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お菓子

旅がらすとか波さんとか虫さんとか。

東の空で賑やかにしてる鳥たちのことを考えていたらパスワードをhigashiと打ってしまった。当然ピコピコって跳ねられてしまった。画面のその小さな揺れだけで「このパスワードは違いますよ」って伝えてくるんだから面白い、と思うけど、私たちも首ちょっと降ったり、指ちょっと動かしたりで伝えられるものね。昨日と同じく「微」が大事。

洗濯したりお茶いれたり柿剥いたりお菓子準備しているだけで時間はあっという間に過ぎる。合間合間で余計なことをするからだけど。目に入っちゃうとついね。今朝はこの前高崎に行ったときに買ってきた旅がらす本舗清月堂のシルクスイートポテト。秋らしく温かいお茶ととっても合ってとっても美味しい。私は小さい頃からこの会社の「旅がらす」というサクッとした薄いお菓子が大好き。お煎餅ともクッキーとも呼べない、と思うのは私だけで実はなんなのかしら、あれ。あ、鉱泉せんべいか。これ。言われてみればそうか。自分にとって特別なお菓子ってなにかもっと特別な感じがするのかな。いや、単に語彙に乏しいとか想起の力が乏しいとかってことか。

首にストール巻き巻きしたまま窓開けてバタバタ動いてたら暑くなったからトレーナーも脱いで半袖になった。ミッキーの頭の部分が小さく貼り付けてあるようなちびT。豹柄に塗りつぶされているのだけどこれもこの形だけでミッキーってわかるんだからすごい。これももうさよならしたほうがいいかな。何年着てるんだろう。まだ形はしっかりしてるのだけど生地が薄くなっている気はする。窓から静かに流れこんでくる風が冷たくて上着を羽織った。ついこの間まで風がないー、涼しい風流れこんできてー、と思っていたのに今は窓を少し閉められてしまう。風さんは何も変わっていないのかもしれないのにね。

この前、ベルクソン研究者の平井靖史さんが時間を説明するときに「波さんのほうからしたら」と言っていて俳句みたいと思った。そうだ、さっき「想起」って言葉使ったけどベルクソンは単に「想起」とは言わないということも学んだ。俳句みたいと思ったのは俳句は時々ものからみた描写をするから。月さんからみたら、とか虫さんからしたら、みたいな感じで。お米さんとかもいいかも(今ごはんのいい匂いが広がっている)。たい焼きの歌なんて、というか「およげ!たいやきくん」(漢字に変換されたら変な感じがした)、あれなんてたいやきくん、ケンカしてるしももいろサンゴが手ふったりしてる。でも擬人法はあまり使わないんだよね、俳句は。中途半端に人でいないようにしないと。子どもはすぐ虫とかになりきれてすごい。むこうに虫になりきられるとこっちはその仲間になったり人間のままでいたりしなくちゃいけなかったり臨機応変な対応が求められるが。知らない生物なのに微妙に動き直されたりして戸惑ったり。まぁなんにでもなるよ、ならせてもらえるのなら。色々教えて。子どもたちが今日も元気でいますように。

今日も部屋には光がいっぱい。外はまだ少し肌寒そうだけど東京はいいお天気みたい。週末ですね。がんばりましょう。

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読書

微か

きれいな空。この時期の空は本当に特別。風は少し冷たい。髪が濡れているとちょっとひんやりするが少し動けばなんてことはない。長袖Tシャツになにか羽織るものがあるだけで大丈夫。微調整でなんとかなる世界っていい。どうして、とイスラエルとパレスチナのことを考える。微かなんて言葉は命を奪われる可能性の高い人の最後の希望の言葉としてしか使用されない世界が戦争なのではないか。私はウクライナに対するロシアのときと同じくイスラエルのガザに対する攻撃のニュースに驚いてしまうと同時に何か知るたびにあまりに知らないと知る国のことを学び始めた。なにを手に取っていいかわからなかったのでとりあえずシリーズで気に入っている高橋正男『物語 イスラエルの歴史』(中公新書)を読んでいた。

あとがきに簡潔な紹介があるので引用しておく。

「本書は、西欧中心史観とは異なる、アフロ・ユーラシアからの視点で、一日本人歴史家の複眼を通して、歴史・民族・宗教をキーワードに、一神教徒にとっての聖都イェルサレムを基点として、近年の考古学・歴史学双方の研究成果を踏まえて、古代から現代まで──父祖アブラハムから中東戦争まで──のイスラエル四千年の興亡史の枠組みを一般読者を対象に綴った歴史物語である。」

「物語である」というところは大切だし注意が必要なのだと思う。どのような物語を選ぶのもその人の自由だがその物語が多くの場合、なにかの物語に取り込まれるようななにかしらの方向性をもっている。この本は少し前の本だけど(といってもイスラエル国独立60周年の2007年)今のことはニュースで追える。と思いたいのだがSNSはダメだ。私に基本がないからその情報をどう信じて理解していけばいいかわからない。そこに正反対の言葉や矛盾や悪意が撒き散らされていることならわかる。なので私はまずは一人の人が書いた本で学ぶ。次はダニエル・ソカッチ著『イスラエル 人類史上最もやっかいな問題』でどうだろう。誰かにアドバイスをもらおう。

人の心は常に分裂気味でとても複雑であるというのは前提のはずで、多くの微調整の結果なんとかやっていられるのだと私は思っているが、そこに大雑把な仮のまとまりをもたらすのが言葉だろう。評価が真っ二つに分かれる人や状況の場合がわかりやすいかもしれない。そこで用いられている言葉そのものもそうだがその使われかたに注意を払うとそこで消されてきたであろう言葉に出会うことがある。というよりもいつもこれだな、という感覚によって導かれるその人の言葉のルーツへの興味と出会うといったほうがいいかもしれない。沈黙であれ饒舌であれ大抵の人は受け継がれてきた言葉に微調整なり大変革なりなんらかの操作を加えながら使用している。戦地での言葉はどうだろうか。言葉を発するだけで殺されるような環境で思い出す言葉はどんなだろうか。

