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フロイト「否定」論文を少し。

大好きなお店の大好きなカルダモンロールを解凍して、おいしく焼くという大切なミッションがあるから、たった5ページしかないフロイトが1925に書いた『否定(Die Verneinung)』論文(岩波書店、フロイト全集第19巻)を精読することを今日はしない。フランスの精神分析に関心がある方はぜひご精読あれ、5ページだから。

といってもこの5ページにものすごい読解を披露したのがヘーゲル学者のジャン・イポリット。今はBruce finkのÉcrits: The First Complete Edition in Englishとか、同じくフィンクのLacan to the Letter: Reading Écritsなどで読むことができる。邦訳はジャック・ラカン 『フロイトの技法論 (上)』 (ジャック=アラン・ミレール編、 笠原嘉、小出浩之 、鈴木國文、小川豊昭 、 小川周二 訳、岩波書店)とかブルース・フィンク『「エクリ」を読む――文字に添って』( 上尾真道、小倉拓也、渋谷亮訳、人文書院)など。私は『エクリ』の昔の翻訳で読んだ気がする。

フロイトの『否定』論文、ラカンの「排除(Verwerfung / Forclusion)」とグリーンの「情動(affect)」がぶつかるわかりやすい地点もここ。あと、抑圧(Verdrängung)、否認(Verleugnung)、否定(Verneinung)を区別することも大事。

フロイトは「否定は、抑圧されたものを知る一つの方法」であると述べる。「私の母ではありませんよ」というとき、母という表象は意識に到達している。これは「抑圧の一種の解除」であるが、言語との関係でみれば、知的機能と情動的過程がここで分離する。「抑圧の一種の解除」というのは解除される一方で保持もされるということらしく、知的な承認は成功しても、抑圧過程そのものは解除されていない。

キノドス(Jean-Michel Quinodoz)が『フロイトを読む』(Lire Freud)のなかで、この年代にみられるフロイトの概念をまとめていて、それとの関係を考えるのも面白い。

たとえば「自我の分裂(Ichspaltung)。これは1938年の『防衛過程における自我の分裂』(フロイト全集第22巻)につながる。フロイトはそこで、自我は現実を拒否する一方で、現実に由来する危険を認識し、症状の形で不安を引き受ける、という葛藤に対するふたつの矛盾した態度の併存を「自我の分裂」と記述する。「知りません、でも知っています」というような二重性は、「母ではありません」と言うことによって「母」という表象を意識に到達させる「否定」論文の構造を思い出させる。

とまあ、いろんな方向から何度でも読まれるべきなのが「否定」論文じゃないかな、ということで、また今度。

今日は金曜日。東京は雨が降ったりくもったりらしい。がんばろう。

シナモンロールだった。
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アンドレ・グリーンの「ネガティブ」、フロイトの「否定」

さてさて、今日は日本の精神分析があまり取り入れてこなかったフランスの精神分析にとんでみよう。

アンドレ・グリーンAndré Green (1927–2012)のことはよくここにも、もうひとつのブログにも書いてきた。しかし、この一年で修正すべき点もみえてきた。自分の言葉とはいえ書き散らかしているので修正箇所を特定することはできないし、いまだ理解が十分でないところが多いので、ここに書いていることは正しい知識というよりは、すべて理解へのプロセスだと思って読んでいただきたい。勉強する時間がもっとほしいし、もっと賢ければいいのだけどないものねだりはまた今度、と自分に言い聞かせる。

グリーンは、フロイト以降の様々な精神分析理論の発展において、とくに英国対象関係論やアメリカにおける対象や関係を前景化するモデルのなかで後景化してきたフロイトのメタサイコロジー、とりわけ欲動・表象モデルを、対象関係論の成果を取り込みつつ、第二局所論の見直すことでアップデートしてきた。

グリーンはフロイトへの回帰を強調するでも、フロイトを批判するでもなく、対象関係論から発見したものを取り込みながらフロイトのメタサイコロジーそのものを再構築しているようにみえる。

グリーンは、抑圧(Verdrängung)モデルでは捉えきれない心では、なにかが表象されていながら意識から排除されている、というより、表象すること自体が困難であったり、いったん成立した表象や対象への備給が撤回されたりしている状態を考えた。

私はアンドレ・グリーンの対象化/脱対象化機能objectalisante/désobjectalisante (fonction)に関する論文にインパクトを受けてから約2年か3年、グリーンの著作を読み続けている。このブログでの登場回数もその頃から急に増えたと思う。

グリーンといえば、 The Dead Mother、The Work of the Negative、Life Narcissism, Death Narcissismに書かれているように、不在、喪失、脱備給など「ネガティヴ」の働きに関する理論が、その仕事の重要な軸をなしている。

「ネガティブ」は単に「ない」ということではない。重要なのは、「ない」ことによって生じる空間、表象、思考であり、「ない」ことによって消されたり失われたりする備給、結びつき、表象可能性であり、この概念が示すのはそうした心の運動である。

