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症例検討とか。

暑い。フルーツで水分補給したいが時間がなかった。週末はいろんな人の症例から学んだ。小さいグループでやっている会はかなり密な議論ができる。精神分析的心理療法は治療者の欲望が常に問われるが、それはやりとりのなかで見出されやすい。それに本人が気付けることもこういう会をやる意義になる。常に部分は全体を表してもいると考えればなにかがなされたかどうかということよりそれが全体の構造をどう描いたうえでなされたものかということのほうが大事。つまり見立てありきということになる。最近ラカンの『エクリ』を超地道に読んでいるがラカンの症例提示の仕方は普段私が経験しているものとは全く異なる。こういう考えのもとにこう見立てているということがわかるようなわからないようだが少なくとも治療技法に結びつく治療態度ははっきりしている。ビオンのグリッドで説明されるよりラカンの欲望のグラフのほうが臨床態度を含み込んでいて有用と感じる。もちろんこれはちょっと勉強すれば「使う」類のものではないかもしれない、と思い当たるが考えることを促してくれる力がある。この、考えることを促されること自体にたいていの人はかなり防衛的になるので治療者同士のやりとりで治療者の欲望が現れやすいのは当然といえば当然だろう。

しかし暑い。身体に悪い。東京都のトップは変わらなかったがボトムアップであることを考えれば私たちができることはなくはない。がんばろう。

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早朝、à la lettre

鳥の声よりエアコンの音をきく早朝。昨日の雷はすごかった。オンラインミーティングの向こうの空は何事も起きていないのに私は雷と雨の音に気を取られながらミュートし画面からの音声に耳を傾けていた。この状況で聞く話は私にどんなバイアスをもたらしているのだろうと思いつつ。大事なお話を終えて「東京、今、雷がすごい」といったら驚かれた。その後すぐに別のミーティングのために外に出た。新宿駅が冠水?床が水浸し。ここで転びたくないなあ、とそろりそろり歩いていたら隣の人が滑った。ビビった。うまい具合にとどまり後ろを歩いていたお連れの人と笑いあってた。よかった。地下鉄に入ると地下なのにさっきの冠水はどこへ、という様子でいつも通り乾いていた。東京の地下鉄は水害対策がしっかりしていると前に何かで読んだ。いろんな仕組みに驚いた。が、どこまで人間は自然の力を押しとどめることができるだろう。大抵の場合、無力、ということを私たちはすでに知っているけれど。それでも被害はできるだけ起きないでほしいし、起きたらすぐに、長期に支援に入ってほしいし支援したい。

なんとなく書き始めたらずっと書き続けてしまいそうな感じだがさっきまで何を着たらよいものか、と思いながら冷蔵庫を開け、夜に食べるつもりだった酒のつまみみたいな作り置きおかずを食べてしまった。美味しかった。キッチンの排水溝を急に掃除したりプチやる気が出たかと思えば無駄にリビングをウロウロしてしたりしていた。ふむ、となんとなく引き出しを開け、汗をかいても快適そうなスポーツ系ワンピを被った。今日も意識して歩こう。この環境に慣れていかないと夏を越せる気がしない。だったら早く出ればいいのだがやはりすでに強い日差しに怖気付いている気もする。時間はまだある。いつもなら本を読み始めてしまうがそういういつもの動きが今日は出てこない。何やってんだ私は、と思っているうちに結構時間が経っていることに気づいた。ちょっと正気に戻った。昨日、ミーティングの後に自分が話したことの重みに自分がやられてもいるのだろう。でもおかずは美味しく食べられたしな。いろんなことは両立する。でも朝なんだから送ってきてもらった果物にすべきだったな、と今は思う。さっきまでなんかおかしかった。夜がまだ続いている感じだったのかもしれない。遅くに帰ってきてなんとなく辻村深月の短編集というのか、あまり短編でもないが『ふちなしのかがみ』を読んでいたらもっと遅くなってしまった。それでもいつも通りに起きられるようになってしまった。長い間、目覚ましはかけてない。二度寝する気に満ちている時はかける。それにしても辻村深月は鏡を使うのがうまい。子供の世界を描くのがうまい。これ読んでいたからなんかおかしいのかもしれない。

昨晩、人文書院から『後期ラカン入門』がポストに届いていた。雨に濡れていない。遅い時間に届いたらしい。訳者のおひとりがお薦めしてくれて「あれ?持ってないんだっけ」と本棚をチェックしたらなかった。Amazonをチェックした。「あれ、こんな高いんだっけ」とポチッとするのを迷った。出版社のサイトを見た。「あれ?高いは高いけどAmazon高すぎない?」と思ったら古書だった。気づいてよかった。出版社から送ってもらうと送料がかかるが精神分析の本は最近の本屋さんでは買えなくなってしまった。本当に本当に減った。ジジェクは売っているが臨床家はジジェクを参照しない。読み物としては面白いが。人文書院のウェブサイトから申し込んだら数時間後には配送のお知らせがきた。早い、とびっくりしたらそのすぐあとにSNSで出版社の人がこの本の品切れを呟いていた。おお。いろんな仕事が早い。フィンクの入門書はわかりやすいがラカンを読まずには読めない。『「エクリ」を読む』をエクリを読まずに読んでわかる人っているのだろうか。なんとなく理解はできるが実際にエクリを読みながら読むと「これ、à la lettreじゃなくない?」となる。でもこういう循環が作られているのがいい。そしてラカンはフロイトを読まずして読めない。結局フロイトに戻る。いいなあ。文化を繋ぐこと。考えよう。がんばろう。今日もちょっと勉強しよう。

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7月6日(土)朝

ゴミを捨てに行ったら隣のマンションの人が多分コンビニから戻ってきた。みんな朝早いね。夜が長い、これから寝る、という人もいるのかな。部屋が涼しくなってきた。この部屋のエアコンは効きが悪い。昨年から壊れているのかもなぁ、という気配を感じるけどこのくらい機能してくれるならまあいいか、という感じもして使い続けている。エアコンは高いからね。リビングのエアコンは全く機能しなくなって取り替えた。これもなんかAIが喋るのが嫌なんだけど効き目はすごい。しっかし、色々高すぎて嫌になるね。

マルグリット・デュラスがエクリチュールの可能性について話しているインタビューを読んだ。『愛人 ラマン』L’Amantが1990年。シリル・コラールの『野生の夜に』Les Nuits fauvesも同時期では、と思ったら1992年。同じ人と見に行った。これらでフランス語を勉強するのもいいかもしれない。ロマーヌ・ボーランジェがとってもかわいかった。デュラスの『陰画の手』les mains négativesは十川幸司先生が岩波の『思想』で書いた文章と素材が一緒。続きが読みたいわね。ふと目をあげたら『星の王子さま』が目に入った。最近よく会うわね。毎日いる部屋なのにそこにいたのね。オフィスのカレンダーが安西水丸なんだけどなんと7月はLe Petit Princeの本が書かれていた。7月はフランス語の月なのかしら。いや、星なのかしら。これもシニフィアンの「横すべり」の例になる?だったら私は再現なくこうやって遊べてしまう。この前みたケラリーノ・サンドロヴィッチ主宰、ナイロン100℃、結成30周年記念公演第二弾『江戸時代の思い出』がは精神分析の言語(フロイト&ラカン)に関心のある人には特にみてほしいのだけどこの「横すべり」が見事だった。北山修先生がメインで使う日本昔話が出てきたシーンも笑った。誰もが知っている物語はどんだけスピードあげて使用しても力があるし、そのスピードの変化で物語の質が変わるのも面白い。ほんと言葉だけで永遠に遊んでいられる、とか思う人が精神分析家みたいな特異な職業につくのかしらね。私は特にほかの持ち物がないけど言葉が面白くてしかたないからそんな卑屈にならないですんでるのかもしれない。ありがたいことじゃよ。今日も暑そう。東京の人は選挙行こうね、暑いけど。がんばろう。

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ラットマン症例

暑い。が、お湯を沸かす。エアコンもつけた。プチ二度寝したがまだ早朝。昨日は自分の勉強をする余裕がなかったのでフランス語のラジオを聴き逃しで聴いている。

夜にはフロイト読書会もあった。使用したのは岩崎学術出版社から出ている『フロイト症例論集2 ラットマンとウルフマン』。今回はラットマンの「Ⅰ病歴の抜粋」の最後の20ページほど。論文名は「強迫神経症の一症例についての覚書」。ラットマンことエルンスト・ランツァーは1907年10月1日にフロイトとの治療を開始した。翌年、Informalではあるがはじめての国際的なコングレスが開かれ、フロイトはこの症例を発表している。場所はオーストリアのザルツブルグ(Salzburg, Austria)。

”Apart from this momentous decision, the most notable event at Salzburg was Freud’s presentation of the case of the Rat Man; this aroused so much interest that he was persuaded to extend it to more than four hours.”

ということでこの症例発表は大変盛り上がったらしい。いいね。日本の協会でもこういう会合してみたい。

この症例が出版されたのは1909年、IPA設立は1910年である。

フロイトが少しずつ人を集め、Psychological Wednesday Societyを経て、ウィーン精神分析学会を作り、IPAとなっていくまでの経緯はIPAのこちらのサイトに書いてある。動画ではフロイトの声も聞ける。1908年までに初期の著名な精神分析家は出揃っている感じがする。W.Stekel(1868‐1940),Carl Gustav Jung(1875-1961),Alfred Adler(1870-1937),Ernest Jones(1879-1958),Granville Stanley Hall(1844-1924),Ferenczi Sándor(1873-1933)など。

フロイトがラットマン症例をどのように発表したのか調べていないが本で読んでもこんがらがる話を聞くのは大変だったのではないだろうか。4時間を超える議論の内容も知りたい。フロイトは『夢解釈』において精神分析における言語表現の解読方法を開発しており、この症例理解にもそれが活かされる。この症例が示す愛と憎しみ、能動、受動、サディズムとマゾヒズムの反転は素早く性愛化された空想として言葉にされるが行動としては不活発だ。ラットマンは亡霊として死んだ父を呼び戻し自分と対峙させ見る見られるの満足を得る。その快はいつまでも同じパターンをたどり軌道を外れることがない。それこそが快であるが苦しみでもある。この症例は症状の消失という意味では良くなったと言われているが果たして、という疑問が残る。ラットマンは戦争で死んでしまったのでその後を知ることはできなかった。これだけの空想を持った人が戦地でどのような体験をしたのか、その体験をどう経験したのか、と考えると気が重い。私たちはいまだにこうして彼から学びを得ているわけだがそれが彼に対して何をしていることなのかということも考えさせられる。とにかく消費でない学びを続けよう。今日もがんばりましょう。

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境界とか存在しそこないとか。

暑い。すごい陽射し。眠い。今日はどんな1日になるのだろう。

いろんなことは起きてから考えればいいかと思うが考えて対処できるならしておいた方がいい、とも思う。しかしその対処が必須なのかしなくてもどうにかなるものなのかの境は難しい。境といえば最近境界例をétat limiteというと書いたけどその前にもフランス語のlimitéは境界で訳されることが多いのか?と思うことがあった。もちろん文脈にもよるだろうけど境界ってぶち当たる感じが弱まる言葉だと思う。でも実際、いろんな境界は曖昧だからただ線をひくみたいな言葉のほうがいいのかもしれない。精神分析で難しいのは境界という言葉が中間的なものを想起しやすいことだと思う。フランス精神分析における境界例は中間という意味は含まないといちいち書かれている印象がある。最近はラカンづいていてエクリも英語とフランス語で勉強してる。そこにmanque à étreという言葉がでてきるのだけどこういうのをきくと「おー、フランス現代思想」と思ってしまう。フランス語も現代思想も中途半端にしか知らないくせにイメージって不思議。「存在しそこない」と訳す。ネガティブなほう、不在のほうを強調するのがそれっぽいと思ってるのかもしれない。たしかにこれは必要かどうかを考える場合、そういう側面を意識しないと盛り込む方向になるのでシンプルに考えていきたい。

それでは熱中症に気をつけて一日無事に過ごしましょう

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ワイン紅茶、医薬分業、『星の王子さま』

今年もブルーベリーをもらった。ブルーベリーは食後に食べるのが効果的だそうだが朝イチで食べてしまった。爽やか。ハーブティーもレモングラスだから爽やか。そういえばこの前、ワイン紅茶をもらった。宇都宮市のお茶専門店y’s teaのEncore bis。アンコールビスと読むそう。なんとこれ、同じく栃木県の足利市にある有名なワイナリー「ココファーム・ワイナリーの赤ワインに用いた高級ぶどうを、栃木県宇都宮市の福祉法人しのいの郷のマイスターが 長時間じっくりと乾燥してドライレーズンに。 そのぶどうと相性が良く、水色もワインをイメージさせる紅茶をY’s teaが 厳選し、独自の製法でハンドブレンドで仕上げた紅茶」とのこと。いろんなところがこうやってつながってるのね、すごい。y’s teaの紅茶は宇都宮の人がよく買ってきてくれるのだけどどれもとても美味しい。こうやって驚きもくれるし。

この前、医療従事者同士でおしゃべりしていて医薬分業からもう50年だよと言われて驚いた。私は大学院生のときにクリニックでアルバイトをしていたのだけどそこはまだ院内処方だった。「院外処方」が珍しくない今、「医薬分業」という言葉に重みを感じた。私は心理士でもあるけど精神分析家として開業している意識が強いので何かと分けられる以前に独自すぎる学問と実践に浸かっている。内実はいろんな学問領域のハイブリッドなんだけど業務を分けることはできない。昨日書いたフランス精神分析の本の執筆者のひとり、Pierre Fédida(1934-2002)は精神科医でも心理士でもなくドゥルーズの影響を受けて精神分析家になった人だけど「なる」という作業はどうしても大事。そういえば昨日、フランス精神分析でいう「境界例」はそれまでのパラダイムに変更を迫るものだったみたいなことを書いたけどピエール・フェディダは「いかにして精神分析から脱するのかではなく、いかにしてフロイト主義から脱するかという問題」と書いている。後半は点で強調されている。フロイトに還ること。「フロイト主義」から脱すること。フランス精神分析は本当に筋が通ってる。

「星の王子さま」で勉強しようとしたら「星の」は日本独自訳だった、ガーン、と書いたけどAntoine de Saint-Exupéryの”Le Petit Prince”はフランス語のテキストにも名言として引用されていたりする。たとえば

On ne voit bien qu’avec le coeur. L’essentiel est invisible pour les yeux.

確かに。知ってるぞ。この作品がテキストとして使われるわけだ。でも私はとりあえず読む必要があるフランス語で勉強。隙間時間にやるから一文読んでおしまい、ということもあるけど一文に対してもあれこれ考えるので悪くないかな。今日もがんばりましょ。

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フランス語の勉強とか。

早朝はまだ耐えられる涼しさ。涼しさなら耐えられるか。耐えられる暑さというべきか。まだランニングができる。ブログなんて書いている場合ではない。涼しいうちにやることをやらねばもったいない。若い頃は5時起きで走りにいったりもしていたが今は頭で思うだけで実際はダラダラこうしている。

フランス語の勉強を始めて最初はもっと堅実にと思ったけど最初から文献を読んでしまっている。NHKの「まいにちフランス語」は初級文法なのでそこで基礎固めしつつひたすら辞書をひいている。精神分析家になるために時間もお金も費やしたから余裕がなくなって一度やめた。ということはもう10年やっていないことになる。フランス人の先生に英語でフランス語を教わっていた。子供用教材で数とか色とか身近なものの名前を教えてもらうところからだった。先日聴き逃しでNHKの講座を聞いていたら前置詞の勉強で地図を書く課題があって、あれは楽しかったな、と当時の課題を思い出した。いつもの文献をフランス語で読むのは難しいが英訳されたものでも難解で、さらにそれを自動翻訳で読むともっと訳がわからなくなる。そうやって時間がかかるなら最初から取り組んでしまおうと思った。フランス精神分析が独自の道を行ったのは精神分析における言語の使用という問題から離れないからだと思う。今はアンドレ・グリーンのla position phobique centraleに関する論文を読んでいる。

la position phobique centraleとは j’entends une disposition psychique de base,qu’on rencontre souvent dans la cure de certains états limites.

Les états limitesは境界例のこと。その中心をなす恐怖症について。

フランス精神分析には独自の鑑別基準があるが境界例はそれらとはまた異なるものとして精神分析実践を通じてパラダイムの変更を迫ってくる。境界例についてはアンドレ・グリーンを含むフランスの高名な精神分析家たちの講演録をもとにした”Les états limites -Nouveau paradigme pour la psychanalyse?”という本が『フランス精神分析における境界性の問題 フロイトのメタサイコロジーの再考を通して』という翻訳で出ている。アンドレ・グリーンの境界例概念はそこで確認することができる。

執筆陣はJacques André(APF/IPA),Catherine Chabert(APF),Jean-Luc Donnet(SPP),Pierre Fédida(APF),André Green(SPP/IPA),Daniel Widlöcher(APF/IPA)。すでに亡くなっている人たちも。大御所揃い。

以下、星和書店Webサイトを参考に。リンク先は私用メモを兼ねて。

『フランス精神分析における境界性の問題─フロイトのメタサイコロジーの再考を通して─』も読めるようになってきた。

・1996年11月~1997年5月
・ジャック・アンドレ主催、サンタンヌ病院でのセミネール
・目次は講演順、演者による加筆修正あり

第一章 唯一の対象
──ジャック・アンドレ
第二章 境界例の生成と状況
──アンドレ・グリーン
第三章 境界例は精神分析家にとって夢の患者なのか
──ピエール・フェディダ
第四章 境界例における分裂(clivage)と幼児性欲
──ダニエル・ヴィドロシェ
第五章 境界性機能様式:いかなる境界か
──カトリーヌ・シャベール
第六章 境界性患者、境界性状況

──ジャン=リュック・ドネ

翻訳で読んでいてもそれぞれの言っていることや表現の仕方が全然違うのだからフランス語で読んだらどんな感じなんだろう。フロイトを読んでいると翻訳で読んでいても「フロイト先生、またこんな言い方してる」とか思うわけだがユダヤ人のジョークやドイツ語ならではの表現を理解できたら別の読み方も現れてくるのだろうと思う。ということで今日も地道にがんばりましょう。いいお天気すぎるから熱中症に気をつけましょう。

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雨、蟻、岡田一実『醒睡』

窓の内側に染み込んでくるような音で雨が降っている。ヒタヒタヒタヒタチャプチャプチャプチャプチャプ。警報が出ている地域の被害が広まりませんように。水害のあと、その土地に立った観光客の私は立ち入り禁止の札やロープや抉られたり削られたりした大地をどう感じていいかわからずただ足を止め言葉をなくした。地元の人から話してくれる話もあった。思い出されるたび衝撃を受けるのは目があった直後にカーテンが閉められたあの瞬間だ。大きな家の窓のカーテン。昼間だった。そばには明らかに地形が変わった痕跡がありロープがはられていた。あの人は一人暮らしだろうか。とても申し訳ない気持ちになった。そんなこと思うならそこ歩くなよということかもしれないが知らなかった。一度ゆるんだ大地にまた大雨が降る。それを想像するだけで怖いし胸が痛い。

小さな蟻が今年も出たと書いた。少数でも侵入されている感覚は強く夢にも何度も出てきた。少し雨の大雨の日、蟻の巣が崩れるのを私は想像した。彼らの巣は相当頑丈で雨対策もしっかりしてると聞く。それが崩れるということは私たちも危険ということかもしれない。そのくらい私は彼らの侵入に無意識に追い詰められていたのだろう。追い詰められ攻撃性が蠢き自分の手を使わずに何かが起きてくれることを願うような心性は誰にでもある。大雨の翌日、一匹の蟻をキッチンで見かけた。あっさり駆除した。今の私の目は死んでいるだろう、と思った。それ以来、蟻を見かけなくなった。その前から少しずつ見かける量が減ってきた気はしていた。元々列をなすような数でもなかった。様々な対策の効果がでたのかもしれない。私は今この雨の音を聞きながらまた想像する。蟻の巣が崩れるのを。そしてまた死んだ目になる。

