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精神分析

大雨のニュースとか。

今朝は鹿児島に大雨特別警報のニュース。能登の大雨も相当大変そうだったが大丈夫だろうか。私は昨晩もきれいな月をみた。地球はどうなっているのだろう。

生命の起源を宇宙に置くとしたら災害は単に人間のものではない。だとしても小さなひとりひとりの命がおびやかされないことも同時に考えなくては。異質なものとの出会いがこれまで大切にしていたものを変えてしまうとしても徐々に、という変化のありように注目したい。ウィニコットがgraduallyを強調したように。

オグデンがウィニコットにポテンシャルスペードを検討する論文でこういっている。

This transformation of unity into ‘three-ness’ coincides with the transformation of the mother-infant unit into mother, infant and observer of mother-and-infant as three distinct entities.

ユニットが「三者性」へと変形することは、母子ユニットが、母、乳児、そして母—乳児を観察する第三者という三つの異なる存在へと変形していくことと符合している。

この変形プロセスをさらに細かく検討しているしかたがとても興味深いのでそれも確認しておきたい。

でも朝はとりあえず身体を使おう。目覚めてから難しいことは考える。

早く大雨警報が解除されますように。被害が広がりませんように。

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精神分析 読書

自分の言葉、森崎和枝『能登早春紀行』など

立秋。夜明けの空がきれい。

毎晩、月が膨らんでいく。明るさも毎日違う。にしても暑すぎではないだろうか。昨晩は帰り道でも涼しさを感じられなかった。朝から広島の映像、広島の語り、広島への祈りをずっと感じていたからかもしれない。最近『火垂るの墓』も『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』も見ていた。首相が「自分の言葉で」語ったことが多く取り上げられていた。

「自分の言葉で」。精神分析へのニーズをそこに見出す人は多い。それを欲しながらもいかに難しいかを実感している人は探究の苦痛に耐えうるかもしれない。私たちは他者なくしては生きられず、果たして「自分の言葉」なんて存在するのか、という気もするが、表現の自由と言うのは「自分の言葉」で話す限り有効でだと思うので存在するという希望を捨てない。他者との関わりのうちに育つ言葉をそう呼ぼう。相手を変えようとする言葉ではなく。

米田翼『生ける物質-アンリ・ベルクソンと生命個体化の思想-』、前よりも読める感じがする。平井靖史さんの著作のおかげだろう。

「創造とはまさに新規性nouveautéなのである。」

そうに違いない。この本は様々な一元論をとても丁寧に解説してくれている。補論のアレクサンダーの形而上学は狙い通り、ウィニコットを読むときのヒントになってくれそう。嬉しい。移行対象は時空から構成された素材、ととりあえず仮説を立てた。

『能登早春紀行』 森崎和江 著もすごくいい。震災後の夏に羽咋、小松、金沢、今年のGWに和倉温泉、七尾、金沢へ行った。来年は輪島へ行きたい。森崎和江の豊かな五感による観察が深い思考を通じて言葉にされているこの本、とても好き。能登がこうやって語られていること自体が今はとても貴重に思える。

現場へ。いつもそばに、ということはできなくてもいつも心を寄せておくことはできる。大雨の被害も広がりませんように。

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精神分析

ウィニコットとか米田翼『生ける物質-アンリ・ベルクソンと生命個体化の思想-』とか。

夜はいつまでもおなかいっぱい。遅い夕飯が胃腸に良くないことはわかっている。昼間なら胃腸の調子に気をつかえるが夜はもうだめ。つくおきもしない方がいいのかもしれないがしなかったらしなかったでお惣菜を買ってくるに違いない。いろんなことを上手にコントロールできたら私はこんな仕事についていない。だってもしそうできたら困る人はいなくなるだろうからこの仕事はいらないと思う。お勉強として消費する分にはいいかもしれないけど。臨床は相手がいないとできない。困りごとのない世界、自分で自分をコントロールできる世界なんてないからお金も時間もかかる仕事の世話になる。だったらそんなのなければいいのに、と思うかというと私は思わない。人間は時間もお金もかかってしまう厄介な生き物なんだ。だって可能性がいっぱいだから。人間だけでなはくて生命あるものはみな。だったら生命をどこまで拡張して考える?動物まで?宇宙まで?

