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この時間は虫も鳴かないのか、とさらに耳をすました。やっぱり何も聞こえない。キッチンに立つ裸足が汗ばんでいる気がした。この時間に麦茶を作ったら朝までに冷めるだろう。もう冷蔵庫に入れなくてもいいのかもしれないけれど。

外で渦巻くような風の音がした。窓を少し開ける。やはり少し蒸し暑いか。冷房除湿をかける。寒い。消す。暑い。またつける。

吉川浩満『哲学の門前』がその反応のなかでいつの間にか「門前の哲学」になっていると思った。生活環境における受動性が「いつのまにか」を引き起こす可能性。「門前」という言葉に多孔性を感じた。この本でもドゥルーズが何箇所かで引かれているが、リゾームは多数の入口を持つという言葉を思い出した。出口も?

千葉雅也note、8月31日“「意味」について(1)”を読みながら私も蝉のことを考えていたなと思った。毎朝、思いつくままに書いているここで昨日も蝉が粉々になっている姿をその硬い機械のような身体と共に思い浮かべて書いた。千葉さんはドゥルーズの『意味の倫理学』における「意味」と少しずらしたところでそれについて書いているようだった。それ以外言いようがないシンプルな感動。言葉と意味が繋がりをもった瞬間の1、2歳児へとなだらかにつながっている気がした。

ドゥルーズの入門書を何冊も持っている。というかなんでこんなに入門書が多いのだ。どれかは「門前書」だったりするのか。國分功一郎さんの講義で紹介された本が多いような気がする。千葉雅也さんが何かの選書フェアで紹介されていた『ドゥルーズキーワード89』はリブロ池袋店で買ったはず。今は新版も出ていたはず。なんでも曖昧。リブロ池袋店が閉店してからももう数年が経ち、ドゥルーズにせめて入門しようとがんばっていた痕跡として本は積まれているが内容はあまり覚えていない。ただ、こうして書いているとなんとなく思い出してくるものもある。先日聞いたベルクソン研究者たちの講義も思い浮かんだ。「持続」「差異」そういう単語もぼんやりとついてきた。

岩波書店『思想』で十川幸司先生の連載「「心的生の誕生――ネガティヴ・ハンド(リズムの精神分析(1))」が始まった。そこではドゥルーズは引用されていないがどの部分に対してだったか「あ、これドゥルーズだ」と思う箇所があった。なにかしら私の中に教わった痕跡はあるらしい。痕跡といえば十川先生が新連載の中で引用している「ネガティブ・ハンド」という壁画は興味深い。赤ちゃんのときに手形を取るような身体と対象に隙間のない状態ではなく、投射のような形式で直接触れることなく輪郭を描きそれが形として浮かび上がる様子を想像した。これは精神分析作業そのものであると同時に、言葉の発生を去勢と共に語るのではない、つまり単なる切断ではない新たな繋がりの描写の仕方のような気がした。そういえば十川先生はアダム・フィリップスの言葉を引用するのをやめたらしい。今手元になく正確に引用できないので書かないでおくがなるほどと思った。

今号の特集はG.E.M.アンスコムで巻頭の「思想の言葉」がとてもよかったのでそのページのリンクを貼っておく。

こんなあんなをダラダラと考えているうちに外では虫の声が増えてきた。早朝の救急車は止まることなく急げているらしい。

千葉雅也さんがnoteで書いていたことは印象的でドゥルーズ『意味の倫理学』もパラパラしたが「これアリスの話じゃん」とまたアリスに出会った。多孔性。ここでも感じる。少しずつ読めたらいいけど今日からまたフロイト読書会が始まる。いつだってフロイト最優先。だってフロイトの論文を全て精読することは一生かけてもできないだろうから。まあ、長年連れ添っても相手のすべてを知ることなどできないのだからせめてこんなまとまらないことがボワンと浮かんだままの頭をどうにかするために少し読むか。

異質なもの、不快なもの、受け入れ難いものと出会ったときにこんな自分でも傷つけずに生かそうと防衛的に、反射的にがんばるのではなく、とりあえず身を委ねるようにそっち側にいってみる。最近はそんなことをずっと考えている。

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人ひとりひとり

秋の蝶黄色が白にさめけらし

高濱虚子句集 『遠山』

虚子居らぬ世や風鈴を見て欠伸

秋風に見るうどんのううなぎのう

岸本尚毅句集 『雲は友』

文化を大切にすること。その文化に生きる人がいること。その意義や価値をあえていう必要のない世界はまだ存在している。とても安心した。

自分の領域への侵入には達者な言葉で謝罪を要求し続けるのにたいして知りもしない他者への領域への侵入はあっけらかんとおこなう。自ら対話の場を失い、同じような刃を持つ人か刃を権力として従うか利用する人ばかりが当面の話し相手になっている可能性は否認されているのだろうか。そうでないとそんなことできないか。撒き散らすようにかかれるものばかりが業績になり、それに素早く迎合できる人が作るものがこの国の「文化」になっていくのだろうか。

毎日、目に見えない差異に怯え、苦しみ、時折素直に反応しては素早い攻撃にあい、言葉にする体験を奪われ続けている人のことを知らないわけではないだろう。自らもそんな経験をし傷つきと戦い続けたプロセスが今なのかもしれない。でもそのやり方は反復を生じさせているだけだ。いつの間にかおそろしくマジョリティの立場から振りかざしているそれを指摘してくれる友はいないものだろうか。おそらくいるのだろう。でもできない。そういうものだというのはなんとなく知っている。力を持つものが弱さを持たないはずなどない。知性とは何か。やはり「連帯」という言葉が良きもののように利用されないことを願わざるをえない。

頭で考えることと気持ちを感じることの乖離が甚だしいこの世界に対する違和感を意識することもままならず、言語とスピード優位の周囲にただただ振り回されるように生活している人たちと私は仕事をしている。時間をかけてしっくりくる言葉を探す仕事をしている。これまでの傷つきをさらなる、あるいは別の傷つきとして重ねていかないこと、彼らに対するケアは彼ら自身にだけでなく、そこにいない周りの人たち、ひいては私たち全員に通じていることだ。それは特別なことではない。自分も関わりがある、と引き伸ばされた時間の先を想像できない人がそういうひっそりした場にぞんざいな言葉を投げ込んでくるのだろうか。だとしたら反射的にそれに応答するのではなく、何が生じているのか考え、静かに抵抗をつづけ、患者たちが自分のペースで言葉にできる場を守っていくのも私たちの仕事だろう。

昨日、紀伊國屋の階段を踏み外して派手に転んだ。そばを通り過ぎる人の足が見えた。顔だけよけるようにした。しばらくして通りがかった店員さんが心配して傘を杖にして歩く私と一階分一緒に降りてくれた。心優しい人もきちんといた。足腰が健康でないと不便な世界はたくさんあることを不注意で怪我をしがちな私は多分普通よりは知っている。人ひとりの力の大きさもたくさん経験してきたように思う。

昔、足の指の骨にひびがはいったときも一歩一歩片足を引きずるようにしか歩けなかった。前から人が向かってくるスピードが普段の何倍にも感じた。東京は前にも後ろにも真横にも人がいる。怖かった。でもあまり庇うと腰もやられる。人が来るたびに止まりながらやっと電車に乗った。疲れた。ドアの隅に立っていても続々乗ってくる人が怖かったけど足を安全な隙間に隠せて安心した。そのとき優先席にいた私よりずっと年上の方が「座りなさい」と声をかけてくれた。足の指など誰も気づかない。たとえ包帯を巻き大きなサンダルをはいていても。見かけは単に歩くのがやたらゆっくりな人だ。その人はどこからみていたのだろう。動かなければそんなに問題なかったので戸惑ったが座らせてもらった。とても疲れた。こんなに安心できていなかったのか。ありがたかった。

昨日もしばらくは人を避けて端っこをゆっくりゆっくり歩いた。怖かった。どうしても端っこを歩きたい人というのはどこにでもいてぶつかっていく人もいた。これは私がこの見かけでなくてもされることなのだろうか。よく思うことをまた思った。

自分が知らない世界がある。起きない方がいいけどどうしても起きてしまうことがある。細々とでも着実に受け継がれてきた学びや文化がある。

見知らぬ人の頭のそばを靴で通り抜ける。びっこをひいて隅っこを歩く背の低い女に邪魔だとぶつかる。誰かがそれで生計を立てている仕事をいらないものとする。こう書けばおかしなことのように思うかもしれないがこんなことは日々平然となされている。私たちがそれぞれに感じる不自由や理不尽に終わりがくることはないだろう。それでもできるだけ防衛的にならず、何かを排除する言葉を使うことに少し躊躇することを忘れない。それはひとりではなかなか難しいから私は今日も仕事をする。

何がなくとも何もないという必要などない。誰かにそう言われたとしてもそんなはずはないのだから。無理に言葉にしないで黙っている権利だって誰にでもある。黙っていることを何もないという人がいるとしたらそれはその人に圧倒的に何かが欠けていると思っても間違いではないだろう。時間をかけることで見えてくるものでゆっくり繋がっていくこと。その厚みと豊かさを静かに守るにはとても痛みが伴う世の中だけど今日もなんとかやっていこう。人ひとりひとりの力は小さくない。言葉にできない、言葉にならない、言葉にするプロセスにそんな戸惑いがたくさんあること、そこに注意を向けること、向けてもらうことはひとりではできないけど相手がいればできなくはない。

さあ、今日も一日。何がなくともどうぞご安全に。

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連帯と孤独、居直り

夜通し、近所で工事をしていて時折家が揺れた気がして寝ては起きてを繰り返した。今「夜中中」と書いて中が続くのは強調表現として間違ってはいないのか、と思いつつやっぱりなんか変だなと思って「夜通し」に書き直した。工事は今も続いている。多くの人が起きだす時間には終わるのだろう。作業している人は完全に昼夜逆転か。大変だな。寝られるといいけど。

玄関に向かう門をあけると間近で虫が鳴きはじめた。すごく大きな声でびっくりして「人感センサーかよ」など思いながら本当に人感センサーのオレンジ色のライトの下を歩いて玄関の鍵を差し込んだ。虫の声が止まった。思わず振り返った。ドアを開けて入ると背後でまた鳴きはじめた。リズム。雑な詩のような私たちの関係。

私は「連帯」という言葉が好きではない。正確には良さそうな意味で使われる場合の。

先日もここで書いたエミリー・ディキンソン(Emily Dickinson 1830-1886)の詩をおもう。

I’m Nobody! Who are you?

I’m Nobody! Who are you?
Are you – Nobody – too?
Then there’s a pair of us!
Don’t tell! they’d advertise – you know!

How dreary – to be – Somebody!
How public – like a Frog –
To tell one’s name – the livelong June –
To an admiring Bog!

これは「連帯」の詩のように思う。nobodyであれば。声を出さなければ。詩人の孤独はいかばかりか。

人間として扱われないのにnobodyには決してなれない事態もある。

そこにあるものは

そこにそうして

あるものだ

ー石原吉郎「事実」より抜粋

石原吉郎に「ある<共生>の経験から」という文章がある。シベリアのラーゲリ(強制収容所)での体験である。収容所での<共生>はただ自分ひとりの生命を維持するためのものだった。

「それは、人間を憎みながら、なおこれと強引にかかわって行こうとする意志の定着化の過程である」

「例の食事の分配を通じて、私たちをさいごまで支配したのは、人間に対する(自分自身を含めて)つよい不信感であって、ここでは、人間はすべて自分の生命に対する直接の脅威として立ちあらわれる。しかもこの不信感こそが、人間を共存させる強い紐帯である(イタリックは本文では傍点)ことを、私たちは実に長い期間を経てまなびとったのである」

そしてこの認識の末に発見される孤独は現在私たちが使用しがちな「連帯」との関係で記述さえる孤独とは異なり

「孤独は、逃れがたく連帯のなかにはらまれている。」

私たちは石原吉郎が体験したほどの過酷な状況に身を置くことはこれからも恐らくないと思うが、実は石原の書いたことを身をもって感じとれるとも思う。私の苦手な「連帯」という言葉はnobodyでいられない、ここにいるものはいるものとしての人間の孤独を否認しているように感じる。これも数日前にここで書いたが「シスターフッド」という言葉を苦手と感じるのもこのことと関係があるのだろう。

石原吉郎の詩やノートには引用したいものが多すぎる。でも詩というものを抜粋するのも野暮な気がするし(さっきしたけど)、実際どのくらい引用していいものかわからない。

でも「居直りりんご」という詩を書いておきたい。教科書で読んだことがある人もいるかもしれない。今日もこんな感じで過ごせたらとちょっと思った。

居直りりんご

ひとつだけあとへ

とりのこされ

りんごは ちいさく

居直ってみた

りんごが一個で

居直っても

どうなるものかと

かんがえたが

それほどりんごは

気がよわくて

それほどこころ細かったから

やっぱり居直ることにして

あたりをぐるっと

見まわしてから

たたみのへりまで

ころげて行って

これでもかとちいさく

居直ってやった

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ハーバート・ローゼンフェルド『精神病状態 精神分析的アプローチ』をいただいた。

昨晩遅くにコーヒーを飲んでしまった。昨日はそんなにカフェインをとっていないような気がするが朝は紅茶にしておこう、とティーバッグをだした。カフェインであることに変わりないけど気分の問題。あっつい紅茶が美味しい朝になりました。今年も無事に夏が過ぎていく様子。私たちも無事に朝を迎えた様子。

昨晩、帰宅したらポストに厚みのある封筒が入っていた。あれ?なにか本の注文してたっけ、とポストから取り出す。早く見たかったが他の郵便物や重たい荷物のせいで確認できない。部屋に入るまですぐなのにこの短時間が待ちきれない。本が届くのは本当に嬉しい。荷物をドンと置いてチラシを紙袋に仕分けて厚みのある重たい封筒を手に取る。うわあ!と嬉しくなった。

ハーバート・ローゼンフェルド『精神病状態 精神分析的アプローチ』(松木邦裕、小波蔵かおる監訳、岩崎学術出版社)をご恵投いただいた。重たいけど意外とコンパクト?と思ったけど他の本と変わらなかった。なんでコンパクトと思ったのだろう。ギュッと詰まった論文集だから?

そういえば最近本屋さんで精神分析の本が置いてある棚の方へいっていなかった。自分で買うつもりでチェックしてあったが大変ありがたい。この本は8月に出たばかりの新刊だが古典だ。

1965年にイギリスで出版された。すでに訳出されている1987年出版の『治療の行き詰まりと解釈』(誠信書房)はローゼンフェルドの後期の思索を解説したものであるが、今回訳出された『精神病状態』は初期の論文を集めたものである。原書はpsychotic states a psycho-analytic approachで、精神病に対する精神分析の貢献の可能性を示した1947年の彼の最初の論文から1964年の論文が収められている。精神分析を専門的に勉強している人はここに収められた論文をすでに英語で読んでいる人が多いのではないだろうか。監訳者のおひとり、精神分析家の小波蔵かおるさんがその訓練中に「なぜこれが翻訳されていないのだろう」と不思議に思い翻訳を申し出たということを「解題」の最初に書かれているが、訓練に入っている人はおそらくみんなそう思っていたと思う。だからこの翻訳は大変ありがたく、これから精神分析を学ぶ人たちがこれまた学ぶことが必須であるメラニー・クラインに始まるクライン派精神分析の初期の成果を追うためにも助けになってくれるに違いない。英語で、しかも精神分析で、しかも理解が非常に困難な精神病の世界のことが書かれた論文たちは読みとおすだけで精一杯みたいなところがあると思う。私はそうだった。多分私だけではないと思うから助けてもらおう。

ローゼンフェルドは1909年7月生まれの精神分析家だ。ドイツで生まれたユダヤ人である、と書くだけで彼が経験した苦労を想像できるだろう。1935年、ナチスの迫害を逃れイギリスへ向かうがそこでも敵国の外国人であるために居場所を得られなかった。しかしなぜか精神療法家としてなら滞在できるということで彼はタビストック・クリニックでの訓練をはじめ、そこでメラニー・クラインの分析を受けた。彼の人生史や人となりは本書の解題にも『行き詰まりと解釈』にも触れられているが、今回の監訳者のもうひとりである精神分析家の松木邦裕先生が昨年2021年に出された『体系講義 対象関係論(下)ー現代クライン派・独立学派とビオンの飛翔ー』(岩崎学術出版社)にはパーソナルな描写もあり、これを読むと論文にも近づきやすくなると思う。どういう時代を生きたどういう人がこれを書いたのかということはどの論文を読む場合にもとても重要だろう。

また、ローゼンフェルドの最も重要な貢献の一つである精神病に苦しむ人への精神分析的アプローチについては『行き詰まりと解釈』の第一章「精神病治療への精神分析的アプローチ」が詳しい。

毎日勉強だなあ、と思いつつ、フロイト以外の精神分析の本をあまり読んでいなかった。古典を読むのは楽しい。目次をみてパラパラとするだけでここに収められた論文のいくつかはぼんやり思い出すことができた。勉強会でも話したいことが増えた。正確に紹介できるようにきちんと読もう。訳者にはフロイトをしっかり読んでいる知り合いの名前もある。頼もしい。翻訳作業でも世代を繋ぎながら精神分析を受け継いでいる監訳者の先生方からこの本をいただけたことがとても嬉しい。もうちょっとしっかりしなさい、というメッセージとして受け取ろう。どうもありがとうございました。

今日は金曜日。週末ですね。無理をしなくてはいけない人もほどほどのところでお茶を濁す練習も大事かも。自分のこころを守ることを優先するってなぜか本当に難しいけど長い目でみれば今そんなに無理しなくてもどうにかなることもあるかもしれない。少しずつ、力抜きつつ、ぐったりするだけではない夜を迎えられますように。お大事にお過ごしくださいね。

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模索は続く、与作は木をきる、ってなんか似てる、と思った、今。北島三郎が歌った「与作」。多分今生まれてはじめて書いた、北島三郎も与作も。ヘイヘイホー。

サンフランシスコでプライベート・プラクティスを営む精神分析家のトーマス・オグデン(T.H.Ogden,1946〜)が2021年12月にThe New Library of PsychoanalysisのシリーズからComing to Life in the Consulting Roomという本を出した。副題はToward a New Analytic Sensibility。

オグデンはここでフロイトとクラインに代表されるる”epistemological psychoanalysis” (having to do with knowing and understanding) からビオンとウィニコットに代表される”ontological psychoanalysis” (having to do with being and becoming)への移行とその間を描写する試みをしているようだ、と以前に書いた。

オグデンはウィニコットをはじめとした精神分析家の重要論文の再読、詩人ロバート・フロストの読解など”creative readings”を試みてきた。詩を読むことは一種の「耳の訓練」であり「言語の使用されかたによって創造される効果に気づき、それに対して生き生きしているという能力を洗練する」。精神分析における患者の言葉を「意識的無意識的な情緒体験の構造や動きが、無自覚にその文章を構成する道筋をかたちづくった」と捉え、それを「書き、読む体験のなかで初めて生起する何かを創造する」ために「分析家は、耳を傾けている自分自身に耳を傾けなければならない」とオグデンはビオンを引いていう。

引用はT.H.オグデン『精神分析の再発見 ー考えることと夢見ること 学ぶことと忘れること』(藤山直樹監訳、木立の文庫)「一種の「耳の訓練」として詩やフィクションを読むこと(p94)」からである。

オグデンは最新刊でこれまで中心的に取り上げてきたロバート・フロストに加えエミリー・ディキンソンの詩、There’s a certain Slant of lightを取り上げている。

8:Experiencing the Poetry of Robert Frost and Emily Dickinson

短い章だが死を想うオグデンを感じることができる。オグデンはもう70代後半だ。

I’m Nobody! Who are you?
Are you — Nobody — Too?
Then there’s a pair of us?
Don’t tell! they’d advertise — you know!

