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チョコ、チューリップ、『子規、最後の八年』のこともちょっと。

宇多田ヒカルの「普段から〜♪」で何度目かの目覚め。その前から起きていたけどぬくぬくしてた。暖かくなってもお布団の中は気持ちいい。前はNo Lie-Sense(鈴木慶一+ KERA)Kimimoshussegadekiruだったけどジャーンってうるさく始まるからびっくりしてしまっていた。起きるにはいいけど眠りの世界と断絶なく起きるには宇多田ヒカルの方があっている。今はそのままU2が流れている。懐かしい。

カーテンの向こうが明るい。南側の大きな窓のカーテンを開けたときの光を想像しながら寝返りをうって起きた。

コーヒーを入れたはいいけど食べたいお菓子がない。お菓子はあるのだけどどれも好きなお菓子なのだけどそういう気分じゃない。チョコが多いんだな。うーん。ソフトサラダもあるけどこれは夜食べたい。うーん。チョコはチョコでもこの前もらったこれにしてみるか。GRAND Chocolate Snacks Bites RASPBERRY。細長いパッケージの4個入り。フリーズドライのラズベリーがパラパラとまぶされていてかわいい。いただいてみますね。あ、これ4個入りじゃないんだ。大きいチョコがドンドンドンドンって4個入ってるのかと思ったら「枚」で数えるが適当な薄さ。一つの枠に3枚ずつなのね。ドンって大きいチョコより好き。いいじゃんいいじゃん。チョコはちょっとなあとか思ってごめんなさい。おー。粉々のラズベリーがちょうどよくダークチョコの味と混じり合う。美味しい。もう一枚、もう一枚って食べたくなるけどゆっくりゆっくり。すぐ肌に出ちゃうから。細長い箱にスーッと戻しますよ。またあとでね。原産国オランダだって。オランダ、チューリップ?オランダのチューリップも今の季節かな。日本だと砺波チューリップ公園はいいですよ。富山県砺波市ね。昔GWにとなみリューリップフェアに行ったことがあるの。今年も無事に開催されるらしいです。300品種300万本か。先日のつつじもそんな数字じゃなかったかな。すごいね、お花の種類って。植物園とかいくたびに驚くものね。同じ名前で呼んでたけどこんなに種類あるの?って。

オランダは森鴎外が最初に言ったところだっけ。最初に習った語学か。この前森鴎外記念館で学んだはずがもう曖昧。あ、誤字。「言った」だったらオランダ語、「行った」のはどっち?オランダ?ドイツ?森鴎外記念館に行った日は電車で関川夏央『子規、最後の八年』(講談社)を読んでいたの。私が先日特別展で学んだのは「鴎外の食」についてなんだけどこの本でも鴎外が最初に出てくるのは食のこと。

「陸軍の兵食の現状維持を強く主張したのは鴎外森林太郎第二軍兵站軍医部長であった」

日清戦争の時のこと。

「その鴎外を、子規は金州で訪ね、帰国船へ乗るために柳樹屯に移動する明治二十八年五月十日までの一週間、毎日会って俳句について談じた」

って。戦時中の食と俳句。どんな言葉が交わされたのかな。この一週間後、子規は帰国の船中で喀血。五月十八日馬関(下関)に到着、と書いてある。子規は日清戦争には従軍記者として出向いていて金州には句碑もあるんじゃなかったかな。なんでも曖昧だな。あとで調べてみましょう。

この本、28歳(明治二十八年)の発病から35歳で亡くなるまでの子規のことを詳細に知れる本なんだけど序章の「ベースボールの歌」からとてもいいですよ。さあ、もう準備せんと。昨晩は少し雨が降ったみたいね、オフィスにいて気づかなかった。帰る頃には上がってたし。今日はどうかな。このままいいお天気だといいですね。それではみなさんも良い一日を。

追記:wikiから辿ったらここで句碑の写真とそれに至るエピソードも見られた。

金州博物館と正岡子規の句碑 阪急トラピックス大連・旅順・金州4日間の旅2

http://4travel.jp/travelogue/10610504

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つつじ、西参道、鴎外の食

昨晩からずっと風の音がすごい。春の嵐はいつまで?東京はもう桜よりもはなみずきよりもつつじの存在感。

根津神社の文京区つつじまつりへ行った。約100種3000株のつつじがあるというつつじ苑。見事だった。根津神社は谷根千散歩のときは寄っているけどこの時期に行ったことがなかったのだろう。こんな華やかな場所があるとは知らなかった。つつじはどうも野生のイメージが強い。私のオフィスから明治神宮や小田急線参宮橋駅に向かう西参道(首都高速4号線の高架下)の植込みは道路側が銀杏、内側がつつじだったのだがあまり整備もされないまま咲く姿が毎年ワイルドで整備すればいいのにと思う一方で好きにやればいいよねと励まされてもいた。昨年からかもっと前からか明治神宮の方からずっと工事が続いており少しずつ甲州街道の方まで整備がされてきてつつじの植込みは全て取り払われ夜も明るく凸凹のないきれいな道路に変わった。先日、ニュースになっていた藤本壮介デザインの真っ白な公共トイレもその一環で作られたのだろうか。街の景色はどんどん変わる。きれいで安全なのも悪くはないが神宮外苑の再開発の見直しのが方が先にすべきことではないだろうか。これについては柏書房のWebマガジンで連載中の西本千尋「まちは言葉でできている」のこちらの記事も参考になる。

つつじの野生味に注意が向くのは目にするのがさつきつつじが多いせいかもしれない。花びらが大きい。こうやって形を整えられたり小さかったりいろんな色だったりその種類の多さを目にするとワイルドさより華やかさが際立つ。つつじとつつじの間を潜りこむように見たのは初めてかもしれない。ふわふわの真っ赤なつつじが作る影まで少し赤い気がした。

根津神社からは先日時間がなくて寄れなかった和菓子屋さんで3種類の柏餅からよもぎもち+つぶあんのを選んで食べながらまた漱石旧居後の猫を愛で、森鴎外記念館へ向かった。今は特別展「鴎外の食」が開催されている。どこかでもらったハガキのおかげで団体料金480円で入れた。私は森茉莉はたくさん読んできたが鴎外はあまり読んでいない。今回は「食」ということで鴎外の子供たち、於菟、茉莉、杏奴、類みんなの文章が読めてよかった。不律も生きていたら父鴎外のことを書いただろうか。それにしても食の話題はどうしてこんなに楽しいのだろう。時代や歴史、国や地域や家によって異なる文化、生活が生き生きと見えてくるのがいいのかもしれない。若いときは夜ごはんをみんなで食べる時間があったから仕事帰りに同僚の家でみんなで飲みながらごはん作ったりそのまま泊まったりして楽しかった。今でも年に一回とかだけどおうちに行けば美味しいものを作ってくれる友達が数人いる。逗子に住んでいる友人のところへいくと山と海に囲まれた街に育った娘さんが色々と案内してくれる。いくたびに大きくなるが数年前、岩場をぴょんぴょんと飛び回りながらおしゃべりを繰り広げる彼女に野生味を感じた。海に落ちやしないかとヒヤヒヤしながらみんなで見守った。近隣の港から上がってきた新鮮な魚を海が見える小さな店で買う。友人の夫がさばいて美味しいものを作ってくれる。きみはいつからいる猫だっけ、など猫に話しかけたり台風のときに家の屋根を壊した大きな木のことを聞いたりする。自然と繋がっている世界だから楽しいのか、食は。生身の人たちと言葉で密に繋がる仕事をしているとその人その人の欲望を知ることになる。それはあまりにそれぞれだけど共にいるために失うもの共にいることでえるものいろんなことに持ち堪えつつやっていくのだろう。

東京は強風が吹き荒れております。せめて雨が降らないといいね。気をつけて過ごしましょう。

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あれはなんだったんだろう うそもほんとも。 精神分析

「意地悪」とか「ひどい」とか。

まだ薄暗いというか明け方が曇り空なのかこの時間にしては空が黒っぽく感じる。カラスの鳴き声をいつもより大きく感じたせいかもしれない。

坂上から坂下に向かっている途中、二人の間に白いものが落ちた。「鳩?」「カラス?意地悪されたのかな」「意地悪ではないでしょ。移動式トイレだと思われたのでは」どうでもいい話で笑いながら「あ、パン屋さんだ」「このお店いい感じ」と初めての坂道を下った。

トイレットブレストというクライン派の用語がある。精神分析プロセスの描写に使う言葉だ。移動式トイレの発想はその用語を思い起こさせた。

こんな話もある。

「ひどいことしてきたのはみんな女」って言ってた、と中年の男が心配そうに仕事で利害関係のある女に相談された話をした、不倫相手に対して。そういうことを家庭持ち彼氏に愚痴る中年女性に対して大抵の人なら感じそうなことを男も感じたようだったがその女にはそうしたくないようだった。無条件で「サイコー」と言ってくれる女はキープしたかった。男は他人の人生相談に公開でのることがあった。自分の相談は週一で手早く食事をして身体を弄れる相手にした。「誰でもいいわけではない」と言いながら「女にばかりひどいことをされる」という女が自分を心配してくれるLINEを嬉しそうにみせた。週一でその女の満足そうなコメントと共にSNSに映りこむうちに身体だけの女とは別れた。「生活に口出しされたのが嫌だった。意地悪をされているみたいだった」というのが別れた理由だった。

「意地悪」について考える。それぞれがそれぞれの場面でいろんな口調で「意地悪」とか「ひどい」とかいう言葉を使う。排出について。「あの本は誰々と誰々の子どもみたいなものだからね」「どうせ排泄物なんだから好きに言葉にすればいいんだよ」。いろんな水準の排出について。うーん。カラスは意地悪ではない、と思う。人間だって意地悪をしたくてしているのではない、と思いたい。うーん。排出と消化と取り入れ。誰かを都合よく利用するのではないあり方って案外難しいかも?自分だけはそんなことしない、なんてことはないだろうから。まあ、とりあえず今日もはじめましょう。何があってもなくてもとりあえず。

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文京区

東京はいいお天気。昨日は降ったり止んだりだったのですよ。久しぶりに都営三田線と南北線に乗った。新宿区のオフィス以外は主に文京区にいました。

春日駅前の文京シビックセンターの展望室で街を一望してから動きたかったけどワクチン接種会場になっていたのでした。高崎市役所だっけな、どこかの展望室に行ったときも展望レストランが会場になっていたので半分側からしかみられなかったことあったな。都庁の展望室も北側のはワクチン接種会場ですよね。まさか展望室をこういうふうに利用する日がくるとは誰も思っていなかっただろうけど。展望室は屋内だけど広場を開いておくというのは大切なことですよね。新宿ごはんプラス と 認定NPO法人もやいは共催で都庁前でお弁当の提供とか相談会とかしてたりするし。colaboの活動の場も奪われないといい。

文京区は樋口一葉ゆかりの地でもあって、本郷菊坂あたりには少女時代を過ごした法眞寺、旧居跡の井戸、貧しくなって頻繁に利用した旧伊勢谷質店とかがある。東大のそばの道を入っていく本郷菊坂へ向かう菊坂通りは菊富士ホテルというのがあったところで多くの文豪が利用したことで有名。歩きながら街灯の柱に書いてある文豪たちの紹介文を読むのも楽しい。この前調べていた石川啄木が亡くなったのも親友の金田一京助が住んでいたのもこの辺。根津・千駄木エリアにも色々ある。夏目漱石旧居跡は「猫の家」ということで猫が二匹いました。日本医科大学のそばです。森鴎外記念館や根津神社つつじまつりにいきたかったのだけど時間もなく雨にも降られまた今度ということに。行ってみたいお店もたくさん見つかったからまたいこう。大好きな小石川植物園もいつもは茗荷谷からいくのだけど今度は白山からいくのもいいなとか地理も少しわかった。よき散歩だった。

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樋口一葉の記念館へ行った

月曜日。朝イチで速達を出しにいくこと。ひとつ苦手な仕事を終えた。眠い。

台東区立一葉記念館へ行った。場所は『たけくらべ』の舞台となった龍泉寺町、現在の地名は台東区竜泉。日比谷線入谷駅から歩いたがウェブサイトにはお隣の三ノ輪駅の方が最寄りとある。日比谷、入谷は韻が同じなので何度か聞き返した。樋口一葉を取り巻く人々の中でも韻が同じ人がいてそれも何度か聞き返した。一葉には歌塾「萩の舎」で出会った伊藤夏子という友達がいた。一葉の本名は「奈津」だが和歌の筆名は「夏子」だったようで周りには「伊なっちゃん」「樋なっちゃん」と呼び分けられていたというエピソードもよかった。「萩の舎」に入った頃の二人はまだ15歳くらい。一葉は24歳でなくなったのでそれから10年ほどしか生きられなかったがその間に書かれた作品の多さにも驚くし、一葉が体験した苦労にも驚いた。これについては昨年、中央公論新社から伊藤氏貴『樋口一葉赤貧日記』という面白い本がでた。装画は丹下京子さん。句友でもある京子さんのイラストはユーモラスでほのぼのしててとても好き。

今一葉記念館では企画展「樋口一葉と和歌 ―かなの美―」が開催されており「萩の舎」で一葉が交流した人たちの和歌も見ることができる。私には自力で読みとることができないくずし字だがとってもきれいな字でどの短冊も美しく文字も絵画と同じように楽しめるものだなあと思った。一葉の記念碑もある記念館の前の公園はソメイヨシノがチラチラと散っていてご老人が犬に盛んに話しかけているのを耳にしながら写真をとった。iphoneだからなのかもしれないが写真が光で白っぽくなることが増えた。季節が進んでいるなあと思った。素敵な時期に行けてよかった。

その後の小さな句会では司会をしてくださった方がなぜか突然告知タイムをもうけてくれたことでその方もびっくりのお知らせをふたつも聞くことができた。句友のみなさんは賞をとったりしてもあまり自分から発信されないけどこうしてみんなで驚いたり喜びあう機会があってよかった。

いろんなことがあるけれど素敵なこともありますように。新しい1週間もなんとかやっていきましょう。

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地獄、花曇

熱田の宮まんじゅうは何にでも合う。今日は大好きな白桃烏龍と。

なんでまた自分だけ子供になって散々嘘ついてる相手にいい子いい子してもらってるわけ、本当に毎回毎回よくそういうことできるよねといえばそういう人だからああいうことが起きたんでしょと嗜められる。

いろんなことは矛盾しているようで矛盾してないんだよ。こっちの矛盾はあっちでは矛盾ではない。投げやりな謝罪はいつのまにか「あんなに謝ったのにいつまでいってるの?自分だけが傷ついたと思ってんの?馬鹿じゃないの?」くらいに変わってるもんだよ。何が起きても「お互い様」ってやつ。人がたくさんいるってそういうことじゃん・・・。

そうなの?だから毎日「地獄だな」と思っちゃうのか。地獄知らないのにしっくりくるのはあれは人間の世界をかなり正確に切り取ってるからか。本当の裁きの場に持ち込む負担はものすごいから避けたいとしてもどうしても仮の裁きの場がほしくなるだろうしね。でも地獄ではなぜか裁かれるのはそこに出向いちゃった方だからずーっと煮たり焼いたりされながら死なずに生きることを求められて「でも大丈夫、神様がいるよ」みたいなノリに半笑いしながら疲れた心身を委ねることもありうるよね。自分の罪も抱えながらずっと絶望してればそうなるか・・・。半分死んでるような状態がこれからもずっと続くのか。本当に辛い。

ということを素直に言える相手がいるとしたらそれはやっぱり人がたくさんいるってそういうことなんだなと思えるかもしれない。でもいえない人はどうだろう。人を壊すのは孤立だという人は多い。人間誰しもひとりとはいえ「本当にひとりだ」と感じる出来事が起きない限りそれは日々の色々に紛れてそんな際立ってこない。じわじわと忍び寄るその感覚を自分でかき消し誰かの心身を傷つけてでも「そんなはずはない」と思い込もうとする機制も人は持ってる。自分で自分を欺く。本当に矛盾だ。そしてそれは矛盾ではない。地獄でケアを語ることだって可能だ。殺した相手のうめき声を聞きながら次なる相手の相談にのっていた事件もあった。「そんなことする人に見えなかった」と聞くとき「だったらどんな人だったら」と思う。戦争をしているのも同じ人間だ。なんだって自分とは無関係ではない。無関係だと思えるとしたらたまたまそう思える環境にいたということではないだろうか。そこには被害と加害という単純な言葉では捉えられない犠牲も献身も愛も憎しみもある。今日もぐちゃぐちゃの気持ちを抱えながら「日曜日なのに」と文句を言いながら(あるいは言われながら)自分ではどうにもならない「これ」をどうやり過ごそうか。自分ではどうにもならないのだから願うのみか。祈るのみか。

昨年、九品仏でみた紅葉が見事だった。総門を入ってすぐの閻魔堂にはそれなりに人がいた。あの辺は桜もきれいかもしれない。閻魔堂、地獄を安全に外在化させている場所といえるだろうか。あるかどうかわからないものを外在化というのは変だけどこころだってそういうものだろう。私はあの日門に近づくにつれ見えてきた紅葉に一瞬強い苦痛を忘れた。人がたくさんいる世界にはたくさんの人工物も自然もある。どうにかこうにかやっていこうとする人ができるだけ安全にそれらに守ってもらえたらいいなと思う。

今日は花曇。良い一日を。

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けん玉、布マスク、ポストコロナ?

