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短詩 精神分析、本

複雑なものとして

ゴロゴロしながらあれこれ複雑な気持ちになりつつ、こういうのもだいぶ慣れたなと思う。それにしてもこういうのってしょうがないとはいえ一体なんなんだろうね、というようなことばかり考えているうちにあっという間に時間が過ぎた。1時間前に考えていたことはもうすでに形を変えている。「ちょっと待てよ」の繰り返しでそうなる。

机に向かってSNSをみたら笑ってしまった。私は知らないが私の知っている人がそれなりに親しいであろう人が私が一番気にしていることを書いていた。

あははと乾いたような笑いとくすくすくすぐったいような笑いの両方。自分に対する自分の態度だっていろんなものが混ざってる。人間は複雑だ。

高橋澪子『心の科学史 西洋心理学の背景と実験心理学の誕生』(講談社学術文庫)を読みながら「フロイトの精神分析学までが」「フロイトに先駆けて」「フロイトの<リビドー概念>にさえも相通じる」という言葉に「フロイト警戒されてるなあ」と思った。フロイトは1939年に死んだのでまだ100年も経っていない。とかいったら第二次世界大戦からだってそうということ。

先日、ゆにここカルチャースクールが開催した「短詩トークショー『船コーン 砕氷船(ユニコーンが乗っています)』」のお題が「つの」で短詩集団砕氷船の歌人・榊原紘さん、俳人・斉藤志歩さん、柳人・暮田真名さんがそれぞれ短歌、俳句、川柳を作ったのだが斉藤さん(すっかりファンになってしまった)の俳句に化石がでてきた。新宿紀伊國屋書店の地下にも化石のお店あるよね、という話もされていた。

「一万年ですよ」

と化石を眺めながらその人がいった。そうか、想像もつかない。この100年のことだってこんななのに。子供たちが恐竜とか大好きなわけだよ。あと自閉症の子どもが原初的な、など色々話し出したらキリがない。

精神分析はフロイトの時代よりもさらに原初的なこころについての探究を深め、精神病理に対する理解と対応について貢献してきたが、世間的な関心はいまだフロイトにある。

「要するに、フロイトの結婚は彼に安全な避難場所をもたらしたのである。彼はマルタの個性を抹殺し、彼女を自分の外的要望すべてを叶える女性に仕上げた。彼女はフロイトの大勢の子供達の母親であり、有能な家庭管理者であり、決して不平を言わない配偶者であった。」

ルイス・ブレーガー『フロイト視野の暗転』(里文出版)133ページからの引用である。原書名はFREUD Darkness in the Midst of VIsion.書名通りこれまでの伝記とは異なり引用した部分だけでもわかるようにフロイトのダメなところをたくさん明らかにしてくれる本で大変参考になる。それはそうだ。が、しかし、と思う。

「決して不平を言わない配偶者であった」ってあなた、、、と思ってしまった。確かにフロイト一家には家政婦(というのかな)もいたし、様々な人がフロイトや家庭生活について語り継いでいる。何よりフロイト自身がフリースをはじめいろんな人に対し自分の気持ちを吐露するので推測の糸口はたくさん用意されてきた。

それにしてもだよ、と私は思わなくもない。臨床だけではない、研究だけではない、その両方を経験したうえで書いている、というのであれば(本書の「背景と資料」を参照)こういう直線的でゴシップ的な書き方はどうなんだろう。これでは私たちが普段他人の家庭に対して持ち込む勝手なイメージと変わらないではないか(「私たち」とか一緒にしないでという話かもしれない)。

人はもっと複雑で、だから関係は当然複雑で、家庭なんてその複雑さが蠢きまくっている場所なのではないのか。勝手なこといってんな、とこの類の文章についてはいつも思う。それを誰が書いているかなんて関係なくそう思うのだけどどうなのかな。「決して不平を言わない」人だったかどうかはともかく、それが夫であるフロイトに対してはね、ということであったとしても、これだけ長く暮らしていたら色々あるに決まってるじゃん、と思うのは私が「抑圧」の概念を理解していないからか。この時代の厳しさをわかっていないからか。そうかもしれないがそうでもないだろう。戦争はまだ起きているし、家父長的な意識はいまだ蔓延している。私はそういう世界で言葉を使いながら生活をしている。

