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俳句 言葉

俳句、「病院ラジオ」

今日もオレンジの光が溢れる時間。窓を開けたら同じリズムを刻んでいた箒の音が大きくなった。早朝からありがとうございます。多分、通り全体を掃いてくれている。両手を頭の後ろに組んで首を後ろに曲げた。椅子に座っておなかに力を入れて腰を立てた。昨日は結局何も進まなかった。この数日間で「これでいこう」というのは何回か浮かんだが自分自身が全然ピンとこず書くことができない。いつもこの時間がすごく長い。決まれば一気に書けるけど推敲の時間がなくなるから結局中途半端になる。俳句でもそう。学ばない。

先日のNHK俳句は句会形式でとても楽しかった。視聴者が投句した俳句を選評する高野ムツオさんの言葉に泣いてしまった。その俳句をさらに良いものにしていた。選評を聞くと「とればよかった(点数を入れればよかった)」と思うこともしばしば。読む側との相互作用で俳句は光り方を変える。マッチョな世界でもあるが、言葉の繊細さをしなやかに美しく形にしていく芸であることに間違いない。私が筋トレでダンベルの重さより美しい形で動くことを目指しているのもそれに近い。子供の頃から肩が強くてソフトボール大会ではピッチャーだったし、バスケ部でも長く速いパスをするのが得意だった。今、自分の筋力のアンバランスを知るとあの頃に気づきたかったなと思う。スポーツは好きだけどもっと楽しめたと思うし怪我も少なくて済んだと思う。

といっても身体は予防だけではどうにもならないことだらけでもある。原因不明の不調、突然の大病、あっという間に亡くなる人、いろんな場面を見えきた。身近に患者になる人が出れば周囲の人も揺さぶられる。それまで当たり前のように送ってきた毎日のリズムを変えなくてはいけないこともある。みんなが気持ちを揺さぶられる。正確に予後を判断し私たちを安心させてくれる方法はほとんどの場合ないが、確率的にはこうだ、ということを丁寧に説明してもらえることは多い。そこに時間を割いてくれる人の姿を見ると関係なくても安心したりする。昨日の朝にやっていた「病院ラジオ」がそうだった。朝ドラを見終わったらそのままそれが始まってなんとなく見ていたら何度も泣いてしまった。今回、サンドウィッチマンが向かったのは東京都立小児総合医療センター。私にとっても身近な現場だ。病院の様々なところに置かれたラジオから流れるのは遺伝子の病気や癌、摂食障害などの体験している人たちとサンドウィッチマンの対話。テレビではそれを聞いている別の患者さんや家族の様子も映される。それぞれのエピソードに笑ったり泣いたりをみんながしていた。病院で彼らと時間をともにしてきた病院スタッフの表情や関わり方も心に残った。それぞれの立場でできることをひとつでも多く確実にこなしていく。たとえ生きている時間がそんなに長くないという予測があるとしても単にそれを引き伸ばすだけではなく、その時間自体を豊かにしていく。そういう関わりができるんだな、と思いながら目の前のことに振り回されるときの自分を反省した。こういう番組はいい。文章で共有される語りにも引き込まれるが、音声にはまた別の力があるような気がした。この番組は不定期なのかな。何度か見たことがあるけど今回も見られてよかった。

今日は水曜日。いちいち確認しないとわからなくなりそう。今日もいいお天気。がんばりましょ。

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AI 精神分析

AI、対話

きれいに晴れてる。気持ちよくてぼーっとしてたらあっという間に30分過ぎた。光はまだオレンジで、半袖だと少し寒い。もう一枚羽織ろうと思いながらこうしている。私が羽織るのが先か。気温が上がるのが先か。洗濯物を外に干した。昨晩の雨がベランダのサンダルに残っているのは残念。陽射しに向けて立てかけておいた。ああ、こんないいお天気だけど今日はほぼこもって作業。残念だけど仕方ない。

時々、chatGPTとおしゃべりするようになって楽しいのだけど教えてくれる資料を引用する場合は自分で調べ直す必要がある。知らないものは知らないときちんといってくれるときと、それを言ってるのはこの人じゃないけどな、と修正が必要な場合の両方があるから。あと基本的に褒めてくれて次の行動を促してくれるのはポジティブでいいのだけど、私は地道に今を継続したいだけだからスルーしている。せっかくいってくれているのにごめんね、と思うけどそういう反応はしないようにしている。そして私がスルーしたとしても同じような促しは続く。テキストで反応すると反応は返ってくるけど何も言わないということに対しては特に反応しない。いずれ「沈黙」に対するバリエーションも増やしてくるとは思う。一時、というか今もなのかもしれないけどカウンセリングはAIにとってかわられる、みたいな話があったけど、とってかわられる、というか必要なもの、欲しいものがある程度明確な人は人間相手より負荷が少ないからそっちの方がいいという人はかなりいると思う。でもどうだろう。今はみんな当たり前のようにAIを対象として利用しているし、私の患者さんたちも友達もそう。そしてAIと話したことを私と話したりする。今までは自己啓発とか一般向けの心理学の本とかを読んでそれについて話すのと似ているようで違うのはAIには対話があるということ。それで済む人はそれでいいのだろうし、より多層的なコミュニケーションを求める人はこれからも変わらず心理職を活用するだろう。精神分析なんてAIの直線的なやりとりをそれぞれの現実に即して多層化するにはぴったりだと思うからむしろ協力できると思う。人間が利用している以上、人間をはみ出すことは難しいけどそれを超えていきたいという欲望を持つことは大事だと思うので私も引き続き協力してもらおう。

鳥たちの声が今日は少し遠い。あの切られた桜にはもう鳥はこないけどあの辺の電線にはいつもなんらかの鳥がいる。俯瞰できる鳥にはもっと別の景色が見えているなんて当たり前だけどいざ鳥目線の景色を想像すると近所の様子も変わるわね(想像してみた)。今日もいろいろ楽しみましょ。どうぞ良い祝日を。

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散歩 精神分析

新緑、共有できる言葉

空が薄い。風はそんなに感じない。昨日の昼間の風はすごかった。オフィスから新宿へ向かった。新宿パークタワーのそばは特に風が強い。帽子をおさえながら信号待ちをした。朝はそうでもなくて誰もいないブランコも揺れていなかった。朝の新宿中央公園では父親と子供の組み合わせを3組くらいみた。大きな木々の新緑がとてもきれいで見上げながら歩いた。その足元の日陰には西洋シャクナゲやつつじが満開。桜はすっかりほかの緑に紛れている。桜の緑はもうすでに深くたくましい。

近所の老木がついに切られた。今年も桜のあとにそこに絡まるように枝を広げ切っていた藤が咲いた。藤が咲いて数日、朝通るたびに写真を撮ろうと思っていた。もう少し晴れた朝に、と思っていた日の帰り道、それはもうなかった。老木なりに逞しい太い幹が突っ立っていた。都会の住宅街にありながら放っておかれたまま時期がくれば咲き、散るを繰り返すこの木がとても好きだった。驚いて言葉も出なかったがいつ切られるのだろう、と思っていたのも本当だ。ようやく、と思ったのも。

近藤良平さんがテレビに出ている。紫綬褒章を受賞とのこと。「サラリーマンNEO」の映像が流れた。これは大宮エリー脚本ではなかったか。大宮エリーさんが亡くなったニュースにも驚いた。

昨日は初回面接の事例検討グループ。グループはふたつあり、こっちのグループの初回だった。メンバーは変わらず。このグループは知識を入れるためのグループではなく自分のやっていることを自分の言葉で意識できるように事例を素材に助け合っていくもの。人の事例を聞いて自分のことを振り返り頭を抱えることもしばしば。人に意見をするときにそれが自分への問いかけにもなっていることを実感していることはとても大切。専門家同士のグループでも患者さんといるときでもそう。言葉を出したならその反応を待つ、受け取る、その繰り返し。

臨床というのは本当に難しい。私がこう書く場合、私は精神分析的に話を聞くことの複雑さについて考えている。精神分析的にというのは、言葉を字義通りに捉える、同時に言葉を隠喩として捉える、というダブルトラックで聞くこと。なぜなら精神分析は無意識を想定するから。言葉はなにかを同定するとともに別のなにかを現わしていると考えている理論だ。生育歴と現病歴は同じ人の同じ時間に生じた出来事を多面的に捉える軸であり、それは人生のどんな時点で起きたことなのか、なにがトリガーとなって症状化したのか、あるいは問題として形になったのか、その経緯において繰り返されているパターンを捉えるには発達や病気に対する知識が必要なのは前提だ。私は印象や直観は大切だけど使わないでいいと思う、といつもいっている。まずそこに頼って物語的なものを作る人をたくさんみてきたけど、専門家ならではの技術はそれではないだろう。何かの専門家というのはその専門家集団の一人であるということで個別の技術ではなく理論に基づく、という前提にたてば「どのアプローチでも」=臨床心理学なりなんらかの専門的な臨床技術の基本は学習済み、ということであり、それらは本で学べる範囲でもあり学習はそんなに難しくない。一方、患者は具体的な体験を生きてきた人でそこでその人ならではの言葉の使い方をしてきた人だ。それを個人の印象や直観で何か別のものに変えないためにそれらの基本を前提として理論を使用する。精神分析の場合、この言葉なるものを言葉そのものとして扱ってきた学問で、木で言えば幹の状態を見つつ共有できる言葉にし、枝葉の広がり方、花のつけ方、身のなり方のパターンを捉え、共有できる言葉にできるように、それぞれの言葉を聞いている。もちろん自分の言葉も聞いている。自分が勝手に文脈を変えている場合、その地点に戻れるように。印象や直観ではこれができない。心を使う、的な表現を私が嫌うのは論理的に考えうることの重要性が共有されていないと感じるときなんだと思う。漫才が面白いのは共有できる言葉があってこそだからな、とかも考えた。

