カテゴリー
精神分析 精神分析、本

土居健郎、七尾線

土居健郎が『精神療法と精神分析』を書いたのは昭和36年、1961年、1920年生まれの土居は41歳だった、ということになる。41歳までの臨床経験をこんな風に言葉にできるのはやっぱりものすごいことだと思う。理論的なことなら若くてもすごいことはたくさん書けるかもしれないがこの本は極めて臨床的な本である。

土居が書いていることは今だったらストロロウらの間主観的な考え方や、ミッチェル、ホフマンなどの共構築的、社会構築主義的な考え方で説明できることがかなりあるように思う。しかし、当時、彼らはまだ登場していない。土居は今だったらわかったようになれてしまう概念をたくさん持ちものにできる時代の人ではないし、概念を道具として使う人でもない。徹底して臨床と実感発の人だ。

フロイトは精神分析は哲学ではないとはっきりいったが、土居も「精神療法は哲学のように存在の意味を問うものではなく、宗教のように価値を教えるものではなく、またイデオロギー(思想体系)のようにすべてを説明しつくそうとするものでもない。」といっている。もちろん土居なのでそのすぐあとに「しかしこのことは、精神療法の中に存在の意味や価値や思想が全然入らないということではない」と続く。常に留保がある。

患者には治療者が必要で、治療者は患者がいなければなにもできない。至極当たり前のことだが、だからといって治療者と患者が対等というわけではない。

赤ちゃんとお母さんという組み合わせで治療者と患者を見立てるならば、というかそれが最近の常だが(ここでの土居は違うが)、お母さんにも先のことはよくわからないけど赤ちゃんの鏡になることで赤ちゃんになり、とまではいわないが、赤ちゃんに同一化しようとしながらその人は母親になっていく。そこにはウィニコットのいう存在し続けること(going on being)が双方にみえる気がする(もちろんウィニコットはそんなこといっていない)。同時に、非対称な方向性へ分離していく人の姿がみえなくもない。土居が例にあげた即興劇における患者が舞台にあげられ、治療者はいつのまにか舞台にいて、でもどちらもまだ観客であるように。

こう書いていて思うけど、土居が医者でありながら医者の権威を意識的にとりあげるのは土居がまだ41歳だったからかもしれない。戦時中の言語に対する抑圧、使っていい言葉と使ってはいけない言葉の存在、精神療法の場で患者が医者としての自分に使う言葉、時代も立場もすべて、土居が権威というものに対してものすごく重く感じるところがあったかもしれない。さらにその後の聖路加病院での勤務とアメリカへの留学、精神分析の訓練、1960年代後半の世界的な学園紛争、その後の東大教授時代、土居の言葉や思想に影響を与えたものの大きさを思うと頭痛がするが土居は日常語にとどまり、ひとりの精神科医にとどまった。臨床と実感、その泥臭さのなかにとどまること。土居には別に聖書があった。私はどうやってとどまるすべを見出していくのだろう。土居の著作がその役割のひとつをこうして担ってくれてはいるが。文学かな。詩かな。俳句かな。どれもこれも言葉の世界。豊かにしていけたらと思う。

今日は土曜日。もらったばかりのおいしい幸水を食べた。いとみずみずし。今日も七尾線は大変そう。特急花嫁のれん号も運休だって。金沢から羽咋、七尾、和倉温泉にいくのに何度か乗った。金沢で新幹線を降りて、特急花嫁のれん号が泊まるホームまでの特別っぽい壁紙をみながら階段下の小さなセブンイレブンでおつまみとビールを買ってのりこむことを何度かした。また行くから、こうやって使う人いるから七尾線さんがんばってください。どうかみなさんご無事で、ご安全にお過ごしください。

カテゴリー
Netflix 精神分析、本

夏の朝、象徴、『W・R・ビオン全集』自伝2巻。

早朝からカビ取りスプレーを使い、窓を全開にしたら生ぬるい風が入ってきた。こういうスプレーは自分もやられてしまうので大変だ。

新宿中央公園のセミたちも本格的に鳴いている。結界を張るかのように鳴いているせいか日中は人が少ない。まあ、暑すぎるということだけれど。

今朝は能登のお米でごはん。2年続けて七尾線に乗った。七尾線は石川県の津幡駅から和倉温泉駅までをつなぐ路線で能登半島の田園風景を満喫できる。GWの車窓には空を映す水田がずっと続いていた。ずっときれいだから同じようで少し違う写真がたくさん撮れた。