私はウィニコットは多くの赤ちゃんや妊婦さんと関わるなかで有機体の起源を考えていたと思う。母と子のユニットという考えがひとつの到達点になったのだろうけど、それは単に自己の起源を他者と未分化な場所に位置づけただけではなく、有機体の可能性を母胎という宇宙、あるいはマトリックスに見出したからだろうと思う。ウィニコットは常に「可能性」について考えていた人だったと思う。

そんなことを考えいてるときに何かヒントがほしくて開いたのがベルクソン・イヤーにベルクソン研究者の皆さんが魅力的な時間論を展開するなかで独自の生命論を展開していた米田翼さんの『生ける物質-アンリ・ベルクソンと生命個体化の思想-』。この本はベルクソン『創造的進化』はもちろん、古典の丁寧な読解の仕方も勉強になる。

著者はいう。

「たとえ絵空事であっても、ベルクソンの創造的進化論を徹底するのであれば、我々は「あらゆる法則は突然変化することがある」ということを肯定すべきである。」

本当にそうだと思う。

「ベルクソンは我々が住まう現実世界そのものに決して空虚ではない「可能性」や「偶然性」を植え付けているのだ。系外惑星における未知の生物たち、あるいは地球上で眠りに落ちていった植物や動物たち、彼ら・彼女らが歩んだ道のりは、ひょっとすると我々が歩いた道のりだったのかもしれない。この「ひょっとすると〜かもしれない」が「空虚ではない」と言える理由は、ただひとつしかない。それは、これらすべての生物たちは、起源においては我々と一致していたということである。ベルクソンの進化論が提示する世界観・存在論では、可能世界に住まう私と(行動の履歴まで)よく似た対応者(counterpart)よりも、この現実世界で私とはまったく別の道のりを歩んできたミツバチたちの方が、よほど私とよく似ているのだ。」

痺れる汎生命論。進化に対して「絶滅」という表現を使うよりずっと現実的。

「ありえなそうなことが、本当にありえないかどうかは、それが実際に生じるまで誰にもわからない。」

維持したいのはこの姿勢で、なぜなら、というところに生命の起源を探究する意味があるように私は思っている。

今朝も暑い。洗濯物を干しながら窓を開けたけどびっくりするくらい何も吹き込んでこなかった。今日も涼しい場所を探して過ごしましょう。良いことありますように。

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精神分析

事例検討会の意義

昨晩の月は色が濃く落ち着いていた。日中はとても暑かった。そんなに外に出ていないけどオフィスの空気からそんな感じがした。

今朝は風が強いのか?洗濯物が揺れる。でも涼しくない。

ある程度、臨床経験を積んできた中堅や指導の経験もある同世代と少人数でじっくり事例検討をする機会を作っている。中堅に対しては私はお金をもらって教える立場として、同世代とは対等に。どちらのグループでもなんでも正直に言葉にしている。向こうもそうしてくれていると思う。臨床は正解がある世界ではないけれど、それぞれに依って立つ理論がある世界ではある。個別のスーパーヴィジョンでは臨床の基本を伝えているので相手がどの理論に親和性があるのかあまり問題にならないというか精神分析はいろんなアプローチの基本になっている。とはいえ、いろんな人がいろんなアプローチを自分で選べばいいわけなので、日常語で、その人の臨床現場に即した表現を選ぶ。相手が医師の場合は、医師の世界ではどうなのかを確認しながら進める。私が主催しているグループは精神分析理論を参照して臨床をおこなっている人対象だからそこはまた用いる言葉が異なる。理論を使うなら自分がそれをどう使っているのかということに意識的である必要があるので「精神分析的に考えるならば」という前置きをしょっちゅうしている。みなさん、いろんなコミュニティで勉強を続けている人たちだけど私のところではそういうのを求めているのだろうと感じもするから。誰が事例を出すにしても聞いている方は自分が関わっている人たちのことを自然と思い浮かべながらその人たちとの関わりを振り返りながら聞いている。同世代の臨床家になると私が教えている中堅のみんなよりははるかに経験している事例が多いので、彼らと自分が積み重ねてきた体験を抽象化するときに「わからなさ」「触れられなさ」が実感を伴って強調されるのがいい。中堅のみんなもこれからそういうものにたくさん出会っていくだろうから言語化の仕方もすごく変わってくるだろうなと思う。いいものをたくさん提供したい。

