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散歩 読書

沖縄。岸政彦『はじめての沖縄』。散歩。

今朝は「高尾ポテト」。京王線橋本で買ってくれたそう。これは何度もいただいている。今回は3種類。今朝はメープル。しっとりスイートポテト。美味しい。冬にはこういうポクッとしたお菓子を熱いお茶といただくのが素敵。

沖縄都市モノレール ゆいレールのD-51が歌うテーマソング「おきなわ」をかけながら岸政彦『はじめての沖縄』を久々に手に取った。謝辞には先日亡くなった打越正行の名前もある。私がはじめて沖縄へ行った頃、まだゆいレールは通っていなかった。打越正行も生きていた。昨年11月には「ひめゆり学徒隊」の生存者である与那覇百子さんが九十六歳で亡くなった。2019年焼失した首里城正殿は2026年秋に再建される。沖縄戦から今年で80年。私は久々に沖縄へ行った。

岸政彦はこの本の序章で、沖縄の人びとと内地の人びとの「区別」は実在すると明確にし、

境界線の「こちら側」にはっきりと立ち、境界線の向こう側を眺め、境界線とともに立ち、境界線について考えたい

と書いた。沖縄の人たちは親しみやすくよく喋る、と言っていいほど私は多くの人と出会っていないが今回もそんな印象を受けた。そして境界線も感じた。一方、私が知識で勝手に引いてきた境界線は今回私が移動した範囲では感じなかった。ゆいレールが変えたものもあるだろう。前回は沖縄の人に助けてもらいその人に憧れた。

私は何か書き物をしなくてはならないとき、いつもより念入りに散歩をする。そうしたいと思っているが、いつのまにかいつも通りぼんやりキョロキョロした散歩になる。思索にふけることもなく鳥の声がした枯れ木の前に立ち止まる。濡れ落ち葉は慎重に踏み、粉々になる大きな葉っぱは避けて歩く。そうこうしているうちに原稿のことはどこかへ行ってしまう。そして締切ギリギリになんとか書く。それでも拙くともそれができるのはこういう散歩のおかげだと思っている。何かを手放してみてもそれは要素として蠢き続けている。それがいつのまにか曖昧な形をなし何とか書き言葉になってくれる。そんなイメージ。そこには身体の動きが必要なんだと思う、私には。沖縄のことはまだ書けない。書く必要もないのだがこんなブログにさえ書けない。散歩が全然足りない。また行きたい。

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お菓子 イベント 俳句 散歩

満月、俳句、「昭和のくらし博物館」@大田区

朝焼け。緑茶。熱湯のままいれてしまった。あれだけあったお菓子が底をつきそう。今年も美味しいお菓子をたくさん食べた。そういえば昨日いただいた素敵な焼き菓子があるのだった。緑茶にしてしまった。ガーン。明日、コーヒーでいただこう。

昨日も月がピッカピカだった。今年最後の満月だときいて夜ベランダに出たら空のずっと上の方で星と星の間に黄色い月が輝いていた。オリオン座もくっきり。冬の空だ。寒い寒いとすぐに部屋に戻った。

深夜締切のネット句会、今回もギリギリ。推敲せず。次回こそしっかり推敲!と思って数年が過ぎた。今回のお題の一つは鍋料理。平井照敏の『新歳時記』をパラパラしていたら狸汁、鯨汁(鯨鍋)、河豚汁(ふぐ鍋、ちり鍋)、葱鮪(鮪鍋)などがあった。冬は汁物だな、やはり。私は「牡丹鍋」で一句作った。ジビエの話をしたばかりだからちょっと創作で実体験じゃないけど。自分の鍋エピソードを思い出そうとしたのだけどエノキが好きとか白菜が溶けるとか具を譲り合うとかおじやにするとか食べすぎるとかは思い浮かぶけどエピソードがなかなか浮かんでこない。ネットで「鍋 思い出」で検索したら違う国の人たちと囲んだ鍋の話とかうちは鍋といったらこれ、みたいな話が載っていた。私は家族以外と鍋を囲んだことってそんなにないかも。いや、そんなことないか。はっきり映像として思い出せないんだよなあ。鍋は簡単だから冬はよくやるわけでこの冬はそういう場面に意識的でありたいわん。

もう年末。年賀状、買ってこないと。普段一番会うのは精神分析協会の人たちだけど年賀状のやりとりってしたことないかも。やりとりする枚数も減ってきたけど年賀状でしかやりとりしていない人もいるからあちらからこなくなる限りは出しましょうかね、と思っている。いつからか喪中ハガキも多くなった。中山美穂と同世代の私たちはみぽりんの死を悲しむと同時にお風呂気をつけねば、特にお酒飲んだときは、と話している。数年前と比べたら本当に死が身近になった。仕事はまだまだしたいなあ。

先日、東急線多摩川線下丸子駅前の大田区民プラザへ行った。デザインフェスタのローカル版といった感じの展示販売イベントに出している友人に会いに行った。みなさん、すごかった。売れたらいいなあ。私がもっとお金持ちだったらなあ。それにしてもこの施設は本当駅前なのもいいし、すごく使い勝手がいい施設だと思った。その日もいろんな催しが開かれていて老若男女いろんな人がいた。せっかくなので大田区の別の施設にも寄ろうと「昭和のくらし博物館」にも行った。こんな小道の普通のお家っぽい所に博物館なんてびっくり。昭和26年に経った公庫住宅初期のお家が当時の暮らしを体験できるように開放されている。見たこともない家電もあったが昭和生まれの私はまだ懐かしめるものがたくさんあった。スペインからのお客さんも来ていて昭和のおもちゃコーナーのところで一緒になった。駒とか竹馬とかを一緒にやった。スペインにも駒と似た遊びがあるとのこと。私も彼も紐を巻くのが下手で回せなかったがニコニコした。ホッピングもやった。懐かしい。すごく久々。庭に出るためにお借りしたサンダルで2、3回できた。自分の靴ならできるかもしれない、と嬉しかった。「子供の頃は簡単にできたのにねえ」と職員さんがニコニコと見守ってくれた。私は子供の頃からできなかったが「軽かったですしねえ」とか言ってしまった。全ての部屋が楽しかったが長居したのは2階の子供部屋。姉妹とお兄ちゃんの3人のお部屋で長女の学校の先生との連絡帳や姉妹で遊んだというお人形とその着せ替えなどもかわいく懐かしく戦中、戦後の子どもたちは私にとってまだそんな遠くないなと思った。その時代を生きた人のお家へ遊びにいった感じで楽しかった。お庭には夏みかんとか柿の木もあって眺めていたら鶯がきて、そのあとまた鶯がきて、つがいかしら、すばしっこいね、など知らない人と話したりのんびりした。少し歩いていると小さな商店街があり、もちつきのお知らせなどが貼ってあった。神社もそろそろそんな雰囲気。私たちいろんな初詣の準備に出会ってきたね、と話しながら大田区の保存樹林や神社の本殿の裏側、全然目立たないところにある立派な彫刻を眺めたりした。上を見ても下を見ても銀杏が金色に輝いていてそれがメインだったかな。ちょっとの時間でもだいぶ豊かに遊べる。昨日は3つの事例検討会があったけどどれもすごく勉強になったし今週もがんばろう。

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散歩

新宿駅からオフィスまで(地下道)

暗い。iphoneの天気予報では今日は曇り。寒そう。昨日は風が冷たかった。フードをかぶって早足で歩いて新宿駅へ向かった。新宿駅南口ならまっすぐ行けば着くが寒さに耐えきれずワシントンホテルから地下道へ入った。この時期は地下道に人が増える。雨の日もそうだ。患者さんも慣れてくると新宿駅から歩いてくる方が多いようなので一応、地下道の説明をしておこうかな。オフィスの最寄りの駅は京王新線新宿駅から一駅の初台駅なのだけどルミネ地下一階そばの京王新線新宿駅の改札には入らず大江戸線を右手にみながら新宿南口地下街「KEIOMALL ANNEX」を進む。朝は都庁へ向かう人でいっぱいだ。いろんな展覧会のポスターが貼ってあるのがいい。KEIOMALLを過ぎてもそのまままっすぐ行くとすぐに「ワンデーストリート」地下通路に入る。新宿にはいくつか地下道があるのでこちらのマップをご参考に。「ワンデーストリート」に入ったらあとはまっすぐ行くだけ。地下道自体はまっすぐではなくくねくねしているところがあるので少し心配になるかもしれないが突き当たりまで行けば右手に都庁、左手にワシントンホテルがある。オフィスへはワシントンホテル側に出て甲州街道を初台方面に数分。新宿パークタワーに寄りたい人は新宿駅からシャトルバスも出ている。20分ごとだっけな。パークタワーにはリビングデザインセンターOZONEとザ・コンランショップが入っている。開業した頃は雑貨もいろいろあってよくいったが今は大きめの家具ばかりであまり楽しく無くなってしまった。カフェもなくなってしまったし。あまり行ったことなかったけど。情報センターでいろいろな雑誌を見るのは楽しい。コロナで随分変わった気がする。今年はついに大きなクリスマスツリーがなくなって光る球体がツリー状に積み上げられいろんな色にライトアップされる形になった。これはこれで夜みるときれいだけど諸々簡易になっていく印象。私は雑多な感じが好きなんだけどなあ。まあ、私のためにある建物ではないから仕方ない。面白そうなイベントは増えたけど多くの人の会社帰りに合わせた時間帯だったりするからその時間こそ忙しい私は行けない。この前なんて縁日の準備してて何やら楽しそうだった。こうやって設営するんだ、と大変興味深かった。エレベーターが多いからやりやすいんだろうな、とか思ったりした。私のオフィスもエレベーター2台あればいいのに、と思う時間帯もあるけど、誰も乗っていない時間も多そうだからなあ。点検があるとエレベーター使えないからその日の予定をずらさなくてはいけないこともあり、必要なこととはいえ、今年はその回数が多かった気がする。全館停電にしての点検とか。耐震構造自慢のきれいなオフィスビルなんだけどね。この時期は朝の日差しが部屋にきれいに差し込んで外からドアを開けるとキラキラしていて素敵。暖かいし。夏から秋にかけて開業したからこんなふうに日差しが入るって知らなかった。植物にはあまりよくない環境だけどカーテンを開けると明治神宮の森が遠くに広がっている。参道のそばだからね。今は森が秋色でとてもきれい。私は鳥好きだけど一時期鳩がベランダにいついてしまって困ったことがあった。面接中、すぐそばでポッポポッポ言われると鳥の言葉がわからないから辛い。どうして欲しいのかしら。あの頃、どうやって別の場所へ行ってもらったのだったか忘れてしまったけど今はたまに手すりを歩いて横切るくらい。すぐそばに餌をまいてくれる場所もあるしね。奄美大島の鳥たちは元気かなあ。今日はまだ東京の鳥の声が聞こえない。夢で面接で患者さんがしようとしていることについて考えていたみたいでそのまま起きてしまったからそれをメモしておこうと早起きしたのだけどオフィスへの行き方ブログになってしまった。別の場所に書きましょ。どうぞ良い一日をお過ごしください。

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イベント 写真 散歩

出不精ながら

今朝は河口湖チーズケーキガーデンの特売抹茶ケーキ。チーズは入っていないから余った抹茶で作ったりしてお安かったのかしら。安かったんだって。ポロポロするけどそのポロポロもちまちま食べたくなる美味しさ。いい香りだし。河口湖の紅葉の名所「もみじ回廊」もそろそろかな。東京もだいぶ色づいてきましたね。立冬を過ぎたとはいえようやく秋になったのでアクティヴになりたいけどなんか暑かったり寒かったりで今日はお出かけ日和だみたいな気分にならないというか、元々出不精なだけだけど、色々行きたいな、と思うばかり。でもこれは行っておかねば、というものでオフィスから行きやすいところには立て続けに行きました。もっと寒くなったらいよいよどこにも行きたくなくなるから。

