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読書

金沢とか書物とか

金沢の和菓子だー、と他人の写真をみて羨ましがっている。美味しいお饅頭をいただきながら。熱いお茶でポカポカ。このまま身体が冷めませんように。薄手のダウンも脱いだり着たり。

金沢にはじめて行ったのはまだ新幹線が通っていないとき。調べたら2015年開通だからその前。まだフランス語を習っていて先生に金沢をどれだけ歩き回りいかにその価値があるかを少ない語彙で熱く語ったので2014年かも。精神分析の訓練にはいるので時間もお金も作らなくちゃでやめたんだ、フランス語。訓練終わったらまたやりたいと思っていたけど今はボクシングの方がやりたい。ケイコ(映画)のせいだな。

金沢は本当に天国みたいなところだった。と書いて金沢にはじめて行ったのはもっとずーっと前じゃん、と気づいた。20代の頃だ。福光屋さんの前で「ここなんだろ」と覗いていたら中に入れてくれていろんな段階のお酒を試させてくれたんだ。数年前に行ったときはすっかりきれいでおしゃれなお店になっていた。古き良き時代じゃった。と感じたのはその部分だけで何度行っても金沢は和菓子とごはんと美術と哲学と自然の宝庫だよ。また行きたい。

金沢といえば昨年『世界を変えた書物』(著/山本貴光 編/橋本麻里) という素敵な図録がでた。2012年金沢から始まり各地を巡り2022年金沢に戻り閉幕した展覧会『「世界を変えた書物」展』に合わせて出版された書物だ。内容については前にも書いた気がするのでためし読みもできる小学館サイトでぜひチェックを。自然科学分野を中心に、今となっては偉人のみなさんたちの「初版本」をたくさん見ることができる。まさに金沢という地にぴったりの知の集積と連環。文字は山本さんの解説しか読めないけど(原典はラテン語とかだもの)解説を読むと「へーそうなんだ!」とワクワクしながら眺められる。こういうのをこんなぎゅっとコンパクトに解説したり、こういう本を編集できてしまう知性もどうかしてるのではというくらいすごい。

私は今日も眠くてしかたない。寒さでシャキッとすることもなく色々巻き付けて縮こまるのみ。春よーとおき春よ♪待ってるから早くきて。今日も暖かくして過ごしましょうね。

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精神分析 読書

風鈴、『ケチる貴方』、吝嗇

伊万里で買ってきた風鈴がチリンチリンいっている。早朝に暖房をつけると最初は強風が満遍なく部屋を暖めようとするので風向きによってはうるさいくらい鳴る。これ以上ないスピードで部屋に暖まってほしい私はヌックミーと電気膝掛けにくるまりながら時折伊万里焼の小さな舌が同じく伊万里焼のお椀の下でピロピロしながらリンリンするのを聞いている。夜、佐賀城跡できいた風鈴の音がとてもきれいだった。ひとしきり風鈴にまつわる思い出を語り合い翌日には買っていた。まさか風鈴を連れて帰ることになろうとは。出会いとはわからないものだ。

少し温まってきた。もう少ししたら白湯をいれよう。まだおなかの調子が悪いからコーヒーはやめておこう。先日体調をひどく崩し伊万里でお店の人に教えてもらったイベントへいくことができなかった。定期的に開いている友達との会もキャンセルせざるをえなかった。楽しみにしていた予定がふたつもキャンセルになってヌックミーと電気膝掛けに埋もれながらぼんやり寝たり起きたりした。電気膝掛けを「強」にしていたのでその部分だけ熱くて何度かつけたり消したりした。もっと「弱」方向にすればよかったのだけど調子が悪かったせいかなぜか「切」にしていた。というかこの電気膝掛け、すごく熱くなる部分とそうでない部分があってそのすごく熱くなる部分がやばいのだ。というか大丈夫かな、これ。寒さをどうにかするために必死に巻きつけたり雑に暑かったせいでそうなってしまったのかしら。

昨晩から今朝にかけて『ケチる貴方』(講談社)を読んだ。石田夏穂さんという作家が書いている。なぜ急に読んだのか昨日の今日なのに忘れてしまったがそのときは「読まねばならない本」だと思ったのだ。いざ読み始めたらなんだこれは。私がこれまで体験してきた冷えと寒さに対するすべてが文字化されていた。寒さゆえに冬の到来に怯え春を心待ちにする今、無意識が読むべき本と出会わせてくれたのだろう。この主人公の不機嫌さにも非常に共感する。たとえ別の季節があったとしてもこんな冷えと寒さに苛まれる季節が一年のうち数ヶ月あればこうもなるさ。私もあらゆる温活を試したがこの主人公がえらいのは実行しつづけるところだ。私よりずっと切実に寒さと向き合っている。えらい。というか実際ものすごく切実なのだ。辛い。切ない。

“「寒い」と訴えることには何か他の訴えにはない甘えの響きがある。「お腹がすいた」「眠い」「出掛けたい」は素直に言えたが「寒い」だけは自分が主張することじゃないように感じた。”

ー『ケチる貴方』の最初の方から引用。Kindleなのでページ数がわからない。

これだ。「寒い。死んじゃう。」と毎日のようにいう私は甘えている。小説になるかどうかの違いはここにあるのだろう。極端にスイッチが切り替わってしまう「間」がない世界。それは実は生死に関わるのだ。どうかこの人に口先だけじゃない「ケア」を。自分が求めていたものに気づいてしまう痛みに対してもどうか、と願うのはここまで切実に生きられない私でもそうなんだ。

“私は生来の倹約家、否、吝嗇家なのだ。”

りんしょく、と読むんだよね、と先日のReading Freudでも確認した。『フロイト全集4』(岩波書店)はまるごと『夢解釈』の一冊で5巻へと続く。先日読んだのは「第5章 夢の素材と夢の源泉(B)」。フロイトとの治療設定、つまり時間とお金を巡ってみられた夢として解釈されたある女性の事例(261頁)に「吝嗇」という言葉が出てきて前にも出てきたのにみんな読み方を忘れていたのだ。『ケチる貴方』ではきちんとふりがながふってあった。

だいぶ温まってきた。立ち上がるときに感じるあの冷気を想像するだけで辛いが白湯をのめばまた電気膝掛けのスイッチを切りたくなる。切らずに「弱」の方へという練習も必要かもだが熱々で毎度火傷しながら飲んでいるようなときは一気にポカポカするのだ。すぐに寒い寒いとまたスイッチを入れ直すことになるのだけど。イロイロウマクイカナイね。今週も始まってしまいましたね。どうぞご無事でご安全に。

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俳句 読書

句友とか『青春と読書』とか。

「花の郷 バター」

美味しそうなお名前。美味しいです。町田の社会福祉法人花の郷さんのクッキーをいただきました。

おー、句友の句がNHK俳句に!加藤シゲアキが好きな句と言っている。句も人も素敵な友がたくさんです。大好きな千野千佳さんも北斗賞の佳作に入ったし。みんないつもすごい。千佳さんの三句は昨日『月刊 俳句界 2月号』で読んだ。特別だけど普通、でもやっぱりなんだか特別、今回もそんな景色が爽やかでした。

そして私たちの俳句の先生、堀本裕樹先生が毎月連載されていた「才人と俳人 俳句交換句ッ記」は最終回。ゲストはやはり又吉直樹。やっぱりとてもよかった。載っているのは集英社のPR誌『青春と読書』です。

そしてこの2月号には山本貴光さんが今野真二『「鬱屈」の時代を読む』(試し読みあり、集英社新書)の書評を書いておられます。前にゲンロンカフェでお二人の対談をみましたけど日本語の言語学についてとても楽しくおしゃべりしててホヘーすげーと思いながら楽しみました。ということで読み始めたらこりゃまたすごい。言葉を丁寧に探索していくのが言語学なわけだけどこの本は言葉にならない、あるいはまだ言葉としての形も持っていないものがどう言葉になっていくのかという言語化のプロセスを本当に豊富な文献の引用を通じて緻密に記述、描写してくれています。普段やりがちな雑な言葉の使用(例えば「レッテル」貼り)に対する反省も促される一冊になりそうです(まだ途中)。

ちなみに今野真二『日本語の教養100』(河出新書)刊行のときは山本貴光さんと往復書簡を交わされていました。それはこちらで読めます。

今日も色々(雑かな)あるでしょう。鬱屈した「気持ち・感情」はなかなか言葉にならないかもしれないけれど言葉を大切に人を大切につまりは自分を大切になんとか過ごしましょう。

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精神分析

スープを飲んだりアンドレ・ルロワ=グーランを読んだり。

おなかがすいた。昨晩は駅を出たらカラカラと霰が降ってきた。しばらくして窓の外を見たら雪に変わってた。初雪?この前も降った?蕗のとうの天ぷらを食べた。春。とても美味しかった。もう一度外を見たら傘を閉じる人が見えた。よかった。

コーンスープを飲んだ。ぽっかぽかになって電気ひざかけのスイッチを切る。洗面所へいったらまた冷えてしまってまたスイッチを入れる。温かい飲み物を飲み続けないとかしら。

アンドレ・ルロワ=グーランの『世界の根源 先史絵画・神話・記号』(蔵持不三也訳、ちくま学芸文庫)をパラパラしていた。これは主にはフランスの美術史家クロード=アンリ・ロケとの対談のまとめ。日本での留学生活のことも語られている。精神分析への関心と距離も。付録として講演と論文も掲載されている。自己との対話という形式をとっているというこのインタビュー。質問自体も面白いし答えもなんというか極めて常識的で思慮深く、ものすごく広くものすごく長い歴史をもった世界の門前でワクワクしている気持ちになる。コレージュ・ド・フランスの学生はさぞ楽しかっただろうねえ。いいなあ。たくさん引用したいところがあるけど対話として面白いからこういう分野に興味のある方はぜひお読みになって。私はもともとは『思想 2022年9月号』(岩波書店)で十川幸司先生の「心的生の誕生――ネガティヴ・ハンド(リズムの精神分析(1))」を読んで『身ぶりと言葉』と一緒に読み始めたんだけどね。あの続きも早く読みたいな。

東京は晴れ。寒いけど雪よりは安全。どの地域の方もどうぞお気をつけてお元気でお過ごしくださいね。

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精神分析

フロイト読書会

フロイト読書会だった。平日のはアドバイザーとしてお呼ばれしているもので、すでに一度主要論文とその周辺を読み終えているグループのもの。みんな臨床家で遅くまで仕事して帰ってきてすぐこの読書会で、と大変だ。私もばったばたで大変だけど多彩なメンバーで何年も続けてきた積み重ねは大きい。

