各患者と共に、その二人ならではの精神分析の形をどのように発明しているかについて、臨床例を提示する。」

ということで、オグデンがこれまでも書いてきた分析的な枠組みを変更した場面を先人たちの考えを引用しながらひとりの精神分析家としてたくさん描写しつつ、これらの問いに戻る経験豊かな精神分析家ならではの論文でとても実践的。精神分析には精神分析ならではの出来事がたくさんあるし、その精神分析家と患者のペアならではの判断というのもたくさんある。

Ogden, T. H.2016. Reclaiming Unlived Life: Experiences in Psychoanalysis. (New Library of Psychoanalysis). London:  Routledge. 邦訳は『生を取り戻す 生きえない生をめぐる精神分析体験』(上田勝久訳)。

Ogden, T. H.2024. “Rethinking the Concepts of the Unconscious and Analytic Time.” International Journal of Psychoanalysis 105:  279–291.

Ogden, T H.2024. “Ontological Psychoanalysis in Clinical Practice.” Psychoanalytic Quarterly 93:  13–32.

を読んでおくとオグデンが伝えたいことをさらに別の形で感じ取れるかもしれない。

オグデンは2024年の論文で
The idea of the unconscious itself is beginning to be viewed as an idea as opposed to a “fact”. Freud (1915)considered “incontrovertible” (167) the existence of the unconscious, an aspect of mind “behind” or “beneath” the conscious mind. To my thinking, the unconscious is an idea, a brilliant idea, an idea immensely helpful in organizing my ideas when working with patients. But it is just an idea (Ogden 2024)

と打ち出した。それも維持。

私がこだわっているAlivenessもまたそれによって捉えられる性質のものではない、とオグデンは言う。よってUnlivedの訳も自分の実践から実感を持ったものにしたいが私は『セカンド・チャンス』スティーブン・グリーンブラット&アダム・フィリップス著で訳者の河合祥一郎があとがきで書いている意味で訳したい。

「生きていない人生」と訳したが、原語unlived lifeは「生きなかった人生」の意味も含む。過去を振り返る視点で言うなら「生きなかった人生」になるし、現状や未来に目を向けて、今の人生とは別の人生を夢想するのであれば「(まだ)生きていない人生」という意味になる。

こういうインプットが9月半ばまでにアウトプットに繋がっていけば9月末締切のものに間に合うかもしれないけど難しそうだなあ。こだわりを捨てればいいのだろうけど。臨床歴は長くても精神分析の実践はまだ乏しいから書けないんだよなあ、ということはわかっている。実感が足りない。オグデンみたいに精神分析家が長生きして、実践を伴ったことを書き続けてくれることは本当に大事。長生き大事。健康に気をつけて過ごしましょう。

カテゴリー
イベント 精神分析 精神分析、本

花火、禾乃登、フロイト草稿

風が気持ちいい。洗濯物が揺れすぎているのが心配だがすぐに取りこむから大丈夫。今日もこれから暑くなるみたい。風も朝の光も確実に秋なのに。夏休み中は東京ヤクルトスワローズ神宮花火ナイターといってヤクルトの試合の5回裏終了時には300発の花火が上がっていた。初台のオフィスは新宿にも原宿にも近く、神宮球場はそのちょっと先。毎年、夏の毎日に花火が窓から見えるなんて特別。大体仕事中なので音を聞くだけだけど。それも8月31日で終わった。今日9月2日から6日頃まで七十二候「禾乃登(こくものすなわちみのる)」。処暑の末候。たしかに暑さも峠を越した感じはあるからやっぱり暦は気候変動にまだ対応できてる。これからも五感と言葉が離れすぎることのありませんように。

昨日、9月1日はイレギュラーな予定の時間がわからなくなって確認したり、8月末までの締切にきづき慌てて書いて送るなどした。焦った。私個人の夏休みはとっくに終わっていたがいつも学校の夏休みモードに気分も身体も合わせてしまう。子どもの話もたくさん聞くからかも。それはそれで楽しいことだが時間ができるとこの暑いのに精力的に遊んでしまい、翌日の疲れを気にするという繰り返し。実際、疲れはそんなに感じないが割と大きなもの忘れをしている時点で疲れているかもしれない。あるいはこれまでもそうだったジャンという話か。どっちにしてもあーあだよ。

時が経つ早さには困るけどオフィスのカレンダーをめくってまた楽しい気分になった。霜田あゆ美さんのイラストのカレンダーは毎年、毎月楽しい。

昨晩、Reading Freudの準備としてフロイト『心理学草案』のことを考えていて
松山あゆみ「メランコリーと初期リビード経済論 : フロイト草稿G「メランコリー」のリビード論的意義」(2010)を読んだ。

