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俳句 言葉

雨、朝顔

雨が降り始めた。空から真っ直ぐに落ちてくる。水分量多くたまに膨らむように落ちてくる直線たち。風はまだ吹いていない。

朝顔の紺の彼方の月日かな 石田波郷

今日の日めくりは波郷。季語は「朝顔」。朝顔ほど普通に親しまれている花も多くないだろう。初秋の季語となる。朝顔は紺色だけではないがあえて「紺」と言われると夜明けの空もイメージされる。朝の空は闇を水で溶かしのばすように薄くなるけどこの朝顔には凝縮された日々がある。「彼方」は「忘却の彼方」などいうように時間的な遠さを示すのはいうまでもないが、朝はたしかにそこにいたのに昼過ぎには萎んでいる朝顔からは感じられない時間感覚がある。色褪せる前のはっきりした紺色はこの雨の朝も彩っているだろうか。

あさがほやはやくも夢で逢ひし縁 久保田万太郎

万太郎の散文で心に残る文章がある。恩田侑布子編『久保田万太郎俳句集』(岩波文庫)から引用する。

「ー〝影〟あってこその〝形〟である。

ということを書いた。

ー〝影〟あってこその〝形〟・・・・・・

便宜、これを、俳句の上に移して、〝影〟とは畢竟〝余情〟であるとわたくしはいいたいのである。そして〝余情〟なくして俳句は存在しない。すなわち、俳句の生命がその表面にだけあらわれた十七文字の働きだけで決定せられるる運命しかもたないものであるなら、こんな簡単なつまらない話はないのである。表面にあらわれた十七文字は、じつは、とりあえずの手がかりだけのことで、その句の秘密は、たとえばその十七文字のかげにかくれた倍数の三十四文字、あるいは三倍数の五十一文字のひそかな働きにまつべきなのである。」

水にまだあをぞらのこるしぐれかな 久保田万太郎

時雨は冬の季語。一文字だけ漢字で書かれた「水」はたしかに「余情」を湛えている。同じくこの俳句集の「散文」に収録されている「文字に対する敏感」についても書いている。耳が痛い。

朝顔を「彼方」よりも明確な時間感覚におくと以下のような句がある。

朝顔のあすのつぼみやいなびかり 久保田万太郎

土砂降りに明けて朝顔の瑠璃ひとつ 水原秋櫻子

嵐のあけ朝顔一つ咲き居たり 尾崎放哉

嵐には早めに去ってほしい。朝顔はしっかりとそのツルをどこかに巻きつけて耐えているだろうけれど。どうぞお気をつけてお過ごしください。

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俳句

敗戦日、大雑把に。

海底のごとく八月の空があり 阿部みどり女

終戦と知る母の顔かがやかに 黒田杏子

敗戦日非業の死者と風の島に 金子兜太

大雑把に言えば猛暑や敗戦日 池田澄子

暮れはててなほ鳴く蝉や敗戦日 石田波郷

終戦の日。

昭和20年、敗戦後まもなく生まれた人に会いに行きます。自分自分と押し出さずとも思う相手、思ってくれる相手がいれば自ずと現れる自分。空を見上げ、いつもの道を行き、知らない街を歩き、出会う花を観察し、人を待ち、出会い、いろんな人や景色や出来事の話をする。それを何気なくできる日々を、時代を生きていられることは幸運なことだと思うのです。戦争が終わる。その「日」で終わる。それはとても不自然な「人間」ならではのやり方です。実は何も終わっていないのでしょう。敗戦後まもなく生まれたその人は母親のおなかの中にいたときに空襲にあい川の中へ逃げたそうです。もちろんその人の意志ではなくその人の母の意志による行動ですがその行動をさせたのは誰でしょうか。自分の意志など曖昧なものだと私は思っています。それでもそういうつながりの中に自分が含まれていないわけではないので大雑把ながらしっかりと身の回りの世界と触れていきたいと思います。生活をすることは誰かを思うことであるという実感を大切にしていきたいと思います。

どうぞみなさんも良い一日をお過ごしください。

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俳句

魚の骨とかお盆とか

昨晩の魚の匂い。サバの匂い。ちょっと血の混じったような匂い。骨抜きに失敗したのでwebで方法をチェック。「料理の基本!」だって。そうですよね。そうなのでしょうね。でも私には昔から難易度が高い魚の骨。骨をきれいに取りながら食べる人が身近にいるけどその人は釧路で炉端焼きに行ったときも焼いてくれる大ベテランの女性店主にも褒められていた。有名な店だったが今は次の代の方が継いでいるらしい。ということを知ったのももう何年も前。みんな歳をとって次の世代に継いだり継がなかったり。ウィキペディアで「炉端焼き」を調べたら炉端焼きの発祥は第二次世界大戦後の宮城県仙台なんだって。釧路かと思ってた。

“「炉ばた」の一番弟子が大阪府で、二番弟子が北海道釧路市栄町で、ほか3人の弟子が青森県や福島県などで炉端焼きの店を出した(大阪府の店は既に閉店)。”

とのこと。それはそうとこの記事、いろいろな点で興味深いのだが「また、1960年代以前の日本の農業では人糞を使っていた」という記述にびっくり。「化学肥料が戦前と同等の生産量にまで回復したのは1950年頃。」ですって。実家にいた頃はそう数は多くないけど近所にも牛がいて「田舎の香水」も身近だったし、バキュームカーも普通に見かけていたからそんなびっくりでもないか。公衆衛生の歴史はとても大事だよね。平成26年版厚生労働白書労働白書に「第1章 我が国における健康をめぐる施策の変遷」がある。コロナもこの歴史に書き加えられていくだろうし、諸々なかったことにしないようにされないようにしないと。

ずっとめくっていなかった日めくりをめくる。一年も半分過ぎたとか言ってからもそれなりの日々が過ぎた。今日の日めくりは

長き脚もらひて立てり茄子の馬 明隅礼子

お盆ですね。馬というと『スーホの白い馬』をあの赤い服の表紙とともに思いだす。

日めくりを過去側にめくると

魂迎ふ闇を涼しき草の音 鷲谷七菜子

お盆初日ですね。迎え火を焚くのは真っ暗な夜があってこそ。明日は終戦の日。なかったことにしないように、されないように。

どうぞ良い一日をお過ごしください。

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俳句 読書

風、俳句らしさ

キッチンの窓を開けたらカーテンが少し揺れた。でも風は入ってこない。多分南側の大きな窓を開けたらスーッと涼しい風が入ってくるだろう。開けてみた。入ってこなかった。そして暑い。空を見ると秋を感じるのに気温が秋を感じない。残暑というには情緒が足りない。いや、情緒は外側を捉える自分の方にあるとしたらそれは私側に足りない。冷房の温度を下げるのではなく扇風機をつけた。風を欲している。台風ではなくて。

投句の〆切が重なった。今回も一気に作って推敲しないまま出すことになるがなんとか数は揃った。「推敲の時間が楽しい」とか言えるようになりたいが間に合うように作っただけよしとする。

岩波書店の月刊広報誌『図書』8月号を本屋さんでもらってきた。日本文学研究者で翻訳家のディエゴ・マルティーナの文章を読んだ。「ウンガレッティの“俳句”と感性」。webでも読める。「俳句らしい何か」とは何か。ウンガレッティという人はイタリアの詩人だそうだ。ここには彼が第一次世界大戦の戦場で書いた詩がのっており、これは自由詩か俳句かという話がされている。そもそもイタリア語なのに、と思うかもしれないが、近年、俳句はイタリアでも人気があり、翻訳された句集が書店に並んでいるという。もちろんディエゴ・マルティーナさんが翻訳した句集も。そしてなんと教科書にも授業にも取り入れられているという。

私も小6のときに授業でやった。覚えているのは塾の宿題。はあ、作らなくては、と今と変わらない感じで575、57577を組み立てる。俳句と短歌を作る宿題だった。短歌に「ひまわり」を使って俳句に「月」を使った、ということは季節はどっちだ。ちょうど今頃の宿題だったのだろう。俳句は母に叱られてしょんぼりした気持ちのまま月を眺めながら作った。俳句のことは575で作る以外わかっていなかったが、つまらない俳句であることは自分でもわかった。しかし、創作する楽しさが少し湧いたのか、その後に作った短歌は結構大胆にできて大層褒められた。昔から単純だったのだろう。私はいまだにとりあえず575、そして当時よりは季語を意識して作るくらいのことしかしていないし、詩人でもないから、これが俳句か詩かなんて問いも立てる必要がないのだが俳句の先生は俳句の中に詩を感じることが大事だとおっしゃるし、特に分ける必要もないのだろう。ディエゴ・マルティーナさんの文章もそんな結論を導いている。

あ、洗濯物ができた。外に干そうかな。昨日は夕方の風は気持ちよかったけど朝は暑かった。今日もそんな感じかな。どうぞ良い1日を。

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俳句

秋、石、露

昨日の光の強さは異世界に行ったみたいだった。地下鉄を降り、地上に出ると世界が白く輝いていて「光ってこんなに白かったっけ」と少し混乱した。空の色が見えない。火のそばに寄ったときみたいな熱さ、だったか、とにかく暑かった。

此秋は何で年よる雲に鳥 芭蕉

芭蕉が亡くなる半月ほど前に作った句だそうだ。51歳だった(はず)。ほぼ私の年齢だ。体調を崩すことはそれまでもあっただろうがこの年のはなにかが違ったのだろう。加賀乙彦が『わたしの芭蕉』でこの句について何か書いていた。と思って本を探したが見つからなかった。いつものことだ。

此石に秋の光陰矢のごとし 川端茅舎

茅舎は「石」と「露」をたくさん読んだ俳人だった。病気を患っていた茅舎にとっても日々はあっという間に過ぎゆくものだったのだろう。しかしこの句は芭蕉の読む秋よりはっきりとした存在感がある。茅舎は43歳で亡くなった。

岸田劉生に師事した画家でもあった茅舎の目は儚さを力強く読む。

金剛の露ひとつぶや石の上 茅舎

露は秋の季語。「きごさい歳時記」で子季語を見ると「白露、朝露、夕露、夜露、初露、上露、下露、露の玉、露葎、露の秋、露の宿、露の袖、袖の露、芋の露、露の世、露の身、露けし」など。

石の上で破れることもなく水を湛える露の姿は自然に視覚化され絵画となる。「茅舎浄土」と虚子が讃えた世界を示す。

先日、茅舎の腹違いの兄である川端龍子の絵を見た。茅舎も龍子も高浜虚子の「ホトトギス」に属し、龍子はその表紙も提供している。

硯かと拾ふやくぼき石の露 芭蕉

石と露といえば西行に大きな影響を受けた芭蕉が伊勢神宮参拝の折、二見ヶ浦で読んだ一句。

茅舎の露の句とはだいぶ異なるが過ぎゆく年月に儚くもたしかに存在しつづけた人たちの言葉が大切にされる社会でありますように、と思う。と書いていても自分の俳句は一向に作れない。〆切間近。無理やもしれぬ。がんばろう。

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Netflix 精神分析

習慣とか「無意識」論文とか。

早朝作り置き習慣確立したっぽい。自分がしていることなのにそれが習慣化するかどうかは自分次第、とは思っていない。私は無意識を信じているけど意識的に何かができるとはあまり思っていないのだろう。

世の中が長期休みに入るとフロイト読書会番外編を行っている。この夏は十川幸司訳の『メタサイコロジー論』の第3論文「無意識」。難解だがその前の二つの論文「欲動と欲動の運命」「抑圧」を踏まえてさらにメタをいこうとする重要な論文。

私がアドバイザーとして参加している読書会は読んできたものを話し合う形式で、その読書会の番外編なのだが、そこでは私が仕切らせてもらって、私のオフィスで主催している精読方法でフロイトを読むことをしてみている。今回は2日連続2時間ずつ。精神分析はフロイトは週6日60分くらいずつが定番、今は週4日50分くらいずつがIPA基準なのだが、なんにしても集中して何かをやるということはいいことだと経験から思う。

『宇宙兄弟』で、注意を多方面に分散させて別の情報で頭をいっぱいにして考えることを回避するシーンがあった。「わかる!」と一瞬思ったが、あんなふうに情報を正確に拾う集中力は私にはなかった、そういえば。何かを回避するために、というか回避自体に集中するというのはよくあることだが、それは集中して何かをするのとは異なるだろう。そうしたくても大抵は「注意力散漫」という言葉で示されるような状態になるだろうし。今回のフロイト読書会番外編は形式的には集中型だが、内容の難解さに注意が散漫になっていく様子が見られた。そりゃそうだよ、ということも伝えた。医学書や哲学書を「わかる!」と思わないだろう、と。錚々たる知性がいまだに格闘しているテクストなのだから私たちはもっと地道に取り組んでいく必要があるのは当たり前といえば当たり前。私たちは臨床家だからつい同じ語彙の世界を生きている人としてフロイトを読んでしまうかもしれないが、精神分析実践を伴っていても、高度に専門的で抽象的な内容はそう簡単に「理解」できるものではない。だからこそ形式を集中型にしておく必要があるのだと思う。

今朝はパプリカを使って作り置きしたのだけどひとつでもかなり量があるしきれいだから満足。いつも大体Instagramで美味しそうなレシピを見つけて真似したりしている。今朝もチェックしてみたら三浦哲哉さんがトマティーヨなるもので何やらすごく美味しそうなサルサを作っていた。ウィキペディアによるとトマティーヨというのは「ナス科の植物、およびその小さな球状の緑または紫がかった果実。学名はPhysalis philadelphica、和名はオオブドウホオズキ。 」だそう。メキシコ料理には欠かせないんだって。美味しそう。いいないいな。今日はたくさんテクストを読む日になる。おいしいものを支えにがんばろう。どうぞ良い一日を。

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Netflix 短詩

「宇宙兄弟」、きのふのいまごろなら

アニメ『宇宙兄弟』(原作:小山宙哉)をみて寝不足。早朝に料理を作る習慣ができてしまい寝不足解消せず。習慣によって目覚ましいらず。料理は匂いや見た目や手触りなど色々な感覚を刺激してくるにも関わらず無心になれる。脳の働きが本を読んでいるときとは全く違うし、人と会っているときとはもっと違う。小さなスペースで積み重ねるプチ未知、プチ地道な作業が落ち着くのかもしれない。『宇宙兄弟』は茨城県つくば市にあるJAXA筑波宇宙センターでパネルを見たとき、いやもっとそれ以前、映画化されたときに読みたいなと思ったけどあっという間に10年とか過ぎるわけで・・・。映画化は2012年だって。アニメ版、面白かった。三次試験の終わりまでしか見てないけど。宇宙飛行士になるためにはものすごく強靭な身体とそれをバランスよく使える感性と知性、そしてそれらは良好な人間関係と繋がっているわけで、それらがどの程度普通とかけ離れたものかはよくわからないけど私には絶対になれないということははっきりとわかる。意識的には一度も憧れたことがない職業なのにJAXA関連施設があればなんでも行く。種子島宇宙センターにも一度は行ってみたい。沖縄宇宙通信所へも行った。なんなんだろう。最初からなれないものとわかっているから憧れたことがなかったことにしているのかもしれない。

室生犀星の有名な詩を思い出す。

きのふ いらつしつてください
きのふの今ごろいらつしつてください
そして昨日の顔にお逢ひください
わたくしは何時も昨日の中にゐますから
きのふのいまごろなら
あなたは何でもお出来になつた筈です

昭和34年8月15日発行の最後の詩集「昨日いらつしつて下さい」の一部を引用。犀星は「人間は死ぬまで美にあこがれている生き物」だと言った。だから書き続け、書く人であったことに感謝した。特別に好きな詩人ではないがスッと心に入ってくる。「ふるさとは遠くにありて思ふもの」は教科書で読んだ人も多いだろう。多分私も読んだ。「昨日」や「ふるさと」に何を見出すのも自由だがやはりそれはすでに過去で「そうであったはず」の世界なんだな。兎にも角にも今は今。今は朝。今はまだ朝。

室生犀星のこの詩集が出たのと同じ頃の映画について話したのを年代を見て思い出したのだけどなんだったか。当時はあり得かったSFの世界が今は現実になっていてビビる、という話だった。ありゃなんだったか、と思っていたらその友人からLINEがきた、今。面白いな、つながりは。お互い歳をとって自分に対して諦めると同時になんでも学びとして面白がれるようになってきた。力を抜いて今日も過ごそう。どうぞ良い1日を。

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精神分析

伝統とか揺らぎとか。

農林水産省の「にっぽん伝統食図鑑」というWebサイトに出会った。ユネスコ無形文化遺産に登録されている和食だがそれらの情報を集約する仕組みは作られてこなかったそうだ。このサイトは、伝統食の保護・継承、伝統食の認知拡大、伝統食の輸出拡大の推進の3つを目的として伝統食のデータベースとして作られたようである。「伝統食」の基準は、加工食品であること、入手ができること、地域性があること、歴史性があること、伝統的な製法または保存技術を用いていること、が必須とのこと。その基準でいったら日本全国どこにでもありそうなものだがそうでもないらしく、掲載されている県は少ない。石川県はさすがに多いが、大きな地震の影響は伝統食にも現れるだろう。たとえば奥能登の国指定文化財名勝、石川県輪島市白米町にある棚田、白米千枚田。このWebサイトのエリア検索で「石川県」を選択すると紹介文の最初の方に出てくる。ここも大きな被害を受けた。神戸新聞が記事にしていた。