最近、夏のフルーツを色々もらった。今朝は「サマーエンジェル」というすももの一種を食べてみた。山梨県オリジナルとして「ソルダム」と「ケルシー」を交配して育成したとのこと。酸っぱさも甘さもちょうどいい。夏はこういうサッパリしたのがいい。

『鬼滅の刃』の映画が話題。無限列車編以降追えていないけど、話題になると見たくなる。主人公がいい子すぎるところに最初からあまり乗れていなかったが見たら見たで止まらなくなる多彩さがある。この前、同業の先生たちとNetflix話をしたが、それぞれすごくよく見ている。実はわたしたち暇なのでは、と思うほどだが、単に睡眠時間が少なくなっていたり、そのための時間確保や体調管理に務めているという話でもありその話も面白かった。楽しむためのいろんな管理は大事。

私は最近思うところがあり、というか相変わらず日本でいう15年戦争を入り口に色々みたり読んだりしていて、そのひとつに当然マンハッタン計画もあり、そういえば『オッペンハイマー』をまだみていないな、と思った。とりあえずすぐにみられるクリストファー・ノーラン監督のものということでDark Knight Trilogyを見直そうと『バッドマン・ビギンズ』を再生。このお母さんってジブリに出てくる夫のそばにはいるがちょっと子供と距離のあるお母さんみたいと思ったり、子供のトラウマを父と母が共有しないことで父子の物語にして執事に母性を担わせたのは男社会の映画として面白いな、とか適当なことを思いながらみているが、本当に断片しか覚えていないものだな。映画も本も本当に覚えていられない。だから何度も見たり読んだりする、ともいう。主人公が自ら「象徴」になろうとする話って日本のアニメでも色々あると思うのだけど「俺はなる!」みたいな感じでなるものではないよね、「象徴」って。

精神分析は象徴をめぐるあれこれを扱う学問だけど、特定の誰かが象徴として機能している学問ではないと思う。「祖」と呼べる人が数人いるだけで。その一人であるビオンの精神分析家以前(生い立ち、第一次世界大戦)と精神分析家にならんとするプロセス(第二次世界大戦を経てクラインと出会うなど)をビオンの嘘のない言葉で読めるのが『WR・ビオン全集』(著作15冊+索引)The Complete Works of W.R. Bion. Karnac Books. (2014)の第1、2巻。これまでもビオンをたくさん訳されている福本修先生の監訳。訳者はそれぞれドイツ、イギリスの文化に馴染んでいる方々で注釈もとてもありがたい。戦争のあれこれに触れ続けているのは今、世界がそういう状態だからというのもあるけれど、フロイトをはじめとするユダヤ人分析家とナチスの関係に対する関心が強いから。あとはこのビオンの戦争体験。すでに色々なところで話されていることだとは思うが、ビオンの言葉を断片ではなく追うことでビオンの理論の背景がいかに困難が多く、かたそうなのにものすごく豊かな思考がそれらをいかに言語化してきたか、ということ自体に胸を打たれる。高いけど全集の全訳というのは本当に価値があるので(絶対自分でできないから)チェックしてみてほしい。

WR・ビオン全集』(著作15冊+索引)

The Complete Works of W.R. Bion. Karnac Books. 2014.

第一巻

長い週末 1897-1919』(The Long Weekend 1897-1919: Part of a Life)

第二巻

『我が罪を唱えさせよ 人生のもう一つの部分』(All My Sins Remembered: Another Part of a Life

『天才の別の側面 家族書簡』The Other Side of Genius: Family Letters

第ニ巻の邦訳にはビオンの息子ジュリアンが父ビオンのことを書いている。福本先生が寄稿をお願いして引き受けてくださったらしい。ジュリアン・ビオンはthe Professor of Intensive Care Medicine at the University of Birminghamということでバーミンガム大学の集中治療医学の教授で、その分野の様々な会の長を務めたり数多くの賞を受賞されている。第二巻は妻とジュリアンたち子どもらへの父ビオンからの手紙も収められているが、一人の息子として父ビオンを語るジュリアン先生の文章もミルトンの引用もとても素敵だった。いろんなことを感じたり考えたりしながらビオンを読んでいけそう、と思った。ビオンもフロイト同様、徹底して精神分析家であり、良き父親だったらしい。ビオンの書き方はフロイトとは全然違うけど(対象も目的も違うから当たり前だけど)とても読む価値ありの二冊だと思う。

今日も暑そう。熱中症ってあっという間になるから気をつけましょうね。どうぞ良い一日を。