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土居健郎『精神療法と精神分析』第4章「治療の開始」

雨の音が強い。少し窓を開けたら強い風が吹き込んできて慌てて閉めた。台風25号の被害の大きくなる中、26号もきているとう。千葉にはまた大雨の予報。大変なことだ。

気象も政治と直結することは最近の自然災害とそれに対する政府の対応でなんとなくわかった。何か起きても助けてもらえないんだな。そんな見通しであってももっていないよりはいい、とかそういう感じだろうか。失望は体力まで奪っていく気がする。

今朝も土居健郎『精神療法と精神分析』を読んでみる。ここでもすでに辿ったが、土居は「第4章 治療の開始」で、精神療法の導入過程に関して述べる。ちなみに、土居が、本章で大いに参照したのもエクスタインの論文であるそうだ。

土居は、「治療者に関する限り、患者に会った瞬間から、精神療法は開始される」。そして「すべての人間関係の最初がそうであるように、相互の探りあいがある」と述べる。治療者の側の探りは診断であるが、土居の場合、診断は単に患者に病名をつけるものではない。その手続き自体がすでに精神療法過程の一部である。

私のオフィスは、問い合わせはオフィスのウェブサイトのお問い合わせのフォームからしていただいている。治療者である私にとっては、それを受け取るところから心理療法過程は始まっている。始まってはいるが、治療関係に入るかどうかは実際にお会いして初回面接、あるいは数回の面接を通じてである。

土居は、精神療法に移行する場合は、患者の治療に対する態度・感情をとりあげなければならないと述べる。第三者ではなく、患者自身がどう考えているかを探ることは重要である。

私をたとえにだすと、私は、子どもの困りごとにも対応するので、本人と保護者の両方に会うことも多い。その場合、困っているのは誰なのか、どのような経緯でここにきたのか、そのプロセスでどんな気持ちになったのか、などを聞く。これも土居のいう探りだろう。その際、土居がいうように「患者の方でも治療者をそれとなく探っている」ことも確かに治療者が意識すべきことである。探るというのは、興味関心をもつ、注意を向ける、ということが含まれているわけで、患者からのそれをなにも感じない場合もあるだろう。また、治療者が探りをいれるようなことをいったところでそれは言葉ですぐに答えられないことも多いだろう。それ自体が、治療に対する態度のひとつではある。治療者は、このような過程のなかで、自分は果たして患者を助けることができるか、それにはどうすることが最善であるかを問わなければならない。

「このような相互の探りあいがしばらく続いた後、治療者は、今ここに出来かかった治療者患者の関係を精神療法という形で続けるか、それとも別の治療方法を処方するか、決定しなければらない。」(71頁)

そしてそのことを患者に告げなければならない。患者の受けとり方が様々であることはすでに述べた。土居は、代表的な四つの受けとり方をあげ、それぞれの場合でのやりとりの例をあげる。私はこのやり方に納得がいくし、私もこう考えて、こういう対応をしていると思う。私は、土居にスーパーヴィジョンを受けていた精神分析家に指導を受けていたし、その先生にこの本をおすすめされた。でもこの本から知的に理解し、実践したというより、自分の患者について話しあう場をもつなかで、これらは自然と受け継がれてきたような気がする。

土居がここで、精神療法は、「忘却した過去を想起」することではなく、「この場で二人で」考えるものであり、患者自身が変化することを目的としていることも印象的だが、患者の依存的態度や内的抵抗なくしては治療そのものも起こらない、とはっきり述べていることはより心に残る。

土居は、「第4章 治療の開始」のなかで、患者自身は、精神療法において自分自身が変化せねばならないこと念頭にはおいていないという。これは本当に大切なポイントで、精神分析を求めてくる方でも多くの場合は環境が変わることを期待しており、自分の変化に対しては「どうして自分が」という思いが強いものである。言葉では「変わりたい」という場合でもである。そりゃ患者は、苦痛から解放されたいと思って治療を求めたのに、「そのためには自分が変わる必要がある」といわれれば「なんで?苦しんでいるのは私なのに」となるのは自然だろう。そんなことをするくらいなら苦痛に耐えているほうがまだまし、というほどに変化に対する内的な抵抗は強いものなのである。

