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映画 精神分析 音楽

北村紗衣連載、『8 Mile』、『女の子のための西洋哲学入門』、NewJeans

朝焼けが始まる。細い月も東の空に。今朝は河口湖の金多留満(きんだるま)の富士山羊羹。京柚子味。包み紙では金多留満は「多」に濁点がついている。洋菓子みたいな包みなんだけど出てくるのは富士山。京柚子味は透明な黄緑。さっぱりな甘さで美味しい。あ、でも結構甘いかも。でも美味しい。なんといってもきれい。河口湖の定番土産。湖は囲いという感じでいい。琵琶湖くらい広くなってしまうと海みたいだけど遠くても先が見えるってなんか安心するのかもしれない。昔、バド部の合宿で行ったのは河口湖だったか、山中湖だったか。あの時みんなでもっと観光も楽しめばよかった。ひたすら練習をしていた。といってもサボり好きの(ゆえの)弱小チームだったからみんなでワイワイしにいっていた感じだけど。それでもひどい筋肉痛でフラフラになるくらいには練習した。その後、バド部はすごく強くなってしまったそうだ。あの頃の私たちはなんだったんだろう。隣のチアがマドンナの曲で準備運動をしているのに合わせて踊りながら打ったりゲラゲラ笑ってばかりでひたすら呑気だった。ある試合で私が相手のエースになかなか点をあげなかったら(といってもひたすら拾うだけのミス待ちで時間がかかるだけで着々と点は取られていた)相手チームが泣き出して(最初はこちらを笑ってたのに)かわいいユニフォームの女子大を舐めているな、同じ女子なのに、と思ったこともあった。弱小だからせめてユニフォームはかわいくしたのにそういうのがムカつくみたいな感じなのかしら。今はあんなの着られないから(シンプルな白のミニスカートタイプってだけだったけどね)着ておいてよかった。今またこの歳で筋トレはじめて数十年ぶりにひどい筋肉痛を経験しているけど今週は関節痛。痛みは増えるものだ。減らし方も学んできたが関節痛の対処はよくわからないから様子見。身体がなんとか健康を保ってくれますように、いうのが一番の願い。

前にも書いたけど『8 Mile』が公開された頃、私はアメリカが身近だった。ユニバーサル・スタジオ・ハリウッドのエスカレーターから大きなエミネムのポスターが見えた。『8 Mile』のエミネムはなんか弱々しくてどこか上品で私は大好きだった。その映画をフェミストで批評家の北村紗衣さんの連載「あなたの感想って最高ですよね! 遊びながらやる映画批評」が取り上げていた。さすが、プロは違う。

「デトロイトの自動車工場ってかつては全米をリードする、エネルギッシュなところだったはずですよね。それがいまや、隠れてこっそりセックスするようなしょぼい場所になっている……みたいな。」

たしかに。唸った。デトロイトといえば自動車工場だった、そういえば。当時の私は白人、黒人という軸は持っていたけど(自分もアジア人として差別されたからわかりやすかったのか?)、当時のアメリカの状況を政治的、歴史的、地理的な文脈(ほぼ全てではないか)で考えたことがなかったし、アレックスのことこんな風に考えたことはなかった。ラビットの母親のことは色々思ったがそれは女として、というより母親としてであって、というか母親は女でもあるという視点がどこか欠けていたと思う。精神分析が持つ父権性や母性を別の言葉で記述できないかという格闘をこうして内側ですることがなければずっと何も思わなかったか、口先だけだったかもしれない、と思うと恐ろしい。男たちの世界の当たり前を何も感じずに素敵素敵と言い続けることすらしたかもしれない。誰々にもいいところが、とか、そこじゃないだろう的な表現をしていたかもしれない。ということは当時、このような記事を読んでもあまりピンとこなかった可能性があるということだ。今、読めてよかった。