昨晩、ネコポスで岡田一実の句集が届いた。前もって配達完了のお知らせがきていたので家に近づくにつれポストを開けるために足が早くなった。こんな距離を急いだところで何も変わらない。しかも封を開けて確認したらビニールに入ったままのそれをPCの横に積んだままあと数分で終わる大河ドラマを見てしまった。さっき蟻の巣が崩れるのを想像したと書いたあとビニールの中の表紙を見た。ドキッとした。水滴?滲んでいる?慌てて取り出す。白い表紙をそっと撫でる。浮き上がってる。水が滲んだままの形が。よかった。私の意地悪な心がこんなところにまで雨を降らすようなことがなくて。それはすでに涙がこぼれ落ちたような跡にもみえた。昨日は出先で強めの雨も降った。それも気になっていた。ポストから出したときに濡れていないことを確認した。当然中身が濡れているはずもなかった。なんとなく雑に放置したことや蟻に対する仕打ちが小さくない罪悪感を生じさせているらしかった。岡田一実の新句集『醒睡』はベルクソン研究者の平井靖史さんが帯を書いているとのことでなおさら注目していた。俳句よりずっと長い文章で綴られた帯文は丁寧で美しかった。そして句集はブランショの引用から始まる。開いてみる。今の私に飛び込んできた一句がこれか、と苦笑いする。

食み殺しつつ白魚の句を数句

中途半端に心揺らしいつまでも想起に胸締め付けられる私にはもつことのできない境地で正確に言葉を紡ぐ著者から多くを学ぶだろう。この滲みが雨でも涙でもなくてとりあえずホッとしたところからしてすでに。

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エクリとかRSEとか。

この前会ったばかりの友達の夢を見た。眠い。カラスの声は意識に近いのに鳥の声は意識してはじめて聴こえる、という程度に眠い。

ラカンの『エクリ』の英語版を読んでいた。訳はブルース・フィンク。ラカン派精神分析の最も優れた紹介者であり、『「エクリ」を読む 文字に添って』という本は日本語にもなっている。フィンクの本の翻訳はどれも優れている。精神分析実践を伴わない人文研究者たちによる訳が多いがラカンは哲学者でもあるから精神分析実践だけでは逆に訳すことができない。彼らなら『エクリ』もフランス語から日本語へ訳せるのだと思うけど新訳が出ないのは何か事情があるのだろうか。フロイトの英語版新訳もMark Solms版がようやく出版。24-volume Revised Standard Edition of the Complete Psychological Works of Sigmund Freud. RSEと略される。改訂前のJames StracheyによるStandard Edition(SE)に対してはいろんな人が色々言ってきているがこうして改訂版が出たことで逆にストレイチーが評価されるという動きも出てくるだろう。批判するのは簡単だが比較対象があるとよりその幅は広がるし私たち読者にとっても良いことだと思う。RSEには、SEに含まれていなかった56のエッセイと書簡も収録されているとのこと。それも楽しみ。電子版は出るのだろうか。フロイトとかラカンは読み継がれるものだから電子版にしてほしい。

フランス語の勉強も細々と始めて細々と4日間続いた。やっぱり『星の王子さま』からかな、と思いYouTubeで見られる講義を聞いてみた。原題を意識してみればすぐ気づくはずだが「星の」は日本語訳オリジナルだった。ガーン.気づいていなかった。そんなことにガーンとなっていて全然進む気配がない。やり方を変えねば。

今日は少し涼しい?今だけ?どうぞ良い休日を。

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お互い様。

メロンをいただいた。とってもジューシー。美味しい。今週は果物とクッキーに恵まれた週であった。幸せ。

メールアドレスやLINEで繋がる時代のわたしたちではなかった郵送時代の私たちと言ったら言い過ぎだけど、同窓会に登録されているのは住所のみ。なので昨年集まれる人で集まったときにオープンチャットやLINEグループを作ったのですよ、というお知らせを郵送で送った。もう住所もわからない人もいるけど61人に送った。封筒にシール型の住所を貼って、自分の住所のハンコを押して、中身を入れて、封をする。そして名前を照合して名簿にチェックを入れる。これだけの作業なのだけど結構大変でちょっと立ち寄った先で手伝ってもらった。二人だとあっという間に終わった。たくさん笑った。こういう単純作業が得意という人もいるけど私にとっては全然単純ではない。シールを貼るのもハンコを押すのも気を抜くとすぐ結構な斜めになるし、封をするときも折線通りにきれいに折れなかったりする。プリントアウトした名前と封筒シールの名前の照合は一人だと人より時間がかかる。行がうまく追えないからその工夫はしてるけど。リーディングマーカーみたいのを当てながらやるにしても時々ずれる。二人だと一人が読み上げて一人がチェックであっというま。もちろん私はシールの名前を読み上げる方。読み上げた名前をパパパッと見つけてチェックを入れていく速度にも個人差がある。知能の分類でいう処理速度というやつ。私は数値は平均的だけどこういうのは処理の対象によって変わるから。私だって封筒の種類によってはささっと上手に折って、貼る、というのができることもある。でもこうやってできない人って本当にいるんだよ、ということを強調したい。私みたいに子供の頃からできなくて、家庭科の先生にはふざけてると疑われ(不器用なのはふざけているせいではなかったけど確かにそう思われても仕方なかったという面はある)いい加減できなさを認識している人はそこにかかる時間とエネルギーを計算してすぐに人に頼れるからいいけどそういう環境にない人だっているわけでしょ。職場が怖い人ばかりとか。どんな形だって助けた方がお互いのためだと思う。大抵は別のことで助けられているものなんだからいろんなことはいずれお互い様となる。昔「あみさん、これだと売り物にできないから」と至極真っ当な理由で別の仕事を割り当てられたことがあった。助かった。アイスの盛り付けがうまくできなくて「それはあみはやらなくていいよ」と店長に言われたときは悲しかった。かっこいい盛りつけ方でやってみたくて練習したのだけどかっこいい盛り付けだから人気があるかもしれないのにそれができないんじゃしょうがないよね、と思いつつしょげた。慰められた。でもほかにやるべきこと、できることもたくさんあった。今回の作業は特に得意なことはなかったけどこういう一個一個の苦手さや得意さでお互いを補いながら自分や相手の癖を再認識すること自体も面白くたくさん笑った。相手が楽しそうだと私もありがたく嬉し楽しい。社会人になって最初の職場だった教育相談室でのことを思い出した。そこでの先輩たちがこういう作業を本当に楽しく一緒にできる人たちだった。今思えば上司に叱られるのも無理がないか、というくらい遊びながらやっているようなところがあったけど私以外はこういうのを単純作業として素早くきれいにできてしまう人たちだったからとても助けられた。いろんなことを教えてもらった。NPOのみんなもそうだった。おかげで私は事務作業が本当に苦手だけど嫌な思いをあまりしたことがない。その感じを思い出して「最初の職場がこんな感じだった」と言ったら「それは恵まれてる。よかったね。」と言われた。ほんと恵まれてた。先輩たちとは今も仲がいい。もう20年以上経つ。普通にお互い様をやっていこう、今日も。がんばろ。

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オグデンとかグリーンとか精神分析。

雨がしとしと。今日は梅雨っぽい。梅雨は1日単位のものではないはずだけど。窓を開けたらカーテンがゆっくりふんわり膨らむくらいの風が入ってきた。

アメリカ西海岸の精神分析家、トーマス・オグデンの本を読んでいた。オグデンは私の愛読書だったがここ数年そうでもない。もちろん新刊が出れば買うし、最近は翻訳される前に読む。私ももうそこそこ歳なので翻訳を待つ余裕はないし書かれた言葉で読んでいきたい気持ちは強くなる一方、ということでフランス語の勉強だって再開した。オグデンは英語。オグデンをそんなに良きものとして読まなくなったのは精神分析を受けた影響が大きいと思う。オグデンの臨床素材の描写は非常に的確で、私も今や実感を持って書かれたことを体験することができる。

今回読んだのは昨年から私が理解したがってるわりに理解が進まないアンドレ・グリーン(André Green)の仕事に敬意を表して造られたThe Dead Mother: The Work of André Green に収められたオグデン。

Ogden, T. H. (1999) Chapter 6 Analysing Forms of Aliveness and Deadness of the Transference—Countertransference. The Dead Mother: The Work of André Green 36:131-150

ちなみにこの本はThe Greening of Psychoanalysisの編者の一人、Gregorio Kohon編。第一章はKohonのThe Greening of Psychoanalysis: André Green in Dialogues with Gregorio Kohon。あとはMichael Parsons、Arnold H. Modell、Christopher Bollas、Jed Sekoff、Thomas H. Ogden、André Lussier、Adam Phillips、Rosine Jozef Perelberg、Martin S. Bergmann、そして最後はChapter 11 The Intuition of the Negative in Playing and Reality by André Green. 序文はR. Horacio Etchegoyen。

ここまで書いてこれ翻訳が出てたかも、と思ったら別の本だった。『精神分析のパラダイム・シフト』。マイケル・パーソンズとペレルバーグはどちらにも書いている。だから何というわけではない。こうしてメモしておくと引用するときに役に立つかなくと思ってなんとなくしてしまう。

オグデンの論文は『もの想いと解釈  人間的な何かを感じ取ること』(T.H.オグデン著、大矢泰士訳 / 岩崎学術出版社)に入っている。「第2章「生きていること」と「死んでいること」:その形を分析する」という論文。4人の患者さんが出てくる。臨床場面の描写で精神分析とはどんなものかを伝えてくるオグデンはやはり好きだし、私も書くならそうしたい。でも最初に書いたように精神分析を受けたこと、しかも精神分析家になるということがその目標として加わったことで理論の方にうるさくなってしまった。以前はもうこれだけで何かわかったような気になっていたというよりむしろ何かをわからないことの大切さ、みたいな感じでどちらにしてもわかったような気分になっていた。今はそうもいかない。グリーンに対してしつこいのはグリーンのフロイト再読と脱構築(なのかな)は私が精神分析臨床から学んでいることを他の人より言語化してくれているように感じるから。オグデンの「分析の間主体的な第三者」という考えも以前はそう感じていた。でも今はこれは後付け的概念に思うようになってしまった。ああ、以前好きだったものに批判を向けるときのこの罪悪感はなんだ。向こうは私がどう思おうと何も気にしないに違いないのに。ファン心理とはそういうものか。私はもう精神分析のただのファンではなくなってしまった。内側でそれをそれとして体験する立場になるとそんな呑気ではいられない。ちょっと寂しい。でもがんばる。なにを。とりあえず今日を。雨は東京だけ?みんなの空はどうかしら。どうか元気で。

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人もミミズも。

きれいな声の鳥。左耳で聞いていたらカラスの声が両耳に入ってきた。ハーブティーを入れた。少し冷ましてから飲む。美味しい。氷を作っておく習慣がなくなってから久しい。今年も麦茶を作って冷やしておく季節がやってきた、と思ってからもそれなりに経つ。だってまだエアコンをつけず窓を開けたままでもこうして温かい飲み物を楽しめてしまうから。昨晩は風がとても気持ちよくて色々な窓を開け放していた。フランス語の勉強を始めたらまたOS混乱みたいになって処理速度がグッと落ちた。しかしそのせいか、ずっと取りかかれずにいた同窓会幹事としての事務仕事を淡々とできた。一年前にやるべきことだった。文面の確認をしてもらったのが年明け。あとは印刷して封筒に入れて住所書いて郵送すればいいだけだったのにちょっとこだわっていたらどんどん時が過ぎてしまった。真夜中にだいぶ進んだので今日の隙間時間でようやく仕上げられそう。切手代が相当かかるからそれをどうするかはみんなに相談してみよう。秋にはみんなで集まれたらいいな。

昨日、内藤礼の展覧会のことを書いたけどあとから資料読んだら東京国立博物館でやることに意味があったらしい。私はその意義はあまり感じなかったな。というより最初の展示室に入る前に個別に注意事項を確認されるのだけど作品のためという感じは全くせず人に対して何かを伝えるというよりとりあえずチェック事項全部こなす感じでなんだか調子狂って嫌だった。豊島美術館のように場所とともにあるという感じではなかった。係の人はやるべきことをやってるだけに違いないけど。私も展示室に入ったら忘れたし。八戸市美術館でもそういうのが必要な展示があったのだけどそこではワクワク感が募った。こういうのもコミュニケーションだと思うし、作品へのリスペクトと繋がっていると思う。やや不愉快な気持ちのまま細長い展示室を抜け、常設展示がされているガヤガヤしたスペースを抜け、大きい方の展示室に入って感じたのは人の動きも作品の一部になるということ。いろんな人が静かにゆっくりした動きで作品と関わるのをスッと引いた視点で眺めたときに「ああ」と思った。私たちも自然の一部なんだなあ、同じ空に抱えられながらすれ違い同じような景色と出会ってでもそんなことほとんど意識も共有もせず毎日過ごしているんだなあと思った。人の蠢きを思い出しながら最近何度かみかけた大きいミミズを思い出した。我々の始祖たるミミズ(大きくみればそうだよね?)がアスファルトで焼けつかないように耕せる土地を残していくことと人と丁寧に関わることは同じものとして、もともと我々に備わっているものとして身体感覚として思い出していきたい。適当な繋げ方をしてしまったのはもう時間がないから。そんなではいけない。まあ、がんばりましょう。このあとは暑くなりそうね、気をつけましょう。

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内藤礼、想起、問い、対話

鳥の声が除湿のブオーという単調な音のせいで遠い。でも除湿のおかげで涼しい。なんでもかんでもは手に入らない。昨日、なんか私には自然が足りない、と書いた。そこで突然上野へ出向いた。東京国立博物館で内藤礼の展覧会が始まったからだ。自然があった。ああ、自然ってこういう形で体験できるんだった、という静かな喜びと驚きに浸された。作品の中に座りながら、立ちながら「豊島美術館みたいだ」と思っていた。もう何年も前になるが小豆島と豊島へ行ったときに寄った。フェリー乗り場のそばで自転車を借りたが電動はすでになく坂道は引いて登るしかなかった。苦痛で楽しかった。時折、なにかおかしなことが起きてゲラゲラ笑った。広大な自然の中なんだか自分たちがえらく間抜けに思えたのだろう。汗だくでたどりついた豊島美術館の中に入ると虫穴に帰ってきたような安心感を得た。その穴は広く静かで空が見えた。ひんやりした床に寝そべって少し眠った。いや、結構眠った。あの夏の日の感覚を上野の一室で思い出した。同じ作者なんだからそりゃそうだろうという話だが、内藤礼と豊島美術館は私の中では全く繋がっていなかった。想起というのは不思議なものだ。こんな形で自然を体験できる、と私が感じたのが私が実際に豊島へ行ったからなのか、行かなくても感じられたのかはすでに行ってしまった私にはわからない。行っていない場合には行っていないからわからないとなる。どっちにしてもそんなことはわからない。この仕事をしているとこういう問いの立て方を患者はよくする、というよりそうしていることに意識的になりやすい言語的なやりとりが行われている場なのだろう。わからない、としか言いようがないことを問う。問う。わからないと知る。わからないと知っているのに問う。その繰り返し。問いと答えは対ではない。それが対だとしてもその部分だけ抜き出してもその人が、あるいはその人たちがどんな思考の場にいるかわからないだろう。それは対話の中にある。今は「対話」という言葉がやや教育的というかイベント的な意味を持つようになったと感じる。しかし問いと答えに終わりがないようにそれは有限であり有限ではないものなのでみんなで輪になって行うものは少し違うのではないかという気がする。プラトンの書いた『饗宴』みたいな飲み会スタイルで生じる対話はそれらしく感じる。昨日パラパラしていた『木村敏対談集2 臨床哲学対話 あいだの哲学』(青土社)の対話はよかった。木村敏が臨床医であることから降りないというより降りることはできないほどに臨床医として言葉を使っているところにとても力を感じた。最後の村上陽一郎との対談はなんだかな、と思いながら読んでいたが木村敏は上品で受け身がうまくてそのあたりも臨床家だなと思った。浅田彰はここでも切れ味が素晴らしく楽しく読んだ。こういう対話を延々と続けていけたら楽しいけど終わりがあるとわかっているからいいのだ、きっと。しかしいずれ誰にでも終わりが来るのだ。だからやりたい人はやればいいしやりたくない人はやらなければいいという結局は欲望の問題かもしれない。私はもう行かねばらならない。私にはリミット必要。今日もがんばだ。

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オラニエのピクトグラム

昨晩は寝苦しかった、というよりなんとなく読んでいた本を訳しはじめてしまい寝るのが遅くなった。除湿をかけてお布団を軽く身体の一部に乗せるように寝た。途中少し寒いなと思ったけど止めるのが面倒でそのまま寝てしまった。なんとなく喉が痛いような気もするがそうでもない気もする。キウイを食べた。最初より少し熟してきたらしい。

読んでいたのはまたまたフランスの精神分析家、Piera Aulagnier(ピエラ・オラニエ1923-1991)の最初の著作“The Violence of Interpretation: From Pictogram to Statement. “ (1975)。毎回わざわざ「フランスの」と書くのはイギリスやアメリカとの違いが顕著だから。日本はオーソドックスにやっている立場だと思うけど集団として小さすぎて比較対象にはならないかな。このeditionの序文はJoyce McDougallとNathalie Zaltzman。最近、読み終わったマクドゥーガルの著作”The Many Faces of Eros A Psychoanalytic Exploration of Human Sexuality”は構成から不思議な読み物だった。彼女の誠実さは大変よく伝わってきたが。さて、この序文で二人はオラニエの簡単な個人史と重要な概念を紹介してくれている。

そこのThe pictogramをチェックした。先日、アンドレ・グリーンの論文でビオンのピクトグラムの概念が取り上げられていた。私はアントニオ・フェロがその概念を展開していると思うといってその場で先生も少し調べてくれたのだがそこではよくわからなかった。ただナラティブの方に目線を向けているフェロの考えはビオンの応用ではあるかもしれないが基盤を共にしているとは個人的にはあまり思えない。いや、ここではフェロは関係ない。ただ、グリーンがビオンのピクトグラムに興味を持っているとしたらその方向ではないと思う。ではどのあたりに?そもそもピクトグラムというのは精神分析用語ではなく、前言語的な表象不可能なものの表象のことを言うのに適していたのだろう。私はオラニエをきちんと読んでいないにも関わらず、なぜオラニエがピクトグラムのことを書いていると思ったのだろうか。以前、これまたグリーンの「私」概念がオラニエを参照しているのでは、と思いパラパラしたからそのときに目に止まっていたのかもしれない。視覚情報は言語化される以前のものが多くなる。ピクトグラムはその中間のようなものと理解している。で、またざっと訳してみたはいいものの、私の英語力がないのか、オラニエだからなのか、フランス精神分析だからなのか、フランス語から英語への翻訳に関する問題なのかわからないが、内容がわからない。なんとなくこういうことを言いたいのだろう、ということはわかる。しかし何を言いたくてこれを言っているのかがわからない。なので本文を読まねばならない。というか読むために買ったのだらから読むべきだろう。そうだそうだ。それにしても「わからない」と言うのは楽しきことだ。私はわかりやすさに抵抗する。なんでわかったことになっちゃってるの、と思う。だから物語論が苦手。昔ははまってたのに年をとった。いや、本当に。年齢と経験は関係していると思う。特に精神分析経験に物語を持ち込むこと、あるいはそこにそれを見出すことはとても面白くなさを感じる。その点、ラカンのフロイト読解は勉強になる。そもそも転移に対する態度が異なる。私はラカンがパッと出してくる実践で生じる出来事にとても共感する、少なくとも昨日読んでいた部分は私が実践で感じていたことそのものだった。この不思議さをどう考える?と考えるのが私は楽しい。