こんなたっぷりとした朝の光を浴びながらとても暗い気持ちになる。願うことや祈ることもどうやったらいいのかと戸惑うがまずは学ぼう。微かさが普通の希望とともにあればいいなと思う。

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世界、社会、バウンダリーとか。

秋の朝は爽やか。今日はちょうどいい気温。ずっとこのままだったらいいのに。でもこれはこれで温暖化の結果のお天気なのかしら。世界で起きていることの深刻な事態とつなげて考えていく面とかいろんな時間感覚や距離感覚が必要なんだろうな。

家族以外の場所で他人の心身弄んでいる人がフェミニストに尊敬する人とか救世主とか言われていたり学者ぶって教育者やっているのを見ると絶対に変わりようのない社会の縮図を見たような気になる。片方でそれで片方でそれ、というあり方は誰しもそうだがこの場合中身が重要。バウンダリー、有限性がなぜ大切か、ということ。ちなみにフェミニストというのはその人の部分しか表していないとはいえその方面で稼いで生活をしている人に対しては私はあえて使う。家族って、教育って、友達って、セクシュアリティって、身体って、心って、と考えながら戦地で殺されていく子どもたちのことを思い浮かべたりする。以前は日本に住んでいた人たちでもあったりする。自分って、人間って、と考えるだろうか、彼らは。どうか早く戦いが終わりますように。

ベルクソンとドゥルーズの勉強続けたいな、と思ったけどもう目の前のことに追われて余裕がなくなっている。平井靖史さんの朝カル講義が昨日から始まり、それは見逃し配信ありだったので申し込んだ。自分の言ったことで派生していくものをつかむためにももう少し学んでおきたい。自分に違和感や不快感を与える相手を加害者にしながら別の気持ちよくさせてくれる対象に依存しいろんなことをなかったことにする他人事でしか偉そうなことを言えないお友達ごっこではない真剣さを感じたのはぶつかりあいは当然生じるであろうという態度で対話を求められたから。私たちの組織にもこういう緊張感は必要だろう。

今日はみんなどうかな。元気だろうか。秋の美味と出会えますように。今朝の柿も美味しかったです。

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精神分析 精神分析、本

小寺学際的WS(ゲスト:平井靖史、小倉拓也)

10月9日は小寺記念精神分析研究財団が毎年開いている学際的ワークショップ『精神分析の知のリンクにむけて』 だった。今年度のゲストはベルクソン研究者の平井靖史さんとドゥルーズ研究者の小倉拓也さん。第八回のテーマは「心、身体、時間」。討論と司会は精神分析家の十川幸司先生、藤山直樹先生。

最初に今回の議論の基盤となりうる先生方の本をご紹介。藤山先生のだけ2003年出版で時間が経っているようだけど精神分析の実践に関心をお持ちの方には真っ先に読んでいただきたい一冊。今回の議論でいえば平井さんの時間論に対して精神分析は空間というものをどう考えているかを示すときの一例となる。

平井靖史『世界は時間でできている-ベルクソン時間哲学入門-

小倉拓也『カオスに抗する闘い-ドゥルーズ・精神分析・現象学』(人文書院)

十川幸司『フロイディアン・ステップ 分析家の誕生』(みすず書房)

藤山直樹『精神分析という営み 生きた空間をもとめて』(岩崎学術出版社)

2022年はベルクソン・イヤーと言われるほどアンリ・ベルクソンに関する出版物が相次いだ。私もフロイトと同時代を生き、多くの類似点を持つベルクソンには以前から興味があり、昨年の盛り上がりのおかげでようやく門前に立つことができ福岡の「本のあるところajiro」でおこなれた連続トークイベントを視聴したりした。大変面白かった。羨ましいほどの盛り上がりだった。今回は精神分析と人文知の対話を試みる「学際的ワークショップ」だったのだが、平井さんは早くからベルクソンを意識研究や脳科学など他領域の研究とつなぎより大きな問題を考える基盤となりうる国際的な協働ネットワークを構築してきた人だ。その成果は平井さんがリーダーをされているPBJ(Project Bergson in Japan)のサイトが参考になると思う。それを知ったとき、本当にすごいな、と思って無料で入れる関連のオンラインカンファレンス的なものに入ってみたことがあったが使用言語がフランス語だったのでそっと退室した。なので今回は「学際的」であることを考えるためにもチャンスではないか、しかも自分のホームならば、とはじめてワークショップに参加してみた。

当日、セミナー直前に送られてきた資料を見てちょっとのけぞった。これは大変だ、と思った。「逆円錐のテンセグリティ・ダイナミクス」???テンセグリティ?平井さんは精神分析臨床を営む私たちとの対話を本当に望んでいてくださっていたようで最初にご自身で「ガチでいこうと思った」というようなことをおっしゃっていた。まさにそういう講義で大変刺激的だった。

ドゥルーズを主に研究されている小倉拓也さんは書名に「精神分析」とあるように私にとってベルクソンよりは身近なのではと感じてはいたが、私が主に國分功一郎さんの講義で学んできたドゥルーズとは異なる論点がたくさんあってビビっていた。でもSNSで時折あがる講演記録や資料は興味深かったし、なにより旅好きとしては秋田県内情報に惹かれた。小倉さんは秋田大学教育文化学部の准教授として哲学、思想史をご専門に講義をされているのだ。日本全国を回ってきたが秋田で寒さに泣き不機嫌になり幻の日本酒に救われたことは忘れない。まだ旅慣れてもいなかった。雪の角館で寝っ転がったりして遊び惚けて電車に乗り遅れたことも忘れたいが忘れない。その実践がどこで行われたか、ということはとても大切だと私は思う。精神分析でいえばフロイトとの物理的な距離とかもその後の研究の発展に関わっているに違いない。遠くにいるほうが自由にできるというのは大きい。小倉さんは舞台俳優のような滑舌のよさで率直で明快にドゥルーズにおける精神分析批判を期間限定のプロジェクトと位置付け、精神分析の対象として今後も議論が広がるであろう「自閉症」「認知症」をどう理解していくことができるかという話をしてくださった。ドゥルーズがマルディネのリズムの哲学を援用し(十川先生もマルディネを援用している)展開した「リトルネロ」論はやはりなじみやすかった。ただそのあとドゥルーズとガタリがリトルネロによって構成された領土を「我が家」といったみたいな(うろ覚え)話は!?!?となった。なんで「家」という発想がそこにくるの?みたいなかんじで。

