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精神分析

散歩とか舞台とか邦画とか。

空が白い。東京はこれから晴れるらしい。昨日は資料整理していたら11時くらいにおなかがすいてしまい、早めのお昼でもしようかな、と歩きだしたらごはんより散歩みたいになってしまい、またもや春を堪能。桜は葉桜になり、花びらがほかの木にくっついて別の花のようになり、ツツジもハナミズキも咲き始め、新緑がとてもきれいだった。今だけの色。そういえば別役実の脚本にピクニックの話があった気がする。「うわー、きれい」とのんきな気分が一転して別の「うわっ」に変わるというか言葉を失うというか。別役実だからたぶんきっとそんな作品。

別役実を思い出したのはケラリーノ・サンドロヴィッチが別役実の文体はもはや血肉と化しているとポストしていたからだろう。ケラさんならそうだろうなあ。すごい。あれは青山円形劇場最後の公演だったか、別役実が体調を崩し、新作ではなく旧作から選んでのケラリーノ・サンドロヴィッチ演出の舞台があった。円形は本当にいい劇場だった。こんなに長く使わないのなら使い続けながらあとを考えればよかったのに。それはともかくケラさんと別役実は本体が似ているのだろう。特に当時とそれ以前は。私も別役実の『別役実のコント教室: 不条理な笑いへのレッスン』などの本を愛読していた。あの怖さはなんというのだろう。怖さは怖さなのだがそれまでの景色が一気に現実味を失うような怖さをあの短さで書けるのは本当にすごいと思う。ケラさんの最近の舞台は別役実とは違う明るさの不条理を描いていると思うけど日常のよくわからない敵意の応酬よりずっと平和で本当に面白い。不条理とナンセンスにあふれた「世界」になら協力したい。

人間が人間をコントロールできると素朴に信じているような世界はまだ「世界」になれていないと思う。世界はそうできていないからいろんな可能性をひめていて、だからいろんな人がいて、だから楽しいことがたくさん起きるはずなのに、今は狭く狭く、自分がみえる範囲だけなんとかなってればいい、みたいな感じでしょう。それはまずいでしょう、という人には精神分析はますます必要ともいえるけど、そういう人は多くないから今がこうなっているわけなので精神分析を求める人はますます減るのかもしれないね。が、しかし、多くの人に不要といわれようと必要な人がいるから世界中で受け継がれてきた学問であり治療法ではあるので、なぜ生き残ってきたかを言葉にしていくことは大事。私は精神分析を受ける人と精神分析家になる・であることを試みようとする人の相互作用が、異なる言葉が共有できる言葉になる基盤を作り、そこで伝達されてきた言葉を守ることにつながっていると実感しているので、そんなようなことを今度ソウルで話してくる。実践を伴ったことで実感とともに書けることは増えている。でも英語だと通じるか不安。日本語でも不安だけど。通じたらいいな。演題が通ったということは少なくとも一部の人には通じているわけだしがんばっていきましょう。とにもかくにも、今いる場所や相手に憎しみを抱いたときに、そんな自分は嫌だ、と思えること、そんなときに世界の広さや見えなさに恐れより希望をもてること、そういう素朴な好奇心に協力したい。

週末の事例検討会でも言葉の選択と使用、それまでの時間で生じていることについて考えていてやっぱりすごく興味深いなと思った。その人を、私たちを表現する言葉を模索していきたい。

最近Netflixで、見たかったけど見ていなかった邦画を2本みた。一本は『ナミビアの砂漠』。とてもいいのだけど、画面が揺れるから酔ってしまって一気にみることができない。私はああいう撮り方はとても苦手。『リリイ・シュシュのすべて』もそうだったよね。きつかった。『ナミビアの砂漠』に関しては河合優実の身体の使い方だけで十分ではないか。あの歩き方、走り方、声の出し方、すごく面白い人物造形だと思う。

もう一本は『あのこは貴族』。ポスターが素敵で門脇麦も好きだし見にいきたったけど逃してしまったから配信があって嬉しい。すごくいい映画だった。高良健吾はああいう相手役うまいよね。ああいうっていうのは役どころという意味ではなくて、女の邪魔をしない演技。しかし、格差ってすごい。それぞれがナチュラルに少しずつおかしなことしているのは格差とはまた別の話かもしれないけど、すりこまれているものの強力さよ。華子も美紀もそれぞれにああいう友達がいてよかった。今やっている映画もいくつかみたいのがあるのだけど時間が全然合わない。テレビでやってくれるといいな。

今日は月曜日か。また新しい一週間がんばりましょう。

桜の花びらが別の木の花に。

作成者: aminooffice

臨床心理士/精神分析家