誰にでも優しい親とか恋人とか持つと大変なときがある。一番厄介な感情は嫉妬。「誰にでも優しい」というのはほとんど不可能で誰か特定の人に誠実で愛情深い方が結果的に誰にでも優しい気がするけど(人に不安を与えないあり方を知っている、つまり人の気持ちがわかるからでしょうね)それは置いておいて嫉妬ってすごく不快だけど興味深い。人殺したりする力がある一方で別の対象が見つかればたやすく薄まったりもする。私が嫉妬でしんどいなと思うのはその相手に囚われていると時間もエネルギーも浪費している気がするのにそこから抜け出せないこと。厄介だなと思うのは「外では」「誰にでも」「優しい」のに身内には全く違ったりすること。というわけで全部が括弧付きになってしまうわけだ。でも愛憎はそんな簡単に分けられないから「そんな人とはお付き合いするのはやめましょう」とはならないわけだ。親と縁を切る、もう離婚する、あんな奴とは別れる、と何度も何度も言っているけどなかなかなかなか、という場合もたくさん見ている。そういうものだと思う。簡単ではないのだ。浪費は必要。時間も必要。そういう体験は必要。「必要」といえるのは嫉妬だけではなくてその人を辛くさせる感情がどこからきてどうなってしまっているのかについて一緒に考える時間や労力を負担なく割ける人だろうけど。もちろん本人がそう思う場合に同意する形でのみだろうけど。必要かどうかなんて他人がいうことではないだろう。簡単じゃないんだよ、と何度も言いたいよ、自分にも。わかっていてもできないこともたくさんだから。私たちはかなり愚かだから。
三木那由他さんの『言葉の展望台』(講談社)という本を読み始めた。『群像』で連載中だが私はたまにしかチェックしていなかった。読んでよかった。今年3月にでた『グライス 理性の哲学 コミュニケーションから形而上学まで』(勁草書房)はちょっと難しいので放っておいてしまったけどこういうエッセイで言語やコミュニケーションの具体例とともにそれを当たり前にせず、そこでは何が起きているのか、それはどういう意味なのかについて考えるところから始めると読める気がしてくる。私の仕事と近いから。またトライしてみよう。
今朝はやることが多いのになんとなく書いてしまった。習慣ってすごい。こういうひとり遊びは誰とも約束しているわけではないからいつでもやめられて楽ね。
「コミュニケーションは、話すひとから聞くひとへの約束の持ちかけだ。しかし、コミュニケーションの外側での力関係によって、それがどのような約束であるかが、話している当人の望まないかたちで決められてしまったらどうだろう?」18頁
ー三木那由他『言葉の展望台』(講談社)
どうだろう。嫉妬などを考える場合にもこのような視点は重要だろう。何はともあれ今日もいろんな気持ちになりつつ無理せずがんばれたらいいなと思う。少しずつ先送りしつつ少しずつ考えていこう。