ディキンソンのI’m Nobody!Who are you?の冒頭だ。対象と出会う乳児のこころを描写したウィニコットの言葉のようだ。

この詩はWilliam BlakeのInfant Joy(赤ん坊のよろこび)Infant Sorrow(赤ん坊のかなしみ)の後に読むとさらにグッとくる。

魂の声 英詩を楽しむ』(亀井俊介、南雲堂)でその体験ができる。この本は私が思春期に詩をたくさん読み書いていた理由を体感的に思い出させてくれた。誰もが知る(私は詩人たちの名前しか知らなかったが)有名な詩の数々を対訳で読むことができる。亀井俊介の序文の言葉は「詩ってなんだっけ」とぼんやり考えていた私にしっくりきた。亀井は序文で詩に対する考え方が自分とは異なる研究者として二人をあげ、その一人は阿部公彦なのだが翻訳家の柴田元幸と共に帯文を書いているのも阿部だ。もう一人、亀井が序文で批判を向けた研究者がいたが名前を忘れてしまった。今手元に本がない。

音声ファイルをダウンロードし美しい英語で美しいリズムで読まれる名詩たちをきく。どれだけ多くの人がこの調べに支えられたりものおもったりしてきたのだろう。

誕生のよろこび、すぐにやってくるかなしみ、私は誰、あなたは?という問い。

「赤ん坊は生まれたとき、みんな泣くんだ」

生後二日で事故にあった宇宙船で育てられてきた(誰にかは読めばわかる)9歳の少女がはじめて宇宙船の外に出る。「初めての」だらけの「外」へ。泣き出す少女。

新井素子編『ショートショートドロップス』に収められた萩尾望都「子供の時間」の一場面だ。一緒に泣きたくなった。

喜びも悲しみも言葉にすれば分かれているようだが体験としては分けられないだろう。詩の言葉が持つ多義性を曖昧にせず、「曖昧」という言葉で7つの型に分類した『曖昧の七つの型《記号学的実践叢書》』 ウィリアム・エンプソン(著) 岩崎宗治(訳)にも似たようなことが書いてあった。亀井の本にも。

なんだか止まらなくなってきてしまったけどもう準備しなくては。ダニエル・ヘラー=ローゼン『エコラリアス 言語の忘却について』(みすず書房)に詩を全部忘れたら詩を書ける、とビオンのno memory,no desireのような話がある。そのことも、というよりむしろそのことを書きたかった、ということを今思い出した。こういう忘却はどうなんだ。

まあ、今日も色々あるに違いない。私たちは頭だけでできているわけではないから子供のこころと身体で人間以外の世界にも助けてもらおう。昔読んだ詩とか思い出したりするかもしれない。そうだったらちょっと素敵だ。私が最初に思い出したのはヘイヘイホーだったけど。

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沈黙のため

沈黙する。止まらなくなってしまわないように。一見まともそうな理由をつけて誰かを巻き込まないように。自分の不安をその対象からずらすことがその相手の不安を刺激することでもあるけど自分のことは自分で考えねば。だから見せない。その人はそういうこころのメカニズムがわからないからなんとも思わないだろう。本音を伝えたところでそんなつもりはない、これこれこういう理由がある、と苛立っていうだけだろう。頭でならわかるだけに嫌な思いをするだろう。悲しみや寂しさは感じるほうが悪いのだ。気持ちの共有はいつもむずかしい。もっと悲しくもっと寂しくならないために我慢する。こんな気持ちになる自分がおかしいのだと。受け入れることだけしてほしい相手に自分の寂しさや我慢することの負担を伝えることの負担はずっと経験してきた。それにこれ以上直面したくないから黙る。優しい人なのだ。でもその優しさを私に向けられるのは直接会っている間だけなのだ。会わない時間は時折思い出してもらえるだけマシなのだ。受け入れてあげることで嫌われないですむのならその人のあり方に合わせた私になるべきなのだ。自分の気持ちは自分で引き受け続けるべきなのだ。苦しんで苦しんで少し慣れてきたけれどノルマ的なスタンプと変わらない悪気のない言葉によって引き起こされる気持ちを抑えこむのは時間がかかる。でも暴発しないためにひたすら時間をかけるやり方を学んだ。外向けの饒舌と優しさも嘘ではない。それとは全く異なるあり方に心底悲しくなったけど何かを言ってはいけない。だから言葉にしない。沈黙の方法を模索する。言ってもまたスタンプ的な、あるいは本当にスタンプしかかえってこないのだから。悪気なんてないのだから。余裕がないだけなんだ。特別にしてあげてるくらいに思っているかもしれないのだ。気持ちを言ってもこちらの陰謀論だくらいに言われるかもしれない。陰謀論という言葉は相手を抑えこむために使うためのものではないけど。それにもしそうだとしても気持ちを考えてもらえなければそうなってもおかしくないのではないか、とも思うけど。でもそれも言わない。相手の振る舞いも自分の気持ちも飲み込むための沈黙の方法はどこ?どこまで続けるのだろうこんな見て見ぬふりを。

自分で理由をつけて苦しみを終わらせようとしない。身体もこころも壊れていくのを感じるけど壊れるまで続けてしまうのが私たちだ。そうなっても伝わらないものは伝わらないのに。

今日もいろんな人のこころが壊れていく。相手のことは諦めるざるをえなくともどんな言葉で思うこともどんなことを考えるのも自由であることを忘れませんように。一瞬一瞬の回復によってなんとか持ち堪えることができますように。

昨日も何冊かの本を買ってどれも途中まで読んだ。どれも詩に関する本だった。すごく大雑把に言えばだけど。沈黙するためにこころを大切にしようとする言葉を求める。そうだとしたらと思うと悲しくて可笑しかった。

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「いいね」の応酬

泣いては眠り、泣いては眠り、何度目かに起きてやっぱりSNSにしかいないと確認して急に冷める。なーんだ。話されていないことのほうが重要、なんてこと、いつもそうと知っていたはずなのに。話していたあのことは話されていないこのことに向かっていてそんな日はいつもこうなる。なーんだ。もう泣きすぎて疲れて涙になるような気持ちにもならないし身体もどう動かしたらいいかわからない。なーんだが空虚にこだまするだけの身体。なーんだ蝉、だな。蝉は短命でいいな。もう夏は終わった。暦上は。

眠れない、生きてたくない、という投稿が増える時間。わかるー、と思って知らない人にいいねを押し続ける。我先に。そうしている間は多分大丈夫だから。向こうはまだ昼間だという。まだ?もう?先に進んでいるのかこれから追いついてくるのかなんてどっちでもいい。闇ではない。それだけで羨ましいようなこっちでよかったような気もする。

何年も何年も毎日毎日男女問わず年齢問わず数えきれない人の話を聞いてきた。仕事だけではなく。

私は「シスターフッド」という言葉をよくわかっていない。調べればわかる程度にはわかっているがそれが具体的にどう可能なのかがわからない。性別問わずたくさんの人に支えられてきたが私の周りは圧倒的に女性だった。彼女たちは私に理不尽で過酷なことが起きたときもそれを中立的な態度で聞いてくれてどう行動を起こすのか起こさないのかを私が自分自身で考えられるように一緒に考えてくれる人たちだ。子供の頃なら身内や友人が、社会に出てからはやはり身内や友人や職場の人が支えてきてくれた。これはシスターフッド?あえてそういう必要ないよね、と思う。私が戦うべきかどうするか考える対象は男性とは限らなかったし。私の理解ではあくまでフェミニズムの運動の歴史と文脈において外部へ働きかる際、男性に対して必要となる連帯がシスターフッドで当時はあえてそう呼ぶ必要があったと思うが現在の日本でその用語を使用することはあまり適切ではないのではなど考える。この用語に限らず男女の分断が言葉の吟味がされないせいで生じてはいないだろうかなど考える。知性溢れる明快さで強い語調で女の傷つきが語られているのをみるとなんだか傷ついてしまう。それは誰の痛みの発露だろうか。それとも愛とか欠如とか不在とかなんとか、など考えてしまう。

わからない。人は恐ろしく自己中だ、簡単にいえば。私も含め。そしてそれは悪いことではないはずだ。ただ時折死にたくなるほどに苦しくなるからいい悪いの話にした方が楽なときもある。傷つけるより傷つかないこと。不安は別のものに置き換えること。「いいね」を微妙にずらした相手へ向けること。持ちつ持たれつの「いいね」の応酬に終わりはない。今日も見ないふりをする。

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つもり

冷蔵庫から麦茶を出した。そろそろ作り置きしなくてもいい時期かな。カフェでもフローズンドリンクに惹かれなくなってきた。まだまだ暑いのに身体はもう冷やされることを望んでいないみたい。真夏でも冷やしてはいけないのだろうけど美味しいフローズンドリンクを飲むと確実に喜んでるよね、身体。

昨日は仕事の合間にずっと専門書と睨めっこして疲れた。勉強すると賢くなると錯覚できるのはそれをテストにできる場合だと思う。私馬鹿なんじゃないかというか馬鹿なんだな、と自分の知的能力を否認できなくなることはあれど賢くなったと感じることはない。でもこの「私馬鹿なんじゃないかというか馬鹿なんだな」ってこれまでも何度も思っていることだから現実って本当にすぐ忘れ去られ否認による錯覚の世界を生きやすいってことだね、人間は、というか私。

否認も精神分析では重要な防衛機制と考えるが、精神分析には「否定」という重要な概念もあり、『否定Nagation』というそのまんまの名前の短いが重要な一本の論文にもなっている(フロイト(1925),『フロイト全集19』岩波書店)。この論文の冒頭は患者の言葉だ。精神分析の方法である自由連想、つまり思い浮かんだことをそのまま言葉にする、という方法において患者がする語り口、たとえば「そんなつもりはないのです」という否定、ある表象内容に対して無意識的な抑圧が働いていたことはこの否定によって明らかになる、という理解を精神分析はする。「そんなつもりはなかった」、よく聞くし、よく使う言葉だ。精神分析は無意識を想定するため、そんなつもりはなかったが現に今こういう出来事が生じているということに対して二者で思考するプロセスといえる。

昨日、睨めっこしていたのは精神分析の専門書で『アンドレ・グリーン・レクチャー ウィニコットと遊ぶ』(金剛出版)とラプランシュ&ポンタリスの『精神分析用語辞典 vocaburaire de la psychanalyse』(みすず書房)。「表象」について考えはじめたらドツボにハマってしまった。先述した「否定」はフロイトが「思考」に不可欠と捉えた機能であり、事物表象と語表象の区別にも関わるため同時に考える必要があった。

それにしても難儀。精神分析が使う「表象」は哲学で使うそれとは異なるのはわかる。でも何度学んでも自分で説明できるほどにならない。フロイトの初期の著作からずっと登場する概念にもかかわらずスッキリしない。大体フロイトの概念の使用は年代によって変わっていくのでスッキリしてしまったらどこかでついていくのをやめているということなのかもしれないが私の理解はそれ以前の話だ。難しく考えすぎなのかもしれないが難しい。

精神分析でいう表象は対象の痕跡からきたものであり記憶系である。フロイトが否定という機能に重きをおいたことで患者との関わりを思考するための複数、あるいは反転可能なパースペクティブを意識することができるようになった。それによって内部と外部、良いと悪い、存在ー非・存在といった二元性の判断についての探求はもちろん、患者が破壊欲動によって思考すること自体を攻撃し、こころを動かし続けることをやめてしまうこと、それは変形とそのプロセスにおける破滅に対する恐怖からかもしれないなどの仮説もたてられるようになった。

ということがあるので概念の理解とそれによる思考は重要であり、捉え難くともそこに身を置き続ける必要がある。だが難儀だ。今日もまたちょこちょこやるしかないが。精神分析は現実の二者のものなので私が作業をやめるわけにはいかない。ただ無意識的にはありうる。それを「そんなつもりなかったんだけど」と済ませることなくそういう事態が生じたら生じたで何がどうなってしまっているんだ、と二人のこととして考え直す、今日もその繰り返し。

また月曜日。嫌になっちゃうことも多いかもしれないけど毎日が続いていること自体になんとか希望を見出せますように。

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不気味世代

舌が痛い。朝からしょっぱいものを食べたからか。

PCに向かうと自動でアップデートされていたようで立ち上がるのに時間がかかった。しかもこれはアップデート時は毎回なのだが立ち上がってアセクスビリティに関する選択の画面が出ると凍ってしまう。「今はしない」だっけな。選択肢が出るけどクリックがきかない。で、毎回再起動する。するともうその画面はでず「問題が発生したため」どうこうという画面が出てその部分へのクリックもきかず「〜秒後」に再起動します、というのを待つことになる。そしてようやく起動。このプロセスってもう何度も経験してるのだけどどうにかなっちゃうから問題にしたことがない。数年前の年末年始、高野山へ旅したときは確か原稿締切が近いのに全然進んでいなくて仕方なくPC持ち歩いていたらフリーズ。外は雪。この子(PC)はフリーズ。私だってフリーズしかけたがもうこの歳になるといろんなことに驚かなくなる。歳のせいではないかもしれないがとにもかくにも自分にはどうにもできないことはどうにもできないのだ。何かできる状態に持っていくしかない。宿坊での早朝の朝勤行の床の冷たさに比べたらなんでもないわ、と思いつつ雪のなかを散歩した。今だったら気楽に旅できていただけラッキーだったわ、っていうことになるね。1月2日に一番早く予約が取れた銀座のアップルストアに持っていき理由わからず回収。数日後、中身が新しくなって戻ってきた。原稿は間に合った。

鳥が賑やかになってきた。SNSにも鳥の声をあげている人がいる。画面に鳥はいないけど高く響くかわいい鳴き声がそこから聞こえる。私も今窓の外に鳥を感じるだけでその姿は見えていない。生まれつき目が見えない人は鳥の姿をどんな風に想像するのだろう。私は私が見えているのと近い形に想像しているのではないかと想像する。彼らが音から空間をつかむ姿を見ているとそんな気がするけど違うかもしれない。どの程度を「近い」というかという話でもあるがそういう意味でも私はやっぱり近いような気がする。今度聞いてみたい。

昨日、千葉雅也さんのnoteを読んでいてホテルというのは出来事の宝庫だなと思った。現実にあることもないことも起きる。殺人、密会、乱交、ドラッグなどなどの現場になったり別の時代への入口になったりする。映画や精神分析状況を思い出している。

ビジネスホテルはコンパクトで過剰も余剰もないが千葉さんの記事に出てくるようなホテルにはある。さらに鏡、固定電話、湯沸かし器、エレベーターといったホテルに必ずある物たちも別の時空を現実的、想像的に体験するには十分な力を持っている。同じ姿をしたドアがずらっと並び中では何が起きているかわからない。その羅列は反復でもあり三面鏡の前に立たされたような感覚にもなる。少し時空が歪んだかのように過去と今が錯綜する。インターネット以前も以降も知る千葉さんや私の世代はある程度歴史を持つホテルがもつような空間とネット上、つまり平面が持つ奥行きという空間の両方に引き裂かされながら生きてきた世代だ。

疎外によって「私」が発生する鏡像段階、去勢による言語の発生の段階(精神分析の用語を使用する場合)、私たちの世代は身体で関わり合う対人状況と記号から立ち上がる触れえぬイメージの時代の比重が変化する移行期を生きてきた。「戦争を知らない子供たち」という歌を思い出す。私は千葉さんのnoteを読みながら、私が今以上に歳をとってある程度ラグジュアリーなホテルでくつろぎながらその時代にはすでに気持ち悪がられているかもしれない身体に悪そうなソースがかかったステーキとかを食べているのをこれからの世代が見たら不気味だろうなと思った。想像上のホテルの鏡的な場所に映った老いた自分を見たような気がした。フロイは『不気味なもの』のなかで不気味なものを「慣れ親しんだ–内密なものが抑圧をこうむったのちに回帰したものである」としながらそれだけではないという含みをもたせた。そこには触れえぬもの、疎外状況があるのだろうと私は思う。

千葉さんのような語り部が必要なのはそういうわけだろう。アイデンティティなんて言葉はいずれ使われなくなる気がする。自分を語る見知らぬ他者が連続しない場所に複数存在するような時代に誰の声でどうやって自分の輪郭を確かめていくのだろう。触れられ抱えられ声や身体感覚を頼りにそうしてきたこの身体が断片化したり流出し拡散していく状態はもはやエリクソンのいう「危機」でもなくなるだろう。

本当はnoteの内容を具体的に書きながら共有したいが有料記事なのでぼんやりしたことを書いた。千葉さんのしていることも私が考えていることも結構重たいと思う。でもこの世代としてやれるならやっておくべきことというのはあると思うのでとりあえず続けよう。

今日は土曜日。いいこともありますように。

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精神分析

新しいダム

昨晩のおかずの匂いがまだ残っている。台所の窓を開けた。今日も虫の声がした。もう蝉の声に戻ることはないだろう、来年の夏までは。来年の夏なんて本当にくるのだろうか。くるにはくるだろうけれど。不安がよぎった。

待ちくたびれた返事に返事をした。一瞬胸が疼いた。こういう時なんだな、不安になるのって、と少し笑った。おかしいからではなくてそうなるってわかっているのにまたそうなっていることに対して。

フロイトは、とまたフロイトが私の元へやってきた。昨日、私なんだかんだほぼ毎日ここでなんらかの本を取り上げている気がすると思った。メモがわりにツイートしておこうと思ったけど昨日分だけして面倒になってしまった。

フロイトは『フロイト全集 21』「終わりのある分析と終わりのない分析」(岩波書店)のなかで「分析を受けた人間と分析を受けていない人間とのあいだに本質的な相違をつくり出す」ものがあるのではないかという。フロイトはそこで分析によって作り上げられるのは「新しいダム」であり、それは「以前のものと較べ、まったく異なった堅牢さを有する。つまりわたしたちは、新しいダムに対して、それらはそんなにたやすく欲動の高まりの洪水にやられてしまわないだろう、という信頼を寄せることができる」と書いた。この論文は精神分析とは何かということを考えるための必読論文だ。そうか、私は、彼彼女は、あなたは「新しいダム」を作っているのか。大変なわけだ。

白川郷、飛騨高山へ向かう途中、ダム建設によって水没した村、元荘川村、現在は御母衣ダムのそばで高速バスが止まった。バスガイドさんが巧みな話術でそこから移転した桜の話をした。荘川桜の話だ。母も泣いていた気がする。

以前通っていた墨田区鐘淵に都営白髭東アパートという大きな防災団地がある。最初に見たときには思考が停止した。団地それ自体が防火壁になっており非常時にはシャッターが降りる大きな門がある。え?人が住んでるよね、と。もちろんこの構造は人を守るためでもある。でも人住んでるよね….。どうにも理解が追いつかなかった。

自分を新しいダムとして再建する。そのイメージを使えばその構造はそんなに矛盾を孕んだことではないのだろう。しかしリスクは大きい。まさに、だ。

フロイトはこの論文の最後では治療の終わりに突き当たる「岩盤」として去勢不安に基づく心的両性性の受け入れ困難の話もする。フロイトのダム建設過程において両性性は当然のものとされながらフロイト自身によって拒絶されたといえるだろう。そこはまだ「新しい」ダムではなかったのかもしれない。ダムや防災団地の建設過程にはマゾヒズムの問題を見出すこともできるだろうか。どんな建造物ができればそれは「新しい」といえるだろうか。それはどこまでいってもまだ途中のとりあえずの形なのかもしれない。

何はともあれもうこんな時間。地道にやることやりましょうか。まだまだ暑いですからお大事になさってくださいね。

cf.終わりのある分析と終わりのない分析」(1937) は岩崎学術出版社の『フロイト技法論集』にも入っています。

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精神分析

中井久夫の本

3時過ぎ、揺れを感じて起きた。地震ではなかったらしい。

昨日、店が開くのを待ちながらTwitterを見たら友人が中井久夫死去のニュースを流していた。そうか、ついにと思った。

揺れを感じて目が覚めるなり中井先生のことを思った。大地震が来るような気がして少し怖かった。先生というほど直接的な関係はない。講演は聞いたことがある。本はずっと読んできた。引用もした。中井先生の下で働くために神戸へ越していった知り合いは数年前に亡くなった。東日本大震災の時、阪神・淡路大震災以降に先生が書かれたものを読み直した。土居健郎先生との交流が心に残り彼らと付き合いの長い分析家の先生と話した。

私が自分の書いた論考で引用したのは『徴候・記憶・外傷」(みすず書房)の主に外傷性記憶についての文章だった。この本は1995年阪神淡路大震災以降に執筆された論文を集めたもので、エピグラフのあるものとないものがある。

私が繰り返し読んだ「外傷性記憶とその治療ー一つの方針」のエピグラフは中井久夫が愛し、訳したポール・ヴァレリー『カイエ』からの引用である。

“体の傷はほどなく癒えるのに心の傷はなぜ長く癒えないのだろう。五〇年前の失恋の記憶が昨日のことのように疼く。”

中井久夫が翻訳について書いた文章もまさにまさにだ。先日、「言葉の可能性を探る」〜心理士(師)が地域でひらかれるために〜というテーマでイベントをしたときに参考文献を写真でツイートしたが、その中の一冊『私の日本語雑記』(岩波書店)は今年最初に文庫化した。

中井先生は描画の天才でもあるがその言語感覚にはこれからもずっと刺激され続けるだろう。言葉がいかに人間を作り、動かしていくか、中井先生の言語での描写には静かな危機感が滲むようで私のような一読者の言語使用をとどまらせ再考を促す一面を持つ。

3時過ぎに起きて二度寝してしまったせいか少し疲れた。さっき調べたらその時間に実際に地震があったらしい。あの震災の体験を生き続け書き続け伝え続けた中井先生の言葉がこうして残っていることに気付かされる体験だった。

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短詩 精神分析 読書

Z世代のうたい手たち

空が赤みがかって水色とピンクが混じり合う時間。今朝もまだ風が強い。昨日、新宿の上空に次々現れる飛行機を見上げながら見送った。いつの間にか月が大きく出ていた。近くの森でアブラゼミが鳴いている。ミンミンゼミが鳴き始める頃には出かけよう。

キャロル・キングの優しい歌声を流しながら先日読んだ『ユリイカ』2022年8月号

<今様のうたい手>
何万回でも光る遠吠え! 初谷むい
川柳のように 暮田真名

を思い出していた。オフィスに置いてきてしまったので見直せないが同世代の二人の文章にはしみじみ思うところがあった。1990年代後半、2000年手前に生まれた子供たちだった彼らは短歌と川柳の世界で早くも輝き始めている、と書きたいところだが彼らにそんな陳腐な言葉は似合わない。

彼らはその時代のその年齢らしい悩みを抱えながら生活する中で偶然出会ったものに素直に反応し自分の好きなことをやっていたら早くもその才能を見出されただけという感じで自然体であると同時に短歌にできること、川柳にできることをしっかり発信している職人であるようにみえる。愛想もあまりない感じなのになんだかかわいい。自分のあり方を模索し苦しそうな様子も見せるのに今回のような散文で見せるバランス感覚はこの世代独自のものと感じる。AI時代の彼らは人間そのものと塗れなくても寂しさや苦しさを癒す方法を知っているからだろうか。若い患者たちの世界にもそれを感じる。もちろん私の主観に過ぎないが、彼らの作品や文章はエネルギーはあるのにこちらを巻き込んでくる感じがない。私は見かけがいくらカッコよかったり素敵であったとしても人目を気にしすぎではと感じてしまうと冷めてしまう。自分がそういうのをめんどくさいと思っているから上手に受け取ることができないのだろう。器が小さい。一方、Z世代と呼ばれるらしい彼らは自分がどう見られるかよりも自分がいる世界のことを気にしていて、そことどう折り合いをつけたらいいのかナルシシズムと格闘するのではなく小さな無理を重ねては解消し少しずつ進む形で自分を大切にしているように感じる。今回掲載された散文は文体も雰囲気もだいぶ異なるが、壊しては出会う、生きてるってその繰り返しだ、ということを二人とも書いているように思った。その循環によって過剰な表現(=死に急ぐ可能性)は遠ざけられているのだと感じた。

イギリスの小児科医であり精神分析家であるウィニコットは主体が空想できるようになり、生き残った対象を「使用」できるようになるプロセスをこんな風に表現した。

‘Hullo object!’ ‘I destroyed you.’ ‘I love you.’ ‘You have value for me because of your survival of my destruction of you.’ ‘While I am loving you I am all the time destroying you in (unconscious) fantasy.’ 

