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お菓子 テレビ 精神分析、本

言葉とかお土産とか。

出かける前に少し洗濯物を外に干そう、と思って窓を開けた。風がない?風はどこ?暑いけどまだ風があるから助かるよね、という話をしたばかりなのに。今日は木曜日。そして明日は8月、と書きながら驚く。もう8月。

さてさて、昨今、加害と被害という用語で様々な出来事が語られるが、精神分析でいば、加害性はウィニコットのいう侵襲性だろう。そしてグッドイナフな母親には「なる」プロセスが含まれるとすれば、それがまだできない母子の最早期の関係は加害者と被害者だろうか。そんなはずはなく、被害と加害の関係はそんなに簡単ではないのでそれらの用語も簡単に用いるべきではもちろんない。強い言葉を使うなら『被害と加害のフェミニズム #MeToo以降を展望する』とかある程度勉強してから、という時代だろう、今は。言葉はどんなときでも人の自由を拘束するためではなく広げるために使えるようにしたい。言葉が拘束として働きやすいのは人の心がそういうふうに作動しやすいからなわけだけどそれを超えていくのも言葉だと考える仕事についているのできちんと勉強しよっ、と改めて思った。

これは「いいお母さん」とはなにか、みたいな話でもある。『精神病者の魂への道』の著者、シュビング夫人で知られるゲルトルート・シュヴィングは古澤平作のスーパーヴァイザーであるパウル・フェダーンの分析を受けていた。小此木啓吾が書いているが、彼女は精神分析によって「自分の中の救済的なコンプレックスを治療することで、自分自身の内部にあった激しいエディプス的な葛藤とかを洞察した」。その結果、「献身的に子どもをかわいがるお母さん」から「本当の意味での、距離のある、人格と人格としての母と子の愛情、真の母性愛というものに成長した」そうだ。小此木啓吾は阿闍世の話とそれをつなげている。こういう話をどのくらい複雑に考えられるかということが大事。どっちがいいとかそういう話ではない。少なくとも相手を「いい」か「悪い」かを決めるのは自分ではない。

福島県二本松市岳温泉のお土産がたくさん。「だけ」温泉って読むのね。ウェブサイトを訪ねたら最初に映し出されたのが包装紙みたいでかわいかった。楽しそう。安達太良山に登ったあとに日帰り湯する人も多そう。お土産は「玉川屋」さんの名物「くろがね焼」とか「あだたら 湯ふもと岳」とか。これはクッキーかな。原材料に黒糖、バター、パンプキン、アーモンド、シナモンとあるだけで絶対に美味しい、という予感がする。包装紙もわしっぽくてきれい。あと「桜坂」。これは果実餡とある。包み紙の上からだとふんわりした感じ。なんだろう。楽しみ。桜坂って名所があるのね。

「桜坂」というと福山雅治の「桜坂」を思い出す世代なんだけどあれは何年だろう。『未来日記V』のテーマソングだった。

♪君よずっと幸せに 風にそっと歌うよ ♫♪ 愛は今も 愛のままで♪

私の未来の時間は当時より具体的に短くなったけど今日もがんばろう。今日は木曜日。7月は今日まで。何度も確認が必要なのは加齢のせいではなく不注意のせい。色々あってもなんとかやろう。良い一日になりますように。

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コミュニケーション テレビ 精神分析

フロイト、平和

毎日暑い。みんなのうたに「ねつねつねっちゅーしょう」という防災ソングができていた。知らなかった。カッパのは知っていたが。先日もスポーツクラブのプールで小学生が亡くなったというニュースを聞いた。痛ましい。安全で楽しい夏休みを過ごしてほしい。

帰り道、日が沈めば少しは気持ちいいが、なんせまだ日が長い。夕焼けはいつもきれいで昨日も細い月がきれいだった。

今年度、Reading Freudで読んでいる『フロイト全集3 心理学草案』をそれほどわからなくない話として、少なくともフロイトが何をやりたかったのかが少し理解できるようになってきたのでノートにまとめてみた。自分にそんなことがすいすいできるようになるとは思わなかった。これまでかけた時間が報われている感じがして嬉しい。フリースは本当にこれをきちんと読んだのかな。フロイトは草稿を披露できる相手がいることが大事なのであって、フリースその人をみてはいなかったのではないかな、とかも思う。

フロイトは敬愛するダーウィンのビーグル号での航海みたいな研究の仕方に憧れていた。でも現実的なフロイトは、お金を稼ぐ方法と自分が天職とするものに折り合いをつけながら地に足をつけてがんばった。マルタと結婚をしたい。ならば収入を得ねば。だったら研究より臨床医として開業だ、そのためには経験を積まねば、というように。そして無事にマルタと結婚し、精神分析も生まれた。ピーター・ゲイは短気で気分の浮き沈みの激しいフロイトを押しとどめたり励ましたりして耐えるマルタのことも書いていて面白い。どんなすごい人もきちんと周りに迷惑をかけて、協力をしてもらって生きているわけだ。フロイトは人間の心にも自分の欲望にも忠実で、『心理学草案』はその情熱が科学的探究心と結びついて書かれた壮大なプロジェクトだったのだろう。

毎日ぼんやり考えては忘れ、気になっては忘れ、ということを繰り返しているが、選挙の文脈で「あの人はだれそれよりタチが悪い」というような言い方を聞いてぼんやり考えた。もしそれをそのだれそれとやらがきいたらちょっと喜んだような言動したりするのかもな、とか。そういうノリで応じるというのはありうるな、と。なにかを批判したり非難したりしたいなら別のだれかをまきこまなくてもいいと思うのだけどついやっちゃうのは怒りに巻き込まれているからだと思う。怒りに対してその種のノリで応じる人が多いのが現代だし、パターン的なコミュニケーションが作動しやすいから議論も二分化しやすい。出来事として「さすがにあれはないよね」とか「あそこで止めておけばよかったのに」というなら「まあそうだねえ」となんとなくの一致で不毛な議論になったりはしないのかもしれないけど。

ひとりひとり違うというのはどこをとっても当たり前で、もし苛立ちなどが大雑把な分類を生み出しているのだったら個別に戻ったほうが平和かも。みんなが同じもの褒めはじめてもそれをいいと思う必要などないのと同じ。同じもの見て同じような褒め方してても実は全然違う部分に反応しているなんてことはよくあることというか当たり前だと思う。

先日、NHK「映像の世紀」第2部  独ソ戦 悲劇のウクライナ 1941-1943を見た。ウクライナの古都キーウ、1941年、1943年含め、第二次世界大戦で人口の20%を失ったという。戦後80年、8月は特に戦争を意識する月だ。戦後を戦後のままにしておかなくては。個人間の差異の背景で平然と進行する理不尽を見逃さないように、変なノリとは違う仕方で今日もがんばろう。

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精神分析、本

「剥奪」、沖縄

 静かな朝。昨日の夕焼けがとてもきれいだった。細い月もスッキリと明るくて空ではどんな色でも自由に存在できる。というか存在って自由とセットだし。のはずだし。

子どもの心理療法の本をパラパラしていて久しぶりにメアリー・ボストン(Mary Boston)とロレーヌ・スザー(Rolene Szur)編の『被虐待児の精神分析的心理療法』を手に取った。

1980年代の英国、タヴィストッククリニックのワークショップでの事例に基づいた議論と調査研究を形にした一冊。この領域は、精神科医、ソーシャルワーカー、心理士、教育療法士、児童心理療法士など多職種の連携が特に必要な領域であり、心理士も日本の心理士とは異なり、心理検査をとる心理士、心理療法を提供する心理士など、役割分担がしっかりしている。

原題はPSYCHOTHERAPY WITH SEVERELY DEPRIVED CHILDRENで「虐待」という言葉は入っていないが日本の読者に合わせて変えたというようなことを訳者あとがきで平井先生が書かれていたように思う(要確認)。でもだとしたらどうなのだろう。Deprivedはやっぱり「剥奪」で訳した方がいいのではないか。

私は大学時代、はじめて「臨床」のイメージを持ったのは繁田進先生の授業だった。ボウルビィがいる時代にタヴィストックで学んできた繁田先生がビデオを見せながらしてくれた子供たちの話は強烈だったけど繁田先生は彼らの状況をとても悲しそうに、でも彼らのことをとても愛おしいという様子で話された。あれを見て臨床を志した人は多かったと思う。実際に臨床心理士になった人はそんなに多くない時代だったけど。私はそこで「ホスピタリズム」「マターナル・デブリベーション」という言葉に特に馴染んでいた。

自分の臨床経験も長くなってきて、赤ちゃんから大人まで会う生活をずっと続けてきたなかでこの本を読むと、当時聞いた話がとても身近な問題として迫ってくる。

この本に出てくる子どもたちは悲しいことに多くの場合、実際、背景に虐待があるのだが、それよりも施設や里親を含む彼らが育つための環境を剥奪されてきた、あるいは剥奪されがちな子どもたちという観点がメインで、心的スペースを作り出す環境とは、ということが模索されていると思う。なのでその程度がseverelyであることがどういうことかも含め、deprivedをそのまま訳した方がいいのでは、と思った。施設での臨床をしている方に関わらず、子どもの福祉、子どもの環境というのは大人が常に考える必要があることなので、良い悪いの議論ではなく、どのようにすることができたのか、という思考を止めないためにはこういう本を時折開くのは大切だなと思った。

NHK「あさイチ」妻夫木聡がゆく もっと知りたい沖縄 戦後80年特別企画を見た。2024ー2025の年末年始は沖縄で過ごしたがあまりに久しぶりの沖縄だったので佐喜眞美術館まで足を伸ばせなかった。行くべきところがありすぎるが次回こそは。「いい人もいる」といえばなんだってそう。「悪い人もいる」だって同じくらいそう。「だから?」「だったら?」ということなのだと思う。沖縄のことももっと知りたいし知る必要がある。

大きな洗濯物を干した。今「洗濯」が「選択」って変換されて「大きな選択をした」みたいな感じになったがどちらも大変だ。スッキリ乾けばいいな。

今日は火曜日。毎日少しずつ混乱するから確認して戻していかないと。ああ、暑そう。熱中症に気をつけて過ごしましょう。

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テレビ

NHK大河とか朝ドラとか。

暑い。空の色と天気予報に出てくる気温と体感温度が全然違う気がする。循環が良くなったせい、とかなら嬉しいけど違う気がする。

昨日は日曜日。グループをし、山を歩き、大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」をみた。東京にもすぐに行ける山がある。暑い中ランニングをするより(してないけど)登ったり降ったりしながら森を歩く方が素敵な運動不足解消になる。「べらぼう」、佐野政言を矢本悠馬がやる意味はここにあったか、と誰もが思うであろう演技が素晴らしい。何に出てきても安心感がある。大河は朝ドラよりも史実に忠実だけど、ひとりひとりのキャラクター造形は脚本家によるフィクションなわけで、そこにいろんな視聴者の視点が加わって、今だったらSNSに影響を受けたりしながらドラマの世界に入っていく。面白いなと思う。SNSでは今回だったら当時の切腹の仕方とか、全体には本とか出版のこととかいろんな情報が追加で知れて大層勉強になる。それをもとに自分でも深掘りしてみるとそれぞれの人物がドラマ以上にびっくりさせられるような人生を送っていたり、事実は小説より奇なり、とはまさに、となる。私が会ってきた人たちのことを考えれば実際そうなのだけど見える部分だけでも驚かされるのとはまた違う感慨かもね。

連続テレビ小説「あんぱん」では主人公ののぶがずっとずっと無意識に育ててきた気持ちが「好き」という言葉になることにようやく気づいた。気付いてから走って飛びつくまでが早いのも子供の頃からののぶちゃんという感じでとてもよかった。そのシーンのカメラワークも素晴らしかった。金曜日の回は、妹の蘭子ちゃんが嵩への期待を語る場面からずっと涙が止まらなかった。今週からまた違う生活が始まっていくのだねえ。がんばれがんばれ。

今朝はちょっといい納豆でごはんを食べて、超ジューシーな桃を食べた。果物の水分って豊か。香りも豊か。植物ってすごい。

今日は月曜日。毎日なんらかの仕事をしているから「今週も始まってしまうのか・・・」みたいな感じがないのはいいのかどうかわからないけど私には悪くないかも。でも夏休みは楽しみ。身体大切にがんばりましょう。

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テレビ 精神分析

精神分析とかドラマとか

フロイトは科学の名の下に自分の発見に普遍性を持たせることを試みた。そしてそこには必ず患者がいた。その初期の試みのひとつが「心理学草案」である、ということをそれを精読しながら現代の精神分析も学ぶ私たちは実感しつつあり、そういう感想が出たりもした。そんなフロイトのあとに続いたのがラカンであり、ビオンであるが、昨日もビオンの自伝(全集1、2巻)の良さを本を見せながら語ってしまった。

WR・ビオン全集』(著作15冊+索引)

The Complete Works of W.R. Bion. Karnac Books. 2014.