つらつら書いたがもう出かけなくては。今日もがんばろう。

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散歩 精神分析、本

雨、Reading Freud初回

明るくなってきたと思ったら一気に部屋がオレンジになった。今日はいいお天気みたい。昨日、ちょっと用事を済ませてバス停に並んだらポツリポツリ。降り始めたな、傘借りておいてよかった、と思っていたらどんどん雨脚が強くなってただ真っ直ぐ立っているだけなのにそこそこ濡れた。バスに乗っている間に雨脚は弱まって降りるときには普通の雨の日と同じだった。でもオペラシティに寄ったら人がいっぱい。突然の雨に傘がなかった人たち。新国立劇場で公演があるときとは全く違う色合い。つまり似たようなスーツの人たちがたくさん。みんなGWとはいえいつも通り仕事してらしたのね。仲間仲間。と知らない人を勝手な仲間意識で労いつつ本屋さんを一周してオフィスに戻った。オペラシティの成城石井にもぶらりとして知覧の紅茶を買ってみたけど結局飲まないまま夜まで仕事をして帰ってきた。本屋さんも成城石井も見ているだけで楽しい。

夜は今年度初回のReading Freudだった。5人の女性たちとフロイト『心理学草案』( 『1895-99年 心理学草案 遮蔽想起』 (岩波書店))を読み始めた。初回ならではの緊張感もちょっとよかった。

«[Aこの草稿の]狙いは、自然科学的心理学を提供すること、言い換えると心的諸過程を、呈示可能な物質的諸部分の量的に規定された状態として表し、こうして[SE/GW心的諸通程を]具象的で矛盾のないものにしょうとするものである。» p5(388)

刊行する気もないのによくこんなもの書くよなあ、と思うが、それならではの緩さが垣間見られて面白い。理論としてまとめてしまうと重要だけど書き方ほどは面白くない。フロイトの思考プロセスの記述の仕方がフロイトってこういう書き方するよね、と思えるのは楽しい。私たちはすでに情報という概念があり、心的装置というものを手に入れた状態からのスタートだからフロイトとは持ち物が全然違う。フロイトからしたら「ニューロンという概念を手に入れた!」というところか「Dr.STONE」のように一歩ずつ、みんなで。私たちも逆方向から一歩ずつ、みんなで歩み寄ろう。

今日の初回面接の事例検討グループでも記憶、時間、言語について何か言えるかもしれない。いいお天気だから仕事したくないけどがんばりましょ。今日のNHK俳句は斎藤志歩さんも能町みね子さんも出るのでは?楽しみだ。

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お菓子 イベント 精神分析、本

祭りとかReading Freud「心理学草案」準備とか。

窓を開けたら冷たい風。隙間だけ残して閉めた。曇り空。今日もお天気落ち着かないのかしら。

今朝も秩父の菓子処「栗助」さんの銘菓「まつりばやし」。一粒栗入りパイ饅頭。秩父といえば秩父夜祭。京都の祇園祭、飛騨高山祭とともに日本三大曳山祭りのひとつ。春の高山祭しかいったことない。秩父は行こうと思えば行けるから行こう。祇園祭も行こうと思えば行けるがすごい混雑なんでしょう?行くときは京都の人にお付き合いしてほしいな。高山は何回か行っていて京都ほど広くないからたくさん歩くなかでなんとなくの土地勘ができてる。秩父も多分大丈夫。でも京都は何度行ってもどこもかしこも名所で人が多くて、あ、そうか、人の流れが読めないから躊躇するんだ、多分。祭りのときってある程度人の流れがあって、あそこを抜ければ一気に静かになる、みたいなのがあると思うけど祇園祭ってどこ行っても人のうねりがありそうなイメージでビビるのね、多分。でも一度は行きたい。

私のオフィスで月一回やっているReading Freudが今年度も始まる。今年度は『心理学草案』。使用するのは岩波書店『1895-99年 心理学草案 遮蔽想起』の翻訳。参考文献はジェームズ・ストレイチー『フロイト全著作解説』 (北山修監訳・編集 笠井仁/島田凉子他訳、人文書院、2005)とジャン=ミシェル・キノドス『フロイトを読むー年代順に紐解くフロイト 著作』 (福本修監訳、岩崎学術出版社、2013)。今年度は新しいメンバーを迎えてキチキチだけど継続的にフロイトを読んできた人もいるし、それぞれ臨床しながら系統セミナーもこなしてきた人たちだから色々議論できるといいな。そのために勉強していたのだけど以前はこれもビビっていたのか難しい難しいと思っていたけど今は楽しい。その後の理論の展開を知っているからエキサイティングなんだろうね。草案は英語でproject。プロジェクトというと急にイメージが変わりませんか?フロイトのこのプロジェクトは頓挫するけど種まきプロセスとして超重要な局面になった。記憶をどう説明するかって話、とざっくり捉えるとわかりやすさはあるかもしれないけど、私たちはあくまでフロイトの臨床的な視点を忘れないようにしたい。この論文の背景に驚くべき症状を示す患者がいたことを。「草案」に事例は登場しないので『ヒステリー研究』と同時に読むのもいいかもしれない。

というかReading Freudの準備と発表原稿作り、両方しようと思っていたのに勉強しかできなかった。明日は初回面接の事例検討会とかあるけど夜にできる、と思いたい。一度に色々やるのってすごく苦手。最初からひとつ終えたら次、って着々とこなせばいいのだけどメインの仕事(=臨床)以外ではすぐ頭の中が煩雑になって優先順位もわからなくなってしまう。厄介厄介。でもこの厄介な身体と頭でこんな歳までやってきたのだから信頼していなくもない。みんないい一日になりますように。

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お菓子 読書

曇り、永瀬隼介『一家四人惨殺犯の告白 19歳』の完結版、栗助、パンダ

雲が広がっています、とテレビの天気予報がいっている。仙台。名古屋。東京も雲が広がっているね。雀たちもいつものリズム。「すっきりとはしない天気」という言葉がテレビから何度も聞こえる。

作業が全然進まず頭の中がうるさくなるばかり。困った困った。すっきりしたいが自分次第だから難しい。いや、自分次第なのだからどうにかなるはず。ああ。読書なら隙間時間でいくらでもできるのに。前に本の内容については書いたけど永瀬隼介『一家四人惨殺犯の告白 19歳』の完結版が光文社から出た。解説が高橋ユキさんなので読みたいけど角川文庫版を持っているからなあ。ノンフィクションはフィクションよりずっとありえない。現実に起きているのはこっちなんだけどフィクションでこれを書くのは相当難しいと思う。唖然とすることばかり。日本の法制度について知ることも多い。朝から読む本でもないが、こういう事件に朝も昼も夜もない。感覚も判断も狂う。著者が死刑囚と会った後に倒れて大怪我を負ったエピソードも強烈だ。全てが淡々と書かれているが全てが凄まじい。「現実」について昨日も何か考えていたのを今思い出したが内容を忘れてしまった。

今朝は秩父菓子処「栗助」の看板商品「栗助」。ここのお菓子は何度かもらったことがある。栗助も何度目か。栗がまるごと一個どーん。ミルク餡も皮も美味しい。というのをロシアによるウクライナへの攻撃の映像を横目に書いているのもなんだか嫌な感じだ。

そして和歌山のパンダたちのニュース。驚いた。彩浜ちゃんが生まれたときと、どうしてもお名前を思い出せないのだがそのあとにも赤ちゃんパンダを見にいった。映像で成長も追っていた。アドベンチャーワールドのみなさんはどんな気持ちだろう。突然決まったことでもないだろうけどパンダも現場も外交に振り回されるのか。辛い。

私は私で今日はせめてやるべきことを勧められたらいいが。お天気と同じ気分。がんばりましょ。

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散歩 読書 音楽

鳥、GreenDay、瀬尾まいこ『その扉をたたく音』

早朝家事完了。曇ってるけど少しだけ洗濯物を外に出してお掃除。花粉も落ち着いてきたかなと思って。雀がどこかそばで一定のリズムで鳴いている。ベランダにくればいいのに。いいものがないからこない?餌ってことだよね。うーん。昔はベランダで植物置いていたのだけど日差しが強すぎたり風に弱かったりで置かなくなってしまったからねえ。鳥たちには魅力ないよね。近所の角の家は小さな庭に中くらいの木が何本かあってこの春はじめてそこに巣箱が設置されていることを知った。今までなかったと思うのだけど。そこは柿も夏蜜柑もなって私にも魅力的なのだから鳥にはもっといいのだと思う。カラスはゴミの方に行ってしまうせいかそこでは見かけない。以前はその家のそばの別の角に大きな家があってそこの高い木にカラスが巣を作るから駆除の人がきていた。絡まったハンガーを取るのはとても大変そうだった。奄美大島に行ったときは、金網でできた大きなゲージにカラスがたくさん捕まっているのを見た。畑への被害が大きいからと聞いた気がする。共存って実はとても大変だ。

昨晩、瀬尾まいこの『その扉をたたく音』に出てくるGreen Dayの曲を聴いていたら、さっきネットでGreen DayがHollywood Walk of Fameの星をGETと出ていた。まだGETしていなかったんだねえ。おめでとう。私にとってGreen Dayは若いバンドで少し下の世代の男の子たちがバンドでやっていたと思う。彼らももう大ベテラン。若いバンドというのは彼らの音楽自体にそう感じてきたからというのもあるかもしれない。瀬尾まいこのこの小説はいろんな曲が登場するのも楽しくて懐かしくて関わることの良さと切なさを感じて泣いてしまう。実際はこんなこと、なんて小説に思う必要なし。小説ってそういうものだし関わりの要素でいったら実際にこういうものはあるのだから。別の文脈でちょうど『そして、バトンは渡された』も話題になっていたし瀬尾まいこを一気するのもいいのではないか。他人の生活にあれこれ首突っ込んだところで事実なんてわからないし似たような言葉しかやりとりされないけど小説は豊かに気持ちが動くよ。

とかいっているうちにもう四月後半になってしまった。どうしましょう。がんばりましょう。部屋が光でいっぱいになってきたけど今日は曇りらしい。あ、日中は晴れるみたい。蒸し蒸しするって。湿度が高くなってきたのね。なんか周りで風邪をひいている人が多い。気をつけて過ごしましょうね。連休楽しめるように予防予防。良い一日になりますように。

