カテゴリー
読書

女が女の話を聞く

ひらりさ『沼で溺れてみたけれど』(講談社)をほぼ読み終えた。Kindleで半額セールをやっていると著者のツイートで知り、かわいい表紙も「ああこういうことが書いてあるんだろうな」というわかりやすい書名も魅力的だったので買った。女が女の話を聞いて書く「沼」は男か金か親か最近だったら推しが関わりの中心となる。そこまではわかる。読んでみようと思うのはその中身が絶対に想像できない個別性に満ちていると知っているから。インベカヲリ★『私の顔は誰も知らない』(人々舎)はまた趣の異なる女が女の語りを聞く本だったけど、そこもそういうものに溢れていた。マスキュリニティというよりある種ASD的な頑なさや本人が一般的と思っている正確さに追い詰められ、こころも言葉も隠す方へ向かう女性たちは多いと思う。追い詰める側にしてみたらそんなつもりはないだろう。それで成功してきたのだからそれが「普通」なのだろう。

著者自身が思い出せばいまだに疼くような痛みを抱えながら毎日をこなすなかで同じ女性たちの声に耳を傾けられるのは外からは決して見えない、人にはいえない、その人自身もコントロールできない部分を誰もが持ち、それが困難にもその人の魅力にもなっていることを実感しているからだろう、自分を通じて。だから聞き手である彼らはとても静かな印象を受ける。相手の言葉を奪うのはたやすいことも彼らは知っている。

本書に登場する女性たちはすでに何かを超えたあとのみなさんで良き聞き手を得て自分の愚かさにもできなさにも可能性にも無理なく開かれているようにみえる。どのエピソードにも驚かされるし微笑ましく思うし元気をもらえる。話を聞くとはそういうことだと思い出させてもらえる。

著者は「普通の幸せ」という虚構を単にそんなものはないというのではなくそこがあるとしてもその外側はとても深いこと、そしてそこに「沼」という一見ネガティブなイメージの言葉をあてはめたとしてもそこもまたそんなイメージでくくれる場所ではないこと、まだまだ世界は懐が深いのではないか、ということを彼女たちの語りを通じて教えてくれる。

女が女に話し女が聞く。ますます大切なことだと思う。言わないだけで脅かされ侵食され奪われたと感じる一瞬は男性との間で生じやすい。そういう男性がどうというわけではない。ただ、そういう瞬間が生じにくい場所でただただ話を聞いてもらうことはとても大切と思う。溺れそうになっても生き残るたくましく愛しき彼女たちと一緒に今日も一日。