お二人の講義はわかりやすく教えるものではなく徹底して対話を促してくれるものだったと思う。知識がなくても対話って可能なんだ、と知ってはいたがこんな難しいことが目の前に広げられていても色々考えてものっていえるんだ、と発言してから思った。なぜか発言したあとにめちゃくちゃ緊張して震えがきた。多分、私は結構なインパクトをお二人のお話から受けていた。自分が何を言ったかすでにあまり覚えていないのだがそういう実感が今後の咀嚼と消化を助けてくれるだろうと思う。

内容についてほぼ書いていないが(時間をかけないと書けない)それはお二人のご著書をぜひ。

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精神分析

山、ビール、筋肉痛

筋肉痛。起きられるかな、と思ったけど腹筋だけで上半身を起こせた。腹筋はあまり使っていなかったらしい。立てるかな、と思ったけど立てた。ふくらはぎがパンパンな感じで少し痛い。遠くに洗濯物干すのに身体を伸ばしたら背中も痛かったけど普通に動いている分には全然痛くない。筋肉痛になるとどの筋肉が使われたのかがわかるから面白い。辛いけど面白い。いずれにしても本格的な痛みはこれからかも。

厚木オクトーバーフェスト2023」にいくついでに低山登山をした。時間ができたから調子に乗って計画してしまったが老体に鞭打つみたいな感じになってしまった。距離だと6キロくらいしか歩いていないが普段はあげない高さに足を上げてこんなふうに踏み出してバランスとりながら身体を持ち上げることを繰り返すことなんてないし、なんてちょっとしたことをはじめて言語化したくなるくらい身体が自然に動かなくなっているのを感じる。トレランやろうとグッズ探したりしたのだってすごく前ではなかったような気がするがすごく前なのだろう。あのときコピス吉祥寺でかわいいと思ったトレラン向けリュックが全然似合わなくて買わなかったのが分かれ道だったのかもしれない。今はわからないが当時のコピス吉祥寺には赤ちゃんや小さい子を連れていきやすいフロアがあってそこで赤ちゃん連れの友達と会っていた頃だから10年くらい前か。コピスもまだ新しかったし。2014年に精神分析家になるための訓練に入るための準備に入って2016年に候補生になって(候補生になるにも手続や審査がある)自分でも開業したりで単に時間がなくなったというのもあるが今回みたいにちょっと思い立ってサクッといって帰ってこられる山は東京にもたくさんある。今回は1200mくらいの山だったが標高100メートルくらいの山でもなめてはいかんぞと実感したのは島根県のJR安来駅から徒歩で行ける標高92mの十神山だろう。私たちはよく旅に出るがちょっとした山があると登ってみる習性がある。その日も足立美術館に行って帰るのに電車の時間まで少し間があったので標高100mくらいならと向かってみた。なんだかいい山でぐんぐん登れたが途中から「意外ときつい?電車間に合うかな」となった。当時は駅まで走って戻る体力があったのでよかったが100mをなめたらあかん、と学んだ。いい山だったのでまた行きたいな。ちなみに足立美術館ではスクールカウンセラーをしていた学校で親しくしていた先生と偶然再会したりとても素敵なこともあったがかの有名な庭園とか送迎バスに関しては結構な文句を言ってしまった。だってさ、と今も言いたい、とかにはならないが。思い出とは過ぎ去った証拠。

そうそう、「山登り後のビールは最高!」と書きたかったけど山は時折ポツポツパラパラと雨が降ったり寒かったりだったのでいつも通り「ビールはうまいぜ」でした。祭りは楽しですしね。今日は結構きちんと雨なのかな。寒いし。風邪ひかないように過ごしましょう。

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散歩

毎日秋。斎藤陽道個展『絶対』

朝。本当あっという間に寒くなった、といってか何日が過ぎただろう。あっという間あっという間あっという間劇場♩っ歌がなかったか。あったか。空がまだ夜の雲が混じっているみたいなグレーと水色が重なって絵みたい。「絵みたい」といいながらいつも一体それは何を意味しているのだろうと思うが今日は考えない。

もうちょっと外に出ちゃったから頭がいつもの朝モードではなくなってしまっている。いつも違う気とするとなんかすでに刺激過多という感じで書くモードではなくなるのかな。でもこうやってるしなあ。

ミーティングで発表したのだけどこの形式が結構面白くてなにもみないで自由に話すという形式。自由とかいって形式。本物の空を絵、というのとは少し違うか。そのときに自由連想ってフリーアソシエーションフリーはアソシエーションにかかってるからfreelyとは少しニュアンス違いますよね、でもフロイトも「自由ったってなかなか難しい」みたいなこと書いてますしねえ。ねー面白いね。みたいな話をした。自由に話す形式は自分がなにをみていないかを相手が拾ってくれやすくなるならよい。他人の目だからみえることのほうがずっと多いから、自分のことに関しては。

昨日から京橋で写真家の斎藤陽道さんの写真展『絶対』がはじまった。小さいスペースに光の輪をまとうように浴びる写真たち。素直に感動した。斎藤陽道さんはEテレの手話アニメーション「しゅわわん!」でも有名かな。子どもたちに驚かされる幸せを感じるかわいい番組。個展にはご本人もいらして筆談でやりとりしていらした。重版になった写真集『感動、』すごくよかった。レターはこちら

月末まで東京駅東側エリア(八重洲・日本橋・京橋)はT3 PHOTO FESTIVAL TOKYOのプロジェクトもあってTokyo Dialogue 2023と色々みられるみたい。斎藤陽道さんの個展しか行けてないからまた行きたい。