ーWinnicott, D. W. (1971)

6. The Use of an Object and Relating through Identifications. Playing and Reality 17:86-94

邦訳は『改訳 遊ぶことと現実』(岩崎学術出版社)「第6章 対象の使用と同一化を通して関係すること」である。

「こんにちは、対象!」「私はあなたを破壊した。」「私はあなたを愛している。」「あなたは私の破壊を生き残ったから、私にとって価値があるんだ。」「私はあなたを愛しているあいだ、ずっとあなたを(無意識的)空想のなかで破壊している」と。

若い世代に自分たちの世代が負わせてしまったものを感じる。でもそれを生き抜く彼らのバランス感覚を頼もしくカッコいいとも感じる。あなたたちのために、なんて今更いうことはできない。ただ彼らの世代が「自分自分」とがんばらなくても大丈夫なようにできるだけ広く注意をはらいたい。早くもトップランナーになりつつある彼らはきっとそれに協力してくれるだろう。

「また会ったね」としぶとい自分に笑ってしまいながら卑屈にならずにいこう。といっても難しいから卑屈になっても壊れても回復しながらいこう。そういう力は強度の差はあるかもしれないが誰にでも備わっているはずだから。いいお天気。とりあえずカーテンを少しだけ開けるところから。

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精神分析

ラッパ、小径、猫

ラッパみたいに白くて大きな花を首を垂れるようにして咲かせているお花がその小径の目印になる。毎朝遊歩道を彩る花々を愛で時々写真に撮りながら歩いているが名前を言えるのはほんの少し。私がいろんなことを覚えられないのはお花のことだけではないのでもう仕方ないとして、お笑いでも作家でもなにかとなんでも詳しい俳句仲間たちが割と私と似たような感じでお花の名前を知らないのは興味深い。すごい数の俳句を空で言えたりするのに。あれ「空」でいいんだっけ。誦?まあいいか。「空で言う」なんてなんか素敵だものね。

そうそう、早朝から脱線している場合ではない、というほど今日はバタバタしていない、というかなんとなく毎朝こうするのがリズムになっているだけでノルマでもなんでもないし、これを書くぞ、と決めているわけでもないのだから脱線とかないよね。線路がないよ、元々。

お花の名前って調べるのに覚えられない。さっきも「ラッパ 白い大きな花」で検索した。「エンジェルストランペット」だって。え?そのまんま?いや、エンジェルの、とは思わなかった。確かに天使ってああいうラッパ吹いてる。トランペットね、なるほど。熱帯花木ですって。「天使のラッパ」で調べたら「黙示録のラッパ吹き」のウィキペディアがトップに。クリックしないでも見える範囲に

“黙示録のラッパ吹きは、『ヨハネの黙示録』に登場する災害の前触れとなる7つのラッパを吹く7人の天使達。”

って書いてあった。まあ・・・。やめてよね、そういう合図鳴らすの。でも「きみたちがラッパ鳴らしたせいでこんなことが起きたんだからね!」と怒るのは多分違うな。見かけからして彼らのアイデンティティって奪われてるものね。神様、やめて、ってことになるかしら。

昨日は「心理師(士)×言葉」イベント第一弾で公認心理師でアーティストの松岡宮さんの「小屋」へ行ったのだ。松岡さんはこの一軒家で障害のある方々のピアサポートをされていて、そうだ、この小屋のことを「公認心理師のいる白い小屋」と書いていた。そうだ、と思ったのは、とまたどうでもいいことを書こうとしてしまったけど戻ろう。この「小屋」が下の写真にある小径にあって、その入り口にこのラッパ花(こう言い換えるから覚えないのか)があったの。道に迷ってしまってもこれが目印になるかしらと思って写真に撮ってTwitterに載せた。松岡さんは「毎日来てるのに全然気づかなかった。やっぱり感性が」とか言ってくれたけどそのあと行ってみたらオレンジ色の車が停まってて見えなくなっていた。そっか、駐車場だもんね。松岡さん、感性とかではなくて視覚的に見えていなかっただけかもしれません…。しかも毎日きている松岡さんが気づいていないなら目印にはならなかったな、多分。

イベントのことを報告がてら書こうと思っていた気がするのだけど迂回に次ぐ迂回。寄り道しかしてこなかったからかな、幼稚園の頃から。田舎だからサイロ近くの小径を牛に塞がれて(牛にしてみたら座ってただけなんだけど)しばらく牛と見つめ合いながら立ち尽くしたあとトボトボ引き返してそこから走って学校へ行ったこともある。

昨日は少人数でそれぞれの現場での話をちょうどよく具体的にしながら言葉で表現することについていろんな話ができた。いつもならこう書き始めればサラサラ書けてしまうのだけど昨日のは多分書きたくないんだろね、私。荒井裕樹『まとまらない言葉を生きる』をなんとなく参考文献のような感じでツイートしたけどまさにそんな感じ。とても言葉にはできない曖昧でギリギリのところでなんとかやっているような仕事なんだな、この仕事。改めてその部分を自覚できてよかった。

そうだ、「地域」という言葉の使い方についてややピキッとしたね、私は、昨日。はっきりとは言わなかったけど。元々曖昧な区分でしかないこの言葉を「閉じる」方向で使用することに対しては今後もピリッとしていきたい。ピキッとするよりは。

良い時間、良い小径でした。猫と見つめあったり見送ったりしていたら松岡さんがちょうど玄関から出てきて「猫ちゃんいました?」と。いつもいる猫さんなのね。「今写真撮ってました」と答えたその中の一枚がこちら。

今週も始まりますね。またとっても暑くなるみたい。どうぞお大事に。

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精神分析

慣れない

これは本当に私が求めていることなのだろうか。求めれば求めすぎだといわれ我慢していずれ慣れれば関係が安定する。それは私が求めていることなのだろうか。「でも彼が」「でも母が」「でも子供が」と「でも」を使いたくなるとき、私の気持ちは何をしたがっているのだろうか。

言葉にしないことに慣れつつある。私とあの人とでは「普通」が違う。これがあの人の「普通」なんだから「普通はさ」と私が言ったところで「だったら」とまた突き放されるか謝ることで責められたと感じていることを示されるだけだ。できるだけ受身的に合わせていればそのうち慣れる。今はまだこんなに長く眠れもせずただぐったりと何も手につかない時間が続いてしまうけれど。

共に生活をする仲でもなければ言わない、見せないことはいくらでもできる。普通は会わないからこそ細やかに想像しあい思いやりあう部分もあるのだろうけど。また「普通」って使ってしまった。相手にとっては普通ではないのだから仕方ない。でもそんな風にできないことを「わかってくれたか」と言わんばかりにあるいは何か言いたげな私と「一緒にいてやっている」と言わんばかりに自分の都合ばかり。私にも都合があるんだよ、と小さい声でいうことも憚れる。

それでも私はこの関係を絶対に間違っているとはいえない。私が本音をいうことで相手が傷つくなら私も私がされたことをその人にしているということにならないか、と躊躇する。明らかに感じている理不尽さを「わかってもらう」ように伝える仕方がわからない自分がおかしいのではないか。

もし気持ちがもっと元気ならこういう状況になっていること自体を「間違っている」として自分の自由を模索できるのだろうけど。

簡単ではない。だからアドバイスはしない。一般論はいうが「普通」とかよくわからないものを探したりもしない。いい悪いの話もしない。あってる間違ってるの話でもない。ただあなたが辛くて悲しくて寂しくてそういう気持ちを隠したくてでもこれ以上嘘をつきたくなくて変わらないであろうその人との関係をどうにかしたくて眠れない日々を送っている、そしてそれを私に正直に話したら何かしらの評価や判断をくだされるのではないかと恐れ、そう私に理解されているにも関わらず上滑りする言葉ばかり使ってしまう。

私は人ってそういうものだと思いつつ「今、こういう感じみたいだ」ということを伝えていく。その時間は相手と私だけのものだ。そこで相手に向けられる眼差しは親が子供に向けるそれと似ている。が、日常は仕事ではない。

古来「川」は境界として機能してきた、という。

“そのほか、水辺、崎、みなと、山の端、道、関、戸、門、垣根、軒など、境界の表象は和歌にふんだんに登場する。空間の境界だけではない。季節や一日の時間の中でも、変わり目となる境界的な時間がしばしば選ばれる”

ー渡部泰明『和歌史 なぜ千年を越えて続いたか」

今は時空をたやすく越えた気になれる時代だ。先月天の川を見上げた?私は18歳の七夕の日のことをここに書いた。今年の空のことは覚えていない。

今は自分の都合や気持ちを優先するためのツールがある時代ともいえる。だが、それが誰かの気持ちも動かしている限り不安や後ろめたさやそれをかき消そうとする衝動や攻撃性から逃れられることはないだろう。

「本当に」なんて言葉も相手がいる限り無理をしている証拠にしかならないかもしれない。なんとなく自然に委ねるように相手のことも自分のことも信頼できたらよいのだけど、と思う。

今日は日曜日。眠れなかった人がまだゴロゴロしていられますように。そうできない人がとりあえず動くというところまでできますように。願うばかり。祈るばかり。

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精神分析

前髪と雷

また前髪を切りすぎた。思ったよりひどいな、と鏡をみて思う。

「すいません、自分で切っちゃって」というと「あちゃあ」という顔できれいに切り揃えてくれるその人はもう随分前から軽く頷くだけになった。お互いにいつものことだけど私はいつまでも少し恥ずかしい。その人と出会ってから一度も美容室を変えていない。出産でお休みをされたときは私の街でやはり小さな美容室を一人で開いている友人を紹介してくれた。その人にも前髪を揃えてもらった。私はずっと開業を見据え部屋借りをしながらいくつかの仕事を並行してやってきた。今は自分のオフィスでのプライベートプラクティスがメインだ。美容師と心理療法家の仕事はよく似ている。その人は私の開業を心待ちにしてくれてとっても喜んでくれた。一年に数回しか会わないけれど会えばずっと話をしている。お互いのプライベートもそれなりに知るようになった。その人が隣町で女性一人で小さな美容室を開き、たまたまそれを知って通い始めてから10年以上が過ぎた。本当にいろんなことがあった。

昨晩は眠りに落ちてまもなく雷の音で目が覚めたようだった。カーテンを真っ白くして入り込んできた光のせいだったかもしれない。うめき声のようないびきのような音が一気に高まってバリバリと空を切り裂く。白い光を浴び、大きな音を聞きながらぼんやりしていたが眠れなくなってしまった。バリバリ音を録音してみようとiphoneを手にとったがこっちがそのつもりになると鳴ってくれない。寝る前に出したメッセージにマークが灯った。まだ起きているのか、あるいはこの雷で起きてしまったのか。もう遠くにいっちゃったのかな、まだこんな光ってるけど、とiphoneを枕元に置くとまた地響き。くるぞ、バリバリ、と思ったけど結局録音せずただ聞いていた。

しばらくしたらリンリンと雨が手すりを叩く音が聞こえてきた。まだ降っていなかったんだ。この音が消えたら雨が手すりを全部濡らしたってこと。雨はどんどん激しくなる。

「ちょうど雨と雷が。すいません。」と申し訳なさそうにしながらワクチン接種会場の出口のドアを開けてくれた。「すいません」だってと思いつつ笑ってお礼をいうとその人も笑って見送ってくれた。回数を重ねるごとに動線がはっきりし、案内がスムーズになるワクチン接種。初めての会場だったが知っている街なのに思ったよりずっと近くて早く着いてしまった。「大丈夫ですよ」と熱を測ってすぐに待機場所へ。スムーズ。医療従事者として高齢者の方々に囲まれて待っていたのだが携帯電話の使い方やご夫婦の連携などみなさんの行動がひとつひとつ興味深く面白く「元気でいましょうね」と呟くように思った。

動かすと腕が痛重たいがこれまでと同じように大きな副反応は出なそうだ。これからということもあるのだろうけど。ワクチン接種会場を出て雷の大きな音に怯えながら駅に急いだ。ポツリポツリと大粒の雨が落ち始めすぐに傘を傾けても防げない雨に変わりジーンズが濡れた。たまたま晴雨兼用の大きな傘を持っていたのはよかったがジーンズは失敗。目的地に着くまでは不快だったが何事もなかったかのように戻ってきた強い陽射しですぐに乾いた。空、すごい。

講談社学術文庫から『風と雲のことば辞典』というのが出ている。ウィトゲンシュタイン研究者の古田徹也さんがブックフェアか何かで紹介していた。開いてみる。「浮雲」「浮き世の風」「動かぬ雲」「丑寅風」「丑の風」ふむふむ。昨日の風は何?昨晩の風は何?

「白雲糸を引けば暴風雨」

「ハチの巣が低いと風の強い日が多い」

などなどもある。そうなのか。地方によっていろんな観察から生まれた言葉があるのね。私は無知すぎるな。まあ、そういう人のために辞典というのはあるのだろうから助けていただくことにしましょう。

そういえばともう一度鏡を覗く。おでこが狭い上にこの前髪、風に揺れる長さもないな。

警報の出ている地域の方々もどうぞご安全に。皆様、ご無事でありますように。

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精神分析

また言葉

何かを捕まえにいくような聞き方をするときもあれば囚われて巻き込まれているなかでなにか聞こえてくるのを待つときもあるけどどちらにしてもそれが臨床である以上どっちかの言葉ということはないから難しい。

なんだかわからないことばかりで暴走したくなるときもあるけど暑いのでやめよう。まあ相手にも世界にも色々あるのだろう、と思うことにしよう。

暑いのでやめよう、となるエネルギーの乏しさ。老化とも成長とも。気持ちまで沸き立つのいやだからね、と私が私の感情を拒否する。上手くなったものだ、と自分の心身の連動に笑う。正直そんな暇ではないという思いもある。そっちにエネルギーを使うならこっちだろうと冷静な自分に静かに言われたような気もする。

言葉のことばかり書いている気がするが仕事がそうだし言葉には苦しめられもするけど面白い。トークも下手だし、好きな人を怒らせるし、文章もこの程度だけどだからこそ言葉への興味は尽きない。自分の態度も言葉の使用を辿り直すことで振り返る。人間の身体の水分量と同じくらい言葉が私を占めていると推測する。だからかな。なんだか離れられない。

私の知っている言葉の才能が豊かな人たちはお互いを収集しあうのが好きでその人自身のことなどどうでもいいようなのだけどそんなもんなんだなぁ、と思う。葛藤のない気持ちの良いところだけ受け取ればいい関係が必要らしい。私はこの表面だけ触り合うような言葉だけの関係をやらしいなと思って眺めている。そこから恋が始まることもあればハラスメントが始まることもあるだろう。冗談で今書いたようなことをいって怒る場合なんてなおさら。

大体のことは言葉から始まっている。誰かを気持ち良くしながら誰かを傷つけることを巧みにやってのけるのも言葉だ。どの言葉も反応もその人だけに真っ直ぐ向けられているわけではない。こういう複雑さを知りつつそれを利用する人と反応を控える人がいるわけで、それを人によって使い分けている人もいたりする。もちろん「そんなつもりはない」と思う。

精神分析臨床で二人の間でキーワードになるような言葉が生まれることがある。生まれるといっても既存の言葉ではあるが二人にとってはそれがターニングポイントになったり支えになったりするような言葉だ。週一回の面接ではこの言葉の力を非常に感じる。これまで自分が囚われ苦しめられてきたと感じてきた出来事や関係を治療者を通じてある程度やり直すなかで言葉と感情と行動がバラバラとしたものからまとまりをえていくと患者は自分がどうしていきたいのか、それがいかに無理か、あるいはこういう方向でなら可能か、とやや未来志向になってくる。変化をあまり恐れなくなってくる。精神分析の理論は「原初の」という言葉をよく使うがそういうものを想定はするが、私は週一回の面接ではそれを想定しなくても日常言語でこういう変化は見込めると考えている。

IPA基準の「精神分析」は週4日以上のセッションを継続していくことが条件だがそれを体験してから言葉がいかに役に立たないかということを実感するようになった。それでも言葉しか使えるものがない。そういう状況を乗り越えていくのも言葉だ。言葉に対して不信感を持っている場合でもないが信頼して使うこともできない。しかし希望を持つしかない。「原初の」というときそれは主に不安に対して用いられるだろう。何がどうなっているのかまるでわからない状態と言ってもいい。意味と言葉の繋がりをゆるくすることでなんとか生きてきた人たちの言葉の使用を精神分析は一度解体する。何を言っているかわからないという状態が始まる。週一回ではとても抱えきれなかったものたちと私たちは遭遇する。言葉巧みな人たちがみせるような言葉の使い方が可能なのは初期だけだ。沈黙が増える。体験したこともない恐れや苦痛を表現する言葉がまるで見つからない。戸惑い、泣き、激しく怒り表現が退行していく。それでもこれまでの言葉を使用し上滑りを繰り返しながらやっていくしかない。

週一回でも普通の人間関係よりはかなり親密になる頻度だとは思うが精神分析の設定は夫婦関係や親子関係のあり方と近い。そこで生じる言葉にならなさ、どうにも抑えきれない感情、外からは見えない暴走、誰でもいくらかは思い起こせるだろう。周りにはわからない。言葉を何かの操作のために使うことはできない。言葉では通じない、と絶望したところでそれを伝えるのも言葉であるという絶望だけはかなりの程度共有されているはずでこれは支えになる。通じるより通じないことの共有がまずされること。言葉の使用の不自由さに戻ること、ナルシシズムと共に言葉が肥大し、自傷他害へと利用されないためにそれは必要なプロセスとなる。防衛パターンばかり身につけてやり過ごしてきた人生をどうにかしようとしているのだからそれは致し方ない。始まりに戻ることは誰もができることではないし別に望ましいことでもない。目的のためのプロセスとしてどうしても生じるし、これが生じないと別の動きが始まらないというものでもある。

あー時間切れ。暑いから仕事いくのもやめておこう、とはならないからいきましょう。みなさんもお大事に。

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ここにもアリス

夜中ほどむっとした空気ではなくむしろ少し涼しい気がする。そんなはずないか。今日だって猛暑日のはずだ。情報ではなく自分の身体で確かに感じられることの少なさ。私だけの問題でもなかろう。おはようとおやすみの挨拶さえすれ違う時代。「価値観が違う」という言葉を離婚記事とかで見るたびに「違うの当たり前だろう」と思ってきたが「時間や情報に対する価値観が違う」とか言われたら「なるほど」と納得してしまいそうだ。それだって違うのが当たり前ではあるけれど。

一緒にいるってどういうことなんだろう。

わからなくなる。自分のしていることが。思考と行動が乖離する。老眼鏡をかけたはいいが何を持ったらいいかわからない。軽い認知症のようだ。しばらく考えてからiphoneを探し手に取る。呟きはあるのに返事は来ていなかった。何かを手に取らなくても見える世界を見てればこんな寂しさは知らなくてすむのだろうか。

解体。言葉も自分も。『不思議の国のアリス』と突然再会したことは書いたと思うがさっき何気なく手にとった多和田葉子『穴あきエフの初恋祭り』を読みながらこれもアリスの話だと気づいた。

“朝目が覚めたら、睡眠中かかった呪いを吹き飛ばす勢いで、寝間着のボタンを引きむしるように外せばいい。ボタンをイメージするのは簡単だ。半透明の桃色の貝殻の頭がクリッとボタンの穴を通ってはずれる時の指先の感触を思い浮かべるのも簡単だ。ところが、イメージ・トレーニングをすればするほど、脳と指の距離が遠くなっていって、どうしてだろうと思ってみると、腕が長くなっていた。身体がどんどん大きくなっていってしまう時のアリスは、不思議の国で自分の身体が自分のものではないことに気がつく。”

ー137頁「てんてんはんそく」『穴あきエフの初恋祭り』(文春文庫)所収

輾転反側。眠れぬ夜を繰り返すうちに少しずつおかしくなる身体が自分のものではないと気づくならまだいい。不思議の国にいけなくなってしまったアリスは病気になってそれを作り出すかもしれない。

洗濯が終わった、と洗濯機が音楽を鳴らした。最近はなんでもメロディつきだ、ということは以前にも書いた。今日は火曜日。こうして毎日書いていたら少しは時間感覚がはっきりするだろうか。会いたい人に会えなくても解体せずにいられるだろうか。私もあなたも私たちの言葉も。

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止まる。動く。

夜明け前の曖昧な明るさ、静けさが好き。鳥たちが鳴き始めたら世界が少しはっきりしてきた証拠。

複雑な状況をどうにかこなそうと意識的にも考えるが多くの場合仕事をするのは無意識だ。無意識というのがあれなら、私が意識的に何かをしている感じがしないといえばいいのか。胸が苦しくなるような出来事に涙や怒りやどうしようもなさを感じてもじっとそこに浸る。今具体例を書こうとしたが、こういうときもセーブがかかる。私がどうかしそうになる瞬間を多く体験するのは親密な関係においてだけど、親密な関係であることを権利として奪われていると感じ毎日絶望しながら戦っている人たちもいるだろう。差別的な発言でない限り、私が何かと比較して表現を抑える必要はないとわかってはいるし、そうすること自体が何か偉そうな気さえするが意識して考えようとしなくてもこういう考えが次々に浮かんでくる。辛くて悲しいけどそれらをじっと観察している自分を感じる。それすら私がそうしようそれがいいと思って選んだ方法ではない。声をあげる権利は誰にでもある。悲しむこと寂しがること怒ること自体に抑制をかける必要などないはず。そう思っても相手のことを誰かのことを想うと私はこうしてじっと自分を追う以外なくなってしまう。こんなに書けない、書いては消すみたいな状態になるときこそ不用意に最初に感じた強い気持ちをぶちまけたくなるときかもしれないが自分でもよくわからない。

こんなときも「とりあえず」だ。「動こう」と思う。世界が二人でできていない以上、私があなたが誰かに向ける感情はすでに二人だけの関係で生じたものではないからものすごく複雑だ。憎しみや怒りも本来特定の人に向けるものではないはずで、だから私たちは苦しむ。でもこの立ち止まる感じなく、みながみな自分を制止する自分や誰かを振り切って「声をあげる」ことを善として動き始めたらそれはそれで相当の無理が生じているだろうし、誰にも気づかれないように少しずつなんとか関係を紡いできた日々をすべて同じ色で塗りつぶすようなことにもなりかねないのではないか。

