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ゆらゆら

早生みかんと柿を昔LOWSON(多分)でもらったリラックマのスープマグにいれたらオレンジと茶色と緑の混ざった黄色で秋っぽくなった。意図的にやれば当たり前のことも何も考えずに出会えると楽しさ嬉しさが増す。

月末の学会でセミナーを担当するがベルギーの先生がそのために来日してくださる。私たちのセミナーはハイブリッドではなくオンラインなのだけど。ちょうど個人の旅行にもビザが必要なくなったタイミングで来日を決められたらしい。登壇者は全員集まれるんだなあ。嬉しい。

とか言っていないで原稿を書かねば。昨晩雪崩を起こした本の山が変な格好で表紙をこちらに向けている。直してあげたいけど今そこをいじると別の雪崩が起きそうなのであとで。ごめんね。

しかしわからないことをわからないと伝えることの難しさよ。書き手は伝わると思って書いていることに対してポカンとしたりむむっとなったりする自分が馬鹿なだけではないかと思うが私くらいの人は他にもいるだろうと思い直して勇気を出してわからないと書くわけだ。なかなか苦痛だのう。仕事(私の場合は面接)ではわからないことはわからないといわないとどうにもならないので割とあっさりいうわけだけど二人だけでその人の言葉の使い方に馴染みつつも敏感に注意を向けている関係とは異なるからなあ。

最近は言葉にならないことばかりでなんかもういろんなことは世界におまかせみたいな気分になることも多いのだけど実際委ねるしかないことばかりかも。私も伝わっていると思っていたことが悪意に受け取られたりしたらとても悲しいけどそういうのも相手におまかせ。そう思ってたんだとわかったらそんなことないというしかない。違うものは違う。そうだったらそう思ってしまったんだよ、なぜなら、となるし。拙い言葉でさらに悲しい事態を招いたとしてもできることってそれくらいしかないもの。できない自分を呪っても何もいいことないもの。どうしたって関わるしかないし関われば反応はくるしそうやって近づいたり離れたりとんでもないことが起きたりなんか今日もいつも通り、となったりする。なんか今日もいつも通り、という言い方は何か起きるはずだったのにという感じがあるね。まあわからんから今日も今日とて揺れて揺られて。ゆらゆらしつつがんばりましょ。

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日々これ

秋の虫が鳴き止むのはいつだろう。紅葉が始まり終わりコオロギが昼のみ鳴くようになったらだろうか。つまりそれが冬のお知らせ。寒いの怖い。

紅葉をわざわざ見に行くことを何年もしていない。毎日の景色に出会うそれで満足してしまっているみたい。河口湖のもみじ回廊にいったのはいつのことだったか。わざわざいくのもそれはそれで素敵。それにしても時間の感覚がどんどん曖昧になっていく、と昨日も書いた気がする。そして昨日は実際に予定を間違いご迷惑をかけた。

一度間違うと変更にもついていけない自分も現れるからもっと大変になってしまう。わかっているのに最近は余裕がなさすぎた。私はこういうところがあるのだから常にキャパを見直さなければと思ったことすら忘れてしまいまた同じことを繰り返す。気をつけるがまたやるかもしれない。申し訳ない。先に謝っておくわけではないが実際謝るしかない。

アプリとかも使いこなせればと自動翻訳とか文字起こしとかおすすめされたものは使ってみるのだけどすぐにどのアプリがどういうことをしてくれるのかわからなくなってしまう。「無料でここまでしてくれるのか!」とその時は驚くのにその便利さを享受できないのはなぜ、と思い、iphoneにいれたアプリをフォルダというのかな、それを使ってホーム画面を編集してみた。こうすればどれが何の仲間かわかりやすいかなとSNSもひとつにまとめた。そうしたらなんとフォルダに入れたアイコンが小さくなってしまって(当たり前だが)見えない!これぞ老眼!すると何が生じるか。アプリを開かなくなる。おい・・・。

はあ。でもまあ何かを使ったところで私のパフォーマンスが上がるとは思わない。この歳になるまでこんなだからなんとかなったという部分だってきっとある。無駄にポジティブなのも忘れてしまっているせいなのかもしれないがそういう時は「えー、自分がいったんじゃん」「あの日あの時あの場所で(♪)」と教えてあげて。いや、教えてください。みんなの記憶装置を外付け記憶HDDとして信頼してる(迷惑?)。

「あの日あの時あの場所で♪」と口ずさみながら明日のイベントのことを思い出した。

【イベント&オンライン(Zoom)】日常を、もっと好きになる言葉と作ることの実践――高橋久美子『一生のお願い』(筑摩書房)×宮崎智之『モヤモヤの日々』(晶文社)ダブル刊行記念イベント

おもしろ娘とのんびり息子の対談というイメージ。高橋久美子さん、チャットモンチーのドラマーだったことも忘れてしまうけど改めて思うと「ドラムも叩けるのか!」と驚く。文章も喋りもほんと面白いし。宮崎智之さんの日記はのんびり優しい少し間の抜けた新米お父さんの宮崎さんがいい。素朴なお父さん日記ってあまりないと思うし。『つげ義春日記』とかもすごくリアルで面白いけどああいうハードでユーモラスという感じとは正反対のほっこりさはマッチョの正反対でもあってちょっともどかしくも安心する。

アーカイブで見るのだ。こういうのも便利だよね。夜遅くまで仕事していても待っていてくれるわけだから。

書ける人たちの記憶装置はきっと色々豊かでカラフル。こういうイベントにでることでその豊かさをお裾分けしてもらう。「いろんな人がいていろんな生活があるんだなあ」というのは毎日仕事で実感する。それはとても密やかな語りでとても大切。公に自己開示する人たちにもそういう部分は同居する。外向けの人も密やかに仕事をする人も今日もがんばりましょ。失敗にめげず!(←自分に)。

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嫌なやつ

柿と梨。どちらも大好き。スルスルむけるわりに桃みたいに手首までタラーっと濡れることもないし。むきやすいから好きというわけじゃないけど。桃も大好き。秋の果物はほんと豊か。

気持ちを教えてほしいというから伝えたら不快な顔をされた。それ以上いえなくなってしまった。対話というのはこういう状況を避けることはできないという前提のもとそうなったときの自分の感覚や気持ちに対して防衛的にならず、相手の様子にもそれ以上は被害的になることなく次の言葉や態度をお互いに待ちながら続けていくものと思っている。

ルール設定のある対話なら不快な状況が生まれないように、ということはなんとなくできるかもしれず、自分の話をする、相手の話を聞くという役割を取ること自体が貴重な経験になって日常生活でもこういうのって大事だな、と思ってそういうルールのある対話の場での学びを生かすこともできると思う。

でもつまりやっぱりそれはかなり限定された意味での対話ということになると思う。

うちと外で違うというのも普通のことでなんでそんなことしちゃってるの、気持ち悪いって思われるよ、カッコ悪いよ、みっともないよ、他人は言ってくれないよ、ということを思ったとしてもそれが仕事でそれが生活費を稼ぐのに役立っているとしたらそんなこと言えない、という人もいれば、そういう態度が社会的な関係ではない自分たちの関係を侵食する感じを嫌ってそう伝える人もいる。でもこちらがどう判断してどう行為した(しない)としてもその次を作るのは相手だ。そして多くの場合、親密な関係におけるずれはお互いを傷つける。ルールに守られればできることがそこではできないことがさらに複雑な気持ちを掻き立てもする、お互いに。だから私たちってどういう関係なの、と問い直す事態がよく生じるのだろう。それはつまりその人の考えではこの関係でそういうことは言ったり言わなかったりしたりしなかったりするものだと思うけどおかしいよね、と言いたいわけだ。そして大抵期待通りの返事はこない。それだって家族のように通常は続けることが豊かさにつながると期待される関係においては当たり前に生じることだ。そういう関係は嫌なことや思い通りにならないことがあってもそこに居続けることが前提になっていると同時に何度でもやり直す機会がある。そしてまたやはり同じことを繰り返すのだがそうこうしている間に別のことも生じる。いろんなことが起きてそれらを共にしていく、ただそれだけ。ただそれだけということの貴重さ。

もし関係を続けたいなら圧力のかかる負担な状況が生じるのは当たり前だという認識が必要だし、お互いがお互いに関心を向けている限りは別のことも生じているということに対する希望も必要。だから相手を決めつけたり利用したりしないでとりあえず自分の問題として考えていけばいいんじゃないの、暴力とか明らかに離れた方がいい事態は別として、というのが私の仕事の前提だし仕事でなくてもそういうものだと思っている気がする。

私は「対話」という言葉が苦手なのでほとんど使わないけれどもし使うなら対話をする相手は自分自身でもあり自分が何をどう感じてどういう態度をとっているかを相手を通じて知ることに対して使うかもしれない。ルールのある場所での対話はそれがどういう感じかをイメージすることに役立つかもしれない。そういう時間を持つことさえ普段は難しいわけだから。でも私たちはそんなに簡単ではない。変わらない変わりたくない自分を愛してほしい、自分で愛するのは難しいから。今日も自分は嫌なやつ。それでもそればかりではないだろう。そう思ってやっていく。

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お知らせ

最近、夜中はずっと工事をしています。時々家が揺れます。さっきはすごく揺れました。と思ったら地震でした。被害がでないことを祈ります。工事の方々もどうぞお気をつけて。

もう10月も半ばですね。一般社団法人東京公認心理師協会のNewsLetter42に8月に主催した言葉イベントのことが載っていますよ、と一緒に主催した松岡宮さんが教えてくださいました。もう2ヶ月も前のことなのですね。載せていただいたのは11ページの地域活動推進委員会の欄です。会員の方はぜひご覧いただきご自身の地域でもぜひ企画してみてください。地域ってなんだろう、というところから考えさせてくれると思います。

私たちもまた何かやりましょう。

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声が届くうちに

ずっと感じていた違和感がなにかなんてずっとわかっていたはず。涙が止まらなくなった。

「ふつう」が揺らぐ。追い詰められる。こうやって乗っ取られていくのだと思った。

追い詰められ、乗っ取られる恐怖を感じながら、自分の「ふつう」が脅かされたのは私ではなくあなたなのだと思う。私はあなたの突発的な怒りの表出に脅かされたのだから。

私は脅かされなくなる。

でもこのわからなさが不気味さであり、とても人間味を欠いたものであることと改めて認識する。「やっぱり」という気持ちと戸惑いで少し呆然とする。

先日、中国、韓国、台湾、インド、オーストラリア、日本の専門家たちと話し合ったことは私を少し変えたようだった。

周りに指摘された。

英会話をやらねばやらねばと思いつつほとんどしないまま当日になってしまったが原稿を作るプロセスで英語を使って考えている部分が多くあったらしかった。

以前、ロサンゼルスで中国の子供たちとなんとなく仲良くなってテニスをした時の感覚だった。言葉の壁を全く感じなかった。いろんなことを話して笑ったのに。

英語は絶対的に拙かったのだが議論は時間が足りないほどだった。表現することでその対象が自分にとってどれほどどのような思い入れがあるものかということを実感した。たいして使えていないが生活になんら支障を感じない母国語で議論していたら、こんな身体感覚は生じなかっただろう。

異質なものと出会う。この仕事はそれの連続だ。共有できるのは日本語は話すけどお互い全く別の人間だという事実だけ。そこでお互いの持ち物(私の仕事では言葉)をどう扱うか、どう許容していくかがその後に関わってくる。その言葉がここで生じたのは相互作用だと考えるから。

そういえばそこばかりいく居酒屋の店長の耳が遠くなっていた。「聞こえないな」と少し苛立ちながら呟く店長の声をカウンター越しに聞いた。声が届くうちに。そんなことを思った。

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女友達

女同士で話していると絶対に変わらないであろう男の話になる。外面だけフェミニストで自分からまめに絡みにいって求められていると勘違いしたい人、身近な関係の彼女(妻)には甘やかしているつもりで甘えることだけしていたい人、大抵の人は思うであろう文句を言っても聞こえていないふりか別の女に相談するか被害的になってこちらが悪いような気分にさせるのがうまい人。自分の聞きたい話だけ聞いて「対話」が大事とかいっている人。漫画とか本にもよく登場する典型的に自分のことしか考えることができなくなってしまった人たち。みんなもっと辛辣な表現でこういう相手のことを表現するけど「ダメな私たちがこういうのを許容しちゃうからいけないんだよねー」と笑う。辛い目にあってようやく別れても「また似たような人選んじゃったりね」と笑う。怒って泣いて寂しくて悲しくて何も手につかなくてそれでも家事や仕事はしなくていけなくてその現実の世知辛さのおかげでなんとか身体を動かしている。そんな体験を時々集まっては話しまた繰り返す。女友達は貴重だ。辛さが変わるわけではないけれどこんなにみんなで共感できるほどダメな相手に振り回され続ける愚かな自分たちを笑い合う時間のおかげで別の可能性を模索するまともな自分の部分を維持できているとわかるから。この歳になればいろんな別れの形もみたり聞いたりしているけれどどれもそうしてよかったねというものばかり。この前もみんなで喜びあった。「どうなった?」「別れた」「よくがんばった。」抱きしめる。まだ怒りも痛みもたくさん残っている彼女の話は自分たちにもとても痛い。いいかげんその決断を迫られている友はその行動を羨ましがってた。女の立場は弱い。無理するからなおさら辛い。でもなんとかやっていこう。実はとんでもナルシストな相手、実はでもないけどわかっちゃいるが変えられない愚かな自分に見切りをつけるときもつけられない間もまたこうして集まろう。別れたあの子もまだ眠れない夜を過ごしたらしい。

LINE。おはよー(スタンプ)。眠れた?(スタンプ)そりゃそうだ。(スタンプ)今日仕事?うん。ちょっと会う?(スタンプ)(スタンプ)(スタンプ)

またあとでね。きっとボロボロだろう。自分が抱きしめたいときしか抱きしめてくれなかった人のことは少しずつ忘れていこう。そのままおいで。なんとでもなるかどうかはわからないけどどうにかはなる。今までもそうだったもんね。どうしようもなく繰り返す私たちは支え合う。どうにかこうにか今日も過ごす。怒りながら泣きながら。女であることのどうしようもなさに身を浸しながら。

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ウィニコットの「自己」

雨の音が止んだ。走り去る車の音は雨の日のそれだけど。

まとまった時間がとれないので深夜や早朝の作業が増えるが静かな時間に耳を澄ますのはいい。

ウィニコットは「生まれる体験というのは幼児がすでに知っていることの誇張された一例なのである」といった。そして「生まれている間は、幼児は反応する存在となり、重要なものは環境である。そして生まれた後には、重要なものは幼児である事態に戻る。・・・・健康な場合には、幼児は生まれる前に環境の侵襲に対して準備ができていて、反応する存在から反応しなくてよい状態に自然に守ることをすでに体験しているのだが、この反応しなくてもよい状態が自己が存在し始められる唯一の状態なのである」と言った。(「出生記憶、出生外傷、そして不安」Birth memories,BirthTrauma,and Anxiety,1949,p183)

ウィニコットは「リアルであると感じる」ことを自己感の中心に据えた。ウィニコットの「自己」は新生児に備わった潜在力であり、ほどよい環境によっていずれ自分meと自分でないものnot-meを区別するようになるいわば主観的な感覚のことである。

先の出生に関する論文に登場する患者はウィニコットにいう。「人生のはじまりにおいて、個人は一つの泡のようなものです。もし外側からの圧力が内側の圧力に積極的に適応するなら、泡は意味があるもの、、すなわち赤ん坊の自己であるのです。しかし、もしも環境からの圧力が泡の内部の圧力よりも非常に高かったり低かったりすると、その場合、重要なのは泡ではなく環境なのです。泡が外界の圧力に適応するのです」(孫引きなので原典チェックできてないけど「出生記憶、出生外傷、そして不安」Birth memories,BirthTrauma,and Anxiety,1949,p182-183)

ウィニコットは自己を出生前から位置づけ(彼は小児科医でもあるので自然なことだと思う)赤ん坊が誕生する際、環境から身体的自己に及ぶ侵襲をいかに扱うか、もしそこで自己が環境からの侵襲に反応しなければならないパターンができあがってしまうと、自己は存在し始めることができないと考えた。

ウィニコットはその後、存在することを母と子(環境と個人、殻と核)のユニットとして描写し、殻と核の相互作用によって境界膜と内部を獲得した統一体が成長していくプロセスを記述した。ちなみにウィニコットは「自己」と「自我」の区別を曖昧にしており『原初の母性的没頭』論文において「自我」は「経験の総和」を意味すると述べたあとすぐに「個人の自己は、休息の体験、自発的な運動と感覚、活動から休息への回帰・・・などの総和として始まる」と書いている。

また「始まりはいくつかの始まりの総和であるということを思い出すのが適切だろう」ともいう。(『子どもの発達における自我の統合』p56脚注)ウィニコットはさまざまな水準の精神病理をもつ患者との実践を続けるなかでフロイトの本能論、クラインのポジション論とは異なる仮説をたて、存在の始まりの時期とプロセス、そしてそこで解離、分裂している自己について模索した。「本当の自己」と「偽りの自己」というスペクトラム上の概念がその中心的な概念である。

と理論というのは追い始めるとその厚みを知ることになり、閉じられることのなかったその展開には謎がつきまとう。今回は二つの世界大戦を経験したビオンとウィニコットという精神分析家が存在や経験についてどのように考えていたかをその著作から追うことになるが壮大すぎるので私は私の限界、つまり実践から離れない範囲で何かをいえたらいいと思う。

木曜日、このまま爽やかに晴れてくれたら嬉しいけど予報は曇りみたい。どうぞお元気でお過ごしくださいね。

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甘え

何言っちゃってんだろ、何しちゃってるんだろ、と眺めつつ自分の作業の進まなさにぼんやり寝たり起きたりする。これ家族だったら大変だなと思うが他人のことは他人のこと。特殊な状況以外では優先すべきことではない。

話されないこと、書かれないことが重要なんだと考える精神分析からするとその人がそのことを書かないのは当たり前なのにそれが書かれていないではないかと指摘する人がいた。この二人はあからさまであることに対する態度が異なるのだろうと面白く思った。

いいかげんバレバレなのはその人のプライベートに関わり続けている親密な相手にとってであり、私たちのデフォルトは偽りの自己なので精神分析状況のように特殊な状況以外で「それが書かれていないではないか」と指摘されるようなことは隠されてしかるべきだろう。隠すためになされているさまざまな行為を無下にするのは大きなお世話かも。もちろん身近な人の不安や恐れは強烈だと思うが本人だってそうだしそれらを抱え合う関係を親密というのだろう。

まだとても小さな子がかまってほしさにやっていることを甘えだのなんだの叱られたりしているのをみるとおじさんおばさんになってやられるよりはいいのでは、と思ったりするが、小さいときにほどよくそういう部分を満たされてこなかった子どもがそういうおじさんおばさんになるかもしれない可能性を考えればいろんなことはその人と出会い次第ということになるだろうか。大人になるとあからさまなかまってちゃんとそうは見えないけど一部の相手だけが困るかまってちゃんがいるのでそれはそれで複雑だなと思う。

