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散歩

自然

暑い。エアコンをつけていてもなんとなく暑い。ぼんやりしてしまう。昨晩のうちに色々家事をしておいてよかった。

昨日は自然と戯れた。今年はあやめをあまり見ていなかったけどとても素敵な湿原でワイルドなあやめをたくさん見られた。絵画に描かれるあやめもこういう姿がモデルになっていたりするのだろうけど、ワイルドなものをワイルドなままに描くって本当に難しいこと、というか自然があるから絵画にそれは求められていないのかもしれない。注意を宙吊りにしたまま、かつ枠内で形にすること。あとは受け手の力だなあ。自然はそこにいて何も考えず身体を投げ出していればいいから、というか特に見ろとも感じろとも考えろとも言われていないし、まあ、絵画も言われていないのだけど作り手側がすでにそれをしているからこっちの注意も固定しがちだし、石に躓くとか風が読めないとかそういう突発的なことも起きないわけだからあとは想像力でとなる。目を瞑ってもたくさんのことを感じる自然を心の中に持ち込んでみる目を養いたい。

この前、小さな居酒屋に連れていってもらってそこで面白かったことを書きたいけど、朝のうちに作業しないとだ。今週もがんばりましょう。

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散歩 精神分析

日曜日

まだそんなに暑くない。昨日の夕方、少し外に出たらすごい風だった。オペラシティのあまり人が通らない通路に咲く花にカメラを向けたが花より風を写す感じになった。実のなる木は強風をものともせずどっしり。たくさんなっていたけどなんの実だろう。

Reading Freudで読んでいる『心理学草案』、ようやく夢の話に入ってきた。ニューロンの量とか動きの話にも慣れてはきたが、イメージが難しいので具体例が出てくるとありがたい。それにしてもあの緻密な思考は尋常ではない。当時、ヒステリーの患者たちから受けていたインパクトをどうにか科学的な言葉にしようとしたのだろう。時折出てくる図もとてもシンプルなものだがあれこれ言いながら見ていてると少しわかったような気にもなるから不思議だ。粘るべし。いずれ破棄される理論と分かっていても部分がその後重要な全体を成すことを知っているのだから。

はてさて、今週に限っていつも以上にPCに向かう時間がない。移動時間でうまい具合にいい感じのアイデアが浮かんでくれないだろうか。なんて考えている時点でダメな気がするが希望は大事。というかそれを願うしかない。

なにはともあれ6月最後の日曜日。二つあるカレンダーの一つはもうめくってしまった。7月のカレンダーは鹿さんがいる。いい一日になりますように。

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イベント 精神分析

暑い朝

早朝から日差しが強いなあ。この部屋は冬の晴れた日は暖房要らずだけど夏は恐ろしく暑くなるから普段よりもう一枚日よけを増やさないといけない。と今年もキッチンの小さな窓に布をかけたのに帰ってきたら落ちていた。養生テープじゃだめだっけ。いつもそうしていたと思うのだけど。この家に住んでそれなりに長いのに毎夏困っているとはなにごと。口に入るもの、肌に触れるものは全て冷蔵庫という原則とこの布などで日差しを防ぐ以外の対策を持っていない。もっと暑くて設備の整っていない国もたくさんあるわけだから私は環境に甘えすぎだよなあ、と毎年反省している気がする。とりあえずきゅうりで水分をとった。

開いたままのパソコンのキーをポンッと押すと作業中の画面が出てきた。開いて何もしないまま寝たという痕跡があった。確かに何かをした記憶がない。何か思い浮かんだ記憶はあるがそんなのはすでに記憶の彼方で本当に思い浮かんだのかすら怪しい。

Reading Freudの準備はちょこちょこしているが他の作業が進まない。今みんなで読んでいる『心理学草案』は人文書院の「フロイト著作集」では「科学的心理学草稿」。人文版はいまやKindleで読める。この論稿は精神分析の本より哲学の本で引用されている印象。私が出会うのは大体哲学の本。哲学は歴史を大切にするから起源には常に意識的なのかも?

あとちょこちょこやろうと思って全然進んでいないのは精神分析とアートについての議論。あれやこれやおしゃべりするにはものすごく楽しい領域だからそのノリで進めたいけど時間が足りない。

この前行ったパウル・クレーの展覧会はわりとシンプルな構成で同時代の画家たちとの関係もわかりやすかった。でももうちょっとあれもこれもみたかったな、という物足りなさはあった。クレーは解剖学にも詳しかったらしく、いかにも腑分け、私たちだったら部分対象、という言葉が浮かぶ絵からはいくつかのことを連想した。バラバラとただ置くこと、それと向き合うことは大事だと思う。無理にまとめず。

暑い季節は美術館とかなるべく屋内で過ごしたいものです。行くまでが辛いけど。あー、疲れやすい季節だけどがんばりましょうね。それぞれどうぞお大事に。

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散歩 読書

「原〜」とか。

窓を開けた。早朝のバイクの音。新聞配達の音とは限らない。一軒一軒止まるあの音とは違うし。あまり風がない気がする。昨日は降ったり止んだり変なお天気だった。夜、オフィスを出ると降っていなくて「よかった」と思ったのも束の間、すぐに傘をさすことになった。風が強かったのは昨日だったか一昨日だったかもっと前だったか。

毎朝、花や木の定点観察をしているつもりだが、昨日の状態を覚えていないから大雑把な観察しかできてない。それでも季節が着実に進むのを感じるし、何年も気づいていなかった場所に咲く花に気づいたりもする。

ゲーテは愛するシチリアのパレルモでこんなことを書いた。
かくもいろいろな、みずみずしい、新たなものとなった形姿をまのあたりにすると、「この一群のなかに《Urpflanze (原植物)》を発見できないだろうか?」といういつもの酔狂な考えが、またもや念頭に浮かんだ。そういうものがあるはずだ!もし も植物がみな一つの原型にならって形成されてゆくのでないとしたら、あれやこれやの形をとっているものが、どうして同じ植物だと分かるのだろう。

一七八七年四月十七日、火曜日、『イタリア紀行』の一節である。ゲーテがいう<原植物>は地層の断面も含むようなもので、植物だけでなく、動物にも<原動物>という原型を想定した。全ては(言い過ぎかも)そこからの変容であると。この『イタリア紀行』はフロイトのイタリア旅行を支えた書物だが、ゲーテはほとんど遁走のような形でイタリアに向かった。フロイトはこういう冒険はしない。きちんとしているし、怖がりなところもあるから。ゲーテのこの本は翻訳によって印象が異なると思うけど新しい方の訳はわりとテンションの高いゲーテを想像する。

原型の発見は魅力的だが、なぜ人は「原型」が好きなのだろう。「原〜」を想定しないとはじまらないということはあるだろうが別に想定しなくてもいいのではないか、と思うこともある。でもそれは時間的にという場合か。私が植物で季節以外のものを感じ取っていないせいかもしれない。発見する眼を私も持ちたいな。とりあえず熱中症に気をつけて無事に過ごすことから始めましょう。どうぞ良い一日を。

 

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お菓子 趣味

新府焼米、「あんぱん」

霧雨。一品作っておこうと冷蔵庫を探る。作りながら窓をあける。今日はまだそこまで暑くない。でも食中毒が怖い時期だからすぐに冷やせるようにいつのまにか大量になった凍らせた保冷剤で包み込むようにする。

今朝は山梨県韮崎のお土産、萩原製菓さんの新府焼米という和菓子。武田勝頼が築いた新府城が焼けたときに軍用米も焼けてしまい、のちにそれを拾って食べたというお話から。米はいつの時代も大事。食べ物は大事。

昨日の朝ドラ「あんぱん」もよかった。戦争が描かれることは本当に大事。大切な人たちと離れ離れになるのが当たり前かのような日々、父親の面影を探すのぶにとって次郎さんはそれだけではない魅力をもっていた。写真撮っておいてよかったね、ピンボケでも。戦争を怖がるのではなく、不安が現実になるのを恐れ、子どもたちに教えるという大義名分のもと、考えることを避けてきたのぶに無理に直面化することなく、立ち止まることを教えてくれた大切な人。嵩とは近すぎたゆえに意地を張り、戦争が始まってなお頑なになったのぶはその言葉を受け入れることができなかったし、嵩も次郎さんのようにはなれなかった。でも戦地を体験し、千尋くんや幼馴染を失った嵩は今回は先延ばしにせず、のぶに会いにいく。思えばこの二人はいつもお互いの危機のときにじっとそばにいた。のぶは元気がないときは人の話をじっと聞ける。嵩のペースでしっかり紡がれる言葉はひろし先生とお父さんから受け継がれたもの。幼い頃、父との関わりを絵に残してくれた嵩がのぶの心に蘇った時間だったと思う。よかった、戦争が終わって。よかった、また会えて。テレビを消して現実にまた戦争が近づいているような不安を感じるけれどやっぱり戦争はあってはいけない。