第一巻『長い週末 1897-1919』(The Long Weekend 1897-1919: Part of a Life)

第二巻『我が罪を唱えさせよ 人生のもう一つの部分』(All My Sins Remembered: Another Part of a Life『天才の別の側面 家族書簡』(The Other Side of Genius: Family Letters

フロイトの訳本の脚注などを読めばなおさら明らかだが、精神分析は言葉をあらゆる方面から使用するので、できるだけ確かな翻訳で読みたい。フロイトの翻訳だっていまだに色々あるわけだが、だからこそフロイトやビオン、クライン、ウィニコット、ラカンに関しては、理論と実践の両方を積み重ねている人の訳で読めるとありがたい。それにしてもこの自伝はもっと早くに読みたかった。全集の最初の1、2巻なわけだし、ビオンがあんなに詩的な素敵な絵を描く人だともっと早くに知りたかった。私が大好きな鳥たちがたくさん登場することにもはまってしまい、すっかりビオン大好きみたいになっている。

それにしても精神分析の面白さを伝えることは難しい。いまだにセミナーや読書会で多くの人が精神分析を学んでいるのに体験する人が少ないことは単に料金の問題ではないだろう。自分に投資するという点ではもっと多くの費用と時間をかけている人はたくさんいる。たしかに精神分析を受けることは主には苦痛でしかなく、それを無意識で知っている人は多く、自然と回避的になるのはよくわかる。探求を経ない諦めの方が痛みも危機も少ない。探求とそれに伴う苦痛を面白いというのはマゾヒスティックでナルシスティックなことでもあるだろう。しかし、他者を通じての自分との出会いには衝撃があり、そこに長くとどまることで結果的にはマゾでナルシスティックな側面は打ち砕かれることになる。他者に変化を求めるのではなく、それを頑なに求める自分を探求する中で心をできるだけフルに使ってあげること、どうせ限りある人生なら自分の持ち物くらい使えるようになりたい。それを生涯の仕事にしようと思ったのはずっと後のことだけど、私は最初そんな気持ちで精神分析を求めたし(事後的にわかったことだけど)、長い期間、いろんな人の協力を得て、自分を管理ながら通った、というか通うこと自体が自己管理になった。

これもビオン自伝から面白い部分として仲間内で共有したのだけどビオンが黄疸でクラインとの分析に行けなかったときも面接料を払わねばならない一方で、ビオン自身は仕事ができないので患者からお金をもらうことができないという状況を体験したビオンは「病気や災難はとても高価な贅沢品と悟るには時間がかからなかった」と書き、そのあとに予定通りにきたビオンに不意をつかれるクライン(こないと思って別の予定を入れていたんだって)のことを書くのだけど、こういうことの連続が精神分析。一人では起きない些細なようで重大なことがたくさん起きて心に常にさざ波が立つ。でもそれを相手に投げてしまわないで相手を通じた自分のものとして抱えていく、そういう力をつけていく、そういうイメージかな。それを面白いとか豊かだとか直観できる人にはとても効果があるはずだけどはやることはないだろう。寿命は伸びてもとどまる余裕をもてる世界ではなくなった。短絡的な評価ばかりされ、それを気にさせる仕組みを持つ世界になった。

昨日のNHK土曜ドラマ『ひとりでしにたい』の綾瀬はるかの台詞がとてもよかった、とそれにまつわる連想を書きそうになったが、今朝もやることやって仕事。身体も動かして美味しいもの食べたい。みんなのかき氷写真とかすごく美味しそうだけどおなかがもたないよなあと胃腸の弱さが悲しい。自分の身体を労わりつつ過ごしましょう。どうぞ良い日曜日を。

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哲学 精神分析 読書

ベルクソン、フロイト

早朝、窓を開けたら一番きれいな色をしているときの光に会えた。ただの強い日差しに変わってしまう前の爽やかなピンク色。昨日はそんなに汗をかかなかった。外に出るたびに「あぢぃ」となっていたけど長時間でていることがなかったからかな。熱中症にならないようにせねば。水分水分。

ここでも何度か書いている平井靖史さんの『世界は時間でできている -ベルクソン時間哲学入門-』が昨日3歳になったそう。ベルクソンに関してはこれと『ベルクソン思想の現在』檜垣立哉、平井靖史、平賀裕貴、藤田尚志、米田翼が私の愛読書となっている。2022年のベルクソン研究者たちの盛り上がりはすごく楽しそうで、そのネットワーク作りをしている平井さんの仕事ぶりも魅力的で私もようやく門前にとどまることができた。

アンリ・ベルクソンとフロイトは同時代を生きて神経学に同じような関心を向けながら心について考えていたにもかかわらず接点がなかった。ジャン=リュック・ジリボンがベルクソンの『笑い』とフロイトの『不気味なもの』を並べて読解することで見出した「不気味な笑い」という論考が2016年に平凡社ライブラリーから『笑い/不気味なもの』としてでており、二人をつなげる試みはなかったわけではない。ベルクソンに魅力を感じながらも長い間近づけなかった私もとりあえずこの本は買っていた。

日本の精神分析でいえば、小此木啓吾が哲学少年としてベルクソンを読みこむだけでなく、フロイトが導入した失認agnosieなど神経学的な問題に臨床で関わる中でベルクソンの『創造的進化』に影響を受けた学者たちも参照しながら自我発達理論と発達神経生物学の延長として精神分析における自我心理学の発展について述べている。小此木先生が見出した日本の若い(当時)医者や心理士は私たちに精神分析と精神分析的なものをごっちゃにしたままとはいえ、海外の最新の知見はもちろん、ご自身の臨床に基づいた精神分析的思考をたくさん教えてくださった。私はその世代に直接、精神分析やスーパーヴィジョンを受けてきた世代なので、小此木先生の批判されるべきところも知っているが、小此木先生の仕事に戻れば、精神分析を学際的な領域として楽しめることも知っている。今「自我心理学」と聞いたときに神経学からの発展として話す人は少ないように思うので、私は私の世代で言えることを幅広い視野から次の世代に伝えていければいいなと思う。

最近はビオンの自伝に感動したのでそればかり話している気がするが。今日はフロイト『心理学草案』。せめてここまで戻る場を作れてよかった。

今日も暑そう。気をつけながらがんばりましょう。

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Netflix 精神分析、本

夏の朝、象徴、『W・R・ビオン全集』自伝2巻。

早朝からカビ取りスプレーを使い、窓を全開にしたら生ぬるい風が入ってきた。こういうスプレーは自分もやられてしまうので大変だ。

新宿中央公園のセミたちも本格的に鳴いている。結界を張るかのように鳴いているせいか日中は人が少ない。まあ、暑すぎるということだけれど。

今朝は能登のお米でごはん。2年続けて七尾線に乗った。七尾線は石川県の津幡駅から和倉温泉駅までをつなぐ路線で能登半島の田園風景を満喫できる。GWの車窓には空を映す水田がずっと続いていた。ずっときれいだから同じようで少し違う写真がたくさん撮れた。

最近、夏のフルーツを色々もらった。今朝は「サマーエンジェル」というすももの一種を食べてみた。山梨県オリジナルとして「ソルダム」と「ケルシー」を交配して育成したとのこと。酸っぱさも甘さもちょうどいい。夏はこういうサッパリしたのがいい。

『鬼滅の刃』の映画が話題。無限列車編以降追えていないけど、話題になると見たくなる。主人公がいい子すぎるところに最初からあまり乗れていなかったが見たら見たで止まらなくなる多彩さがある。この前、同業の先生たちとNetflix話をしたが、それぞれすごくよく見ている。実はわたしたち暇なのでは、と思うほどだが、単に睡眠時間が少なくなっていたり、そのための時間確保や体調管理に務めているという話でもありその話も面白かった。楽しむためのいろんな管理は大事。

私は最近思うところがあり、というか相変わらず日本でいう15年戦争を入り口に色々みたり読んだりしていて、そのひとつに当然マンハッタン計画もあり、そういえば『オッペンハイマー』をまだみていないな、と思った。とりあえずすぐにみられるクリストファー・ノーラン監督のものということでDark Knight Trilogyを見直そうと『バッドマン・ビギンズ』を再生。このお母さんってジブリに出てくる夫のそばにはいるがちょっと子供と距離のあるお母さんみたいと思ったり、子供のトラウマを父と母が共有しないことで父子の物語にして執事に母性を担わせたのは男社会の映画として面白いな、とか適当なことを思いながらみているが、本当に断片しか覚えていないものだな。映画も本も本当に覚えていられない。だから何度も見たり読んだりする、ともいう。主人公が自ら「象徴」になろうとする話って日本のアニメでも色々あると思うのだけど「俺はなる!」みたいな感じでなるものではないよね、「象徴」って。

精神分析は象徴をめぐるあれこれを扱う学問だけど、特定の誰かが象徴として機能している学問ではないと思う。「祖」と呼べる人が数人いるだけで。その一人であるビオンの精神分析家以前(生い立ち、第一次世界大戦)と精神分析家にならんとするプロセス(第二次世界大戦を経てクラインと出会うなど)をビオンの嘘のない言葉で読めるのが『WR・ビオン全集』(著作15冊+索引)The Complete Works of W.R. Bion. Karnac Books. (2014)の第1、2巻。これまでもビオンをたくさん訳されている福本修先生の監訳。訳者はそれぞれドイツ、イギリスの文化に馴染んでいる方々で注釈もとてもありがたい。戦争のあれこれに触れ続けているのは今、世界がそういう状態だからというのもあるけれど、フロイトをはじめとするユダヤ人分析家とナチスの関係に対する関心が強いから。あとはこのビオンの戦争体験。すでに色々なところで話されていることだとは思うが、ビオンの言葉を断片ではなく追うことでビオンの理論の背景がいかに困難が多く、かたそうなのにものすごく豊かな思考がそれらをいかに言語化してきたか、ということ自体に胸を打たれる。高いけど全集の全訳というのは本当に価値があるので(絶対自分でできないから)チェックしてみてほしい。

WR・ビオン全集』(著作15冊+索引)

The Complete Works of W.R. Bion. Karnac Books. 2014.

第一巻

長い週末 1897-1919』(The Long Weekend 1897-1919: Part of a Life)

第二巻

『我が罪を唱えさせよ 人生のもう一つの部分』(All My Sins Remembered: Another Part of a Life

『天才の別の側面 家族書簡』The Other Side of Genius: Family Letters

第ニ巻の邦訳にはビオンの息子ジュリアンが父ビオンのことを書いている。福本先生が寄稿をお願いして引き受けてくださったらしい。ジュリアン・ビオンはthe Professor of Intensive Care Medicine at the University of Birminghamということでバーミンガム大学の集中治療医学の教授で、その分野の様々な会の長を務めたり数多くの賞を受賞されている。第二巻は妻とジュリアンたち子どもらへの父ビオンからの手紙も収められているが、一人の息子として父ビオンを語るジュリアン先生の文章もミルトンの引用もとても素敵だった。いろんなことを感じたり考えたりしながらビオンを読んでいけそう、と思った。ビオンもフロイト同様、徹底して精神分析家であり、良き父親だったらしい。ビオンの書き方はフロイトとは全然違うけど(対象も目的も違うから当たり前だけど)とても読む価値ありの二冊だと思う。

今日も暑そう。熱中症ってあっという間になるから気をつけましょうね。どうぞ良い一日を。

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精神分析 音楽

Ozzy、権利、嘘

オジー・オズボーン(Ozzy Osbourne)が死んだ。76歳。ブラックサバス(Black Sabbath)最後のライブをやったばかりなのに。こんな時代にその収益約280億円を3つの慈善団体に寄付して死んだオジー。最後までかっこよかった。私の洋楽のはじまりのひとりにオジーもいた。長い間ありがとう、オジー。当時から熱狂的なオジーのファンだったあの人も今日はたくさん泣いたに違いない。多分、あのリフを弾きながら。今はもういい歳だからそういうことしないのかも。ひとしきり泣いたあとのオジーファンは妻のシャロンのことも同時に思い浮かべたかもしれない。オジー、本当に大変な人たちで、本当に特別な人たちだった。

