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精神分析

言葉を失って頭をまっすぐに戻した

昨晩、遅い夕飯を食べて資料作らねばと思いつつウトウトしてはぼんやりを繰り返していた。ぼんやりとPC画面を見るといろんなツイートが目に入ってきた。バスのなかで亡くなった女の子のニュースは私が知っている様々な保育園での様々な場面を一気に想起させると同時にそれについて考えることをやめさせた。水筒を開ける小さな手、何も出てこなくなった水筒を下ろす仕草、まだ言葉にするのは難しいなにかを感じ誰かを思い出し身体の限界がくるまでそれに身を委ねていたのだろうか。言葉をなくす。

重たい障害をもつ子どもを育てる方がリツイートしたものも目に入ってきた。その方とはオンラインでやりとりをしたことがある。赤ちゃんのときから手術を繰り返しながらも着実に成長していくその姿、カメラが捉えるその泣き顔や笑顔、人を信頼する眼差し、できるようになったことを披露しようとする仕草、それをこの状況でするのか!とその逞しさには共に驚いた。

そのかたがRTしていたのはやはり重たい障害を抱える子どもを育てる方のものだった。療育施設に通うまだ小さな子どもの止まらない癇癪。その子が眠っているとき以外はひとときも目を離すことができない様子。壊された部屋で子どもが大暴れする横ですやすや眠り起きても静かに携帯をいじっている父親。私は重度の障害を持つ人たちとはそれなりに馴染みがあるのでどれだけ想像を絶する状態かということは普通よりは想像できていると思う。驚くのはこの方がおそらく子どもといながらしているであろうこれらのツイートの面白さ。そのままの状態や気持ちを書いているだけなのだと思うがその状況でその視点をとれるのかと驚く。怒りも単なる怒りではなくさっきの父親に関するツイートも内容は「うーん、よくある構図」なのだがそんな一般化できる書き方ではなかった。「その人らしさ」というものがあるのならばこういうところにそれは発見されるらしい。

言葉をなくす。なんだか人はすごい。恐ろしいところも逞しいところも面白いところも良い意味だけではなくて本当にすごい。自分もその一人とはとても思えない。

相変わらず頭痛は激しくやるべきことは山積みでしんどさを感じやすくなっていたがそんなのはすっと背景に退いたようだった。ムクっと頭をまっすぐに戻した。そしてやる気が出て何かが進んだとかでは全くないし、みんながんばってるんだから私もがんばらなくては、という気持ちになったとかでも全くない。ただ現実に戻された感じがした。もうしばらくしたら身近な人にああしてくれないこうしてくれないと言い出しそうになっていたかもしれない状態はとりあえず脱した気がした。

私の周りには本が溢れていて毎日なにかしら読んでいる。でもこれらの出来事はこの本たちのどこにも見つけることができないだろう。言葉を失う。その体験は本を読むのとはまた別の仕方で私に影響を与えている。

生まれたら育まれること、生かされること、それが当たり前になされるために、ということを考える。大人もその育ちの延長にあるわけで大人になったから急にそれが義務となるわけではないだろうけどできることは確実に多いはず。突っ伏していた頭をまっすぐに戻す。まずは突き動かされるところからだとしても。

作成者: aminooffice

臨床心理士/精神分析家候補生