今週末は時間が取れないので平日のちょこちょこした時間に原稿を書かないとなのだけどまいった。臨床のことであればそんなに切替いらないのだけど。まあしかたない。やれる範囲でやりましょう。

今日はこれから暑くなるみたい。雨は止むのかな。体調に気をつけて過ごしましょうね。

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言葉 読書

谷川俊太郎詩集とか

カーテンをめくって窓を開けたら風に飛ばされたサンダルが見えた。飛ばされなかった方は乾いてて、飛ばされた方は雨に濡れている。また避難させておくのを忘れていた。

窓を閉めてちょうどよく身体にフィットする形になったクッション背にソファにドンと座った。昨日すごく痛かった青竹踏に足を載せる。以前、どこだったか足ツボの道があって痛くて歩けなかったことをこれをするたびに思い出す。

谷川俊太郎の『恋愛詩ベスト96 私の胸は小さすぎる』をパラパラした。『自選 谷川俊太郎詩集』は学術大会のときに友人にあげた。やっぱりシャープだな。「恋愛詩」といえど甘美さはなく、そんなときに書かれる詩はなおさら孤独なものだろう、という前提がある気がする。実際そうだという実感は、ある。

しまった、うとうとしてしまった。ソファに座ったがのまずかったな。

昨日、別の有名な詩人の詩を読んでいたことを思い出したけど誰のだったか。森鴎外とか有名な人たちが訳してる・・。どうして忘れてしまうのか。昨日も危うくイレギュラーな予定をすっ飛ばしそうになった。リマインドが来たからよかったけど。淡々と同じリズムで日常を過ごす余裕はいつ生まれるのか。

とりあえず今日も無事に過ごしましょう。

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未分類

メンテナンスとか。

暗い。今日は曇りなのかな。まだ梅雨だったか、とカーテンを開けたら薄いピンクと水色が混じり合っててすごくきれいだった。

久しぶりに筋トレしたら筋力が落ちていた。余裕がなかったからパワーダウンは当たり前だけど残念。つけるときは超地道、落ちるときは一気。それでもないよりはあったほうがいいし、基礎を見直すことで柔軟性より力技みたいになっていた部分を知れるからどっちにしてもメンテナンス大事。

自分の余裕を削ることで無理して受け身を維持していた案件。年寄りらしく一定の理解は示すが、やはり自分が無理をすることは避けたい。色々わりに合わないなと思うけどなんでも勉強と思うことにしよう、ということがこれからもっと増えるのかもしれない。つらいなあ。でも大丈夫。私には本がある。足も手も五感も使える。愚痴もいえる。分析は連日だから何か起きたらすぐに話せる。でも毎日のように会っているとそれはそれでというか、思い浮かべばエピソードとしては語るけど、それでぐちぐちいうことはしなくなるかも。もっとメタで考える。自分の受け取り方をたよりに。たとえばこんな感じ、と例を書こうと思ったけど時間がないからやめとこう。

今日は火曜日。がんばろう。

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Netflix

Netflix『ラリー・フリント』をみたり。

北側の窓がオレンジ色になった。でもすぐにグレーに溶けた。なんでだろう。この時期の日の出。どうなっているんだろう。今はうっすら水色に雲。始発前なのに空だけはもう一日を始めている。人間の場合、これからようやく眠るという人もいるのだろう。

起きたとき固まって動かなかった左手に強い痺れがきて元に戻った。痺れがくるうちはいい、と思うのは前に神経の麻痺で全く動かなくなったことがあるから。その状態への適応は早かったが不便だったことに変わりはない。なので動く身体であってほしい。

久しぶりに朝にコーヒーを淹れた。麦茶もまた作っておいた。筋トレも久しぶりにできそう。

昨日、時間ができたのでNetflixで『ラリー・フリント』を見た。ポルノ雑誌の出版、編集を手がけるラリー・フリントの活躍(?)と表現の自由をめぐる激しい法廷闘争を描いた映画。実話ベース。監督は『カッコーの巣の上で』のミロス・フォアマン監督。戦争とSEXを映像と共に比較する演説シーンは強力だった。そして何より主人公の妻を演じたコートニー・ラブが強烈で悲しかった。カート・コバーンのことも思い出しちゃうし切なかったな。主演のウディ・ハレルソンの器用さはもとより弁護士役のエドワード・ノートンも本当によかった。後半の法廷での語りもこの人の実直さあってこその名演説だった、というわけではないのか。実話ベースだから。実際にこんなに忍耐強く頭の回る弁護士がいたのだね。頭が回り、柔軟だから忍耐強くいられるのかもしれない。

なんて書いている場合ではない、と今ふと気づいた。どうしてこんなに焦ったり困ったりしているのにこんな呑気な時間が訪れてしまうのだろう。昨日、初回面接を検討するグループでも世代を超えて協力しあうような話し合いができたし、なんか楽しい気持ちになっていたせいかもね。今日からまた1週間、がんばりましょう。

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散歩 読書

セルフレジ、本の本

蒸し暑くない。遅くまで除湿運転していたせいかな。今日も風がないみたい、と思ったけど南側の大きな窓を開けたら外で涼しい風が動いていた。

昨日は保育士さんたちとケースカンファレンスだった。すごく長く続いている関係の園だけど保育士さんたちは知らない人がすごく増えた。それでも昔から知っている先生たちのおかげでなんか馴染みの人みたいになっているのがいつも面白い。あまりに大変だな、と思うことが多いけど無理せずやっていってほしい。

セルフレジ難しくて嫌い、と思いつつも最近はセルフレジばかり。そんなある日の馬喰町。NewDaysのキャッシュレス店舗というものを発見。交通系電子マネーをタッチして入店する仕組み。ちょうど入ろうとしていたカップルの大きい人の方が何度やっても開かないのをみてチャレンジする勇気がしぼんだが、もうひとりの人がやってみたらあっさりピッていって自動ドアがあいた。少し時間があったので地下道をトコトコトコトコ、馬喰町と浅草橋、この二つの駅はここでつながっていたのね、と戻ってきて再びさっきのNewDays。今度はドアの前に誰もいない無人キャッシュレス店舗へドキドキしながら近づく。ピッ。あっさり入れた。しかも涼しさ独り占め。その日は電車の中が寒すぎることもなくありがたかったけどひんやりしているところもやはりありがたい。セルフレジって盗難とかにはどう対応するのかな。いつも行くスーパーはセルフレジじゃないから気に入っていたのにセルフレジになってしまった。疲れてぼんやりしてスーパーに寄って、レジ袋を真ん中にかけてピッてしないで全商品を入れて帰ろうとしてしまったことがある。自分で気づいてもう一度カゴに出してピッてして袋に入れてをやり直しなんと二度手間、と悲しくなった。まあそれでもありがたいのはレジがそこそこの台数あるから急かされないということ。レジ袋を開けるのにいくら手間取っても私のペースでできる、とはいえ、間違って支払わないで持って帰ってきちゃったということは起こりそうな気がする。だいたいスーパーに行くときってバタバタか疲れ切ってるかの時間だからありうる。ほんと今日は危ないな、というときは有人レジに並べばいいか。なんか優先席に座るような感覚だけど、優先席だって座ってはいけないわけじゃないんだしね。そういえば、この前東京駅のNewDaysでセルフレジがすごい列で店員さんが「有人レジあいています!」って一生懸命声張り上げてくれてたのでそっちにいったら誰もいなくてこれはなんなんだ、となった。

この前、読んでいると書いた坂本葵さんの『その本はまだルリユールされていない』、すごくよかった。図書館、釣堀、製本、活版、そして懐かしい本たちから立ち上げる世界とそれぞれが抱える思い、すれ違うようですれ違わない、くっつくようでくっつかない、表とか裏とか合わせ鏡。みんな違う色と太さの糸で何かを繋ぎ合わせながら生きている。そんなことを思う本だった。スクールカウンセラーもこうやって普通に登場するようになったんだねえ。私がスクールカウンセラーをやっていた頃はお部屋もなくて図書室の隣の倉庫みたいなお部屋を借りたことがあった。資料好きの私には薄暗いその部屋は幸せ空間で、お隣の図書室の司書さんと仲良くなり、私のところへくる子供たちともいろんな本を読んだ。子供の頃から本や図書室は大切な居場所だった。本が糸で閉じられていること、紙質というものがあることにも確かに驚いていた昔々。この本には大切な相手をなくした人もでてくる。まだ一緒にいた頃の思い出も今はもういない相手と紡ぐ日々も暖かい関わりの中で大切にされますように、やっぱりそういう世界がいいよ、と思った。