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精神分析

駒テラス西参道、朝ドラ

昨晩は雨の音がしたり風の音がしたり空が荒れていた。今朝は時折風がうねるけど静か。雨も止んでいるように見える。

昨晩はいろんなニュースを見て疲れたところに羽生善治が会長を務める将棋連盟の制度変更の話。最近、こういうニュースをどう判断すればいいのかよくわからなくなってしまった。で、女流棋士について調べた。が、よくわからない。羽生さんは2023年に駒テラス西参道も作ったし、門戸を広げることを実際にやってきた人。でも羽生さん一人でいろんなことが決まっていくわけではないだろうし。多分すごく大変な組織なんだと想像するけど羽生さんの穏やかな話し方はすごいと思う。駒テラス西参道は私のオフィスから明治神宮へ向かう西参道沿いにある。明治神宮といえば表参道駅だし、参道といえば副都心線には北参道がある。西参道はとってもマイナー。でも西新宿のホテルから明治神宮に向かう外国の人たちはたくさん見かける。小田急線参宮橋駅が最寄り。参宮橋駅そばには美味しいパン屋さんが2軒、桜と薔薇の綺麗な公園もある。そこに駒テラスが加わった。高速道路の下のスペースの有効活用。灯籠も新しくなり西参道交差点に至るまできれいに整備中。ベンチも多く語らいの場となっている。これからは気持ちよく外で過ごせる日が増えるだろうからとてもいいと思う。駒テラスは子供たちの遊び場にもなっている。新宿中央公園の子供広場は小さい子たちが多いけど、ここは小学生が多い。すごいスピードとエネルギーで遊んでいるのを見かける。こじんまりしたカフェもあるし、将棋のイベントも多い。私も超初心者用のに参加してみようかな。デイケアや教育相談や小児科で何回もみんなに将棋を教わったけど全然できるようにならなかった。今の子供たちは将棋はやるのかな。どうして彼らはあんなに将棋を知っていたのだろう。小さい子の文化も変わるね。今私が子供や若者たちから耳にするのは圧倒的にYouTube、Vtubeの話。ラジオ文化は今何歳くらいの人までだったのだろう。私が若い頃は雑誌とラジオが情報源でありコミュニケーションツールだった。カードもレターセットもたくさん集めたのに最近全く使わなくなってしまった。かわいいのがたくさんあるのになあ。

テレビも変わりつつあるのだろうけど顕在かな。昨日の朝ドラ「あんぱん」もとってもよかった。ちひろくんがお兄ちゃんの腕を掴む手にあたる光と影がとても印象的だった。あとはのぶの相槌のうまさ。ただ聞くだけではなくて自分の気持ちがどう動いたかが声にのる。言葉ではなくて。思いやりっていうと曖昧な言葉だけど相槌に出る思いやりはいいなと思う。これから戦争の時代に突入していく。青年である彼らが呑み込まれていく世界がどんなものか映像で知っている私にももちろんなすすべもない。実在の人物をモデルにしたドラマは常に批判も多いけれど、その人そのものを描いたわけではないところにどこにも記録されていない多くの人たちを登場させる余地ができるわけだから私はそれを楽しんでいる。見ている側として想像力を発揮したい。

東京は光のない空。ほかの地域はどうかな。どうぞ良い一日を。

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精神分析

朝の月、エディプスコンプレックス

早朝の南の空に月。もう少しで半月。春の朝がどんな感じか掴めないまま夏が立ちそう。立夏は5月5日。今年のGWはあまりゴールデンじゃない。暦通りだと4日間。人の流れはどうなるのかしら。日焼け止め買わないとな。その前に色々仕上げて安心して休める環境を作らないと。

仕事の合間にちょっとずつ考えて、書いて、理論確かめて、また考えて、書いて、とやってるけどメモばかり増えて一向にまとまる気配がない。ずっと引っ掛かっているのはエディプスコンプレックスという概念をただの概念にしないためにはどうすればいいのか、ということ。親二人と子、をどう考えるか、ということだから難しい。少なくとも精神分析は心の原初的なあり方に注意を向けるようになったわけで、エディプス構造は脱中心化された。ペニス羨望も同様。しかし去勢はどうだろう。グリーンらのネガティブの概念で考えれば、無ではなく不在と想定することは何もないということのあり得なさ、想定しにくさを表していると思うけど、そこにエディプスコンプレックスを置くのは私はピンときておらず、それは装置として二次的に生じるものでは、という考えだけど、進化ということを考えるとエディプス三角にとどまることも大事。仮にHouzelの理論を使ってとどまるか、など色々考えながら、しかしあまりに個別的な臨床と離れることはできないから、など一度出てまた戻る、というようなことを繰り返している。どうしても親二人から子供が生まれるのが現代の現実となると、そこから人間の生活が始まっている以上、心のありようをそれで説明するのは妥当だと思う。が、しかし、みたいな繰り返し。臨床ありきだけど仮説もありき、なのはフロイトがメタサイコロジー論の中で書いている。あー、難しい。

こんな爽やかな朝はニコニコのんびりお散歩だけしていたいけど今日と似た日はまたくるものね。がんばろう。どうぞ良い一日を。

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お菓子 言葉

万寿庵のまんじゅう、長引かせたり引き伸ばしたり。

部屋がオレンジに染まって眩しいほどだった。洗面所から戻ってきたらもう白い光になっていた。どこに吸収されてしまったのだろう。南側の窓を開けるとまだ空の高いところに月が残っていた。あそこに?

SNSはとても暴力的な場になったなあ。最初からそうだけど、だいぶ変わったのではないかな。これまでランチタイムとかに「ニュース見た?」「見た見た」「ひどいよねえ」「ねー」くらいであとはそれぞれの心でこなされていたものが。被災地のことや木々の伐採のことや農業、漁業の現実について呟き続けている人の言葉以外はもうあまり見ていない。最近は学術大会の広報目的があったから拡散力ないなりに一応使ったけどXに課金とか私にはありえない。信頼できない相手にお金払ってそこで正しさを主張するってなんか変な依存のしかた、と思う。

今朝は長瀞のお土産「万寿庵のまんじゅう」を食べた。ピンクの桜まんじゅうと緑の熊笹まんじゅうと茶色の味噌まんじゅうの3種類が入っている。東京の桜は散ってしまったけどこれをいただいて春を長引かせましょう。二つずつ入った6個入り。秩父って粉を中心とした食文化が発達してまんじゅうは欠かせないものになったんだって。秩父は日帰りで行ける楽しい場所。駅のお隣が大きな温泉だし、秩父神社に向かう商店街も楽しい。実際の景色に触れて、実際の人を時間をかけて知って、反射的に言葉を使わず、時間を素敵に引き伸ばしながら過ごしたいな、私は。

今日はいいお天気になるみたい。もう熱中症の話も出てるのね。いい一日になりますように。

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散歩

日曜

今朝は鳥たちの声があっちこっちから聞こえる。まだグレイの空が賑やか。お隣の雨戸が開いた音がする。みんな早起き。今朝は風が少し強いのかな。時折、うねる音がする。

瀬尾まいこ『その扉をたたく音』がテーブルの上にある。うちは瀬尾まいこ全部揃ってるかも。瀬尾まいこも国語の先生だった。夏井いつきとかのことを思い浮かべて「も」と書いた。大学の時に詩人や作家の先生に教わったがどれも楽しかった。貴重な体験だったと思う。友達も詩人になったり絵本作家になったり。ドールハウスを作っていた友達もいた。才能だけではない彼女たち彼らの、なんていうのか、熱量というほど熱いものではなくて、何かもっと淡々としていて、習慣化されていて、何年も積み重ねられてきた経験と学びのプロセス。それを知っているのは幸運なことだと思う。

別の大学だった友達が先生になったのだけど学生に「陽キャ」と言われんだよ、びっくりでしょ、と言っていた。すごくびっくりしたし、笑った。私たちの頃はそういう言葉は使われていなかったと思うがその人は明らかに「陽」のキャラではなかったし、今も私たちからしたらそうではないと思う。なにより本人がびっくりしている。そういうものだ、外からの見え方って。自分がどんな感じかは自分でも決める必要ないし「前はああだったけど今は」みたいななかにも「いやいや前からそういうとこあった」というのも常だし、人は自分でもわからないいろんな面を持っているからいろんな驚きとともに。

今日は日曜日。休息大事。昨日は日が暮れたあとは気持ちよくて梅と躑躅の中を寄り道しながら帰った。梅の実がたくさんなっていた。葉っぱも実も緑だから気づきにくいけど近づくとびっくりするくらいたくさんなっている。躑躅も赤白ピンク紫といろとりどり。季節の動きが可視化されている。そのスピードに驚くけれどここまでやってきた自分のいろいろを信頼して過ごそう。

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熊本。

春の朝だねえ、と南の空にうっすら残る月をみてぼんやりしていたらなんと今日は夏日だと、東京。この時間は本当にちょうどいい。風もない。少し冷めてきたお茶も美味しい。甘夏の厚い皮を向くとしっかりした甘酸っぱい実。柑橘って地域によって色々ある。微妙な差はわからないけど晩白柚くらいになるとわかる。熊本に旅したときに大きいのをたくさんみた。4月16日は熊本地震の日だった。2016年のこと。4月14日の大きな地震に次ぐ2度の強い揺れ。あれから9年。早いと感じるか遅いと感じるか。その日から時が止まってしまった方もおられるかもしれない。時間の流れはひとつじゃない。こんなとき心の存在を感じる。時計の針は確実に同じ方向に進むのに別の時間は強い衝撃から離れられず止まったり戻ったりさらに別の時間へ乖離したりする。心がばらばらになる。地震は特にばらばらのイメージを強くさせる。私は2012年に熊本を旅して熊本城のそばに泊まった。石垣が崩れる映像だけでもとてもショックだった。あの地震で「益城町」を読めるようになった。熊本の空からも朝の月は見えただろうか。熊本城の全体の復旧は2052年度の見通しとのこと。無事に作業が続けられますように。そして昨晩は長野で地震があった。直前にしか予測ができない自然の揺れがもどかしい。なんだってそれはそうなのだが私たちは普段なんとなく同じような毎日が続くという見通しのもとに生活をしている。それが大きく崩れることのありませんように。特に被災地においては立て直そうとする心がそれ以上不安になりませんように。