読んだのは『フロイト全集2』よりヒステリー研究 病歴B(ミス・ルーシー・R) p.132~156。私はもう何度も読んでいる症例だが学びが大きい。この症例は、シャルコーによる古典的な類催眠状態を作る技法がうまく使えず、ベルネームによる暗示を手本にした前額法を用いた自由連想という技法の変遷がみられる事例である。理論的にはフロイトは仮説ありきで話を進めていくところがあるがメタサイコロジーの欲動に関する論文の冒頭に書いてあることを思えば彼のその姿勢には一貫性がある。しかしそれはフロイトの理論が臨床と離れていることを意味しない。フロイトはこの後もより多くの症例と、そしてそれはそれは多くの人との関わりのなかで精神分析を確立していった。

私たちは時々密室で篭りがちみたいなことを言われるけど日々の研鑽がひとりで行われることはないので常に様々な視線や言葉が交差する場所で自分の臨床を見直しながらまたひとりに戻っていく。

ひとりでがんばりたい!と言いながらベタッとした依存関係から離れられないという矛盾を抱えている人もいるかもしれないが目の前の患者と会うときに支えてくれるのはそういう依存関係ではない。長い時間をかけてフロイトを読みながらそれぞれの患者との作業を想い、単なるおしゃべりで孤独をなかったことにすることもなく適度に抱え悩みつつ同じような日々を過ごしていく。これからもがんばっていきましょう。

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精神分析、本

精神分析家、Loewensteinの論文

準備準備。精神分析における言葉の活用は私のテーマだけど難解だから勉強してもしても、というほどしてないのだけど、いやむしろ勉強が足りないので準備がたくさん必要。今度セミナーがあるのです。

まず読んでいるのはルドルフ・ローウェンシュタイン。ラカンの訓練分析家です。立木康介さんは『極限の思想 ラカン 主体の精神分析的理論』(2023,講談社選書メチエ)でルヴァンシュタインと書いている。Loewensteinは1898年1月(生きてれば125歳)ポーランドで生まれたユダヤ人で、チューリッヒで中等教育、ベルリンの精神分析インスティチュートで精神分析の訓練を受けた多言語話者の医師で精神分析家です。いろんな国で生活していろんな言葉を話しているから呼ばれ方も色々ですね。パリではパリ精神分析協会(SPP)の設立にも関わってラカンをはじめフランスの分析家の最初の世代の育成に貢献しました。1940年代になってニューヨークに移って自我心理学の発展にも貢献。精神分析に関するいろんな協会の会長や副会長をしていてパリともずっと良好な関係を保っていたみたいですよ。ラカンは何も語っていないみたいだけど彼にとってLoewensteinとの分析は良きものではなかったみたいだし自我心理学は彼が激しく批判する対象となったけど立木さんがさっきあげた本の注でLoewensteinの発音がラカンがオマージュを捧げたマルグリット・デュラスの小説のヒロインの名に発音が酷似していることを取り上げていて分析関係の外からの見えなさと事後性についてちょっと考えました。私たちは自我心理学をその理論や技法が移民問題の歴史と繋がっていることを理解しながら学べたらいいと思う。それは言語の問題にも繋がっているでしょうから。

昨晩読んでいたのはこちら。すっかり寝不足。

Loewenstein, R. M. (1959). Some Remarks on the Role of Speech in Psychoanalytic Technique.

2003年に出たこちらにも所収。Influential Papers from the 1950s Edited By Andrew C. Furman, Steven T. Levy

論文が載ったのは1956年のInternational Journal of Psycho-Analysis 37: 460-468(メモ)。

すごくたくさん読むものがあるんだけどどうしましょう。やれるところまで、といういつもの感じにしかできないけどなんとかがんばりましょう。東京はさっむいけどいいお天気です。みなさんの場所はいかがでしょう。お元気でお過ごしくださいね。

追記。論文に関するメモ:

「精神分析は探索的な方法と治療的な方法の両方を有しており、それは、もっぱらことばの領域において生ずる長く続く体験と過程なのである」

「精神分析は、二人のあいだでの特定のコミュニケーションのやりとりで有り、一種の対話であり、それ以外の全ての対話とは全く異なっている。」(→技法論)

目標指向性を持つ意識的な思考を止めるー自律的自我の統制と退行ー分析家の自我機能への委託ー無意識の系へ

ソシュールのラング(記号)とパロール(話し言葉)の違いから考える。

Karl Buehlerによる送り手と受け手の間の言葉の機能の分類(1、表示する機能あるいは描写する機能、認識する機能、2、表現する機能 3、訴える機能)

分析家は患者の訴える機能に応答することを差し控え認識する昨日による解釈を通してそれを表現する機能へと変換させることを目指す。→患者が今まで利用することのできなかった知識を想起し表現できるように(ワーキングスルー)

Nunbergによる分析における言葉の機能の分類(1、魔法の機能≒カタルシス機能、2、言葉は行為の代用品である)

あみメモ:一方、攻撃性の関与する部分において「言葉は単なる行為の代用品などではない」とある。もし著者が言語を発話する行為として捉えているとしたらその後に続く「侮辱的な言動や皮肉あるいは軽蔑の表現」も行為なはずなのでそう捉えていないということか?「自我に対する言葉の機能」という言葉が引っかかる。抵抗によって言語化が困難になる際、分析家は超自我でもあると同時に補助的な自律的自我機能として機能する。この場合、言葉は「単なる」行為ではなく、というが、これは行為だろうと思う。また「さらに言語化により聴覚を通じた現実的価値の付加も起こる」とあるが理解がやや直線的に感じてしまう。一方で以下みたいに書いているわけだし。

Cassirerは分析プロセス自体そのものにおいて言語の目的化の機能が果たす重要な役割を強調したが「話されていないことばは私たちの奴隷であり、話されたことばは私たちを奴隷にする」というのも本当である。

転移状況における感情や情動の言語化の問題も検討。言語化と特定の内容を伴った情動との結びつきが確立されるまでにもまた言語化。内的現実と外的現実(共有された現実)としての情動へ変容。自らの意図や動機を言語化することで洞察を得る。そこから想起される反復。洞察へ向けた繰り返される抵抗のワークスルー。情動の言語化に対する抵抗の由来は2つの動機付けの形。言語化の放出機能と拘束機能。どちらも防衛(抵抗)のためにしようされるかもしれない。記憶の言語化ではなく言語化による想起。無意識から意識へ。行動から思考へ。一次過程から二次過程へ。

言語ー意識的な考えが内部で構築されるのを可能にしてくれる足場として機能。知性化は空っぽの足場。

あみメモ:解釈の使用が重要というより使える解釈とその場所を準備、提供することか。

フロイトがしたように記号としての言葉、暗号化されたメッセージを理解すること。シニフィアン・シニフィエの関係。その間にもさまざまに変化する型がある。分析過程(≒話すという行為)は一次過程と二次過程において無意識の語彙による表現を引き出し、思考は通常の言語に翻訳され二次過程優位のもと洞察を得る。

「分析の状況が、「注意と現実吟味とが外界(分析家)から引き抜かれて、患者の内的体験へと移される状況を患者のためにつくり出す」のである」

動機づけの複雑さ、他の人の精神状態の理解、過去の体験と現在の体験の区別。←意識の系の獲得。

「まさに人間は、言語を使用することによって、ようやく時間と空間において遠くはなれた所にある出来事にさえ現実性を与えることが可能になるのだし、さらには彼らと今ここに存在する出来事とを見分けることも可能になるのだ」=洞察と言語化による現実吟味。

「なによりもまず、コミュニケーションは、言語のすべてではないし、ことばのすべてではない。」

「もし言語化とことばが、洞察を得るという治療上の効果をあげるうえで欠くことのできない役割を果たしているというのならば、それら(言語化とことば)だけが、そのことを行う唯一の要素ではないのである」

あみメモ:全体にうーんという感じ。speechの捉え方が直線的すぎでは。ラカンのテーゼは自我心理学の文献を読むときに常に思い出しながら。

「無意識はひとつの言語のように構造化されている」

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精神分析

寒いけど

本当に寒い。どう振る舞ったらいいか全然わからない。今はあったかい場所にいるけどみんな大丈夫?雪に慣れていないのに雪が降っちゃった地域の人たちなんてほんとに大丈夫かしら。風も怖くないですか?一気に体温を奪われる怖さ。私ね、片手をなくした手袋をもう一方を自由に使えるから機能的、ということで使ってて今日もそれできちゃったの。いつも裸の手の方は前に抱えたリュックとおなかの間か、ポケットで暖かくなってたから。でも今日はさすがに準備不足でした。わかっちゃいたがと言いたいが、わかっていなかったなと反省しました。もー大体のことはいつもこれだよ。100均ののびのび手袋(って言ってたよね?)と軍手はいつもリュックに入ってるからそれを使えばいいんだけど奥の方にあるし寒くてそんなの探りたくもないし、駅のホームでさむーいと心の中で騒ぎながらちょっと携帯使ったら風であっという間に手が凍ったみたいに悴んだ。ああ、凍傷ってあっという間になるものね、ああ、山ってだから怖いんだよね、と都心近くにいながら山の怖さを想う恐怖の冷たさだったよ。「寒い、死んじゃう」とすぐに言ってしまうのはこういう危機を思い浮かべるからです、きっと。本当に気をつけてお過ごしくださいね。人生折り返し地点すぎてもこんなですよ。毎日勉強・・・がんばりましょ。

一方でです。寒さネタで私の頭も心もいっぱいですがいうにいえないいろんなこともあって大変は大変だよ。でもなんかもう色々あっても無事に春が来てくれるならなんでもいいよ、今までも色々あったけど今やれてるわけだしさ、この程度でも無事が一番だよ、という開き直りのような気持ちもある。梅とかが咲き始めて少し春を感じるのも救いになってるんだ、多分。もうホントにタノムヨ・・・と誰にともなくため息つきながらでも、誰だって自分の都合のいいように動きたいし考えたいわけだからせめてそのやり方を自分の場合は、と地道に考えたいし、たとえ相手のことがすごく苦手だったり嫌だったりしてもその人たちの気持ちも考える。結果的にそのほうがお互いのためでしょう。そのためにどう動くかは大問題だけど私は権力も名声もないのでやっぱり受け身でいるしかないよね。でもできることもないわけではなく、できるだけ正確に成り行きをみていく努力はできるでしょう。できるのはそのくらいかな、ということを地道にやっていくのは意外と大事と思う。辛くて苦しくて悲しくて寂しくてというのはいろんな意味で信頼できる人に聞いてもらいましょうね。こんな寒いのにさらに孤独になんてなっちゃだめだ、と私は思う。