能登輪島白米千枚田のWebサイトでその美しい姿を見ることはできるがもとは1004枚の田んぼがあったそうだ。地震のあと、その維持管理を担う「白米千枚田愛耕会」の努力によって今春には、その約1割、120枚で作付けが行われた。これを愛耕会の方は「奇跡の120枚、感謝の120枚」と話す。

「伝統」というからには守られるべきものという意味を含むと思うが加工される以前に基盤があること、その基盤には人と土地の歴史があること、今回、神戸新聞がここを取り上げていることにじんとくるものがあった。稲刈りは今月末だという。先日、青々と稲穂が広がる景色を目にした。とてもきれいで田んぼごとに色が少しずつ違うように見えたのが不思議だった。どの地域もそうだが、被害を受けた土地に速やかで長い支援が届きますように。せめて侵入的ではない眼差しが向けられますように。

食事や料理のことで少し考え込むようなことがあると三浦哲哉『自炊者になるための26週』を読んだりする。この本は1週に1章読み進めるペースで書かれていて2週目が「においを食べる」で「米を炊く」から始まる。混じり合う味覚と嗅覚の記憶はたしかだ。米作りに従事されている方が何百というサンプルの中から地元の米を当てることができるという話には驚きつつ納得した。知っているだけに失われたものの大きさに打ちのめされたりする場合もあるだろうか。知っているからこそそれを頼りに先を見据えることもできるだろうか。それぞれが個別的でどちらともいえない体験の積み重ねを生きているに違いないが、大きな出来事があるとそこで揺らぐこと自体、不安を生じさせるかもしれない。どうか穏やかな時間ももつことができますように。良い1日でありますように。

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精神分析

良い。愉快い。

やっぱり寝不足だと夢がすぐに消えてしまう。良い時間を持てば持つほどそういう時間のために何ができるだろうと考える。そもそも自分にとって良い時間とは何かということから明確にしておいたほうがいいのかもしれない。

先日、泉鏡花の作品をモチーフにした漆の作品や絵本を見た。泉鏡花の母親のお墓がある金沢の卯辰山には言ったことがあるが作品は少ししか読んだことがない。にもかかわらず泉鏡花ときくと先日見たような作品が思い浮かぶのだから不思議だ。お坊さんでもありイラストレーターでもある中川学による絵本も素晴らしかった。ということで久しぶりに読んでみた。今回は短編『化鳥』。最初の数行で「愉快い」が何度も出てくるのが愉快い。泉鏡花は金沢に生まれた。父親は加賀象嵌の彫金師だった。加賀手作り産業に泉鏡花の作品がしっくりくるのは父親の何かを受け継いでいるせいかもしれない。鏡花は幼い頃に母親を亡くし、摩耶夫人を信仰しつづけた、という話は「化鳥」の登場人物の母子と重ね合わせたりする。しかしまあそういう単純な繋げ方はともかく、現実と幻想、人間と動物の間で揺らぐ自分を描き出すのがうますぎる。「化鳥」には感情を表す言葉がたくさん出てくるがその出し方も愉快い。この作品は「青空文庫」でも読めるが装丁にも注目したい。初版本の装丁は国立国会図書館のアーカイブで観られると思う。

うとうとしていたら手が止まっていた。今日も良きものにたくさん出会えますように。今は良くなくてもいずれ良くなることもあるということも忘れませんように。

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精神分析

水色の空。ここ数日、美しく麗しいものをたくさんみている。そしてよく寝ている。トレーナーさんがお休みのときのメニューももらっているけどこちらはサボってる。でもお菓子も食べすぎてないしお散歩もたくさんしているのでよしとしよう。あ、そういえば久しぶりに美味しい餃子を食べた。30分待ちって書いてあったけどすぐ入れた。常時そう表示してあるのかもね。いつもは行列ができるお店らしいので。

子どもの図書館の司書さんと色々お話した。松井直先生のこととか懐かしかった。絵本もたくさん読んだ。杉並区の保育園巡回をやめたので絵本に触れる機会が減っていた。久しぶりに声に出して読んでやっぱり言葉は面白いなあと思った。あの子たちが次から次へ持ってくるわけだ。小さい子は膝に座るまでがセット。読んでもらえることになっているのがいつも面白かった。膝が足りないと保育士さんが引き取ってくれた。みんながんばってるんだろうな。本当に大変な仕事。子どもたちもこの暑さだとお散歩行けないし狭い室内で過ごすのも辛いよね、お互い。保育環境の基準って全然現場のニーズとあっていないものね。

あ、手が止まってしまった。おなかがすいてるから。美しく麗しいものたちができるまでの作業にもびっくりした。何度も聞いているはずなのに個人的なこととしてきくと具体的に想像できるからすごすぎてびっくりする。あ、また手が動いていた。自分を放っておきながら書いてるからね。こんな感じ。どうぞ良い一日をお過ごしください。

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精神分析

記憶とか。

寝ても寝ても眠い。少し汗ばみながら何度か起きた。空がきれい。光の程度で少しずつ色が変わる。この前NASAのボイジャー計画のあれこれを見たり聞いたりした。木星の吹き荒れる嵐や活火山には驚いた。周りの小さな子たちが宇宙のあれこれに詳しいのにも驚いた。私はなんども同じ話を聞いては驚いている気がするが取り入れの仕方は年を経て変わってきているだろうから間違った知識を広めたりしない限りは何度も何度も楽しめていいのだろう。

二度目三度目に歩く土地では以前の記憶との照合が勝手に始まる。が、本当に曖昧。実際かなり町並みも変わっているのだろう。あのときのあれはここだったかもと思う地点が次から次に生まれる。はじめての土地で感じる懐かしさもこの曖昧な記憶のおかげか、あるいは受け継がれてきた無意識的記憶か。

昨年のプチ同窓会を機に幹事として同期にお便りをだした。思いがけずたくさんの方からお返事をいただきLINEグループで繋がった。同期が大学で長く働いてくれているおかげで先生方とのつながりも保ってもらえている。秋になったらまた集まる計画もした。20年以上経って変わってないはずはないのに会えばそう言い合うほどに変わっていないのもまたほんと。今度も楽しみ。

昨晩から今朝にかけてもいくつかの夢をみた。精神分析で生じた驚きを検証するかのような夢だった。精神分析は記憶の仕組みをかなり変えた気がする。表面的なアウトプットにはとくに変化もないが夢思考はもはやお勉強の世界ではない。

今日も汗をかきながら晴雨兼用の傘をさしてお散歩しよう。見えるものも見えないものも大事にできますように。どうぞ良い一日を。

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精神分析

朝はぼんやり

窓に蜘蛛がくっついている。鳥たちが同じ場所で会話するように鳴いている。朝は情報量が一定でいい。冷たい麦茶を飲んで喉を潤す。ぼんやりと夢を反芻する。昨日したおしゃべりも昨日した日焼けも残ってはいるけれど今目の前はとても静か。朝を迎えたくないからと眠らずにいた人にもとりあえず朝はくる。そのあとに活動が控えていると今日も一日始まってしまったと朝の静けさなど感じる間もなくいつもの動けなさに覆われるかもしれない。今目の前の情報の少なさをまだ起きていないことで埋めてしまわないようにするのは難しいことかもしれない。何も知らなくてもやっていけることはたくさんあって、でもひとりでできることには限界があって、場所によっては悪意に晒されたりする。難しい。じっと朝のいつもに浸りながら考えることはぼんやりぼんやり。今日は何にもしたくない。というか朝早く起きすぎた。今日は今日としてはじめよう。春はあけぼの、夏は夜。朝はぼんやり。いずれ夜。どうぞ良い一日を。

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精神分析

蝉、秒単位、夢

眠い。夜はアブラゼミしか鳴かなくなった。朝はミンミンゼミも聞こえる。蝉に「鳴く」という動詞をくっつけることにいつも抵抗がある。メカっぽいからな。蝉も幼虫も鳴くのか?聞こえないくらいの感じできゅうきゅういったりするのか?

この前、表参道を歩いていたら「原宿まであと何秒?」という子どもの声が聞こえた。結構難しい質問だなと思ったら「600秒くらいかな」とあっさりお父さんが答えていた。言われてみればそんなに難しい質問ではなかった。すると今度は「10秒が何回?」とまた意表をつかれる質問がきた。答えるのは簡単だがたしかに子供の時間感覚は秒単位かもしれない。

電車のドアがなかなかあかずあれっとなっているついでに、ついででもないか、電車の時刻がらみで、電車の時間は出発時間だからドアはそれより早くしまるという話をきいた。当たり前じゃんと思うかもしれないが、少し前にわざわざそう書いてある張り紙も見た。駆け込めず目の前でドアが閉まってしまい大事な用事に遅れてしまった人からクレームがきたのだろうか。秒単位はたしかに世知辛いが東京の電車はそれが人に対する人の仕事ですよという部分も失われつつあるのでなおさらかもしれない。

今朝の夢は和やかであたたかかっただけに不安を覚えるような夢だった。喪失の不安というのは静かにいつもまとわりついている。今日もどうかご無事で。良い一日でありますように。

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精神分析

久女とか。

早朝から何度も寝たり起きたりした。うとうとしている夢をうとうとしながら見たりした。週末はさすがに疲れているらしい。鳥たちはもうどこかへ行ってしまった。遠くで、たまに近くで、集団ではない声がする。光の色が変わった、キッチンに立ってふと気づく。太陽の傾きが明らかに変わった、気がする。夜は涼しかった、と書いたのは一昨日か。その翌日、「秋の気配」という言葉がトレンドに上がっているのをみてやっぱり、と嬉しくなった。そういう言葉がSNSのトレンドに上がること自体もなんだかよかった。今月の句会のお題を出すときにすでに秋を意識していた、というか「八月」というのは初秋の季語なのだ。暑さだけでいえば真夏だがこの色、この空気は確かに季節が進んだと感じさせる。

八月の雨に蕎麦咲く高地かな 杉田久女

ー「杉田久女句集」

女の俳句といえば杉田久女は欠かせない。明治二三年(1890年)、鹿児島に生まれ、数回の転居を経て、東京女子高等師範学校に入学、卒業。明治四二年、東京美術学校西洋科出身の杉田宇内と結婚。次女が生まれた20代半ば、次兄で俳人の赤堀月蟾(渡邊水巴門下)より手ほどきを受け、俳句を始め、翌年には高浜虚子主宰『ホトトギス』に投句を始めている。

谺して山ほととぎすほしいまゝ 杉田久女

久女のこの代表句は40歳の頃。女性の句を求めた虚子らによって見出され、俳句の世界における女性の地位向上に努めた結果、虚子と離れることになり、というふうに私は理解しているが今ここで詳細に書く時間がない。うとうとしすぎた。

花衣ぬぐやまつはる紐いろ〳〵 杉田久女

虚子が「これは女性にしか書けない」というようなことを言ったこの句。虚子め、と思うには色々理由があるが、そういう時代で久女は多くの誤解を受けながら生きて、死んだ。

昨日、ラカンの『アンコール』で「愛」を語るラカンに触れているときには全く感じなかった実感のこもった何かを与えてくれる久女のことも大事にしたい。精神分析の世界は数では女性がものすごく多くなったが男性発の理論と対峙したり、その組織の中にいたりすると「ああ、こうやって同一化していくんだなあ」と思うことがよくある。自分として立つには女はまだまだ弱いのだ。がんばろう。どうぞ良い一日を。

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「うまやど」とか旅の思い出とか。

 長野県茅野市のお菓子を色々もらった。茅野駅に「モン蓼科」というお店が信州のおみやげが揃う素敵な場所だったとのこと。「アニバーサリーチロル」のお菓子とか信州金沢フルーツワイン「うまやど」などもらいました。どうしてフルーツワインというのかしら。ワインって葡萄だからあえて「フルーツ」というのってなぜ?調べよう。おお、なるほど。りんごや洋梨を使ったワインもあるのか。でもこれは葡萄だよ。まあいいか。ワインが葡萄というフルーツからなっていることを忘れている場合もあるかもしれないしね。りんごはシードルっていわない?わからないけど醸造方法が違うとか同じとか色々あるのかな。私はワイナリーも結構行っていると思うのだけどおいしいおいしいだけでいろんな知識が全然入っていないのね。今度はきちんとメモして勉強しよう。こうやってなんでなんでって思う時もあるものね。

 長野県茅野市にも金沢というところがあるのね。私の愛する石川県金沢市と同じというだけで親近感、と言わずとも群馬出身の私は長野は身近なので普通に親近感。吾妻とか白根とか軽井沢とか尾瀬とか嬬恋とかどっちがどっちだか。でも茅野市のことは全然知らない。山登りの人にはお馴染みの場所らしい。ああ、でも蓼科の方か。なら子どもの頃にスキーで行っているか。

 さて、フルーツワイン「うまやど」は終戦直後から様々な困難を超えてワイン醸造を続けてきた小林家のみなさんのワイン。小林家の屋号が「馬宿」なのだそうです。宿場町を歩くと「馬宿」というお仕事を身近に感じることができるかも。今は馬を預けることはなくとも街道歩きのために荷物を運んでいただくことはあるのでその手荷物運送サービスは馬宿の名残なのではないかしらと思ってるのだけど違うのかな。

 2023年のGWは中山道を歩く旅をした。岐阜県の妻籠宿、馬籠宿、中津川宿と。妻籠から馬籠まで歩いたので手荷物運送サービスを利用させていただきました。妻籠から馬籠までそれぞれの宿場町を堪能しつつ歩いて中津川へはバスで移動。バスに乗る前に観光案内所へ荷物を受け取りに行った。思ったより時間がおしてて大急ぎで坂を登った。なのに窓口が外国の人でいっぱい。荷物を取るだけだから割り込ませてもらおうと思ったら通訳を頼まれた。この日は中津川に泊まれる場所はもうない、ということがなかなか伝わらなくて困っていたようだ。お手伝いしたら和紙で折った鶴をくれた。彼らも結局同じバスに乗ったけどどこかに泊まれたかしら。

私たちはかなりテンションの下がるホテルに泊まった。一目で「やられた」とわかった。ウェブサイトに載っている写真と全く違った。ビクビクしながら階段を降りてくるお客さんを見たりして「そうなるよね」と思った。ほとんど管理されていないし、夜はホテルの人もいなくなってただの雑居ビルとなる。これまでも安いホテルに泊まってきていろんな面白い体験をしたけどここはGW価格で全く安くなかった。でも中津川は和菓子天国でホテルは寝るだけだったからまあいいかとはなったけどやっぱよくない、という感じだった。あとから口コミをみたらやはりひどかった。口コミの信頼性の問題はあれどみておくべきだった。和菓子と街並みでプラマイゼロよりプラスになる街だったけどね、栗きんとんで有名な中津川。月もきれいな夜だった。

集英社の月刊誌『青春と読書』で「地面師たち」の原作者インタビューを読んだ。続編「地面師たち ファイナル・ベッツ」が出たらしい。出たのか?出るのか?とにかく完成したらしい。今度の舞台は釧路とのことで釧路のあれこれを思い出していた。釧路フィッシャーマンンズワーフの「さんまんま」がめちゃくちゃ美味しくて東京で北海道展をやると探しに行ったりした。釧路ラーメンも食べたな。そこだけ並んだ。街並みをほとんど覚えていないのはなぜ。作者がいうように人はいない、テナントも入っていないという街だっただろうか。根室の寂れ具合を愛している私には釧路は根室よりは栄えているイメージがあったのだけど。釧路湿原の印象も強いからそこがどういう場所かって一言で言える規模ではないのかも、北海道は。

土地の話は面白い。私は毎日狭い区域を移動するだけだけど地形とか感じ出すとそれはそれで興味深い歴史もいっぱいあったり面白い。散歩大好き。暑いから気をつけないとだけど。昨晩は少し涼しかった。今日はどうかしら。どうぞ良い1日を。

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車山、芥川賞作家たち

麦茶。冷たい。週末に増えた長野のお菓子たちは賞味期限に余裕があるので今朝は食べない。車山高原のお土産。懐かしい場所だ。まだ楽器をやっていた子供の頃、合宿で数回行った。プロになるような子たちが全国から集まるその合宿に私は普段の習い事の延長みたいな感じでついていった。途中から練習には参加せず大人に遊んでもらった。最初からそうするものだと思っていた。だってレベルが違いすぎた。ほかの子どもたちを指導する私の先生は別人のように厳しかったし、いつも合宿で再会していた仲良しは練習になると大人みたいでものすごい厳しい練習にものすごい技術で応えていた。あれはなんだったんだろう。

私はその後も車山が好きで大人になってからも泊まりにいったりしているから良い思い出だったのだとは思う。友達ともずっと文通を続けていた。まだ携帯電話の時代ではなかった。それにしてもプライドがなさすぎたのではないか?落ちこぼれという認識はきちんとしていたが差が歴然としすぎていたせいだろうか。友人を心配しつつ夏休みを満喫していた。元々好きなことしかしたくないし、豊かな緑のなかで遊んだり、川で魚をとったり、ログハウスみたいな建物の涼しいベンチで母親に寄りかかっていつもと違うかわいいグラスでジュースを飲みながら漫画を読むのなんて至福だった。母は私を少し気遣っているようだった。寄りかかった肩越しにそんな空気を感じた。ちょっと申し訳ない気持ちになった。才能がなくて。でも、それより、読み放題に大喜びして適当に読み始めた漫画がレディコミであることに気づいたときが一番焦った。自分にはない才能より自分に内在するセクシュアリティと触れるときの方が人は動かされることを知った、というのは後付けだけどあの焦りは新鮮に思い出せる。Oちゃん、元気かな。みんなまだ子供だった。

