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歴史とか行動とか。

今朝も風が涼しい。柿も美味しい。雨ばかりだったけど今日は晴れるみたい。嬉しい。


昨日、土居や小此木たち、日本の男性精神分析家たちが「母性」を素朴に前提としすぎではないか、と書いた。


カッコつきの「愛」が家族の内部、とりわけ母子関係に集中して位置づけられるようになったのにも歴史がある。


木本喜美子(1995)『家族・ジェンダー・企業社会――ジェンダー・アプローチの模索』(ミネルヴァ書房)で、木本は、近代化とともに子どもの養育を中心課題とする(近代家族)が析出し、そこでは子ども観の変化が決定的に重要であった、と述べた。

まず、木本は、家族社会学が前提としてきた家族モデルについて、こう述べる。


>山田昌弘および落合恵美子らが喝破したように家族社会学、とりわけアメリカにおけるそれは、その成立段階における支配的家族の特徴を家族の本質として敷衍し、それをもっとも進んだ段階の家族として位置づけていた〔落合 1989:144-145〕。すなわち家族社会学が分析し記述したものは、家族の普遍的側面ではなく、当時の支配的な家族としての<近代家族>の特徴にすぎなかったのである〔山田 1986:52-63〕。のちにも触れるが戦後日本の家族社会学が多くを負っているのは、このアメリカ社会学のパラダイムであった。成立当初の家族社会学が前提として組み込んだ支配的家族とは、以下でとりあげる<近代家族>にほかならない。(22頁)

家族社会学が「成立段階における支配的家族の特徴を家族の本質として敷衍」したという指摘は、土居を検討する際にも重要かもしれない。「戦後日本の家族社会学が多くを負っているのは、このアメリカ社会学のパラダイムであった」。この指摘は、土居の「甘え」論についても、その記述を支える家族像を問い直す視点になる。日本で観察された母子関係から、どこまで人間の普遍的な依存や「甘え」を論じられるのか。観察された関係のなかに、すでに歴史的な家族規範が入り込んでいることは考慮すべきことだろう。

また、木本はヨーロッパを中心とする家族史研究を概観し、フィリップ・アリエスは、『<子供>の誕生』[Aries1960]が明らかにした近代化の過程を通じて家族がいかに変容したのかに言及する。
引用する。


>その主要な成果は、近代から現代にいたるまでの家族観念と中世におけるそれとの間には、天と地ほどのへだたりがあることを明らかにした点に求められる。これは「子どもの成長をあたたかく見守る家族」という私たちの家族イメージと規範が実は社会の近代化過程においてはじめて定着をみたものであって、それ以前には独立した「子ども時代」という観念が存在しなかったという驚くべき発見によってもたらされた。(中略)私たちになじみの深い純粋無垢な子ども期、かわいがりの対象であり保護と教育を必要とする子ども期を中心として組み立てられる家族生活というイメージは実は、歴史の途上で、十六世紀から十八世紀にかけて徐々に形成されたものであった。したがってこうした営みを人間の本質として、あるいは家族の本質として安易に位置づけることはできない。近代化とともに子どもの養育を中心課題とする<近代家族>が析出したのである。そこでは子ども観の変化が決定的に重要であった。すなわち子どもを一方ではかわいがりの対象とし、他方では無垢な存在であるがゆえにきびしくしつける対象ととらえる子ども観が形成されたのである。こうした契機に加えて、公的生活領域と私的生活領域とを区別し分離しようとする傾向が現れる。家族と他の社会関係とを隔てる境界を高くするような営みが、十八世紀に出現するのである。その結果、家族は家族の外部に向かっては閉じた領域となり、家族の内部では子どもの養育を中心課題として凝集性を高めること、そして相互の情緒的結びつきを強めることが意識されることになった。(引用終り)

ここでの子どもは、かわいがられると同時に、厳しくしつけられ、教育される存在として位置づけられている。土居の「教育ママ」の記述も思い出される。子どもへの情緒的な関心が高まることと、子どもを一定の姿に育てようとする要求が強まることが、一緒に描かれているともいえよう。そして、養育を女性の責務とすることで、子どもを中心にした家族の親密さが、女性への役割の固定と結びついていくわけである。

