曇り。昨日の18時過ぎにポツリポツリと雨が降って、どんどん強くなってきて、私は駄菓子屋さんに避難した。小さな小さな駄菓子屋さんには三人家族がいた。少し前に通りかかったときに外から見かけたが親子だったんだと思った。たくさん買っていてお会計に時間がかかっていたが値段は1000円台だった。お店のおばあさんはお釣りの計算も早く、「雨降ってきちゃて」「ほんと。最近降ったり止んだりが多いですね」「ふふふ」という他愛もない会話も上品さとかわいさがあって私は楽しい気持ちで外に出て少し弱まった雨の中を少し走った。
精神分析ってまだあるの、ならともかく、本当にあるの、と問われるのが現代だと思う。日本精神分析協会のウェブサイトを見ていただくとわかるように、1クラス分の人数しか精神分析家はいないのでその存在が知られていないのは当然のことである。一方、精神分析を受けたいと申し込んでくる人がすごく少ないかというとそうでもなく、申し込みはある。しかし、お話を伺っているとそれは精神分析ではなくカウンセリングでは、というのはほとんどだ。たとえば頻度。精神分析を受けたいといいつつ、隔週でないと来られないという場合もある。しかしそれは精神分析の緩いイメージには沿ったものかもしれないし、頻度だけが大切なわけではない。わたしたち協会兼IPAの精神分析家は週4日以上、定期的に通う設定を精神分析と呼んでいるわけだが、理念だけ活用する場合でも精神分析「的」と言われることはよくあるので、隔週だと少し難しいかもしれないが、毎週一回定期的に行われている心理療法を精神分析「的」と呼んでそこに精神分析と同じ効果を見出す人もいる。私も訓練を受ける前は効果の違いがよくわからなかったが自分が週1、2、4回の治療を受ける中でそれらはどれも違って、精神分析家に受けた週4の精神分析の効果は臨床心理士として週1の心理療法を長く積み重ねてきた私が知っているものとは全然違った。それはあまりに言葉にならない体験であり、同時にそれが許容される体験であり、いずれ形になるだろうということを信じられるようになるプロセスでもあった。一生懸命やるが無理はしない、人の目が気になる場合でもそれがどんな目かを吟味する、なんにでも闇雲に不安になったり怖がったりしない、普通に論理的であり、印象で人と比べず、過剰な物語を作らず、見えないものを見えたと言わない。そういう学びだった。私はそういうことに価値を置く。それはとても苦しい期間を必要とするのでそれをみんなに「いいもの」として伝えようとは思わない。だいぶ悪いというか本当にこんな苦しみが必要なのかという部分も含んでいるから。いい悪いなんてすぐに反転するから。そんな区別がいらない曖昧な領域で自分の体験を実感を持ってしていくこと。そのためには精神分析家としても体験を広げていかないと、つまり臨床を伴わないとそれらはすぐになつかしいだけの思い出になってしまう。
昨晩、友達と別れると空には月が出ていた。少し欠けていたが相変わらず明るかった。今日はどんな一日になるのだろう。別になにも、いつもと変わらず、でくくりたくなる日常だが、実は結構たくさんのことに対応している自分の心を大切にしよう。休むことはすごく大事。どうぞお元気でお過ごしください。