先日、新潮社の月刊読書情報誌『波』2024年8月号を近くの本屋さんで入手した。市川沙央による朝比奈秋『サンショウウオの四十九日』の書評を読みながらネットを開いたらちょうど文藝春秋のポッドキャスト『本の話』で「【文學界presents文学への道・号外】第171回芥川賞・朝比奈秋さんの受賞記者会見をノーカット配信!」が流れてきたのできいてみた。

市川沙央と朝比奈秋という作家のことを知らない方にはぜひ検索してその作品を読むことをお勧めしたい。いちかわさおう、あさひなあき、と読む。そのまま読めばそうなのだがなんとなく書いてみたくなる名前だ。1979年生まれと1981年生まれ。第169回、第171回芥川賞受賞者。市川沙央は先天性ミオパチーの当事者でもあり朝比奈秋は消化器内科の医者でもある。

 私はたくさんの本を読むがすぐに忘れてしまう。しかしインパクトの程度は身体感覚で覚えている。市川沙央の芥川賞受賞作『ハンチバッグ』(文藝春秋)を読んだとき、読み終わり立ち上がるついでに別の本や書類をわきによけようとしてそれを何度も落とした。朝比奈秋の今回の受賞作はまだ読んでいない。第36回三島由紀夫賞受賞作『植物少女』(朝日新聞出版)を読んだときはぼんやりしてしばらく動けなかった。

 今回の朝比奈秋受賞作に対する市川沙央の書評「共有してくっつくこと」は微笑ましかった。市川沙央のSNSにはこんなことが書かれていた。ファンの言葉というのは良いものだ。

 朝比奈秋が会見で話していることもすごかった。この難しい世界を自分のこととして書くことができる想像力は誰にでももちうるものではない。それを「ただただ思いつく」のがすごい。「生きている間にしかできないことがある」「一生懸命生きることが命とはなにかということに近づくということ」ということばもシンプルでほんとにそうだなと思った。

 この本のテーマは、とまだまだ書きたいことはあるが準備をして自分の勉強をせねば。夜は疲れてしまっておいしいもののことしか考えられないから難しいことは朝のうちに。今日は雨が降らないといいな。毎日突然降るものとして準備はしているけど。みなさんもどうぞ良い一日をお過ごしください。

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精神分析

地震、技術、日々

昨晩の地震には驚いた。うとうとしていたらドドドという感じで揺れた。ああ地震か、と気づくまでに少し時間がかかった。以前は揺れてもないのに「揺れた?」と騒いでいたが被災地に出向くなどしてから地震に対する意識が変わったらしく特別なものではなくなってきた。

1995年1月17日午前5時46分、阪神・淡路大震災、2011年3月11日14時46分、東日本大震災のほかにも大きな地震のニュースは多く聞いてきた。

阪神・淡路大震災のとき、私は東京都世田谷区、千歳烏山駅が最寄りのアパートに住んでいた。テレビはなかった。時間的にも新聞は配達された後だった。当時、友達がたくさんいた地域での大きな地震を知ったのは大学でだ。どこか呆然としながら実感のないまま数人の友達と電話ボックスや固定電話から連絡をとった。私が生きてきた間だけでも通信や記録の技術はどんどん進歩しているわけだが、大地震に対して印刷技術が使われたはじめたのは明治以降だと知った。

内閣府防災情報によると、明治24年(1891年)10月28日午前6時37分、岐阜県美濃地方、愛知県尾張地方を襲った濃尾地震は「明治以降の近代日本が遭遇した初めての巨大地震であり、日本における地震防災の出発点となった災害であった」。そこに「濃尾地震を語るときに忘れてはいけないのは、当時新しく登場した写真や石版画であった」とある。現場の生の様子を伝える技術の使用は当然他の技術や研究にも影響を与えただろう。

たとえば、このとき「尾張紡績などの被害が大々的に報道されたこともあり、煉瓦造りは地震に弱いという考え方が広まった」。それにより耐震対策の研究もされたという。このような研究を推し進めるときにもそれが必要であるという証拠と切迫感が必要であり、印刷技術の登場はそれらに影響を与えたのではないだろか。一方、耐震対策についての研究成果が生かされた事実はいまだ検証されていないそうである。それでも濃尾地震の被害を受けて1894年には「木造耐震家屋要領」が作られ、これまで伝統構法によって建てられていた木造建築の耐震性能に対する客観的な評価が行われるようになるなど、災害のたびに様々な仕事に少なからぬ進歩があったとはいえそうだ。

建築関係でいえば建築に関する最初の法律は大正8年(1919年)4月に交付された「市街地建築物法」である。同時期に「都市計画法」も交付されている。この法律制定の4年後、大正12年(1923年)9月1日に関東大震災が起きた。そういえば昨日のNHK『虎に翼』は震災時の新聞報道をきっかけに起きた朝鮮人虐殺に触れた。マスメディアは様々な進歩が良い方向に生かされることだけを助けてくれるわけではないというのもまた現実だ。

今日も様々な形で様々な情報に触れる。大きな何かが起きてからではなく日々の何かから立ち上げられることも多いはずだ。今回の朝ドラはまさにその実践だろう。すごいことだ。今日もいい天気。暑いのは困った困った。どうぞお気をつけてお過ごしください。

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精神分析

トレーニング

起きた。バスケやってた。夢でじゃなくてテレビで。アメリカのパスが高くて早い。日本はスピード使ってファウル誘うしかないか。止まったら難しそう。形も作れないみたい。お、なんかすごいタトゥー入れている選手がいる。宇宙っぽく見えたけどなんだろう。どっちのチームを応援しているとかがないからいまいち燃えないけど久々に見ても色々感じるものだな。中学でバスケ部だったけど、フォーメーションばかり考えていた。ガードだったから。私は背が小さいからひたすら腕力とスピード勝負だったけどメンテナンスのために身体動かすようになってその仕組みを知るともっとトレーニングの仕方があったでしょう、と当時の大人をちょっと恨む。膝を痛めれば庇うために腰にもくる。小さな筋肉が身体全体に影響を与えることももっと知っておきたかった。しょっちゅう怪我してたし。先生も練習メニューは考えてくれていたけどあれだけきつい練習するならプロのコーチをいれるべきでしたよ。スポーツとは関係なく子供の身体は大切に考えないと。身体が基本なんだから。体育の時間だってもっと自分の身体を知るために使えばいいと思う。それぞれ違う身体なんだし、障害や病気を持つ可能性だって誰にでもあるのだからどこがどうなると何が生じるのか、ということをいろんな側面から実際に身体使いながら想像できるといいと思う。ほんの数時間でいろんなスポーツやらせて評価するなんて自分や他人の身体への想像力を減らすだけだと思う。自分の身体なのに使う気なくす可能性だってあるわけでそんなのも変でしょ。私は最近になってようやく肩甲骨を動かすというのはこういうことか、とわかったりしながら身体を整えている。腰にきやすいしみえる部分で体調管理したいなと思って一対一でトレーナーさんに鍛えてもらっている。今までは大きな筋肉で力任せに動きを真似していただけだったんだな。ヨガを始めた頃にもそう実感したはずなのにまだまだ未知の世界だった、自分の身体なのに。最初はどこもかしこも硬くて驚かれた。ヨガで随分改善したと思ったのに足首も肩甲骨も自分で動かせている感覚がないことを知った。これらの練習はものすごく地味なんだけど大きな筋肉を使うトレーニングよりずっと疲れることにびっくり。仕組みがわかるときれいな動きが楽な動きというのが実感できるのは嬉しい。無理をなくすために正しい無理を続けていくのは精神分析と同じ、と思ってがんばっている。精神分析もきついのですよ。楽になるけど。

今日も猛暑日か。部屋は涼しい。体操とスケボーのダイジェストを見た。やっぱりスケボーが面白い。すごいな、ほんと。かっこよい。なにかしらから元気をもらって今日もがんばりましょう。

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精神分析

ドラマ、グループ

週末に『地面師たち』を一気に見た。面白かった。話もすごかったが俳優陣が素晴らしかった。豊川悦司は私がよくドラマを見ていた頃に主演作が一番多かったかも?「愛していると言ってくれ」とか?主演でなくても色気ある存在感をずーっと維持。今回もすごかった。怖かった。しかしみるのに疲れた。なんか今もぐったりしている。オリンピックのダイジェストを見てしまって何も進まないというのもある。柔道もスケボーも何が起きてるかわからないくらいの技がすごいな。新宿中央公園でもスケボーを練習している人たちがいるがこりゃものすごいことなんだろうなあ。スローで見ないとなにがなんだかでスローで見るとなんでこんなことができてしまうんだ、とあんぐりする。しかし、ここまで辛かった、頑張ってよかった、と言っている選手たちを見ると想像もつかないような気持ちでトレーニングを積んできたのだろうと思う。あー、本当に想像もつかない。何するにしても自分を極めるというのは大変なことだ。オリンピック自体に興味はないけどスポーツは好き。つい見てしまうな。

昨日は初回面接を検討するグループだった。本当に時代が変わったなと思う。病気自体も医療も病気を抱えた人が生活する環境も。患者さんやその家族がどの時代をどんな地域でどんなふうに生きてきたかに想像力を働かせるにはせめて本から学ぶこと。なによりも大切なのは患者のニーズだがそれは本人にも明らかではない。だからこそこちらの専門性が求められるのだということ。自分の知らない世界とどう出会っていくかについて常に考え続けること。SNSのような反射的な世界や表面的な言葉の世界に慣れることなく目の前の人に自分の狭い世界と限られた体験でどう出会っていけるのかを熟考しそういう体験をひたすら積み重ねること。それがどういうものか言葉になるのはずっと先。とにかく学んでほしい。考えてほしい。今がどんな社会かに常に目配りしてほしい。そういうことを思わされたし伝えたし話し合った。

暑い。クーラーをつけると寒い。体調管理が難しいけど今日もがんばりましょう。

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精神分析

サンファ、強迫、NHK俳句

フジロック、サンファ(Sampha)の配信があったのか。Reading Freudの時間だったからどっちにしてもみられなかったというかどうやってみたらいいかわからないけどみたかったな。素敵なステージだったんだろうな。サンファは空がよく似合う。昨年、『LAHAI』の発売に伴って柳樂光隆さんがサンファに行ったインタビューと音源が素晴らしかった。何度もきいた。今もかけている。今日は生音を聞いたばかりのマリア・シュナイダーDAYになるはずだったけどそれはまたあとでじっくり。サンファの音楽にはずっと浸っていたくなる反復がある。インタビューでもこう話している。

「サンファ:そうだね。僕は反復的なものが好きだし、コンスタントにある要素を基盤に、作り上げていく過程が好きなんだ。コドウォ・エシュンの『More Brilliant Than The Sun』という本で彼は、「音楽によっては、それを遡れば遡れるほど、未来的に聴こえてくるものがある」と述べている。例えば、アフリカ音楽は直線的(linear)な方向に進むのではなく、建築物のように、上に伸びていくんだ。複雑なリズムが土台としてあって、人々はそれを変えていくのではなく、その上に新たな要素を積み上げていく。そういった、反復の上に積み上げて、シンコペーションを生み出していくという考え方が好きなんだ。アフリカの料理みたいなものだよ。すべての材料を一つの鍋に入れて、それだけでちゃんとした料理が出来上がる。」

「それに、(反復という)何か、自分がしがみついていられるものがあると、僕としては安心できるんだ。僕はアルバムの中で「時間」について何度も触れているけれど、そういった一定のリズムは、「常に時が刻々と刻まれている」という状態の音響的な表現なのかもしれないね。でも、さっきも話したけど、これらの多くは、そこまで考え抜かれて作られたものではないんだ。僕が音楽を作ると、こういうものに自然と傾倒していくんだよね。」

ーRollingStone サンファが語る新たな傑作の背景 抽象的なサウンドに込められた「過去と未来のサイクル」by柳樂光隆

柔らかな自然体。コロナ禍に作られたこのアルバムには同時期に娘が生まれたことで伝承も意識されている。

「僕は、娘からたくさんのことを学んでいるし、僕も娘に教えてあげられることはたくさんある。そして、僕は母親からもたくさんのことを教わった。すべてはサイクルであり、そのサイクルは続いていく。だから、そういう口頭伝承と僕の作品には確かに繋がりがあると思う。」

とも話している。ゆったりと優しい音で始まる日曜日もいいですね。

昨日は私主催のフロイト読書会、Reading Freudだった。こちらでも鼠男、ラットマンと呼ばれた強迫神経症患者を素材とした論文を読んでいたのだった。こちらは音読、精読の会なのでこの論文に詰まっている論点を実感できた。議論も大変興味深く、これからフロイトが言うようになる事柄の源はここでもあるのか、と気付かされた。精読しているとそういうジャンプ力というか推論の力がつくのかもしれない。メタサイコロジー論への繋がりがだいぶ見えてきたので色々書き留めておかねば。この論文の後半、理論編の最後のほうにこの患者の強迫行動が止まる場面が描写されている。語ること以前に注意を向けることという課題があることがわかる。私の興味関心はそのあたりにあり、今回再読するなかでASDにおける強迫の特徴について考えさせられた。

NHK俳句は高野ムツオ先生の会。そして山口昭男先生!俳句結社「秋草」主宰。句友が「秋草」に所属している関係で山口先生に句集を送っていただいたことがある。とても好きな俳人。お姿をはじめて拝見した。アッパッパって夏の季語なのか。山口先生の句か。いいねえ。山口先生の句は誰にでもスッと入る穏やかさとユーモアがあるからおすすめです。山口昭男先生の先生は波多野爽波。『波多野爽波の百句』(ふらんす堂)も書かれている。これもとてもいい本です。私も今日はアッパッパ系の服で仕事行こう。どこかでお祭りやってないかな。寄りたいな。どうぞ良い一日を。

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精神分析

フロイトのしたこととか。

古いエアコンの効き目がよく温度を一度上げて寝た。少し暑いけど暑くて起きるほどではない。でも今朝はさすがに冷たい麦茶を飲んだ。身体が飲んだ方がいいよといっている感じがした。あたたかいハーブティも入れておいた。部屋が冷えたら冷めたのを飲もう。お菓子にはそっちの方が合う、と小さな小さなお花型のずんだサブレを食べてしまいながら思う。

先日、フロイトの鼠男、ラットマンの症例についての論文を読み、強迫神経症の精神分析的理解についていくつか質問が出たのでお答えした。この論文は今なら転移ー逆転移の文脈で指摘されるであろうフロイトという治療者の態度に対する批判が何パターンかある。ひとつはフロイトの誘導的、あるいは誘惑的な態度について。これもほんの一文に対してだったりするのだが精神分析における一言一言が出来事の全体をなしていくプロセスである証拠だろう。昨日、読書会での議論を思い出しながら「よく考えればフロイトはそこまでひどいことしてないよなあ」と思った。そして、フロイトのことも精神分析のことも全く知らない人(つまり大体の人)にこの部分の話を「医者に急にそんなこと言われて」と話したとして、と頭の中で会話してみた。「もっとひどい医者はたくさんいるよ、私なんてさ」というような会話が展開された。が、しかし、フロイトの患者はフロイトを医者であり、精神分析の創始者であると知っていて、今私たち日本の精神分析家に精神分析を受けたいと申し込んでくる人たちよりは精神分析を「そういうものだ」と受け入れやすい人たちだっただろう。そのためラットマンのように迎合的に振る舞う可能性は高いと思う。フロイトはそのあたりには慣れっこでそんな理想化には振り回されないが「何かがおかしい」と思わせるのがここでのフロイトの態度であり、それが精神分析だからであり、それが精神分析である理由なのだろう。ラットマンと呼ばれたランツァーという29歳の男性が最初に見せた迎合的な態度は単に相手がフロイトだからではない。フロイトは抵抗という概念を用いる。なぜなら彼が神経症の病因と考えたのはタブーとしての性、しかも個人の生活における極めて具体的な性的振る舞いだからである。そこにここまで注意を向ける臨床技法はほかにはない。フロイトが神経症の病因を性的なものに求め、愛と憎しみの両価性を強迫神経症の特徴として顕にし、自由連想という技法でそこで生じている欲動の動きの特徴を推論し、それに基づく介入によって症状を消失させた事例としてこの論文は発表されたが、実に多くの論点を含んでおり、フロイトの態度としてではなくそれを受け取る私たちの「翻訳」態度も問題にされるべきだろう。だから先日の議論では私はこの論文でも『夢解釈』の技法が基本にあることを強調した。この前読んだオグデンの論考も無意識と時間という二つの概念からこの翻訳、つまり解釈の問題を考えるときの基盤の見直しとして読んだ。精神分析において治療者も常に当事者になっていること、性を問題にする限りそうなるということ、だから治療者が分析を受けていることは必須であること、そういうことではないだろうか。

しかし眠い。こう書きながら頭の中で全く別の景色や出来事が展開している。半分夢の中みたいな感じだ。10分くらい寝てから出ようかな。やっぱり暑さのせいだろうか。どうぞみなさんもお気をつけてお過ごしください。