「イスラエル極右、ガザ「リビエラ化」計画議論 ユダヤ人120万人が再移住」(AFP=時事)、ひどい文字列。おぞましい。映像をみると本当にゲームのように人が殺され続けている。餓死しないために殺されるのを覚悟で食糧を求め、そこでやはり殺される。そんな状況に平然としていられる人は人ではない。でも人である。本当に恐ろしい。ひとりひとりがある程度平穏に生活できるという権利すら奪いたいという欲望に説明や理解なんかいらない。ただ拒否あるのみ。まず拒否に応じないのであれば対話なんてできない。どうしてこんな小さなことが見ず知らずの人によって脅かされなければいけないのか。本当に嫌だ。

選挙前、一般社団法人日本自閉症協会SNSで「そもそも発達障害など存在しない」と公言している政党に対して、それがまったくの間違いであることを指摘した。

「WHOや米国精神医学会には診断基準があり、日本には超党派の議員立法により成立した発達障害支援法があります。 発達障害などないという根拠のない主張で私たち当事者や家族を苦しめないでください。」

とすでに誰でも知っているはずのことを書いた。なのに平然と嘘をつく政治家がいる。目に見えるものを存在しないとなぜいえる。この場合もなぜかなんて知らない。ただそういうのやめて、というのみ。発達障害の人の支援に関する法律も彼らの見たいものしか見ない目には読まれないのだろう。診断を受けていない人たちが発達障害という言葉を簡単に使いすぎている面もあったかもしれない。嘘つきは嘘を重ねることでしか「本当」を語れなくなる。そうなってしまう前に、言い淀んだり、言いたくないと抵抗したり、そういう仕草がいかに人間らしいことか。そういう心のざわめきを人のせいにせずに引き受けていくためにそれを抱える政治が必要なのに。

こういうことを書き始めるとキリがないけど身近な人たちとは言い続けている。「目の前の」というのは自分の狭い視野のことをいうのではないなんて自明だろう。ひとりひとりが他者への介入は最小限で自分のことも相手のことも気遣うことを素敵だと思えたらいい。

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精神分析

人とか人でないとか。

朝の光がいったん消えた。窓を開けたらまだ少しだけひんやりとした風が入ってきた。今日も暑くなるのだろう。今日は旬のデラウェアを食べよう。美味しく水分補給。

昨日の記憶がすでにあまりないが、何をしていたのか。相変わらずヒトラー、チャーチルあたりの文献や映像は見ているが。第二次世界大戦に向かうまでも大戦になってからも本当に色々ひどいな。

民衆は権力者の持ち物ではない。

女、子ども、障害者になら何をやってもいいという人は人ではない。

私が精神分析理論を学ぶなかでウィニコットの環境とあることbeing、生きていることalivenessにどうしても気持ちが向かうのは、私meと私でないnot-meの移行の困難をこうした世界から感じるせいかもしれない。死んでなきゃ生きてるってわけじゃない。

人ってなに、どういう状態のこと?人の形をしたなにか、だとしたらそれってなに?

発達初期にユニットとしての全体性や一体感を得られなかった場合、遊びと空想のための場を持ちにくい。つまり転移も生じにくい。患者自身が発見する必要がある場、ビオンだったらそれは学びの場なんだと思うけど、それは間主体的な場であると同時に孤立へ向かう破壊的な場でもある。

あ、そうだ、昨日は原光景が事典や辞書で大項目にならないことについて考えていたのだった。ウルフマンを読むとき以外も重要だと思うが。

先日、ハイキングに行ったときのお花の写真から花の名前を調べたりもした。相変わらずすぐ忘れてしまうが花々の様子は雲の様子と一緒にすぐに思い浮かぶ。山の方はまだ紫陽花がきれいに咲いていた。都会では感じない風の通り道に差し掛かるたびにみんなが「涼しい!」と小さく歓声をあげる。そういう瞬間はいい。

今日もバタバタしそうだが、熱中症にだけは気をつけて過ごしませう。

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「るかんた」、オタク、生成論

今朝の空の色々を見逃した気がする。朝起きてカーテンを開けたり窓を開けたり何回かみた空はずっとのっぺりだったのになにやら月とか金星とか出ていたらしい。

今朝は日光街道、小山宿のお土産「るかんた」。夏みかんのはもう食べてしまった。今日は焼りんご。

「栃木県特産の”かんぴょう”をジャムにして、お菓子の中心に入れた乙女屋代表の銘菓かんぴょう物語「るかんた」」

とのこと。かんぴょうっぽさは全然感じないけれど美味しい。

石破はミリオタだから歴史認識がまとも、という文言を見た。「だから」の使い方には色々あると思うが、確かに私の周りのオタクたちは間違った情報が入り込む隙を与えない印象がある。私が「〜だっけ」と適当なことをいうとスパッと、なんの情緒もなく訂正される。ああいう正しさはいい。私も精神分析のある部分については相当オタクなので「その本にそんな文章はない」とかいうことがあるが、文献の場合、特に訳本の場合、原著にあったものが省略されていたりするのでスパッと訂正した私の方が「あれ?」っとなることもある。これに関してはしっかりオタクになりたい。

この前、精神分析基礎講座で小此木先生の生成論の話を聞きながら、当然そこには小此木先生が参照した小此木以前があることを思った。フロイトが精神分析の創始者であると同時にそこで用いられる用語をはじめて使ったのがフロイトではない場合が多いということは自明であるという意識のもと学習は自分でしなければならない面が多い。生成論については講義にも登場したビオン、特に『精神分析の方法 I: 〈セブン・サーヴァンツ〉』(りぶらりあ選書)を参照することが必要になってくるだろう。ビオンのグリッドにおける垂直軸は思考の生成的発達を示す軸である。ビオンについては訳書がどんどん出ているし、みんなでどんどん読んで考えていける。先輩方のおかげ。こういうところはやっぱり良い時代。

今日は火曜日。色々間違えないようにがんばろう。

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「精神分析基礎講座」など

いつもの光がさしてこない。くらい。むしろ10分前よりくらい。天気予報は雲マークもついているけど一応晴れ。

投票率が低い中、平然と差別を口にする党が議席を伸ばす。嫌な国になってきたが住民が希望を捨てるわけにもいかないので、信頼を基本に生活を大切にしていこう。

昨日は「精神分析基礎講座」だった。これは日本精神分析協会の訓練に入る場合の基礎セミナーにもなっている。以前は対象関係論勉強会という名前だった。昨日午前中は池田政俊先生が「生成論とナルシシズム」という題で講義をしてくださった。小此木啓吾のいう生成論ということだったが、小此木先生がカテゴリライズしたフロイト理論は

a 力動―経済論モデル
b 生成―分析論モデル
c 発生―発達論モデル
d 力動―構造論モデル
e 不安―防衛論モデル
f 自己愛論モデル

まあ、生成分析論といわれても同じようにピンとこないかもしれないけれど、精神分析がさらされてきた大雑把な批判に対してよりミクロな視点を提示するものではあるのだと思う。大雑把な批判はおそらく発生ー発達論モデルに向けられている。小此木先生が提示した視点は、操作主義、エネルギー原理、非決定論。この議論で参照されるモデルは当時の精神分裂病だと思うのだけど、ナルシシズム論は精神病の枠組みを持つものとしてそこに入っているということか。ただ生成分析モデルにおいて事後性が重要なのはよくわかる。これと午後に妙木浩之先生が講義してくださった「今ここ」で進行する分析と「分析における構成」の仕事は一緒に考える必要がある。私も少なくとも私の周りで使用される「今ここ」の扱いには懸念がある。司会者として参加したが大変勉強になった。これらの理論を精神分析体験を通じて楽しんでくれる人が増えたらいいなと思う。

強い光がさしてきた。夏の朝はいつも二段階。良い一日になりますように。

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メメント・モリとか。

早朝の強い光は一瞬。今はまた別の光。大きな窓を開けたら爽やかな風。

今日は一日涼しい(はず)室内。寒すぎたりしたら困るから上着ももっていこう。

朝ごはんをきちんと食べたら暑くなった。

昨晩はオンラインで座談会。北海道の方が一番多いという新鮮な会だった。一言でいえばメメント・モリ。自分にも誰にでも。

当たり前のことを当たり前に思えない世界で当たり前を維持するためにもメメント・モリ。

万物は流転する。

詩人の高橋睦郎がオルフェウスの神話に魅せられたわけを書いていた。詩人が神話を辿るとこんなに素敵になるものか、と感動した。フロイトもナルキッソスの神話からナルシシズムを導入したことは間違いない。どの学問も大切にしてきた神話が持つ力を「自己愛」とかいう言葉にしてしまうことは避けたい。メメント・モリ。ナルキッソスには難しかった。

仕事前にまた何か食べてしまいそう。はじまりがいつもよりゆっくりだから。散歩するには暑い。今朝もラジオ体操をぼんやり見てるだけでやらなかった。このピアノ、本当に好き。あ、ラジオ体操じゃなくてテレビ体操か。

良い日曜日になるといいですね。

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当たり前に

まだこの時間は爽やか。朝晩はいい感じ。光もきれい。鳥たちもいい声。

日本で政治家になりたい人たちが平和を望まないのはなぜか。自分が差別されるとか、傷を負うとか、ましてや死ぬのとか殺されるのとか絶対嫌だろう、それ以前に自分の人生を他人にコントロールされるのとか絶対嫌だろう。なのに、される前にしてやろう、くらいの勢いで、というかそれしか方法を知らないかのように暴力的なことを軽やかで達者な言葉で撒き散らしているのは、そうされるのが嫌で嫌で仕方ないからなのか。そうしてもしなくても他人はコントロールできないので自分的リスクが減ると思うのであればそれは幻想だと思うのだけど別に自分的リスクさえ減ればいいのだからそれでいいのか。いや、よくない。本当にやめてほしい。自分の不安や衝動を他人を巻き込むことでどうにかしようとしないでほしい。それよりもみんなが同じ平和を願うことを信じて、すぐに管理や排斥を匂わせるようなことをしないで思考する努力はできないものだろうか。現時点で自分たちよりずっと無力な人たちがあれやこれや自分のペースで自分の人生を考え、希望を叶えられるような環境整備をどうして最優先にできないのか。人は誰でもいつどういう形で無力になりうるかわからないからこそ、現時点でもっている権力で社会を良い方向に、と奮闘するのが政治家ではなかったか。そのための税金ではないのか。なんでも現時点のことでしかないという現実を受け入れ難いがために自分ルールで他人を縛るのか?

意味がわからないことばかり。そんな気分だからか戦争に関する資料や映画ばかり見ていている。本も映画も毎年いろんな賞が話題になるわけだからそれが書かれたり撮られたりする文脈を生きている間に読んだり見たりすることが大事なのかもしれないが、私はそういうのに疎いし、そのとき注意が向いたとしてもすぐに忘れてしまう。日々が過ぎるのが私には早過ぎるのだ。ということで「ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男」をようやく見た。途中で「え?これ、ゲイリー・オールドマン?」となった。そっくりさんにしなくてもゲイリー・オールドマンのままやってほしかったなあ。だって史実だって全部史実じゃないわけでしょう?ダンケルクの描き方だって違うのでしょ?どこから描くかで変わるのは当然だし。あの妻役の女優さんもすごい素敵、と思って調べたら「フォー・ウェディング」の人か!クリスティン・スコット・トーマス。あの映画は良かったねえ。懐かしい。この前のヒトラーの映画でも思ったけど、日本の政治家はもっとまともな原稿を作って演説の練習もきちんとすべきだと思う。脅しばかりって感じがして本当に嫌だし怖い。迷いのあとがみえる言葉が聞きたい。

新宿住友ビル33階、平和祈念展示資料館(帰還者たちの記憶ミュージアム)にも寄った。新宿に行くのに少し遠回りすればオフィスから近いのもいい。ジャズピアニストの秋吉敏子が満州で過ごした子供時代の証言をしている映像も見ることができた。家に帰ったらソ連軍が略奪をしている最中だった、とかいう話を普通にしつつ、ピアノへの情熱の方がむしろ強く語られていた。先日、『黒川の女たち』をみたばかりだったし、朝ドラでも戦争が描かれたばかりだったから展示に対する想像力も以前よりは高まっていると思う。小さい子を連れたご家族や若い女性、あと私くらいの女性の来館者が多かった。夏休みは平和祈念展示資料館もしょうけい館(戦傷病者史料館)昭和館も色々イベントがあるらしいのでチェックしておきたい。秋吉敏子も本当にすごい人なので柳樂光隆さんの記事とかから音源も辿ってほしい。子供たちもたくさん訪れたらいいと思う。普通にやってはいけないことはやってはいけないということを当たり前にしておきたい。色々おかしすぎるよ。いけない、これでは。

