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精神分析

本当とか嘘とか。

今朝の光はまだ白い。これから強い光がさしてくるのかな。夜もエアコンをつけないとすぐに起きてしまうし、つけっぱなしだと朝くしゃみが止まらない。

7月28日夕方に発生した熊本の地震、エアコンがない避難生活なんて心配すぎるし、こんななか車中泊も危なすぎる。色々な支援団体が寄付を募って支援をはじめており、私もできるだけお金の使われ方が見えるところに寄付をした。東日本大震災、能登半島地震に対しても継続的に寄付を続けているが、本来しっかりまとまったお金を早急に出すのは政府の役割だろう。もちろん「そんなことはやっている」とデータを出すことはできるだろうけど、熊本はこれがはじめてではないし、一般人の私でさえ熊本は大きな災害が多くて大変だなという印象がある。死傷者の数が増え、被害状況がわかるにつれ、遠い東京にいる私もどんどん落ち込んでいくが、私の場合、東日本大震災のあとまもなく向かった石巻や三陸、郡山で見た景色や場面が思い起こされるからだろう。ましてや当事者のみなさんの気持ちを思うと、といっても無責任におしはかって単純な言葉にすることは避けたいが。

昨日、オフィスを出るととても明るい月が空に輝いていた。ここ数日、突然暗くなって雨がポツポツ降り出したり、雷とともに豪雨になったり変なお天気だが夜の月はとてもきれい。被災地からも月は見えただろうか。先日、明治神宮の森を照らすように輝く月をオフィスの窓から眺めた。時折、黒い雲に覆われてもあまりに明るいのでどこにいるかすぐにわかる。かくれんぼしているわけではないが月と戯れるのは飽きなそう。

人は平気で嘘をつく、と私が断言できるとすれば私がそうだからというわけではなく、無意識を想定する以上「嘘」といえるものが出てくるということ。あなたは「本当に」それをしたいの?と「本当に」をくっつけた質問を私はしないようにしているというようなことを昨日書いたが、している場合もたくさんあるし、そうしながらなんで「本当に」と言いたくなったかなと考えている。以前、私の気持ちとかではなくて実際に起きたことを話したら「絶対嘘だろ」と言われたことがある。最初は耳を疑ったが、すぐに「すげーな」と思った。もちろん呆れたし怖かった。精神分析臨床でも似たような類のことがよく生じる。これこれこういうことがあってと詳細に話したあと、「本当は」という言葉でそれらを打ち消す。「本当」を知っているのは自分だけ、という場合はとても多い、と書くとまた「そんなの絶対嘘だろ」という声が聞こえる、としたら、私はその言葉に人間の本性をみて怖くなって、また言われるのではないかと怯えているのだと思う。だからこそ考え続けないと自分の存在が脅かされる気がしているのだと思う。実際、そうやって思考を奪われる体験を繰り返し、常に不安な状態にある人を多くみてきた。事実を嘘としてしか受け取らない人っている。内容なんてどうでもよく、その相手が言ったことはなんでもあっても信じないとあけすけに表明することで何かやった気になれる人がいる。むしろ、そうすることで相手が困ったり悲しんだり怒ったりする反応が欲しいのか。とんだかまってちゃんだな、と距離を取れればいいかもしれない。まあ、今となれば国民を守る手段を講じるはずの政府に対して多くの人が「どうせまた嘘だろ」と思っているわけで、そう思われることに全く脅かされることのない心の集まりである政府であることがナルシシズムが一般化したことをあらわしているようだし、人間って誰もがそういう自分になりたくないと思っているわけではないんだ、という理解をもたらす。イソップ童話のオオカミ少年の話は、羊が食べられる結末とか少年が食べられる結末とかみんな食べられてしまう結末があると思うが、「どうせまた嘘だろ」と情報を軽んじることはたしかによくある。精神分析においてはそれを「嘘」とは呼ばないと思うが。その行為は何がしたくてされていることなわけ、という視点は持つが。精神分析は単に言葉ではない行為としての言葉の可能性を押し広げながら展開してきた学問なので行動をみているのとたいして変わらないと私は思っているし、他者の行為を捻じ曲げたり歪めたり現実とは異なるものとして捉えたとしても自分の行為は今ここに現れるものなので毎日のように会い、言葉を聞き続けていれば少なくともその人のパターンはだいぶよくわかるようになる。語られた他者の方に目を向けるのではなく、その人がなぜ今そのような語りをそのような仕方でしているのかに注意を注いでいる。だから嘘は道徳に使用されるものではなく、抑圧の一形態として捉える。私の場合は、ということだが精神分析理論に基づいてこれを説明することもできる。日々、臨床がそれらを確かめてくれてもいる。だからといって相手に変化を起こせるわけではない。ただただその人のありように対してそれまでとは異なる描写をし、心の動きを微細に観察していくこと、観察によってまた違う言葉を使った描写が可能になることもあるが、大抵は同じ言葉の精度が増すだけで新しい語彙でそれが立ち現れるのはずっとずっと後のことだ。多様性とか可塑性とか言葉でいうのは簡単だが、まずわからなさにとどまること自体の困難を否認しないというあり方自体が最難関であり、人が自分の正しさをどうにかして守りたいものなんだなという実感がこちらには必要になる。今日も見たくない現実から過度に目を逸らさず、自分に近い場所から丁寧に関わろう。

熱中症にお気をつけて、良い一日をお過ごしください。

雷前。
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旅

熊本。

春の朝だねえ、と南の空にうっすら残る月をみてぼんやりしていたらなんと今日は夏日だと、東京。この時間は本当にちょうどいい。風もない。少し冷めてきたお茶も美味しい。甘夏の厚い皮を向くとしっかりした甘酸っぱい実。柑橘って地域によって色々ある。微妙な差はわからないけど晩白柚くらいになるとわかる。熊本に旅したときに大きいのをたくさんみた。4月16日は熊本地震の日だった。2016年のこと。4月14日の大きな地震に次ぐ2度の強い揺れ。あれから9年。早いと感じるか遅いと感じるか。その日から時が止まってしまった方もおられるかもしれない。時間の流れはひとつじゃない。こんなとき心の存在を感じる。時計の針は確実に同じ方向に進むのに別の時間は強い衝撃から離れられず止まったり戻ったりさらに別の時間へ乖離したりする。心がばらばらになる。地震は特にばらばらのイメージを強くさせる。私は2012年に熊本を旅して熊本城のそばに泊まった。石垣が崩れる映像だけでもとてもショックだった。あの地震で「益城町」を読めるようになった。熊本の空からも朝の月は見えただろうか。熊本城の全体の復旧は2052年度の見通しとのこと。無事に作業が続けられますように。そして昨晩は長野で地震があった。直前にしか予測ができない自然の揺れがもどかしい。なんだってそれはそうなのだが私たちは普段なんとなく同じような毎日が続くという見通しのもとに生活をしている。それが大きく崩れることのありませんように。特に被災地においては立て直そうとする心がそれ以上不安になりませんように。

今日は土曜日。良い一日でありますように。