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精神分析

韻とかラットマンとか。

憧れのふとん乾燥機を購入した。Amazonから配達完了メールが写真つきで送られてきた。あれ?そこはうちではない!慌てて連絡。ことなきを得た。早朝、さてさてと取扱説明書を見たら見えない。老眼鏡をかけていても起きたては一番見えないからなと放置。そうか、とネット検索して使い方を確認。理解した。それからさっきの説明書にもう一度目をやる。さっきよりは見える。すでに情報が頭に入ってるから推測で読めてしまうというのもあるのだろう。それにしてもこの説明書、字が小さすぎる。さっきはこんなに目が悪くなってしまったのかと驚いたけど手元の『フロイト症例論集2』(岩崎学術出版社,2017)の文字と比べても半分くらいしかない。ほんとフォントはいくつなの?「ほんと」は単に韻を踏みたかっただけ。これやりだすと止まらない。私は身近になんでもラップにできる名人がいてほんと韻を踏むのがうまい。私みたいに韻さえ踏んでればいいという感じではなくきちんと意味を持たせてくるからすごいなと思う。きっと何するときもリズムで覚えてしまうのでしょうね。楽器も弾けるし。私はセンスも記憶力もないからな。語彙が増えない!それなんだっけ、とすぐになってしまう。韻を踏みたくなる性質とは異なる性質を身に付けるべきだった。

昨晩は私主催じゃないフロイト読書会でアドバイザー役。「鼠男」「ラットマン」と呼ばれる症例の論文「強迫神経症の一症例についての覚書(1909)を読み終わったのでその振り返り回。SE10(151-240),岩波全集10(177-271),岩崎『フロイト症例論集2』(2−98)。「病歴の抜粋」を混乱しつつ読んで、「理論編」はさっぱり。フロイトが後半を「理論編」と名付けたのは1924年。その前の年1923年に追加された脚注には

「ここに報告した分析治療によって患者は精神的健康を回復した。彼は、多くの他の前途有望な青年たちと同じように、世界大戦において命を落とした。」

とある。前にも書いたけど非公式ながら最初の国際的なコングレスがオーストリアのザルツブルグ(Salzburg, Austria)で開かれたのが1908年。フロイトはユングに臨床的な発表をと依頼しフロイトが選んだのがこの若きロシア人、ランツァーの症例だった。この発表は大変盛り上がり4、5時間に及んだらしいが記録は残っていないという。フロイトが脚注を書いたのは1923年だがランツァーが亡くなったのは1914年11月25日。第一次世界大戦の初期だった。戦争でフロイトはというか、フロイト派はshell-shock,戦争神経症と出会い、そこで精神分析的な方法を取り入れることになる。

いかん、別のことをはじめてしまった。もう時間がない。今日もがんばろう。

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精神分析

主にオグデン論文。

今朝は「葦」のパウンドケーキ、いちじく。いちじく大好きだけど高くて。この前もスーパーのいちじくを眺めながら立ち尽くしてしまった。見ていたら安くなるというわけでもないのに。今日は普通の紅茶を淹れた。色々やってる間に冷めてちょうどよくなるかなと思ったけどここに座ってしまったから熱いままいただくことになりそう。部屋の温度がまだ高めだから汗かきそう。でもこの時期は外の気温が高すぎてお散歩にも出られないし汗かく時間も必要か。

今朝は無料の仕事に関連する夢を見た。精神分析をしているとお金というのは本当に様々な意味を持つ。今読んでいるねずみ男の症例もそうだし、交換をどう考えるかということでもある。何かを考えるときにその人なりの基準があるわけで精神分析の場合は当然精神分析理論が前提になる。そしてその理論を引き継ぎつつ更新していくために多くの精神分析家が日夜臨床と検証に明け暮れている。先日サンフランシスコで開業しているオグデンの新しい論文を読んだがオグデンは「無意識なんてものはない」と強調していた。並行して読んでいるラカンも無意識の概念を更新しようとしているけど彼らのしていることの大きさにやっぱりすごいと思う。私は英語もフランス語もその書き方について何かを言えるほどわかってないけどオグデンの語り口の基本的な穏やかさはわかりやすい英語のせいかもしれない。

To say this is not to suggest

that we not use the concept of the unconscious,

it is to say that

when we use the idea,

we should be aware

that it is just an idea

– not a place,

not a second mind.

こうやって区切ってみるとさらにわかりやすい。オグデンはこの論文で無意識を実体としてみることに警鐘をならす。その概念を使うなという意味ではなく、それは単なるアイデアであり、場所でも二つ目の心でもないとオグデンはいう。要するに、と私が簡単にまとめるのはよくないが、オグデンはフロイトが「無意識」論文の冒頭で書いた部分を読み込みながらフロイトがその存在を「明白」と書いたことに反論している。この強調の仕方は主に誰に向けてなされているものなのだろう、と考えたりもするがそれはまた別の話かもしれない。フロイトの「無意識」論文自体、「欲動と欲動の運命」「抑圧」というその直前の二つのメタサイコロジー論文を踏まえる必要があるがオグデンはそれは前提として書いているのでそこには触れない。なのでオグデンを読むまえにフロイトを読む必要があるのはいうまでもない。オグデンの書き方の背景にどれだけの実践と古典との対話が積み重ねられているかを考えるとその途方もなさに驚く。私はオグデンという精神分析家が精神分析実践において患者の実存的なニードを認識する仕方を感じたいだけなので興味がある人はそれぞれ読んでオグデンのnot to convince, but to invite imaginative response.に応えてほしい。無意識について再考したあと、オグデンはトラウマに対する精神分析実践から精神分析における時間の経験を検討する。この二つの主題のつながりの部分をオグデンは書いていないのでそこにも想像力が必要だが最近の著書で書かれた認識論と存在論に関する議論を踏まえてフロイト、フェレンツィに立ち返りつつ書かれているように私は思った。オグデンは精神分析セッションにおける時間経験をこう書く。

The experience of time in the analytic session is at once synchronic (from the Greek for “together” and “time”) and diachronic (from the Greek for “through” and “time”). 

これをもっとも説明しやすいのがトラウマの事例ということだろう。この議論も表面的に読んでしまわないようにしたい部分である。

なかなかしっかり本を読めないが少しずつ少しずつ。今日も良い1日でありますように。

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筋肉痛、和菓子

筋肉痛。動きがおぼつかない。運動した翌日、筋肉痛だなと思った数時間後に「きた!」と本格的に筋肉痛になるのを意識した。自分で「へー」と思った。昔は起きたら筋肉痛という感じだったけど今は時差(?)があるから前日の昼に運動したとして痛みがくるのは24時間後だったりする。それで筋肉痛ってこういうプロセスを辿るのかと気づいたわけだけどこれも個人差あるでしょうね。

今朝は山梨県甲州市塩山のお土産、三省堂(さんしょうどう)さんの「一葉〜」というお菓子。小福だっけな。来福だっけな。福が入っていた気がする。すぐそこのキッチンに戻ればわかるのだけど動きたくない。美味しいものはなんでも福。これ、前にも書ってきてもらったことがある。半分に切ると緑の梅が出てきてびっくりする、と思ったらこれ桃なんだって。若い桃ってそういえばあまり意識したことない。小さい緑はみんな梅だと思ってるかもしれない。いや、柿とかみかんはわかるか。わかるか?うーん。それはともかく和菓子を半分に切ると断面がかわいくて楽しい。甘さ強めだけど小さいし濃い緑茶と合います。冷たい麦茶も合います。今朝は両方用意しました。かわいい和菓子は「一葉懐古」というお名前でした。キッチンへ行ったついでに確認してきた。「福」入ってなかった。まあ美味しかったから幸福。こういう記憶の適当さってなんなのかしらね。「一葉」は樋口一葉だから忘れないのだけど。塩山中萩原地区は樋口一葉のご両親の出身地とのこと。ゆかりの地の和菓子。一葉自身は東京の千代田区に生まれ、文京区に10年、その後、台東区(当時は下谷区)、でまた本郷かな。ご両親の地元には行ったことがなかったみたい。本郷の一葉記念館ではその短い人生を作品と共に丁寧に追う展示が見られます。一葉ゆかりの地を散歩するのも自ずと文豪ゆかりの地を辿ることにもなるからおすすめですわ。谷根千文人マップというのもあります。

さて、さてさて、この時間にやっておくべきことはなんだったか。昨晩遅くに突然ポストカードの箱というか入れ物を開けてしまったら色々懐かしくて収拾がつかなくなってしまった。主に20代の頃に集めていた。当時はたくさんお手紙も書いていたけど。これ少しずつ使う機会作ろう。すごくかわいいのがたくさん。多いのはバースデーカード。昔はどこ行ってもカード買ってたな。暑中見舞いも書きましょうか。そうしましょう。

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オグデンの「無意識」更新論文を読んでいた。

満月に見えるけど満月の一日後の月がまだうっすら出ている。ピッカピカの光は水色の空にすーっと吸い込まれてしまったみたい。昨晩は雷に打たれ、いや、打たれていない、だからここにいる、ピカッ、ドーンの距離がすごく近い中、一気に降り出してきた雨にすっかり濡れた。遅い夕食をしてやるべきことやってこの前見つけたオグデンの論文を読み始めたらすっかり遅くなってしまった。なのに朝はいつも通り早朝に起きられてしまう。あと1時間半くらい遅くてもいいのだけど起きてしまったので書いておこう。麦茶冷たい。いつからか麦茶を作っておく夏の習慣が始まっていた。でも今年はあまり減らない。部屋が冷えてくると温かいのを飲めるではないか、と温かいのにしてしまう。今は減らないから飲んでいるという感じ。おいしいけど。

さて、今回のオグデンは攻めている。ように見えてこれまでの集大成的文章のように思う。ちょっと前にここでも書いたOgden, T. H. (2024) Rethinking the Concepts of the Unconscious and Analytic Time. The International Journal of Psychoanalysis 105:279-291。このジャーナルに論文載せるのは夢だな。がんばらないと。

さてオグデン。なかなか始まらない劇場。オグデンは題名通り、まずは無意識の概念を一見今どき、つまり意識側から書き直す。でも読んでいるとその方法はウィニコットを読むオグデンの仕方と変わらない。今回はフロイトの「無意識」論文からA gain in meaning is a perfectly justifiable ground for going beyond the limits of direct experience [to justify acceptance of the existence of the unconscious mind]. When, in addition, it turns out that the assumption of there being an unconscious enables us to construct a successful procedure by which we can exert an effective influence upon the course of conscious processes [for example, psychoanalytic treatment], this success will have given us an incontrovertible proof of the existence of what we have assumed. を引用し、特に“incontrovertible”を導きの糸にしている。この部分は全体を示してもいるからこういう引用をズバッと決められてからだとどこ取り出しても同じような気がするがこの単語なんだと思った。“incontrovertible”。

オグデンはウィニコットのようにThis paper is meant not to convince, but to invite imaginative response.と読者の想像力に期待する。今回も難易度高い。オグデンも常に古典に戻る人なのでフロイトを読んでいるのは前提となる。ウィニコットはフロイトを読まなかった、という逸話があるが正確には読まないことを指摘されたので読んだ、でも死の欲動には同意しかねる、だったと思うが正確ではないかもしれない。ウィニコットの書き方についてはよく取り上げられるけど読まれたいのか読まれたくないのか読ませる気があるのかないのかわからない書き方はウィニコット自身の読み方と関係があると思うけど、オグデンは読み方と書き方の両方をユニットしてものすごく意識して仕事している人だと思う。あときき方。これが一番かな。

今回のオグデンのthere is no such はthere is no such entity as the unconscious. カルロ・ロヴェッリの「時間は存在しない」を思い起こす。オグデンはフロイトはincontrovertibleと書いたがこの部分って言い換えれば the claim that the unconscious exists is based on the success that the assumption has had in helping us understand the meanings of our experience that lie beyond conscious awareness. ってことでしょう、と書いている。とにかくそれはメアファーであり精神分析家たちが作り上げた物語でありThere is no “inner world” (inside what?), nor are there object relationships inside of it, nor are there alpha-elements, beta-elements, alpha-function; there is no id, ego, or superego, no life instinct and death instinct, and so on. だと。夢だってそうだよ、と。今回のオグデンはシンプルに突き進む。オグデンに言わせれば無意識とは not a place or a thing, it is a quality of one’s thinking, feeling, and experiencing. である。

と書いているとキリがないがこのあと臨床素材もはいり、精神分析的時間の検討に進む、という論文。フロイト回帰というのはフロイトの方法に戻ることではなく更新するための回帰だと思うのでオグデンは忠実だなと思う。見習いたい。

すっかり光が強くなってる。まだ空は薄めだけど。汗をかく音を拡大したら蝉の声みたいな感じじゃないかと思うんだよね。ジトーって感じで。オグデンはWe listen to the words, not through them. と書いている。それはとても大事ですよね。どうぞ良い一日を。

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ノートとか星形もなかとかラカンとか。

なんだか珍しい夢で目が覚めた。面白かった。が、起きたら起きたで眠い。夏休みに向けて色々準備せねばなのに。それにしても暑い。眠い、暑いの繰り返し。冬は寒い、眠いの繰り返し。昨日はノートを三冊もらった。方眼紙じゃなくて方眼罫か、今、ノートを見たら書いてあった。5ミリ方眼罫(リーダー罫入り)と6ミリと7ミリの罫線の三冊。ノート好きだから楽しい。全部フランス精神分析の勉強に使う。たまたま読んでいた論文をまとめるのにゴージャスに二冊同時に使い始めた。

今朝は甲州市塩山のお土産、老舗和菓子屋「三省堂」の星形もなか。青えんどうを使った餡が詰まっています。ほんのり不思議な香りがするのは桜葉?とにかく見かけがかわいらしい。昨日はとてもきれいな満月が出ていたけど星は見えなかった。時間差で追加。想像力で補えるのってそれまでの体験と知識のおかげ。

私は大学に入れてもらってようやく勉強の楽しさを知ったけど本だけは小さい頃から読んできてよかったなと思う。難しい文章に出会ってもあまり抵抗がないのは結構お得なんだと思う。とりあえず読み流すことができてしまう。すっごく時間がかかったとしてもいつのまにか読めるようになってたりするからとりあえずこだわらないでおくのって悪くない。

昨日は時間があったから後期ラカンの論文をパラパラ読み、方眼罫ではない方の6ミリ罫線のノートの方にメモしていた。この前読んでいた『エクリ』の「治療の方向づけ」に関する論文は前期。まだ対象a(プティ・オブジェ・アー。フランス語はかわいい)もなかった頃。後期になるとプティ・オブジェ・アーも「見せかけ」になってシニフィアンからそれ以前のものであるララングへ、つまり言語から身体の問題が検討される。S1がララングってノートに書いたみたい、昨日。でもこれは反復の群れであってどうこうと色々書いているがもうすでに覚えていないな。こういうことの繰り返し、勉強というのは。後期だから「ファルス関数」とかもメモってある。また勉強しましょう。

しまった、また眠くなってきてしまった。動こう。がんばろう。暑いのでお気をつけてお過ごしください。

(追記メモ)

今日の夢はささやかながら即座に叶った願望充足の夢だった。が、夢は夢ゆえに欲望の消失へとは導かない。欲望は満足なんて求めてない。満足してしまったら消えてしまうのが欲望だから。ネット上のコミュニケーションに限らず、言葉は常に誤解されるのが基本なのもそういうことかな。欲望しつづける欲望。

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精神分析

オグデンを少し読む朝。

夜明け。水色の空。夏至から1ヶ月。日の出も少しずつ遅くなっているとはいえ4時台にはすでに明るい。昨晩は豪雨で大変だった様子。帰ってきた頃はまだ雷もうっすらで雨もそんなに降っていなかったのだけど。目黒川と妙正寺川が警戒レベルだった時間もあったみたいだけど大丈夫でしたでしょうか。友達とワンコが雷怖がってるだろうから早く帰ってあげないと話したりしてたのだだけど大丈夫だったかしら。ハリケーンで飛んできた亀を飼った話とかも面白かったな。私が日々亀を愛でているのは多分学校にいけない子の家庭教師をしていたときにそのうちの亀と仲良くなったからだろうな。金魚も人に懐くらしいけどそれは餌付けというやつでは。そんなこといったら人間もそうか。美味しいお菓子に日々つられている私としては。昨日もとってもかわいい季節のお菓子をもらってしまった。「ふきよせ ほたる狩り」だって。世の中にはなんでこんなにかわいいお菓子が多いのだろう。あら、新宿区が警戒レベル3相当、というお知らせが来たのだけどどの川?川の名前が書いていないし旧玉川上水はすでに川じゃないし近いのはどこだろう。神田川か?お隣ではある。つい最近下水道の工事をやっていると中野区在住の人に聞いて、神田川って排水のための工事すごい大規模にしてたイメージがあるけどまだやってるのか、と思ったばかりだった。うーん。全国どこもかしこも被害が出ないといいなあ。

最近、IPAが出しているジャーナルを読んでいないなと思ってチェックしたらオグデン(Thomas H. Ogden)の論文が最初に出ていた。

Rethinking the concepts of the unconscious and analytic time。無意識と分析的時間の概念の再考。

Ogden, T. H. (2024) Rethinking the Concepts of the Unconscious and Analytic Time. The International Journal of Psychoanalysis 105:279-291

無意識と分析的時間の概念を再考する論文らしい。引用文献を見る限り、私の一番好きなオグデンという感じ。フロイトの引用は以下のこれら。

Freud, S.1900. “The Interpretation of Dreams.” SE 4/5.フロイト『夢解釈』フロイト全集4、5(岩波書店)

