カテゴリー
精神分析 精神分析、本

ボラス「境界例の欲望」とかグリーンのthe negativeとか。

時間がないないといいつつ、書誌情報をせっせと整理。これ、短時間の作業を積み重ねればいいから、時間がないときにぴったり。

そもそもボラスの書誌情報を整理しはじめたのは、先日、読んだアンドレ・グリーンの論文でボラスが引用されていて、「そんな美しくない言葉はボラスは使わない!」と思ってチェックしたのがはじまり。ボラスの重要な著作は館直彦先生が訳してるし、解題も丁寧だから、私が書誌情報の整理なんかしなくていいのだけど、そこそこボラスを読んできた身としては、「この時期に書いたからこの概念はこう書かれているのか」とか「この論文があとでこの本に入るのか」色々発見があって楽しい。短時間で区切れるので、素早く気持ちの切り替えをするときの作業として良きよ。

「そんな美しくない言葉」と私が思ったのは「解釈ハラスメント」という言葉。まあ、グリーンが明確に「ボラスがこういった」と書いているわけではないのだけど、アンドレ・グリーンは結構、引用、適当なところあるから「ボラスはそんなことしないもん」と思ってしまった。おまえはボラスのなんなんだ、という感じですね。

しかもです。今回読んだのは、André Green の Contemporary Psychoanalytic Practice(André Green, Editor: Litza Guttieres-Green)に収録された第3章 “Issues of Interpretation: Conjectures on Construction”。

そこでグリーンがボラスを引用していたのだけど、私が「あ、これかな」と思い浮かべたのは “Borderline Desire”(1996)だったのです。でも、Referencesに挙がっているのは Bollas, C. (2007), The Freudian Moment. London: Routledge. で、そこに “Borderline Desire” は入っていない。

となると、もしかしたらボラス自身が interpretive harassment という言葉を使ったのでは、という疑いが生まれてしまった。それでおそるおそる(恥ずかしいでしょ、なんか)原著に検索をかけてみたらヒットせず。なので、たぶん少なくともここでは使われていない。少しホッとした。

ちなみに “Borderline Desire” の書誌情報を整理してみると、

1995年 IPA第39回大会(サンフランシスコ)で発表。
1996年 Bollas, C. “Borderline Desire.” International Forum of Psychoanalysis, 5(1), 5–10 として初出。
1999年 Bollas, C. The Mystery of Things. London/New York: Routledge に再録。同書の Acknowledgements にも、“Borderline desire” was published in the International Forum of Psychoanalysis (1996) とある。
2004年 館直彦・横井公一監訳『精神分析という経験――事物のミステリー』岩崎学術出版社。「境界例の欲望」として邦訳。

私が読んだのは1996年版。なぜこれを読んだかといえば、アンドレ・グリーンが引用されていたから。私はアンドレ・グリーンの名前を見ると、なんでも覗いてみたくなってしまうから。

1996年版には脚注としてグリーンの Le Travail du Négatif(1993)が参照されていて、本文末の References でも1番に André Green, Le travail du négatif, Paris: Les Éditions de Minuit, 1993 とある。

ところが『精神分析という経験』所収の「境界例の欲望」を確認すると、この脚注がない。いまのところ邦訳でしか確認していないので、原著の The Mystery of Things に再録された時点で削除されたのか、邦訳の段階で省かれたのかは要確認。

でも、なぜ?これがあるから重要だったのに、私にとっては。講演を論文にするのと本の中の一章にするのでは対象も異なるから、あえて書かなくてもいいこともあるのかもね。

この論文は短いけれど大事なことが書いてあるので、グリーンがいようがいまいが読んでよかったと思う。でも、1996年のボラスが自分の議論とグリーンの「ネガティヴの仕事」との親近性をわざわざ書いていた、ということ自体が私には面白い。

こういうのがあるから、書誌情報を整理するのは楽しいのだ。

せっかくなので、『精神分析という経験――事物のミステリー』に収められた「第9章 境界例の欲望」には収められていないアンドレ・グリーンがでてきた脚注と同じく省略されたボラス自身の脚注を訳しておく。