紅茶の抽出時間中、ごちゃっとしたテーブルのオレンジの陶器の入れ物にさしてあったけん玉をなんとなくやってみた。一回で真ん中に入れるのに成功。私、これだけ得意。この真ん中にさすのって名前があるのかな、昔なんか言ってた気がすると思って検索したらありました、玉をけん先にさす技=とめけん。そういえばけん玉って剣を玉にさす遊びなんだよね。これが剣であることを忘れとった。お、そうか、最初からwikiを見ればよかったのか。日本けん玉協会のサイトが先に目にはいったからそっちをみたのだけど面白いよ、いろんな技がある。「とめけん」はこうやって膝曲げないと合格にならないのかな。私は小手先だから不合格かも?こんな朝に一発で入れたのに?もしそうだったらガーン。

さて、wikipediaの「けん玉」には

けん玉(けんだま)は、十字状の「けん(剣)」と穴の空いた「玉」で構成される玩具。日本をはじめ、世界各国で遊ばれている。なお表記には剣玉、拳玉、剣球、拳球などがあるが、21世紀初頭では「けん玉」が一般的。

とあります。へえ(読んでる)。

けん玉、オフィスに置いておいて練習しようかなと思ったけど注意力ないくせにそれだけ集中しそうだからダメ、と思って元の場所ではなくごちゃっとしたテーブルの上に置いたら昔小さい子がビーズで作ってくれたヘアゴムがあった。布マスクはもういらないかな。短期間だけど大変お世話になりました。不織布不織布ってなってからはオンラインでも売り切れ続出だった布マスクの受容もあっという間になくなっちゃったね。誰もがはじめて体験する事態では何が正しいか間違っているかなんてわからないからいろんなことが起きた3年近くでしたね。布マスクをオンラインでみているうちにそれまで何度か利用していた着物のはぎれでスカートを作ってくれる個人のサイトが閉じていたのに気づきました。とても残念。どのスカートもいつも周りの人に褒めてもらっていました。ありがとうございました。お互いの住所と名前を知っている関係だけど一度もお会いしたことはないしこれからもお会いしないのでしょうね。不思議。私は旅好きだから旅先ですれ違ったりするでしょうか。そのスカートはいてたら気づくかな。いつもバックパッカー旅だからスカートはかないけどその土地へいく機会があったらはいてもいいかもしれません。

昨日も渋谷の混雑について話しながらこの3年近く、この街にいかに人が少なかったかを実感した。慌てて行かなくてはいけない場所にもスイスイいけた。今は歩くスピードも混雑に委ねるしかない。でもコロナ前だってそうだった。コロナで仕事も家も失った人たちにもお会いした、しばらくして会えなくなったりもした。突然の転校や転居を強いられた子どもたちもいるし、突然会えなくなった人たちもいた。今はみんなどうしているだろう。また会えるのだろうか。多分会えない。生きていれば?元の生活に戻っていれば?どうだろう。悲しいけどそれは本当には「元」ではないから難しいかもしれない。でもどこかですれ違うかもしれない。そう思うのはこれまでも偶然びっくりするような場所で友達や知り合いとすれ違うことがあったからかもしれない。地元に帰ると幼稚園のときからの友達に声をかけられたり、名前とか全然思い出せないけど知っている人に呼び止められたりもする。これは小さいときからそうか。田舎はそういうものか。新宿や渋谷も偶然見かけたりすれ違ったりすることが割と多い気がする。とても笑えない状況を作った人が楽しそうにしているのを渋谷で偶然見かけたことがある。向こうにしてみたら楽しく笑うためにいいっぱなしやりっぱなしにしたわけだろうけど人はあっという間にさっぱりしちゃうんだなともっと辛くなった。事実をなかったことにしないという想いを強くした。コロナ禍で見えたものも見えなくなったものもある。失ったものや得たものとどう関わるかはそれまでのプロセスと現実の状況が大きく影響するだろう。なかったことにして「前を向く」?そうする人もいるだろうけどそれはその人のひとつの選択であってそうすべきことかどうかそれがよきことかどうかは他人が決めることではない。どの気持ちも状態もその人がどう感じどう捉えているかでしかないし判断をするならそれはある特定の事柄に対してでありその人全体をジャッジすることなどできない。特定の出来事もある人は忘れ、ある人はとどまり続け分断も乖離も進むかもしれない。それでもせめてひとりにならないように。これまでのなにかが支えてくれますように。それでもなんとか、と日々繰り返し呟きながらなんとかやっていきましょうね、わたしたち。

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膝痛

またここで寝てしまった。寝ようと思って立ち上がる予定が座ったままそこで眠ってしまった。膝が痛い。大失敗だ。こんなに関節が痛くなることが自分に起きると思っていただろうか?ここまでとは思っていなかったと思う。加齢でも怪我でも病気でもなんでもありうるだろうけど専門家に聞くのが一番ということで病院にいこうと思う。が、時間がない。どうしましょう。作る以外にない。仕事をする時間が減るということはそのまま収入を得る時間が減るということであり、開業設定で臨床をするというのは本当は身体の予防もきちんとしないといけないわけですね。まぁでもこういうことの積み重ねが何度もないと学ばないのも自分ということで病院へいきましょう。旅に出られなくなるとか嫌だもの。この前、いくつかの県の物産館へ行ったら行きたい場所が増えちゃったし。

私がいく整形外科はとっても混むのだよなあ。とってもいい先生なんだけれども、というかいい先生だから混むのだろうけど。小さな町のお医者さんという感じなんだけど、もう何年前かわからないけどこのブログにも登場してもらったと思う。声が大きくて明るい先生で、診断の手順が細やかで質問が的確で触り方も丁寧。私には専門的なことはよくわからないけど診察を受けている間に自分の骨のこととか自然に理解できて仕組みを自然にみせてくれるお医者さんは信頼できるなあと私は思う。あれだけの数をみていればパターン的になる先生もいると思うが患者が症状を説明できるように質問をして訴えをよく聞いて除外診断のための画像診断とかあれこれとかもしっかり説明つきでしてくれて他機関へのリファーに関するあれこれも信頼できる。だからそこへ行きたい。が、ものすごく混む。待ち時間に外へ出ていることは可能なのでPCを忘れてはならない。ああ、でもできたら行かないですむのが一番。そのためにも行かねば。ああ。

どの世界でも数を見るというのは大事、と素朴に思う。本などで診断基準を学んでも実際をみないとそれがどういうものかは自分のイメージでしかない。それはまずい。思い込みの診断は当然してはいけないけどある程度数をみて全体を掴んでおかないと個別の違いもわからない。だからセカンドオピニオンがあったりするし、心理職の場合、スーパーヴィジョンやコンサルテーションの利用は当然だし、医者と仕事している場合も適切な連携が大切だろう。

私はこの仕事に関しては多様な領域で相当の数の人と経験を積んできているが臨床心理士だからどうこうみたいな厳しい意見を見かけたりすると100年後もそれは正しいのかなと考えたりする。もちろん自分の考えに対してもそう思っている。一方、一点だけ100年後とかではなくて今を常に見直すべきと思っているのは性的搾取に関わる事柄だ。女がなぜ今こうか、男がなぜ今こうか、これについてはたくさんの文献も体験も臨床経験も合わせて丁寧に書かねばならないことなのでこういうスピードでは書けないが「しかたない」「そういうものだ」と無意識的にこれまでのあり方を変化することを嫌う力には違和感を感じ続ける身体と心でありたいと思う。

それにしてもこの痛み困った困った。3月もあと3日?困った困った。今日もバタバタと過ぎていくのだろうけどとりあえず準備しましょうか。みなさんも自分の状態をモニタリングしつつ必要なケアを受けつつお過ごしになれますように。どうぞお大事に。

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月曜日

朝日で起きたつもりだったのにぼーっとしている間に部屋が暗くなってる。PC使う分には問題ないけど暗いなー(電気つければいいじゃん)。もうこんな時間。ぼーっとしているときが一番時間の流れが早い気がする。ぼーっとすることができない人たちともたくさん会ってきた。したことがないからその感覚がわからない。やってみようとしてできるものでもない。ぼーっとするってこんな感じ?とやってみても課題をこなしてるみたいで全然ぼーっとしていない。まあ、どれもこれも主観なので「ぼーっとしてた」と本人が感じればそれがそうってことかもね。

はあ。眠いし身体は痛いし何もしたくないけど月曜日がきましたよ。白桃烏龍のお茶をいれてようやくPCの前に座れた。もらったの。これ大好き。美味しい。昨日はとても寒かったですよね。結構な雨だったし。東京は地下道が多くて本当に助かるなあと思った一日でした。雨を避けて歩いていたらこんなところにこんな道が、こんなお店が、という出会いもあって楽しかったです。

夜は資料を突き合わせながらやっぱり何かを強く感じたときはそれを正確に残しておく努力をした方がいいなと感じました。残すといってもSNSに垂れ流すとかではなくて。権利や尊厳を損なうような行為に関しては特に。いろんなことがなかったことにされていくなかいつまでもそんなこといってる自分がおかしいのではないか、と思わされることがしばしばだったとしても残しておくとその時に生じた事実に立ち戻れるのであとから「残しておいてよかった」と思うと思います。それがなかったことにされるプロセスなんてあっさりしたもので「人って取っ替え引っ替えできるんだ」という絶望に落とし込まれることもありますし、その感覚がvividなうちに残そうとすることは辛くて苦しくて死にたくてしかたないかもしれないけれど。

今週もなんとかやっていきましょう。

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ペアいろいろ

昨年、下北沢の「日記祭」へ行った。書き手とおしゃべりしながら買えるスタイルなのだがペンネームとはいえ不倫相手とのことも綴られた日記を書いた人とお話しするのは不思議な気分だった。その人もそれを夫に読ませたい気持ちがなくはないようだったし不倫相手に妻なり恋人なりメインのパートナーがいるわけではなさそうだったのでそれがもし広まったとしてもその人的にはあまり問題ないのだろう。その後の経過もネットに公開されていたし編集者など別の視点を通さない売り方をあえて選ぶとしたらやはり読まれたい気持ちが強いのかもしれない。わからないけれど。また、編集者さんや校正者さんも自分の日記を手売りしていて、ある編集者さんの日記には私が好きな本がたくさんあがっておりその人が編集した本だと知った。それまで編集者と作家って密着しながら関係や利害をうやむやにしているというイメージがあったけど(そういう方が身近だったから)そうではない人もいると知って安心した。その人が担当するのは心理職が読むべき専門書以外の本が多く、今年に入ってからもすでに数冊出しておられる。4月以降も次々に出すらしい本たちも要チェック。

さて、ペアでやる仕事は非対称の二者に引きこもり第三者性を失うことも多い。搾取したり排除したりする自分をその敵意の対象ごとなかったことにする代わりに別の対象に「素敵です」「最高です」とかお互い言いあいながらする諸々を「なんでも仕事」としているペアもいる。彼らはお互いの依存でナルシシズムを維持し、互いのわかりやすくエモい自分語りに対する共感と賞賛を示し、自分が受け入れられないもの(まさにその人そのものにも関わらず)へは偉そうに傍観者的な態度で評価を平然と行う。恐ろしいなと思う。colaboに抗議するSNS上の人たちと何が違うのだろう、ということをnoteにも書いた。第三者性を失い、バウンダリーのないナルシシズム的二者(=私たちだけが正しいの世界)がいう「第三者としては」という態度の尊大なこと。とても嫌な気持ちになるが彼らの幼稚で尊大なあり方はcolaboに中止要請がなされるような世界では主流だと思われるので観察と記録は大切だろう。一方、主流ではなくても地道に、ごく自然な思いやりでお互いの仕事や立場を守りながら着実にいい作品を作り上げていくペアの仕事が大切にされる世界も一方ではあるのだからそれらが支えてくれるだろう。

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外は雨

友人からLINEがきた。前日には間接的にしか触れられなかったものが目の前にきた感じがした。大学時代の悲しい別れを思い出した。いろんなことがバラバラと思い浮かぶのを感じながらノロノロと動いた。電車で隅っこに立ってぼんやりしていると急に込み上げてくるものがあったがそのままにしておいた。

元気にしているだろうか。亡くなった人に対して思うことがある。お墓参りから帰ってきた家族と「お父さん(お母さん)、元気だった?」「うん」と言葉を交わすことがある。心の中に住み着いているその人たちは割といつも元気な気がする。

お花を買いにいきたい。でも外は雨。大量の写真を買ったばかりの外付けHDDにダウンロードしながらすでにこの春たくさん撮ったお花の写真を眺めた。お花を買いにいく代わりに何枚かをSNSにあげた。

外は雨。雨音に時々鳥の声がまじる。さまざまに耐えがたい気持ちをただじっと感じながら穏やかな想い出に助けられる瞬間もありますように、と願う。

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再読中

早朝から『ホロコースト最年少生存者たち 100人の物語からたどるその後の生活』(柏書房)を再読。冒頭の写真から重たい気持ちになるが本書は精神分析が陥りがちな問題について考えるにも必読の一冊だろう。なかでも心的外傷(トラウマ)の語りを聞くことにまつわる困難は本書で多く引用されるアンナ・フロイトやジュディス・ケステンバーグのエピソードから学ぶことができる。

先日、この本の書評を書かれた甲南大学の森茂起先生の最終講義があったそうだ。気づいたときには登録期限が終わっていた。タイトルは「フェレンツィとの出会い―臨床・科学・アートの狭間を歩む」。森先生とフェレンツィをつなぐのはトラウマ理論だと思うがどんなお話だったのだろう。聞きたかった。

フェレンツィは1873年ハンガリーに生まれた精神分析家でユング(1875年生)と同世代だ。二人ともフロイトとの人間関係から語られることが多いが、その臨床とそこから導かれた理論はオリジナリティに溢れておりフロイトの理論にも影響を与え(「とりいれ」という用語はフェレンツィから、など)どちらも精神分析の限界を考えるときに特別な視点を提示している。日本で精神分析を学ぶ人が一番読んでいるフェレンツィの論文は「大人と子どもの間の言葉の混乱──やさしさの言葉と情熱の言葉」(1933)だろうか。これは森先生たちが訳されたフェレンツィ『精神分析への最後の貢献ーフェレンツィ後期著作集』に収められている。この本はそれまで断片でしか紹介されてこなかったフェレンツィの後期の思索を追える一冊で、フェレンツィが死の前年まで書いていた『臨床日記【新装版】』と一緒に読まれるとよいかもしれない。こちらも森先生の翻訳だ。フェレンツィは当時の精神分析の世界では受け入れがたかった心的外傷についての理解を広めた。この頃の精神分析については『心の革命 精神分析の創造』(REVOLUTION IN MIND) ジョージ・マカーリ著、遠藤不比人訳(2020.みすず書房)も参考になる。

あ、時間がなくなってしまった。再読を続けよう。

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ひとりとみんな

いいお天気。朝からきちんと食べてしまった。おなかいっぱい。

10年以上仕事をともにしている人たちと集まった。仕事ではバタバタと準備をしながら必要な確認事項を交わすくらいの余裕しかないがこの関係になるとそのほんの数分の中のさらに短い時間でも普通にお茶しながら話すのと同じくらいの濃さがあるしこういう時間に支えられている。それでも実際にゆっくり会えるとなるとそれはまた全く別の楽しさがあって「嬉しい!!」と連発したくなる気持ちもみんな同じだ。

ひとりでオフィスを構えて仕事をしていると当たり前だがなんでもひとりでやるわけだがこうしてたまに会ういろんな人との繋がりが緩やかに豊かにあってくれることでひとりでやれているんだなと実感する。社会人になってはじめて勤めた職場の同僚もいまだに支えてくれる。

