この時間は虫も鳴かないのか、とさらに耳をすました。やっぱり何も聞こえない。キッチンに立つ裸足が汗ばんでいる気がした。この時間に麦茶を作ったら朝までに冷めるだろう。もう冷蔵庫に入れなくてもいいのかもしれないけれど。
外で渦巻くような風の音がした。窓を少し開ける。やはり少し蒸し暑いか。冷房除湿をかける。寒い。消す。暑い。またつける。
吉川浩満『哲学の門前』がその反応のなかでいつの間にか「門前の哲学」になっていると思った。生活環境における受動性が「いつのまにか」を引き起こす可能性。「門前」という言葉に多孔性を感じた。この本でもドゥルーズが何箇所かで引かれているが、リゾームは多数の入口を持つという言葉を思い出した。出口も?
千葉雅也note、8月31日“「意味」について(1)”を読みながら私も蝉のことを考えていたなと思った。毎朝、思いつくままに書いているここで昨日も蝉が粉々になっている姿をその硬い機械のような身体と共に思い浮かべて書いた。千葉さんはドゥルーズの『意味の倫理学』における「意味」と少しずらしたところでそれについて書いているようだった。それ以外言いようがないシンプルな感動。言葉と意味が繋がりをもった瞬間の1、2歳児へとなだらかにつながっている気がした。
ドゥルーズの入門書を何冊も持っている。というかなんでこんなに入門書が多いのだ。どれかは「門前書」だったりするのか。國分功一郎さんの講義で紹介された本が多いような気がする。千葉雅也さんが何かの選書フェアで紹介されていた『ドゥルーズキーワード89』はリブロ池袋店で買ったはず。今は新版も出ていたはず。なんでも曖昧。リブロ池袋店が閉店してからももう数年が経ち、ドゥルーズにせめて入門しようとがんばっていた痕跡として本は積まれているが内容はあまり覚えていない。ただ、こうして書いているとなんとなく思い出してくるものもある。先日聞いたベルクソン研究者たちの講義も思い浮かんだ。「持続」「差異」そういう単語もぼんやりとついてきた。
岩波書店『思想』で十川幸司先生の連載「「心的生の誕生――ネガティヴ・ハンド(リズムの精神分析(1))」が始まった。そこではドゥルーズは引用されていないがどの部分に対してだったか「あ、これドゥルーズだ」と思う箇所があった。なにかしら私の中に教わった痕跡はあるらしい。痕跡といえば十川先生が新連載の中で引用している「ネガティブ・ハンド」という壁画は興味深い。赤ちゃんのときに手形を取るような身体と対象に隙間のない状態ではなく、投射のような形式で直接触れることなく輪郭を描きそれが形として浮かび上がる様子を想像した。これは精神分析作業そのものであると同時に、言葉の発生を去勢と共に語るのではない、つまり単なる切断ではない新たな繋がりの描写の仕方のような気がした。そういえば十川先生はアダム・フィリップスの言葉を引用するのをやめたらしい。今手元になく正確に引用できないので書かないでおくがなるほどと思った。
今号の特集はG.E.M.アンスコムで巻頭の「思想の言葉」がとてもよかったのでそのページのリンクを貼っておく。
こんなあんなをダラダラと考えているうちに外では虫の声が増えてきた。早朝の救急車は止まることなく急げているらしい。
千葉雅也さんがnoteで書いていたことは印象的でドゥルーズ『意味の倫理学』もパラパラしたが「これアリスの話じゃん」とまたアリスに出会った。多孔性。ここでも感じる。少しずつ読めたらいいけど今日からまたフロイト読書会が始まる。いつだってフロイト最優先。だってフロイトの論文を全て精読することは一生かけてもできないだろうから。まあ、長年連れ添っても相手のすべてを知ることなどできないのだからせめてこんなまとまらないことがボワンと浮かんだままの頭をどうにかするために少し読むか。
異質なもの、不快なもの、受け入れ難いものと出会ったときにこんな自分でも傷つけずに生かそうと防衛的に、反射的にがんばるのではなく、とりあえず身を委ねるようにそっち側にいってみる。最近はそんなことをずっと考えている。