今朝も空のピンクがきれいだった。昨晩の地震にはびっくりした。千葉では、大雨で弱った地盤に地震が重なって、被害が広がるようなこともあるのだろうか。地盤の弱い地域は東日本大震災のときも大変だったとそういう地域に住む友人から聞いた。元気だろうか。
やはり、平日は原稿は何も進まない。せいぜい通勤時間にあれこれアイデア出しをしておくだけでまとめる時間がない。明日が〆切なのだから、平日中にやるしかない。なので一応書き始めた。が、いつもは書き始めると割と一気に方向性が定まるのだが、今回は往生際が悪い。何か欲張りすぎなのかもしれない。私のいいところは自分の限界を早々に見極めるところだと思っているのに。そしてそのほうがちょっと面白い発見につながったりするって知っているはずなのに。
最近、アンドレ・グリーンを全然読めていない。この前、引用しようとメタサイコロジー関連のところを探したが、すでに持っているはずの訳もみつからず、そのままにしてそれっきり。
フロイトの「メタサイコロジー論」の「無意識」論文に関するところを見直していたのだ。
Green, A. (1975) The Analyst, Symbolization and Absence in the Analytic Setting (On Changes in Analytic Practice and Analytic Experience)—In Memory of D. W. Winnicott. International Journal of Psychoanalysis 56:1-22はとてもいい論文で、引用されることも多い。この論文は勉強会でも複数回読んでいるはずだが何も覚えていないうえに訳文もみつからない。邦訳はない、はず。
一部、見つかった訳だけ残しておこう。自分用。ここは、グリーンが、フロイトのメタサイコロジーから自我心理学を経て、対象・不在・象徴化の問題へと議論を移していくところかな。
>そこから帰結するメタサイコロジーが描き出すのは、自力で発達していく能力を備えた個人である。もちろん、その個人が依存する対象からの限定的な助けは受けるのだが、対象のなかに自分自身を見失うこともなければ、対象そのものを失うこともない。欲動、情動、物表象、語表象は、すべて互いに交通しあい、互いの構造に影響を及ぼしている。無意識もまた、同じように形成される。
精神分析は、葛藤、無意識、固着などを明らかにした。そして、自我と防衛機制の研究(Anna Freud, 1936)へと進み、さらに自我心理学の精神分析的研究(Hartmann, 1951)によってその領域を拡張した。というのも、両者のあいだには父がいるからである。父は、憎まれていようと、追放されていようと、つねに母の無意識のどこかに存在している(Lacan, 1966)。
どうしてここが残っているのだろう。覚えていない。
“Drives, affects, thing and word representations all communicate with one another and influence one another’s structure. The unconscious is formed in the same way.” は心理学草案から続くフロイトの力動モデルを意識させる文章だなと思う。
物表象:Sachvorstellung、語表象:Wortvorstellungの区別はいつも難しいけれど、グリーンはそこに欲動と情動も含め、それらが互いに交通し、互いの構造に影響を及ぼすことを強調している。無意識もまた、そのように形成されるという。ふむふむ。
フロイトの「無意識」論文を読みながら、 物表象/語表象、抑圧、前意識との境界を押さえたかったのかもしれない、そのときの私は。「フロイトに帰れ」という場合、グリーンには、フロイトのメタサイコロジーから何を受け継ぎ、どこを動かすとなにがみえるのか、という方法を教わっている感じ。
それにしても寒い。風邪ひきたくない。今日もがんばろー。