フロイトの草案は全集に載っている『心理学草案』だけではない。この論文では題名の通り、草稿Gを精読することで、リビドー経済論の観点からフロイトのメランコリー論の起源をそこに見出している。こんなものを送りつけられたフリースがどのくらいフロイトの頭の中にあることを理解したのかは不明だが、フロイトにとってはとにかく相手がいることがまずは重要だっただろうし、フリースがいてくれたおかげで精神分析の種がたくさんまかれた。初期にまかれた種を乱暴に交雑することなく、起源として大切にすること。乳児期を大切にするのと同じこと。それは単に過去に原因を求めている、とはわけが違う。歴史を大切にするということ。9月からまたReading Freudがんばろう。

身体大切に過ごしましょう。良い一日になりますように。

カテゴリー
精神分析 精神分析、本

オグデン、習慣を崩す

カーテンも開けず自分が訳したオグデンの文章について考えていた。自分の訳だから怪しいが、オグデンが引用するウィニコットも大矢訳で確認しながら訳していると、この訳はこの方がいいのではないかなあ、と私のくせに思ったりする。これがウィニコットやフロイトでなければひっかからない(そこまで読みこんでいないからひっかかれない)けどこだわって読み続けているものに関してはこうなる。でもこういう作業こそオグデンがいうクリエイティブリーディングなので面白い、が最近の隙間時間は演題に出したい原稿が全く書けないことからの逃避としてその作業に占められている。やった気分になりたいだけ、という感じがして良くない。

こういう逃避癖も治らないが、元々の注意力のなさとか落ち着きのなさに加え、おそらく加齢のせいで、あれどこだっけ、それなんだっけ、これいつのだっけ、やったと思ってたのに、などが増えてきた。なので、というわけでもないが、休み中に会った友人が最近お財布を持たなくなったといっていたのをヒントに習慣を少しずつ変える、というか、ほぼ意識しないで扱えるようになっていたものに対して少しずつ「あれ?」となるポイントを作ることで覚醒する瞬間を増やすということを始めた。最初は私もいつものお財布をもたない、ということをしてみた。案の定、色々困った。でもこの作戦は私にあっているかもしれない、と思った。最低限必要なものを吟味するにもいい機会。自分で自分を騙すみたいな戦略が意味のわからない人もいると思うが、そういうのに引っかかってしまう人もいるのだ。注意と記憶の問題は簡単ではないのだよ。

そうだ、オグデンに戻るけど、私がこだわっているWhat Alive Meansの8 Discovering a personal life On Winnicott’s “The capacity to be alone”にオグデンが以下のように書いている。


「友情friendshipを私は、部分的には幼少期の遊び経験の観点から考える。孫娘たちとの経験では、彼女たちは私をカーペットに巻くこと(誕生の模倣?)に興味を示し、役割(母親、父親、息子、娘、教師)を割り当てて、私たちに、互いに話し合う親や、教師と話す親や、赤ん坊を世話する親を演じさせる。これは昇華された性的感情の観点から構想されるかもしれないが、それは私が孫娘たちと遊んでいるときに感じることではなく、またウィニコットが自我ー関係性として念頭に置いているものでもない。自我ー関係性ego-relatednessは、「イド関係」
 “id-relationships” すなわち「生のかたちであれ昇華されたものであれ」愛の関係とは区別されるべきである。」

となる。これ最後の「生」を「なま」とルビを振って読ませるのが日本語訳なんだけど、これは昇華との対比だからそのままの、とか未加工のとかじゃダメだったのかなあ、と思ったりする。

と、私がここで注意を向けたのはそこではなくて、オグデンが孫娘と遊んでいる!というところ。オグデンは息子との共著はあるけどあまりパーソナルなこと書かないから珍しいなと思った。でも私が見落としているだけかもしれない。

もうこんな時間。今年はあまりスイカを食べなかったな、と思って秋の果物からスイカに戻ってみたけどいまいちだった。来年はきちんと一番美味しい時期にいただきましょう。

どうぞ良い週末をお過ごしください。

カテゴリー
精神分析 精神分析、本

暦、オグデン、ウィニコット

今朝は冷房をつけず窓を開けたまま。少し蒸し暑いけど風を感じると気持ちいい。ようやく!と思うけどまた暑くなるらしい。でもこうやって季節は先に進んでいく。8月28日から9月1日くらいまで第四十一候「天地始粛 (てんちはじめてさむし)」 。日本の気候も変わった、と心配しているが、七十二候はしっくりきてることにいつも驚いてしまう。

驚いてしまうといえば最近まとめたオグデンのWhat Alive Meansの8 Discovering a personal life On Winnicott’s “The capacity to be alone”でオグデンが


「ウィニコットが自らの思想を表現するために、フロイトの構造モデル――イド、自我、超自我――の用語を採用するたびに、私はいつも驚かされる。ウィニコット独自の思考は、身体的衝動(イド)、道徳的判断と理想化(超自我)、そして対立する内的要求と外的現実のあいだでバランスを取り統合しようとする努力(自我)から成る“委員会”というメタファーに、新たな次元を加えている。」