須賀敦子さんのことも思い出したから今日の通勤読書は『コルシア書店の仲間たち』にしよう。美しい日本語。美しい日本語を可能にするためにはまずは選挙か。『トリエステの坂道』もまた読もう、とか言っていないで原稿を作らねばなのか。困った。頑張ろう。せめて熱中症に気をつけよう。

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精神分析、本 読書

岡田温司『フロイトのイタリア』、エドアルド・ウェイス

蒸し暑くない。カーテンを開けた。窓も開けた。風はない。かりんとう饅頭をトースターで温めた。カリカリ。冷たい麦茶と。昨晩はひどく喉が乾いた。

岡田温司『フロイトのイタリア 旅・芸術・精神分析』は、フロイトがイタリアに強く憧れつつもなかなか近づけず少しずつしか距離を縮められない様子が生き生きと描かれている。フロイトが自らの強迫的なところをどうにもできずに困っている様子も面白い。すごくいい本。フロイトにこんな風に愛を向けている人をみると私は嬉しくなってしまう。

イタリアの精神分析家といえばBolognini(イタリア人として初めてIPA会長になった人), Bonaminio, Chianese, Civitarese, Ferroなどがウィニコットやビオンの仕事を受け継ぐ分析家として有名だけど、フロイトと直接関係していたり、その国の初期の精神分析を担った人というのはどの国でも大事。

イタリアの場合、精神分析の始まりはフロイトの分析を受けウィーン精神分析協会の会員になったEdoardo Weiss(1889-1970)と初代イタリア精神分析協会会長のMarco Levi- Bianchiniに位置付けていいと思う。この二人も日本の精神分析の祖である矢部八重吉と丸井清泰のようにフロイトの著作の翻訳権をめぐって一悶着起こしている。導入期は誰が彼を伝達するのか、という問題はありふれているのかもしれないが、イタリアの場合、フロイトに忠実だったウェイスが果たした役割の方が大きそうだ。

イタリアの精神分析の歴史や主な分析家の知見などはReading Italian Psychoanalysis Edited By Franco Borgogno, Alberto Luchetti, Luisa Marino Coe(2016)に詳しいのはわかっていてるのだけど高価なので、私は出版社ウェブサイトの情報からpepやIREDなどで深掘りしている。イタリア精神分析協会のウェブサイトも自動翻訳を使いつつ参照しているが、重たいのか表示が遅く上手に使えない。

岡田温司先生は『フロイトのイタリア』の最終章「イタリアのフロイト」でフロイトがイタリアへ踏み出す一歩となった町、トリエステのユダヤ人たちを取り上げている。そこには先述したイタリアで最初の精神分析家エドアルド・ウェイス(Edoardo Weiss)も登場する。ウェイスもまたユダヤ人だった。ポール・ローゼン(Paul Roazen)がウェイスの伝記を書いているのでウェイスのことを知りたい方はそちらをチェックしてほしいが、ウェイスとイタリアの精神分析受容に関しては岡田先生のこの章をチェックしてほしい。

私はイタリアに限らず、芸術や文化のことはすごく断片的にしか知らないが、この章を読んでこの時期のトリエステの精神分析サークルの豊かさにウキウキした。私でも知っている人がたくさん。トリエステってよく聞くよなぁ、と思っていたのだけど須賀敦子で身近だったのか、とこの本で気づいた。

須賀敦子が翻訳したり引用したりしたイタリアの詩人、ウンベルト・サバも1920年代にウェイスの分析を受けていたそうだ。へー。須賀敦子が訳したサバの詩集も読みたい。

先日、坂本葵さんの『その本はまだルリユールされていない』を読んでいる(すごくいい)と書いたが、そのときに思い出していた『コルシア書店の仲間たち』も須賀敦子。本つながりで響き合っていたわけではなく、トリエステと須賀敦子が響き合っていたのか。

さて、エドアルド・ウェイスはイタリア精神分析の祖ではあるが、イタリアにずっとはいられなかった。1931年、ファシスト党への入党を拒否してローマへ、1938年、人種法布告。翌年1939年、ウェイスは家族と共にシカゴに渡り、そこで死んだ。アメリカではポール・フェダーンの論文の編集など自我心理学の領域で重要な役割を果たしている。ちなみ日本でhttps://www.koubundou.co.jp/book/b156627.html、でいいのかな。

ウェイス編集のフェダーンの本はこちら。

FedernP. (1952). Ego psychology and the psychoses. (EWeiss ed.) New York: Basic Books. German edition, 1956Italian edition1976

IREDには「Edoardo Weiss (1925)と Marjorie Brierley (1944)により「投影同一化」という用語は以前より使用されていたが、その概念を定式したこと、そして 対象への侵入する万能的な空想に対応させたのは、Melanie Klein の貢献とされている。」ともあった。

とにかくもかくにもイタリア精神分析はその後も豊かな発展を遂げています、ムッシューじゃなくてシニョーレ?もう戦争はいやだ。精神分析は戦争のおかげで発展してきたわけじゃない。戦争のせいで多くの患者も分析家も死んだ。生きてこそなのに。いろんな国の攻撃が今すぐ止みますように。

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哲学 精神分析

とうもろこしを茹でたり。

カーテンは開けない。エアコンって素晴らしい。喉にこなければもっと素晴らしいかも。洗濯をしてとうもろこしを茹でる。キウイも食べる。この1週間も身体の学びが多かった。何を知ったというよりどんなに調べてもわからないものはわからないとか、それでも予防というのは大事だとか、適切な対応というのはこういうものなんだなとか、日々の学びを特に身体を通じて学んだということ。

この前『ベルクソン思想の現在』をKindleで読んでいたのだけど第3章「創造的進化」藤田尚志×米田翼(司会:平井靖史)のところがやっぱりいい。分析哲学でいう「傾向性」(disposition)の勉強、私もしたい。米田翼さんの解説を読むと、これはウィニコットが考えるポテンシャビリティと近いように思う。ヴェターという人は「潜在性potentiality」としてそれを「個体がもつ「〜できる」という能力を端的に示す性質、いわば個体に局在的な可能性」定義しているという。私は植物が持つこういう傾向をASDの特徴の一つとして発表したことがあるのでそれを深めたいなと思ったのだよ。

とうもろこし茹で上がった。鮮やかな黄色。杉戸の「すきすきすぎーと」美味しい。クリームチーズ。

今日もいいことありますように。

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お菓子 イベント 精神分析 読書

森鴎外、フロイト、坂本葵の本

少し蒸し暑い。窓を開けた。風がない。除湿運転をはじめる。このエアコン、手をかざすとメニューが表示されるリモコンなんだけど電池がすぐなくなるので不便。昔ながらの方はリモコンの電池も全然なくならないし、機能は少ないかもしれないけど全部見えている分、使いこなせている気がする。まあ、壊れたから新しいのにするしかなかったんだけど。これも私もあと20年くらいもってほしいな。

今朝は埼玉県杉戸町の銘菓「日光古街道」緑茶味と冷たい麦茶とキウイ。キウイ、すごく美味しくなってる。嬉しい。

先日、森鴎外の記念館に行った。千駄木の坂の途中にある。ぎっくり腰みたいな脚から腰にかけての痛みが強くてちょこちょこすり足しながら歩いていたら同じような歩き方のご老人とすれ違った。ぎっくり腰のときも軽いうちは少しでも動かしておかないとどんどん固まっていく感じがあるから痛いのを克服した気分になるためにもちょうど沿線にいたので寄ってみた。常設展は大体知ってるけど何度見ても面白い。正岡子規や高浜虚子はお手紙にもきちんと俳句を書いている。特別展は「本を捧ぐ―鴎外と献呈本」。鴎外に贈られた本32冊と鴎外が贈った本10冊とそれにまつわるエピソード。呉秀三からの本もあった。こういうのはそれぞれの字体とか紙の使い方を見るのも楽しい。

7月のフォーラムのための討論は原稿を全部いただいてから書きたいけど待っている時間がないから個別の反応みたいな感じになってしまうと思う。一応「死の欲動」を巡ったものになるのかなあ。わからないな。

さて、それよりずっと以前、私のReading Freudで読んでいる「心理学草案」(=「科学的心理学草稿」)のこと。改めて読むとなんだか曖昧に使っていた「力動的」「局所論的」「経済論的」とは、ということがみえてくる。

