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精神分析

「気のせい」「おまえのせい」

また作業しながら眠ってしまった。というか何も進まないままただここで眠ってしまった。身体が痛い。歯が痛い。歯は関係ないけど歯軋りのせいかも。マウスピース作ってもらったけど全然使ってない。歯って治療を始めるとなぜかほかの歯も痛くなりませんか。私がお世話になっている歯医者さんはすごく優しくて説明も丁寧なのだけど痛いものは痛いというのが現実の辛いところですね。でも優しいのはありがたいですね。痛い、辛いということをわかってもらえるありがたみってすごい。

痛みというか不快さに耐えるというか傷というものに関わり続けていくことが精神分析の基本的な作業なのだと思うけど耐え難いものは耐え難い。自分の身体のことなら自分で引き受けるしかないが、と一瞬思ったがそんなことないね。むしろそれこそ「どうして自分が」となるかもしれない。相手あることであればそこで生じた不快さは関係という観点から考えることができるかもしれないけど身体は痛いとか辛いとか八つ当たりするとか理不尽を叫ぶとかいうことはできてもその痛みは常に自分で抱えこまなくてはいけないものとして内側に存在しつづける。ものすごいナルシシズムに巻き込まれたとき、心もそんな状態になるけれど。だから辛いのだろう。いないものとして扱われる、いらないものとして扱われる、何事もなかったかのように平然と生きている相手に蝕まれ続ける世界。それでも物理的な距離をとることができたり時間が過ぎていくことにじっと身を委ねることができるという点では身体に対するなすすべなさと比較したらマシかもしれない。でもなあ、余命宣告されその期間を生きながらえもういつどうなるかはわからないと余命も測れない宣告(?)を受けながら生きておられる(た)人たちを知っているがそれはそれで本人も家族も拍子抜けしたと笑い、それで痛みが減るわけでは全くないのに死に対する態度が変わっていくような例もある。人ってわからない。自分のことも全然わからない。やはりたとえ具体的なことはできなくても痛みや苦痛を「気のせい」とか「おまえのせい」とかにしないことされないことの力の大きさたるや、ということになるだろうか。

今日もあれこれ。みなさんはどんな感じ?ずーっと辛いとかいうことのありませんように。世界を呪いたくなるような瞬間からも部分的に回復できますように。きっと「気のせい」でも「おまえのせい」でもないよ。東京はいいお天気。今はこの部屋は陽射しでいっぱい。でもここで「えー今日は雨なのー」みたいなこと書いて玄関を出たらピッカピカの晴れということもあるからこのあとはどうかな。いろんなことわからないけどなんとか今日も一日過ごしましょ。またね。

作成者: aminooffice

臨床心理士/精神分析家候補生