と書いている。直訳だとわかりにくいかもしれないけど、私もウィニコットの


「個人的に、私は自我-関連性(ego-relatedness)という言葉を用いるのが好きである。この言葉は、自我生活とでも呼ぶべきものに繰り返し起こる紛糾事態であるイドー関係(id-relationship)という言葉と、かなり明確な対照をなすので好都合なのである。」

にはなんでーと思う。オグデンはウィニコットがこの言葉によって新しい次元を持ちこんだみたいなことを書いたあとに


「ウィニコットの貢献におけるこうした側面を踏まえると、なぜ彼が「自我関連性」と「イド関係性」という用語を用いたのか疑問に思うかもしれない。この問いに対する答えは持ち合わせていないが、ウィニコットにとって重要なのは、「フロイト派」ではない。「真の」精神分析家ではないと非難されることを避けることが重要だったのだろう。メラニー・クラインはフロイト派ではないと非難され、代わりに「クライン派」(この用語は大論争(Controversial Discussions)の期間中にアンナ・フロイトによって造語されたと言われている)と呼ばれていた。 クラインは自らの全く異なる死の欲動概念を指すために、フロイトの用語「死の欲動」を用いることで「フロイト派」としての資格を維持しようとしたのかもしれない。ウィニコットも独自の「自己」と「欲望」という用語を使わず「自我」と「イド」という用語を使用している点で、同様のことをしているのかもしれないが、これはあくまで私の推測に過ぎない。」

と書いている。正確な訳は原著をチェックしていただきたいがまあこんなようなことを書いている。

私はこれに対してもなんでーと思う。クラインもウィニコットもフロイトへの忖度はあっただろうけど、ウィニコットの場合、精神分析用語から離れずに自分の言いたいことを言うにはどうしたらいいかということをすごく考えていたからじゃないのかな。ウィニコットは精神分析理論に環境の重要性を持ち込むという大仕事をしながら、何が精神分析であるかをいつも明確にしようとしている。新しいものを持ち込むときに古い理論を雑に踏み荒らしたり用語を適当に使わないということにウィニコットはいつも意識的だったと思う、私がウィニコットを読んできた限りは。

にしてもego-relatednessとid-relationshipという用語は奇妙だなあと思う。どちらもひとりでいるけどお互いそこにいる、というcapacity to be aloneはego-relatednessと関連している。まあ、この論文は短いからオグデンが読み込むみたいにいくらでも深掘りできるというのはある。ウィニコットの場合、発見はいつもこちらに委ねられている。がんばろ。

もう8月も終わる。こんなことをしていては演題を提出できない。でも書けないんだなあ。がんばろ、と自分を励ましつつやってみよう。

なんだか暑くなってきた。良い一日になりますように。

カテゴリー
精神分析 精神分析、本

アンガーマネージメント、時間

暑い。梨が少し蜜がですぎた感じになっていたけど美味しく食べられた。よかった。

昨日、なぜか忘れたけど怒りについて考えていた。今は会社でアンガーマネージメントの研修とか当たり前になっているけど、一定の人に効果があると思う。なんでも一定の人には効果があるとはいえ、「まず落ち着け」みたいに自分に語りかけている人はそれなりにいるわけでそれを認知、思考、感情、行動などの側面から見直したり、自分の状態や対処行動の記録をとったり、相手にブワッと怒りを向ける前に自分に注意を向けてそれがなんであるかを知ったうえで、怒るべきことには怒れるように、そうでない怒りはある程度収められるようにコミュニケーションスキルを考えていくことはかなり有効だ。そのためには時間が必要なので「まず落ち着け」と数秒は耐えることが必要になる。

一緒に住んでいる相手とか物理的な距離を取りにくい相手だと「またか」という失望が加わるし、色々なんとも難しいが、お互い全く違う時間が流れているとか全く常識が違う、ということは当たり前といえば当たり前で、そういうのは時間経過で折り合いがつくものでもないので、あまり理由つけすぎない程度に「まあしかたないか。相手は相手、自分は自分のすべきこと、やりたいことをやろう」と思えたら楽だろう。相手のことを思うことは大事だが、自分を見失うと怒りは相手に向かいやすくなる。まず自分を取り戻す数秒を、という感じか。

時間というのはとても大事だが、人は直線的な時間のみに生きているのではないというのはベルクソンを読めば深められる。読まなくても前に書いた平井靖史さんの本や動画でベルクソンを学べる。

オグデンも“What Alive Means: Psychoanalytic Explorations”の8. Discovering a Personal Life: On Winnicott’s “The Capacity to Be Alone”でそこに触れている。この論文については前も書いたがウィニコットの“The Capacity to Be Alone”はオグデンの”creative readings”シリーズの15番目である。

From the perspective of synchronic time, one would not have to say that the internal environment comes to play the role once played by the external object mother. In- stead, one could conceive of the individual’s past experience of the mother as external object as an impression left on the infant that becomes part of who the infant is (not as an internal object). The concepts of an internal and an external world need not be invoked; instead, one is thinking about past and present experience in relation to who the infant is and is becoming.