無事に過ごしましょうね。

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読書

本棚、お布団

2年ほど前から冊子になった白水社のPR誌『白水社の本棚』が届いていた。机の上に置いてあったが昨日は気づかなかった。PCの前に座らなかったということだ。2023年冬号から藤原編集室の「本棚の中の骸骨」という連載が始まった。大変楽しみ。Web版と連動しているのかな。「一生読んでいたい」本、が初回。読みたい本ばかり増えるけどこの中の何冊を私はこれから手に取るだろう。本棚を眺めてばかりだから書名は知っていても中身を知らない本ばかり。私はあと何年続くかもわからない限られた「一生」のなかでフロイトだけは読み続けていくと思うけどそれ以外にも本棚で生きているものたちとそういう出会いがあったらいいな。

重田園江の連載も始まった。『ミシェル・フーコー ─近代を裏から読む』を面白く読んだ。今回は「インド映画の破壊力」ということで『RRR』の政治性について。みてないけどそうなのか。インドの歴史は知るたびにほんとになんとも言えない気持ちになる。どの国の歴史も知れば知るほどそうなのだろうけど。牛久大仏が文章に出てきた。

今朝は早朝からざっと家事をしてまたお布団で温まっていた。部屋が温まるまで、と思っていたが案の定長居した。といってもまだ5時台だ。洗面所が寒いから洗濯物を干すのも顔を洗うのも苦痛だけど寒い寒いと騒ぎながら電気ストーブで凌ぎつつ完了。洗濯機を発明してくれたのは本当にありがたいことだわ。手洗いとか冬なんてほんと無理。溜め込んでいたに違いない。

コーヒーを淹れたらまたPCから離れてしまった。部屋はポカポカになってきた。寒い寒い書いたけど今日って特別寒い感じしないのだけどどうなるのかしら。部屋が暖かいからそう思うだけかな。ニュースだけみてビビってるけど。天気予報チェックして出かけないとですね。なんにしても暖かくして過ごしましょ。

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俳句 読書

コーヒー、銀杏、俳句

腰が痛い。指も痺れる。でもこれは危機は脱したな。別の危機はあれど私にできることがあるとすれば最小限のことをするということのみ。よけいなことをしない、誰かを巻き込まない、とにかくシンプルに、というのがモットーだけど相手あることは私だけそう言っててもしかたないし先に何が起きるかは誰にもわからないので受け身でいる。

美味しいコーヒーを入れてもらった。「美味しいコーヒー淹れてあげる」と言われたからコツを色々聞いてみた。「落ち着いて淹れる」みたいなシンプルな言い方だったが確かにコーヒーを驚かせてはいけないというのは聞いたことがある。最初に聞いたときは「コーヒーが驚くのかよ」と思ったけれどゆっくり静かに少しずつ起こしてあげるように淹れるんだってそのときは教わった。今朝も言い方は違うけど似たような感じだった。「落ち着いて」というのは私には難しいからこだわりのコーヒーは淹れてもらうに限る。味はよくわからないけれど美味しいということはわかる。美味しかった。

銀杏の雄雌両方の実をもらった。銀杏は雌株しか実を結ばないようだが実自体には雄雌両方いて、雄は二面、雌は三面なんだって。おばさんたちなんでも知ってる。初対面でも子供に色々教えるみたいに教えてくれる。私も大人になれば色々物知りになるのかと思っていたけど全然違った。でも知らないことばかりでもこうして教えてもらえばいいのだからおばさんになっても無理することもないということは知った。母が歴史に詳しくてそれも「私も大人になれば」とまたまた単純に思っていたがそんなことも全然なかった。当たり前だ。今は小学生とかが教えてくれたりする。勉強している世代の頼もしさ。おばさんたちのは経験知だからくっついてくるエピソードも生活とシームレスで面白い。

昨日は仕事の合間に「稲畑汀子俳句集成読書会 わたしの汀子俳句」というオンラインの読書会に出た。『稲畑汀子俳句集成』(朔出版)は1万2千円!でも5400句近く入っていて昨年5月の発売からすでに3刷。きれいな装丁の「栞」つきで大好きな 宇多喜代子や大輪靖宏、長谷川櫂、星野椿が寄稿。読書会に出たおかげで捲り方がわかった。

読書会のホストは汀子の息子さんの稲畑廣太郎(『ホトトギス』主宰)、ゲストは佐藤文香(翻車魚、鏡)、堀田季何(『楽園』主宰、『短歌』同人)村越敦(澤)、山口亜希子(編集者、書肆アルス)、今橋眞理子(ホトトギス)。テーマは「音」。汀子との距離の違いが生む読みの違いに触れられていたのも面白く、みなさんの対話でひとつひとつの句が瑞々しく生き返るようだったし、俳句界の重鎮というイメージの汀子の姿もまた一人の人として愛しげに語られていてこういうモーニングワークはとてもいいなと思った。

新宿中央公園の脇の道の梅も咲き始めたし春ですね。寒いですけどね。暖かくしてお過ごしください。こちらは汀子の5歳下池田澄子の句。音も文字も楽しくないですか?

また春が来たことは来た鰐の顎 池田澄子

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花壇とリハ

今日も朝焼けになりそうな空がきれいだった。赤い光が全体に広がらないまま薄い色の空に紛れて消えちゃた感じがするけど少し眺めていただけだから見逃したのかもね。

腰が痛い。毎年この時期になると我が家のありのまま花壇ではユキヤナギとスノーフレークの存在感が増してきて「今年も咲くかな」と愛おしい気持ちになる。でも今年は存在感がないことに最近気づいた。どの季節も雑草が生えては枯れ、それぞれのお花を侵食することはなかったのだけど今年は緑の細い葉っぱを束にして掴んで思い切り引っ張っても全く歯が立たない、腰にくるだけでびくともしない雑草が生えてしまった。枯れる気配どころか株になってどしんと腰を下ろしたまんま。ほんとそこどいて。あの子たちが生えてこられなくなっちゃったじゃない。ラベンダーを植えたことと関係するのかもなあ。それまで本当にうまく季節ごとにそれぞれのお花を咲かせてきてくれた花壇の環境を変えてしまったのかもしれない。ごめんね。そのまま引っ張ると腰にくるとは聞いていたので枝切り鋏で地道にジャキジャキやってみた。手強い。だんだん無心になってきた頃、腰がグキってなった。もう随分前になるけどぎっくり腰の耐え難い痛みを経験してから怖くてヨガをはじめたり腰だけはそれなりに注意してきた。今回もやばいと我に返ってそーっと腰を伸ばし、これもう除草剤しかない状態だなということはわかったのでこのくらいにしておこうと枝切り鋏を置いたら今度は手が震えて開かない。前に橈骨神経麻痺で手首がだらんとなったことはあったけどたぶんそれとは関係なく結構手指や手首も痺れたり痛みが出たりしやすくて今回も特に右手中指を自分で持ち上げることができなくなった。震えはいつもは使わない筋肉に負荷がかかり過ぎたのだろうと思ってそのうち治るだろうと思えたけどこの感触はちょっとまずい感じだぞと左手でマッサージしたり曲げることはできるからピアノひくみたいに指動かしたり早速リハビリに励んだ。いろんな経験のおかげでこういう早めの対処ができるようになったみたい。リハビリってほんと大事。私は「やばい!」と思うと作業療法士の友人に連絡して応急処置を教えてもらえたりできてとてもありがたいのだけど身体のことは難しいね。今はこうして普通にタイプもできる。よかった。今朝、珍しくテレビつけたらテレビ体操をやってたからすごくすこしだけ真似してみた。あとは絶妙なピアノに感心しつつ呼吸をしっかり意識しながら美しい動きを繰り出す人たちに惚れ惚れしてた。全然リハビリがんばってないじゃん、ということで指は治ったものの今日も身体がバキバキです。自ら無理に対話状況を作り出し見知らぬ人を利用していくことで事態をうやむやにする態度について考えていたのだけど身体はごまかせないから積極的なケアはサボったとしても無理はしないということをしないとね。どういう除草剤がいいか相談しにいかねば。そしてまたユキヤナギとスノーフレークを植えよう。長い間毎年毎年ありがとう。みんなにとって最適な花壇というのはよくわからないけど知識もないうえに放っておくのは危機対応できないからダメね。ごめんね。色々教えてもらってきます。

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おなかいっぱい。ひとりになるなりおなかいっぱい。苦しいけど今日は腰をやられ肌もやられたからお風呂でケアしないとと思ってそれはがんばった。でも相変わらず苦しい。どうせ眠れないから洗濯も始めちゃったのは後悔。水炊きが美味しくて食べ過ぎてしまったの。水炊きはがんばればいいのは灰汁取りだけで時間さえ待てれば手羽肉が骨から取れちゃうくらいほろほろに柔らかくなるしお野菜いっぱい食べられるし贅沢な食べ物です。お出汁で雑炊とかラーメンとかもできますしね。長芋もいただいたから早めに使おう。あ、洗濯物できた。めんどくさいけどやりましょう。腰痛い・・・。なおさら動かねば・・。

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精神分析

人間って

朝焼けが始まりそうな空がきれい。昨日の朝、駅で朝日を眺めながらあっちが真東かぁと思ったけど真東とは限らないか。

私たちには対象希求性というのがあるわけだけど日常において人を求める、人に求められるというのは色々な水準がありますね。求められることに辟易しているのに断れないがためにただ利用され続けてしまう人もいれば求められてもいないのにまるで求められているかのように人を巻き込んで結果求められていたということにしたい人もいる。どっちも自分の状態や相手の都合はどうであれ人と関係しようとしていることに変わりない。人は生きるのに必死ゆえに厄介だけどそれが人だからしかたないんだよね。

コンビニの新作スイーツをよく試すのだけど、というか「よく」と言えるくらいコンビニって新作たくさん出すよね。企画とか楽しそう。今はバレンタインデーに向けてチョコレートのスイーツが出てきましたよ。その前は苺、ということで苺ティラミスを食べたのだけどティラミスの意味がよくわかってないから「そう書いてあるからこれはティラミス」という感じだった。まあ美味しければなんだっていいのよ、とパクパク。美味しかった。コンビニスイーツはどれも量を半分くらいにしてほしいと常々思ってるのだけどこれはちょうどよかった。なんかとのコラボみたいだったから値段とのバランスだね。ある程度の値段で売っていかないとだろうし。