«[Aこの草稿の]狙いは、自然科学的心理学を提供すること、言い換えると心的諸過程を、呈示可能な物質的諸部分の量的に規定された状態として表し、こうして[SE/GW心的諸通程を]具象的で矛盾のないものにしょうとするものである。»p5(388)

「心理学草案」におけるフロイトのこの狙いは達成されなかったけどフロイトはずっと科学的であろうとしたり、生物学を捨てることもしなかった。欲動という概念はこういうことを考えるときに生きてくる。神経症だって身体と情緒の間をいくものだろう。「心理学草案」を読むことでフロイトがしようとしてきたことを俯瞰で捉えることができるかもよ、ということで今月もがんばりましょう。

フロイトは『フロイト全集6』の「性理論三篇」(1905)でWisstrieb、つまり知識と探求への欲動を示した、というメモを見つけたけどこれも欲動のことを考えていたときのかな。Wisstrieb、アブラハムを経由してクラインがそれを受け継いだが、クライン派の乳児は性的な空想に苦しんではおらず、攻撃性と共に知りたがっている印象がある。そこには母の去勢、母の死、というテーマがある。だからあとが大変というか、ウィニコットで有名なgood-enough motherはクライン派の中では乳房の修復欲動によってようやくその輪郭を現す、というイメージを私は持っている。最早期の格闘とモーニングワークともいえるか。辛い。というか、私はなんでこんなことを書いているのか。もっと目的を持った作業をしないと原稿が書けない。

そして通勤本は坂本葵さんの『その本はまだルリユールされていない』。これも本の話。こういうのはいいよねえ、という場合の「こういうの」を言語化できないけどする必要もない。言語化、可視化にはなんとなく逆らっていきたいかもしれない。特に理由はないが。

暑いなあ。熱中症に本当に気をつけましょうね。

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精神分析

夏本番、支え

カーテンも窓も開けたくない。別の部屋に行きたくない。除湿運転でちょうどよくひんやりしたここにいたい。と何度もベッドに戻りたくなる。いよいよ夏本番。一応まだ梅雨なんだろうけど昨日もとても暑かった。

が、昨日はポッカリあいた時間を使って弾丸プチトリップを敢行。身体が動くうちにやっておきたい、そして夏休み前だけどリフレッシュ必要ということで東京と距離をとった。1時間あればかなり別の環境に行ける。

知らない人の隣に座ってなんとなくその人が反応した方向をみたらびっくりするような景色があったり、自分の目より人の目を借りた方が世界は広く感じる。この前、久しぶりに若い頃からの付き合いの先輩たちと話をしていてその先輩たちにもその職場の人にもいろんなことを分け合ってもらったなと思った。当時の俺らの仕事のやり方はどうなんだ、という部分はあるが、当時本当に大変だったことや人に対して今は別の見方ができるのも彼らのおかげ。

そういう彼らが学術大会で「すごく久しぶりに精神分析の人の話を聞いたけど昔より身近になってる気がした」といってくれた。私みたいのがいるくらいだから以前の高学歴、高知能男性(という言い方をしている人は結構いた)ばかりの集団ではないし、なにより実践が一定の水準でなされていることが臨床家である彼らにいい印象を与えたらしい。以前はすごく賢い人たちが失敗する事例を出すのが精神分析という印象だったという話も聞いた。多分理論と結びつけた説明が届かない場合に精神分析では必然的に生じる「失敗」が何か自分たちの臨床感覚と全然違うという感じをもたらしたのだろうと思う。私たちがもっといろんな言葉を使っていかなければならないのだろう。

日本では精神分析という言葉は「的」をつければかなり広い意味になるが精神分析を実践している人は協会の人や海外で精神分析のトレーニングを受けてきた人だけだと思う。別の友人たちにも「そういえば実践なき議論を続けてきたから実践している人の話は大事だよね」と言ってもらえたのも嬉しかった。精神分析は高いが、そこまでの投資を自分に対して必要と感じた人は自分から希望する場合もあるし、こちらからの提案でその存在に委ねてみようと決心したりする。精神分析の知見はそれこそ日常生活で生かせるものだし、今も実際に生き残っている実践であることを広めて行けたらいいなと思う。なのでこうしていろんな会話で労ったり励ましたりしてくれる友人たちの存在がとてもありがたい。今日もそういうみんなの支えを還元すべく色々がんばろう。

熱中症にお気をつけてお過ごしください。水分水分。休息休息。

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散歩 精神分析 趣味

麦茶、紫陽花、クレー

今朝も風がない。どの向きの窓を開けても風が入ってこない。冷たい麦茶を飲む。今年も麦茶を作り始めた。少し前にそろそろかなと思って作ってみたらそれほど消費しなかったからやめてたけどここまで暑くなると需要も増えるだろう。昨日、ごくごく飲んだつもりのペットボトルの水が半分しか減っていなくて自分でびっくりしているのだけど。水分を取るのが下手なせいでいつもどこか不調なのかも。

近所の紫陽花がまだまだきれい。新宿中央公園の大きな紫陽花はだいぶ茶色くなってさらにマダラになってきた、と思ったのだけどあの茶色って別の葉っぱが落ちているのではないかな。紫陽花って立ち枯れることはあるけど葉っぱ自体がポロポロ枯れて落ちることはないだろうから。葉っぱじゃなくて花、あ、花でもないか。装飾花の方。ガクのこと。近所にしても公園にしても私が日々出会う紫陽花は木の下で直射日光にさらされている時間は少ないから茶色に錆びちゃうみたいにはならないけど、ここ数年の尋常じゃない暑さで株の体力も衰えるのではないかしら。自分の体力がどんどん衰えていくから投影しているだけかもしれないけれど。

今度、精神分析がらみでパウル・クレーの話をするので『クレーの日記』をどこに置いたっけと探していた。あの黒い表紙の。と思ったらあれって息子のフェリックスが編集したものだからということでできるだけ元のままの新版が出てた。知らなかった。クレーとカンディンスキーは多分親が好きだったのだろう。実家にあった大きめのカード(というのかわからないけど)を持ってきていて開業したときにオフィスに飾っていた。でも端っこがよれちゃったので今はクリアーファイルに入れている。谷川俊太郎の『クレーの絵本』『クレーの天使』も持っている。クレーはフロイトの20年後くらいに生まれて同じくらいに死んだ人。スイスで生まれたドイツ人でスイス国籍は死んでから認められたんだっけ。忘れてしまった。大抵のことは忘れられていく・・・。

しかし朝から蒸し暑い。バナナを凍らせているからスムージーでも作るか。混ぜるだけだし。熱中症に気をつけて過ごしましょう。

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精神分析 読書

「ほどく」

蒸し暑い。喉が乾いて何度も起きてしまった。冷蔵庫からペットボトルの水を取り出して手元に置いたらひんやりして少し眠れた。冷房、除湿の使い方も人それぞれでこの時期そんな話も多くなり興味深い。今は鳥たちが元気。

河出書房新社のWebサイトでカミラ・グルドーヴァ『人形のアルファベット』(上田麻由子訳) 冒頭作の「ほどく」が無料公開されていたので読んだ。季節感ゼロの文章がドライさとほのかな不気味さを漂わせている。こういうとき「ほどく」のはやっぱり女だよな、と思う。ほどくものがたくさんあるから。衣装を脱ぐのとは別次元の「ほどく」。世の中には近しい人と臨床の場でしか語り合えないことがたくさんあってそういうことはSNSにはほぼ書かれていない。書くはずがない。どうなるかわかっているから。わかったようなこと書いてただの意地悪じゃん、人のプライベートに踏み込んでるだけじゃん、なんでいつも自分は正しい立場なわけ、と思うことがたくさんあるので私の頭の中では「関わらない技術」という本が書かれている。もちろん学術的な議論以外では外に出さない。ナルシシズムを肥大させているのは本人とは限らない、というより本人ではない。痛みなくほどくことができるならどんどんほどいていけたらいいのかもしれない、とかも大きなお世話なのだろう。ほどくたびにどこか痛んでいるという想定は痛みを体験できる身体あってこそ、というより、など今日もぐるぐる。

いいことありますように。

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俳句 精神分析

NHK俳句、精神分析とアート

NHK俳句は第26回NHK全国俳句大会のことをやっていた。時間めいいっぱい使っていた。作者のコメントや俳人たちのコメントになんだか泣けてしまう。普通のことにじんわりくるのが俳句の良さだよねえ。とかいって今夜締め切りの俳句が一句もできていない。仕事の行き帰りを吟行とすべし。