オグデンがいっているのは、ウィニコットは直線的(diachronic)に外的対象である母親が内的環境の役割を果たすようなる、というような書き方をしているが、共時的(synchronic)に母とともにあった経験のimpressionsが、乳児の存在を構成していると考えた方がいいのではないか、ということらしい。その方がウィニコットの “actually to be alone” に含まれる逆説を活かせるのではないかと。

うーん。わかる。すごくわかる。対象と環境の関係は本当にどう書いていけばいいのだろうねえ。6月の協会の大会でもそこに焦点化したものを発表したけどオグデンは引用しなかったな。いまいちついていけていなかったからウィニコットのことばかりになった。creative reading続けたい。

今日もあっつい。気をつけて過ごしましょう。

カテゴリー
精神分析 精神分析、本

声明、バトラー、寄付など。

空がグレーだけど曇っているわけでもない。東の空がここからは見えないだけ。すでに暑くて大きな窓を開けてすぐに閉めた。

昨日はガザに関する声明を出している心理職などのウェブサイトを見ていた。今日もイスラエル軍はガザへの攻撃をやめない。国連からの非難にも聞く耳を持たないだろう。

声明はAPA、Division 48 of the American Psychological Association、The International Pediatric Association (IPA) など。各国の心理職団体も。APAの声明は参照している文献が多い。日本の本だったら何を参照するだろう。私は日本の関わりも示す早尾貴紀さんの本とかかな。

私は精神分析家なので精神分析実践を行う理論家たちの論文や著作からさらさら引用できたらいいのだが、哲学者の文章の方がそれをしやすい。素人の強みによるつまみ食いが発揮されているのだろうと思う。昨日も精神分析のことを考えていたのにいつのまにジュディス・バトラーが言っていたことばかり思い浮かべていた。もちろんバトラーはフロイト読解から彼女の概念を導いてもいるので離れてはいないのだが分析状況で話される言葉(考えにいたらないものも含め)の複雑さとのギャップはこちらが埋める必要がある。

バトラーの『非暴力の力』などに書かれている「哀悼可能性」あるいは不可能性、「理解可能intelligible」あるいは不可能、非現実化derealization、そしてそこから締め出される現実、などバトラーが開こうとする可能性はそれが不可能とみなされる、つまり人間としてみなされていない人たちの可能性を示すものである。

まさにガザの子どもたちでは、と思う。精神分析はモーニングワークができる心のスペースの生成に貢献するものなので、すべての喪失は喪に値するという倫理は共有されているはずだと思う。また実践によって、モーニングワークを主体に語る権利と沈黙する権利を保障することも。

自分のしていること、考えていることからできる運動を考えていきたい。

先日、富永京子さんがSNSで、ガザの子どもの写真を見て、いてもたってもいられなくなったから寄付をしたと書いていた。とても共感する。個人にできることはわずかだが寄付という手段は手続きが少ないのでやりやすい。

私も安東量子さんたちのNPO法人福島ダイアログとか瀬尾夏美さんたちの能登半島の地震と豪雨の記録と表現のプラットフォーム「noto records」など少額ながら継続的にいくつか寄付している団体がある。国境なき医師団とかも継続的な寄付とその都度任意で行う寄付と方法も分けられる。

今日も各地で続く目を覆いたくなる状況にせめて目を開いておくこと。少しずつできることを。

カテゴリー
お菓子 精神分析 精神分析、本

因幡の白うさぎフィナンシェ、Dana論文、オグデン

毎日、空が明るくなる前に起きてしまう。そこからすぐなにかやりたいわけでもないのでカーテンの向こうに強い陽射しを感じるまでは寝ていよう、とぼんやりしていた。ウトウトしてすごく眠ったと思ったがそんなに時間は経っていなかった。そんなのを繰り返しているうちにNHK俳句の時間になったのでテレビをつけた。桃も剥いた。桃もとてもちょうどよく熟していて皮は引っ張るとつるんと向けてどろっとせずにきれいな形に切れた。果物の水分って贅沢。美味しかった。食べたらまた眠くなった。コーヒーをいれよう。寿製菓の「白ウサギフィナンシェ」をお茶菓子にしよう。有名な「因幡の白うさぎ」の洋菓子バージョン。「古事記」の神話「因幡の白兎」は有名だけど、この夏、その神様が祀られている白兎神社に行ったの。鳥取駅からバスで行けるのだけどそのバスだとその後の行程を考えたとき、白兎神社にいられる時間が短くなってしまうからちょうど出るところだった山陰本線で無人駅の末恒駅で降りて30分くらい歩いていった。おかげで結構時間が取れたし、面白い神社だった!地元の人って様子の方がひとり、またひとりと兎いっぱいの小さな神社に参拝に訪れていて、私がみたのはみなさん割と年配の男性ばかりだったのも興味深かった。