人のこころの恐ろしい部分、ずっと苦しめられ続けるであろうことは今後も変わらないだろうけどそこだけで生きているわけでもない。いろんなシビアな局面にも自分で対応しなくてはいけないがどんな行動にもこれまでの私のあり方が出るだけだからいろんなふうにやってみる。そして何かまずいことが起きたらまた助けてもらいながらやり直す。その繰り返しかな。ひとりでやることとみんなでやることの豊かな連動を、孤独になればなるほどそうではないと静かに支えてくれる力を今日も忘れないでいられますように。

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嫌だった。怖かった。

雨か。昨日は雨予報だったわりに夜遅い帰り道もそんなに降られなくてよかった。天気予報知っていたのに水に弱いスニーカーで出ちゃって「やだなぁ」と思っていたから。帰り道に濡れる分にはまあいっかとなるけど。どうして天気予報を気にするわりにすぐ忘れてうちを出るときのお天気に靴を合わせちゃうのかしらね。なんでも「あーあ」で済ませられるからかしらね、放っておいても乾くとわかってるからだよね。

そうそう、この前、とても暖くなるという予報だった日、中は薄着にして薄手のダウンを羽織った。毎日夜遅くまで仕事してるから帰り道の寒さをいつも警戒してる。ただでさえいつも人より厚着してるけどこの日もそうだった。ホームへの階段をあがってパラパラと並んでいる人の前を黄色い線に気をつけながら歩いていたら背の高い初老の方が私が通り過ぎる瞬間にすごく大きな声で「あつそう!!」と言った。すごく嫌な感じに聞こえたけど反応せず通り過ぎてあとから振り返ったらこっちを見ててすぐに背中を向けた。「暑そう」って言ったよね。「あ、そう」とかじゃないよね。しかも怒鳴りました?さすがに私に対してですよね?背の高い人が低い私の頭上から野太い声で。その勢いでホームに落ちそうでしたなんてことはなくてよかったけどああいう場合無視する余裕があったわけではなく単に無反応になることで危険を回避しているだけなので怖いのですよ、ものすごく、本当は。知識としてでいいから知っておいていただきたいのだけど。それに私は私のために厚着しててしかも全く暑いとか思っておらずむしろちょうどいいじゃんと思っていたのです。私の感じ方など興味がないと思いますがそういう人もいると知っておいていただきたいのです。知識で反応を遅らせることはそこそこできるので。とにかくもし私が厚着することで不快さを感じたとしてもそれは自由なのですが、反射的に大きな声でそれをぶつけてくるのはやめてください。これがご自身と同じような見かけの方にでも同じことなさいましたか、というのもよくある質問なのだけど私くらいの厚着の方、そばにおられましたよね。もちろん私だからだろうと思って私は言っています。背の低い女の私はしょっちゅうこういう嫌な目に遭うのでほとんどパターンでこういうこと書けてしまうのだけどそんなことはできなくていいことですししたくもありません。でも書いておきます。気持ちの負担で時間を奪うにも程度があります。どうかお気をつけて。何歳になってもできることってあると思いますよ、機械的にで構わないのです、本当に。

と思ったことがあったの。嫌だったー。怖かったー。もう!!今日はまずは足元から気をつけましょうね。安全に気持ちよく過ごせますように。

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精神分析

シモーヌ・ド・ボーヴォワール『決定版 第二の性 Ⅰ 事実と神話』(河出文庫)を読んだり。

カラスが遠くで鳴いている。スズメはすぐそばで。薄暗い朝。雨が降るのかな。昨晩、いつもの帰り道で桜が咲いていた。もうすぐもうすぐと蕾が膨らむのを見上げながら通り過ぎていたけど今年も変わらず咲いた。何事もなかったかのように。

「多分本当にわからないんだろうなあ、そんなことありうるのか、あるんだろうなあ」と私の理解を超えたわからなさにどうにか耐えながらこれも仕方ないあれも仕方ないと何も言わずにいた。一番嫌なことだけは伝えた。それが一番嫌だったんだろうだなあ。それが氷山の一角であれ、その下に広がるものと繋がっていることくらい本人の無意識は掴んでいるのだろうから。ただ人は健康を守るために良い部分、悪い部分を別々の人に投影して悪い部分を押し付けて切り離すという病的なことができてしまうのでチャンチャンと。病院に通う必要がない病気で健康を保つってことをしているのが私たち。あえて病気と書いているけどこれを病的な防衛機制とよんでいるのが精神分析。精神分析は異常と正常をスペクトラムと捉える、ということを学びはじめから何度も何度も教わった。

シモーヌ・ド・ボーヴォワール『決定版 第二の性 Ⅰ 事実と神話』(河出文庫)をため息をつきながら読んでいた。これは長く復刊が待たれながらなぜか実現してこなかった本。今回は新潮文庫版に改訂を加え河出書房新社から出版。翻訳チーム『第二の性』を原文で読み直す会の井上たか子によるあとがきから読むのもいいと思う。なんにしても早めに買うべき一冊ではなかろうか。4月にはⅡも出るそう。冒頭のエピグラフはピタゴラスとプーラン・ド・ラ・バール。プーラン・ド・ラ・バールという人は『両性平等論 』(叢書・ウニベルシタス)という本を書いているのか。これも読んでみよう。それにしても「ド」が「怒」に変換されるのを見ると女たちは怒ってきたんだなと改めて思ったりする。

「私は長いあいだ女性についての本を書くことをためらってきた。この主題はいらだたしい、とくに女にとっては。それに新しくもない。」

書き出しから魅力的な本書は訳文の読みやすさはもちろん内容の面白さに最初から惹き込まれるがため息もたくさん出てしまう。はあ。

そして、ボーヴォワールの精神分析に対する評価を私はとても正当だと思うし、それを取り上げて書く仕方も好きだ。

ここでは冒頭に引用されたピタゴラスを引用させてもらおう。

秩序と光と男を創った善の原理と、混沌と闇と女を創った悪の原理がある。

ーピタゴラス

どこにもかしこにも存在するスプリット。それをどう曖昧にこなしていこうか。いくつものスプリットに引き裂かれたこころをどうかき集めていこうか。いびつでもそれなりに正気を保って生きていく力なら大体の人に備わっているはず。善とか悪とかうるさい、と思いながら言いながら今日も何とか。

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精神分析

「気のせい」「おまえのせい」

また作業しながら眠ってしまった。というか何も進まないままただここで眠ってしまった。身体が痛い。歯が痛い。歯は関係ないけど歯軋りのせいかも。マウスピース作ってもらったけど全然使ってない。歯って治療を始めるとなぜかほかの歯も痛くなりませんか。私がお世話になっている歯医者さんはすごく優しくて説明も丁寧なのだけど痛いものは痛いというのが現実の辛いところですね。でも優しいのはありがたいですね。痛い、辛いということをわかってもらえるありがたみってすごい。

痛みというか不快さに耐えるというか傷というものに関わり続けていくことが精神分析の基本的な作業なのだと思うけど耐え難いものは耐え難い。自分の身体のことなら自分で引き受けるしかないが、と一瞬思ったがそんなことないね。むしろそれこそ「どうして自分が」となるかもしれない。相手あることであればそこで生じた不快さは関係という観点から考えることができるかもしれないけど身体は痛いとか辛いとか八つ当たりするとか理不尽を叫ぶとかいうことはできてもその痛みは常に自分で抱えこまなくてはいけないものとして内側に存在しつづける。ものすごいナルシシズムに巻き込まれたとき、心もそんな状態になるけれど。だから辛いのだろう。いないものとして扱われる、いらないものとして扱われる、何事もなかったかのように平然と生きている相手に蝕まれ続ける世界。それでも物理的な距離をとることができたり時間が過ぎていくことにじっと身を委ねることができるという点では身体に対するなすすべなさと比較したらマシかもしれない。でもなあ、余命宣告されその期間を生きながらえもういつどうなるかはわからないと余命も測れない宣告(?)を受けながら生きておられる(た)人たちを知っているがそれはそれで本人も家族も拍子抜けしたと笑い、それで痛みが減るわけでは全くないのに死に対する態度が変わっていくような例もある。人ってわからない。自分のことも全然わからない。やはりたとえ具体的なことはできなくても痛みや苦痛を「気のせい」とか「おまえのせい」とかにしないことされないことの力の大きさたるや、ということになるだろうか。

今日もあれこれ。みなさんはどんな感じ?ずーっと辛いとかいうことのありませんように。世界を呪いたくなるような瞬間からも部分的に回復できますように。きっと「気のせい」でも「おまえのせい」でもないよ。東京はいいお天気。今はこの部屋は陽射しでいっぱい。でもここで「えー今日は雨なのー」みたいなこと書いて玄関を出たらピッカピカの晴れということもあるからこのあとはどうかな。いろんなことわからないけどなんとか今日も一日過ごしましょ。またね。

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精神分析

西村賢太「疒の歌」、深瀬昌久展など。

二度寝してしまった。いつも途中一度は起きるけど今日はきちんと2回寝たという感じがする。今朝の地震、またかと思いながらいずれくるであろう大地震のことを少し思った。映画「日本沈没」は私が生まれた年の映画で小さい頃に再放送?ビデオ?かなにかでみたがいまだ思い浮かべるのは特定の一場面だ。誰かと離れるということ、小さな私にはそれが一番怖いことだったのだろう。

西村賢太「疒の歌」を読んでいる、とnoteにも書いた。やまいだれって自動変換ででないからウィキからコピペ。「疒」。私にはもっとも馴染みのある部首ですね。臨床、という言葉はそれと共にある言葉だから。

本当にあったことを嘘のこととして細部を積み重ねながら書いていきたいなと思って読んでいるが、西村賢太はすごいな。というか貫多、十九歳、すごい。面白い、というのもなんだかだが「駄々っ子気質の完璧主義者」、めんどくせーと思いつつこういう人いるいる、自分にもあるある、となる。共感したくないがせざるをえないというのは精神分析で防衛解釈をされたときの感じだ。直接言われないだけマイルドだから面白がっていられるが。

あ、深瀬昌久展のことを書こうと思っていたのに。場所は恵比寿の東京都写真美術館。写真は本当に面白いな。うつすものがなければ始まらないが時代と土地の力に圧倒されるのは文学より写真だ。写真家がカメラに憑依し一体化してしまうまでのプロセスを決して多くない数の写真なのに細かく見せられたような気がした。過剰さはないがインパクトのあるとてもいい展示だった。そこから色々と考えさせられたことを書こうと思ったが時間切れ。やることが多い。あれだけ嫌だった確定申告がはじめてみたら意外とあっさり終わったことに何か間違っているのではないかと不安を感じるがまあとりあえず出そう。何かあれば後から言ってくるだろう。何もありませんように。

それにしても今朝は地震が続く。どうかみなさんもご無事で。ご安全に。

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精神分析

「みんな」、use、伊万里

何歳になっても誕生日をお祝いしてほしい人だったな、とある人を思い浮かべた。私もいろんな記念日は忘れてても誕生日くらいは覚えているけど自分からお祝いしてほしいとか思わないから不思議だった。しかもその人は「みんな」にそうしてほしいみたいだった。そういえば親たちの誕生日を親から仄めかされ(なくても日付ちょっと怪しいながら覚えているけど)たことってないと思う。自分が誰かを生み出していると自分の誕生についての認識が変わるのかしらね。そんなはずないか、とも思うけど誰かが心の中にいるって自分自分ってなる暇をなくす(悪い意味ではなく)のかも、ここにもbeingとdoingの違いがあるんだろうな。今日は別のある人の誕生日。本人も忘れている可能性が高いし私もいざ会ったら伝えるの忘れそうだから書いておこう。おめでとう。

ウィニコットのuseの概念を精神分析を受けることで実感したわけだけど自分の心の中に人がbeingしていないと安心して人をuseできない。搾取という意味でのuseでもなく、クレーンとしてのuseでもなく。

秋にウィニコットの書き物について話す予定があるんだった。この辺の論文を取り上げようかな。ああ。今積んでいることをどうにかせねば。

さっきNHK俳句で佐賀県伊万里市の方の俳句が入選していた。伊万里市は行ったばかり。あの居酒屋知ってるかな。2月で閉店するといっていた親子でやっている細長いカウンターだけのとっても味のあるお店。いつもはご夫婦だけでやっておられるみたいだけどあの日はとても混んでいてお子さんが大活躍だった。もう80いくつだから、と父である店長は笑っていた。常連さんにすごく惜しまれながら。すごいことだ。たまたまだったけどちょうど空いた席に入れてもらえてよかった。そういえば隣の新婚カップルとのやりとりも可笑しかったな。みなさんお元気でありますように。

河津桜はもう葉桜に変わりましたね。いよいよソメイヨシノも開花かな。花粉で辛い方も多いと思うけど今日もご無事によき春を。

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精神分析

なんでもないことはなんでもないこと。

お湯が沸いた。低めの音でパチンといった。いろんなこと着々とやっているつもりが終わりがないし新しくやるべきことはどんどん入ってくる。まあなんとかなるよね、結果的に。なるのかな。

なかったことにする人って本当にどこまでもどこまでも終わりなくその活動を繰り返すんだなあと眺めている。それでもうまくいかなくなったら忘れられる権利とかを軽薄に持ち出しそう。もはやそういうのは「活動」だなと思う。加担する人も似たような人ばかり。まずはカップルを形成して似たようなことをするところから。依存も排除もひとりでではできないものね。そういうのは数が増えても依存と排除であって協力でもなんでもないので搾取と侵害をさらにひどい形で繰り返しているだけじゃないかなと思うけど。「活動」に対する「運動」というのもある。私たちの運動の相手は政治家であり同業者なわけだけど別のなかったことにする人グループを見ているとその人たちのあり方とよく似ている。膨れる集団。なんにしてもなかったことになどできないのだけどね。そうしない人が生きているうちは。

冷凍ごはんを冷凍庫からガタガタと取り出す。タッパーで冷凍しているからベリベリと少し蓋を開けて電子レンジにいれる。その間に納豆をかき混ぜる。あの音はなんて表現したらいいのかな。さっき一度鳴った電子レンジが早く取り出せとばかりにもう一度なる。はいはい覚えていますよ。納豆まで準備してごはん忘れたりしないと思う、さすがに。そのうちそうなりそうだけど。

近所のコンビニみたいなお店が早くもなくなるのでコーヒーを買ってきた。閉店で安くなっているとかではないけど安いドリップコーヒーはそこで買ってたから。私はいつもそれを「おいしいコーヒー」と言い間違えるけど「いつものコーヒー」だぞ、と心の中で確認しているときに「うまいコーヒーだよ、いつものコーヒーじゃないよ」と言われて驚いた。ありゃ、どっちにしてもまた間違ってた。

関係が良好だとなんでもないことに何度でも笑える。なんでもないことは実際になんでもないことでしかないのに、という一言を言いにくくなるような圧力を受けることもある。どうでもいい一言にまで正確さを求められようになったらその関係は支配関係かも。それを怖いといえなくなったらその関係はとても悲しく辛くて苦しいけど離れた方がいいかもしれない。怖いし愛情も混ざってるから離れがたくて頭が真っ白になる瞬間が増えて解離を起こすときもあるかもだけど相手のことを思うならなおさら離れた方がいい。そういうことをする人は大抵なかったことにする人でそういうことをさせない人が必要だから。怖くて悲しくて辛い気持ちは心身が回復したら別の形で見て見ぬ振りをしない人に向かって伝えていこう、ということを別の場所で書いた。

今日は20度まであがると教えてもらった。「すごいね」といったが何がすごいかはわからない。相手も「ねー」と言っただけ。イラッとされて「なにが?」とか聞かれる人もいる。どうだっていいじゃん、ということにまで憎しみを向けられるようになった、愛情なんてそんなもの?そんなことないよ。最初から搾取の文脈に使われてしまったのかもしれない。攻撃性というのは関係性を使って複雑に表現されるから。自分だけがそうされたから自分が悪い、なんてことはない。そう思わされることはいっぱい起きるだろうけど断じてそんなことはない。似たようなことが真逆の形をとっていたりするのは普通のこと。

なんでもないことに溢れている小さな日常がきちんとなんでもないこととして扱ってもらえますように。朝から苦しむなんてことのありませんように。願うばかりでそうでない現実は世の中に溢れていると知っているけどそれでも願う。