私は止まる。いつも通り動く。その両方を今日も繰り返す。無意識が仕事をしてくれることを願いつつ私は私の仕事をする。私も私たちの関係もものすごく複雑な世界にあるのだから半分委ねつつ自分たちを観察し想いあい小さな関係を大事にしていけたらいいのに、と辛くなりながらも願う。測定しえない何かはもうそうなっていると信頼する以外ないが盲信するべからずではある。普通に見て普通に聞いて自分の感じることを大切にする。何を書いても無理そうな気分なときもあるけど、そんなふうにできる時間が少し先のあなたや私を守ってくれる気がするのだ。さぁ8月、と意気込むには暑すぎるので無理せずいこう。熱中症気をつけようね。

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グッドイナフで

蝉がジージーずっと元気。早朝、洗濯物を干しながらなんか蝉って世界をのっぺりした感じにするよね、と思った。いつもの森で鳥はまだ眠っていたみたいだけど流石にこの時間になると元気いっぱい。さっきからずっと同じリズムでピッピピーってないてるけどなんだい?というか私も誰にも通じない言葉であなたに話聞いてもらいたいことがあるよ。

ウィニコット (1971)は「心理療法は遊びの領域、つまり患者と治療者の遊びの領域が重なり合うところで行われる」と述べ、オグデン (2006)は「分析家と被分析者が「共有された」(しかし個人的に体験された)無意識的構築物の「漂い」(Freud 1923)を感じ取るところの、もの想いの状態を育むための努力」が重要であるとした。これらは精神分析が相互性に基づいた間主体的な場の生成によって展開することを前提としている。

実際の治療はこの前提を作り出すところか始まるといってもよいだろう。サリヴァンがいう共人間的有効妥当性確認(consensual validation)にいたる過程がまず必要と言い換えてもいい。

治療のみならずお互いが前提を共有することのなんと難しいことよ。治療と普段のコミュニケーションは状況がだいぶ異なるけどプライベートでもコミュニケーションは常に悩みの種。見て見ぬふりをして、なんとなく何も感じていないふりをすることもしばしば。「私だったらこうする」「私だったら絶対しない」ということはあるけどそれは私の前提であって二人の前提ではないことの方が多い。お互い大切なものは違うし、大切にする仕方が違う、だからといって想いあっていないわけではない。ただその出し方は違う。ずればかりだ。そこに攻撃性を含む場合だってある。でもそれだって人間関係では当たり前のこと。通じない、通じさせたくない、隠しておきたい、お互いの自由を守りつつお互いを悲しませたり寂しくさせたりしないことは多分不可能なんだ。我慢して悲しんででも寂しくて泣いて怒ってぶつけてまた辛い状況になってそれでも乗り越えられたら乗り越えてあるいはいずれ回復するまで壊れていく。できたら壊れない方向へお互いが最大限の努力をできることを願うけどそれも相当不可能なこと。私たちは委ねる形ではなく歪んだ形で自分の欲望を実現しようとする動物だと思うんだ。

治療状況はこの不可能と思える努力をお互いがかなりの程度やり遂げられる設定になっている。時間と場所を守り金銭のやり取りをする。設定をかたくすることで関係に生じる曖昧さに有限性を持ちこみ仮の形を与える。出典をメモするのを忘れたが北山修は言葉の曖昧な使用に着目し、「何かをはっきりと言うことは常に選択であり、同時に別の何かを言わないことでもあるが、曖昧化obscurationは、日本語に必要な基本的レトリックであるとして、それを「置いておく」ことの重要性を述べた。日常生活では関係が近くなればなるほどこの「置いておく」ことができない現実がくっついてくるが、治療状況はそれがかなりの程度可能なほどにいろんな要素が持ち込まれない設定になっている。錯覚を可能にするにも条件が必要だ。空想の余地を与えること。それは隠されていることがあからさまになりやすい現実では難しい。

現実の難しさを考えれば考えるほど治療の枠組みがいかに重要であるかが見えてくる。欲望を飼いならす、ということが精神分析では言われるがそれも程度の問題だ。私からしたらグッドイナフな程度に、というしかない。悲しんだり寂しがったり怒ったり、そういう感情を相手が持っていることに気づいたり、そういう能力を持つことでさらに苦痛だったりするわけだけどそれらをなくしたら人間ではなくなってしまう。だからグッドイナフで。あえて見るなの禁止を破ることもなかろう。そこは悲劇の発生の場でもあるのだから。

今日もひどく暑くなるらしい。まずは無事に過ごそう。

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精神分析

アリスの余裕

アリスは不遜でパンクな女だ、という鈴木涼美さんのコラムに全くもって同意。意味の占有をめぐる攻防が生じがちな精神分析臨床においてルイス・キャロル『鏡の国のアリス』にでてくるハンプティ・ダンプティは象徴的だ。元々はマザーグースに登場する人だかモノだかよくわからないこの卵そっくりの何かの言葉。アリスにはいくつもの翻訳があるがここでは河合祥一郎の訳で引用する。

「わしが言葉を使うときは」ハンプティ・ダンプティはかなり軽べつした調子で言いました。「言葉はわしが意味させようとしたものを意味する──それ以上でも以下でもない。」

「問題は」とハンプティ・ダンプティ。「言葉とわしのどっちがどっちの言うことをきくかということ──それだけだ。」

ハテナハテナを浮かべつつまあなんとも偉そうなと思う。 アリスも混乱している。が、ほとんどそれをどうにかしようとしない。ただこれ以上めんどくさいことが起きないように丁寧にうまいこと言って切り抜けようとしているアリスは全く可愛げがない(実際そんなのいらないよね)。私はこれを第二次性徴を迎え混乱しはじめる思春期心性の特徴として捉えてもいる。思春期の彼らとの心理療法は深刻さと軽薄さを揺れ動く。使われる言葉も喃語と若者言葉と覚えたての敬語となど伝わらない言葉と伝わる言葉の間を行き来する。

たまたま自分が意味の管理人だとでも言いたそうなハンプティ・ダンプティに助けを借りて精神分析臨床を描写する試みをしていた。そんなときちょうど「特別展アリス へんてこりん、へんてこりんな世界」のお知らせもみつけ、鈴木涼美さんのコラムもみつけた。こういうのは出会い。本と出会うときと同じ。惹き合う何かがあるらしい。

鈴木涼美さんも引用している『不思議の国のアリス』の冒頭のアリスも驚くほど呑気。

「うさぎを追ってアリスもすぐにとびこんだのですが、全体どうやって戻ってくるか考えてなどいなかったのでした。」

アリスの好奇心は常に現実的な未来のことよりも今ここでなにが起きようとしているかというところにある。

「というのも落ちていきながら、まわりを見わたして次には何がどうなるのかふしぎがる時間があったからです。」

まるで夢の時間のようだ。そしてよく喋る。なんだこの余裕は。

you know.を混ぜながら独り言を言い、

「口に出してみるとなんだかすごく大人の気分」

と自分を状況に委ねてそれがどんな感じかを描写するアリス。ほとんど自由連想だ。言葉を口にしてみることが自体が楽しい。口にしたら感じたこの気持ちが面白い。読んでるこちらもワクワクする。

まだ20代の頃、研修か何かで浜名湖に出かけた。夜、みんなで食事をして宿に戻る道で、普段からよく懐いている知人の子供たちになにか歌ってと頼まれた。が、私は歌詞というものをほとんど覚えられない。歌詞だけでなく曲も覚えられない。何度も何度も歌った歌でもそうだ。なので適当な言葉で適当な節をつけて彼らと手を繋いでぐるぐる回ってみた。彼らはゲラゲラ笑いながら私が2度と繰り返せない適当な歌詞と節を何度も繰り返した。こんなのでいいのか、と思った。盛り上がりすぎて興奮を収めるのが大変だった。ちょっと失敗したと思いつつめっちゃ楽しかった。

アリスはハンプティ・ダンプティと話すときも相手の反応を見つつ自分の感覚に開かれている。親の顔色を気にしつつ実は考えているのは自分のこと、という思春期っぽさが生意気で楽しい。可愛げのなさがかわいい。

思春期臨床には勢いとvividさが必要だと私は思う。彼らを押し流していきそうな心身の急激な変化を私たちはすでに体験している。彼らよりは乗りこなすのに慣れているはずだ。一緒に失敗しよう、一緒に楽しもう、激しい言葉の応酬、暴力的な動きもあるがどうしようもなくそうなるんだよね、大丈夫、これ繰り返しているうちになんとかなるよ、と半分翻弄されつつ半分余裕でもある。呑気さにも発達段階があるのだろう。

ナンセンスを遊ぶ。わかることばかり求めない。わからないはわからないでいいのでは。今日は土曜日。7月も明日で終わり。それは確かみたいだよ。それぞれ良い週末を。

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精神分析

自分方向

今朝の産地のわからないスイカも美味しかった。夜の間に干からび始めていた身体に甘く染み渡る。失っては取り戻す。毎日その繰り返しだね。とスイカを食べただけで大きなことを言いたくなるのが美味しかった証拠。暑い中疲れ切ってたどり着いた喫茶店で「天国!」となるのと同じ。・・・朝から適当なことを書いているな。だって美味しかったから。

人が嬉しそうにしているのをみるとこっちまで嬉しくなる。仕事だとそれが症状である可能性にも注意を払っているけど話されていることと起きていること、言葉と表情と伝え方とが一致しているとその嬉しさが私にも染み渡る。美味しさ、嬉しさ、いわゆるポジティブな言葉で表現されるものの方が浸透性がいい気がする。もちろん対比しているのはネガティブな言葉。どちらにしても字義通りの意味ではなくて文脈によるけど。

精神分析における転移状況は常に自己言及的。精神分析についての一見かっこいい文章が胡散臭く鼻につくのはこのことと関係していると思う。精神分析は被分析者(患者)のためであって分析家(治療者)のためのものではない。そうなんだけど投影同一化によってお互いの距離がグッと縮まり、お互いがお互いを乗っ取って自分のことを相手のことととして言葉にしたり感情をぶつけたりする事態が必然的に生じてしまう設定なのでどことっても自分がいる、なに言っても自分のこととなりがち。精神分析家になるために精神分析を受ける必要があるのはこういうプロセスを自分の身体に染み込ませておかないと介入や解釈といった治療者の機能をどこでどう使っていいかがわからず、自動的に反復的で不毛な出来事の繰り返しに参加することになるからだ。それはつまり自分を失う=相手も自分を失うことであって自己変容や新しい言葉の生成どころか患者が反復してきた「またか」という絶望や希死念慮に加担しつつ自分もその状態になるということ。治療によって変化を目指さない、病理を維持する方向へ行くという意味でこれを共謀ということもできるが、それすら自分たちに向けられてやっていることなので自分で自分のこと傷つけてなにやってるんだよ、となってしまう。こういう事態なので誰かが精神分析のことを語るとき、語る人は患者のことを語っているつもりでもそれを聞く方はそこにナルシシズムを見出すのだろう。実際、ナルシシズムこそ日々の私たちを説明する部分は大きいので語る方が自分とは関係のない第三のちょっと変わった治療法として精神分析を語った方が耳を傾けてもらえるのでは、と私は思ったりもする。もちろんフロイトって名前は聞いたことあるけど精神分析ってなに、という人の方が多いし、そういう場合は先入観のない関心を持って聞いてもらえるので自分がやっていることをそのまま話せばいいだけなんだけどね。たまに精神分析に向けられる批判に「またか」と思ってどうすりゃいいんだろうねと頭を悩ますことがあるのだ。

今日は出かけるまで洗濯物を外に出しておこう。この日差しなら短時間でも効果ありでしょう。昨日みたいに突然の雨に降られたら嫌だから忘れずにいれていきましょうね>自分。

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精神分析

精神分析って

朝から晩まで面接とSVと時々保育園巡回やコンサルテーションと自分の分析とSVとでバタバタしていて少しずつ進めたい勉強などもあるが疲れてしまってなにもできない。それも本当だけどいろんなことに心揺さぶられやすいのか気になることがあるとあっという間に1時間とか固執してしまってあーあとなることもしばしば。

ブラインド越しの光はまだ朝の色だけどすでにとても暑そう。

フロイトを読むのは楽しい。面白い。この人なんでこんなこと考えちゃったんだろう、と思いながらその思考を辿っていくと「ああ」とその熱い思いを感じたり皮肉にウケたり、背景の出来事にしみじみしたりして理論としてだけでなく楽しい。

治療としての精神分析も苦しくも楽しい、楽しいというと語弊があるかもしれないが勉強だってなんだって知らないことに取り組むには結構な苦痛が伴うわけで、でも驚きや喜びも多いわけでそれと同じ。ただ取り組む対象が教科書や本ではなく自分なのでそれは一人では無理ということで鏡のようでもあり別の考えや感情の動きを持つ他人でもある特定の人との密な関係のなかで結構な時間をかけて変わっていくプロセスになるからやってみないとその意義はわからないだろう、になってしまう、説明するとしたら。でもよく考えてみて。いやよく考えなくても私たちって日々ものすごく曖昧ななか大切な人の気持ちを一生懸命考えたり悩んだりするよね。それって答えのない世界だし、なんでそんなことに囚われちゃってんの、と他人だったら思うようなことでも1時間、2時間、夜中中悶々としたりして、爆発したり我慢したりしながらなんとか自分のこころ(想定だよ)ができることをしようとがんばったり耐えきれなくて壊れそうになったり実際に壊れてしまったりしながら生きている。その状態を治療者と一緒にみていくといつも同じ反応しかできない思いがけない理由が見えてきたり、わからないものをわかろうとしなくなったり、それまでは自分では気づいていなかったけどいろんなことにがんじがらめだったなと変わりながら気づいてなんとなく楽になっていく。それって生きているプロセスで多かれ少なかれ誰もが何度も体験してきていることだと思うのだけどそういう自分を実感して自分の使う言葉が自己中ではなく誰かと言わなくても通じ合うためのものになるプロセスを作り出しているのが精神分析の設定。中身より形式といってもいいくらいこの設定と方法は大事。自分を変えたいと願ったときに宗教やスピリチュアルな何かに一時的に助けられることはあると思うけど、精神分析にはそういう万能的な部分ないので地道。でも部分的には即効性もある。でも速攻で傷ついたりもする。なんなんだ、と思うかもしれないけど人との出会いって希望もあるけど賭けでもあるし偶然性に委ねる部分がとても多いのは誰もが経験しているはず。精神分析は歴史ある理論とその理論を確立してきた強固な設定に基づく膨大な臨床体験の知の集積によって、その暴力性に自覚的でありながら目の前の相手の今ここが示すものに関心を向け続ける。

さっきまですぐそばで早いリズムで高い声で鳴いていた鳥がいなくなった。よくあんなに早く鳴けるな。上質ソプラノ。

関心を向ける仕方もこうやって書きながら鳥の声を聞いているような仕方もあるけど精神分析の場合「平等に漂う注意」というのがその方法。これには訓練が必要なので訓練をしているわけだ。

精神分析臨床はとても泥臭い。遅々として進まず、愛憎入り乱れたり、反対に全く他人に関心のない自分に気づいたり、ものすごい情緒の揺れや空虚を体験する。なので数行でかっこよく記述できるものではない。そんな特別なものでもない。設定と方法が独特なだけで生活の中で自然に生じていることをやっているだけだ。普段はほとんど意識しないことに網羅的に注意を向けていくことで自分を楽にしていく。

パソコンが急に落ちた。一部消えたけど仕方ない。にしても急に堕ちるの嫌だなあ。なんでだろ。まぁここは時間切れということで。熱中症に気をつけて過ごしましょうね。

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精神分析

自由連想、要約、フロイトを読む

いつのまにかをいつの間にか。自由連想ってそういうことだと思う。だから毎朝、家事や準備をしながらさーっと書いている。さーじゃないか。さーっと風のように書ければよいのだけど実際はベタベタダラダラしたこんな感じの文章になる。タイプの音だけ聞いていると軽やかだけどね。

今朝は雨。結構な音がして目が覚めた。今日もバタバタと移動しながらの長丁場だ。雨止むといいな。

千葉雅也さんのnoteを購読した。以前も一度購読したのだけどその頃は千葉さんのに限らず文章自体を読むのが苦痛で解約した。昨日だったか千葉さんの短いツイートに「ああ、これはいいな」と感じた。今日流れてきたnote更新のツイートにその時の感触が重なった。こういうのは出会いだろう。なんとなく買った。買ってよかったと思いながら最近隙間時間にまた本を読めるようになったことに気づいた。千葉さんの文章は思ったより短かった。私が毎朝書く字数と同じくらいだった。ただの自由連想を誰にともなく書き綴っている私と料金以上のサービスを提供する千葉さんという比較をしてどうというわけでもない。違う人が書けば違うものが出てきてあとは読み手におまかせ。

自由連想はオープンテクストといえるだろうか。フロイトの『夢解釈』はウンベルト・エーコのいうオープンテクストで”baroque”style、その要約版としてフロイトが渋々書いた「夢について」はより”classical”styleで教訓的、と書いたのはReading Freudの著者J.M.キノドスだ。邦訳は『フロイトを読む 年代順に紐解くフロイト著作』(岩崎学術出版社)。この本はキノドス自身が読書会で試行錯誤してきた方法を元に書かれているのでフロイトを読むときには必携だ。まず読むべきものはここに書かれている。ちなみにキノドスは初学者には「夢について」を『夢解釈』より先に読むことを勧めている。『フロイト全集6』ドラ症例と同じ巻に入っているがよくあれをここまでまとめたな、というか、フロイトは超人的に要約がうまい。グラディーヴァの物語なんてフロイトの要約の方が原作より魅力的なのではないかと思わされる。ちなみに私がその要約力に非常に助けられているのは東浩紀さんと哲劇のお二人(山本貴光さんと吉川浩満さん)だろう。こういった助けがなかったら再び本を読む気力も出なかったかもしれない。

『フロイト全集9』に収められている「W.イェンゼン『グラディーヴァ』における妄想と夢」はラカンとは異なる意味での応用精神分析の始まりの論文である。題名から想像される通りこれも『夢解釈』から派生した論文で始まりはこうだ。

「夢の最も本質的な謎は著者の労作によって解かれてしまったのであり、それが確定したこととして適用している面々のあいだで、ある日好奇心が目覚めて、そもそも一度として実際には見られたことのない夢、つまり、詩人によって創作され、物語の脈絡の中で架空の登場人物たちにあてがわれる、あの夢の面倒も見てみようではないか、ということになった。」

「W.イェンゼン『グラディーヴァ』における妄想と夢」(1906)『フロイト全集9』所収

なんだか大きなお世話みたいな書き出しだが、フロイトは詩人は自分と同じ立場であり同士だという。そして彼らの作品に含まれるいくつかの夢が

「いわば親しげな面もちで自分のことをじっと見つめ、『夢解釈』の方法をわたしたちにお試しあれ、といざなっているかのようだった、と思い起こしたのである」

とその魅力に取り憑かれてしまったようなのだ。主人公の考古学者ハーノルトがレリーフのグラディーヴァに恋をしたように。そして、1903年に出版されたこの書物を読むのがいいけど一応要約しておくね、という感じで書かれた要約が面白いのだ。前にも書いたけど小此木先生も恋をしていたな、グラディーヴァに。グラディーヴァ論文は文学と精神分析の橋渡しをした重要な論文だし、色々な論考も出ているのでそれを参照するのも面白いかもしれない。

昨晩の私の夢にはユロおじさんみたいな人と犬が出てきた。ジャック・タチの「ぼくの叔父さん」大好きな映画だ。またなんだかんだ『夢解釈』にちなんだことを書いてしまった。しまった、ということでもないけどね。

まだ雨の音。今日はずっと降るのかしら。滑らないように、濡れたあと冷房で風邪ひかないようにどうぞお気をつけて。

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精神分析

「覚醒時の独特面の気質や感覚が、夢生活の中にも引き続き現れるものなのかどうか、現れるとしたらどの程度までか」

第四回Reading Freudで『フロイト全集4(夢解釈Ⅰ)』「第一章 夢問題の学問的文献」 (F)夢の中での倫理的感情の冒頭である。

これに対してもいろんな人がいろんなことを言っているのをフロイトは拾い上げている。夢の中では誰だってすごいことしちゃってるもんだというのは前提にあるようだけどそれを覚醒時の自分と統合する仕方についてはそれぞれの道徳観が顔を出す。

「カントの定言命令は、一蓮托生の相棒のようにわれわれに付きまとっているので、われわれは眠っている間もそれを手放すことはない。」とヒルデブラント。とてもよくわかっていそうなヒルデブラントさえこうだよ、とフロイトがいう場面である。

夢にまで責任もてと言われたらほんと大変だよ、と思うけどこのSNS時代、昔だったら特別な相手としかやりとりしなかった時間帯にも、仕事とプライベートの区別なく、年齢差も時差も関係なく記号や言葉が交わされる。そんな中で眠りの質も変化しているだろうから、「抑圧された表象が夢で浮上する」ということは変わらないとしても「夢を見られない」ことを症状として考える契機は失われているかもしれない。ちなみにイギリスの精神分析家であり小児科医でもあるウィニコットはそれを主訴として精神分析を求めた。

それにしても眠い。頭痛持ちだからいつもぼんやりと痛みを感じつつひどい時には文字通り頭を抱えるしかないのだが痛みを超えて眠りに落ちることができると夢の中では痛みはおさまっている。痛くて辛い夢を見るわけでもない。でもまた起きると痛い。これは痛みの象徴化とはいえないが痛みだけでできているわけではないので当たり前か。それに痛いのは頭だけではない。毎日、瞬間的に、持続的に体験する痛みに対して夢は仕事をしてくれていると思う。自分で自分を抱えるように膝を抱えて泣きまくって眠ってしまった日よりも翌日の痛みの方がまだまし、という経験は多くの人がしているだろう。

今日は月曜日。色々書きたいけど時間切れ。夢も覚醒してしまえばおしまい。また夜ね、と夢に対していえるくらいの生活リズムは保ちましょうか。今夜から。明日から。と先延ばしになりそうだけど睡眠大事。少しずつ。

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精神分析

Reading Freud

第四回Reading Freudだった。引き続き『フロイト全集4(夢解釈1)』を読んでいる。ようやくあと一項目で第一章が終わる。第一章はそれまでに発表されていた夢に関する論文や本の検討から始まり、それが延々続いたわけだがだいぶフロイトがどういう方向に進みたいのかが見えてきた。今となればいい書き方だ。ただ多くの人はこの感触を得る手前で挫折するのではないだろうか。文献の量が半端ない。巻末の文献一覧を見ればわかる。ちょっとうんざりするような量でフロイトだってそれを概観するのは渋々だったというのだから私たちが渋々にならないはずはない。でも私たちはこんなコンパクトに羅列してくれたものを読んでいるのだからその労力はたいしたことないはず。はず!でもフロイトのような圧倒的知性を持つ人がいくらコンパクトにしてくれたところで元々の量がすごいのだから大変だったよ。フロイトの論の進め方に慣れてきたからその後の展開に希望を持って読めたけど今回は安心した。やっと光が見えたという感じ。毎回Twitterで進捗をメモしてきたがそれを探すのも面倒なのでここに貼っておく。フォローはしないがツイートをチェックするというのは私もやるが私の読書メモに関してそうしている人の話を何人か聞いた。メモより本文を一緒に読もうよ。

以下、メモツイートをメモ。

第一回Reading Freudは『フロイト全集4(夢解釈Ⅰ)』、前回の緒言(1929年第八版まで)に続き、「第一章 夢問題の学問的文献」の「A 夢と覚醒生活の関係」「B夢素材ー夢における記憶」を音読しました。フロイトはその書き方に慣れ、体験を追うためにも読み続けることが肝心、と改めて思いました。

第二回Reading Freudは『フロイト全集4(夢解釈Ⅰ)』「第一章 夢問題の学問的文献ーC 夢刺激と夢源泉」を音読。四つの夢源泉のうち「一 外的な感覚刺激」「二 内的(主観的)感覚興奮」「三 器質的な内的身体刺激」まで。フロイトの書き方のせいか夢の特徴のせいかなんどか吹き出しつつ読みました。

全員心理職なので、さすがに抜かりなし、というような描写をされているヴントや入眠時幻覚の実験的観察者として登場するトランブル・ラッドのことはこちらの本を使ってご紹介。高いけど必携といいたいです。 サトウタツヤ『臨床心理学史』。

第三回Reading Freudは『フロイト全集4(夢解釈Ⅰ)』「第一章 夢問題の学問的文献」 (C)四 心的刺激源泉 (D)目が覚めるとどうして夢を忘れてしまうのか (E)夢の心理学的特性 を読みました。 ものすごい量の先行研究を吟味してもなお解明すべき点を夢はもっているという前提を共有するための章。

最初はこんなこと書いてた。追体験ね、全集の有名論文を一巡して(超有名論文は何度も読んでから)帰ってきてようやく部分的にできるようになってきたかな。

今回はフロイトがこの人はちょっと例外、という形で先に名前をあげていたカール・アルベルト・シェルナーが登場。『夢の生活』が有名なんだって。K.A.SCHERNER,DasLebendesTraumes,Berlin1861.