今日は土曜日。夜はオンライン座談会。危機感も希望も共有したい。

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精神分析

ゴチャゴチャ金曜日

この時間だけの強いオレンジの光。風が気持ちいい。昨日は髪がボサボサになる風が吹いていたが久しぶりに晴れて花たちが早速水分を奪われている様子だった。新宿中央公園のセミは少しずつ増えている感じ。毎年こういう感じだったっけ、と毎年書いているっけ。今年も大合唱と呼ぶには音楽を感じない張り裂けそうな声の下を歩けるだろうか。

六本木ヒルズにあるルイーズ・ブルジョワの蜘蛛の写真を見かけてあの展覧会のことを思い出した。ブルジョワの作品はとても良かったんだけど展示の仕方はミスリードだったと思う。女性とか母性の文脈を出したくなるときほどそうではないものに注意を向けさせる工夫が必要だと私は思う。協会の学術大会のパネルを別の形で文章化したいからそのときにもそういうこと付け加えておこうかな。

昨日は久しぶりにAIとウィニコットについておしゃべりした。そうだ、心理療法フォーラムの討論原稿は当日はほとんど使わなかったし、文字化するときも2000字くらい削らなければだけどANDRÉ GREEN, « La mère morte » (1980), in Narcissisme de vie, narcissisme de mort (1983)とエゴン・シーレをつなげた一文は入れておこう。

昨日、来年発表したいと思っていた大会のペーパーの締切が9月末と知って色々無理な気がする、と思った。でも今年は学術大会の前もフォーラムの前も直前に一気に書けたから書けなくはないかな。通るかわからないけど。

きちんと予定を考えると頭がゴチャゴチャしてくる。ということで今朝はメモ的なことしか書かないが良い金曜日にしよう。

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Netflix 映像

見たり聞いたり。

今日は少し爽やか。窓を開け放している。向かいの家の屋根は濡れているけど雨のやみ間なのかしら。

この前、友達といろんな場所の話をしていて八景島シーパラダイスのことも出てきた。東京の心理職は非常勤かけもちが多いからいろんな土地にいく。それと子供たちを連れてとかプライベートな話が重なっていく。今は敷地内にホテルがあるのね。前からあったのかな。私がブルーフォールがめちゃくちゃ怖かったという話をしたら友達は知らなくてびっくり。もうないのか。私が言ったのは20年くらい前だからそりゃ変わるよね。J-WAVEでお馴染みだったDJ TAROがイルカショー盛り上げててびっくりした。当時はまだラジオの人たちの声をいっぱい知っていた。今だったら声優さんの声をいっぱい知っている、みたいな感じかも。

カレー沢薫原作のNHKドラマ『ひとりでしにたい』をやっとみはじめた。面白い。綾瀬はるかと松坂慶子のラップバトルが可愛くて可笑しかった。原作も30話まで無料公開中。

Netflix『オールド・ガード2』も見た。冒頭はすごく良かったけど途中から「あれ?あれれ?」となり「えー、まだ続く用に作られた2だったの?」と残念な気持ちになりました。だったらもっとアンディとクインの関係をロマンチックに書いてくれよー。今回から出ているユマ・サーマンとヘンリー・ゴールディングは立ち姿だけでかっこいいが、こちらももっと使い方あったでしょー、と素人の私は思った。が、しかし、きっとこれはこれで、なのだろう。続編だって作られたらきっと見てしまう。この前、トレーナーの先生にシャーリーズ・セロンの筋肉のかっこよさを話した。彼女は南アフリカの生まれで大変な体験をしてきた人なのね。知らなかった。すごい体験を生き抜いてきた人たちの話を聞くとその状況でよくここまで、と思う。ますますまともな政治家が選ばれますように、という思いを強くする。

さあ、今日も木曜日。鳥たちは元気そう。がんばりましょう。

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精神分析

本『世界は時間でできている』、映画『黒川の女たち』

小さな窓を開けても風を感じなかったのに南側の大きな窓を開けたら風が吹き込んできた。カーテンを変えたら風の通りがあまり良くなくなってしまったのが残念だが、こんな湿気を含んだ風はあまり通したくないから窓を閉めた。今日も変なお天気なのだろうか。昨日は台風と言われていた月曜日より変なお天気だった。まだ降っていない、と歩き出すと微かいに水滴を感じ、それが止むと少し陽射しも感じ、と思ったら突如土砂降り、など。みんな濡れたり乾いたり。雨はちょうどよく降ってほしい。貴重な田んぼが傷つかないように。ところで「土砂降り」ってどうして「土砂」っていうの。やっぱり「ドシャ」っていう音を土砂崩れとかのイメージと重ね合わせて漢字を当てたのかな、と思って検索したらやはりすでに尋ねている人がいた。そしてすでに回答もあった。さすがレファ協。

夜には地震もあった。福島、茨城は地震が多い。大きな地震が来ないといい。トカラ列島近海を震源とする地震も続いているらしい。島から避難されたみなさんはどうしておられるのだろう。

先日、平井靖史『世界は時間でできているーベルクソン時間哲学入門』を読んでいると書いた。今回、チェックしたかった箇所は第2章の「どうすれば時間は流れるのかー現在という窓」の中の特に「相互浸透と共時性」の箇所。特に、と書いたところで結局その前をしっかり読んでおかないとついていきにくいので大変だが自分がどういう価値観に基づいて臨床をやっているかを振り返るためにも苦労はしておきたい。とはいえ、この本は短期記憶も弱い私には大変ありがたいことに「このことはこの章のここに書いてあったよね」という感じですぐに復習できる書き方なので迷子になったら覚えている景色まで戻る、そしてまた出発、を繰り返せばいい。さて、なぜ今ここを読んでいるかといえば「今ここ」を再検討するためだった。感覚クオリアが織り込まれる流れはどうやって作られるのか、それを作り出している素材とは、という問いから議論は展開する。難しいけど本当に丁寧な本なのでベルクソンに少しでも興味がある人にはぜひおすすめしたい。

日本ペンクラブが緊急声明を出した。一部抜粋するが全文読んでほしい。

「事実とは異なる、根拠のないデマが叫ばれています。これらは言葉の暴力であり、差別を煽る行為です。こうしたデマと差別扇動が、実際に関東大震災時の朝鮮人虐殺等に繋がった歴史を私たちは決して忘れることはできません。」

本当にそうだ。

先日、黒川開拓団として満州に渡った女性たちが「みんなのために」強要されたソ連軍への性接待に関するドキュメンタリー映画『黒川の女たち』を見た。黒川開拓団については2022年に『ソ連兵へ差し出された娘たち』(平井美帆著、集英社)という本が第19回開高健ノンフィクション賞を受賞しているが、この本に対しては遺族会の方が問題点を指摘する声明文を出されている。

戦後70年が過ぎようとする2013年、佐藤ハルエさん(2024年1月に99歳で死去)と安江善子さん(2016年に91歳で死去)という女性が、性暴力にあったことを公の場で明かした。その後も語り部としての活動を続ける彼女たちを知った松原文枝監督がご本人とその周りの方々と密な関係を作りながら撮り、2019年にテレビ朝日で放送されたテレメンタリー「史実を刻む~語り継ぐ“戦争と性暴力”~」の劇場版が今回の映画らしい。

過酷すぎる体験を語ることに対してなにかいえるのは当事者だけだろうと思う。語ることまで強要されたら人には何も残らないような気がする。だからこそ彼女たちが語ることでなかったことにしないと決め、それを行動に移したことに聞き手としては最大限誠実でありたい。どうあることが誠実かはわからないとしてもとにかく耳を傾けることを積み重ねていく必要がある。簡単にデマを叫ぶ声に対してはそれはデマであるので受け入れないという姿勢を維持しつつ、言葉にできない体験をなんとか語ろうする声に対しては世代を超えて待ち続け、耳を傾け続ける必要がある。映画は私がみた回は若い人はほとんどいなかったように思う。年配の男性が少なくなかったことになんとなく安堵した。この映画でも印象に残ったのは遺族会会長の藤井宏之さん。彼自身は戦後生まれだが父親が開拓団のひとりだった。彼女たちのもとに実際に訪れ耳を傾け続けなんの説明もなく立てられた「乙女の碑」の横に事実を記した碑文を立てるために尽力される様子に胸打たれた。それぞれがそれぞれの立場で複雑な思いを抱えているのが実際だろうけど何を最優先すべきかということだけは慎重に考え取り組む必要がある。相手を判断するのではなく、自分と向き合うことの重要性もここにある。

さて、今日は水曜日。良い一日になりますように。

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精神分析 読書

天気、眠気、時間

静かな朝。昨晩は風が吹き荒れていたがどこか別の場所に移動したのだろう、とネットのウェザーニュースを見たら北海道に上陸?大丈夫だろうか。北海道上陸は2016年8月以来とのこと。被害が出ませんように。東京の昨日、私は朝少し雨に降られたが大したことはなくて安心した。東京みたいに狭い場所でもそれぞれ体験した空模様が時間によって全然違うだろうな、と思いながら過ごしていた。オフィス周りは風も不安定で空は晴れたり曇ったりだった。遠くには触りたくなる入道雲がもくもくと重なっていた。もっと近づきたかった。

それにしても毎日眠くて仕方ない。春なのか、と思うくらい眠いが、気づけばどの季節にも眠くて眠くてという日はたくさんある。朝、起きてしまわなければいいのだが、夜帰ってきたらもう何もしたくないので早朝に色々済ませておく必要がある。体調にあった生活、なんてものを一生懸命考える年齢になってしまった。周りの知恵をいただきつつ自分の生活を見直しつつというのはなんだか漢方の処方みたい。薬草園などにいくと生活の知恵というのはすごいものだなと思う。草木は毒にも薬にもなる。そういう発見を自分の身体でしてきた人たちはすごい。コロナが少し治まった頃、奈良県宇陀市大宇陀にある森野旧薬園へ行った。吉野葛で有名な小石川植物園と並ぶ日本最古の薬草園。いかにも日本最古という感じで街並みも素敵だった。そこの小さな資料館みたいなところで漢方の歴史が学べて大層面白かったのだが、今正確な情報がないからそれについて書きたいけど書けない。曖昧な記憶をクリアーにする漢方なんてないかな。

辻村深月の『この夏の星を見る』(角川文庫)を読み始めた。これも映画化されるらしい。コロナ禍の中高生が星を通じて交流するお話なんだろうな、ということは読み始めてすぐにわかる。当時の彼らを思うと今も胸がギュッと痛む。顔を顰めて読んでいたらしく「コロナだから?」と言われた。うん。大変だった。書き残すって本当に大切なこと。

アンドレ・グリーンのAprès-coup論文の内容は早くも忘れつつあるが、考えたいことの種はもらった。それは「時間」。無意識の無時間性をいう場合も含めて、精神分析が時間というものをどう考えてきたか。私たちが「今ここ」と使う場合のそれって何か、解像度を上げないと精神分析実践で生じていることが捉えられない、と思い、ベルクソンを開いた。正確には平井靖史さんが書いたベルクソン入門を開いた。これはとても明快な専門書。売れるわけだ。学問するならこうありたい。

世界は時間でできている──ベルクソン時間哲学入門

この本と連動している動画も見つけた。

23 June 29 平井靖史 (日本語)「クオリアを時間で作る ー ベルクソンのマルチ時間スケール戦略」

こういうのも無料で見られるのだからいい時代といえばいい時代。学問を大切にしない政治家を選んではいけないなと思う。普通に考えて奥行きのある思考ができない人にお金のこともお米(日々の糧)のことも任せてはいけないのでよく考えて投票しよう。どうぞご安全に。良いことあるといいね。

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精神分析、本

日曜日、アンドレ・グリーンを読んだり。

いつもの散歩道の木々はぐんぐん伸びる一方、頻繁に剪定をしてくれている地域の方を見かけるようになった。花の時期を追えてきられずに伸び続けていたらこの道は家々を押し退けて森になるのだろうか。我が家の一畳花壇も放っておくと山椒の木がどんどん伸びていってしまうので昨年きれいにしてもらった。自分で切る道具だと太刀打ちできない太さになってしまった。枝を切るというのはかなり力がいる作業で腰もやられる。なのに黙々とやってくださる人には頭が下がる。挨拶しかしていないけどお礼の気持ち。

休みの日が休みでなくても何か休みらしいことがしたい、といつも思っている。休みが普通に休みだったら一日中家でゴロゴロする可能性が高いので用事が入っているのは外に出るモチベーションにはなる。しかもこの時期は暑いので暑い時間は中にいて早朝と夜に出かけるというのも健康的、ということで、用事が終わって涼しくなってから紹介してもらったカフェに行った。「ここを紹介したかった」と地元の人がいうカフェは地元の比較的若い方の居場所という雰囲気もあり、お値段も高くなく(今って高すぎるでしょ)素敵な紅茶もたくさんあった。紅茶はいただかなかったけど別の機会にも行ってみよう。そういえば、私がお世話になってきた商店街からまた馴染みの店がなくなる。長いお付き合いだからこの前フラっと挨拶に行った。お互いにお礼を言い合った。寂しい。