上原沙也加さんの台湾を舞台にした写真展は馬喰横山駅から数分。近いのに迷ったから汗かいたけどオフィスのある初台からは一本。

細井美裕さんの初個展「STAIN」は神宮前2丁目。神宮前にはオフィスから西参道を歩いて明治神宮へ入り、明治神宮を抜ければ着くのだけど神宮前2丁目は駅からちょっと遠い。千駄ヶ谷駅から行くのとたいして変わらない気がする。あの辺は好きな通りなんだけど私の中では目的なく歩いていると出るような場所で全然通りを覚えられず毎回迷い、今回もギャラリーのすぐそばを何度も通り過ぎて汗だくになった。なんでこの季節に汗かかなあかんのか、と思いつつ。

そして瀬尾夏美さんたちNOOKの事務所「Studio 04」でやっている「現代・江東ごみ百鬼夜行」。江東区西大島の大きな団地の一階。西大島も初台から一本。

どれも行ってよかった。世田谷文学館とかはもっと行きやすいのだけどちょっと変わったところにいきたい欲望も働いてしまう、でも行きやすいところ、と思ってしまうし。絶対行きたい展示があと二つあるけどこれらは遠くはないが面倒・・・。来年「美」について語る機会をもらったので美しいもの、こと、にはたくさん出会いたい、というか体験から考えたいが。

新宿中央公園が毎日きれいだからいいか。今日は雨なのかな。でも晴れてきたかな。いいこともあるといいですね。

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散歩 精神分析

すずなり、無意識

先日、名古屋の知らない駅で降りて横断歩道を渡り終えたら後ろからおばあさんが呟いた。「すずなり」という言葉だけが聞きとれた。なんだろう、とキョロキョロ横を向いたり上を向いたりしていたら結構高いところに柿がすずなり!小さな丸いオレンジがたくさん。鈴なり、まさに。昨晩、いつもの遊歩道に小さな柿が落ちていた。こんなところに柿あったっけ、とまたキョロキョロ。あった。この狭い道だとその高さは見ないな、見えないな、という場所に柿がすずなり。あのおばあさんのことを思い出した。私に話しかけてくれたのかなあ。少し距離があったから柿を見つけてそのすずなりぶりにびっくりしてなんとなく後ろの方にいるおばあさんに会釈をしただけだった。教えてくださってありがとうございます。自分では見つけられない景色、毎日歩いてたってそうなんだからましてや知らない街でなんて。声を大事にしたい。

エレンベルガーの『無意識の発見』を少し読み直した。無意識を発見したと言われる第一人者のフロイトだが、それを発見させたのはブロイアーと一緒に治療した「アンナ・O」と言われた患者だ。後にアンナ・Oはベルタ・パッペンハイムという社会事業の先駆者であるとわかるのだが、エレンベルガーはこの治療の成果に関する嘘を指摘している。実は、患者もフロイトもこの治療は失敗だったと言っていた。ブロイアーはこれでフロイトと離れるわけだが、フロイトがブロイアーの非難をするのは『ヒステリー研究』の20年後だ。精神分析の設定はこの頃まだ使用されていない。ブロイアーは開業医であり、診察と入院によって彼女を治療していた。つまり無意識はカウチの上で発見されたのではない。もちろん無意識という言葉自体はずっと以前からあったわけで、しかし現代はそれはほとんど重要視されないわけで、それでも精神分析はそれについて考え続けているわけで・・・。うーん、いろんな気持ちになるが自分の立場を明確にしないことには前提の修正もできない。ふわふわと周りで何かいうことは簡単だが患者がいて自分がいてという状況が現実にあるのだから歴史の見直しと思考は続く。

今日もがんばろう。

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俳句 散歩 趣味

霜田あゆ美さんの個展。

朝焼け。昨日は夕暮れもきれいだった。オフィスにいると西の空は見えないのだけど高層マンションの窓に映る。紅葉もしてきた。きれいに色づいた大きな木から鳥たちがたくさん出てきて驚いたり、野良猫が急に横切ったり、いろんなところでいろんなことやものを目にしている。はずなのに俳句が作れない。

俳句日めくりカレンダーに載っていた秋の鳥の俳句。

鶺鴒や廊下の窓を拭く係 加藤かな文

海光に浮力のありて鳥渡る 今瀬剛一

うーん。なぜこういう言葉を思いつくのか。言われてみれば知らない言葉では全然ないのに俳句として成り立つ言葉選びができるのがすごい。先日名古屋で場所を変えぬ川鵜を3羽みた。その対岸や川中で白鷺がアクティブなのと対照的だった。どちらも季語としては夏だから今使うなら「冬の川鵜」とかにする必要があるのだろう。「月」は秋以外は「春」「夏」「冬」をつける。月といえば秋ってことで。私はどの季節も「鳥ー」「月ー」と毎日呟いているけど季節は全体として感じることが大切ね。

先日、句友のイラストレーター、霜田あゆ美さんの個展に行った。今年もあゆ美さんのカレンダーを入手できた。昨年はあゆ美さんが作るのが間に合わなかったとのことでたまたま出会えたあゆ美さんの師匠の安西水丸さんのカレンダーを飾っていた。毎回、とても素敵な作品ばかりで全部ほしい!と思うけどそれでは我が家やオフィスがギャラリーになってしまう。それ以前に買えない(労力を思えば安すぎる値段ではあると思う)。しかし、私のオフィスには一点だけあゆ美さんの作品があるのだ!なんとなんと。前回か前々回の個展ですっごく気に入って買わせてもらった。毎日見られる場所にお迎えできるなんてなんと幸せ。今回、これが素敵、これが好きと話していたらあみさんは変なのが好きと言われた。そうなのよ。あゆ美さんのイラストはとってもあたたかくてちょっと変なのが多いのよ。そこが大好き。今回は布を使った作品もあってそれもとってもよかった。生地であんな色が出せるのかあ、と思った。技術的には出せるのだろうけどあゆ美さんの使う色の組み合わせがすごいんだよね。とってもときめいた。表参道のそのギャラリーに行くのははじめてではなくて迷わずにいけたのだけど作品をみていい気持ちになっていたら帰りは迷ってしまった。あの辺は何もない方に出てしまったら逆へ行けば大抵どうにかなる、とわかってるけどこの方法は全然学びにはならない。なので私は毎回迷っている。行きは一生懸命地図とか見るけど帰りはいろんな素敵な作品で頭も心も満たされちゃってるからねえ。個展は今日まで。小さなギャラリーだけど見応え十分。幸せだったなあ。お時間あればぜひ。

さてさて今日もいきましょうかね。色々どうにかなりますように。

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お菓子 散歩

鎌倉

雲が多い。天気予報は晴れだけどこれからどこかへ消えていくのかな、雲。鳥たちはまだそばにこない。もう飛び去ったあとかもしれない。遠くでカラスがしきりに鳴いている。洗濯機が水を回している。

先日、鎌倉へ行った。藤沢まで通っていた時期もあり身近ではあるが相変わらずどこへ行っても記憶が曖昧だ。北鎌倉と鎌倉の違いもよくわかっていなかった。鎌倉駅へ降り立つとずいぶん変わった印象を受けた。前にこの辺で、など思い出話をしながら大混雑の鶴岡八幡宮前の信号を渡り一条恵観山荘へ向かった。道なりにまっすぐまっすぐ歩く。「岐れ路」は右へ。左手に杉本寺が見えたので立ち寄る。お寺にまっすぐ向かう階段は登れず迂回。苔がすごいせいかな、と思ったらそこは「苔の階段」という名前がつけられていた。石畳の苔が抹茶チョコレートみたいで写真をとった。受付の高齢の女性はまるで眠っているような姿勢のままゆっくり手を動かしていたがこちらがお金を渡したことを忘れてしまいみんなで少し焦った。すぐに転がっている新しい千円札を「あったあった」と見つけたが。降りてきたときには受付にはもう誰もいなかった。またまっすぐ歩く。すぐに報国寺へ。私が以前きたと思っていた場所とはずいぶん違う場所だった。美しい竹林は健在。受付は行列。枯山水をのぞむ宅間谷という谷戸に出ると気持ちのいい風が一気に通り抜けていって驚いた。どうしてあそこだけ、谷間だとこんなに変わるものなのかとびっくりした。石庭を眺めるベンチがあるせいもあるがたくさんの人がそこでくつろいでいた。日中は半袖でいられるくらい暑い日だった。一条恵観山荘にははじめていった。少し足を伸ばせば着く場所なのにどうしてこれまで行っていなかったのだろう。江戸時代の初期の建物でお花が美しい素敵な建物。後陽成天皇の第九皇子であり、摂政・関白を二度務めた一条恵観によって営まれたと書いてあった。皇族の茶屋とのこと。野趣あふれる庭をあえて作れる優雅さ。とても素敵だった。来た道を戻る頃には行列ができていたパン屋さんはもう落ち着いており、外のベンチでのんびりカフェしている人たちがみえた。やっぱり鎌倉はいいな。仕事にくる感じで来られる距離なのも恵まれている。

今朝は「やまなし上野原 あんどうなつ」。菓子処植松さんの人気商品。すぐに売り切れてしまうそう。熱いお茶といただきましょう。空の雲が薄くなりつつある。今日も無事に過ごしましょう。

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散歩 読書

幸田文展など。

鳥が鋭い声で鳴いている。朝焼けがまだ残っている。今日は晴れるのかもしれない。朝焼けが曇り色になることなく空全体に光が行き渡りつつある。そういえばこの前、空の色々な色をどう表現したらいいかと書いたが、実はいろんな色の表現があった。確かに聞かされれば文学作品の中にそれらは出てきていた。普段づかいの言葉にしていないとすぐに遠いものになる。

週末はあまり寒くなかったので仕事を追えサクサクっと出かけた。まずは本八幡。オフィスから一本。都営新宿線の終点。JRも通っている。本八幡は江戸川区の精神科病院に勤めていたときや市川のNPOで色々やっていた頃に何度か行った。久しぶりに降りた。本八幡駅から市川コルトンプラザと往復するシャトルバスへ。コルトンプラザもNPOの何かの行事で車で連れていってもらったことしかなかったので新鮮だった。自分で行くとどこかどこだか全くわからず苦手なGoogleマップを怖々使いながら目的地へ。西新井の看護学校にはじめて行ったときに早めに行って入ったショッピングモールで迷ってしまい早く行った意味が全くなかったことを思い出す。目的地はコルトンプラザお隣の市川市文学ミュージアム。幸田文展を見に行った。母も幸田文や青木玉を敬愛しており私にも買ってくれた。私は倉橋由美子、米原万里、幸田文、水村美苗、森茉莉とかが好き。なんだかんだ女ばかりだな。夏目漱石とかも研究対象にしたいくらい好きだったけど病跡学は私には向いていないと今は思う。フロイトみたいにヒステリーや強迫神経症や恐怖症を明らかにしたい、という強い意志と目的があればいいけど。それに今の時代はあまりいい受け取り手が育たなそう。多様な受け手はいるのだろうけど精神病理学。話し合える相手が多いって大事。精神分析は少ないながらいるからよかった。さてさて幸田文。はっきりしている女たちの文章ははっきりしているそういう態度が作られるまでの紆余曲折を見せてくれる。骨太になるにはいろんな経験を通りぬけ、いろんな人と関わってこそ。幸田露伴は早くに妻を亡くし後妻、児玉八代をとったけど不仲だった。文はまだ5歳、弟もまだ小さかった。露伴は家事の一切を知っていたらしく幸田文は露伴から家事から何から何まで教わったと書いた。この部分、露伴の美意識が面白いのだけど忘れてしまった。私は今読み直すなら文が60代、70代になってからの作品か。私は日本全国を旅するようになってから旅と自然災害がセットになっていて、それほどまでに日本には災害が多いということなのだが『木』『崩れ』は今の私にはとても響くものがある。そこが被災地と呼ばれていなくても山に登れば痛々しい痕跡を目にすることもしばしばだ。公害に苦しみ続ける街もある。この冬は屋久杉に会いに行こうと思ったがまた今度にした。夏はまた能登へ行く。今度は被害の多かった地域へ。もう何かの被害が重なることがありませんように、と願う。ただでさえ日々を重ねる心は感じやすくなっていたりもするだろう。幸田文が自然の摂理に仕方なしと思いつつ人間に期待し力むしかない自分になんともいえない、とまで書いて思ったが文はなんともいえないなんて言わずに木や崩れ、そしてそこで生活する人々に会いに行き書き続けた。感じ続けるために知り続けるために。これぞ関わりという気がする。私は今回幸田文の展示を見ながら被災地にこうやって関わる必要があると感じた。というよりこうやって関わればいいのか、という学びを得た。旅先にしていた土地に水害や地震があったとき、私たちはそこに観光客として出向いていいものか躊躇する。ある程度の時間が経てば観光地でもある被災地は観光客に来てほしいと願う。でも観光地は観光だけで成り立っているわけではない。ただでさえ見知らぬ土地のようになってしまった場所でよそ者の顔なんて見たくもないだろうなどと想像する。家の中の人と目があって昼間なのにカーテンがひかれた場面を思い出す。それでも私たちは自然の状態を知る必要があるのだろう。能登にもまもなく冬が来る。もう一年が経つ。関わり方を考えていこうと思う。