心の科学史 西洋心理学の背景と実験心理学の誕生』(講談社学術文庫)で「フロイトは警戒されている」と思ったと書いたが、こっちの方がずっと学問的だ。ヴントの『民族心理学』とフロイトの『夢判断』の出版年が同じであるという“偶然の一致”に対する慎重な姿勢は私たちがフロイトを読むときにも忘れてはならないものだろう。

安易に結びつける。安易に解釈する。「女だから」とかも同じ類だろう。自分ひとりにできることのわずかさを物事を安易に単純化することで否認するようなことはしてはいけないというか、いけなくはないかもしれないけど誰かを傷つけるし分断や差別を招くのではないか、と私は思っている。

少なくとも精神分析に関していえば、現代の精神分析はビオンの「記憶なく欲望なく理解なく」が頻繁に引用される状況にあるわけでフロイトを知るということはそのテクストを精読し続けることであってそういうことではないのでは、と私は思う。

他愛もない一言に涙が溢れた。

誰にも言ってないことを話した。話してから誰にもいえてなかったことに気づいた。

人には無意識がある。無意識という表現があれなら誰にも触れられない領域がある。ましてやコントロールなど。

泣き喚き大暴れする日もあれば穏やかに共に時間を過ごす日もある。そんな日々は共存する。寂しさも孤独も喜びも体験する。人のこころは意外といろんなものに耐えうるらしい。耐え難く辛いとしても。

別れを決断する人たちとも多く会ってきた。彼らがそれを決めたときの表情や言葉。共通する静けさを思い出す。

フロイトとマルタは別れなかった。離婚という意味では。単純ではない繋がりとそれに対して持ち込まれた切断とそこから生じたさらなる繋がりとなどもはや「色々ある」「複雑だ」という以外に描写しようのない関係がそこにはあっただろう。外からは決してみえないものが。

私はいろんなことを複雑なものとして考え続け、躊躇いながら言葉にしていくことを続けていけるだろうか。たった一言に心揺さぶられてしまうのに。すぐにもういいやと思ってしまうのに。わからない。でもとりあえず、いつもとりあえずだ。

今日の百年後、一万年後のことはまるでわからないけれど何かは繋がっていってしまうのだろうからあまりおかしな部分(?)を残さないようにできることをやりましょうか。それぞれの1日をどうぞご無事で。

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短詩 読書

短歌とか孤独とか。

台所の小さな窓を少し滑らせる。開けた隙間から風が入ってくるか手を寄せてみる。スーッと気持ちの良い風が入ってくることを期待しては裏切られるというまでがデフォルトなので今日も本当はそんなに残念じゃなかった。東京も少し雨が降っているかと思ったら降っていないみたい。わからないけど。昨日も降っていないと思って家を出たら腕にポツリと大きな雨粒が当たった。京都、大阪ほどは降っていないのはたしか。どうか皆さんご無事でと思う。

すでに起きてからしばらくたつ。少し眠いのだから寝ていればいいのだけどあっという間に30分以上経ってしまった。そしてこうして机に向かう。そのまま公にするには憚れることばかり考えていた気もするが冷蔵庫のゴールデンキウイをいつ食べようか、ゴールデンカムイと似てるなとかも思ったりしていた。

少し前に俵万智の『サラダ記念日』が話題になっていた。きちんと読んでいない私でもその名前はよく知っている。なんで話題になっていたんだっけと思って調べたら節目の年だったのか。『サラダ記念日』から35年。私はまだ小6か中1か。もう少し大きくなっていたらハマったかもしれないな。当時は詩集ばかり読んでいた。そして谷川俊太郎は『二十億光年の孤独』から70年。『言葉の還る場所で―谷川俊太郎・俵万智対談集―』というのが出ているのか。谷川俊太郎は小さいときからちょこちょこ読み続けてきている。大岡信との対談本もよかった。これも良さそう。

そうだ、これを書く前、森英恵が亡くなったというニュースをみてこの前インタビューを読んだばかりだったなと思った。96歳。違う。あれは桂由美だ。90歳。軍国少女だったという。その時代を生きた人というかどんな時代を生きた人かということはどの人に対しても持つべき視点。