東京はよく晴れていますよ。それぞれの場所でどうぞご無事でご安全に。

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精神分析

早朝

自分が書いたものに向けられた批評のやりとりに対するご本人の理性的で論理的な応答をみた。実際現場で困難を引き受けながら仕事をしている人の強さだと思った。性的搾取についてコミュニケーションをたつことでなかったことにした人が公私混同パートナーとフェミニズムに触れていた。自由や倫理と同じく見るだけ知るだけ語るだけなら実際のあり方などどうでもいい(というのが世の中か)、とさっきと真逆のことも思った。深夜のSNSでは、すごく面白い書評を書く人が書評している本をつい買ってしまうけど〜、とちょっと可笑しい投稿があった。その人も独特の書き手だけどこんな感じのことも書くんだと新鮮だった。最近はどんな本を書いているのだろう。

暖房をつけっぱなしでうとうとしてしまった。まだ鳥の声がするには早い。

確定申告が嫌すぎてまだできていない。これに関してはSNSが非常に助けになった。私の好きな書き手である女性たちが「したくない」「辛い」と書く仕方が面白くて励みになった。だからといって進んでいないけど。そして彼らがなぜこんなに辛いのかということを確定申告の意義まで遡って検討しているのもとても共感した。頭ではわかっていても行動には結びつかないことは多い。理性は感情にたやすく負ける。

カラスが鳴いている。鳴き始めたというのか?カラスって夜も突然鳴くからいまいちわかりづらい。スズメたちが起きるまでお布団にいようかな。暖房ついていてもなんか肌寒いよね、この時間。今日もいろんな人たちに困らされたり励まされたりしつつ進まないものたちを抱えつつなんとかやれたらいいですね。

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今はこう。今はここ。

右側の髪の毛を重く感じた。頭がすごいことになっているときもそんなふうに感じないのに。にしても髪が少なくなった。女性でも髪は減る。昔は黒くて豊かな髪ともてはやされたのに。今思うとああやって黒髪がやたら褒められるの変だよね。ワカメが好きだからとかさ。と書きながらもしかしたらすごいことになっていたりして、と鏡を見たけどまあ普通だった。多分寝ているときに変な格好をして髪と地肌が引っ張られたのだろう。

またどうでもいいことを書いているが昨晩もハラスメントや暴力がなくならないわけについて具体的な出来事に基づいて考えた。そうしたら眠れなくなったが今日も起きられた。意地でも行動を変えないことで自分には責任はないという態度を維持する「ひどい人」をそうとは知らずサポートしてしまう「いい人」たち。とても誠実に女性に寄り添うフェミニストだってそこには含まれる。見えないものを知ることはできない。恐ろしい世の中だな。というか世の中はこうやって恐ろしくなっていくんだな、といえる素材が揃ってきた気がする。揃えたくなくても日々そういう状況を目や耳にしてしまうのが現状。具体的な流れのパターンが見えてくると眠れなくなるほどに苦しいときも一定の冷静さは保たれていると感じる人もいる。そのあり方が解離である場合もあるが人はどうにかこうにか生き延びようとするものらしい。

出来事が起きれば考えざるを得ないはずだが考える力を奪われつつ進行する事態は多い。それまでたくさんお世話になってきたとばかりに人を無邪気に信頼し続けられるような関係ばかりならいいけど現実はそうではない。信頼していたのに、と生活自体が一変してしまう人だっている。そうまでなってもすぐには立ち上がれない。すでに思考停止になっているから。苦しくて眠れない日々を過ごす間もそれを公にしない限りは同じ人物と誰かの無邪気で楽しげな信頼関係を見せつけられる。SNS時代だ。自分もかつてはそうだったと問題をずらしてやり過ごす人だっているだろう。利益が絡み契約がはっきりしていない関係はもっと難しい。「仕事だから」「だから?」と。

「仕事だから」に限らずそこに含まれる物言わせぬ圧力に「だからなに?だったらなにやってもいいわけ?」とはいえないことともしばしばだ。圧力を受け続け少しずつ蝕まれてきた。もう限界、と立ち上がりたいがまずそこから回復しなければならない。そしてその間にも搾取は続くだろうし、その人となにも知らない周りの人たちは、という繰り返しもあるだろう。累積外傷という言い方はしっくりくる。よって悲しいこと苦しいことに終わりはなく大抵悪いのは弱い立場の人という構造は維持される、のか?現状はそうか。本当はそこで生じていることはそんな単純なことではなく気持ちもぐちゃぐちゃぐるぐるとものすごい複雑なのにまず単純な構造にしないと思考停止の仮死状態が続いてしまう。それでも何度も襲ってくる痛みを消せるわけではないのであまりの負担に「次行こー」「前を向こう」と自らを励ましてはズタズタになって戻ってくる人もいる。矛盾する感情に疲労し無気力で動けない日々を過ごしている人もいる。だからまずはシンプルに。自分に扱える範囲を一緒に探そう。でもそのプロセスはあくまで自分の気持ちを殺さないためのものだからそれを忘れてしまわないようにしよう。なんで自分こんなことしてるんだっけ、とひとりで迷子にならないように。「今はこう」「今はここ」少しずつ少しずつ。

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精神分析

寝不足、聞き方、当たり前

寝不足のまま冬が終わった、とか書けるのは朝が暖かくなってきた証拠だ。寒いうちは寝不足よりも寒さに気を取られてびびっていた。毎年寒さにびびりすぎているがそれ以外になすすべなしなまま今年も寒さが緩んできた。慣れないことに慣れた。毎日まだ暗いうちから起きて何かはしているがそんなだったら寝ていたほうがいいのではないかというグータラな時間を過ごすことも多い。むしろその時間がほしくて起きてしまうのか?わからん。まあ寝不足にも色々あって不安と疑惑に苛まれ真夜中に目を覚ましスマホをみて予想通りのことを目にし予想通りにも関わらず苦しくて眠れない、という日々を過ごす人もいればなんとなく寝たり起きたりしているうちに朝になっているけどそれなりに元気みたいな寝不足もある。私がお会いする方の多くは睡眠に関してなんらかの困難を抱えている。使われる薬は同じだとしてもそれについての描写は様々だ。とはいえ、それでもやはり睡眠や食事は生活の基本なのでほかに話されることとは少し聞き方も異なりサクサクと抑えておかねばならないことを聴取したりする。何年も医師にも並行してかかっている人でも医師の前では「お変わりありませんか」「はい」みたいなやりとりをしてしまい、あちらが色々選択肢を準備してくれたとしてもなんとなく全部「大丈夫です」とか言ってしまう人も少なくない。こちらで話を聞きながら「お医者さんに言ってみました?」「(首を横にふる)だって先生(医師)忙しそうだし」という人もいれば「なんていえばいいんですか」といつもそこからみたいな場合もある。そういわれると「あ、そこからだったか」とわかるので助かる。

私は精神分析だけやっているわけではないというか精神分析を求める人というのはそう多くないのでいろんな形でいろんな方とお会いしていくわけだけど話をよく聞いてその人がなにを言いたいのかを教えてもらうのはお互いにとって有意義だと感じるしなんらかの驚きがたくさんあるので驚く(楽しいとか面白いとかも違うかなと思って)。精神分析はよくわからないけどむやみに嫌味や批判の対象にされやすい。否応なく相手がいる場所で自分の言葉を発し続けることで自分のモヤモヤや自分でも受け入れ難い考えと出会って(相手がいるってそういう機会だから。)それに対する自分の態度に「あれ?」と思ってSNSとかではなくずっとそこにいる治療者に違和感をぶつけてみたりしながらいい悪い正しい間違ってるとかの基準ではない見方で自分が他人や状況をどう体験しているかに気づいていく。あえて目的というなら今とは違う目と耳と身体で体験し言葉にしていけること、だろうか。ダラダラダラダラしゃべっていても「なんで自分こんなダラダラしゃべってんの」と気づいて止まって「ああそういえば」と一見全く繋がりのないことが想起され話されたりする。それの連続。よく勘違いされるように過去に因果関係を求めているわけではなく、過去から続いている今の自分がこんな苦しいのはこういう見方や行動と関係あるのかということを聞き方を知っている治療者の前で話すことで体験、吟味しなおし、たとえ今こんなにダメな気持ちで何もできないとしても自分がダメとか誰かのせいとかそんな単純なものではないんだなということにじっくり触れていく。それが衝動的な行動化や身体化の予防にもなっていく。そのための手助けをしている。そしてそのための訓練をしている。確かにエヴィデンスとは馴染みにくい方法ではある。でもそれについて実践的に学んだことやある基準を満たしている分析家のもとでそれを体験したこともない臨床家(こんな前置きつけずとも「臨床している人が」)が国際的に実践と研究が積み重ねられ続けている技法に対してとても学問的とは思えない口ぶりで何か言っているのをみると当事者の言葉や体験を大切にするって仕事だとしても本当に難しいんだなと思う。エヴィデンスが足りないという理由で「正しく」ないもの、自分にとってなんとなく「良い」とは感じられないものはどう扱ってもいいわけではない、というごく当たり前のことがせめて共有されるといいと思う。そこには人間がいるので。

今日は夜は雨が降るの?今こんないいお天気なのに?洗濯物はどうしましょう。花粉も飛んでるから外出さないほうがいいかしらね。みんなもう起きたかな。寝ていない人も寝不足の人もいっぱい寝たけど寝足りない人もどうぞご無事で。できたら元気で。

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精神分析

カタカタカタカタやっているが一向に進まない。なぜ。書いては消しているからか。なのでサボってこうしている。そんな場合ではない。ああ。

まず思考停止し、再度読み直し、またしばし停止し、自分の読み方が何か違うのではとまた読み直し、やや混乱しながら大変な不快さに襲われるニュースが多い。「教育・人材力強化調査会」を検索してみたら役員一覧をツイートしている人がいた。ああ。心なんて見えないものの扱い方がわからないのは仕方ないにしても身体はその人のものであってなんてことをわざわざ書くのも思考停止を防ぐためでしかないのかもしれない。

なになにができる身体、できない身体で分類するのはたやすい。そうしたい、したくないという欲望も当然持つ身体だが自分自身でもそれに気づくことは難しかったりするからまた厄介。

しまった、うとうとしてしまった。作業に戻ろう。

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精神分析

紅茶、目覚め、ひどい人

お湯沸かしてる。ティファール系は沸くのも早いけど冷めるのも早くない?ポンと沸いた音がする。美味しい紅茶をいただいたのでそれにしようかな。「素敵な一日になりますように」というメッセージ付き。おお、個包装ひとつひとつにも書いてある。これみんなに分けるにもいいですね。ありがとう。「3-5分後」というハイフンが短すぎて35分後かと一瞬目を疑った。そんな特別な紅茶なのか!?と。そんなはずないじゃんね。冷めちゃうよ。うわぁ、きれい。ジャーマンカモミール、ジャスミンフラワー。ジャジャ繋がりだね。最初の職場で「ジャージャージャー炊飯器ー♪」という所ジョージ的ソングを披露してバカにされつつ喜ばれたのを思い出しますね。ああ、とってもいい香り。全然目が覚めなそうだよ。美味しい。

目が覚めるのは嫌なものを見るとき。目が覚める以前に眠れなくなる。ひどいことを言う人が公の場にいるのは政治家からしてそうだけど個人的にひどいなあと思っている人が倫理とか自由とか語っているのを知ると、いや知っていたけど、ああこの世は地獄だなあと眠れなくなるよね。私のいうひどい人は悪いものはout、楽しいもの美味しいもの知識的なものだけinする人のことなんだけどそういうのってひどいけど誰の周りにはおられるでしょう。誰かにとってはとってもいい人として。

視界からは消せないけど見せないようにしてくれてありがたい、というようなことをハラスメントを受けた方が呟いていたけど見える形で存在しつづける「悪」とは簡単にはいえないひどい人に対してはどうすればいいのでしょう。こちらが目を閉じれば?ひきこもれば?SNSもみない、周りの人も気を遣ってくれる、そういう努力をしてもしても消えることなんかない痛みはどうしよもない?また「自分が何したのかわかってないのか」とか言われてこっちのせいにされておしまい?そうやって繰り返す?

苦しいですね、こういうの。終わりが見えない。視界から消すことも今の時代は本当に難しい。言葉はどんどん見える形になる時代だもの。長い間眠れない日々を過ごしながらなんとか持ち堪えている人にこの紅茶を渡したい。メッセージつきは嫌かな。「素敵」なんて言葉みたくないかもしれないね。それがいかに言葉でしかないかを体験してしまった人にとっては。とってもきれいでとっても美味しいこれを共有したいけど思い出したくない香りかもしれないね。トラウマという言葉で括ることなく傷ついた体験を細やかに共有することは難しいけれどどういうことが起きるとどういうことが生じやすいかを知ることは役に立つだろうか。私たち専門家は知ってはいるけどだからといって傷つきを予防したり回避したり他の人より素早く楽な方に向かわせるなんてできない。そういうことが難しい場合があるんだよ、ということを実感を持って知っているだけ。

さあ、やるべきことやらないと、と毎日思うだけでなにも進んでいないけどなかったことにはできないからね。どうにかなることを自分に期待しよう。

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精神分析

小さな間違い、矛盾、積み重ね

チョコレートを食べすぎている。肌にもでちゃっている。というか肌の調子はここ一年ずっと悪い。本当にひどくなったとき以外何もしないからきちんとせいという話か。メイクをほとんどしないから肌に負担かけてないと思い込んでるけどそんなはずない、というのを何十年繰り返しているのでしょう。なのにまたチョコもらっちゃった。しかも美味しい。困る。

昨日、クリックポストで本が届いた。あまりに薄くて間違って空っぽのまま送られてきてしまったのではないかと疑ったくらい。きちんと入ってたよ。薄い本。読む余裕がなくてまだ起きっぱなしだけど今日持ち歩こうか。クリックポストってどうしてクリックポストっていうのかしら。1クリックで送れるよ、とか?そんなはずないよね。ポストに入れないとね。なんとなくクイックポストかと思ってた。プロセス上どこかがクイックなんだろう、と勝手に。このくらいの間違いなら誰のことも傷つけなさそうだからこのくらいの間違いの繰り返しで生きていきたいと思ったけどこういう小さな間違いの積み重ねがいろんな問題の構造化に繋がっているのかもしれないとも思った。積み重ねられる何かって怖い。いい方向に構造化されてほしい。いい方向への関係がほしい。悪循環はもう目にしすぎてる。方向転換のために何が必要か模索せねば。小さな間違いに注意を払うところからか、自分の。ああ。

人新生の本でラディカルなことをいっていた斉藤幸平さん(ご本人は何かで「あえて」といっていたけど)、神宮外苑再開発認可取消裁判の原告になったのか。原告何人くらいいるんだろう。各界の専門家60名くらいか。ほんと力を持つ人は口ばかりではなくこういうことに力を発揮してほしい。色々偉そうなこというけどおまえはどうなんだよ、なにやってくれんだよ、ということを常に問われる立場になるということなんだろうから、ああいう本を書くということは。対立関係を作らないための構造について熱く語っている人がいつも同じ人やサイドをスピーディーに支持している様子をみると言葉ってむしろ・・・と思ってしまうときもある。身体へのアプローチとの矛盾があるとなおさら混乱する。嫌いな相手の身体を触ることに対してものすごい葛藤を抱えながら仕事をしている人もいればそれとこれとは別でした、はいすいませんでした、みたいな人もいるけど他人の体験を体験することは自分を通してじゃないと難しいからそれに対して何かをできるのも自分。通じ合えないのはしかたない。でも他人との小さな積み重ねを自分の良い方向への動力にできる人はたくさんいると思う。この場合の「良い」も曖昧なものだけれど。今日もよくわからないけど良さの方向へ偶然が導いてくれますように。みんなの自分じゃどうにもならないこともそんな方向へいけますように。

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あれはなんだったんだろう 精神分析

「問題」「事件」「よくあること」とか。

寝不足だけど眠くはない。この場合、寝不足というのはショートスリーパーの人でもこのくらいは寝るんじゃないの?みたいな基準と比較しているだけなので私が眠くないのなら全く構わないのかもしれないが多分どうせきっとこの後すぐ眠くなって移動とかが辛くなりそう。

ここでも何度も使っている表現がある。特定の人をさしているようでそうでもないみたいな書き方も頻繁にしている。昔、私の先生が本を出したときに「この本を読んだ先生の患者さんは皆さんご自身のことだと思うのかも」といったら「そうかもね」と先生は笑った。ものすごくたくさんの人それぞれと膨大な時間を過ごして記録を書き続ける生活をしていれば人のある程度普遍的な部分というのを描写できるようになるので読む側はどこかしらに自分と先生との関係や自分の特徴を見出す。というか人ってなんかどこにでも自分を見出すでしょう。八百万の神と多くの人は抵抗なく共存していて自分の性格とか運勢とか言い当てられちゃったりするわけだし。

