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精神分析

「いいね」の応酬

泣いては眠り、泣いては眠り、何度目かに起きてやっぱりSNSにしかいないと確認して急に冷める。なーんだ。話されていないことのほうが重要、なんてこと、いつもそうと知っていたはずなのに。話していたあのことは話されていないこのことに向かっていてそんな日はいつもこうなる。なーんだ。もう泣きすぎて疲れて涙になるような気持ちにもならないし身体もどう動かしたらいいかわからない。なーんだが空虚にこだまするだけの身体。なーんだ蝉、だな。蝉は短命でいいな。もう夏は終わった。暦上は。

眠れない、生きてたくない、という投稿が増える時間。わかるー、と思って知らない人にいいねを押し続ける。我先に。そうしている間は多分大丈夫だから。向こうはまだ昼間だという。まだ?もう?先に進んでいるのかこれから追いついてくるのかなんてどっちでもいい。闇ではない。それだけで羨ましいようなこっちでよかったような気もする。

何年も何年も毎日毎日男女問わず年齢問わず数えきれない人の話を聞いてきた。仕事だけではなく。

私は「シスターフッド」という言葉をよくわかっていない。調べればわかる程度にはわかっているがそれが具体的にどう可能なのかがわからない。性別問わずたくさんの人に支えられてきたが私の周りは圧倒的に女性だった。彼女たちは私に理不尽で過酷なことが起きたときもそれを中立的な態度で聞いてくれてどう行動を起こすのか起こさないのかを私が自分自身で考えられるように一緒に考えてくれる人たちだ。子供の頃なら身内や友人が、社会に出てからはやはり身内や友人や職場の人が支えてきてくれた。これはシスターフッド?あえてそういう必要ないよね、と思う。私が戦うべきかどうするか考える対象は男性とは限らなかったし。私の理解ではあくまでフェミニズムの運動の歴史と文脈において外部へ働きかる際、男性に対して必要となる連帯がシスターフッドで当時はあえてそう呼ぶ必要があったと思うが現在の日本でその用語を使用することはあまり適切ではないのではなど考える。この用語に限らず男女の分断が言葉の吟味がされないせいで生じてはいないだろうかなど考える。知性溢れる明快さで強い語調で女の傷つきが語られているのをみるとなんだか傷ついてしまう。それは誰の痛みの発露だろうか。それとも愛とか欠如とか不在とかなんとか、など考えてしまう。

わからない。人は恐ろしく自己中だ、簡単にいえば。私も含め。そしてそれは悪いことではないはずだ。ただ時折死にたくなるほどに苦しくなるからいい悪いの話にした方が楽なときもある。傷つけるより傷つかないこと。不安は別のものに置き換えること。「いいね」を微妙にずらした相手へ向けること。持ちつ持たれつの「いいね」の応酬に終わりはない。今日も見ないふりをする。

作成者: aminooffice

臨床心理士/精神分析家候補生