俵万智と谷川俊太郎、生きてきた時代が異なる二人だが詩人も歌人も時空の飛び越え方がすごくて私たちにいろんな時代のいろいろを感じさせてくれる。二十億光年の孤独なんてどんだけと思うが、孤独とくればなんとなく納得もいく。誰もが知っている孤独。動物も知っているのでしょう?分離の契機を持つ存在はみんな。

私は俵万智の良い読者ではないが初恋について考えているときに出会った本をたいそう気にいっている。ツルゲーネフの『初恋』にはまっていたことも思い出した。

あなたと読む恋の歌百首』(文春文庫)。野田秀樹の帯のインパクトもあった。解説も面白い。何首あるんだろう、番号振ってないんだ、と最初の一覧をみていたが百首って題名にある。うーん。もうどれもこれも恥ずかしくなるくらいあからさまだったりある意味分かりやすかったりしてたやすくときめいてしまうわりにすぐおなかいっぱいになったりもする。俵万智の解説を読むと落ち着く。消化を助けてもらえる。ひとりひとりの歌人が生きた時代や状況に思いを馳せ、自分の体験とも重ね合わせながら読み解かれるそれぞれの歌は私からは近いものも遠いものもあるがわからないものはない。孤独、不安、嫉妬、恋はめんどくさい気持ちをたくさん連れてくる。そして歌にするとこんなにストレートになってしまうのも恋なんだろう。逆に言葉を失うことだって多い。なんだか馬鹿になってしまうのが恋だ。

秋深き網走の旅つづけゐむ夫の孤独を妬めり我は 宮英子

俵万智同様、私も網走を訪ね、かつての刑務所などを見学したことがある。網走刑務所は開拓の歴史にも重要な位置を占める。全国を旅してきたが網走はおすすめしたい土地のかなり上位だ。ここにも孤独がある。この歌の「夫」は歌人の宮柊二、歌人夫婦だ。この孤独は妬みの対象となる孤独であり、妬みとともに体験される孤独とは異なる。ひとりでいること、それがいかに難しいことか、それはたとえ秋の網走を旅したところで同じかもしれないがそれでもそうできていること自体がいろんな妬ましさを連れてくる。

暦の上では秋。網走は涼しいだろうか。過酷な冬に向かうそれはそんなに気持ちよくはないものだろうか。どこで生きるのも生きるって大変だ。いろんな気持ちに彩られてそれらが混じって真っ黒な気持ちになったりもするけれど今日もなんとかはじめよう。

さあ6時。準備準備。

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短詩 読書

暮田真名さんと川柳WSをした。

数年ぶりに最初の職場の先輩と会えた。コロナ禍で仕事がオンラインに切り替わる中、もう一人の先輩にzoomの使い方を教えるついでにおしゃべりして以来かな。LINEではたまにやりとりしてたけど。先輩たちの子供たちもおもしろかわいかったな、あの時。ちっちゃなときから知っているけど先輩たちが母親になってもずっと私の知っている彼らなままであることにいつもちょっと驚く。そして昨日もいつものままだった。飛びつくように再会を喜ぶ私にも普通にのんびり喜んでくれて日影茶屋の水ようかんをくれた。

8月14日は14時から16時まで川柳作家の暮田真名さんをお招きしてワークショップを行った。紀伊國屋の詩歌コーナーがある2階で待ち合わせをした。もちろん暮田さんの『ふりょの星』もある階。左右社から4、5、6月と3ヶ月連続で刊行された川柳本も相変わらず平積みされていた。こんなおしゃれな本たちが川柳の本であるとどのくらいの人が知っているのだろうか(知ってほしい)。

暮田真名『ふりょの星』平岡直子『『Ladies and』なかはられいこ『くちびるにウエハース』(いずれも左右社)

生まれてはじめて川柳と向き合う参加者のみなさんにとってサラリーマン川柳とは異なる川柳というものがこんな形で存在することがすでに驚きだったらしい。先輩は最初の感想で「それだけでもすごい収穫」といってくれた。これまでそうとしか思っていなかったものに別の世界があったという意外性との出会いに素直に感動する人なのだ、昔から。