さてオラニエのピクトグラムをJoyce McDougallとNathalie Zaltzmanが簡単に説明した部分のさらに一部をざっと訳すとこんな感じ。

「オラニエの考えでは、ピクトグラムとは、乳児の心が最早期の快の感覚という身体的経験から作り出した心的表象である。それは口と乳房の最初の出会いをモデルにしている。このように、継続的で身体的な出会いからなるピクトグラムは、いかなる語表象も欠いているにもかかわらず、将来、あらゆる性感帯とその部分対象との出会いの原型となる運命にある。絵文字的な表象は、それを構成している二元性をまったく無視していることが特徴である。オラニエは、若い成人の精神病患者たちとの長い臨床経験から、どの表象が表象そのものとして心に受け取られるかという見方をするようになった。乳児の表象能力は、心的表象を自らの自律的な動作の結果として経験する。言い換えれば、原初的な過程は、ピクトグラムという象徴様式と連動して自己繁殖的に経験される。そしてそれは、体験とそれを体験する乳児双方を含む。出会いが快と結びついているとき、その表象は、オラニエの用語で言えば、「結合のピクトグラム」である。それは性感帯とその相補的な対象(口と乳房の結合という原型に基づく)との結合を表象し、その全体は自己繁殖し、自己破滅するものとして経験される。」

こんな感じ。なんのこっちゃというほどなんのこっちゃでもないかもしれないが、なぜこの概念がオラニエにとって必要だったかを知りたい。オラニエはウィニコットを参照しているはず。私の興味はそこへ向いている。私はあまりビオンを面白く読めないのでフェロよりオラニエに来てしまったのかもしれない。イタリアにはイタリア精神分析の雰囲気というものがあるだろうし、ビオンの娘もそこで活躍した分析家だった。

そんなこんなで寝不足だ。がんばろう。

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記憶とか予言とか。

洗濯機の音。鳥の声が遠い。なんだか最近自然が足りない、私には、と思い窓を開けた。鳥の声がよく聞こえる。涼やかに鳴いておられる。涼やかに「泣く」ということはあまりないのにね、と思いながら「爽やかに泣く」はあるな、と思った。お湯は沸かした。部屋をキンキンに冷やして熱々の飲み物を飲みたいな、と一瞬思うが夏のカフェであっという間に冷えて退散する自分を思い出す。リュックにはいつも薄い上着を2枚常備、さらにいつも薄手のを羽織ったり手に持ったりしている。時々これらを全部着込んで作業をしていることがある。ここ数日やっていた翻訳(といっても下訳作りくらいの粗さ)も一気にカフェでやりたかったがなんだか先週はそういう余裕もなかった。なぜだったか。気持ちの余裕か。過ぎ去った日々は過ぎ去った日々。あとから思い出せる分だけでも、と書きながら土曜日はフロイトを読んだ。昨日はとても素敵なお祝いをいただいた、など近いところから思い出してきた。だからなに、という記憶もニコニコする記憶も思い出し笑いする記憶も色々あるな、記憶には。

アンドレ・グリーンがちょっとだけ引き合いに出した『リア王』を河合祥一郎の角川、新訳版で読んだ。訳すときもここから訳を借りた。坪内逍遥の血筋(忘れてしまったが坪内逍遥の兄のなにか。ひ孫?)。遺伝ってほんとどんな感じ?と思うがすごいことだ。グリーンは色々断片的に引用していたけどやっぱり色々なものは全体を読むに限る。『リア王』、本当に悲劇中の悲劇だと思うけど道化とか狂人に扮するエドガーとか本当にユーモラス。『テンペスト』のキャリバンとかが子どもならではの軽妙さと切実さで突きつけてくる言葉もとても好きなんだけど『リア王』はみんないい。リアやコーディーリアをどんなふうに演じるのか想像するのも楽しい。最近見てないけど『光る君へ』でユースケが安倍晴明を演じてるからこそもっと道化っぽくてもよくない?と今ふと思った。なんか割と確かな予言より予言なんてできないよということを確かに予言していくイカサマと真実の間にいるのがああいう存在として面白いのでは、と思った。安倍晴明のことよく知らないから適当だけど。

今日も苦手な作業をしなくては。思い出さなければよかった。いや、思い出せてよかった。やらねば終わらないのだから。はー、世知辛い。それぞれ頑張りましょうね。

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羽二重餅、ラットマン症例

雨。昨晩から頭痛がひどい。東京も梅雨入りしたのだろうか。ここ数年、いつのまにか梅雨入りしている気がする。雨雲レーダーの水色はきれいだけど雨は嫌。

羽二重餅をもらった。久しぶり。たぶん、子供のときにも食べてるけど自分で旅に出るようになってその土地の名産としてお土産に買っていく方になってから意識された羽二重餅のインパクトは大きかった。とてもきれいで名前とぴったりで求肥というのも素敵だった。身近に求肥好きさんがいるから絶対喜ばれるお土産にできるのも嬉しかった。東京にいれば現地で買わなくても名産品を買うこともできるがお土産というのは中身がなんであれその土地の話をセットでお土産。あれこれ選ぶプロセスも楽しいし。気に入るとデパ地下でかっちゃたりするけど。

昨晩はオフィスで開催しているReading Freudというフロイトを読む会で 岩崎学術出版社の『フロイト症例論集2 ラットマンとウルフマン』からラットマンの方を読んだ。論文の正式な名前は「強迫神経症の一症例についての覚書」。1909年フロイトが51歳の時に書かれたものだ。

以前ブログに「その後」ということでこんなことを書いていた。すっかり忘れていた。

「死に方には色々あるし、いつどうなるかは誰にも分からないけど、できたら「その後」を死以外のなにかで伝えたり、伝えられたりしたいな、と思う。」

というのは本当にそう。後世の論者はフロイトはこの治療成果に満足していたという人もいるが、病歴の記述からはあまり満足感は見出せない。同じ人物に愛と憎しみを向けてしまうことから逃れられず苦しむ強迫神経症患者の描写は途中でやたらスッキリした感じで記述されるがこの病歴の最初と最後はかなり錯綜している。途中までは詳細な記録も残っており、それは別の本として出版されているが、途中からそれが途切れることも含め、ある時点からフロイトはこの患者を強迫神経症の患者として以外に見ることをやめている。数なくとも理論の確率を目指すこの論文の記述内では。論理的なフロイトらしくない雑な理解が突然挿入されたところにももやもやした。しかしこれは私が「いつものフロイト先生ならこれはこう考えるんじゃないですか」といいたいだけで、フロイトはいつでも「いつもの」なわけではないのだ。この前も書いたが「いつもの」なんて自分がそう思ってるにすぎない。など色々考えながら彼はこの患者に相当揺さぶられたのだろうと思った。フロイトはのちにフェレンツィに指摘されるように自分に向けられた憎しみを扱うことができない人だった(自己分析では可能だったのかもしれない)もちろん精神分析という設定の中で生じる憎しみは日常のものとはかなり異なり、客観的な記述を阻むものなので書かないというより書けない、扱わないというより扱えない、扱うにはどう理解すればいいかがわからない、だって形がない、ということになる。できるのは憎しみの対象として憎まれながら言葉だけなにかやりながらともにいることだけなんだから。この病歴の中でフロイトが「私たち」というところが2回あるが(実際にはもっとあるかもしれないが印象に残ったのが2回)これが患者の転移対象としての私と患者のことなのか、単にフロイトを怖がって歩き回りながら話す患者とそれを眺めるフロイトのことなのかよくわからなかった。印象からは後者だ。途中にフロイトが初めて見た強迫神経症患者との関わりが挿入されているが、そこでにフロイトは私が「いつもの」と考えるフロイトであって「それは害なのにご自身のこれは害と思わないのですね」というようなことを言える人だった。実際の文章は異なるので事例とともに本で確認してほしい。もやもやしているうちに私は、フロイトはいろんな症例に対して自分が信じる精神分析をしながらそこで生じることにかなりまいったのかもしれないな、と思い始めた。後世の私たちはこれを陽性転移に導かれてよくなった事例と思っているが症状がなくなったという意味ではよくなっているが現在の精神分析は症状の消失は同時に起こるものであるが、それと同時に流れていた人生の方が分析対象となっている。フロイトも随分もやもやしたのではないだろうか。私たちが陽性転移と言ってるものはフロイトが精神分析が持つ軌道を外れようとする力に気づき、技法において能動性を抑えるという意味での受動性を維持するということにかなり意識的になったことに対してなのではないか。憎しみを捉え、抱えていくにはまずその憎しみに浸される必要がある。しかしそれは患者にも分析家にも双方の心に大きな負担となりリスクも伴う。フロイトが描写した強迫神経症の患者がひとりでやっているこのぎりぎりの攻防の相手を能動的に買って出ることはできない。とりあえず開腹手術をしてみたらあったので取りました、というものでもなく、そこに何もないのだけど何かが生じているという事態に持ち堪えつつそれが展開されるのを待つのみ。これは医療ドラマでもある話だろう。身体も心も単純ではない。ラットマンは戦争で死んだ。精神分析がどんな効果があろうとなかろうと人は死ぬという事実によってフロイトが悲観的だったとは思わないが、人の心に関わるということの重みをフロイトは症例を通じて痛感していたのではないか。しかし「だからこの部分は扱わない」といえるほど私たちは色々わかっていないわけだからずっとずっと迷うのだろう。動かそうと思って動くなら、止めようと思って止まるなら気楽でもいられるが一度動き出したらその先は未知でしかない、ということを学び直す機会になった。もやもやしすぎて頭痛がしているのかもしれない。今日もがんばろう。

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球場とかメガネとか。

かあかあ、カラスが鳴いておる。すずめもチュンチュん鳴いておる。昨日は夏至。夜の満月もすごかった。中江有里は毎日甲子園にいるな、といつも微笑ましい。私の周りは阪神ファンが多いからその熱意はよくわかる。甲子園はいい球場。昔高校野球も見にいった。高校野球好きさんを連れて行ってあげたい。プロ野球で使う球場やドームにはほぼ全部行ったことがあると思う。日ハムは移転しちゃったからエスコンフィールドHOKKAIDOにはまだ行っていない。札幌ドームはサッカーと野球の芝の入れ替えを見たんだけどすごかった。もうほとんど工場見学。関東5球団以外で実際に野球を見たのは甲子園と広島マツダスタジアム、今名前変わったんだっけ、あとどこだろう。そんなものかな。昨年、幕張に行ったついでに千葉マリンスタジアム(ここも名前変わったんだっけ)に寄った。海沿いの開放感がすごくて好き。マリーンズのグッズも白黒でかわいいし。私は特に特定の球団が好きとかはないけど野球は自分がやったことのあるスポーツ以外では一番身近。草野球はたまに参加してた。でもバスケやバドミントンも私がやっていた頃とはルールも変わってるだろうから今や野球が最もわかるスポーツかも。中学生と野球盤やったときも普通にできたし。野球盤、懐かしいでしょ。あれ、結構本気で悔しかったり腹立ったりするから面白いよね。消える魔球とかさ。野球盤とか人生ゲームとかは子供の頃からある。近所の友達の家でやってた。人生ゲームのマスは随分変わったらしい。株券ってあれで知ったと思うのだけどいまだにそれ以外では馴染みがないわね、やったほうがいいと言われるけどお金のことでやるべきこと増やしたくない。放っておいても増えるよ、とか友人は気楽にいって稼いでるけど私は放っておいたこと自体を忘れてしまう心配があるから結局損しそう。

フランスの精神分析家のアンドレ・グリーン(もう死んじゃったけど)の論文を訳していると書いたけどリア王が出てきて以降は論文が面白いのか、私が盛り上がったからなのかわからないけどかなり早く訳せた。安心したよー。もういいやっ、と思って見直しもせずGoogleドライブにアップロードしようとしたらできない。というか私はGoogleドライブと全然上手にお付き合いできていない。Adobeとかもそうだけど、なんか保存したつもりなのにあれれ?ということが多くて結局PC全体に検索かけて見つけるみたいになることが多い。もう現代って色々難しい。先生に代わりにあげてもらったのだけど私がアップロードする権限(?なんか大仰じゃない?)はまだなかったらしい。よくわからんな。でも訳はちょい褒めしてもらえた。嬉しい。早速読んでくれたのがすごいと思う、忙しいのにね。昨日、そのファイルを送って安心したらメガネのフレームというのでしょうか、片方がパキッと外れてただの棒になった。今やメガネがないとどこがどうなったのかも見えないので100均メガネで対応。メガネを忘れたときのためにどこにもかしこにも置いてある。よかった。でもすごく疲れて頭痛も激しくなってしまったから移動ついでにピューっとメガネ屋さんへ。移動があってよかった。すぐに直してくれたけどレンズに傷がとか直してくれている間、いろんなお手入れ不足を指摘されつづけて悲しかった。全てそうですね、ほんとそうですね、私が丁寧に扱わないからですよね、と悲しくなりながら早く終わらないかな、と丁寧な口調で先生にお説教される子供みたいな気持ちでいたんだけどきちんと直してくれたから大感謝。これから、いや、今から気をつけます、ときちんとメガネの形に戻ってくれたメガネさんをかけてピューっとオフィスへ戻った。なんかどんどん老眼が進んでてこのメガネもそんなに度があっている気がしないのだけど100均のより全然目が楽。頭痛もしない。よかった。この土日もいっぱい読むものがあるから急いで行動して正解。100均メガネで事足りてたらもっと時間あるときでいっか、となっていたと思うし、そう思うと100均メガネさんにも感謝だわ。きちんと限界を教えてくれたからね。

なんか一仕事終えた気分でこんなことダラダラ書いちゃってるけど仕事はこれから。読まねばならぬものたくさん。否認と逃避を得意技にしてはいけない。困るの自分なのに困ったもんです。ガンバリましょ。

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アンドレ・グリーンの論文に『リア王』

南側の大きな窓からスーッと涼しい風が入ってくる。ペパーミントティーがますます爽やかで美味しい。賞味期限が今月いっぱいだからと保存食をもらったのでそれを半分食べた。カロリーメイトみたいな感じだけど美味しかった。

眠い。首が右側にどうしても傾いてしまう。疲れている。早朝から今度セミナーで担当しているアンドレ・グリーンの論文を訳していた。あと3ページ。間に合いそうではあるがただの作業になっているので咀嚼と消化のプロセスを欠いている。当日、口頭で補えるほどに読みこめたらいいけど時間がない。

昨日読んだ部分で『リア王』が出てきた時は楽しかった。カントと、というか、カントを引用したビオンの理論を説明するために出てきた。そうだよ、ここで『リア王』を思い出したってことはここにビオンだけでなくフロイトの色々も詰まっているってグリーンはよくわかってるからでしょ、もういいよ、これだけで。リア王、めっちゃ面白いもん、と思ったのに数行で終わってしまった。ほぼ直訳だがこの部分を載せておく。精神分析は文学、特にシェークスピアから学んでいることがとっても多いからそういう観点からの発表をいずれしたいなあ。でも日々の臨床の合間にこういう課題をひたすらこなしていると本も雑にしか読めないし、何やっても咀嚼と消化のプロセスのない経験になってしまいそう。咀嚼と消化、と言いたくなるのはビオンが消化機能をアナロジーとして使うから。さて私の雑な訳をここにおいておこう。すぐにどこかにいっちゃうから。アンドレ・グリーンAndré Greenの”The primordial mind and the work of the negative”から。

「ビオンは、いかなる推測の試みの前にも事実に対する絶え間ない関心を優先する。最初の登記registrationは絵文字(初期の物表象)である。もしこれが失敗すれば、感覚経験の形をしたβ要素は、視覚的イメージ(原初的表象)に変形されるのではなく、「things in themselvesものそれら自体」として感じられる。「thing-in-itselfものそれ自体」とは、ビオンがカントから借用した概念であるが、この精神分析的な文脈ではその意味はまったく異なる。ビオンにとって「もの」とは、「未消化の事実」であり、象徴化されていない経験であり、心的な出来事には少し及ばない生の素材であり、心的な精緻化にはそぐわない。私の連想のペナンブラでは『リア王』が思い出された。リア王が荒野で、ベドラムから逃亡した狂人に変装したエドガーに会うと、堕落した王と愚か者、そして哀れなトムの間で奇妙な会話が始まる。哀れなトムはリアと同様、すべてを失ったように見える。彼は荒野に裸で立っている。リアは彼に言う。 おまえだけが人間そのものだ。」(『リア王』3, 4, 106)。これは、カントがこの言葉を夢見るずっと前のことである。」

ーーCHAPTER EIGHT The primordial mind and the work of the negative –W.R. Bion Between Past and Future Edited By Franco Borgogno, Silvio A. Merciai, Parthenope Bion Talamo,2000

アンドレ・グリーンAndré Greenのこの論文は1997年7月29日、IPA第40回大会(バルセロナ)W.R.ビオン生誕100周年記念のオープニングレクチャーをもとにしている。ビオンはカントを自分に寄せた理解で使用しているから哲学をここから学ぶことはできない。でもグリーンが連想してくれたリア王のおかげで言いたいことはなんとなくわかった。というか精神分析の本質はシェークスピアの引用でだいぶカバーできる、とフロイトだって思っていたのではないのか。そんなことないのか。『リア王』読みたいし、舞台も見たい。でもやらなくては。なんか今日は肌寒い。薄着だと少し寒いね。風邪ひかないようにしましょう。

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ほうたる、アンドレ・グリーン論文

昨晩の帰り道、オレンジの光が草むらによぎった、気がした。蛍?そんなはずない。ここは新宿と渋谷の挟間。先日の句会の兼題の一つが蛍でいろんな蛍を見たからそんな気がしたのだろう。ほう、ほう、ほーたるこい、と口ずさみながら歩いた。ほたるは「ほうたる」ともいう、と句友の句で知った。これまで「ほ、ほ、ほーたるこい」と歌っていたが「ほう」で歌ってみた。1音入るだけでだいぶ柔らかくなる。蛍の写真を見るのも楽しい。シャッタースピードによって光の形が異なる。つまり蛍は光。昔蛍狩りに行ったと思うが蛍に会えたのだったか。小さな光はみんな蛍と思ってしまい結局本物とは会っていないかもしれない、と蛍の季節になるといつも思う。

昨日はようやくアンドレ・グリーンの論文のざっくりした翻訳をはじめた。まとめて説明できるタイプの論文ではなかったので結果的に翻訳することにした。いろんな原稿を出し終えて6月になってから1日1ページやれば余裕、と思っていたのに学術大会の前日まで原稿を出せず、そこでまず1週間遅れた。そして1週間いろんな本を読んでサボってるうちにアジアンパシフィックカンファレンスの英語レポートを出し忘れていることに気づき、それに時間というより気持ちがとられた。もう3週目、20日になってしまった。DeepLを使ってもアンドレ・グリーンのはフランス語でも難しいのをさらに英訳されてニュアンスが変わったものを訳さねばなので出力された日本語がなんとなくしかわからず結局自分の言葉にしながら理解することになりこんなことをしていては絶対に間に合わないとなっている。それでも昨日は昼間の数時間が空いたので結構なスピードでがんばり半分はできた。あまり頭に残ったり心に響いたりしていないただの作業みたいになっているけどとりあえずやってから読み直そう。読み直してもわからなそうだけど。ざっと最後を見たらどうやらモーリス・ブランショの「答えは問いを不幸にする」が締めにきそう。日本の精神分析界隈ではこれはビオンを通じて有名かもしれないけどアンドレ・グリーンが教えたみたい。ジョン・キーツの「ネガティブ・ケイパビリティ」もビオンを通じて知った人が多いかもしれない。もちろん他の領域ではキーツと出会う別の文脈があると思う。精神分析ではビオンが1967年の講演で引用したキーツの手紙が精神分析とはまさにそういうものである、と的確に示しているだけに有名になった。土居健郎の「わからなさ」を大切にしたのと似ているし、そもそもフロイトが盲目であれと言った。どこで言っていたのか探そうと思ったけど時間がない。その前にビオン、じゃなくてグリーン。この二人は仲が良かったそうでいろんなやりとりをしてきたらしい。それに基づいた論文だから面白くないはずはないと思うのでがんばりましょう。