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散歩 音楽

お菓子、音楽、お昼

曇色。水色ともグレーともいいがたい。空以外だったらなにがこんな色をしているかな。柿を剥いた。大きい柿。スーパーの柿はもう種なしばかりだからつるんとしてる。種子があると動物の顔みたいでかわいいのにね。のにね、といってもない方がいいけど。ほんのちょっとだけ渋いところがあったけどほぼ甘くて美味しかった。今日は高倉屋珈琲でポイントが溜まったらもらえるクッキーをもらったのでそれも。「おいしいよー」と言われてコーヒーと一緒にもらったのだけどほんとおいしい。私の好きなサクサク具合。ポロポロするからお皿が必要なやつ。あ、また高倉屋って書いてる。正しくは高倉町珈琲店。失礼いたしました。私の行動範囲にもあるといいのに。

KNEECAPを聴き始めたらすぐに止まってしまった。何度も止まってしまう。Spotifyがおかしくなったのかな、と試しにサマラ・ジョイにしてみたら普通に聴ける。それはそれでおかしいな。またKNEECAPに戻る。今度は聴ける。うむ。全然違う感じの音楽にすれば何かが変わる、というわけではなかった。当たり前だ。当たり前?仕組みがよくわからない。もう止まらないでほしいな。パソコンの問題だったらもっと嫌だけど。KNEECAPのラップはアイルランド語がわからないけど、というか英語でも部分的にしかわからないけど、ずっと聴ける。色々して戻ってきたら終わっていた。どうして途中で突然席を立ってしまうのだろう。目的なく書くからか。音楽はLiam Gallagher John Squireになってる。これは今日の天気と逆をいく軽やかさ。またKNEECAPに戻る。今日はこっちの方がいいな。時々ずっとラップ聴いていたい感じになるんだよね。エミネムの『8 Mile』の頃、ちょうど身内がLAにいてUniversal Studios Hollywoodに行った。でっかいポスターがドーンと貼ってあった。私はエミネム大好きだったのでずっと眺めていた。でっかいからずっと眺められていた。映画に詳しくないけどすっごい楽しかったな。日本のも行ってみたい気もするけど混んでそうな場所は避けがちな近年。オフィスのお隣の新宿さえ西しか行かないし。西口は高層ビルと新宿中央公園が主だけど外でごはん食べられるスペースがたくさんなのは素敵。この時期は雨でなければ昼頃はお外にたくさんの人。ずっとオフィスにいるのも息が詰まるよね、多分。私もいろんな職場に勤めてきたけどお昼まで一緒にいる必要なくね?と思うことは何度もあった。なんでこんな狭いところでみんなで食べる必要があるのじゃ、家族とだってこの距離で食べないよ、という場所もあったし。慣習みたいになってる職場ってあるのよね。でも義務でもないしその時間はお給料出ない(雇われている間は全部時給生活だった)のになぜ、ということで私は色々街を探索しながらいいお天気の日は公園のベンチで食べてた。一緒が楽しい職場もあったけど。怒る人がいないときはみんなプチ料理したり。それぞれ自分が楽な形を日々模索する方が面倒な場合もあるか。確かに私もたいしておいしいと思っていないお店に惰性でいくことも多いものね。それはそれでそのお店のいいところってことになるし。

水村美苗の『大使とその妻』を少しずつ読んでる。どうしても「大使館」と打ってしまうな。今も間違えた。すごくよくてずっと読んでいたいのだけど時間がない。でもこのペースでいいのだ、これは。静かにゆっくり進む。今日も気持ち的には余裕をもっていけたらいいね。お風邪など召されませんように。

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散歩

秋、外ごはん

東京の日の出は5:55。まだまだ暗い。今日は曇のち雨みたい。朝焼け見られないかな。カラスが鳴いとる。みんな朝早いね。昨日の空はこれぞ秋空という感じでずっと眺めていられた。オフィスのそばの玉川上水旧水路のベンチも公園も人がいっぱい。ひとりで何か食べている人や三人でお弁当食べている人やはじめて会ったらしい犬にすっごく懐かれている人やその犬や「幸せねえ」と声をかけている飼い主さんやビニールシートから元気に立ち上がる子どもとか木陰でバイクを止めて何かしている人とか。犬にすごく懐かれていた方とお連れの方は民族衣装なのか全身オレンジで遠くからみたらオレンジの三角コーンとオレンジの金木犀が連なっていて素敵だった。はじめての相手にこんなにすりすりするものなのかぁ、かわいいなぁ、とグレーのモジャモジャの小さい犬に優しい視線と声かけをしているみなさんの会話を聞きつつ通り過ぎた。玉川上水もいつもいく新宿中央公園も西新宿のビル群も座るところが多くていい。外ごはんに最高の季節でしょう。今日は雨で無理かもしれないけど最近外ごはんしている人がとっても多くてなんか楽しい。気持ちいい空の下で色づきはじめた木々を眺め穏やかな雰囲気を感じながらのんびり食べられたら時間としては短くても心洗われる。私もこの前キッチンカーでアジアごはんを買って公園のベンチで食べた。少し離れたところでくつろいでいた人が雑草のお掃除をするからと移動をお願いされてて私もそのうち移動しないとかなと思い前もって近くのビルのベンチにできる場所へ移動。そこにも人がちらほら。ありんこが近くまできては何にもありつけずうろうろしていたおいしかったな、あのキッチンカー。8種類くらいから4種類選べるアジアンセットみたいなのにしたんだけどどれも美味しくて豪華だった。でも最近はキッチンカーも高いね。物価高いから仕方ないのだろうなあ。一人でやるのも大変だろうし。

昨日、隙間時間に書き物を少し進めたんだけど、ちょっと本を見返したらなんか全然違う理解が生じてしまって書き直すことになりそう。急に「ああ、こういうことが言いたかったのか」ってなることないですか。なんか急に別のまとまりが立ち上がってくる感じ。これが誤読じゃないとありがたいのだけど私の限界ってことでこれでいこう。もう新しい理解生じてこないでね。書き直す暇ないから。つらいよー。今日も長いぞ。がんばろう。どうぞよい一日を。

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散歩 精神分析

春、ジャズ?、ツバメ

ちょっと筋肉痛。クロネコやAmazonのおかげで旅支度が少し進んだ。なによりも友達のおかげだが。感謝感謝。しかし本来一番やらねばならなかった準備…ぐちぐち(まとめちゃおう)。ぐちぐちいうのもそこそこめんどくさいわね。

早朝に洗濯機をかけた。洗わねばならないものを入れ忘れた。別に今日洗わなくてもというものはいれた。なんなん自分。

昨日の昼間は半袖で動けた。新宿中央公園の桜が葉桜になりお隣の八重桜の濃いピンクがフットサルコートと空に映えた。新緑が眩しくて赤い三角コーンにハート柄のなにかがまかれていた。お花の時期は赤いコーンも悪くないけどおいてもおかなくても良さそうな場所のコーンはこのくらい目立たない方がいいかもね。ちっこい球根はすごい数のチューリップを咲かせいろんなツツジも満開に近かった。亀たちも誰が上に乗ろうと気にしない様子で重なり合ってのんびり。新宿でさくっと用事を済ませてまたオフィスに戻った。亀って重さとか乗っかられて煩わしいとかないのね。私は10キロくらいのデッドリフトは余裕だけど(多分)足ちょっと踏まれるとかでも嫌だな。どうなってるのかな、亀さんたち。たまにまじまじと見てみるのだけどただただのんびりしておられてかわいい。

公開されてたジャズのプレイリストを適当に選んで歩いた。耳に止まった音楽は曲名もプレイヤーもわからないままお気に入り登録した。夜になってまた耳に止まった。今度は画面を見てみた。同じ人の曲を昼間登録していたとわかった。緑のチェックがはいっていた。私はこの人が好きなのかもと思ってチェックしたらネイト・スミスという有名なドラマーの曲だった。知らなかった。これはジャズというよりなんていうの?ジャンルはわからないけど違うノリで聞いていた。かっこよくてアルバムもいくつかチェックして少し前のアルバムをお気に入りに登録した。電車でリズムを刻んだが変な動きだったかもしれない。

モッコウバラでいっぱいの壁を左手に眺めながら歩いていたら右手の狭い芝生に3種類くらいの鳥がいた。鳩とスズメとあの子は誰やろ。よく見かけるベーシックな鳥なのに忘れてしまった。ガーン。校庭で遊ぶ子どもたちみたいだった。色々いる。そういえばこの前ツバメをみた!木曽路でみたたくさんのツバメを思い出して一句作ったばかりだった。素敵だよねえ、ツバメ。昨日の朝、北海道の友人が送ってくれた春景色に映っていたマガモも陽射しですごくきれい色になってた。東京はそろそろ夏の日差しだね。春短かった気がする、と書いてみたけどそんなことないか。日々の寄り道で十分満喫した。今日も少し寄り道とか遠回りとかしちゃおう。どうぞお元気で。