そうだ、グリーンを読むときには、まずフロイトの「否定(Die Verneinung)」論文(全集19 1925-1928)を読んでおきたい。土居を読むときのように、少しだけ読んでおこう。

「私たちの患者が精神分析の作業中に思い付いたことを明かす際の語り口は、若干の興味深い考察をするきっかけを与えてくれる」

フロイトはまず「語り口」に注目する。何を語ったのかではなく、どのように語ったのか。

「本当にそんなつもりはないのです」「私の母ではありませんよ」

患者は、思い付きを言葉にしながら、この言葉との関係を切ろうとする。

フロイトは「解釈する際、否定は度外視して、思い付きの中身だけを取り出す」。

私もそうするときがある。しかし、これは結構大技なので注意も必要だが、フロイトはそうするもんだ、くらいな感じで書いている。

もういかねば。今日はここまで。木曜日だ。がんばろう。

オペラシティのこの道はあまり人は通らないけどいつもきれいに整えられてる。
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つもり

冷蔵庫から麦茶を出した。そろそろ作り置きしなくてもいい時期かな。カフェでもフローズンドリンクに惹かれなくなってきた。まだまだ暑いのに身体はもう冷やされることを望んでいないみたい。真夏でも冷やしてはいけないのだろうけど美味しいフローズンドリンクを飲むと確実に喜んでるよね、身体。

昨日は仕事の合間にずっと専門書と睨めっこして疲れた。勉強すると賢くなると錯覚できるのはそれをテストにできる場合だと思う。私馬鹿なんじゃないかというか馬鹿なんだな、と自分の知的能力を否認できなくなることはあれど賢くなったと感じることはない。でもこの「私馬鹿なんじゃないかというか馬鹿なんだな」ってこれまでも何度も思っていることだから現実って本当にすぐ忘れ去られ否認による錯覚の世界を生きやすいってことだね、人間は、というか私。

否認も精神分析では重要な防衛機制と考えるが、精神分析には「否定」という重要な概念もあり、『否定Nagation』というそのまんまの名前の短いが重要な一本の論文にもなっている(フロイト(1925),『フロイト全集19』岩波書店)。この論文の冒頭は患者の言葉だ。精神分析の方法である自由連想、つまり思い浮かんだことをそのまま言葉にする、という方法において患者がする語り口、たとえば「そんなつもりはないのです」という否定、ある表象内容に対して無意識的な抑圧が働いていたことはこの否定によって明らかになる、という理解を精神分析はする。「そんなつもりはなかった」、よく聞くし、よく使う言葉だ。精神分析は無意識を想定するため、そんなつもりはなかったが現に今こういう出来事が生じているということに対して二者で思考するプロセスといえる。

昨日、睨めっこしていたのは精神分析の専門書で『アンドレ・グリーン・レクチャー ウィニコットと遊ぶ』(金剛出版)とラプランシュ&ポンタリスの『精神分析用語辞典 vocaburaire de la psychanalyse』(みすず書房)。「表象」について考えはじめたらドツボにハマってしまった。先述した「否定」はフロイトが「思考」に不可欠と捉えた機能であり、事物表象と語表象の区別にも関わるため同時に考える必要があった。

それにしても難儀。精神分析が使う「表象」は哲学で使うそれとは異なるのはわかる。でも何度学んでも自分で説明できるほどにならない。フロイトの初期の著作からずっと登場する概念にもかかわらずスッキリしない。大体フロイトの概念の使用は年代によって変わっていくのでスッキリしてしまったらどこかでついていくのをやめているということなのかもしれないが私の理解はそれ以前の話だ。難しく考えすぎなのかもしれないが難しい。

精神分析でいう表象は対象の痕跡からきたものであり記憶系である。フロイトが否定という機能に重きをおいたことで患者との関わりを思考するための複数、あるいは反転可能なパースペクティブを意識することができるようになった。それによって内部と外部、良いと悪い、存在ー非・存在といった二元性の判断についての探求はもちろん、患者が破壊欲動によって思考すること自体を攻撃し、こころを動かし続けることをやめてしまうこと、それは変形とそのプロセスにおける破滅に対する恐怖からかもしれないなどの仮説もたてられるようになった。

ということがあるので概念の理解とそれによる思考は重要であり、捉え難くともそこに身を置き続ける必要がある。だが難儀だ。今日もまたちょこちょこやるしかないが。精神分析は現実の二者のものなので私が作業をやめるわけにはいかない。ただ無意識的にはありうる。それを「そんなつもりなかったんだけど」と済ませることなくそういう事態が生じたら生じたで何がどうなってしまっているんだ、と二人のこととして考え直す、今日もその繰り返し。

また月曜日。嫌になっちゃうことも多いかもしれないけど毎日が続いていること自体になんとか希望を見出せますように。