街の木々も少しずつ色づいてきたし暖かくしてちょこちょこおでかけして外でやるイベントでホットワインとかココアとかのみたい。結局美味しいもの探し。秋はなおさら。

みなさんは今日はお休みかしら。どうかゆっくりお身体いたわってお過ごしください。

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精神分析

秋の空、黒糖、無理。

PCの画面に何か通り過ぎた。首だけ後ろに倒して空を見ると早速鱗雲。秋。いくつかのことは確実に積み上がってきてるのだけど今が一番大変かも。かも、というのはこれまでにも大変なことはたくさんあってやるべきことのシンプルさは知っているから。それにしてもなぜこんなに効率が悪い、というか効率の良いやり方を忘れてしまうのか。しかもなぜいつも保存先を間違えたりしてしまうのか。さっきも危なかったぜ。毎回、色々学んだり教わったりしてるのに自分のものになっていかない。よくこんなんでやってきたよな。まあでもこれでやってきたのだからこれでやっていくのだろう。

サクサクのはずのお菓子がベタベタになってしまった。お菓子ってお砂糖なんだなあと改めて思う。美味しいお砂糖ってあるのね、きっと。うちは沖縄のお土産だっけな、黒糖があるのだけどサトウキビは美味しい!あんみつの黒蜜も黒糖から作るんだよね?難点は塊が大きいこと。これ皆さんどうやって砕いたりしてるのかな。そのまま舐めておやつにする人もいるみたいだけどそれはちょっと不安、止まらなくなったらどうしよう。自分の意志の力を信じられない。温めたら溶けちゃうよね。うーん。そういえば作家、作詞家の高橋久美子さんが自分の畑で黒糖作って売ってた。チガヤ倶楽部というサイトがあるのですよ。そこに書いてあるかな。あとで探してみよう。彼女の記事は面白いし勉強になる。それにしても高橋久美子といい松山ケンイチといいすごく忙しそうなのに食べられるものを育てている。芸能活動と通じる一貫した何かがないとなかなか時間を割くの難しいと思うのだけど。すごいことだ。

私は自分が無理できる範囲でできるだけ無理しながらできることやろう。「無理しない」ことが本当に大切なこともあるけど無理無理言いながら少し力を入れたら「あれ?さっきよりちょっと遠くに手が届いた」みたいな地道な無理は続けていけたらいいかもね。小児科でも子供たちにそういうちっこい魔法をかけて遊んだりしたなあ。ちょっとのイカサマで結構な自信がついたりする遊びって結構あるの。面白いよ。ということでがんばりましょう。

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言葉 読書 音楽

かわいいといえば、とか。

眠い、すぐに眠ってしまう。急に涼しくなったから身体がついていかないという人が多い。私もそうなのかもしれない。あくびばかりでる。仕事のことで音声入力を使ったら変換間違いがおかしかったのでふざけて関係ないことも入れてみた。「あくびが出てしまう」と適当な口調で言ってみたら「歯茎がでてしまう」と出た。変換後の文章を文字としてみても変換前になにを言ったのかわからない。「粘着の間違い」ってあるんだけど私はなにを言ったのだろう・・・。英語だったらもっとひどいんだろうなあ。「人間は弱いかな」とかもある。絶対こんなこと言っていない。弱いだろ。言ってもいないのに返事しちゃった。こういうことって実は日常的に起きているのかもしれない、と思うと少し心配ね。でもそこから生まれる遊びもあるかな。ここでもたまに変な間違いしてるんだろうね。

私が思わず「かわいい」というと「かっこいい」と言い直す園児がいた。「かっこいい」と言い直すと満足そうだった。彼女は結構大きくなっても「かわいい」という言葉がしっくりこないようでみんなが「かわいい」というものにもそんなに興味がもてないようだった。「きれい」「すてき」という言葉はとても自然に使っていた。ちっちゃい子が「すてき」とかいうとかわいい。その子の前で赤ちゃんのことを「かわいい」と言ったら「私は?」と言われた。あらあら。「すごくかわいい」と言うとそこそこ満足そうだった。

かわいいといえば暮田真名さんの川柳に「かわいい」という言葉を使ったものがあったがなんだったか。(「かっこいい」だった!in『ふりょの星』左右社)暮田さんが「暮田真名以外」というアカウントに載せているstand.fmのラジオが秀逸。やっぱり頭がいい。声もいい。喋り方もいい。淡々とした一人漫才も面白い。一人喋りがこれだけうまいのだから漫才もできちゃうだろう。というか漫才の才能がある人は一人喋りがうまいのだろう。なんてことない出来事の一部を広げていくしかたが新鮮ですごくいい。記憶力もいいのだろう、というか暮田さんはとても頭のいい人だと知っている。川柳に記憶力は必要ないと暮田さんはおっしゃると思うのだけど辞書に載っていない言葉を含め、語彙力は絶対に必要だと感じる。あと軸のブレなさ。教え方とかもびっくりするくらい上手なのですよ、暮田さん。誰にでも通じるものにする工夫をずっとしている気がする。川柳をというよりあの教え方を体験しにいくのもいいんじゃない?と思ったりする。それにしても暮田さんの文化は新しい。最近「くるり」の新譜が出たが「くるり」くらいだと共有できるのかな。ブルース・スプリングスティーンは共有できないかも・・・。知識としてはできるけどこの熱狂とかあの想いとか。最近、柳樂光隆のプレイリスト「for Joshua Redman”Where Are We”」に大好きなブルース・スプリングスティーンを発見して再び聞いている。柳樂光隆さんの記事を読むようになってよかった。自分の音楽の歴史が想起されたことに驚いた。記憶力ないのに。Netflixでは今も『SPRINGSTEEN ON BROADWAY』が見られる。『ボーン・トゥ・ラン ブルース・スプリングスティーン自伝』(早川書房)と繋がってるんだと思う。この本はファン必携。かわいい赤ちゃんのときの写真から始まりますよ。赤ちゃんはかっこいいとはいわないよね、あんまり。行動にはいうと思うけど。そうか、彼女は「かわいい」は見かけのことというか全体を表す言葉としてはしっくりこなかったのかもな。