依存というのは誰にでもあるけどそこで自分自分となるか相手にも依存心があるという事実を思い出せるかどうかで対等な関係に対する態度も変わってくる気がする。部分的に依存をみたしあう関係は快楽とか利用とかいう言葉と結びつき排他的である可能性も含むので対等というより差異を否認するじゃれあいといったほうがフィットするか。遊びとしては必要な側面もあるけど同時に誰かを傷つけている可能性もあるだろうから難しいところ。

甘えとはなにか。土居健郎を再読した方がいいですね。

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のんびり折り合い

鳥よ、虫よ、おはよう。先日芝居で「虫の目で」というセリフを聞いた。言葉と国、全体主義に向かうとき私たちが愛しているふりをするものたち。異質なものを排除する力、排除された記憶は誰にでもあったはずなのに。

ハイイロチョッキリという鼻の長い虫のことも知った。アリクイみたいと思ったけどゾウムシの仲間ですって。どんぐりから出てくる虫のこと。今年、もう見かけたかしら。木が出す液から幼虫の成長を守ために親が枝をチョッキリ切り落とすからこの名前。特徴的な動作を名前にするのはわかりやすい。「ホモ・サピエンス」は賢い人だっけ。名前負けっていうんだっけ、こういうの。

どうでもいいことを考えて過ごす毎日。こうやって書くとなんとなくどうでもよくないのだけど私は基本的には「時間をめっちゃ無駄にしている人」の部類に入ると思う。きっと今がそうだし。それでいいと思ってるのだけど。自分ルールでキチキチしてても私の場合は特に何もいいことがないし他人ルールに縛られるのも居心地悪い。これらどっちもあった方がいい人もいるに違いないのだけど私はルールは基本的なものしか覚えられないしぼんやり刺激に委ねて反応してから考える感じかな。反応が遅いからそうなるだけだけど。そうすると必然的に効率は悪くなる。その効率の悪さを面白がれるのは余裕のあるときだけだけど生活のために必要なことはいいかげんできるようになっているので不安定にはならないかな。仕事のこととか不安にはなるけど当面なんとかなってるというのも大きいか。

精神分析なんて効率重視の人から見たらめっちゃ時間の無駄だと思う。でも自分のあり方自体に変化を求めるならそれはもうしょうがないと思う。異質なものと出会う方法を変えていくわけだから色々起こるしそれ自体が重要になる。

誰かと生活を共にすると外向けの自分と全く違う自分のことを知る、相手が先に。「知らなかった」というのはお互い様。知る由もないでしょう、他人だったのだから。今も他人だけど生活を共にするなかで「他人なんだから」より「家族なんだから」が強調されるのはお互いに今までのあり方ではいられないんだよということ。外からは見えないいろんなことが起きる。子供ができればもっと大きな変化を強いられる。迎合ではない仕方で親密になっていくことは本当に難しい。だから長年溜め込んで苦しんだりしてしまう。でもそれだって誰のせいともいいがたいから周りにちょこちょここぼしながらもひとりになればずっと苦しかったりする。愛したくて愛されたくてすることが全て裏目に出ている気がする。空回りしている気がする。生活を共にするとひとつひとつの行為が自分の習慣とは異なっているのを見て見ぬふりできないことばかりだし本当に大変。それでも、というのが私たちの愚かさというか幸福というか、やっぱりひとりよりは、と思うところなのではないかな。もともとひとりでは生きていけないところから出発してるから賢くなくてもそういう生き物であることに折り合いをつけて楽しかったり面白かったりする瞬間をもてたらいいと思う。深刻さなのなかにもそういう瞬間はたくさんあるから効率もいいけどのんびりも推奨していきたい気分。今日も色々あるに違いないけどなんとか過ごしましょう。

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Isn’t this a boiled egg ?

週末は第一回アジアパシフィックオンラインカンファレンスだった。

参加者は国際精神分析協会(IPA)に関連するオーストラリア精神分析協会、中国スタデイグループ、インド精神分析協会、韓国スタデイグループ、台湾スタデイグループと日本精神分析協会の会員と候補生。

テーマはGender in the Consulting Room and in Culture。Individual paperでは日本、インド、台湾の先生方がこのテーマで発表をしてその後にみんなで議論。

Clinical small Conferenceでは各国の分析家、候補生が6つのグループに振り分けられて国の異なる2人のモデレーターのもと準備されたclinical materialを素材に議論。

India: 07:00- China and Taiwan: 09:30- Japan and Korea: 10:30- Australia: 12:30- という時差のもとスタート。

私はいつもの仕事より遅いスタートだったので景気付け(一日英語使用という苦行に向けて)に行きたかったカフェのモーニングへ行ってみた。そしたらなんとゆで卵が生卵だった。「ゆで卵が生卵だった」を自動翻訳にかけるとThe boiled egg was raw.うむ。ありえない事態になるので言葉足らずは誤解を生みますね。でも実際この事態ありえなくて卵をトントン「うん?」トローリ。面白かったのは一瞬それをありうることとして理解しようとしている自分がいたこと。カフェのモーニングはトーストとサラダとゆで卵が一般的だけど「ここって何かに生卵使うの?」とサラダとか眺めてしまう自分がいた。ごく普通のサラダにみえるのに。というのも入ったときから違和感が多かったのだ。一番は店員さんの独特のペース。The boiled egg was raw.はおしゃれな容器に入って出てきたドレッシングと蜂蜜のことも「これなに??」と勘ぐったあとの出来事だった。蜂蜜大好きなので蜂蜜でよかったけど。いやいつもだったら疑いもせず喜ぶのだけど。

「これってゆで卵ではないんですか」。自動翻訳だとIsn’t this a boiled egg ? 見りゃわかるだろうみたいな話だが見てわからないのが卵だということがわかった。この質問、変だろうと自分でも思ったが思わずこう聞いたら例の店員さんがさすがに普通にびっくりした。安心した。おお、私がおかしいわけではなかった。

あ、私は記念すべき第一回アジアンパシフィックオンラインカンファレンスについて書いていたのだった。お昼が終わってグループに振り分けられたあとに雑談する時間も少しあったからこの話して各国モーニング状況を聞けばよかった。食べ物の話なら英語がよくわからなくても楽しいし。

しかし皆さんよく話す。議論はよい感じで盛り上がり大変勉強になった。グループでの作業はグループメンバーによるところが大きいが、私たちのグループはモデレーターの先生方のマネージメントのおかげで2時間があっという間に過ぎた。

「この病理のこういう状態にある患者さんに通じる言葉は」ということも検討できた。日本語臨床については常々考えているが英語でも同じようなことができて楽しかった。言葉についてはオーストラリアの訓練分析家の先生が中心になってくれた。アジアの先生方も英語圏でトレーニング受けてたり帰国子女だったりして英語が達者な方が多かったけどその人にインパクトを与える言葉を探す作業に含まれる色々を話しあう基盤は精神分析理論にあるので私もなんとかついていけた、気がしている。

今日もちょっと別の角度から言葉について考えることになる。そしてウィニコット再読。先日も書いたがウィニコットの「対象の使用」という考えは言葉を象徴として使える患者かどうかのアセスメントと関わっている。これは病理をどう理解するかということでもある。患者が現実の対象をそれとして認識することが難しいにも関わらず分析家がコミュニケーションをしないことの重要性を理解せずコミュニケーションを促すことは患者にとって侵入的である。ウィニコットは解釈するということは分析家の理解の限界を示すことであるといった。何かをせずにいること、それをできるだけ少ない言葉で語ること、私は「安全」ということを考えるのであれば、精神分析に限らずケアや支援というのはどれもそこを目指せたらいいような気がしている。

お世話になった先生方にお礼のメールをしているがもっとも感謝しているモデレーターの先生方にも書かねば。一番が一番遅くなるというのはよくあることですよね?そんなことないか。

今はインドは何時かな。時差はあれど国は違えどそれぞれの場所でそれぞれの一日をどうぞご無事に。

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開業してまもなくだっただろうか、しばらくしてだろうか、いずれにしても5年ほど前に神経麻痺で右手の手首が上がらなくなった。うたた寝をして起きたら手首がだらんとしたままだった。寝ぼけながら混乱していたのだろう。シャワーを浴びた。ものすごく不便だということだけわかった。利き手だ。頭痛もひどかったのでどうしたらよいか病院へ電話したらすぐにくるようにと言われた。脳の異常ではなかった。それだけでとても安心した。血圧は異常に上がっていた。

私は落ち着きがなく怪我をしやすいので自分が怪我をしたときにオフィスまでどう辿り着くかのシミュレーションはなんどもしていた。いつの間にかそうするようになっていた。できるだけ楽に、と思ってのことだがその前に気をつけられる自分になるべきだろう、本来的には。

しかしまさか手首がこんなにだらんとなるとは・・と途方に暮れた。記録が書けない。お箸が持てない。混雑した電車で吊り革をつかめない。シャワーを上手に浴びられない。両利きになっておくべきだった。

ということを句友の句がずらっと並ぶページに鉛筆をあてながら思い出した。右手で追えなくなるかもしれないんだなと思って左手であててみた。景色が変わる。でもすぐにやめてこうしている。どうにかなるか、予防したところで防ぎようもないでしょ。切迫感がないとなかなか・・

うとうとしてしまった。あぶない。圧迫に気をつけないと。

何を思って書いていたんだっけ。忘れてしまった。

聞いたことに答えない、答えてないだけで嘘をついているわけじゃない、小さく情報を操作する、誤解を招くだろうけど嘘は言っていない、誰も傷つけたくない、ほしいものはほしい。そんな人でも深く愛情を向ける対象がいる。それらは全て両立する。人の気持ちがわからないというか分かりたくないのだろう、傷つけているとか気づきたくもないだろうし、優しい自分でいるために、といういつもの見立て。そんなことを考えながら橈骨神経麻痺のこと思い出して書き始めてうとうとしたんだっけ。まあいいか。

この句友はそういう人とは正反対だな。受賞の言葉があまりに素直に自分にも他者にも開かれていて余計な加工が全くされていなくてびっくりした。子育てと一人でされているお仕事で猛烈に忙しくて余計なことを考える暇がないのか、いやそういう問題ではないか。すごい人だ。読んだことのないタイプのいい文章だった。励まされた。

またうとうとしそう。素敵な気持ちのまま休みましょうね。

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そのまま

空がとてもきれいだった。ブラインドの隙間から見える色ですぐわかった。ベランダ側の大きな窓を開けるとピンクと水色と白とグレーとがたなびいていた。グラデーションではなくそれぞれの色をきちんと残して。空がきれい、月がきれい、飽きることもなく言い続ける変わらないきれいさ。これはとっても昔から変わらないことなんだろうなあ。いろんな言葉でただ指差しながらただ見上げ汚いの対としてのきれいではなくてただそのままきれいと思える対象はこうして古来からある。戦いの現場へわざわざ出向いてそこが戦場ではないと言い張りたい人はこのただきれいであるということをを知らないのだろう。どうしても汚いがあるはず、そうでなきゃおかしい、と思っているのかもしれない。変わりゆくものにも対応できず変わらないものに驚嘆したり感動したりすることもできずとどまることをせず自分で耐えられない自分のもやもやを投影できる先を探しにわざわざ遠方まで出向く。カメラとか引き連れて。その問題はあなたとは関係ないからだよね。心揺さぶられない場所へ。私たちはそのためならなんでもするよね、意外と。そういう「抵抗」は精神分析ではずっと言われてきた。現実の理不尽に抵抗するのではなくて外側と関わりたくない、正しいのは自分、だから変わりたくない、と関わる前から怖がっている自分をどうにかごまかすために関わりの薄い場所へわざわざ。よく考えれば、いや考えなくてもそこは全然関わりの薄い場所ではないよ。私たちがそうやって負担を押し付けてきた結果でもあるんだよ。その加害性を認識するのは私たちにとってもっとも怖いことかもしれないけれど。

高校時代、タバコくさい喫茶店でヤンキーの仲間とバイトをしていた。上下スウェットで長い髪を垂らし愛想など全くないゆっこちゃん(仮名、子がつく名前が多い時代だった)の接客はかっこよかった。全然もてなしていないが存在の迫力は全く無駄を生なかった。多動気味の私は歩き方からして落ち着きがなくよく笑われた。でもまあ仕事はそこそこできたので高校卒業できたら(バイト三昧でいつも単位が危なかった)働こうと思っていたけどとりあえず大学に行くことになった。とりあえずで勉強を続ける場を与えてもらえるのは恵まれているのだろう。大学では出会いに恵まれた。それまでも本だけは読んでいたので大学という場所は私にあっていた。季節ごとにいろんな姿をみせる小さな森の図書館でいつも過ごした。ずっとじっと静かに本と。

ゆっこちゃんは幼馴染で怖いことが起きる世界にいたけれど私のことを守ってくれた。「あみはやめときな」全く無駄のない言葉だった。彼女がいえばそれが正しいと思えたしそれは実際に正しかった。

何かをしている人に対して「何もしてないじゃん」と言いたくなる人に「何かしてる感しか出してないじゃん。その人あなたに関係ないのにわざわざさ」といったらどれだけ自分が「良い」ことをしているかを説明してもらえるのだろうか。「何もしていない人ほど言葉でそれを埋めていくんだよ」っていったら黙ってもらえるだろうか。ゆっこちゃんの静けさをあげたい。私もほしい。

空をきれいと思う。好きな人を好きだと思う。怖いものを怖いと思う。汚いものは汚いという。そのままを言葉にしていくなら饒舌さなど必要ないはずだと私は思う。

今日は韓国、台湾、インド、オーストラリアの精神分析家や候補生が集うカンファレンスに参加する。ふだんづかいしていない言語でどこまで表現できるだろうか。できるだけそのまま感じそのままいえたらと思う。

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学会シーズンの朝

昨日は雨風が強い時間に移動時間が重なって大変な目にあった。濡れて寒かっただけだけどどっちもつらかった。夜は暖房をつけっぱなしで眠った。起きたら足元が寒い。私は寒がりすぎるけどそれなりの対策してこれだから暖房器具の発展をいつも待ち望んでいる。人間っていろんな姿勢になるから姿勢に応じた暖房があるのね、とこれまでの私の暖房器具体験について書き出してしまいそうだけど書く意味は特にない、まあそれを言ったら毎日書いていること全てに特に意味はない。

学会の発表原稿が揃った。シーズンですね。私は討論のための原稿を作らねばです。発表のひとつが英語なので自動翻訳に助けてもらいながらざっと読んだ。登場する文献は私が好んで引用する文献とほぼ全て重なっているけど「うーん、こう読むか」と思った。私の読み方の間違いか私(と自動翻訳)の翻訳の間違いである可能性があるからどちらもチェックしないとならない。難儀じゃ。

その前にも英語を使わねばならないけど先方からネイティブではない私の不安を和らげてくださる長文メールをいただいた。とっても嬉しかった。でもこれに返信をしなければ・・・なのだった。「・・・」はもちろん「英語で書くのか・・・」である。あ、また「・・・」で終わらせてしまった。言葉にならない気持ちに終わりはない。

さまざまなニュースに思うところはあれど(特に戦う人を嘲笑う戦わずして勝っているつもりの人の心性について)10月はひたすら精神分析。そろそろ待ちくたびれていたウィニコット『情緒発達の精神分析理論』の新訳にして完訳『完訳 成熟過程と促進的環境』(岩崎学術出版社)もようやく登場。学会直前なので私の原稿は古いヴァージョンの翻訳に助けてもらうことになるが大矢泰士先生の翻訳での出版は大変ありがたい。

あ、洗濯物が。チャーラララーチャーラララー♪の音が聞こえた。何度も書いてるけどなんで音楽にする必要があったのか。思わず一緒に口ずさんでしまうけれど。洗濯物を干すモチベーションがそれによって上がるわけでもなかろう。いや、上がるのか。データとかとってたりして。そんなことを言っている場合ではない。干そう(これだけだといろんなものが思い浮かぶね)。そして読もう。書こう。

今日も一日。お天気どうなのかな。とりあえず寒いから風邪とかひかないようにお大事にお過ごしくださいね。

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ウィニコット「対象の使用」について

『遊ぶことと現実』に収められた「第6章 対象の使用と同一化を通して関係すること」を再読。小児科医で精神分析家のウィニコットが1968年、NY精神分析協会で行った講演が翌年IPAジャーナルに掲載され、こうして書籍にも収められた。ウィニコットのこの講演はアメリカの精神分析家に受け入れられなかったという。ウィニコットはこの論文で「対象と関係すること」という概念と密接に関連する「対象の使用 use of an object」という概念を俎上にのせた。なぜ受け入れられなかったのか。この論文を読めばわかるだろうか。

読む。

ウィニコットはすでに晩年を迎えていたが、近年になってようやくできるようになったこととして解釈を待つことの意義をまず強調する。ウィニコットはフロイトよりもずっと幅広い病態、特に境界例と精神病患者から多くを学んだ。「答えをもっているのは患者であり、患者だけである」という原則のもと、彼は解釈の作業と関係する「分析家を使用する患者の能力」について論じ始める。

彼がいうには、解釈すること(making of interpretations and not about interpretations as such)は自己分析と精神分析を区別するものであるが、それが効果的であるかどうかは「分析家を使用する患者の能力」「分析家を主観的現象の領域の外側に位置づける能力」が関わっている。

ちなみにウィニコットのいう主観的現象とは原初の対象がまだ「私ーでない」(not-me)現象として切り離された「対象」ではなく赤ちゃんが創造した主観的なものである段階の現象である。その段階の授乳では赤ちゃんは母親の乳房からではなく自分自身からのんでいるのであり乳房はまだ分離した対象ではない。

この論文は後期のものであり、主観的現象という用語のようにウィニコット理論における基礎概念はある程度共有されたものとして論じられている。ウィニコットはここで新しい概念である「対象の使用」を既出の概念である「対象と関係すること」との対比で論じようとするが説明は少しずつ慎重になされる。

「対象の使用」とは精神分析場面では「分析家の使用」のことである。分析家は授乳する母親や教える人とは異なり「分析家を使用する患者の能力」を前提としていない。分析家は患者にその能力がない場合はそう認識する必要があるのだ。ウィニコットは精神病状態にある患者にその能力がないことを認識せず漫然と治療を続けた場合にそれが招きうる深刻な事態を記述し「精神分析は生活様式ではない」と断言する。分析家は分析の作業が終われば忘れ去られる存在だからだ。

