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精神分析 言葉

「かわいそう」と思うとき。

夜明けが遅くなってきた。ようやく東の空の闇が溶けてきた。今朝は、上諏訪で買ってきたお菓子「建て御柱」。7年に一度行われる諏訪大社の御柱祭、次は2028年。木落しとか見せ場なのだろうけど見てるだけで怖い。そばにいたら心配でしかたないのではないだろうか。現代における祭りの意義って多分いろんな研究があると思うし、現場の人の話を継続的にうかがいやすい領域だと思う。「祭りだから」でくくらずに語ったり、聞いたりすることは、歴史や宗教をどう考えるかということにもつながるから大事だと思う。

子どもにでも大人にでも「かわいそうに」と思うことがある。なにがきっかけだったか忘れたが、最近、私はこの「かわいそう」をかなり意識的に使っている。臨床においても同じである。「かわいそう」というのはただの主観であり、リスクの高い言葉だと思う。インパクトのある言葉は人の心を様々にかき乱す。かき乱す、といえば、今の朝ドラ「ブラッサム」の昨日の回、珠さまはかわいそうだった。


「かわいそう」と感じたとき、私は「誰が」と問い直す。珠さまが?そんなのなんでわかるの?かわいそうかどうかなんて、かわいそうって言葉が必要かどうかなんてなんであんたにわかるの?と。

私は、アンナのこともかわいそうに、と思った。アンナ・フロイトのことである。それで書こうと思った。なのにたくさん寄り道をしてしまった。フロイトにムカつきすぎていたのかもしれない。すでに公になっていることなのに、私がここに書くにはあまりにも不快だったのかもしれない。


アンナはフロイトの分析を受けていた。という表現は成り立つのか?娘だぞ。しかもフロイトは、アンナとの「精神分析」を素材に『子供がぶたれる』という論文にしている。娘の話を聞きながら、自分の問題を指摘されているとは思わなかったのか。日常生活でだって娘が父親にむけているネガティブな情緒はたやすく感じるものだが、母親は。父親本人は気づかなくても。母親はどうした?不在か?というより、フロイトにとって自身の母親であるアマーリエ、そしてアンナの母であるマルタはしばしば盲点化された。フロイトが見ていなかったわけではない。母や妻、そして娘という女をある特定の位置に置くことで、それ以上見ないということにしたのではないか。これは単なる私の疑いである。


フロイトは、その理論において、母親は、子どもの最初の愛の対象、欲動満足を与える存在、世話をする存在として位置づけた。もちろん晩年には前エディプス期の母娘関係の重要性も論じている。それでも母親自身の欲望や葛藤、母親であることの負担を十分に考察したとは言い難い。これは先日、土居に対する批判にも含めた。


母親を欲望することと、母親を一人の欲望する主体として認識することはまったく異なる。精神分析家たちは、自身の身内の女性に対してどういう目を向けてきたのだろうか。フロイトは(おそらく当時の多くの男性の精神分析家は)家庭内での育児や生活の維持を妻に委ねながら、自らは精神分析という仕事に没頭できた。別にマルタがそれを不満に思っていたとか、フロイトが家のことはなんにもしない人だった、ということではまったくないだろう。


しかし、なにをどうしたら、娘を「精神分析」する父親ができるのか。そして、その娘の母親は、そんな夫をどう思っていたのか。父親中心の歴史が語られることで、女たちの経験の多くはそこから消えてしまう、あるいは消されてきた。父が創始者である「精神分析」の場で、アンナは自分の経験を「言語化」できたのだろうか。


すでに書いたように、アンナは、父フロイト以降の精神分析の重要な担い手のひとりとなった。特に子どもの精神分析において。これを「おんな・こども」の精神分析において、といってもいいかもしれない。アンナは、子どもの教育と臨床に力を注ぎながら、自らを問い直し続けたのかもしれない。フロイトには扱えなかった自分を見出すことを必要としたのもしれない。これも単なる私の想像だが。

精神分析は、よく勘違いされているが、自分の存在や行動に因果律を持ち込むものではない。精神分析プロセスにおいて「なぜ」「どうして」と問うことは答えを見出すためのものではない。そこに答えなんてない。とほうもない曖昧さや不明瞭さのなかにとどまることを知り、とどまれる可能性を感じ、とどまれることを実感するなかで人やことをそれまでとは異なるしかたで認識し、感じ取るようになる方法である。なる「ための」というほど目的的でもない。


私がいくら「かわいそう」と思ったり、怒りを感じたりしたところで、それは本人のものではない。かといって「父だから」「精神分析だから」ですませることもできない。とどまることとひきうけることは両立する。むしろとどまることで引き受けることは可能になる。

子どもの世界にどう関わるかという判断は、そうすること自体が大人の責任だし、関わるならさらにそこには大人の責任がともなう。大人はそれを引き受ける。相手を「子ども」というのであれば、自分は「大人」としてなにをどうすべきかを考え続けるしかない。

だからか。私は、アンナ・フロイトについて語るなら、フロイトがしたことを問い続けるべきだと思う。多くの「おんなこども」がそうされたのと同様に、アンナ・フロイトについて語らない、というのであっても、それはそれで沈黙の歴史であり、そこに対する責任を免れることはない。

私は「暴力」という言葉をたやすく使うことはしないが、暴力性に対して敏感でいたいとは思う。精神分析を被分析者として体験し、分析家として体験するなかでますます強く思うようになった。精神分析はまだみえていないものにかけているようなところがある。心に限らず、「関係」とか「素の自分」とかいったところで、それがなにかはみえないわけだから、精神分析に限らず、言葉の使用には熟考が必要なはずではあるが。

なにかに形を与えてしまうことに恐れを抱きながら今日も。良い一日になりますように。

作成者: aminooffice

臨床心理士/精神分析家