今日も暑くなりそう。お気をつけてお過ごしくださいね。

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忘れ物、時間のせい。

「葦」のココナッツサブレ美味しい。スイカも染み渡った。昨晩は少しひんやりしたけど今朝は早朝からリビングがキラキラ。梅雨は昨日で終わったのかしら。昨晩はひんやりだったけど朝着てきたはずの上着を着ていないことに気づいたのはオフィスを出てしばらく歩いてからだった。朝はもっと寒かった。自分のオフィスに置いてくる分にはいいけど常に忘れ物が多い。大きいリュックともう一つが限界。そこに帽子とか傘とかがつくともう無理。雨が降っていれば傘には気づけるけど。カフェに寄ったら隣に座っていた人が「これ」って傘や帽子をレジにいる私に届けにきてくれるということが連日起きている。もちろん相手は連日とは知らないし、「ああ、また!すいません!」という私の残念さも伝わっていないと思うがそんな気分だ。大体こういうことを延々書いているうちにやるべきことをやる時間がなくなっていることを放置しているのも似たような性質に違いない。注意力にかけるし集中力にもかける。子供の頃よりずっとマシ、といえばそうだがそんな比較をしたところで今の自分がマシになるわけではない。世知辛い。

 この前の発表で精神分析は一方向的で不可逆的な時間を意識させると述べた。時系列が曖昧で、時間が過ぎていくことを意識しないまま現実より観念に囚われている場合、週の半分以上会う、という精神分析設定は設定だけで役に立つ。引きこもっている人が自分の誕生日や年末年始など区切りが近づくにつれ強烈な不安に襲われることがあるのは過ぎ去っていく時間を強く意識してしまうからだけど、平日に仕事なりなんなりに行って、土日は休む、というようなリズムがある生活をしてる場合でも意識しない時間というのは日常にはたくさんある。子供がいる人といない人では見通しの持ち方など時間感覚は全く異なるだろう。というか他人のお世話をするためには見通しを持つことが必要になるからそれが苦手な人はさらに負担が増えてしまう。「こんなはずではなかった」がたくさん起きてしまう。ときには「だからいったでしょ」と怒ってしまう。「自分のことくらい自分でしてよ」という怒りは切ない。誰だって自分でいっぱいいっぱい。私が自分の傘や帽子を忘れる分にはあまり誰かを困らせることはないが他人の分まで忘れ物しないようにとか気を遣うのは大変なことである。一方、物忘れ歴も長くなると「忘れ物ない?」というような聞き方はせず「携帯は?お財布は?ハンカチは?」と具体的な聞き方ができるようになる。そしてなんにでも紐をつける。同じく忘れ物名人の友人はなんにでもAirTagをつけているという。私の場合はそういう現代的な紐付けではなく、実際に紐をつけている。ストラップというやつ。大きいリュックの中もファスナー付きのバッグがいっぱい。それにさらに紐をつけたりもしている。もちろんファスナーを開け放しにしてリュックの奥底の暗闇からそれらを救い出さねばならない時も多々ある。あ、時間の話をしていたのだった。そういうとこだぞ、と言いそうな友人の顔が思い浮かんだ。いってくれる人大事。そう、精神分析では超自我とかいう言葉を用いたりするが、そうまでいわずとも毎日のように会っていれば昨日、今日、明日、は連続性を持って感じられるようになるし、会わない日でも「先生がこういってたなと思い出して」とか言葉のリフレインが生じたり「今度これ話そう」とか「火曜日、行きたくないなあ」とか先のことに思いを馳せたりするようになる。年単位で同じことを呟き続けている自分に「変わってない」と何度も落ち込んだりもする。そう気付けること自体が一つの達成だったりするわけだがたしかにそこにとどまっているわけにもいかない。そう、人生は世知辛い。焦ったり追い詰められたりするのも時間のせい。「いちいちうるさいな」と思ってもその人のせいではない。その人も時間に囚われているのだからしかたない。私も焦っているがこれも時間のせい。でもそういう時間のなかでやると決めたのは自分だからやらなければなされない。何かのせいにしたところで大抵のことは何も変わらないのだ。世知辛いといいながらやるしかない。辛いね、がんばろう。

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取りこぼし、助成金

雨。雨。雨。洗濯機の回る音が重なって水の中にいるみたいになってる。実際湿気に沈む。

昨日SNSで「これに怒った人はこれには怒らないんですか」というような構文?を見かけた。これを使いたくなるのは本当によくわかると思う一方、この論理は成り立たない、出来事が違う限り、人が違う限り、と思った。私もよく思う。自分が問題としている差別に対しては許すまじという態度で見知らぬ人にまで反応する人でもこちらが搾取されたと感じている人のことは信頼して何かとやってさしあげているのをみたりすると「これには怒るけどこちらは大好きなんですね」と思う。でもこれも成り立たない。その人の現実には起きていないことだから。

SNSは自分を当事者に置くこともただの他人にしておくこともたやすくできる魔法ツールみたいになって自分にはない正義を他人に振りかざしたり(正義って振りかざすものじゃないと思うからある意味納得だけど)、女を傷つけながらフェミニストと依存関係を作ったり(ある意味同じことやってるってことだけど)、他人から見ても酷すぎる言葉をはく人が数年後に訴えられたときには見える形でやりとりしていた人たちはシーンとしているとか(ある意味加担したくせにと思ってしまうけど)、理不尽だと言えるようになり、すごく真剣に取り合ってもらえる分野も増えた一方、相変わらず同じことが起き続けている。常に取りこぼしがあるのが現実だから仕方ない。もちろんどうにかしていきたい。

昨日は隙間時間に英語のレポートを書いていた。GWにシドニーであったアジアンパシフィックカンファレンスで助成金を申し込んだので、それを受け取るためのレポート。国際精神分析学会(IPA)とは独立した組織だけどかなり尊重されている団体として候補生からなる組織IPSOというのがあって、日本の候補生たちも全員それに所属している。私はそのIPSOのパネルのプレゼンテーターだったので助成金を申し込める、と友人が教えてくれたので年末年始せっせと申し込み用紙を書いた。英語でプロフィールを書くのも志望理由を書くのもとても大変だったけどなんとか書いた。日本精神分析協会で毎月行われている例会は英語でなんていうのか、とかそんなことから確認しつつ。そして先月、無事にシドニーで発表してその報告を書くのをまたもや忘れていてもう6月も後半になっていた。30日以内と言われていたのに。これも友人に「まだ大丈夫だと思う」と教えてもらって慌てて書いた。英語で2000語。日本語だったら字数だけはいくらでも書けるのに「え、これだけ書いて500語?」「え?まだ800語、もう書くことない」となってしまった。途中から同じことを言い換えてるだけみたいになってしまい自分のダメさに唸ったけど出すことが大事、と送信。あっという間に北米リージョンの担当の方から返事がきた。請求書のフォームと一緒に。ああ、せっかく書いたのにこんなにすぐに次の試練がくるとは。カンファレンスのことではいろんなやりとりを海外の担当者としたけどみんな恐ろしく仕事が早くて「ガーン」「ヒエー」となることが多かった。こちらが一仕事にやたら時間をかけて「やっと終わった!これで別のことができる!」と思ってもそんな希望を打ち砕くかのようなスピードで次のタスクがやってくる。ガーン。そもそもは私が別のことをしていてやっていなかったのが悪いとはいえ。ガーン。とか言ってるあいだにやったら?というお話ですね、ありがたいことなんだから。はい。週末のセミナーで担当している資料も読めてないしまずい。全部英語だし。もっとまずい。雨だし。どの地域も被害が出ないといいですね。どうぞお気をつけてお過ごしください。

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お祝い、組織など

ベッドから手を伸ばして窓を開けた。レースのカーテンを買わないと。あまり風は入ってこなかったけど鳥たちが面白いくらい賑やかだった。

友達ととっても美味しいイタリアンに行った。別の友人に教えてもらってからもう何回か行っている。聞いたことのない食材のお話も楽しいし、お皿もカラフルでユーモラスでとってもキュートでなにより美味しい。今回はご馳走してもらってしまった。お花もいただいてしまった。なんと。大好きな黄色とオレンジのお花。嬉しい。

私は日本精神分析協会に所属しているので組織の内側のことも組織というもの自体についても色々と考え、いろんな人と話す機会がある。週末もそんな話をしていて、事務作業をしてくれる人に場所とお金がしっかり払われる組織であるために、と考えればシンプルなのではとなった。今はなんでもレンタルで一時凌ぎがしやすい時代だけど次の世代のことを考えるのであればどこかに根付くことが大事。

根付くといえば、私は大学時代、重度の自閉症の人たちと施設で生活する仕事をしていて担当していた人を迷わせてしまったことがある。当時同年代の私たち。小さい私とすらっと大きな彼はいつもの感じで一緒にいた。時折すごいジャンプ力とすごいスピードで走ることはあっても戻ってきていた。なのにこの日はその勢いで山道を登っていくのを見失ってしまった。いつもの場所のいつものこと、だからなんだったのだろう。私の慢心だった。相手にとってはそうではなかったかもしれないのだ。生きた心地がしなかった。地元の人が知っていてくれたおかげで無事にまた会うことができた。大きく混乱するでもなくどこか遠くを見るように、しかし淡々と私の腕の方へ戻ってきくれたところで私の記憶は途切れている。彼らが言葉を話せたらどんな思いだったか教えてもらえただろうか。

さて、地域のつながりが大切というのは田舎では言葉にするまでもないが(つながらざるを得ない面もある)東京でも同様に大事だ。東京中心の学術団体における東京と地方で考える場合、東京にいる人が地方のためにできることはあるし、地方の人も東京にいる人にできることを提案してみる手もある。

GWに四谷にある小寺財団で狩野力八郎先生が残された本の頒布会があった。お知らせはTwitterだけだったのか知らないけれど私はTwitterで知って行った。初日は直接くる人のことを考え遠慮したが、数日後もまだ残っていた本から見繕って東北や北海道の友人に送った。もちろん普段から繋がりがあって「もし可能なら」という話をしていた。自分が受けられる恩恵をどこまでなら届けられるだろう、もしその場合どうやって、というのを考えることは楽しい。労力や金額の問題は難しいがそれももちろん考える。その頒布会の時に、東京の人はいいな、というような呟きも散見されたが本の写真をアップしてもらって自分で本の名前をリストにして着払いで送ってもらうことはできないか、とお願いした人もいるかもしれない。これは事務局の仕事ではない可能性があるからできるだけ負担をかけない形を提案しつつ交渉してみるというのは悪くないと思う。そういえば昔、鈴木晶が自分でそういう企画をしていてジェフ・ロヴィンの『怪物の事典』を送ってもらった。あれは有料の頒布だった気がする。

勉強会や研修が同じようなメンバーで入れ替わりが少ないのも組織の経済にとって良くないという話もした。今日はもう時間がないから書かないけどいろんなことは力動的に考えることができるので血の巡り(の話もした)と同じく滞ることに注意を払いながら健やかでいたいものである。とりあえず今日も。

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精神分析

非医師、非大学所属、女性であることとか。

雨がどこかを叩いたり引きずられるような音を立てている。どれもこれも雨。七変化。紫陽花も七変化と呼ばれる。四葩ともいう。私は俳句を作るとき、紫陽花より四葩を使うのが好きだ。

昨日、精神分析家に登録されたことをSNSに書いたら友人の坂田昌嗣さんが非医師、非大学所属、女性というマイノリティの立場の私が登録されたことは現在の日本の精神分析状況の突破口となるかもというようなことを書いてくれた。坂田さんは睡眠行動医学とCBTを専門としながら大学で働く男性なわけだが子供や女性に対する眼差しが温かいだけでなく実際に行動で示せる友人のひとりだ。精神分析はIPAのウェブサイトを見ればわかるように世界では女性が中心になりつつある。会長もこの数年ずっと女性だ。シドニーで各国からのパネリストと発表したときも全員が女性でそういう場では非常に対等に仕事をできていると感じる。もちろんそんな私たちが語るのは差別であり戦争であったりするわけだが。日本でも女性分析家は増えつつある。しかし坂田さんが書いてくれたように非医師、非大学所属の精神分析家はようやくという感じだ。もちろん日本の精神分析協会も変わりつつあり、週末の日本精神分析協会の学術大会で私たちのパネルに来てくださった方はお気づきだったと思うが発表者の性別も地域も職種もバラバラだった。たまたまそうなる程度に色々な候補生が増えているということである。それでも坂田さんが言語化してくださったことはありがたかった。同時に、個人で開業している非医師の女性臨床家が増えているのは先輩方の世代のおかげであることに改めて思い至る。精神分析家の訓練は受けておられなくてもいわゆる日本的な週一回の精神分析的心理療法をプライベートオフィスで実践しながらフロイトに始まる精神分析の知を毎週のセミナーや個人スーパーヴィジョンで長年に渡り多くの人に受け継いできた女性臨床家の先生方がいてくださったおかげで私たちはその流れに乗りながら自分の目指す方向を考えることができた。実際、私はその先生方に直接ご指導を受け、部屋もお借りするなど間近で学ばせていただいた。私が開業したときにはお祝いもいただくなどいつも背中を押してくださった。してもらったことを還元しようとするというのは人の心の自然な動きのひとつだと思うが、私も私のあとに候補生になった人たち、精神分析家を目指すわけではないがその知に関心を持ち臨床に活かしたいと思っている人たちにできることがあればと思い活動してきた。それが必ずしもいい方向に作用するとは限らないのが難しいところであるが似たようなまとまりとして存在する必要はない。むしろ一つの方向へぐっと引っ張る力のある存在が多かったことで家父長的と言われる状態が続いてきた面はあるだろうからそういう力と対等に対話できる相手としてバラバラと存在していくことも大事だろう。私はそういうあり方で私たちの居場所を作ってきてくれた先輩方へ恩返ししたいと思っている。精神分析の存続には精神分析家が増えること以上に精神分析という知に関心を持ち対話を続けてくれる存在が不可欠である。そしてそういう存在はありがたいことに実在する。もし精神分析の世界に飛び込めない理由が非医師、非大学所属、女性であるということであるならば少し安心してもらえただろうか。もちろん必要なら相談にものる。何かを諦める要因を少しずつでも減らしていけるようにいろんな人と協力していきたい。これからもどうぞよろしく。

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精神分析

虫、『むらさきのスカートの女』、平和

鳥が鳴いている。昨晩はいつもの猫がGを追いかけていた。いつものように私に警戒することもせずおもちゃのように追いかけていた。我が家にも変な虫が登場した。真っ黒で怖い。Gではなく思った以上にトロイ。クイックルワイバーで取ろうとしたらボトンと落ちた。思ったより大きな音だった。色々と書類が入っている大きくてすごく重い花瓶(アートなんだと思うけどひどい使われ方をしている)に多分落ちた。のぞいても見えない。そのうち出てくるかと思ったが出てこない。あのトロさだと自力で登れないのではないか。怖い。いつのまにか増殖されるのも嫌だし、中で死なれるのも嫌だ。がんばって登って。ああ、なんでこんなことで応援をしなければいけないのだ。しかし本当にそこに落ちたのだろうか。

昨晩、突然今村夏子の『むらさきのスカートの女』を思い出した。あと昔読んだヘンデルセンソンくん(これ多分名前違うけどこう覚えてしまっている)。『むらさきのスカートの女』は中身より表紙を思い出した。かわいい表紙だよね、と最初は思うけどあれ?となる水玉の表紙。なんであれ水玉なんだっけ、と思った。そもそもあれスカートだった?話の詳細は怖かったとしか覚えていない。「むらさきのスカートの女」という主語が繰り返されると結構くどいな、と思いつつその悪意のない執拗さが怖い話だった気がする。「紫のバラの人」だとそんなくどくないのに。いや、あれはキャラと合っているからそう思うだけか。ヘンデルセンソンくんとよんで私たちが怖がっているのは子供の頃に読んだ漫画に出てきた子。人だったかどうかさえ定かではない。だって最後信号になって「いつも見守ってるよ」みたいな感じで終わったから。さっき、突然思い出した、と書いたけどその時は理由はわかっていたので突然ではなかった。しかしなんだったか。もう覚えていない。

今朝はブールミッシュのフィナンシェとペパーミントティー。暑い。眠くなってきた。寝てはいけない。寝てはいけない、って雪山とかで言われるイメージ。夏は熱中症で死ぬこともあるけど。熱中症って初めて聞く人は何かに熱中しすぎてしまうことって思ってしまう人いると思う。寝てはないけない、は私が最初に聞いたのは凍死しそうな場面ではなくて映画。小学生の時に見た『対馬丸』のアニメ映画。強烈だった。今もその断片を思い出す。とても悲しかった。子供の頃に戦争は絶対にダメだと思った気持ちは今も変わらない。でもこんなに身近に戦争を感じるようになるとは思ってもみなかった。あの頃はまだそれは過去のことで遠くなっていくものだと思っていた。今は国際精神分析協会に所属しているせいもあり世界情勢が実際に身近だ。国際交流をすればそれはすぐそばの話であると実感して言葉を失う。それでも今こうしていつもの日常を始めようとしている。この平和も現実だ。どうしたらいいのだろう、と漠然と考える。身近でも自分の身に降りかかっていないことを具体的に考えることは難しい。ただ唸るばかりだ。

今日は県外に行くのでついでにどこかに寄りたいが暑い。やることやってからにしろ、という声が頭の左上の方から聞こえた。はいはい。返事は一回。はい。平和ってなんだろう。はあ。暑さに気をつけて過ごしましょうね。

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小説、日常

早朝の空がとてもきれいだった。強い陽射しが照りつける前の空はこんな薄く涼やかなピンクが広がっている。意外とたくさんの人が色々なところでこんな空を眺めているのかもしれない。

山本周五郎を思わず読んだという話はすでに書いたか。句会の兼題が「釣忍」だったところからだ。俳句はまだできていない。明日締切だから今回も直前になるだろう。以前『青べか物語』についても書いた気がする。私はジャンルというものがよくわかっていないのだがああいうのは時代小説というのだろうか。時代劇っぽいのを時代小説というのか?藤沢周平もそうだと思う。私はこの二人の作品がとても好きだ。どちらも女の描き方がいい。藤沢周平の描く女は繊細で賢く、山本周五郎の描く女は情に深い。愚かだが優しい男たちとの組み合わせもロマンチック。「釣忍」もそうだが小物遣いもわかりやすく効いている。昨日今日は打って変わって倉橋由美子『交歓』を読むのに隙間時間の全てを使ってしまった。これは「桂子さんシリーズ」として知られる連作の一つだが、単独でも十分楽しめる。桂子さんはとても賢く本来どうにもならなそうな欲望もスマートにコントロールする。男たちが描く女とはだいぶ違う。小説に出てくる人間は豊かだ。そしてやはりコミュニケーションがスムーズ。