ウィニコットが「この論文で述べようとしている局面とは、すなわち、自己ーコンテインメントや主観的対象と関係することから離れて、対象の使用の領域に入っていく動きのことであるp121」。ウィニコットは対象と関係することが対象の使用の前提であり「対象は、使用されるためには必ず、投影の集まりではなく共有された現実の一部であるという意味において現実(振り仮名はリアル)でなければならないp122」という。ウィニコットは環境的な要因を排除したがる精神分析家たちに「もう逃げ道はない」という。「分析家は対象の性質を、投影としてではなく、そのもの自体として考慮に入れなければならないのである」。

対象を主体の体験とする対象と関係することから対象を外的現実の一部であるとする対象の使用へという継起は「成熟過程だけによって自動的に生じるものではないp122」。ウィニコットは対象の存在を「ずっとそこにあったという属性の受容という観点からでなければ記述できないp122)という。そしてウィニコット理論の中心的な考えである「移行対象と移行現象の概念における本質的な特徴は、逆説(パラドックス)と逆説の受容である」ことを読者に思い出させる。「その逆説とは、赤ちゃんが対象を創造するけれども、しかし対象はもともとそこにあって、創造されるのを、そして備給された対象になるのを待っていた、というものであるp123」。そして私たちは赤ちゃんに対して「あなたがそれを創り出したの?それとも見つけただけなの?」と尋ねたりしない。

以上がウィニコットが対象を使用する能力について述べるために述べた前置きである。

ウィニコットは高校時代にダーウィンから強い影響を受け、精神分析の訓練に入ってからはフロイト読解はもちろん、クラインとの密な関係においてその理論を消化しつつ、自らの臨床経験に基づいてオリジナルな理論を打ち立ててきた。二人の精神分析家との分析には満足がいかなかったらしい。

ウィニコットは個人と環境の相互作用において個人が環境に適応しようと奮闘するのではなく、発達最早期には環境である母親が「原初の母性的没頭」によって能動的に赤ちゃんに適応しようと奮闘する様子に光を当てた。ウィニコットには精神分析が排除してきた環境としての母親の役割を見過ごすことはできなかった。それは彼が小児科医として多くの親子を見てきたせいもあるだろう。ウィニコットが環境としての母親(=分析家)に対して与えた役割は「主体による破壊を生き残る」ことである。「対象の使用」を俎上にのせたこの論文には対象と関係することから対象を使用することにいたるプロセスで対象が破壊され続けながらもその破壊性を生き残る様子が描写されている。それが共有された現実を創造し、主体はその現実を使用する。これらの循環によって個人は私以外(other-than-me)の本質を主体にフィードバックできるのである、とウィニコットはこの論文の最後で述べている。循環というのは私の言葉だが。

学会でウィニコットの概念について話す必要がある。読むだけなら楽しいのだが・・・・。まあやるしかない、と言い聞かせつつ。

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雨やだな。気が重い。頭も重い。だるい。どんよりする。という文字が目に入ってくる朝。私も今日の雨は憂鬱。

後ろめたいことがあるときにしがちな振る舞いについて話していた。隠しておきたいことなんてすぐにバレるのにね、と笑った。相手の気持ちがわからないからどうしていいかわからなくてパターン化しちゃうのかな。色々工夫してるつもりなのかもしれないけどなんでそれでどうにかなると思えるのかな。ほとんどこっち頼みなんだろうから知らないふりしてるけど子供じゃないんだからさ。自分が後ろめたいだけなのに防衛的になられるとこっちが悪いことしてる気分だよね。この前さ、うちの子が嘘ついたの。すぐわかっちゃうんだけどね、こっちには。しばらく知らないふりしててあげたんだけどこれはちょっとというところで言ったんだよね。そしたらすごい怒ってぶってきてさ。ママのためにせっかく隠しておいてあげたのにくらいなこと言って。えー、かわいい。そういうのは小さいうちだよね。こっちは大人だからもううんざりなんだけど私もマゾっぽいところがあるからさ。わかる。ペアの問題だよね。

こういう会話もパターンがあるからいくらでも思いつくし実際にあるわけだけど当人たちはそれぞれ辛いわけでそれをこうして話すことで少しだけ生き延びる。毎日はその連続。今日は特にだるいかもだけどそれぞれ少しずつ生き延びよう。

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子供

寒い一日だった。反射的で心ない言葉には心が寒くなる。意図も聞かず勝手な解釈をしてはねつけたくなるときは自分で自分を守らねばならないくらい余裕のないとき。そんなに余裕がないなら休めばいいのにというのは外側からの意見で余裕があると色々考えなくてはいけないことに気づいてそれはそれで嫌な人もいる。薬で眠ってようやく自分の余裕のなさに気づく余裕ができる場合もある。余裕をもつって難しい。

子供に育てられる、というけど子供がいると一番大変なのは自分の都合より相手の都合を優先しないと実際に危険が生じることだと思う。自分の食べ物、自分の睡眠、自分の身体、自分の時間、それまである程度コントロールできていた自分の色々が否応なく奪われたり侵食されたりしていく。もちろんそれは子供のニードへの反応だし、子供にも奪う意図などないけれど気持ちはめちゃくちゃでどろどろになって疲れ切って半分以上発狂したりする。それすらかなり我慢しながらだけれど。ケアの文脈は狂気の文脈でもある。これを体験したからこうなる、というわけではないけれど自分を差し出しながら自分として生きていこうと奮闘する毎日は大変すぎる。たくさんの支えがあればいいと思う。

小児科医で精神分析家のウィニコットは”Mature adults bring vitality to that which is ancient, old and orthodox, by recreating it after destroying it.”というようなことをいった。原著が見当たらずメモしかないけど”the family and emotional maturity”という論文において。まさに子育てを通じて成熟していく大人の体験そのものといえるかもしれない。

ウィニコットは最初の妻との間にも二番目の妻との間にも子供がいなかった。死ぬ間際まで続けた臨床が同じように巻き込まれる体験として子育てと重なる部分はあったかもしれないがウィニコットの場合、何かをしないこと、しなかったことの方へ注意をむけていると思う。

ウィニコットが1968年、NY精神分析協会で行った講演は翌年のIPAジャーナルに掲載された。『遊ぶことと現実』に収められた「第6章 対象の使用と同一化を通して関係すること」がそれである。

すでに晩年を迎えたウィニコットのこの講演はアメリカの精神分析家に受け入れられなかったという。ウィニコットはこの論文で「対象と関係すること」という概念と密接に関連する「対象の使用 use of an object」という概念を俎上にのせた。

ウィニコットはそれまでの豊富な精神分析体験から解釈を待つことの意義を強調し、「答えをもっているのは患者であり、患者だけである」という原則のもと「分析家を使用する患者の能力」を見出した。

当時NYの精神分析コミュニティには通じなかったかもしれないが全員が全員そうというわけでもなかっただろう。私は今になってウィニコットのいいたかったことがわかる気がしている、と一気に論文の中身を省いて書きたくなるがもう遅い、時間が。夜中だ。どうかみなさんの夢がなにかしらの仕事をしてくれますように。少し楽に目覚められますうに。

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行為

今日はいろんな鳴き声が聞こえるな。秋だな。色とりどり鳥とりどり。

酒井泰斗さんの読書会ツイートが面白い。読書会といってもいろんな活動の中からそれを取り上げて分析してみよう、ということなので彼のメソッドを使用できれば行為分析とは言わないのかな、振る舞い分析は私たちの用語か、なんていうんだろう、さまざまな実践を成立させている論理がわかるという感じかな。

そのためにはまずその行為(としておこう)はなにかというところを分析したい。「あなたの感想でしょ」って言葉は流行ってるの?なんかTLで流れてるのを見たけど。文脈知らないけど、話し合いのときに「質問というより感想です」とかいったりするでしょ。自分でいっててもこれ別に何か応答求めてないや、対立点が特にない、と喋りながら思って「感想です」といったりする。

私もそのうち、訓練が終わったらエスノメソドロジー研究会とか出て勉強したいし読書会も出たいけど時間がない。教え子(子ではないけど)たちにもおすすめしたけど多分まだこういうことの重要性がわかっていないからそんなに必要と思わないだろうなあ。

私はこの技法は有効だと思っているのでツイートを追いつつ準備。ツイート自体に一貫性があるというか内容の繰り返しがあるから少しずつ「あ、こういうことか」と読書という行為に関する知識が増えていく。教え子たちにおすすめするときは酒井さんのWebサイトとかそのまま紹介してしまうとそれだけではだめなんだよね。「一緒に参加しよう」とかならいくと思うのだけど。見通しの立たないことってとっつきにくいのかもしれないけどまずはとっついてみないと見通しを立てる行為を始めることもできないのでそこはなんでも最初の一歩が必要ね。

何かこねくり回して考えるよりも与えられたものに素直に取り組んでみる、あれ、と思ったらチェックして、また戻る。いちいち止まらない、引っかからない。そのまま聞きながら患者の言葉の動きを読んでいく感じが初回面接っぽい。自分の気持ちを動かしたり相手の気持ちを想像したりするのはあと、まずはそのまま聞く、もちろん臨床場面では巻き込みが生じるから読書とは異なる行為だけど行為を分析する仕方は対象はなんであれ変わらないと思う。まあ、私もきちんと勉強してないからこういうのも印象に過ぎないけどね。今後教える立場が増えていってしまうのだろうからいずれしっかりやりましょう。

今日は寒くなるみたいって昨日聞いたから服装気をつけて風邪ひかないようにしましょ。

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ふり

どうして「自分は別」と思えるのだろう。それはそう思える環境を作っているから。そういう自分を守ってくれない相手は突き放せばいいだけ。簡単簡単。

簡単?マニックに乗り切れるうちは。その小さな王国の内側で戯れているうちは。

裸だよ、あの人。そんなこといっちゃだめ。ほんとのこというと嫌われるよ。

でもそれって「本質は」とかいうやつでしょ。その人を見てたわけじゃないから気づいたんでしょ。なんでも口にしちゃうのはそれが何であるかなんて気にしていないからっていうのもあるでしょ。ってことはその人が誰だか知っていたらそうは見えなかったかもしれない。わかったふりってよくないことみたいにいわれるけど世界ってそんな確実じゃない。曖昧だもの。わかったふりから始めるしかないんじゃない?

覚えてる。あなたがはじめてお城の絵を書いたときのこと。囚われたとはいわないけどそう見えたお姫様のこと。家も定まらない、親も定まらない、この世界のどこに定点を見つければ?どこからスタートすれば?あなたの書いたお城には大きな門があった。「囚われたほうが幸せじゃないの?」あなたは言った。

自分はあんな人たちとは違う。そうかもね。そしてそうじゃないかもね。自分は特別ではないけどそういう奴らとは別?そうかもね。そしてそうじゃないかもね。正直どっちでもいい。どうして比べる必要が?堂々と誰かを好きになって堂々と誰かを突き放せば?そういう奴らと違うのならきっと大丈夫だよ。その罪悪感に耐えられずなにやら曖昧なものをまとってしまうのも私たちだし。

あなたが私に向けた敵意。「お前に何がわかる」。わからない。あなたが私を他の大人とは違うと認識した途端あなたの怒りは強まった。「あの人、裸だ」そういえなくなった。無邪気さは特定の対象として見ていなかったから。環境は自分で作れると思っていたから。

空想。現実。夢。現実。現実がいつも少しだけ優勢。今夜はどんな夢をみるのかな。今日を消すことも明日を消すこともできないけれど。

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三日月

夜遅くまで「心を無にしてがんばるんだ」と書類を作っていた。「心を無に」は全くできなかったけれどある人のデータ整理の仕方を真似したいなと思っていたら全く別の形式なのになんとなくうまくいっていつもの半分くらいの時間でできた。帰り道、坂道の向こう、西の空に大きな三日月が出ていた。「三日月なのに大きいなあ」と思ってから「三日月でも大きいか」と前の晩と同じことを思った。

今朝は秋川渓谷のおみやげのおやきを食べている。トースターで温めてカリカリ。つぶあんとカボチャ餡を半分ずつ。秋だねえ。秋川渓谷だけに。私は学生時代、檜原村の施設で重度の自閉症の人たちと週末を過ごしていたのであの辺は懐かしい。彼らは私と同年代の人が多く、当時は20代。女性はひとりだけだった。彼らとドライブして温泉のお土産さんに入ったことはあるけど温泉にはいったことがない、そういえば。温泉は難しかっただろうなあ。彼女との入浴は私が担当していたのであれこれ思い出す。大パニックも彼女の鼻歌を真似してなんとなく穏やかな時間を過ごしたのも懐かしい。山の中をよく散歩した。迷ったときも地元の人が助けてくれた。地元の人はここの施設の人たちだと知っていてくれたので彼らがパニックを起こすこともなかった。食べ物が導く記憶はなんとなくいい感じだな。一方、重度の障害者に注目が集まるのはよくないニュースの時が多く、そこにどんな人たちがいて何がされているかは知られていない領域だ。毎日ひっそりと暮らす彼らや彼らと過ごす職員さんたちへのサポートに関する研究と実践が積み重ねられていくことを強く願う。

今晩も三日月が沈むまでには帰れるだろう。週末は英語を話さなければならなくてこんなのでマジでどうするのと思っていたけれど同じグループに仲間が振り分けられていてとっても安心した。彼らが通訳してくれるわけではないけれどいてくれるだけで嬉しい。

今日もいろんな思い出や気持ちを支えにがんばりましょうかね。東京は爽やかないいお天気ですよー。遠くのみんなも元気でね。あ、遠くの人にお返事するのを忘れていた。今思い出しました。こういうこともあるけどなんとかやりましょ。

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いくつになっても

ふぞろいみかん、ちょっと味がうすい。この時期のみかんはみんな早生みかんっていうのかな。保育園の早生まれの子たちは今日も元気かな。きみたちが大人になる頃には私はもうおばあちゃん、というかすでに保育士の母、きみたちの祖母みたいな感じで保育園にいるけど、今日もみんなのこと考えますね、みんなで。

先生たちは誰が泣いているか遠くからでもわかる。「○○ちゃんだ」私もあゝあの子か、と小さくてパワフルなあの子を思い出す。「この時間は一度電池切れになっちゃうんですよね」そうかそうか。3月生まれだしね、と思う。その子のお兄ちゃんのことも思い出す。あの頃はまだあなたは生まれてなかったね。話しながらその子のいる部屋へいくと保育士に抱っこされて指しゃぶりをはじめてた。眠いね。

みんなこんな小さいのに自分がしたいこといっぱい止められたりできない時もあるだろうけどそれはまだみんながこんな小さいからでもあるんだ。でもまだわけわからないよね、泣いたり怒ったりしちゃうよね、ごめんね。こっちも大人のやってることが本当にきみたちに必要かどうか考えるからとりあえずトライしてみてね、なんでも。大人になっても泣いたり怒ったりすると負担がられたりするからわかる気がするよ、みんなの気持ち。嫌だよね。負担だろうけどなんでそうなっているのか考えてほしいよね。私もこの歳になっても愛情というものがよくわからないけれど突き放されず特別に大切にしてもらえる体験ってこの世知辛く理不尽な世界でもうダメかもしれないと思ったときにきっと助けてくれる。私たち大人ががんばることだよね。

あれは2010年、震災前。あの子のお兄ちゃんもまだ生まれていなかった。震災はいつからかこうしてその前その後の目安となったがあれからずいぶん時間が過ぎた。

愛情のようなものをめぐってどう考えていいかわからなくてでもそれに囚われている場合ではなくてでもどうにもできずにいたとき、その頃のことを思い出した。思いが通じたようなあの日のこと。今はとても穏やかに笑いあう私たちだけの時間。どんなにもやもやしても相手は変わらないだろう、変えていくならお互いに。でも本人が困っていない限り変わる必要はないのだから、とぐるぐる考えながらいずれくるなんらかの諦めに向かう。当時すでに若くはなかったが私は人というものをよくわかっていなかった。今もわからないけど当時よりはずっとよくわかる。いろんな人に教えてもらってきた。今だったらできると思うことを本当にできるかどうかといったら相当怪しいけど。まあそんなもんだ、くらいには思うようになった。

あの漫画はなんだっけ。題名が思い出せないけど密やかで静かなやりとりをすることももうないけれど幻滅し傷つけあった日々もこえた。大切に想い想われることの積み重ねのなかにあなたもいた。変われる私たちでよかった。

でもまた同じこと繰り返してるよ、と苦笑いする。森を抜けて高速を見上げ地下道へ。私たちだけの時間。言葉にすればよかった。でもできなかった。でもありがとう、出てきてくれて。こういうのは記憶力じゃないんだね。

「先生は無意識が助けてくれるってよくいうけどなんか今日少しわかった気がしました」と言われた。文脈ないと怪しい言葉だけど分析コミュニティでの会話。うん。こんな感じの想起もそう。分析受けはじめてからしばらくは「無意識怖い」だったんだけどね。今はあるかないかわからないけどなにかがんばるより無理ないし委ねたほうが安全って思う。自分が一番信用できないってことあるもの。こうして変に色々考えたり自分に向かないこといっぱいしちゃうんだけどね、いまだに。「まあそんなもんだよ」とあなたはいうに違いなくて私もそう思う。どうなることやらなんだよ。悲しくて苦しくて辛いんだ。でもこれもあなたと経験してきたこと。いろんな人と経験してきたこと。なんとかなるよね、なんとかなってきたから。

はああ。大人になっても泣いたり怒ったりするんだよ。でももう大人だから自分で考えないといけないことも多くてさ。結構大変だけどお互いがんばろう。できるだけみんなが無理をせずほしいものをほしい、得られないとしても願うこと、諦めること、でも別の何かが得られたりすること、そういう体験を積み重ねていけることを願うしできることをするね、みんなで。

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いろんな一日

思いがけず伝わってしまった。「えーわかってくれるの!?」と思ってしまった。もちろん嬉しかったが、なぜということを考えてしまうのがこの仕事、多分。

私の描写のどの文脈が共有されたんだ、と振り返ってみる。今回はいつもは生じにくい少し離れた人が自然にやりとりに参加する場面もみられた。たしかにいくつかの準備的な要素が思い当たる。

精神分析的心理療法において転移の文脈が動き出す前、多少は動いてるとしてもそれが優勢になる前になされる初回面接をエスノメソドロジーを用いて検討することは初心者を教えるときに有効なのではないかとお世話になっている先生に話した。先生は「ありかもね」といった。私は酒井泰斗さんがいろんなところで紹介しているものを読んでいるだけなので時間ができたら勉強したいと思うがなかなか難しい。

でも多分説明に有効だ。私の理解する限り、エスノメソドロジーは現象を部分や個人のものとしない。普通に考えれば当たり前じゃないかという話なのだがこちらとあちらを相互独立的ではないものとして記述するのはなかなか難しいのだ(なかなか難しいことばかりだな)。

しかしちょっと考える。どうして人間ってこうやって情報処理したくなってしまうのかしら。なんでわかりたくなっちゃうのかな。そうしようとすれば必ず自分ルールを持ち込むことになるからきちんと勉強してからのほうがいいのに。言い換えをするってそういうことだと思うし。でもまあそういうわかっていないくせにという前提のもとに書こう。