さらに木本は、その家族モデルの実現と浸透に階級差があったことも押さえている。誰もが同じように暮らせたわけではないのに、そのモデルが社会全体の規範になる。すると、それを実現できない家庭や母親が「不十分」と評価される問題も見えてくる。精神分析のブルジョワ性が批判されるとしたら、精神分析にはつながりにくいこれらの人たちに対するまなざしの弱さかもしれない。

そんなことを考えていたところで、北大路書房『心理学は行動から何を語るか』刊行記念オンラインイベント第1弾「行動から何を語り合えるか:心理学と生物学の水際で」をみた。


佐藤駿さんによるカワスズメ科魚類(シクリッド)の研究、なかでも協同繁殖の話が面白かった。


協同繁殖というと、つい「みんなで子育て」「助け合う」といった、なにやら温かいものを思い浮かべてしまう。しかし佐藤さんは、たしか「お金を稼ぐのを協働といえばそうもいえる」という趣旨のことを話していた。なるほど。協働だからといって、そこに愛や善意を読み込む必要はない。まず、何をしているのか、その行動がどんな機能をもっているのかを見る。
これはわかりやすい。ただ、人間の場合は、木本が述べたように、役割分担が形づくられ、変化してきた歴史が動物とは異なる。


昨日は歴史の側から、母が子を育てることに「母性」を当然のように結びつけることを疑った。今日は、生物学の側からも、養育を「母―子」という二者関係だけから考える必要はないのだなと思った。異なる領域から眺めることで、自分の領域で自明になっている前提が見えてくるという体験は学習においてとても大切だ。

精神分析の概念だって、精神分析の内部だけで考える必要はない。そもそも精神分析自体が学際的な領域なのだから、土居が日常語の「甘え」を精神分析のなかで活用したように、むしろそのインターセクションを活用してみればいい。と意気込むにしても、やはり概念化の歴史は大事、と一歩進んで二歩下がる。
もっと時間がほしいが、ないものはないというか、まったくないわけではないのだから少しずつやる。

ところで、共同繁殖ってなんぞや、という人、動物行動学に関心のある方は、小田亮・橋彌和秀・大坪庸介・平石界 編『進化でわかる人間行動の事典』(朝倉書店、2021年)がおすすめ。
出版社HPの紹介を引用させていただく。

>「食べる」「考える」「結婚する」など,ヒトの日常的な行動について,主に行動の機能と進化史に焦点を当て解説した中項目事典。コラムや用語解説も盛り込み,人間行動進化学がヒトを観る視点について知ることができる。(引用ここまで)

どの項目にも「機能」と「進化史」の小項目が必ずあって、「しくみ」とか「発達」とかが書いてある項目もある。こういう構成を見るだけでも、やはり歴史は大事、とまた同じところに戻ってくる。そしてなんと、私的には「なんと」と嬉しい気分になるだけだが最初の項目は「遊ぶ」。行動の事典だから当たり前なのだろうけどみんな動詞なのがいい。「甘える」はもちろんない。「もちろん」と書いたのは、「甘える」を一人の主体の行為として捉えるのは、どうにも心もとないからである。「遊ぶ」「慈しむ」「育てる」「飼う」「助ける」とか「信じる」「信頼する」「見つめる」とかが関係しているか。相手がそれを受け取る、拒む、気づく、感じ取ることまで含めて、はじめてその現象が成立する。その意味では、「甘える」は行動というより関係の様態に近い。というか、土居自身、「甘え」は「甘える」という自動詞から派生した名詞である、とわざわざ書いていた、と思う。