サラリーマン川柳で名を馳せた人とかいるのかな、そういえば。あれは笑って流せる感じが「川柳」という言葉が持つ流れて消えていくイメージと響きあうことで世に広まったのかもしれないね。共有すべきはそれぞれの事情ではなく会社員で配偶者がいてこういうことを言っても崩れない程度の関係性をもった主に男性というなんとなくの前提。それを「川柳」という言葉のイメージ通り聞き流してきたのが私たち。それに対して「穿ち」「おかしみ」「軽み」に主観性と詩的要素が加わったその歴史の流れのなかで川柳観を育まれつつ実作しているのが暮田さんたち。(『はじめまして現代川柳』参照)。歴史認識のあるものとないものが同じ名前を持ってしまったこと、そして大抵の場合、歴史認識のないものの方が市井の人には広まりやすいことは現代川柳が詩性を兼ね備えたものとして読まれる機会を減らしたかも知れない。また、ちびまる子ちゃんの「友蔵こころの俳句」、それをもじった「〇〇こころの短歌」など「思い」発の言葉を定型に投げ込むことに馴染みがある私たちにとって「思い」ではなく「言葉」から書く(これも『はじめまして現代川柳』を参照)現代川柳の存在は遠かったのかもしれない。だから暮田さんがサラ川には登場しない私やあなたや彼らたちいろんなみんなの存在を思い出させたnoteの記事「#01 川柳は(あなたが思っているよりも)おもしろい」も話題になったのだろう。先輩が「収穫」といったのももちろんこの視点の(再)獲得のことだと思う。

ワークショップでは『はじめまして現代川柳』の編著者小池正博さんの川柳を用いた穴埋めでいかに私たちが最初に浮かんだ言葉から離れられないか(全然それで構わないわけでもある)を知り、その広告が持つ意図をいかに台無しにするかという穴埋めではなかなか台無しにするのは難しい(意味の変更はできるが)ことを知り、生まれてはじめて川柳を作る時間ではわけわからないまま文字を組み合わせる自分と出会う体験をさせてもらった。やや混乱しながらも普段から逆転移としてそういった感触がどこから生じるのかにも注意が向いているみなさんなのでその言語化も興味深かった。こういうのをどう体験するかは当然自由で、正解のない世界に戸惑いを感じてもそのまんまでいいし、やりたくなければやらなくてもなんでもいい(与えられても拒否してもいいとは思いにくいかも知れないが拒否はいつでもしていい)。ただそのような感触も体験しないことには生じない。

私が多くの情報が流れるTLで暮田さんの講座名「あなたが誰でも構わない川柳入門」という言葉に目を止めたのも無理がない。一人の人に複数的なあり方を認め、その力動によって立ち現れる現象を言葉にしていく精神分析とそれが響きあったのだろう。それを単なるイメージで終わらせるのではなく、まだアカデミアの領域にはないとはいえ、そのサークルの中だけでなく積極的に外に作品を送り出している実作者から歴史認識とともに川柳を学び、体験できたことは貴重だった。

参加者のみなさんはそれぞれ初対面だったが別れがたく暮田さんを交えお茶をして帰った。よく笑いよく喋った。なんかいいことをした気分になった。暮田さん、松岡さん、参加者のみなさんのおかげ。どうもありがとうございました。

早朝に日影茶屋の水ようかんをいただいた。最高だった。逗子にも遊びにいくからね。また一緒に美術館とか海とかいこう。先輩ありがとー。

ちなみにおしゃれでかわいい暮田さんの写真はTwitterに載せました。

今週もあっついですよね、きっと。無事に過ごしましょうね。

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短詩 精神分析 読書

Z世代のうたい手たち

空が赤みがかって水色とピンクが混じり合う時間。今朝もまだ風が強い。昨日、新宿の上空に次々現れる飛行機を見上げながら見送った。いつの間にか月が大きく出ていた。近くの森でアブラゼミが鳴いている。ミンミンゼミが鳴き始める頃には出かけよう。

キャロル・キングの優しい歌声を流しながら先日読んだ『ユリイカ』2022年8月号

<今様のうたい手>
何万回でも光る遠吠え! 初谷むい
川柳のように 暮田真名

を思い出していた。オフィスに置いてきてしまったので見直せないが同世代の二人の文章にはしみじみ思うところがあった。1990年代後半、2000年手前に生まれた子供たちだった彼らは短歌と川柳の世界で早くも輝き始めている、と書きたいところだが彼らにそんな陳腐な言葉は似合わない。