明け方まですごい風だったが今は静か。あれはなんだったんだろう。

7月に精神分析的心理療法フォーラムというところで精神分析とアートについて話す機会をいただいた、というより私は討論なので先生方のお話を伺って何かいう役割。大学時代から学際領域が好きで児童文化学科という子供の文学、文化、発達心理学、発達臨床全部を学べるぴったりの場所にいたし、今も他領域に手を伸ばしながら精神分析を考えるというか、精神分析ってそもそもいろんな学問あってこそだと思うからこういうイベントに呼んでもらえたのは嬉しい。私にとっては確実に勉強になるだろうけど何か有意義なフィードバックができるかどうか心配。原稿をいただいてからの時間もあまりないけどできることをやろう。

基本は臨床のことしか考えていないから別のところで頭を使うときの語彙の少なさに自分でびっくりしてしまう。臨床の言葉は語彙というのとはまた違って相手との間で紡がれる。お互い「え、なんで今この言葉使ったんだろう」と狼狽えるような瞬間もたくさん生まれる。そういうところは精神分析ならではなのかもしれないけど、取り決めのある安定した場所だからこそ生じるということであれば多くの心理療法に当てはまるだろうからそういう言葉の生まれる場所を大事にしていく学問であったらいいなと思う。

どうかいい俳句が生まれますように。良い日曜日でありますように。

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舞台

本谷有希子ポッドキャストなど

明るくなるのが本当に早い。さっきまで大丈夫だったのにちょっとひんやり。肩だけ羽織る。すぐに温まる。

本谷有希子のポッドキャストを聴いた。声もいいし明るくハキハキしてて面白かった。本谷の舞台を最初に見たのはいつだろう。『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』から見ているかもしれない。すっごく面白かった。吉本菜穂子さんが出るようになってからも何作か見たかな。吉本さん大好きだったけど今は何に出ているのだろう。私が舞台をみる時間がなくなってしまったから最近の演劇情報が全然わからない。また舞台が見たい。

睡眠をきちんととろうといっぱい寝ているが何度も起きてしまうので結局疲れる。短時間でもきちんと寝る方が私にはいい。身体の調子も日々変わるしとりあえずルーティンをこなせているかどうかが目安。と書いていると今度は眠気がくる。少しうとうと。調子が悪いときは自分の身体がどうなっているのか細かく知りたいくなるが、そういう気力があればのお話。体力は多分残っているのだけどどっかだるかったり痛かったりすると本当にやる気失くすでしょう。こんな小さな臓器の痛みに私全体がこんなに奪われている、みたいな不思議を探求する気力なんて出てくるはずもなく。痛いところが具体的になくても同じ。気持ちが何かにとらわれてどうしようもないときに身体の動きまでいつもと変わったり動き方のリズムやスピードが変わったりする。いつも通りでいられることがどれだけ幸運かと思う。わたしたちはコントロールできない心身を自分だと思っている。不思議だ。

今日も動かねばな。がんばろう。

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読書

金曜日

曇っている。なんとなくドイツのニュースを見ていた。ドイツは保護者同伴なら14歳からお酒が飲めるらしいがその法律を変える方向らしい、とか。そうだ、ドイツに関連した小説を読もうと思っていたのになんの本だか忘れてしまった。

パソコンで動画が普通のスピードで再生されなくなってしまった。そんなにみるわけではないからいいけどzoomとか大丈夫なのだろうか。

いろんな変化に慣れてきたかと思いきや改めて対応に追われることも多く結局毎回一からみたいになっている。でも考え方が明らかに異なる人に対する対応は少し定まったきたかな。と思ってもいざ対応するとなったら一からだろうけど。

たとえばニーズを勝手にあることにして権威によって病理化しているのをみたりするとうわあとなる。立場の弱い人をそっと支えるという考え方がない。依存と搾取に関して対話ができる人とできない人がでいるので坂口ふみさんを読んでほしい。媒介は常に必要。

ルーティンだけはこなせるようにがんばりましょう。

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精神分析

坂口ふみ著『<個>の誕生 キリスト教教理をつくった人びと』

すっきり晴れている。が、梅雨。このまま1日とはいかなそう?朝はこういう文字もとてもみにくい。さっきよりはマシだけど。老眼鏡をかけてもピントが合うのにすっかり時間がかかるようになってしまった。遠くの方は相変わらずよく見えるのに。

昨日は途中で放っておいてしまった坂口ふみ著『<個>の誕生 キリスト教教理をつくった人びと』(岩波現代文庫)を持ち歩いていた。序章「カテゴリー」はジェンダーによる差別と役割意識を問題とする人全員に読んでほしい。

坂口ふみさんは、私の指導教官だった柏木恵子先生と同世代で、もしかしたら同じ時期に東大にいたのではないか。柏木先生からお聞きしていた話と重なるのでなおさら胸が痛む。柏木先生のご自宅に伺ったとき、海外にいくと気に入ったカップを1客買ってくるのが習慣、というようなことをおっしゃり、そのコレクションを見せてくださった。食器棚もとても素敵だった。ペアではないのが先生らしいと思った。

先週末の日本精神分析協会の学術大会で私は「カテゴライズ」という言葉を多く使った。自分の書いたものには一回しか出てこないのにパネルの議論の際に何度か使った。概念や理論とはなにかという議論でもあり、とても大事なことが話題になったのがよかったと思った。坂口ふみさんの本はキリスト教のインパクトが身近ではない私たちに哲学を通じてそれを伝えてくれる。

2026年10月に日本学術会議を特殊法人に移行させるための学術会議法人化法が成立した。名だたる学者たちの反対を押し切っての成立という時点で学問の声を聞く耳を持つ気のない政府のもとでわたしたちは生活を営んでいる。現行法の「平和的復興、人類社会の福祉に貢献する」という前文や「独立して職務を行う」という文言は消えたという。坂口ふみさんにこの本を書かせた友人アンナさんの死という出来事。アンナさんのような方をさらに失望させるような出来事が日々起きている。その場で生き残ってしまった、あるいは生き残ろうとしている人たちがギリギリ無力感に苛まれるのを防いでいる理由がこういう戦いだとしたらそれはやはり学問と密接に関連したこころの危機であることに変わりない。本書にある「隣人」の意味での「隣人になる」ことを志していきたいと思う。

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精神分析

フロイト「ミケランジェロのモーセ像」

薄暗い。薄着だと寒いけど普通に着てしまうと暑い。湿度の管理が難しいのかな。東京も梅雨入り。沖縄の梅雨はもう明けたらしい。心身ともに低め安定でいきたい、というか低めでもいいから安定していてほしい。

昨日は、久しぶりにフロイトの『ミケランジェロのモーセ像』を読んだ。岩波の『フロイト全集13』に入っている。そんなに長い論文ではない。フロイトが詩や彫刻には感銘を受けるのに音楽はつまらないと感じるというところから始まり、フロイトが強くミケランジェロのモーセ像にひかれ、その謎解きに取り組んでいく様子は面白い。芸術家ではなく作品を解釈するフロイトはやや自信がなかったようで、この論文は最初オットー・ランクらが編集を務める「イマーゴ」に匿名で発表された。その方法がこの論文に対する注目度にどう影響したかはわからないが、その後、フロイト先生の論文として主に精神分析の外側から様々な議論がなされてきたのだからよかったというかさすがというか。この論文はフロイトのあれやこれやが辿りやすくて読みやすい。幅広い資料の引用と丁寧な謎解き。どんな時間の使い方してるんだろう、ってフロイトの時間の使い方はだいたい世に出ているわけだけど情報処理のスピードが尋常じゃないと思う。モーセ像見にいってみたいな。

あとジョルジュ・ヴァザーリの『芸術家列伝」を読んでいたのだけど、レオナルド・ダ・ヴィンチとミケランジェロもすごいが、ヴァザーリ何者、という感じがすごくしている。彼自身は自分のことを歴史家でも文筆家でもないと述べていたらしい。画家であると。それはそうに違いないのだろうけど、同じ画家としてレオナルドとかミケランジェロのことを書くのってすごく大変そう。ヴァザーリはレオナルドの推しだったんだな、と読みはじめてすぐに思うが、割かれているページは友人であるミケランジェロの方がずっと多い。現代にいる私からはちょっと変わったテンションの本に思えるのだけど長い間、イタリアルネサンス美術に関する最重要資料だったわけだから資料として読む目を養わないといけない。

25年前にツアーで行こうとしたら人数が足りず行けなかったイタリア。行きたいなと思いながらどんどん月日は過ぎた。オリーブオイルもそんなに使わなくなった。今の世界じゃ芸術作品だっていつ壊されてしまうかわからないから早く行った方がいいんだろうな。モーセと同じポーズをとってフロイトの考えたことを考えたい。写真だとわからないから。