さてさていきたい展覧会が溜まっているけどやらねばならないことも溜まってるからなかなか。こういう時間に少しでも進めねばだな、と頭では思うんだけどねえ。人間って、と人間でいること自体をいろんな言い訳にしている毎日だな。まあいいか、事実だし。今日も人間でしかいられない私たちだけどなんとか過ごしましょう。来週くるという寒さが本当に怖いね。備えましょうね。

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精神分析

うーとかあーとか。

うー。(早くも中略)あー。(中略)という気分。いいたいがいえない。すごく忙しいわけではないけど結構忙しい。忙しいというのも比較できるものでもないからねえ。この人、忙しいしんどい、ばっかりいってるけど色々知っていると「しょっちゅう〜してて楽しそうで暇そうだよ」と思うこともあるけど意地悪だよね。それにそういうのも「仕事だからしかたない。あーしんどい。」といいながら嬉しそうにしている場合もあるからまためんどくさいし一貫性とか整合性など求めないに限る。何が起きるか誰が何考えてるかなんてみんな自分の想定外なんだから。「こんなはずじゃなかった」とか聞くと「どんなはずだったんだよ」と思う。「こんなことになると思わなかった」っていうけど「なんの未来も描いてなかったじゃんか」と思ったりもする。本当にね、人間ですね、私たち。どんだけ万能感に満ち溢れてるんでしょう、いいことがあるときだけ「偶然」を推すのは全然違うと思うけどしてるしね。うーん。

芥川賞のことを書きたかったけどまだ読んでないものもあるから読んでからにしよう。物語を書ける人が本当に羨ましい。本当にすごいことだと思う。今日も「うー」とか「あー」とかいいながら言葉にならないものは略すこともできず重たく抱えたままなんとなやっていくのね。やっていきましょうか。またね。

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精神分析、本

立木康介『ラカン 主体の精神分析的理論』を読み始めた。

寒いですね。コーヒーもとっくに冷めてしまいました。電気膝かけのおかげで足は暖かいけど床に足がついちゃうと寒くてブルブルしています。ということで動けない朝。どうしましょう。

Instagramに載せたけど立木康介さんが『ラカン 主体の精神分析的理論』を贈ってくださいました。いつも大切に読んでいます。この前のフーコーの本はちょっと難しかったけど、その前の『女は不死である ラカンと女たちの反哲学』はとても面白かった!今回はラカンと哲学者、まずはアリストテレスとの本気対話。立木さんのさすがの明快さでさらっとフランス精神分析史におけるラカン理論を概観したあと「はじめに」で「アリストテレスを読むラカン」。このあともしばらくアリストテレスが特別に扱われる様子。読み進めるのが楽しみです。昨日、なんとなく高橋澪子著『心の科学史 西洋心理学の背景と実験心理学の誕生』を再読しててアリストテレスのところを面白いなあと思っていたのだけど精神分析との関連で読むのがやっぱりスリリングですね、私には。

書いている間は少し寒さを忘れるけれど色々書くにはまず読まないとですね。楽しみです。風邪ひかないようにしましょうね。

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冬眠

寒い。寒さに対してどんな態度をとったらいいか全くわからない。実家の方なんてもっと寒かったのに当時はまだ寒さよりもっと色々気になっていた子供だったし東京暮らしの方が長くなってきたので当時どうやってやり過ごしていたのかいなかったのかもよくわからない。ただ自転車で前髪凍るよね、とか足が粉吹くよね、とかそういう話はしていた。乾燥も友達や医師に勧められるままに色々試してきたが今でも深刻に辛い。寒さなんて毎年それなりに長い期間毎日くるものにもいまだ対処できないのだから日々の様々なこと、特にイレギュラーなことに対処できないのは当たり前だ。などと思っても色々やり過ごせるものでもない。ああ。人間やめたい、死にたい、と言いたくなる人の気持ちもわからないでもない。「わかる!」と簡単には言えないが。私も寒いとすぐ「死にたい」と言いたくなるし言ってしまう。こんなことを書いている場合でもないのだが書かないとやってらんねーという場合もありますよね。私の場合、なんだかんだ毎日書いてしまってるけど。ちょっと聞いてよ、とぶちまけたくてもそういうわけにいかないことばかりってこともあるし。とにかく自分で蒔いた種は自分でどうにかしてくれよ、こっちは最大限注意深くしてたよ、と思ったとしても人って完全にきれたところで存在できないから巻き込まれて相当理不尽な想いをしたりもするわけでしょう。大なり小なり誰でも経験あると思う。「人間やめたい」ってなるわけだよ。死にたいよりもそっちでいこう、まずは。AIとかに詳しい人たちの方がむしろ人間のそういうところわかっていない感じあると思う。情報だけ偉そうに撒き散らしておいて他人に処理させてんじゃねーよ(言葉遣い注意)、と思うことありませんか。ないかな。私は「まずは行動でみせてください」と思うけど権力には勝てないので「きっと多分色々わからないんだろうなあ」と遠い目をするしかない。とか余裕あること言ってられないけど巻き込まれると、というか、人は直接的な関係がきれても繋がってしまっているので「なんで今更」とか「なんで私が」とか起きてしまう。あー。やっかいですね、人間。毎日「死にたい」という言葉は聞くし見かけるしそれに対してなすすべもないが相手が直接知らない人であっても死んでほしくはないのでまずは「今の状態相当きついしまずいと思っているだろうけどあなたのせいじゃないからね、絶対」と思う。いろんなことが関係していて原因なんて誰にも決められない。起き上がれないし立ち上がれないときは冬眠というか、人間的な部分色々停止させて低め安定でいきたい。本当きつくて辛いだろうけど。いずれ、いずれと願えますように。

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精神分析

1月17日

1995年1月17日午前5時46分、私は千歳烏山のアパートでまだ寝ていたと思う。阪神・淡路大震災、当時、テレビもなく、知るまでに時間がかかった。大阪や京都に親しい友達が何人もいる時期で連絡を取り合った。やっと電話が通じた芦屋の友達はなぜか自分のところはライフラインが生きているから別の家の人が集まってると笑っていた。その後、学会や旅行でいくたびにまだその跡や影響が見えることに驚いた。でもコロナ禍直前の1月、神戸港震災メモリアルパークへ行ったときは少なくとも観光客には忘れ去られていくそれらを感じた。被災者には忘れたくても忘れられない出来事に違いない、ということもできないほどそれを体験していない私には想像が及ばない様々な心の状態があるのだろうと思う。あれから28年、私はまだ東京に住んでいて、あの震災も東日本大震災も体験した人の話を聞くことがある。中井久夫はあの震災を生き延びて昨年亡くなった。外傷について考え続ける本をたくさん残して。今日も生も死も傷もこころも大切にされますように。とても困難なことだけれど私たち自身もそうできますように。

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精神分析

泣き、怒り、叫びに。

我慢に我慢を重ねてなんとか保っていても次から次へと「またか」という目にあわされる。過ぎたこと、なかったことにされる痛みは計り知れないのにその傷はえぐられるばかりで自分だけ先へ先へと。なんにでも意味があった、振り返れば貴重な体験だった、みたいな相手置き去りの発言を平然としながら。こちらはいつまでも動けずに、それでもなんとか日々を過ごそうと努力を重ねているのに。ふざけんなという怒りもこれだけ強ければ不適切な行為にしか繋がらないだろうから抑制がかかる。そのうちにいつまでもこうなっている自分が悪いと自分も他人も言い始める。表面と内面の乖離が進む。そんななか相手はまたやっていることと正反対のことを御高説垂れてるかもしれない。それに対していつも通りの共感と賞賛を示す人に立場を利用してまた近づいてるかもしれない。今度こそハラスメントと言われないように。立場を脅かされないようにSNSの利用には十分気をつけながら。そういう人が変わることなどない。終わらない怒りと絶望。

誰にもいえないそういう経験はセラピーにこない人でも多いと思う。だからこういうことはいろんな形で話したり書いたりしておこうと思っている。もちろん職業上、具体的な出来事は加工している。しかしパーソナルな秘密が守られる限りはむしろ加工には抗うべきだと思っている。精神分析でいえば防衛的になるなということだが傷が深ければ深いほど質の異なる防衛によって事態は難しくなるのでお互いに無理はしない。時間がかかるのも本当に辛いが時間をかけるしかないこともある。パーソナルな秘密が守られるというのは受け止めてくれる人がいる限りでということだ。どうしてこちらばかりが無理や我慢を強いられなければいけないのだろうか。当然の怒りだがすでにある非対称を乗り越えることは今の時点では不可能だ。少なくともその相手は変わらないだろう。次世代はわからないが。無理をしてこれ以上動けなくなる事態は避けたい。どうにかこうにか協力してもう少し可能な形を考えてみたい。文章を書いて食べている人たちみたいに、というかたとえそうであったとしてもうまく書く必要も共感を呼ぶようなことをいう必要もない。そんな形になどならないからここまで苦しいのだ。それぞれがそれぞれの言葉で自分のこととして語ること自体がまず必要だと思う。それは「言葉にする」ということとは異なる。語れない、通じないということを何度でも感じながらになるだろうしどう考えても苦しいと思うがなかったことにされたまま生きていくよりは、誰がなんといおうと自分はそう感じた、自分はそう思った、実際に起きたことはこういうことだ、ということを単なる言葉ではなく、泣き、怒り、叫びにできる場はあってもいいと思う。もちろん表出がすべてのはずもない。時間はかかるだろうけれどその時間を耐え抜く力はこの出来事を耐えて生き延びている今に備わっていると考えていいのではないか。それを信じられたらと願う。

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精神分析

おしりきたざわ

昨晩、ミーティングが終わって話しながら駅へ向かって電車に乗ってひとりふたりと降りて、私も手を振って降りて別の路線に辿り着くまでに全方角から突進するようにやってくるたくさんの人を避けながら歩き改札を通り再び電車に乗った。さっきはこんな時間なのにと思ったのになんとなくの整列乗車でみんなが座れた車内でこの時間は空いているんだなと思った。土曜の夜っていつもこんなだったかなとこの曜日のこの時間帯に電車に乗るのはそんなに珍しいことではないのにそう思った。この日はここまでの間、子供をそんなに見かけなかった。時々、疲れ切ったお父さんお母さんのそばで元気いっぱいにおしゃべりをしている子供をみかける。その子は多分それまでの間に親の膝で眠ったりして充電が完了してしまったのだろう。昨晩は子供自体を見かけなかった。

