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精神分析

心が迷子にならないように。

今朝は信州八ヶ岳のお菓子「くるみやまびこ」を熱い緑茶と一緒に。最近、早朝から鳥たちがすごくにぎやか。この前、山にいったときは鳥の声がしないなと思った。木があればそこにいるというわけではないのよね。


ここ数日、SNSで「なになにしない人生は損」とか「なになにしないなんて人生の喜びを失っている」みたいな言葉を多く見かける、というか、誰かが言い出すと一斉に似たような言葉がわいてくる。わくならお菓子とか白米のほうがいいな。ちいかわの世界だけど。とにかく言葉が軽く使われすぎているのだろうなあ。使うほうも特定の誰かに向けているようで全然相手の受けとり方は考えていなかったりするから、相手の反応に結構本気で驚いたりして、そこで「ああ、そういう受け取り方されるんだっけ」と自分の言葉を振り返るより先に、別の誰かがその受け取り方に文句つけてたり、とかほんと意味わからない・・・と思うこともしばしば。人の損得や喜びを勝手に閉じた世界に持ち込まないでほしいし、みんなのための言葉を自分の習慣に押し込めないでほしい。


早口で大きな声で話されると勢いばかり感じてなんにも内容が残っていないとかってよくあるでしょう。それとか、前に書いたけど「なんとかの分際で」とか人を明らかに見下す表現を使われるとその人に対する心が死ぬとか。言葉ってなんでこんなに通じないの、とかそこだけ浮き上がらせて切り離すんだ、と驚きの連続で、そういう衝撃は立ち止まる余裕を失わせるので、こっちも結構ひどいこといっちゃったり、コミュニケーションはあっというまに閉じていく。それって本当にもったいなくないですか、というより、まずくないですか、と思う。もちろん、ここに書いているのはすべて自分にも当てはまることだからなおさら切実。


そういう意味でも(どういう意味だ)、土居健郎の「甘え」は興味深い。土居は、これも甘え、あれも甘えといっているのだけど、それは「また甘えて」とか「甘やかしすぎ」とかそういう言葉で活用される「甘え」とは区別している。土居は、関係や出来事を「甘え」という言葉で大きく囲っておく。これ、共有財産ですから、という感じで境界をゆるめる。では、ゆるりと囲われた複数の「甘え」たちはみな一緒か、というとまるでそんなことはない。人も中身も違うのだから当たり前だ。ただ同じ構造で捉えられますよね、と。中身は色々でしょうけど、と。で、そうやって構造を見出すことになぜ意味があるかというと、これは概念の使用とも関係するけど、人は枠組みがないと迷子になるから。


共有財産としてみると、土居は「甘え」の非対称性をそうやってぼやかしながら、多様な関係(神との関係まで!)に枠組みを与えたのだろう。それに対して、その関係に含まれる方向性や非対称性を詳しく考えようとしたのが北山修である、と思う。北山は色々な本で「甘え」について書いているが、今回は日本精神分析協会が発行しているThe Journal of The Japan Psychoanalytic Society vol. 6.から引用する。この巻は、Special issue on “Amae”という特集が組まれており、北山はここにTakeo Doi “wrestled” with Freudian psychoanalysisという論考を寄稿している。


北山は、そこで、土居との関係から出発している。北山は、土居に立場の違いを利用された(pulled rank)と感じ、土居が自分にとって「エディプス的父親」になった、と語る。そして、土居を高い位置に置いているのは自分自身でもある、と認める。 北山が、自分が相手を上に置くという心的な働きに注目していること、つまり、上下関係には、それを自ら作り出す心的な働きも関与していると捉えていることは興味深い。


土居が、非対称的な関係に由来する「甘え」を、必ずしも上下関係に限定されない構造として捉え直せる、と考えていたのに対し、北山は、「甘え」から上下関係を明示的に取り出し、上から下、下から上という方向性が組み合わさる構造を「愛の階層性(hierarchy of love)」と呼んだ。北山は、そこで、幼児が母親に向かって手を伸ばす姿についても、単に抱っこしてもらいたいという受動的な願望だけでなく、想像力や遊びによって自ら母親のところへ到達しようとする能動性を読み取る。 さらに、幼いキリストが母マリアを慰める図像を挙げ、子どもが母親に能動的な愛を与える可能性も示している。


北山は、 まずは人間土居健郎を特別な対象とし、土居を上位に置く自分自身の関係を、「甘え」理論の重要な要素として問い直そうとした。 そして、そこから上下関係という一つの構造を取り出し、日本文化のさまざまな素材を参照しながら、独自の考えを展開してきたといえるだろう。


要するに、土居は異なる関係に共通する構造を見出し、北山はその構造の内部の位置関係や方向性を明らかにしようとしたといえるか。フロイトの「自我」概念を見てもあきらかだが、ひとつの概念はそれを用いる人がいれば多様な仕事をまかされるようになるのである。「甘え」を含む心が迷子にならないように、私たち専門家は、理論と実践、そして個人の経験の歴史の内側に身を置きながらそれを検討する。それは同時に言葉を大切にすることである。そしてそれは言葉以前の思考に身をゆだねることだと私は思う。ここでビオンが、とかいいだすと止まらないので、今朝はここまで。


良い一日になりますように。

八ヶ岳