私は自分を含めた女が身体と心を傷つけられたと感じた、感じている、感じ続けている場合の状態をいろんなふうに書いているのだけどほんと言葉っていかようにもとれるよな、と思うことがしばしば。たとえばひろゆきみたいな人のことを書くことでひろゆきを問題視するリベラルで無難な「いい人」のことも書いているみたいなことがよく起きていると感じる。そういう重なり合いがセクシュアリティに関する出来事を「問題」としたり「事件ではない」とか「よくあること」としたりすることと関係あると思っている。境界線はどこかしら。巧妙に発信し、巧妙に誤読するというように意識的にやることもできるけど何も考えずに読んだり聞いたりしているのに相手の意図や別の人との受け取りと全く違ったということだって生じる。特定の人のセクシュアリティをひどく傷つけると同時に別の人のセクシュアリティに良きものとして絡んでいく社会的には人気者、なんていくらでも聞いたことがあると思うけどこういうのを実感を持って考えていくと法律の壁や連帯の難しさとかものすごくいろんなことに陰鬱としてくるんだな。社会的に裁かれることもなく平然と賞賛と共感をえる小さい社会でのインフルエンサーでももっと公の偉い人、すごい人でも誰か特定の人のセクシュアルなこころを踏み躙りつづけている可能性というかそういう実態があることを描写し続けることは大切だと思う。

さて、週末は前意識と無意識の間で言葉がどのように変容していくかを考えることになりそう。痛みの多い毎日に防衛一方で過ごすのは自分のこころを殺しているようで辛すぎるけどそうでもしないと外に出ることもできず身を潜めるしかない人もいることに思いを馳せつつ今日も。

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あれはなんだったんだろう 精神分析

見えないことの扱われ方

山梨銘菓「くろ玉」、かわいいし上品な美味しさだった。

どうしてこの人のやることは支持されてこの人のやることは事件にされたのだろう。行為としてはほとんど同じなのに、と話すことがある。ここでも「あれはなんだったんだろう」シリーズで書いたと思うけど主にセクシュアリティに関することは思弁ではなく具体的に個別的に考える必要があるのでいくらかの加工をしつつ残しておくことが大切だと思う。女の身体が絡む場合はいつという時間の観点も必要だろう。「年齢とか関係ない」とか気楽にいえる人はそれはそれで幸福かもしれないが人の痛みに鈍感でいられているということかもしれない。

友達と話したりnoteに創作をしていると支配や搾取の芽は欲望がある限りそれぞれが持っていると感じる。同じような体験を繰り返すことで前の体験をなかったことにしたり、抑圧を強めることで別の仕方で表現したり、それらの構造を探りつつ目の前の相手との関係で葛藤したり、それぞれのあり方でそれらの現れ方や外からの評価は全く異なると感じる。でも一番感じるのはそれが問題や事件として認識されるかどうかはそれまでの環境が少なからず影響しているということ。環境というよりは構造といった方がいいかもしれない。

SNSにみられるパターン的な共感、同調の行為は自己顕示欲を見知らぬ人に満たしてもらうことを可能にしただけでなく、かわいいと思えなくなったら捨てられてしまうペットのように扱われる人、そう扱う人を増やしたかもしれない。「まさかそんなことをする人とは」というほどにも近くない「良い」部分だけで関わり合える関係における共感、賞賛はそれを受ける人には気持ちよく、そうでない自分、そうでない関係を葛藤的に否認したりしながら様々なネガテイブな気持ちと関わり合う面倒を減らす効果もあるのだろう。ひとりをポイ捨てしても多くの人が変わらず好きでいてくれている、という量の問題。トロッコ問題を意味のない問題設定としていたあの人も自分のこととなるとそんな感じだった。大丈夫、みんながいる、という場合の意味も変わってきているのかもしれない。

二次被害、三次被害という言い方をすることがあるがその言い方ってどうなんだろう。たとえばポイ捨てされた人が傷つき続けるか、回復するかは確かにその相手がその件で社会的にどう判断されるかも関係するだろうし、その人が元々持つ資源や環境やその後のケア的な何かと出会えるかどうかも関係するだろう。一方、二次三次とかでなくただずっと継続して膨らむばかりの傷つきもある。これは何よりもその出来事の終わり方が関係しているのではないかと思う。心身を密に付き合わせるなかで積み重ねてきたものをどう扱われるのかというのはその人の人生を左右するでしょう。周りからは決して見えないことに対してお互いがどう責任をとるのかということでもある。難しいけど今日も生きていかないとね。いかないとってことはないけどなんとかがんばろ。

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精神分析

やってみなくちゃわからない

眠い。コーヒーであつい。ポンカンを先に食べてしまったのはなんか失敗。中学生のときだっけ、舌のどこでどの味を感じるかとう味覚の勉強をしたとき、舌を区分けしたつもりで辛い食べ物を甘味を感じる舌先において一瞬「辛くない!」とかやってみたでしょ。え?してない?小学校の時だったかもな。どの部分から痛みを感じるかとかいう実験も魔法をかけあうみたいにみんなでやってみたり私の学びなんてそんなのばかりだな。

韓国料理だかカレーだか忘れてしまったけれど猛烈に辛いものを食べた記憶をさっきから手繰り寄せようとしているのだけどボワーンとした記憶しか出てこないな。すぐに「無理!」とやめなかった気がする。今なんてすべてにおいて「無理をしない」だから絶対残してると思う。おなか壊して仕事に響くとかいやだし、と少しは現実見当ができるようになったわけですね。多分ね、あのときは「これ食べ続けたらどうなるんだろう」という興味だけで涙流しながら身体が痛くなるくらい食べてた。というか、誰だったかは覚えていないのだけどその人は普通に美味しく食べてたし、同じ人間なのにどうしてって思うでしょ。私が変なのかな。変なのかも。まあいいか。色々やってみなくちゃわからないよ。

「やってみなくちゃわからない」「やっぱそうだよね」

個人で開業を考えている友人の相談に乗りながら何度か言った気がする。私は精神分析の訓練には浸かっているけどどうやったら儲かるかみたいな商人としての知識やスキルに非常に乏しく自分の不注意と記憶力のなさによる失敗をしないということに重きをおいているので商人としてはその人に教えてもらうことのほうが多いと思う。大体私のところにそういう相談にくる人たちは私にそういうの求めてないし。それにみんな臨床経験も長いのでひとりでオフィスを構える場合の臨床上のあれこれも想像はできるしそれもそこまで心配していない。なら何を相談に?相談ではないんだな。明確な質問事項はそれはそれであったとしてもそれよりもイメージを欲しているんだろうね。そのためにはそういう場に行ってみてあれこれ感じながら聞いてみるのが一番。だからアドバイスはほとんど「やってみなくちゃわからない」だけで問題なし、だと思う。実際そんなことばかりだし。どうやら患者さんがはじめて治療者を訪れる体験と同じような体験になるみたいね。勉強会とかで他人のオフィスへいくのとはだいぶ違うみたい。わかる。私は最初から治療として治療者のオフィスへ行ったからものすごく緊張したけどあの体験こそ大事だったと思う。相談に来てくれる人たちも似たようなインパクトによって「自分だったら」というイメージを具体的に膨らませることができるみたい。それでがんばれそうって元気な感じになってくれるのは嬉しい。きちっとしたスキルは基本的に大切だけど自分がその場でどのくらい自由でいられるかを感覚的に知れることも大事なんでしょうね。臨床は患者さんと向き合っているときはひとりだけど横の繋がりがあってこそ。いろんな人を心に住まわせていろんな心の部分と関わっていくためにお互い協力して精進しましょ。

今日も始まっちゃった。過ぎてみなければわからない時間をどう過ごすかもそれぞれですね。なんとかやっていきましょう。身体だけは気遣いながら過ごしましょうね(学び)。

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精神分析

工夫

わざと寝坊することってありませんか。絶対これは寝坊だぞってわかってるのに寝るの。そこそこはっきり自覚できる理由とともに。

身体能力とか発言力とか権力とかさまざまな力関係において明らかに劣勢な場合、劣勢側の工夫というのは面白くて大抵の場合本とかには書かれていないと思います。

長い期間様々な人の工夫を聞いてきてかなりストックはあるのですがそれはその方がある特定の外からはみえない関係のなかで誰にも言わずにいることで、あるいは意識的でいられないほど切迫した状態で編み出した工夫なので上澄みを掬ったりみんな向けに改変したりできない類のものです。彼らの体験、とても持ちこたえることなどできなそうな情緒、どうにか生き延びたときにやったこと、そのときは死にたい気持ちをどうにかしてどうにかするためにしたことだったけどああそうか言われてみればその積み重ねで今もなんとか生きてるのか、あれはそのための工夫だったのか、努力だったのか、と思い出しては二人で笑いあうような。

多くの人が日々そんな工夫を期せずして編み出しながらなんとか生きのびておられるのではと想像します。今日もどうかご無事で。東京は晴れています。個人的には明日の雪予報も晴れに変わってほしいけどこればかりは、ですかね。のんびりいきましょ。

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精神分析

矛盾との仕事

対面での集団向けのコンサルテーションもやっぱり楽しい。仕事が好きなのはラッキーなことだと思う。

この人すっごく排他的で基本相手を見下している人だけど周りからはわからないものですよね、個人の傷つきなんて実はどうでもいいんでしょ、当事者として心が痛むとき以外は、私はその人にそんなことされてないし、その人がそんなことするくらいなんだからどうせおまえが悪いんだろ、とかどこかで思ってるんでしょ、と言われたら反論しますか。私は反応もできないかもしれない。一対一でいわれたら話を聞かせてもらいながら考えることができるかもしれないけど集団の中で私だけに聞かれたらどうだろう。あなたのお友達のその人は上手ですよ。当事者がいる場所でも平然と自分の無知を強調して謙虚ぶりながらうまいこといっていますから。こんなひどいことしててもうまくいえたものが強者で勝者ですね、やっぱり、声を上げさせない人が声をあげる人に賛辞をおくっている矛盾なんていくらでも生じますよね、と言われたら?私たちは日常的にいくらでも例を知っているはずなのに相手が実はどれだけ誰かを傷つけている人か、あるいは誰かに傷つけられている人かを最優先に考えて人と会ってはいないと思う。

個人の傷つき、集団の傷つき、そこから生じるそれぞれの、または集団の動きにおける様々な矛盾。そういうものと今日もまずは仕事で出会っていく。仕事だからできることから。まずは。

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精神分析 読書

風鈴、『ケチる貴方』、吝嗇

伊万里で買ってきた風鈴がチリンチリンいっている。早朝に暖房をつけると最初は強風が満遍なく部屋を暖めようとするので風向きによってはうるさいくらい鳴る。これ以上ないスピードで部屋に暖まってほしい私はヌックミーと電気膝掛けにくるまりながら時折伊万里焼の小さな舌が同じく伊万里焼のお椀の下でピロピロしながらリンリンするのを聞いている。夜、佐賀城跡できいた風鈴の音がとてもきれいだった。ひとしきり風鈴にまつわる思い出を語り合い翌日には買っていた。まさか風鈴を連れて帰ることになろうとは。出会いとはわからないものだ。

少し温まってきた。もう少ししたら白湯をいれよう。まだおなかの調子が悪いからコーヒーはやめておこう。先日体調をひどく崩し伊万里でお店の人に教えてもらったイベントへいくことができなかった。定期的に開いている友達との会もキャンセルせざるをえなかった。楽しみにしていた予定がふたつもキャンセルになってヌックミーと電気膝掛けに埋もれながらぼんやり寝たり起きたりした。電気膝掛けを「強」にしていたのでその部分だけ熱くて何度かつけたり消したりした。もっと「弱」方向にすればよかったのだけど調子が悪かったせいかなぜか「切」にしていた。というかこの電気膝掛け、すごく熱くなる部分とそうでない部分があってそのすごく熱くなる部分がやばいのだ。というか大丈夫かな、これ。寒さをどうにかするために必死に巻きつけたり雑に暑かったせいでそうなってしまったのかしら。

昨晩から今朝にかけて『ケチる貴方』(講談社)を読んだ。石田夏穂さんという作家が書いている。なぜ急に読んだのか昨日の今日なのに忘れてしまったがそのときは「読まねばならない本」だと思ったのだ。いざ読み始めたらなんだこれは。私がこれまで体験してきた冷えと寒さに対するすべてが文字化されていた。寒さゆえに冬の到来に怯え春を心待ちにする今、無意識が読むべき本と出会わせてくれたのだろう。この主人公の不機嫌さにも非常に共感する。たとえ別の季節があったとしてもこんな冷えと寒さに苛まれる季節が一年のうち数ヶ月あればこうもなるさ。私もあらゆる温活を試したがこの主人公がえらいのは実行しつづけるところだ。私よりずっと切実に寒さと向き合っている。えらい。というか実際ものすごく切実なのだ。辛い。切ない。

“「寒い」と訴えることには何か他の訴えにはない甘えの響きがある。「お腹がすいた」「眠い」「出掛けたい」は素直に言えたが「寒い」だけは自分が主張することじゃないように感じた。”

ー『ケチる貴方』の最初の方から引用。Kindleなのでページ数がわからない。

これだ。「寒い。死んじゃう。」と毎日のようにいう私は甘えている。小説になるかどうかの違いはここにあるのだろう。極端にスイッチが切り替わってしまう「間」がない世界。それは実は生死に関わるのだ。どうかこの人に口先だけじゃない「ケア」を。自分が求めていたものに気づいてしまう痛みに対してもどうか、と願うのはここまで切実に生きられない私でもそうなんだ。

“私は生来の倹約家、否、吝嗇家なのだ。”

りんしょく、と読むんだよね、と先日のReading Freudでも確認した。『フロイト全集4』(岩波書店)はまるごと『夢解釈』の一冊で5巻へと続く。先日読んだのは「第5章 夢の素材と夢の源泉(B)」。フロイトとの治療設定、つまり時間とお金を巡ってみられた夢として解釈されたある女性の事例(261頁)に「吝嗇」という言葉が出てきて前にも出てきたのにみんな読み方を忘れていたのだ。『ケチる貴方』ではきちんとふりがながふってあった。

だいぶ温まってきた。立ち上がるときに感じるあの冷気を想像するだけで辛いが白湯をのめばまた電気膝掛けのスイッチを切りたくなる。切らずに「弱」の方へという練習も必要かもだが熱々で毎度火傷しながら飲んでいるようなときは一気にポカポカするのだ。すぐに寒い寒いとまたスイッチを入れ直すことになるのだけど。イロイロウマクイカナイね。今週も始まってしまいましたね。どうぞご無事でご安全に。

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精神分析

スープを飲んだりアンドレ・ルロワ=グーランを読んだり。

おなかがすいた。昨晩は駅を出たらカラカラと霰が降ってきた。しばらくして窓の外を見たら雪に変わってた。初雪?この前も降った?蕗のとうの天ぷらを食べた。春。とても美味しかった。もう一度外を見たら傘を閉じる人が見えた。よかった。

コーンスープを飲んだ。ぽっかぽかになって電気ひざかけのスイッチを切る。洗面所へいったらまた冷えてしまってまたスイッチを入れる。温かい飲み物を飲み続けないとかしら。

アンドレ・ルロワ=グーランの『世界の根源 先史絵画・神話・記号』(蔵持不三也訳、ちくま学芸文庫)をパラパラしていた。これは主にはフランスの美術史家クロード=アンリ・ロケとの対談のまとめ。日本での留学生活のことも語られている。精神分析への関心と距離も。付録として講演と論文も掲載されている。自己との対話という形式をとっているというこのインタビュー。質問自体も面白いし答えもなんというか極めて常識的で思慮深く、ものすごく広くものすごく長い歴史をもった世界の門前でワクワクしている気持ちになる。コレージュ・ド・フランスの学生はさぞ楽しかっただろうねえ。いいなあ。たくさん引用したいところがあるけど対話として面白いからこういう分野に興味のある方はぜひお読みになって。私はもともとは『思想 2022年9月号』(岩波書店)で十川幸司先生の「心的生の誕生――ネガティヴ・ハンド(リズムの精神分析(1))」を読んで『身ぶりと言葉』と一緒に読み始めたんだけどね。あの続きも早く読みたいな。