彼らはその時代のその年齢らしい悩みを抱えながら生活する中で偶然出会ったものに素直に反応し自分の好きなことをやっていたら早くもその才能を見出されただけという感じで自然体であると同時に短歌にできること、川柳にできることをしっかり発信している職人であるようにみえる。愛想もあまりない感じなのになんだかかわいい。自分のあり方を模索し苦しそうな様子も見せるのに今回のような散文で見せるバランス感覚はこの世代独自のものと感じる。AI時代の彼らは人間そのものと塗れなくても寂しさや苦しさを癒す方法を知っているからだろうか。若い患者たちの世界にもそれを感じる。もちろん私の主観に過ぎないが、彼らの作品や文章はエネルギーはあるのにこちらを巻き込んでくる感じがない。私は見かけがいくらカッコよかったり素敵であったとしても人目を気にしすぎではと感じてしまうと冷めてしまう。自分がそういうのをめんどくさいと思っているから上手に受け取ることができないのだろう。器が小さい。一方、Z世代と呼ばれるらしい彼らは自分がどう見られるかよりも自分がいる世界のことを気にしていて、そことどう折り合いをつけたらいいのかナルシシズムと格闘するのではなく小さな無理を重ねては解消し少しずつ進む形で自分を大切にしているように感じる。今回掲載された散文は文体も雰囲気もだいぶ異なるが、壊しては出会う、生きてるってその繰り返しだ、ということを二人とも書いているように思った。その循環によって過剰な表現(=死に急ぐ可能性)は遠ざけられているのだと感じた。

イギリスの小児科医であり精神分析家であるウィニコットは主体が空想できるようになり、生き残った対象を「使用」できるようになるプロセスをこんな風に表現した。

‘Hullo object!’ ‘I destroyed you.’ ‘I love you.’ ‘You have value for me because of your survival of my destruction of you.’ ‘While I am loving you I am all the time destroying you in (unconscious) fantasy.’ 

ーWinnicott, D. W. (1971)

6. The Use of an Object and Relating through Identifications. Playing and Reality 17:86-94

邦訳は『改訳 遊ぶことと現実』(岩崎学術出版社)「第6章 対象の使用と同一化を通して関係すること」である。

「こんにちは、対象!」「私はあなたを破壊した。」「私はあなたを愛している。」「あなたは私の破壊を生き残ったから、私にとって価値があるんだ。」「私はあなたを愛しているあいだ、ずっとあなたを(無意識的)空想のなかで破壊している」と。

若い世代に自分たちの世代が負わせてしまったものを感じる。でもそれを生き抜く彼らのバランス感覚を頼もしくカッコいいとも感じる。あなたたちのために、なんて今更いうことはできない。ただ彼らの世代が「自分自分」とがんばらなくても大丈夫なようにできるだけ広く注意をはらいたい。早くもトップランナーになりつつある彼らはきっとそれに協力してくれるだろう。

「また会ったね」としぶとい自分に笑ってしまいながら卑屈にならずにいこう。といっても難しいから卑屈になっても壊れても回復しながらいこう。そういう力は強度の差はあるかもしれないが誰にでも備わっているはずだから。いいお天気。とりあえずカーテンを少しだけ開けるところから。

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短詩

言葉イベント

明日はこれ→https://aminooffice.wordpress.com/2022/06/30/【東京公認心理師協会地域交流イベント

誰かが何かを教えるわけではなく同じ職種の方々との交流の時間を持つ。テーマがあった方がよかろうというか、東京公認心理師協会の地域交流イベントはテーマ設定を求められているので「言葉」とざっくりしたものにした。元々は暮田真名さんを呼びたいというところから始まったが外部講師を呼ぶための謝礼も出してもらえないし、あくまで内側でというような感じだったので暮田さんをお呼びするのは私個人ですることにした。地域のNPOを長くやっていた私からしたら謝礼云々はともかく、外部に自然に開かれておけない状態自体、すでに交流を閉ざしていると考える。