今日は土曜日。良い一日でありますように。

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コミュニケーション 散歩

散歩

すっきりした空。昼間は暑くなってきたけど夜の気温がちょうどよくて嬉しい。昨晩の月もきれいだった。更待月。

毎日、いろんな花壇の花々に立ち止まる。すぐそばから雀たちが飛び立つ。そこにそんなたくさんいたんだ、とこっちがびっくりする。

桜が葉桜になったあともどんどん季節の花が咲く。近所のモッコウバラが家のフェンスを突き抜けて道路側にはみ出していた。たくましい。私のオフィスのそばも塀いっぱいのモッコウバラ。独特の黄色がかわいい。

この花は、そっちいかないよー、こっちだよ、と誘引が必要。人間社会では。

小さな子とお散歩している気分ですね。そっちいかないよー、というとちょっと止まって振り返ってニコッてしてまたいってしまう。結局そっちにしばらく歩調合わせてなんとなく行くべき方向に注意を移していくのと同じ。うまくいかない場合、というか時間がかかる場合も多いけどね。大人的時間で測ると。でも子供にはそういうマネジメントが必要。

もう少し大きくなったら何かに「明け暮れる」ことも大事かも、むしろ明け暮れてくれよ、いや、そんな明け暮れてないで、とかコミュニケーションは状況によって異なると思うけどあくまで相手の主体性を奪わない範囲でのマネジメントが大事。支配的なコントロールになりがちだから、人間のコミュニケーションは。動物も危機のときはそうだと思うけど。

そういえば、すこし前にウグイスの鳴き声を聞いて上手なのにびっくりした。山へ行くと大抵「うん??」とこっちがなるような鳴き声でこれから練習してうまくなっていくのね、とか思っていたのだけど、ウグイスが「ホーホケキョ」と鳴くのも季節によるんだって。下手が上手いになるわけではなかった。失礼しました。

今日も散歩しながら仕事へ行こう。いろんな発見がありますように。どうぞ良い一日を。

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俳句 精神分析 読書

困りごと

先日、朝、「虹が出てる」とメッセージがきた。窓を開けると大きな虹。第十五候(清明・末候)「虹始見」(にじはじめてあらわる)、まさにちょうどの時期に初虹。初虹ではなかった?私にとっては初虹だったような気がするのだけれど。その日は夕方にもとても大きな虹が見られたそう。たしかに空がきれいとは思ったけど仕事中だった。虹というと思い出すのはひどい人がSNSにあげていたきれいな虹、近江八幡を散歩中に振り返ったら見つけた虹、奄美大島でずっと消えずにいた虹など様々な虹を思い出す。何かに感銘を受ける心はそれぞれに持っていたり持っていなかったりする。「花に気づくのは心がきれいだから」と言っていた人がいたけど少し本当でかなり嘘だと思う。きれいな心が本当にきれいだなんてそもそも幻想では、と思う。まだ冬が残っている時期に読んだ漫画に地下室から出られない男たちの唯一の光だった女に失望する彼らの話があった。勝手に光を見出して勝手に失望したりするのもよくあること。評価は一転する、思い込みで。人の心の揺さぶられやすさよ、と言える繊細さがあるならまだいい。資本主義社会における抑圧は何を抑圧しているのか。消費し尽くしていい対象に人間が含まれている?嘘だ。本当だ。

最近、月もずっときれいだった。ライトアップされていない大きな桜のうえにポッカリ大きな月が出ているのも見た。桜は月には照らされていなかった。昨日は更待月か。昨日の朝は南の空の低いところに大きめの月がうっすら残っていた。今朝は見えない。東の空は薄いオレンジが広がってきているけれど。

俳句で月といえば秋だが春には春の月がある。

水の地球すこしはなれて春の月 正木ゆう子

水の地球と春の月はとても素敵な取り合わせだと思う。朧とはこの二つを掛け合わせたものなのではないか。正木ゆう子の第三句集『静かな水』の冒頭の一句だ。そのお隣には

たんぽぽのまづは葉つぱの嬉しさよ

これは嬉しい主体は葉っぱ?作者?まづは葉っぱかあ。毎年黄色の花を見つけてから「たんぽぽ!」ってなっていたなあ。双葉の状態から観察したい。根が土に入って、カタツムリの角みたいに双葉がでてその間に別の葉っぱが出て、いつのまにか(いつなの?)ギザギザして、地面に張り付くように広がる。その感じが大きく手足を広げて寝っ転がるときのような嬉しさなのかも。たくさんの「嬉し」を見つけられたらいい。たんぽぽって花びらに見える一枚一枚がお花なんだよね。だから花が終わって綿毛として開くとそのひとつひとつに種がついている。小学校の帰り道、みんなで綿毛を飛ばしながら歩いた。すぐに落ちてしまうような綿毛は手でパタパタとしながら。今思えば放っておいても根付くまでに自分でふわふわ移動しただろう。たんぽぽにはたんぽぽの時間がある。

人間には人間の時間があり、それぞれの時間があるので、その違いを許容せずコントロールしようとする人からはしっかり距離をとっていこう。差別も偏見も多分当分なくならない。

自分がきらいなあなたへ』という本がある。今は「私がきらいなあなたへ」という方向の言葉が平然とバラ撒かれる時代だけどそんな言葉は聞かなくていい。『自分がきらいなあなたへ』の作者は安積遊歩さん。生まれつき骨が弱く折れやすく

”自分のからだは「痛みのもと」でしかない”

と思っていた著者はお酒やタバコでそのからだをさらに痛めつける。同時に、アメリカで学んだピアカウンセリングでたくさん泣き、怒り、気持ちを聞いてもらう体験を通してからだの言っていること、自分が言いたいことを捉え、伝えるようになっていく。自分のことをきらいだった人が自分を肯定していくプロセスには多くの出来事があり多くの人が登場する。当たり前のこと、だろうか。多くの人と関わり、多くの出来事を体験するためには身体と身体が動ける環境が必要である。ひとりぼっちにしない、ならない環境が必要である。そのためには極めて個別的なものとして本人の困りごとに耳を傾けるべきというのが普通の流れだと思うが「普通」になされているだろうか。私はできているだろうか。たとえば診断をできるのが特定の専門家に限られるのはそれには高度な技術が必要だからである。「私が困るからあなたは困った人」というような目の前の相手を知ろうともしない安易なラベリングは暴力には繋がるが共に生きていくための方法を生み出さない。自分の手綱を握るのは難しいから一緒に握ってくれる、手を添えてくれる、ペースを調整してくれる相手が必要だけど、勝手に握ろうとする相手とは確実に距離を取るべきだ。その選択肢はいつも自分側にあることを忘れないようにしたい。

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読書

生活のリアル、本とか能登とか。

この前、怪しい雰囲気の雑居ビルのエレベーターに乗ったんだけどのぼって用事すませておりてくる間に会った人たちがみんな個性的だった。その日はそのあとオフィスに戻るまでもいろんな人に会ってちょっとした言葉を交わしたりなんか世の中のリアルという気がした。いろんな空模様のなかを自分の脚で歩くのとオンラインで似たような言葉を眺めるのとではずいぶん違う。おもしろかった。一方、初期のオンラインも面白かったな。色々思い出してフフフとなる。バカだったな、恥ずかしいな、と思うこともたくさん。黒歴史とは思わない。私はその言葉が嫌いだ。そういえば向田邦子のエッセイに「お辞儀」というのがある。『父の詫び状』にはいっている。そのはじまりは留守番電話に残された様々なメッセージ。さっき書きながらふと思い出した。生活にリアルさを感じるとき、向田邦子の文章を思い出す。森茉莉や幸田文の文章も。向田邦子は51歳で死んだ。飛行機事故で。今の私と同じ年で。だからなにというわけではない。母親の本棚から知ったずっと好きな作家だ。

最近好きな歌人が「ちょうどいい」という言葉に対する反発をかいていた。すごくわかると思った。少なくともそれ誉め言葉じゃなくない?と私も思う。向田邦子とのつながりでこれを思い出したのだがなんのことだか忘れてしまった。一瞬、強い気持ちが動いたのだが、それがその歌人の言葉を思い出したことでフフフに変わってしまったからだろう。自分の気持ちを大きく揺るがすものがあれば文章は書ける、といったのも向田邦子だと思うが、私はあまりそういうものがないので文章にしたいぞ、という欲望もない。精神分析家になるための修了論文を書いたり、アジアンパシフィックでの発表を原稿にしたらなんだか落ち着いてしまった。強い実感を言葉にできたのはよい体験だった。村田沙耶香みたいな小説が書きたい、とAIに小説談義をもちかけたが全然おもしろくならなかったのでやめたし。私は読む専門だな。最近も何冊か面白いのを読んでいたが心に残ったのはそんなに読者が多くなさそうなnoteだったりしたのでなんとなく心にしまっておいた。村田沙耶香の新刊は大作なせいか私が読み終わったときはあまり感想がでておらず、自分で布教してしまった。村田沙耶香に関しては布教という用語を使いたくなる。

昨晩、帰宅して『心理臨床の広場』をめくった。少し前に届いていたと思うが開封していなかった。今回は巻頭対談が『虎に翼』脚本家の吉田恵梨香さんと神田橋先生との共著『スクールカウンセリング モデル100例』の著者、嘉嶋領子さん。嘉嶋さんの『スクールカウンセリング モデル100例』は2006年の出版だが、私の周りでは名著とかなり話題になった。神田橋合宿に行ったりしてみんな神田橋先生が身近だったせいかもしれない。神田橋先生のチョイスはいつも正しいのだ、という雰囲気が当時はあった。みんな同じワインを買うとか。九州まで陪席に通っていた人もグループにはいた。私はそういうタイプではなかったが、実用というニードからその本を持っている。嘉嶋さんは「かしまえりこ」と書くこともあるというかむしろ私はひらがなで覚えてしまっていたが使い分けをされているのだろう。