雨雨雨の毎日になるのかな。のんびりいきましょう。

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精神分析

RACHEL’S『MUSIC FOR EGON SCHIELE』、ウィニコット「鏡ー役割」、エゴン・シーレ、ルイス・ブニュエル

薄暗いままの部屋で起きた。窓を開けたらまだ雨。昨晩は傘をさしたけどささなくてもそんなに濡れないような雨だった。

今朝はRACHEL’Sの『MUSIC FOR EGON SCHIELE』を聴いている。画家エゴン・シーレ(Egon Schiele)を描いた舞台(1995)のための作品。リリースは1996年、先月30周年記念盤が発売。ピアノとヴィオラとチェロの編成。雨の日にぴったり。

先週末、日本精神分析協会学術大会でナルシシズムに関する論考を発表するのにウィニコットの「鏡ー役割」を少し取り上げた。『遊ぶことと現実』の第9章「子どもの発達における母親と家族の鏡ー役割」でウィニコットは、まずは「私が述べるのは視力のある幼児に関してだけである」と述べるところからはじめている。精神分析が外に開かれるためにも有用な理論ではないかと私は思っている。この章でウィニコットは「今日、顔と自己について議論するなら、どうしてもそこに彼が入ってきてしまう」として画家の方のフランシス・ベーコンを取り上げている。

一方、私が思い浮かべていたのはエゴン・シーレが描く顔であり母子であった。なのでRACHEL’Sを聴いているわけだ。

エゴン・シーレの絵は乾いているのにとても悲しい感じもするし、できるだけ奥行きを小さく閉じ込めるような絵もあるし、常に目線が合わない感じがする。地道に考えて来年のJPSジャーナルのエッセイにでも書けたらいいな。

昨日、ザ・ブルーハーツ「TRAIN-TRAIN」を歌っていたらなんでと聞かれ、そこからの思い出話で真島昌利の「アンダルシアに憧れて」の話になり、アンダルシアの話になり、『アンダルシアの犬』(1929)の話になった。向こうはルイス・ブニュエルとダリによるこの短編を知らなかったが、冒頭のシーンを思うだけでキャーキャー以外のことを言えない私に説明などできるはずもなく、動画を検索していた。あの映画の断片的な映像が本当はどう映されているか、そのときのBGMはあったか、なかったか、など考える余裕もなかったし、考えようとするとキャーとなってしまい先に進めない。それが狙いだったのかな。だとしたらそこに留まらずに進む必要があるということなのかな。大変だ。

ルイス・ブニュエルが誕生したのは1900年2月22日のパリ。フロイトの『夢解釈』が出版された年。エゴン・シーレは1890年、オーストリア生まれ。スペイン風邪で亡くなったのは28歳。その短い生涯で残したもののインパクトの強さときたら。私は一時期ブリュエルのあれこれに触れていたけどもうすごく遠い感じ。勇気がなくなったのかも。エゴン・シーレには精神分析家として勇気を持って関われたらいいな。ウィニコットがイメージする眼差しに近づきたい。

静かな朝。どうぞよい一日を。

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精神分析

時代

しっかり寝た気がするが外の光の移り変わりを見ながらウトウトしてる間に見た夢に虫が出てきたのが嫌だった。ややコミカルであったが。と書きながらその前に見ていた夢を一瞬思い出したがどこかへ消えてしまった。今朝は少し涼しい。

それにしても朝は目が見えない。週末、いろんな友人と老眼の話をした。付き合いが長いとお互い目がよかったこととか元々悪かったこととか色々知っているし老いのあれこれを実感を持って語ることが増えるのか。若い頃には知らなかったな。いつもお世話になってきた先生に講演会で思い出話をしたといったら「そういう年齢に」と言われ、まさに私が言いたかったのはそこなので笑った。こんななのに思い出話するようになっちゃったよ、と少しおかしい。東畑さんとか私から見たら若い心理士たちのいっていることとかに触れたときに世代差を実感した。「先生の時代は」とか言われることも増えた。「はいすくーる落書」の話が通じた同世代は THE BLUE HEARTSのTRAIN-TRAINがそこから出てきたのを知っているかどうかだよな、みたいなことを言っていて面白かった。その頃の尾崎豊について同世代と少し下の世代の実感が異なるのも興味深かった。私は尾崎が死んだ日のニュースを寮で同じ歳の子たちと見たのでその日の異様な雰囲気を覚えている。泣いている子たちもいた。週末の講演のためのメモは私が影響を受けてきたというよりは通り抜けてきたテレビや本のことが多かったがそれらはほとんど使わなかった。薬物の観点からも時代の話はできる。歴史というのは面白いのだ、なんて実感もここ10年くらいの間に生まれた。老いると自分語りが増えるのは仕方ないことなんだな。そうそう、週末、学術大会ですごく久しぶりに揃った昔の職場の先輩たちと当時、嘱託でいらしていた元管理職の教職のみなさんがいかに体力があったかということも話した。私たちはまだその先生たちの年齢においつていないけど、すでにあんな元気はないことは確定している。

週末は平井靖史さんのベルクソン理解を早く読み直したいな、ということを何度か思った。時間のことをあれこれ考えたからだろう。今朝の夢のことも考えたい。が、6月いっぱいの締切も一つ思い出した。ぼんやりしているうちにすぐ月末になるだろうから忘れないようにしたい(当たり前だが)。

こういう時間に読もう。どうぞ良い1日をお過ごしください。

☆日本精神分析協会学術大会にご参加くださった皆様、どうもありがとうございました。来年まで元気に過ごしてまた精神分析のことをお話ししましょう。☆

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精神分析

心づくり、出会い

窓を開けると鳥の声。昨日は暑かった。夜は気持ちよかった。もうこのまま暑い日が続くのかな。昨晩、洋服ダンスの薄いニット類を眺めながら、梅雨になると気温がさがるはずと思っていたけどそんなことないんだっけ、と少し心配になった。暑すぎるでしょう、ここ数年。ちょうどいい気温の日が少ないと着ない服が増える。

今朝は兵庫の友人にもらったMLESNA TEAの白桃アールグレイ。あと講演のときにもらったNOAKEのボンボンキャラメルのブーケから一本。美味しい。華やかなセット。

なんかいやだな、と強く思うことがあったときの気持ちのおさめ方は特にないけど見た目も味もいいものをいただく、というのはひとつ。相手への信頼度が減るのは残念なことだよね。でもまあ、みんないろんな考え方があって味方づくりに勤しんでいるのだろうからそういうやり方は対症療法に過ぎないじゃん、というよりそういう心性が結局反復作り出してんじゃん、と思ったとしても自分のやるべきことを邪魔されない心づくりを心がけよう。子どもが欲しいものが手に入ったときの喜びや好きなことをやっているときの集中力を取り戻そう。多分、かつて、私にもあった。

なんか鳥の鳴き方が激しい。鳴き声を調べようと苦手なyoutubeを開く。YouTubeからの鳥の声でさっき聞いた鳥の声が記憶の中でかき消され参照失敗。短期記憶どれだけ悪いのか。

この前、講演の内容を考えているときに、今って、求めても隠蔽されたりするのに求めてもいない情報は次々入ってきたり、「ブロック」とかいってタップ一回で対人関係を切れると思いこんでたりするから、いや、そういう人もいるから大変だな、と思った。

講演では、日本での日本人の出生数が70万人を割ったとニュースを取り上げ、いまだかつて一度もメジャーになったことがなく、これからも日本ではメジャーになることはないであろう精神分析が草の根的に雇用を広げていくためには、という話からはじめた。この場合、まず雇用されるということが大事になる。私みたいに個人で開業している人は委託されることが大事になる。協力したいのは地方であり、特に若い世代に雇用を作り出して、人とのつながりがもたらす明るい可能性を見出せるような心づくりに寄与できたらいい。なので期間限定の精神分析を無料で受けられる助成金を出してもらう。そうしてもらえるようなゆとりある自治体はあるだろうか。

第二次ベビーブームの年にうまれた209万人のなかのひとり、いわゆる団塊ジュニア世代の私が体験した小学校、中学校の文化についても話した。経済成長を背景とした進学率の急激な上昇、デジタルおもちゃの参入(私の場合、東京の転校生から)、時代のスピードは速くなった。私はそれに逆らうようにひたすら眠り、覚醒するために詩を書いていた。今朝も体調管理のためにゆっくりしようと思っている。私は急かされてもついていけないし、急ぐと転んで怪我をしてさらに視野が狭くなる。自然と戯れアナログおもちゃで遊ぶ時代の子供なのだ。ルービックキューブだって時間をかけてやればいいのだ。ということで二度寝する予定。

1915年生まれの詩人、石原吉郎のメモも紹介した。

詩を書きたいと思うとき、詩によって自分を救おうと思うとき。それは自分がなんらかの意味で壁につきあたっている時、自分自身を疎外しているとき、危機に脅かされているとき、不安を感じているとき、絶望を感じているときである。p245

バブル崩壊後の就職氷河期世代であることなど、やはり経済状況との関連が第三次ベビーブームが起きなかった原因としてあげられる。当時は対症療法的な子育て施策さえなく、今よりもさらに子供を産むべきという圧力が強い時代だった。子どもの未来に対する不安は親になる不安と重なっている。女の身体にはリミットがある、ということに対して医療の進歩で応えるのも女一人の人生を考えてみた場合、適切だろうか。夫婦別姓さえ受け入れないこの国で個人である自分を保ちつつ、誰かのパートナーになったり親になったりすることはたやすいか?