関わりたい時に関わりたい部分だけに関わることを私たちは避けがたくしているわけだけどそこに意識的でないことが様々な傷つきを生じさせている気がする。今ではSNSがそれを巧みにできるツールだということは自分自身の体験を振り返れば大抵の人は思い当たるだろう。私は大いに思い当たるので使用の仕方には意識的な方だと思う。ただ、自分では気をつけても気をつけても難しいので使わないのが無難とも思っている。みる方としても随分気持ちに負荷がかかるのでなおさら自分がそれをしてしまっていないかを考える。

さて、今回は対面。協会の地域交流イベントに応募してみようと思ったのは私がSNSで公認心理師でポエトリーアーティストの松岡宮さんの活動を知り、オフィス見学をさせていただいたところからだった。私はプライベートプラクティスをメインの仕事にしているのでもはや時間がとれなくなってしまったが、松岡さんは私が昔から好んでやってきた活動を大田区の一軒家でやっていらして、しかもそこでご自身のCDや詩集も作られているとお聞きした。1時間ほど楽しくおしゃべりをして別れた。数週間後には松岡さんが私のオフィスに来てくれた。そこで協会から地域交流のパンフレットが来ていたと見せてもらった。私はまだそのお知らせの封を開けていなかったのだけどすぐに応募を決めた。松岡さんはオフィスで高次脳機能障害の方々のピアサポートを地道に行っている。このような場所を持つ人自体今は減っているし、行政との関わりを個人オフィスが維持しているのも貴重なことだ。このような活動はモデルになってくれるし根付かせていくことを彼女も望んでいたし、それを応援したかった。

それは単に以前の活動の代わりというわけではなく、現在も私は発達臨床の仕事を請け負う杉並区の社団法人に登録し行政から保育園巡回の仕事を委託されて行っている。なので私自身の職場環境を考える上でも重要だと感じた。行政の仕事でもっとも重要なのは予算を得ることだがその分野で経験を積んだ専門職で構成されている団体にお金を出すことの意義は年々認めてもらいにくくなっている。資格を持っていれば誰でも、ということでより安い給与で別の形式での雇用も始まった。非常勤の掛け持ちで生活をしている人の多い東京の心理職の職場は飽和状態なゆえ求人があるだけありがたいと感じる人だっている。それだけで生活はできないにも関わらず。この悪循環は心理職全体の問題だと思うが、杉並区の場合は新しい区長に期待したい。お役所を通すと何事にも時間がかかるが文句だけいってても仕方ない。

その点、松岡さんや私のように自分でオフィスをもち仕事をしているとフットワークは軽い。今回もほとんどノリでやっている。「あそぼー。」「いいよー。」という感じで。こういうのが大事だと私は思う。

今後、心理職が外に自然に開かれるために、という目標を掲げなくてもなんとなく繋がっておくことは災害時などにも役に立つ。そのためにまずは自分たちの文脈と相手の文脈がどう異なるかを意識化するために自分の発話、相手の受容と反応という繰り返しを辿ることからはじめてみるつもりだ。「はじめまして」なので素材があった方がやりやすいだろうということで3つの素材を考えた。タスクではないのでやらねばというものでもない。当日の変更も可能だ。一応松岡さんと話したことを私のメモとして書いておく。

素材は①それぞれの職場環境 ②女性性、男性性を語る言葉 ③川柳句集『ふりょの星』暮田真名(左右社)より「OD寿司」である。

文脈が異なるといえばすでに職場環境からしてそうだ。先述したように自分の仕事は働く場所によって大きく規定される。私たちが自己紹介をするときに自分の職場環境をどう表現するか、受け手はそれをどういう場所として受け取るか、自己紹介は通常は一方通行の発話だが録音したものを(余裕があればテキストにして)辿り直し、どの部分で何をどのように受け取ったかについて話し合う。みんな同じようで異なる前提のもとそれを解釈していると思うので小さな違いを楽しめたらいいと思う。

さらにせっかく中立性をあり方の基本とする心理職が集まるので分断の解消を目指す言葉がさらなる分断をうむ事態について話しあってみる。最近の事件で心理職全般への信頼度は下がっているかもしれないがそういう大雑把な括り方をされたくないなとも常々思うし、世間という受け取り手の特徴についても同時に考えられるだろう。

そして最後にそこまで丁寧にお互いの前提や文脈を確認してきた時間から言葉の意味を解体する時間にジャンプしたい。そのための素材が14日にワークショップを開いていただく川柳作家暮田真名さんの川柳句集『ふりょの星』に収められた現時点での暮田さんの代表連作「OD寿司」だ。