昨日、アガンベンを勉強しながら「なんか結局男の本ばかり読んでるよな」と思った。分析家仲間とは女が女の分析家の本を読む、ということを続けてるけど。お昼に本屋に寄ると『女の子のための西洋哲学入門 思考する人生へ』が並んでいた。メリッサ・M・シュー+キンバリー・K・ガーチャー編、三木那由他+西條玲奈監訳、青田麻未/安倍里美/飯塚理恵/鬼頭葉子/木下頌子/権瞳/酒井麻依子/清水晶子/筒井晴香/村上祐子/山森真衣子/横田祐美子、共訳の本。「女の子かあ」と思って捲るとすでにそこに抵抗を覚える人に向けた言葉が書いてあった。あえてこういう本を出していく必要があるんだな、まだまだまだまだ。しかし、こういうのだって女の心身をものあつかいするような男の本と並んでいたりそういう人が書評書いたりおすすめしたりするわけで「変わらないよね、世界」とまた失望する。しかしこういう本が翻訳されること自体に希望を持つ必要もある。自分のことは棚上げしないと仕事にならない、というのは実際あるけど重大な問題であるという認識が足りないことに変わりはない。まあ、私もそうだった、という話でもない。色々難しいものだ。自分はどうありたいのか、何を大切に生きていきたいのか、そういうことをずっと考えていくのが日常をかろうじて守るのだろう。

今朝もジョン・バティステの『Beethoven Blues』を聴いている。Be Who You Are で共演したNewJeansが大変そうだ。世界に認められた若者も守れないとしたらこれからどうするつもりなのだ。昨日はイマニュエル・ウィルキンスの口承音楽について読んで考えていたが当たり前の自由を必死に守るための音楽だけではなく、もちろんそこに潜在する自由こそがインパクトを持つとしても、若い世代がひたすら自分のために伸び伸びと発する音楽も早く聞こえる日がきますように。

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映画 未分類

3.11、BLUE GIANT

3月11日。昨晩、NHKスペシャルで「語れなかったあの日 自治体職員たちの3.11」をみた。またもや本当に何も知らなかったという感覚を強くした。ただただ言葉をなくすのみだがそもそも彼らが「言葉にならない」ということを私が言葉にできると思う方がおかしいのだろう。語ることが彼らをもっと辛くすることだけはないように、それはこちら次第でもあると思う。どうか、どうか、と祈ることも憚られるがとにかく忘れないこと。現地で受けた衝撃をいまだ思い出すにも関わらず心がけなくては想起が難しくなっているのか、と思ったりもするが想起と忘却はセットなのだろう。どうせ死ぬのだからみんな忘れて前に進もうぜ、とかみたいなことを言えるのは互いに忘れられないからかもしれない。

昨年公開された映画『BLUE GIANT』をNetflixで見た。とても見たかったので配信されてすぐに見た。昨年は柳樂光隆の記事をたくさん読んで大好きだったジャズをまた好きになった。この映画の音楽とピアノ演奏を担当しているのは上原ひろみ、素晴らしいサントラでそれはすでに何度も何度も聴いていた。物語の内容よりもドラムを石若駿、サックスを馬場智章が担当しているということでどうしてもみたかった。新宿PITINNで彼らの実際の演奏を聴いてすでにファンにもなっていた。たとえそうでなかったとしてもこの映画から彼らのファンになっていたかもしれない。そのくらいいい映画だった。後半ずっと涙が止まらなかった。昨年は数年ぶりにBLUE NOTEにも行った。名前は変えているが映画にも登場する。特別な場所で特別な音楽を聴くことを今年もできたらいいな。そのためにもがんばらねば。その前に課題山積み。体力もつけつつがんばろう。