今日も暑さに気をつけてがんばりましょう。

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精神分析

お菓子、事例検討会

今朝の光は少し柔らかかった気がした。風も静か。8月7日は立秋。昨晩の月はまだ夏を感じたけれど。

今朝は宇都宮の老舗、高林堂さんの「かりまん」。かりんとう饅頭は美味しい。包みも使われているフォントもかわいい。かりまん特設サイトもあり。あと、今日は同じく栃木県は小山市の蛸屋さんの「大開運」。よい名前。いいことありそう。見た目も上品。“皮種には「栃木県産大麦」と「栃木県小山市産はとむぎ」を使用し、素材の上品な甘さを感じさせる一品に仕上げました”だって。お味も上品。蛸屋さんのお菓子もいくつかいただいたけどどれも美味しかった。どこの県にも仙台銘菓「萩の月」に似たお菓子があるけどここでいえば「みかもの月」がそれ。あれも美味しかったなあ。こんなお菓子ばかり食べてていいのか、と自分で心配になるけど蛸屋さんは工場併設の「おかしパーク」で食べ放題やってる!いいのか?豪華だし全部食べたいけど超危険。「みかもの月」詰め放題(時間制)とかもあるではないか。ガーン。

数年前、しまなみ海道を巡っていたとき、工場併設の小さなお菓子屋さんに寄ったら賞味期限が近くないのまで含んだお菓子の詰め合わせをどんと渡されてびっくり。本当に小さな販売スペースで工場で作業中の方が手を止めて出てきてくれるような場所だったと思うけど特にサービスをしているという感じでもなく当たり前のように渡されたのにも興奮した。なんか楽しいし嬉しいってなった。あれはどこだったか。大三島だったかな。また行きたいな。お菓子は食べ過ぎは危険だけど、いろんな場所のお菓子をいただけるのはやっぱり素敵。旅先ではお菓子屋さんを見つけるとその場で食べられるお菓子をちょっと買ったりしながら歩いたりする。旅先じゃなくてもしてるか。夏はどんなお菓子に出会えるかな。楽しみ。

昨日の初回面接の事例検討会と仲間内の密な事例検討会、どちらもとても勉強になった。やっぱり私は動物の進化について考えねばならない。個体の起源とは何か。環境とは何か。性と死が生きる場所である無意識はどこで生まれたのか。ウィニコットのいうほどよい母親が持つ要素が揃えばそれだけで人は安心できる居場所を得たと感じるのだろうかあるいはほどよい母親が持つ要素は「それだけ」ではなくもっと万能なのだろうか。あるいはウィニコットはそれ以外の何かを暗示したのだろうか。などなど。

今日は月曜日。今週もがんばりましょう。

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Netflix テレビ

暑い。ドラマ。

暑い。早朝の空の青の変化が美しかったのを思い出してしのぐ。昨夕から晩にかけて月がどんどん輝きを増していったのを思い出してしのぐ。暑い。やっぱり冷房をかけてしのぐ。三鷹の国立天文台でスタッフさんにいろんなことを教えてもらったり(なんでも教えてくれるからいっぱい喋ってしまった)、辻村美月の『この夏の星を見る』を読んだりしたから空に対する憧れが増している。映画も見たかったけど時間が合わず。土浦で20時とかならあったが。