日常の決まったやりとりはできる子が個別のやりとりになるとこちらがキョトンとなるような答えばかり返してくることがある。「次は上北沢だね」電車が速度を緩め始めた。「おしりおしり♪」「お尻北沢だね」「おしりきたざわー♪」

昨晩の朝のことだ。この親子にはなんの不思議もないいつものやりとりなのだろう。

このあと「どっどーん」と彼女は何度かお尻をお父さんにぶつけた。彼女自身が電車になってしまったかのようだ。ドアが開いた。お父さんはそっと彼女を引き寄せて制御した。

私はいろんな子供とのプレイセラピーを思いながら楽しく観察した。ウィニコットの『ピグル』は1960年代のロンドンでのプレイセラピーの記録だがそこでも電車は様々な象徴として遊ばれている。性と衝動と出産と死とそれらにまつわる情動とそれらがまた生じさせる新たな出来事などなど。

わからない言葉に対して不寛容で自分の言葉が通じる人としかやりとりしたくない頭のいい人たちがコミュニケーションの場を設けたり(内輪の共感と結束を確かめるだけの場になりがちにみえる)心について熱く饒舌に語っているのをみるとひんやりした気持ちになる。相手が身近な人にどういう態度をとっているかを知っていればなおさらだ。そんなのは一致しないのがデフォルトだとしても。全てを覆い隠してくれる彼らの知的興奮には叶うはずもないが、こういう親子やペアや集団の力は希望だ。

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お菓子

GODIVAのチョコを一粒。コーヒーと。とりあえず。いただきものお菓子でできている身体。贅沢。ありがとうございます。チョコを一粒目の前に置いて、私はこれをパクッと食べてしまうのかな、と自分に問いかける。こんな小さいのになんと表現したらいいかわからないが段違いになっていて何やら描いてある。私はこういう細かい芸術的なところを気にせずに高級チョコをパクッと食べてしまうのか。いやいけない。じっとみてみるがよくわからない。老眼鏡かけてるよなとまた自分を疑う。大丈夫、かけてる。うーん。馬かな。ケンタウロス?違う気がする。うーん。いっか、美味しくいただくのだから、と思ったけど一応調べてみた。まずはGODIVAのWebサイトの商品紹介から。おお、王道商品ではないか。「ゴールドコレクション」ってあるから王道なのかなと思うのだけど。ふむ。レディノアⅡというのか。ハイライト&サーチ。おお、あっという間に答えが。なんだと思いますか?と言ってもお見せしてないからわからないですね。馬に乗った裸婦、レディゴディバですって。ふーん。ゴディヴァのシンボルなのか。うん。美味しい。一粒で満足。ああ、私、絶対食レポとかできない。大丈夫、頼まれていないから。今ふと先日レジ前に特別そうに置いてあったから久しぶりに買ってみたかっぱえびせんのことを思い出した。どれとっても同じ見た目、同じ味、パクパクパク、おいしー、って食べるんだな、きっと。楽しみ。みんなは今日どんなお菓子を食べるのかな。食べない人もいますよね。とりあえず今日は今日のことをなんとかしましょうか。またね。

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読書

甘味とか痛みとか

今朝は「九州由来菓子 なんばん往来」をいただきました。カップに収まっている様子からなんとなく薄紙に包まれているのかと思っていたら薄いパイ生地でさらに美味しかった。砂糖が日本にやってきたのはいつだろう。うちにあるのは三温糖と白砂糖とごろりとした黒砂糖かな。料理に砂糖はほぼ使わないから全然減らないけど一番魅力的なのは黒砂糖。もうどなたからいただいたかも忘れてしまった。砕くのが大変で飛び散るのも怖いからガリガリこすりとるようにしたり手間なんだけどあの甘味を知っているとね。喫茶店の剥き出しの角砂糖と小さなトングみたいなのもセットで素敵。昔よく行っていたカフェには可愛い包み紙に入った角砂糖があってそれも大のお気に入りだった。当時はひとつくらいいれてたのかも。ぽちゃんと。だって溶ける様子を知っている。小さな女の子がそれをきれいに並べてバンザイしてたこともあった。美しい秩序。味わい方も色々。

今日マチ子『いちご戦争』(河出書房新社)を読んだことがありますか。手のひらを少しはみ出るくらいの小さめの本。いちごを抱えて眠る女の子が表紙の白い絵本。あ、カーツーンという言葉が作者にはちょうどいいみたい。甘くて痛くて切なくて悲しくて残酷でファンタジーは決してファンタジーで終わらない。甘くてきれいなお菓子を食べながら心を抉るようなおしゃべりを繰り広げる女の子たちが語り継いでいるのはもうそこにはいない人たちの痛みかもしれない。

私が会ってきた、今も会い続けているたくさんの少女たち、それぞれの戦い、それぞれの戦い方、どんなに戦ってもたとえ勝利をおさめても最後は大人たちに絡め取られるかもしれないという子供の現実。エーリヒ・ケストナー『ふたりのロッテ』を思い出す。何度も何度も読んだ二人の戦い。あれこそシスターフッドの源流か。子供としての権利を使い子供ゆえに分断され奪われた権利を取り戻す。ひとりではどうにもならなかったけど二人なら変えられるかもしれない。ひとりのときは気づかなかった大人の汚さも知るけれど。ケストナーの生育史を考えればこの物語に直接描かれてはいない分断は生死に関わる。一方、大人の世話がなければ生死に関わる子供の世界は常に戦いを必要としているともいえる。彼らが権利のための戦いを続けられるように受けてたてる大人になっているのだろうか、私は。はぁ。ついため息が。ごめん、がんばる。『ふたりのロッテ』みんなに贈りたい。図書館でみてみてね。

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ウトウト

気づくとウトウトしている。おばあちゃんのイメージだが私は祖母のそういう姿をあまり見たことがない。母方祖母は遠方なので会うこと自体少なかったが二人ともよく笑う人だった。こんなとき私が思い出す祖母たちは別の誰かにではなく私に注意を向けてくれている。豪快にでもなく優しく微笑むでもなく、なんの不自然さも感じさせない軽やかな明るさで、足踏みミシンのある日当たりのいい縁側で、土間の向こう、開け放したガラス戸から顔を覗かせて、笑っている。車が入れない路地のスーパーで買ってくれたお煎餅も懐かしい。少しパッケージを変えた同じお煎餅を別の土地で見つけたときは感動した。あの薄暗い、店の人がいたのかどうなのかも印象にない、がらんとしたあの店だけのものかと思っていた。祖父がいないときはファミリーレストランに連れていってくれた。子どもの頃、ファミレスやファストフードは男性陣がいないときにこっそりいく特別な場所だと思っていた。車がないと生活できない土地で歩いていける場所にファミレスがあったことは今もすごく特別だと思う。そういえば祖父と祖母は車を持っていたのだろうか。隣の親戚が代わりに出していたのかもしれない。祖父とはいつもお散歩ばかりしていた記憶がある。田んぼの畦道を通って駅の隣のタコ公園でよく遊んだ。夕方空が真っ赤になるまで。祖父母は隣の市に住んでいたけれど市内でやるような小学校の行事にも自転車できてくれた。今思うと相当の距離を漕いで家にもきてくれた、いつも美味しいみたらし団子をもって。あんこもあったかもしれないが私はそのみたらしが大好きだった。その間、祖母はどこで何をしていたのだろう。あの掘り炬燵で自分だけの特別なお菓子を楽しんだりしていたのだろうか。ひとりでおしゃれをしてファミレスに行ったりしていたのだろうか。単科の精神科病院に勤めていた頃、大正生まれの方々のお話を伺う機会が多くあった。認知症の検査もたくさんとらせていただきその時に伺うご家族からのお話もとても新鮮だった。そんなに頻繁に行っていたわけではない祖父母の前で私はいい子にしていたような気がする。周りの友達みたいに言いたい放題やりたい放題できるような関係ではなかった。問題児ぶりが母から伝わっていなかったわけではないと思うが、大きくいえば私がのれなかったのは学校のルールだけだったので祖父母の家で問題児ぶりが発揮されるはずもなかった。でもそういうことではない、多分。私は祖父母のことをほとんど知らないままだった。祖父母に介護が必要になってからは母から様子を聞くのみで会う機会はますますなくなった。病院で祖父母と近い年齢の方々とお会いするなかで祖父母の話をもっと聞けばよかったと思った。他愛もないおしゃべりならたくさんした。でもおじいちゃんおばあちゃん自身の歴史をもっと聞きたかった。大きくなるにつれて大人の事情は色々と知るようになった。知らないことばかりだった。あの笑顔は私など通り過ぎてどこかへ向けられた寂しさでもあったのかもしれない。一年前の年末年始にはだいぶおばあちゃんになってきた母から母方の親戚のことをたくさん教えてもらった。さっきふと、そういえば子供の頃、と自分がしていた思い違いを思い出したのだけどお湯が沸いた音に立ち上がったらどこかへ消えてしまった。絶対おばあちゃんとのことなのに。

ウトウトしたままupするのを忘れて仕事をしていた。早朝はすでに今日ではないみたい。さぁ電車で移動の日だ。またきっと眠ってしまうだろう。夢で会いたい。

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ひざかけ、ストーブ、いちご

薄い電気ひざかけを連れてPCの前にきた。家にいる間はずっとこれを連れている。眠るときの布団の冷たさもこれにくるまればなんとかなる。朝はどこかへいってしまっているのが大抵だけどほのかな温もりが残っている場所に手を伸ばせばちゃんとそこにいる。私はそれを掴んで巻きつけるには少し短いけどそんなふうにして動き出す。また後でね、とPC前にそれを投げ出して洗面所へいく。寒い。ついに小さなファンヒーターがつまみを回してもうんともすんともいわなくなったのでスリムでとても軽い縦長の電気ストーブを買った。背中の方にじんわり熱を感じながら顔を洗う。部屋も身体もあたたまってからではよけいに動けなくなる。珈琲を淹れた。とてもおいしかったいちごはこれでおしまい。大きいから半分に切って食べていたが今日はそのまましゃぶるようにして食べた。あまーい。旅先で自分用に買ったチョコの入ったお菓子もひとつ食べた。今日もなんとか出かける準備がすんだ。すでに大仕事を終えた気分だ、さぁ、お布団へ、とはならないか。現実って世知辛い。今日も稼がねば。文庫を何冊か持っていこう。全部読まないかもしれないが寒くて少し寂しくなったときに少し切り替えられるように。みんなはどうしていますか。とっても寒いけどいろんな暖かさに出会えますように。またね。