ちょうど今日話していたのだけど「それってこういうこと?」というのだって文脈からなにかとりだしたつもりで埋め込まれにいってる側面があるわけでなにかを明確にするためだけの作業ではない。次への準備的な作業でもある。そういう構造を知っておくことは初回面接に役立つのではと考えている。臨床の場合は症状や病理を伴う相手との相互作用だからその見立てと並行したフォーミュレーションになる。するとかなりパターン化された作業とそうでない作業の両方ということになるか。こうやってあれこれ文脈とか構造とか意識すると「あー、そこだとそうなるかも」とかいう一言に含まれるものが次を作ったりもする。終わりなき作業をどこで区切るかという話も出てくるわけだ。面接の場合だと時間ですかね。

今書いたのはどちらもアクションを起こしている場合の相互作用だけどそうでないものもある。

横断歩道の向こうで怒鳴り声があがってみんながそっちを振り向いた。私も。そこに一台の自転車が猛スピードでやってきた。私のほうへ。動けずにいる私に自転車の人は「どけよ!」とどなり私にぶつかるようにして電話を手にし「もしもし!!」と怒鳴り声をあげながら走り去っていった。あっという間の出来事で私は顔色を変える余裕もなかったのか落ち着いたような変な気持ちでいた。そばの男性が気にした様子で私をみていた。

こういうときはもう文脈とか構造とか考えられるって余裕があるってことだよね、男の人はいいな、とか思ってしまったりする。一気に気持ちがちぢこまってしまう。女性の被害という問題を記述するときってどんなだろう、というさっきまでの感じで考えられたらいいのだろうけどそんな力はどこかへいってしまう。とりあえず仕事だけはしよう、とりあえず家事だけはしよう、とこれ以上できることが狭まらないようにとなってしまう。「わかってもらえてうれしい」という気持ちもどこかへいってしまう。今はこうして思い出せたけど。

勉強、仕事、遊び、食事、睡眠、一日の間にはいろんなことがあったりなかったりして感じ方も一気に変わったり変わらなかったりして何も意識せず過ぎている日もあれば眠れずに忘れることもできず引きずり続ける出来事もあったりする。人間って難しい。生きてくって難しい。みんな今日はどうだったんだろう。このあともまだまだ長いという人もいいことあったからこのまま寝てしまいたいという人もまた明日かどうかはわからないけどまたね、という気持ち。

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ウィニコットの言葉

あくびばかりしている。外は明るい。麦茶が減らなくなってきた。水分を意識してとらないといけない季節。

昨日は日本精神分析協会の定例のミーティングがあった。世界中の精神分析協会がそういうことをやっている。

定期的に会うというのは大切なことでそれで足りなければ臨時で会を開催することになる。

たまたま手元にあったジョージ・マカーリ『心の革命』(みすず書房)をぼんやり読んでいた。

多くを破壊され追放され失いながらも死ななかった精神分析の戦後についてこの本は詳しい。

戦争による大量の亡命は精神分析の地政学に変化をもたらした。

英国精神分析協会ではウィーンとロンドン、つまりフロイト(アンナ・フロイト)とクラインをめぐる大論争へと発展した。

その結果、英国精神分析協会における訓練は3つのグループによってなされることになった。

精神分析のコミュニティとは、科学的自由とは、という問題は日本で精神分析的な臨床を試みる人たちの間でもアクチュアルだろう。

さて、この論争の詳細はThe New Library of Psychoanalysisシリーズの一冊”The Freud-Klein Controversies 1941-45” Edited By Pearl King, Riccardo Steiner(1991)に全て書いてある。大著。

『心の革命』にも引用されているこの大論争におけるウィニコットの発言は印象的だ。

1942年3月11日、The Second Extraordinary Business Meeting(第2回臨時総会)においてウィニコットは単にフロイトを信奉するのではなく科学的であることの重要性を

Freud would not have wished us to limit our search for truth,

フロイト教授は「真実の探究の幅を狭く」したかったわけではない、(652頁)という言葉で示した。

この日の議長はDr.アーネスト・ジョーンズ、出席者は以下の25名である。

Dr Glover, Mrs Klein, Dr Rickman, Mrs Riviere, Mrs Isaacs, Dr M. Schmideberg, Dr Wilson, Dr Friedlander, Dr W.Hoffer, Dr Weiss, Dr Herford, Miss Freud, Mrs Burlingham, Miss Low, Mrs H. Hoffer, Dr Lantos, Mrs Ruben, Dr Franklin, Mr W.Schmideberg, Dr Winnicott, Miss Sharpe, Dr Gillespie, Dr Thorner, Dr Heimann

錚々たるメンバーがどんな立ち位置から何をいったのかを追うのは興味深い。歴史は重要だ。記録も大切だ。

ウィニコットはこの発言の冒頭、I implied that the present chaotic state would be healthier than order resulting from any agency other than pursuing a scientifc aim. といっている。

そして科学的な目的とは何か、についてこう説明する。

What is this scientific aim? The scientific aim is to find out more and more of the truth, I was going to say, to seek fearlessly, but the question of fear and fearlessness must be left out of the definition. We as analysts should know better than most that some fear of truth is inevitable. Playing the scientist can be quite a good game, but being a scientist is hard,.

クラインはこの発言に賛同した。ウィニコットはクラインに師事したからそれを擁護するのは当然と思われるかもしれないがウィニコットはインディぺンデントであり誰かを信奉するよりも自らの臨床体験から精神分析を科学的に探求した人だった。だからフロイト信奉者よりもクラインを支持すると同時に二つに分裂しそうな協会にカオスであることの重要性、真実に対する恐れは避けがたいが探究を続けなくてはならないと語りかけ第三の立場として機能した。ウィニコットの発言を受け、クラインもフロイトを引用してこういった、と続けて書いていきたいがまた今度。

今日もカオスかもしれないがそれぞれの場所でどうぞご無事に。こっちはカラスが大きな声でなきながら通り過ぎましたよ。飛べない私たちは地道にいきましょ。良い日曜日を。

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めんどくさい

久しぶりに顔をみて変な一時停止をしてしまった。「あれ?髪伸びた?」「みんなにいわれる」髪は伸びるものなので変な会話だがこういう会話をした。近況報告といってもお互いほぼずっと仕事をしているだけだから「特に変わらないね」「そうだよね」。日本やばくないかなどといいながら、そもそも自分たちの年代でこれってやばくないか、という話をいくつもした。主に男女関係の。「それは私たち的にはひくよね」「うわー、熱い、若い」「自分から拗らせにいってるね、それは」とかいうところの基準が同じで安心した。

私たちの会話は若い頃と比べて「うわ、めんどくさ」という言葉が増えたと思う。私たちの優先順位と私たちが「めんどくさ」と感じるものや人の優先順位は異なる。そのめんどくさい相手や事態にどのくらいエネルギーをさくかという類の話をよくしている気がする。「我が子ならともかく大人の甘えは時々すごくめんどくさいよね、余裕があるときはいいけど」など。

短時間だったけど話せてよかった。「やっぱり直接話さないとね」とたくさん笑ってたくさん手を振って別れた。慌ただしくて美味しいお茶を残してきてしまったけど楽しかった。それにしても直接あっているときの情報量はすごい、と実感する。またすぐに会いたいけどまたしばらく会えない。大人になると一年に一回会えれば会っているほうとなったりするけどどんな頻度でも実際に会って話す機会がこの先もずっとあるといいな。いつ何が起きて会えなくなってしまうかわからないけど。というか同年代の私たちはもう老後を意識した語りをするようになっていた、そういえば。お互い一人だけで営んでいるこの仕事をいつまで続けることができるんだろう、という不安もあるがそれを共有する相手がいるのは幸せなことだろう。

10月は発表が多い。準備は常に不足している。以前だったらもっと焦ったであろうことに「これぞ身の丈いつものこと」と落ち着いてはいるがやばいかもしれん。今日から明日からがんばろう。でも発表が多いということは会う人も多いということ。それは楽しみ。久々にオンラインではない句会はちょっと変わったメンバーで別のアルゴリズムができそう。

しょっちゅう書いてるけど何があっても回復しよう。時間をかけよう。めんどくさいけど落ちても落ちても少しずつ少しずつ。

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戦い方

玄関を出ると金木犀の香りに包まれる。駅に着くまでにも何度も。行く先々でふわっとかぶさってくるその香りを見上げ小さなオレンジを探す。不思議とそばにはいない。あちこちを見上げながらふらりふらりと歩く。いない。かと思えば太陽の光にオレンジが薄くなっただけですぐそばにいたりする。毎年「金木犀」とつぶやく友人がいるのだけど今年はすごく早かった。同じ都内に住んでいるはずなのに、と私もその香りを探した。でも出会えたのはここ数日。待ち望んでいる人の感覚は鋭い。

昨日、元陸上自衛隊員の五ノ井里奈さんの訴えが認められたというニュースを見て一気に涙が出た。まだ20代前半の女性がここまでしなければならないこと(ならなかった、とは書けない)、そして今後も彼女に投げかけられるであろう言葉の数々をたやすく想像できてしまうことがとても悔しく悲しかった。

女性の性が蔑ろにされる事件は彼らが声をあげない限り事件とはならない。目撃者が多数いたとしてもだ。いじめもそうだろう。弱い立場がなぜ弱いか、なぜ弱いままか、といえば声をあげても聞いてもらえないからというのがひとつだろう、というか実際は弱い立場と言われる人たちが全ての面において弱いわけであるはずはなく、ただ、それ以外を考える力をどんどん弱められていった結果、分別できるほどの差異が生じ、それを二分法で言葉にしたい人にとってはこう、ということかもしれない。私もそうしたい人かもしれない。本当はそうしたくないのに。

AさんとBさんというように個人対個人であったとしてもそこにはたくさんのスティグマの芽がすでに撒かれている。たとえば女性と男性、貧しい人と裕福な人、子供がいる人といない人、知識のある人とない人、声をあげやすく、かつ声を聞いてもらえやすいのはどちらだろうか。

どちらだろうか、と聞かれたらパッと答えてしまうだろう。やはり私たちはとても二分法的な世界でその差異を自明のものとして過ごしているように思うがそうでもないだろうか。私はやっぱりそうみたいだ。自分で自分をどちらかの立場にたやすく振り分けてしまうことにも自覚的でありたいのだけどそれもいつも難しい。

五ノ井里奈さんのニュースの続報をみるたび胸が痛む。これは「解決」などではない。最低限これだけはしてもらわねば個人の尊厳が守られないという水準の行為だと思う。その背景に様々な事情が透けてみえたとしても「弱い立場」の人の言葉がそうではないと見なされている人の行動を導いたという事実は大きい。五ノ井さんが実際に何を感じ何を思っておられるかは全くわからないが、彼女がここまでして守ろうとしたものが本来なら当然守られるべきものであったと考えるとまた涙が止まらなくなってしまう。

私も個別に彼らと会う仕事を続けながらずっと思っていつつなんの寄与もしていないのでいつも口だけと言われても仕方ないが書く。

今回に限らずだが、女性の性が蔑ろにされる事件のときに、当事者がTwitterアカウントなどを用いて個人として戦うのではなく「これは女の問題であり男の問題でもある」と当事者を矢面に立たせないための男女関係ないし集団を作り戦うことはできないだろうか。もちろん支援団体や支援者はすでにいるし私もそのひとりだがそれより早くこういうときに素早く集結して当事者をどうにか弱体化させようと躍起になる何をいってもいいと思っている人たちからの注意を分散させることはできないだろうか。そのときに女性だけではやはり難しいと思う。「弱い立場」として勝手にまとめあげられ弱体化を狙われるだろう。経験的にそうだがどうなのだろう。

私はこういう考えなので五ノ井さんご自身のツイートや関連のニュースをRTする気になれない。彼女に何かを任せてしまう感じがするからだ。そこに注意を集めてしまうことに加担したくないからだ。孤独ではなく、でもひとりでゆっくり考えたり何もしないでいられる時間と場所、それこそ金木犀の香りに気づき、ぼんやりその姿を探せるような余裕を大切に思うから当事者がそれを得られる方法を考えていきたい。

それぞれの戦い方があり良い悪いの話ではない。私だったら、ということだけ書いている。私は反射的に動くと失敗するので時間をかけて動きたいのだ。だからまずはこんな感じで考えている。でも誤ったパラフレーズはよくないので日々会う人たちと話し合ってみる。今後も彼女に力をもらい語る人が出てくるだろう。この戦いは終わらない。間違いなく終わらない。だから助けてくれる人がたくさん出てくるといいと思う。異なるパースペクティブから状況を照らしいくつかの形に解体し時間との兼ね合いで効果的に動ける部分を同定していく。そのためには様々な人が必要ではないだろうか。いつも考えてしゃべって心揺さぶられるときだけ思い出すだけみたいになっているのは現状維持に加担しているだけのような気がしたので書いてみた。

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言葉を奪われる取り戻す

読書会が終わるともう深夜。オンラインなのでそのまま寝ることもできる。ということでなにもせずスマホをいじりながらゴロゴロしてそのまま寝たり起きたりした。

毎日定期的にやってくる人たちの話を聞きながらいろんな気持ちになる。

精神分析には「癒し」とか「相手を信頼して」という言葉はフィットしないという話をした。彼らは世界に対する猛烈な怒りや不信感を症状に出したり世間とのズレでみせたりしながらどうにかこうにかやってきた人たちだ。治療にきて自分のうまくいかなさの理由でもあるこれらに気づくと治療は緊迫感を増す。治療者は投影先となり追体験をさせられ巻き込まれていく。そうなるようにある程度意識的なコントロールを手放して彼らから発せられる言葉とそこに潜む情緒に自ら侵されにいく。「患者はカウンセラーを信頼しているから話せる」という意味での「信頼」は精神分析とは馴染まないと読書会でいったが、カウチによる頻回な自由連想という設定に対する信頼ならある。そして患者がこの設定を信頼し時間を守りお金を払ってくれることを治療者は信頼している。すべきことは多くない。非論理的で理不尽で曖昧で耐え難い世界を言葉で再現し転移状況として治療者を相手に出来事を反復するために精神分析のシンプルで強固な設定はある。そこに何か「癒し」のような「良い」ものを与えるという発想は生まれにくい。それはある程度距離を保てる関係だから生じるものだろう。手も出さない。ものも渡さない。使うのは言葉のみだ。相手に合わせる言葉ではなくてその人の言葉。といっても言葉はどうしても正しさや人目を気にしてとても不自由。言葉を自由自在に使用しているかのように見える人でも自分のことを語る言葉となればいつもの言葉はなんだったのだろうと自分で思うほど不自由。誰かに奪われたという体験になることだってある。精神分析の場では「治療者に」となり、自分が今の言葉を使う人にならざるをえなかったプロセスが反復される。ほとんど沈黙の中にいることもある。

言葉を奪われる。「気持ちをわかってもらえない」というのはその人の言葉が奪われている状態、少なくとも本人はそう感じているということの表現だと思う。本人がそう感じている。それがどんなに辿々しくても怒りに打ち震えながらでもほとんど叫ぶようにでも表現されるときやっと治療は動き出す。言葉をその人の乗り物として、あるいは言葉がその人を乗り物として治療が動き出しても辛いことばかりだ。でもこのときすでに私たちはこの「動いた」という感覚を信頼できるようになっている。ものすごく時間はかかったとしてもどこか別の場所へいけるかもしれない、それはまるで「癒し」にはならないが希望ではある。

今日も言葉が奪われている状態からはじまる。これから先もきっとずっとそうだ。でもなんとかやっていく。それはきっと変わることはない。どこまでも落ち込んでいくときに思い出される言葉が「ずっと忘れていたけどこんなこともあったな」と少し別の視点を回復させてくれますように、と自分にも願う。奪われては取り戻す。それは意識的に頑張ればできるようなことではないけれど相手とともにいようとするプロセスで何度も生じるはず。それを感じることができますように。辛いけどじっと身を浸すように今日も過ごそう。

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プチ色々

鍵垢で一対一のやりとりを見せられている感じってなんだろう。「こっそり〜してもらいました」と言って全然こっそりじゃなくなされている「良いこと」ってなんだろう。プチナルシシズムによる葛藤なき開示。それによるプチ他害。誰に対しても同じ文句で近づきそれに反応する人と良いところだけで付き合っていく?そんなことできるはずないけどオンラインはそれができると錯覚させる力がある。幻想でごはんは食べられないけどごはんを食べる余裕のある人には幻想だけで構わないし、それで恋もできるし憎むことだってできる。私にとって今のところ利他も幻想。プチ他害をしていることに対する防衛。

鈴虫は今日もきれいな声。

精神分析は話されないこと書かれないことに関心を向ける。内輪だったら正論、薄っぺらいいつもの饒舌にプチナルシシズム、プチ意地悪、プチフェミニズム、プチ利他が混ぜこぜにされている背景を探る。そんな面倒なことをしたくない、今の状態が気持ちいい(ナルシシズムだから)人には必要とされないものだけどこれを必要として求めてくる人もいる。

沈黙している部分に注意を向ける。「これって中毒ですよね」と自分の症状への気づきを得る患者は多いがまさに。反復強迫を実感を持って表現するには中毒という言葉はぴったり。診断ではなく。特定の相手のことを考えるのが苦しいからぐるぐるぐるぐる相手を変えて反復される出来事。自分のことはとりあえず誰か相手を決めないと見えないことが多いから治療者をくるくる変えることはしないわけだけど治療でなければ相手を変えることはいくらでもできる。それこそネットの世界では無限に。AIもいるし。

悲しい寂しい苦しい辛い、少ない言葉と一緒に抱きしめていてほしい。そう願うこと、そうしてもらうことが当たり前ではなかったと気づくとき、私たちのこころは危機だ。あるべきところにそれがなかった。加害に関する論考を読みながらそれがもたらす悲劇に沈黙するしかなかった。

鈴虫が遠くなったけどさっきの一匹が分裂したようにあちこちで鳴いている。今日も私たちはプチかいりで自分を守りつつなんとかやっていくのだろうか。壊れないように崩れないように。自分も誰も信頼できないなかただそう願いながら。

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今日も少しずつ

やだもうこんな時間。昨晩、まじめに書き出した言葉が誤変換で不真面目な感じになっちゃってひとりで笑ってたのだけどその言葉なんだっけと思い出そうとするのにこんなに時間取られちゃった。しかも思い出せてないじゃん。あー。