東京は晴れ。寒いけど雪よりは安全。どの地域の方もどうぞお気をつけてお元気でお過ごしくださいね。

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精神分析

フロイト読書会

フロイト読書会だった。平日のはアドバイザーとしてお呼ばれしているもので、すでに一度主要論文とその周辺を読み終えているグループのもの。みんな臨床家で遅くまで仕事して帰ってきてすぐこの読書会で、と大変だ。私もばったばたで大変だけど多彩なメンバーで何年も続けてきた積み重ねは大きい。

読んだのは『フロイト全集2』よりヒステリー研究 病歴B(ミス・ルーシー・R) p.132~156。私はもう何度も読んでいる症例だが学びが大きい。この症例は、シャルコーによる古典的な類催眠状態を作る技法がうまく使えず、ベルネームによる暗示を手本にした前額法を用いた自由連想という技法の変遷がみられる事例である。理論的にはフロイトは仮説ありきで話を進めていくところがあるがメタサイコロジーの欲動に関する論文の冒頭に書いてあることを思えば彼のその姿勢には一貫性がある。しかしそれはフロイトの理論が臨床と離れていることを意味しない。フロイトはこの後もより多くの症例と、そしてそれはそれは多くの人との関わりのなかで精神分析を確立していった。

私たちは時々密室で篭りがちみたいなことを言われるけど日々の研鑽がひとりで行われることはないので常に様々な視線や言葉が交差する場所で自分の臨床を見直しながらまたひとりに戻っていく。

ひとりでがんばりたい!と言いながらベタッとした依存関係から離れられないという矛盾を抱えている人もいるかもしれないが目の前の患者と会うときに支えてくれるのはそういう依存関係ではない。長い時間をかけてフロイトを読みながらそれぞれの患者との作業を想い、単なるおしゃべりで孤独をなかったことにすることもなく適度に抱え悩みつつ同じような日々を過ごしていく。これからもがんばっていきましょう。

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精神分析

寒いけど

本当に寒い。どう振る舞ったらいいか全然わからない。今はあったかい場所にいるけどみんな大丈夫?雪に慣れていないのに雪が降っちゃった地域の人たちなんてほんとに大丈夫かしら。風も怖くないですか?一気に体温を奪われる怖さ。私ね、片手をなくした手袋をもう一方を自由に使えるから機能的、ということで使ってて今日もそれできちゃったの。いつも裸の手の方は前に抱えたリュックとおなかの間か、ポケットで暖かくなってたから。でも今日はさすがに準備不足でした。わかっちゃいたがと言いたいが、わかっていなかったなと反省しました。もー大体のことはいつもこれだよ。100均ののびのび手袋(って言ってたよね?)と軍手はいつもリュックに入ってるからそれを使えばいいんだけど奥の方にあるし寒くてそんなの探りたくもないし、駅のホームでさむーいと心の中で騒ぎながらちょっと携帯使ったら風であっという間に手が凍ったみたいに悴んだ。ああ、凍傷ってあっという間になるものね、ああ、山ってだから怖いんだよね、と都心近くにいながら山の怖さを想う恐怖の冷たさだったよ。「寒い、死んじゃう」とすぐに言ってしまうのはこういう危機を思い浮かべるからです、きっと。本当に気をつけてお過ごしくださいね。人生折り返し地点すぎてもこんなですよ。毎日勉強・・・がんばりましょ。

一方でです。寒さネタで私の頭も心もいっぱいですがいうにいえないいろんなこともあって大変は大変だよ。でもなんかもう色々あっても無事に春が来てくれるならなんでもいいよ、今までも色々あったけど今やれてるわけだしさ、この程度でも無事が一番だよ、という開き直りのような気持ちもある。梅とかが咲き始めて少し春を感じるのも救いになってるんだ、多分。もうホントにタノムヨ・・・と誰にともなくため息つきながらでも、誰だって自分の都合のいいように動きたいし考えたいわけだからせめてそのやり方を自分の場合は、と地道に考えたいし、たとえ相手のことがすごく苦手だったり嫌だったりしてもその人たちの気持ちも考える。結果的にそのほうがお互いのためでしょう。そのためにどう動くかは大問題だけど私は権力も名声もないのでやっぱり受け身でいるしかないよね。でもできることもないわけではなく、できるだけ正確に成り行きをみていく努力はできるでしょう。できるのはそのくらいかな、ということを地道にやっていくのは意外と大事と思う。辛くて苦しくて悲しくて寂しくてというのはいろんな意味で信頼できる人に聞いてもらいましょうね。こんな寒いのにさらに孤独になんてなっちゃだめだ、と私は思う。

無事に過ごしましょうね。

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精神分析

人間って

朝焼けが始まりそうな空がきれい。昨日の朝、駅で朝日を眺めながらあっちが真東かぁと思ったけど真東とは限らないか。

私たちには対象希求性というのがあるわけだけど日常において人を求める、人に求められるというのは色々な水準がありますね。求められることに辟易しているのに断れないがためにただ利用され続けてしまう人もいれば求められてもいないのにまるで求められているかのように人を巻き込んで結果求められていたということにしたい人もいる。どっちも自分の状態や相手の都合はどうであれ人と関係しようとしていることに変わりない。人は生きるのに必死ゆえに厄介だけどそれが人だからしかたないんだよね。

コンビニの新作スイーツをよく試すのだけど、というか「よく」と言えるくらいコンビニって新作たくさん出すよね。企画とか楽しそう。今はバレンタインデーに向けてチョコレートのスイーツが出てきましたよ。その前は苺、ということで苺ティラミスを食べたのだけどティラミスの意味がよくわかってないから「そう書いてあるからこれはティラミス」という感じだった。まあ美味しければなんだっていいのよ、とパクパク。美味しかった。コンビニスイーツはどれも量を半分くらいにしてほしいと常々思ってるのだけどこれはちょうどよかった。なんかとのコラボみたいだったから値段とのバランスだね。ある程度の値段で売っていかないとだろうし。

さてさていきたい展覧会が溜まっているけどやらねばならないことも溜まってるからなかなか。こういう時間に少しでも進めねばだな、と頭では思うんだけどねえ。人間って、と人間でいること自体をいろんな言い訳にしている毎日だな。まあいいか、事実だし。今日も人間でしかいられない私たちだけどなんとか過ごしましょう。来週くるという寒さが本当に怖いね。備えましょうね。

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精神分析

うーとかあーとか。

うー。(早くも中略)あー。(中略)という気分。いいたいがいえない。すごく忙しいわけではないけど結構忙しい。忙しいというのも比較できるものでもないからねえ。この人、忙しいしんどい、ばっかりいってるけど色々知っていると「しょっちゅう〜してて楽しそうで暇そうだよ」と思うこともあるけど意地悪だよね。それにそういうのも「仕事だからしかたない。あーしんどい。」といいながら嬉しそうにしている場合もあるからまためんどくさいし一貫性とか整合性など求めないに限る。何が起きるか誰が何考えてるかなんてみんな自分の想定外なんだから。「こんなはずじゃなかった」とか聞くと「どんなはずだったんだよ」と思う。「こんなことになると思わなかった」っていうけど「なんの未来も描いてなかったじゃんか」と思ったりもする。本当にね、人間ですね、私たち。どんだけ万能感に満ち溢れてるんでしょう、いいことがあるときだけ「偶然」を推すのは全然違うと思うけどしてるしね。うーん。

芥川賞のことを書きたかったけどまだ読んでないものもあるから読んでからにしよう。物語を書ける人が本当に羨ましい。本当にすごいことだと思う。今日も「うー」とか「あー」とかいいながら言葉にならないものは略すこともできず重たく抱えたままなんとなやっていくのね。やっていきましょうか。またね。

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精神分析

1月17日

1995年1月17日午前5時46分、私は千歳烏山のアパートでまだ寝ていたと思う。阪神・淡路大震災、当時、テレビもなく、知るまでに時間がかかった。大阪や京都に親しい友達が何人もいる時期で連絡を取り合った。やっと電話が通じた芦屋の友達はなぜか自分のところはライフラインが生きているから別の家の人が集まってると笑っていた。その後、学会や旅行でいくたびにまだその跡や影響が見えることに驚いた。でもコロナ禍直前の1月、神戸港震災メモリアルパークへ行ったときは少なくとも観光客には忘れ去られていくそれらを感じた。被災者には忘れたくても忘れられない出来事に違いない、ということもできないほどそれを体験していない私には想像が及ばない様々な心の状態があるのだろうと思う。あれから28年、私はまだ東京に住んでいて、あの震災も東日本大震災も体験した人の話を聞くことがある。中井久夫はあの震災を生き延びて昨年亡くなった。外傷について考え続ける本をたくさん残して。今日も生も死も傷もこころも大切にされますように。とても困難なことだけれど私たち自身もそうできますように。

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精神分析

泣き、怒り、叫びに。

我慢に我慢を重ねてなんとか保っていても次から次へと「またか」という目にあわされる。過ぎたこと、なかったことにされる痛みは計り知れないのにその傷はえぐられるばかりで自分だけ先へ先へと。なんにでも意味があった、振り返れば貴重な体験だった、みたいな相手置き去りの発言を平然としながら。こちらはいつまでも動けずに、それでもなんとか日々を過ごそうと努力を重ねているのに。ふざけんなという怒りもこれだけ強ければ不適切な行為にしか繋がらないだろうから抑制がかかる。そのうちにいつまでもこうなっている自分が悪いと自分も他人も言い始める。表面と内面の乖離が進む。そんななか相手はまたやっていることと正反対のことを御高説垂れてるかもしれない。それに対していつも通りの共感と賞賛を示す人に立場を利用してまた近づいてるかもしれない。今度こそハラスメントと言われないように。立場を脅かされないようにSNSの利用には十分気をつけながら。そういう人が変わることなどない。終わらない怒りと絶望。

誰にもいえないそういう経験はセラピーにこない人でも多いと思う。だからこういうことはいろんな形で話したり書いたりしておこうと思っている。もちろん職業上、具体的な出来事は加工している。しかしパーソナルな秘密が守られる限りはむしろ加工には抗うべきだと思っている。精神分析でいえば防衛的になるなということだが傷が深ければ深いほど質の異なる防衛によって事態は難しくなるのでお互いに無理はしない。時間がかかるのも本当に辛いが時間をかけるしかないこともある。パーソナルな秘密が守られるというのは受け止めてくれる人がいる限りでということだ。どうしてこちらばかりが無理や我慢を強いられなければいけないのだろうか。当然の怒りだがすでにある非対称を乗り越えることは今の時点では不可能だ。少なくともその相手は変わらないだろう。次世代はわからないが。無理をしてこれ以上動けなくなる事態は避けたい。どうにかこうにか協力してもう少し可能な形を考えてみたい。文章を書いて食べている人たちみたいに、というかたとえそうであったとしてもうまく書く必要も共感を呼ぶようなことをいう必要もない。そんな形になどならないからここまで苦しいのだ。それぞれがそれぞれの言葉で自分のこととして語ること自体がまず必要だと思う。それは「言葉にする」ということとは異なる。語れない、通じないということを何度でも感じながらになるだろうしどう考えても苦しいと思うがなかったことにされたまま生きていくよりは、誰がなんといおうと自分はそう感じた、自分はそう思った、実際に起きたことはこういうことだ、ということを単なる言葉ではなく、泣き、怒り、叫びにできる場はあってもいいと思う。もちろん表出がすべてのはずもない。時間はかかるだろうけれどその時間を耐え抜く力はこの出来事を耐えて生き延びている今に備わっていると考えていいのではないか。それを信じられたらと願う。

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おしりきたざわ

昨晩、ミーティングが終わって話しながら駅へ向かって電車に乗ってひとりふたりと降りて、私も手を振って降りて別の路線に辿り着くまでに全方角から突進するようにやってくるたくさんの人を避けながら歩き改札を通り再び電車に乗った。さっきはこんな時間なのにと思ったのになんとなくの整列乗車でみんなが座れた車内でこの時間は空いているんだなと思った。土曜の夜っていつもこんなだったかなとこの曜日のこの時間帯に電車に乗るのはそんなに珍しいことではないのにそう思った。この日はここまでの間、子供をそんなに見かけなかった。時々、疲れ切ったお父さんお母さんのそばで元気いっぱいにおしゃべりをしている子供をみかける。その子は多分それまでの間に親の膝で眠ったりして充電が完了してしまったのだろう。昨晩は子供自体を見かけなかった。

日常の決まったやりとりはできる子が個別のやりとりになるとこちらがキョトンとなるような答えばかり返してくることがある。「次は上北沢だね」電車が速度を緩め始めた。「おしりおしり♪」「お尻北沢だね」「おしりきたざわー♪」

昨晩の朝のことだ。この親子にはなんの不思議もないいつものやりとりなのだろう。

このあと「どっどーん」と彼女は何度かお尻をお父さんにぶつけた。彼女自身が電車になってしまったかのようだ。ドアが開いた。お父さんはそっと彼女を引き寄せて制御した。

私はいろんな子供とのプレイセラピーを思いながら楽しく観察した。ウィニコットの『ピグル』は1960年代のロンドンでのプレイセラピーの記録だがそこでも電車は様々な象徴として遊ばれている。性と衝動と出産と死とそれらにまつわる情動とそれらがまた生じさせる新たな出来事などなど。

わからない言葉に対して不寛容で自分の言葉が通じる人としかやりとりしたくない頭のいい人たちがコミュニケーションの場を設けたり(内輪の共感と結束を確かめるだけの場になりがちにみえる)心について熱く饒舌に語っているのをみるとひんやりした気持ちになる。相手が身近な人にどういう態度をとっているかを知っていればなおさらだ。そんなのは一致しないのがデフォルトだとしても。全てを覆い隠してくれる彼らの知的興奮には叶うはずもないが、こういう親子やペアや集団の力は希望だ。

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初台と福岡

福岡から友人が訪ねてきた。小さな改札で待っていると「京王新線」が分からなくて少し遅れるとのこと。そうだった。分かりにくいことを前もって伝えておくのを忘れていた。京王電鉄京王線とは新宿駅と高尾山や八王子といった山のほうを繋ぐ電車が往復する路線である。京王線であれば新宿駅を出て一駅目が笹塚駅なのだが「京王新線」はこれらの駅の間を走るもう一本の路線であり、私のオフィスはその区間にある二つの駅のひとつ、初台駅が最寄りなのだ。その次が幡ヶ谷駅、その次が笹塚駅となる。京王線と京王新線の複々線化は輸送力増強と都営地下鉄との相互直通運転を目指して昭和50年代に行われたという。今回一つ違いとわかった私たちがそれぞれの田舎でのんびり育っていた頃の新宿駅では地上駅の地下化に伴う改修工事が難しくなっていたらしい。そこで京王線はこれまでの「京王線新宿駅」と「新線新宿駅」とホームも名称も分けざるをえなかったようである。友人はそんなことなど知らない大抵の人がするようにJRや丸の内線に近い「京王線新宿駅」へ行ってしまったというわけだ。といっても京王線と京王新線はホームをはじからはじまで歩くくらいの距離で恐ろしく遠いというわけでもなく、友人も早めに出てきてくれたのだろう。すぐに無事に会えた。東京行きのたびに寂しがるという子供を想い飛行機の時間も気にしつつの限られた時間ではあったが久しぶりに会えて嬉しかった。年齢もはじめて知ったくらいだからほとんどの話が新しく嬉しいお知らせを聞くこともできた。女性が一人でオフィスを構えてこの仕事をしていくのはなかなか難しい面もあるが具体的なイメージを描くためにわざわざこうして訪ねてきてくれるのは嬉しい。若い世代がこれからどれだけ精神分析を求めそれを仕事に生活していこうと思うのか全くわからないが役に立てそうなことがあればとりあえず声をかけてもらえればと思う。日本精神分析協会の支部は東京と福岡にありこうした交流も自然にしているがなんだかきてもらってばかりだ。私も元から東京にいたみたいな顔をしていないで移動を味わおう。ということで福岡ではあれを食べよう、あそこへ行こうと駅へ向かう道は食べ物の話ばかりして別れた。福岡のお菓子も色々いただいた。銘菓でも地元の人の話だと楽しみが増した。彼女だからというのはもちろんある。

