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精神分析

「精神的距離」とか。

涼しい、気がする。実際外に出たらどうなのかな。いいお天気みたいだけど。ほんと今年の夏は過ごしやすくて助かった。年とって色々弱っているのに仕事は増えるばかりなんだから体力奪われたくない。

さてさて、昨日は土居健郎が『精神療法と精神分析』の第1章で治療者が治療の方針をもつことの必要性を述べていると書いた。続きも読んでみよう。

土居は「治療の方針がきまっていないと、治療者患者の関係は先に定着したような職業的関係ではなく、一般の人間関係とかわらないものになってしまう危険が極めて大きい」という。「愛情と理解のスローガンをかかげて、自分の善意を患者におしつけること」をしないために、つまり「治療者の個人的要求を持ち込むこと」をしないために、あり余る善意で「患者の弱味につけこむ悪徳治療」をしないためにそれは必要なのである。

それはつまり、治療者と患者の関係には精神的距離を維持することが必要だということだ。土居は美学者エドワード・バロウEdward Bullough(28 March 1880 – 17 September 1934)の「精神的距離」Psychical distanceを引用して説明する。土居の本は引用も楽しく、幅広い本を読んで訳していたことがわかる。

ここでも土居がいっているのは当たり前のことで、患者と馴れあいの関係になってはいけないということである。「患者を助けることを自分自身の個人的要求の外におくことによって保つ距離」の重要性を論じるものはあまりないなか(今はあると思うが)、土居はそれに近い考えとしてキュビーKubie,S.L.のanalytic incognitoをあげる。私が「分析の隠れ身」という用語を知ったのは毎週木曜日に通っていた慶応心理臨床セミナーの小此木啓吾の講義だったと思う。でもここで土居がキュビーの著書の邦訳でこれを「分析の隠れ身」と訳した、と書いているのを読んでこれが土居の訳であるらしいと知った。

「分析家が個人として患者に未知の存在でなければならぬこと」、そうあることは転移の分析にとって重要である。治療者が患者と個人的かかわりをもってしまっては、患者は安心して自分をみせることができない。治療者の役割は患者を助けることであって個人的なかかわりをもつことではない。

「治療者の仕事は患者を助けることにはちがいないが、しかしもし治療者と患者の間にあるべき距離が失われて、患者の問題がそのまま治療者の問題になってしまったら、その治療者はもはやよき治療者となることはできない。」

なぜかといえば、これも治療者の個人的要求を持ち込むことと変わらないからである。

「なぜならこの場合治療者にとって患者を助けることが転じて自分を助けることになるからである。」

こういうことをすっと納得できるだろうか。教える立場にいるとこれがまったくわからないという治療者にも出会う。精神療法の場でなくても、相手のためとやっていたことを「そんなのおまえのためだろう」と突き返されるような場面はたやすく想像できると思うのだが。

さらに土居は「治療者が問題を持つ患者をいかに助けるかということに専心したとして、なおここに一つの心得るべき罠がひかえている」として「治療者が治療の成果の善し悪しにこだわって、もっぱら自分の個人的成功または失敗とうけとること」をあげている。「この場合は、治療者が患者の問題にまきこまれるのと反対に、患者の問題解決が単に治療者の自我をふくらませるかしぼませる道具となってしまう。すなわちやはり治療者患者の間の精神的距離は失われている。」

まさに、と思うが、実際はこのような治療者は多く、私はこの仕事を個人でやっていると思うこと自体が違うのではないか、と思っている。精神分析家はどこかしらの組織に属して、治療者患者の間の精神的距離を維持することを体験するため、少なくとも理解するために、自分も分析を受け、その結果、精神分析家として認定されているわけだし、そもそも人の心の治療に成功とか失敗とかって誰が決めるのか、という感じはする。もちろん「失敗」に関してはウィニコットをはじめとしていろんな次元で議論されてきたしすべきことではある。

もう準備しなくては。今日もあれこれあると思うけどがんばりましょー。

夏空に秋が混じってた