昨日はアンドレ・グリーンの1982年の論文Après-coup, the archaicを読んだ。英訳された論文7本が納められたThe Frudian Matrix of André Greenの第一章に入っている。担当された方は原著から訳してくれていた。この本は前にも書いたがHoward B. Levineによるイントロダクションがとても参考になる。グリーンの書き方は非常に難解なので、その仕事全体を見渡せる地図がないと自分の少ない知識と体験に寄せて読みがち。わからないものほどわからないことに耐える力が必要で、わからないことを「なんかわかる」みたいにしてしまうならこんな難しい論文に取り組む必要は特になくてしっかり基礎がわかる論文を読んだ方がいいだろうから耐えながら読んでいる。私にとってアンドレ・グリーンを読む意味はフロイトとウィニコットを何度も読み込むためなので好きなことの探求という目的があるという意味では耐えやすい。

この本は完全な年代順ではないが目次はこんな感じ。結構幅があるが俯瞰するにはそれがいいのだと思う。

1. Aprés-Coup, The Archaic(1982)

2. The Double Limit(1982)

3. The Silence of the Psychoanalyst(1979)

4. The Capacity for Reverie and the Etiological Myth(1987)

5. Language Within The General Theory of Representation(1997)

6. The Psychoanalytic Frame: Its Internalization By The Analyst And Its Application In Practice(1997)

7. Dismembering the Countertransference. What We Have Gained and Lost With the Extension of the Countertransference(1997)

第1章、第2章はグリーンの頭にある病理は境界例なので
“Les états limites -Nouveau paradigme pour la psychanalyse?”=『フランス精神分析における境界性の問題 フロイトのメタサイコロジーの再考を通して』でアンドレ・グリーンの境界例概念を確認しながら読むのもいいと思う。フランス精神分析の診断基準は独特で、境界例についてもっとも貢献したがのグリーン。基盤はナルシシズム。

グリーンを読むときに一番面白いのはフロイトとの対話。「終わりのある分析と終わりのない分析」(1937)をもう一度読もう、と本を探したらなかった。オフィスにあるんだな。岩崎学術出版社から出ている『フロイト技法論集』と『フロイト症例論集2』はもうボロボロだから読み込んだご褒美にもう一冊ずつ買おうかな。PDF化するのがいいのだろうけどどうやればいいかよくわからないし、紙の方が使いやすいからなあ。うーん。

今日はのんびりしてしまった。台風どうなるのだろう。場所によって全然様子が違うだろうから読めないけどある程度の見通しを持って動ける程度でありますように。どうぞよい一日をお過ごしください。

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精神分析

おしゃべり、書き物

今朝も涼しい。昨日は一昨日の涼しさと比べると蒸し暑かったが少し遠回りするくらいの余裕はあった。

若い頃からの友達といろんなことを話した。子供たちとか残される世代のことを考えているのはみんな同じ。そういう年齢になった。変化のスピードが速い時代に、同じようなものを見て同じような体験をしてきた人たちとあれこれを十分に懐かしみながら親世代や身体の話をする。ずっと元気でいること、というのは運と部分の話、でも元気じゃなくても幸福はありうる、など。まあ、どうあってもこうやって助け合ってやっていきましょ、と明るく諦め、別の希望をつなぐ。

YouTubeを見るのに慣れていないのだが瀬尾夏美さんが永井玲衣さんと磯崎未菜さんとゆるゆるおしゃべり番組《帰ってきたら、リビングで。》を始めたということでそれを聴いてみた。作業しながらで画面を見ていないからポッドキャスト聴いてるみたいだけど映像あった方が聞きやすい人も多いものね。日本のいろんなところへでかけて繋がっていく彼らのおしゃべりは旅好きの私にも響く。旅は歴史や人を知ることでもあるから楽しい。

夏休みが楽しみ。それまでの日曜は大体勉強系だから寝てしまわないようにしないと。先週、あっつい京都で汗だくになって植物園に行ったり博物館に行ったときにふと「私はこんな身体使って汗まみれなまま登壇するのか。シンポジストの先生方のお話を聞きながら眠ってしまったらどうしよう」と気づいたときにはちょっと慌てた。電車に乗り間違えたり、色々間違って休む間もなかったのでなおさら心配になった。普通に不真面目な学会参加になってしまったが精力的に遊んだおかげか先生方のお話は元気なまま楽しく聞けた。自分の発表は前に書いた通り何を言っているかよくわからない感じになったけど無事に新幹線に間に合ったことで終わりよければすべてよしとなった。聴衆の方には申し訳なかったがこれは多分会誌に文章として載せるやつだと思うからそっちを読んでね、いつ出るのかわからないけど。学会誌とかそういう類に書いたまま年単位で掲載待ちのものたちがあるけどそういうのはもうすごく昔のものな感じがする。経験積めば積むほどただ懐かしむみたいな内容になってしまうから新鮮なうちに使ってもらえるところに書いた方がいいなと思う。

日本精神分析協会のジャーナルは書いてから掲載まで8ヶ月でスムーズだった。英語でのエッセイだけど、協会と学会の依存関係やアムステルダムショックなど日本の精神分析協会が歴史から学べることをBeing Polyphonicという題で書いた。問題が生じたらそこから学ぶ必要がある。歴史はきっと教えてくれる。原稿のもとは昨年シドニーで発表したものだけど、能登のこと、中村哲さんのことを書いておきたかったので文章にしてよかったし載せてもらえてよかった。英語チェックもプロにしてもらっているので読みやすいと思うのでよければぜひ。e-journal『The Journal of the Japan Psychoanalytic Society. vol.7』です。

さあ、今日も一日。良いことありますように。

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イベント 趣味

彼女たちのアボリジナル・アート オーストラリア現代美術@アーティゾン美術館

太陽が向こうの屋根をオレンジにしている。ほんと短時間のオレンジ。反町隆史も私と同じくらいの時間に起きてしまうらしく、このほんの短い朝のひとときを楽しむのが好き、みたいなことを言っていた。すごくわかる!と思った。同世代。自然と早起きになりますよね、とも思った。ところで、昨日は寒いくらいだった。玄関を出てびっくり。駅に着いて夏用の薄いパーカーを羽織った。急いで歩いても暑くならないなんて何日ぶり。最近、肌が汗にすっかり弱くなってしまったのでとても助かった。今朝もまだエアコンいらず。体力奪われないっていい。美味しい温室みかんをもらったから今朝はそれで喉を潤そう。

東京、京橋駅近くのアーティゾン美術館で日本初のアボリジナル女性作家たちによる展覧会が開かれている。

彼女たちのアボリジナル・アート オーストラリア現代美術

学生は無料なので(要ウェブ予約)ぜひ行ってほしい。なんとも言葉にならない悲しい歴史が重たいが、全体としてはすごくポジティブなエネルギーをもらえる展覧会だった。毎度のことながらもっともっと時間がほしかった。異色だったのはジャンピ・デザート・ウィーヴァーズのアニメーション。砂漠で暮らす語り部の声に合わせて自然素材の人や犬やロバや植物が日常を暮らす。特別な物語があるわけではなくただ日常をアニメーションにすることの面白さと変化に対する穏やかな態度。彼女たちは、中央砂漠から西砂漠地域のコミュニティに属する女性アーティストたちによるコレクティブだという。面白かったなあ。

それにしても京橋は外のベンチが多い。屋根があるところにも多い。普段馴染みがなく、東京駅や大手町に用事があるときになんとなく歩いていたら着くのが京橋の明治屋というイメージだが面白い街なんだと思う。当然、歴史もあるわけだし。アーティゾン美術館は中はいいんだけど辿り着くまでが長い。いや、長いのはいいのだけどロッカーとかお手洗いの場所がバラバラしているのがなんだかなという感じがする。ロッカーが百円戻ってくる形式ではなく普通に鍵だけで使えるのはいい。今回の展示は空間の使い方もとっても良かったと思うな。やっぱりもっと時間ほしかったなあ。コレクション見られなかったし。残念。またの機会を楽しみにしよう。

今日は土曜日。明日は日曜日。色々忘れないようにしないと。いい一日にしていこう。

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精神分析 読書

協力

昨日の雷はすごかった。雨が弱まったあともサイレンが次々に通り過ぎていくのが聞こえた。何事もなかったかのような夜空の下を歩きながら過ぎてしまっても痕跡は残るはず、と思った。電車がいつもよりずっと混んでるとか、いつも見かけない人が歩いているとか(雨宿りしてたんだろうなあとか)。

昨日、九鬼周造の「小唄のレコード」のことを書いたけど、そこに

「男がつい口に出して言わないことを林さんが正直に語ってくれたのだ」

という文章がある。ここがあるからこの話はなんとなくわかるものになる。が、しかし、と私は思う。私は久鬼ファンなのでこの情感を否定したくはないが、男のロマンチズムだなあと思う。林芙美子のことは知っていても林芙美子が書いてきた女たちのことは知っているだろうか。思いを馳せたことはあるだろうか、そういう心の世界だけではなく、そういう現実があることを。

いろんな本を読んだり映画をみたりしていると女に対する扱いのひどさに唖然とするが、それが女にとっても当たり前になっていることは現実だから唖然としない。満員電車での扱い、高い場所から大きな声を出されること、単なるモノ扱いを名言bot使用して誤魔化されること、それを当たり前としない女がどんどん孤独になりながらも戦い続けられるのは本や映画の世界だけで、現実では裁判に負けたり、身体を壊したり、仕事を失ったりしていること。

女がいくらなにをいっても通用しない世界はこれからもきっと続く。なのに女の代わりに当たり前のことを男社会で普通に表明してくれる男性の少なさときたら。もちろんそうしてくれる人はいる。具体的に思い浮かぶ。ただ、少ない。代わりに何かする以前に深刻な問題として耳を傾ける人が少ない。

まず自分が欲しいものがもらえなくては、というのはわからないでもない。与えられていないものを求め続けたくなる気持ちもわからないでもない。それが得られないとわかるまで求め続けることに耐えてくれる相手が必要なのもわからないではない。でも同じように、いや、それ以上に与えられていない環境に生きてきたのに、そういう要求をぶつけられ、それを与えることはできないという言葉を言えない、あるいは言っても言っても何かと理由をつけてそれができないおまえが悪いと言われ続ける、そういう立場を多くの女が担ってきて、だいぶおかしな関係が男女を支配しているという現実をただただ知って、「男だって同じだよ」「それができる女もいるんだよ」と簡単に男側に立つことをせず(身体の大きさが違うだけでもものすごく違う、どう考えたって就業率とか全然違うという現実がなくなるまでは)、それはおかしいよね、怖かったよね、言いにくいよね、自分が言ってみるよ、どう言ったら伝わるかな、と協力してくれる人は増えないものか。

多くの女性の苦しみを聞いてきた。同じようなひどい話をたくさん聞いてきた。同じようなのに絶対に何かに振り分けて考えることができない話に「ひどいですね」と私が本気で呟くとき、彼らがひどくびっくりすることがある。そんなふうに思えてなかった、そういう思いで話をしていた自分に気づいていなかった、当たり前だと思っていた、そう思ってもいいのか・・・こういう事態がどれだけ悲しく切ないことか伝わるだろうか。

誰かを勝手にカテゴライズして排除する動きに敏感でありたい。誰もが持っている不快なものをどっかにやってしまいたい心を簡単に知らない人にも向けることなんてしてはいけないに決まってる。自分の不快さも自分に向けられる不快さももっと個別に思考しそれぞれが引き受けていくためにも協力してくれる他者を必要とする。運動以前に生活において。

今朝は少し涼しい。いい一日にしていこう。

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イベント 読書

江戸。べらぼう、浮世絵、九鬼周造など。

キッチンに立ったら少し昨日の匂いがこもっていた。小さな窓と大きな窓の両方を開けた。大きな窓からは風を感じた。今朝はあまり気温が高くないみたい。iphoneの天気予報を見たら15時以降、傘と雷マーク。ひどくならないといいけど。

昨晩の月もきれいだった。オフィスからも帰り道もずっときれいだった。今年の蝉が少しずつ鳴き始めた。毎年一気に鳴き始めるイメージだったけど違ったか。6月に行った入笠山ではヒグラシが鳴いていた。