フロイトは118頁で「シェルナーの意見では、人間という有機体の全体を描き出すのに、夢空想には殊にお気に入りの呈示法があるという。この辺りで、フォルケルトその他の人々は、もう彼に付いて行けなくなってしまうのだが、シェルナーは、それは家だという」とちょっと面白い感じで書くことで私たちに「ついてこいよ」と言っている、多分。「え?家?何言っちゃってんの?」と関心を向け続けることが大切なのだ、多分。この辺りまでくるとそれまでの苦痛が嘘のように次への興味が湧いてくる。書き方としてはもうちょっとここまでの苦痛を減らすようにかいてほしかったけど精神分析は「持ちこたえること」に重きをおくのでその練習と思おう。

シェルナーについてはユング心理学の重要な古典、C.A.マイヤー『ユング心理学概説』全四巻のうちの第二巻『夢の意味』河合隼雄監修、河合俊雄訳(2019、創元社)で一章の一項目が割かれその問題点も指摘されている。なんにしても有名ってことだね。知らないことばかりだから誰がどうでとかこうやって少しずつ知るしかないのよね。

さてさてこの本では序文からフロイトの『夢解釈』は「疑いもなく「昔」に属するもの」としてやや批判的だが、ユング心理学における夢の重要性と精神分析におけるそれは似て非なるものである。

私は以前、学会の企画で自分のケースを精神分析、ユング心理学、短期療法の専門家からスーパーヴィジョンしてもらうという体験をした。一つの事例の見立てはそんなに変わらなかったが着目する点が全く異なり、ユング派分析家の先生は治療全体を夢のように捉え、その扱いも独特だった。「ユング派に治療を受けるならこの先生に受けたい」と思った。精神分析も転移状況である治療状況を夢として扱うが、その時に議論になってびっくりしたのはその先生が、ということかもしれないが、ユング派では「関係」などという言葉がいらないほどに「夢」の意味が広いということだった。マイヤーのこの本を読むと「なるほどねえ」と思う。ちなみにこの本の監修を務めた河合隼雄はマイヤーに分析を受けていた。もう一個ちなみに序文のエピグラフはゲーテ。

「病気になることなしに自分の内界に戻っていくことができるように人は生まれついているに違いない」。自分をむしばむことなく自分自身の内へ健康なまなざしを向けること、妄想や作り話でなく澄んだ目でもって探究されていない深みにあえて入っていくことができるのは、稀有な資質であるのみならず、そのような探究の結果は世界と学問にとってめったとない幸運である。

ーゲーテ、一八一九年

ゲーテが「 」で引用しているのはプルキンエという生理学者、病理学者。今回読んだ「G 種々の夢理論と、夢の機能」でも出てきたね。マイヤーはどうしてここを取り上げたのかなあ。日々病気の世界に触れ続けそこで共にいようとする仕事だからこそ、かな。

毎日、気持ちに負担がかかることがちょこちょこ起きるがもしそれが人間関係で生じるなら相手を変えることはできないということを前提に自分の発狂しそうな部分となんとかやっていこうとする部分の折り合いをどうにかこうにかつけていこう。とても辛くて苦しいけど誰かに協力してもらいながら。夢もそういう仕事をしてくれているはず。余裕がないと夢も見られなくなるから睡眠はしっかりとりましょう、と早朝に言うのも変か。この時間だと「動くの辛いけどカーテン開けて光入れるようにしよう」かな。今日が大変でも今夜の夢に期待しよう。とりあえず、とりあえず、で。良い日曜日でありますように。

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言葉

言葉の展望台』三木那由他(講談社)を読了。あっさり読めたが頭はぐるぐるした。だって著者がそうだから。そのぐるぐるをこの少ない分量で言語化できるのがすごい。時間がないから感想文は書かない。『群像』で続いている連載の12回分がとりあえずこの本になったようなので続編が期待できるということだろう。山本貴光さんの『マルジナリアでつかまえて』も連載が途中で一冊の本になって、そこから最終回までが二冊目の本になった。とっても好きな本なんだけど中身がいちいち濃すぎて読む大変さと楽しみと興奮がごっちゃになって「もっとゆっくり読む時間がほしい!」となることがあった。まあ、山本さんの文章はどれもものすごい情報量なので読み慣れるまでは結構大変だった気がする。比べるものでは全くないのだが連載を一冊にしないで分けてくれるということは私にとっては助かることなのだ、と言いたかった。

三木さんのこの本はその理由だけではなくとてもコンパクトで、著者が経験した日常の一場面や出来事を言語学、言語哲学の知見をさらっと紹介しながらそこでどんなコミュニケーションが起きていたのか、そのコミュニケーションは学術的にはこの理論で説明できるかもしれないけど実際起きていたことってなんだろう、こんなもやもやした気持ちをその理論は説明してくれない、だとしたらどう考えればいいんだろう、ということを一緒に考えさせてくれる。

言語学、言語哲学の専門家である著者はこの連載の途中でご自身がトランスジェンダーであることを打ち明けたという。本書の最終話「ブラックホールと扉」では「あいつゲイだって アウティングはなぜ問題なのか?』(柏書房)の著者、松岡宗嗣さんとのトークイベントでされた対話のことも書いてある。どの話も読まれるべきと思うがひとつの言葉が生まれたときにそれを大切にせずその言葉が持つ意味をたやすく広げることはある意味暴力だという認識は大切だろうと思った。

なんかすごいスピードで書いたのでこれこそ雑でよくない気がするけどとりあえず置いておく。

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嫉妬とか

誰にでも優しい親とか恋人とか持つと大変なときがある。一番厄介な感情は嫉妬。「誰にでも優しい」というのはほとんど不可能で誰か特定の人に誠実で愛情深い方が結果的に誰にでも優しい気がするけど(人に不安を与えないあり方を知っている、つまり人の気持ちがわかるからでしょうね)それは置いておいて嫉妬ってすごく不快だけど興味深い。人殺したりする力がある一方で別の対象が見つかればたやすく薄まったりもする。私が嫉妬でしんどいなと思うのはその相手に囚われていると時間もエネルギーも浪費している気がするのにそこから抜け出せないこと。厄介だなと思うのは「外では」「誰にでも」「優しい」のに身内には全く違ったりすること。というわけで全部が括弧付きになってしまうわけだ。でも愛憎はそんな簡単に分けられないから「そんな人とはお付き合いするのはやめましょう」とはならないわけだ。親と縁を切る、もう離婚する、あんな奴とは別れる、と何度も何度も言っているけどなかなかなかなか、という場合もたくさん見ている。そういうものだと思う。簡単ではないのだ。浪費は必要。時間も必要。そういう体験は必要。「必要」といえるのは嫉妬だけではなくてその人を辛くさせる感情がどこからきてどうなってしまっているのかについて一緒に考える時間や労力を負担なく割ける人だろうけど。もちろん本人がそう思う場合に同意する形でのみだろうけど。必要かどうかなんて他人がいうことではないだろう。簡単じゃないんだよ、と何度も言いたいよ、自分にも。わかっていてもできないこともたくさんだから。私たちはかなり愚かだから。

三木那由他さんの『言葉の展望台』(講談社)という本を読み始めた。『群像』で連載中だが私はたまにしかチェックしていなかった。読んでよかった。今年3月にでた『グライス 理性の哲学 コミュニケーションから形而上学まで』(勁草書房)はちょっと難しいので放っておいてしまったけどこういうエッセイで言語やコミュニケーションの具体例とともにそれを当たり前にせず、そこでは何が起きているのか、それはどういう意味なのかについて考えるところから始めると読める気がしてくる。私の仕事と近いから。またトライしてみよう。

今朝はやることが多いのになんとなく書いてしまった。習慣ってすごい。こういうひとり遊びは誰とも約束しているわけではないからいつでもやめられて楽ね。

「コミュニケーションは、話すひとから聞くひとへの約束の持ちかけだ。しかし、コミュニケーションの外側での力関係によって、それがどのような約束であるかが、話している当人の望まないかたちで決められてしまったらどうだろう?」18頁

三木那由他『言葉の展望台』(講談社)

どうだろう。嫉妬などを考える場合にもこのような視点は重要だろう。何はともあれ今日もいろんな気持ちになりつつ無理せずがんばれたらいいなと思う。少しずつ先送りしつつ少しずつ考えていこう。

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インベカヲリ★写真展「たしか雨が降っていたから、」へいってきた。

明治神宮前にいったついでにインベカヲリ★写真展「たしか雨が降っていたから、」へいってきた。Gallery KTOというきれいな街並みになってから何年にもなる原宿の旧渋谷川遊歩道沿いの小さなギャラリー。こっち側もキャットストリートっていうのかな。原宿は小さなギャラリーが多いね。きれいだけど箱が並んでいるだけのような通りの古着屋は20歳の頃に行ったサンディエゴの古着屋みたいだった。ギャラリーはとても古いビルにあって「103」とあるのにそこにいくにはきれいな店と店の間の狭い階段をのぼる必要があった。何度かビルの前を行ったり来たりしたけど「このビルなのは確かなのだから」と登ってみたら右側に昔ながらの集合住宅のポストがあった。このビルではここが一階なのね。狭くて短い通路を数歩いくと開いているドアから話し声が聞こえた。ドアにポストカードみたいなのが貼ってあったらかここだな、と思って覗いてみるとギャラリーのオーナーなのか、男性が笑顔でパンフレットをくれた。オーナーらしきその人はドアのすぐ傍に置かれた小さなテーブルで若い女性と営業なのかな、なんだかこれからのことを楽しそうに話していた。部屋は真っ白な小部屋だった。正面に4枚、左の壁に4枚、右の壁に3枚、あと手間に残された小さなスペースに1枚。一枚を除いては全て女性ひとりの写真だった。インベさんの作品は雑誌や立ち読んだ本で見たことがあり、見たことがある作品もそこにあった。今年5月にでた『私の顔は誰も知らない』(人々舎)もオフィスの近くの本屋で素敵な装丁が目立っていたので何度か少しずつ立ち読んだ。ネットでも一部見られる。そしたらギャラリーで値引きでしかもおまけつきで売っていた。もちろん買った。写真を見たあとだからなおさら全部読みたくなった。この本には様々な女性が登場する。個人の歴史の断片にはすでになかなかの困難が伴っているがインベさんの聞き方がすごいせいか登場する女性たちはとても素直でこの本に載っている写真たちもとてもいい。人はひとりひとりとても面白くそれぞれにとてもユニークだというのは私も日々の仕事で知っている。この白い小部屋の写真の女性たちも独特で特にこちらに目線を向けている写真は対話的でいい。足を広げ性器をこちらへ向けている女性の眼差しはほとんど長い前髪に隠れているのに強い力を放っていた。人は笑わなくてもむしろ笑わない方がずっと魅力的だったりする。

力を入れても入れなくても怒ったり泣いたりしても自分に対して素直にいられる場がそれぞれにありますように。インベさんはそういう場作りの天才でもあるのだろう。ささっとだったけど小さなスペースなので仕事にも十分間に合った。小雨のなか傘をささずに地下鉄へ向かった。大雨の被害が出ている地域の皆さんもどうぞご安全に。

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パターン

うーん。親でもないのに言いたくないけど、ということはやっぱり言わない方がいいんだろうな、と思って。これまですごく悩んだ挙句伝えてきたけどすぐ「怒られた」みたいな感じで不機嫌になって「ならそうできる人と付き合えば」って突き放されるだけだったし。「そういう問題じゃないでしょ」と言っても「じゃあどういう問題?」とかいわれて、向こうのほうが賢いから口でもかなわないしもっとひどいこと言われると思うと怖くて何もいえなくなっちゃう。こんなに疲れて苦しいのにどうして別れられないんだろう。優しいときもあるからそれを信じるしかないのかな。私にとって嫌というよりその年齢でそんなことしてたらおかしいでしょ、と思って言ってるだけなのに。でも変わらない。だから見て見ぬ振りをしたほうが自分のこころ的にはまだマシと思って最近はそうしてるけど。本人がそれを問題と思って変わりたいと思わない限り誰にもどうすることもできないのだからそれを待つしかないのかな。

というのは本当によくある話だけど、口で言うほどそうは思えないから人は誰かを想うと苦しくなるわけだ。愛情ってなんでしょうね、とか悠長な話でもなくてこれを暴力と感じ実際にそう名付ける日だって遠くないかもしれない。それでも人は繰り返す。驚くほど同じようなやりとりを。

今朝は鳥の声が止まらない。どうしてだろう。彼らにも耐えがたい関係とかあるのだろうか。ないだろう。彼らは私たちよりずっと儚い分、しっかりと自然と対話するように生きている。葛藤などおこしている場合ではないだろう。

辛くて苦しくて眠れない。そんなわけでそんなパターンにいつも通りはまりこんでなんて愚かなのでしょう、自分は。わかっているのに涙が止まらない。

今この瞬間にもそうなっている人がたくさんいるだろう。人間って難しい。自分の欲望と同じくらい相手の欲望のことを思えたらたやすく反応できないことばかりなはずなのにいつもちょっと自分が優先されてしまうことばかり。

ケアというのはこのちょっとの部分で反転が起きているのかもしれない。自分にとって何が必要で何が大切か、それをたやすく見誤ってパターンに陥ることで自分の可能性を失ってしまうことのないように私はパターンに陥る側としてもケアする側としても考えていく。鳥の声に励まされながら。優しい人に見守ってもらいながら。

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回復のための時間

「ちょっとやそっとのことでくじけたりしない。」朝ドラの主人公みたい。「ちょっとやそっと」って言葉、面白い。「そっと」って「ちょっと」を強調してるんでしょ?控えめな強調が自信なさそうでちょっとくじけてそうで応援したくなる。ならないですか?私はなるなぁ。しかも(?)私はちょっとやそっとのことですぐくじける。暑いとか寒いとかでもすぐくじける。回復は早いかもしれない。「ちょっとやそっと」がどんなもんかわからないし回復の度合いも比較できるものでもないだろうけどずーんと重たい痛みに沈んだり「私ってほんとだめだな」ってなったりとか「もうほんとうるさいバカ」とくさくさと引きこもるような状態から、そんなこと何も知らない相手から送られてきた写真に思わず笑っちゃったり「あ、スズメだ!(スズメ好き)」と思えたり点滅する信号に向かって走りだしたりする自分に気づくと「あ、回復してる」と思う。そうなるまでの時間が結構短いのを回復が早いといってるかも。以前との比較でいうなら時間的に短くなったのはたしか。いいか悪いかの話でもないけど気持ちが軽い時のほうが外の人やものを受け入れやすいからいいんじゃないかな。

精神分析家の北山修先生(芸能人のきたやまおさむと同じ人物なんだけどみんな知ってるかな。私最初知らなかったんだけど)はイザナミ・イザナギとか「浦島太郎」とか「夕鶴」を素材に「見るなの禁止」を描写し続けている。その禁止が案外破られやすいところが面白いと思うのだけどこれもそれぞれの時間感覚で異なるかも。同じ体験でも「もうバレた」「まだ気づかない」とかその体験のされ方って違うよね、と思ってる。「見るなの禁止」はいわゆるタブーのことだけどタブーだってそうなるまでに時間がかかる。プロセスがある。歴史がある。タブーを破るというのはその逆をいくわけだから単純に考えれば同じくらいの時間がかかってもよさそうなものだ。私は精神分析的な治療をそれに重ねるので患者さんに対しても治療に時間がかかってしまうのはその悩みや苦しみが時間をかけて作られ維持されてきたものだからそう簡単にはどうにかならないのではないかなというような話をよくするし当事者である彼らも大抵の場合納得してくれる。でも時間をかけることでどうにかなるのかもしれない、と思えること、そう感じられるような作業を一緒にしていくことって本当に難しくて自分の少しの変化を「回復」と感じられるように自分に対する信頼を少しずつ取り戻していくプロセスを支えていくことなんだろうと思っている。そうするためには私自身がそうである必要があってだいぶそうなってきた自分を感じられることは患者さんにとってもいいことなんだと思いたい。いまだ訓練中ですけどね。

いわゆる北山理論に学ぶことが多く、今日もそれで色々考えようとしていたのだけどあまり進まなかったな。タブーを発達論的に考えると「躾」というワードがでてくるわけで、そこでは超自我的父性と養育的母性がまじりあう。どの言葉にも両義性とそれゆえの曖昧さを見出しその二重性を生きていくことが大切なんだ、ということだと思うのだけど私はそこから逃れようとする心性が作用しているのであろう通じにくい言葉について考えていて、もしそうやって守らねばならない領域があるとしたらそれは自分だけの言葉にはならないなにか、だけど言葉の生成に深くかかわるなにかをためておく必要があるからではと思っている。ウィニコットがいうコミュニケーションしない領域のことだけど。北山修著『新版 心の消化と排出 文字通りの体験が比喩になる過程』(作品社)は北山理論入門としておすすめかも。かも、といったのは北山理論はとても魅力的なのだけどお付き合いするにはちょっとエネルギーがいるよなぁ、という気持ちがよぎったからなのでした。まあ勉強ってそういうものですね。

ダラダラ書いていたらなにをしたかったのかわからなくなってしまった。いつものことだけど休日だからってことにしておこう。回復のための時間。Au revoir.