半分大人、半分子供の維持。そんな姿勢への変化も話した。学校は子供から大人へのベクトルを持つが、それに対する精一杯の反抗をある程度安全にできる場所だった。窓ガラスを割ったり爆竹鳴らしたり、校内をバイクで走ったりする破壊行為に持ち堪えてくれる場所だった、のか?校内暴力全盛期に小中学生だった私たちの体験は今の社会のどんな特徴となっているのだろうか。

とかいうことを色々考えながら話せたのはよかった。

異質なもの、外在性との出会い方、の話だ、どれもこれも。今日も大まかにいえばそういうことについて話す予定。

This transformation of unity into ‘three-ness’ coincides with the transformation of the mother-infant unit into mother, infant and observer of mother-and-infant as three distinct entities. 

これはオグデンの本の一節だけどどの本だかメモしておくのを忘れてしまった。

ウィニコットのこれもいい。

From now on the subject says: ‘Hullo object!’ ‘I destroyed you.’ ‘I love you.’ ‘You have value for me because of your survival of my destruction of you.’ ‘While I am loving you I am all the time destroying you in (unconscious) fantasy.’

–The Use of an Object and Relating Through Identications Donald W. Winnicott

「歴史は過去とは違う」by オグデン。これも基礎的な認識として大事。

History is a creation reflecting our conscious and unconscious memory of, our personal and collective rendering of, our distortions of, our interpretations of, the past. –Ogden, T.H. Matrix of the Mind

今日ものんびりがんばろう。どうぞ良い一日を。

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少しずつ

くもり?空の色が薄い。昨日もらったパンがおいしい、と思ったけど胃が痛い。無理せずいきたい。

講演の原稿は結局直前に書き上げたがやたら短くなってしまった。なので別で書いていた原稿も付け加えた。特にこれを言いたいというのがあるわけではないから思いつくままに書いたが、自分が第二次ベビーブーム世代の子供であり、校内暴力全盛期の時代に思春期を過ごしており、など時代背景を伴う話にできたことはよかったのではないかと思う。同世代も多いし。

そこで谷川俊太郎の「生長」という詩を二篇朗読した。同じ題名の詩は多分これだけではない。あれだけ長い期間、あれだけの数の詩を書いていれば当然だろう、としても同じ題名の詩ってどのくらいあるのだろう。

とにかくひとつ終えて安心。みんなといろんなお話ができたのも楽しかった。語らいの相手も場も広げていきたい。少しずつ少しずつ。

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ハンバーグ、紫陽花、朝ドラ

夏の日の出は面白い。オレンジになったりグレーになったり光の吸い込まれ方が春とは違う気がする。季節外れのリンゴは今日も季節外れらしい味がする。少し歯が痛い。多分歯軋りのせい。自分では気付いていないけど歯医者さんにいつも言われる。

昨日は久しぶりにハンバーグを食べた。昔、誰だったか身近な人がハンバーグを好きじゃないといっていてなんかわかる気がすると思ったことを思い出すけどどんな会話だったか覚えていない。私は好きでも嫌いでもないけどメニューにあると惹かれる。お肉自体がすごく美味しいハンバーグとソースが美味しいハンバーグがある。私はひき肉とか使うならキーマカレーとか作る。子供はカレーとかハンバーグが好きっていうけど私はハンバーグの思い出はそんなにない。カレーは好きだった。当時はいろんな国のカレーがなくて日本の素朴なカレーしかなかった。ハウスバーモントカレーが1963年。うちはなんのルーを使っていたのだろう。ハウス名作劇場は見ていた。

結局原稿が書けていない。今回も当日。朝のこの時間が一番まとまった時間だから今やればいいのだろうけどお菓子食べたりお茶飲んだりぼんやりする時間も好き。

新宿中央公園のアジサイロードへ行ったが晴れの日でも少しおとなしかった。亀のいる滝と西新宿の高層ビルが見渡せるベンチのそばにはゴージャスな青い紫陽花がたくさん。紫陽花に埋もれるようにしてベンチに寝そべっている人がいた。多分あの人雨の日にレインコート着てベンチに座っていた唯一の人だ。定位置ってあるよね、と思いながらそこの紫陽花は写真を撮らず静かに通り過ぎた。

朝ドラで若者たちがどんどん戦争にとられていく。国防婦人会の民江さんを演じる大人計画の池津祥子がうまい。のぶちゃんの引き裂かれそうだったりなんとか留まろうとする心を緩急つけて演じる今田美桜もいい。日本が勝つと信じてまっすぐな正義を貫きたいのぶちゃんと姉妹だけにみせる揺れて震える正直なのぶちゃん。蘭子ちゃんが豪ちゃんを失い「嫌なもんは嫌や」と言い続けたことはのぶちゃんが蘭子ちゃんを説得せるよりも説得力があったということ。のぶちゃんが変わったわけではなく選択に対して別の解釈がなされたことに戸惑いと共に迎合してしまった。正反対の言葉で本音を隠してしまうのぶちゃんのことをみんなわかっているのがいい。たかしにはなかなかだが・・・。「たかしも行くがかえ」というのぶちゃんの一言に胸が締め付けられる。嫌な時代。嫌な時代。繰り返されませんように。

空が安定した光に染まり始めた。明るい。今日も暑そうだ。諸々なんとかなりますように。

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精神分析

学校

早朝から鳥は元気。よいことだ。マイナンバーカードの更新を教えてもらいながらやった。自撮りした写真の肌が疲れていたがこういう証明写真で更新できるのはいい。押し付けられたカードの更新に無駄なお金使いたくない。

週末、精神分析家候補生に向けて講演をする。精神分析家に認定された人はみんなやることになっている。候補生から会員になって一年。すでに色々なことがあった。今回は長い間私の臨床の一部であった教育分野である学校、それを普通と思えなかった私、不登校のケースから学ぶこと、訓練における個別教育についてバラバラと話せたらいいかなと考えている。私が生まれ育ってきた時代と今はだいぶ異なるが子供が大人になるまでの過程に学校はずっとある。一気に書かねば。

またゆずるための本を見ていた。学校臨床関係の本も多い。近藤邦夫先生の本は残しておこうかな。私はスクールカウンセラーと呼ばれる以前の「心の教室相談員」時代に学校に入った。最初の職場の教育相談室で会っていた子供たちの多くが行けていなかった「学校」という場所に外から仕事で入った。大人になってから知る教師の仕事は私にはとてもできそうもなかった。なりたいと思ったことがないのは幸運。なりたくてもなれなかった。近藤先生は大切なのはなにより授業だと書いていた。本当にそうだと思う。人と人の直接的なやりとりは大変になりがちだが授業を通せばまた違うコミュケーションも可能。先生たちが意欲を保てる環境ってどんなだろう。まずは問題や責任の所在を先生に集中させないところからかな。とか書いていないで自分の原稿を書かねば。ふー。とりあえずたねやの季節の和菓子、稚鮎でもいただく準備をしましょう。どうぞよい一日を。

