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精神分析

今日は雨。今朝も土居。

雨。今朝も土居。

精神分析の概念としての「甘え」を吟味していると、参照先がそのはじまりの人、土居健郎ばかりになってしまう。もちろん、私たち精神分析家がフロイトを読むように、精神分析における「甘え」を探求するなら土居健郎を読むのは当たり前なのだが、土居の「甘え」を精神分析の概念として論じたものとなると、案外少ない。ちょっと調べると、土居と言えば『「甘え」の構造』か、厳しいとか率直とか土居の雰囲気ばかりで、ばかりはいいすぎだが、土居健郎という人がどういう人だったかということばかり、あ、またばかりと書いてしまった。そんな気がする。

では、土居はどうであったか。フロイトに「傾倒」し、「格闘」した土居は、フロイトの概念をむしろ超えたからこそ「甘え」という概念を精神分析の文脈で再発見できたのはないか。フロイトの人柄的なものより、フロイトの概念を通してフロイトと対峙したのではなかったか。

土居は『精神分析と精神病理』(医学書院、第2版1970年)に「人間フロイド」という文章を寄せている。

土居は夏目漱石『こころ』の「先生」と「私」の対話から始めている。「私」は「先生の過去が生み出した思想だから、私は重きをおくのです。」と「先生」にいう。土居は「先生」のあり様をフロイドに重ねる。フロイド自身、自分の思想=精神分析が、自分の過去と「ごちゃごちゃにされる」ことを好まなかった。精神分析はあくまで客観的な科学的方法として受け取られることを望んでいた。しかし他方では、自己分析を行い、『夢の解釈』には自分自身の内的生活を大量に書き込んでいる。フロイトは敢えてそれを選んだわけだが、この緊張を土居は問題にしている。

私は、土居健郎には一度しか会ったことがないし、それでも先生たちがいう土居の雰囲気はわからないでもない。それでも、土居という人物に関心があるわけではない。私は概念の歴史のほうに興味があるので「甘え」という概念が、日本の、そして世界の精神分析のなかでどのように使用されたりされなかったりするのか、それにはどのようなことが関係しているのか知ることのほうが、精神分析の研究には役立つと思う。だから私は「私」とは違う。

そして「人間フロイド」を読む限り、土居も「私」とは違う。

前に、中井久夫が、土居先生は「甘え」についてもっと議論されることを望んでいただろう、自分もそれに応じようとしたが、十分にはできなかった、というようなことを書いていたな、と検索したら自分のブログがでてきた。出典が書いていない。こういうことがあるから書誌情報の整理に明け暮れていたのに。しかたないから、今度は中井久夫の本をあれこれパラパラした。意外とすぐに見つかった。

中井久夫『「昭和」を送る』(みすず書房、2013年)の「土居健郎先生と私」のなかにそれはあった。この本は昨年、新装版がでている。

中井の文章を引用する。中井はこの文章の最後にこう書いた。

先生の「甘え」概念への鍾愛は実に大きなものがあった。口にこそ出さね、「甘え」の今後の運命を心にかけておられた。誰の思想も、一般に二〇年の潜伏期があって、それからその評価が定まるという。私はその日を見ることはおそらくないであろう。次の世代、その次の世代が「甘え」をどう読み取るかである。私のしたことは、「甘え」理論にいち早く賛同したバリントの精神医学書全部の翻訳に関与したにすぎない。私はバリント未亡人と文通があり、彼の著作はおおむね邦訳している。しかし、神田橋條治先生によれば、学会で発言するが、誰も答えないそうである。「野に叫ぶ声」の人だろうか。土居先生も、発言に対して応じる声が少ないと思ってられたであろう。
白々しい沈黙ではないにしても、である。私はつとめて立とうとしたが、足りなかったと今にして思う。

私はこれを読んでとても寂しい気持ちになった。「甘え」の本はベストセラーになり、日本人について語るときの有効な言葉になった。でも土居がのぞんだ応答はそれとは別だったのではないか。中井は、ここで自分自身の「甘え」概念に対する発言はしない。ただ「私はつとめて立とうとしたが、足りなかったと今にして思う」とだけ書いた。

土居は、みんなに使える便利な概念として「甘え」を探求したのではなかった。

中井は「土居ゼミ」での症例報告のときのことをこう述べている。

「先生は、症例報告者が「甘え」という言葉を使う時、しばしば渋面を作られた。それは先生が珠玉のごとく磨きに磨いたものを安易に使うと思われた時に違いなかった。」

周囲から見た土居の並々ならぬ思い入れがよく表れていると思う。外からみれば、なぜそこまで『甘え』にこだわるのかという感じがあったかもしれない。『「甘え」の構造』がベストセラーとなり、これだけ広く知られたものになったのになぜ気軽に使えないのか、と思った参加者もいたかもしれない。しかし、土居からしたら逆だった可能性もなくはないだろう。これほど受け取られるならなぜ、精神分析においても同じ現象が起きないのかと。中井の文章を読む限り、土居は、自分がした再発見を精神療法に関わる人たちにもっと真剣に捉えてほしかったのかもしれない。なぜなら、概念は単に「傾倒」されるものではないから、というのは私が勝手に思っているだけである。

中井の書き方にも揺らぎとともに主張がみえはしないだろうか。中井は土居の側に立つという意味で「つとめて立とうとした」わけではないだろう。ただ、自分の足で立って応答しようとしたということだろう。でも「足りなった」。なぜか。土居の確信は中井の「甘え」に対する理解とは異なっていたからではないのか。

私は、「甘え」という概念は精神分析にとって有効で、重要だと思う。でも、土居のこのような態度について、さらに勝手なことをいうのであれば、土居の態度には「甘え」という概念が記述しようとしたことと、どこか重なる現象があるようにも思う。

自分が差し出したものが他者に受け取られ、理解され、応答されることを求めること。そして、それが叶わなかったときに生じる情緒。精神分析がカウチの上と後ろで扱う主な情緒はそれではないだろうか。

概念や理論が、別の概念や理論とのあいだに置かれながら、臨床とともに見直されることは必要だし、必須だと思う。しかし精神分析は、それがなされることを前提にはできない。他者がこちらの差し出したものを受け取り、理解し、応答してくれるとは限らないからである。それでも、その叶わないという情緒さえ抱えながら、目の前の他者とのあいだでものすごい時間をかけて何かを見出し、「格闘」していく。精神分析とはそういうものともいえないだろうか。

そんなことを思った。東京は今日は雨。新しい一週間、またがんばりましょう。