土居はこの点に慎重であり、患者に「あなたは治療に抵抗している」と突き返すようなことはしない。土居は、「一旦患者が治療者を求めたからには、今度は治療者の方で患者のさしのばす手を受け取るかどうか意思表示をしなければならない」という。なぜ自分が変化しなければならないのか、という患者にとってのある種の理不尽さに対応するのは治療者の経験に基づく希望なのだろう。患者の「なぜ苦しんでいる私が変わらなければならないのか」という怒りに対して、土居は変化の必要性を患者だけに負わせない。土居は「あなたは治療に抵抗している」という代わりに、治療者の提供する治療と患者の考えている治療が食いちがっていることを示し、それでもできることはあるし、治療者としてはそれをやりがいのあることと考えている、と示す。この時点で、まだその治療を経験したことのない患者に、開始するかどうかの判断をすべて委ねるのは、経験のある治療者からすれば無責任になるからだろう。

また、土居が、それに続く「(3)治療契約の取り決め」において、とりわけ、時間的とりきめにおいて、治療期間の長さを問題にする患者に対して内心のあせりを取り上げ、試験期をおき、そうすれば「治療者患者の間に芽生える感情的関係がもっと形のあるものになってくる」というのは、精神分析が反復をテーマにすることを思えば妥当だろう。「食い違い」を残したまま、治療者の責任として治療を提案し、患者の責任としてそれを引き受ける。その協力関係において両者は対等である。また、患者が時間的見通しを気にすることを現実的な理由にのみ還元することなく、患者が治療の始まりをどう体験しているか、という観点からそこにあせりを見出し、それを治療者と関係にありうる可能性として見出すからこそ、試験期を土居は提案するのだろう。

ここで「感情的関係がもっと形のあるものになってくる」という表現も、診断というコトバで患者の体験をカテゴライズしない土居の一貫した姿勢だろう。治療が始まれば、問いへの応答や次に来るまでの時間、再び会ったときの感じ方を通して、関係のなかの反復が少しずつ姿を現すことを治療者は経験から知っている。土居はそれを活用することで患者との関係にやりがいを見出すのである。ここにも、実践が進むことで、それ以前にあったものに何が含まれていたのかが新たに見えてきて、それがさらに別の形へと分岐していくという精神分析的時間の効果がみられる。

食いちがっている二人が契約をかわす際には、料金の支払いというものも含まれる。ここでの心理は非常に複雑である。料金の支払いに対する抵抗に妥協することは、患者の抵抗に迎合することである、と土居は言う。この後が土居らしいし、本当にそうだなと思うのだが、料金を患者の要求通りに安くしたり、あるいはとらないとすれば「患者に精神療法をすすめながら、治療者自身内心はその効果をそれほど信じていない、ということを患者に伝えるに等しい」と土居はいうのである。土居にとって、一定額の料金を請求することは、「治療者が治療に信頼をもっていることの意思表示であり、患者もまた同じく信頼を以て精神療法に臨むようにという招待となるのである」(83頁)。ただ、これはあくまで「転移」をとりあげる精神療法の場合である。この章の最後には、治療において患者と治療者がそれぞれ何を引き受けるのか、また治療に対する内的抵抗が具体的にどのように現れるのかをイメージできる4つの症例が提示される。土居が、何を言葉にし、何を言葉にせずにおくのかに意識的であることも感じとれる書き方である。ぜひ読んでみてほしい。

こうしているうちに雨の音が弱まってきた。長靴でいくか、ゴアテックスのスニーカーでいくか迷うところだ。土曜日は電車で足を踏まれることもないだろうから、本当はサンダルでダラダラいきたいが、このお天気ではしかたない。雨の地域のみなさんはどうかお気をつけて。みんなが無事に過ごせますように。

毎日おやつ。大阪いちじく。