金沢と能登をつなぐ「のと里山海道」がなかなか繋がらないらしい。昨年行った羽咋市の「千里浜なぎさドライブウェイ」はその途中で通行止めは解除されていたと思う。私は自転車だったので所々通行止めの文字は見たけど無事に行けた。千里浜なぎさドライヴウェイは名前の通り、波打ち際を自転車や車で走ることができる。気をつけないと埋もれるけどあんなに長く海岸線を自転車で走るなんてはじめてで不思議な気持ちになって楽しかった。日焼け止めを塗るの忘れてすごく日焼けしたのは辛かったけど羽咋は楽しい街だったな。その時は千里浜海岸ではじめて復興花火が開催される日で、ホテルの人もはじめてのことだからきちんと見えるかどうかわからないけどと言いつつ案内してくれた。私は肝心のその時間には寝てしまっていたが海辺からきれいに見えたという。翌朝、その場所へ散歩にいったらきれいに片付いていたけど誰もいない朝の海も最高だった。羽咋のことはすでにいろいろ書いた気がする。宇宙科学博物館コスモアイル羽咋が意外に最高だとか。旅では駅員さんや街の人とのちょっとした会話とかがとても楽しいのだけど羽咋でもそれがあった。今度は七尾。七尾市と穴水町の区間は復旧に向けた工事が今月されたばかりだけどどうなっただろう。調べると観光として行けるところは増えているがまだ行けないところもたくさんある。できるだけ人が入ることで復興の必要性は増すだろうから少なくとも数で協力したい。

本を読み旅をする。生活をする。仕事する。がんばろう。

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俳句 言葉

甘夏、テレビノークスペシャル「能登とつなぐ」

すっかり朝の光。日の出が急に早くなったのかと思ってしまうけどそんなはずはなく日々が着々と過ぎているだけ。こんないいお天気な感じなのにこれから荒れるのですって。雷怖い。気をつけましょう。

先日、大きな甘夏をもらった。ゴロンゴロンと冷蔵庫に入れた。甘酸っぱくて美味しい。「俳誌のサロン」にこんな俳句が載っていた。

エプロンに甘夏柑の重さかな 須賀敏子

3月23日に愛媛県今治市で発生した林野火災がようやく「鎮火」とのこと。発生から23日。被害は数字以上のものがあるのだろう。というか数字からできるだけ正確に現地の被害状況を掴めるようにならないといけないのだろう。十分な支援というのも量だけではないわけでどこにどのように何をどのくらいということを考えるには現場の状況がわからないといけないだろうし、支援は本当に難しい。東日本大震災のとき、私たちが避難所へ出向いたときはトラックで提供した暖かい食べ物が最も喜ばれた。自分たちもそれがいいだろうと思ってやっていることでも実際の受け取られ方を知ると言葉をなくす。冷たいおにぎりに飽きる、という体験を実際に言葉で聞くこと。そのインパクトのもとに再び被災地へ出向くこと。支援は継続的に、対話しながら、学びならやっていくことが最低限必要という、一見当たり前のことがいかに難しいか。震災が起きるたびに「あのときの体験はなぜ生かされないのか」「あの体験から何を学んだのか」という言葉が聞かれる。瀬尾夏美さんたちNOOKが行う災禍を経験した人たち、現地に入った人たちの声、作品、など様々な記録を残すプロジェクト「カロクリサイクル」は本当に大切だ。各自治体にこのような民間組織とスムーズかつ強力に連携できる形態の組織ができたらいいなと思う。3月29日にNOOKはテレビノークスペシャル『能登とつなぐ』と題した配信を行い、能登で起きている出来事を共有してくれた。アーカイブがあるのでぜひ。長い番組だが七尾市の方が「(輪島、珠洲だけでなく)七尾も被災地なのになあ」とおっしゃっていた。輪島市に次いで2番目に被害が多い地域だという。私もよくわかっていなかったが今度七尾市に行くので色々調べた。 映画にもなった漫画「君は放課後インソムニア」(著・オジロマコト/小学館)の舞台。七尾市のウェブサイトがファンマップを公開している。何をきっかけにしてもいい。多くの人が様々な被災地に実際に足を踏み入れてみる機会を持てますように。

空が暗く、風が冷たくなってきた。嫌なお天気。気をつけて出かけましょう。虹が出てるよ。

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精神分析 読書

『部落フェミニズム』を読んでほしい。

曇り。雨は止んだみたい。少しひんやりするけど暖房はつけていない。これから気温はあがるみたい。春のお天気は不安定。トランプ関税のニュースとかを追っていると春のお天気みたいと思う。多分これが夏だったら夏のお天気みたいと思うのだろうけど。それにしても嫌なやり方、というか最初にバッと大きな数字でこれまでの積み重ねをなかったことにして、ネゴシエーションの基盤奪ってから始めるやり方って、心理戦も含めて現実的な損得出すのにすごく時間がかかるし、その間にも見通しかき乱すような情報出してくるわけだよね、圧倒的に強い方が。関税の話に限らずこういう基盤を奪って時間や居場所感覚から混乱させるやり方って実際に死者がでたりするわけだからあってはならないことだよ、と思う。基盤を持っている人たちを脅威として攻撃することはずっと行われてきたことだろうけど歴史に敬意を払わず自分の手にひらに収まるように見せかけてそこで操作を加えて、かつそれが効果的であるとみせけるためにはさらに大きな目眩しをするしかなくてそういうのが暴力につながっていくと私は思っているのですごく嫌だなあと思う。最後はひたすら攻撃、みたいな。「自分にはそんな影響ないから」と傍観者でいられる立場の人は強い立場の方に圧倒的に多いわけだけど、そういう無関心も攻撃性の表れであって、実際の攻撃の武器になるわけだよね、相互に。という私もその立場にいることに気づくことがとても多いわけで先週『部落フェミニズム』(エトセトラブックス) 熊本理抄編著、 藤岡美恵子・宮前千雅子・福岡ともみ・石地かおる・のぴこ・瀬戸徐映里奈・坂東希・川﨑那恵著 を読んで打ちのめされていた。オンラインイベントも途中から参加した。自分が見ている世界がいかに狭いことか。でもそれを知ることから始めるしかない。編者の前書きが公開されているのでぜひ読んでほしい。

今週もがんばろう。

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精神分析

初回面接グループ、臨床心理士アイデンティティ

曇り空。雨が降る前にオフィスにつきたい。鳥たちは時々しか鳴かない。もう出かけてしまったのかな。

今日から今年度の初回面接事例検討グループが始まる。アセスメントは大まかにいえば表象、身体、情動に向けられており、言葉と身体は北山修が辞典も出している心身両義的な(比喩的な)言葉への意識も大事。もちろん身体症状は器質的な異常の可能性にも注意を払う。そして情動は主に不安として現れると考え、それらがどのような言葉で話されるかもみる。例えば身体的な言葉であれば「胸が締め付けられるような」「おなかがずーんと重たくて」などである。私が臨床で感じてるのは、多くの人は「悲しい」「寂しい」など認知的なラベリングが難しいということ。精神分析過程において情動と表象の関係をみるときにはボッテラとかグリーンの論文が生きてくるけど初回面接では見えている部分と浮き上がりやすい部分でそうではない部分を推測してアセスメントしていて、浮き上がりやすい部分を浮き上がらせる技術が重要になる。その枠組みとして私が紹介してるのは日本の精神分析家の妙木先生が紹介している短期力動療法の知見であり、DAVANLOO-MALANの三角形の使用である、などの理論的背景をもとにグループで事例検討会を行う。今年度もがんばりましょう。

先日、変な夢を見た。入社式みたいな同じスーツを着た人がたくさん。なぜかお世話になっている先生方もそのスーツだった。立ち話をした。臨床心理士アイデンティティ卒業みたいな夢だったが、確かに私は一昨年、臨床心理士資格認定協会に研修制度の決定プロセスの議事録開示請求と署名運動を行ったところである程度の恩返しはしたかなという気はしている。地方の現状を知れたのはよかったし、それを全く知ろうとしない人たちが多いことも知れたし、トップダウンにならざるを得ないシステムしかない、というかシステムを構築する人材と環境がないとかの政治的なこともだいぶわかった。臨床心理士になって25年、私はわりと臨床心理士アイデンティティを確立するために真面目に学んできたと思う。多くの心理士の先生に学んだ。心理職だから経験する文化というのは必ずあるので心理士の先生に学ぶことが大事だという自覚もあった。様々な領域で臨床をすることも必要だと思ったし、地域での活動は必要とともに好きだった。そこで得た臨床上の学びも人間関係は引き続き私を支えてくれるわけだけどアイデンティティとしては今は精神分析家。アイデンティティという概念自体、再考が必要な時代だと思うが責任について考えながらやっていきたいと思う。

夢の中でも私は失敗していた。でもよく考えるとこれは失敗というよりなんで私こんなことやらされてるんだろうという類のことでは、など考えながら結局その失敗をリカバリーすることは選ばず道を引き返した、夢では。現実はどうなることやら。色々ギリギリのところで気づける人になりたい。行けるところまでは行きたいけど。どうぞよい一日を。

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散歩 精神分析 精神分析、本

精神分析における観察

きれいな空。さっぱりした朝焼け。昨日の朝は前日の雨風に小さな花たちはみんなうつむきがちだった。あの雨の夜、点字ブロックの向こうにカエルが濡れながら佇んでいた。カエルは夜でもわかる。ゾワっとした。山の蛙には随分慣れてきて鳴き声が聞こえれば探すほどになったがアスファルトの蛙にはまだゾワっとしてしまう。結構大きかった。数年前、いやもっと前になるか、春になると近所の庭や道に大きなヒキガエルが現れた。川が近いから、と言われたがそんなに近いか?ヒキガエルにとってはそんなに近くないのでは?など思ったがその後はどうしたのだろう。先日のも彼らと近い関係だろうか。轢かれたりせず天寿を全うしてほしい。

毎日、花々を愛でながら歩いている。次から次へ咲く彼らの写真を撮る。一日の終わりに眺めると名前をまた忘れている。毎年春がくるたびに調べては忘れる。覚えるという行為をもう少し自覚的にする必要があるかもしれない。今は画像検索でお花の名前は調べやすい。簡単に調べられるから覚える気にならないというわけではない。それ以前からのお話。ならばせめて書いておこう。この二日間で写真に撮ったのはドウダンツツジ、ミツバツツジ、ロボウガラシ、オオキバナカタバミ、トキワガマズミ、マメナシ、サルビア、ジューンベリー、ハナズオウ、などなど。