事典をもとに「甘え」を追いたいのだが今朝も時間がない。またいずれ。


今朝は、木本が歴史に即した、ごく「普通」の感覚を示していたのでそれを論拠に「甘え」概念を少し振り返ってみた。それにしても動物行動学の説得力とわかりやすさもいい。特別な思想を持ち込まなくても、生き物、生活、歴史に目を向ければ疑問は生じる。日々できることとして、概念をうのみにせず、その起源と歴史を意識していきたい。
どうぞ良い一日を。

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土居健郎「甘え」理論の必要性

少し動くと蒸し暑い。千葉は今日も大変だろう。雨はしばらく降らないでほしい。せめて大雨にならないでほしい。大地が追いつけていない。

今朝は、再び土居健郎の理論に関して、少し書いておく。前に少し書いてからもう2週間ほど過ぎている。あっという間すぎる。

さて、土居健郎は、『「甘え」理論と精神分析療法』(金剛出版、1995/2013)オンデマンド版の序論で、精神分析の枠内で「甘え」理論をもっとも詳細に論じたのは『精神分析と精神病理』(第2版、医学書院、1970)であり、治療の実際についての土居の考えについては『精神療法と精神分析』(金子書房、1961)と『方法としての面接』(新訂、医学書院、1992)を参考にしてほしいと書いている。私は、実際の臨床が生活のほとんどなので、9月最初にここで精読した『精神療法と精神分析』が一番好きだ。

先日の精読では、第1編「精神療法の構造」を第1章「治療者患者の関係」、第2章「治療場面の設定」、第3章「治療の方針と目的」と通して読み、第2編「精神療法の過程」に入って、第4章「治療の開始」の(1)「初めの探りあい」まで進んだ。


土居は、本書の「第12版発行に際して」で、「その後「甘え」理論として巷間に知られるようになった私の理論は、萌芽としてではあるが、すでに十分に本書の中に示されている」と述べた。たしかに、本書で、土居は「甘え」という言葉をそれほど頻繁に使っておらず、「甘え」はまだ原始的幼児的な感情の文脈に置かれており、独立した理論的展開はなされていない。ただ、たしかに、「甘え」理論として展開されていく臨床的な見方は、すでに「萌芽として」ここに示されている。


たとえば「第5章 感情の交流」において「憎悪に満ちた心の陰に甘えたい気持がひそんでいることもあろうし、反対に、甘えているが実はその陰に不信の念がひそんでいることもあろう。」とアンビバレンツの状態を示す言葉として「甘え」がでてくる。土居は、まだ「甘え」を定義してはいない。臨床で生じる現象の主たる説明にもしていない。ここでは、陽性転移、陰性転移という精神分析の概念を用いつつ、それだけでは捉えきれない患者の感情のアンビバレンスの描写の一部として「甘え」が用いられているだけである。


一方、土居は、この時点で「患者の感情を感じとるのは直接治療者の理性によるのではなく、常に治療者の感情を媒介としてなされる」と明確に述べている。臨床例においても治療者が自らの感情を治療的に活用し得ず、「患者を甘えさせる方向に引っぱっていった」と述べるなど、「甘え」はまず、臨床における実感を示す日常語として現れるのである。

第1編でみたように、治療者と患者の関係がどのような場として成立し、そこで治療がどう始まるのかというのは、構造→設定→方針と目的→実際の開始、という順序で書けるが、一旦治療が始まれば、状況はいよいよ複雑になる。本書の第2編の症例たちがそれを生き生きと伝えている。「甘え」はこれらの臨床によって概念として育まれてきたのだ、と思うと、土居がなぜ「甘え」という日常語を概念として必要としたのかという問いも立ち上がってくる。それは単に、留学体験におけるカルチャーショックから生まれたものではない、といえそうではないか。


土居は、『「甘え」理論と精神分析療法』(2013)の「「見立て」の問題性」のなかでも、「甘え」に限らず、「種々の日本語固有のコトバが臨床的考察を進める上で有用であると述べた。土居は、「見立て」の議論において、診断というコトバでは「生きた患者の姿」が立ち上がらないが、日常語な日本語は「具体的で、折々に変化する流動的な印象」を与えると述べる。