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読書

なめらかな社会

鈴木健『なめらかな社会とその敵 ─PICSY・分人民主主義・構成的社会契約論 』(ちくま学芸文庫)の文庫版が昨年10月に出たのでなんとなく読んでいる。幅広い。第一部は生物学。第二部は貨幣システム(経済学)、第三部は投票システム(民主主義)、第四部は計算と知性、第五部は法と軍事。これをなめらかに統合していくという壮大かつ具体的な試みの様子。そのためには世界をみる仕方を変えていく必要がある。どうやったら複雑なものを簡単に単純化しないで複雑なまま世界をみていけるだろうか。そのために個人ががんばるのではなくて技術のアップデートをできないか、という「希望の書」(と書いてある)のはずなんだけどまずこれをがんばって読む必要があるわけですね。

ただ、なんとなく読めてしまうのは平易な言葉で書かれているというのもあるけど冒頭のエピソードにこころ掴まれたからかもしれない。著者は14歳の時、西ドイツの日本人学校に通っていて修学旅行で東ドイツへ入ったことがあるそうだ。ベルリンの壁を越えて。そこで2週間前に東ドイツからこの壁を乗り越えようとして失敗し犠牲になった人の名前が刻まれた記念碑を目にする。その5か月後、ベルリンの壁は崩壊した。

この理不尽たるや。犠牲になった人々にだけではなくそれを見せられる側にとっても。著者は人間がこのような境界にまつわる原体験を忘れることを知っている。それが強烈であればあるほどそうかもしれない。だからこそそれを単純化せず考え続けるための方法を模索し具体的な提案を行う。

私はひたすら人間同士のことに巻き込まれて生きている状態なので内容を追うことはできても(多分)本当そうだなと納得はできても今はこのような実装の手順を現実的に感じることができない。そんな自分を変えないと世界なんて変わらないということかもしれないが今私こっちで必死だからそっちでやって、みたいな気持ちにもなる。なんかどっかで個人の努力を求められている気がしてしまうのだろう。著者はむしろできることをできる範囲でやるとしたらこんな感じもありなのでは、ということを書いているような気もするが内容の理解とそれによって感じたり考えたりすることはまた別ということか。でも実際勉強になる、まだ途中だけど。こういう本が2013年に出ていたのだねえ。今回はそれからの社会の変化を踏まえて再考された論点も「なめらかな社会への断章 2013-2022」として付け加えられている。

本については出版社のサイトと鈴木健さんが書いた記事「なめらかな社会」とオルタナティブな未来への実験:鈴木 健(特集「THE WORLD IN 2023」)をご参考までに。

それにしても人間中心主義を逃れることってできるのか?人間なのに、ってところに戻ってしまう。人間のいない水準でものを考えることを可能にするのが技術なのかもしれないけど。科学技術は着実に発展しているわけで、なのに戦争はこんな身近で起きてて社会の分断だって止まらない。ということを言い出したくなるのはこの本が今の私にすぐに役立ってくれない!と思っているからかもしれない。何か役立てようと思えば何だって役立つがそれだったら何読んでも同じだろうしね。自分が言ってほしいことだけ取り入れたいってことになるものね。でも戦争中だって人は本を読んできたでしょう。きっと読みもしない本を大切に持ち歩いたりだってしたでしょう?他人からみたらどうでもいいことかもしれないけどそれは他人だからそうでしょう。それかもう他人事にしちゃいたいからだよね。そういうことができないかしたくない人は足掻くしもがく。悪あがきかもしれないけど私は自分から「悪」はつけない。いい悪いの話じゃないと思うし。こういう人間が300年後(だったか)を想像し実装を試みる人間の本を読むこと自体、なめらかな社会志向かもね。楽天的というか能天気かもしれないけど。

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精神分析

初台と福岡

福岡から友人が訪ねてきた。小さな改札で待っていると「京王新線」が分からなくて少し遅れるとのこと。そうだった。分かりにくいことを前もって伝えておくのを忘れていた。京王電鉄京王線とは新宿駅と高尾山や八王子といった山のほうを繋ぐ電車が往復する路線である。京王線であれば新宿駅を出て一駅目が笹塚駅なのだが「京王新線」はこれらの駅の間を走るもう一本の路線であり、私のオフィスはその区間にある二つの駅のひとつ、初台駅が最寄りなのだ。その次が幡ヶ谷駅、その次が笹塚駅となる。京王線と京王新線の複々線化は輸送力増強と都営地下鉄との相互直通運転を目指して昭和50年代に行われたという。今回一つ違いとわかった私たちがそれぞれの田舎でのんびり育っていた頃の新宿駅では地上駅の地下化に伴う改修工事が難しくなっていたらしい。そこで京王線はこれまでの「京王線新宿駅」と「新線新宿駅」とホームも名称も分けざるをえなかったようである。友人はそんなことなど知らない大抵の人がするようにJRや丸の内線に近い「京王線新宿駅」へ行ってしまったというわけだ。といっても京王線と京王新線はホームをはじからはじまで歩くくらいの距離で恐ろしく遠いというわけでもなく、友人も早めに出てきてくれたのだろう。すぐに無事に会えた。東京行きのたびに寂しがるという子供を想い飛行機の時間も気にしつつの限られた時間ではあったが久しぶりに会えて嬉しかった。年齢もはじめて知ったくらいだからほとんどの話が新しく嬉しいお知らせを聞くこともできた。女性が一人でオフィスを構えてこの仕事をしていくのはなかなか難しい面もあるが具体的なイメージを描くためにわざわざこうして訪ねてきてくれるのは嬉しい。若い世代がこれからどれだけ精神分析を求めそれを仕事に生活していこうと思うのか全くわからないが役に立てそうなことがあればとりあえず声をかけてもらえればと思う。日本精神分析協会の支部は東京と福岡にありこうした交流も自然にしているがなんだかきてもらってばかりだ。私も元から東京にいたみたいな顔をしていないで移動を味わおう。ということで福岡ではあれを食べよう、あそこへ行こうと駅へ向かう道は食べ物の話ばかりして別れた。福岡のお菓子も色々いただいた。銘菓でも地元の人の話だと楽しみが増した。彼女だからというのはもちろんある。

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あれはなんだったんだろう うそもほんとも。 読書

マアム、「心配」、上野千鶴子

とても大きくて甘い苺を食べて調子に乗って苺のカントリーマーム、違うマアムか、いざ書くとなるとわからなくなるものね、書いてみてあれ?と気づくものでもあるけど、こうやって。そのね、カントリーマアムをですよ、あれ温めると美味しいでしょう、だから電子レンジにインしてチンしたわけです。ちょっと背中向けて冷蔵庫開けたらPPPってなって振り向いたらすごい煙。警報器がならなくてよかった。カントリーマアム一枚で朝っぱらから何やってんだ。煙追い出すために窓開けたからせっかく暖まったお部屋もまた冷えちゃったしもう苺の色もなくなったマアムをちょこっと齧ってみたけどだめだ。焦げすぎて食べ物ではなくなってる・・・というブルーな早朝でした。空はまだブルーではないですね。うすーい水色。それにしてもあんなお焦げになってしまっても甘い匂いだけはする。マアムの甘味、力ある。

このブログはうそほんと話の集積だってここでよく書いてるけど意外な友人がこれを読んでくれていたらしくしかも心配までしてくれた。全部ほんとの話だと思ったみたい。別のところでも書いたけどここは私が小さな頃から見たり聞いたり読んだり体験したりしてきたもので臨床上のリアリティと結びついてある程度パターンになっているものを素材に指が動くままに書いている。それがどんなささやかなものであったとしてもなんらかの体験に基づかない文章なんて書けないとはいえ吟味が必要なことはこんなサラサラ書けない。実際の体験ってものすごい複雑で、しかも具体的な相手がいる場合は言語も相当不自由になる。精神分析では自由連想と名付けられたものがいかに困難かということを体験するわけだけどそれと同じ。書きものでも指が動かなくなる。年末年始の休みの間はまるで書けなかった。仕事で構造化されている日常から離れたことでパターンが見出せなくなってしまったみたいだった。その分、知らない土地で新しい体験もたくさんできたからそういうことを重ねていくうちにいずれそれらもここで書けるような形に変化していくんじゃないかな。フロイトは「欲動と欲動の運命」のなかで精神分析が科学であるということをいうために体験と抽象概念の関係を冒頭で述べているのだけど、それはフロイトがいわゆる4大症例を体験した後だからこそのこと。それはそれとして、たとえここで書くことが全て今の私に起きていることだとしても心配しないで大丈夫。というか「心配」って力のある言葉だと思う。早速この言葉をめぐるキッツイエピソードも思い出すけど加工できないくらい生々しいので書き言葉にできない。みんなが「心配」って言葉を使うときはどんなときだろう。この言葉はとても興味深い言葉なのでまたいずれ。書きながら自分の状態を観察しているとも何度か書いたけど、今こうして思い出すとキッツイエピソードに対して「あれはなんだったんだろう」という問いが生まれて少し距離ができる。ごろんと転がしておくしかなかったナマモノが思考の対象になってくる感じ。昨日も書いたかもだけど言葉にすればいいってものでは全然ないのだけど言葉にしたときのこういう動きには十分な注意を向けることが大切だと思う。

あ、時間が経ってしまった。インスタにも載せたけど今『上野千鶴子がもっと文学を社会学する』(朝日新聞出版)を読んでいて読み耽ってしまっのだ。私は上野千鶴子の書くことには違和感も多いけどその違和感がどこどこのこの部分って特定できるくらいはっきりした文章だと思うからもやもやもしない。それでも言葉にするとなると曖昧になってしまう。そういうのの明確化に付き合ってくれる先生みたい。そういう意味でも強い。対話を拒む書き手もいるものね。今朝は何気に力とは、強さとは、ということも考えつつ書いていた。カントリーマアムの甘い香りが残っていたところから。言葉にしてるのってほんと一部。今日も少しずつ何かしらやりましょう。

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俳句 読書

1月7日小寒

太陽の運行をもとに一年を24等分したのが二十四節気。まずは一年を立春、立夏、立秋、立冬で4等分。それを今度は6等分。春は立春に始まり雨水、啓蟄、春分、清明、穀雨、夏は立夏に始まり小満、芒種(かっこいい)、夏至、小暑、大暑、秋は立秋から処暑、白露(きれいだよね)、秋分、寒露、霜降、冬はまず立冬、そして小雪、大雪、冬至、小寒、で大寒まで。