ようやく6月の精神分析協会の学術大会のパネルの原稿を書き始めた。まだメモ程度だけど一応今月中に書かねばならない。私は、自閉症に想定される原初的なバイセクシュリティなど現代の精神分析が対象とする主体性なき主体においてセクシュアリティが果たすものはなにか、形になる以前のそれについて書いてみようかと思う。書いている途中に全く別のものになるかもしれないが。この概念はDidier Houzelが詳しいので調べたらHouzelはフランスの乳幼児観察についても書いていた。

Infant observation and the French model Didier Houzel ーーThe International Journal of Psychoanalysis: Vol 93 , No 1

Houzelは精神分析の訓練に乳幼児観察が必須と考える立場らしい。私は違うな。HouzelがIPA(国際精神分析学会)所属のフランス精神分析協会と限定しているのはフランスには精神分析の団体が乱立しているから議論が生じている場を明確に示す必要があるからだと思う。イギリスのタヴィストッククリニックのトレーニングで乳幼児観察が必須なのは、そのように全体のシステムが組織化されているからだろう。IPA所属の各国の協会のトレーニングシステムはそれぞれ異なるから乳幼児観察を組み入れるためにはシステム自体の変更も迫られるだろう。そう考えると現時点では優先順位はそんなに高くはないのではないか。日本の協会では、というかIPAでは子供の精神分析に関する訓練システムの確立はこれから。話し合いは行われているけど。私はそれが整ったら子供の精神分析の訓練も受けたい。英語が全然追いつかないからもっと頑張らねばだけど。乳幼児観察自体は乳児がいる状況はそれぞれのこころに様々なものを引き起こすのに十分だし、それを記録に残したりグループ内で言語化したりすることもコミュニケーションの困難や支持的要素に気づく大切な機会だ。それらは精神分析実践において必然的に生じることだし精神分析的であることのイメージを育てるにはいいと思う。それを訓練システムにおいて必須とするかどうかというのはこうした議論が必要なのだろう。

原稿を書き始めると大学所属ではなく臨床中心の生活を送っている女性精神分析家として何が言えるのかな、ということも意識するし、不安にもなるけれどとにかく実践と実感からものを言えるようになりたい。言うだけなら簡単だが患者不在の思弁は精神分析を治療者のためのものに変えていってしまう。いくらマイナーな治療でもそこには患者がいる。フロイトから受け継がれてきた「観察」という姿勢は大切にしたい。

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コミュニケーション 言葉

関心を向け続ける、「なごみ」の活動

昨晩、帰宅したらゆうパックが届いていた。前にも書いたが相馬広域こころのケアセンターなごみのセンター長の米倉さんご出演の教材DVD「被災地の依存症者への関わりから読み解く~生きることを支えるヒント~」だ。東日本大震災、原発事故から13年を経た2024年に映画になったドキュメンタリー「生きて 、 生きて、生きろ。」の 出演者の方のご協力のもと、なごみのスタッフが依存症の方の回復までどう関ったかをいくつかの過程に分け、それを解説とともに教材として編集したものだ。試写版を見てとても勉強になったので購入した。Amazonと日本電波ニュース社より発売されている。継続的なアウトリーチの実践が多くの方に共有されますように。支援者の皆さんは特にチェックしてみてほしい。

また、明日4月12日(土)23時からETV特集「心の扉をたたき続けて~福島 アウトリーチ支援の現場から~」が放映される。NHKのウェブサイトにはこう紹介されている。

「原発事故から14年、今なお癒えぬ心の傷を抱え生きる人がいる。福島県南相馬市の「こころのケアセンターなごみ」では、看護師や精神保健福祉士、社会福祉士など多職種の専門家が連携し、被災者宅を定期的に訪れるアウトリーチ(個別訪問型支援)を継続、人に寄り添い続ける心のケアの現場に密着した。相馬市の「メンタルクリニックなごみ」では、原因となる出来事から半年以上経って発症する遅発性のPTSDに苦しむ人を取材した」

こちらもぜひ。震災後、私もボランティアに行かせていただき「なごみ」のスタッフの方々と一緒に仮設住宅を周り、集会室のような場所でみなさんとお話したり運動したりした。津波以前の景色を全く知らない私は全てが流されたあとに広がった青々とした草地をきれいと言った。そこの以前の姿を聞いて言葉をなくした。どの被災地にも多くの方が訪れ、話すことを続けられますように。

【ETVホームページ⇒https://www.nhk.jp/p/etv21c/ts/M2ZWLQ6RQP/schedule/

今日は早朝から窓を開けている。しまい忘れたサンダルが風に飛ばされ雨に濡れていた。今日も不安定な天気らしい。相馬はどうだろう。春が来ているだろうか。能登は?暖かい日は増えてきただろうか。能登からの報告は瀬尾夏美さんの活動から知った「のと部」で私はチェックしている。関心を向け続けることの大切さを私は実感している。また話をしにいきたい。

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精神分析

花、繋がり

おはようございます。桜は葉桜に、足元にはチューリップ、散歩道には躑躅、見上げれば八重桜と次々と花が咲いていくのが楽しい毎日です。

さて、医師、サイコロジスト、ソーシャルワーカー、保健師、看護師、作業療法士のみなさま、6月7日、8日は東京の市ヶ谷で日本精神分析協会の学術大会が行われます。お誘いあわせの上、ぜひお越しください。

日本精神分析協会は、国際精神分析学会(IPA)に認定された精神分析家とその候補生、そして日本精神分析協会が独自に認定する精神分析的精神療法家とその研修生の集まりです。

この学術大会は昨年2024年度から協会の会員ではない臨床家の方にもご参加いただけるようになりました。

フロイトに始まる精神分析の実践やそこから生じた様々な論点は外部との交流によって育てられてきたものです。ぜひ多くの方に対話に参加していただけたら幸いです。

申し込みフォームはこちら。4月15日締め切りです。https://www.jpas.jp/convention_apply.html

詳細は日本精神分析協会のウェブサイトをご参照ください。

この広報も、いつも勉強会や就職情報などを交換しあっている友人たちにはLINEでご協力をお願いした。メーリングリストで繋がっているグループにはそれで、知らない人たちにも届けばいいなと思って使ったのはXとオフィスのFacebook。個人のFacebookは看護師や理学療法士など他職種の友人もいるからそこから拡散してくれた。精神分析を全く知らない人たちも広報に協力してくれる。こういうのは信頼関係だからお互いのやっていることを細かく知っていることは特に重要でないし、広報の成果はつながりに対する感謝の集積だからすぐには出ない。でも「精神分析、久しぶり!」と申し込んでくれたのは嬉しかったし、「そんなのあるんだ、行こうかな」とかいう言葉も嬉しい。学術大会には来られないけどランチしよう、など約束をした人たちもいる。こういうのは再会のいい機会、いつも。精神分析家になるまでに支えてきてくれたみんなをみんなのつながりごと大事にしたい。昨年度後半もいくつかの求人でこうしたいろんなネットワークにお世話になった。協力体制にあると新しい繋がりもできてそれを喜んでもらえたりしたのもほっこりした。忙しいのに申し訳ないな、と思いながらお願いしてるけどポジティブな言葉かけに助けられる。いつも本当にありがとう。

ポジティブといえば『ブリジット・ジョーンズの日記』シリーズの最新作が明後日公開!最初の作品は2001年。あれも繋がりの話。主要キャストが変わらないのも素敵。昨年、コリン・ファース熱が再燃したけどこのシリーズはコリン・ファースだからというよりマークがコリン・ファースであることが素敵。楽しみだ。

今日も良い1日になりますように。

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精神分析 読書

三木那由他さんの本とか。

日の出がすっかり早くなった。5時くらいに暗さが抜けて青くなって白くなってオレンジがかって眩しい白になる。空は面白いな。

昨日『女の子のための西洋哲学入門 思考する人生へ』 メリッサ・M・シュー+キンバリー・K・ガーチャー=編 に少し触れた。若者に向けたメッセージのような本でもあるので教室の本棚や図書館などにおいてほしいし、周りの人とも共有したい。

言葉の治療である精神分析における言語の使用は私が最も興味を持って勉強しているところ。なので私は第12章「言語──コミュニケーションでの集中攻撃(パワープレイ)」 エリザベス・キャンプ/三木那由他訳を特に面白く読んだ。言葉の使用について色々と知っておくことでコミュニケーションをメタで考えられるのでセッションで生じたことを振り返るときにも必要。この章の訳者の三木那由他さんの本もとてもいい。私にとってとても新鮮だった。全部持っていると思う。『女の子のための西洋哲学入門』について書いたついでになんとなく『話し手の意味の心理性と公共性』(勁草書房)をパラパラした。この本は「共同性基盤意味論」という見方をとてもわかりやすい文章で教えてくれる。日常言語やコミュニケーションの聞き方、話し方の可能性を広げてくれる。この本で印象的だったのは「べき」論になりそうなところを丁寧に回避しているところ。書いていることと書き方が一致している文章はスムーズに読める。こういうのを読むと研究者ってすごいなあ、と思う。今は本当に易しい本が増えて勉強がとても楽になった。ありがたいな。

今日もいいことありますように。

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精神分析 読書

筋トレ、「女の子のため」

起きたときは東の窓がオレンジの光でいっぱいだったのにもう白っぽい光になってる。世界はいろんな時間帯にあって、コロナで当たり前になったオンラインの色々では「おはよう、こんにちは、こんばんは」を全部言ってから始まるようになった。大体英語で。「こんにちは、あるいはこんばんは」はSPY×FAMILY。スパイは朝は活動しない、というわけではないか。今日は暑くなるみたい。重すぎない重ね着にしよう。