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思い出など

今日も小川町のトリヨンフさんの焼き菓子と紅茶。神保町の隣の神田小川町ではなくて埼玉県比企郡小川町。東武東上線の。懐かしいなあ。東上線沿いに住んでいたことがあるから駅名はすごく馴染みがある。森林公園も遊びにいったなあ。ジャングルジムで遊んでたら男の子と間違えられた。当時の彼氏と一緒だったのだけどベリーショートだったから?いつもTシャツにジーパンだったから?今もたいていそうだけど。きっとそういうイメージなんだろうね。18でジャングルジム登るのが子供っぽいというのもあるか。でも公園行ったら遊ぶでしょ。今も小さい子たちと登ることがあるけど子どもの危険防止で登っているはずなのだけど私の方がバランスとか危うくて全然ダメですね。鍛えねば。最近ようやくストレッチポールに乗る習慣はついた。脛ゴリゴリするとまだすごく痛いけどトレーナーの先生のところでやったときより痛くない気がする。というかやり方が間違っているのかも?先生、ものすごく的確だったから。怪我しやすい人は身体が感覚掴めるまでプロにきちんと教わった方がいいと思う。自己流で怪我してたら二度手間というかとっても残念な気持ちになるし。整形外科とか行かねばになるといつも混んでるし病院通いは時間がかかるから本当にやってられないでしょ。私は日曜診療のところも使ってるけど、助かるけど・・・。この歳になると友達との病気関連情報網が発達してるから「ここは混むけど順番になると連絡くれるし先生がこういう感じでいい」とか「ここでこんなになってあれは失敗だった」とか教えてもらえるのがいい。この前、友人の病院選び失敗談を聞いてて、その人が医療系の友人にその病院のことを話したら「いい先生はそんなにべらべらしゃべらない」って言われた、と聞いた。至言と思った。必要なことだけをやるっていうのが技術でしょ、医療系も支援者も。余計なことはしない。友達じゃないんだから。友達だったら色々してほしいことをしてあげたいのはわかるよ。小さい子供がいる家庭なんて本当大変だし。予防接種行ったり、熱出したり、怪我したり、なんだかんだ、と自分のメンテナンスする時間も持てないでしょう。だからできることはしたい。私は小さい子がいる友達と遊ぶときはハーブティーとか持ってくことがある。自分が一緒に試してみたいのもあるし、前もってリサーチする場合もあるかな。ハーブって好き嫌いあるものね。彼らと森林公園に行くのもいいな。小さい子はとにかくいっぱい動きたいから見える範囲が広いところで(狭いとこっちもあれこれ注意払わなくちゃで疲れてしまうものね)遊ばせてあげたい。でも最近体力ないからあんまり遠くに行かないで・・・。森林公園は今はチューリップがたくさん咲いてみるみたい。昨年はチューリップで有名な公園に行ったつもりがもう終わっててありゃーってなった。でもいいところだったから野生の花々とか鴨とか見ながらお散歩して楽しかった。なんかまだ寒くて嫌になってしまうけどいろんな種類の桜が咲き始めてて沈丁花やコブシがとってもきれいなまま終わり始めてる。昨晩も真っ白なこぶしが朽ちていく手前の大きな花で闇を照らすみたいに咲いててすごくきれいだった。三浦哲哉さんの『自炊者になるための26週』(朝日出版社)の終盤「索引と徴候」という章で中井久夫の『徴候・記憶・外傷』からの文章が引用されている。この本は私もよく引用させていただいている。そこで中井久夫が書いた花のにおいのところが引用されているのだけど本当に見事な描写だと思うし、その後の三浦さんの思考の展開もすごい。「懐かしいにおいのお茶があれば、それを淹れてください。飲みつつ、つづきを読んでください。」のあとの文章。懐かしいにおいのお茶、なにかな。オレンジティーかな。バイト先で最初に飲んだときはびっくりした。紅茶なのにオレンジ?今ほどフレーバーティーのない時代だもの。でもすっごく美味しかった。あれはジャム使ってたのかな。タバコ臭くて意地悪なお客さんが多くてすごく近寄り難い喫茶店だったのだけど(だからバイトがバレないと思って友達に紹介してもらった)賄いのパスタもアイスココアも全部美味しかった。厨房の大人たちは怒鳴るし最初は怖かったけど(あまり覚えてないけど多分怖かった)「メニューにないものも作ってくれるよ、これが美味しいよ」と先輩が色々教えてくれたから恐々いってみると先輩のいう通り美味しいのが出てきてニッコリしたり。そのおっさんもそのうち怒鳴らなくなった。最初から怒鳴らないでよ。先輩はメルローズに就職した。あるとき道を歩いてたら田舎道ではあまり見かけないかっこいい車がピタッと横に止まった。声をかけられて「だれ!?」って一瞬ビビったけど先輩だった。モデル体型の人ではあったけどすごくおしゃれで最初誰だかわからなかった。エプロン姿しか馴染みがなかったから。あの人が私にとって「かっこいい」の元祖かも。元祖って今もいうよね?中性的で言葉少なくて優しかった。不良時代を支えてくれた皆々様との思い出が食べ物を通じて蘇るよ。感謝感謝。こんな歳になるまでどうにかこうにか生き延びております。みんなも元気でいてほしい。あ、千葉雅也『現代思想入門』のことを考えていたのに全然書いていない!なぜだ。お菓子を先に食べたからか。まあ、今日は時間切れ。あの本はとてもいいけどかなり難しいよね、ということを考えていたのさ。どうぞ良い一日をお過ごしください。

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『東東京区区』、社会学の本

近所で用事をすませてコブシと雪柳が真っ白に咲き誇っている場所に少し寄り道しようといつもと違い道を通った。同じ場所に白い椿も咲いていた。いつもの道からだと見えていなかった。

地元の珈琲屋さんで移転してしまったラーメン屋さんのことを話した。移転先は決して便利な場所ではないのに看板も出さずに成功しているらしい。惜しまれて去ったと思われたら皆ついていったか。素晴らしい。

街歩き趣味の私はかつしかけいたさんが「路草」で連載している『東東京区区(ひがしとうきょうまちまち)』という漫画が好きなのだけど「第10話「卵・焼肉・あんみつ」」が公開されて嬉しい。舞台は上野。私が子供の頃は特急も新幹線も上野までで上野が玄関口だった頃の景色はよく覚えている。あの薄暗いホームこそ私の「東京」だった。実家にいる頃はなにかとお茶の水へ向かうことが多かったので上野で降りることはあまりなかったけどこんなに高低差がある街なのね、ということを今回の回で学んだ。たまに上野から根津、谷中、湯島の方へ抜けたりするけどここに出てくる道は歩いたことないかも。あんみつ「みはし」は憧れ。いいなあ。友達と行きたい。

仕事以外はだいぶぼんやりしていて手元にある本ばかり読んでいるのだけど再読のはずが全然新しい本に思える、やはり。奥村隆『他者といる技法 コミュニケーションの社会学』は二月末に名古屋に行ったときに帰りの新幹線用に買った本なのだけどようやく最後まで読んだ。三木那由他さんが解説。こんなにわかりやすく書ける三木さんがすごい。全般的な私の意欲が落ちているせいもあるのかもしれないが、この本はかなりずっしりした一冊でしたよ。今回、25年を経て待望の再刊だったらしい。私は社会学の流れとかをよく知らないのでなんとなく手に取ったが今でも、というか今だから読まれた方がいい本なんだろうなあ、と思った。いろんな場面や状況が想定されてそこで生じていることをどう理解するか(理解できないという理解をどうするかも含め)について緻密に議論が繰り広げられているが、これは古田徹也『謝罪論』に通じるところがある。というか私が選ぶ本はみんな通じるところがあるから選ばれているのだろう。だってこの本の後に手にとった大澤真幸の『〈わたし〉と〈みんな〉の社会学 大澤真幸THINKING「O」第14号』(左右社)の見田宗介論文の要約にも奥村論文が登場しており、奥村隆の文庫のあとがきは大澤真幸の言葉から始まっていた。先輩後輩関係とのこと。社会学も人材豊かだなあ。あまり意識せずに色々読んできたけど意識すると「あぁ、この本の編者もこの人なのか」など少し繋がりが見えてくる。ちなみに吉本隆明『共同幻想論』もそばにあったのですこ再読したがこれも重たいねえ。私がお世話になっている世代は皆はまったであろうこの本。ここで出てくる『古事記』はやっぱり町田康のとは違うんだな。もうあれは印象が強すぎるからオリジナルとして読んだ方がいいと思う。吉本本とは異なるテンション。そうか、今私はテンションが低めなのでそこのブレに敏感になってしまっているんだな。いつもだったら振り幅考えずになんでも読んでいたわけだし。はあ。とはいえ今日もお仕事がんばりましょう。オフィス周りの地形も暗渠とかあって起伏が多い。隙間時間にぼんやり歩くか。東東京の方が個人的には魅力的だが普段使いの街への気持ちはこんなものだろう。私のオフィスがある西参道は初台駅利用もいいけど明治神宮方面に行くのも中野方面に行くのもあり。私は都庁に行かねば。新宿中央公園のコブシも黒くなってきちゃったかな。真っ白に満開に咲くとすぐ黒ずんでしまうのもコブシらしさ。みなさんもどうぞ良い一日をお過ごしください。

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散歩

毎日秋。斎藤陽道個展『絶対』

朝。本当あっという間に寒くなった、といってか何日が過ぎただろう。あっという間あっという間あっという間劇場♩っ歌がなかったか。あったか。空がまだ夜の雲が混じっているみたいなグレーと水色が重なって絵みたい。「絵みたい」といいながらいつも一体それは何を意味しているのだろうと思うが今日は考えない。

もうちょっと外に出ちゃったから頭がいつもの朝モードではなくなってしまっている。いつも違う気とするとなんかすでに刺激過多という感じで書くモードではなくなるのかな。でもこうやってるしなあ。

ミーティングで発表したのだけどこの形式が結構面白くてなにもみないで自由に話すという形式。自由とかいって形式。本物の空を絵、というのとは少し違うか。そのときに自由連想ってフリーアソシエーションフリーはアソシエーションにかかってるからfreelyとは少しニュアンス違いますよね、でもフロイトも「自由ったってなかなか難しい」みたいなこと書いてますしねえ。ねー面白いね。みたいな話をした。自由に話す形式は自分がなにをみていないかを相手が拾ってくれやすくなるならよい。他人の目だからみえることのほうがずっと多いから、自分のことに関しては。

昨日から京橋で写真家の斎藤陽道さんの写真展『絶対』がはじまった。小さいスペースに光の輪をまとうように浴びる写真たち。素直に感動した。斎藤陽道さんはEテレの手話アニメーション「しゅわわん!」でも有名かな。子どもたちに驚かされる幸せを感じるかわいい番組。個展にはご本人もいらして筆談でやりとりしていらした。重版になった写真集『感動、』すごくよかった。レターはこちら

月末まで東京駅東側エリア(八重洲・日本橋・京橋)はT3 PHOTO FESTIVAL TOKYOのプロジェクトもあってTokyo Dialogue 2023と色々みられるみたい。斎藤陽道さんの個展しか行けてないからまた行きたい。

街の木々も少しずつ色づいてきたし暖かくしてちょこちょこおでかけして外でやるイベントでホットワインとかココアとかのみたい。結局美味しいもの探し。秋はなおさら。

みなさんは今日はお休みかしら。どうかゆっくりお身体いたわってお過ごしください。

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月、祭、音楽

昨晩、月がきれいだときいたが私が見たときにはもうどこかへ行っていた。その前の日はきれいに輝く月を見た、神奈川県秦野市で。ということで今朝の音楽はB’z「今夜月の見える丘に」と思いきやスターダスト☆レビュー「月の輝く夜に」。彼らももう長い。B’zより前からだろう。B’zは今年35周年。最初から大好き。吉田栄作も来年歌手デビュー35周年だそう。なぜ突然吉田栄作かというと「秦野たばこ祭」でライブを観たからです。栄作(ライブで野太い声で「栄作ー!!」と叫んでいた人を思い出している)は「はだのふるさと大使/秦野たばこ祭エグゼクティブアドバイザー」とのこと。LUNA SEAの真矢もはだのふるさと大使ということで和太鼓を披露していた。私は川沿いにズラーっと並んだみんなが掲げたスマホの画面にそれらしき姿を眺めながら遠くからの太鼓とスピーカーからの音を聞いただけだけど。とてもいい祭だった。祭については時間ある時にnoteにでも書いておこう。ちょっと確認しながら書かないとだろうから。LUNA SEAはB’zより少し遅い登場だった。なんでもB’zが基準になっとる。

今朝も何も進まないまま寝不足。大変なことだぞ。羊羹とお茶の組み合わせは早々にいただいたが。日差しが優しくなったのにもホッとする。バタバタと移動しながらの日々だから辛かったんだ、夏は。電話もしなければいけないんだ。まずい。気づいたそばからその前に思い出した予定が抜けていく。大丈夫じゃないな。が、こういうことは珍しくないので単にしっかりしなさいという話か。なんでも寝不足のせいにしてないで。昨日は早速買ったばかりの高性能イヤホンが行方不明になり泣きそうになった。なくさないように派手な色のポーチに入れねば、と思ったところまでしか記憶がなかった。帰り道まで気づかずにいられたのはよかった。仕事詰まってるのに気になっちゃって、というのでは困る。患者さんたちもいろんな音楽聞いてるよなあ。この仕事してるといろんな学校や仕事や音楽やゲームや習慣の話を聞くので世界は広いなと感じる。自分のことを話すというのは他人のことを話すということでもあるのでお会いしたことのない人が聞いたり読んだりしているものまで知っていたりする。私は最近再びジャズを聴き始めたおかげでずっと音楽活動をしてきた先生といろいろ話すことができた。黒人音楽のような手応えのある「相手」の登場は日本にはありうるだろうか。小さな差異に非対称を見出すことでは話を聞く気などない相手に抵抗することはできないだろう。いつの間にかのっぺりと「きみたちも似たようなもんですよ」と呑み込まれなんだかんだそこに安住している自分を見つけたりしないだろうか。それも見ないふりでいくのだろうか。傷つきはすべて「個人的なトラウマ」として処理される可能性はないだろうか。行けるところまで見て見ぬふりで?実際、そうなっていると感じないだろうか。日本の精神分析は日本の文化に向けられたものである必要がある。患者が生きる場所自体の分析を同時に行うために大切な対話ができたのはよかった。

今日も冷たい冷たい世界ちゃん、おはよう。秦野たばこ祭の「火」は幻想的に燃えていた。どこで熱くなるかは人それぞれ。それなりの緊張感と切迫感を維持したいと思うがどうだろう。