さてさて勉強のメモをしておこう。

昨晩は、Dana Birksted-Breen ”The Work of Psychoanalysis Sexuality, Time and the Psychoanalytic Mind”に収めれている6 PHALLUS, PENIS AND MENTAL SPACEを読んだ。少し前に準備したのですっかり忘れていたがみんなと話しているうちにDanaはこういうことを言いたいのだろうと考えていたことが口から出た。思い出せなくても話しているうちに出てきてそうそうそうだったとなることは多い。この人の論文は膨大な理論的裏付けがあるので、それらの歴史的変遷をこちらが踏まえている必要がある。勉強勉強。

が、今の頭の中はオグデンとそれにヒントをもらいつつ深めるウィニコット。特にウィニコットのgoing on beingについて。これは胎児の状態といえるが、ウィニコットは生まれてまもなくの状態もその延長と考えているのだろう。ウィニコットはこの特別な時期における母親と胎児の体験を彼らの時間感覚で書いているのだと思う。

オグデンThomas H. Ogdenは、サンフランシスコで開業している精神分析家。今のところ、彼の一番新しい著書、What Alive Meansもだいぶ読み進めた。次回、アプライしたい演題に向けて再読したのは7 Transformations at the dawn of verbal language。オグデンがこの章の後半で引用するヘレン・ケラーのThe Story of My Life(1903)はヘレンがサリヴァン先生との間で、前言語的な記号の世界から言語的に象徴化された世界に開かれるプロセスを描いている。言葉によってヘレンの時間がそれまでとは異なる感覚で大きく動き出す瞬間ともいえるだろう。書いてあるのはこんな感じ。

With the acquisition of verbally symbolic language, there developed a new way of experiencing, a new way of coming into being, and a new way of being alive. Emotions that she had not previously been able to feel-repentance and sorrow and love-Helen became able to experience. It is not that these feelings were latent and were waiting to be unearthed. This is emphatically not the case.

These feelings were created for the first time when Keller entered the world of experience verbally symbolized. “Everything had a name, and each name gave birth to a new thought… every object which I touched seemed to quiver with life.” Names are not simply designations for feelings and things, they are ideas about feelings and people and things. Language gives rise to a qualitatively different realm of experience, a realm in which one is both subject and object, one is able to think of oneself thinking, one is alive to levels of meaning, range of emotion, complexity of feeling, and forms of experiencing not previously attainable.

「言語的な象徴言語(verbally symbolic language)を獲得することで、まったく新しい経験の仕方、新しい存在の仕方、そして新しい生のあり方が生まれた。ヘレンは、それまで感じることができなかった感情――悔恨、悲しみ、愛――をはじめて経験できるようになったのである。だが、これらの感情がもともと心の奥に潜んでいて、掘り起こされるのを待っていたわけではない。断じてそうではない。これらの感情は、ケラーが言語によって象徴化された経験の世界に足を踏み入れたとき、初めて創造されたのである。「すべての物には名前があり、それぞれの名前が新しい思考を生み出した……私が触れたすべての物が、生命の震えを帯びているように見えた」。名前は、単に感情や物のラベルではない。それは感情や人や物についての思考そのものである。言語は、質的に異なる経験の領域を生み出す。その領域では、人は主体であり対象であり、自分自身を考えることができる存在であり、意味のレベル、感情の幅、感情の複雑さ、そしてこれまで到達できなかった経験の形態を生きることができる。」

直訳だけど。

この記述の前にオグデンの分析的第三者の記述があって、病理的な分析的第三者Pathological forms of the analytic third (“the subjugating third” (Ogden, 1996))が出てくるのだけどここは保留。the analytic thirdってこういう形態変化するものではなくてもっとニュートラルな概念として登場したのではなかったっけ、と思ったから。あとで確認。

カテゴリー
コミュニケーション 俳句 精神分析

キウイ、医者、俳句

キウイを食べた。きれいなしっかりしたキウイをもらったのだけどまだ少し硬いかな、と我慢していた。果物ってそっと触れてみて食べ頃を判断するところがいい。たまにスーパーでいくつも押しすぎだぞという人を見かける。たくさんあるからひとつ試してみようかな、と半分に切ってみたらスッと切れた。にっこり。ちょうどいい。先がギザギザのスプーンを用意していたけど普通の丸いスプーンでもいけそう。さて。うん。きれいに果肉をすくえる。ジューシー。