昨日は森鴎外の忌日だったらしい。鴎外は島根県津和野町生まれだが、私は旧宅にも記念館にも行った覚えがない。一番行ってそうなのに。津和野はとっても素敵なところで宿も卓球ができて楽しかったり、隠れキリシタンの悲しい歴史がわかる印象的な場所もあったりよく覚えているはずの街なのに何故だろう。安野光雅美術館はお正月で閉館していて西周旧居は工事をしていたことは覚えているが。まあいいか。文京区の森鴎外記念館に行って偲ぼう。

今NHKでやっている大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」の影響で江戸時代への興味が高まっている。まずは平賀源内にやられたいうのもあるが、蔦重を魅了し魅了される役者陣にも毎回笑わされ泣かされている。府中市美術館「春の江戸絵画まつり 司馬江漢と亜欧堂田善 かっこいい油絵」でも源内は活躍していた。江戸文化で私が身近といえるのは浮世絵師くらいだが彼らの背景を知るとますます色々な角度から知りたくなる。浮世絵はあらゆる角度からじっくりみるのが楽しい。蔦重が見出した喜多川歌麿、東洲斎写楽や北斎たちの展覧会も各地で開催されている様子。先日、ミロ展に行く目的で上野に行き、上野の森美術館で「五大浮世絵師展」をやっていたことに気付いたが時すでに遅し。今からなら慶應義塾ミュージアム・コモンズの「夢みる!歌麿、謎めく?写楽ー江戸のセンセーション」が8月6日(水)まで。あとは7月15日(火)から静岡市東海道広重美術館で「流行の仕掛人~蔦屋重三郎と版元の仕事~」が始まる。由比駅が最寄りの美術館なのか。街道歩きをしている人にはお馴染みなのかしら、桜えびの由比宿。9月15日(月)までだから夏休みがてら行ってもいいかも。桜えびの季節ではないけど。静岡は新幹線を使えば東京からちょうど1時間。駅周りから商店街もビルも充実。歩いて行けそうな距離に緑が広がっているのもバランスがいい。

北斎は、長く仕事させてもらっている墨田区のすみだ北斎美術館があるからなんとなく安心、というかいつでも会えるような気がしているが、今特にみたいのは春画。これぞ江戸の町人文化という感じがする。2023年のドキュメンタリー映画「春の画 SUNGA」もNetflixでみた。橋本麻里、朝吹真理子がでていて嬉しいし、横尾忠則、会田誠のコメントもよかった。江戸に惹かれるのは会田誠の作品から得てきたものが大きかったからかもしれない。遊びと迫力。生と性。いつも会場で制作をしているイメージだがたまたま私が行ったときが公開制作中だったのかもしれない。鹿児島県霧島アートの森での展覧会に行ったのは2014年か。もっと前な気がする。会田誠は春画を外圧と関係ない江戸庶民の伸びやかな遊び心、スケベ心として評価している様子だった。性と生を反射的に拒絶することなく、日常の営みとして、一級の技術をもった絵師たちが描いたことも日本のエロティックアートの特殊性である、というようなこともこの映画でいわれていたと思う。本当にそうだ。才能と技術を惜しみなく使って描かれた春画の驚くべき細やかさと大胆な構図。どんだけ真剣に性行為と向き合ってんだ。にしてもこの時代の春画は明るくていい。開国に向けて心がざわめき出す以前、人の心にもこれらで笑い合える余裕があった。そういえば今日、浅草はほおずき市か。江戸時代のほおずき市もさぞかし粋だっただろう。子どもの頃、その可愛さに打ち抜かれたほおずき。浅草寺、ほおずき市、とくれば雷も悪くないってことか。浮世絵で雷といえば色々あるが、歌川国貞の「夕立景」は生き生きしていて面白い。

「要するに、「いき」な色とはいわば華やかな体験に伴う消極的残像である。「いき」は過去を擁して未来に生きている。個人的または社会的体験に基づいた冷やかな知見が可能性としての「いき」を支配している。」

江戸文化といえば九鬼周造『「いき」の構造』(岩波書店)ということで引用してみた。九鬼の色彩論もまた魅力的。先日のフォーラムでゲーテとパウル・クレーの色彩論には少し言及したがやっぱり私は日本のことをもっと知らないといけないな。せっかく九鬼みたいな人が日本にいたのだから。というか九鬼は東京、西洋、京都という移動を経ているからあれが書けたというのもある。この前『べらぼう』で西行の

願はくは 花の下にて 春死なむ その如月の 望月の頃

が使われたシーンはとても素敵だった。九鬼は南禅寺のそばに住んでいてこの桜の下も散歩していたらしい。というかこの桜はどこにあるのだ?私も行ってみたい。

ちなみに九鬼周造は青空文庫でも読めるが『偶然性の問題』(1935年)は入っていないと思う。青空文庫で読むなら短いのがおすすめ。「小唄のレコード」とか。林芙美子が九鬼の家にきた時の話。いいなあ、みんな繋がってる。いいなあ、は私は林芙美子が好きだから。みんな大変な時代を生きていたけどイキだった。昨今の政治家たちに全く見当たらぬこの心性と土居健郎の「甘え」についてぼんやり考えていたのが昨日。今日も生き生き過ごしたい。

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映像 精神分析 読書

ブルーナー自伝、NHKスペシャル。

昨日の月はくっきり明るかった。夜、何もつけないと寝苦しいけど、帰り道は暑くない。夜は外の方が気温が低いってことか。

ウィニコットの1954年の論文「精神分析設定内での退行のメタサイコロジカルで臨床的な側面」を館先生が『ウィニコットの臨床』の中で丁寧に読解しているよ、ということを昨日書いたと思うけどこの論文は『小児医学から精神分析へ ウィニコット臨床論文集』の第19章に入っている。監訳は北山修先生、この章の翻訳は岡野憲一郎先生。そういえば、北山先生からバサック先生との共著を送っていただいた。感謝。

そうそう、それでウィニコットを読み直そうとしたら別の本が目に入ってしまい、またそっちをパラパラしてしまった。一度読んだことがある本はパラパラで行きたいとこに辿り着けるが中身はぼんやりしか覚えていないのできちんと読むにはすぐ時間切れ。

心を探して:ブルーナー自伝』(田中一彦訳、みすず書房、1993年)。Jerome Seymour Brunerは1915年生まれ、2016年没。101歳ということだね。原著はIn Search of Mind: Essays in Autobiography. (1983)。ということは70歳になる前に書かれた自伝ということ。このあと30年間も生きるなんて思わなかったのかもしれない。私が大学生の頃によく読んだ心理学者ばかり出てくる自伝。みなさん、交流があったのだねえ。

この時代の多くの心理学者はそうかもしれないけどブルーナーも精神分析というかフロイトを常に目の端に入れてる。精神分析はまだ歴史が浅いとはいえ、今でも参照されるのはフロイト、クライン、ウィニコット、ラカンだよね、外側からだと。とはいえ、ブルーナーは精神分析の体験があるので「分析では、いや私の分析では」と「私の」に傍点をふって強調するくらい中に入ったことのある人。フロイトをよく読んでいるなあ、と思う記述もあるし、フロイトのことは精神分析より好きみたい。

ブルーナーの最初の分析家はエドワード・ビブリング(Edward Bibring、1894-1959)。エリクソンのスーパーヴァイザーだったりした分析家だ。ウィーン、ロンドンとフロイトと行動を共にして1941年からBoston Psychoanalytic Society and Instituteで訓練分析家を務めている。ブルーナーは1953年の秋、コモンウェルス基金の研究奨励金で精神分析を受け始めた。彼らは同じユダヤ人として親しみのある関係だったようだが、ブルーナーは「私は、分析が「行われた」とは思わない。」と書いている。

ビブリングは長くパーキンソン病を患っており、亡くなってしまったため、ブルーナーは二人目の分析家を必要とした。彼の分析体験に関する記述を少し引用する。

「それは、精神分析が私の流儀ではないということだったのか。すべてそのせいということはありえなかった。というのも数年後、私が心底援助を求めていたとき、つまりごくあたりまえの関係がこわれて私の微慢で強情なプライドに耐えがたい苦痛を残した離婚の直後、私は数か月間「本気の」分析を、ある別の人(ビブリングはその後、彼の病気の合併症で亡くなっていた)から受け、苦痛の軽減と洞察という点で大きな恩恵にあずかったのだから。あの最初の失敗には、何かもっと深層のものがあったのだと思う。」

「しかし、この結果をもたらしたのは精神分析自体だったろうか。そこには何か別の、もっとやむにやまれぬものがあったかもしれない。ビブリングの病気は、私の父の病気と死の再現になる危険を、あまりにも孕んでいた。」

など、ブルーナーは自分の精神分析体験を振り返り「私のように知的に事を処理する人間の場合、充分ではないのかもしれない」と書いている。この場合の「知的」は「頭ではわかるんだけど」に留まってしまう、ということかもしれない。ちなみにボストン精神分析家研究所でのセミナーは分析家の友達ができたこと以外は大層手応えのないものだったようである。

深夜にNHKスペシャル「K2 未踏のライン 平出和也と中島健郎の軌跡」を見始めたがいたたまれなくなって最後まで見られなかった。また後日見るつもりだけど辛い。平出和也さんは田中陽希の「グレートトラバース」で知っていた。この番組は句友の番組でもあるので身近な人たちの悲しみを思えば思うほど見ていて辛かった。私は山育ちで登山でもスキーでも親しんできたが、山は本当に怖いということもどこかで植え付けられている。そういう恐れを超えてワクワクに従い、磨き上げた技でさらなる高みにチャレンジしたお二人には尊敬以外ない。お二人が滑落死されてからもう一年。改めてご冥福をお祈りしたい。

今日は水曜日。失敗は最低限にとどめてがんばりたい。

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Netflix 映像 映画 精神分析、本

Netflix『リディア・ポエットの法律』、館直彦『ウィニコットの臨床』

今朝も風がない。そういえば昨日は急に大粒の雨のが降ったり、何事もなかったかのように晴れたり変なお天気だった。日本の気候は変わってしまったのだろう、など話した。同じ日本でもすでに様々ということもいろんな土地に行くと知ることではあるけれど。奄美大島で出会ったスコールを思い出した。地元の人も呆れたように空を見ていた。

コロナ禍にNetflixに入会しなんでもかんでもみていたことも思い出になりつつある。本当はこの時期に起きたことをもっと詳細に語り合った方がいいと思うが・・・。私はコロナ禍でもそれほど変わらない生活を送れていたが、配信で映像を見るのが当たり前になったのはその頃からだ。といってもNetflix以外に手を広げることもなく(間違って入ってしまったAmazonプライムをもったいないから少し使ったことはある。あの誘導システムやめてほしい。)ちょっとした時間に断続的にみているものも多い。映画は断続的にみても面白度が下がるのでドラマシリーズを見ることが多い。あとアニメ。最近だと『リディア・ポエットの法律』という実話ベースの作品が面白かった。1885年生まれのイタリア人初の女性弁護士がモデル。『虎に翼」みたいでしょ。舞台はトリノ。ひどい話だが、リディアは女であるという理由で弁護士資格を剥奪される。冒頭からなんなんこいつらと怒りが湧くが、諦めないリディアが兄の助手として活躍しつつ自分の権利も取り戻していくような話なのだと思う。シーズン2まであるとのことだがまだ1の途中。兄の助手としてというあたりはエノーラ・ホームズっぽい。実話では弁護士資格を取り戻したのはなんと60歳を過ぎてからとのこと。ひどい。よく諦めずに戦ってくれた。

それにしても映像技術の進歩の速さよ。エジソン、リュミエール兄弟、情景からストーリー、トーキーからカラー、特殊効果、CG、SFXっていうのかな、あとVFX、ゴジラとかの特撮というのは特殊効果を使った撮影、という意味でいいのかな。私みたいな高校時代の写真部、つまり静止画像で満足している人でもこれらはすでに自然に触れていた技術だった。私はVHS時代の子どもだった。

ちなみに『映画が恋したフロイト』の著者、岡田温司先生は1954年生まれ。学生のときにリアルタイムでみたものをDVDで見直してきた世代。今なら配信でご覧になっていると思う。なんにしてもデジタル技術の発達に遅れることなく論考を発表しつづける情熱がすごい。

先週末の精神分析的心理療法フォーラムのシンポジウムでは舘直彦先生ともご一緒させていただいた。数年前に精神分析学会の教育研修セミナーで討論を務めたときにはじめてお会いして以来。今回、会場で「はじめまして」のご挨拶をする先生方ばかりとご一緒だったので少しでも知っているお顔があって安心した。もっともウィニコットの仕事をわかりやすく咀嚼してご著書を出されてきた館先生のお仕事は以前から身近だった。