Freud, S.1914. “The Unconscious.” SE 14.フロイト「無意識』フロイト全集14(岩波書店)あるいは「メタサイコロジー論」(講談社学術文庫)

Freud, S.1915. “The Unconscious.” SE 14.あれ?なんで「無意識」論文二つ?こっちがあっているのでは。あれ1915年のはず。あとでチェック。

Freud, S.1918. “From the History of an Infantile Neurosis.” SE 17.フロイト「ある幼児神経症の病歴より」フロイト技法論集(岩崎学術出版社)

オグデンはここで単にrethinkingをするわけではなくてその方法について書くらしい。

最初が早速フロイト「無意識」論文からの引用。これ1915年になってるから間違いかな。でも校正で気づくだろうからこのあと1914年のも出てきたりするのかな。オグデンはこの論文の以下の部分を引用してフロイトが無意識の存在を“incontrovertible” と書いたところを取り上げる。こういうのがオグデンの手法だなあと思う。引用されているのはこちら。

A gain in meaning is a perfectly justifiable ground for going beyond the limits of direct experience [to justify acceptance of the existence of the unconscious mind]. When, in addition, it turns out that the assumption of there being an unconscious enables us to construct a successful procedure by which we can exert an effective influence upon the course of conscious processes [for example, psychoanalytic treatment], this success will have given us an incontrovertible proof of the existence of what we have assumed. (167)

この部分の十川幸司訳はこちら。

「ところで、意味および関連性において得るところがあるということは、私たちが直接経験を越えて踏み出すための十分に正当な動機となる。また、さらに無意識の仮定に基づいて、意識過程の経過に対して目的にかなった影響を及ぼすための手続きを構成することができたなら、その成功は私たちが仮定した無意識が存在する明白な証拠になるだろう。」

“incontrovertible”は「明白な」と訳されていてこれをあえて取り上げる気にはならないと思う。むしろこのあとの

「したがって、心の中で起きるすべてのことはまた意識にも知られているはずだと要求するのは根拠のない自惚れにほかならない、という立場に私たちは立たなくてはならないのである。」

の太線(本では傍点)の方が気になってしまうけどオグデンはやっぱりこっちじゃないんだ、という感じ。こういうのがワクワクオグデン、個人的には。

この論文ではこの「無意識」についての再考と、「無意識」論文でフロイトが「無意識系の諸過程は、無時間的である」と書いたようにdiachronic time (clock time) and synchronic time (dream time)、通時的な時間(時計の時間)と共時的な時間(夢の時間)について再考を行うらしく、我々はその方法を事例を通じて教えてもらうことになるのだな、という感じの論文らしい。今こうやってメモ的に書いておかないと何度も読み直すことになってしまうのが厄介だな。すぐ忘れてしまう。

ああ、朝に時間があるって素晴らしい。ところで昨日読んでいたのはeducation sectionで精神分析設定についての論文だったと思うのだけどそれはどこで見たのだろう。昨日はそこで中心的に引用されていたJosé BlegerのPsycho-Analysis of the Psycho-Analytic FrameをTwitterにメモしただけで、大元の論文をメモするのを忘れた。NHK俳句の時間だ。みよう。May,J.がゲストだー。歌える人は俳句も上手そう。雨やんだね。一気に晴れてきた。被害が出なかったならよいけど地盤緩んでるかもしれないから気をつけて過ごしましょう。

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フロイトを読んでいた、いる。

今朝は「葦」のパウンドケーキ、マロン。こう書くとフランス語の語順っぽい。美味しい。あとゴールデンキウイ。いつからゴールデンとかできたんだなど言いながら。ホットコーヒーと。やや汗ばむ。

毎日、精神分析とは、と考えてはウンウン唸っている。私がやっていることそれ自体なのだけどそれってなんなんだろう。私は精神分析は医学でも心理学でもないと思っているので自分が所属している臨床心理学の世界と連続したものと考えていない、という時点で周りとの違いを感じる。フランス精神分析はその辺が普通にオープンで勉強しやすい。フロイトをしつこく読んでいるのもラカン派の本を読んでいると当たり前というか必須以外に思えないので常にフロイトから始める、みたいな人がまわりに増えればいいなといつも思う。しかし、フロイトを読み込むのは時間もかかるし、臨床中心の生活ではそういう時間も限られる。だからこうやって早朝に読んだりするわけだ。それぞれの限られた時間を思えば周囲に甘えているわけにもいかないしな。とかいって結構対話してもらっているか。基本はフロイトを読んでいる本と対話しながら読んでいるが、キノドスの『フロイトを読む』はバランスが良くてとてもいい。kindleで英語版も持っているので語彙の確認もしやすい。なんでフロイトを読みつつ、精神分析とは、とウンウンしているかといえば、自分がやっていることの効果や影響を常に考える必要があるから。これはいいものだ、という前提ではできないし、精神分析プロセスで生じさせる激しさや危うさは自分で十分に体験しているので気軽に導入もしない。もちろんそれは私の場合であるし、ケースバイケース。臨床家としていろんな現場でいろんなことをしてきたがその中心にあったのは週一の心理療法だった。今もそれは中心だけど考える起点と基盤が精神分析に変わってしまったのでまた新たに臨床から学ぶしかないんだな、結局。何歳になっても。

昨日は1920年の『快原理の彼岸』を読んで唸っていた。ここまでにも大量の論文を書いているフロイトが考え方をグッと変えてきた論文。ものすごい天才が考えていることなど私にわかるはずもないと思いつつ、それまでの蓄積とそのあとの流れと同じ実践に基づいているというところを頼りに読む。ラプランシュもデリダもこの論文の読解に力を割いている。局所論、力動論、経済論を考慮した心的装置を考案しようとするフロイトの記述はそれまでのメタサイコロジーの更新を伴う。意識、前意識、無意識という第一局所論からエスー自我ー超自我という第二局所論への移行、力動論はメタサイコロジー論で精緻化された通り欲動に起源を持つ力動論、そしてエネルギーの量的観点からの経済論的記述。さっき考え方を変えたと書いたけどそうではないのか。『草稿』『ヒステリー研究』ですでに構想されていたものか。でもこれまで同意するかどうかはともかくふむふむと読めていた快ー不快の解釈は臨床経験によって変わってきてしまったわけだからフロイトが一番困ったよね、きっと。自分で考え続けてきたことにどう落とし前つけるんだよって感じだったろうねえ、とわからなさをフロイトに気持ちを寄せることで誤魔化しながら読む。そういうことを今日もやるわけですね。ウンウン。がんばろう。

それにしても暑いね。ゴミ捨てに行っただけで紫外線いっぱい吸収した感じがする。ジリジリ。熱中症にも気をつけましょう。どうぞ良い週末を。

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BGM、マカロン、夏休み

着々と家事を済ませた。昔はなにがそんなに面倒だったのだろう、という感じでサクサクと。今は面倒がること自体が面倒。仕事前に読みたい本があったりちょっと遠回りして出かけたいとかやりたいことがあるといろんなことにいちいち重みづけしている時間があまりない。なのにまたこんなこと書いてる。これも習慣になってしまってるから別の習慣に取って代わられるまでは続けるんだろうなあ。今朝も起きたら柳樂光隆さんからのお知らせメールが来てて「また書いたのか!」と思ったら今回はプレイリストの紹介だった。かなりの頻度でものすごく充実したインタビュー記事を届けてくれるのは大変ありがたいのだけどライブに行く時間がないのが残念だなあ。知らなければ行きたいとも思わなくてすむのに。うん。このプレイリストは確かにBGMにいい。気持ちよく作業ができそう。

友達からもらった小さいマカロンを半分に切ったら真ん中に何か入ってる。ジャムかな。うん?これはジャムというのかな。甘すぎないおしゃれな味!かわいい色ばかりの素敵マカロンたちだった。これでおしまい。ありがとう。明日はまた「」のお菓子。今回は藤沢店。湘南台で地元のカフェだと思って寄ったら相模大野にも販売だけの店舗があって「え?チェーン店だったの?」となって調べたら神奈川にいくつかあって藤沢ルミネにも入ってたって買ってきてくれた。でもまた「葦」のカフェも行きたいな。ケーキ一個とかもう全部食べられる胃腸がないのだけどグラタンとかもあるからかわいいケーキを眺めながらお茶したい。なんで胃腸が弱いのに食べることばかり考えてしまうのかしら。身体と欲望って釣り合わないから色々大変なのよね。

子供たちは今日で今学期おしまいかな。お疲れ様。プールとか大変だよね。好きでいくならいいけど実技のテストとか本当に必要なのかね。私はスイミング通ってて泳げてた時期もあるけど思い出としては「毎回えらく疲れたな」くらいでなんであれが学校の評価に使われるのだろう。水を怖がらないとか自然に危機対応できるようになるとかだったら必要だろうけど。にもかかわらずこの前中学生に泳ぎ方を教えてしまった。質問に答えていただけだけど途中からなんか偉そうだわと思って「まあ陸地にいればなんだって言えるけどね」と言ったら「陸地」が別の言葉に聞こえたみたいでなんかチグハグして、笑って、いつのまにか水泳の話からずれていった。いろんな話しながらなんとかやっていこうね。良い夏休みになりますように。

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ボウイとか。

オレンジ色のメロンとショコラオランジュのマカロン。最近のマカロンは美味しい。流行りはじめた時期は苦手だった。マカロン型の小物はかわいくて好きだった。

この前、ジャズ界の作編曲家のマリア・シュナイダー Maria Schneiderのインタビューで彼女がデヴィッド・ボウイDavid Bowieに見出されてロックとジャズを融合したと知ってDavid Bowieをずっと聴いていた。今は1977年のアルバム『LOW』のB面だった(1991年CD化)「Warszawa(ワルシャワの幻想)」を聴いている。ブライアン・イーノBrian Enoとの共作。プロデューサーはトニー・ヴィスコンティTony Visconti。こういう情報ってサブスクだと調べにくい。昔は聴きながらレコードとかCDジャケットとか飽かずに眺めていたから自然に入ってきたけど、今ボウイを聴くとなるとほとんどリマスター版だからクレジットに発売年が書かれていない。Spotifyだからかもしれないけど。それにしてもこの曲は特殊というかブライアン・イーノと聞けばなるほどとなるけど当時はびっくりされたわけでしょう。マリア・シュナイダーもそうだけどミュージシャンたちはみんな自分の音を常に求めていて、そのためには相手が絶対に必要で、その人そのものよりその人の音に反応する。もちろんその人の音はその人そのものを表してもいるわけだけど人としての現れで考えると色々難しいよね。精神分析でいう部分対象と全体対象の関係ではないわけだから。もっとミクロな部分を捉えて反応していくしかたは同じだけどその前提にすごく主体的な自分がいて、その自分を変えていける人がそれに成功しているのだと思う。もちろん有名な人たちにはそういう人が多い気がするというだけでこのあり方の方が優れているとかそういう話ではないわけ。だって一人でそんなふうになれないという時点でいろんなものはみんなのものでしょう。ジャズの歴史を知ると特にそう思う。環境が整わなくても小さな頃に本物と言われるジャズと出会うチャンスがあったり、日本ではきいたことがない種まきがたくさん行われている。やりたいやりたくない以前に「これいいな!」と思えるものがたくさんできると楽しいよね、とりあえず。詳しくなくたってなんだって自由に語れる場がたくさんある環境もいいよね。なんかすぐバカにしたような態度とる大人が多いのはよくないでしょう。ムカつくよね。子供が大人をバカにするのもよくないけど大人は教育できる立場にいるわけだし、それはどうにかがんばろう。ボウイあるいはボウイの曲みたいに力をくれる存在にみんな何かしら出会えるといいと思う。今日も良い1日でありますように。

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禁欲原則とか。

鳥たちが賑やかに通り過ぎていった。彼らにも朝の挨拶のようなものがあるのだろうか、という疑問をこれまでなんども書いている気がする。調べればいいじゃん、ということかもしれないがこの問いはそういう類のものではない、ということがSNS上などでは通じない世の中だからコミュニケーションって変わったなあ、と思う。私は実際の人と対面して、見かけ上は一方的に話を聴いているが、問いかけを答えるべきものとは思わないし、問いが答えを求めていないどころか問いかけの形にして言いたいことがあることも知っている。まずひたすら耳を傾けること。その意義は今はますます大きいような気がしている。なんてことを書こうと思っていたわけではないが、精神分析の基本設定について考えていた。フロイトは禁欲規則 rule of abstinenceといって精神分析をしている間は結婚したり外側を大きく変えるような行動はするなというようなことをいった。そういうのを精神分析の世界では「行動化」というのだが、フロイトの時代は週6回通うとはいえ治療期間が今よりずっと短いのでこれもある意味契約のひとつだろう。しかし禁止なんてできるはずのない心があるとわかっているから精神分析はあるので二人の関係に外側を使って何かを生じさせようとする心について考えるのが現代の精神分析家の態度である。小此木啓吾をはじめ、私の親世代より少し上の精神分析家たちはフロイトに忠実であるとともに「日本では」ということを模索してきた。小此木先生はフロイト的治療態度、主に禁欲原則・分析の隠れ身・医師としての分別(Freudian fundamental attitude(neutrality・abstinence rule・analytic incognito physician’s discretion))に関するお話をフェレンツィ的態度との比較においてたくさんしていた。私の親より少し下の精神分析家たち、つまり今の日本精神分析協会の役員世代の先生方は世界を標準にしたフロイト再読が普通であり、それぞれにフロイトの技法を咀嚼し「自分では」ということを話されている。外では十分に指導的な立場にありながら分析家の中では子どもみたいな私たち世代はフロイトに素手で立ち向かっている人がいるかどうかわからないが私は続けていこうと思っている。応用分野で精神分析が使われる場合でももうすでに古びた印象がある精神分析を治療法として今を生きる患者に使用しているからには今の時代で精神分析ができることを考える必要がある。とはいえ、人と話すたびに古びゆく自分を実感する毎日、まだ本当の子ども世代の患者にも「今はね」と言われながら教わる日々。まあそれはそれでありがたいことだ。なにかもっと言いようのない良さについて書こうと思ったのに全然違うことを書いてしまった。言いようのないものは言いようがないのだからしかたないか。無理に言葉や形にする必要などないこともたくさんあるのだろう。今日もがんばろう。どうぞご無事で。お元気で。

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ジャズとかお喋りとか。

昨日のTBSラジオ「荻上チキ・Session」での柳樂光隆@Elis_ragiNa さんの選曲、よかったなあ。

Ambrose Akinmusire (アンブローズ・アキンムシーレ)はお気に入りに16曲入っている。MARIA SCHNEIDER(マリア・シュナイダー)のインタビューにも力をもらったしMelissa Aldana(メリッサ・アルダナ)のサックスには自然を感じる。ジャズにも色々ある。今回の選曲は昔の私だったらびっくりしてしまう曲ばかりだった。マイルス・デイビス、サラ・ヴォーンを中心にずっとその辺りばかり聴いてきたから。

知らない街で迷った。駅近くのドトールが空いている街だった。なのにコメダもできるらしい。なのに、とは、と自分で書いてみて思った。「なのに」は「店として大丈夫か」という経営者目線。一方で「しかも」だったら「いいなあ、作業に集中できそうな場所に恵まれてて」。それにしてもGoogleマップのナビで目的地に辿り着けたことがない。でも知らない街は楽しいな。全く知らないわけではないのだけどいつもわかりやすいところしか行かないからキョロキョロキョロキョロしてしまった。昔からあるという本屋さんもよかった。自分も子供もそこで教科書を買った、みたいな話も。なんだかんだやりたいことをずっと変わらず続けてこられてることもなんかよかったね、よくは知らないけどなんとなく知っているご家族とかお友達とかが元気と知るとなんか嬉しいよね、とか。言いようのないいい時間だった。

早朝からやっている地元の小さなカフェで天然塩のことを教えてもらった。店長のお子さんもよく舐めているという天然塩。お話をききながら再び少し口に入れてみたら「おいしい」という声が自然に出た。口にするの二度目。そしたらもっと色々教えれくれた。こんな小さなお店でこんなにコーヒーにこだわる人は塩にも詳しいのか。すごいなあ。ステンレスのストローも新鮮だった。紙のストローは嫌やねん。店長の顔と声が知っている作家さんにそっくりで途中からその人にしか見えなくなってしまった。

もう8月かぁ、と思ったけどまだ半分残っている7月を大切にしないと。やるべきことはなんだったか。色々ありすぎてよくわからない、とかいっていないで確認しましょう。そうしましょう。

あまり梅雨っぽくないまま今年も明けるのかな、いつのまにか。散歩道では真夏の花々がすでに萎れていたりした。紫陽花は緑に逆戻り。毎年毎年楽しみな七変化。今年もありがとう。反復のように見えて少しずつ本質的な変化が起きているのだろうけど毎年同じように咲いてフェイドアウトするようにほかの緑に紛れてく。原種はどんな紫陽花なんだろうね。今日は火曜日。間違えないようにしないと。どうぞ良い一日を。

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7月15日(月・祝日)

キッチンの小さな窓にスズメが通りかかった。やっぱり最近鳥の声が少ない気がする。ベッドで耳を澄ましながらこれはエアコンの音のせいじゃなくて鳥自体が減っているのではないか、あるいは鳴かなくなっているのではないか、という気がした。多分そんなことはないのだろうけどずっとそんな気がしていたけどやっぱりみたいな感じになっている。なんでだろう。私の耳が鳥の声を拾えなくなっているのかもしれない。いやだなあ。