先日、いつも行っている医療機関に健診で行った。不具合を言おうとしたら「それは今日は違うから」と言われた。おっ、と思って引っ込めたら私がまだ話してもいない不具合に対して対処方法を教えてくれた。「なになにするといいらしいよ」とか「なになにする人はそうなりやすいみたい」とか。かえって手間が掛かっているのでは、と思ったがニコニコ聞いた。ノーエヴィデンスでも害がなければ取り入れる価値は十分。仕事の合間に時間を作っていくのは大変。検査だけなら検査機関に委託してくれてもいいのに、と思ったりする。一方、看護師さんたちの観察力と対応力が素晴らしい。補いあっているのだろう。

別の医者は町内会の話題とかで診察が長引くのを聞いたりもする(聞こえてしまう)。娘世代の私には一切余計なことをいわない。でもすごく耳の傾け方がうまい。特に伝えることがなくてもなにかしら言葉にした方がいいのかと思うほど。その先生はそろそろ引退。長い間お世話になった。

私が知っている高齢の町医者の先生たちが「先生の声を聞くだけで」「先生のお姿を拝見するだけで」と言われているのを何度も聞いてきた。受付に今日は先生はいるのかという確認の電話がかかってくるのも何度も見てきた。受付の方も慣れていて確認だけの場合、もし受診する場合、などいくつかのパターンの答え方をしていて興味深い。

私が勤めていた小さな単科精神科病院の院長先生もそうだった。いつも数人の患者さんは早朝からドアの前にいて、待合室はいつもいろんな人で溢れていた。院長がニコニコと廊下に現れると空気が明るくなった。地元密着の医療機関では特に、単に、毎日そこにいるだけではなく、そこにいけばその人がいる、という安心感が大事なんだと思う。今はSNSをそういう場所にしている人もいるだろうし、SNSでそうできなくなった人もいるかもしれない。

すごく忙しかったけどすごく好きだった職場。半日でも働かせてもらいたいけど物理的にも難しいし、すでに病棟は閉じたという。本当にたくさんの出会いとつながりがあった。

精神分析や心理療法で誰にでも何も考えずに「また何かあったら」ということは私はない。気楽な存在として相手を肯定しあえるようになると実際にいるかどうかはあまり重要ではなくなる。分離やモーニングワークの条件のひとつ。そのプロセスは全然気楽でない場合が多い。

生活の場であれば、悪いのは私じゃないじゃん、と気づいて気楽にさよならしたり、実際に別れなくてもいつでも別れられるという選択肢を持てるようになる場合もある。一人で背負う必要なんて全くない。

さてさて今日は土曜日。昨日は俳句を作らなかった。オンライン句会の結果が出たけど今回もダメだなあ。締切間近に慌てて作るのがいけない。でもみんなの句を読むのは楽しい。お題に「蟷螂」があったんだけど、昆虫展に行ったり実物を観察してると全然知らなかったということがたくさんあって俳句にするにはすごくいいと思う。今回もいろんな俳句が出てきて面白かった。ここ数日、夜は虫の声が響く。昼はまだ蝉たちが元気。しかし秋だ。おいしくのんびり過ごせたらいいな。

どうぞ良い一日を。

カテゴリー
テレビ 短詩 精神分析 言葉

ドラマ、言葉

いいお天気。昨晩は虫の声がきれいでやっぱり秋になったんだな、と思った。今朝は桃にしようかな。梨にしようかな。果物を送ってもらって嬉しい。

NHKドラマ10「舟を編む 〜私、辞書つくります〜」の最終回を見た。三浦しをんの原作をまだ読んでおらず、原作とは異なると聞いているがとってもよかった。みたあとは言葉に対する意識が変わる。すぐに忘れてしまいそうな言葉への素敵なこだわり。一方、感化されやすく不真面目な私はドラマで見聞きしたものを会話にすぐ取り込みたがる。「それも載せましょう、私の辞書に」など。

私の辞書のキャパは想起の量から見積もるにかなり小さい。想起の量から見積もられるときつい。知識があっても行動しなければ無意味、と言われるのと同じ感覚。いけない。もう頭がふざける方に向かっている。脳内でもっと上手にふざけられれば作家になっていたなんてこともあったかもしれない。村田沙耶香みたいに(『となりの脳世界』を思い浮かべている)。村田沙耶香は大真面目に面白いことを書いているのでふざけているわけではないだろう。それにしても、私の脳世界はなんとつまらないのだろう、と思うことしばしば。

そしていろんな人のお決まりの言葉を思い出す。「こんな私がこの仕事をやっていていいのか」と。なにそれ、どんな私ならやっていいわけ、と即座に言える私でもたまにはそうやって卑屈になる。しかし、選択したのは自分で、誰に強要されたわけでもないのでこの仕事をできるであろうと思った私がいたのだ、絶対。なんの根拠もなく。