東北にも能登にも早く暖かな春が訪れますように。

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映画 読書

カカオとかテンペストとか。

鳥が鳴いているのを耳で探しながら聞いていたら二度寝してしまった。しっかり夢も見た。最近の夢はみんなで一緒に動きながら何かをやっている夢が多い。どうにも眠いので普通の濃いめのアールグレイを入れた。ハーブティだとまたまったり眠くなりそう。冬の間にもらったチョコがなかなか減らない。今日はこれ、今日は・・・と食べ続けているような気がするのだけど。今日は剥き出しになっていない金の包みにくるまっているのにした。どうしてこれだけくるまっているのかしら、と思って開けてみたけどその特別さはよくわからなかった。ただ、甘い!びっくりした。このちっこいのにどれだけの甘味を詰め込んだのか。句友でもある和田萌監督の映画『巡る、カカオ〜神のフルーツに魅せられた日本人〜』の「うま味」の話をまた思い出してしまった。あれもみんなで何かやる話。映画のおかげでカカオがすっかり身近になった。先日、筑波実験植物園の熱帯資源植物温室でもカカオを見つけた。そこは本当に暑くて迷い込んだ先で知り合いにあったような気分だった。

昨晩は河合祥一郎によるシェイクスピア新訳シリーズの第15弾『新訳 テンペスト』を読んでいたらあっという間に2時を過ぎていた。私が演じながら読んでいるとミランダがちょっとバカっぽくなってしまう。父プロスペローに「聴いているか」と問われる理由が単に集中できず眠りこけてしまう自分と重なってしまう。ミランダはいい子なんだけどあまり思慮深くないというか男に囲まれた世界で育つって苦労も多かったんだろうなと思ってしまう。キャリバンは当時王女が嫌なやつのあだ名にしていたエピソードがあるほど不快な人物として描かれているがものすごくイキイキしている。ミランダの母親が全く描かれないのに対しキャリバンはおふくろの存在を軸に言葉を紡ぐ。自分の言葉は育てられたものでもあるゆえ誰にも奪われるものかという矜持を感じる。舞台で観たい。戯曲は面白いな、と思ってもう一冊読んでしまっているのが町田康『口語 古事記』。これはいい意味でずるい面白さで戯曲ではないのだけどなんか近いものを感じる。軽みとイキイキさがにているのかもしれない。

さて、今日も休みという感じはないができるだけ色々進めよう。東京寒い。でもこのくらいの寒さはなんてことないはず。どうぞ良い一日を。

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映画 言葉

高崎、高橋、ギター、千葉

今朝の飲み物はだるま珈琲。先日、突然高崎へ行った帰り、新幹線改札前にある充実のお土産屋エリアで我が家用に買ってきた。この前ノンフィクション作家の高橋ユキさんが高崎駅を利用して前橋に傍聴に行っていて、そのルート知ってる、と嬉しかった。前橋地裁で働いていた知り合いもいたし、高橋さんが以前その近くの美味しい珈琲やさんのことも呟いていたのも嬉しかった。もちろん布袋のことも呟いていた。新幹線ホームの発車メロディが布袋虎泰になったから、多分今年。高橋さんは氷室ファンなんだっけな。高橋ユキさんの傍聴記録はvividですごいし、有料だけど最近始まった日記もすごく面白いからチェックしてみて。人のこころと行動のわからなさに対する理解が深まるから。

さてさて珈琲のお味はどうかな。パッケージは白地に赤い達磨の絵が書いてある素敵なデザイン。いただいたちんすこうと一緒に。美味しい。この珈琲、結構コンク(うち語)。色々あって美味しい。みんな違ってみんないい。金子みすゞは上田出身なんだっけ、など話す。ちなみに画家の星野富弘は群馬出身で美術館もある。小学校の授業で色々みたり聞いたりしたときはどうしてそんなことができてしまうのかと驚いた。かわいいお花の画集も持ってる。群馬にはね、といえばそこそこ観光案内できる程度に色々行っているな、群馬出身者のわりに。高崎は隣町で小さい頃はクリスマスケーキは高崎のお店のと決まっていたし、夏のキャンプでは新幹線からも見える白衣観音の麓にあったカッパピアというプールに連れていってもらっていたくらいしか記憶がない。ここ数年で少しずつ知った。高崎市は達磨の生産量が全国第一で、この珈琲は市内の珈琲やさんがそれにちなんで作ったみたい。高崎だるま市は東京都調布市の深大寺、静岡県富士市の毘沙門天大祭だるま市と並ぶ「日本三大だるま市」の一つ。高崎はアニメ映画『サイダーのように言葉が湧き上がる』の舞台になっていて映画にも達磨が登場。主な舞台は大きなイオンモール。あの辺何もないから遠くからでも目立つ大きな建物なんだけど行ったことないな。イオンモールって割とそういうところにあるイメージ。滋賀県草津のイオンモールもこんな感じだった気がする。滋賀は色々と興味深い土地だし友達にも会いたいからまた行きたい。そのまま京都へ行くこともしてみたい。