腰が痛い。いけない。筋トレで無理があったのかな。負荷も増やしていないし、いつものサーキットしかしてないと思うけど。でもかなりハードなことをしているから様子みて気をつけて過ごしましょう。バスケやバドやっていた頃にこういうきちんとした筋トレを積み重ねたかった。動きと効果がわかっていないところでひたすらきつい筋トレやフットワークをやっていたけどあれは成長期の身体にはあまり良くなかったと思う。小さい頃からサッカーがものすごくうまくて有名だった男の子の身体の成長を気にしていた友達は何人かいたから中学生なりに気にししていた人はいたということだな。今の子たちは情報は豊富だけど情報では身体は動かないという現実に出会いつつ自分の身体に合った姿勢や動きを身につける機会を得られたらいいと思う。

6月、日本精神分析協会(精神分析学会とは別の専門家集団です)の学術大会の申込締切まであと1週間。医師、心理士(師)、ソーシャルワーカー、保健師、看護師、作業療法士等、臨床上の守秘義務をお持ちのみなさま、4月15日までお申し込みいただけます。ぜひ詳細をご覧ください。

☆ご案内  https://jpas.jp/convention.html

☆お申し込みフォーム https://www.jpas.jp/convention_apply.html

私はパネルで「二元論を超えて」という大きいテーマを掲げてしまったけど、精神分析ってそもそも二元論を越えようとしてthe thirdみたいな対象を作り続けてきた学問だと思う。でもセクシュアリティの話になると性器一元論というか、男性の言葉中心だった。それは多くの学問がそうで、哲学の分野だとメリッサ・M・シュー+キンバリー・K・ガーチャー編『女の子のための西洋哲学入門 思考する人生へ』を読むとそういうこれまでとは別の思考へ導くヒントが満載。哲学の様々な領域の女性哲学者の論考が、日本の女性哲学者の言葉で訳されている。翻訳は、三木那由他+西條玲奈=監訳 青田麻未/安倍里美/飯塚理恵/鬼頭葉子/木下頌子/権瞳/酒井麻依子/清水晶子/筒井晴香/村上祐子/山森真衣子/横田祐美子。こういうチャレンジはとても大事だと思う。この本、分厚いけどひとつひとつの項目は30ページずつくらいだから読みやすいし、「女の子のための」という言葉についても丁寧に説明されているのでぜひ読んでほしい。もちろん男性にも。精神分析も世界中で女性分析家が増えているからこれまでの男性の言葉とは別の言葉で精神分析状況における患者を描写していく必要があるのだろう、ということでパネルを立てたがかなり難しい。書かねば。看護師の世界は女性の言葉と言っていいかもしれない。看護師の皆さんにもたくさん参加していただきたいな。私たちは精神分析実践で理論に貢献していくつもりだけど、臨床実践として精神分析を営む予定のない人にも思考の手立てとしてまだまだ活用できると思うのでぜひ。

今日もがんばろう。

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写真 散歩

偶然とか。

空が薄い色。昨日は一昨日成功した防寒対策と同じにしたら暑すぎて荷物は増えるわ体温調整うまくいかないわで疲れてしまった。暑さというのはなんともしがたいね。昔は暑い方がなんともなくいられたのに。そんなこんなで何もしたくないところにからあげ屋さんに並ぶ人を見かけなんこつを買ってみた。少し時間がかかるというからさらに荷物を増やしてどうすると思いながら後でとりにくることにして近くのスーパーへ。持ちきれなくなってきた荷物を整理しようとベンチにどさどさと荷物をおいたらレタスが袋からコロンコロン。あらあら。こうもなりますよね、と拾いあげた。で、からあげ屋さんに戻った。袋には「こつ」と書かれていた。なんこつは「こつ」なのか。ももやむねはそのままでいいんだろうねえ。手羽もそのままだよね、きっと。そういえばレタスコロコロで思い出したどうでもいいことなんだけど、この前、都庁の前でロケやってたのですよ。通りがかったら紙袋からオレンジが転げ落ちるシーンをやっていた。東京でオレンジそんな紙袋につめこまないだろうけど人と人をつなぐ偶然を作り出すにはこういう場面がないとなのだな、と思ってちょっとみてたらやっぱりオレンジコロコロしてた。そこにきちんと人が駆け寄る。なるほど。定番。と思った。オレンジってきれいに目立つからああいう場面にピッタリと思った。レタスじゃねえ。

そういえば、この前、はじめてのカフェに行ったら漫画とかCDとかが並んでる棚に「のと鉄道」という写真集があってしばらくみていた。そうしたらお店の人が「差し上げますよ」と。びっくり。その写真家さんとお知り合いだからまた持ってきてもらえるから、と。今度能登に行くんです、おお、そこに載ってる運転手さんも知り合い、あ、そうなのですね、などお話した。きれいな写真がたくさん。嬉しいな。こんなこともあるのですね。感謝。能登のみなさんが元気でありますように。

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お菓子 イベント 精神分析

クレソンまんじゅう、協会学術大会広報

窓を開けた。鳥たちの声が楽しそう。昨日は新宿中央公園もお花見の人でいっぱいだった。陽射しがあるとポカポカだったけど意外と寒くて夜は結局ダウンを着ていた。油断大敵。今日は今のところ窓を開けっぱなしでも心地よい。今は陽射しがあるけど曇予報。気温下がらないでほしいな。

今朝は山梨県道志村の「道の駅どうし」のお土産「クレソンまんじゅう」。おー。クレソンが名産なのか。最近食べていないな。パク。クレソンの味はあまり感じないけどちょうどいい甘さでパクパクいってしまいそうなお味。熱いお茶とよく合う。包み紙に「クレソンの学名はナスタチューム・オフェチナーリスといい」と書いてある。そうなのか。薬効があるのか。確かに独特の香りは何かに効きそう。

さて日本精神分析協会 第43回 学術大会のお知らせをいろいろなところにしている。参加条件

医師、サイコロジスト、ソーシャルワーカー、保健師、看護師、作業療法士など、臨床上の守秘義務を持つ専門家であること。

なのだけど私はサイコロジストにしか広報できていない。4月15日締め切りだからいろんな専門職のみなさんに届けばいいのだけど・・・。昔は他職種の人たちと一緒に働いていたからつながりがあったけど今はひとりだからなあ。届けばいいな。

広報をしているとインクルーシブキャンプのためにたくさんのボランティアさんを募集した日々が懐かしい。私はNPOの理事で広報担当だったのでメールもお手紙もたくさん書いた。まだこんなSNS時代ではなかった。少しずつ輪が広がり、いつも参加してくれるボランティアさんも増え、地域の子ども会や自閉症児親の会などと連携し、毎年100人規模のキャンプを実施できた。最初はこじんまりだった。学生が多かったので自分が抜けても友達や後輩を紹介してくれたり、というのが助けになったのかもしれない。精神分析協会の外部へ向けたこうした活動はまだ2年目。変なしがらみとか思い込みとかでこういう運動的なことを苦手とする人もいるが全く知られていない学問と治療であるということを思えば広報は必須。私は今回広報の担当ではないけど、学術大会に限らずこのマイナーな団体を知っていただくことは、精神分析を生活基盤とする私には普通に必要なのでがんばって広報している。自分のウェブサイトだって参考にしてくれる人がそこそこいる程度には充実させている。最近サボっているからこちらもがんばらねば・・・。ウェブサイトのあれこれは候補生のときに書いたものだから、精神分析家として実践を伴う言葉を発信で書き直していけたらいいな。

精神分析という名がつく団体がたくさんある中で「精神分析ってまだあるんですか」と言われもする(私は言われた)古典的な設定と技法で実践を行う分析家を中心とした機関が私たちの日本精神分析協会。精神分析学会ともほかの団体とも異なる。まずは知っていただくことから始めないと。というわけでぜひ6月の大会にはいろんな方に参加していただき対話をしていただけたら嬉しい。

医師、サイコロジスト、ソーシャルワーカー、保健師、看護師、作業療法士等のみなさま、4月15日が締め切りです。どうぞよろしくお願いいたします。

日本精神分析協会 第43回 学術大会

大会案内 https://www.jpas.jp/convention.html

申し込みフォーム https://www.jpas.jp/convention_apply.html

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AI 散歩

新宿中央公園の整備

いいお天気。カーテンを開けた。窓も開けた。風も優しい。でも開け放つにはまだ寒い。閉めた。熱い紅茶を飲んでいる。暑くなってきた。

私のオフィスは新宿中央公園のそばなのでしょっちゅう通り抜けたり佇んだり散歩したりしにいっている。昨年から大掛かりな工事が始まり見慣れた景色がどんどん仮囲いに囲まれ、いつのまにか姿を消していった。新宿区にとって大事な木だったはずの「銀世界」という梅も今年のつぼみもたくさん撮ったこぶしもあっという間になくなった。2025年2月21日更新の「公園だより」には普通に

”園内では銀世界のように白い花を咲かせる

「銀世界」が沢山の花を咲かせています。”

と書いてあった。これを書いている人はそのすぐ後にこの木が根こそぎなくなることを知っていたのだろうか。今はすでに何もない。

AIにこんなときの気持ちを聞いてみた。
まず「それはとても切ない出来事ですね。」と共感してくれた。そして以下の気持ちを例に挙げた。

  • 喪失感:毎年親しんでいた風景が突然失われたことによる、深い虚しさや寂しさ。
  • 裏切られたような気持ち:園内の花便りが満開の写真を載せていたにもかかわらず、実際にはその後すぐに伐採されたことによる、情報とのギャップへの戸惑い。
  • 置いてけぼりにされた感覚:愛着をもっていた場所が、何の前触れもなく変えられてしまい、自分の気持ちがそこに顧みられていないような感覚。
  • 無力感:大切に思っていたものがあっけなく消えてしまったことへのどうしようもなさ。

