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心の秘密性

今朝の空は秋っぽい。鱗雲っぽい。曇っている。風はない。最近、月って早い時間に出てるよね。この前も雲にまざって月をみつけたけど私がオフィスを出るころにはみえなくなってた。

今朝も土居健郎の『精神療法と精神分析』の「第1章 治療者患者の関係」に書かれている部分をとりあげる。土居は治療者と患者には精神的距離が必要であると述べた。しかしそのことは両者の間に感情の交流があってはいけないという意味ではない、むしろそれなくして精神療法は起こらないといってよい、と述べた。

これも「そんなの当たり前じゃん」とか「え?どういうこと?距離とったら感情の交流なんてできないじゃん」とか色々反応はあると思う。土居もフロイトも自分の言葉がどう誤解される可能性があるかをよく理解していたのだろう。前もって丁寧に対応している。

土居はいう。同情や共感や感情移入といった言葉によって現わされる心理的特質も「精神的距離の支配する場において働くのでなければ、真に有効であるということはできない。単なる同情だけならば、なにも治療者であることを要しない。」それはそうだ。治療にはこれらとは異なる心理的態度を要するのである。

土居はここでキェルケゴール『不安の概念』からの一節を引用する。

「彼はうち解けあった瞬間においても、自分の沈黙を守っていることによる、何かしら誘惑的なるもの欲情的なるものをもっていなければならない。かくして彼は人目のないひっそりとした状態を技巧的につくりだすことによって、心に秘密を抱いている人がそれにさそわれて忍び足にぬけでてきて、あたかも独語の際のように自分の心を軽くすることに楽しみを見出しうるように、しむけなければならない。」(1844、邦訳:岩波文庫、1954)

土居は「心理学的な観察者を演劇の役者にたとえていることに、読者の注意を促したい」という。しばしば演技は現実そのものよりも人の心に迫る。治療者も精神療法という劇において、治療者の役を演じているのだから通常の人間関係とは異なる。治療者と患者の間にはおのずから距離が存する。そのうち患者と治療者の間に相互作用が起こり、患者が今まで無意識に演じていた自己を発見するとその劇は完結する。

「そのためには治療者が、患者と「うち解けあった瞬間においても、自分の沈黙を守っている」ことが是非とも必要である。」(p15)

土居は本書『精神療法と精神分析』の初版から10年後、第12版発行に際して「秘密の観点」についてという文章を付け加えた。土居は初版で「個人の秘密に対する理解と耐容性を社会全体が失うことがあれば、治療はきわめて困難となり、事実上不可能となるかもしれない」と書いたがその頃にはその予測は現実になりつつあった。

土居は精神分析における「抵抗」のことを「秘密」といった。そしてこの秘密に対する理解と耐容性を治療者の条件とし、治療がなされるための社会の条件でもあると考えた。たとえば土居は精神病に対する社会的偏見を利用し「これは君たちの秘密なのだから。秘密だから大事にしまっておかなければいけない。」と秘密のなくなった彼らに新たに秘密をつくってやる必要性を述べた。

現代というかまさに今日、私たちは真逆の方向へ進んでいる。暴くという乱暴さに加えて晒すという下品さも加わった今の社会は、威勢のよさだけで中身もなく、排除的思考を隠さない言葉を専門家も平然と使っている。

土居は常にわかってしまわないことの重要性を説いた。一方、精神分析が秘密のヴェールをはぐ役割(主役)を演じてしまったことも指摘した。私たちは心の秘密性を宝物としなければならないはずなのに。治療者は、患者自身がまだ自分の秘密の存在を知らなくてもそれに開かれ、その秘密が展開するように導く必要がある。治療者がむりやり秘密のヴェールをはぐのではなく。

土居はフロム・ライヒマンとキェルケゴールの別の文章も引用し、治療者は、深い哲学的信念にもとづいた同情と科学的確信に発する敬意をもつ必要があること、そしてもし治療者に必要な程度の優越性があるとすれば、そのような同情と科学的確信を持ち得るという点にそれを見出せるだろう、と述べるのである。

今日も先達の言葉を噛みしめたり励まされたりしながらがんばろう。

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土居やフロイトやグリーンを読んだり。

休み明けなせいか、早速寝不足なせいか失敗が多い毎日。落ち込む。大丈夫だろうか、自分。

昨日、「精神的距離」が失われることによって生じる危機に陥らぬために、と土居が取り上げたのはフロム・ライヒマンFrieda Fromm-Reichmann(1889年10月23日 – 1957年4月28日)である。土居の『精神療法と精神分析』は1961年。土居が引用したライヒマンのPrinciples of Intensive Psychotherapyは1950年。邦訳がでるのは1964年である。精神病の精神分析に貢献したライヒマンについても書きたいことはあるがまたいずれ。ライヒマンは、きわめて重い障害を抱えた人々にも「資質(assets)」が備わっているとした。そして彼らが精神的な負債(liabilities)を資質(assets)へと転換することを示した。

土居は述べる。

「患者に接する際、現在は病んでおりしたがって自己は確立されていないが、しかし将来それを確立する能力を持っている者として、そのように潜在的には治療者として同等な者として呼びかける時、そこに精神的距離が保たれる、と考えられるのである。」

そして土居は「第12章 社会的条件と価値」において再びこの問題を詳述する、と脚注に書く。

ただ、これが12章のどの部分なのかよくわからない。「精神病患者を精神療法によって治療することの技術的困難も、その少なからぬ部分が、気ちがいに対する社会的不寛容と関係がある」という社会的条件が治療の限界となることとの関連なのか、土居がフロイトの1919年の論文「精神分析療法の道」(全16)とともに示す分析家による価値判断のことだろうか。どちらにしても治療者としての精神分析家の限界に関わる議論であることは間違いないだろう。

土居はフロイトの「患者は自らの固有の本質を解放し完成するべく教育されなければならない。」という文章を引用しているが、この部分をもう少し前から引用してくれたほうがよかったかもしれない。岩波版の訳で書いておく。

「患者は私たちと類似したものに向かってではなく、患者自身の本質の解放と完成に向かって導かれるべきです。」(p101)

また土居が書いているようにこの少し前の文章でフロイトは以下のように論じている。

「私たちがきっぱりと拒んだのは、救いを求めて私たちのもとに来た患者を、私たちの所有物にし、患者の運命を患者のために定め、私たちの理想を患者に押しつけ、高慢な創造主のごとく、私たちの似姿に患者を仕立て上げて大いに満足する、という行いです。」(p100)

土居も同じことを述べていることはすでに書いた。

フロイトや土居が繰り返し述べる治療者と患者の関係における治療者の姿勢は規則と通じ、精神療法を構造化するものなので一治療者としても何度も確認したい部分である。

それと同時に精神分析過程をよりメタで考えるために毎日色々読んでいるわけだが、私が相変わらず目をとめるのはアンドレ・グリーンであり昨日目を通していたのは時間論。“From the Ignorance of Time to the Murder of Time: From the Murder of Time to the Misrecognition of Temporality in Psychoanalysis”。Leticia Glocer Fiorini & Jorge Canestri 編 The Experience of Time: Psychoanalytic Perspectives に収録されている論文である。

これについてもメモしておきたいがもう時間がない。今日も暑くなりすぎませんように。台風がちょうどよく勢力をなくしてちょうどいい雨を九州にもたらしてくれますように。千葉に被害をもたらしたような豪雨がもうきませんように。自然災害のみならずトランプ政権によるICCの制裁やそれに対する日本の対応など心揺さぶられるニュースばかりだが今日もなんとかがんばりましょう。