今日はいいお天気。乾燥もはじまった。身体大切に過ごしましょう。

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短詩 言葉 読書

言葉の使用とか。

大学って非専門家をお友達感覚で専門分野の先生として使う時代なんだっけ、今って、しかも人の心身を傷つけたり搾取したりする人に、と思うけどこういう事例って国立大学でもあるようなので引き受けた者勝ちということになるか。勝ち負けではないが被害者側が相当の負担をおって事件化しない以上、一方で搾取しながら他方で稼いでいるわけだから経済的に敗北感があるとしたら被害者の方だろう。搾取側に勝利感はないだろうけど。そういう意味では常に勝利している、というか弱い立場に立てないためにそうなっているのだろうから。ナルシシズムという言葉も薄っぺらいし邪悪という感じの悪でもないし思考停止というのも違うし、と考えるときに田野大輔、小野寺拓也編著『〈悪の凡庸さ〉を問い直す』(大月書店)はとても参考になる。歴史研究者と哲学研究者という異なる専門家の対話によってハンナ・アーレントの<悪の凡庸さ>という言葉というか、これは概念になっているわけだけど、それをプラグマティックな発想のもとに割り切って「使う」のか、その言葉の使われ方、受け取られ方の変遷を含め、それが現代の私たちの文脈にもたらす意味を探るのかという対比も非常に重要な論点だと思う。

私たちは大抵何かの対立軸で物事を見ているわけだけどそれがそれぞれ異なることを前提にしないと話が通じないこともある。それとそれはそもそも意味的に対立するものではない、とか、歴史上の文脈が全く異なる言葉を無理やり対立するものとして使っていたりする場合もあるからそれはそれで違いを明らかにすることが必要だし。こちらを言いたいがために持ち出した何かがその人がいうとそれっぽいのに私が言ったら全くそれっぽくないという場合はそれがそれっぽいのは行動の勢いによるものであって言葉の意味ではないわけね、ということもあるし、いつどこの誰の何をどんなふうに見ているのか、どうしてそういうふうに見ているのか、という5W1H的な問いは常に大事と。さてさて果たして今は有効ではない言葉なんてあるのだろうか。果たしてその一言でその人を説明できる言葉なんてあるのだろうか。

ちなみにnoteにも引用したがアーレントの『エルサレムのアイヒマン 新版――悪の陳腐さについての報告』の以下の部分は事件化しないと決めた問いについて法と政治がらみで考える場合に有効だと思う。

「ここでわれわれの関心をひくのはもっぱら君のしたことであって、君の内面生活や君の動機は犯罪的な性格を持っていなかったかもしれぬということや、君の周囲の人々の潜在的な犯罪ではない。」
「政治とは子供の遊びの場ではない」

–『エルサレムのアイヒマン 新版――悪の陳腐さについての報告』(みすず書房)より

暮田真名さんのラジオについて書くつもりが全く別のことを書いてしまった。いい感じなので聞いてみてね。ではでは。

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精神分析

雨、Sufjan Stevens、福来氷

起きたら雨が降っていた。東側の大きめの窓を開け放したままだった。まっすぐに落ちるような雨の音だったから大丈夫かな、どうかなと思ったけど、うん、よかった、降り込んでいない。パソコンのあるこの部屋の窓はどうだったっけ、とパタパタ。そうだ、昨晩寒くて大きく開けた窓を少しの隙間を残して閉めたのだった。

SNSで知ったSufjan Stevensの『CARRIE&LOWELL』をかけてみた。最初の曲”Death with Dignity”のリフレインに驚いて何度もスマホを覗き込んでしまった。壊れたレコードみたいになるはずもないのだが。なるはずもなくもないのか?二度目に聴いたらそんなに不思議には感じなかったのだから不思議だ。このアルバム、雨の日にピッタリ。圧力を感じない声。安心する。Sufjan Stevensのサイトにポンっと飛んでみたら曲とはまた少し異なるイメージの背景に写真。車椅子や杖?と少し驚いた。Guillain-Barré Syndromeでリハビリ中とのこと。重くなければよいが。新しいアルバム”Javelin”が出たばかり。あ、これから出るのか。チェック。あ、もう聴ける。本当に雨の日にピッタリ。背景の音の美しい規則性のせいか。優しい声に心が落ち着く。

それにしても冷える。昨晩は窓を少し閉じたほど寒かったのに真夏の格好のまま寝てしまった。トレーナーを着た。お湯も沸かし中。今、我が家はお菓子天国だから迷うな。筑波山のお土産もいくつかあるが「福来氷」にしようかな。でもこれは夜っぽい。つくばは福来みかんというみかんが特産だそうで福来氷はそのふくれみかんの皮を加えた寒天菓子。表面がカリカリしてたりパサパサしてたりするお菓子は甘いのが多くて少し苦手なのだけどお茶菓子としては絶対優秀。お茶をいただく必要がでるお菓子たちだよね。組み合わせで考えるの大事。羊羹とかも以前は苦手だった。甘すぎるから、と思っていたけど茶道とかで使うお菓子ってそんなに多くないものね、と少量ずつお茶といただくと染み渡る。福来氷も小さいからやっぱり朝のうちに緑茶といただこうかな。茶道の先生をしている身内にもお裾分けしよう。彼女にお土産のお菓子を選ぶのはとても楽しい。ゆっくりみていると本当にいろんな工夫がされているなあ、と知れるのも楽しいし。

二度寝したくなってきてしまった。ダメダメ。気持ちよさしか求めていない感じになっている。バックトゥリアリティ。ポンっとクリックしなくてもここが現実。戻らなくてもそこにいるでしょ、逃避しない、と自分に言い聞かせないとなかなかね。東京は一日雨なのかしら。皆さんもどうぞ足元にお気をつけて。

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朝の月とか星とかクリスマスソングとか。

空がきれい。寒いのは嫌だけどこれから冬にかけて朝の空はどんどんきれいになる。今朝の西の空にはまだ月が明るい。月のそばで明るく輝く星はなに?木星?