シンポジウムでお会いしたときに2023年に出版されたきれいな水色の本『ウィニコットの臨床 症例との対話から生まれる「あること」の精神分析』をいただいた。2013年に出版された赤い本『ウィニコットを学ぶ 対話することと創造すること』とセットで持っておきたい一冊である。私は水色の本もすでに読んでいたけど著者の先生からいただける本は特別なのでありがたく頂戴した。

私がこの本で一番いいと思っているのは「第6章 Winnicottの治療論」。取り上げられている論文が「精神分析的設定内での退行のメタサイコロジカルで臨床的な側面(1954)」なのがいい。詳しくはまた今度。今日もがんばりましょう。

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散歩 精神分析、本

築地、岡田温司『映画が恋したフロイト』

朝は目が見えにくい。なんでだろう。夜の間、リラックスしすぎてピント合わせる緊張感を取り戻すのに時間がかかるとか。わからん。不便だ。朝が一番捗るのに。

まだあまり暑くない。エアコンもまだつけなくて平気。冷たい麦茶で喉を潤す。

昨日は仕事が午前中だけだったので用事がてら築地市場へ寄ってみた。すごく久しぶり。今は築地は場外市場しかなく場内市場の跡地は大掛かりな再開発が計画されている。どうしたいんだ、東京。浜離宮の生態系に影響したりしないのだろうか。築地は場内の魚がし横丁に数回行ったことがあるがそれも場内市場が豊洲に移るずっと前のこと。場外は2度目かも。前は連れていってもらったのでいいものを食べたが今回は普通に歩いて抜けただけ。小道を覗くといろんな店がぎっしり。こんな感じだったっけ。外国の人がいっぱい。ほとんどの店が英語の案内を出していた。日曜は卸売市場が休みだからいろんな店がまとまって入っているビルは閉まっていた。ここなら一人でも気楽に入れそうだから今度きてみたい。オフィスからなら京王新線→大江戸線利用。生ものを出している店はこの気温で大変だろうなあと思ったけどずっと前からやってきたことだから大丈夫かどうかは感覚で判断できるのだろう。買って帰る人もそういうとこ気をつけるの上手なんだろうなあ。私も保冷バッグとか一応使ってるけどできるだけ無難にと思うからこの時期は生ものはほとんど買わない。築地場外市場の場合、そこで食べるのを楽しみにしている人が多いのだろうし。昨日は日差しが強かったが日傘をさすのも憚られる混雑が遠くからでもわかった。散策してみようと小道を覗いてみたけど人混みに気圧されてあっさり表通り(?)に退散。スッキリした東銀座の方へ向かってしまったが、せっかくきたのにこれではいかん、と戻り、小道探索。歌人の大森静佳さんが朝日新聞デジタルに寄せていた大阪・関西万博をめぐる短歌とエッセーを思い出し、私も気持ちだけはあんなふうに観光地と触れたいと思い直し戻るとさっきとは別の景色に見えた。この前、知らない土地を急ぎ足で歩いているときも帰りはきっとこの景色は違うふうに見えるからランドマークを覚えておかないと迷うかも、と一本道なのに心配したのを思い出す。

いろんな国の人。いろんな食べ物。いろんな言葉。市場は休みでもここは活気があった。築地本願寺にもはじめて行った。荻窪の荻外荘を設計した伊東忠太(1867-1954)の設計。荻外荘は入澤達吉の別邸だったが、今では近衞文麿が自決した書斎が有名だろう。場所の違いがあるとはいえ、同じ人が築地本願寺の図案も書いているとは。築地場外市場とはまるで真逆のどーんと広い外観にも驚いたがそのエキゾチックな雰囲気にもあんぐりした。いろんなところに動物がいるのには和んだ。内部も天井が高くすごく広い。法要をライブ配信するセットも整っていて寺の世界も色々だな、と思った。寺婚のパンフレットもあった。別の建物にはカフェやショップもあって昨日はたくさんの人が並んでいた。おいしそうだった。小さなショップには数珠とか築地本願寺と書かれたお菓子とかが売っていた。大きな寺にはこういうのあるものなのね。そこを通り抜けるとすぐ地下鉄日比谷線築地駅。納骨堂も駅直結なのか、とびっくりした。こういうのって東京メトロと浄土真宗が話し合ってそうするものなのかな。正門の近くには大きな鉢に蓮が伸びていて一輪だけ咲いていた。連日見られたねえ、と思いながら写真を撮ろうとしたけど一輪しか咲いていないからじっくり写真を撮っている人がいて私は適当にシャッターを切った。

岡田温司先生からいただいた『映画が恋したフロイト』(人文書院)を読み始めた。フロイトがハリウッドからのオファーを断った話は有名だけどこの本もそこから始まっている。これまでの映画の本は映画タイトルの索引(膨大でびっくりする)があったと思うのだけどこの本にそれはない。内容はいつも通りすごく読みやすくて面白い。映画に詳しくなくても、精神分析に詳しくなくてもエンタメとして読めると思う。岡田先生はものすごく多作だが、この本でも最近話題になったばかりの本や映画も引用されていて移り変わりの早い時代に過去を繋ぎ止めておく力がすごい。精神分析家としても人文学の専門家がこういう仕事をしてくださることは本当にありがたいし、写真好きとしても映像の歴史と精神分析が重ねられているだけで楽しい。特に第1章は週末の精神分析的心理療法フォーラムでの私たちのシンポジウムでお話しされたことと重なっているのでご参加された方にはぜひ読んでほしい。映画でもこういうことが言えるのか、って楽しめると思う。チャップリンの作品をめぐるフロイト先生の態度もコンパクトに書かれているのにすごく面白い。精神分析理論は単独だと難しく感じるかもしれないけれどフロイトが日常生活における失敗から色々言っているように生活と密着したものだし、夢と映像って極めて関係が近い。今、オンラインで動くフロイトをみられるのも映像技術があってこそ。なんでもかんでも映像になる現代にこのワクワクを取り戻すのは難しいかもしれないけれどこういう本を読むことによってそれは可能。少し遡れば感じることのできるワクワクをみなさんもぜひ。

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精神分析

植物園、シンポジウム

あまりうまく眠れなかったが起きるたびにスッキリしているうちにいつもの早朝になったので起きた。

昨日は関西に日帰りで行ってきた。帰りの新幹線からも月がきれいだった。行きの富士山を楽しみにしていたのにまた寝てしまった。京都駅で下車。何年ぶりだろう。そんなに久しぶりでもないが全然慣れることもない。学会でいつも使う国際会館と京都府立植物園がこんなに近いとは思っていなかった。これからは学会が京都であるたびに寄ろう。朝10時からの園内ガイドに参加したかったな。知らなかった。でも竹林エリアにあるというアカダマキヌガサタケを見つけることはできた。ひとりでキョロキョロしていたら職員さん(多分。植物園のTシャツ着てたし。)たちの「あった、あそこ。今年はどうこう」という声が聞こえた。常連さんが今年のアカダマキヌガサタケは少ないだかもう終わりだか言っていた、という話をしていた。植物園には常連さんが多いからな。私の友達は植物園ではないけど植物いっぱいで有名な公園の常連で職員ではないのにものすごく草花に詳しい別の常連さんと親しくなっていた。植物のようにつながっていってる。アカダマキヌガサタケ、一人じゃ絶対に見つけられなかったな。レースのスカートみたいのをはいたキノコ。

森を歩いていたら紫陽花の小道の向こうにハス池が見えた。近づくと白やピンクの蓮がいっぱい。感激。すごくきれいだった。

シンポジウムはとても楽しかった。私は討論だったけど時間が足りなかったので用意した原稿をもとに半分の時間でほぼアドリで喋った。よって自分でも何を言っているかよくわからなくなった。が、まあいいのだ。こういうのは一生懸命勉強して一生懸命言葉にしてみる人たちの集まりを見ることも大事だから。わかるわからないではなく見てるだけで触発された人たちもいたみたいよ。そういう話で盛り上がっているそばにいたから心の中で頷いていた。たしかに私も精神分析の勉強をはじめて数年間の盛り上がりはそういう感じだった。知的興奮と自分はこれからどうするのかなとなるきっかけを得るような。私はながーい時間をかけて精神分析家になったけどながーい時間をかけて精神分析を受け始めたり、大学生になったり、何かを諦めたり、何かを失ったり、時間がながーくあれば色々ある。そういうことが我が身に生じないとその実感はあまりないかもしれないけれど。なんでも大まじめに楽しめたらいいですね。と私が言っても説得力に欠けるかもしれないけど私は学問に関しては大真面目だと思うな。がんばろ。

それにしても知らない土地にいくと色々ハプニングがあるものですね。駅員さんに聞いて何度も確認して乗ったはずの電車のアナウンスに「あれ?」と思っって隣の人に「これは各駅停車ですよね」と聞いたら、最初聞き返されてもう一度言ったら「大丈夫ですよー」とすごくやわらかい感じで言われた。電車のドアがしまった。すぐに今の会話を反芻した。違和感。大丈夫じゃなさそう。「ああそうか。こっちでは多分各駅停車って言わないんだ。普段使わないから快速電車って言ったと受け取ったんだ、きっと」と思った。案の定、その電車は私が降りるはずの駅を超えていった。多分「普通列車」っていうんだよね、こっち。「か」と言ったら「快速」とかなのではないか。わからないけど電車は遅れていたし「普通」ってかいてあるのに乗ったつもりだったのにな。会場にも少し早めに向かったつもりだったけど、私にはもっと時間が必要だった。バスがあると言われていたのでそれを使おうと時効表を見たら土日は1時間に2本。これでは間に合わない・・・とか色々あった。「つもり」って本当にあてにならない。注意力も想像力も足りなかった。しかし、私には体力がある、ということでなんとか乗り切った。植物園満喫して烏丸御池で大急ぎで展示見てとかしてたからな。本当は東京でみそびれた美術展に行こうかと思ったけど混んでるだろうしなあ、どうしようかなあ、そうだ、植物園!と思いついてからはウキウキだった。浮かれ過ぎたか。汗だくで真面目な会に出ることになってしまったが眠くもならず先生方のお話はとっても面白く聞いた。帰り道も余裕持ちたかったけど深夜になると翌日がきついし、それでも少し余裕を持って決めた時間のずだったが、帰りも会場から駅までの時間を計算していなかったのでご挨拶もそこそこに出てくることになってしまった。電車の遅延も乗り越えて間に合って本当に安心したけど。帰りの電車はウトウトしてばかりの行きとは全然違って仕事がはかどった。よく動いてよく学んだ。オンラインで聞いてくれていた友人たちからメッセージももらい励みになった。読むはずだった原稿も送った。岡田温司先生の最新のご著書と館先生の水色の本もいただいてとても嬉しかった。PCや持っていく必要なかった。リュックには出すのを忘れていたというかここにいたのか、という本が入っていてすでに重かったがルンルンで帰った。筋力も戻していきたいからガッツリ背負って坂道もぐんぐん歩いた。夜は涼しかったしね。

今日も一仕事。がんばりましょう。

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Netflix イベント 写真 散歩

写真とか街とか。

雨止んでる。昨晩、オフィスを出たら結構降っていてびっくり。慌てて折りたたみ傘を出した。今日のお天気はどうなのかしら。さっき窓を開けたらもう暑かった。

先日、「被曝80年企画展 ヒロシマ1945」をみに東京都写真美術館にいった。受付の横のチラシ置き場に「おとなり美術館散歩」というマップがあった。おなじみ太田垣晴子さんのイラスト。かわいい。手に取ってみると東京都写真美術館と東京都庭園美術館までのMAPが見どころつきで書かれていた。1.8km、徒歩約30分とのこと。この二つの美術館を同日に行ったことがなかったし、目黒区と港区でお隣というか、そういえば庭園美術館は目黒駅から行くもんね。わざわざ白金台に出ない。写真美術館がある恵比寿駅でも目黒寄りだしたしかに近い。そうか。私は恵比寿ー渋谷間は結構歩いているし東京は狭いですね。

