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精神分析

土居健郎のいう「甘え」とは。

土居は様々な本で「甘え」とは、ということを書いている。今朝は『土居健郎選集2 「甘え」理論の展開』の「聖書と「甘え」」を使って書いてみよう。

土居が「甘え」を「言語以前の、非言語的な心の動き」「本質的に非言語的非反省的心理」「それ自体をその場で「甘え」と命名することができない」「「甘え」の感情はデリケート」 「非常に原始的で、ほとんどおずおずとしたところがある」「プライベートな心の動き」と表現してるのがいい。

土居は、こうした「素朴な『甘え』」とは別に、「屈折した『甘え』」「加工された『甘え』」があるといい、それらに対応する欧米語ならば簡単に見つけ出すことができるという。「甘え」の本質は、素朴な、自発的な(受け身ではない)甘えにあり、「愛されることを求める」とも違う。

「自発的」といっても、相手がこれを受け入れなければ完結しない。これは、土居が『精神療法と精神分析』(金子書房、1961)の「治療の開始」で述べたことと重なる。患者が治療者を求めたからには、今度は治療者の方で、患者の差し伸べる手を受け取るかどうか示さねばならない。求めることは自発的であっても、関係は一人では成立しないのである。甘えるという心の動きが生じることと、その甘えが受け入れられて完結することは同じではない。

また、興味深いのは、「甘え」という語を土居は重視しながら、甘えているその場では「甘え」と命名することができないと言っている点である。概念はその経験を考えるために必要だけれど、経験のただなかへそのまま差し出せば、言葉としての形を失う。概念としてもっていた輪郭がぼやけるのだろう。土居が「甘え」を「非常に原始的で、ほとんどおずおずとしたところがある」と記述するのは「甘え」を心の動きと捉えるからで、それを概念の用語にするには、慎重であったのかもしれない。

先述したように、「甘え」は自発的であっても、相手がこれを受けいれなければ完結しない。土居は甘えの態勢は傷つき易いため、反転して恨みに変わり易いという。それだけではなく「甘えがうちに恨みを秘め、恨みが反対に甘えを秘めていることが多いように思う」とも述べている。土居が「甘え」と背中合わせだ、と述べる情緒はこれだけではない。土居がいうように、これはいわゆるアンビバレンスと呼ばれる、相反する感情が同時に存在することである。

20世紀初頭、精神医学者のオイゲン・ブロイラーがこれを命名した。これは欧米では日常語としてつかわれるようになり、訳語も「両価性」というより「アンビバレンス」と言ったほうが通りがよい、と土居はいう。「甘え」はAMAEとそのままの訳語になったが、AMAEとして外国でどのくらい使われているのだろうか。
土居自身が書いた
Doi, T. (1962). Amae: A Key Concept for Understanding Japanese Personality Structure. Psychologia, 5(1), 1–7.やDoi, T. (1992). On the Concept of Amae. Infant Mental Health Journal, 13(1), 7–11.
は専門家のあいだで参照されることはあるだろうけど。


後者の論文のアブストラクトを土居が使っている言葉を使って訳すとこんな感じだろう。土居自身がすでに日本語で書いたものもあるかもしれない。

要旨(Abstract)
日本語の「甘え」に由来する概念を、概念的には異なる二つの状態である依存(dependence)と愛着(attachment)を橋渡しするものとして提示する。「甘え」という語は、第一義的には、乳呑み児が母親を求めるときに感じるものを指すが、成人についても、他者との情緒的な親密さを感じていることを示すために用いることができる。
重要なのは、「甘え」の感情は言葉によって媒介されるものではないが、後から振り返ることによって、それを「甘え」として認識することはできる、という点である。また、「甘え」が満たされないときには、容易にその感情を求める欲求へと変化することがある。
フランスとアメリカの、それぞれよく知られた二つの物語を取り上げ、日本以外の文化においても「甘え」が存在し、実際に中心的な重要性をもっていることを示す。また、ペットを飼うことの心理も、「甘え」という観点から理解することができる。
このように、「甘え」という概念は日本語に由来するものではあるが、普遍的に適用可能であり、精神分析がその主要な探究対象としてきた情緒生活に、新たな光を当てることができると論じる。(ここまで)

ここでも以前とりあげたIPA Inter-Regional Encyclopedic Dictionary of Psychoanalysisも参照元として重要だろう。そこで、AMAEの項目は一番目にくるが、ヨーロッパやラテンアメリカの精神分析用語辞典にはこの語が収録されておらず、より広い精神分析の読者層には、これまでほとんど知られてこなかったという趣旨の記述もある。AMAEは、日本で「アンビバレンス」という語が使われるほどには便利な言葉にはなっていないのだろう。むろん、土居は「甘え」を便利に使ってほしくはなかったのではないか、という仮説を私はもっているので、それはそれで、という気はする。

土居が「甘えがうちに恨みを秘め、恨みが反対に甘えを秘めていることが多いように思う」と述べたことは、単に、甘えが受け入れられなかった結果として恨みが生じる、というような時間的な変化を述べているのではない。甘えと恨みは、一方が消えて他方が現れるというだけの関係ではないらしい。しかも、土居は「秘めている」と表現する。表面に現れているものとは異なるものが、その内部に存在している、よってその態勢は傷つき易い。うむ。以前、「葛藤」は高級品になった、と友人がいった話を書いたと思うが、このようなアンビバレンス自体を人の心に見出すことがいまや難しかったりして、と思うと少し怖いし、心配だ。「素朴」とか「屈折した」とかはそれが表現されたときの状態であって、その傍らにはいつもアンビバレンスが、という感じだろうか。

一方、土居は「甘えそれ自体にアンビバレンスがあると言ったら言い過ぎだろう」という。そして「しかし甘える心はアンビバレンスと隣り合わせだと言うことはできる」として「すねる」「ひがむ」「わだかまる」など、そのスペクトラムの中にある一連の語をあげる。アンビバレンスは「背中合わせ」だが、「甘え」とは「隣り合わせ」。すこしずらして理解するのが土居らしい。

毎日、いろんな読み方を試みてきたが、概念によって経験を捉えつつ、その概念からこぼれおちる経験は別の言葉ですくいあげるという動きが土居にはある気がする。「甘え」はアンビバレンスでもないし、依存ともアタッチメントでもないのだろう。

外はバシャバシャという様子で雨が降っている。早朝はもう少し静かだったのだけど。関東は4時45分頃、地震があった。茨城県南部が震源とのこと。寝不足の人もいるかもしれない。無理せず過ごしましょう。

雨の新宿中央公園は静か。