Samara Joyの投稿を見て”Have Yourself A Merry Little Christmas”を早速チェック。もうそんな季節。足元に入り込んでくる風の冷たさに急に気づいた。優しくて暖かい声。23歳でこの声。これからもっといろんな声が出せるようになるのでしょう、きっと。すごい。楽しみ。今流れている“Tight”もすごくいいなあ。

カイリー・ミノーグもまた新譜出してたんだね。UKチャートにも入ったのか。すごい。高校時代、ジャズを聴きまくる一方、ユーロビートにもはまっていた。かっこいいお姉さん的存在は今も元気。嬉しいことだ。カイリーはオーストラリア出身だよね。シドニーに行ったときにライブハウス行けないかな、と思ってるんだけど情報を得るのが下手すぎるから多分いけない。日本のだってスケジュール管理だけで精一杯で空き時間をライブ情報と合わせるのは私には複雑な作業。移動時間とか考えるといけないのが多いし。あとから「あーきてたんだー」「あーやってたんだー」と「あー」ばかりだけど「おー来てるのか!」とライブに行けなくても馴染みの景色に彼らが立つ写真をSNSで見たりして嬉しくなったりもする。今は色々リアルタイムで知れてしまうのはあまりよくないよな、と思っているのだけどそういうときは嬉しい。勝手なもんだ。

この週末もお菓子がたくさん集まってきた。再び豊か。秋!暖かい飲み物はなににしましょう。身体冷やさないようにしませう。長すぎた夏のせいでなんかおかしくなってる。みんなもそうかも?大事に過ごしましょ。

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音楽聴いたりおしゃべりしたり。

夜と朝の風が冷たくなってきた。日中はまだ暑いけど。

SpotifyでThis is 石若駿を聞いている。今思えば柳樂光隆の記事をその人の記事としてきちんと読んだのって石若駿に関する記事ではなかったか。友達に紹介したくて転送したんだ。今急に思い出した。まだみていないがジャズ漫画が映画化された「BLUE GIANT」の音楽を上原ひろみが担当し、石若駿もドラムで参加。先日の柳樂光隆によるインタビューもすごく面白かった挾間美帆も参加。すごくいいサントラ。サントラって今もいうかな。石若駿率いるバンドしてはSongbook Trioが好き。

「〇〇って今もいう?」っていう会話が増えた、と母に言ったら母が笑った。母が何かの単語を使ったあと「まだ関西弁が残ってる」といったあとのおはなし。それは関西弁がどうか怪しい、母には母語(ははご)があるから、と私は言った。母は笑った。母語(ぼご)といったら私たちの場合は日本語だが狭い意味での母が使うという意味での母語が我が家にはあった。私も普通に使っていたら周りに笑われたりして「えーこう言わないの!?」となったことが何回かある。父語もある。おいおい、きちんとした言葉使っておくれよ、だからこんなんなっちゃって、なんて父母のせいにしない(当たり前か)。数えられる程度の語彙がいまだに思い出話として残っているのだからそのインパクトは大きかったに違いないが。

自分が住んでいる街のことを住んでいる人が馬鹿にしちゃダメだよ、今度帰ってきたら再発見してもらおう、名古屋で遊ぶのが不思議と難しいのは「何もないから」ではないよ、だって奈良すごく楽しかったじゃん。平城京の空、すごかったものね、ねー、タクシーの運転手さんの話も。あそこであべさんがね、建物っていいわね、ねー。

隣の市の市役所の展望台から住み慣れた街を眺め、地上に。自分の住む街と比較したくなるのもわかる。私が育てられた街でもある。段差の少ない歩きやすい道を案内しながらゆっくり歩き、話す。さまざまな苦労のなか、私たちにいろんな体験をさせてくれた感謝を織り交ぜながら。東京にもあるデパートのローカルな喫茶店でフルーツパフェを頼んだ。二人でパフェ食べるのなんてはじめてだよね、と。お互いがパフェを食べている姿なんて見たことないのではないか。10代後半、当時の彼とMY CITY(今はルミネエスト)の多分2階、今もカフェがあるところのカフェで大きなパフェをよく食べた。荒井注が隣で一人でパフェだかなんだかを食べていて彼が興奮して小さな声でそう伝えてきたのを覚えている。私はドリフは見ていたけど誰が誰だかあまりよくわかっていなかったから「そーなの!」という表情だけして「この人が、そうかー」と思っていたに違いない。大体いつもそんな感じだから。阿部寛が隣にいたときも私は全然気づいていなかった。なんだか大きくてかっこいい人と電話ボックス(知ってる?)で隣り合ったのだ。今思えば向こうは撮影の合間だったのだろうけど。東京に出てきてからのそんな日々を母は知らないけど話ならいくらでもできる。生きている間は。どちらかが死んじゃっても話すのかもしれないけど。みんなが少しずつ時間をずらしながら死ぬことは当たり前ではないんだな。たくさんの人が一気に亡くなることの言葉にならなさ。辛い。震災も、戦争も。今日の東京の空は静か。月曜日、いってきます。