個別と普遍という言葉が浮かんですぐに「普遍」以前に「一般」だなと思った。いろんなことはいちいち大きな言葉で語る必要などない。「普通は」といえば「普通が何かって話もあるけど」と付け加えなくてはいけない世界は一部でいい。いろんな言葉に勝手に悪意を付け加えるような心は狭めでいい。とサルトルを読みながら思った。なぜ私はサルトルを読んでいるのかを忘れてしまったのでだんだん読み方が適当になる。必要にかられて読み始めたはずだったのに。おそらく「自我」について考えているときにどこかで引用されていたのがサルトルでこれは読まねばと思ったのだ。おそらくだけど。サルトルはシナリオを書いてしまえるくらいフロイトのことが好き、あるいは嫌いで、精神分析批判というかフロイト批判をしてきた。

なんか書こうとすると洗濯機がなったり色々やらねばならないことが発生するな、とこなしているうちに眠くなってきてしまった。今日は二度寝可能。定期的に身体を鍛えるようになってから身体ががっしりしてきた気がする。部活で疲れきって眠っていた頃みたいな感じで眠れることも増えた。筋肉の要請による睡眠という感じが自然な感じでいい。トレーナーさんに、見た目をがっしりしたくない人もいるからいってくださいね、と言われたけど私はがっしりしたい。体調崩したりすればあっという間に筋力は落ちる。崩さなくてもこの年齢になれば自然に落ちるし回復しにくい。なので鍛えられるときに鍛えられる部分をと思う。ジムでガシガシ鍛える根性はないから短時間みっちり先生についてもらった方が私にはあってる。細かい感覚に敏感になって変化を感じられるのも励みになるし。私の知らない私の身体。なんとかがんばって私を助けてくださいよ。私も誰かの助けになれるようにがんばるからさ。今日は色々チャージ。がんばろう。

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Dana Birksted-Breen読書会、たとえば「根源的幻想」

おなかが気持ち悪い。果物と炭水化物を摂りすぎたかもしれない。今朝も扇風機が時間をかけて回り始めた。今は快調。

昨晩は読書会だった。どの学派にも属さず、IPAのジャーナルの編集長を15年間やってきたDana Birksted-Breenが精神分析の未来のために残してくれた書物として読んだ。置き土産なら自分の欲望を押し付けるものではなくてこういう全世界に通じるものであってほしいな、と思うのでありがたい。Twitterですでにあれこれ呟いた。日本の精神分析は治療者の逆転移に基づく描写が多いと思うし、実際それは必要なのだろうけど、その背後の理論モデルがないと「それはそうなのかもしれないけどそれって精神分析じゃなくてもいいんじゃないの」となると思う。もう多分20年くらい前のことだけどセミナーで英国のタヴィストッククリニックの子どもの臨床家、Anne Alvarezの技法を紹介をしてくれた平井正三先生に藤山直樹先生が「それは普通に子供と遊ぶときと何が違うのかなと思ってしまうのだけど」と質問していた。こういう素朴な問いはとてもよくて技法には理論的基盤があるということ、そしてアルヴァレズのそれを知る機会になったと思う。例えば最近、私はラカンあるいはラカン派、ラカン派以外のフランスの精神分析家の文献を読んでいるけど昨晩読んだ精神分析設定と絡めた場合の一つの理論的想定はこれ。根源的幻想。ブルース・フィンクの『ラカン派精神分析入門』を使用してちょっと書いてみる。

私たちの最早期の光景とはどんなものだろうか。そしてそれはどんな幻想だろうか。フィンクによるラカン、ラカンによるフロイトの説明はこんな感じである。斜線を引かれたS(自我ではなく主体、意識と無意識に分割された主体)と欲望の原因=aとの関係において、斜線を引かれたS(分析主体)のaへの固着を「根源的幻想」と呼ぶ。これは無意識の幻想であり、フロイト理論における「原光景」(生を構成する性行動の役割)と重なる。この幻想には原因としての<他者>=aの内部に想定された欲望と主体の関係が含まれている。そしてこれが無意識的幻想の場合、そこへの通路は夢である。分析設定(here&now)において、分析家は分析主体のこの欲望の原因となり根源的幻想を投影される。このとき分析家は他者であり<他者>であるが、分析主体にとってこの他者は<他者>でしかなくこれまで分析主体が体験し観念化してきた<他者>であり幻想を生きる。しかし、分析家は他者であり、<他者>の欲望は徐々にこれまでの想定とは異なったものになる。フィンクは「それどころか分析主体がいつも想定していたようなものであったことはおそらく一度もない」と「おそらく一度もない」は太字にして書く。この辺の分析家の態度はお話としてはわかるが分役状況というのは分析家の方も意識的に何かをやれる状態ではなくなっていると私は考えるし、こういうことが生じるのは意志のせいでも意図のせいでもなく現実がそうなのであり、それがないと治療は進展しないだろう。なのでフィンクの描写する分析家の態度はかなり防衛的に思える。この部分がそうというわけではなく、むしろフィンクはそうではないほうだと思うが、ラカン派の分析家の書き方は皮肉を聴かせた極端なものが多い。私はそういうのが苦手。起きたことは正確に描写してほしい。SNSでもこれは皮肉なのか、本音なのか、適当なのか、とよくわからないものには注意を向けないようにしている。わからないから。わからない私に問題があるのだろうけどそういうレトリックはめんどくさいと思ってしまう。患者のこと考えるのにそれいる?と思う。いや、むしろ患者の言葉に対してそういう態度を持てること自体はかなり必要なことかもしれない。うーん、ここは難しいな。精神分析がやっていることって母子モデルを外してしまえば結構AI的なのでかなり皮肉きかせられるような人間的なものとセットでないと難しい面があると思うしな。

そうそう、根源的幻想のお話。この後「一例として」と出されるのが、私主催のReading Freudで読んでいる通称「鼠男」、何度も読んでいる論文「強迫神経症の一事例についての考察」なんだけど、フィンクはものすごーくあっさり要約。鼠男の父親が欲望の原因であるということを言いたいだけだから仕方ないのだけど、この症例の混沌とした部分はその見立てにも関わるでしょう。

などなど色々考えて自分の理論的基盤のもとに臨床をしているわけでその基盤を育てるのもまた臨床なわけだからどっちがどうというのではなく両輪なんだけど私も精神分析の未来を考えて学んでいかないとな。今日はグループ。がんばろう。

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扇風機、Dana Birksted‐Breen、自我

昨晩は涼しかった。信号待ちでは上着がほしくなるくらいだった。夜は窓を開けて過ごした。早朝、再び窓を開けた。暑くはないけどもう少し空気を巡らせたくて扇風機をつけた。動くつもりがあるのかないのかじっとみていてようやく動いている気がするくらいのゆったりさで羽を動かさんとしている。つもりはあるらしい。「そんなつもりはなかった」という言葉も治療中の頻出構文だが大体のことは「そんなつもりなく」やっているものだ。首が回るようにしてあるはずなんだけどと待っていたら羽が少しずつ早く回るのと同時に首もふりはじめた。これもものすごく長く使っているから身体が動かなくなりつつあるのだろう。コンセントまでのコードもなんだかとてもか弱くみえる。この前、トレーナーさんが「サーキュレーターはいいですよね」と言っていて「ほんとほんと」と話しながらうちもこういう小さいのにしようかなと思ったところだった。これの寿命も頭のどこかにあったのかもしれない。ハーブティーを入れる。今朝は温かい飲み物でいい。テーブルに戻ってくるとさっきよりずっと滑らに扇風機は動いていた。

昨晩はイギリス精神分析協会のDana Birksted-Breenの本を読んでいた。

The Work of Psychoanalysis Sexuality, Time and the Psychoanalytic Mind”(Routledge, 2017) 

女性分析家の本を女性だけで読む会で、ジョイス・マクドゥーガルの本を読み終え、次はこれを読むことになった。Dana Birksted‐Breenは福岡の精神分析家の松木邦裕先生のセミナーでよく言及されていたので知ってはいたし、論文や動画も見ていたが一冊の本として読むのははじめてだ。今年1月には彼女のためのカンファレンスが開かれたのもチェックしていた。なので亡くなったというニュースを見たときは驚いた。6月1日土曜日の朝に亡くなったそうだ。Obituaryはこちら。the New Library of Psychoanalysisの編集長を10年、the International Journal of Psychoanalysisの編集長を15年務めたDana Birksted‐Breenだからその書き方にも注意を払って読みたいが今回読む分は分量も多く何かに注意を払う以前にとりあえず読み切るのが課題となりそう。フランスの精神分析家への言及も多そうなのでそれはありがたい。

スーパーヴァイザーの先生とウィニコット理論について話した。私が最も読み、書くときに引用するのはフロイトとウィニコットだが、最近ラカンを読む中で「自我」の位置付けに再び混乱をきたしていた。ウィニコットもラカンも「対象」については詳細に言及しているのだが「自我」となるとなかなか。ラカンは意識的主体を自我と呼んでいたりするが、私はその読み取りができていない。そもそもフロイトが『自我とエス』で示した「自我」がすでに錯綜している。昔、購読会で担当したときに「自我はこんなにたくさん役割与えられていろんなもの投げ込まれて大変すぎる」と発言をしたことがある。いまだにそう思うしラカンも対象としての自我には言及するが自我の自我部分(説明しにくい)は「主体」にすり替えてしまっている気がする。ウィニコットに至っては自我も自己も曖昧すぎるがtrue selfを自我と呼ぶとして、その自我とは、という話を先生とできたのはよかった。ナルシシズムにおける自我というものをどう考えるかというお話。はあ。突き詰めれば突き詰めるほどやること増えて時間がなくなる。臨床のおかげで頭だけで考えなくて済んでいるのはとてもいいことだと思う。昔はそうなりがちだった。いろんな経験していこう。今日の東京は少し過ごしやすいのだろうか。がんばろ。

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國分功一郎のスピノザの本

よく寝た。時間ではなくて質。睡眠って「量」のことを「時間」っていう。「時間」ってほんと特殊。ベルクソンのいうこともわからないではない。

今朝は小布施の栗のスティックケーキとハーブティで。

最近、「意識」について考えていたらスピノザが気になって久しぶりに國分功一郎『スピノザの方法』(みすず書房)をパラパラしていた。「あとがき」でまた泣いてしまった。2022年に出た『スピノザー読む人の肖像』(岩波新書)はこの「あとがき」に書かれた「誰かと一緒に読む」「誰かと一緒に考える」を実現した本なのだろう。どこかにそう書いてあったかもしれないし、書いてなかったかもしれない。

私はスピノザがデカルト読解でこう解説している部分を國分さんが解説している部分が好き。『スピノザの方法』の199ページ、<S公理九>、デカルトの空の例に対するスピノザの二冊の写本の例。

「ある人がここに同一の手で書き写された二冊の本(一冊は著名な哲学者の作品で、他はつまらぬ人間の作品であると仮定しよう)を見て、その言葉(つまり心像としてあるかぎりにおいての言葉)の意味には注意せずに、たんに筆跡と文字の列だけに注意するなら、彼はその二冊の本の間に違った原因を求めるように彼を強いるいかなる相違をも認めないであろう。むしろこれらの本は、彼には同じ原因によって同じ仕方でできたものと見なされるであろう。しかし言葉や文章の意味に注意するなら、彼はそれらの間に大きな相違を見いだすであろう。そしてこれによって彼は、一方の本の第一原因が他方の本の第一原因とはなはだ異なっていたこと、しかも一方の原因は他方の原因に比し、実際にその両方の本の文章の意味が、すなわち心像として考察されるかぎりの言葉が、相互に異なっているだけそれだけいっそう完全であったことを結論するであろう。私はここで、必然的に存在するはずのこれらの本の第一原因について語っているのである。もっともあるひとつの本が他のある本から模写されうるのは自明のことであって私もそれを容認ー否、予想する。しかしいま言っているのはそうしたことではない。」

面白くないですか。この後の國分さんの解説を読むとなるほど、と思うと思う。これ、人の話を聞くときにもそう、と勝手に別の話にしてはいけないのだけどどっちがどっちかなんて観念次第でしょう、ということでもあると思う。これって私が治療でよくいう「いいとか悪いとか上手いとか下手とか嘘とかほんととかはあまり関係ない」というときの感覚を思い出す。この本、デカルトを読むスピノザに対する國分さんの姿勢が一貫して他者というか、研究者の立ち位置の維持には強固な意志が必要なのだろうなと思った。この本を読んでから岩波新書の『スピノザー読む人の肖像』を読むとすごくスッキリした本だなと思うのだけど実際に読んだときは粘りが必要だった。粘ってよかった、と思えるのが國分さんの本だし、いい本ってことだと思うけどね。

さてさて、夜中までこんな読書をせずに読まねばならない本があるのだ。しかも英語だ。はあ。がんばりましょ。

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自称。

風の音。洗濯は早朝にできあがるようにタイマーをかけていた。早すぎるのでベッドに戻る。エアコンが微妙に寒かったり暑かったりで寝たり起きたりしてしまう。夏は本当にちょこちょこ仮眠とりながら生きながらえる感じか。それにしても眠い。いや眠くない。寝たい。これだ。少し寝てまた起きた。宇多田ヒカルが聞こえたから。

宇多田ヒカルが精神分析を受けていたと聞いて精神分析に興味を持つ人が少し増えたらしい。日本の場合、「精神分析」を頻回の設定でのカウチでの自由連想、という捉え方をしている人は少ない印象。私のところにこられる場合は、私が実際におこなっている精神分析の方法を説明するのでそこではじめて「そうなんですね」と理解される場合も多い。もちろんオフィスのWebサイトにも詳細に書いているし、皆さんそれを読まれてから申し込むようなのだが人間って意外とこういうところがある。馴染みのない情報を処理する枠組みを持つのは自然にできることではないのだ。「書いてあったでしょう」「言ったでしょう」というのは継続的に会っていても「あれ、そうだっけ」となることも意外とあるのだから面白いものだ。それに私が所属する国際精神分析学会(IPA)の制度に則ったものだけが「精神分析」ではないので、自称でも構わないのだと思う。もし私が「自称精神分析家」だったらそう言うけど。それは私が認知行動療法を求められてこれこれこういう本とセミナーで勉強したくらいで実践経験ほとんどないですよ、というのと似たようものでとにかくその人の言葉での説明は大事だろうと思う。実際やってみないとそれがそれでないことにもはっきり気付くことはできないのだから曖昧なものを「自称それ」と言いながらやるのもなしではないだろう。それぞれの臨床家の倫理や治療観による。

ラカンを読んでいて情動論的転回について考えるに至ったが精神分析独自の文脈があるからやはりまたフロイト『夢解釈』に戻ることになる。不思議だ。このテキストは本当に原点なんだな。

今日も暑くなりそう。どうぞお気をつけてお過ごしください。

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ハムレットとか。

今朝も鳥よりエアコンの音を先に聞いてしまった。あと洗濯機。電気の音ばかり。アメリカ西海岸での生活を体験した組で最初は一人前をシェアしていたのにしなくなったとか何キロ太ったとか冷蔵庫がどうとかこうとか話した。最近の家電の相場とか全くわからない。ガソリンが本当に高くなったと思うのはガソリンスタンドを日々目にするから。家電量販店にそんな頻繁には行かないから「あれ、こんな高いのからしかないんだっけ」とか思うことはあるけど変化を体感できていないからいつも曖昧。我が家は家電の持ちが良いらしく、それはありがたいがこの時期に冷蔵庫とか壊れたらすごく嫌ね、という話もした。うちはもう20年使ってる。でも作り置きを常にしているとかではないからダメージはそんなにないか?いやいや、今は果物がいっぱいあるから絶対だめ。チョコも結構溜め込んでるからだめ。このうちめちゃくちゃ高温になるから、など思った。

ラカンを読み始めたら止まらなくなってしまって『ハムレット』まで読み始めてしまった。ラカンじゃないじゃん、ってそう、もちろんシェークスピアなんだけど、ラカンが引用してるから。フロイトもしてる。フロイトの解釈にはある程度慣れているからラカンの解釈が新鮮で(私にはあまり面白くないけど)そうなるとやっぱり引用元を読みたくなるというのは自然な流れでしょう。シェークスピアは角川から出ている河合祥一郎の新訳を読むようになった。子供の頃は翻訳が誰かなんて気にしていなかった。『ヴェニスの商人』が怖くてしかたなかった。何度も何度も読んでしまった。怖いもの見たさって言葉は本当に的確。ハムレットと母ガートルードのやりとりもいいがやはり心に響くのは狂ってからのオフィーリアのセリフ。割と早くに退場してしまうにもかかわらず彼女だけがその世界で美しい花である。それゆえに狂ってしまうのだろうけど。でも最後まで知的。ハムレットがウジウジと激しく揺れ動くことにはそれほど混乱していないのに舞台が血生臭くなっていくにつれ死を花に変えるオフィーリアの力が弱まっていくようで悲しい。ガートルードがそういうものを生き抜いている大人の女として彼女をいたわるような場面も悲しい。ああ、語彙が少ない。美しい、悲しい、しか出てこない。ハムレットめ、やたら饒舌な王子様で腹が立つがあの憎めなさはなんなんだろうね。不思議。って、私は全然精神分析的ではないな。精神分析的なというかフロイトとラカンの解釈はあまり面白くないよ。さっきはカッコ付きで書いたけどやっぱり私はそう思ってるってことだね。一緒に舞台見に行っても面白くなさそう。一緒に行くことがないから好き勝手言えますけどね。でも一緒に行くならフロイトの方が楽しそう。きちんと会話してくれそう。こういうのはイメージだから。ハムレットのイメージだって人それぞれでしょう。シェークスピアはいいなあ、やっぱり。