この前、久しぶりに渋谷駅から桜丘町、代官山を通って恵比寿までいった。Shibuya Sakura Stageがすっかりオープンしていた。朝早かったから通り抜ける人しかみなかったけど私が慣れ親しんだ景色はなくなった。少しずつ変わっていくのを見ていたけど一年ぶりくらい。駅からの歩道橋もサクラステージに続いていた。渋谷駅前の再開発であおい書店が閉店したのが2018年。その前はJTBだったか。ながーく親しんだ街だから変な感じ。しょっちゅういっていた定食屋もなくなった。一方、少し駅から離れればなにも変わっていないな、とも感じる。街を全部変えるなんてやりたくても無理だもんね。破壊はいくらでもできたとしても、と思ったのはNetflixでみた『ヒトラーとナチス』を思い出したから。ガザだってあれだけの殺戮が行われているのにガザはある。ありつづけてほしい。死なないでほしい。というか殺すなよ。東京都写真美術館でみた「被曝80年企画展 ヒロシマ1945」にも言葉を失った。感情も失いそうになった。静かに、きちんと怒りが伝わってくる展示だった。広島や長崎に行けなくても東京が近い人はいってみたらどうだろう。同時にやっている「ルイジ・ギッリ 終わらない風景」もすごくいい。絵画と写真はそう簡単に分けられるものではないということがよくわかる。モランディのアトリエの写真はちょっとびっくりした。モランディの絵そのものだ、と。あと光とか雪とか自然が作る在不在にも。楽しみにしていた展示だったので駆け足だったけど行ってよかった。あとミロ展も大急ぎで行ってきた。これももっとゆっくりみたかったけど行けただけよかった。晩年の作品をみたかったので初期の作品はかなりざっとしか見ていないが黒の使い方が最初から印象的。スペイン内戦の頃の俳句的な表現もあり非常に興味深かった。芸術家は何があっても作り続けていた。ミロ展はまたやってくれるように思う。今回は巡回展はないみたい。そういえば「ルイジ・ギッリ」の写真にはトリエステの景色もあり、ショップには須賀敦子の対談集が売っていた。「トリエステの坂道」は本当に素敵な文章で綴られた短編。須賀敦子って一時すごく読まれていたと思う。特にトリエステは。水村美苗とか米原万里とか母国語以外を自由に使える人の日本語は別格の美しさがある気がする。うまくいえないけれど。今日の移動本は須賀敦子にしよう。求めていた景色に急に出会えるような気がする。

どうぞ良い一日をお過ごしください。

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読書

地震、エッカーマン『ゲーテとの対話』

起きたらすぐそばでカラスの大きな声がした。その声に起こされたのかもしれない。外はまだ少し爽やかっぽいけど空気の入れ替えだけしてまた窓を閉めた。バタバタ家事をしていたら期待通り紅茶がちょうどいい温度になっていた。

鹿児島県トカラ列島近海の地震、大丈夫なのだろうか。十島村・悪石島というところ。写真を見るととてもきれい。そうだろうなあ。希望者は離島して避難されたらしい。ものすごい数の地震が起きているらしいが昨晩は眠れたのだろうか。実際の被害も不安も広まらないように具体的な対応が早急に入りますように。

昨日、水木しげるの「姑娘」のことを書いた。水木しげるが戦地に持っていった愛読者がエッカーマンの『ゲーテとの対話』。ほぼ暗記していたという話もゲーテに対するエッカーマンみたいと思う。私がゲーテという名前をはじめてみたのはこの本かもしれない。実家で書名に惹かれたのが最初。一番古い翻訳だったのかも。きちんと読んだのはずっと後。高校生になって自分で『若きウェルテルの悩み』とか買うようになっても(こういう行動が若い)この書名はなんとなくいつも浮かんでいた。ウェルテルは高橋義孝訳。フロイトに最初に出会ったのも高橋義孝訳。よくみていた名前だからこれは覚えている。

今週末、関西で行われる精神分析的心理療法フォーラムで登壇するシンポジウム(?)のお題が「精神分析とアートの交わり」で古い本を色々漁ったからゲーテのこともこうして書いているわけだけど、高橋義孝訳のフロイトの芸術論は一冊にまとまっていてKindleで読めるのも便利。

ゲーテという名前は『ゲーテとの対話』以前に耳からは聞いているのだけど「シラーの骸骨」という言葉の方が強烈に残っている。今思えばゲーテがシラーの骸骨を前にして書いた(絵も描いたのかな)という「シラーの骸骨に寄す」のことを話していたのだろうけどゲーテという名前が私にはあまり残らなかったらしい。聞き流していただけの言葉が断片的に強烈な印象を放つのはさすがゲーテということになるのかもしれない。

『ゲーテとの対話』も普通に考えれば作者はゲーテではないのに著者であるエッカーマンという名前が記憶に残っていなかった。この本は本当にいい。大好き。水木しげるが戦地にまで持っていくのがよくわかる。

エッカーマンはやたらといろんな人に助けてもらえる人というか、その認識をきちんともちつつ、かつ内省的で、多分実直で前向きないい人だったんだと思う。いい人、というのもどうかと思うがこの本を読んでいると「貴方様がこうして残してくれたゲーテの言葉、私にもグッときます、ありがとうございます。」という気持ちになるからね。

エッカーマンは詩作をがんばるなかで帯を書いてもらう文化はまだなかったか、なんだったか推薦文か何かをお願いするためにゲーテに連絡をとった彼はゲーテに大層気に入られてしまう。というかゲーテってこういうとこある、と思ってしまったりもするけど。エッカーマンもゲーテのこと以外考えられないという様子で細やかに観察しつつゲーテの言葉に胸打たれつつ自分の気持ちにも目を向けつつ綴られるこの対話本、本当に面白いし読みやすいしゲーテの名言だらけ。これはゲーテ70代、エッカーマン30代の対話だけど、ゲーテの『イタリア紀行』で30代のゲーテの言葉を知るとエッカーマンが人としてのゲーテに惚れこむのもよくわかる。世の中にはいろんな紀行文があるけどこの本の文章は特別に面白い。

エッカーマンが拾ってくれたゲーテの名言を引用しようかと思ったけどやることがあるんだった。機会を見つけてぜひお読みになって。言葉も内容もいい本って楽しいから。

良い一日をお過ごしください。

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イベント

花火大会、姑娘、戦後80年

灰色の空。パウル・クレーが気をつけろと言った灰色。はじまりの色。窓を開けた。今日は少し風がある。鳥の声も穏やか。エアコンはまだつけなくて大丈夫そう。冷たい麦茶が美味しい。

最近、コンビニで花火を見かけることが増えた。夏だ。祭りだ。花火大会だ。オフィスからはヤクルトスワローズの本拠地である神宮球場であがる花火が見られる。5回裏の終わりに。いつもちょうど観られないけど。そういえばこの前「花火だ」と思ったのだけどスワローズのは夏休み期間だけだと思う。なんだったのだろう。外苑の花火大会はお盆のときかも。能登はどうかな。七尾市、加賀市、和倉温泉の花火大会は中止みたい。昨年、羽咋に泊まった夜にちょうど「復興花火in千里浜海岸」をやっていたのだけど不覚にも眠ってしまって見に行けなかった。昼間、炎天下の千里浜海岸を自転車でたくさん走って疲れていたらしい。はじめての試みだからホテルが指定する場所から見えるかわからないのだけど、とチェックインしたときに言われたけどとてもきれいに見えたと朝になってから聞いた。今年はやらないのかな。暑い夏も元気に乗り越えてほしい。「日本三大火祭り」のひとつ、能登島向田の伊夜比咩神社の火祭りは7月26日に無事に開催されるらしい。たくさんの人で盛り上がりますように。能登島はのとじま水族館がある島。GWに行ったときはちょうど避難していた全ての魚たちが戻ってきたところだった。地震から水族館再開までの様子とかをパネルで見たけど本当に大変な作業をみんなでされてきたんだなと涙が出た。

石川といえば山中温泉に泊まり街中を散歩していたとき「姑娘」という中華料理屋が目に入った。なんと読むのだろう、と思いながら通り過ぎた。翌日金沢の茶屋街に行くとギャラリーのようなお茶屋さんで箸置きや器に「姑娘」がいた。アヤベシオリという作家さんの作品だった。どれもとてもかわいくて連れて帰ろうか迷った。お店の人とおしゃべりしながら「姑娘」の意味を聞いたがわからないと言われた。その後に出会ったのが水木しげるの「姑娘」。強烈だった。戦争が人生を想像もしなかった方に連れていくということは頭では知っている。いろんな人がいろんな資料を残してくれたから。しかし、こういう方向もあるのか、というか水木しげるが知っているリアルはすごい。ちなみに読み方はクーニャン。若い女性という意味らしい。同じ本に収録されている作品も太平洋戦争のもの。戦艦や駆逐艦の絵も凄まじく細やか。悲惨なことが次々に起こるなか人間の書き方は軽やかでユーモアさえ感じさせるがそれだけではもちろんなく多面的。人間の愚かさって本当に説明しがたいということがなおさらなんともいえない気持ちにさせる。戦後80年、恵比寿の東京都写真美術館で開催中の「被曝80年企画展 ヒロシマ1945」にも行ってきたが、あの惨状にカメラを向けずにはいられなかった人たちの記録が特に心に残った。

7月1日締切の原稿のために出していた本たちを本棚に戻して、なんとなく積み重ねていた洋服を整理した。心配していたとおり梅雨に気温が下がるということがなくずっと暑かったので薄手の長袖ニットとか全然着なかった。しまってしまおう。そういえば関東の梅雨明けはまだ?引き続き熱中症に気をつけて過ごしましょう。

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イベント

水曜日

暗い。窓を開けた。生ぬるい風がすこーしだけ吹いていた。昨晩こもった空気を逃して窓を閉めた。エアコンは除湿から冷房へ。サイドのファンの掃除を、みたいな表示が出た。冷たい麦茶が美味しい。さくらんぼも相変わらず甘酸っぱい。

「昨日」といったら「おとといね」と言われてもう二日経ったのか、とびっくりした。言われてみれば記憶がないわけではないが体感が違う。予定に少し変更があったせいかもしれない。気分や体調の変化が大きい場合は「もう」という感じはあまり感じないかもしれない。美術館で特定の絵に惹かれて何分も立ち尽くすときは「もう」となる。それができる程度に気分と体調が落ち着いているという前提があるのかもしれない。

シンポジウムの討論原稿を作ったが、隙間時間に書き溜めていたものはほぼ使わず、結局一気に書いた。6月初めの協会の学術大会のときも一気に原稿作ったけど、今回は専門の精神分析とほぼ素人のアートとの掛け合わせ。書いていていつもと違う感じがした。シンポジストのみなさんからいただいたのは原稿ではなくスライドだったので文脈が読める場合とそうでない場合があるから捉え損ねしているだろうなあ、ああ、ごめんなさい、という思いとわからないから自由に書かせてもらっちゃいますね、という開き直りの両方で書いた。特にお金が出るわけでもないから自分の勉強を兼ねて、という気持ち。もちろん興味があるから引き受けたわけなので浅い知識も少しは深まった。でもこれはいつものことだけど勉強って始めると終わりがないし、すごい人たちは考えてることもすごいし勉強量もすごいので表面的な理解は修正されるばかりで、楽しいけど大変だった。でもアートの見方は少しだけ変わる気がする。毎回急ぎ足で見なくてはいけないことが多いから体調とかに関わらず何分も佇むことは難しいけど、今回はこうだったけど今度はこうしたいな、とか不足に気づける気がする。近いところで行きたいのは上野の東京都美術館のミロ展。上野はちょっと遠いから隙間時間には行けない。計画を立てよう。むしろゆっくりできるときに行ってあんみつとか食べたい。お散歩もしたい。でも暑いな、と結局なるけど。

さて今度は年末までに書くものがある。これは本の一章なのでもう少しがんばれたらいいなと思う。

今日は水曜日。言葉の世界は難しいけど今日もがんば里ましょう。

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散歩 精神分析

火曜日

7月。いいお天気。さっき窓を開けたら夜のひんやりがまだ残っている感じがした。そういえば最近、帰り道の三日月がとてもきれい。

山形のさくらんぼをいただいた。甘酸っぱいとはまさにこのこと。私が公園で眺めていたさくらんぼたちは鳥たちに美味しく食べられたのかな。梅の実はいつまでもなっているのにさくらの実はなくなるのが早かった。新宿中央公園の梅の木は剪定されてさっぱりしていた。

フロイトやゲーテのイタリアへの情熱とか思うと私はそういうのないな、と思っていた。どうしても!みたいな強い気持ちがあるって行動に結びつくからいいな、とは思うけど、まあいいか、となる。しかもこの暑い時期なんてできたら何もしたくない。週末は関西に行くけど。暑いだろうなあ。泊まりでいって万博とか行けたらよかったけど時間もないし、暑いし、とやはりなる。彼らは基本的に体力があるね、色々読んでいると。私もない方ではないけど温存したい。今は温存という言葉さえ不適切な気がする。なんてこんな涼しい部屋で言っているのもどうかと思いますよね。原稿書かねば。

今日も無事に過ごしましょう。

参考文献:

岡田温司著『フロイトのイタリア―旅・芸術・精神分析』(2008、平凡社)

ゲーテ著『イタリア紀行』(上・下)鈴木芳子訳 (2021,光文社古典新訳文庫)