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別の目で

ソフトクリーム型アイスの上半分を守るフタを開けられず苦戦していた。それを買ってくれた人がパッと手にとって開けてくれた。こんなことまで。やってもらってばかりで。この不器用さ。ああ。と情けないような恥ずかしいような気持ちに一瞬なったけど私が粘ることでアイスが溶けちゃったら買ってくれたその人にも申し訳ないものね。ありがとう。

大学院生のとき、受付のバイトをしていた。その日の朝もその日に必要な書類を揃えていた。かなりの数を結構なスピードで次々と積み上げていく。どうしてもある人の書類が見つからない。いつもの場所を何度も探した。似たような番号、似たような名前、間違えそうな要因を頭に巡らしながら何度も探した。

「○○さんのがない」と呟いた。当時すでに高齢だったもう一人の受付の方が「別の目で見れば」と探してくれた。すぐに見つかって二人で笑った。バイトをしている間、このやりとりを何度もした。「別の目で」という言葉が好きだった。その人は特別な几帳面さを持っていた。いつもきれいに袋分けされた見たこともないお菓子をくれた。その人が「絶対にしない仕事」というのがあって(一人の時はしていらしたので「絶対」ではなかったけど)一緒に仕事をできる人は少なかった。私もお菓子を素直に受け取れるようになるまでに時間がかかったけれどすぐに仲良くなった。だいぶ年上なので仲良くというのも変かもしれないけど院を出て受付を辞めたあとも電話で話したり目黒不動尊に一緒に行ったり一人暮らしのご自宅で鰻をご馳走してもらったりした。姪っ子さんの写真を見せてくれたときのみたこともない笑顔を今思い出した。今も年賀状で近況報告をしているけれどこうして書いていたらなんだか心配になってきてしまった。暑中見舞いも出そうかな。もう一人の高齢の方と組む日もあってフラダンスのお話を伺うのがとても楽しかった。彼らの関係はなかなか難しかったようだけど下の世代はどちらにもお世話になった。その人が亡くなってからも随分経つ。

8月に牟田都子さんという校正のプロの方が『文にあたる』(亜紀書房)という本を出されるそうだ。私も編集者さんに校正をしていただく機会があったが私には「絶対にできない仕事」だ。行を追うのにも苦労する、すぐにウトウトする、そもそも正しい表現がわかっていない気がする。こんなにダメではなく注意力も正しい知識も持ち合わせている人であったとしてもやはり校正というお仕事はちょっと普通ではない特殊能力を必要とする気がする。それこそ「別の目」を持っている人のお仕事ではないか。多分この予想は当たっていてやっぱり私には「絶対できない」と思うと思うんだけどもっとずっと驚きのお仕事だと思うし「別の目で」見える世界を知りたいから読むんだ。

自分の目も耳も信じてはいるけど疑ってもいる。すごく長い間、思い違いをしていたことだってある。「別の目」にいつも助けられている。困らされることも惑わされることもあるけど私の仕事は正しさを求めているわけではないからぼんやりと複数の視点で焦点をずらしながらそのうち何か見えてきたら共有する。笑ったり泣いたり怒ったり反応はそれぞれだろうけど一緒にやる。

今日は祝日。お休みの人もそうじゃない人もとりあえず暑さに参ってしまいませんように。

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じっと。

今日も明るくなってきた。昨晩は昨日の朝にも登場してもらった3人の川柳作家、暮田真名さん、平岡直子さん、なかはられいこさんのトークを聞いた。司会進行はこの3人による3ヶ月連続川柳句集刊行の編集を担当された筒井菜央さん。とても穏やかで楽しい時間だった。強い情緒を簡単に投げ出さず自分におさめておいてそれを自分の作品に昇華できる人たちだからこその穏やかさという感じがした。彼らが無理なく自然に相手を思いやれるのは彼女たちが自分の生きづらさを消化する力によるんだろうなあ。すごく主張が強いのにそれを押し付ける感じはなくお互いの良さを言葉にするときもまったく気持ち悪さがない。お手軽な優しさやわかりやすい甘さがない。自分とも他人とも丁寧に関わっている感じはツイートや作品からもとても感じる。先日の大澤真幸さんと千葉雅也さんのイベントでも同じような感触をもった。彼らは、年齢や性別をその違いだけでなくそれらが持つ意味を意識することを当然としているし、断片ではなくお互いの話をよく聞いて、お互いがどういう時代を誰とどんなふうに出会って生きてきたかに関心を向け想像し丁寧に反応していく様子には優しさを感じる。そうではないことばかりでまいっていたりもするけれど「ばかり」でもないのだろう。こうして間接的に支えられながら思いやりのない世界を思いやれる力を持てるようになれたらいいな。孤独と生きていくこと。思いやりのなさに振り回されて辛くて苦しくて眠れなくてという日があるのはしかたないけどまずは自分の中にじっとおさめてみよう、とあらためて。無理のない範囲でやってみよう。やるべきことをやるために動き始めたらそんな気持ちも忘れてまた表面的なことに振り回されてしまいそうだけどとりあえずじっと自分の中におさめられますように、と自分に願う。

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あたりまえ

お願いをかたちにすればえのき茸

ーなかはられいこ『くちびるにウエハース』(左右社)

左右社川柳句集3冊連続刊行の3冊目がこれ。先陣を切ったのは8月14日、私たちのイベントにお招きする川柳作家、暮田真名さんの『ふりょの星』、そしてお会いしたことはないがその文章にどうしようもなく惹かれる平岡直子さん『Ladies and』、そしてこのなかはられいこさん。『はじめまして現代川柳』に掲載された川柳も大人のかわいらしさがとても魅力的でこの三冊でいえば最も身近に感じたのはなかはらさんのだった。暮田さんは『ふりょの星』出版前の講座で「私が露払いに」と何度かおっしゃっていた。先輩たちの句集を売るぞ、という強い意志を感じた。川柳はその作品の自由さだけでなく、若い世代が好きなものを好き、いいものは絶対売りたいととても素直にいえる世界なんだな、と新鮮な驚きを感じた。なかはられいこ『くちびるにウエハース』の解説でも荻原裕幸が「なかはらが川柳に強く求めている一つに、あたりまえのことを大きな声で言いたい、があるように感じる。」と書いている。たしかに。川柳にはじめましてをしたばかりの私ですらそれを感じる。それぞれ主張の仕方は全く異なるがこの三冊全部にそれを感じる。

お願いをかたちにすればえのき茸

NY在住の身内が法事で帰国した。一緒にお昼を食べながらえのきをありがたいといった。今NYでは日本円で600円くらいするそうだ。いけない、そんなのは。食用のえのきは野生のそれとはだいぶ違う。白くて細く柔らかくともしっかりと伸び小さな傘をたくさん広げて見かけほど儚くなく可愛く美味しい。私という一応の主体を切り取ったらすぐバラけてしまうようなお願いなのかな。似たり寄ったりの小さなお願いの花束のようなえのきなのだな。そうなのかな。あー。えのきとしめじのバター蒸し食べたい。

今日も眠い。あくびをしたら涙が出た。「え?それってあたりまえじゃないの?」「そんなのあたりまえじゃん」今日もいろんなあたりまえと出会う。あなたにとって、私にとって、それがそうならそうなんだ、まずはそういうところから。

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言葉、関係

「サラダ仕立て」ってなんだろ、って何となくわかりながら「うす塩仕立て」と見比べて後者を食べている。美味しい。うす塩だ。「サラダ仕立て」は袋から透けてみえる姿がサラダ煎餅と同じだったのでわかった気にもなったがなんでサラダなんやろと思い調べてみたらサラダ油を使うからと。うーん。それはそうやろうけど(言葉の使い方違う気がする)サラダ油自体が曖昧じゃん。サラダ油のことは数ヶ月前にオリーブオイル使用のツナ缶を食べながら話題にしたばかり。今って「サラダ油買ってきて」「サラダ油どこだろう」とか使うかな。私は使わないな。サラダ油は使うけど。

8月に東京公認心理師協会(やっぱりこの名称変更はおかしかったなと思う)の地域交流企画で大田区と世田谷区の心理士・師向けにイベントをすることになった。テーマは「言葉の可能性を探る」

皆さんは「サラダ油」という言葉を使いますか。

からはじめるか。いつどんな時にどんな用法で誰に向かってなど質問はいくらでも作れるし、その分答えも色々聞けるだろう。そこから思い浮かんだ小噺とかも聞きたい。「そんなこと聞いてどうするんだ」という反応が一番ほしいかも。

どんな少人数でも開催するから工夫のしがいもあって楽しみなんだけど、基本的には自分が使っている言葉に意識的になることをしてみたい。人の言葉には敏感なのに自分の言葉となると指摘されてはじめて気づくことばかりという場合もあるだろう。多くの場合、人は指摘されるのを嫌うから「そんなことありません」と否定するどころか「そんなこという人とはお付き合いできません」となる場合だってある。「えー、自分が相手にやる分には平気なのにー??」と思うこともしばしばだ。興味深いと思う。何かが触れてしまうのだろう、何に?どこに?こころに、といったところでこころって、というのがいつもの問いだけど心理士なのでそこは問わない。あると想定して理論を学び実践を繰り返して20年以上経ちそう呼ぶしかない何かがあることは疑いようがない。それでもその言葉を使うたびに「こころって?」と突っ込むことも忘れないだろうけど。

朝からどうでも良さそうなことを書いているけどこれ単なる朝のあそびでノルマでもなんでもないから自分まかせで何かを伝えることを想定していないのだ。もちろん読者がいることはわかっているので自分と誰かの区別をぼやかしたりそれこそ言葉の使い方には最低限気をつけているつもりだけど基本的には自由連想。「なんで?」とか「そんなことして意味あるの?」と聞かれても「わかんない」「意味ないと思う」と答えると思う。そして答えながら「理由とか意味とかいちいち必要ですかね」と思うと思う。そしてなんだかんだ考えちゃって「まあこういうことを考えることになんらかの意味があるのか」と落ち着くと思う。自分ひとりよりは何か言われたほうがあれこれ考えられるので悪いことばかりでもない。

言葉って本当に曖昧で複雑なものだと思う。なんでも正しそうなことを言えばいいってものではない。ひたすら正答を教えられても大抵はそれとは違う行動が選ばれることを大抵の人は体験している、ということを前提にすると「正しさ」を押しつけられと感じたときに「なんで私に?私のどこの何をどうしたくて名指しで?」と思うかもしれない。世界は自分仕様にできていない。事実だって正確に記述するのは非常に困難だ。何かを「正す」関係ではなく差異を当然のものとしてそれを分断、排除の種にしないためにできることは何か。何したっていろんなことが起きるけど「そんなこという人とはお付き合いでません」「そんなこというなら出ていきなさい」など関わらない方向へいくのでなく大切にしていきたい関係というのはあるわけで相手が深く傷ついてしまうことのないように、狂気に暴走しないようにできることを考えたらこんな言葉は使えないな、とか言葉って相手を大切に思えば思うほど饒舌さは失われてその貧困さや難しさと出会うようにできていて、でもそこからなんとか諦めずに言葉の使い方を考えようとするるのも相手のことを大切に思うからで、という循環があると思う。普段は全く意識せずにいっぱい失敗したとしてもいざというときに助け合えるように時間をかけてゆっくり育てていけたらいいな、言葉を、そう思える関係を。

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この道の長さいっぱいを

遠くで救急車の音がする。何もないといいけど人は突然死んだりすることも経験済み。驚くほどあっけなく。もちろんそうでない場合も。いろんな生き方があっていろんな死に様がある。どんな場合もそれは誰にもコントロールできない部分を残す。誰もがいずれ死ぬ以外のことは私たちはまるで無知。

文芸誌『群像』で山本貴光さんが「文学のエコロジー」という連載を持っている。2022年7月号では「文芸と意識に流れる時間」という題そのままに「時間とはなにか」という終わりのない問いを具体的な文芸作品を素材に検討している。普通こう書かれたら前号までの素材『ゴリオ爺さん』のような名作がくると思うではないか。しかしなんとここで山本さんが取り上げたのは

古池や蛙飛こむ水のをと

たしかに言わずと知れた松尾芭蕉の一句である。が、こんな最短のところから見ていくのか、と思った。

575の17音にいかに豊かな世界が展開しているかはいい俳句を読めばわかるとばかりにさまざまな俳人がさまざまな句集や解説書を出している。例えば私の師でもある堀本裕樹先生の『十七音の海』(株式会社カンゼン)は題名がすでにそれを示しているし、先生の恩師である宗教哲学者鎌田東二は「俳句は宇宙を詠めるんだ」と言ったそうだ。堀本先生のこの本はリニューアル版として2017年に『俳句の図書室』(角川文庫)という書名で文庫化された。『俳句の図書室』でもはじめに「はじめに」で登場するのは松尾芭蕉のこの一句である。常に源流を辿る山本貴光さんがここから始めるのも必然、当然なのだろう。とはいえ、山本さんがこの句を使ってここでしようとしているのは十七音に流れる時間、それを読む人の意識における時間などをシミュレーションによって検討することであるからまた新しい。俳人の作業をメタで分析されるとAI俳句もそんなに別物という感じがしなくなる。

古池やかはづとびこむ水の音

私は最近別の本でもこの表記でこの句を見かけている。真木悠介『気流の鳴る音 ─交響するコミューン』(ちくま学芸文庫)のなかでだ。

今年の4月に亡くなった超有名社会学者だが私はあまり読んだことがなかった。私はこの本の最初の方で自分が重度の自閉症の方々と関わってきた記憶のなかでずっともやもやと抱えていた部分に光を当ててもらったような気がしたのだがそれはまた別のお話。

真木はこの句を「時間の構造を空間の構造におきかえている」と延べ「水の音という図柄はじつは、このしずけさの空間を開示する捨て石なのだ」といった。イタリックは本文では傍点である。

「存在を非在非在として、有をとしてとらえる感覚の反転力をこの一句は前提としている」

真木悠介『気流の鳴る音 ─交響するコミューン』(ちくま学芸文庫)

ここで生じているのは単なる図と地の反転ではない。それを通して得られる「地を地として輝きにあふれたものとする感覚だ」。芭蕉は四十日余りも歩いて着いた松島では一句も残していないという。

「松島はただ芭蕉の旅に方向を与えただけだ。芭蕉の旅の意味は「目的地」に外在するのではなく、奥の細道そのものに内在していた。松島がもしうつくしくなかったとしても、あるいは松島にたどりつくまえに病にたおれたとしても、芭蕉は残念に思うだろうが、それまでの旅を空虚だったとは思わないだろう。旅はそれ自体として充実していたからだ。」

松島に到着することに価値があるのではない。「心のある道を歩く」とは「その道の長さいっぱいを」歩くこと、「その道のりのすべてを歩みつくすことだけがただひとつの価値のある証なのだ」「息もつがずに、目を見ひらいて」。

真木はドン・ファンがカスタネダとパブリートと別れの時に告げた言葉も引用する。「夜明けの光は世界と世界のあいだの裂け目だ。それは未知なるものへの扉だ。」

また救急車の音だ。今度は近くを通り過ぎた。今日も無事に朝を迎えられたこと自体はたまたまかもしれない。たまたまな気がする。この生を、生活を、「今ここ」という時空に向かって回帰する自己の歩みを一歩一歩確かめるように、というのもなかなか難しい。でもそんなことを考えるこんな朝の短時間は悪くない。何のために?そんなことは考えずに今日も一日。

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何はともあれ

南側の大きな窓をそっと滑らせて開けた。雨の音。期待通りちょうどいい涼しさの風がスーッと入り込んできた。降り込んでくるほどではないから開けておこう。

昨日、新宿駅は雨漏りしたらしい。この前、雨でもないのに雨漏りしていたあのお店は大丈夫かしら。あ、雨でもないのにということは雨とは関係ない水漏れだったのかな。あ、鳥が鳴き出した。

毎日どこに向かうわけでもない言葉を聞いている。話してもいる。日々なにかの答えを求められる仕事をしていても「思い浮かんだことをそのまま話して」と言われれば曖昧な自分とばかり出会う。伝えたいことを伝わるように言葉にするなんて不可能だと私は思うので何度もやりとりが必要だし誤解したり喧嘩したり自己嫌悪に陥ったりちょっと嬉しくなったりいろんなことで時間がかかるのは当たり前だなあと思ってこういう仕事をしている。でもその曖昧さやわからなさを負担に感じる人にとってはこの作業にあまり価値はないのかもしれない。あ、私も負担ではあるけれど人間関係ではこういう負担は当たり前だなあ、なんで負担に思っちゃうんだろう、なんで私こんな負担なのに関係の取り方を変えようとしないんだろう、とか考えるので単なる負担ではないというか、いつの間にか負担ではなく考えるのが必要な習慣になっているというか。好きな人や大切な人に対してはなおさらどうしたらお互いを大切にできるのだろうとか、お互いを大切にするってどういうことだろうと思い悩んだり。こういうのすでにめんどくさいかな。私はこうでもないああでもない、今日はあんなこと言っちゃったけど本当はそんなことが言いたいんじゃなかったのに、と泣きたくなったり、泣いたり、現実的な制約と自分の欲望の折り合いのつかなさに落ち込んだりする。辛いし負担も大きいけど、だからこそひとりではやらない。できない。堂々巡りになってしまうだけだから。色々めんどうだけど悪いことばかりでもないだろうからだれかと色々考えていけたらいいのではないかな。

まあ、何はともあれどこへ行くかはともかく雨だけどがんばれたらいいですね(うとうとしてしまったら時間がなくなってしまった)。

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塀の中の希望

ようやく鳥の声が聞こえた。洗濯機を回す音や冷房が風を送る音に紛れてしまうこともなかろうに、と思ってなんとなく待っていた。いつもより1時間くらい遅い。私の耳のせいか。鳥たちに、自然に何かあったのか。

今朝は奥多摩駅内にあるという珈琲屋さんのコーヒーとそこで売っている山形県みはらしの丘のESCARGOTというお店のパウンドケーキを食べた。お土産でいただいた。みはらしの丘なんて素敵な名前。富士見ヶ丘という地名はたくさんあると聞いたことがある。以前はそのどこからも富士山が見えたそうだ。そりゃそうか。みはらしの丘はとてもみはらしが良さそう。そりゃそうか。

そういえば映画「ショーシャンクの空に」の序盤、一台の車を追うようにして要塞のような刑務所の入口へ観客の視線は導かれるのだがここのカメラワークはとても印象的だった。観客の視線は車と一緒に刑務所の門を潜ることはなく、飛行機が離陸するようにそのまま上空へと導かれ塀に囲まれた広い空間を俯瞰するようにゆっくり旋回させられる。鳥の視点だ。このシーンがあるからラストシーンがなおさら意味があるものになる。

原作にはこんな語りがある。

Some birds are not meant to be caged, that’s all. Their feathers are too bright, their songs too sweet and wild. So you let them go, or when you open the cage to feed them they somehow fly out past you. And the part of you that knows it was wrong to imprison them in the first place rejoices, but still, the place where you live is that much more drab and empty for their departure. That’s the story

ーKing, Stephen. Rita Hayworth and Shawshank Redemption

そう、そういう話でもある。

自由とはなにか、罪のあるなしに関わらず一度囚われたその場所から釈放されるためにどれほどの犠牲を払わされるのか、釈放の許可を与えるのは誰か。「更生rehabiritation」とは何か。人生の半分以上を刑務所で過ごしてきたレッドはいう。

Have I rehabilitated myself, you ask? I don’t even know what that word means, at least as far as prisons and corrections go. I think it’s a politician’s word. It may have some other meaning, and it may be that I will have a chance to find out, but that is the future… 

これは原作からの引用だが、映画でこれが語られるシーンでは静かに圧倒される。棒読みで目を泳がせながら媚びるように決まったセリフを繰り返す必要はいまやない。この囚われの立場を知らぬ者たちが使うその言葉はただのブルシットワードだ。この場面には映像やポスター以外で刑務所内ではじめて女性が登場する。時間はゆっくりと着実に変化をもたらす。自由の意味も変わる。ある者は死を選び、ある者は静かに夢見る。いずれ記憶のない暖かな場所で暮らすことを。

相手の話に耳を傾け、気持ちを想像できる人ばかりがメインの登場人物であるこの映画、暴力的なシーンもあるが相手を知ろうとする力と豊かな情緒を持つ人たちの関わりが観客にも希望を失わせない。希望hope、原作でもそれが最後の言葉だ。

それぞれに過酷さを生きる瞬間瞬間があるだろう。たやすく希望を持てと言えるはずはないがなくはないかもしれないそれに少しでも自分を委ねることができたら。いつも願ってばかりだけれど今日も。

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hope&force

いつもの森から一斉に鳥の声が聞こえてきた。誰かの一声が目覚まし時計みたいになってみんなびっくりしちゃってるとかあるのだろうか。ないか。

今朝も早速「プライバシーって」と思うことがあったがまぁプライバシーも切り売りするものと捉える人もいるだろうし、とりあえず人のことは人のことということで朝の一筆書きのように書く。

プライバシーは急に侵害される、というとき、すでにいくつかの例が思い浮かぶがこのソーシャルメディア時代、いくら削除依頼を要請したところでその扱われ方の軽さを思い知るだけかもしれない。

プライベートでパーソナルな部分に触れていくことはたとえその意図はなくても侵入、侵害として受け取られやすい。精神分析における非対称性、それ自体がトラウマとなる可能性が常に問題になるのは精神分析がプライベートな空間でパーソナルな部分に触れる作業だからであり、その繊細さ、脆弱さは常に治療者の想像を超えている。なぜそう知り得るか。精神分析は転移状況であり、反復されてきた患者の体験を分析家は患者の位置でまるでそのときそこでのように体験させられるからだ。精神分析において関係性は反転し、今や分析家のものである患者の繊細さ、脆弱さが患者がそうされてきたように侵入や侵害を受けるとき、その傷つきは患者だけのものではなくかつての自分のものでもあったことを分析家は訓練のプロセスで知っている。

厳然と存在する設定上の非対称は本来、患者のプライベートでパーソナルな部分を守るためであり、転移上、侵入や侵害をする、されるの場となっていくときこそその機能の重要性は明らかになるが、分析家の脆弱性や傷つきも強烈に賦活される転移状況において分析家が転移を扱い損ねたとき、それはたやすく破壊される危険も孕んでいる。訓練を経て分析家の資格を得ることはその危険から自由であることを意味しない。人間は人間と強く拘束しあいながらそれぞれの自由を模索するのであり、絶対に安全と言われるような関係こそ疑うべきだろう。では、私たちが強迫的に安全な関係を志向することなく、死と隣り合わせになる危険を恐れながらもその関係性から逃げ出さないのはなぜか。逃げられないから。少なくとも治療関係においてそれはない。一方、そう生きるよりほかないという極限的な状況は実際にある。そしてそういう心境もある。

Remember that hope is good thing,

スティーヴン・キング『刑務所のリタ・ヘイワース(Rita Hayworth and Shawshank Redemption)』からの引用だ。妻とその愛人殺しの罪に問われた主人公アンディが刑務所で過ごす中で信頼しあうようになったレッドに書いた手紙の一部である。

この小説は『ショーシャンクの空に(The Shawshank Redemption)』という邦題で映画化、1994年に公開され遅れて話題になった。原作は英語であり私は持っているが理解が曖昧なので映画の方を素材にプライベートであること、パーソナルであること、そしてそれらがたやすく侵入、侵害され、軽く扱われることについて考えてみようと思った。

といっても朝の一筆書きでかけるはずもないので少しずつ考える。今日もMay the force be with you.これはスターウォーズだけど。人には絶対に触れられない領域がある。そこに希望を見出せる力があなたと共にあらんことを。