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精神分析

雨の新宿中央公園、時間

季節外れのりんごはそんな美味しくはないけどちょうどいい味。さっぱりしている。今朝は少し暖かいからそう思うのかも。昨晩は寒かった。雨の新宿中央公園をのんびり歩いて濡れたせいもある。ふくらはぎくらいまでの長靴を履いていたけどスカートもふくらはぎくらいだったから裾が濡れた。公園では結構な雨の中レインコートを着て佇んでいる人をひとり見かけたけれど歩いて通り過ぎる人以外誰にも会わなかった。アジサイロードの紫陽花たちがようやく色づいてきた。誰もいないロードの写真を毎年撮っている構図で撮った。大きな水溜りがたくさんあったが仮囲いの向こうの工事済みの道にはなかった。きれいにならされているのだろう。予想通り「最初からこうでした」みたいな道になっているけれど私が毎年愛でていた梅「銀世界」もコブシももうない。どこに行ってしまったのだろう。どこかにいくならさよならをしたかった。あのコブシは伐採されたのだろうな。そういえば昨日は工事をしていなかった。火曜日がお休みなのだろうか。誰も映り込まない新宿中央公園でいろんな種類の紫陽花も蕾も花も増やしたタイサンボクも葉っぱの色と同じすぎて目立たない梅の実も少し濡れながら写真を撮った。鳥の声はいつもより静かで姿も見えなかった。梅雨にはいればこの静けさが増える。木々は毎日成長を続けるだろうけれど。そういえば昨日、下村湖人の『次郎物語』の一文を思い出した。小学生の時に繰り返し読んだ作品だ。あれは実は未完なんだけど私が好きなのは大きくなる前の次郎。

年が明けた。愛されるものにも、愛されないものにも、時間だけは平等に流れてゆく。──下村湖人『次郎物語』

時間だけは平等に、そのはずだと思う。上野千鶴子が『アンチ・アンチエイジングの思想』(みすず書房)でボーヴォワール『老い』の「老いたゲーテ」のエピソードを紹介する前の一文がこれ。

老いれば誰もが衰える。──上野千鶴子『アンチ・アンチエイジングの思想 ボーヴォワール『老い』を読む』

まあそれはそうだ。絶対にそうだ。

人が足を止めようと止めまいと降りしきる雨の中に佇んだせいだろうか。時間は流れていく。

でも精神分析を営む私が強調したいのはそのような一方向的な不可逆的な時間ではない。ベルクソンがいった未完了相というアスペクトである。平井靖史『世界は時間でできている──ベルクソン時間哲学入門』(青土社)に詳しく説明されている。

変容を伴う熟慮にとっては、時間は利得なのだ。──平井靖史『世界は時間でできている──ベルクソン時間哲学入門』

この辺りに書かれていることは精神分析における時間の記述の助けになってくれる。そのうち引用しながら考えてみよう。

今日はこれから晴れるらしい?今はくもり。静かだな、と思うとカラスがなく。そんな朝。今日も一日。

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精神分析、本

ヒヨドリ、引用、松木邦裕『パーソナル精神分析事典』

洗濯物を干しながら鳥が鋭く鳴くのを聞いた。ヒヨドリだ。ヒヨドリの赤いほっぺをきちんと見たいが下から眺めてばかりだからいつもシルエット。カラスも遠くで大きな声で鳴いている。昨日、ゴミ捨て場の花壇に大きなカラスがとまってキョロキョロしてた。私が真横を通っても何も気にしていなかった。そのキョロキョロに意味はあるのだろうか。カラスはペアで見ることが多いからもう一羽を探したけどいなかった。その日はソロだったのか。今週末に向けて準備しなくてはいけないものがあとひとつになった。ほかにもあるのかもしれないが覚えている範囲では。

溜まりに溜まった資料を片付けなくてはと手に取ったら読み始めてしまうといういつものことを始めてしまった。2005年9月の『現代思想』(青土社)「特集=女はどこにいるのか」の岡野八代「繕いのフェミニズムへ 」の後半。今度、私が発表しようとしていることと近い。私はジェシカ・ベンジャミンもカントも引用しないけど。カントはこんな感じで読めるのか、と学びつつ、この論稿での引用、参照のされ方って精神分析が批判されるときの言葉の使い方と似ているなと思った。二元論を超えることが二元論を際立たせることもあるから受け取り手とともに考え続けることが実現されないと結局対立みたいになりがち。こういう場合、必要なのは発信側がより頑張ることではなくて受け取る側がいろんな可能性に開かれていることだと思う。自分が欲しいものを受け取れなかったらつまらないとかわからないとか別のもの出せ、とか簡単に言わない受け取り手でいたい。自分の方でできることだってたくさんあるし。第三者からみたら二人は鏡に見えるけど、みたいなことはたくさんあるのだから視線の先をぼんやりみたり聞き流しながら捉えたりすることができたらいい。覚醒と夢想。ビオンはやはりすごい。

ビオンといえばこの前、精神分析家の松木邦裕先生の『パーソナル精神分析事典』をパラパラしたのだけどとても面白かった。それこそ松木先生のパーソナルな部分がちょこちょこ読めるのが面白い。こういう本読んでるんだ、とか。あとはビオンの箇所。松木先生のビオンに対する講義はたくさん聞いているので慣れていて読みやすいというのもあるけどこんな簡潔に書くまでにどれだけの咀嚼が、と尊敬の念が深まった。いいなあ。私もフロイトとウィニコットを少しずつでいいから深めたいな。少しずつとか言っているとああやってまとめることは全然できないから教えるなかで生かしていけばいいかな。

朝起きてすぐ家事をしていたら暑くなって半袖になったのに今寒い。ヒヨドリがまた近くで鳴いている。昨日は寄り道をする時間がなかったので今日はしたい。どうぞ良い一日を。

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越谷ろまんず、日々

今朝は日光街道歩き土産の磯崎家本舗「越谷ろまんず」チョコレートクリーム味。パッケージがレトロでかわいい。ブッセ生地のお菓子は美味しい。越ヶ谷宿は日本橋から3番目の宿場。通ることはあるけど駅で降りたことはないかも。越谷レイクタウンはすごいという話は聞いたことがある。

映画や展覧会をことごとく逃している。旅先では余裕があるから美術館や博物館があれば必ず行くけど映画はあまり行かない。映画館のある街ってそんなに多くないから。昔、オリオン通りの映画館によく行ったが今は通りの名前が残るのみ。ほとんどシャッター商店街だが身内で通れば「あそこであれ見たよね」「隣の手芸用品店でフェルト買ったよね」など思い出で色づく。一時期は映画館のない街になったが今は駅の反対側のモールに映画館が入った。展覧会も映画も気づいたら終わってて、と柴崎友香が『あらゆることは今起こる』に書いていたがあの本に書いてあることは実感としてよくわかるものが多い。あんなふうに言語化してくれる作家がいてくれるのは日本のいいところだと思う。日本じゃなきゃ困らない、とも言えるけれど。

一体何をどう捉えてどう感じてどう考えればいいのか、と日々をこなしながら別の日々を過ごしているような毎日。分析を受けていた頃はその別の日々も息づいている感じがしたが、普段はB面というか表面には出てこない。そっちからの突然の働きかけに気づくようなこともあるけれど。展覧会や映画を見逃すのは残念でもあるのだけど単にそんなに行きたいと思っていないのかもしれない。別の刺激のせいでなくしたくないものがたくさんあるのかもしれない。自分のことはよくわからないけれど自分と同じような人にであったらわかるかもしれない。そして同じような人は多分絶対いる。少し違うのは当たり前でむしろ違ってくれないと困るからそれわかるくらいの部分で十分だけど。

今日は6月2日月曜日。一日ずつ少しずつ。

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精神分析

『精神分析発達論の統合』の本とか。

早朝、カーテンを開けるとシャンシャンと蝉のような声がした。蝉は早いだろう、とあんな声のとりか蛙だろうということにした。でも旅に出てネイチャーガイドさんとしか行けないような場所に行くと変わった声に驚く鳥に出会うこともあるのでああいう鳥も多分きっといなくはない。人だって色々いるんだし。

私が面倒を見ている人たちに譲る本を探している。今候補にあるのはタイソン夫妻の『精神分析的発達論の統合①②』(2005、2008,岩崎学術出版社)。今、岩崎のウェブサイト見たら「品切れ・重版未定」とのこと。どこかの本屋さんには残っていたりするかも?図書館ならあるかも?監訳の馬場禮子先生も皆川邦直先生も亡くなられたけどこの本自体は古典でもないと思うし、精神分析理論の中でも発達論を統合して説明しているこの本は保育や学校現場に関わる臨床心理士の仕事には特に役立つと思うので、ということで譲ろうと思っている。「用語集」は2巻目にしかないのと第7部のジェンダーの発達についてはかなり偏りがあると思うので、それはそれで知っておいてもいいと思う。

そして来週末に久しぶりに会う友人に渡す本も準備した。前に会った時にあげると言っていたのを思い出してよかった。

忘れたいことも忘れたくないこともごちゃ混ぜにしてなんだかんだ覚えておきたいなと思う。どうぞよい日曜日を。