ちなみに今は1月7日。睦月、二十四節気でいくと小寒。それをさらに3つに分ける七十二候だと芹乃栄。せりすなわちさかう。あらあら七草粥の日?前にいただいた茅乃舎の炊き込みご飯の素の賞味期限がやばかったから慌てて作ったというか混ぜ込んで炊いたチキンライスをいただいてしまったよ。美味でしたからよしとしませう。チキンライスも炊き込みご飯に入るんだねえ。出汁を売るってすごい発想なのではないか?はじめて茅乃舎を知ってだしの試食?試飲?をさせてもらった時にはなんか変な気持ちだったけど美味しかった。今の時期は寒いから温かいだし汁だけでも幸せよね。暖かく暖かく。

ちなみに毎年宇多喜代子さん監修の「俳句の日めくりカレンダー」をもらっているのだけど今日1月7日はね、みんな大好き池田澄子さんの一句。2021年年末に出た『本当は逢いたし』(日本経済新聞出版)は私の周りにも愛し愛されている人の多い池田澄子さんの豊かさに包まれる句集エッセイだった。1936年生まれの澄子さん、宇多喜代子さんはその一つ年上。戦争を知っている世代のこのお二人の女性たちの声は俳句でも散文でもとても魅力的。

松の内どこでマスクをはずすのか 池田澄子

また書いてしまった。今年こそは俳句をがんばらねば(毎年言ってる)。

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精神分析 読書

学会とか自分語りとか

2023年1月4日から6日までContaining Diversity, Bridging Difference is the theme of the 4th Asia-Pacific Conference, which comes to Delhiだった。インド・・・。行こうと思っていた学会だけど私は日本にいても体調が悪いのに特に悪い胃腸のせいで学会どころではないかも、海の向こうで友達の世話になるわけにもいかぬ、と思っていかなかった。11月にインドの精神分析家とお話ししたばかりだったから頭にはあったのだけどその時に参加費が高すぎるという話が出たのが残っていたのかオンラインで参加できるのに申し込みを忘れておった。スーパーヴァイザーと話しててはじめて気づいた。そして気づいた今、学会は終わっていた。友達からの現地の動画とかみて感激したりしていたくせに。あとで友達の発表は様子教えてもらおう。なんだかすいません。がんばれない以前の問題が色々あるな。組織でやっている学問だからコミットしていかないとね。

今朝はキウイを食べた。柔らかくて甘い。安かったのにね。嬉しい。キウイ畑っていうのかな。夏にたくさんの子供たちを連れてキャンプに行っていた頃にキャンプ場の隣にあった。毎年夏の終わりに開催してたのだけどたくさん実がなっていたと思う。でも収穫って10月とか?でしょ?本当になってたのかな。これ何がなる畑?キウイだよ。とかいう会話をしてたくさんのキウイがなる景色を思い浮かべたのがその後実際に見たキウイ畑と重なって事実みたいになってるのかな。記憶ってそういうものよね。重なり合いながら変化していく。話を聞いていてもそういうものなんだなあって思う。いろんな人のいろんな話をずーっと継続的に聞いていると出来事としては同じ描写でも体験の仕方が全く異なるのはもちろんのこと、患者さん自身「今はじめて思った」とか逆に「話したら全然違う気がしてきた」とか自分の体験の仕方が変わることに気づいたりする。私はフロイトがいうようにsimply listenということでただ聞いてるだけなんだけど患者さんのその感じはとても伝わってくるものがある。内容じゃないんだよね。だから話せばいい、話させればいいというものではなくて基本的には患者さんの世界を邪魔しないように一緒にいることが大切なんだと思うよ、当たり前のことだけど。見たことも聞いたことも想像もしたこともないような出来事について語られることもあればありきたりすぎてどこにも書かれないような出来事もあるけどそれを体験している彼らの全体が大切。私は小説どころか色々書けないけど自分を保つために創作はしていて小説家っていうのは自分の中で話し聞くが両方できるんだからすごい!と思う。金原ひとみの『パリの砂漠、東京の蜃気楼』(2020,集英社)をクリスマスに再読していたんだけどやっぱりすごかった。エッセイなんだけど自分語りとは全く違う。あれはあれで小説読んでるみたいだった。自分語りといえば昨年一番面白かったのが町田康『私の文学史 なぜ俺はこんな人間になったのか?』(NHK出版新書)。作家の自分語りって独り言みたいな自分語りと全然違うから読者の自由を奪わないというかものすごく対話的なんだと思う。寂しがりなぼくを、傷つきやすいわたしをそうとは言わずに知って、愛して、みたいな厄介な方向のナルシシズムを全く感じない。ロックだった。パンクだった。めちゃくちゃ面白かった。町田康のアルバムを聞きながら読んだ。記憶の話に戻るけど彼らみたいな作家の記憶って普通の人と全然違う気がしない?脳が違う感じ。記憶と言語は精神分析も専門的に関わるところだからもっと真面目に書けよ、と自分でも思うけどとりあえずここは雑文だから。私のナルシシズムは特に満たされないのだけど創作とセットだとそこそこいいみたい。才能なくてもそれでお金もらわないから気軽に書いてる。この仕事、見えないところでもいっぱい書くのだけどそれもエネルギー使う。ああ。やらねば。で、記憶ね。記憶について考えるといつも私の頭に浮かぶのは日渡早紀『ぼくの地球を守って』。今チェックしたらKindleでも読めるのね。あれは最高だよ。みんなも読んで。ここで試し読みできるって。

もうこんな時間か。朝ちょっと余裕があるととめどなく書いてしまいそう。今日もなんとか過ごしましょう。

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少しずつ確実に

ハラスメントに関する窓口って最初からかなり閉ざされてる。いろんな事例を想定して調べてみるとわかるけど声をあげにくくする仕組みになってると思うほどに。伊藤詩織さんのインタビューでもああするしかなかったというようなことをいってたと思う。どうして傷つけるほうは平然と自分のやりたいことだけ繰り返すのかな。フロイトのいった快原理は正しそうだ。そういう人もまったく痛みや悲しみを感じないわけではないのだろうけど恐ろしく欠如している部分があるのだろう。絶対に非を認めない。認めたら死んじゃうわけでもなかろうに。ある部分に関しては血も涙もなくものすごい拒否的、被害的、攻撃的になってしまう。なんなんだ。その前段階で気づいているのだからいってあげるべきなのだろうけどそれはそれで失うのも怖いとか複雑な気持ちが生じるから簡単ではない。なんにせよ小さな嘘を積み重ねるのはとてもよくない、当たり前だけど。推理小説好きじゃなくても普通に観察してればばれてしまう嘘ばっかりなんだから、たいていは。なんでこれがばれてないと思うんだろう、と思いながらみてみぬふりをして嘘をついたこちらもどうしようもなく愚かなんだろうけど。痛い目にあっても離れないことで離れなかったおまえが悪いといわれちゃったり。そんなもんですかね。そんな簡単じゃないから賢いはずのあなたがそんなわかりやすい嘘つかざるをえないんでしょ、つまり思考停止だよ、といったとしても嘘をついている人にはもうなにも通じない。嘘はつきとおさねばならない。だからばれそうになると逆ギレしたり。基本的な思いやりとか観察する力や関心をもつ力がかなり弱いのかもしれない。それが全般的な弱さにみえてその威圧的な攻撃性を覆い隠してしまって逆にケアされる対象になっていることだってあるかもしれない。特定のことに対する吸収力はすごくても人間のこころみたいな曖昧で複雑で変化するものに対して寛容でいられないのかもしれない。でも自分に対してだけは寛容であってほしいから常にそういう相手をキープしておく。重みや複雑さに耐えられないから。家庭のある人の場合は外へむかいがちかも。身内にはわかっちゃってる場合が多いから。これだけ可視化というか、相手の気持ちなど考えずに自分の欲望のままに露出していく時代になっているにもかかわらずそれができるのは常に強者のみ。だってハラスメントなどの暴力的な行為に声をあげる人の口封じみたいな構造は変わっていないのだから。地獄だ、そんなの。だから模索しよう。女か男かはとりあえず関係ない。依存関係、共謀関係は常にある。前にも書いたが「ひどいことをしてきたのはみんな女だった」と男に相談していつのまにかべったりになっている人とは今の時点では協力は無理かもしれない。お互いの利害関係が絡めば理性など感情にたやすく負けるだろう。私たちみんなそうだと思う。しかたない。そこだって簡単に暴力の場になる可能性はあるけれど愛とか性愛に言い換えてなかったことにしようとするかもしれない。それはそうだろう。そんな簡単ではないのだ。だからこそまずはたやすく敵味方に分断されることのない者同士で手をつなごう。何度か書いたが人間関係は戦いではない。だから今は無理でもいずれ、という希望も保持したい。戦いの場までもっていかざるをえなかった彼女たちから学び、それ以前をどうにかしていくことを考えることは必要だろう。それぞれが被害と加害に関わる可能性のある身として、これからの子供たちのことを考える大人としてできることを実際に少しずつ、でも動くとなったら確実にやっていく力を身につけたい。

※考えてることは「あれはなんだったんだろう」関連。だから重なってる。

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ウェブサイト更新とかフロイト読書会番外編とか

年末年始は東京よりも日の出が30分遅い土地にいたので朝になるといちいち「東京は早いなあ」と思うようになった。旅に出ると早朝から散歩にでるのが習慣だが今回は街灯も少なく真っ暗。それでも白い小さなお花をたくさんつけた木が雪みたいに明るかったのが不思議だった。

今朝は久しぶりにオフィスのウェブサイトを整えた。整えただけで特に記事を足したりはしていない。ここはただの雑文だからもう少し専門的なことをもうひとつのブログに書いてウェブサイトにリンクを貼りたい、と前から思っているけどやっていない。オフィスのウェブサイトは記事の量に制限があってひとつの記事が長い分にはいいらしいのだが、一つのカテゴリーに10個とか制限があるらしくすでに結構使ってしまっているのだ。でもそれも結構前に確認したことだから今は変わってたりするのかな。みてみよう。