昨日服の上からたくさん蚊に刺されて痒い。舞台上にはずっと痒がってる人とかあまり出てこないね。いつも虫追い払っている人とかは出てくるね。これは状況説明のためだろうけど。派手に腫れてて痒い。お薬持ち歩こう。今日も暑そう。どうぞよい1日を。

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衰えつつ学びつつ

パイナップルを切った。ジューシー。昔は苦手だった果物。多分、缶詰の印象が強いのだと思う。シロップものはなんでも苦手だったから。今回は丸ごと一個もらったのだけど美味しいねえ。ありがたや。

定期的にトレーナーさんに鍛えてもらってるのだけど体幹の強さを褒められて嬉しい。でも柔軟性とバランスが苦手。この前、びっくりしたのは平均台に乗るように脚を前後して目を瞑ると長時間立っていられない。これ、車酔いとか眩暈とかの予防になるようなんだけど「目からの情報に頼ってるから」と言われて私の場合は本当にそうだなあと思った。肩甲骨を動かすとかも最初は全く感覚がわからなくて先生に動かす部位を触れてもらいながら動きを手伝ってもらってもどうしても肩を張ってしまったり肘を変なふうに使ってしまってた。でも鏡で姿勢を細かく見ながらやっていたら身体感覚としてはわからなくても形を整えようとする意識で「あ、こうかも」とわかってきた。今はようやく鏡を見なくても脳から指示がいくようになった感じ。足首もすこーしずつ柔かくなって横スクワットもやっときれいにできるようになった。これまでなんでも大きい筋肉使ってなんとなく形でやってきたから筋トレの本質がわかっていなかったことがよくわかった。筋力をバランスよく使えると形もきれいになるしスッと動ける感じが自分でもわかる。できていないときはどこかしらに違和感がでる。そういう細かいことに意識が向くようになったのはよかった。落ち着きないと怪我も多いから大変。若い頃はそれこそ力技と体力でどうにかなってたけどもう還暦見据えてるからね。脳機能のためにもバランス感覚の運動は自分でもやっていこう。

衰えゆきつつも新しいことを学び続けているわけでこれは年の功というか、学ぶ姿勢はいい加減身についているのだねえ。新しいことといっても今更精神分析から離れる暇もないのでラカンとかだけど。ラカン学ぶには結局哲学書も読むけどこれは今までも趣味で読んできてるから楽しい。最近は

Jacques Lacan, Ecrits: The First Complete Edition in English, Translated by Bruce Fink in Collaboration with Héloise Fink and Russell Griggから

La direction de la cure et les principes de son pouvoir, in: Écrits, pp. 585-645.をブルース・フィンク『「エクリ」を読む 文字に添って』(人文書院)と一緒に読んでいた。

1958年7月10日から3日間の国際会議で話された報告の原稿(かな?)。ちょうど66年前ですね。出版は1961年、La Psychanalyse, vol. 6。『エクリ』は1966年。フランス語だったらネットで見られるのだけど英語でも超超地道。私のReading Freudに出ていた人はこの論文も読めるよ。『夢解釈』をきっちり読んだから。ラカンのおかげでフロイトを読むのはもっと楽しくなった。そしてこの論文はとても臨床的。治療者自身の姿勢、特にIPA所属の私には意識すべき指摘もたくさん。この前、小さな症例検討会で「最近ラカン読んでるんだけど」と「自我の強さ」についてラカンが書いていることを話してみたら「なるほどねえ」となった。私たちは小此木先生や深津先生、中村先生から自我心理学を中心に教わってきた世代だから「自我」をなんとなくわかったものとして扱いがちな気がする。でもラカンがクリスを読み込んでいたりアメリカ自我心理学の大家を批判しているのを読むとやっぱりフロイトに戻って考え直さないとな、と思う。技法につながってくるから。こうやって行きつ戻りつしながら一生を終えていくのだねえ。相手が巨大だとこっちは最後まで道なかばのまま。でも大事だからやりましょう。シニフィアン。シニフィエよりシニフィアン。今日はなんかお天気荒れるらしい。嫌ね。気をつけて過ごしましょう。

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症例検討とか。

暑い。フルーツで水分補給したいが時間がなかった。週末はいろんな人の症例から学んだ。小さいグループでやっている会はかなり密な議論ができる。精神分析的心理療法は治療者の欲望が常に問われるが、それはやりとりのなかで見出されやすい。それに本人が気付けることもこういう会をやる意義になる。常に部分は全体を表してもいると考えればなにかがなされたかどうかということよりそれが全体の構造をどう描いたうえでなされたものかということのほうが大事。つまり見立てありきということになる。最近ラカンの『エクリ』を超地道に読んでいるがラカンの症例提示の仕方は普段私が経験しているものとは全く異なる。こういう考えのもとにこう見立てているということがわかるようなわからないようだが少なくとも治療技法に結びつく治療態度ははっきりしている。ビオンのグリッドで説明されるよりラカンの欲望のグラフのほうが臨床態度を含み込んでいて有用と感じる。もちろんこれはちょっと勉強すれば「使う」類のものではないかもしれない、と思い当たるが考えることを促してくれる力がある。この、考えることを促されること自体にたいていの人はかなり防衛的になるので治療者同士のやりとりで治療者の欲望が現れやすいのは当然といえば当然だろう。

しかし暑い。身体に悪い。東京都のトップは変わらなかったがボトムアップであることを考えれば私たちができることはなくはない。がんばろう。

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早朝、à la lettre

鳥の声よりエアコンの音をきく早朝。昨日の雷はすごかった。オンラインミーティングの向こうの空は何事も起きていないのに私は雷と雨の音に気を取られながらミュートし画面からの音声に耳を傾けていた。この状況で聞く話は私にどんなバイアスをもたらしているのだろうと思いつつ。大事なお話を終えて「東京、今、雷がすごい」といったら驚かれた。その後すぐに別のミーティングのために外に出た。新宿駅が冠水?床が水浸し。ここで転びたくないなあ、とそろりそろり歩いていたら隣の人が滑った。ビビった。うまい具合にとどまり後ろを歩いていたお連れの人と笑いあってた。よかった。地下鉄に入ると地下なのにさっきの冠水はどこへ、という様子でいつも通り乾いていた。東京の地下鉄は水害対策がしっかりしていると前に何かで読んだ。いろんな仕組みに驚いた。が、どこまで人間は自然の力を押しとどめることができるだろう。大抵の場合、無力、ということを私たちはすでに知っているけれど。それでも被害はできるだけ起きないでほしいし、起きたらすぐに、長期に支援に入ってほしいし支援したい。

なんとなく書き始めたらずっと書き続けてしまいそうな感じだがさっきまで何を着たらよいものか、と思いながら冷蔵庫を開け、夜に食べるつもりだった酒のつまみみたいな作り置きおかずを食べてしまった。美味しかった。キッチンの排水溝を急に掃除したりプチやる気が出たかと思えば無駄にリビングをウロウロしてしたりしていた。ふむ、となんとなく引き出しを開け、汗をかいても快適そうなスポーツ系ワンピを被った。今日も意識して歩こう。この環境に慣れていかないと夏を越せる気がしない。だったら早く出ればいいのだがやはりすでに強い日差しに怖気付いている気もする。時間はまだある。いつもなら本を読み始めてしまうがそういういつもの動きが今日は出てこない。何やってんだ私は、と思っているうちに結構時間が経っていることに気づいた。ちょっと正気に戻った。昨日、ミーティングの後に自分が話したことの重みに自分がやられてもいるのだろう。でもおかずは美味しく食べられたしな。いろんなことは両立する。でも朝なんだから送ってきてもらった果物にすべきだったな、と今は思う。さっきまでなんかおかしかった。夜がまだ続いている感じだったのかもしれない。遅くに帰ってきてなんとなく辻村深月の短編集というのか、あまり短編でもないが『ふちなしのかがみ』を読んでいたらもっと遅くなってしまった。それでもいつも通りに起きられるようになってしまった。長い間、目覚ましはかけてない。二度寝する気に満ちている時はかける。それにしても辻村深月は鏡を使うのがうまい。子供の世界を描くのがうまい。これ読んでいたからなんかおかしいのかもしれない。

昨晩、人文書院から『後期ラカン入門』がポストに届いていた。雨に濡れていない。遅い時間に届いたらしい。訳者のおひとりがお薦めしてくれて「あれ?持ってないんだっけ」と本棚をチェックしたらなかった。Amazonをチェックした。「あれ、こんな高いんだっけ」とポチッとするのを迷った。出版社のサイトを見た。「あれ?高いは高いけどAmazon高すぎない?」と思ったら古書だった。気づいてよかった。出版社から送ってもらうと送料がかかるが精神分析の本は最近の本屋さんでは買えなくなってしまった。本当に本当に減った。ジジェクは売っているが臨床家はジジェクを参照しない。読み物としては面白いが。人文書院のウェブサイトから申し込んだら数時間後には配送のお知らせがきた。早い、とびっくりしたらそのすぐあとにSNSで出版社の人がこの本の品切れを呟いていた。おお。いろんな仕事が早い。フィンクの入門書はわかりやすいがラカンを読まずには読めない。『「エクリ」を読む』をエクリを読まずに読んでわかる人っているのだろうか。なんとなく理解はできるが実際にエクリを読みながら読むと「これ、à la lettreじゃなくない?」となる。でもこういう循環が作られているのがいい。そしてラカンはフロイトを読まずして読めない。結局フロイトに戻る。いいなあ。文化を繋ぐこと。考えよう。がんばろう。今日もちょっと勉強しよう。

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7月6日(土)朝

ゴミを捨てに行ったら隣のマンションの人が多分コンビニから戻ってきた。みんな朝早いね。夜が長い、これから寝る、という人もいるのかな。部屋が涼しくなってきた。この部屋のエアコンは効きが悪い。昨年から壊れているのかもなぁ、という気配を感じるけどこのくらい機能してくれるならまあいいか、という感じもして使い続けている。エアコンは高いからね。リビングのエアコンは全く機能しなくなって取り替えた。これもなんかAIが喋るのが嫌なんだけど効き目はすごい。しっかし、色々高すぎて嫌になるね。

マルグリット・デュラスがエクリチュールの可能性について話しているインタビューを読んだ。『愛人 ラマン』L’Amantが1990年。シリル・コラールの『野生の夜に』Les Nuits fauvesも同時期では、と思ったら1992年。同じ人と見に行った。これらでフランス語を勉強するのもいいかもしれない。ロマーヌ・ボーランジェがとってもかわいかった。デュラスの『陰画の手』les mains négativesは十川幸司先生が岩波の『思想』で書いた文章と素材が一緒。続きが読みたいわね。ふと目をあげたら『星の王子さま』が目に入った。最近よく会うわね。毎日いる部屋なのにそこにいたのね。オフィスのカレンダーが安西水丸なんだけどなんと7月はLe Petit Princeの本が書かれていた。7月はフランス語の月なのかしら。いや、星なのかしら。これもシニフィアンの「横すべり」の例になる?だったら私は再現なくこうやって遊べてしまう。この前みたケラリーノ・サンドロヴィッチ主宰、ナイロン100℃、結成30周年記念公演第二弾『江戸時代の思い出』がは精神分析の言語(フロイト&ラカン)に関心のある人には特にみてほしいのだけどこの「横すべり」が見事だった。北山修先生がメインで使う日本昔話が出てきたシーンも笑った。誰もが知っている物語はどんだけスピードあげて使用しても力があるし、そのスピードの変化で物語の質が変わるのも面白い。ほんと言葉だけで永遠に遊んでいられる、とか思う人が精神分析家みたいな特異な職業につくのかしらね。私は特にほかの持ち物がないけど言葉が面白くてしかたないからそんな卑屈にならないですんでるのかもしれない。ありがたいことじゃよ。今日も暑そう。東京の人は選挙行こうね、暑いけど。がんばろう。

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ラットマン症例

暑い。が、お湯を沸かす。エアコンもつけた。プチ二度寝したがまだ早朝。昨日は自分の勉強をする余裕がなかったのでフランス語のラジオを聴き逃しで聴いている。

夜にはフロイト読書会もあった。使用したのは岩崎学術出版社から出ている『フロイト症例論集2 ラットマンとウルフマン』。今回はラットマンの「Ⅰ病歴の抜粋」の最後の20ページほど。論文名は「強迫神経症の一症例についての覚書」。ラットマンことエルンスト・ランツァーは1907年10月1日にフロイトとの治療を開始した。翌年、Informalではあるがはじめての国際的なコングレスが開かれ、フロイトはこの症例を発表している。場所はオーストリアのザルツブルグ(Salzburg, Austria)。

”Apart from this momentous decision, the most notable event at Salzburg was Freud’s presentation of the case of the Rat Man; this aroused so much interest that he was persuaded to extend it to more than four hours.”

ということでこの症例発表は大変盛り上がったらしい。いいね。日本の協会でもこういう会合してみたい。

この症例が出版されたのは1909年、IPA設立は1910年である。

フロイトが少しずつ人を集め、Psychological Wednesday Societyを経て、ウィーン精神分析学会を作り、IPAとなっていくまでの経緯はIPAのこちらのサイトに書いてある。動画ではフロイトの声も聞ける。1908年までに初期の著名な精神分析家は出揃っている感じがする。W.Stekel(1868‐1940),Carl Gustav Jung(1875-1961),Alfred Adler(1870-1937),Ernest Jones(1879-1958),Granville Stanley Hall(1844-1924),Ferenczi Sándor(1873-1933)など。

フロイトがラットマン症例をどのように発表したのか調べていないが本で読んでもこんがらがる話を聞くのは大変だったのではないだろうか。4時間を超える議論の内容も知りたい。フロイトは『夢解釈』において精神分析における言語表現の解読方法を開発しており、この症例理解にもそれが活かされる。この症例が示す愛と憎しみ、能動、受動、サディズムとマゾヒズムの反転は素早く性愛化された空想として言葉にされるが行動としては不活発だ。ラットマンは亡霊として死んだ父を呼び戻し自分と対峙させ見る見られるの満足を得る。その快はいつまでも同じパターンをたどり軌道を外れることがない。それこそが快であるが苦しみでもある。この症例は症状の消失という意味では良くなったと言われているが果たして、という疑問が残る。ラットマンは戦争で死んでしまったのでその後を知ることはできなかった。これだけの空想を持った人が戦地でどのような体験をしたのか、その体験をどう経験したのか、と考えると気が重い。私たちはいまだにこうして彼から学びを得ているわけだがそれが彼に対して何をしていることなのかということも考えさせられる。とにかく消費でない学びを続けよう。今日もがんばりましょう。

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境界とか存在しそこないとか。

暑い。すごい陽射し。眠い。今日はどんな1日になるのだろう。

いろんなことは起きてから考えればいいかと思うが考えて対処できるならしておいた方がいい、とも思う。しかしその対処が必須なのかしなくてもどうにかなるものなのかの境は難しい。境といえば最近境界例をétat limiteというと書いたけどその前にもフランス語のlimitéは境界で訳されることが多いのか?と思うことがあった。もちろん文脈にもよるだろうけど境界ってぶち当たる感じが弱まる言葉だと思う。でも実際、いろんな境界は曖昧だからただ線をひくみたいな言葉のほうがいいのかもしれない。精神分析で難しいのは境界という言葉が中間的なものを想起しやすいことだと思う。フランス精神分析における境界例は中間という意味は含まないといちいち書かれている印象がある。最近はラカンづいていてエクリも英語とフランス語で勉強してる。そこにmanque à étreという言葉がでてきるのだけどこういうのをきくと「おー、フランス現代思想」と思ってしまう。フランス語も現代思想も中途半端にしか知らないくせにイメージって不思議。「存在しそこない」と訳す。ネガティブなほう、不在のほうを強調するのがそれっぽいと思ってるのかもしれない。たしかにこれは必要かどうかを考える場合、そういう側面を意識しないと盛り込む方向になるのでシンプルに考えていきたい。

それでは熱中症に気をつけて一日無事に過ごしましょう

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ワイン紅茶、医薬分業、『星の王子さま』

今年もブルーベリーをもらった。ブルーベリーは食後に食べるのが効果的だそうだが朝イチで食べてしまった。爽やか。ハーブティーもレモングラスだから爽やか。そういえばこの前、ワイン紅茶をもらった。宇都宮市のお茶専門店y’s teaのEncore bis。アンコールビスと読むそう。なんとこれ、同じく栃木県の足利市にある有名なワイナリー「ココファーム・ワイナリーの赤ワインに用いた高級ぶどうを、栃木県宇都宮市の福祉法人しのいの郷のマイスターが 長時間じっくりと乾燥してドライレーズンに。 そのぶどうと相性が良く、水色もワインをイメージさせる紅茶をY’s teaが 厳選し、独自の製法でハンドブレンドで仕上げた紅茶」とのこと。いろんなところがこうやってつながってるのね、すごい。y’s teaの紅茶は宇都宮の人がよく買ってきてくれるのだけどどれもとても美味しい。こうやって驚きもくれるし。

この前、医療従事者同士でおしゃべりしていて医薬分業からもう50年だよと言われて驚いた。私は大学院生のときにクリニックでアルバイトをしていたのだけどそこはまだ院内処方だった。「院外処方」が珍しくない今、「医薬分業」という言葉に重みを感じた。私は心理士でもあるけど精神分析家として開業している意識が強いので何かと分けられる以前に独自すぎる学問と実践に浸かっている。内実はいろんな学問領域のハイブリッドなんだけど業務を分けることはできない。昨日書いたフランス精神分析の本の執筆者のひとり、Pierre Fédida(1934-2002)は精神科医でも心理士でもなくドゥルーズの影響を受けて精神分析家になった人だけど「なる」という作業はどうしても大事。そういえば昨日、フランス精神分析でいう「境界例」はそれまでのパラダイムに変更を迫るものだったみたいなことを書いたけどピエール・フェディダは「いかにして精神分析から脱するのかではなく、いかにしてフロイト主義から脱するかという問題」と書いている。後半は点で強調されている。フロイトに還ること。「フロイト主義」から脱すること。フランス精神分析は本当に筋が通ってる。

「星の王子さま」で勉強しようとしたら「星の」は日本独自訳だった、ガーン、と書いたけどAntoine de Saint-Exupéryの”Le Petit Prince”はフランス語のテキストにも名言として引用されていたりする。たとえば

On ne voit bien qu’avec le coeur. L’essentiel est invisible pour les yeux.