フロイトは圧縮と置き換えを夢解釈の技法とした。暮田さんの川柳は置き換えの機能を存分に発揮し、意味と言葉の繋がりはゆるゆるだ。一方、断言するような文体は、文法は間違っていないが自分の文脈仕様に単語の意味を変えて使うロボットの言葉を聞いているようでなんとなく説得されてしまう。煙に巻かれるのは楽しい。そこまで立ち上げてきた「共有」の空気を一度かき消しその遊びをすることで一緒に笑ったり考え込んだり意味ではなく体験の協働をする。

そしてお茶とお菓子をいただきながらこれらの体験を振り返る。そんな流れだ。7日に参加してくださった人にはぜひ14日もきていただきたいがお盆の時期で今年は帰省をするからいけない、残念、また絶対やって、という人が多く、一方でコロナ自粛をする人も重なった。当日はコロナ対策は十分にするが人数が少ないのは最大の対策だろうとも思う。なので少人数での開催もいいものだと思っているがいろんな人に暮田マジックともいえる言葉遊びを伝えたい気持ちもある。

一応ご案内はこちら。ご案内には有資格者限定と書いてしまったが、資格のあるなしに関わらずなんらかのケアを行っている方々はお気軽にお申し込みを。いろんな人の言葉との出会いを楽しみに。お楽しみに。

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短詩 読書

はじめまして川柳

来月8月14日(日)午後、暮田真名さんをお迎えしてワークショップをおこないます。暮田さんにはすでにたくさんのキャッチーな修飾語がついていて、私もあえていろんな言葉で暮田さんを紹介してきました。でも多分どれもあっていてどれもちょっと違う感じがするのです。一番シンプルにいえば「暮田真名さんは20代で、川柳を書く人です」となるでしょうか。

暮田さんのこれまでとこれからについてはご本人がnoteにシンプルにまとめておられるのでそちらをご覧いただくのが一番いいかもしれないです。

暮田真名の活動と制作物、やってみたいお仕事

以前に書きましたが私が暮田さんを知ったのは俳句仲間の友人のお宅で彼女と1歳になる娘さんと楽しすぎる時間を過ごした帰りの電車でした。流し見していたSNSでふと「あなたが誰でもかまわない川柳入門」という文字が目に留まりました。「あなたが誰でもかまわない」って今思うと攻めた言葉とでもいうのでしょうか。とても今っぽいともいえる。それこそSNS的な。でもそのときの私は俳句の話をいっぱいしたあとだったせいかその何も求められていない感じに惹かれ俳句だって入門だけしてぼんやりしているのについ申し込んでしまったのです。知らない世界に飛び込むときの私はいつもそんな感じだなと思います。

時間的にアーカイブで視聴するしかなかったのですが暮田さんの導入を素晴らしいと思いました。今思えばそこにも結構とんがった感じの話が混ざっていたように思うのです。でもそんなことを思ったのも暮田さんがまだ若い方だと思ったのも後からでした。もちろんお顔も見えているわけなのでその若さを認識はしていましたし、とてもパーソナルな自己紹介でもあったのですが、そんなことはどうでもいいというか「あなたが誰でもかまわない」というのは受講する側である私が持つものでもあったようなのです。

だから暮田さんをどう修飾しようとどれもあっているようでどれもちょっと違う感じがしてしまう。そして多分それは川柳の特徴でもあり、普通に考えれば人ってそういうものでしょう、ということでもあるかもしれない。私は暮田さんの講義を聞いて、川柳ってどこに出かけなくても何も持っていなくてもぼんやり寝転がって天井を眺めたままでもできてしまうことを知りました。また、川柳って好き嫌いの対象にはなっても良い悪いという評価の対象にはなり得ない性質を持っているらしいということも学びました。

暮田さんが4月に出された『ふりょの星』も書名からしてそれが何とは同定しにくいですものね。アイデンティティってなんでしょう。暮田さんを通じて幸せな「はじめまして」を川柳にしたもののまたぼんやりしていますが、その魅力を少しずつ感じられるようになっている気はします。