ツイートもしたが、昨晩は毎週実施されているフロイト読書会番外編ということで私企画の輪読会を行った。私は普段はアドバイザーとして招かれているだけなので基本的には参加者のみなさんのやりとりを見守ってなにか聞かれればなにか言うみたいな感じなのだが読書会のしかたで迷いもあるとのことだったので私がオフィスでReading Freudと称して行っているフロイト読書会の方法を紹介がてらやってみた。といってもひとりずつ順番に1パラグラフずつ読んでいき、内容の区切れるところで議論をしてまた読み進めるというシンプルな方法で、今回はフロイトが第一次世界大戦中の1915年に書いたメタサイコロジー論文の中から「欲動と欲動の運命」を取り上げた。2時間で読むにはちょうどいいかなと思ったら議論の時間を含め本当にちょうどよかった。よかった。今回は岩波の全集ではなく十川幸司訳『メタサイコロジー論』(2018,講談社学術文庫)を使用した。フロイトのメタサイコロジー論文を読むならこれが一番いいと思う。文庫だし電子版もある。

ツイートしたが参考文献はこちら

欲動というのは精神分析が想定する身体内部から生じてくる本来的な原動力のことである。なんのこっちゃという感じかもしれないが、フロイトは本論文でこの概念を基礎づけることで内部と外部、主体と対象、快と不快、愛と憎しみなど対極的なものを力動的、立体的に捉えようとしている。自己へと回帰する欲動の動きを言語的な枠組みを用いて描写するしかたはダイナミックで楽しい。途中なんで突然これ持ち出すのみたいに思った部分もあったがそれはフロイトが死ぬまでわからないと言い続けた事柄でもあるから錯綜するフロイトとともに読み続けることが大切なのだろう。この形での読書会はそれなりによかったようなのでよかった。継続の希望もあるようだけど時間がとれるだろうか。細々とやれればいいか。

一生懸命、真剣に大切にしてきたものを思いもかけない形で失ったことはあるだろうか。たぶんあるだろう。語りえないものとして残るであろう穴とも傷ともいえるその喪失をめぐって精神分析は独特の言葉の使用の場を提供してきた。精神分析はなんでもセックスと結び付けてなにかいう印象があるかもしれないが精神分析におけるセクシュアリティは単なるセックスよりもずっと広い対象をカバーしている。病理をいわゆる正常と地続きのものとして捉える精神分析の大きな特徴も今回の読書会で確認した。快だけを取り入れ不快なものは外へ、という今回読んだ論文にも記述されているあり方をいくら繰り返しても逃れることができない欲動とともに私たちはどうにかこうにかやっているらしい。死にたい。そんなことを時々つぶやきながら今日もなんとか。

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うそもほんとも。 精神分析 読書

ダラダラと

休みの間、ここで書き散らかしているようなことさえほとんど書けなかった。なんとなく朝ここを開くことが習慣になってしまったので書いてはいた。それに毎日のそういう状態を観察するための場にもなっていたので「あー、こんな風になっちゃうんだ」と知り、辛かった。ここを時間をかける場所にはしていないので時間をかけて吟味することが必要な事柄は何も書いていない。なので中身はえらく薄っぺらいうそほんと話の集積だ。でもここ数日どうしても吟味が必要なことしか浮かんでこず手が自然に動かなかった。だいぶ慣れて感じなくなっていたしびれや痛みも感じることが増えた。ルーティンが崩れるとこうなるのだろうか。抽象化ができず具象的にしか考えられなくなると身体化が生じ行動のほうに拍車がかかりそうになるのか。それは避けたい。そういうときにひとつ有効なのがものがたることなのだと思う。ただ、圧をかけられて黙らされた経験のある人にはそれはもっとも困難な方法だろう。法のもとなら安全だろうか。そんなことはまったくない。一度持ち込んだらものすごい時間とエネルギーを割くことになるしプライバシーを失う覚悟も必要になるかもしれない。精神分析の場なら安全か。そんなこともまったくない。沈黙やプライバシーが守られるという点では安全だろう。でもどこにいても脅かされ続けてきた当事者のこころはそんな簡単にそこを安全だと思うことはできない。自分語りや自分見せが上手な人たちが相手の場合なんて毎日が地獄だろう。もちろん傷つける側の相手にそんな「つもり」はない。お馴染みのありかただ。さらにまいってしまうのは自分たちを被害者だといいながら力を振りかざされる場合か。取り巻きとべたっといろんなものを与えあいながら持ちつ持たれつの関係を作り信じがたい軽薄さを高度な知性か巧みな話術でくるみながら「承認欲求」(普段使わない言葉だけど)を維持し自分より立場の弱い人に「自分が被害者だ、悪いのはおまえだ」と陰で圧をかける。こういう差別や排除のスキルも「コミュ力」に含まれる時代だろうか。

以前、佐藤優が沖縄に向けられた差別について

「差別が構造化されている場合、差別者は自らが差別者であるというのを自覚しない。それどころか、差別を指摘されると自らがいわれのない攻撃をされた被害者であると勘違いする。」

と書いていた。この記事はまだオンラインで読める。まさにこのループだがこの記事にある「微力ではあるが、無力ではない抵抗」という言葉は誰かに「だからがんばろう」というためではなく心にとめておきたい。語ることをあきらめないために。

先日、辻村深月『かがみの孤城』を映画でみた。原作はポプラ社から2017年にでている。学校にいけない中学生たちがかがみの向こうで出会い限られた時間である目的を果たそうとするおはなし。おしゃべりはするようになった。でも実はなにもいっていない。一緒にいられる時間には限りがある。中学生という設定がいい。

「いってなかったんだけど」「いうつもりなかったんだけど」

語るには時間と場所が必要だった。そしてまずはただきいてくれる相手が。この人になら話せるという相手が。小さな子どもも親とみにきていた。どんなことを思っただろう。そんな簡単に言葉にならないか。いい映画だった。

「対話」。流行語かのようにそれだけ取り出されて使うような言葉になった。ものがたることと同時に当たり前になされてほしい一番のこと。

「微力ではあるが、無力ではない抵抗」

可能だろうか。不安だし怖い。そもそも圧をかけられ対話を拒まれたのにそれでもと声を上げ続ける空虚に耐えられるだろうか。その間にも続くそのつもりなき攻撃に耐え続けることはできるだろうか。小説や映画のように「大丈夫」と言ってくれる大人はもういない。自分たちがいう側になった。「全然大丈夫じゃなさそうだね」と私がいい彼らがうなずくことは多い。まずそこからか。全然大丈夫じゃない。だからしかたなく、というのでもいいのかもしれない。だってそうでもしなきゃ、という局面はいずれくるだろう。そのときまでダラダラと小さな抵抗を。自分の気持ちをなかったことにしない、映画ではそんなメッセージも強調されていたように思う。そういう意味では親の判断を必要としなくなった今のほうが自由だろう。なかったことにしない。なかったことにされることがどれだけ暴力的なことかが前よりは理解できているように思うから。

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雑感

もう明るい。土地によって日の出の時間が全然違う。久しぶりに小さな街の小さな本屋に長居した正月だった。私の住む街には以前小さな本屋が2軒あったがどちらもなくなってしまった。彼らは今何をしているのだろう。

SNSのせいか気持ち悪さとか危機感をこちらに感じさせずに忍び寄る侵入者が増えたように思う。会いに行けるアイドルに会いに行くのとは違う、会いにくるある領域では知られた人みたいな人も増えたのではないか。本を読んでいるとそういう近づき方って大抵不審がられたり気持ち悪がられたり逆にもてあそばれたり騙されたりしているような状況が多いと思う。「運命」みたいのはそういうのよりもっと偶然の要素が大きいか長い時間をかけてはぐくまれたものが背景にあると思うし。このはぐくまれるものが二者関係である程度共有されていればいい感じだろうし、大抵は錯覚だとしてもそれをわかりつつお互いを思いやれていればなんらかのいいことは起こりそうだけど邪悪な(昨年よく聞いた。学んだ。)欲望まじりの人を見抜くことは難しいから結局なにが起きるかはわからないから身を任せるしかないのか、となる。最初からひどい目にあう可能性を考慮して誰かと出会うなんてしたくないし。

もうでかけねば。みなさんもお疲れのでませんように。

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写真

土砂崩れとか火災とかのニュースが辛い。今年は関東大震災から100年というニュースを電車の液晶で見た。

昨年行ったいくつかの写真展のことを考えながらここ半年くらい何度も検索した人物をまた検索しようとしたがまた忘れてしまった。精神分析協会の先生の名前しかでてこない。苗字が同じなのか、と今思い出したつもりだったけど見直したら苗字も違った。忘れたくても襲いかかってくる記憶のほうをなくしてほしい、なくすなら。

上原沙也加の個展で注文しておいた写真集『眠る木』が届いた。美しい製本。帯を岸政彦さんが書いていた。

なんだか書いては寝て起きては消しを繰り返してしまう。加工ができない状態のときは寝るに限る。東京はいいお天気。みなさんどうぞご無事で。

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精神分析

まだなにも。

昭和初期、瞬く間に地方最大となった書店を作ったというその人はその後デパートも作ったという。日の入も日の出も遅いその街で本屋は今もやっていた。バスセンターの2階、薄暗くてガランとしたスペースでDAISOや啓文堂と似た感じの佇まいで。バスセンターの小さなスペースでその街の歴史を辿る小さな写真展をみかけなかったらそんな歴史も人も知ることはなかっただろう。

知識があることになんの意味があるのか。それは様々に恵まれた人たちのお話かもしれない。それだけ本の引用が自由自在にできて知識人扱いされて人の心を打つお話まで書けてその言葉、この行動、あなたのそれらは常に味方づくりと正当防衛のためですか、といいたくなるような虚構(ウソもホントもないでしょうけどあえて)と日々の言動の乖離、そんなのはあるのは当たり前だという知識なら誰でも体験的に習得しているかもしれない。なのになぜ傷つき苦しむのか。いつまでもウジウジするのやめたら? 時間がもったいないよ。年も変わったしお清めでもお祓いでもして先へ進もうよ。プロセスを知らない人は傷つきがどんな風に時間を止めるかを知らない。簡単な儀式で無理に時計に追いつこうとする努力は日々している。でも無邪気なアドバイスは善意だ。そう受け取る。もう悪意などたくさんだ。

漫画と文庫が充実したその本屋で桐野夏生の文庫を買った。久しぶりだ。人間関係の複雑さを豊かな知識で別物にしたり無邪気に簡単な言葉や儀式でなかったことにしたりなどできないことを確認したいのかもしれない。断ち切られた側はひとりでずっとこういう作業を続けることになる。ひたすら苦しくしんどい毎日。そんなことは相手にはどうでもいいことだということも知っておく。世界は基本過酷で残酷らしい。私はまだまだ何も知らない。