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精神分析

謝罪とか言葉とか。

古田徹也『謝罪論』(柏書房)を前に謝罪のメールを書いた。たまたま読んでいる途中で置いてあっただけだが。古田徹也はこの本でも「小さな子どもに「謝る」ということを教える場面を想像してみよう」と子どもと大人のやりとりから始める。2022年10月にでた『このゲームにはゴールがない』(筑摩書房)の冒頭は幼稚園に通う娘さんとのやりとりで、これが本当に心つかまれるものだった。今回は単に子どもが言いそうないくつかのことが書いてあるのだがこれが早速生き生きしている。言われればどれも聞いたことのある台詞だがスラスラと書き言葉にできるのは生活で子どもと密に関わっている人だからだろう。私は古田徹也の著作や講義のおかげでウィトゲンシュタインに触れ続けているが『このゲームにはゴールがない』もウィトゲンシュタインと自由に距離をとりながら対話する書き方がすごかった。「子どもが「痛み」という概念を習得するプロセス」とか「子どもが言語ゲームを始めるとき」など「心」って、「心をもつ」って、ということが詳細に議論されているのでこちらもすごくおすすめ。にしてもこれにしても『謝罪論』にしてもめちゃめちゃややこしいことによくここまでピタッとくっつきながらいくつかの視点から描き出せるよなあ、と思う。子どもの言葉も生き生きと描き出せるわけだ。『謝罪論』も最初から謝罪のややこしさがすごくわかるから「もう謝罪という言葉を一度なくしてみたほうがいいんじゃないの?」とか思わなくもないが、そんなことをしていたら多くの言葉が消滅してしまう。というか言葉は取り消し不可能だからこうやってややこしい議論をしなくてはいけなくなるのだ。難しい。ややこしやー。「すみませんではすまないんだよ!」みたいなこと言いたくない。内心「私何ややこしいこと言っちゃってんだろう・・・」と思うだろうし。とにもかくにも下訳をお送りするのが少し遅れます、という謝罪メールを書いた。クスン。思ったより時間が取られていて困るが小さなお出かけもしながら息抜きだけは上手にやっている。言い方を変えればサボるのだけはやめられないってやつだ。「サボる」って言葉もさ、とか始めたくなるがそんなことしてるから時間がなくなるのだ。今日は少しだけ遠くへ。電車の中で頑張ろう。みんなー、と意味もなく呼びかけたくなるなあ、今日は。対面で会える日々だけどコロナもインフルエンザも本当に流行っているからお気をつけてお過ごしくださいね。では。

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精神分析

ひとり喋り。

着々と仕事を終えている、と早く書きたい。早く書きたい、という時点で全く「着々」感がない。今日出すのも「速達」だし。高いし。昨日出せる予定だったのに持ち歩いていた書類を間違っていた。郵便局で気づくなんて・・・。悲しかったけど速達の切手を買って速達という赤いスタンプを押してもらった。スタンプ押してもらえたのは少し嬉しかった。朝出すのを忘れないこと。毎日毎日確認事項だらけ。自分でやっていると結局間違ったり忘れたりするから「忘れてそうだったら言って。忘れてそうじゃなくても言って」とリマインドをお願いすることもある。私もできることあったらするから言って。ああ、何ができるだろう・・。

翻訳は難しい。意味はとれても日本語の書き言葉にするのは非常に難しい。なんなんだ、このギャップはと思う。わかるのに伝わる言葉にできない。でもまあ言葉というのは大体いつもそんなもので対話しているうちに「ああ、そういうこと」となったりすることも多いのだから、とも思うが、書き言葉は直接的な対話を前提としていないので「言わなくてもわかる」書き方が必要なのだ。なんてひとり喋りをしている場合でない。

まず速達を出すこと。念じておかないとすぐに忘れる。前に抱えて歩くリュックのチャックを少し開けて自分から見えるようにしておかねばならない。駅前のポストに無事に投函してからチャックをしめること。癖で封筒の端っこ押し込んでチャーッとしめてしまわないこと。はい。

今朝はウィニコットフォーラムのための抄録を仕上げた。色々書いていたがほとんど使わなかった。まあこれもそのプロセスが大事、ということで。

ああ、言い訳がましい朝ですよ。

今夜はこれ。

RadioAmbient 027 : The Bookends Vol.02

ただの雑談だけど楽しかった。紹介した本はぜひチェックしてほしいです。

どうぞ良い週末を。

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読書

『なぞなぞえほん』とか尾久守侑のペソア伝書評とか。

だいぶ涼しくなってきたけどまだ蒸し暑い。つけると寒いし消すと暑いものなーんだ。この時期のエアコン。大人向けなぞなぞだな。小児発達クリニックでADHDやASDの幼児さんのグループを彼らが思春期になるまで担当していたけど(その後は個別)中川李枝子作 、山脇百合子絵の『なぞなぞえほん』(福音館書店)を使ったことを思い出す。楽しかったね。みんなもう成人した。とても大変でとてもかわいかった。こういうのは常にセットだ。お母さん、お父さんもお元気だろうか。いろんなことありましたよね。今もですよ、と笑われそう。

今日は『週刊文春』を買わねば。精神科医で詩人の尾久守侑さんが、澤田直さんの『フェルナンド・ペソア伝 異名者たちの迷路』(集英社)の書評を載せているとのこと。尾久さんの第4詩集『Uncovered Therapy』(思潮社)もとてもよかったのだが詩集にどう感想を述べていいのかわからず何も書いていなかった。尾久守侑の書く世界は私も普通(何が普通かわからないとはいえ)よりはよく知っている病気の世界でもあり言葉の意味の世界で生きようとするとすぐに迷子になる。記号としても同じ言葉がなんどもリフレインされてそれもまた軽い眩暈を引き起こす。この詩集は最初から順に読むのがいい。尾久守侑のはどれもそうだと思う。リフレインしながら意味を強めていくのではなく意味をずらすようなリフレインが少し不穏。そういう詩人がペソア伝の書評を書くなんてとても素敵。この詩人はあの詩人のことをどう思ったのだろう。読もう。

昨日、ハクビシンを見た、とかハクビシンは駆除の対象である、とか、スーパーでみた景色のこととか、オフィスからも帰り道でもずっと見えていた月について話したこととか、来年シドニーで発表することにしたこととか色々書きたいことはあるけど時間切れ。

あっという間に週末。疲れましたね?私は疲れてます。でもがんばろう。良いこともあるといいですね。

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読書

本屋へ行くなど。

二度寝してしまった。気持ちよかったけど朝やるべきことが何も進んでいない。持ち帰り仕事もそのまま持ち歩くことになりそうだ。

本屋に行くとSNSで見かけた本以外の本にたくさん出会えるからとても楽しい。インターネットはなんでも見つかる場所なのかもしれないが、私の場合、そこから得られる情報は限定的。そういう使い方しかしていないということだろう。バウンダリーのなさに怖さを感じてもいるので現実の場所の自由に動けなさ(opossition)は必要だと感じている。もちろん障害や困難に関してはできるだけ安全で動きやすくあるべきと思う。

