少し動くと蒸し暑い。千葉は今日も大変だろう。雨はしばらく降らないでほしい。せめて大雨にならないでほしい。大地が追いつけていない。
今朝は、再び土居健郎の理論に関して、少し書いておく。前に少し書いてからもう2週間ほど過ぎている。あっという間すぎる。
さて、土居健郎は、『「甘え」理論と精神分析療法』(金剛出版、1995/2013)オンデマンド版の序論で、精神分析の枠内で「甘え」理論をもっとも詳細に論じたのは『精神分析と精神病理』(第2版、医学書院、1970)であり、治療の実際についての土居の考えについては『精神療法と精神分析』(金子書房、1961)と『方法としての面接』(新訂、医学書院、1992)を参考にしてほしいと書いている。私は、実際の臨床が生活のほとんどなので、9月最初にここで精読した『精神療法と精神分析』が一番好きだ。
先日の精読では、第1編「精神療法の構造」を第1章「治療者患者の関係」、第2章「治療場面の設定」、第3章「治療の方針と目的」と通して読み、第2編「精神療法の過程」に入って、第4章「治療の開始」の(1)「初めの探りあい」まで進んだ。
土居は、本書の「第12版発行に際して」で、「その後「甘え」理論として巷間に知られるようになった私の理論は、萌芽としてではあるが、すでに十分に本書の中に示されている」と述べた。たしかに、本書で、土居は「甘え」という言葉をそれほど頻繁に使っておらず、「甘え」はまだ原始的幼児的な感情の文脈に置かれており、独立した理論的展開はなされていない。ただ、たしかに、「甘え」理論として展開されていく臨床的な見方は、すでに「萌芽として」ここに示されている。
たとえば「第5章 感情の交流」において「憎悪に満ちた心の陰に甘えたい気持がひそんでいることもあろうし、反対に、甘えているが実はその陰に不信の念がひそんでいることもあろう。」とアンビバレンツの状態を示す言葉として「甘え」がでてくる。土居は、まだ「甘え」を定義してはいない。臨床で生じる現象の主たる説明にもしていない。ここでは、陽性転移、陰性転移という精神分析の概念を用いつつ、それだけでは捉えきれない患者の感情のアンビバレンスの描写の一部として「甘え」が用いられているだけである。
一方、土居は、この時点で「患者の感情を感じとるのは直接治療者の理性によるのではなく、常に治療者の感情を媒介としてなされる」と明確に述べている。臨床例においても治療者が自らの感情を治療的に活用し得ず、「患者を甘えさせる方向に引っぱっていった」と述べるなど、「甘え」はまず、臨床における実感を示す日常語として現れるのである。
第1編でみたように、治療者と患者の関係がどのような場として成立し、そこで治療がどう始まるのかというのは、構造→設定→方針と目的→実際の開始、という順序で書けるが、一旦治療が始まれば、状況はいよいよ複雑になる。本書の第2編の症例たちがそれを生き生きと伝えている。「甘え」はこれらの臨床によって概念として育まれてきたのだ、と思うと、土居がなぜ「甘え」という日常語を概念として必要としたのかという問いも立ち上がってくる。それは単に、留学体験におけるカルチャーショックから生まれたものではない、といえそうではないか。
土居は、『「甘え」理論と精神分析療法』(2013)の「「見立て」の問題性」のなかでも、「甘え」に限らず、「種々の日本語固有のコトバが臨床的考察を進める上で有用であると述べた。土居は、「見立て」の議論において、診断というコトバでは「生きた患者の姿」が立ち上がらないが、日常語な日本語は「具体的で、折々に変化する流動的な印象」を与えると述べる。
私は、土居のこのような臨床とコトバに対する姿勢に感銘を受ける。「甘え」は単に、日本文化を説明する特殊な概念なのではなく、土居が患者をどう見ようとしていたか、その方法そのものから生まれた言葉なのではないか、という方向で私は土居の著作を読んでいる。
土居は、「甘え」という言葉を体験から再発見した。では、なぜその言葉が臨床概念として生き残ったのだろうか。『精神療法と精神分析』(1961)は、発見された対象としての「甘え」ではなく、「見る」「診る」方法としての「甘え」が形づくられていくプロセスとして読むこともできるように思う。
そして、これも、精神分析における主要な概念が、実践によって吟味され、更新されていく例のひとつといえよう。今日も私はその活動の中にいるんだな。がんばろう。みなさんもどうぞ良い一日をお過ごしください。千葉に適切な視察と十分な支援が入りますように。