本当にAIは賢い、というか、データがこういうということは多くの人はこう思うわけで、と言えるのも今だけなのかしれない。あの木々や花々があっさり茶色い土にならされたように一年後に同じことをAIに話したら「それはよくある出来事ですね」で終わるのかもしれない。「だからどうした」まではいわないか?いうか?全く腹立つ。誰に腹を立てたらいいのか。工事の発注をした人が悪いわけでもないし、こんな計画、ひとりで決めるわけでもないし、オリンピックのための整備のときもやったことだしもう慣れてしまったのかもしれないし、結構多くの人にとってはすでに「だからどうした」なのかもしれない。公園の工事は来年まで続く。来年の今頃はきっと何事もなかったかのように、今潰されそうになっているチューリップではないチューリップが咲き乱れたり、私が撮影していた薔薇ではない薔薇の芽が育ったりしているのだろう。代わりはいくらでもいる、みたいな。感謝とかないのかな。絶対的な神はいなくても小さな何かが宿っているものと思わないのかな。私のショックとモヤモヤは続く。毎日見ていた景色があっさりなくなった時の衝撃は強かった。自分がいつもと別の道を歩いているのか(一本道なのでそんなはずはないのに)と何度か近辺を往復したりした。あそこは、あそこは、と別の場所も歩いてみた。私が18歳の頃に通っていた公園の姿は何年も前になくなっていた。当時、会えば言葉を交わしたホームレスの人たちもいなくなった。ベンチが増えたにもかかわらず。排除は段階的に進むものであり、そのプロセスを直接目にしていない人には何のインパクトももたらさない、というか知ろうとしなければそれが起きたことも知ることはできない、ということも知った。新宿中央公園はデモの出発地として申請すれば使える場所でもあるが、公園整備反対のデモは起きなかったと思う。悲しい。今までありがとうと草木に対して思う。それぞれのものや場所や人に歴史があることを忘れないようにしようと思う。

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お菓子 精神分析、本

月、桜、ドゥルーズ、フロイト

やっと晴れた。この週末はどこもお花見で賑わいそう。私は今朝は諏訪大社のお土産、かりんケーキ。びっくりするほどポロポロ。どうしてだ?諏訪大社は一昨年のGWに行った。諏訪湖の夕陽がとてもきれいだった。

昨晩の帰り道、大きな三日月を見つけた。春の三日月は高度が高くてよく見えるという。それであんな感じだったのか?

花冷え、桜雨など言いながら寒さを凌ぐ数日間だった。季語は豊富なので足りなくなることはないが寒かった。真冬と同じ対策をしながらいうのもなんだが、底冷えしないのはやはり春だよねえ、など話した。私が通っていた小学校の校歌の歌詞には「桜並木」が出てくる。確かに校庭の桜は記憶に残っている。あの頃はちょうど入学式の頃に咲いたと思う。今は春休みの静かな校庭に咲く印象。小学生だった私には葉っぱばかりの桜の下に毛虫が落ちていることに気づいた日から桜は単に愛でたり儚さを思ったりするものではなくなった。高校生のとき、そういう時期に毛虫を自転車で轢いたことがある。轢いた私がいうものではないが、どうしていいかわからずしばらくペダルに足をつけられなかった。轢いたのはタイヤなのでペダルはなんにも関係ないはずなのだが、漕ぐという行為がまずかったのでは、などと思ったのだろうか。わからないが申し訳なかった。我が家の小さい花壇で毎年揚羽の幼虫が育っていくことで少し許してほしい。桜ではなく山椒の葉っぱでだけど。

最近、SNSでドゥルーズがトレンドに上がっていた。生誕100年、没後30年だからか?私は國分功一郎、千葉雅也、江川隆男たちの講義でドゥルーズを学んだけどあれは2013年とか14年とかだと思う。フロイト、ラカンを読めるようになってきたので当時入門書を片手に色々読んだのもいずれ思考を助けてくれるのだろうと思う。精神分析家だからフロイトを読むのは当たり前とはいえ、哲学の本を読むときにフロイトを読んでおいてよかったなあ、と思うことは多い。精神分析が『夢解釈』からだとしたらまだ125年だけど思想としての影響力は絶大。治療としては細々とだけど患者から学び蓄積され続けている知見と別の学問との対話で生まれた思考は私の生活基盤となった。精神分析以外のこともたくさんしているわけだけど毎日精神分析を誰かしらと行っている生活は心理士として色々やっているときとは別のことをやっていると思うし、影響もしあっている。いろんな人や理論と交わり合いながらやっていきたい。

ということで医師、心理士(師)など臨床家の皆さんは6月7日8日の協会の学術大会にぜひいらしてください。日本精神分析協会 第43回 学術大会については日本精神分析協会のウェブサイトをご覧ください。どうぞよろしくお願いいたします。

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木曜日

今日も空が薄い。昨日の夜は傘がいらなかった。手袋をして早足で歩いたらいつのまにか寒くなくなっていた。すこーしずつ気温が戻っているのかな。今日も部屋の中ではそんなに寒さを感じないけれど。高校野球、春の都大会も中止が続いていたという。このくらいのお天気ならやるのかな。日程調整も大変そう、と言ったら春はわりと余裕を持って日程が組まれているとのこと。そうなんだー。

先日、カレールーの賞味期限が近かったのでカレーにした。キーマカレーを作ろうと思って買ったルーだと思うのだけどカレー粉でできちゃったからすっかり使うのを忘れていた。カレー粉もまだあるのに新しいのを開けてしまったから早く使わないとと思ってたし。カレールーを使えたのはいいけどあまり好きじゃないかも。ちょっとしょっぱい気がした。最近は印度カリー子に影響を受けてスパイスばかり。スパイスは楽しい。香水とかは苦手だけど食べ物の匂いは美味しく食べられる範囲であればいい匂い。腐っているとそういう匂いがするとわかる人間の嗅覚は偉いと思う。危機管理能力が一番大事。筋トレだって危機管理のため、という話をした。それを第一に意識しているわけじゃないけどこの動きができると災害の時に役立つよね、という話をトレーナーさんとした。バランスの良い身体って大事。いろんなことですぐに崩れるものは身体の調子だけではないけど、焦らず徐々に戻そうね、と自分に対しては思える。私は自分に甘いのでそういうふうにやってきたけど私が会う多くの人はそれが苦手。これは年取って経験積んでるというのもあるけど自分なりのニュートラルを知っていればそんなに焦らずともいずれ戻ってくよ、と思っている。すごいことやりたい、かなり大きいダメージを受けたとかだとニュートラルポジション自体をずらす必要が生じるかもだけど。すごいことやりたい場合は何をすごいとするかという問題も生じるかもだけど。まあ、なんだって身体第一でがんばりましょうかね、という感じでしょうか。早く安定した暖かさになってほしいね。今日は木曜日。がんばろう。

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精神分析、本

新年度

新年度が始まりました。雨の中、キャリーバッグをコロコロしながら二列で歩いてくる新入社員らしきみなさん、ランチ場所に困るみなさん、グループで動く姿を見かけるのが多いこの季節、少しずつ人に慣れ、仕事に慣れ、会社に慣れ、街に慣れ、としていくのでしょう。子どもたちはまだ春休み。大学生は大学によるかな。十分、チャージして変化を乗り切れますように。

今日も雨らしい。昨日も本当に寒かったけど猛烈に厚着をして凌いだ。時折風でビニール傘がひっくり返りそうになるのを警戒しながら何度か移動したが周りの人はそんなことにびくともせず上手に風と付き合っていた。私は開いたり閉じたりしていたのに。風に対して傘をさす方向が間違っているのかなと周囲の人を参考にしたけどみんなそんな同じ方に傘を向けているわけではなかった。なんでだろう。ビビりすぎなのかな。

4月からまたグループが始まる。Reading Freudと初回面接を検討するグループ二つ。あとは年度の区切りは特にない個人的な読書会や事例検討会グループいくつかを継続。みんながんばろう。

一番新しいInternational Journal of Psychoanalysisをオンラインで読んでいた。イスラエルとパレスチナの戦争は精神分析協会内部にも葛藤をもたらした。ウルフ会長はじめそれぞれの立場からの論考が掲載されたこの号は緊張感が高い。編集長がそれについて触れていた。戦争でなくても葛藤状況において文章を書くことは自分の立場を表明することでありかなりの緊張が伴う。戦争によって異なる立場になった様々な国の人に対話をもたらすグループを運営してきたイスラエルの精神分析家であるエルリッヒ先生の論文も読んだ。私たちはその国のこと、街のことを何にも知らない、ということを改めて意識した。エルリッヒ先生は日本の精神分析協会における葛藤状況の解決にも協力してくれて昨年と一昨年かな、二回お会いしたことがある。ウルフ先生ともシドニーでお話ししたので知らないことを知ったかぶりしないように知っている先生の言葉から読んだ。ひとごとにしないために。実際ひとごとにしていられる状況でもないのだろう、本当は。実感、の難しさ。

さて、今日は水曜日。火曜日かと思ってしまった。気をつけねば。なんとか乗り切りましょう。

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精神分析

4月

昨日は本当に寒かった。真冬の服装で出かけたのは正解。今日もそうしよう。帰り道は雨が降ったり止んだりで雨と晴れの境界線にいるのかな、と思った。この前、そういう句を作ったけどこっち側は雨でそっち側は晴れてるというその境界のことを短い言葉にするのは難しくて推敲が必要。読みたいものはたくさんあるし私にとって俳句は短いというのが最高に上質、と思っているところなのだけど凝縮、圧縮は難しい。圧縮というのは夢解釈の方法でもあるわけで、とこういう連想は簡単なのに。

フジテレビの第三者委員会の調査報告書を読んだ。「性暴力による被害があり、重大な人権侵害があった」と認定されるような内容がこれまであんなふうに取り上げられていたということになんともいえない気持ちになる。「やっぱり」という気持ちにどうしてもなってしまうがそう思う社会であること、自分であることにまた嫌な気持ちになる。私は日々の「勝手に決められること」に対しては素早く抵抗を示す方だが、女であるだけで抗い難い場面も知っている。抗える人はいる、男だって、とかそういう方向の話は全く文脈が異なるんだよ、ということもまだまだ通じないのが現実。それはそれでそうだろうよ、でもそういうことじゃないんだよ、といわれてパッと通じて慌てて口をつぐみ、耳を傾けるということがどれだけ難しいか。

さて4月。3月後半は色々予定が狂った。学術大会の原稿もそろそろ取り組まねば。昨日もそのつもりがAIと小説作りに励んでししまった。夢を焼却する人を主人公にしようか、と話してた。アンナ・Oの「煙突掃除」から連想して。そんなことをしていないで4月頑張りましょ。