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お菓子 散歩 精神分析

寄り道、新ハムレットオンデマンド配信、カチカチ山

暑い。でも朝はまだ冷房が効くのが早い気がする。今朝のリビングは31度だった。28.5度設定。0.5度ずつ変えられるようになったのっていつからだろう。その差をどのくらい身体がキャッチしてるかわからないけど。

隙間時間に友達とおしゃべりして連れてきてもらった道を戻るのではなく神社のほうへ。あ、通りの名前は知ってる。この通り、この前も見たけど繋がってるってことか、と陽射しを辛がりながら歩く。明らかにこの前通ったばかりみたいな景色だがこれはどっちにいけばいいんだろ、と左へ。あ、いつも突然現れる美術館はここかあ、行くときはのんびり寄り道しながらいくから全然道を覚えない。知っている道なのに知らない感じ。ここはどこだろう、と思ってると間もなく馴染みの景色へ。別の駅から帰りたかったのに降りた駅に戻ってしまった。あーあ。都会は難しいな。美味しそうなお店も見つけたけどまた偶然通りかかるまでは忘れちゃうな、きっと。その時はもっと時間があって偶然お腹も空いていますように。寄りたい。

五戸真理枝さん演出で6月、PARCO劇場で上演された 『新ハムレット〜太宰治、シェイクスピアを乗っとる!?〜』が今日から7月25日(火)までオンデマンド配信とのこと。劇場なんて遠くて行けなかったよ、みたかったよ、という人はぜひチェックしてみてください。太宰の命日である「桜桃忌」にはすごくかっこよくてすごくうじうじしたハムレットを演じた木村達成とこんな舞台を作ってしまう天才、五戸真理枝のアフタートークショーも収録されているとのこと。舞台の3分の1のお値段です。夏の夜のシェイクスピア、太宰のハムレットはやや暑苦しいけど女たちも魅力的。

太宰といえば河口湖町にカチカチ山(天上山)というのがあってハイキングにもいいしロープウェイでも山頂に行けるのだけど山頂も色々遊べて楽しいの。たぬき茶屋もあるしかわらけ投げもできる。もちろん太宰のカチカチ山の場面を辿れる場所もありますよ。面白いです。

今朝は太宰繋がりで河口湖土産、私的(多分多くの人にとって)No.1のフジヤマクッキー。オンラインでも買えるけど現地からきたそれらは少し山頂の雪が溶けたりしていてそれはそれで趣というもの。今回も美味しいです。

はあ、パソコンあっつい。熱い紅茶も飲んじゃったからあっつい。きれいさっぱりして出かけましょう。でもきっと外に出るなりダランデロンってなって電車でキンキンに冷やされてまたダランデロンってなっての繰り返しだろうけどね。毎日ぐったりしがちやわ。みなさんもどうぞお大事にお過ごしください。

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散歩 読書

カフェ、アイドル、比嘉健二著『特攻服少女と1825日』(小学館)を読み始めた。

暑すぎる日に寒すぎないカフェを探した。土地勘のある場所だから使い勝手のいいカフェの寒さは大体知っている。あそこなら、と思って自動ドアを入ったらさむっ。入った途端にさむっ。やっぱりやめよう。涼みに入ったみたいな感じになった。ならあそこは、とまた少し歩く。え、ここ2階だったんだ、地下だと思ってた、というと2つあるんじゃない?と言われた。なんだその発想は、と思ったらそばに同じ薬局が2つあったからという。なるほど。ほんとなんでこんなそばにね。でもこの薬局、わりと2軒の距離が近いところにあったりするよね。カフェは2階にしかなかった。お互い10年ぶりくらいかもと話しながら大きい4人掛けのテーブルへ。寒くない。やったー。気楽に動きすぎて上着を忘れたのだ。超寒がりの私は定期を忘れても上着は忘れないのに。どこもかしこも寒いでしょ、夏は。週末は外でぼんやりしすぎて熱中症っぽくなってダウンしたけどね。夏生まれなのに全然上手に過ごせない。体調の崩し方も歳とって変わってきてるし困ったもんだ。

遠くでアイドルグループが歌うのを大きいパラソルの下からぼんやり眺めていた。ご当地アイドルとして自分たちで店のプロデュースもしながらいろんなところでライブをしているとのこと。自分たちプロデュースのライブ場所を持っているのはすごいよなあ。小さな野外ステージを降りるなり物販。手売り。遠くてあまりよく見えなかったけど踊りがザ・アイドルという感じで「推しの子」を思い出した。この暑いのにめちゃくちゃ動く。すごい。名前紹介とかもパターンが決まってるよね、グループって。すごいリズム。それに呼応して客席からあがる野太い声。ほお。様式美、といえば比嘉健二著『特攻服少女と1825日』(小学館)をKindleで読み始めた。体調を崩すと活字も読めなくなるがなんとなく読む気になったので安心した。

表紙がすごくいいのはKindleでもわかる。内容は出版社のサイトを見てほしい。ためし読みもできる。暴走族とヤンキー、レディース、田舎の山の麓育ちの私にはとても身近だが今はもうその形式自体古いのだろう。彼らの面子を重んじるあり方や様式美を渋谷センター街に見出すことは難しい。コギャルだってもう昔の話だろう。加害とか被害とかいうわけ方も知らず性愛と暴力に翻弄されるような10代の居場所探しの日々が意外なほどゆったりした時間感覚で著者自身の本作りの歴史と並行して書かれているこの本にひたすらノスタルジックな気持ちになるのは世代ゆえか。体調ゆえか。レディースと名乗ったティーンズたちは大人になっても魅力的だ。そう描かれる。文章に勝手に著者の想いを想像してはやはりノスタルジックな気持ちになった。居場所という言葉も苦手だがこの本にはしっくりくる。しかしまだ途中。

今日もすでに暑い。昔の夏の思い出を語ったりしよう、寒すぎないカフェとかで。どうぞお気をつけて。今日は火曜日。忘れないように(忘れそう)。

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散歩

魚の匂い、散歩

リビングへいったら魚くさかった。自動的に南側の大きな窓を開けた。あれ?昨日魚なんて食べてないぞ、とあとから思う。バタバタと家事をして落ち着いてみると魚くさくない。匂いの方に合わせて魚を焼いた気になってしまったが夢の続きだったのかもしれない。夢も覚えていないけれど。

先日ランチをして歌舞伎町から区役所通りに出て鬼王神社で水琴窟の音を聞き小泉八雲記念公園へ。お花の綺麗な小さな公園。今日は小さな通路に食パンが何枚もばら撒かれていた。「誰、こんなに散らかして!」と袋をもった人が片づけにきた。そばで写真を撮っていた人を見上げるとその視線の先には鳩たちが絵みたいに並んでいた。私も写真を撮って角を曲がるととても色白のきれいな人と大きなカメラを持った人が出てきた。松江城の裏にある小泉八雲記念館もまた行きたい。城山公園内には稲荷神社がある。所狭しと狐がいる景色は圧巻だ。八雲の散歩コースだったそうだ。明治通りを渡り戸山公園へ。明るいコープの前を通り高齢の方々数人がぼんやり座る前を通り大きな団地のなかをいく。昭和に戻ったかのような風景はすぐに木々に変わる。箱根山公園は山手線の内側では最高峰の築山。標高は44.6メートル。頂上で風に吹かれた。水遊びを楽しむたくさんの子供たちの声を聞き木々の写真を撮りながら早稲田口へ。早稲田大学の演劇部らしき人たちが本を片手に集まっていた。早稲田駅を通り小道へ。坂が多い。しばらく歩き新宿区立漱石山房記念館へ。夏目漱石が生まれ、亡くなった土地。多くの草稿や装丁を見ることができた。二階の壁には作品の断片がバラバラと展示してありも懐かしく印象深くまた読み直したくなった。一階にはブックカフェもあり漱石が読んだ洋書なども読むことができる。それなりに長居したがもっとゆっくりきたい。猫はかわいい。等身大の漱石人形とお話をしているかのような写真も撮った。本当にお話してみたかった。

なんとなく散歩の記録を書いてしまった。焼いてもいない魚の匂いから頭の中を辿っていたらいつの間にかそうなった。このコースははじめてではないが悪くないな。暑いときは新宿駅西口からバスでくるのもあり。蝉の声を浴び汗もかいたが散歩にはちょうどよい曇り空でありがたかった。今日は日差しも強そうですね。ヒー。気をつけて過ごしましょう。

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散歩

神代植物公園

神代植物公園に行きたい。5月いっぱいバラフェスタをやっているそう。先月行ったときはまだ緑の方が多かったバラ園があの見事な色と香りに満たされていると思うとうっとり。宮殿のお庭みたいなバラ園なのだ。

私が通っていた白百合女子大学も森の美しい大学だった。最寄駅が京王線仙川駅、住所は調布市仙川緑ヶ丘にありお隣のつつじヶ丘駅は身近だった。不登校の子どもの家庭教師にも通っていた。先日久しぶりに降りたつつじヶ丘はすっかり便利な街になっていてびっくりした。私の大好きなスーパーオオゼキが駅前に!なんと羨ましい。神代植物公園にはつつじヶ丘駅からも調布駅からもバスでいける。中央線なら三鷹や吉祥寺からバスで。両親が東京にきたときにみんなで行ったのがはじめてだったか。今は身近な場所も当時は全て目新しかった。

昨年秋に行った時は映画のセットのように落ち葉がふわふわに敷き詰められていて小さな子どもが埋もれながらもたくましくそれらを空へまき散らしていた。そのときは調布からバスで行き深大寺へ先に寄った。蕎麦屋「湧水」で少し呑んで深大寺を散策して句碑を写真に撮り、山側というのかな、土の道を通り深大寺門から入った。雑木林を抜けると景色が開けた。お城が現れたかのようにものすごい数のバラが咲く庭が広がり、その向こうに大きな温室があった。そばによるとものすごい香り。芳しいとはこのこと。

次に行ったのは今年の春だ。つつじが満開だった。新緑の美しさにも目を奪われた。遠くから「なんだあの木は!」と思って近づくとどの木かわからなくなってしまうような森を散策もした。そのときはつつじヶ丘駅からバスで直接神代植物公園へ向かい正門から入った。名前の札を立ててくれている木々や花々が多いのは植物園の素敵なところだけど私は無知すぎるので全ての木々に書いておいてほしいくらいだけどいいかげんパンパスグラスは覚えたし今回は「ハンカチの木」が満開だったのでそれも覚えた。バラ園はどうなっているのだろうと思って向かったらあの場所には緑が広がっているだけだった。あれ?たしかにまだバラの季節ではないので当たり前なのだがあの景色を勝手に心の中に広げていたので少しびっくりしてしまった。その代わり、藤が満開でバラが美しい季節には気づかなかったよく整備された藤棚の通路は陽射しを受けてキラキラしていた。藤棚のそばにはふじ園があり、藤にもいろんな種類があることを知った。

あのとき少し咲き始めていたバラが今は満開なのか。行きたい。紫陽花も咲き始めているだろう。花や木々の名前を調べる時間が増えた。佐久間一行ファンに佐久間さんが出ている「道草さんぽ」というNHKの番組を教わりテキストも買った。先生役の多田多恵子さんがとても素敵で散歩をするときにますますキョロキョロするようになってしまった。牧野富太郎の本も実家にあったから子どもの頃から眺めていた。主にスケッチを。「月刊MOE6月号」は牧野富太郎特集ということで久しぶりに買った。牧野植物園のクリアファイルもついていた。旅に出れば植物園にもいくし山道も歩く。もう少し彼らについて詳しくなったら水や鳥や動物や土地の歴史をもっと知ることができるかもしれない。先日歩いた木曽路はドブ川がたくさん流れていた。ドブ川と呼ぶには水がきれいだったが何よりその水量に驚いた。多分水の流れに合わせて建てられた家の玄関の高さなども「どうして?」と思うことが多かった。これも宿題。

とても苦しくてどうしようもないときはとりあえず自然を意識できる場所へ出向く。いろんな驚きをくれるから。一瞬であっても辛い記憶を別のものに置き換える。鬱っぽくて活字を読むことができないときもただ佇めるし鳥の声がうなだれ沈みがちな姿勢を少し上向きにしてくれる。注意を空に向けてくれるから。