土曜ドラマ『ひとりでしにたい』をみねば。最終回。前回の綾瀬はるかのセリフがすごくよかったし今回はその続きでしょう。楽しみ。あの自分の言っていることを自分でひっくり返しながら進む言い回しが論理的だし前向きだしすごくいい。内容がどんどん心に響いてくる。もちろんきちんと耳をもつナスダックあってこそだが。そして魯山人が綾瀬はるかと同じくらいとてもかわいい。

そしてNetflixドラマ『グラスハート』もすごく楽しんでいる。原作は若木未生。1993年刊行で今も続いているらしい?佐藤健が演出も主演もがんばってる。Netflixはスケジュールさえきちんと押さえればお金はふんだんに出してくれるらしいからよかったねえ、と若い世代を応援したい気持ちでいっぱい。みんなとってもかっこいい。あまりに漫画的で「きゃー、恥ずかしい」となる場面もあるけど、映像の美しさとこれまた現実離れした美しさをもつ俳優陣の良さでどうしてもみてしまう。山田孝之と菅田将暉の使い方は理想的。バンドもの大好き。

今日は午前も午後も事例検討会。いろんな人、いろんな文化と触れるのは人と話していくだけでもできる。それを負担に思う人ももちろんいるし好きにしていくのがいいのだろうけどね。

良い一日にしましょう。

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料理 精神分析

習慣とか廃村集落のこととか。

夜の間、冷房除湿みたいな設定にしていた。少し寒かった。リモコンが見つからず消すことができなかった。起きたらリモコンが身体に敷かれていた。

南側の大きな窓を開けた。少し風が入ってくる。この時間はまだ冷房が入らない。それにしても5時かその前には起きたくなくても起きてしまう。加齢。昨日のピーマンの肉詰めの匂いが消えていく。印度カリー子レシピ。タンドリー塩サバのレシピとヨーグルト以外は同じ。これも大変美味しかった。八百屋さんで大きくて安いピーマンを買ってあったので何を作ろうかなあと思いながらなんかしっくりこないな、と思っているところにレシピが流れてきて「これだ!」となった。カリー子さんのおかげで、ターメリック・クミン・コリアンダー・チリペッパーが順調に消費されていく。これまで買っても賞味期限切らしてしまったりしていたのに。習慣は変わる。漬け込んでおいて帰ってきたらそれを焼くだけ、みたいなレシピもお気に入りが増えてきたのでポリ袋もたくさん活用するようになった。混ぜるだけレシピも多いから使い捨て手袋も。道具って素晴らしい、と使うたびに思う。

今は札幌のビアガーデンが最高らしい。札幌出身の人がこの前実家に帰るついでに行ってきたと。いいなあ。特定のお店にしかおいていない「白い恋人」ももらってしまった。とってもかわいい。札幌おもしろ話を色々聞いてゲラゲラ笑った。地元にいるとわからないその街の魅力を一度出て戻ることで再発見するのは楽しい。

先日、東京都庁1階にある全国観光PRコーナーに寄った。オフィスから近いからたまにいく。7月下旬にやっていたのは「四国石鎚山麓・西条市フェア」。愛媛県西条市ってなんとなく聞いたことがあるくらいだったけど写真を見るとやはり瀬戸内は素晴らしいなと思う。お隣の今治市には旅したことがある。西条市は「うちぬき」と呼ばれる水が噴き出す被圧地下水の自噴地帯が広範囲にわたって形成されているとのこと。面白い。「石鎚山麓東之川」と書かれたいい紙を使ったパンフレットが目立っていてもらってきたのだけど、いい紙を使っていることが気になって調べてみたら廃村集落とのこと。最後の住民が村を出たのが平成24年。2012年?村へ通じる車道が崩落したとのこと。林業で栄えていたとても美しい村だったそう。確かに写真を見るととても魅力的な石積みの集落。保全せねば、と思うよね、これは。旧村民の方のお話が伺えるうちにツアーコンテンツとして開発していきたい思いがこのパンフレットを作らせたんだろうな、と思った。認知拡大しないことには保全もかなわないから。全国各地にそういう場所はあると思うから私が続けている小さな旅も少しは貢献したい。

