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迷路

薄く窓を開けた。コーヒーも失敗せずに入れた。雨は静かに降ってるみたい。どこかに打ちつけるような音はしないけどまっすぐの通りを走り去る車の音が雨を引きずっている。

今日は新しい出会いがある。これまでいくつの保育園を回ってきたのだろう。何年もの間、一年に20園ほどを巡回してきた。主に0歳から2歳の子供たちをたくさんみてきた。今年は巡回の仕事を半分ほどにしたので担当する園を組み替えていただく必要があり、何年も一緒に仕事をしてきた保育園との別れもあったし、今日ははじめての保育園へいく。どこの園を担当するかは新年度にならないとわからないためお別れなどもできないが「来年も先生かはわからないんですよね」というのが毎年、年度内最後の巡回の日の決まり文句なので「そうなんですよ。また担当になったらよろしくお願いします」と互いを労って別れる。保育士にも異動がある。出会いと別れは当たり前なのでさっぱりしている。ただ、同じ区内で長く巡回を続けているとこっちの園でお別れした保育士と別の園でバッタリなんてこともあって偶然も楽しい。全て同じ区内の保育園なのでこれだけ何年も回っていれば土地勘も身につきそうなものだが、その駅自体は頻繁に利用していても知らない道の多いこと。こんなところにこんなものが、というのは昨日オフィスのそばを散歩したときもそうだった。

人もそうだよね、と急に思う。人なんて迷路みたいなもんだ、とかとりあえず思い浮かんだ言葉を書いてみるが、書いてみるとそんな気がしてくる。戸惑いながら「好きだ」という以外になんの確信ももてないまま一緒にいるようになった。だからいつでも時々迷子になる。見慣れた景色が見えて安心したかと思えば突然の事故で思考停止することもある。恋ほど理由なきものも先行きの見えぬものもない。精神分析バカの私はなんでも反復強迫だと思っているが、そんな言葉で説明する気にもならない色とりどりの情緒が、激しい衝動が、そこには溢れていることも臨床経験で実感している。

どうして、ばかり問う。自分にも相手にも、心の中で。こんなにくっついているのに、「なに?」と聞いてくれてるのに、言葉にすることができない。「なんで今?」「なんでわざわざ」「どうして私が嫌がると知ってるのに?」「どうしていつも」などなど。見て見ぬふりが増えていく。不安で眠れない夜を経験しても理由をいうことができない。恋は少なからず人を狂わせる。暴走したい気持ちに苦しむこともある。どうしてこんな苦しいのに。どうしてこんなに好きなのに。いや、好きだからだ。愛情は必ず憎しみとセットである、とフロイトだってウィニコットだっていってる。むしろ憎しみが生じない愛情関係をそれということができるだろうか、と思ったところで苦しいものは苦しい。不安や疑惑に苛まれるのも辛い。それを溶かすように、包み込むように安心させてくれる瞬間もたくさん知っているのに。

同じ傘の下でそっと指を触れ合わせながら「やまないね」と空を見上げる。このままやまなければいいのに、とさっきよりほんの少しだけそばに寄る。そばにいたい。あなたを知りたい。そんな気持ちがいずれなんらかの形で終わることもどこかで知っているが今だけでも、と願う。人なんて迷路みたい、というか人生が迷路ってことか。

東京は雨。さっきより屋根を打つ音が増えている。色も素材も形も全て異なる屋根を雨が打つ。鳥たちの鳴き声もいつもと違う。何を伝えているのだろう。好きな人の気持ちだってわからないのにあなたたちのことをわかるはずもないか。また、バカみたいだ、と苦笑する。恋は少なからず人をバカにする。抱えてくれる腕や胸や言葉を必要とする。どんな拙くても、どんなわかりにくくても自分の言葉でいってほしい。それがどんな言葉だとしても何かの真似っこのような言葉より目に見える物よりあなたがどんな感じでいるのかをいってほしい。

人を想うのは難しい。シンプルなことほど難しい。それでも今日もシンプルに考える。見えるもの、感じたことをたやすく複雑なものに変形しないように自分の限界がいくら近くてもそれを大切にする。先のことはわからない、なんていうことはどこの誰にとっても同じこと。あなたが大切だ。それでももっとも確からしいこの気持ちを胸に、今日も。

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精神分析

保育園巡回というお仕事

若い保育士たちと対等に仕事を共にできるのは他職種だからだろう。

彼らは現場の切迫感でこちらと対峙する。みてもいないようなこと言うなよ、という迫力を感じることさえある。

違和感に敏感で、傷つきながらもそこに居続け、笑えない状況だとしても遊びと生活を絶え間なく提供する。そういう役割を毎日生きている。あるいは生きようとしている。保育士の仕事は過酷だ。

一方、外部から短時間、年に数回出向く私の役割はかなり限定的だ。というよりむしろ限定的であることを意識し、どこを切り取っていくかを観察によって短時間でアセスメントしていく必要がある。今は様々な保育園の形態や動きがわかるので集団力動も読みやすい。でもこの現場の事情に慣れるまでは苦労した。

限られた時間でおこなう支援は、見かけはのんびりと静かに、しかし実際は現場のスピード感を邪魔しないようやりとりをする必要がある。自分の持ち物と役割を自覚することが大事と感じる。

いくつかの中学校でスクールカウンセラーをしてきたが、保育園のスピード感は育児のそれであって、時間と空間を構造化するスキルは欠かせない。症状や障害のある子どもの行動観察、テストを取りにくい子どもに対する臨機応変な態度、15分間インテークで身につけた聞き方、何かしら役立つものをシンプルに言葉にする努力、などなどこれまで体験から学んできたことを総動員し、反応を確かめつつ、お互いに試行錯誤しながらなんとかやってきた。もう何年になるのだろう。

「先生がくる日はいつもと全然違う」

多くの巡回相談員が言われる言葉だ。

普段の姿を見せたい保育士が、小さな子どもの手を取って笑いながらそういえるような関係はいい。本質はそこではないと彼らはすでに知っている。

私をみて泣き出す0歳児に「人見知りするようになったんだよね」と優しく抱き上げて報告してくれる関係もあたたかい。

私たちは年に数回、合わせても数時間しか会わなくてもお互いの仕事を知っていく。

0歳児からの最初の数年間、子どもたちの成長はこちらの予想を裏切り続ける。大きく見れば本に書いてあるようなことが起きているだけと思われるかもしれない。でもここで起きていることは今ここの関係でしか見られないとても個別の現象だ。

毎年0歳児から5歳児まで新たな子どもたちを迎えながら、毎年毎日、同じように戸惑い、ときに荒ぶる気持ちを抑え、彼らの仕草に笑い、一緒に手をたたき、成長に驚き続ける。

数年も付き合っているとお互いの仕事が浸透しあって観察はさらに精緻になる。真剣な遊びのように共に仕事をする。その点では精神分析と同じだ、と私が思うのは、私の持ち物がそれだからだろう。

多くの人に、多くのことを習ってきた。習うより慣れよ、というより、習い、慣れる、をひたすら繰り返し、特定の文化に所属し、浸透するように型を身につける。0歳児の苦闘に戻ったような、その頃の視線や腕を思い出すような、そういう体験をこの年齢になっても積み重ねている。そこで得る得難い想いは小さな彼らのそれであり、若い彼らのそれとも重なり合うのだろう。

保育園に通い、子どもたちや保育士たちと「遊ぶ」ように仕事をする。保育園巡回はそういうお仕事なんだろう、私にとって。