今日もじっと引きこもっていたい人も身近な自然に少し助けてもらえますように。何も考えず委ねるなら人よりそっちの方がいい、というときもあるでしょう。

みなさん、どうぞご無事で。良いこともありますように。

ハンカチノキ

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散歩 精神分析

富士山

富士山が見える駅には「晴れているとこちらから富士山がみえます」とか書かれていることが多い。こちらは晴れていてもあちらがという場合もあるしお空事情は色々だから見えない時もあるし「こんな隙間からこんなきれいに!」と意外な場所から意外な富士山を発見することもある。「富士見」と名付けられた場所にも「昔はここからきれいに富士山が見えました」と書いてあったりする。もちろん今でもきれいにみえる富士見ヶ丘とか富士見台とか富士見町ととかもある。かろうじて富士山が見えるポイントに人々がたまっていることもある。富士山すごい。

春を巻き戻したような土地で桜やハナミズキや藤と出会い直した。毎年季節が進むのが早くなっているように感じる。

今朝は早朝から散歩へ。行ってきます。

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俳句 写真 散歩

花々

行き慣れた家をピンポンした。門からお庭をのぞいたら見慣れないきれいな花がスラッと長く立つ枝に散らされたように咲いていた。人が出てきた。飯能で見つけた「食べる甘酒」を渡しながらこのお花って前からあったかという話をする。おとうさんといっしょに買った苗で昨年は花が咲かなかったという。だから気づかなかったのか。しかもどうだんつつじだという。え、私が知っているどうだんつつじはいつもの散歩道で見る茂みのようなものなのにこんなにすっと背高く咲くものなのか。きれいなピンク。お庭はほかにもこの時期のお花が美しく咲いていた。あやめ?ジャーマンアイリスって言うんだって。ドイツのあやめか。よくわからないのだけどこっちにも似たようなのが咲いていたのよ。へえ、あっちのは?などおしゃべりをして別れた。「おとうさん」は昨年一月に亡くなった。元気そうでよかった。

「どうだんつつじ」と打ったら「灯台躑躅」と出た。打ち間違えたともう一度打ったら自動変換の候補に「満点星」ともでた。あれ?なんで?また打ち直したらまた同じのがでた。これ、どちらも「どうだんつつじ」と読むそうだ。「満点星」でそう読ませるのはなかなか難易度高いが散らされたように咲く花が空に散らばる星々に似ているということだろうか。wikipediaには

「「ドウダン」は、枝分かれしている様子が昔、夜間の明かりに用いた灯台(結び灯台)の脚部と似通っており、その「トウダイ」から転じたもの。満天星の表記は本種の中国語名の表記をそのまま引用し和名のドウダンツツジの読みを充てたもの。」

と書いてあった。そうなのか。お花をラテン語の学名で見ることは多いが中国語名を意識してみるのも面白いかもしれない。深夜、少しだけ片付いた床でむくみのひどい足を伸ばしながら『花のことば辞典』(講談社学術文庫)を見ていた。また片付け途中でみつけてしまった。古田徹也さんがどの本か忘れてしまったが言葉の本のどれかを出されたときに選書リストにあげていた本だ。文庫サイズの辞典はありがたい。その頃は毎日意識しなくても感じられる風や雲の方に注意が向いていてこちらも古田さんの選書で知った『風と雲のことば辞典』をパラパラすることはあったが花の辞典の方はあまり見ていなかった。パラパラ。俳句だ。

「花は夏・秋・冬にも咲くが、ただ「花」といえば、桜に敬意を著して春の季語である。」

下の4句が並べられていた。

花の雲金は上野か浅草か 芭蕉

草越しに江戸も見えけり花の山 一茶

花更けて北斗の杓の俯伏せる 山口誓子

人体冷えて東北白い花盛り 金子兜太

たしかに。見えてくるのは桜、ですよね。そう聞いたからそう見えるだけかな。北斗七星の三つ星を杓に見立てるとは知らなかった。「暦生活」のサイトにわかりやすく書いてあった。

「アイリス」が「あ行」の最初のページに載っている。「アヤメ科アヤメ属の栽培多年草」と。うちの花壇にも植えてみようかな。紫のお花は梅雨に向けての構えをしっとりと作ってくれる。すぐに咲かなくても次の年に咲くかもしれない。

携帯電話には花の写真がたくさん。あっという間に日が過ぎるのでこういうサイトに使おうかと思った頃にはもうその花は枯れ落ちていたりする。季節はめぐる。外は雨の音。さっき南側の大きな窓からのぞいたときは降っているように見えなかったのに。今日は一日雨みたい。写真を撮る余裕はなくてもたくさんの木や花に出会うでしょう。辛いことも悲しいこともたくさんだけど紛らわしながらなんとか過ごしましょうか。どうぞご無事で。ご無理なく。

明治神宮
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あれはなんだったんだろう コミュニケーション 散歩

女王様のおやつ、工場見学、消しゴムマジック

今朝は群馬県高崎市に工場があるガトーフェスタハラダの群馬限定ラスク「グーテ・デ・レーヌ キャラメルショコラ」をいただきます。高崎市にある珈琲屋さんのコーヒーと。さて女王様のおやつ、とのこと。なるほど。ゴージャスな作り。なんでこれが群馬限定販売なのかな。普通のグーテ・デ・レーヌもあるんだね。レーズンサンドと合わせてるんだ!美味しそう。ぐんまちゃんのイラストが描いてあるわけでもないしなぜだ?まんまと買ってしまったではないか。おいしいからいいけどさ。ここは工場見学にいくと生ラスクも試食させてもらえるの。これがとっても美味しかった。生ラスクって言い方でいいのかしら。まだ少し柔らかくて表面にお砂糖だっけな、それをその場で炙ってくれてすぐいただけるのです。飲み物つきでいただけるスペースもきちんとあるし。県民としてはこんな田舎へ誰がくるのだろう(私は行くよ)と出かけた工場見学だったのに混んでたー。特にショップ。工場をまじまじと見学しているのはわたしたちくらいだったけどね。工場見学ってとても面白い。小学生の時に行った前橋市六供の清掃工場と下水処理場の中身は覚えていないけど温水プールとのセットでその仕組みとか感動した。あの辺は遺跡も多くて古墳みたいなところも行ったな。あとから国立中学附属の小学校はバスで行くんだよ、と聞いたけど確かに私の通っていた公立小学校は子供の足では遠いだろうと今なら思うほどの距離を歩かせていた気がする。ああいう「付属は」みたいな言い方って面白いし変。群馬のお受験なんてそこくらいだものね、受験に対する意識が低い学校でもそういう言葉だけはなんとなく使うようになるのだから面白い。

昨日も寝不足のままうつぶせで倒れこんでいたから顔が変。見慣れない顔になってる。出来事をまるでなかったことにして平然と軽薄でいられるのはなぜかということをここ半年くらいずっと考えているのだけど精神分析のセッションでは瞬間的にでも長期的にでも生じる状態。意識化ということが強調されがちだけど無意識化のプロセスだと思っている。精神分析場面でなくてもDVやハラスメント事案の多くにそういうのって見られるでしょう。そんなことしておいてよくそんなこと言えるよなってやつ。向こうはこっちにそう言わせない圧力をもって「自分のしていることがわかってるのか」とかいってきたりするから怖くて何も言えなくなってしまったり悪循環。誰かを喰い物にしてただの排泄物にしたり詐欺みたいな行動に役立てたりなんにしても「もの」扱いしてしまう心性は相手がいない状態、つまりナルシシズムの文脈が一番語りやすいと思う。相手がいないから平然と相手に押しつけて自分だけさっぱりしてしまう心性。相手のことを人として見てればそんなことはできないと思うのだけどなかなか。最近、写真の編集で「消しゴムマジック」ってあるでしょう。あれを人間関係でやってる感じといえばいいのかな。むしろああいうのは人間の性質がテクノロジー化したともいえるのか。DMとかと同じで一方が消してももう一方のは消せないし、オンラインからはほぼ永遠に相手はいなくならないのでそういうマジックを気楽に使わない方は苦しい。使えない方がいいけどね、魔法的なことは。ドラえもん的なことは。アンパンマン的なことは。万能感はケアとセットならともかく、と思うけど、自分のいったこと、したことは棚上げどころかマジックで一括消去してケアとか環境型セクシュアルハラスメントについて語って賞賛と共感を得てしまう「いい人」でいるとかいう場合もあるでしょ。それってどうなんだろう。そうなりたいわけではない人でも相手を部分的に利用したくなるときはあると思うけど怖さや理不尽さが強烈な場合は問題にしていかないと。自分のせいにすることでなくしてしまわないように。今日もみんなで考えられたらいいですね。

先日、神代植物公園へいったら藤が満開でした。バラ園のバラの蕾もいっぱい。ハンカチの木の花も満開。緑はすでに少しずつ濃くなってきています。少しずつ少しずつ。

カテゴリー
コミュニケーション 散歩 言葉

菓詩、歌詞、葛藤なき世界

朝は少し冷えますね。すっかり寝不足ですが今朝も山梨県塩山のお土産をいただきます。今回は「菓詩処 石井」の「甲州路の菓詩 志ほの山」の抹茶のほう。栗を抹茶餡でくるんであります。今日の断面は素朴できれい。そしてこれもほんのりした甘さで美味しい。ただほろほろ崩れやすいのでご注意あれ。包装紙にはキラキラした文字で和歌みたいのが書いてあるのだけどキラキラしてて読めない。少し暗いところ、でも暗すぎないところで見てみましょう。あ、見えた。

志ほの山  さしでの磯にすむ千鳥  君が御代をば  八千代とぞなく

古今集 詠人しらず

だそうです。ふーん。少し君が代的かな。山梨には磯はないから志ほの山ってどこかしら。一青窈のハナミズキ的でもあるわね。「菓詩処 石井」だものね。どのお菓子にもなんらかの詩とか和歌とかが書いてあるのかしら。あとで白あんの方もみてみましょう。大学生の頃、山梨県身延の方の廃校になった小学校で学校に行かない子たちと一緒に生活するポランティアをしていたので塩山は何回も通っている。桃の花といったら塩山のあの景色を思い浮かべるなあ。農園に降りるなり高齢の方が小さなナイフで手早く桃をむいてくれてその場で美味しい美味しい言いながら食べた。手がぬらぬらになるのも外だと気にならないしね。手をきれいにするというところまで混みでむいてくださっていますし。自然の中でいちじくをとったり鳥兜を「触るな」と言われたり音楽室でバンドで歌ったり騒いだり眠ったりシベリアンハスキー2頭の散歩行ったりウサギを校庭に離して草食べさせたり、烏骨鶏の卵をいただいたり。チーコだっけな。とってもかわいいひよこがどんどん大きくなっていくのにはびっくりしたしなんかどんどん立派になって別の世界へ行ってしまったと感じて悲しんだこともあったな。修羅場ありつつ楽しかったけどあんなことよくやってたな。すごい体力。地元の子たちもよく遊びに来てくれた。ちっちゃい頃からよく遊んでいた子に弟や妹ができてたくさん面倒もみた。彼らは別の世界へとは思わなかったな。当たり前か。チーコの世界はどうなっていたのかなあ。かっこよかった。こっちはカラスが鳴いてるよ。こんなとき「君が御代をば 八千代とぞ」とか「君と好きな人が百年続きますように」とかいう気分になるのね。みんなに幸あれと。

そうそう、この前高崎に行ったばかりだからなおさら思い出したのかもしれないけど高崎市山名町に石碑之路(高崎自然歩道)というハイキングコースがあってそこに万葉集の歌碑がたくさんあるの。寂しくて悲しい歌詞が多くてね、山の中で読むとなおさらジーンときてしまうのですよ。