「2 通常であればそれ自体として対象を表象するはずの心の枠組み(frame of mind)が、その対象そのものになってしまうと考えるなら、アンドレ・グリーンが「ネガティヴ(the negative)」と呼ぶものが、境界例においていかにきわめて特有な仕方で作用しているかが見えてくる。境界例の人は、主としてネガティヴな情動を通して対象への愛着を維持するのである。
実際、本論で取り上げる問題の多くは、グリーンのきわめて重要な著作 Le Travail du Négatif と響き合っている。とりわけ、境界例人格にみられるネガティヴなものへの情熱(passion for the negative)についての彼の考察と深い親近性をもっている。

3 境界例における原初的対象は、この患者のなかに、知られてはいるが、まだ思考されてはいないもの(something known but not yet thought)として保持されているのだろう。私は以前の著作でこれを「未思考の知(the unthought known)」と呼んだ。そして境界例患者との関連については、「Loving Hate」という論文で検討した。」

どちらも二人の中心概念についてごく簡単に書いてあるだけにみえるけど、私が「あれ?」と興味をひかれたのは、ボラスが、ここで Le Travail du Négatif を挙げて、境界例の場合、negative affects を通じて attachment to the object を維持する、と書いているところ。

つまり「the negativeが対象を失わないための媒体になっているってこと?」となった。私は「アタッチメント」「愛着」という言葉は使わないようにしているけど、the negativeへの気づきが対象化、形象化の起点になるとは思っているので、それ自体は同意する。

でも、グリーンにおけるthe negativeは、対象を保持する働きだけでなく、対象を消去し、脱対象化していく働きとも結びついていたと思う。だとすると、negative affectsを通じてattachment to the objectを維持する、というボラスの言い方を、グリーンのpassion for the negativeと深い親近性をもつとしてよいものだろうか、と思ったりする。まあ単にaffinitiesがあると言っているだけだから「書き換えた」というほどのことでもないし、たいして気にするところでもないのかもしれないけど、グリーンの対象化、脱対象化機能の問題は、私の興味あるところなので少しひっかかった。

それにしても、ボラスの表現は臨床的で、論理的で、それでいて情緒的で喚起的。ダンテの引用もメルヴィルの引用もいい。短い論文なのに、対象とは、情動とは、欲望とは、ということを患者の体験から離れずに考えさせる。

なのでやっぱり「そんな美しくない言葉はボラスは使わない!」という私の最初の直感は、たぶん間違っていないと思うのだ。

最後に、私がこの論文でとても素敵な表現だな、と思っている文章を邦訳(172‐173頁)のほうから紹介する。

「境界例の患者たちと作業することによって、以下の仮説を提案することができるだろう。幼児として先天的な障害を受けている場合でも、環境によって混乱させられている場合でも、いずれの場合でも、一次対象は、正常な発達の一部分として取り入れられる鏡のような現象としてよりは、むしろ自己のなかに繰り返し蘇るものとしてのみ体験される。木々の間を風が通り抜けるように、これは自己のなかを通り抜ける動きである。どんな感情であれ、この対象の存在を示唆するものがあると、境界例の人は、通常の感情を混乱させる体験へとエスカレートさせることで、この対象を探し出そうとする。」(引用終り)

とりわけ、「木々の間を風が通り抜けるように、これは自己のなかを通り抜ける動きである」が好き。関係ないけど「とりわけ」という言葉も私は好き。

ちなみに英語で読んだときには、最初の段落にでてくる“homing” intensity という表現が心に残った。homingって「帰っていく」ということだよね?ここには、帰る場所を探し当てるような欲望の強度を感じたな。邦訳ではここは特にカッコつきの言葉にはなっていなかった。でも、この homing という一語は、この短い論文全体をよく表している気がしたよ。

今日も言葉を豊かに。大切に。したり、してもらったり。東京は今日も一日雨模様みたい。みなさんの空模様はどうでしょう。能登の7時の気温は23度ですって。風邪ひかないように気を付けて過ごしましょう。