2、3日前かな、夜、え、こんな時間に?と鈴虫が一斉に鳴き出した気がした。最初、鳥か、地震でもくるのかと思ったのだけど、これ鳥じゃないや、鈴虫だ、と思った。今思ったけど私は「一斉に」と思ったけどたまたま数匹集まって鳴いていただけかも。一匹でもこれだもの。今多分結構近いところで鳴いてるんだけどね。大きくて澄んだ声。これが数匹集まれば結構な合唱団かも。いいなあ、私なんて中学校の合唱コンクールで地声が大きいって審査員に言われてね、というか審査員っていっても先生たちか。私個人に対してではないのだけど音痴なのに声がでかい私のことに違いないって言われたし私自身そう思った。あれも秋だったのかな。この曲歌えば優勝みたいな確実な選曲だったと思うし、「合唱コン」とかいうんだっけ。なんかやたら練習時間多くてみんな熱くなってるなかそんなで優勝を逃したわけですよ。そんなんで罪悪感持ちたくないよー。かいじゅうたちのいるところみたいな曲で今でも元気に歌えりゃそれでいいじゃん、かいじゅうだぜ?みたいな気分になる。鈴虫に生まれたかった、とかは思わなかったけどこんな年取っても思い出すのだから絶対傷ついたんだと思う。マイペースでのんきなところがあったから当時そう感じてたかは覚えていないけど。むしろそういうところを暗に注意されていたとか?空気読めよ、的な。えー。

空気読めよ、っていう人いるけどお前が読めよと言いたくなるときがある。今ここでその声でその態度でそういうこというのまじでどうかしてるよと思うことがある。カフェとかで電話で相手に怒鳴っている人とか。どうして私の貴重なまったりタイムの邪魔するのー!と電話の相手が感じるであろう怒りとともにぶつけにいこうかと思うけどこんな私では戦えない。女ってこういうときほんと無力。。男性は自分の身体が発する圧力にあまり自覚的じゃない人が多いと思う。舌打ちされたり睨まれたりぶつかってこられたり(ぶつからなくても通れますよねという距離で)ちょっとした動きでこっちをびくつかせているつもりかもしれないけどそれがこちらに感じさせる圧力や恐怖を軽く見積もっていると思う。その場の衝動的な動きが相手のその先の時間にずっと影響する可能性を知らないように思う。もちろんそれをわかっていて守ってくれる人もいるわけだけどそうやって守ってもらわないと危ない身体とそれと連動する感情を持っているということは変わらない。こう書きながら男性がそうなってしまうまでのいろんな苦しさにも思いを馳せるけど私が実感を持って書けるのは自分のことだからとりあえずこっちを書くね。

それぞれが相手を脅かさない形で素直に自分の気持ちを言えてお互いに配慮できればいいのだけどそうはいかないのが人間のコミュニケーション。人二人いれば巻き込みあう。でも気をつけたり減らしたりすることはできるよね。少しずつ少しずつその場しのぎの衝動を行動以外におさめられたらこれから乗る満員電車も平和かしら。多分今日もいろんなことが起きるけど心が痛かったりざわつくときに放っておいて溜めこむのではなく手を当てる場所がわかる範囲に収められるようにその場から離れたり信頼できる人に伝えたり少し眠ったりして回復しつつ過ごせたらいいかもしれない。今日もお天気が良さそうなのは少し助かりますね。お互い無事に過ごしましょう。

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手の届く距離で

今朝は飯能のおみやげシリーズ。天覧山珈琲の「ビターブレンド」とお菓子。ティーバッグみたいに浸して引き上げる方式のコーヒーだから私でも失敗なし。ディップスタイルコーヒーというんだって。

地域の子供会の活動に自閉症児親の会の皆さんが加わって障害の有無を問わないお泊まり活動を最初にしたのはいつだったか。小さい頃から地元の仲間とのキャンプ活動に慣れている友人に自閉症の子どもたちに対する配慮を考える担当をお願いされたのがきっかけ。私が大学のときから施設やデイサービスで自閉症の人たちと過ごすのに馴染んでいたから。キャンプ自体は10年以上続けていたのにいまだに設営とか色々できないことだらけだけどそういうのはプロみたいな人たちがいっぱいいて全部助けてもらった。私は自閉症児親の会のお母さん、お父さんたちと一緒に重たい障害を抱える子どもたちが環境の違う場所で楽しめるように試行錯誤した。特にお母さんたちはすごかった。さすがだった。この子たちといってもみんなもう成人しているけど彼らが赤ちゃんの頃からものすごい大変な子育てをしてきたわけでその経験の集積が鮮やかでかっこよかった。一緒におしゃべりするのも楽しかった。

このお泊まり会は私たちがNPO化して毎年の夏のキャンプへと変わっていった。2泊3日。夜は真っ暗になるキャンプ場でテントをはって過ごす。大変だった。人間がいっぱいいるというだけでも大変なのに。ながーくやっているうちにだいぶ慣れたけど若かった私たちもそれぞれに家庭をもち仕事が忙しくなり色々あって解散した。

でもこのNPOがすごかったのはほんとうに地域に開かれた保育園を作ったかと思えばそれが認可化されるほどに整えたり、地域の人が集まれるカフェを作ってこども食堂やフードパントリーを実施したり、組織が解散しても個人がまたそれと関連した別の組織を立ち上げて実績を積んでいるところだ。組織がなくなると活動がなくなる団体も少なくないと思うが個別の力の強い組織だったのだろう。そして離れても協力関係は続く。ふと思ったけどこれだけ人が集まればそれぞれの人生に色々なことが起きるわけで私たちはそれも共有してきた。こういう協力関係の背景に静かに流れている公にいうようなことではないそれぞれのこと。外からはわからないことで私たちはつながっている。

震災後まもなく石巻へ向かったときも阪神・淡路の体験もあるNPOのみんなの行動は心強かった。私はまるで無力で、みんなは千葉で私は東京でなんか心細くなってしまって「何かあったら助けてくれる?」と聞いた覚えがある。当然みんな笑いながら駆けつける約束をしてくれたわけだけどこどもがえりしたような瞬間だった。

NPOになる以前、小学校の校庭を借りて行った一泊行事のときから一緒に活動してきたご自身も重い自閉症のお子さんを育てる西宮敬子さんは現在「家族丸ごとおたすけデイサービス(富山型デイサービスがお手本とのこと)」として高齢者や障害者、子どもたちの居場所としての宅幼老所(共生型ミニデイサービス)のオープンを計画しているそうだ。相変わらず超パワフル。お元気そうで嬉しい。

西宮さんは千葉県市川市で「おもちゃ図書館Cafe Santa(カフェサンタ)」 を運営しているNPO法人みんなのサンタ代表でこども食堂やフードパントリーも実施しておられる。2021年には第11回地域再生大賞の優秀賞もお取りになったとのこと。

今回その宅幼老所(共生型ミニデイサービス)オープンのためにクラウドファウンディングを立ち上げたそうだ。NPO仲間が作った保育園にはいまだにコンサルテーションをしにいっているがカフェサンタの方にはなかなかいく余裕がないのでこういう試みに協力していきたいと思う。

今回の水害も心配だが、地域のつながりの有無は災害など緊急事態のときに明暗を分ける可能性がある。私が自分だけ東京で心細くなったのも実際の距離の問題が絡んでいる。実際に手の届く距離でできることを支援していく政治をのぞむけど実際に行われていることはどうだろう。莫大なお金がかけられる先はどこだろう。今も水害で大変な地域に一刻も早く支援の手が届きますように。そばにいる人を大切にできますように。

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パフェ

パフェが食べたい。おいしいパフェが食べたい。デニーズへ。ロイホへ。珈琲館へ。本当はパフェ専門店に行きたいけどあまり知らないしフルーツパーラーとかいくならゆっくり行きたいしインスタとかみだしたら「ここも九州かよっ!」とか残念時間になっちゃうしさくっと立ち寄れる場所からトライ。うーん。ちょっと違うの。コンビニデザートは秋の新作もほとんど試したと思う。うん。これらは半分くらいの量で食べたい。パフェみたいにいろんな味が入ってるわけじゃないから。パフェってそれぞれの分量が大事だと思いませんか。コーンフレークが多いのはどう?私は結構好きだけど下のほうにいるでしょ。長ーいスプーンはそれ用だから途中にカリカリがほしくて下から救い上げるでしょ。そうするとなんかそればかりになってきちゃってほかの部分が崩れちゃうのも嫌なの。こう書くと食べ方の問題か、とも思うけどさ。生クリームが多いのも苦手だなあ。気持ち悪くなっちゃう。生クリーム自体は大好きだけどちょっとがいいの。アイスも小さくていいしソースも少なくていい。ぜんぶちょっとずつでいいの。ゼリーが入ってるのもあるね。私はゼリーは珈琲ゼリー以外はいまいちかな。うーん。あー急がないと食べる時間がなくなっちゃう。
私、フルーツがあればいいのかも。フルーツとあまり甘くないプリンとか買ってきて一緒に食べるのでもいいのかも。こんな注文の多い客はだったらご自分で、という話よね。うんうん。バナナだったらチョコソースちょこっとほしいな。クレープだってバナナチョコばかり食べるしお祭りだってチョコバナナだからこの組み合わせならなんでもいい気がしてきた。でもバナナ一本はトッピングには多いよねえ。おなかいっぱいになっちゃう。でもちょっと光が見えたな。自分にちょうどいいパフェを作ろう。今だったら甘栗のっけてもいいよね。あとはちょっとナッツを砕いたのとか。こういうことを考えて一日のすべての隙間時間が消えていくってどうなの、と思うけどいいよね。多層的であることについて考えていたってことで。

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あぁ、カイリね。エゴサといいねは寝ててもできるようになったからよくない?前と比べたらそんな死にたいわけでもないしバイトもいけてるし。あー、あいつにはたまに死ねよとか思うけど思う分には自由じゃん。過食も最近はしてないよ。

もう7年になります?そうかぁ、この子ももう年長だから、そうかぁ。あの状態でよく産みましたよね(笑)この子もよく生きた(笑)落ち着きなくてこの前なんて道路に〜

そー、すごく大変でしたー。ほんと迷惑かけちゃって。でもやっとですよー。ありがとーございましたー。今日こそ寝る。もうそればっか考えてた(笑)子どもは意外と大丈夫みたい。誰と似たんだろ。あっちかなあ。やだなあ(笑)でもほんとよかったです…(涙)。

絶対断ろうと思ったんだすよ。信じてもらえますよね。でも途中からめんどくさくなっちゃって。ま、いいかなって。だって子どもがどうしても〜

繰り返す何度でも。年齢は関係ない。「好きでやってる」「やりたくてやってる」そうでないとしても「決めたのは自分でしょ?」

わかってるわかってるわかってる。何を?わからない。

血だらけになって痩せ細って倒れて自然に笑えてるのが少し気持ち悪くて何人目かのパートナーができて過食して吐いて泣き叫んで取り押さえられてまたやり直し、どうしていつも、なんで私だけ、世界中が憎らしく妬ましくみんな死ねばいいと願う。でもひとりはいやだ。こわい、誰か!と叫ぶ力はもうないけれど。

夜。眠ったら明日がきてしまうから薬は飲まない。もうそういうのやめなよ。っていうかおまえそういってたくせに消えたじゃん。なんで?なんで一緒じゃダメだったの?

わかってるわからないわかりたくもない。何も変わらない。あった、わかってること。何も変わらない。おかげさまで。こんなに時間かかちゃった。大丈夫だよ、そっちのせいじゃない。そうだね、あなたのせいじゃない。そうじゃなくて。そうじゃなくてなに。あなたのせいじゃない。誰のせいとかそんな話じゃなくてあなたの怒り悲しみ寂しさ苦しさ死にたさ死ねなさ、全部の気持ち気持ちの全部。

ぶちまける。しゃくりあげて泣いているうちに過呼吸になる。息を吸って吐く、ただそれだけなのに。ベッドまで行けない。今日はここでいい。寝る。また明日ね。うん。待ってるからね。うん。おやすみなさい。

いろんな夜がある。こんな夜も。あるいは書くことなど到底できない夜も。途中起きてまた泣いて苦しかったとしてもまた眠ろう。それぞれに無事に朝がきますように。

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フロイト読書会の記録をツイートしたらちょうど藤岡みなみさんのラジオ情報が流れてきた。URLをクリックしたらまだ始まっていないはずのラジオの音声が流れてきた、のかと思ったらラジオではなくて過去の放送分のポッドキャストのようだった。いつもポットキャストって書いてしまう。今も描き間違えて直した。

亀の話だー、亀(も)大好きと思いながら少し聞き入ってしまった。

20代の頃、学校に行っていない子どもたちの家庭教師をしていた。メンタルフレンドと呼ばれていた。私はそれなりの数のおうちを訪問していた。精神疾患を抱える人もいた。

もう会うことのできない彼女のおうちには亀やら鳥やら犬やらがいていつも楽しかった。途中で亡くなってしまうものもいたけれど。私たちは二人で漫画読んだり眠ったりした。勉強もしたけどおおむねそんな感じだった。

もうこんな時間!と音を止めた。バタバタ帰ってきた。待ったなしタスクがあるが帰ってきてからまたつけては、、あ、つけて、るではないか。あーだめだ。聴き続けてしまう。どのトピックも声もテンションもちょうどよすぎる。あ、止まった。なんで?いいや、辿らない。待ったなしタスクは待ったなしなんだからそっちを開かねば。

とやり始める前に朝が来てしまった・・・がんばろー。

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やまない雨

雨の音をずっときいてる。きいている場合ではないのだけどこの音は結構侵入的。まずいのではないか。被害に繋がらなければいいけど。これまでに水害にあった地域にまたその切先が向かいませんように。この言い方は人間視点で対立的。うーん。

なんか気温が下がってきた気がする。この数時間で少しずつ着膨れた。

これはまずいかも、やばいかも、という直観はそのまま従えれば多分相当に正しい。でも無理。ベルクソンとか読んで説明できればいいのだけどそれも無理。フロイトとの関連で本は持ってるしかじってはいるけどチーズをかじるネズミな感じ。

臨床にはどうしても「巻き込まれる」というか「巻き込み合う」という状態が生じるので「思わず」とか「せずにはいられない」とかいう事態にどう持ち堪えるかが自ずと課題になる。臨床ではない親密な関係においてもそれは避けがたいけど、そこでは持ち堪えることはどのくらい必要なのだろう。答えなんかないに違いない。それぞれの事情との兼ね合いだろうから。投げ出すことも捨て去ることもできる関係を維持するために消費する時間もエネルギーは莫大だ、と私は思うし辛くて苦しくてどうしようもないのにそこに価値をおいている自分ってどうかと思うときもある。その分、やるべきことは溜まり、別の大変さも襲ってくるのだから。大体相手がいることなのだからいつまで経っても正解などないのだ。仮の同意のままなんとなく続ける途上で「ああ、あのときのあれ」と出会い直しなんとなくわかったような気持ちになることはあるだろうけど。「夕鶴」でもし与ひょうが玄関を開けた時点で「ああ、あのときの」とかなっていたら物語にならない。異質なものと出会っていくには時間がかかる。対話とかいうけど私はその言葉も苦手。だって大抵対話になってないわけで、でも言葉でどうにかせざるをえなくて、それが難しいからただ黙ってじっと一緒にいるときが一番幸せとか思ったりするのかもしれないし。お互いに優しいってどんなことだろう、というのはここでも何回か書いている気がする。自分の無理や我慢ってどこからが「そんな無理しないで」といわれるべきものなんだろう。症状に対してはもちろん早め早めの対処が必要だけど。

いつもいちいち俎上に上げるのではないやり方で。相手のことを思いつつ自分に配慮する。言葉にしたら失敗ばかりで本当に戸惑うけれど。

雨はまだまだ。よくぞそこまで降らせるものがあることよ。どうぞご安全に。

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やはり強くない。

まただ、やっぱりなぁ、ということが増えてきた。欲望と権力という言葉は強いけど実際はとてもマイルドな形でそれらは行使されつづけ搾取は行われつづけている。功利主義はやはり強く、それとは結びつかない自然に求めあう愛情関係は脱価値化される。一方ある目的に向かって境界を曖昧にしながら「協働」する二人がセクシュアルな関係であることを否認したり容認したりしながら排除のシステムとして機能することもある。その場合、その周辺にはそれまでの親密な関係すら鬱陶しがられ混乱し発狂する人もいたりするがその痛みを与えた本人がそれに気づくのは肥大したナルシシズムが何らかの形で傷つくときだ。文学や映画なら「本当の愛」を知って再び愛しあう二人みたいなストーリーにもなっているし、そのまま女の方だけ破滅するようなストーリーにもなっている。大抵の場合、弱い立場の人はさまざまな水準で利用されつづける。

「小4女子のグループ」ときけば大体の人は「うわぁ」となる。大人として彼らに関わるようになったときも最初は「うわぁ」となり実際大変だったが今は自分も通ってきた道としてそれをどうしても必要とする子どもたちがいるとわかる。女の子たちはやはり強くない。

大人になった。なんとなく一緒にいたい人ができた。SEXなんてもっとゆっくりでよかった。なのになんとなく身体的に近寄ってくる男性を拒めなかった。もっと一緒にいれば、もっとコミュニケーションをたくさんとれば、あとからそこに懸命に親密さを見出そうとした。でも「そもそも」だ。求めれば「重い」「もう無理」と言われ孤独は罪悪感で隠された。拒まなかった私が悪いのだ。私は泣いてばかりだった。とても悲しいことにとてもよく聞く話だ。

これは支配ではない、対等だ、そう言い聞かせようとすればするほどそれを「支配だ」「搾取だ」と感じたときに言葉が出てこない。おそらくその直観はかなりの程度正しいはずなのに。

女の子の「〜される空想」について話し合った。現実の出来事として生じれば外傷となりうるその空想は親殺しの空想に対する防衛という側面があるのかもしれないと私は言った。女の子は強くない。ひとりを分裂させ集団のなかに紛れ込ませ守らなければならない。そんなようなことを。

いつも書くがどちらがどうという話だけで出来事を考えることはできない。しかし「女の子は」という言い方は常に必要だろう。マイルドな顔をして近づいてくる欲望と権力に抗うことは本当に難しい。「自分は違う」多くの場合そんなことはない。「自分は違う、自分だけは。」そう言いたくなるときこそ立ち止まれる相手と出会っていきたい、出会ってほしいと願う。