もう金曜日。アンドレ・グリーンのビオンについての論文を訳さないといけないのだけど何もしていない。学術大会の原稿が終わったらやろうと思ったのに原稿はギリギリになり、日曜にそれを発表し、月火水木と音楽を聴き、小説ばかり読んでしまった。最近全然読めていなかったから、と思ったけどここで小説のこと書いていた、そういえば。原稿もやらずによんでいたのか。

あ、別のことをしてしまった。今日も上野原の菓子処植松のお菓子をいただきましょう。今朝は少し時間があるからコーヒーをゆっくり淹れようか。コンバットおかなくては。美味しいもののこと考えてたのにコンバットのことも思い出してしまった。ああ、日常。今日もがんばりましょう。

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お菓子、夢、持続。

今朝は上野原のお土産。菓子処植松の焼きモンブラン。ここは「あんどうなつ」が有名。この日はすでに売り切れていたけどただで小さめのをもらえたとのことでそれも数日前に食べた。すごく美味しかった。久しぶりにキウイも食べたけどまだ酸っぱかった。タネがぎっしり。

今朝は松戸伊勢丹の狭い入り口の前の広い広場で自転車を止めた夢を見た。実際の松戸伊勢丹と似ていたけど違った。実際のといってもずっと前のだから今はわからないのだけど。というか調べたら閉店していた。平成30年、2018年に。そういえばそうだ。数年前に松戸に行ったときに知ったはずだ。思い出の場所だからみんなでそんな話もした気がする。夢だなあ。面白い。花火屋さんで花火を買って江戸川でやった。まだ10代後半だった。20代になってもちょこちょこ行っていた。あの花火屋さんはもうないだろう。友人が大変な病気になったと聞いてすぐ会いに行ったのも松戸だった。あれから何年になるのだろう。進行は早かった。同じ仲間内の彼女が突然亡くなったのはその数年後。あれからも随分経つ。近いうちに彼女のご家族と会う約束をしている。私は彼らに対していろんなことを後悔していることにまた気づいた。後悔しているとか言って忘れては気づく、を繰り返している。色々話したい。

精神分析家の資格を取れました、と友達や家族に報告したらとても喜んでくれた。長い訓練をずっと支えてきてくれた。「よく頑張ったね」という言葉がこんなに嬉しいとは思わなかった。「私はよく頑張ったのか?」とも思うが事実はともかくそう言ってもらえるのだから頑張ったのだ、きっと。トレーニングは日々のことすぎてひたすら淡々と繰り返してきた。これだけ時間がかかるとがむしゃらに何かを目指すという感じにもならないし「とりあえず今日もがんばりましょう」というのの繰り返しだった。トレーニングを終えてもそれは何も変わらない。ただ私を観察してくれる人の目が減る。後付けでならなんとでもいえるが臨床はその場その場での判断になる。精神分析はひたすら持続性のうちにあるのでやりとりと現象を正確に描写し仲間内で検討してもらうことは続ける必要がある。持続的な響きを言語化することでそこに複数の耳が現れる。そこでは私たちが積み重ねた響きは別の音として聞かれる。そうならざるをえないしそれを聴くことに意味がある。自分にはそう聴こえなかったものをどう聴いていくか。精神分析はどこまでも耳の仕事だと思う。もちろん視覚的な情報を使わないとかそんなことでは全くない。

お世話になった先生方、いつも応援してくれる友達、家族、みんなからの眼差しをとてもありがたく思う。しばらくお祝いモードで胃腸も継続的に使うから私の胃腸がんばって。まあこうやって何かと集まる理由を作っては遊んでるわけだ。感謝感謝。がんばりましょう。

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とりあえずやってみる

昨日は仕事以外はだいぶぐったり過ごしてしまった。すでに暑さに耐えられていないのかもしれない。

学会の抄録を修正しなければ。あのスピードで書いてよく通ったなと思うが当然修正が必要だったか。PDFの修正ってどうすればいいのだろう。前にもやった覚えがあるがやり方を忘れてしまた。今やってみたらできた。送信。どうしてソフトによって字数が変わってしまうのかがわからないけどまあいい。とりあえず採択してもらえた。なんでもやってみるもんだ。

今昨晩の夢がパッと頭の中に出てきた。『虎に翼』の兄弟みたいな子たちが出てきた。伊藤沙莉の顔の演技がすごすぎていつも楽しい。ぎゅっと小さい顔だから余計わかりやすいのかしら。細かい筋肉を器用に動かせるのがすごい。

この前、日本精神分析協会の学術大会で候補生の会のパネルで発表したと書いたのだけど、会場からいろんな質問をもらって思った。たしかにみんなが心配に思ったり疑問に思うことって私も候補生になる前に思っていたことかも、でも忘れてたな、と。時間とかお金とか現実的なことはたしかに大変だった。でもそれよりも候補生になってからの分析が大変すぎてリズムができて以降はそういうことは気にならなくなった。開業して自分で調整できる範囲が増したことも要因だろう。でもなによりも精神分析が大変だった。つまり自分、厄介すぎた。今でも厄介だけど。あ、でも現実的なことはカウチでも候補生同士とも話せる環境だったからなんとかなっていたというのもあるか。こうして資格をとってみれば、というか訓練の修了が近づいてからは精神分析を良い悪いとは関係なく価値あるものと思えたが精神分析や制度に対する嫌悪や懐疑がなくなったわけではない。精神分析のというよりフロイト、ラカン、自分の分析家など個々の分析家の限界なんて当たり前にある。限界は何にでもあるし、それに対して色々思うのも普通だろう。学問は自分にとって収まりのよいものであっては困るわけで、そこに拡張の可能性を見出し現実化していく努力をしていくことが大切なんだと思う。私は学問の知というより体験として実質を伴わせたかったわけだけど。やってみないと何を自分が不安に思っていたかはわからないものなんだ、ということしか言えないけどそういう実感もやってみないと得られないから伝わりにくい、というのはもうしかたないこと。でもまあ現実的なことはどうにもならなくてもそれをどうにかしようと思えるような対話なら可能だろうからとりあえず相談してみるって大事と思う。シンプルに。今日も暑そう。がんばろう。

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良い悪いではなく。

遅く帰ってきてたくさん食べてしまった。週末、学術大会で東京駅八重洲口におり、その地下街がとても充実していた。発表があったからお昼は20分くらいしかなかったが会場からすぐ入れる地下街へ行って北海道のお菓子が売っているところとかドンキとかで色々買ってしまった。みんなにもあげた。そういえばあなたは北海道出身ではないか、とその友達にも北海道のバターサンドをあげた。ドンキにはいろんな種類のミレービスケットがあった。その中の一つがコーンポタージュ味。「朝のミレー」と書いてあったのに夜中に食べてしまった。「真夜中のミレー」というのもあってそれはニンニク味!そっちだったら今朝はもっと気持ち悪かったかもしれないがコーンポタージュ味の味はそんなにしなかった気がするから油のせいだな。油のせいで美味しいし油のせいでおなかが痛くなる。美味しいことばかりではないのだ、人生は、と急に大きなことを言っていい他愛ない領域。良い。

プレイセラピーのスーパーヴィジョンをしていると良い遊び、悪い遊び、というものがあるかのような話になるときがある。遊びに最初から良い悪いが備わっているのではなく楽しく遊べたら良い遊び、危険なことをしたら悪い遊び、危ないことになりそうな要素強めだったら悪い遊び、とか言えるかもしれないが、遊びは楽しく遊んでいてもいろんな要因で怒り出したら悲しくなったりそしてまた楽しくなったり一つの遊びでも色々生じるので名詞として捉えるのではなく動詞で捉えた方がいい。そしてこれはプレイセラピーに限らずだがそれを「良い」「悪い」と捉えるときこそそう判断している自分は何者かと考えるきっかけにした方がいい。前回のセッションでめちゃくちゃ怒りながら途中で出ていった子が翌週何事もなかったかのようにやたらスムーズにまとまった遊びをしていたら「今日はいい子だな。先週発散したからかな」ではおそらくない。大抵はどうにもならない感情をなんとか自分で処理して表面を保っているわけでそういう様子にホッとした治療者の思わずの一言で怒りが暴発したりする。遊びと呼ばれるものの内容は様々だが、お互いの心が相互作用しつづけていることに細やかな注意を払うところがセラピーと学校とかの遊びとの違いだ。学校の遊びは大きな筋肉を使う遊びも多いがそれは広い場所があるからであってプレイセラピーでそれをすることについてもきちんと考えた方がいいと私は思う。細かい筋肉や使っていない筋肉を使うときの疲労は結構なものだ。まあ、これは単に個人的な体験だが。

Bon Joviのデビュー40周年、16枚目のニュー・アルバム『Forever』リリースということで聴いてる。ザ・ボンジョヴィといつも思う。Foreverというのも「らしい」と思う。しかし16枚か。もっとだしてるかと思った。若い頃、横浜スタジアムだったか、屋外のライブに友達といった。よく聴いてはいたが特別好きなわけではなかった。なんとなく歌える曲は多かった。実物はめちゃくちゃカッコよかった。歌いまくった。やっぱりライブは良い。ブライアン・アダムスのライブに友達が行けなくなって代わりに行ったときもそうだった。ニューアルバムの予習を直前にしたくらいだったが特に予習要らなかった。ステージの間近で「今目があった!」と誰もが思うやつが私にも起きた。カッコよかった。前に仲良しの美容師さんとこれまで行ったライブの話をしていてレディー・ガガのライブがすごかったという話になった。やっぱりそのクラスの人のライブには好き嫌いを超えていってみたいよね、と盛り上がった。私は最高だったB’zライブ&一泊の話もした。そういう時間があった日々というだけで懐かしいが今は今で面白い毎日だ。もちろん遊びと同じで楽しいだけではない。でも面白さは常にある。汚い言葉で言い表したい事態の最中にあるときでも面白みはある。二分法で考えなければいろんなことにそれは潜んでいる。今日もいろんな気持ちでいろんなことを。おなかが気持ち悪いけどがんばろ。みなさんもお大事に、お元気で。

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精神分析協会の学術大会だった。

二度寝坊。しかしゆったりジョーダン・ラカイ。そしてカステラ&夏みかんヴァッファル(だっけな)。お菓子豊富!週末は日本精神分析協会がはじめて外部の臨床家も参加できる形で開催した学術大会だった。内部だけの報告会でも結構人がいると思ったが全然だった。たくさんの人が近くからも遠くからもいらしてくれた。知り合いもたくさんいたが知らない人もたくさんいた。私がパネリストとして登壇した候補生の会の企画にもたくさんの人が参加してくれた。3人のパネリストが全く異なる形で自分の体験を話すことになって面白かった。私は前日までほとんど原稿も書けていなかったがどうして私がIPAでの訓練を必要としたのか、無意識的な動機とその要素としての個人的な体験を話した。そしてそこから学んだ私にとっての訓練、私にとっての精神分析みたいなことも話した。候補生になるまでの躊躇はわかるが私みたいに訓練に入るかどうかをIPA以外の分析家の分析で考える人もいるのでとりあえずこうやって相談しやすい場を作れたのは役に立ったみたい。先輩方、現在の候補生のご参加もありがたかった。私たちも大変楽しんだ。そのすぐ後は学術的な内容で個人発表をした。お世話になった先生方がいらしてくれてコメントもくださった。その内容からもまた学んだ。お会いできなかった先生にはメールを書いた。楽しい二日間だった。来年は市ヶ谷で開催予定。新鮮で高度な議論ができる場として続けていけたら嬉しい。

私にとって候補生を修了して会員(精神分析家)になりはじめての発表になった候補生の会の企画での発表の最後の部分をこちらにも載せておこう。題は「Ongoingであること」にした。

 「さて、色々と書いてきましたが、限りある時間といつ失うかわからない命をこんな先の見えない、時間もお金もかかる訓練に私が費やすのは結局なぜなのでしょう。

 私が思うのは、私はこのような形で精神分析との語らいに実質を持たせたかったのだろうということです。私にとって精神分析は書物から得られる知ではありませんでした。だから私は病跡学でもなく哲学でもなく、精神分析家という実在する対象を求め、自分自身がそれになるということを欲したのだと思います。どれもこれも「今ここ」ではこう思う、ということでしかありませんが生きている間は全てが進行形、オンゴーイングであるという当たり前だけど希望ある事実に気づかせてくれた精神分析にこれからも多くの人が関心を持ってくださり、対話を続けてくださることを願っています。」

これからも臨床家に限らず多くの人と語り合いながら精神分析が存在していけますように。どうぞよろしく。

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夢見たり迷ったり話したり。

朝。足湯がしたい。夢で足湯をした、気がする。足湯なのに湯量がやたら多くて普通にお風呂みたいだった気がする。いや、そんな夢、本当に見たのだろうか。

朝からミーティングにおしゃべりに勉強に。ミーティングは貸会議室で。絶対迷うから早めに行った。ビルの前にベローチェがあった。最近ベローチェづいているな、と思いながらこれで安心安心と思ってあたたかいカフェオレを飲む。時間になって出るとそのビルに会議室がない。ない、ない!とGoogleマップを開く。すぐそばの違う場所に印がつく。同じ名前のビルがあるのか。マップを見ながら右に行ったらさっきまで1分だったところが2分に増えた。逆に来ていた。Googleマップの矢印だとどちらに向かえばいいかわからない。左に向かってもピンとこない。また右に行く。やっぱり離れていく。左か。でもどこここ。君は本当に地図なのか?いや、私が地図を読めない人間なのか。すぐに着いたが急いだら疲れてしまった。関西や九州からの人もきちんと時間通りに来ていたのに。私もさっきまでゆったりしていたのに。東京は難しい。でも久々にみんなとおしゃべりできるのは嬉しい。朝から夜まで断続的にいろんな人と話す。昨日は無事に精神分析家として承認してもらったのでいろんな人とハグした。トイレでも。トイレはみんなが集まる場所でありプライベートスペースでもあるからそこでばったり会うとパーソナルな感じが強まる。あまりよく知らない人にもなんとなくお祝いを言ってもらったりした。恐縮でござる。ありがたいことだ。友達からはモスグリーンという小さな植物をもらった。すっごくかわいい。この小さなガラスに水滴がつくこともあるらしい。なぜならこのちっちゃなグリーンは息をするから。ああ、かわいい。夜遅く帰宅してからテーブルに置いて写真を撮った。小学校と中学校で9年間。訓練には同じくらいかかった。小中はただの悪ガキだった、というか自分は悪い子だった覚えはないがランドセルではなくお下がりの紫のショルダーバッグを持っていったら注意されて注意の意味がわからなくて毎日持っていったり。ランドセルも好きだったけど好き嫌いではなく持ってくるべきものを持ってくるというルールがわかっていなかったということなのか?バスケットボールを持っていったら注意されたり。きちんと管理してたじゃん、と思うけどボールを持ち歩いていたらいけなかったのか。うん、今思うとそれは少し何かを引き起こした感じがする。あとはなんだろ。いい子じゃなかった?すごい悪い子たちと仲良しだったりもダメだったのかな。これは本当に悪い。でも私は仲が良かっただけで行動は止めてる方だった。でもなんか悪い子だったみたい。好きな先生たちはかわいがってくれてたけどな。なんでだ。スムーズにいうことを聞かないのがダメなんだろうね。昨日もそんな話をした。エライ人の一言でほぼ自動的に行動する人たちってなに、という話。もちろん話相手は自動的に行動しない人たち。スッということを聞かないのは全く悪いことではないがそこに文句を言うのが悪いことっぽいのだろう。まったく。今日は候補生の会の企画として候補生の「リアル」について話す。昨晩、やっと原稿を送った。自分用に大きな文字にした原稿をプリントアウトした。この年月で目がすごく悪くなった。良くなったところは特にないが無事にそこそこ元気に生きている。ありがたい。こういう感じで話せるといいのだけど、ということの「こういう感じ」はなかなか伝わらないのだろうと昨日話しながら思った。そういえば、という話もたくさんした。組織の内側では外からその組織について話されていることと全く異なることが問題になるのでそれについて色々話し合った。それぞれ同じことを問題に思っていても見たり聞いたり表現する仕方が違う。こうやって時々直接会ってあれこれ話せるのは本当に大事。「だからそれは排除じゃないって」とか。排除と感じる人がいるのはわかる。でも「だからそれは排除だ」と自分たちのしていないことをしていることに変えるのはおかしい。相手の圧力で論理を歪ませてはいけない。それは相手にとってもよくない。問題にすべきことを正確に描写していくにはこういう感じで話すことがほんと大切。話せて良かった、とそれぞれ安心する。普段はほんと余裕ないもんね。今日は役割を果たさねば。楽しくしたい。いつも「こういう感じ」で話せる人たちとの仕事だからきっと楽しいだろう。がんばろう。

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オーディブルとか朝ドラとか。

寝不足辛い。早朝から日差しが強い。リビングが光いっぱい。鳥の声がしない。ポットががんばってお湯を沸かしている。

昨日ここで沢木耕太郎の『深夜特急』のこと書いたらちょっと読みたくなって読んでしまった。香港行きたいなあ。飲茶食べたい。改めて読むと事実って連ねるだけで面白いということがよくわかる。あ、お湯が沸いた。

Amazonのオーディブルってあるじゃないですか。あれ2ヶ月無料とかで前に聞いてみたんだけど読む人によって本の印象が変わるからなんか変な感じがした。知らない本はいいのだけど知っている本にはもう自分の読み方がついちゃってるから最初びっくりする。原作のあるお芝居を見るときと同じか。でも便利は便利だよね、きっと。でも高かったよね、たしか。本は読んでみたいけど読むことが苦手、という人にはすごくいいね、きっと。私は自分の生活のペースとかその時々の気分で読んでいるからずっと同じスピード、同じトーン(ではないのだけど)で聞いてるとなんかやっぱり変な感じがしちゃうんだよね。視覚と聴覚は随分働きが違うものね。視覚だと背景も自然に映像化されるような感じもあるし。結局無料期間中にあまり楽しめずに終わっちゃった。

『虎に翼』の昨日の回も見ましたか。優三さんが出てくるとじわって涙が出てしまう。それはともかく椅子の使い方がうまい。あの公園のシンプルなセットだけで舞台が成り立つ。ダンスっぽくもある。そこにいたりいなかったりにはものすごい数のバリエーションがあるだろうからその表現だけでグッときてしまう。

遠くからきた仲間たちとおしゃべりしていてひとりっ子について話したのだけどとっても面白かった。ひとりっ子の人って「それがひとりっ子」って自分で言う人多くないですか。何か自分ですごくそう感じる瞬間が多いのかしらね。たしかに私の身近なところでも兄弟姉妹がいなくてよかったと呟いているひとりっ子がいたからこれもいる場合、いない場合のお話か。

今日はいつもよりも早く出ないとなのにどうでもいいことをまた書いてしまった。ここから出てここに戻る。頑張ろう。

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お菓子、フロイト、『深夜特急』

野菜をくしゃくしゃ噛んでいる。長崎のカステラもある。昨日は出先でお弁当もお菓子も出していただきお土産までいただいた。我が家のお菓子ストックは今日も豊か。ありがたい。みんなで食べよう。今週末はたくさんの人と会う。

疲れたなと感じていたが感じないようにしていた。帰ったらすぐに読書会もある。が、いつも通りスーパーも寄った。フロイトの『フロイト技法論集』(岩崎学術出版社)の後半、 「終わりのある分析と終わりのない分析」(1937) を読んだ。アドバイザーとしての参加だったので何度も読むべき論文としてなんとなくみんなの疑問に答えた。何度読んでも発見の多い論文だ。フロイト81歳、死ぬ間際まで書き続けたフロイトは精神分析の限界をここで示した。それは精神分析の限界ではなくフロイトの限界だったがフロイトの死後も受け継がれた精神分析を作ったのもフロイトだった。彼は自分の手から離れて形を変えていく精神分析をどう思っていただろう。ラットマンと呼ばれたフロイトの患者は戦争で死んだ。フロイトの妹たちはガス室で死んだ。娘のアンナはゲシュタポに連れ去られたが戻ってきた。彼らはイギリスへ亡命して死んだ。国際精神分析協会のジャーナルThe International Journal of Psychoanalysisの発行場所はInstitute of Psychoanalysis, 112a Shirland Road, W1 2BT, London.今、精神分析の中心はどこになるのだろう。そんなものあるのだろうか。