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まずはそこからとりあえず

昨晩は雨が降ったのか。向かいの家の屋根が濡れている。今も曇り空だけど洗濯物どうしましょうね。

昨晩、精神分析家のJoyce McDougallのThe Many Faces of Erosの一章を読んだ。同じ患者のことが素材になっているので一気に読んだ方が忘れないのだが優先すべき読み物はたくさんあるので忘れながら読んでいる。女性の精神分析家が書いた女性性にまつわる本を女性の分析家&候補生で読む小さな読書会。文字にすると偏りが顕著だが精神分析状況は転移状況であり治療者の性は患者に多様に体験されるため、とりあえず自分や対象を女性と位置付け、ゆるく固定された視座からあれこれ話し合ってみることには意義があると思う。マクドゥーガルは心的構造の基盤をmasculineとfeminineの要素の融合、つまりbisexualなものとみなしており、構造が異なる身体が様々な出会いと喪失を通じてどのような複数性を備え、genderに囚われ、生物としての限界をもち、人や外界と関わらないという選択肢のない状況でどのようなcreativityを作動させることで生き延びようとしているのかについて描き出した。

とりあえず自分や対象を女性として位置付けることはインポテンツや不妊、子供を産む体験をしないことという生殖にまつわる言葉の使用に対して他人事ではなく意識的になるために必要なことだと思う。またまずは同質性の高いグループで話し合うことで同質にみえる人たちに潜む差異を俎上にのせることも可能になるだろう。精神分析を体験している者同士で話し合うことのメリットもある。セクシュアリティとジェンダーの話はそこから逃れられる人がいないように個人的な体験と切り離すことは難しいため負荷も高い。しかし精神分析は非対称の関係、そこで生じやすい出来事、そのありがちな描写、そのようなものに何度も何度も内省をかけていくので攻撃性、衝動性の行動化は必然的に少なくなる。実際の出来事とは別の時間でそれを反復的に体験することは他者を断じたり裁いたりすることに迷いをもたらす。そうしようとしている自分、そうしたくなっている自分の欲するところはなにか、さらなる傷つきを繰り返さないためにまず表現すべきこと、表現すべき場所はどこかと考える時空が広がる。私たちはひとりひとり違う。だから結果ではなくプロセスを。情緒的でありつつシンプルな言葉を。マクドゥーガルの事例はたまたま芸術家だが、クリエイティブであることは私たちひとりひとりに課せられた課題であると同時に誰にでも備わっている力だ。今日も言葉を紡ぐ、誰かを思いながら。言葉にできないならまずは聞く、わからなくても。まずはそこからとりあえず、ということをやめない。とりあえず時間は過ぎるけど、終わるまでは続くのだから。

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知る知らない

ダッフィーは我が家にもいる。もう何年前になるのだろう。研究会仲間とTDLへ行ったときに買った。いまだにフワフワだしかわいい。私は喉が弱いので大声を出さずともその日たくさん喋っただけで翌日のスーパーヴィジョンで「TDLにいって声が出なくなってしまってすいません」と掠れた声で言わねばならなかった。

今朝はTDLのお土産にもらったラスクを食べた。プレーンとミルクティー風味の2種類だからダッフィーとシェリーメイの二種類かと思ったら「ダッフィー&フレンズ」というシリーズだそうだ。ダッフィー、シェリーメイ、ジェラトーニ、ステラ・ルーだって(調べた)。たしかに袋にみんな書いてあった。よく知らないとなんとなく知っている主役にばかり目がいってしまうものだなぁ。

秋にビオンとウィニコットが重なる領域について話す。知り得ないということについて。主役にばかり目がいくというのはパッケージでも映画でも舞台でもなんでも同じだと思う。「推し」を持つ人にとってはその人が主役なのだろうけど一番目立つようにデザインされているものをそのまま受け取れば大体の人はそれを主役と思うだろう。世界がどうデザインされているかとそこで生きる人たちが世界をどうデザインするかは相互作用だと思うから変更はありうるだろうけど、と生まれたばかりの乳児にとっての母親、母親にとっての乳児のことをおもった。

ローマの哲学者セネカは『道徳書簡集』(高価で買えないから「メランコリーの文化史」(講談社選書メチエ)から孫引き)で「人間はいつかは死なねばならないことを知らないほど、無知な者はありません」と言った。

生の短さについて 他二篇』(岩波文庫)ではこう述べた。

「人間の生は、全体を立派に活用すれば、十分に長く、偉大なことを完遂できるよう潤沢に与えられている。しかし、生が浪費と不注意によっていたずらに流れ、いかなる善きことにも費やされないとき、畢竟、われわれは必然性に強いられ、過ぎ行くと悟らなかった生がすでに過ぎ去ってしまったことに否応なく気づかされる。われわれの享ける生が短いのではなく、われわれ自身が生を短くするのであり、われわれは生に欠乏しているのではなく、生を蕩尽する、それが真相なのだ。」

ビオンもウィニコットも母子関係のモデルで精神分析状況で生じる現象を描写したが、人生後半の仕事ではひたすら人間の本性を描き出そうとしていたように思う。ビオンであれば「O」という不可知の概念をめぐって、ウィニコットであれば「交流しない自己」という誰にも触れえない孤立した自己の部分について。

知り得ない、不可知の領域について考えるのであれば私たちが何をどうやって知り、なぜそれを「知った」と知るのかなども考える必要があるのだろう。母子関係をモデルとするのもそれが最初の認識の場所であり、生の時間もそこから複雑なものに変わっていくからではないか。

それにしても眠い。もう赤ちゃんではないから自分で起きて動かねば。今日も色々知るだろう。「知らなかった!」ともいうだろう。「知ればいいってもんじゃない」とかもいうかもしれない。「そんなことは神のみぞ知る」は言わないかも。知らないことばかりなのはたしか。

何を知らずともそれぞれ良い土曜日になりますように。

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ダメージモード

朝から攻撃的な「願い事」をみてため息。そうやって支えあっているのでしょうしどうしても外に見える形にしてしまうのも「親切」の形態の一つになるからややこしい。本当に親しい間柄で起きることはわざわざ見せなくてすむものばかりなのに。なんにしても排除の言葉に見える形で平気でノルのは怖い。スプリットしていることに気づけないのは仕方ない。スプリットしてるのだから。排除の形式も本当に色々あるけどやっぱりナルシシズムの問題なんじゃないかなあ。排除されないために誰かを排除する「親切」とかないでしょ、と思うけど、とこういうことを書き出すとキリがないので身近な人と話そう。

朝一番に大きな窓を開ける習慣。この時間くらいスーッと涼しい風に入ってきてほしいのだけど今日は無理でした。暑くなるのかな。昨日は涼しくて助かったけど。

フロイト読書会。急いで帰ってオンラインで参加。アドバイザーというやや偉そうな役割。今読んでいるのはフロイト全集一巡りしてから再びの「心理学草案」。神経学者フロイトが精神分析家になるまでの道のりで考えていることのややこしきことよ。数年前にはじめて読んだときは全くわからなかったけど今はその後のフロイトの考えも症例も知っているから何と何がどこでくっついたり分かれたり重なったりして次の点や線に向かっているのかをそのダイナミクスと共に理解することはなんとなくできる。症例はいつも興味深く、たとえフロイトが論文のために症例を利用したと言われていてもそれは言い方の問題でフロイトはそうすることの意義をものすごく詳しく書いていて、現在の私たちも症例論文というのを書くけどそれは患者を利用しているのとは違うと知っている。だけどこういうのも一度そう思いこんでしまった人にはなすすべなしだし、実践を伴う側と言葉だけでそれと関わる側でそれ自体の是非を問う話をしてもそれこそ「誤った前提」(昨日読んだ部分)からの話になるから私は実践を伴う側として患者との出来事を再び記号化したりしていくだけ。

彼らは自分からもなくしてしまいたい部分がたくさんあるし、他人からも奪いたかったりやめてほしいと思うことがたくさんある。最初に書いたみたいにそれなりに味方を作りながら吐き出すやり方はスキルでもあるからしたくてもできない場合も多いし、そう収められないほどに、でも外に撒き散らしたら大変なことになるモノとどうにかこうにか暮らしている彼らと日々少しずつ積み重ねていることを言葉にしていくことは本当に時間もかかるし知的能力に限界あるし大変。そのまま出せるようなことではないのだ、そもそも。彼らのことを理論化の素材として書かせてもらうときに、攻撃的な言葉をバンって最初に提示してそこから「でも実は」みたいな論法に巻き込むのも嫌だし。そこからスタートする必要ないのでは、と思ってしまう。そうそう、最近こういう疑問に地道に付き合ってくれそうな本と出会ったんだ。でももう時間切れ。朝からプチダメージを受けたせいかこのモードに辿り着くまでに時間がかかったな、と今になって思う。いつも目指しているわけではない「モード」なのに。昨晩は事後性の話でもありました。それぞれ自分のペースで今日を始められたらいいけどなかなか難しいでしょうか。とりあえず今日も体調に気をつけて過ごしましょう。

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七夕

7月7日。七夕。例年通り曇りか雨か。

東京に住み始めて最初の年の七夕、その夜も池袋西口公園にたむろしていた。坂本九「見上げてごらん夜の星を」が流れていた。みんな空を見ていた。

ウィニコットを読んでいた。好きな人が好きなものを好きな理由をつい聞いてしまうことを反省した。それは移行対象かもしれないから。それはあなたがたまたま見つけたのか、それともあなたが作り出したのかと問うことは野暮だ。といってもこれは赤ちゃんがお母さんと融合した状態から分離するときのお話だけど。知りたいという気持ちが理由を求めてしまう。大体のことは理由など後付けだったりするのだから好きな人が好きなものを大切にしている、ただそれだけでいいのに。

夜、東京に戻るとき、チャイルドシートで眠っていた小さな子供が泣き出した。外の暗さを奈落に感じるのだろうか。激しく激しく泣いていた。私はその子に覆いかぶさるようにしてしっかりと抱きしめた。世界が崩落する恐怖を自分がバラバラになる恐怖を精神病の人が感じるように、たまたままだ発症していない私も少なからずそう感じることがあるように、この子も感じているのかもしれない。全身で激しく泣き叫ぶその子との間に隙間を作らないようにしっかり抱えながら大丈夫、大丈夫と呟いた。少しずつその子がこっちの世界に戻ってくるのを感じた。腕を緩めるとぽやっと私の顔をみてまた顔をうずめて泣き少しずつ夜の世界に馴染もうとしているようだった。外に光があることに気づいたようだった。そうだよ、夜は暗いだけじゃない。その子は私をみて小さな両手のひらをキラキラと回した。「キラキラだね」私は一緒に外を見ながら彼女のキラキラに合わせて「キラキラ」と何回か繰り返した。バックミラー越しに注意深く私たちを見守っていた母親が微笑んだ。

七夕。私が住む街の小さな商店街にもいつの間にかキラキラの吹き流しが飾られていた。ある日の夜に気づいた。保育園でも子供たちが短冊に書いた願い事が(まだ大人には読めないけど)先生方が苦労して取り付けた笹に飾ってあった。

空を見上げる。災害も戦争もこの空の下で起きる。出会いも別れも誕生も死も。2018年、西日本豪雨から4年がたったという。もう4年か。今なお仮設住宅に暮らす方々がいると知った。どうにからならないのだろうか。その中でコロナ禍も過ごされていたと思うと言葉を失う。その年はたまたま広島を旅する予定でいた。被災地にいくことは常に迷う。いろんなところに問い合わせた。「ぜひいらして」といってくれたとしてもそこにあるであろうアンビバレントに注意を向けないわけにはいかない。結局行った。いろんな跡を目にした。大きな家を通り過ぎると大きな窓のカーテンが閉められた。まだ昼間だ。観光客である自分を恥ずかしく思った。宿の人にはいろんな話を聞いた。「ここはたまたま水も止まらなかった。でもあそこは」と道一本隔てるだけで変わる生活状況を知った。それを助け合って時間を過ごしてきたことも知った。彼らは普通のトーンでそれを話し「来てくれてありがとう」といってくれた。東日本大震災のときもそうだった。

七夕にはいろんな言い伝えがある。スクールカウンセラーをしているときは毎年お便りに七夕のことを書いた。隔てられた二人が出会う話であるならば今日がそうであってほしい。明日だってそうあってほしい。どんなお天気だとしても。時間的に、空間的に、どんなに離れていたとしても。

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詩人にはなれなくても

友人から「プロの詩人」という言葉を聞いて「おお、すごい!」と思った。この場合の「プロの」というのはそれで生活できているということになるのかな、と思ったけどその人は並行して稼げる仕事をしているからなんらかの社会的な評価をえているということかな。あるいはその人が詩作によって詩人になるという行為を続けていれば「プロの詩人」であるということかも。詩人っていつの時代も特別な立場。フロイトにとってもラカンにとっても詩人は特別だった。彼らは自分は詩人ではないと言った。キルケゴールは詩人を「例外」といった。

ここで自由連想のように綴っていると過去のことが思い出されたとしてもそれは過去のことではないような気がしてくる。常にそれは今となって私に立ち現れてくるもので精神分析が自由連想を方法とし、反復を扱い、精神分析を続けることが精神分析家になることだというのもシンプルに納得する。「意図せず」「そんなつもりなく」という日常生活の精神病理を発見し、自分で見るのに自分でもわからない夢の痕跡を辿り、あなたではないが私だけでもない間柄でお互いを侵食し合うことで知り、患者より少しだけ早くそれを言葉にする。精神分析家のしていることはそういうことだと思う。それは詩作とはほど遠いのかもしれないがウィニコットやオグデンは精神分析場面に現れる言葉を歌や詩として聞く。彼らの声もそういうものとして発せられる。ウィニコットだったら子どもと共にマザーグースを口ずさむように、オグデンだったらフロストのように押韻から意味を聞き取るだろう。確かに患者の言葉を聞くとき音の響きやリズムのずれはこちらに何かを知らせる。確かにそれらはいつの間にか解釈の言葉として練り上げられている気もする。言葉が生まれる、という実感は常にある。

空や鳥や花や月がそれぞれのリズム、それぞれのペースで消えたり現れたりするのを私たちはそんなに意識していないと思う。いつの間にか消えたそれが現れたら気づきまた忘れということを繰り返しているように思う。それらを「きれい」「不思議」「不気味」と思う気持ちもそんなに変わらないと思う。かつて愛した人のことはすっかり忘れたりするのに不思議だなと思う。先日取り上げた『どうにもとまらない歌謡曲 ─七〇年代のジェンダー』(ちくま文庫)でも北山的美意識として書いてあったが「あのとき同じ花を見て」「あのときずっと夕焼けを追いかけて」も私たちの「心と心が今はもう通わない」ことは生じるのだ。そしてそれに伴って花が汚くなったり夕焼けもセピア色になってしまったりはしないのだ。心はたやすく投影同一化によってまるで別のものになったりするのに。(参照:「あの素晴しい愛をもう一度」加藤和彦作曲、北山修作詞)

私たちは自然と違って自分の足で目で耳で鼻で触覚(感触?)で直観で常に自分を戸惑わせている。すぐ戸惑ってしまう。不安になってしまう。症状を呈してしまう。だからつい自分探しをしたくなってしまうのかもしれない。「らしさ」なんてあるんだかないんだかわからないものを探すことで正解がある世界を錯覚していたいのかもしれない。見通しを持てること、ゴールがあることは安心感を与えてくれるから。それはそうだ。それを「弱い」とか「情けない」とか自分にも他人にもいう人もいるがそれこそ何基準?という感じがする。世界は私たち仕様にはできていないのだからいろんな気持ちになるのは当たり前だろう。反復の仕方は確かにその人らしさを際立たせたりするけどそれはその人だけのものであって正解とか間違いとかいいとか悪いとかそういう類のものではない。

曖昧で不確実でいろんなことがそんなつもりなくたまたま生じるような世界の秩序は自然が守ってくれているとして、私たちは今日もいろんな気持ちになって必要以上に自分を苦しめることなく過ごせたらいいような気がする。全くの停滞というのは人間には難しいのでなおさら辛いこともあるかもしれないけど諦めるとしても小さくため息をつく程度であったらいいような気がする。詩人にはなれなくても言葉を紡ぐ自由は誰にでもある。少しずつ少しずつ行きつ戻りつ。

地震も台風も常に身近だけど引き続きどうぞご安全に。

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再発見に向けて

今朝もカーテンの向こうがうっすらピンクでそっとのぞいたら思ったより水色混じりのピンクが東の空から広がってきていました。昨晩の三日月はもうとっくに西へ。火曜日の朝です。

昨日、隙間時間になんとなく田野大輔『愛と欲望のナチズム』(2012/講談社選書メチエ,Kindle版)を読み上げ機能で流していました。精神分析におけるセクシュアリティとジェンダーについて考えるとき、フロイトの理論においてそれらがどう捉えられ、他の分析家や患者との関係を通じてどんな変遷を見せたのかを知ることが重要なのは当然です。それはその時代のその社会が精神分析に対して為してきたことを知ろうとすることでもあり、だから私たちはフロイトを断片ではなく読み続けるわけです。

一方、精神分析をなんらかの形で体験しながらそれらを詳細に検討することと彼らとは異なる時代と社会で生きる私たちが自分の文脈の正当化のためにフロイトを断片的に使用することで生じる偏見の溝は埋めようがありません。もちろん体験のみで知る精神分析とも違いはあるでしょう。精神分析が技法として意義があるのはどのようなあり方も当然ありうるものとするからだと思うので何がどうというわけでもありません。ナチズムのように性の抑圧と解放という二重道徳を手に性生活に介入する権力的な精神療法によって「治療可能」であれば生かし、「治療不能な患者の存在は、民族の健康を守る精神療法の限界を露呈させる」として排除するような治療観は持ち合わせていません。

フロイトの性欲動は生の欲動であり、セクシュアリティは異性あるいは同性を対象とし、セックスを目標とした本能行動であるだけでは決してありません。精神分析におけるそれは、人間のこころの組織化の中心をなすものでそこに潜在する拘束力と破壊力は「常に別のものの再発見」とセットで語られるべきものと私は思います。

「常に別のものの再発見」という言葉はラプランシュが、非性的な機能的対象から性欲動の対象への移行について論じたとき、フロイトの「対象の発見とは、本来再発見である」(Freud,1925)というフレーズを用いて「発見とは、常に別のものの再発見である」と明確化したものを援用しました。

メラニー・クラインが鬱病を抱えていたり、不幸な結婚をして妊娠の可能性に悩んでいたことやアンナ・フロイトとドロシー・バーリンガムとのパートナーシップなど分析家の個人史に見られるセクシュアリティに関連する出来事を単にフロイトをめぐる精神分析史におくのではなく、当時の社会の側から見直したうえで現代を生きる私たちのフェミニズムの文脈に置き直してみることも大切だと感じます。精神分析が誰かのこころをコントロールしたり排除したりする文化に加担することのないようにその内側にいる私はああでもないこうでもないと考え続けることが大事そうです。

フロイト
「最もうまくいくのは、言ってみれば、視野に何の目的も置かずに進んでいき、そのどんな新たな展開に対しても驚きに捕まってしまうことを自分に許し、常に何の先入観ももたずに開かれたこころで向き合う症例である。分析家にとっての正しいふるまいとは、必要に応じてひとつの心的態度からもう一方の心的態度へと揺れ動き、分析中の症例については思弁や思案にふけることを避け、分析が終結した後にはじめて、得られた素材を統合的な思考過程にゆだねることにある。」

ー「精神分析を実践する医師への勧め」(1912)『フロイト技法論集』に所収(藤山直樹編・監訳、2014)

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アンデスメロン/ルシア・ベルリン

小さなアンデスメロンを4分の1食べた。アンデスメロンはアンデスのメロンではなくて「安心ですメロン」なんだと聞いた。この年齢になればこれまでも同じことを聞いていそうだがまた(多分)驚いてしまった。だとしても(これもきっと前にも思ったのだろうけど)なんで「アンデス」?「アンシンメロン」とするよりははるかに魅力的ではあるが。にしてもなにが「安心」なのかしら。メロンと似てるけど安心して、きちんとメロンと同じ味だから、とか?

一番美味しそうなのは種のところ。ジュワッと泡立つように水分が集まって茶漉しに集めてスプーンでギュッと潰しながら濾してメロンジュースにしたいくらい。「こす」って漢字を二種類使ったのだけどわかりました?なんでこんなに似て非なる漢字を同じ意味に当てたのかしら。遊び?だとしたら楽しいな。もっとそういうの探したい。今日は朝からなんでなんでばかりだな。2歳児か。

職場の愚痴を話している大人に「なんでー」とタイミングよく入れたその人の娘の声を思い出した。あの時は笑った。私よりずっといい聞き手だ、あの子は。複雑そうだけど実は単純で大した理由もない大人の意地悪の話を理解できたわけではないだろう。それでもその「なんで」はそのタイミングによって核心をついていた。ほんとなんでこんなことするんだろうね、そして私たちはなんでこんなかわいいあなたを置いてこんな話をしてるんだろうね。私たちが顔を見合わせて笑うと彼女は「みてー」と今書いたばかりのぐるぐるがきをみせてくれた。一日に数えきれないほど言われる「みて」もこんなときは特別。母親である友人はさっきよりずっと明るい笑顔をみせてそれを受け取った。

今朝は『メンタルクリニックの社会学』を読みたいなと思いながらルシア・ベルリンの『すべての月、すべての年』(岸本佐和子訳、講談社)を手に取った。

「なんてこった」のルビは「ファック・ア・ダック」。メキシコからアメリカにきた若い母親である彼女がはじめて声に出した英語だ。

ルシア・ベルリンの『すべての月、すべての年』のなかの一編「ミヒート」を参照

ルシア・ベルリンの短編はぞんざいに積み上げられたような短文からなっていて積み上げられているのは主に暴力とケアだと感じる。メロンの種のところみたいに緻密で涙がいっぱい溜まっているような世界をじっと見つめつつも暴力的で不寛容な外界を当然の背景とし決して感傷に陥ることのない距離感のもと私たちのすぐ目の前に広げられる文字世界。そこは読者の衝動と抑圧のバランスも引き受けてくれるような安定感さえある。

『ミヒート』は診療所の看護師の視点が臨床家のリアリティと重なる短編だ。「ファック・ア・ダック」、字面では決して伝わらないあまりに悲しいこの言葉の響きを私も今日聞くのだろうか。

メンタルクリニックと診療所、ここで私の連想が繋がってこの本を先に手に取ったというわけか。無意識、委ねては気づくことの繰り返し。自分より先走ることなんて不可能なのだから今日も突然目の前を飛び始めた夏の蝶を追うようにのんびりいこう。にしてもなんで夏の蝶って案内人のように急に現れるのかな。また「なんで」といってしまった。答えも急がず慌てずそのうちわかればラッキーくらいな感じで行きましょうか。行ってらっしゃい。

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東京公認心理師協会地域活動とか暮田真名さんWSとか。

今年8月7日(日)10時〜12時、東京公認心理師協会に応募した企画が無事に通り、予定通り開催できることになりました。詳細はもう一つのサイトをご覧ください。

その一週間後、8月14日(日)午後は川柳界から暮田真名さんをお迎えしてワークショップを行います。

ふりょの星』(左右社)読まれましたか?私が20代の頃には(もちろん引き続く今も)とても持ち得なかったいろんなもの(主に才気)が詰まった明るいハテナにつままれる川柳句集です。その後に続いた平岡直子さん『Ladies and』(左右社)、なかはられいこさん『くちびるにウエハース』(左右社)、3冊とも全くタイプが異なりますがどうやったらこんな言葉の選択ができるのかしらとびっくりさせられてしまうところは一緒。いつもと少し違う景色を見たいなという方におすすめの川柳句集三冊です。

暮田さんをお迎えするイベントの詳細は7月に入ったら。え?つまり明日!?