昨晩久しぶりにギターを触った。コードは4つくらいしか覚えていない。Cを押さえて弾いてみたらCの音がしなかった。ガーン。以前は教わるままにやればそれなりにそれっぽい音が出たのに。ガガーン。とかショック受けてないでジャラーン♪ってカッコよく弾けるようになりたい。せめてバンド組んで失敗する夢くらいみたい。なんか夢ってあまり成功しなくない?そんなことない?意外と現実の方が無難だったりする気がするよ。とにかくなんでも触れ続けていないと夢にだってでてきてくれないよね、続けよう。続けるのが一番大変なんだけどね、というのは3回くらいしかみていない朝ドラの蒼井優のセリフ。まさに。

昨日は朝から千葉雅也さんの言葉にしんみりしっぱなしだったなあ。この前の平井靖史さんの時間論とも重なったし読者でいてよかったなと思った。人の言葉は断片で聞くものではないからね。

さあ、準備して出かけましょう。準備なんてあっという間。持ち帰り仕事もそのまま持って出ましょう・・。

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映画

『別れる決心』をみた。

腰が痛い。眠すぎて変な格好で断続的に寝たり起きたりしたせいだ。理由がわかる痛みならきっと大丈夫。

『別れる決心』という映画をみた。友達や知り合いがみたいすごいと呟いていたのでぽっかり空いた時間ができたときにパッと予約してしまった。他にみたい映画があったことをそのときは忘れていた。朝イチで映画館へ。6番のスクリーンへいくとキムタクと綾瀬はるかの映画のチラシが貼ってあった。うん?ここじゃないのか?前を歩いていた人もそんな感じで引き返していったけど私はまあここだろうと入っていた。でも引き返してくる人がいる。え?ここじゃないの?と思って引き返すと係の人がいて聞いてみたらほへ?という顔をされたあとすぐチラシに気づき慌てて謝ってここであってるよ、チラシを変えてなかっただけですから、みたいな雰囲気で私に伝え走り去っていった。こういうののチェックってルーティンではないのかもしれない。ある程度の期間やる映画が多いものね。

映画に関してはなんの前情報もなくただ周りで話題というだけでいったけど途中からあぁだから「別れる決心」かと切なくなった。

なんでこうやってすぐに惹かれちゃうかね、と思いつつすぐに手出したりしない(出せる関係でもない)のがかえってエロティックでロマンティックでよかった。にしてもこの音とカメラワーク、パラノイックでやや倒錯的。私はこういうの好きだけど。主役の二人がとっても魅力的。一方は移民(というのかな)で援助職で女で一方は自国の優秀な警察という設定がすでに多くの悲劇を孕んでいるがだからこそ惹かれてしまう部分も警戒し続け注意を向け続けることが愛という言葉を使わない愛みたいに感じられるのも暴力と殺人はどの規模でもどちらにも常に願望として存在しそれが身近だからこそ別のものに執着するのもどれもこれもよくわかるなあ。特定の言葉を使わないこと、霧で見えないこと、いろんなことを曖昧にぼかしてこそのロマンスだなあ。証拠隠滅しても残ってしまうものがあるからジレンマも生じるし。しっかしこの警官は優しくて頼りになるんだかならないんだかわからないとはいえ愛すべきキャラだけどなかなか狂ってんなと思わされましたね。普通の顔してそんなこと言ってるみたいな。暴力と殺人から離れられない点では追う方も追われる方も変わらないのね、特にそこに「愛」みたいなものがあると、みたいな場面もあったけど死ぬのはいつもこっちだなという感じもした。主人公二人はそれぞれ狂気に触れる生活で自らも狂気を纏いつつ知的で理性的で戦略的なのはサスペンとして面白かった。周りの熱い反応と比べるとだいぶ冷めているけれど背景とか考えるとこの映画は社会的な意義も大きいのかもしれないなあとか思ったりもした。別れる決心ってしてもしてもなかなかね。育ってきた環境とか切り離しがたい運命的な何かより人の方が別れやすいはずだからなんとか死なずにいく方向で愛し合ったり別れたりまた愛し合ったりできたらいいんだろうけどこの映画でも死ぬ方は終わりだし残された方はまたそういうチャンスがあるのでしょう、今は死にたくなるほどの慟哭にあるとしても。人間って、と思った。