沢木耕太郎の『深夜特急』を思い出した。あれは最初が香港編だと思うけどほんといろんな人が出てくる。中心ってどこ、と考えたらこの本のことを思い出すのは結構適切ではないか?私がシドニーで感じたあれこれも思い出す。やはり辛い。ミッドナイト・エクスプレスか。バス旅なのに。映画と関係しているのか。よく覚えてなくても思い出すもんだ。不思議だ。

うーん。書きたいことはどんどん出てきてしまうが原稿書こう。今回も一番最後になってしまった。あー。今日も長い。がんばろう。

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小説とか。

寝不足。今朝は腕に力が入らない。それでもお菓子は食べるのよ。『葦』のフィナンシェ。バターたっぷり。美味しい。

ススキノの事件の記事を読みながら心がシーンとしたのでそばにあった村田沙耶香『ギンイロノウタ』(新潮文庫)を手に取った。黄色い女の子達が折り重なるような表紙がかわいい。狂気ならこういう狂気がいい。自分の心の中に染み渡る範囲の狂気であってほしい。狂気と呼ぶのにそんなこと願うのはおかしなことだけれど彼らだって私たちだけであってほしいと願ったかもしれない。自分の身体の中で排出された小さな部分はどこまで自分の一部であると考えればいいのだろう。悲しい。

書評の依頼がきた。勉強中の領域だからありがたいけど外側から書くことになる学派のものではあるなあ。とりあえず関連の本をそばに積み上げてみた。それにしても地道に勉強してると以前は全く読めなかったものが読めるようになるものだ。こういう体験をするとわからないものに対する抵抗が少なくなるからそのうちわかるだろう、くらいな感じで読めるし。

いろんな小説が読みたいけど昔のばかり読んでる。凪良ゆうの『汝、星のごとく』は新しい。とてもとても丁寧に主人公二人の気持ちが書かれていて、そうできるくらいに二人ともとても思いやりがあってエピローグの始まりには一瞬不安がよぎるけど人生は単なる反復ではないと知ってしっかりと自分を持つ主人公が眩しい。とてもいい作品だった。私はひどく即物的な描写やじっとりした、あるいは乾きすぎた皮膚感覚みたいなものが淡々と書かれた作品が好きなので気持ちの描写が多いと勉強をしているような気分になってしまうのだが最後に感じたちょっとした混乱は心地よかった。ずっと不安に揺さぶられてきた子が「またか」という絶望を感じるときのような一瞬の混乱から引き上げられるように物語は終わる。繊細な心が守られる物語は心地いい。小説家はすごいな。

歯磨きしながらこういうことする癖やめないと。ほっとくと本読みながら何時間でも歯磨きしちゃうよ。磨きすぎ、と歯医者で言われているから気をつけねば。今日は蒸し暑そうだけど日差しは少し弱いかな。外仕事があるからこのままであってほしいなあ。肌が痛痒くなってしまう。とりあえずがんばろう。そうしよう。

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散歩、時間

そういえば昨日ブログ書かなかったな、と思ったら書いていた。どうなってるんだ、時間感覚。今日も「葦」のフルーツケーキ。いちじく!美味しい。鳥の声はどこ。もう遠くに行ってしまったのか。

昨日は懐かしい街を歩いた。スクールカウンセラーをしていた頃は毎週使っていた駅だ。当時は通勤として使っていたから立ち止まったり気になる道を曲がってみたりはしなかったけど昨日は好きに歩いた。小さな商店街に活気があって昔からのお惣菜やさんとお客さんの会話が「いつもの」という様子でいいなあと思った。ドアのない店が多いので距離が近い。特に会話もしないけどいつものお惣菜を買ったんだろうな、というガタイのいい老人を見かけた。茶色い何か、多分揚げ物のパックを右手に持ってぬおっと小さな店から無表情で出てきた。日課なんだろうなあ、かっこいいな、と思った。日傘をさして赤ちゃんを抱っこした女性が前を歩いていた。そこも小さな商店街だったけどさっきの商店街みたいな活気はなかった。素敵なワインバーみたいなところがあったけど朝だからやっていなかった。この人はここで生まれ育った人なのかなあ、と思いつつ華奢な後ろ姿を眺めていたら風が吹いた。その人の日傘は折り畳みで一部畳まれてしまい慌てて戻していた。線路のほうに行くと何かあるたびに付け加えたらこうなっちゃったのかなというような変な構造の階段と橋があった。冨嶽三十六景のひとつの碑も近くにあった。もう全然その景色とは異なるけどそのあたりはまだ緑も多くて想像できなくもないな、と歩きながら思った。

昨日も小説の話を書いたけど小説に出てくる会話って本当にスムーズ。押し黙ったり無視されたり色々しても時間が止まる感覚がない。終わりに向かわなければいけないから当たり前なのだろうけど読みながら「ああ、なんてスムーズ」と感じることが多い。私は物語を作る仕事として自分の仕事を捉えていないのだけどそう捉える学派もある。昨年、平井靖史さんの話を聞きながら思ったけど精神分析は進まない時間、受動も能動もない時間を持っている。続きも膨らみもしない時間。過去は常に揺らぎをもたらすから本当はそんな想定はできないのだけど人が常に生きているのが当たり前だとは思えない。自殺もウィニコットのいう意味での「生気」もそういう瞬間と関係していると思う。その人の選択の一瞬。昨日はもともと壊れた心という言い方をしたけど自分が他人から生まれたといううちとそとの変な反転によって異質なものを抱えこんでいる原初の状態(だるいとかいう身体感覚も)をそれとして、それを「いろいろある」と分散として捉える機能とそれを他者に見出して投影できることでさらに形を変えていくこと、そのプロセスに精神分析の言葉は関わっているのだと思う。だいぶ何を言っているのか、という感じがする。資料作らねば。今からかよ。あー。

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雷、小説

お湯を沸かしている。昨晩の雷は荘厳だった。一瞬の強い光が空を白く覆った。音がするまでの秒数を数えるのは小さい頃からの癖だ。群馬は雷の多い土地だった。これはそんなに近くない。頭上ともいえないどこかで何かが爆発するような音が重たく響いた。昨日の雷がいつもと違うと思ったのは地響きを感じなかったからかもしれない。私の場合の「いつも」は群馬での「いつも」だから東京の雷はいつもこんな感じだったかもしれない。今は空はすっきりと水色でいろんな鳥の声がする。風も爽やか。

小説家たちは雷をどう表現しているのだろう。私が最近読んだ本の中にも雷は出てきただろうか。私は芥川賞とか直木賞とか本屋大賞とかに疎い。著者たちが一生懸命SNSで発信している読者による番付ものは少し知っているが選考委員のいる賞というのをよく知らない。先日、小川洋子の『妊娠カレンダー』を読んだ。あとから芥川賞受賞作だと知った。おそらく発表があった日のニュースとかではそこそこ関心を持って見ているのだろう。でもそれを理由に読むことがあまりないのだろうと思う。悲しみが悪意を纏ったような小説だった。小川洋子は不穏さにむけて繊細な言葉を紡ぐのが本当にうまい。繊細さというのはそもそも不穏さと関連しているのだろう。出版社ページの紹介文には「悪意」とあってたしかに悪意なのだが少し壊れた心が私たちの最初の持ち物だしそれぞれが侵襲しあう日常でよくこれで保っているものだと感じることは多い。精神分析を受けている途中、私は本当に自分が壊れるのではないかと思った。壊れるというのは自分で自分のコントロールを失うということ。実際はかなりの程度失ったことで委ねるということに開かれたわけだが。なんとか侵襲に持ち堪えようとするなかで繊細な心がかたまっていき細やかな観察は大雑把な殺意へと変わる。これが小説なのは主人公が最後まで自分のしたことの帰結に意識的であるところだと思う。最後まで自分の足で歩いているという感じがする。このコントロール力が小説の素晴らしさだなと私は思う。コントロールを失った世界に句読点を入れることは難しく自分が壊れないための着地点を見出してもそれはすぐに踏みにじられる。子供を容赦なく殺す戦争は次のプロセスを破壊する行為だがいくらそうしたところでどこかで子供は生まれる。終わりのないものを終わらせる力を持つ小説が壊れそうな心に届けばいいなと思う。

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「葦」のお菓子、湘南台

鳥が鋭く一回ピピッて鳴いた。鳥の声って表現しにくい。口真似はよくやるけど全然似てないって自分でわかる。難しい。

今朝は湘南クリエイティブガトー葦、藤沢ルミネ店で買ってきてくれた焼き菓子から「五心マドレーヌ」。すごく黄色い。下に黒豆が入ってる。甘すぎなくて美味しい。このお店、「湘南クリエイティブガトー」なんていうのが頭についてたんだ。前に藤沢市湘南台に散歩に行ったときに駅前でいかにも地元っぽいケーキ屋さん&カフェ!と思って入った店が「葦」。名前もいいでしょ。入ったら人気店みたいで続々ケーキを買いにくる人がいてびっくり。カフェも昔ながらでこじんまりしてて湘南台の人をたくさん観察した。湘南台はこういうカフェがあっていいなあ、と思いながら帰りに相模大野に寄ったらビルの中に「葦」の販売だけの店舗が入ってて結構大きい会社なのかあと思った。そして今回は藤沢ルミネの「葦」。あっち方面、何方面と言えばいいのか、神奈川の平塚、藤沢方面は東京から見たら何方面なの?まあいいか、そちらの方にお店がいくつかあるんだって。湘南台ローカルでもよかったのになあ、とその趣にグッときた一観光客としては思うがいろんなところにあるからといってその何かが変わるわけでもないのにね、とも思う。湘南台って何があるわけではないのだけど楽しかったんだよね、お散歩。だからぎゅっと湘南台メモリーズにしておきたいだけね、きっと。駅から「葦」に寄ってまっすぐの道は公園に繋がってて手前には藤沢市湘南台センターってプラネタリウムがある建物があってとても面白い建物だった。随分古い感じだったから建築物としても有名なのかも。もっといくと藤沢市総合市民図書館。ここ最高でした。特に子供の本のフロアーが大充実。ぬいぐるみとかもかわいくて一日いられる。図鑑とかも充実してたし歴史学ぶにもいいと思った。地元関連の本も良かったしね。さっきちょっと調べたら蔵書数は約54万冊で市立図書館の蔵書数としては多い方みたい。図書館のデータって面白いので日本図書館協会のサイトを見てね。週末も地元の図書館の話をしたなあ。学校より図書館にいた。そこから遊びに行っててっきり図書館にいると思っていた親にバレて怒られたりした。今は怒られることはあっても躾的に怒られることはほぼないからな、と言いつつ親からではないけど「いつも蓋が半分開いている」とかそういうことを指摘されることはあるな、と思い出したりした。

 輪島と珠洲に5強の地震か。本当に大変だな。テレビつけたら倒壊した建物が映っていた。もう5ヶ月経つのに。気持ちがどんどん落ち込んでしまわないようにどんどん支援が入りますように。志賀原発もあるし。うーん。被害が広がりませんように。

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鳩、居場所

雨の音。空が白い。お湯が沸いてスイッチが落ちた音がした。鳥もないている。うちのベランダで雨宿りしてくれてもいいよ、と思うけど前に鳩がいつきそうになったときは追い払ったんだった。ごめんね。そういえばオフィスの小さなベランダにも鳩が棲みつきそうになったことがあった。オフィスは都会なので窓の防音能力が高いのだけど鳩の声は結構すごくて面接中ポッポポッポずっと鳴かれるときついな、と思って追い払いはしなかったんだけどいつかないでくれた。でもそれを経験してから手すりに鳩が歩いているのを見かけるだけでもびくんとしちゃう。そんなびびることではないのにね。びくんとしてから「鳩だぞ。毎日会ってるではないか。鳩だって手すり歩いたりベランダに降りたりするだろうよ」と思う。外で会う鳩は観察したり写真撮らせてもらったりしてるのだけどねえ。昨日も日陰に並んでおさまっている鳩の写真をSNSにあげたしね。そのすぐそばでは強い日差しで羽を乾かすようにお座りしている鳩がいっぱいいたのだけどね。鳩のあの着崩すかのような座り方、独特だと思うのだけど着崩せるくらいの羽根の分量がある鳥はみんなするのかな。普段隠れちゃってるこの部分も乾かしましょうかね、みたいな感じで羽根広げ気味で座るの。日差しが強い日はいつも観察してしまう。おしゃれなのか?と思って。私も着崩し系スタイル好き。ダボっとしたシャツの余った部分とか握ったり巻いたりしてたい。それは着崩しというのかわからないけど。

今朝は「世にもおいしいチョコブラウニー」シリーズから「イチゴミルクブラウニー」にしようか、あとなんだっけな、「チーズケーキ」かな、黄色いやつ。迷いますね。新しいのが出るたびに買ったりもらったり。最初の頃、なにこれ美味しい!と思ったほどの感動はないのだけどチロルチョコと同じで何か新しいのが出れば普通に買ってしまう系のお菓子です。なんとか「系」という言葉が苦手だけど今日はいっぱい使ってるな。「系使う系の人」とかいう言い方も出てきてるかな。

昨日は「子供の居場所」というキーワードであれこれ考えていた。これもすでに使い古されている言葉だけど東日本大震災後、子供の居場所づくりに関わったり、精神分析家候補生として世話されたり教育されたりするという意味で「子供」の立場であったりしたからその居場所の提供の仕方について考えていた。学会誌の紙面の割き方とかもそう。ただ入れ物を作ればいいものではないし、一度作るとそれをなくすのは結構大変なのでこれからの子供や子供的立場の人たちのニードも考えてそれは提供されるべきだと思う。自分が労力をかけるかどうかということも相手にその労力をかけさせるかどうかという点も両方大事。何かを継承することについて考えているんだよ。きっとこれまでもいろんな方法でされてきたと思うけど、輪島の状況とかみても今は文化を残す意味から伝えていかないとなんだろうなと思う。でもそうやってお勉強みたいに伝えていくものではないよね、文化って、本来。芸術と同じだと思うの。

しまった、寝てしまった。とにもかくにもがんばりましょう。

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六月一日朝

大きな車が通ると家が少し揺れる。本棚のガラスが少し音を立てるから揺れたと思うだけで体感があるわけではないのだけど。少し前、鯉のぼりの時期に東京タワーのビール祭りのようなイベントに行った。東京タワーにいくのなんて何年ぶり。大江戸線で行ったんだけど大江戸線の新宿駅はよくわからないなあ。また都庁に戻ってしまった。何をいってるかわからないと思うけど私がよくわかっていないから説明できない。でもまあ急いでいない限りはなんとかなる程度の難しさではある。東京タワーってフードコートとかお土産屋さんとかちょっとしたギャラリーとか結構充実してるのね。そりゃそうか。スカイツリーは千葉の保育園に仕事に行くときに押上乗り換えで時間あるときが多いからちょい寄り道みたいな感じで行くことがあるけど規模は違えど東京のシンボルだものね、どちらも。そりゃ充実してるか。東京タワーのローカルさは群馬っ子の私が上野駅でレトロを感じたのと同じ雰囲気があってとてもいいね。私が小さい頃は上越新幹線は東京駅まで通ってなくて上野止まりだったから東京といえば上野駅のあのホームだった。上野駅の中も可愛いものいっぱいあるよね、特にパンダグッズ。東京タワーのお土産屋さんにもすごくかわいいお菓子がたくさんあって母の日のお菓子も買ったんだ、そういえば。変なのもいっぱいあったしまた行きたいけどそのためだけに行くには不便な場所だよねえ。帰りは別の駅までお散歩してそれはそれで発見も多かったけど散歩コースって感じともちょっと違う雰囲気の街だしねえ。でも書いていると色々思い出してまた行きたくなる。ビールのイベントの逆側の広場ではハイボールと唐揚げみたいなイベントしてた。大人向けにしたいのかな。そっち側はものすっごくたくさんの鯉のぼりがハタハタしてたし。あとね、東京タワーの中でなんかアクションゲームとかモーターなんとかのVRとかも体験できる場所があってね、ということを最初に書こうと思ったのにこんな余計なことをいっぱい書いてしまった。最初に大きな車でうちが揺れるような体感のことを書いたときにそれを連想したの。さっきからストレッチポールに足引っ掛けたり乗っかったり全然落ち着いて書いてないのだけどなんか身体がだるいし痒い。ダニかなあ。怖い。対策してるのになあ。ちっちゃいポツができて痒くてでもひっこんで、でまたできて、みたいなね。皮膚科に行こう。前は地元にいい皮膚科があったのだけど変わってしまったからなあ。オフィスに近いところで探そうかな。耳鼻科と眼科はいいところを教えてもらったのだけど皮膚科は「あそこなくなっちゃったよねえ」と残念がっただけでまだ開拓できておらず。眼科は今のところで十分いいのだけどね。健診の案内も来たから早めに行かないとな。これはかかりつけの内科に行ったついでにサクッとできる。でもかかりつけの先生も高齢だからなあ。また友達情報を頼って探すことになるのね、きっと。今日も原稿。締切過ぎてしまったけどお願いして1日伸ばしてもらった。とても優しいお返事がきてすごくありがたかった。ありがたいのでがんばらねば。ああ。私のキャパ越えかもしれないがな。ハハハ。6月はたくさんの人に会う予定。楽しいといいな。みんなも楽しいといいね。どうぞ良い一日をお過ごしください。

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文化、シームレス、画一性?

雨。熊本では地震。この地震自体も心配だけど揺り戻される記憶も心配。外ではバイクの音。新聞かな。以前は夕刊の準備をする新聞屋さんの姿もたくさんみたけど今は早朝バイクの音を聞くくらい。以前みたいに一軒一軒で止まる音とは違うから新聞配達ではないのかもしれないけどこの時間だからそうかな。雨の中大変だけどこれもずっと続いている文化なんだよね。輪島のこととか考えてると文化を継承するって日常を大切にするってことで日常を大切にするって生活を大切にするってことで、じゃあその生活をどう無事に成り立たせるかといったら、とか色々考えてしまう。

今日締切のものが終わってないけどどうしましょう。やるしかないけど隙間時間にやるには課題が大きい。少しまとまった時間があれば一気にできるんだけど夜は疲れ切っていて無理だし、今か。この2時間でやればいいのか。ああ、キウイまだあったかなあ。アンドロワ・パレの焼き菓子があとひとつある。「パウンド・オレンジ」。この語順がフランス。コーヒーを淹れよう。「アンドロワ・パレ」って「御殿場」に合わせた造語なんだって。「場・御殿」ってことね、きっと。フランス語って話す人によって印象が違うけどそれは日本語も同じね。しっかし語学堪能な人って多いよねえ。ほとんどシームレスに切り替えるもんねえ。コーシャス・クレイかよ。こうやってサボっているから終わらないのだ。ああ。

仕事って本当に自分のためにやるものだから評価とかどうでもいいと思ってるのだけど反応は大事。でも評価されないと収入増は望めないのでそのうち評価ももう少し目指さないといけない。今更だけどお金をもっと貯めないと国際学会に行けない。今回すごくお金使ったもの。辛い。自分のためというのがシームレスに相手のために繋がっている必要が私の仕事にはある。私にもあるのか、シームレス領域。嬉しい。だからね、描写するときに治療者が自分の反応ばかりいっているのは本来ありあえないことなんだけど指導しているとそこを指摘しないといけないことがとても多いし、私も若い頃そうだったから気持ちはわかるんだけど指摘された方はナルシシズムが傷つくから普通に「相手の反応のこと忘れてた!」となれないものなんだよね。オグデンは転移と逆転移は相互のものではなくてユニットをなしているという当たり前のことを書いているけどこの理解が本当に難しいのだと思う。片方を見ると片方が消える世界なんてSNSがまさにそうだよね。自分が被害的になるとすぐ攻撃。たやすく鏡になる。がしかし「強者」たちは他人の言葉を上手に引用するので「みんな言ってる」感で連帯するのも上手。難しいことだ。がしかし(連投)私の仕事はコミュニケーションなので他者の言葉は引用として使うべきでなく他者は部分ではなく全体であり部分の総体が全体であるというのもまたほんと、という視野をわすれてはならないので都合のいいとこだけ他者利用する話し方はすぐに行き詰まってしまう。こちらが指摘するまでもなく行き詰まりは起こる。まあ昨日私も「技術と革新」さんというアカウント(改めて書くと面白いアカウント名)の

“「多様性を認めろ」というより「画一性に支配させるな」という気持ちのほうが近い だって画一性に支配させるべきではなくない?”