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ヒトガタ

狭い街だ。大きな街と思われているだろうけどこの街に来る人の行動範囲なんて限られている。知り合いを見かけることもしばしばだ。声をかけられる状況とそうでない状況があるが。もし鉢合わせたくないときはスッと入れるビルが立ち並んでいるので安心だ。全くの作り話なんだけどこの前、昔の彼が前の彼女とこっちへ向かってきたからスッと横のビルに入った。その彼と付き合っていた頃に通ってた英会話学校があったビルなのだけど今そこは楽器屋になっていた。何か動いた気がして暗がりに目を凝らすとヒトガタみたいのが壁にペタって張り付いてた。「どうしたの?」と聞いてみるとそいつもちょっと気まずい状況から逃れてそこに張り付いたという。正確には張り付いていたわけじゃないけど実際ほぼ張り付いているようなものだった。そういえば「都市伝説なんだけどさ」と彼から聞いたことがある。「このあたりにすごく薄っぺらい人がいてさ、なんか苦労人らしくてそれ語らせるとすっごく面白いんだって。で、客が吹き出すじゃん。そうすると乗り出して喋ってたその人が飛ばされちゃって話も終わっちゃうんだって」「最後まで聞けた人いるの?」「それがさ、いないんだよ」「えー、むしろそれがおもしろい」とか無邪気に笑っていた頃が懐かしい、と顔をあげるとヒトガタ人がじっとこっちを見てた。顔がないから見てるのかわからないのだけど。「なに?」「いえ、ちょっとニヤニヤしてたから」ニヤニヤはしてないよ。なにこのヒトガタ。ていうかどこから声が出てるの?「ねえ」「はい」「あなたってすぐに吹き飛ばされちゃうから地下道に住みはじめたんだよね」ヒトガタが頷く。「どこぞの田舎から出てきたんだけど最初から薄っぺらいのか都会で暮らすうちにこんなになったのか誰も知らないんだよね」コクリ、というかパラリ?「この街はいろんなスピードが早いから」とヒトガタが急にカッコつけたようなことをいったのでパシんとしようと手を上げたらその風でヒトガタがふわっと浮き上がった。片手でキャッチ。フリスビーより薄く軽い。「大丈夫?」「はい」「ごめんね」「はい」「いつからそんな薄っぺらいの?」「自分でもわかりません」「そうなんだ」私は当時と比べると厚みが増した。服のサイズは変わってないけど。ここはお金のかからないデートコースのひとつだった。多分何か意味がある形に積み上げられたレンガに座ってコンビニ弁当やアイスを食べたり噴水が上がるたびにキスしたりした。頭のいい彼は頭の良さそうな話ばかりしていたけれど私にはひどく退屈で噴水の飛沫の数を数えようと目を凝らし積み重なるレンガであみだくじを試みた。そんな二人に同時に芽生えつつあった言葉が「薄っぺらい」だった。一年ほど経ってお互いバイト先にちょっと気になる人が現れそれを報告しあったりしていたのだけどそんなはなししたくも聞きたくもなかったのだろう。「おまえってさ」「なに」「ほんと薄っぺらい男が好きだよな」「そうかな」「だってさ」と彼がまた頭の良さそうな言葉で私の目の前を埋めはじめた。うんざりだ。ホントにもううんざりだ。私は目の前をかき分けるようにして思いっきり立ち上がった。背の高い彼は座高も高く階段の二段下に座っていた私は立ち上がっても彼とそんなに目線が変わらなかった。彼のまんまるい目をみながら彼を圧倒した気分でいた自分の大したことなさに戸惑った。それでも一気にまくしたてた。自分でも支離滅裂なことを言っているなと思いながら。そして「お前が薄っぺらいんだよ」と吐き捨てた。上に行ったらいいのか下に行ったらいいのかわからなかった。とりあえず彼から見えない場所まで走りに走った。しばらく暗がりでハアハアして背中で壁をズリズリ落ちながら膝を抱え込んだ。泣いた。嘘泣きみたいな顔しかできなくなった頃、バッグがないことに気づいた。外は暗がりより暗くなっていた。彼はいなかった。バッグもなかった。コンビニへ行った。「ああ!」とネパールからきた店員さんが持ってきてくれた。彼はなにがあったかなんて全く気にしていない様子でいつものにこやかな笑顔で「バッグなくしちゃだめよ」と送り出してくれた。なんかのフェアのアイスもくれた。あれは秋だったんじゃないか。蝉のかけらが地下道まで運ばれてきていた気がする。「アイス」とヒトガタがつぶやいた。「アイス知ってる?」「そりゃ知ってますよ。何年ここにいると思ってるんですか」「だって覚えてないんでしょ」「このコンビニができた頃にはもういたんですよ。だから私の方がベテランです」なんの競争だよ、と思いながらヒトガタとコンビニへ行った。別の外国人の店員がヒトガタに手を振って私にも笑顔を向けた。ヒトガタが何をしたのかわからないけどすぐにアイスが出てきた。「え?いいんですか?」「いいのいいの」店員さんはあの時の店員さんみたいな笑顔でアイスを手渡し送り出してくれた。「ねえ」「なんですか?」「食べる?」「どうやって?」「そうか」アイスは硬かった。もう涙なんか出てこないけどあの頃の私はほんと薄っぺらで頭でっかちで彼とおんなじだった。一緒に食べたいろんなものが美味しかった。コンビニ弁当もアイスも制覇したと思ってた。

「ねえ」

あれ?いない。ふと空の方を見上げる。地下道には珍しい風が吹いた。「台風が来るんだって」そばのカップルがスマホをみながら話していた。

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弔い

雨風の合間を縫うように鳴いていた虫たちが今朝は何事もなかったかのように一定のリズムを奏でている。

疑惑や不信をなだめるのってそんなに難しいことではないと思うのだけどそういう状態を維持したい場合もあるのだろう。人間はめんどくさい生き物だ、と断定しておく。特に親密な関係においては。自分の気持ちよさを邪魔する相手を排除できる準備をいつでもしておく。親密な者の公共圏にはいつも死の欲動が蠢いているとでもいえばいいのか。親密さとはそういうものだとかいっておけばそれは行動化の免罪符になりうるか。弔いの場をみながらこれはなんのための儀式かと考える。せめてその生がその追悼によってたやすく忘れ去られることのないように。今は亡き生のうちにあった暴力的で殺人的な排他空想と共にあった親密さはいつもこうして危うかったはずだ。フロイトのいう去勢不安はそれ以前に殺人空想があるという話をした。自らの暴力性、破壊性、それに伴う罪悪感を親密な他者を弔うことによって他者の棺に投げ込むこと、殺人空想はいつもそうやって弔ってもらう場所を他者に保証させる。それゆえに暴力や殺人、戦争に終わりはないのではないか。精神分析においてはそれをコンテイナーともモーニングワークとも言わないだろう。SEXがいつも誘惑と強要の可能性を帯びることを認識することにさえ防衛的になり、慌てて「同意」という曖昧な判断基準で自分が相手を傷つけた可能性を否認していくあり方も同様と考える。信頼はそんなところに生じない。私が傷つくとしたらそれはあなただけのせいではないのに対話のないまま勝手に処理されることで傷が現実化することもある。 vulnerabilityという性質を共にもつ相手として弔われる以前の日々の方へ。

親密な人のことを、精神分析のことを、フロイトのことを話しながら考えた。

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休み明け朝。台風。

すごい音。静かだなと思って台所の小さな窓をあけたら本当に静かだった。その5分後にはこれだ。すごい。時折うねりをあげる風に翻弄されながら大量の雨が窓に壁に屋根に行き先などどうでもいいとばかりに打ちつける。カーテンを少し開けて南側の大きな窓を覗いたら水滴がいっぱい。いつもはベランダを覆う幅広いひさしに守られてこんな風にならないのに。上から下へ落ちるだけの雨だったなら。水滴でその先は見えないが向いの屋根はプールみたいになっているかも。そしてまた虫の声。彼らをこんなに慌ただしく感じることもない。被害が広がらないことを祈るばかり。

昨晩はエリザベス女王の国葬でしたね。私は写真と流れてくる動画だけみた。今朝、会ったこともない人の喪失感は悲しみといえるかという記事を読んだ。まず悲しんでからでよくない?知的な作業にするのはモーニングワークを妨げると思うよ、と思ったけどメディアとはそういうもの。そこに有名人との一方通行の関係をparasocialな関係というとあった。1956年にHorton & Wohlが発表した用語で、テレビなどのマスメディアの普及によって個人と有名人の間にみられるようになった関係のこと。今でいえばSNSでのインフルエンサーと消費者との関係など。まだよくない?という思いが先走ったせいかそんなに興味を持てない記事だった。IPAがツイートしていたから読んだのだけど。

私はSNSを不特定多数の人に気楽に開くような使い方もしないし、自分にフィットするような言葉を反射的にRTしたりもしないのんびり使用なので、いくらそれがごもっともでも目の前で突然それやられたら嫌でしょう、という対立がRTなどで流れてくるとうんざりしてしまう。誰が誰に反応してそういうことするかもわかりやすいからこういうのは本当にパターンだなと思う。自分の言葉で書くより乗っかった方が楽なのかもしれないけど私は書くなら自分の言葉で書くかな。そのほうが不用意に誰かを傷つけることもしないで済むと思うし。まあある程度のインフルエンサーはその辺を割り切ってるからそこそこのインフルエンサーになるのかもしれない。もっとすごいインフルエンサーはもっと気をつけながらあるいはもっと偏った形で発信するからすごくなっていくのだろうし。知らないけど。

そういえばparasocial relationshipをマーケティングの文脈で書いている論文があったけどそれはちょっと面白かった。上手に使える人は使えるのだろうねえ。

私も自分の言葉で書けないことはRTさせてもらうことがある。昨日は國分功一郎さんの「国葬を考える」のシンポジウム、酒井泰斗さんの非専門家としてのふるまい方、立木康介さんが出るラカン関連のセミナー情報、藤岡みなみさんのとってもほっこりする動画とかをRTした。私にはとても言語化できないけどほんとそうだなあと思うことが攻撃的ではない形で書かれているツイートとか大体知っている範囲のみんなに届けたい情報とか関係性を優しく捉えた文章や動画は共有したくなる。普段の関係性ってそんな思いやりに溢れてなくても結構共感的だったりおかしかったりしてそんなに攻撃的じゃないと思うんだけどSNSってなんかそういうところが奇妙。昨日はのんびりできたので平和&素敵ツイート探しができて楽しかった。Likesにもためた。やることはたまったまま。まあ今日から今日から明日から。とならないように雨ニモマケズ風ニモマケズとりあえず仕事に無事にいくところからね。いけるのかな。無理せず台風情報チェックしながら動きましょう。

どうぞお気をつけてお過ごしくださいね。

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友と食事

外が静か。夜中、強い雨の音もしていたけど。今日もその繰り返しだろうか。九州のみなさん、どうかお気をつけて。

誰かとごはんを食べることって特別だと思う。その特別さを示す場面を書き並べることはたやすいけどいちいち書くほどのことでもない。それがさまざまな事情でかなわない人のことを思えば書くまでもない。もしかしたらそこに自分もいるかもしれない。誰かと食事をすることは経済的な事情はもちろん関係性の象徴でもある。

好きな人が別の誰かと食事をしていた。息をのみ涙を堪え引き返す。

NetflixでみていたNYガールズ・ダイアリーでもそんなシーンがあった。おおむね関係性がわかってからは流しているだけみたいな感じだが同性の友達はいい。身体のことから共有できる。恋人に言えないことをぶちまけられる。すでにガールズではなくてもここに描かれる様々な痛みはいまだに経験する。

10代後半、20代の頃からの友達とのLINE。一年に一度会うか会わないかのような、コロナ禍では一度も会っていない彼らと二、三往復のやりとりをして仕事に戻る。「元気?〇〇いく?」「いくの?様子教えて。」「(OKスタンプ)」みたいな感じで。

台風や地震のときも数日後に「この前大丈夫だった?うちの職場停電したよ」「大変だったね。こっちは大丈夫だった。」「よかった。無事に過ごそうね」「うん、お互いに。(ありがとうスタンプ)」とか。

赤ちゃんの頃から知っている子供たちもすでに写真を送るような年齢でもない。お互いの日々のことなんて全く知らない。でもいつも心の中にいる。彼らとも何度一緒にごはんを食べただろう。大学でお互いの家で旅先でお互いの中間地点で。

はあ。友達のことを考えていたら元気が出てきた。彼らにも元気でいてほしい。誰にも言えない。でも彼らになら。一緒にごはんを食べられるのはまだ先だろう。会ったばかりの相手に感じる孤独も彼らがいれば少し別の形になる。違う色に変わる。

誰かと食事をすることについてその特別さとそれゆえに感じる孤独について悲しく苦しく思うところがあったから書き始めたような気がするけど友達のこと考えたら必要なくなったみたい。それだけでいいことって色々あるね。ありがとう、友よ(スタンプ送る気持ち)。

今日もみんなが無事でありますように。色々あっても回復できますように。どうぞご安全にお過ごしください。

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パラドックス

なんか蒸し暑いな。除湿つけたり消したりしてる。梨がとっても瑞々しくておいしかった。夜の間に失われたものは色々あるだろうけどとりあえず少し取り戻した。

精神分析家のウィニコットはパラドックスをどうにかしようと思うな、とは書いてないけど

The paradox must be tolerated.

ってよくいう。母と子の間に存在する様々なパラドックスというかその空間をウィニコットは”potential space”とよんだ。正確な引用は時間がないのでしないけど私の言葉で一気に書いてみると、そこは存在しないのだけど存在する仮想領域で(すでになに言ってんだよという感じかしら。二次元とかVRを思い浮かべるのも悪くないと思う)potentialityという言葉がすでにフロイトの『夢解釈』から精神分析に登場しているように自由連想という方法はその潜在性を前提とすることで機能するのだと思う。つまりこの領域はコミュニケーションの領域であって主体は夢の中のあれって誰?というくらい曖昧で無主体といってもいいくらいかも。なのでそこで生じるのは単なる二者関係でもなく、単なる「今ここ」でもなくぼんやりした三者関係あるいは三角空間なんだと思う。

オグデンが2021年12月にはThe New Library of Psychoanalysisシリーズの一冊として出した

Coming to Life in the Consulting Room Toward a New Analytic Sensibilityのことをここで書いたときに触れたけど(なにを書いたか探すぞ。見つけた。こちら↓)

オグデンはウィニコットとビオンに十分に親しむ(ウィニコットの言い方でいえばplayする)なかでontological psychoanalysisをhaving to do with being and becomingと位置付け、「大きくなったらなにになりたい?」という問いを”Who (what kind of person) do you want to be now, at this moment, and what kind of person do you aspire to become?”とbeingとbe comingの問いに記述し直した。

この現在進行形がとても重要で、ウィニコットは特にこれを意識して書いた人だった。これはパラドックスを解消するというすっきりした方向を目指すのではなく、その曖昧さと混沌に混乱し病的になりつつもそこに居続けることで見出される希望みたいなもの、というか居続けること自体に見出されるその人自身の潜在性というものに光を当てているからだと私は理解している。

ということを書こうと思っていたわけでもないけどウィニコットのパラドックスに関する論文

The grammar of paradox: Deciphering Winnicott’s language theory

Ronnie Carmeli

を読んでいるからメモがわりということで。この論文はウィトゲンシュタインの言語ゲームとウィニコットの言葉の使用を絡めて書いているのでウィトゲンシュタインを勉強しながら読まなくてはで私には大変なのだけど言葉の使用についてはもっとも興味のあるところだからがんばれたらいいな。「がんばる!」と言葉だけでも言っておけばいいのにいえない自分なのがもどかしいですね。自分で言った言葉に縛られるなんていやだけどこうやって逃れられないものから逃れつつ。

ちなみにウィトゲンシュタイン『哲学探究』から引用がなされているので鬼界彰夫訳のこちらも参考にしている。あとは古田徹也さんの本とか。

それぞれの週末がご無事でありますように。台風にも気をつけて過ごしましょう。

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精神分析

知識と配慮

フェデラー引退。Twitterで文字でも声でもお知らせしてくれてた。まだ41歳か。これだけ長い間トップ選手でいたのだからもう年齢とかで何を判断したらいいのかよくわからないけどずっと追ってきたわけでもない私でもしみじみするのだからすごい選手だった。

外がすっかり明るい。最近、いつの間にか眠ってしまうことが多く記憶がないのだがこの早朝の数時間さえ何していたんだっけとなっている。珈琲はいれた。洗濯もした。今のところ太陽が出ているので外に出した。フェデラーの動画に見入っていたというわけでもない。うむ。

昨日、本屋で一冊文庫本を買った。平積みされているのの下の方からとった。レジへ持って行くといつもなら尋ねられるカバーの有無を聞かれずささっとカバーをかけてゴムで止めて渡してくれた。確かにそれにふさわしい本かもしれない。

今井伸『射精道』(光文社新書)。こういう本が書名はともかくせめてシンプルな装丁の小さな本として出版されるのは良いことだと思う。もちろん(というほど知らないけれど)これは新渡戸稲造『武士道』にかけられた書名であるがジェンダー外来でも診療を行っているという著者は「射精道」は「女性のための思想」でもあり「オルガズム道」と言い換えることもできると書いている。

この本は大まかにいえば発達段階(思春期、青年期、妊活編、中高年期)、障害などに対する医学的メンテナンス、性教育の歴史を一男性としての著者の来し方と泌尿器科専門医としての知識と経験をもとにコンパクトに具体的に時にユーモラスに示した誰にでも読みやすい本である。

著者は「第2章 思春期編」で「第2条 セックスは「心・技・体」が伴うまでは行うべからず」といい、その基本が正しい知識に基づいたマスターベーションによる射精であるとしてかなり具体的な解説を行う。この部分は教育相談の現場などでかなり活用できるのではないか。性教育に限らず教育には何度も確認しなおせる媒介があったほうがいい。

セックスが異性間に限らず二人の行為であることは当然だが「第4章 妊活編」ではいまだ「不妊治療において最初のアクションをとるのは女性が多い」という現状が示される。そしてそれがどちらかの孤独な戦いにならないためにも月経周期や妊娠のメカニズムを知ることなどセックスを義務や苦行にしないための「妊活における「射精道」」15条が提示されている。「子どもを持たない選択をされている」人は読みばしていいと書かれているが、妊娠に関しては人間がその機能を通じて生まれてくる以上、経験の有無に関わらず知っておいた方がいいだろう。孤独な戦いを避けるためとしたらなおさら。

専門医による本なので医学的知見もわかりやすく紹介されいて助かる。男性不妊症の原因となる射精障害やED、トルコの報告によると最近増加している40歳未満のED患者のなんと85%が心因性(器質性ED約15%)とわかったそうだ。また、欧米ではデフォルトである「仮性包茎」が日本では恥ずかしいこととされていたり誤った情報は感情を刺激するから残りやすいのだろうかなど難しさを感じた。感情ではなく正しい知識を使用して対処すること、身体については徹底してそうであってほしい。

著者はよく親たちから「いつ性教育について教え始めればよいですか?」という相談を受けるという。そしていつも「子どもさんが自分から聞いてきた時が、教え時です」と伝えるそうだ。もちろんプライベートパーツの意識については、幼少期から入浴時などに親が教える必要があると書いている。著者自身は子どもたちが思春期の頃に中高生用の性教育の本を一冊ずつ渡したそうだ。なぜなら「本であれば、自分で気になった時に、気になる箇所を、誰にも気兼ねせずに確認できるからです」。

本書もそういう一冊である。書店員さんがささっとカバーをかけてくれたおかげで移動の電車の中でもそのまま読み進めることができた。配慮。性については特に、お互いに。

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時間をかける

時間をかけて丁寧にコミットし続けることの大切さ、つまり精神分析のような仕事って普通に必要だなあ、と実感することが多くなった。マイナーな治療法として放っておいてもらえればいいのかもしれないが創始者の存在が知られすぎているとそうもゆかぬ。