自分のお気に召さないと葛藤するのがいやだからすぐ別の人で代替、補完してしまうような、人を想う余裕などないというか人を人とも思わない人もいるしそういう人でも本の言葉、他人の言葉とかを上手に借りて葛藤について語ることはできてしまう。でもできたら想うこと、想うがために生じる葛藤から言葉を紡げたらいいのではないか。こっちはポイ捨てしたしこっちには上手く隠せてるしこっちは絶対に味方してくれるしみたいな感じで葛藤なき世界を作り上げることはできてしまうけど。葛藤することが実はいかに難しいかはこの仕事をしてればわかる。してなくても体験から知ってるかも。多くの犯罪と彼らの言葉を知ればその極端な例もわかる。そうでなくてもあんぐりしてしまう言い分もたくさん聞くし巧妙な言い回しもたくさん聞く。嫌ね。辛いね。苦しいね。私はネガティブな方に強く気持ちを揺さぶられたらとりあえずじっとする。時間経過でそれがどう変わっていくか観察する。それから表現する、なんらかの形で。直接的にすることもあればただ黙々と不特定多数の相手にそうするだけのこともある。ある事象に関しては即座にパターンとして表出することもある。俳句や和歌にできる人が羨ましいけど自分が壊れてしまわないためにやることは自分なりの形式でやればいいのだろう。

さあ、今日は水曜日。まだまだですね。なんとかやれたらいいなあ。みんなはどうですか。どうぞご無事でお過ごしくださいね。

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散歩

和菓子、花々

今朝は山梨県甲州市塩山「三省堂」の「一葉懐古」という和菓子。青い桃の実を白餡と黄色い餡でくるんだ甘さ控えめの小さなお菓子。断面もとてもきれいです。

あとは先日高崎駅のお土産売り場で買ってきた珈琲。名前を忘れてしまった。いろんな地元の珈琲屋さんがおしゃれパッケージのドリップコーヒーを売り出していたのでした。若草色の定番っぽい味のにしました。突然決めて向かった群馬県高崎市。若葉がキラキラと美しく、ハナミズキと八重桜が今まさに満開でした。名前を知らない木や花たちもいろんな形や色でとても可愛らしく白雲木という木を知りました。細い枝に穂のように連なる白い花たち。まだ咲き始めらしく蕾がたくさんでしたが満開になると雲みたいになるから白雲木らしいですよ。木には「ハクウンボク」と札がかけられていて私は最初に「ハクウンボウ」と読んでしまったためにそれでインプットされてしまい何度も呼び間違えました。どうしても視覚優位なので漢字を知ってようやく修正がきいた気がします。また間違ったりして、というより忘れてしまいそうだけど。

晴天とはいえ強風に帽子をかぶるのも諦めていた頃、東京の友人から雹のお知らせが。まあ。公園とか神社とかいろんなところでイベントがあったでしょうに。でも東京は雨宿りするところも多いからそれはそれでイベントの一貫?なんて呑気なものではなかった?自然にはなすすべなしなことがたくさんだから大人になっても対処ってその場しのぎばかりで全然うまくならないのだけどみんなそんなことないかしら。雨予報のとき靴だけはしっかり雨用なのに傘を忘れたり基本的なところからできていないから大体のことはそのときはそのときってことになってしまいます。

先日、私が主宰するグループの人たちと呑みながら植物に関する超進化論の番組のことを聞きました。ものすごく詳しい人もいるのでとっても興味深く、いかに触れずに手をかけるかということで臨床と同じだねえという話になりました。私は食虫植物を愛しているけど最近はそういう人たちのおかげでいろんな植物の見方が少しわかってきたらしく植物の名前もインプットされやすくなった気がします。あ、そんなことないか。ハクウンボウの修正にも時間がかかるくらいだから。まあそれでも以前よりはね、引き出しの整理の仕方が少しわかった気がするのです。これとこれはこんなに違うのに同じ分類なんだ、どうしてだろう、とかそういうことを聞いたり調べたりするのは楽しいです。いつも見ている木や花もいつの間にか花が咲いてたり枯れてたりするから面白いし。根津美術館のフジと杜若(カキツバタ)のニュースも聞きました。一度か二度この時期に行ったことがあるけれどとってもきれいでした。明治神宮の菖蒲はもう少し後かな。有料になってしまうけどこんな場所にこんなところがと驚かされます。紫の花が増えてくる時期ですね。ということは梅雨も遠くないと。いろんなことが苦しかったり辛かったりするけれどそればかりでもないことに気づける瞬間を掴んでいけるといいですね。痛みや怒りに対して無力無策でもじっと持ち堪えるしかないこともたくさん。今日もなんとか過ごしましょう。

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散歩 読書

新宿中央公園、白州正子、散歩

いいお天気。今日もずっと晴れるかな。週末、オフィスの近くの新宿中央公園はとても混んでいた。ちびっこ広場には何組の親子がいたのだろう。新しい滑り台も子供たちに埋もれていた。大人たちは話しながら遊びながらぼんやりしながら長時間ほとんど立ちっぱなしだろう。子供たちを見守るのも休日の大仕事。大変だ。大混雑のちびっ子広場をパンキッシュな大きな人の後をくっついていくことで無事に抜けフットサルコートを右手に前からくる犬や人を避けながら歩いた。桜色はほとんど見かけなくなりいろんな色のチューリップが咲き誇っていた。チューリップは花びらが大きいから存在感があるけど目線は随分下の方だ。空に伸びる大きな木の新緑の眩しさや都庁の高さに気を取られていたらすぐそばで咲き並ぶチューリップに気がつくのが遅れた。いつもはひとりずつ座れるベンチもカップルや親子とや友達同士か他人同士でいっぱい。春の週末はみんなアクティブで賑やか。子供たちもチューリップみたいだな。新学期だね、クラス替えとかどうだったかな。とりあえず1週間がんばろ。

今日もすこしお散歩する時間がある。最近は読書よりも作家について調べたりゆかりの地を歩くことが多い。暖かくなって身体が動くようになったから。関節の痛みもよくなると嬉しいけど動いているうちはまあいいかとも思う。

私が開院時から長く勤めてきた町田市鶴川のクリニックは4月から大きく耐性が変わった。まだ週2通っていた頃は長いお昼休みにいろんなところを散歩した。駅の両側は川沿いも駅ビル側もすぐに上り坂になるがお花や木々を楽しみながら歩いていると小道に突然小さなカフェが現れたりして楽しい。住宅街に美味しいパン屋さんもある。

鶴川には白洲次郎(1902-1985)と正子(1910ー1998)夫妻が昭和18(1943)年から住んでいた「武相荘」がある。この季節もきっと美しいだろう。駅から遠いのと入場料が高いのが残念だけど丁寧に作られ保存されてきたお庭や陶器や家具に囲まれてしばしそこの住人としてゆったり時の流れを味わう贅沢を時々なするのもいい。

正子は永田町生まれで自伝を読むと自分の足でよく動く人だなという印象を受ける。その足取りについていく散歩をするのもいいかもしれない。正子は裕福な家に生まれ自伝を読んでも「うわあ、とってもお金持ちだなあ」と思うのだが両親が付き合っている人物が財閥の人たちだったりするから本人は貧乏な家に生まれたと思いこんでいたというのだから子供の世界というのは面白い。永田町あたりは今はなんだかあんな感じで人の生活を感じにくいが戦前は美しい桜並木のある屋敷町だったという。誰かがこうして書き残してくれているおかげでその土地が最初からこうではなかったと知ることができる。無機質だったり荒地だったりみえる空間に自然や人々の暮らしを見ることができる。さっき書いたように白州正子の文章は彼女が実際に自分の足を使っている感じがよくわかるのでやっぱりついていってみようかな。それにしてもこの前も何かで書いたけど太田道灌ってどこにでもいる印象がある。江戸城作ってるのだから私の行動範囲からしたら当たり前なのかもしれないけど他の県でもよく見かけるからなんか「あーまた会ったね」みたいな気分になる。なんで正子から道灌を思い出したのか。永田町の日枝神社繋がりですね。

自分に見えるものなんてとてもわずかだけどいろんなふうにいろんな人やものに助けてもらいながらなんとかやっていきましょ。まずは今日のお昼までとかちょっとあそこまでとか区切ったりしながらベイビーステップで。

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コミュニケーション 散歩

カフェとかで

早朝、海外から届いたメールにほっこり。普通の目で見たら昨日は何も進まなかったけどveryスモールステップの目で見たら「そういえばこれをやった」ということをひとつ思い出した。ほっこり効果。暖房をつけると白桃烏龍を飲む前に暖まった。白桃烏龍を飲んだらあっつくなった。朝の気温が上がってきたんだね。

午前中、時間があった日にのんびり散歩をした。道端のかわいい看板に惹かれて入ったカフェがとても素敵だった。隣のカップルはバスで砧公園にいくと言っていた。砧公園は世田谷美術館があるところだけどとても広いし大きな桜の木も何本もあって本当に素敵。この前行ったけど藤原新也の展覧会がもうとっくに終わっていたことに驚いた。私が行ったのは一月はじめだったか、忘れてしまったけどもうあれからこんなに時間が過ぎたのか。

そうそう、砧公園を出て高級住宅街をしばらく歩くとひっそりと社会福祉法人が運営しているカフェがある。私が行ったときはダウン症の方が配膳をしてくれた。「彼の練習のためにお時間いいですか」ととても優しい声の女性に聞かれた。素朴でのんびりした時間を過ごしたけど他のテーブルにコーヒーをおこうとした彼がソーサーを持つ手がどうしても斜めになってしまい「危ない危ない」と言われながらお客さんたちに手伝ってもらっているのをみながら彼が運びやすいカップはどんなのかなあなど考えていた。そういえばお散歩途中に寄ったかわいいカフェのカップとソーサーはとってもおしゃれだったけど色が違うこともあって「これセットなんだよね」と思わず確認してしまった。不器用な私にはよくあることなんだけどこの日もカップの持ち手に指を入れるときに大きくユラってなっておー危なかったーとなった。私に持ちやすいカップ&ソーサーってどんなのだろう。

さあ、今日も長い。みんなはどうかな。それぞれのペースを模索しながら無理せずやれるといいですね。鳥たちは今日もマイペースだなあ。実はそうでもないのかなあ。ではまた。

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散歩 読書

「あー」

4月1日になってしまった。昨日終わるはずのことが何も進んでいない、ということは・・あー。もう毎日「あー」だよ。いってるだけでなにも進まないじゃんね。人には原稿催促とかしてるのに。いけない。

昨日、夕方オフィスのそばを歩いていたら途中の駐車場でお財布(たぶん)をポーンっと空高く投げた人がいた。「たかっ!」と思って横目で見ながら通り過ぎるとその人はそれを上手に受け取って何事もなかったかのように車へ入っていった。大人になってもやるんだねえ。そんな気分になったんだねえ。どんな気分だったんだろ。駐車場でお金払ったあとについやってしまう癖とかなのかな。私は長らく何かを空高く投げてないな。子供たちと遊ぶときはやるけど。小学校からの帰り道、給食袋とか投げながらみんなで帰った気がする。あれ投げやすいもんね。その人を見ながら小学生のときたまたま目に入った手頃なサイズの石をそれがドブ川とかに落ちちゃうまで蹴りながら帰ったことも思い出した。

今朝は東海道土産の「宮まんじゅう」をいただきます。これスタバのナッツのクッキーと味が似てるの(と私は思うの)。熱田は古称が「宮」で熱田神宮の門前町、東海道五十三次の宿場町。東海道をずーっと歩き続けている人からのお土産。箱に書いてあるのは廣重の浮世絵。夜の馬追い神事なんだけど最初見たとき、何かの戦いかと思っちゃった。美味しいですよ、コーヒーとも合います。スタバでも和菓子出せばいいのにね。おー、熱田にスタバある!「ミュープラット神宮前店」。私なら店舗限定でコラボするな。あとひつまぶしの何かとかと。昔、熱田に行ったときに蓬莱軒というひつまぶしのお店へいって待ち時間に熱田神宮を散歩した。そのあとも学会で名古屋に行ったときに行ったなあ。そのときは名古屋に住んでる友人ご家族にも美味しいものご馳走してもらったんだ、そういえば。いろんな土地の食べ物をその土地でいただくって贅沢ね。冬は南へ、夏は北へ、春は真ん中らへんと日本全国旅してきたけどまだまだ全然知らない食べ物がたくさん、ということはわかってる。お仕事がんばって備えなくては。胃腸も丈夫にしなくては。これは無理だな。でも大丈夫。昔からだから不調の時の対処に慣れているのですね。合う薬を持ち歩くとか。あとはどのくらいそれが対処すべき不調かもわかるようになってるかな。わからないときもあるけど。