という投稿をRTしたけどほんとそれって思ったからついしちゃた。自分の言葉で語ると色々めんどくさいからつい。だけどSNSって自分の言いたいことを支持してもらう場になっているのがまずいわけだから気をつけないとだね。おうちで済ませないのですね、という感じ。でもほんと「多様性」って言葉も使いづらくなったよね。これだけ断片的な言葉に脆弱な「強者」の独りよがり言語が蔓延ると大変なことになると思う。なんかいちいち「検閲かよ」と思うことも増えてるし嫌になる。「強者」がかけてくる圧力って大体「俺の意見となぜ違うのだ」というものだし「強者」だけあって自分が見下されたとなると上手に相手を見下し返しして、そこに似た人たちが短時間で乗っかる設定がSNSでしょう。そうやって圧かけて「みんな同じ」になってるだけだから画一性とも言えないと思うけどそういうのを画一性っていうのかもね。はあ、大変。それよりこのお天気、ひどくならないでほしいし雨だけでなく、どの地域でも、特に能登や熊本や東北や阪神や震災の記憶が濃いところに被害が重なることがありませんように。

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言葉、身体、音

シャワー。今は朝シャンって言わないのか。私自身、言わないが。言わないけど思い浮かべる自分世代の言葉ってある。今は朝シャン以外思いつかないが。「オイ!鬼太郎!」が思い浮かんだがそれは世代の言葉とは違う。この前若者が言っている言葉がわからなくてきいてみたらごく普通の省略だったんだけどそこ略す必要全くないじゃないかと思った。でもそのうちそっちがメインで使われる言葉になるかもしれないからね。なんて言葉だったか私はもう忘れちまってるけどね。

今日は素早く移動しなくては。嫌だなあ。もう「素早く」とか無理。今、iphoneが勝手に記録してる歩数を見てみた。結構歩いてるなあと思ったら「今年の平均歩数は昨年よりも少ないです」だって。一万歩超えてるのにね。毎日一万歩は歩いてるんだね。来月からは移動が減るからぐっと減るだろう。でも柔軟性と筋力高めるために基礎の基礎からみてメニュー組んでもらえる先生についたから身体メンテナンスはしていけるかな。身体硬すぎて笑われてるけどきついながら楽しい。こういうトレーニングの仕方もあるんだなあ、と新鮮。色々やってみるもんです。

お祭りに行きたい。能登にはたくさん有名なお祭りがあるんだよね。瀬尾夏美さんが東日本大震災の時と違って被災地がとても静かだと言っていたことが頭から離れない。東日本大震災のあと、南三陸にNPOで入ったときだったか、みんなで、私は小さい子を抱っこして、踊った記憶があるけどあれはお祭りではなかった。なんだったんだろう。子供たちが喧嘩で「死ね」といいあっているのが聞こえたときのなんともいえない空気も思い出す。「動かないんだけど」とボランティアさんが言いにきた。一緒に行ってみた。どこ?と思ったらすぐ足元に小さく小さくうずくまっている子がいた。びっくりした。ボランティアさんがどんな声かけをしても動かないという。大地に張り付いたみたいに動かないその子としばらく一緒にいた。「どうしようか」というとなんとなく動く気配があった。なんだか胸が締め付けられるような感じで小さな声で「抱っこ?」と聞くとしがみついてきた。それからずっと抱っこしていた。お祭りみたいな音楽がなってみんな踊り出して私たちも踊った。その子は腕の中でとても楽しそうに笑っていていつまででも抱っこしてるから大丈夫だよという気持ちになった。本当は全然大丈夫じゃないし、私はいつまでも抱っこできないし、私が抱っこしつづけたところで何も変わらない。それでも、という体験だった。あれから13年。あの子はどうしているだろう。能登にも音が、人が訪れますように。何ができるわけじゃないと思っていてもやらざるをえない何かがいけばあるというのが現状だろう。瀬尾夏美さんのSNSもぜひ追ってみてほしい。能登の写真や様子を知ることができる。そして今、東京のポレポレ東中野では『生きて、生きて、生きろ。』を上映している。今日 5/30(木)は出演者で精神科認定看護師の米倉一磨さんのトークイベントがあるという。相馬にボランティアに行ったときにお世話になった。彼らの実践は『災害看護と心のケア ――福島「なごみ」の挑戦』(岩波書店)という本になっている。彼の明るいリーダーシップにとても助けられたし皆さんに本当にお世話になった。私は一体何をしにいったのか、と思うけど仮設住宅の方にもたくさん笑わせてもらった。内容だけ取り出したら全然笑い話ではないけれど私たちはみんなよく笑った。北国の仮設住宅ならではの苦労さえ面白く話してくれた。もちろんケアマネさんしか会うことができない方もいらした。生存を確認するのに私たちは音を聞く。心臓に耳を押し当てたり、寝息に耳をすましたり、聞き慣れた声での返事を待ちつづけたりする。音が聞こえない街に普通の足音や普通の話し声が増えていきますように。

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レモンケーキ、The Lemon Twigs、クリーニング屋さん

二度寝した。何度寝でもできるがコーヒー。今日も御殿場のケーキ屋さん「アンドロワ・パレ」のレモンケーキ。昔からあるうっすらホワイトチョコがかかったレモン型のレモンケーキってどこのでしたかしら。はじめて食べたとき、感動した。見た目もとってもかわいいしとっても美味しかった。レモンケーキっの特別感ってあそこからきてるのだと思う。最近だと瀬戸田レモンケーキが有名?しまなみ海道、瀬戸田町生口島、とってもいいところ。しまなみ海道の島々は水害の影響がまだ残るなか、地元の人が「ぜひいらして」と言ってくださったので甘えて行った。復旧の目処が経っているのかどうかもわからない立ち入り禁止場所も多くあったし胸を締めつけられるような場面にも立ち会った。でも景色の素晴らしさ、昔から残る工場内のお菓子屋さん、お花がいっぱいの道の駅、全部全部素晴らしかった。そこにお迎えに来てもらったんだ、最初。

近所のクリーニング屋さんが閉店するとこの街から引っ越していった方のSNSで知った。私がこの街に越してきてからずっとお世話になっていて自分で洗えるものは洗い方を教えてくれたり、商店街のお祭りの焼きそば券くれたり、会えばいつも挨拶してた。改めてご挨拶に伺わねば。引っ越していった方がわざわざご挨拶に戻ってくるのもよくわかる。新しく街に入ってくる人にとってあの安定感ある優しさがどれだけ支えになるか。

最近、雨は嫌だなというときと晴れてるとき、つまり大体いつもThe Lemon Twigsの『A Dream Is All We Know』を聴いてるのだけどこの音の明るさはすごいね。レトロ感もあるし。空の様子も本来いろんなものが混ざり合って煌めいたり曇ったりするのだろう。イヤホンでじっくり聴くともっと遊びを感じる。高校時代に戻ったみたいな音楽。私が琵琶湖湖畔(好き)でカフェをやるとしたらこのレコードは定番にするなっ。前に行った琵琶湖湖畔のカフェがとても楽しかったんだ。

昨日、バスの中から有名人を見た。いつもキラッキラの大きな瞳だなあ、と思っていたけど実際そうでびっくりした。かわいかった!私がこれまで一番会ったことのある芸能人は柄本明。下北沢でぶつかりそうになったこともあるし、柄本明が車にぶつかりそうになったところも見たことがある。もちろん何事もなく歩いているのも見ている。お互い気をつけましょうね、私もぶつかりがち。彼はいつも素敵なジャージを着ている気がする。たまに演技が怖すぎるけどだからこそ大好きな俳優さん。下北沢は私が劇場に通っていた頃の下北沢ではなくなってしまったけど好きなお店もあるしいつまでも懐かしく感じる街なのだろうと思う、私にとって。思い出が多すぎる。

なんか今朝はノスタルジック回だな。もう焦らないといけない時間だ。がんばろ。

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防災速報、能登、ブラジル

鳥たちがそばの空を賑やかに通り過ぎていったみたい。元気なのかな。今朝は御殿場の「アンドロワ・パレ」の「ケーク・オ・フリュイ」。「御殿場でケーキ」というのを強調しているのがちょっと面白いWebサイト。甘い。コーヒーで正解。

朝から防災速報。新宿区は1時間後くらいに30mm/hだって。それまで0mmなのに。線状降水帯の可能性のある地域も心配。水害も本当に大変ですよね。空の様子はどうなっているんだろう。こういうのは温暖化とどのくらい関係しているのだろう。私たちが耐えられるくらいの雨であってほしい。自業自得って言わないでほしい。こっちの希望ばかり押し付けやがってって言わないでほしい。自然の声に耳を傾けないと。昨年の夏、青森で聞いた地元の人たちの声を思い出さないと。今はとにかく今日、被害が出ませんように。もちろん明日も、その後も。能登には特に。

能登に手伝いに行きたいけど行けない。東日本大震災のときはNPOにいたからすぐにバスや調理のできるトラックを出せたし、チームで動いていたから役割分担もスムーズだった。能登にはそういうチームがあまり入っていないらしくとても静からしい。この前、瀬尾夏美さんがYouTubeの番組で言っていたけど能登は遠くないよ、と。確かに。金沢まで新幹線で行けるから。この前、国際精神分析協会(IPA)のMLでブラジル南部のリオグランデドスル州で起きた洪水に対する支援について書かれていて、私はそこがどこなのか全くイメージできなかった。調べてみたらそのときは日本ではあまり多くは取り上げられていなかった。SNSでは動画もたくさん流れていたけど。この大洪水に加え、猛暑、干ばつによって、人だけではなく、動物や農作物にも被害が出て輸入価格も値上がりするとか書いてあった。全部つながっている。能登にだって一気に支援が入らないのは色々な要因があると思うけど輪島とか日本の重要な文化遺産さえ救えないとしたらほんと政治って何、という感じがする。東京で最優先でやるべきことってなんだろう。「べき」で考えていかないと具体的にならないから。

今度、人前で発表するのだけどそのときに原稿を映写することになった。もちろんそれを必要とする人もいるだろうしするのは全く構わないけど、ちょっとその必要性を聞いてみたらなんか大きなことみたいになってびっくりしたというかなんというかとなった。具体的な障害に対する一貫した対応を考えたうえで最低限これはやろうとかいうのを最初に打ち出しているならともかく、そういう観点がないからこうなるのだろう、と思った。あったらあっさり指示出せばいいだけだもん。時間を割いて考えるべきことは何か、と考えらえるようになるまでにはいろんな経験が必要だな。気をつけよう。ただ個人的にはいってみるもんだなと思った。こんなことでこんなふうになるんだ、というのがわかったのは悪くないから。面倒になることは極力避けたいから何も言わないっていう選択も相手によっては重要になるしいろんな方面からいろいろ学ぼう。ボトムアップのアプローチを可能にするためにはいろいろいろいろ大変だ。がんばろ。

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残りの時間とか瀬尾夏美さんの活動とか。

ハーブティーをいれ、「たけのこの里」を数個食べ、ありんこを数匹やっつけ、おしゃれ着でもないが手洗いが必要な服の洗濯もして思い出話を書いていた。具体的なことは最小限で書くというより、どの部分を具体的に書くかを工夫するのは症例検討のための資料を書くときと同じ。この調子だといくらでも書けてしまう。書きながら構成が見えてくるまで続けようと思ったがまだ見えてこない。題名は先に決まったので私はそれについて書きたいのだろうと無意識に従う方向で筆も勝手に進んでくれたらいいがそんなことは起きないのでなんとかせねばならない。今日も2つのグループがあるので今のうちに進めねば。ネバネバばかりにしたのは自分。嫌ですわ。それにしても思い出話を書いていると亡くなった人の多いこと。10年ほど前までは私はあまり人の死に出会っていないなとか思っていたが今は身近だ。私も精神分析家になったとしても訓練分析家になるまでに実績をあげねばならずまたどんどん歳をとるだろう。日本の精神分析協会では訓練分析家として候補生を受け入れられるのは75歳までだ。そんなに時間は残されていない。そこまで生きているのかどうかもわからないが精神分析が日本に残るようにどうにかしないといけない。精神分析は高度に知的でお金のある人に対する治療であるというのはフロイトを読めばそうなのだが、お金の援助が出る国で一気に広まったのも事実。それは国にお金があるということなので結局お金の話である。日本はこんな小さい国なのにさらに狭い人間関係を維持する程度の「思いやり」しかないから書籍の世界の「ケア」が流行るのでは、と疑っている。地震から5ヶ月が経とうとしている能登はとても静かだそうだ、人がいなくて。家は崩壊しているのに「家が片付いていないから」と支援を遠慮するお年寄りもおられるそうだ。瀬尾夏美さんは静かな能登で手伝いを必要としていそうな方に声をかけ手伝い、ひどい状態のままの写真やそんななか世話されて咲いた薔薇の庭や美しい海岸の写真を撮っていた。それをSNSで発信されていたので別の配信番組も見てみたら現場の写真と共に現状を色々お話しくださっていた。現場に行かないとわからないことだらけだが瀬尾さんの話を伺うかぎり、とりあえず能登に人の声を増やすことが必要だと感じた。たしかに東日本大震災で郡山の避難所に行ったとき、多くの支援者が既に入っていたし音が途絶えることはあまりなかった。相馬の仮設住宅は静かだったが看護や福祉の専門家の声かけが生活に即していてかつ暖かくとても勉強になった。声かけと声を交わすことは大事。配信番組のメインは「原爆の図 丸木美術館」学芸員の岡村幸宣さんをゲストにお話を伺うというものだったが丸木夫妻が作品に込めたものなどを知ることができてとてもよかった。絵画ならではの闘い方というのがあるのだな。いろんなことはそんな単純ではないからこっちでは対立しているのにこっちでは共有する思いがあるとか色々だ。相手から搾取しようと傷つけようと自分の痛み以外はすべてなかったことにして、わかりやすさと温厚さでかさ増しした軽薄な言葉で物を書いたり配信したりする人と、それを「知性」として受け取って賞賛を欠かさない人というそこだけwin-winカップルいうのがよくある構図だから瀬尾夏美さんたちの活動は現実的で励まされた。今日もできることをしよう。

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ありんこ、文化

早朝からバタバタした。ありんこのせい。数えるほどしか出ないのがまた厄介。どこからきているのかを突き止めたいのに。高いところにいかれちゃうともうどうにもできないし。でも彼らがいかに直線を辿るのが得意かがよくわかった。直線がなくなると慌てて次の直線を探している。しかし家の中は直線だらけだ。私から見てもこれだけ直線が多いのだからありんこにとってはほぼ直線しかない世界に見えるだろう。あと洗剤に敏感なのと鈍感なのがいる(私の実験によると)。とかやっていると朝の数十分はすぐに過ぎる。ああ。一日1ページ訳そうと思っていた文献があるのにそれも数日やっていない。その前に、その前に、というものがたくさんある。困った。

今朝は冷やしておいた「たけのこの里」を数個。我が家は夏はものすごく高温になるのでなんでもかんでも冷やさねばならない。だからありんこも住みやすいのかしら。あ、また奴らに気を取られてしまった。これがいけない。ああ、句友たちのように素敵なつぶやきやお知らせをしたい。というか彼らならこの状況だって素敵な俳句にしてしまうだろう。俳句はマッチョな世界だけど賞とかに興味を持たず淡々とレベルの高い俳句を作り続けている人たちもいるし、結社以外でもオンライン、対面どっちも多くの句会で重なって出会う人もいる。私はもっぱらオンラインだけど細々とでも定期的にやっていると本当にたくさんの表現に出会う。面白さとか美しさはそれぞれ感じ方が違うので自分にピンとくる俳句があればそれだけでいい。文化の継承に使命を持つ人はそうはいかない。たくさん勉強してたくさんアウトプットしなくてはならない。精神分析に関しては私もそうしなくちゃいけない。海外のように、というかフロイトの時代からそうだったように毎週定期的に学術的な集まりがあればいいのだけど日本の今のシステムでは圧倒的にそういう場が不足している。臨床と離れたところで行っているものはたくさんあるが精神分析家になる、あるいはそれであり続けるためには臨床と離れては意味がない。精神分析固有の体験と理論は10年近い訓練でだいぶ乖離がなくなってきた。なのでいつも書き始めるまでが恐ろしく長いとはいえ何か書いたり発表したりする自分に嘘っぽさを感じなくてすんでいる。フロイトもラカンもウィニコットもみんな精神分析の症例から理論を組み立ててきた。実践のおかげでこれらもだいぶ咀嚼できるようになってきたがまだまだだなと思う。とか言ってるうちにこんな時間だよ。がんばろ。今日はラットマン読みますよ。

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ジョーダン・ラカイ、泣く女

今朝はまずキウイ。これまだ酸っぱい。この前のはとってもいい硬さ?柔らかさ?どっち使っていいかわからないくらいちょうど良くて甘さも絶妙だったのに。まあ違う日に買ったのだから違うのは当たり前。一個一個違うのも当たり前。キウイ食べてハーブティーいれて柳樂光隆さんの最新のインタビュー記事にあったジョーダン・ラカイ(Jordan Rakei)を流してぼーっとネット見てたらこんな時間ではないか。何事か。今回もいいインタビューだった。少し前のカマシ・ワシントンも父親になったことでの変化について語っていたけど『虎に翼』のようなドラマがこれだけ支持される中、こういう父親になった人たちの声も拾っていきたい。耳を傾けてくれる相手は誰にでも必要だ。

「感情の面でいうと、自分の感情に向き合えるようになったと思う。以前は「妻や両親の前で感情的にならないように」とか自分をガードしていた。ところが子供ができると、そんな心配はしていられない。人生がより甘く優しく感じられるようになるんだ。それとともに僕の歌詞も変わった。「Flowers」は妻のことなんだ。一種のラブソング。そういう曲は書いたことがなかったけど、素直に感じていたことを書いてみた。世間からどう思われるかなんて関係ないって思えるようになったからね。子供が生まれたことで、自分がエゴが少し和らぎ、現実的になり、プロセスに対する偏見がなくなったんだよね。」

ジョーダン・ラカイのインタビュー 音楽家にとっての「成長」とは? ジョーダン・ラカイが語る人生とクリエイティブの再発見

それにしてもジョーダン・ラカイの声も曲も良すぎるな。最近聞いていなかった種類の音楽だ。ついきちんと聞いてしまって手が止まってしまう。意識すればこうやって書けるが。