フランス精神分析のことをメモしておくつもりが全然関係ないことを書いてしまった。フランス精神分析用のノートをめくっていたら昨年、書評を書いた(校正もこれからみたい)コレット・ソレール『情動と精神分析 ラカンが情動について語ったこと』(福村出版)のメモがあった。もうすっかり忘れてしまっているなあ。ラカンの勉強もたくさんしたからそっちは結構覚えている。アンドレ・グリーンを読む中でラカン理論も補強されるからだろうな。ソレールのこの本は論点多すぎだから。

おなかがすいた。夜遅く食べても朝はきちんとおなかがすく。胃腸には負担をかけるねえ。なるべく気をつけてるけど。

今日は8月2日土曜日。雨予報?今降っていないけど。よい1日にしませう。

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精神分析

河合隼雄とか精神分析とか。

8月。カレンダーをめくろう。外が白い。曇ってる。雨が降るのかな。昨日は朝は風を感じなかったけど昼間は感じた。ちょっと遠回りして久しぶりの図書館に行ったけど以前のウェルカムさは全くなく管理されている感じが居心地悪くいろんな本の背表紙だけ眺めて出た。

私は児童文学も専攻のひとつだったので図書館に行けばその棚もチェックするが、河合隼雄はそこにもいた。そもそも私が河合隼雄と出会ったのは実家の書棚にあった昔話とか子供に関する本を通じてだった。織田先生や河合俊雄先生たちに教えていただきにユング派のセミナーに出ていた頃も心理職としての河合先生が話題にあがることはあまりなかったし、実際、臨床心理士の集まりでもその場でフルートを披露された先生のことしか覚えていない。児童文化学科発達心理学専攻だった私にとって河合先生は臨床の先生というより子供のこころの先生だったらしい。精神分析を学び始めてからは精神分析は小此木先生、ユング派は河合先生という感じでその対話本などは読んでいたが、実践としてビビッドで、実際に教わりにいったのは精神分析だったら藤山先生たちの世代、ユング派だったら俊雄先生とかの世代だった。毎週木曜日、慶応心理臨床セミナーに私が通っていた頃はまだ小此木先生がいらしたので河合先生よりはずっと身近だが、精神分析かユング派かとか技法の違いでいったら、私はそのほかに家族療法も短期療法も動作法も学びに行っていたから、京大出身の仲間たちが語る河合隼雄の影響力はいまいちピンとこないし、小此木先生も特別感はない。長谷川啓三先生について名古屋に通おうとしていたし。一回だけいってすごく興味深かったけど続けたら精神分析にかけたのと同じくらいの費用がかかったかもしれない。何かのオタクになるとお金がかかる。

先生たちもそれぞれオタクだったと思う。精神分析を受ける人は少ないけどある程度オタク気質がある人たちなんだと思う。それに集中することで強いられる負担を負担と感じるしかたが独特だと思うし、精神分析はさらにメタというか、他者と共にいようとする、あるいはそこで痛みを感じる自分の心、というふうに対象が自分(=他者)になるし、自分の可動域は自分で思っているよりずっと広いか、複雑。なので痛みと不快さにまみれすごく苦しくて本当に辛くてもなんとか探求を続けられる面白さがある。私はあった。最後には「これが“遊ぶということ”か」とかなりの自由と面白さを実感できるようになったのと訓練ケースが訓練として認められたのが重なり(連動しているからだけど)分析家になる少し前に分析を終えた。今となれば何を選択しても同じ結果になったかもしれないけど、私が身をもって知っているのは精神分析だけなのでそれを生業にできてよかった。一途にオタクをやってきた。使えるものはなんでも使って、ということができる人はいいけど、私の場合は結局こんがらがって「やっぱり基礎からだな」と何度もスタート地点に戻ることになるから探求をやめないやり方が自分にあっていたんだと思う。それぞれ自分は何がしたいのか、ということに尽きるけどそれが本当にやりたいことなのかを模索するのも必要だったりするからややこしいね。

もらった温室みかんがちょうどよく甘酸っぱい。今日は金曜日。天気予報はやっぱり雨。がんばろー。