例えば昨日あげた左右社から4月5月6月と3ヶ月連続で出版された3冊の川柳句集もそうですし、暮田さんが講座の中で入門書として紹介してくれた小池正博編書『はじめまして現代川柳』なんて装幀も内容も最高の入門書だと思います。俳句にも様々な入門書やガイドブックがありますが私にはどれも少しずつ過剰に思えてしまう。一方『はじめまして現代川柳』は昭和の歌番組(「ザ・ベストテン」とか)のように説明は最小限、作品重視という感じの作りで息抜きしながら学べてしまいます。そういえば「あなたが誰でもかまわない」って昭和の歌謡曲っぽくないですか。私はそこに惹かれてしまったのかもしれない、時代的に。

もう行かなくては。また別の本のことも思い浮かんだからそのことも合わせて明日書くかな。とりあえず今日も暑そう。どうぞお気をつけて。

ちなみに「あなたが誰でもかまわない川柳入門」第二期はこちら。暮田さんの「授業概要」読み応えありますよ。

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俳句 短詩

誰川

依存というのは応える人がいるから成立する。それを「依存」に変えるのは受け手であり、自由度を狭めていくのは両者。

身内に誘われ句会にでたとき斜め前に座っていた人の句がいちいち素敵でファンになった。その後仲良くなってこの前ももうすぐ1歳になる子と遊びつつたくさん話をした。

コロナ以前に私が立ち上げた小さなネット句会の「談話室」でその人が俳人津川絵理子さんのファンなんだと書いていて、そーなんだ!と思って私も句集を買ってみた。私は結社には入っているが結社誌と毎月のこのネット句会で締め切り直前に句を作るだけなので全く上達しない。仲間たちの情熱になんだか申し訳なく感じることもあるが彼らとおしゃべりするのは楽しいし、この句が好き!と感じるのにはなんの努力もいらない。好きな句はたくさんある。曖昧にしか記憶できなくても特に問題ない。

それにしても鳥たちが元気。おはよー。お互い早起きだね。

とても楽しいおしゃべりを終えて仕事に戻る電車でぼんやりSNSを眺めていると「あなたが誰でもかまわない川柳入門」という文字を見つけた。「あなたが誰でもかまわない」というので申し込んでみた。こういうノリは久しぶりだ。

私はまぁもろもろなんだっていいのではないか、ある程度のルールを守って楽しくやれれば、と思っているので俳句界に限らず人間関係の「濃さ」を感じる場所は排他的なものを感じてしまうことがある。まだ若い人たちが他人に「才能」を見出したり見出されたりしていろんな感じになっているのを見るとなおさら大変そうだなぁとなる。それだけで食べているわけでもないのにそんな使命感やマッチョ感は必要なのか、いやそういうのが好きなのか。というか使命感とマッチョ感(という言葉はないか)を一緒にしてはだめか。とにかく過剰さを感じることがある。言葉が本当に豊かな人たちの集団なので過剰なのは言葉だけなのかもしれないが。その人とも「そういうのは私はいいかな」と話した帰り道だった。こういうのは肌感覚というか生き方というか個人的な好みのようなものにすぎないが判断や選択には影響を及ぼす。

私の好きなその人の句は何かや誰かに依存的な感じがしない。使命感も義務感もなんかアツいものがない。ただポンッと場面や景色が置かれているだけ。シンプルでわかりやすく受け手に特に何も求めてない。賞をとったりもするわけだからそのあり方で十分人のこころをつかむのだろう。

「あなたが誰でもかまわない川柳入門」、川柳のことも講師のことも何も知らなかったが俳句を相対化してみたかったのかもしれない。相対化できるほど知らないので違和感を少し明らかにしたかったのかもしれない。

講師は暮田真名さん、後から知ったのだがZ世代のトップランナーと言われている柳人だ。Z世代というもの自体よくわかっていなかったし、時間的にアーカイブで受講するしかなかったのだが、導入ですでに「この人すごいな」と思った。私の好きなその人と似た雰囲気を感じた。

ということで仕事をせねば、だからまたいずれ。

暮田さんの講義の課題提出率の高さにスタッフの方も驚いていたが、あの講義ならそうだろう、と思う。本当にこちらが誰でも構わないのだ。何も求められていないのだ。ここには逆説がある。

が、またいずれ。良い連休でありますように。