これは「好き」とほぼ同義なので単なる万能感ではない。でもこの好きが厄介な場合もあって「好きなだけでやっていいのか」とか言い出してしまう場合もある。「だけ」と言いたくなる場合でも大抵それだけではないのにね。

言葉って厄介で大変だけどそれだから面白い、とかやっぱり厄介。でも厄介払いしない。面白いし好きだから、と戻ってこられる世界だから行動も大事だけど大事なのは言葉にするという行動かも。暮田真名さんの川柳なんかは言葉の意味をいい感じに剥ぎ取ってものとして提示してくれるからそれまでとは違う感じで言葉と関われて楽しい。来月9月には初エッセイ集『死んでいるのに、おしゃべりしている!』が信頼の柏書房さんからでるとのこと。タイトルがまさにまさに。私がウィニコットやオグデンの使うaliveを探求するのはそれが死とくっついているからなんだけど、こういうタイトルって軽やかにそういうことを言っているような気がする。こじゃんと楽しみやき(朝ドラの影響。高知の言葉楽しい。健ちゃんの「〜しんしゃい」も大好き)。

どうぞ良い一日をお過ごしください。

カテゴリー
精神分析 言葉

言葉。

早朝は少し涼しい。日中の暑さもそろそろ和らいでほしい。

「週刊新潮」の連載コラム「変見自在」は今のところ差別をはっきり認めたり謝罪したりしないまま終了するらしい。多くの作家が声を上げてくれたから知ることができた事件。時代が変わってもこうした振る舞いは止まらない。朝ドラ「あんぱん」では読者にウケる辛口記事を書く蘭子に八木さんが至極論理的なことを言い蘭子はきちんと心揺さぶられ、思考する方向へ動いたが、何を言われてもしてはいけないことをしたと思えない、というか、本来してはいけないがこういう場合はしてもいい、というルールを持っている人も一定数いる。小さい子が罪悪感いっぱいになりながら自分の正当性を主張するのともだいぶ違う。思ったとしてもいう必要のないことをあえて言葉にするのは悪意だ、ということもできるがそれも立ち位置を変えればむしろそう捉える方が悪意だ、みたいになる。それでも、なんとでも言えることに対して何かを言っていくことは大事だろう。

一方、言葉をそのまま受け取らず、何がどうなってその言葉が発せられているかにも注意を払いたい。精神分析は頻回の設定によるカウチでの自由連想という方法で「あれ、なんで今このこと思い出したんだろう」「なんで今この言葉を使ったのだろう」ということが生じてくる。そしてそれに対する抵抗がまた別の言葉をうみ、過去の出来事はそれまでとは違う形で想起されたりするようになる。もちろんそれは現在と未来にも響いてくる。今見えているものとは全く別の何かとの思いがけない出会いは最初は相当きついのが常だ。抑圧という機制は人間の心を守るために絶対に必要だった。言葉はそれを巧みにやってのけるがそこにもその人らしさが出るのでそこもアセスメントしている。みているのは言葉の内容ではなく言葉の使用の仕方と言ってもいい。精神分析は少なくとも2、3年は受けた方がいいと感覚的には思う。私は分析家になるために行けるとこまで行きたいという感じがあり相当長く受けたが、人生の生業を別の場所に置く場合はあまり長いのは現実的ではないだろう。

鳥がすぐそばで鳴いて去っていった。静かな朝。こんな暑くてもすっかり秋を感じる毎日。不思議なものだ。

良い一日になりますように。

カテゴリー
Netflix テレビ 哲学 散歩 映像 映画 精神分析

戦争に関する番組をみたり。

早朝から歩いた。曇り空だけど蒸し暑い!

この数ヶ月、ずっと戦争に関するドキュメンタリーをちょこちょこみていた。ヒトラー、チャーチル関連の作品を見終えたあとは「NHKスペシャル 新・ドキュメント太平洋戦争」のシリーズなどをみていた。昭和館とかにたくさん資料があるからまた行かなとな。デジタルアーカイブはこちら

昨晩は地上波で『火垂るの墓』をやっていたのでそれもみてしまった。何度見ても目を背けたくなるが、好きなシーンもたくさんある。後半の節子がひとりで遊んでいるシーンはもうどうしようもなく尊い。尊厳を守ろうとする子どもたちが守られることを当たり前としないのが大人の世界なのかもしれないが、それでも本当にこういう尊い子どもたちはこれからも生まれてくる。