6月、こんなでしたっけ。梅雨は苦手だけどもうちょっと居座ってくれてもよかったのですよ。居心地が悪い国になってしまったのかしら。東京が猛暑日でだるいだるいと呟いていた先週末、zoomミーティングで札幌の仲間も「29度」と。えー、札幌のみなさん、大丈夫ですか?となりますよね。普段涼しいイメージがあるだけに暑さ対策などどうされているのかしら、と。同じ気温でも地域によって感じ方ってだいぶ異なるから不思議です。

ということで冒頭でご紹介したのは地域活動イベントとなります。東京都、しかも大田区、世田谷区に登録されている方のみ、しかも臨床心理士、公認心理師のみを対象としたイベントです。狭くてごめんなさい。

移動には時間もお金もかかります。心身の事情であまり遠くにはいけないという方もおられるでしょう。そんな時、近くの「地域」は何ができるのか。しなくてはいけないのか。そして心理職はそこに対してどんな介入なりサポートができるのか。そういうことをじっくり考えるためにもまずは同じ地域で暮らしたり働いたりしている仲間と交流して横のつながりを作りましょう、という感じのイベントです。基本的なことではありますが基本こそ難しいということも共有していただけるかと思います。ぜひご検討いただけますと幸いです。

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『スープとイデオロギー』をみた。

外が暗いうちに目覚める。すぐに明るくなる頃に目覚める。鳥たちとともに。洗濯機をかけて麦茶をいれる。花火が描かれた薄いグラスが曇っていく。一昨日からまた麦茶を作り始めた。といっても沸騰したお湯にパックをポンと浸しておくだけだけど。今日も猛暑だそうだ。水分補給も気をつけねば。

『スープとイデオロギー』という映画を見た。ヤン ヨンヒさんがご自身の家族を撮った映画だ。彼女はこれまでも父親や姪のことを撮って多くの賞をとっているとのことだが私は全く知らなかった。彼女は在日コリアンで今回撮られたのは彼女のオモニ(母)である。オモニは18歳の時に済州4•3事件を現地で体験していた。

「来週見ようと思って」と見るより先に買ったパンフレットを見せてくれた。その人は部落の方々に話を聞くドキュメンタリー映画を見てきたとその話もしてくれた。生活史を聞く。社会学者の岸政彦さんの仕事が広く知られているだろうか。私の仕事の主要な部分でもある。彼らの生活史が広く知られることはないだろうけど。同じ場所で同じ出来事を体験したはずの人たちでも語りは異なる。おそらく聞き手によっても異なるだろう。その映画には若い女性の語り手はあまり出てこなかったと聞いた。

済州4•3事件、私は朴沙羅さんの『家の歴史を書く』(筑摩書房)で知った。以前ここでもこの本には触れたことがある。朴さんがご自身のおじさんおばさんの話をそのまま書き取り、聞き取るなかでの想いも吐露し、学者としての考察も加えた豊かな一冊だった。同じ場所で同じ出来事を体験したはずの人たちでも語りは異なる、と書いた。この本でもそうだった。歴史的な非常に残虐な事件が起きた場所でその日も生活していたからといってその事件について語られるとは限らないのである。

『スープとイデオロギー』の冒頭には、母親が病院のベッドで突然事件のことを語りはじめる場面、娘の結婚相手に言及する父に娘がツッコミを入れ母が笑う父在りし日の賑やかな食卓の場面が置かれていたと思う。大阪弁と韓国語が混じり合う家にはかつてこの映画の監督、オモニの娘であるヨンヒさんの兄3人も暮らしていた。写真でしか登場しない彼らのひとりはすでに亡くなり、2人の兄は平壌で暮らす。ヨンヒさんは映画が理由でそこにはいけない。父も墓で眠る平壌に。「人間プレゼント」という言葉も私は知らなかった。ヨンヒさんが結婚相手を連れてくる場面はこの映画の最も幸せな場面だろう。オモニの笑顔の美しさに涙が溢れっぱなしだった。そして昼過ぎにくる彼を迎えるために朝からオモニが作る鶏丸ごと一羽と大量の真っ白な青森ニンニクと高麗人参とナツメをコトコト煮込むだけのスープの美味しそうなこと!アボジ(父)が望まなかった日本人のパートナーを暖かく丁寧に笑顔いっぱいにもてなすオモニが済州島で大虐殺と焼き討ちを体験したのはまだ18歳のときだ。婚約者を失い、叔父を失い、幼い妹と弟と散歩を楽しむふりをして検閲を潜り抜け大阪へ密航を果たしたという出来事はこの映画ではクレイアニメで描かれた。余計な感傷を寄せ付けないクレイの若きオモニの目線はこうして娘たちを見守るオモニのなかに確かにあったものなのだ。でも私はそれを想像することすらできない。ヨンヒさんはアルツハイマーが進行しそこにはいない家族と同じ屋根の下で暮らしていると信じているオモニを済州島へ連れていく。もちろんパートナーの荒井さんも一緒に。ヨンヒさんがはじめて感情を抑えられなくなるのはそこでだ。母がした体験をそこで起きた出来事をどこまでも続きそうな犠牲者の名前の列を墓を彼らが幼い日を過ごしたかもしれない海を幼い妹をおぶって弟と手を繋いで30キロを歩いて大阪へ向かう船に向かったという道をヨンヒさんは車椅子の母と荒井さんと一緒に体験する。

”「語りえない」ことなど、おそらくそれほど多くはないのだ。”

朴沙羅さんは『家(チベ)の歴史を書く』で書いた。

”「ただ、調査者や聞き手が聞き取り得なかったことがあるだけだ”

ヨンヒさんは自分のカメラを通じてではなく母の体験の場所を共にすることで母の想いを知ってしまった。

ヨンヒさんの気持ちを考える。子供の頃から疑問だらけだっただろう。なぜ兄たちは、なぜ父は、なぜ母は、どうして自分だけ、と。映画のトーンはあくまで静かで暖かくユーモアがあり時折入り乱れる感情も日常に回収される。ただ、私にはオモニの症状が一気に進むきっかけとなったかどうかはわからないがその直前の聞き取りのシーンが本当にキツかった。ただ聞く、その難しさは日々実感している。ただ聞く、あくまで受動的に。そうすれば朴さんが書くように「語りえない」こどなどそんなに多くはないのだ、多分。

みてよかった。教えてもらってよかった。オモニは今年のはじめに亡くなったそうだ。問い合わせが多かったらしくヨンヒさんがTwitterで報告していたのをみた。ヨンヒさんの仕事の意味はとても大きい。難しく苦しい仕事でもあると想像する。歴史を共有してもらえてよかった。知らないことばかりの日常だけど少しずつ今日も少しずつ。

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incommunicado

鳥は今日も元気。だれかの朝を想う。穏やかにいつも通りの朝を迎えた人もいるだろう。激しい情緒に向かうべき先がわからなくなっている人もいるだろう。体験は人それぞれだ。「いつも通り」であればそれがなんであれ今日もとりあえずそれでいけるかもしれない。人に会えば普通に挨拶をし、空を仰いでは今年の梅雨はなんだったのかなど思うかもしれない。強い情緒を持て余すなら、抑えきれぬ苛立ちを身近な人たちにぶつけては強まるどうしようもなさに泣き崩れるかもしれない。もう行かねばと時計を気にしつつ狂気と正気がぐるぐるするなかを起き上がれずにいるかもしれない。時間は過ぎる、世界がどうであれ。気持ちは変わる、今がどうであれ。ただ受け身でいても必ず。

誰かを特別に想うってどういうことだろうとよく考える。特別だなんて思わなければこんな辛い思いをしなくてよいのではないか、自分にも相手にもうんざりしたり嫉妬に狂ったり嫌われないための無理をしないでもすむのではないか。ただそばにいたい、いろんな話を聞きたい、聞いてもらいたい、あなたを知りたい、知ってもらいたい。特別な相手に変わっていく人を想う喜びや幸せに満たされながらそこからこぼれ落ちる、あるいは生じてくるなにかはときに不安や疑惑の形をとる。重なり合う部分が増えるほど本当にひとつになることなどできないことを知る。知っていたはずのことをいかに知らなかったかを思い知らされながら時々互いに自分の攻撃性ゆえに被害的になる。ひどいことをいってしまうときもある。そしてまた語り合い抱き合いまた離れては出会い直す。セクシュアリティゆえに退行しジェンダーに縛られながら今この社会で偶然出会って惹かれあいそんなことを繰り返す。私は誰かを特別に想うってそういうことなのではないかと考えている。偶然性に身を委ねるというある種の賭けに自分の未来を投じたい、何かを産む産まないといった目的のためではなく正解もゴールもない場所で一緒にいたい、そういう欲望のことではないかと思う。

精神分析家のウィニコットはincommunicado selfということをいった。だれとも交わらない完全に孤立した状態とでもいえばいいのだろうか。それが守られることの重要性を指摘した。ウィニコットの言葉でいえばそれは以下のようなニードである。

The need to be an isolate intertwined with the need to be recognized continues throughout life as perhaps our most fundamental ontological set of needs. Without recognition by another person, we are adrift; we cannot know who we are when in a state of complete isolation (Winnicott, 1967, 1968). 

彼は「ひとりの赤ん坊というものはいない」「全体がひとつのユニットを形作っている」という言葉で関係性を記述した。私はそこに委ねるが交わらない、受け身でいること、想像的あるいは創造的でないことの重要性をみてとる。

カタツムリのツノが思い浮かんだ。いつきたのか曖昧なまま梅雨は明けたが彼らはどうしているだろう。

昨年ケアの文脈で「想像力」「創造性」という言葉もよく目にした気がする。人を特別に思うことはケアすることでもあると思うが果たしてそれらは必須だろうか。それがない人もいるという前提がそこにはあるように思うが、それがない場合にも人を想ったりケアすることは受け身的に生じていると私は思うので考えたい。関連して「思いやり」についても再考が必要と感じる。ウィニコットも「思いやりの段階」を重視しているがそれは一体何か、ということも問い直してみたい。もちろんこんなことを考えるのも共にいること(being)について考えているからだけど。

孤立、孤独であることを可能にするそれ。毎日そんなことを考えていることを書きながら確認した感じ。まあのんびりやりましょう。暑過ぎるから。

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見る見られるからの連想

危険危険、と呟きながら日陰を探しながら歩く。朝9時でこれ。この暑さはやばい。保育園の子たちは熱中症が心配。オンラインの仕事の人は絶対その方がいい。私はいつもなら歩く区間も電車に乗った。昨日の朝のこと。今日も暑そうだ。

今朝はここ数日と比べると風が穏やかだ。窓を開けたブラインドはたまにカタカタンとどこかにぶつかる音を立てるけど概ねじっとしている。いつもより大きく開けた窓から時折スーッと気持ちのいい風が入ってきてティッシュペーパーを揺らしている。いつもは早朝から窓が空いている隣のマンションの一室はしんとしている。あの窓があいたらこの窓は少し閉めねば。

子供の頃、隣の家の兄弟と一緒に幼稚園に通っていた。幼稚園までは一つ角を右に曲がってあとは真っ直ぐ。一つ小さな交差点を越せば右手が園舎だった。彼らの家に「おはようございます」と行くところまでは覚えているが園までの道のりはどうだったか。角にはとうもろこし畑があって斜めに突っ切ることができる季節もあったし、夏は自分より背の高いそこに犬と一緒にわざと迷い込んだ。彼らともこうして遊んだのだろうか。

彼らの家には繭倉庫があって独特の匂いのする薄暗いその場所で私たちは転げ回って遊んだ。私の家のひんやりした場所には蚕がいたし、小学生のとき、一緒に帰っていたEちゃんの家の隣は桑畑だった。当時の群馬はまだ地場産業を伝えていたんだな。

子供部屋は彼らの家側にあった。夜になるとお互いにカーテンを少しだけずらして「見つかった!」となれば戻して今度はさっきよりそっとほんとに少しだけずらしてまた「見つかった!」と閉めることを繰り返し騒ぎすぎて叱られた。隠れてもこんなによく見えてしまうことを私はその時に知った。

上京しはじめて一人暮らしをした小さくて壁の薄いアパートは大学からは近かったが駅からは遠かった。何かの畑の隣でこの季節は虫が多くて怯えた。田舎育ちだからといって虫に強いわけではないのだ。隣の部屋は何歳くらいだったのだろう、学生よりは年齢のいった若い男性が住んでいた。ある日、私が階段を降りてふと2階を見ると窓の隙間から目が見えた。ああいうとき、本当に声は出ない。身体も硬直したような気がしたけど私はまるで何事もなかったかのように大学へ向かった。振り返ることは決してできなかった。その視線から確実に外れたと思えた場所からは走ったのであっという間に大学には着いた。守衛の男性とはすでに顔見知りでその日も何か言葉を交わしたけどそのことは話せなかった。そうやって目だけ覗かせてもこちらからは見えているという体験を彼はしたことがないのだろうか。私は声が出ない体験、身体が硬直する感覚、強い動機と持続する恐怖、それでもいつもと同じように振る舞えてしまうことを知った。

暑い暑いと思ってここに座って隣のマンションのしんとした窓を眺めてなんとなく書いていたらこんなことを思い出してしまった。すっかり忘れていたのに。きっとここを離れたらまたすぐ忘れるのに。怖い想いをするとはそういうことなのだろう。トラウマと呼ばなくても私たちは日々その大きさにかかわらず不安や負担を積み重ねている。忘れたり思い出したり意味づけを変えたりしながら出来事自体は遠くなっていくかもしれない。でも強く打たれるような重くのしかかるような情緒はふとした瞬間にこうして戻ってくる。そういうものなのだろう。そうではない人がいるとしてもそういうこともあるということも知ってほしい。

中絶を権利として認めない判断を下した米最高裁は人間の身体を知るどころか人間の身体を持っているのだろうか。性別を超え戯れぶつかり合い仲直りしいつの間にか学び自分の体験を通じて相手の体験を想像し、自分は大丈夫でも相手はそうではないかもしれない可能性を、非対称の関係においてはなおさらそうである可能性を考慮したことはないのだろうか。ないのだろう。自分が生まれた場所である身体の権利さえ奪えるという前提が共有されたからこの判断になったのだろうから。

これは妊娠する女性だけの問題ではない。単に女性だけの問題でもない。人間の問題だ、と速やかに広げることが必要に思う。その判断に目的があるとしたら変化の芽を摘むことだろう。失望させ絶望させ硬直させ、法という視線で身動きを取れなくする。そこで守られるのは権利を奪った人間の頑なな信念だけではないだろうか。変わることを頑なに拒んで変えようとする相手の声を封じ込めるような暴力的な心性だけではないだろうか。それはこの世界において多数派なのだろうか。少なくとも私の周りは違う。速やかに性別を超えた人間の権利の問題にしていく必要性を感じる。女性だけの、ましてや妊娠の可能性のある女性だけの問題にすることは無力なマイノリティとして彼らを扱う素振りだと私は思う。もしそうだとしたらそれは私たち自身がこの判決の罠にはまり彼ら権力者と同じようになる危険性を孕んでいるのではないだろうか。特定の女性の権利を奪うという行為を巡って戦うつもりがそれがマイノリティであるというイメージを増大させ見えやすい形での暴力を引き起こしたりそれによって不安や恐怖が蔓延していくようなプロセスに加担することは避けたい。その可能性はいつでも潜んでいるのだ。私たちは彼らと同じ当然の権利を守る人間として共にあろうとしながらいつの間にか権力者と同じことをするかもしれない。コロナ禍でそのような人間の心性に私たちはすでに直面しているはずだ。自動的に正義の側に立つということはない。どちらでもあるという状況をどう生き延び、誰もが声を奪われ身体を硬直させつつある人間である可能性に思いを馳せる、まずはそこからなのだと私は思う。

同時にこの気候も生き延びねば。身体は基本だから。熱中症などにどうぞお気をつけて。良い日曜日でありますように。

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助走(愛とセクシュアリティに向けて)

昨日からずっと風が強い。夏至を過ぎたことを悲しく思うのは毎年のことでぐんぐん強くなっていく朝の光にそんなに急がなくてもいいのにと思ったりする。風がそれを煽っているようにも感じるのだろう。

いろんな現場でいろんな人と会ってきた。いろんな目に会ってきた。いろんな人との間でいろんな目に会ってきたいろんな人の話も聞いてきた。具体的なエピソードを積み重ねれば積み重ねるほど人にはそれぞれ事情があるという一見当たり前のことを実感するようになった。たしかにあのひどい人にも本当は事情があったのかもしれない。あんなことが起きたのにはこういうことも関わっていたのかもしれない。それぞれの事情を知れば知るほど出来事の見え方は変わってくる。もちろん体験の受け手に見方を変える力があればの話。ただもし何を見ても似たような風にしか見られない人がいたとしてもその人にもそうなった事情があるだろう。

「あいつさえいなければ」。強い憎しみに覆われながら身体を震わせてつぶやく。この人にこんな強い気持ちがあったとは、と驚きつつ、ものすごい圧力に少し後退りするような気持ちで私はじっと観察する。こんなときに「でもこういう可能性も」と言ったところでそんなの無意味だ。

あのときは「そういうもの」なんだと思った。大人がいうから「正しい」と思った。でも違った。大人になった私が今こんな状況でこんな想いをしているのはあのときにおまえが体験を奪ったからだろう。本当はあんなことしたくなかった。気持ちや考えなど聞いてくれたことがあっただろうか。おまえらの押し付けのせいでこうなってる。それを今更こっちの責任みたいにまたおしつけてくるのか。

繰り返されるやりとり。繰り返される痛み。体験を体験し直す場。精神分析の設定はそれを提供する。

「でも自分にも問題があったと思うんです」「だとしたらどんな?」「・・・・・」

何がなくてもそうなんだと思い込んできた。自分に目を向ける余裕などなく人の目、人の言葉ばかり気にしてきたのだから言葉でいうほど自分のことはわかっていない。だから問われても答えられない。なによりこんな風に問われたことなどなかった。

彼らは徐々に治療者との間でもこれまでのパターンを繰り返しはじめる。定期的に継続してあっていればそれがいつものパターンであることは二人の間で明確になってくる。「私は可能性を奪われた」という話もそんな中で何度も何度も繰り返される。治療者である私も彼らの時間やお金や可能性を奪う相手として体験される。彼らは繰り返す。まるでそう自分に思い込ませるように。そう、そこからやり直すためにそうするしかない場合もあるのだ。私は失敗しながらもなんとかそこにいようとする。ほとんど彼らの過去の体験の相手として、でもどうしたって残ってしまう自分として。

フロイトは能動性と受動性という心的な特徴を男性と女性それぞれに与えた。心的両性性の観点からいえば男性と女性の区別はそこにはないはずだった。しかし性器の違いにこだわったフロイトはどうしてもそこで異性愛を前提にしがちでそこから逃れようとするたびに「女性はわからない」となっていた印象がある。それこそフロイトの逃げではないかと思うが、性を性器から逃れたところで語ろうとしなければそれはたやすく生殖と結びつく。精神分析が神話から持ち込んだ父と息子、臨床で発見してきた母と娘といった重要ではあるがあくまで生殖の文脈から逃れられない物語に従属しがちなのもそのためではないかと思う(これはかなり雑な言い方なのだけど)。

能動性と受動性、する/されるの関係は常に反転する。転移状況はその反転を患者と治療者のペアにおいて実演するため、どこをみてもそのパターンか、というものが見えてきやすい。同時にそれまで一人で体験していたパターンを今ここでお互いが体験し、体験させられることでこれまでとは異なるパーステペクティブが生じる。「あいつのせいで」という憎しみにようやく別の角度から光があたりはじめる。

私は精神分析における愛とセクシュアリティに関心があり、これまでも助走的に書いたものもある。これ↓とかこれ↓とかだろうか。

精神分析というプレイ」「精神分析における愛とセクシュアリティ」

それは愛だと思い込むでもなく、憎しみに覆われるでもなく、愛と憎しみの両価性を生きるために私はそれー精神分析における愛とセクシュアリティーについて考える必要があると思う。それぞれのセクシュアルティがもたらす多様な関係を生殖やそこからはじまる家族の物語、あるいは異性愛と同性愛の区別で語るような用語(例えば「倒錯」)に閉じ込めるのではなく別の言葉で語ることはできないのだろうか。子供と大人の区別は重要だがそれで誤魔化されてきた部分に注意を向ける必要も患者たちが伝えてくれているのではないだろうか。

また助走みたいな文章になってきたのでここまでにしよう。いつまで助走なんだかと思うが特にゴールがあるわけでもないのだから今日もこんな感じで歩いたり走ったり立ち止まったりしようと思う。