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学会とか自分語りとか

2023年1月4日から6日までContaining Diversity, Bridging Difference is the theme of the 4th Asia-Pacific Conference, which comes to Delhiだった。インド・・・。行こうと思っていた学会だけど私は日本にいても体調が悪いのに特に悪い胃腸のせいで学会どころではないかも、海の向こうで友達の世話になるわけにもいかぬ、と思っていかなかった。11月にインドの精神分析家とお話ししたばかりだったから頭にはあったのだけどその時に参加費が高すぎるという話が出たのが残っていたのかオンラインで参加できるのに申し込みを忘れておった。スーパーヴァイザーと話しててはじめて気づいた。そして気づいた今、学会は終わっていた。友達からの現地の動画とかみて感激したりしていたくせに。あとで友達の発表は様子教えてもらおう。なんだかすいません。がんばれない以前の問題が色々あるな。組織でやっている学問だからコミットしていかないとね。

今朝はキウイを食べた。柔らかくて甘い。安かったのにね。嬉しい。キウイ畑っていうのかな。夏にたくさんの子供たちを連れてキャンプに行っていた頃にキャンプ場の隣にあった。毎年夏の終わりに開催してたのだけどたくさん実がなっていたと思う。でも収穫って10月とか?でしょ?本当になってたのかな。これ何がなる畑?キウイだよ。とかいう会話をしてたくさんのキウイがなる景色を思い浮かべたのがその後実際に見たキウイ畑と重なって事実みたいになってるのかな。記憶ってそういうものよね。重なり合いながら変化していく。話を聞いていてもそういうものなんだなあって思う。いろんな人のいろんな話をずーっと継続的に聞いていると出来事としては同じ描写でも体験の仕方が全く異なるのはもちろんのこと、患者さん自身「今はじめて思った」とか逆に「話したら全然違う気がしてきた」とか自分の体験の仕方が変わることに気づいたりする。私はフロイトがいうようにsimply listenということでただ聞いてるだけなんだけど患者さんのその感じはとても伝わってくるものがある。内容じゃないんだよね。だから話せばいい、話させればいいというものではなくて基本的には患者さんの世界を邪魔しないように一緒にいることが大切なんだと思うよ、当たり前のことだけど。見たことも聞いたことも想像もしたこともないような出来事について語られることもあればありきたりすぎてどこにも書かれないような出来事もあるけどそれを体験している彼らの全体が大切。私は小説どころか色々書けないけど自分を保つために創作はしていて小説家っていうのは自分の中で話し聞くが両方できるんだからすごい!と思う。金原ひとみの『パリの砂漠、東京の蜃気楼』(2020,集英社)をクリスマスに再読していたんだけどやっぱりすごかった。エッセイなんだけど自分語りとは全く違う。あれはあれで小説読んでるみたいだった。自分語りといえば昨年一番面白かったのが町田康『私の文学史 なぜ俺はこんな人間になったのか?』(NHK出版新書)。作家の自分語りって独り言みたいな自分語りと全然違うから読者の自由を奪わないというかものすごく対話的なんだと思う。寂しがりなぼくを、傷つきやすいわたしをそうとは言わずに知って、愛して、みたいな厄介な方向のナルシシズムを全く感じない。ロックだった。パンクだった。めちゃくちゃ面白かった。町田康のアルバムを聞きながら読んだ。記憶の話に戻るけど彼らみたいな作家の記憶って普通の人と全然違う気がしない?脳が違う感じ。記憶と言語は精神分析も専門的に関わるところだからもっと真面目に書けよ、と自分でも思うけどとりあえずここは雑文だから。私のナルシシズムは特に満たされないのだけど創作とセットだとそこそこいいみたい。才能なくてもそれでお金もらわないから気軽に書いてる。この仕事、見えないところでもいっぱい書くのだけどそれもエネルギー使う。ああ。やらねば。で、記憶ね。記憶について考えるといつも私の頭に浮かぶのは日渡早紀『ぼくの地球を守って』。今チェックしたらKindleでも読めるのね。あれは最高だよ。みんなも読んで。ここで試し読みできるって。

もうこんな時間か。朝ちょっと余裕があるととめどなく書いてしまいそう。今日もなんとか過ごしましょう。

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ウェブサイト更新とかフロイト読書会番外編とか

年末年始は東京よりも日の出が30分遅い土地にいたので朝になるといちいち「東京は早いなあ」と思うようになった。旅に出ると早朝から散歩にでるのが習慣だが今回は街灯も少なく真っ暗。それでも白い小さなお花をたくさんつけた木が雪みたいに明るかったのが不思議だった。

今朝は久しぶりにオフィスのウェブサイトを整えた。整えただけで特に記事を足したりはしていない。ここはただの雑文だからもう少し専門的なことをもうひとつのブログに書いてウェブサイトにリンクを貼りたい、と前から思っているけどやっていない。オフィスのウェブサイトは記事の量に制限があってひとつの記事が長い分にはいいらしいのだが、一つのカテゴリーに10個とか制限があるらしくすでに結構使ってしまっているのだ。でもそれも結構前に確認したことだから今は変わってたりするのかな。みてみよう。

ツイートもしたが、昨晩は毎週実施されているフロイト読書会番外編ということで私企画の輪読会を行った。私は普段はアドバイザーとして招かれているだけなので基本的には参加者のみなさんのやりとりを見守ってなにか聞かれればなにか言うみたいな感じなのだが読書会のしかたで迷いもあるとのことだったので私がオフィスでReading Freudと称して行っているフロイト読書会の方法を紹介がてらやってみた。といってもひとりずつ順番に1パラグラフずつ読んでいき、内容の区切れるところで議論をしてまた読み進めるというシンプルな方法で、今回はフロイトが第一次世界大戦中の1915年に書いたメタサイコロジー論文の中から「欲動と欲動の運命」を取り上げた。2時間で読むにはちょうどいいかなと思ったら議論の時間を含め本当にちょうどよかった。よかった。今回は岩波の全集ではなく十川幸司訳『メタサイコロジー論』(2018,講談社学術文庫)を使用した。フロイトのメタサイコロジー論文を読むならこれが一番いいと思う。文庫だし電子版もある。

ツイートしたが参考文献はこちら

欲動というのは精神分析が想定する身体内部から生じてくる本来的な原動力のことである。なんのこっちゃという感じかもしれないが、フロイトは本論文でこの概念を基礎づけることで内部と外部、主体と対象、快と不快、愛と憎しみなど対極的なものを力動的、立体的に捉えようとしている。自己へと回帰する欲動の動きを言語的な枠組みを用いて描写するしかたはダイナミックで楽しい。途中なんで突然これ持ち出すのみたいに思った部分もあったがそれはフロイトが死ぬまでわからないと言い続けた事柄でもあるから錯綜するフロイトとともに読み続けることが大切なのだろう。この形での読書会はそれなりによかったようなのでよかった。継続の希望もあるようだけど時間がとれるだろうか。細々とやれればいいか。

一生懸命、真剣に大切にしてきたものを思いもかけない形で失ったことはあるだろうか。たぶんあるだろう。語りえないものとして残るであろう穴とも傷ともいえるその喪失をめぐって精神分析は独特の言葉の使用の場を提供してきた。精神分析はなんでもセックスと結び付けてなにかいう印象があるかもしれないが精神分析におけるセクシュアリティは単なるセックスよりもずっと広い対象をカバーしている。病理をいわゆる正常と地続きのものとして捉える精神分析の大きな特徴も今回の読書会で確認した。快だけを取り入れ不快なものは外へ、という今回読んだ論文にも記述されているあり方をいくら繰り返しても逃れることができない欲動とともに私たちはどうにかこうにかやっているらしい。死にたい。そんなことを時々つぶやきながら今日もなんとか。

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うそもほんとも。 精神分析 読書

ダラダラと

休みの間、ここで書き散らかしているようなことさえほとんど書けなかった。なんとなく朝ここを開くことが習慣になってしまったので書いてはいた。それに毎日のそういう状態を観察するための場にもなっていたので「あー、こんな風になっちゃうんだ」と知り、辛かった。ここを時間をかける場所にはしていないので時間をかけて吟味することが必要な事柄は何も書いていない。なので中身はえらく薄っぺらいうそほんと話の集積だ。でもここ数日どうしても吟味が必要なことしか浮かんでこず手が自然に動かなかった。だいぶ慣れて感じなくなっていたしびれや痛みも感じることが増えた。ルーティンが崩れるとこうなるのだろうか。抽象化ができず具象的にしか考えられなくなると身体化が生じ行動のほうに拍車がかかりそうになるのか。それは避けたい。そういうときにひとつ有効なのがものがたることなのだと思う。ただ、圧をかけられて黙らされた経験のある人にはそれはもっとも困難な方法だろう。法のもとなら安全だろうか。そんなことはまったくない。一度持ち込んだらものすごい時間とエネルギーを割くことになるしプライバシーを失う覚悟も必要になるかもしれない。精神分析の場なら安全か。そんなこともまったくない。沈黙やプライバシーが守られるという点では安全だろう。でもどこにいても脅かされ続けてきた当事者のこころはそんな簡単にそこを安全だと思うことはできない。自分語りや自分見せが上手な人たちが相手の場合なんて毎日が地獄だろう。もちろん傷つける側の相手にそんな「つもり」はない。お馴染みのありかただ。さらにまいってしまうのは自分たちを被害者だといいながら力を振りかざされる場合か。取り巻きとべたっといろんなものを与えあいながら持ちつ持たれつの関係を作り信じがたい軽薄さを高度な知性か巧みな話術でくるみながら「承認欲求」(普段使わない言葉だけど)を維持し自分より立場の弱い人に「自分が被害者だ、悪いのはおまえだ」と陰で圧をかける。こういう差別や排除のスキルも「コミュ力」に含まれる時代だろうか。

以前、佐藤優が沖縄に向けられた差別について

「差別が構造化されている場合、差別者は自らが差別者であるというのを自覚しない。それどころか、差別を指摘されると自らがいわれのない攻撃をされた被害者であると勘違いする。」

と書いていた。この記事はまだオンラインで読める。まさにこのループだがこの記事にある「微力ではあるが、無力ではない抵抗」という言葉は誰かに「だからがんばろう」というためではなく心にとめておきたい。語ることをあきらめないために。

先日、辻村深月『かがみの孤城』を映画でみた。原作はポプラ社から2017年にでている。学校にいけない中学生たちがかがみの向こうで出会い限られた時間である目的を果たそうとするおはなし。おしゃべりはするようになった。でも実はなにもいっていない。一緒にいられる時間には限りがある。中学生という設定がいい。

「いってなかったんだけど」「いうつもりなかったんだけど」

語るには時間と場所が必要だった。そしてまずはただきいてくれる相手が。この人になら話せるという相手が。小さな子どもも親とみにきていた。どんなことを思っただろう。そんな簡単に言葉にならないか。いい映画だった。

「対話」。流行語かのようにそれだけ取り出されて使うような言葉になった。ものがたることと同時に当たり前になされてほしい一番のこと。

「微力ではあるが、無力ではない抵抗」

可能だろうか。不安だし怖い。そもそも圧をかけられ対話を拒まれたのにそれでもと声を上げ続ける空虚に耐えられるだろうか。その間にも続くそのつもりなき攻撃に耐え続けることはできるだろうか。小説や映画のように「大丈夫」と言ってくれる大人はもういない。自分たちがいう側になった。「全然大丈夫じゃなさそうだね」と私がいい彼らがうなずくことは多い。まずそこからか。全然大丈夫じゃない。だからしかたなく、というのでもいいのかもしれない。だってそうでもしなきゃ、という局面はいずれくるだろう。そのときまでダラダラと小さな抵抗を。自分の気持ちをなかったことにしない、映画ではそんなメッセージも強調されていたように思う。そういう意味では親の判断を必要としなくなった今のほうが自由だろう。なかったことにしない。なかったことにされることがどれだけ暴力的なことかが前よりは理解できているように思うから。

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精神分析

まだなにも。

昭和初期、瞬く間に地方最大となった書店を作ったというその人はその後デパートも作ったという。日の入も日の出も遅いその街で本屋は今もやっていた。バスセンターの2階、薄暗くてガランとしたスペースでDAISOや啓文堂と似た感じの佇まいで。バスセンターの小さなスペースでその街の歴史を辿る小さな写真展をみかけなかったらそんな歴史も人も知ることはなかっただろう。

知識があることになんの意味があるのか。それは様々に恵まれた人たちのお話かもしれない。それだけ本の引用が自由自在にできて知識人扱いされて人の心を打つお話まで書けてその言葉、この行動、あなたのそれらは常に味方づくりと正当防衛のためですか、といいたくなるような虚構(ウソもホントもないでしょうけどあえて)と日々の言動の乖離、そんなのはあるのは当たり前だという知識なら誰でも体験的に習得しているかもしれない。なのになぜ傷つき苦しむのか。いつまでもウジウジするのやめたら? 時間がもったいないよ。年も変わったしお清めでもお祓いでもして先へ進もうよ。プロセスを知らない人は傷つきがどんな風に時間を止めるかを知らない。簡単な儀式で無理に時計に追いつこうとする努力は日々している。でも無邪気なアドバイスは善意だ。そう受け取る。もう悪意などたくさんだ。

漫画と文庫が充実したその本屋で桐野夏生の文庫を買った。久しぶりだ。人間関係の複雑さを豊かな知識で別物にしたり無邪気に簡単な言葉や儀式でなかったことにしたりなどできないことを確認したいのかもしれない。断ち切られた側はひとりでずっとこういう作業を続けることになる。ひたすら苦しくしんどい毎日。そんなことは相手にはどうでもいいことだということも知っておく。世界は基本過酷で残酷らしい。私はまだまだ何も知らない。

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あれはなんだったんだろう 精神分析 読書

語り、消費など

疲労困憊、おなか痛いとか思いながら美味しいりんごを食べたり美味しいかりんと万頭を食べたりいただきものに美味しい美味しい言っている。深刻で呑気。死にたいけど生きてる。みんなそうでしょ、とは言わないけど両立する状態って色々ある。

たとえば、するならそれ相応のリスクを負う、絶対に隠し通さなくてはいけない、そう思っていたのは自分だけで相手は都合のいいところだけ切り取って絶対的に味方でいてくれる相手(いろんな心地よさの維持によって可能となっている関係)に伝えてたと知ってビックリすることがある。マジかよ、と頭を掻きむしる事態に現実的な対応を考えつつ、ああ、またいつものガキくさい感じで(言葉遣い)最新の知見で防衛しながら不満と怒りを出して「えーひどーい」とか言ってもらってるのだろう、ごはんとか食べながら、と呆れ果てる、みたいな。恐ろしく深刻なことを「ビックリ」とか「マジかよ」と表現できるとしたら絶対にこんなことあってはならないと思いつつもアイツならやるだろうと思っていたかもしれない。だったらどうしてそんな相手と~、とひたすら「あれはなんだったんだろう」的な問いの中に居続けるか、戦いの文脈に変えて白黒つけるか、現実的な対処も色々あると思う。なんにしても「好きでやってる」「気持ちいいからやってる」と言われる事態でもある。被害者に対してさえそう言う人はいるのだから。実際脳科学の知見はそんなようなことになってるんじゃなかったっけとかね。でもね、という場合に精神分析の理論は役に立つけど複雑だから書かない。書けない。そうでなくても脳科学的にそうであったとしても身体の状態とか生活状況的に持ちうる時間とか色々違うので個人の話に今それ持ち出すのやめてもらえないかな、と思ったりはする。

女性が女性の話を聞く話、それについて書かれた本については何度か書いた。彼らが自分のことを自嘲気味に描きつつそれを乗り越える書き方をしているときいろいろ感じることがある。決して笑えない苦しい話を笑ってしまうこと、笑いながら話すことは日常的に皆やることだと思うがそれを「消費」する男性のことを思い浮かべてまたうんざりする。『キングコング・セオリー』(柏書房)とかに対してもそうだったよね、とか。ただ私の仕事は言葉にできない人たちがとりあえず語りの場を求めてきたところにあるから「共感」との関連でいずれ。高木光太郎『証言の心理学 記憶を信じる、記憶を疑う』(中公新書)とかカロリン・エムケ『なぜならそれは言葉にできるから――証言することと正義について』(みすず書房)とかも参照してあれこれ書いたメモが発掘できれば。

ところで、最新号の『POSSE vol.52(特集:奨学金を帳消しに! 立ち上がる借金世代)』は充実してそう。最近『仁義なき戦い』、潜伏キリシタン、貧困と自殺とかのことを話したりするなかで小島庸平『サラ金の歴史』(中公新書)を読み返しているせいもあるか。途中までしか読んでいなかったかも。これいつ出たんだろう。あ、昨年か。教育の問題と金融の問題は異なるだろうけど。人間相手という場合も色々だねえ。AIのことも含めて考えざるをえないけど昨日も書いた「性的モノ化」について考えておくと応用が効く気がする。