好きな道が通行止めで寂しい。
カテゴリー
精神分析

つもり

冷蔵庫から麦茶を出した。そろそろ作り置きしなくてもいい時期かな。カフェでもフローズンドリンクに惹かれなくなってきた。まだまだ暑いのに身体はもう冷やされることを望んでいないみたい。真夏でも冷やしてはいけないのだろうけど美味しいフローズンドリンクを飲むと確実に喜んでるよね、身体。

昨日は仕事の合間にずっと専門書と睨めっこして疲れた。勉強すると賢くなると錯覚できるのはそれをテストにできる場合だと思う。私馬鹿なんじゃないかというか馬鹿なんだな、と自分の知的能力を否認できなくなることはあれど賢くなったと感じることはない。でもこの「私馬鹿なんじゃないかというか馬鹿なんだな」ってこれまでも何度も思っていることだから現実って本当にすぐ忘れ去られ否認による錯覚の世界を生きやすいってことだね、人間は、というか私。

否認も精神分析では重要な防衛機制と考えるが、精神分析には「否定」という重要な概念もあり、『否定Nagation』というそのまんまの名前の短いが重要な一本の論文にもなっている(フロイト(1925),『フロイト全集19』岩波書店)。この論文の冒頭は患者の言葉だ。精神分析の方法である自由連想、つまり思い浮かんだことをそのまま言葉にする、という方法において患者がする語り口、たとえば「そんなつもりはないのです」という否定、ある表象内容に対して無意識的な抑圧が働いていたことはこの否定によって明らかになる、という理解を精神分析はする。「そんなつもりはなかった」、よく聞くし、よく使う言葉だ。精神分析は無意識を想定するため、そんなつもりはなかったが現に今こういう出来事が生じているということに対して二者で思考するプロセスといえる。

昨日、睨めっこしていたのは精神分析の専門書で『アンドレ・グリーン・レクチャー ウィニコットと遊ぶ』(金剛出版)とラプランシュ&ポンタリスの『精神分析用語辞典 vocaburaire de la psychanalyse』(みすず書房)。「表象」について考えはじめたらドツボにハマってしまった。先述した「否定」はフロイトが「思考」に不可欠と捉えた機能であり、事物表象と語表象の区別にも関わるため同時に考える必要があった。

それにしても難儀。精神分析が使う「表象」は哲学で使うそれとは異なるのはわかる。でも何度学んでも自分で説明できるほどにならない。フロイトの初期の著作からずっと登場する概念にもかかわらずスッキリしない。大体フロイトの概念の使用は年代によって変わっていくのでスッキリしてしまったらどこかでついていくのをやめているということなのかもしれないが私の理解はそれ以前の話だ。難しく考えすぎなのかもしれないが難しい。

精神分析でいう表象は対象の痕跡からきたものであり記憶系である。フロイトが否定という機能に重きをおいたことで患者との関わりを思考するための複数、あるいは反転可能なパースペクティブを意識することができるようになった。それによって内部と外部、良いと悪い、存在ー非・存在といった二元性の判断についての探求はもちろん、患者が破壊欲動によって思考すること自体を攻撃し、こころを動かし続けることをやめてしまうこと、それは変形とそのプロセスにおける破滅に対する恐怖からかもしれないなどの仮説もたてられるようになった。

ということがあるので概念の理解とそれによる思考は重要であり、捉え難くともそこに身を置き続ける必要がある。だが難儀だ。今日もまたちょこちょこやるしかないが。精神分析は現実の二者のものなので私が作業をやめるわけにはいかない。ただ無意識的にはありうる。それを「そんなつもりなかったんだけど」と済ませることなくそういう事態が生じたら生じたで何がどうなってしまっているんだ、と二人のこととして考え直す、今日もその繰り返し。

また月曜日。嫌になっちゃうことも多いかもしれないけど毎日が続いていること自体になんとか希望を見出せますように。