確かに。知ってるぞ。この作品がテキストとして使われるわけだ。でも私はとりあえず読む必要があるフランス語で勉強。隙間時間にやるから一文読んでおしまい、ということもあるけど一文に対してもあれこれ考えるので悪くないかな。今日もがんばりましょ。

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フランス語の勉強とか。

早朝はまだ耐えられる涼しさ。涼しさなら耐えられるか。耐えられる暑さというべきか。まだランニングができる。ブログなんて書いている場合ではない。涼しいうちにやることをやらねばもったいない。若い頃は5時起きで走りにいったりもしていたが今は頭で思うだけで実際はダラダラこうしている。

フランス語の勉強を始めて最初はもっと堅実にと思ったけど最初から文献を読んでしまっている。NHKの「まいにちフランス語」は初級文法なのでそこで基礎固めしつつひたすら辞書をひいている。精神分析家になるために時間もお金も費やしたから余裕がなくなって一度やめた。ということはもう10年やっていないことになる。フランス人の先生に英語でフランス語を教わっていた。子供用教材で数とか色とか身近なものの名前を教えてもらうところからだった。先日聴き逃しでNHKの講座を聞いていたら前置詞の勉強で地図を書く課題があって、あれは楽しかったな、と当時の課題を思い出した。いつもの文献をフランス語で読むのは難しいが英訳されたものでも難解で、さらにそれを自動翻訳で読むともっと訳がわからなくなる。そうやって時間がかかるなら最初から取り組んでしまおうと思った。フランス精神分析が独自の道を行ったのは精神分析における言語の使用という問題から離れないからだと思う。今はアンドレ・グリーンのla position phobique centraleに関する論文を読んでいる。

la position phobique centraleとは j’entends une disposition psychique de base,qu’on rencontre souvent dans la cure de certains états limites.

Les états limitesは境界例のこと。その中心をなす恐怖症について。

フランス精神分析には独自の鑑別基準があるが境界例はそれらとはまた異なるものとして精神分析実践を通じてパラダイムの変更を迫ってくる。境界例についてはアンドレ・グリーンを含むフランスの高名な精神分析家たちの講演録をもとにした”Les états limites -Nouveau paradigme pour la psychanalyse?”という本が『フランス精神分析における境界性の問題 フロイトのメタサイコロジーの再考を通して』という翻訳で出ている。アンドレ・グリーンの境界例概念はそこで確認することができる。

執筆陣はJacques André(APF/IPA),Catherine Chabert(APF),Jean-Luc Donnet(SPP),Pierre Fédida(APF),André Green(SPP/IPA),Daniel Widlöcher(APF/IPA)。すでに亡くなっている人たちも。大御所揃い。

以下、星和書店Webサイトを参考に。リンク先は私用メモを兼ねて。

『フランス精神分析における境界性の問題─フロイトのメタサイコロジーの再考を通して─』も読めるようになってきた。

・1996年11月~1997年5月
・ジャック・アンドレ主催、サンタンヌ病院でのセミネール
・目次は講演順、演者による加筆修正あり

第一章 唯一の対象
──ジャック・アンドレ
第二章 境界例の生成と状況
──アンドレ・グリーン
第三章 境界例は精神分析家にとって夢の患者なのか
──ピエール・フェディダ
第四章 境界例における分裂(clivage)と幼児性欲
──ダニエル・ヴィドロシェ
第五章 境界性機能様式:いかなる境界か
──カトリーヌ・シャベール
第六章 境界性患者、境界性状況

──ジャン=リュック・ドネ

翻訳で読んでいてもそれぞれの言っていることや表現の仕方が全然違うのだからフランス語で読んだらどんな感じなんだろう。フロイトを読んでいると翻訳で読んでいても「フロイト先生、またこんな言い方してる」とか思うわけだがユダヤ人のジョークやドイツ語ならではの表現を理解できたら別の読み方も現れてくるのだろうと思う。ということで今日も地道にがんばりましょう。いいお天気すぎるから熱中症に気をつけましょう。

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雨、蟻、岡田一実『醒睡』

窓の内側に染み込んでくるような音で雨が降っている。ヒタヒタヒタヒタチャプチャプチャプチャプチャプ。警報が出ている地域の被害が広まりませんように。水害のあと、その土地に立った観光客の私は立ち入り禁止の札やロープや抉られたり削られたりした大地をどう感じていいかわからずただ足を止め言葉をなくした。地元の人から話してくれる話もあった。思い出されるたび衝撃を受けるのは目があった直後にカーテンが閉められたあの瞬間だ。大きな家の窓のカーテン。昼間だった。そばには明らかに地形が変わった痕跡がありロープがはられていた。あの人は一人暮らしだろうか。とても申し訳ない気持ちになった。そんなこと思うならそこ歩くなよということかもしれないが知らなかった。一度ゆるんだ大地にまた大雨が降る。それを想像するだけで怖いし胸が痛い。

小さな蟻が今年も出たと書いた。少数でも侵入されている感覚は強く夢にも何度も出てきた。少し雨の大雨の日、蟻の巣が崩れるのを私は想像した。彼らの巣は相当頑丈で雨対策もしっかりしてると聞く。それが崩れるということは私たちも危険ということかもしれない。そのくらい私は彼らの侵入に無意識に追い詰められていたのだろう。追い詰められ攻撃性が蠢き自分の手を使わずに何かが起きてくれることを願うような心性は誰にでもある。大雨の翌日、一匹の蟻をキッチンで見かけた。あっさり駆除した。今の私の目は死んでいるだろう、と思った。それ以来、蟻を見かけなくなった。その前から少しずつ見かける量が減ってきた気はしていた。元々列をなすような数でもなかった。様々な対策の効果がでたのかもしれない。私は今この雨の音を聞きながらまた想像する。蟻の巣が崩れるのを。そしてまた死んだ目になる。

昨晩、ネコポスで岡田一実の句集が届いた。前もって配達完了のお知らせがきていたので家に近づくにつれポストを開けるために足が早くなった。こんな距離を急いだところで何も変わらない。しかも封を開けて確認したらビニールに入ったままのそれをPCの横に積んだままあと数分で終わる大河ドラマを見てしまった。さっき蟻の巣が崩れるのを想像したと書いたあとビニールの中の表紙を見た。ドキッとした。水滴?滲んでいる?慌てて取り出す。白い表紙をそっと撫でる。浮き上がってる。水が滲んだままの形が。よかった。私の意地悪な心がこんなところにまで雨を降らすようなことがなくて。それはすでに涙がこぼれ落ちたような跡にもみえた。昨日は出先で強めの雨も降った。それも気になっていた。ポストから出したときに濡れていないことを確認した。当然中身が濡れているはずもなかった。なんとなく雑に放置したことや蟻に対する仕打ちが小さくない罪悪感を生じさせているらしかった。岡田一実の新句集『醒睡』はベルクソン研究者の平井靖史さんが帯を書いているとのことでなおさら注目していた。俳句よりずっと長い文章で綴られた帯文は丁寧で美しかった。そして句集はブランショの引用から始まる。開いてみる。今の私に飛び込んできた一句がこれか、と苦笑いする。

食み殺しつつ白魚の句を数句

中途半端に心揺らしいつまでも想起に胸締め付けられる私にはもつことのできない境地で正確に言葉を紡ぐ著者から多くを学ぶだろう。この滲みが雨でも涙でもなくてとりあえずホッとしたところからしてすでに。

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エクリとかRSEとか。

この前会ったばかりの友達の夢を見た。眠い。カラスの声は意識に近いのに鳥の声は意識してはじめて聴こえる、という程度に眠い。

ラカンの『エクリ』の英語版を読んでいた。訳はブルース・フィンク。ラカン派精神分析の最も優れた紹介者であり、『「エクリ」を読む 文字に添って』という本は日本語にもなっている。フィンクの本の翻訳はどれも優れている。精神分析実践を伴わない人文研究者たちによる訳が多いがラカンは哲学者でもあるから精神分析実践だけでは逆に訳すことができない。彼らなら『エクリ』もフランス語から日本語へ訳せるのだと思うけど新訳が出ないのは何か事情があるのだろうか。フロイトの英語版新訳もMark Solms版がようやく出版。24-volume Revised Standard Edition of the Complete Psychological Works of Sigmund Freud. RSEと略される。改訂前のJames StracheyによるStandard Edition(SE)に対してはいろんな人が色々言ってきているがこうして改訂版が出たことで逆にストレイチーが評価されるという動きも出てくるだろう。批判するのは簡単だが比較対象があるとよりその幅は広がるし私たち読者にとっても良いことだと思う。RSEには、SEに含まれていなかった56のエッセイと書簡も収録されているとのこと。それも楽しみ。電子版は出るのだろうか。フロイトとかラカンは読み継がれるものだから電子版にしてほしい。

フランス語の勉強も細々と始めて細々と4日間続いた。やっぱり『星の王子さま』からかな、と思いYouTubeで見られる講義を聞いてみた。原題を意識してみればすぐ気づくはずだが「星の」は日本語訳オリジナルだった。ガーン.気づいていなかった。そんなことにガーンとなっていて全然進む気配がない。やり方を変えねば。

今日は少し涼しい?今だけ?どうぞ良い休日を。

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お互い様。

メロンをいただいた。とってもジューシー。美味しい。今週は果物とクッキーに恵まれた週であった。幸せ。

メールアドレスやLINEで繋がる時代のわたしたちではなかった郵送時代の私たちと言ったら言い過ぎだけど、同窓会に登録されているのは住所のみ。なので昨年集まれる人で集まったときにオープンチャットやLINEグループを作ったのですよ、というお知らせを郵送で送った。もう住所もわからない人もいるけど61人に送った。封筒にシール型の住所を貼って、自分の住所のハンコを押して、中身を入れて、封をする。そして名前を照合して名簿にチェックを入れる。これだけの作業なのだけど結構大変でちょっと立ち寄った先で手伝ってもらった。二人だとあっという間に終わった。たくさん笑った。こういう単純作業が得意という人もいるけど私にとっては全然単純ではない。シールを貼るのもハンコを押すのも気を抜くとすぐ結構な斜めになるし、封をするときも折線通りにきれいに折れなかったりする。プリントアウトした名前と封筒シールの名前の照合は一人だと人より時間がかかる。行がうまく追えないからその工夫はしてるけど。リーディングマーカーみたいのを当てながらやるにしても時々ずれる。二人だと一人が読み上げて一人がチェックであっというま。もちろん私はシールの名前を読み上げる方。読み上げた名前をパパパッと見つけてチェックを入れていく速度にも個人差がある。知能の分類でいう処理速度というやつ。私は数値は平均的だけどこういうのは処理の対象によって変わるから。私だって封筒の種類によってはささっと上手に折って、貼る、というのができることもある。でもこうやってできない人って本当にいるんだよ、ということを強調したい。私みたいに子供の頃からできなくて、家庭科の先生にはふざけてると疑われ(不器用なのはふざけているせいではなかったけど確かにそう思われても仕方なかったという面はある)いい加減できなさを認識している人はそこにかかる時間とエネルギーを計算してすぐに人に頼れるからいいけどそういう環境にない人だっているわけでしょ。職場が怖い人ばかりとか。どんな形だって助けた方がお互いのためだと思う。大抵は別のことで助けられているものなんだからいろんなことはいずれお互い様となる。昔「あみさん、これだと売り物にできないから」と至極真っ当な理由で別の仕事を割り当てられたことがあった。助かった。アイスの盛り付けがうまくできなくて「それはあみはやらなくていいよ」と店長に言われたときは悲しかった。かっこいい盛りつけ方でやってみたくて練習したのだけどかっこいい盛り付けだから人気があるかもしれないのにそれができないんじゃしょうがないよね、と思いつつしょげた。慰められた。でもほかにやるべきこと、できることもたくさんあった。今回の作業は特に得意なことはなかったけどこういう一個一個の苦手さや得意さでお互いを補いながら自分や相手の癖を再認識すること自体も面白くたくさん笑った。相手が楽しそうだと私もありがたく嬉し楽しい。社会人になって最初の職場だった教育相談室でのことを思い出した。そこでの先輩たちがこういう作業を本当に楽しく一緒にできる人たちだった。今思えば上司に叱られるのも無理がないか、というくらい遊びながらやっているようなところがあったけど私以外はこういうのを単純作業として素早くきれいにできてしまう人たちだったからとても助けられた。いろんなことを教えてもらった。NPOのみんなもそうだった。おかげで私は事務作業が本当に苦手だけど嫌な思いをあまりしたことがない。その感じを思い出して「最初の職場がこんな感じだった」と言ったら「それは恵まれてる。よかったね。」と言われた。ほんと恵まれてた。先輩たちとは今も仲がいい。もう20年以上経つ。普通にお互い様をやっていこう、今日も。がんばろ。

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オグデンとかグリーンとか精神分析。

雨がしとしと。今日は梅雨っぽい。梅雨は1日単位のものではないはずだけど。窓を開けたらカーテンがゆっくりふんわり膨らむくらいの風が入ってきた。

アメリカ西海岸の精神分析家、トーマス・オグデンの本を読んでいた。オグデンは私の愛読書だったがここ数年そうでもない。もちろん新刊が出れば買うし、最近は翻訳される前に読む。私ももうそこそこ歳なので翻訳を待つ余裕はないし書かれた言葉で読んでいきたい気持ちは強くなる一方、ということでフランス語の勉強だって再開した。オグデンは英語。オグデンをそんなに良きものとして読まなくなったのは精神分析を受けた影響が大きいと思う。オグデンの臨床素材の描写は非常に的確で、私も今や実感を持って書かれたことを体験することができる。

今回読んだのは昨年から私が理解したがってるわりに理解が進まないアンドレ・グリーン(André Green)の仕事に敬意を表して造られたThe Dead Mother: The Work of André Green に収められたオグデン。

Ogden, T. H. (1999) Chapter 6 Analysing Forms of Aliveness and Deadness of the Transference—Countertransference. The Dead Mother: The Work of André Green 36:131-150

ちなみにこの本はThe Greening of Psychoanalysisの編者の一人、Gregorio Kohon編。第一章はKohonのThe Greening of Psychoanalysis: André Green in Dialogues with Gregorio Kohon。あとはMichael Parsons、Arnold H. Modell、Christopher Bollas、Jed Sekoff、Thomas H. Ogden、André Lussier、Adam Phillips、Rosine Jozef Perelberg、Martin S. Bergmann、そして最後はChapter 11 The Intuition of the Negative in Playing and Reality by André Green. 序文はR. Horacio Etchegoyen。

ここまで書いてこれ翻訳が出てたかも、と思ったら別の本だった。『精神分析のパラダイム・シフト』。マイケル・パーソンズとペレルバーグはどちらにも書いている。だから何というわけではない。こうしてメモしておくと引用するときに役に立つかなくと思ってなんとなくしてしまう。

オグデンの論文は『もの想いと解釈  人間的な何かを感じ取ること』(T.H.オグデン著、大矢泰士訳 / 岩崎学術出版社)に入っている。「第2章「生きていること」と「死んでいること」:その形を分析する」という論文。4人の患者さんが出てくる。臨床場面の描写で精神分析とはどんなものかを伝えてくるオグデンはやはり好きだし、私も書くならそうしたい。でも最初に書いたように精神分析を受けたこと、しかも精神分析家になるということがその目標として加わったことで理論の方にうるさくなってしまった。以前はもうこれだけで何かわかったような気になっていたというよりむしろ何かをわからないことの大切さ、みたいな感じでどちらにしてもわかったような気分になっていた。今はそうもいかない。グリーンに対してしつこいのはグリーンのフロイト再読と脱構築(なのかな)は私が精神分析臨床から学んでいることを他の人より言語化してくれているように感じるから。オグデンの「分析の間主体的な第三者」という考えも以前はそう感じていた。でも今はこれは後付け的概念に思うようになってしまった。ああ、以前好きだったものに批判を向けるときのこの罪悪感はなんだ。向こうは私がどう思おうと何も気にしないに違いないのに。ファン心理とはそういうものか。私はもう精神分析のただのファンではなくなってしまった。内側でそれをそれとして体験する立場になるとそんな呑気ではいられない。ちょっと寂しい。でもがんばる。なにを。とりあえず今日を。雨は東京だけ?みんなの空はどうかしら。どうか元気で。