ああ、あと開業場面はそのお金を払える人たちが来る場所だからっていうのはまあそうなんだけど、そうでない人も来ることがあるとかそれもそうなんだけどそういう話ではなくて、ものすごい貧困を生きてきた人や貧困との関連で病気になったり様々な症状を抱え社会的にもとても難しいことになって通ってくる方もおられるわけで。お金と心の関係とかその資源の利用とかってものすごく複雑だから表面的には語れない。なんだってそのはずだけど。いろんな方々のことを思い出しますね。

オンラインの仕事が始まる時間。はあ。心身というより身体が辛いなあ。頭はこんなこと書ける程度には機能できるか。相互作用の力を信じてるからきっと大丈夫。痛い辛いしんどい色々言いながらなんとかしましょう。

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精神分析

冬至

今日は冬至。もっとも昼が短く夜が長い日。でもこれからが寒いのよね。とってもつらい。でもカボチャと柚子湯だよ。柚子いっぱいもらったから柚子だらけお風呂にしよう。この前散歩に行ったときも「ご自由にどうぞ」って道にゆずとカボス(すだちだったかも)が置いてあった。今、ゆずとかボスとか、って書いてしまった。ボスはいなかった。カボチャは一年中食べてる気がするけど大切にいただこう。みんなも冬を無事に乗り切れますように。

気持ちがゴタゴタで色々後手後手でもどうにかこうにかの日々だから(説明困難)instaでずーっと美味しそうなものとか素敵な写真とか世界中の美術館の作品とかを見ている。読まねばならないものは床を埋めていくばかり。まずは下からの冷気を吸い取ってもらっておりまする。今朝のTHE METはMerry Winter Solticeということで可愛いお花をリールにしてるよ。リールってこういうこというのね。冬枯れそのものもいいけどね。この前、昨日かな、画像だけ載せたけど枯れ枯れの枝に烏瓜がぷっくりぶら下がっているのをみたりするとマッチの灯とかクリスマスのオーナメントとかみたいでほっこりする。柿とかもう人生の終盤を考えさせるすごく渋い色で鳥につつかれてデロンって片側だけ落ちたりするのをみるのもよかった。鳥って嘴にデロンがついちゃたりして取れなくて気になるとかないのかしら。嘴がいくらとんがっててもどうしてもとれないとか剥がれないとかあるでしょ、きっと。あんな硬い部分には感覚器官がないか。

精神分析で部分というと口唇とか肛門とか特定の器官のこと。精神分析ではそれらが欲動という身体内部からの根源的なエネルギーを組織化していると考えるのでアセスメントは各器官にまつわる欲望のあり方をもとになされたりもする。例えば口唇だったらお母さんのおっぱい、つまり授乳をめぐるもろもろについて考える。もちろん「お母さんの」である必要はないし、実際の授乳場面の話ではなく患者個人がそれをどう体験しているかということ。おっぱいという部分の場合、それは単に生命維持のためではなく快ー不快と関わっていると理解する。その後も肛門期(サディズム期とも呼ばれるよ)、男根期、潜在期(性的活動が抑圧されている時期)、性器期、という性器をめぐって想定された欲動の発達段階において欲望のあり方やそれに対する実際の対象との関わりをみていく(フロイトはそれらが統合へ向かうと考えた)と人が自分と対象とどういう関係を持つか(自体愛から対象愛へなど)に関する理解が得られるという感じ。発達段階をあまり重要視しない分析家(学派というほど大きくないが著名な理論家でもある分析家)もいるし、自己をひとつと捉えるか複数と捉えるかで「統合」に関する考え方も異なるけど身体の発達と快不快の体験ってわりとスムーズに共有できる話だと思う。

あ、鳥の話をしていたんだった。というか別に何もテーマなど決めていなかった。鳥って本当に不思議がいっぱいでかわいくてとても好き。こんなお天気でもそこそこ元気そうだよ、鳴き声からすると。わからないけど。この前の散歩で野菜(主に白菜)のお墓みたいなところがあったので載せておこう。このまま土に還るのかしらね。私たちもいずれだね。先のことは誰にもわからないけどとりあえず今日から昼間が長くなりますよ。なんとか過ごしましょう。

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あれはなんだったんだろう 精神分析

なかったことにしない実験

サッカーも大河もみていなかったけどなんとなくは色々知っている。断片だけでもおもしろい。三谷幸喜はすごい。大人になるまでほとんど勉強してこなかったから日本史も大河ドラマ以外では知らないのだけどなぜか北条時政が好きだった、というか北条すごい、と思っていた。でも大河ドラマで誰かがやっていた北条のことなんて全然覚えていない。いたに違いないけど。でもこの前鎌倉へ行ったときはなぜかしみじみしたな。何繋がりかしら。あ、そうか。私の少ない知識は全部まんがからだ。「日本の歴史」。小学館かなあ。平将門も好きだった。多分かっこよく描かれてたんだろうね。大河で見たときにイメージ違ってがっかりしたことを今思い出した。独眼竜政宗の梵天丸の真似は大人になってもよくしていた。なんだったんだろう。サッカーみていたみなさんは寝不足かしら。せめていいお天気でよかったですね。今週もがんばれますように。

「今年は」という振り返りをするような区切りが昨年も今年もなかった。昨年末、久しぶりに旅へ出たことはひとつの区切りとなったけどもっと別の特別な区分が自分の中にできてしまった。もちろんいろんな人と「今年は〜」という話をしている。保育園の仕事も「今年度」はまだ3ヶ月あるけどすでに来園度を見据えての話だし担当の半分くらいの園は今年度の巡回を終えた。

「あれはなんだったんだろう」と問い続けてはダメージを深めそのダメージを素材に考え続けることでどうにか行動化を抑え、同時になかったことにしないように時間を引き伸ばしているような日々。終わりがくるとすればそこでようやくひとつの区分ができるかもしれない。

自分を使った人体実験。頭痛と共に何度も突然ぶり返してくる痛みに対してひどく冷徹な自分もいる。自嘲したり卑屈になったりしやすい場合は注意が必要。外傷の記憶となると似たようなことは解離として現れるかもしれない。そんな場合は激しい混乱を注意深く見守ってくれる実際の相手が必要。なかったことにされる体験が反復されないように過剰ではない忍耐強さをもつ相手と共にいられますように。自分の第三者性によって真逆の自分を維持できているうちは死ぬほど苦しくてもとりあえず大丈夫と思えないとこんな実験はすべきでないだろう。精神分析は実際の他者に自分の第三者性を預けつつ実はなかったことにできていなかった「あれはなんだったんだろう」を問い続ける。転移状況で再び体験される出来事を通じて当時は感じることも考えることもできずにいたことに気づく。

ああ。こんなことを書いている場合ではないのだった。それにしてもいろんな処理を施しながら言葉にしているわけだけどもしそうしなかったとしたら大変なことになるのでしょうね。自分から自分が傷ついた場所に出向いていってしまうことで大変なことにしてしまいたい衝動に拍車がかかるでしょうから。もちろんそうなったらそうなったでこちらは手放すようなことはしないけれど。

人の心をどう捉えるかはその人が持つモデルによって異なるしそのモデルはその人の体験によって異なるから本当に人それぞれ。でも「人それぞれ」とかいってなかったことにしていくあり方はあまりに安易だと思うしひどいなと思う。本当になんとも言葉にしがたいことばかりだけど今日もなんとかはじめましょう。またね。

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ジェンダー関連メモと映画メモ

「退行的な胎内への回帰幻想=母幻想におぼれそれにしがみつく者と、母子の間にすら存在する自我と他我の相克を凝視する者とでは、どちらが子どもに対し、また人間に対し、本当の愛情と理解を持っているといえるだろうか。」

ー『増補 女性解放という思想』(ちくま学芸文庫)江原由美子著

「中絶」や「子殺し」の問題に取り組んだリブ運動に関する論文から引用。愛情ってなんでしょう。

この論文はこちら(2022)にも所収→『リーディングス アジアの家族と親密圏第3巻 セクシュアリティとジェンダー』 p383「第19章 女にとって産むこと産まぬこと」

先日、インドの女性の精神分析家の話を受けて、同じくリーディングス アジアの家族と親密圏第3巻 セクシュアリティとジェンダー』の「第12章「男性の概念」とは何か。ー名誉殺人における「名誉」」を引用しながら議論。手紙書かなくては。

彼らにとって「名誉の損失」が、苦痛を構成するほどのものだとされれば、それは暗に「正当化されうる動機」となるのである。言い換えれば、もしある女性の人格が「邪悪」あるいは「ふしだら」とみなされれば、男性は理由なく彼女を殺すことができる。上記の理由づけは、例外なくすべての人の生存権と平等権を認めるインド憲法に反している。❨246-247❩

増加する暴力に対する一つの可能な解決策であったはずのカースト間結婚の社会的受容への道筋は、欲望、道徳、名誉のイデオロギーの中に失われてしまったのである。

女性は名誉の貯蔵庫であり、男性はその管理人なのである。❨248❩

先日「名誉毀損」という言葉を法の文脈で使ったけど使いながら「名誉って」となった。まずはいつもこんな気持ち。もしジェンダーに関する困難や問題を構造の問題として考えるなら個人的な人間関係はひとまず棚上げして同じ困難を抱えるものという「共感」から始めてはどうかしら。

映画「ケイコ 目を澄ませて」をみた。最近はなかなかない音と光がツルッとしてなくてリアルで岸井ゆきのはやっぱりとてもよかった。このことから書こうと思ったのにメモから書いてしまった。そんなこともある。大体そんなかな。良い一日を。

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身じろぎ

お寺の鐘が鳴っている。なんだかちょっと掠れたような。ちょっと頼りないような。

昨日書いた心と法の具体例みたいな案件が上がっていて驚いた。それにしてもSNSは、という感じはする。「名誉毀損」の重みって、とも思う。例えば慰謝料請求とかの場合、関係のプロセスで相手と直接コミュニケートできない状態だからと本人に請求するのではなく会社にとかしてしまったら逆に名誉毀損で訴えられる場合があるわけでしょう。どっちにしてもお金以外の解決は見込めないし。法って本当にうまくできてると思う。心の問題として考えるととても残酷とも思う。

「権力をいかに見定めるかによって女が被害者にも、加害者にも、抵抗者にも、抑圧者にもなりうることを示してみせた」

もろさわようこ『新編 おんなの戦後史』(ちくま文庫)の解説で斎藤真理子が書いている言葉だ。本当に女の位置ってこういうことなんだと思う。この本の刊行イベントでの話も興味深く関連の本も読んだ。今年はジェンダーに関する本をたくさん読んだ気がする。内容はあまり覚えていないが多く読むとさっき読んで納得していたあの説にはこういう背景とか反論があるのかとか知れるからそんな偏った取り入れにはならずにすんでいるのではないかと思う。きちんと後から使えるように読めばよかったと今は思うが、日々の幸福と苦悩をまずはじっと自分の中にとどめるための無意識的努力だったと思う。表現するならSNSなどではなく直接相手にと思っても自分自身の抑圧と相手からのさまざまな水準の圧力で言葉にできないという体験も多くした。いまだに「身じろぎできない」体験をするんだと自分でも驚くほどダメージも受けた。「身じろぎ」という言葉も斎藤真理子が取り上げたもろさわようこの言葉だ。「相手あること」については「あれはなんだったんだろう」という題名で書いた文章で何度か触れたと思う。あれはなんだったんだろうという問いは自分のこととなればたとえ事実を周知したとしてもなんの答えも得られない。

「みんなはどうしているのか」仕事でもよく聞く言葉だ。でも二者関係を第三者に開くことは問い自体を別のものに変えてしまうだろう。みんなではなくあなたであり私だ。もうそこに相手はいなくても「相手あること」なのであり引き受けるのは私でありあなただ。あまりに苦しいけど迫害的にならずそのせいで攻撃的にもならず耐える必要がある。構造の問題がすでにあるのは明確でも「名誉毀損」という法的判断は両者に同様に適用されるのが現状であることを思えば「賢く」動く必要がある。それについて考える自由は奪われていないのだから。

「行動」ではなく「言葉」で、というのは精神分析の基本だが言葉にしたら行動化への衝迫に駆り立てられるのもまたよくあることだ。どこまでとどまれるだろう。そして再び「身じろぎ」から始めることはできるだろうか。

今日も一日。実際にはもういない「相手」が残した問いに沈みながらであったとしても。

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「嫌われたくない」

早朝からコーヒーをこぼしてしまった。あーあ。わりとよくあるからそんなに残念でもないけど火傷しなくてよかった。小学校一年生のとき、ひとりでパンを焼こうとトースターで火傷した。当時から背も低く不器用だった私にとっては大きな冒険だっただろう。何度も思い出していた出来事なのに今はだいぶ薄れている。びっくりして痛くてでも少し誇らしかった。ような気がする。今もうっすらと跡があるけど当時はプクッと赤く膨れててその後もちっこいミミズがいるみたいになってた。こんなに薄くなるとは思わなかった。

トースターって種類はいくつかあれど昔からあまり変わらない。黒電話みたいに「何これ」とならずに今も残ってる。この前、小学生がCDプレイヤーを使うのに戸惑っているのもみた。という私はとても久しぶりにCDを買いにTSUTAYAへ行った。頼まれたはいいがどこを探したらいいかわからない。「ユ」のところをみたけどない。え?メジャーな人だよね。配信だけとか?頼まれたんだからそんなことないよね。果たしてこの名前はこの読み方であっているのか、など海外旅行かタイムトラベルかみたいな気持ちで狼狽えていた。お店の人に聞くにも「さん」づけにすべきかとかで悩んでしまった。思い切って「優里のCDありますか」と聞いてみたら「あ、優里さんですね」とあっさり「さん」づけだった。でも店員さんもさっき私が探した場所で「あれ?」となっていて名前が書いてある仕切りが無くなっちゃってるけどここに何枚かと教えてくれた。買えたー。よかった。私は今apple musicで優里さんの「ドライフラワー」を聴き始めた。

色々やってたらもうこんな時間。そうそう「嫌われたくない」「いい人でいたい」「みんなに好かれていたい」という人がいるじゃない?ということを書こうと思ったのだった。状況も不安の質も色々違うから一概には言えないけれどスプリットによってそれが成立してしまう場合について書いておこう。

「嫌われたくない」。これだけいろんな人がいるのだからなかなか難しいのでは、と誰でもわかりそうなものというかわかっちゃいるがということだと思うけど、

自分が不快な思いをしたくない→不快な思いをさせる人は嫌い→自分が嫌いなアイツは自分のことを嫌っている→嫌われたくないから排除→自分は誰も嫌ってないし、誰にも嫌われてない(スッキリ。次行こう。)、という場合がある。

女性が力を持つことを嫌う男性の態度にも近いものがあるかも。排除された側の「人をなんだと思ってるんでしょう」という怒りと悲しみの表明がフェミニストたちの運動でもあるのでしょう。フェミニストでなくてもひとりひとりが排除や差別の歴史を抱えていることは間違いないと私は思う。人を人とも思えない人たちだってそうだからこそこうなのかもしれない。でもだったらそれを繰り返すのではない方法で、と毎日頭痛とともに考え続けている。というか考えると頭痛がする。難しくて。でもパッと誰かの名言当てはめてわかったふりしても仕方ないから別の知的能力を使わないと。なくてもあるかもと信じないと。適応という意味では成功しててすでに「強者」である人がそういう心の構造を持っている場合、伴侶もそれ以外のパートナーもフレンドも取り巻きもいたりするから勝ち目はないと思うかも。でも人間関係って戦いではないから。そういう人たちはわりとすぐ戦いの言葉使うけど。子ども向けに攻略本とか出したくなる心性もそんな感じ?たとえそれが人間の本性だったりしたとしても本性とか本質語る前に言葉と行動。実際に特定の相手に言われたことされたことで怒ったり悲しんだり長期間ひどく苦しんだりするのだから、お互いに。

好き嫌いなんてすぐに反転する。好きだったり嫌いだったりする。ぐちゃぐちゃしたものを抱えて毎日やっていくのは辛いけれどとどまる。そうすれば薄くなったり濃くなったり出来事が意味を変えていくことに気づく。それを観察しよう。

東京は今は雨なの。午後は晴れるみたい。きっとお昼に外に出る頃には靴がキュッキュッていう。なんとかやりましょう、今日も。