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精神分析

言葉以前。

深夜、窓を開けていたら近所から大きな話し声や笑い声が聞こえた。夜に窓をあける季節。風はあまり入ってこなかったけど閉める気にもならなかった。扇風機の音を近くにききながらコピペしたままの文章を眺めている間に。

現代の精神分析は主体を前提とできない症例が多い。カウチから言葉ではなく、身体を、声を聴く仕事。そもそもフロイトはそれをやってきたわけだが、フロイトが大きな役割を与えた自我がこんな形で空洞化した審級になると誰が想像しただろうか。

先日、アントニオ・R・ダマシオのDescartes’Errorをなんとなくめくっていた。この本はのちに新版『デカルトの誤り』としてちくまから文庫版がでているが、私が読んでいたのは『生存する脳』(講談社)のほう。

「私が考えている真に身体に統合された心は、そのもっとも洗練された作用レベル、すなわち精神(soul)と魂(spirit)からなるレベルを放棄していない。私の考えでは、精神と魂も、その気高さにもかかわらず、一個の有機体の複雑かつユニークな状態ということになる。
たぶん、日常われわれが人間としてできるもっとも重要なことは、われわれ自身が複雑で、脆弱で、有限で、ユニークであることを思い起こすことだろう。」

ソマティック・マーカー仮説で有名なダマシオだが、ダマシオが心を身体に戻すことを考えたように、ように、ではないが、精神分析は身体をよりsoul & spiritから記述していくがある時代だと思う。ただ話されているだけの言葉に安易に意味を与えず、その言葉の出どころを精神と魂と身体のハイブリッドで考える。その現れは言葉というより声であり、トーンであり、リズムだったりするだろう。精神分析で参照するとしたらやはりオグデンか。

今日はくもっている。日差しもあるがまだ強くはない。なんとか地道にがんばろう。