NHKスペシャルもエゴ・ドキュメントという当時の日記や手記の引用や分析から太平洋戦争の知られざる側面に迫っていたが、『火垂るの墓』をみるとアニメーションの力はすごいなと思う。いろんなドキュメンタリーを見ているときはひたすら言葉をなくす感じというか、思考停止になる感覚ばかりで、何を見たり聞いたりしても何も感じなくなっているのは私ではないか、という不安に襲われたが(それこそが戦争という現実の怖いところなのだろうと思うが)アニメーションはというか『火垂るの墓』はひとりひとりの人間の重みがずっしり伝わってきて、それは思考を促すもので、想像力が勝手に刺激される感じがする。だから見るのはとても辛いのだけどまだ感じられる自分は何を感じ、何を考え、どう生きていくのかということを考えさせてもらえる。それは全然知的な理解ではなくて、単に情緒を伴った人間の自然な振る舞いなのだろうけど。自然さや本来さなんてすぐに失われて、実はそっちが本質だった、みたいな言い方に導くのが戦争なんだと思う。たとえそうだとしてもそれに抗うように人間はできているという信念を貫いていきたい。

それにしてもお盆の期間、東京は人が少なかった。いつもなら夕方にいったらほぼ何もないような安い八百屋さんにもしかして、と思って寄ってみたらいいものがまだ少し残っていて買えた。大好きな無花果まで安いのに残っていた。この前、スーパーで高くて諦めたばかりだったからテンションがあがった。ハチミツとかでドレッシング作って無花果のサラダにしてみたり楽しんだ。時間があるときにやっておきたいことはたくさんあるけどバタバタするのももったいないからのんびりできて幸せだった。八百屋さん的にはちょっと苛立つ状況なのかブツブツおっしゃっていたけれど。安く売るというのは全部さばくというのが条件だろうからなあ。私は買えてありがたかったけどヤキモキする時間帯ってあるのだろうなあ。

お天気はどうなるのかしら。みなさんの地域はどうでしょう。大雨の影響が大きかった地域のみなさんも元気でありますように。

カテゴリー
精神分析

大雨のニュースとか。

今朝は鹿児島に大雨特別警報のニュース。能登の大雨も相当大変そうだったが大丈夫だろうか。私は昨晩もきれいな月をみた。地球はどうなっているのだろう。

生命の起源を宇宙に置くとしたら災害は単に人間のものではない。だとしても小さなひとりひとりの命がおびやかされないことも同時に考えなくては。異質なものとの出会いがこれまで大切にしていたものを変えてしまうとしても徐々に、という変化のありように注目したい。ウィニコットがgraduallyを強調したように。

オグデンがウィニコットのpotential spaceを検討する論文でこういっている。

This transformation of unity into ‘three-ness’ coincides with the transformation of the mother-infant unit into mother, infant and observer of mother-and-infant as three distinct entities.

ユニットが「三者性」へと変形することは、母子ユニットが、母、乳児、そして母—乳児を観察する第三者という三つの異なる存在へと変形していくことと符合している。

この変形プロセスをさらに細かく検討しているしかたがとても興味深いのでそれも確認しておきたい。

でも朝はとりあえず身体を使おう。目覚めてから難しいことは考える。

早く大雨警報が解除されますように。被害が広がりませんように。

カテゴリー
精神分析 読書

自分の言葉、森崎和枝『能登早春紀行』など

立秋。夜明けの空がきれい。

毎晩、月が膨らんでいく。明るさも毎日違う。にしても暑すぎではないだろうか。昨晩は帰り道でも涼しさを感じられなかった。朝から広島の映像、広島の語り、広島への祈りをずっと感じていたからかもしれない。最近『火垂るの墓』も『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』も見ていた。首相が「自分の言葉で」語ったことが多く取り上げられていた。

「自分の言葉で」。精神分析へのニーズをそこに見出す人は多い。それを欲しながらもいかに難しいかを実感している人は探究の苦痛に耐えうるかもしれない。私たちは他者なくしては生きられず、果たして「自分の言葉」なんて存在するのか、という気もするが、表現の自由と言うのは「自分の言葉」で話す限り有効でだと思うので存在するという希望を捨てない。他者との関わりのうちに育つ言葉をそう呼ぼう。相手を変えようとする言葉ではなく。

米田翼『生ける物質-アンリ・ベルクソンと生命個体化の思想-』、前よりも読める感じがする。平井靖史さんの著作のおかげだろう。

「創造とはまさに新規性nouveautéなのである。」

そうに違いない。この本は様々な一元論をとても丁寧に解説してくれている。補論のアレクサンダーの形而上学は狙い通り、ウィニコットを読むときのヒントになってくれそう。嬉しい。移行対象は時空から構成された素材、ととりあえず仮説を立てた。

『能登早春紀行』 森崎和江 著もすごくいい。震災後の夏に羽咋、小松、金沢、今年のGWに和倉温泉、七尾、金沢へ行った。来年は輪島へ行きたい。森崎和江の豊かな五感による観察が深い思考を通じて言葉にされているこの本、とても好き。能登がこうやって語られていること自体が今はとても貴重に思える。

現場へ。いつもそばに、ということはできなくてもいつも心を寄せておくことはできる。大雨の被害も広がりませんように。