すごく思い入れがあるわけでもこの映画の何かに詳しいわけでもないけど感想をタラタラ書いてしまった。眠いけど今日もなんとか。

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俳句 映画 趣味

居酒屋。映画『冬の旅』。

「はい、南蛮」カウンター越しにあまりに自然に渡されたのでつい受け取ってしまった。「南蛮、ここじゃないと思う」というと「すいませーん」とホール係の女性がすぐに受け取りにきてくれた。耳が遠くなったなと感じていた。彼は間違いを正す方だった。常連客との雑談が増え目つきの鋭さがなくなってきたように感じていた。心配なんだ。安くておいしくて通い続けてる。コロナの間はテイクアウト用のおばんざいセットを出していた。これも店で楽しめる以上に多彩なおばんざいばかりで真似して作るのも楽しかった。ビニール袋には入らない大きな正方形の箱を平に持たなければならないので風呂敷に包んでくれていた。店が再開してから再び通うようになった。大体決まった曜日に行くがいつもいつも会う人は特にいない。でも大体の常連には会っていると思う。何度も目だけ合わせて話したことのない人も若い頃から通っているらしきお酒大好きな人もみんなひとり。「ありがとうございました」包丁を握りながらクリッとしたつぶらな瞳でしっかりこちらをみて送り出してくれた。長生きしてくださいね。店長の息子たちもそれぞれに店を出して味を受け継ぐ人はいるし彼らの店も大好きだけど私はこの小さな居酒屋が一番好き。まだまだお願いいたします。

今日は七十二候でいう「地始凍(ちはじめてこおる)」。小春日和に安心しつつ少しずつ大地も冬支度。

凍てつく大地で若い女性が死んだ。とてもかわいい寝顔と同じ死顔で。

アニエス・ヴァルダ「冬の旅」の話。楽がしたい、自由に生きたい、それが何を意味するかなんてどうでもいいのだろう。他人がそれをなんと言おうとそれが求めうるものである限り彼女は歩き続ける。ヒッチハイクで移動しては薄っぺらいテントで眠る。大きなリュックと臭気に塗れながら。汚い女と言われながらも出会う人たちを魅了し水や食糧、仕事と居場所をえる彼女の求め方は最低限のそれで相手のケアや憧れを引き出すのはすでに大人になった彼らが失ったあるいは得られなかったものを彼女に見出すかららしい。一方、彼女の在り方そのものが喪失の結果のようにも見え、これ以上の喪失を拒むもののように感じられた。それゆえ彼女は繋がりとどまることに対して受け身でしかいられない。彼女が追い出される場面で放った言葉がまさに今の私が使いたかった言葉で心に残ったのだが記憶に残っていない。まさにそう言ってやりたい、そんな言葉だったが言う機会も同時に失っているので思い出す必要もない。彼女の怒りが突発的に表現される場面には少し安心した。彼女の名前のイニシャルが貼り付けられた肩掛けバッグのスクールガールっぽさがその年齢の危うさに対するこちらの親心を掻き立てたのかもしれない。私もまたすでに失っている側のひとりで彼女のような頑固さや意地や必ず再び歩き出す力は持っていない。彼女に対する無力は今は世界に対するそれのような気もするが、凍てつく大地で寒くて眠れずママと口にする、もしくは倒れたまま死んでいくような厳しい環境にもない。

もう行かねば。放浪ではない日常をなんとか今日も。