朝ドラ『虎に翼』にすぐ泣いてよねさんに怒られてしまったり、みんなの時間を少し止める中山先輩という人が出てくる。「女はすぐ泣く」「泣けばいいと思って」みたいな、こういう登場人物を泣かせてきた人たちの言葉が聞こえてくるような感じだけどこのドラマでは弁護士になるまで残る女として描かれた。面白かったしすごくいいなと思った。私は仕事柄毎日いろんな涙と出会っている。泣くこと自体がものすごい意味を持っている場合もあればここでは言葉を出せば涙も出てしまうという場合もある。子どもの頃、あまりに多動と不器用で怪我が多かったのだけど全然泣かない子でミシンで指を縫って(?)しまって保健室に連れていかれたとき、男子たちが「あみが泣くぞ」とみんなで見にきた。私的には痛いし悲しいし情けないしで泣いている気分なんだけど彼らの期待している泣きは違ったのだろう。なーんだ、という感じで去っていった。いつも一緒にサッカーしたり家に遊びにいくような仲の良い男子たちだったけど今どうしているのか。一人はすごい見栄えのいい不良になって捕まったりしてその後もその日暮らしをしていたところまでは知っている。今は知らない。大人になって実家の方の商店街で声をかけられたときも見栄えの良さに誰?となったがすぐわかった。当時は呼び捨てだったのに「ちゃん」づけになっていた。大人だ。なのか?高校生のとき、私の友達に二股かけられてまいってたよね。キミの相談にのったあの喫茶店、もうなくなってたよ、というかあなたの方が地元に詳しいか。泣きたいときは好きに泣こうね。泣き方とかどうでもいいから。

今日もすでに日差しが強い。最近「すでに」を使いすぎだな。なんでだろ。「それはすでに提出した」とか言いたい。「すいません、ギリギリになります・・」しか言えない。まあ、がんばりましょ。

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「への」、訓練のリアルとは。

小さいバニラクッキーをふたつとレモングラス&ジンジャーティー。美味しいなあ。熱いのを飲むと少し暑いな。夏。

戦争が身近でつらいですね。こういう一つ一つのことが戦争につながっていくんだな、という実感もつらいですね。

今度、日本精神分析協会の学術大会で「精神分析家への訓練、そのリアル」というテーマでパネリストとを務めるのだけど「精神分析家への」の「への」と「訓練」のつながりの悪さが気になってしまった。引き受けたときもなんか不思議と思ったけどいざ話すとなるとなんで「精神分析家への道」とか「精神分析家になるための訓練」とかではないのか、と思ったけどこの二つにしたって前者はプロセスのことで後者は手段のことだから内容は変わってくる。「への」は方向性を示すものだし、確かに訓練は精神分析家になることを目指して行われるものであるのだけどなんかしっくりこない。なんでだろ、ということをずっと考えていた。「精神分析家への道」=「訓練」がくっついている感じの「精神分析家への訓練」。この違和感についても話すかどうかだねえ。

精神分析は言葉の違和感にうるさいというか大切にする。初回面接でもその人らしい表現というのはたくさん出ていて、継続して会っていけばもっと多彩な表現が見られる一方でパターンも浮かび上がってくる。それは関わり方を示すものでもあって精神分析のように週に何度も会っているとその人の言葉の使い方とかこちらの言葉に対する反応の仕方とかがすごくよく見えてくる。精神分析理論を基盤に生まれた短期力動療法のように抵抗を中心的に扱っていく技法は関係性ありきだと思うが、精神分析が特殊な技法なのは関係ありきではないということだろうと最近の私は実感している。

以前、私のオフィスのウェブサイトで短期力動療法について紹介した際、私は精神分析についてこう書いていたらしい、ということをさっき確認した。

「精神分析はお互いのこころをフルに使いあうものなのでお互いに相当のエネルギーがいります。「こころを使う」というのは単に自分の気持ちに意識的に気づくというものではありません。それはタブーとされているような人間の生の部分にフルに触れていくことであり、自分の無意識に翻弄されながらも生活を維持することです。こころはいつでも壊れる可能性を持っています。精神分析は異常と正常の間、意識と無意識の間でギリギリの体験を扱っています。したがって治療者が使う注意力も精神分析ならではの質を持っています。
だからこそ精神分析の治療者になるのであれば訓練が必須で、まずは自分が十分にそのこころの動きに耐えられるようになる必要があります。やってみなくてはわからない、というのはどの治療も同じですが、精神分析を受けることは他の心理療法とは異なるかなり特殊な体験となると思います。」

私は最初から「お互いの」ということを強調していたんだなと思う。「こころをフルに使う」というのをこの時はまだよくわかっていなかったが訓練を終えた今ならよくわかる。それはかなり知的な作業でもある。精神分析は自分が預かり知らぬところで失われたものを弔う作業だ。ナルシシズムによって補ってきた喪失や欠如を「他者」に対して開きつつもそこを勝手に埋められることに抵抗するものだ。「ギリギリの体験」と書いたのも当時それを実感していたからなのだろう。私は今や「他者」とか「関係」という言葉を括弧つき以外で使う気にならない。とかいって普段は使うと思うが、対象や関係を前提にできない世界を私は学んだ。言葉は人と人を単に繋ぐのではなくそこには常に切断と距離があることを意識させる道具だと思う。

なんかこういうことがわかるようになって思考パターンというより軌道が変わったというのが私の訓練のリアルでしょうか、ということを話せばいい気もしてきたな。外側に現れたものとしてはこれこれこれで、全部後付けではあるが実感としてたしかなのはこれでおそらく当時の私はこうだったのだろう、みたいな。まあ、いろんなことが起きるしふたりで起こしていけるかどうかなんだろうね、という感じかな。今日も長いぞ。がんばろう。

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冷やし中華、アルキビアデスなど。

お土産の紅茶のクッキー、すごく美味しい。とってもいい香り。レモングラス&ジンジャーのハーブティと。Tea with Tea.あったかい。寒い日でなくてもあったかい飲み物はおいしい。暖房をつけなくなってからどのくらいの日々が過ぎたのだろう。私は半日だけ外のクリニックで働いているけどそこは暖房と冷房の切り替えが全館共通だから気温の変動が激しい季節は調整が難しい。いつだったか少し前のすごく暑かった日にもまだ暖房しかつかず冷蔵庫じゃない、扇風機で対応したりした。なんで今冷蔵庫を先に思いついたのか。冷たいつながりとはいえ。昔、冷やし中華めぐりをしようとなったのだけどそんなに行けなかった。その後も今年こそはと話すもののそんなに行けていない。ということを先日思い出して特に暑くもない日に冷やし中華の看板を見かけ、入ってみた。そこはお皿の半分はレタスという感じで量が多くないのは助かった。まずいわけではないのだけどなんか物足りない。それこそが冷やし中華の特徴だったりするんだっけ。具材と麺のバランスの問題?これまで美味しいなあと思った冷やし中華ってタレが絶品だった気もする。麺はパスタ以外そんなに食べなくなったから自分がどんなものを好んでいたかも忘れてしまった。量を食べられないから残しちゃうのが申し訳なくて。ということは家で作ればいいんだよね。冷やし中華なんてもう何年も作ってないけど考えてみたら全然難しくないのだし。そうだそうだ、自分で好みのタレを作ってちっちゃい冷やし中華を作ろう。

毎日仕事時間が長いから帰り道になると疲れちゃって音楽聴きたくてもイヤホンを出すのがめんどくさいし本を読みたくても集中できないしでぼんやり電車を待って、乗って、再びぼんやりする。でも本を読むのが習慣になってしまっているので首にぶら下げた(これも省エネ)iphoneでkindle開いて適当に開いたページを読んでみる。文字が頭に入ってこない。疲れてる。ということで適当に別の本の適当なページを開いてみる。やっぱり無理。ということを繰り返していた。ふと「アルキビアデス」の文字に目が止まった。愛と欲望の話はややこしいけどアルキビアデスには笑ってしまう。なんとなくおかしく読んでいたらラカン登場。そうだ、これはラカンの本だった。今私はなんの本を開いたのだっけ、とkindleを確認したら『ラカンと哲学者たち』工藤 顕太著(亜紀書房)だった。久しぶりに開いたな。プラトンの『饗宴』でも最後に登場するのがアルキビアデスだと思うけどこの本もこの人で締めるのね。ソクラテスの強力な欲望を前にしたアルキビアデスの幻想など、という感じか。どっちもどっち、という感じもするが、欲望という点では。愚かなのはアルキビアデスだけど冷静に考えれば私たちが近いのはこっちでしょう、多分。というか、とソクラテスの悪口を書きそうになってしまった。よく知らないのに。よく知らない人のことを悪く言ってはいけないね。でも好きになるのだってよく知らないうちに、むしろよく知らないからこそ好きになったりするのだから知る知らないはあまり関係ないかもね。実際と離れたところではじまってしまっている関係に踊らされちゃったりするのが私たちだものね。マッチ先輩の「愚か者」が脳内を流れてしまう。そういえばこの前、ある先生と「抵抗」の文脈で音楽の歴史について話した。先生が音楽仲間とポップミュージックの歴史の話をしたんだよ、と言っていて、私はその比較でジャズの歴史の本にこう書いてあって、など話した。面白かった。朝はやっぱり夜より元気なんだな、こんなこと書いちゃって。今朝は音楽はまだ鳴らしていない。何聴きましょうね、今日は。柳樂光隆が紹介していた尺八奏者の方のYouTube面白かったな。尺八を吹き始めたジャズミュージシャンのシャバカのアルバムは彼らからみるとどうか、というお話。プロはすごいな、と毎日何かしらで思っているけどこの青木さんたちもすごい。力抜けてる感じもプロって感じがする。はあ。今日も長いぞ。がんばろう。

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共にいること

早朝から家事をがんばった感じがあったがそんなこともなかった。ゆっくり過ごしながら家事をのんびりしただけだった。今日は洗濯物干しっぱなしでいいかな。暑くなるらしい。窓を開けたら鳥が賑やか。活動時間が早くなっていると思う。何喋ってるんだろうね。私は最近学生時代にボランティアをずっとやっていてその後非常勤でいっていた施設で一緒に過ごした言葉の出ない重度の自閉症の人たちのことをよく思い出す。同世代だった。その施設や関連の仕事についていたら私の生活は今とは全く異なったものになっただろう。毎日自然の中をお散歩したりドライブに行ったり歌ったり大きなお鍋でごはんを作ったり。家事は全てこちらがするけれどそれが当たり前だから何かをしてあげてる感じもないし大変さはもちろんあるけど穏やかな日々だった。安全で健やかでいてもらうこと、それが一番大切で難しいことだった。だってそのためには職員もそうでないといけないから。彼らの保護者の歳をとる前にできることをという気持ちは本当に切実だ。最近メジャーデビューした壷阪健登のピアノを聞く。With Time.彼らと一緒に聴きたかった。みんな今どんな暮らしをしているだろう。あの仕事を続けていたら今とは全く異なる生活になったかもしれないと書いたが、あの日々がなかったら今の生活もなかっただろう。大切な時間だった。

朝のうちに文献を少し読んでいいかげん書き始めねば。先日、転移を認識する・させるについて話があったが、現在の精神分析は転移が生じるかどうかがまず問題になる場合が多いだろう。私の考えではその可能性のアセスメントにもある程度の期間の精神分析が必要になる。フロイトは精神分析の適応についてかなり慎重で狭い範囲の病理を考えていたが現在の精神分析が対象とするナルシシズム、倒錯、自閉症は古典的な理論では理解が難しい。それでも人が人と関わることで何かをするということは変わらない。対象を対象として自然に立ち上げることをしない病理(と呼ぶかどうかさえ疑問だ)と共にいるには「共に」が生じるまでに時間がかかる。それで困っていない場合はいいのだがどうしても困る事態が生じたときに対象と関わり合うことを前提とした理論はあまり役に立たないだろう。人は心の中から対象を締め出して空想でいっぱいにすることができる、というような事態を何度も何度も実感しないことにはそれが長い時間をかけてもたらす困難を知ることはできない。問題は時間をかけて形をなす場合もあるし発病という契機があることもあるしとにかくことは複雑であるということ。今日もそういう複雑さを単純化したい心たちに抗いながらやっていくのだろう。なかなか気づきにくいことだけど。

西側の窓からなのに日ざしがすでに強い。皮膚も守らねば。守っててもかゆみや痛みや赤みなどすでに色々出てるけど仕方ない。地球のことも考えないとまた海の様子が変わってしまう。昨年青森で受けた衝撃を思い出さないと。どうぞみなさんもお大事に。お元気でお過ごしください。

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紫陽花、中村達連載、ゲンナリ

雨がまだ降ってる。何度起きてもずっと降ってる。今朝はだいぶのんびりしてしまった。雨の音を聞いているとすぐに時間が経ってしまう。

昨日は朝から夕方までずっとPCの前にいなくてはいけなかったので始まる前に散歩に出た。いつものカフェはまだやっていなかった。日曜日は少し遅い始まりなのか。それがいいね。日曜の朝は静かでのんびりしていていろんな紫陽花が咲き、梅が色づき、朝顔がラッパの形で顔を出していた。夕方PCの中のみなさんに挨拶をしてまた外へ出た。雨がパラパラ。一応傘を持って出たけどさすほどではなかった。紫陽花あるかなあといつもとは少し違う道を歩いていたらドクダミにはたくさん会えたしここにこんな大きな木があったのか、と見上げたりしたが紫陽花がない。これだけ歩いて出会わないのも珍しいな、と思っていたらようやく住宅街の小さな庭先に小さい紫陽花を見つけた。しばらく歩くとその先にいつもの紫陽花とカシワバアジサイが見えた。会いたかったよー。カシワバアジサイは面白い形で大きいから目立つ。線路脇のそのお家のは結構背が高かった。雨の音。紫陽花には嬉しい雨かな。なんだかんだ雨が似合う花だと思う。

散歩に出る前、柏書房のwebマガジンで連載中の中村達さんの「第2回 ホモ・ナランス 「遭遇」の記憶を物語ること|君たちの記念碑はどこにある?――カリブ海の〈記憶の詩学〉」を読んだ。

コロンブスによる「発見」以降、発見する主体としての西洋と発見される客体としての非西洋という一方的な図式が再生産され続け、西洋は非西洋との「遭遇」の記憶を一方的に語り、カリブ海の人々に語られる対象としての他者という役割を押しつけてきた。ジャマイカ人小説家・批評家のシルヴィア・ウィンターは詩人セゼールとフランツ・ファノンを参照しながら人間が生物学的かつ社会発生学的に物語る文化を育む種であると主張する。ウィンターは「ホモ・レリギオースス」(homo religiosus)「ホモ・ポリティクス」(homo politicus)「ホモ・エコノミクス」(homo oeconomicus)という「人間観」の問題を明らかにし「物語る種」としての人間、「ホモ・ナランス」(homo narrans)というあり方を提唱した。

と著者の言葉を引用しつつまとめて書くとこんな内容から始まり、この部分だけで1回分でもよいのではないかという重要度だと思うが、その先も長い。その次にきたのがアーレントだ。昨年、田野大輔、小野寺拓也たちによる『〈悪の凡庸さ〉を問い直す』でもアーレントの言葉が検討されていたがここではアーレントがアフリカを捉えるその仕方が取り上げられている。欧米のホロコーストをめぐる記憶研究によって「多方向的記憶」を打ち出した比較文学研究者マイケル・ロスバーグによる批判がそこに続く。

「アーレントが見ているのは確かにトラウマ的な経験としての西洋とアフリカの「植民地的遭遇」であるが、「そのトラウマは被植民者側のものではなく、植民者側のものである」

「第2回 ホモ・ナランス 「遭遇」の記憶を物語ること|君たちの記念碑はどこにある?――カリブ海の〈記憶の詩学〉」

と。そうか。

私は次の部分にも衝撃を受けた。

「アーレントは、理性を備え経済的にも優れた西洋文明人である「ヒト」を「人間」として当然のように表象し、西洋人にトラウマをもたらす野蛮なアフリカ人は「人間」として欠如を抱えた他者として隔離しているのである。そしてこの「人間の分割」は、ウィンターが人間の特異性として語った物語る種としてのあり方をも分割してしまっている。すなわち、「物語る」西洋人と「物語られる」非西洋人という人間の分割である。」

少しずつ勉強しているとはいえ少ししか勉強しない私にとってアーレントはまだまだ理想化されていると思った。相手が誰であろうとその言葉をその人のものとして追っていく仕事をしているのに、そして引用したような事態は論理的に考えれば普通に起こりうるのにアーレントがそれに加担していることに驚いた自分にゲンナリした。日曜の朝、紫陽花を愛でながら追う一方で、ゲンナリしていた。両立するもんだ。思い出したらまたゲンナリしてきてしまった。仕事に戻ろう。こうやって何度も気づきながら行くしかない。今日は月曜日。がんばろう。

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下西風澄「戦争のさなかに踊ること─ヘミングウェイ『蝶々と戦車』」

昨日はいい文章を読んだ。下西風澄「戦争のさなかに踊ること─ヘミングウェイ『蝶々と戦車』」というミシマ社のウェブ連載「文学のなかの生命」の連載である。今回、第13回ということだがご本人のSNSによると5年ぶりとのこと。2022年『生成と消滅の精神史 終わらない心を生きる』(文藝春秋)を読んだときもとてもいい心の書物に出会ったと思ったが今回もよかった。私は下西風澄が撮る写真に惹かれるところがありその後は文章より写真を見てきたような気がするが今回なんとなく読んでみて丁寧で切実かつシンプルな文章にまた胸打たれた。文学作品を知らずとも誰でも読めるのでぜひ。ヘミングウェイの『老人と海』を親が愛読していたがそれはこういうわけだったのか、など思ったりもした。先日、サラ・ベイクウェル『実存主義者のカフェにて 自由と存在とアプリコットカクテルを』(向井和美訳)を読みながら著名な哲学者たちの愚かさ、ひいては人間の愚かさについて考えていた。今回の連載で取り上げられたヘミングウェイの『蝶々と戦車』における水鉄砲の男を彼らにも重ねた。人間の心を守るために最も必要なものが愚かさだろうと私はどこかで思っている。下西風澄によるヘミングウェイ『蝶々と戦車』の読みに本当にそうだなと思った。

「はたから見ると、ふざけているように見える蝶々のような酔っ払いのダンスは、命がけのダンスだったかもしれない。本来は同じ国に生きる仲間であるはずの男たちに殴られ、血だらけになりながら水鉄砲で香水を撒き散らせていた男の心の中は分からない。彼は死にたいほど不安だったかもしれないし、誰かを殺したいほど緊張していたのかもしれない。それでも男は、暴力という戦車に向かって、蝶々のように踊り、そして撃たれて死んでいった。」下西風澄「戦争のさなかに踊ること─ヘミングウェイ『蝶々と戦車』

彼は死にたいほど不安だったかもしれないし、誰かを殺したいほど緊張していたのかもしれない。」の部分がいい。この切迫感が彼を踊らせ続けた。

何回やめてと言われても相手が泣き出し怒り出し飛びかかってきても相手の真似をするのをやめない子供を思い出す。見ろよ、これがお前の姿だよ、気づけよ、こんななんだよ、と言葉にせず行動にする。自ら鏡を買ってでるのは実はそれは自分でもあるということに気づいているから。否認したいから。それが行動に攻撃性を帯びさせる。それを防衛して笑う。変な踊りをする。相手はどんどん怒りを強める。殺したいのは相手じゃないのに。自分なのに。緊張と弛緩、笑いと怒り、そして踊り。誰もが知っている自分の姿であり友の姿であると思う。投影過剰なのは現代に限ったことではないのだ。だから精神分析は生き残ったともいえる。複雑すぎる心は関わりによってより複雑になると同時に象徴機能によって単純で単一になったりもする。そこで止まったらそれは知ったかぶりでしかなく再び体験の複雑さに戻る必要があるのだろう。痛いほどわかる。