精神分析を志す女性は巷で言われるほどそれをフェミニズムの敵とは思っていない。かといって顔と名ばかりが有名な政治家たちのように「私は女だけど男性の言っていることわかります」というような安易な迎合とともにフェミニズムに対して非論理的な態度をとるようなこともしない。精神分析における女性性をめぐる論争はフロイトの女性論(多くはペニス羨望の文脈)の読解と共にあった。それはそうである必要がある。これは学問でもあるのだから。

フロイトの女性性に関する論文には女性をわかろうとするたびにわからなさを強めていくフロイトの姿がみえる。一方、フロイト自身が『集団心理学と自我の分析』(1921、『フロイト全集17』、岩波書店)で明らかにしたように彼自身、そして彼の精神分析は殺しの対象となる権威として存在した。しかし、アーネスト・ジョーンズを別とすればフロイトの女性論に対して異議申し立てを行ったのはフロイトが最後まで自信を持って語ることができなかった女性たちだった。

この構図は精神分析内部だけでなく、ちょっと見渡せばどこでも観察できるものだろう。異議申し立てをはじめた女性たちを意識した男性たちの女性に対する様々な態度とその男性たちと共に暮らすほどではないが親密な関係を繋いでいく同性、異性の態度というのは継時的に追っていくと面白いと思う。状況というのは片方からは生まれないし、歴史を追えば私たちはひとりひとり被害者でも加害者でもありうるわけで、ものをいえなくなる自分、いわせなくする自分から逃れるように、「自分はそうではない」と言い続けるために他者を使用したり依存したりしつづけている面もあるだろう。自分に生まれた小さな声を無事に言葉にして大切な人に届けたいだけなのにそれが早い段階であっという間に抑え込まれよくわからない攻撃性の応酬と分断の共謀の場となるいわばSNS的世界にとりこまれてしまうのは私は避けたい。時間をかけて自分の拙い表現を大切にしていくこと、してもらうことで出会う「それは過ちだった」という慟哭は裁きの場では生じない。憎しみは内省を促さない。それはやはり戦いを促す面があるのだろうと思う。

そういえばジュディス・バトラー 『非暴力の力』の「第四章 フロイトにおける政治哲学——戦争、破壊、躁病、批判的能力」(佐藤嘉幸、清水知子訳、青土社)は秀逸だった。フロイトが単なる二元論に陥らず生の欲動と死の欲動の狭間で揺らぎを保ち戦争に抵抗する仕方は個人の小さな努力かもしれないがその努力に価値を見出せる時間と場所が維持されれば私たちはそのような心的次元まで破壊され尽くされることはないような気がした。

反射を得意技にするのではなく「いいね」でたやすく分断に共謀するのでもなく大切な人を大切にできますように、今日も、今日こそ、今日がダメなら明日以降に。時間をかけて細やかに現状においてむやみに自分を正当化することなく過ごせたらと思う。

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見えないもの

河口湖のフジヤマクッキーチーズケーキガーデンのお土産、嬉しい。太宰治ゆかりの地でもありますね。大人になってからいった河口湖はとても楽しかった。何度かいったけどまたいきたい。とてもきれいな和菓子をおいているお店もあるの。名前を忘れてしまったけれどはじめてその和菓子を見たときは釘つけになってしまった。すごい技術だ。

私はきれいとか汚いとかいろんなふうにいわれる心とそれこそそんな風にしか表現できない言葉を使用して関わっている。そんな風にしか、というのは私の限界の話でもあるけれど。

群像』2022年10月号(講談社)で連載されている山本貴光「文学のエコロジー」はすでに第8回。第6回が芭蕉の句をひいた回だったか。第7回はいつの間にか過ぎていた。この連載が始まったとき満を持してという感じがしてとても楽しみにしていたのに早々に挫折した。山本さんの文章は情報量が多くて、それについていきたいという欲望を持ってしまうとあっという間にそうなる。多分相当の読書好きでない人でなければみんなそう。でも大丈夫。そのうち本になるだろうから。私は第2回で早くも一度挫折。バルザックの『ゴリオ爺さん』を取りあげると知り読んでから読みたいという欲望をもってしまったのがいけなかった。「哲学の劇場」主宰の山本貴光さんと吉川浩満さんが紹介してくれる本は全部読みたくなってしまうから困る。

そして『ゴリオ爺さん』を読み終える頃には連載は数ヶ月先へと進んでいた。で、芭蕉回で復帰したけどいつの間にかまた1ヶ月あいていた。でもまあ『ゴリオ爺さん』は山本さんのどこへ行ってしまうのだろうという宇宙へ向かう際限のなさと違って、人間社会というちっこい世界での飽くなき欲望(多くは金金金)の話で欲望に負けやすい私には面白かった。バルザックも相当変な人(大雑把すぎ)だったらしいけどさすが生み出される登場人物たちの豊かなこと。ゴリオ爺さんは本当になんていうかめっちゃかわいそうで今の言葉でいえばやばい(これも古いかも?)。私、もしゴリオ爺さんがカウンセリングを受けにきたら相当やばいなあと思いつつとっても愛しく感じると思う。でもどんなアドバイスしてもどうしてもやってしまうものはやってしまうだろうから「あらあ、また」「それは若者言葉だと“やばい”ってやつかもです」とかいって時々一緒に静かに笑ったり娘に対する想いをやば愛しく感じつつ彼に近づく死を想いながら聞き続けると思う。

「自分、やばいですよね」<そうかも>

「めんどくさくて」<自分が?>「そう(笑)」

よくあるやりとりだ。

さて今回、山本さんが取り上げたのはニャンと(こういいたくなる気持ちわかると思う)ホメロスの叙事詩『イリアス』。でもかえってよかった。自分で読めるとは思えないから原作にいかず素直に連載を読みました。今回のテーマは「「心」という見えないものの描き方」。ほんと、これどうしたらいいのかしら。これというのは「心」。どうやって言葉にしたらいいのでしょう。毎日の苦悩。哲劇のお二人の共著『脳がわかれば心がわかるか 脳科学リテラシー養成講座』(太田出版)はこれもこれだけの文献をよくこの分量でしかもこんなに読める形でというすごいマップ&ガイド。その204ページに斎藤環を援用して「なにか大きな事件や犯罪が起こったときに新聞やメディアなどに駆り出されてくるコメンテーターは、昔は多くは小説家でした。小説家こそが人間を描くスペシャリストだと考えられていたからです」とある。1980年代以降はそれが心理学者や精神科医、社会学者が重宝されることになり、その後そこに脳科学者が仲間入りしたそうだ。

今月号の「文学のエコロジー」は言葉のみを使う治療である精神分析を実践する私にとって「ここに戻ってきてくれてよかった!」というものだった。自分では遡れないが考えたい部分。脳科学の分野のみならずどの分野でもその専門家と対話できる知識や考えを持つ山本さんが漱石を読み解く緻密さで、「心」という言葉の意味を一旦できるだけ空っぽな状態にして、そこからそれを再び立ち上げてみようとしているような感じがした。「心」に抱いている「意図」というものをどう考えるかが最初の課題になるような印象を受けたがこのテーマは次の号にも続く。ゆっくり時間をかけてほしいな、私のために(無理)。たった数ページの連載でも自分の課題と結びつけばその質量というのかなんというのかわからないけど私が感じる重みは増す。今日もこの見えないものと一緒にやっていくのか。うむ…。とりあえず寝不足をどこかで解消したい。夢で少しどうにかしたい。

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その前に今日を

虫が透き通るような声で鳴いている。月はもう見えなかった。

「随分、子どもっぽいやりとりしてるんだなぁ」と思ったけど言わなかった。親密な関係だからこそ生じる退行というのが難しく、ちょうどよく受け止めてくれる相手でちょうどよく出せる自分を確認して安心している場合もあるだろう。依存は「私は知っている」という形をとりやすくでもそれを承認するのは常に他者なのでその「自分」はとても脆い。私はこれに関しては受け手の態度の方に関心が向く。思い切り依存の形をとらなくても「私とあなたは同じことを感じているはず」という前提のもとに関わってくる相手に「あなたは私の誰ですか?」とか嫌味をいって遠ざけたくなる場合もあれば、同じようなことをいわれて多少めんどうでもちょっと気持ちよかったり「嫌われたくない」が優先される場合もある。自分なんて曖昧で勝手なものだ。

昨年だったと思うが、なぜだったか読み始めた『つげ義春日記』(講談社文芸文庫)がたいそう面白く、日記というのは興味深いな、と思っていろんな人の日記を読んだ。そして最近「交換日記」という文字を見てたいそう懐かしく、夕暮れどき、下北沢の屋外で秋田の地ビールを一杯呑んだあと本屋へ寄った。コロナ禍で始めた店だそうで「大変でしたね」と本当にそう思っていったもののなんとなく後悔した。あった、交換日記。奥の暗がりに。いざ手にとってみたらなんとなく魅力が消え失せてしまいそばの俳句や短歌の棚をぼんやり眺めたり読みたいと思っていた『群像』2022年10月号(講談社)をパラパラしたり何を見るでもなく本棚に沿って歩いたりした。「あ」と知り合いの本を見つけた。少し意識がはっきりした。パラパラした。これは内容はともかく(内容もいいけど)装丁が本当にいいよな、と改めて思った。するとそのそばの本たちがさっきより鮮やかに目に入ってきた。「ああ、対話」と思う本が数冊あった。「交換日記」だって「対話」だろうになぜこちらに惹かれたのだろう、と後から思った。

イ・ラン/いがらしみきお『何卒よろしくお願いいたします』(訳 甘栗舎、タバブックス)を読みはじめた。数冊目に目がとまった本だった。

2019年11月、まだ震災の痕跡も残るいがらしみきおのオフィスに彼を敬愛するイ・ランが訪れたことをきっかけに「コラボ」という「対話」がはじまった。韓国と日本それぞれで刊行された本書は往復書簡の翻訳であり、2020年春から夏、秋、2021年冬、春、2021年7月30日にいがらしがだした手紙で終わった。あとからの刊行となった日本版には今年2022年2月に二人が交わした手紙も収められている。出会った時はそうでなかったのに二人のやりとりはコロナ禍と重なった。

最初のイ・ランの手紙からすごいインパクト。採用面接の話、と書けば思い浮かぶような内容では全くない。各手紙に見出しのような形でその日の手紙の一文が引用されているのだがこの手紙の見出しは「神はなぜ金銀財宝が好きなのでしょうか」である。いがらしからの最初の返事の見出しは「たぶんAIを作るのは神になりたいということでしょう」。どんなやりとりなんだ、と思わないだろうか。

二人は手紙の間にもLINEの翻訳機能を使いながらやりとりをしていたという。言葉の違いもある。昨日取り上げた鶴見済のものの見方もそうだが、彼らは今ここ自体を変化させることに希望など持っていないようにみえる。ただ、別の場所、「今とはちがう世界」があることを願うとかいうレベルではなくそれがあると普通に思っている。死ぬまで生きるだけの場所である現実に対してドライであると同時に怒り、失望、諦めにもじっと身を浸し、相手のそれらにも心を揺らすことができるのはその存在のおかげかもしれない。

様々な話題はどれも興味深く強い印象を残すが後半にデヴィッド・グレーバーの本が軸となっているのも意外な感じがして面白かった。

途中を飛ばして2022年に久しぶりに交わされた手紙を読んでしまったのだが思わず嗚咽した。

自分って何?どうして生きなければならないの?私たちが子どもの頃、あるいは今も問い続けていることかもしれない。答えなどないからいずれ死ぬことだけを見据えて日々に身を委ねざるをえないのかもしれない。でもそれはあまりにも苦しいから誰かを使うのかもしれない。愛するのかもしれない。憎むのかもしれない。ひとりではいられないというどうにもできない現実があるから人との関係に支えられたり死にたくなったりする。それは仕方のないことだ。だからさらに何かを求める。終わりなき渇望と必要性の区別は難しい。

あとでまだ読んでいない途中の季節に戻ろう。その前に今日をいつも通りはじめよう。彼らのやりとりによって動かされた部分をとりあえず淡々と胸におさめつつ。

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少し別の場所へ

夜に溢れる言葉。そっと胸に秘めておくはずだったのに、どうしても知ってほしかったこと。夜にしか言えない言葉。ここで言葉にすればそれは昼夜問わず読まれ見知らぬ人にも届き言葉の意味も言葉にした意味も変わり自分の知らない誰かの言葉として私はまたそれと出会い苦しむのかもしれない。

ここ数年「つながり」の本が多いように思う。この言葉には良さ、正しさへの圧を感じなくもない。というか圧を感じるからそれを弱めたりゆるめたりそこから降りたりしてみましょうか、という提案がなされるのだろう。

「恋愛をしろという“圧”は、この社会ではあまりにも強い。強い“圧”の上から何番目かに確実に入る」125頁

鶴見済 『人間関係を半分降りる─気楽なつながりの作り方』(筑摩書房)「第3章 恋人をゆるめる」からの引用だ。

「あ、完全自殺マニュアルの人」とインタビュー記事が目に留まった。1993年出版だったのか、あれは。私は周りであの本がすごく話題になってから少し後に読んだのだけどすごくよく(?)書かれていてびっくりした。淡々と落ち着いて自殺の方法について知る時間が人のある種の衝動について思いを巡らす時間になっていたように記憶しているが違うかもしれない。この仕事についてからも患者さんやそのご家族との間でこの本は話題に上がった。私はこれを本当にマニュアルとして読んでいて著者が誰かなど気にしたことはなかったように思う。今回初めて著者と著書名がつながった。

読んだのは「好書好日」のインタビュー。私が「本当にそう!」と思ったのはSNSについての言葉だ。

「物理的には離れているのに、心の距離が近づき過ぎてしまうという問題もありますね。頭に毎日思い浮かぶ人というのは、嫌な人であっても心の距離が近いんですよ。」

近さは様々な錯覚や「こうすべき」を生み出す。セクシュアリティに「愛」という言葉がくっつくと厄介なのと同じだろう。

このインタビューは鶴見済 『人間関係を半分降りる─気楽なつながりの作り方』(筑摩書房)発刊に合わせた者だったらしく「お、また“つながり”本だ」と思って読んでみた。

先ほどは「恋人」に関する章から引用したが、この本では、学校や会社などでの「友人」、「家族」「恋人」が再考の中心となる「つながり」である。著者の体験と合わせて「世間」で言われがちなこととは全く異なる視点を提示され私たちは戸惑うだろうか。私は戸惑わなかった。「本当にそうだなあ」と思うところが多かった。著者は現在囚われている「つながり」の内側から考えようとしない。囚われている状態が「つながり」として圧を生じさせるとしたらそれが囚われの場にならないようにこう考えてみるのはどうだろう、という視点をたくさんくれる。たくさんあるので読者には選択する余地も考える余地もたくさんある。つまり押し付けがましくない。圧を感じなくて済む。これは『完全自殺マニュアル』に助けられる感覚と通じるのだろうと思う。

それにしても本というのは、特にこれらの本は言葉や体験にまとわりついた情緒をちょうどよく調整してくれるようなところがある。夜に溢れそうになった言葉が朝になって少し別の場所に戻るように、夜暴れ出しそうになってもとりあえず寝てみよう、でも眠れないなら、という感じでこういう本を読むというのもありかもしれない。いつも少し別の場所へ。せめて自分で自分に圧をかけないように今日も。

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間違い探しではなく

英国のエリザベス女王が8日、96歳で亡くなったとのこと。20歳の頃ロンドンへ行った。「女王の部屋はここ」と矢印が書いてあるバッキンガム宮殿のポストカードなどが売られていて日本だったらこういうのはタブーなんだろうなぁと思った。Netflixの『ザ・クラウン』にははまった。20代からこんなに長い間、動乱の英国を定位置から見続けた女王はチャーミングな人に見えた。精神分析もナチスから逃れ移住した英国で大きな発展を遂げた。フロイトの孫のルシアン・フロイトは女王の肖像画を描いている。受け入れてくれてありがとう、となんとなく思う。まず居場所を得ないことには精神分析自体が過酷な迫害と喪失を生き残ることができなかっただろう。ひとつの文化としての経験を受け継ぐのも私たちの役割のひとつと思う。私だったら精神分析を実践する立場として。若い頃はタヴィストッククリニックに憧れそこでの訓練を考えたがそうしなかった。私が英国を最も身近に感じるのは英国対象関係論を通じてだ。特にウィニコットに惹かれてこれまでやってきた。今年は学会でウィニコットサイドからビオンとウィニコットの理論のオリジナリティを検討する役割もいただいている。ウィニコットはエリザベス女王からナイトの称号をもらっていると思うがそれって何に対してなのかな。よくわからない。なんにしても受け継がれてきた文化、そして戦争を知る世代の眼差しを丁寧に追うことが大切だな、と改めて思った。そう思うと私はまだ何にも馴染んでいないというか知らないことばかりだな。人間であることには馴染むも知るもなにもそう分類されてるしそれでやってるとしかいいようがないけど。毎日異質なものと出会っては驚いたり戸惑ったりどう付き合ったらいいかわからなくなったりしながらやっているけど間違い探しではない仕事につけたのはよかったんだろうな、多分。

牟田都子『文にあたる』(亜紀書房)は校正のプロである著者がその仕事を通じて出会い、経験してきたことをそれこそ細やかで丁寧な筆致で共有してくれるエッセイ集だ。たくさんの短いエッセイが織り重ねられたこの本はどこからめくってもいい、と著者が書いている。「本を読むことは本来自由な行為です」と。

お言葉に甘えて、というわけではないが一気に最後のエッセイ、「おわりに」の前のエッセイに飛びたい。「天職を探す」と名付けられたこのエッセイは著者が現在この仕事に感じているであろう喜びとそこに至るまでの数えきれない逡巡を想像させるおはなしでじんわりきた。多分、この本を読んだ読者は少しだけ誰かに優しくなっていると思う。丁寧に時間をかけることに価値をおけること、そこで生まれ育まれるこころのこと、それを想像力というような気がした。著者は「いまでもこの仕事が天職だとは思っていません」と書く。このエッセイの冒頭では影山知明の文章が引かれ、天職は英語ではcalling、つまり「呼ばれる」ものなんだということが書かれている。「誰からも必要とされなくなるかもしれない」という可能性も胸に現在進行形で続ける仕事、それが「天職」であるかどうかはこちらが決めることではなさそうだ。これから先のことなんて誰にもわからない。受身的に紡がれる今を織り重ねていく。エリザベス女王の人生もそれに近いものであっただろうか。歴史における「正しさ」は揺らぎやすい。間違い探しではないあり方で間違いや失敗と出会っていけるだろうか。わからない。できたら、と思う。