私は、土居のこのような臨床とコトバに対する姿勢に感銘を受ける。「甘え」は単に、日本文化を説明する特殊な概念なのではなく、土居が患者をどう見ようとしていたか、その方法そのものから生まれた言葉なのではないか、という方向で私は土居の著作を読んでいる。


土居は、「甘え」という言葉を体験から再発見した。では、なぜその言葉が臨床概念として生き残ったのだろうか。『精神療法と精神分析』(1961)は、発見された対象としての「甘え」ではなく、「見る」「診る」方法としての「甘え」が形づくられていくプロセスとして読むこともできるように思う。


そして、これも、精神分析における主要な概念が、実践によって吟味され、更新されていく例のひとつといえよう。今日も私はその活動の中にいるんだな。がんばろう。みなさんもどうぞ良い一日をお過ごしください。千葉に適切な視察と十分な支援が入りますように。

昨日の初台
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大福、脱錯覚、「甘え」

朝焼けがきれいだった。今日はすっきり晴れるのかも。あんまり寒くないし。昨晩はとてもきれいに月が見えた。立待月。月は名前がついてなくてもいつもきれいだけどね。

昨日は下曽我駅前の松栄堂さんのお土産があってすごく遅い時間だったのにいただいてしまった。今日中って言われたし。開運勝餅大福と五郎力餅。三郎って読んでいたら五郎だった。包装の折り目のせいだけじゃなくて「五」の下の線が太くて上にかかってたから。ここのお菓子、甘すぎなくて本当に美味しかった。私も昔行ったことがあるらしいのだけど曽我梅林に行ったことは覚えているのだけどなあ。ハイキングに行くと大抵その町の和菓子屋さんがあるので1つ2つ買ってその場でいただいたりする。お茶を出してくれるところも多い。どこからきたの、とかいわれながら登ってきた山の話やその町の話をする。梅まつりがあれば屋台で買ってしまうだろうし記憶がないけどまたここのいただきたい。大福も美味しかった。開運しますように。

イスラエルのヒズボラ空爆、ガザに対してもそうだけど合意ってなんだろう、合意に違反っていえば攻撃が正当化される世界ってなんだろう。NY市長選でトランプとの対立姿勢が明確な民主党左派マムダニ市長が誕生したが、すごいエリートなのね。インド系移民であるとかムスリムであるとかを押し出すのではない方法で、つまり多様性を打ち出すのではない方法で格差拡大に対する政策を打ち出したのが勝因とも聞く。物価の高さはNYに住んでいる知人から聞いて驚いていたけどどうなるのか。私はアメリカンドリームが信じられていた時代の子供だと思うけどそんなもの本当にあったのか。なんでも時間をかけて現状となるとはいえ、アメリカがその脱錯覚に耐えるつもりがあればトランプ大統領を選ばないだろうし(現在の支持率が低いとはいえ)、働け働けでもなく取り締まり強化でもなく庶民が「普通に」暮らすために「普通の」ことをする(お金の流れを止めないとか)のってなんて難しいのだろう。ガザのことを考えているのに常にアメリカが背後にいるのが当たり前って思考を私がしているのもどうなんだよ、と思うが、

昨日は土居健郎の「甘え」概念に立ち返ってみた。相互退行の文脈で。たとえば、子どもが親に甘えるだけでなく、親が子どもに甘えるという一方向ではない依存、相互依存において投影しあう状況は自我境界を曖昧にする方向性で、それを退行と考え、記述すること。これもナルシシズムの文脈だけど。安易にナルシシズムを肯定するのではなく、しかし欲動の次元において作動する心的構造を探求しつづけること。脱錯覚できる心はどう成立するのか、しないのかとか考えるときにかなり射程の広い「甘え」概念はどう使えるのかな、とか。臨床的には「甘え」は瞬間的な一致の現れだと思うけど、とか。日本の精神分析家としては土居健郎を知っている世代の分析家が生きている間に対話できたらいいのだけど学べば学ぶほど大変な概念だと思う。

いいお天気。どうぞ良い1日を。