3月は高橋ユキさんの『つけびの村 山口連続殺人放火事件を追う 』(小学館)の文庫版が出てすぐ買って読んだけど(特製しおりも素敵ですよ)、そこで取材中の高橋さんがおなか痛くなっちゃう場面があるのですよ。あそことても共感した。私も以前はいろんな現場を回ってたからはじめての場所でそうなるとほんと困りますよね。緊張とかもあるのかしらね、と思うけど。この本は本当に面白いですよ。高橋さんもいっていたけど誰にも共感できない。理解しようとすればするほど謎が増えていく。人間をきちんと捉えようとしてその単体ではなく出来事を含めながら追っていくとこういう感じになるんだなあと臨床家としての実感とも相俟って何度もパラパラしてしまう一冊になりました。おすすめ。

しまった。熱田神宮の門前、ということでベルクソンの門前にたったぞ、ということを書こうと昨年たくさんでたベルクソンの本とかイベントのあれこれに思い巡らしていたのに全然ベルクソンのこと書いていないじゃないか。いつものこととはいえここまで一言も触れてないとは(見返した)。あー。毎日「あー」ではじまる朝なのです。4月もきっと色々ありますね。あーとかうーとか言いながらなんとかやれますように。どうぞお身体は優先的にお大事に。

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あれはなんだったんだろう 散歩

絡まる空回る、でも。

31日になってしまった。どうしようどうしよう。あー。と言っていてもやるしかないのだけど。あー。

今日は暖いですね。バタバタ動いたからかしら。暖かいといいな。今年も北沢川緑道をお散歩しながらお花見をしました。シモキタはどんどん変わっていくけどここはあまり変わらない。整備はされたけど自然っていうのは変えようがないというか人間が作るものとは変わるスピードも違うし人間の勝手で変えようとしてもなかなか難しいからバッサリ伐ってしまおうみたいな発想になるんじゃないかしらね。本当にひどいと思うけど。何様、と同じ人間なのに思う。同じ人間だから何かできたらいいのだけど。むー。なぜにこんなに無力。

人間に対しても何もできないのが基本だなとは思う。相手を変えることはできない。どんなに苦しくても相手を消してしまうことはできない。相手はこちらを意識から消してしまったりできるみたいだけど、と思うときほど苦しい。事件化されていない多くの事例で何が人を傷つけるって知らないふりなかったふりされることですよね。というかこの人は自分がしたことに対して問題意識を持つことにどうしても耐えられないし、相手の気持ちを想像する負担に耐えられないらしいということに気づいてしまうと絶望しかない。何事もなかったように自分の存在を認めてもらうことに専念しほしいものは手に入れる、そういう努力は惜しまない姿を見るのは苦しい。一方なかったことにするにはそのくらいしないとというのもあるのかもしれない。美味しい想いをしつづけながら誰かから搾取したことをまるでされた側の妄想みたいにいったり人の身体を傷つけたのに被害を受けたのは自分だといったり。そしてこういうことは第三者からは「よくあること」と言われたり。悲しいことに本当に変わらない、こういう世界。うんざりで悲しくて救いがなくてでも支えはあって。でもその支えだって色々で。絡まりつづけ空回りしつづけでもなんだか続いていく毎日。耐えられないのに進んでいってしまうから耐えてるような感じになってる毎日。こうやってなんとか引き伸ばされているような時間とか命とかを「だったらいいじゃん」で済ませてしまわないように今日も目の前の相手との責任や色々を忘れてしまうことがありませんように、と自分に言い聞かせる。責任と尊厳。意識していけたらと思う。

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散歩 読書

日記

先日、編集者の天野潤平さんのツイートを見て聞いてみた小沼理さんのポッドキャストがとてもよかった。一緒に少し涙ぐんでしまった。

ハッシュタグの「いちなが」とは小沼さんの2020-2022年の日記を本にした『1日が長いと感じられる日が、時々でもあるといい』(タバブックス)のこと。

https://twitter.com/onumaosamu/status/1577859428883521536?s=20

「わたしは思い出す」とは「大地震後の11年を生きた、ひとりの女性の育児日記」。さっきツイートしておいた。

私は毎日書いているという点では日記っぽいここでの文章を読み返す作業はしていないがいずれするかもしれない。少なくともバラバラと創作や画像を置きっぱなしにしているnoteよりは読み返す可能性は高い。毎日書いていれば私なりのその日その日が現れているだろうし少なからず生き延びるために書くという側面があるから。生き延びるというとなんだか大仰だとすれば今日もとりあえずこうしているなあ、という観察を記録する感じかな。たしかに生き延びることを意識的に課題としながらなんとかやっている日々はあれど。

先に挙げた二つの日記はまさに「日記」だ。何が起きたとしてもそれぞれの日常というものはある。「奪われた日常」という表現が持つベクトルとはまるで異なる、何がなくとも失われたり何かが生じたりするその日その日を綴った結果、自分がそこで生きていたことを意識した、そんな感じか。

昨日、コキアと菜の花がたくさん咲いている場所の無人直売所でみかんを買った。そばに「みかん」と書いてあったからみかんだと書いているが、これはネーブルだな。皮が剥きにくいし。同じ場所に「ネーブル」「八朔」とも書いてあった。「八朔」はドンドンドンと3つ網におさまっていたのがそうだと思う。別の直売所では売っている方もそれがなんなのかすでに曖昧なのか柑橘というものは桜と同じようにしっかりそれが何という名前を持っているものとそうでないものがあるのか「みかん?」とクエスチョンマークつきの看板を出していた。道にもところどころオレンジのみかん的なものが落ちていて、カラスがその断片を加えてバッサバッサと飛んでいく姿もみた。黒にオレンジが映えていた。いろんな種類の桜もみた。遅咲きの梅もまだまだ咲いていた。菜の花は完璧に主役だった。Twitterにも載せたが桜の花びらが菜の花に落ちてまるで蜜を吸っている虫や蝶々みたいでとても素敵だった。小さい子たちに混じってローラーコースターにも載った。お尻が痛かった。もう色々軽やかには動けない。ということでこんな時間までダラダラしてしまった。動かねば。

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散歩 趣味

小島善太郎記念館とか。

オフィスから少し足を伸ばしていけるとしたら、って突然なんの話かといえば梅園の話。私のオフィスは京王新線の初台駅が最寄りだから百草園とか(駅も「百草園」)小田急線の参宮橋も10分くらいで行けるので梅ヶ丘駅の羽根木公園とかがお勧めかな。百草園は急坂をゆくので運動不足の人はこちらへ。百草園の少し先、えー、せっかく登ったのにまた下るの、という感じで降っていくと小島善太郎記念館というのがあってそこは今次女(昭和2年生まれ)の方が館長をされてて皆さん大変丁寧に説明をしてくださいます。おばあちゃんのうちへ遊びにいっていろんないいもの見せてもらいながら思い出話を聞くみたいな時間を過ごせますよ。百草園方面に戻るにはさっき下った坂をまた登らないとだけど。山道よりアスファルトの坂の方がきついけどがんばって!駅から少し歩くけどモグサファーム直営のジェラートのお店もいってみて。街道だから歩きやすいし辿り着いていただくジェラートは特に美味しいから。でも食べる場所は外のベンチだから晴れている日がいいんじゃないかな。今日とかよさそう。いいなあ。私も行きたい。

さっき書いた小島善太郎は洋画家で多摩の方の絵をたくさん書いているのだけど記念館には私が実家から眺め慣れていた妙義山の絵も数枚あってそうそうこの雰囲気と思った。八王子市夢美術館もおすすめされたからいってみたいなあ。

論文の精読とかして頭が働かないから、というか、これをもとに話し合うのにすでに力尽きているってどういうこと?こういうこと。素敵な景色と美味しいもので楽しくのんびりしたい。あ、でも今日じゃないけど楽しみな予定をひとつ思い出した。あーあ、とため息つきつつやるしかないね。みんなはどうするのかな。それぞれの日曜日、良いことありますように。

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散歩

菜の花とか梅とか。

菜の花が雪から咲いていた。埋もれていなかった。菜の花って強いですよね。からし和えとかするときもしなってならない。もうひな祭りの準備ですね。早い早い。

古い建物って古い新しいより建てられた年代で丈夫さって違うみたいですね。基準を作ることでおかしくなることってたくさんあるのでしょうね。

先日梅園に行ったら造園屋さんなのかな、機能的な作業服をきたおじさんやおじいさんが梅を切っていました。あの梅どうするのかなと思いつつ通り過ぎて蝋梅も白梅も紅梅もバランスよく配置されたお庭を楽しみました。売店の方が暇だったみたいでわざわざでてきて話しかけてきてくれて妙に楽しくおしゃべりしたりなんか意外な感じでおもしろかったなと門の方へ向かったらさっきのみなさんが「持ってっていいよ」と大きなタライみたいなのに入った梅をさしだしてくれました。わりと強めに楽ちん楽ちんみたいな感じでお持ち帰りの方法と家での対処を教えてくれたのですが今日はここから直接うちには帰らないのですよ。残念。ごめんなさい。勢いに押されつつおしゃべりをして手を振ってお別れしました。そのそばでは彼らのご家族らしき方が猫に餌をあげようと奮闘していました。

いろんなところでいろんな人がいろんなことをしている毎日。みなさんの今日が良い一日でありますように。

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俳句 散歩

春の光、黒酢豚、落椿

色々難しいしひどいな。そして色々進まないな。どうしましょう。

今日寒くないですか?空は薄い水色。色からして寒そう。昨日はやっぱり立春を過ぎると光が違う!と感動したのに。そういえば連日月がきれいだったけど昨晩が満月だったみたい。みましたか、空。とってもきれいでしたよ。

お昼を外で食べようかなと思ってでも食べたいものが見つからなくてようやくあそこに行こうと決めて2駅電車に乗って行ってみたら並んでいる・・そんなに人気がある店だったのか。仕方ないから美味しい肉まんでも買うかとその近くのお店へ向かったら大行列。えー。ここは人気店だと知っていたけどこんなに並ぶの?休日の様子を知らなかった。それも仕方ないからトボトボ歩いてあそこはどうかなあと向かった先は少なくとも外には誰も並んでいない!前のカップルと一緒と間違われないように少し離れて、と思ったら背の低い私など見えていなかったらしく心配ご無用でした。店の外の看板に綺麗な字で書いてあった黒酢豚をお願いした。てっきり定食形式かと思ったら実は単品でそれにご飯とかスープをつけることもできるよということだったらしく酢豚は2、3人で取り分けてもいいくらいのボリュームだった。隣の人は麻婆豆腐。余裕できれいに食べてた。胃腸の弱い私は食べられるかなあと思いつつも白いお皿の中でキラキラの黒酢に浸るように置かれた茶色くて丸いお肉たちと上にたっぷりふわっと乗せられた白髪ネギの組み合わせに感動。食べる直前に隣の人がスープに胡椒をふったせいかひとつくしゃみをしてしまった。そして見栄えに感動しながらとろっとろの黒酢からお肉と白髪ネギを掬い上げて口に入れたら大きくてうまく噛めず、しかも最初の一口は黒酢にむせてしまった。でも美味しい!時間をかけて最後まで美味しく美味しくいただいたけどこのまま電車で乗るにはお腹がおもたすぎるということで行きは電車できたのに帰りはお散歩。行きも歩けばよかった。だって春をすごく感じたから。その光のなかを歩きながら黒酢豚のキラキラを思い浮かべてたけど取り合わせで俳句を作るには私には難易度が高かった。大体の俳句の結社には自分の俳句からよかったものを選んで載せてもらえる結社誌というのがあるのだけど私が所属する結社は年4回の発行。前回は色々無理だったので投句できなかった。毎回どんな駄句でも直前に作って速達で送ることになっても出してはいたのだけど何もできないときってあるからしかたないですね。今回はなんとか出したいけどどうなることやら。先のことはわからないけどとりあえずひとつずつ直近のことからやりましょう。やれるかな。

今日の俳句日めくりカレンダーは

落椿とはとつぜんに華やげる 稲畑汀子

今日は汀子さんですか。先日『稲畑汀子俳句集成』の読書会に出たばかり。椿ってほんと地面で咲き直すかのようにきれいに落ちますよね。ちょうどそんな写真を少し前に撮ったから載せておきましょう。それでは、また。もろもろなんとかなりますように。