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言葉を失って頭をまっすぐに戻した

昨晩、遅い夕飯を食べて資料作らねばと思いつつウトウトしてはぼんやりを繰り返していた。ぼんやりとPC画面を見るといろんなツイートが目に入ってきた。バスのなかで亡くなった女の子のニュースは私が知っている様々な保育園での様々な場面を一気に想起させると同時にそれについて考えることをやめさせた。水筒を開ける小さな手、何も出てこなくなった水筒を下ろす仕草、まだ言葉にするのは難しいなにかを感じ誰かを思い出し身体の限界がくるまでそれに身を委ねていたのだろうか。言葉をなくす。

重たい障害をもつ子どもを育てる方がリツイートしたものも目に入ってきた。その方とはオンラインでやりとりをしたことがある。赤ちゃんのときから手術を繰り返しながらも着実に成長していくその姿、カメラが捉えるその泣き顔や笑顔、人を信頼する眼差し、できるようになったことを披露しようとする仕草、それをこの状況でするのか!とその逞しさには共に驚いた。

そのかたがRTしていたのはやはり重たい障害を抱える子どもを育てる方のものだった。療育施設に通うまだ小さな子どもの止まらない癇癪。その子が眠っているとき以外はひとときも目を離すことができない様子。壊された部屋で子どもが大暴れする横ですやすや眠り起きても静かに携帯をいじっている父親。私は重度の障害を持つ人たちとはそれなりに馴染みがあるのでどれだけ想像を絶する状態かということは普通よりは想像できていると思う。驚くのはこの方がおそらく子どもといながらしているであろうこれらのツイートの面白さ。そのままの状態や気持ちを書いているだけなのだと思うがその状況でその視点をとれるのかと驚く。怒りも単なる怒りではなくさっきの父親に関するツイートも内容は「うーん、よくある構図」なのだがそんな一般化できる書き方ではなかった。「その人らしさ」というものがあるのならばこういうところにそれは発見されるらしい。

言葉をなくす。なんだか人はすごい。恐ろしいところも逞しいところも面白いところも良い意味だけではなくて本当にすごい。自分もその一人とはとても思えない。

相変わらず頭痛は激しくやるべきことは山積みでしんどさを感じやすくなっていたがそんなのはすっと背景に退いたようだった。ムクっと頭をまっすぐに戻した。そしてやる気が出て何かが進んだとかでは全くないし、みんながんばってるんだから私もがんばらなくては、という気持ちになったとかでも全くない。ただ現実に戻された感じがした。もうしばらくしたら身近な人にああしてくれないこうしてくれないと言い出しそうになっていたかもしれない状態はとりあえず脱した気がした。

私の周りには本が溢れていて毎日なにかしら読んでいる。でもこれらの出来事はこの本たちのどこにも見つけることができないだろう。言葉を失う。その体験は本を読むのとはまた別の仕方で私に影響を与えている。

生まれたら育まれること、生かされること、それが当たり前になされるために、ということを考える。大人もその育ちの延長にあるわけで大人になったから急にそれが義務となるわけではないだろうけどできることは確実に多いはず。突っ伏していた頭をまっすぐに戻す。まずは突き動かされるところからだとしても。

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マシなほうへ

やってもやってもしんどい、というほどやっていないからもっとしんどい。あーあ。がんばれるかな。色々割り切って集中できればいいけどそうもいかないのね、私は。すぐにもやあっとした気持ちになってしまうから何も見ず何も聞かず作業に没頭できればいいのだけど今のPCは多機能すぎてダメだね。ワープロ時代の方が作業が早かった気がする。もう忘れてるからそんな気がするだけだろうけど。きっと今のいろんなモヤモヤも時間をかけて別の何かに変わっていくのだろうけどとりあえずそんな場合ではないのにそうなってしまう今、今をどうにかしてください、誰か。他力では無理だけど願うだけならいいよね。誰かー。頼みはAIか?でも「現状ではAIに責任を取らせることなどできません」(『いまを生きるカント倫理学』171頁)。

いろんなこと、誰かが決めてくれたらいいのに。という部分に対して法律や制度ってできたのかもね。でもそれだと窮屈なのよね、となるとそんなのいらないとなる。たぶん、制度がなくても自由を持て余すことはできない、というか自由って何かと何かの間で求められるものだと思うから人に対する態度と自分の思いや態度が常に矛盾しがちな私たちの自由って常に窮屈を伴うと思う。そしてその窮屈さが人間を愚かな(主観です)暴走から守っているのだとも思う。

うーん、これは昨日あげたアリス・ロバーツ『飼いならす』や秋元康隆『いまを生きるカント倫理学』の内容を思い起こすけどあまり余裕ないからカントの「法の普遍的原理」のところだけとりあえずメモしておこう。

「誰のどのような行為でも、その行為が、あるいは、その行為の格率から見て、その人の選択意志の自由が、誰の自由とも普遍的法則に従って両立できるならば、その行為は正しい。」(『人倫の形而上学』)177頁

「カント倫理学(「徳論」)における「自由」とは、自己の感性的欲求から完全に自由であることを意味するのですが、ここでは法律論(「法論」)について説かれており、そのため「自由」の意味合いが異なっています。私たちの日常的な使用法に近く、「自分の好き勝手に振る舞うこと」と理解してください。」178頁

だから法律は大事。でも「誰もが相互に納得できるようなもの」となると、うーん・・・。仮象に騙されるな!」には「気をつけます」と答えたいが「徹頭徹尾、自分の理性を用いて、批判的な吟味を加えること」となるとまたもやうーん・・・。自分がもっとも信用ならない。とはいえこういうモヤモヤをすぐに言葉にして公開してしまうのではなく、この人だったら、あの人だったら、あの時の自分だったら、昔お父さんが、などいろんな視点から考えることでなんとなく自分にも相手にもそれなりに負担のない見方を得られたりもするからあれこれあーだこーだは大事かもね。精神分析の自由連想ってそんな感じでそれを数年間やってきて本当に辛い時期もあったけど今は気楽。あーだこーだに付き合ってくれる相手って大事ね。

秋元康隆『いまを生きるカント倫理学』は自己開示的というわけではないのだけどまさに現代を生きる私たちが考えるべき問題が生活から離れない形で取り上げられた対話的な本だった。あーだこーだに付き合ってくれる。

私は千葉雅也さんがいうマイルドヤンキー的な環境にいるのも好きなんだけどこうやってダラダラ書いたり本読んだりしているうちに別の世界と出会うのも好き。能力ってそんなに高くなくてもなんとかなる部分が多くて、と思うのは私は結局ひとりで仕事をしていないしどんなに辛くても苦しくても実際に一緒にいる人間とのことだから空想をふくまらせてもお互いの現実がそれを有限化してくれるからかも。歳をとってきて治らない頭痛とか身体の限界とか否認したところで何か変わるわけではないと思うような体験もそれなりにしてきた。今も毎日しんどい局面は色々あれど記憶力がないせいか老化のためかその合間合間で「あ、洗濯物」など現実がちょこちょこ顔を出してくれて答えなき終わりなき疑惑や問いに区切りを入れてくれるのを感じる。だから、というわけでもないけど今日もとりあえずいつもの感じではじめましょうか。しんどくても緩やかにそれよりはマシな場所へ。「さっきより少し楽」。そんな感触を大切に。

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飼いならす

深夜にカラスが一声鳴いた。変な声だった。大丈夫だったかな。カラスはどこにいてもかっこいい。ゴミ捨て場を二羽で漁る(鳥だけど)姿も迫力がある。ぴょんぴょん歩くのはちょっと間が抜けててかわいい。ずっと前のことだけど、隣駅の商店街を散歩していてふと見上げたら家の屋上でゴルフクラブを振り回してカラスとやり合っている(?)人がいた。まるでいつもの喧嘩のように。道具の利用って難しいね、人間。

アリス・ロバーツ『飼いならす 世界を変えた10種類の動植物』(明石書店)という本がある。人間は動物を飼ったり、植物を栽培したり野生に手を加えてきた、と書けば一方的だが、それによって人間もまた飼いならされてきた、ということ。取り上げられるのはイヌ 、コムギ 、ウシ 、トウモロコシ 、ジャガイモ 、ニワトリ、イネ 、ウマ 、リンゴ 、そしてヒトの10種。とりあえず全部知っているが、中を読むと全然知らなかったな、となる。先史時代へ。「そこは今とは似ても似つかない世界だ。都市はなく、集落もなく、農地もない。まだ氷河期の凍てつく魔の手に捕らえられていた。そこでわれわれは、最初の協力者に出会う。」

この本の「はじめに」で著者はダーウィンが使用した「人為artificial」と言う言葉は「種を飼育栽培するプロセスにおいて、恣意的な意図の役割を誇張しすぎている」という。そして別の表現を模索する。Tamed 飼いならすはそのプロセスで生まれた言葉なのだろう。

最後の「ヒト」の章のエピグラフがこの本の要約となるかもしれない。

「歴史にまつわる多くの問題は、人間と植物の相互作用によってしか理解できない。」

ーニコライ・ヴァヴィロフ

出版社の紹介ページを見てもわかると思うが、これだけ学際的な本となるとその多様さゆえにシンプルな説明しかできない気がする。つまり「興味があれば読んでみて」となる。

精神分析では「欲動を飼いならす」ということがいわれるのだが、ということはまだ蝉がジージー賑やかな時期に書いた。

どちらも自分の力が直接的には及ばないところに向けて使われている「飼いならす」という言葉。興味深い。飼いならしているつもりが飼いならされている。とりあえずの均衡、破壊や絶滅が起きていない状態をいうのだろう、と私は理解している。

毎日、様々なこころの状態と出会い続けているとその対立はその場でなかったらその時間でなかったらそのタイミングでなかったらその言語を使う人でなかったら「対立」ではなくなってたかもしれない、と思うことも多い。

今日も身体的に触れることなく、しかしかなり直接的な言葉で対面で人と会っていく。保育園では触れるけど。言葉が作る距離は彼らの移動距離とずれがありすぎる。まだまだそばにいて少しずつ。そんななかでも私たちはお互いを変えていく。世界を変えていく。少しずつ少しずつ。

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Web学会、朔太郎

誕生日祝いに故郷では有名なケーキ屋さんの焼き菓子が届いた。「朔太郎の詩」と名付けられたフィナンシェ。素敵でしょ。萩原朔太郎もこの地で生まれた。

この週末、日本心理臨床学会のWeb大会というのがはじまった。1ヶ月間様々な講演やシンポジウムをWeb上で視聴できる。

今年6月末、日本臨床心理士資格認定協会に対して教育研修制度に関する要望とコロナ禍に伴う制度の変更に関する議事録開示のお願いを書面で提出した。

全国の臨床心理士のみなさんから署名や助言、激励の形でご協力いただいたが1ヶ月を過ぎても受理のお返事がなく心配した。紙になったからといって個人情報の重要性が薄まるわけはなく、私たちはそれらの扱いを気にしていた。自分がどこの誰であるかを明確にしながら明らかに非対称の関係にある相手に向けてこういう活動をするのはなかなかエネルギーのいることで根拠はないが経験からくる不安がその都度顔を出した。戦いたいわけではない。ただ普通に、自分たちの仕事、ひいては生活に関わることなので知りたいしできることはやっていきたい、こう書けば極めて当たり前のことなのだが組織というのはなかなか難しく、反射的にパターン的にされがちな反応というのも推測してしまい不安になったりもした。人のこころって本当にこうやって動くんだな、と実感した。とにもかくにも内容に対する返答以前にまずはそれが無事に届いたかどうか知りたかった。ラブレターでも面接場面でもこういう運動においても想いを届けたい相手にアクションを起こしたらまずはそれが受け取ってもらえたかどうか捨てられたり破られたりしていないかどうか(こういう空想をしてしまうのが人のこころの厄介さ)気になるのは同じだろう。

2ヶ月が過ぎる前に書面でお返事がきた。安心した。ひとまず受け取っていただけた。今の時代、できたらメールでやりとりがしたかったのでそれも叶うようでホッとした。

内容についてはその話し合いの形式から検討をお願いしているところだが一歩一歩だ。

今回のWeb学会で私がまず注目したのは職能委員会企画のシンポジウムだった。会員動向調査の報告とそれに関する討論が組まれていた。データは大切だ。心理職としてどうあるべきかを話し合ったり技法を学んだりということはもちろん大切だが、それを可能にする基盤にもはや潜在的にではなく可視化された問題があるのを見て見ぬ振りすることはやってはいけないような気がした。

萩原朔太郎は『虚妄の正義』(講談社文芸文庫)というアフォリズム集の中で女性について様々な観点から様々なことを書いている。それはその後変わっていったりもするのだが結構面白い。

たとえば「女性教育の新発見」は「如何にして女共から、その野獣の爪を切り取ろうか?」という文章から始まる。興味深い。「職業婦人」についての記述はややうんざりするがアクチュアル。

現実的であることは大事だ。たとえば『絶望の逃走』には別れた妻が教えてくれた唯一の教訓を書いている。私が何よりもまず会員動向調査の報告に関心を向けたことと関係していそうで可笑しかった。

「観念(イデア)で物を食はうとしないで、胃袋で消化せよ」

「妻はいつも食事の時に、もっと生々した(いきいきした)言葉でこれを言った。「ぼんやりしてないで、さっさと食べてしまひなさい。」

ー「妻の教訓1(恐ろしき蒙昧)」『絶望の逃走』所収

かくして私たちの運動は女性としてのそれでもあるらしい。確かに代表者は皆女性だ。

対立したいわけではない。ただ明らかな非対称がある場合、それを少しでも均した状態からでないと対話も何も成立しないと考える。私がもし朔太郎の身近な読者だったなら彼に「女共」というのは「女と共にってことだよね」と言ってしまうな、きっと。

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精神分析

受け身

書き出そうとしたら見えない。老眼鏡を忘れていた。

寂しさと頭痛を抱えたまま朝になった。気持ちだけでは動き出すことはできないみたい。

下北沢へ行った。時折雨がパラつくなか駅前の地べたにいくつかのグループが座り込んで何かしていた。夜の動作だと思った。あのまま朝を迎えた人もいるだろうか。

「1日」なんて区切りがなければ待ちぼうけをくらうような気持ちにならないですむのかな。

和辻哲郎随筆集』を開くと文楽の人形使いの話からだった。旅先でそれらの人形を見たことがある。佐渡でみたそれが強く印象に残っている。ジェンキンスさんと会ったのはその館のお土産屋さんだっただろうか。

「女の人形ではその足さえもないのが通例である」

「従って足を見せる必要のない女の人形にあっては肢体の半身には何もない。あるのは衣裳だけである」

「人形使い的形成」をしたそれは何がなくとも「人形使いの運動においてのみ」形を形成する、というのでそれはなくても構わないし、この随筆自体が女男のどうこうをいっているわけではまるでない。ただ人形に命を吹き込む人間と人形の動作が相互浸透していく描写は私を人形の側におき、見えないけどあると感じられる手足、吹き込まれるのを待つ命というものを思わせた。

受け身のまま朝を迎える。毎日それ以外にない。朝が来て夜が来てまた朝が来て、このリズムがなければこんな気持ちにはならないのだろうか。「こんな気持ち」という「形」があるからそれを変形させようと試みたり、捨て去るまでのシミュレーションを繰り返してみたりするのだろうか。

突然どこが痛くなるかわからない頭痛ももうどうしようもない。時折痛みに顔をしかめながら痛みの波が押し寄せたりひいたりするのに任せている。

受け身の維持。意識せずともそんなふうに過ごしていることを意識した。そうでしかいられない人生を想像した。空虚であることの重たさを感じた。

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精神分析

しんどい精読

フロイトが神経学者から精神分析家という臨床家へ変化を遂げた初期の論文を読んだ。1894年「防衛ー神経精神症」の2年後に出された「防衛ー神経精神症再論」。パリでシャルコーのもとヒステリー患者を目の当たりにしたフロイトはブロイアーと彼らとの臨床に取り組み1893年「ヒステリー現象の心的機制について」を「暫定報告」とした後、これらの論文を挟んで1895年「ヒステリー研究」を出した。岩波書店から出ている『フロイト全集』1、2、3にこれらは入っている。初期だってこと。

患者とのやりとりから自由連想という設定の潜在性に気づき「防衛(抑圧)」を発見しヒステリー症状、恐怖症、強迫神経症の由来となる機制を明らかにした「防衛ー神経精神症」と「再論」は1915年に一気に書かれた『メタサイコロジー論』(十川幸司訳、講談社学術文庫)で一旦の仕上がりをみる。一旦というのは今回読んだ「再論」も1924年まで加筆修正が加えられるなどフロイトの考えは、特に初期は臨床によって常に揺らぎ行きつ戻りつを繰り返しているからである。初期に用語としてはすでに出揃ったような精神分析の主要概念も揺らぎ続ける。昨晩読んだ論文においてフロイトは性的外傷体験を軸に一旦神経症の性的病因論を確立したかのようにみえたがその2年後には「僕は自分の神経症学を信じていません」とフリースに書き送っている。幼児性欲と心的現実が問題系として視野に入ってきたのだ。このあたりから現在に至るまで精神分析における性の扱いには様々な目が向けられてきたがフロイト自身も患者との臨床において迷い続けた。私たちのように精神分析を実践する、あるいは志している者はこの初期に生じた概念の変遷において何が変わり何が引き継がれたのかを正確に追う必要がある。性は外的な現実であれ心的な現実であれ外傷体験とともにあると捉え、それがどのように抑圧されその人固有の体験を形作ってきたのかを患者の自由連想における言葉とそれを誤読させる転移関係によって細やかに読みとっていくこと、それには理論を正確に理解することが必要なのだ。だからフロイトを精読する。

精神分析は学ぶのも体験するのもしんどい。しかしその人固有の言葉(リズムやペースを含む)を守ることが最大限重要であることを否定する人はいないだろう。私たちは日々それを守る闘いを続けているのではないだろうか、今だとSNSで。言葉のみを使用し、患者自身がそれを使うことを最優先とする精神分析は心理療法のような解決志向ではないが、他者に流されるまま自分を少しずつ失い、声をあげても自分の声ではないような気がする、という事態において固有の声を聞き直す方法として大切な役割を果たせると思う。こう書くとそんなの当たり前じゃん、身近な人とやればいいではないかという声も聞こえてきそうだが、それができている人にとってはもちろんそうだと思う。でもそうでない人が多いからこんな風にSNSが使われる時代になっているのではないだろうか。目の前の個人を信用して一緒にいることの困難は誰かに特別なものではなく誰だってそうだろうと私は思うがどうだろう。

とりあえず時間。それぞれにそれぞれできることをしながらまた考えよう。そうこうしているうちに考えも変わるかもしれないし。慌てて言葉にすることで自分の考えを外側からしばったり固めたりしないようにしよう、私はすぐ慌てるから、と意識しても失敗するかもだけどそのときはそのとき。何度でも少しずつやり直しの機会がほしいです。。。