昨日、時々行く本屋へ行った。時間が限られていたのでなんとなくわかっている目的の棚へ直行。ゆっくりと本のそばを動きながら、ワイヤレスイヤホンで話し歩きしながら、カップルで顔を寄せ合いながら、いろんな人がいろんなことをしている間をすり抜けて急ぐ間にもいろんな雑貨や雑誌や大きな写真集が目に入った。大型の本は普段あまり見られないのでその場でめくってみたいがこの日は表紙だけ見遣って通り過ぎた。

あった。古田徹也『謝罪論』(柏書房)刊行記念、古田徹也選書フェア@代官山。選書された本は土居健郎などすでに持っている本もあったが少しパラパラして数冊購入。幅広い。昨日はオープンレター訴訟の件で「謝罪」という言葉をいつもより多く見かけたのでみんなもこれ読んだらいいのでは、と私も古田徹也『謝罪論』を読み始めた。ノンフィクションライターの高橋ユキさんのおかげもあるが法律が絡む場所での(どこでもそうだが)人間関係はとても複雑で気持ち的にはどこにもいけなくなるような出来事がたくさん起きていると学んだのでいろんな観点から知っておきたい事柄がある。

さて時間がない。出かけよう。皆さんも良い1日を。

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あれはなんだったんだろう コミュニケーション 精神分析 言葉

9月27日朝。

キッチンで色々しているうちに空の青が薄くなってきた。きれい。54袋入りの麦茶が消費できていないけれどこれは2巡目なのかな。8月初旬に青森に行く前から作っていたと思うのだけど、と書いていたら「あ、これ2袋目かも」と思えてきた。前に空になった袋に別のゴミを入れたイメージが浮かんできた。青森、楽しかったな。猛烈に熱くて猛烈な陽射しでまだ日焼けの跡がくっきり残っている。最終日に行政の方にたくさん説明をしていただいた八戸ブックセンターでは24日(日)「本のまち八戸ブックフェス2023」が開催されたとのこと。私も知っている関東の出版社も参加されていた様子。会場はこの八戸ブックセンターと「八戸まちなか広場マチニワ」「八戸ポータルミュージアムはっち」。街づくりの時にこれらを拠点として街をぐるっと回れるように設計したというのも聞いた。私たちは何も知らないままそれらをぐるっと回ってブックセンターに到着したので街づくりは成功している。

あ、雨だ。さっき天気予報をみて朝だけ少し雨マークがついていて「ふーん」と思っていたら本当に降った。降り込んではこなそうだから窓は閉めない。鈴虫が遠くの下の方で鳴いている。水平線を想った。空はもうだいぶ明るい。

別のところにも書いたが、人の心を殺して身体を傷つけるような人でも外では優しく穏やかに軽薄なおしゃべりをしながら快楽優先で過ごすことは当然ありなのだが、知識があったり書くのが上手ということだけで臨床の知にまで踏み込んできたりするのは厄介だなと思う。もちろん賢い人の行動よりお言葉のほうが関係のない人には貴重で、知的な部分だけで「学際的」であることも大切かもしれない。でも、現場での搾取や現場でトラウマが作られる可能性に言及するのであれば、同時に、法的にも規約的にも規制されない部外者をお友達感覚で現場に関わらせて消費者からお金をとることについても鈍感であってはいけないのではないか。少なくとも人をモノのように扱う人に自動的に書く場が与えられているのをみると世の中の仕組みだなあとうんざりする。見えない暴力は蔓延るばかり。現場を守る環境を壊す仕組みを見ながら現場で仕事をするというのは不毛だが不毛さから何かを見出す仕事だから無思考にはなりたくない。そんな社会でも自らの思考や心ある身体を守ろうと思う人は患者としてやってくるだろう。すでに傷ついた心身と共に。言葉と力で言いたいことだけ押し通そうとしているだけの人を見破ることはできなくても戸惑いや疑惑を感じたら相談する場と出会ってほしい。背中を見せれば触ってもいいと思っているような人たちは現実にいる。一度受け入れれば何してもいいと思っている人も現実にいる。自分の暴力性もナルシシズムも否認して相手が悪いとする人に効く治療はあるかもしれないがないかもしれない。そういう人が治療を自ら求めるとしたら自分が相手にしたことを自分が体験したときかもしれない。やはりこの仕事は傷ついた人たちに向けられているので弱い立場の人の声をかき消すような構造や仕組みに対してできる抵抗を考えないといけない。専門性はそのためにあるのだろうから。

今日こそ地道に。コロナもインフルエンザも流行っているようなので皆さん、どうぞお気をつけて。体温調節も難しいと思うけど脱いだり着たりできるようにしましょう。

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散歩 精神分析

月、祭、音楽

昨晩、月がきれいだときいたが私が見たときにはもうどこかへ行っていた。その前の日はきれいに輝く月を見た、神奈川県秦野市で。ということで今朝の音楽はB’z「今夜月の見える丘に」と思いきやスターダスト☆レビュー「月の輝く夜に」。彼らももう長い。B’zより前からだろう。B’zは今年35周年。最初から大好き。吉田栄作も来年歌手デビュー35周年だそう。なぜ突然吉田栄作かというと「秦野たばこ祭」でライブを観たからです。栄作(ライブで野太い声で「栄作ー!!」と叫んでいた人を思い出している)は「はだのふるさと大使/秦野たばこ祭エグゼクティブアドバイザー」とのこと。LUNA SEAの真矢もはだのふるさと大使ということで和太鼓を披露していた。私は川沿いにズラーっと並んだみんなが掲げたスマホの画面にそれらしき姿を眺めながら遠くからの太鼓とスピーカーからの音を聞いただけだけど。とてもいい祭だった。祭については時間ある時にnoteにでも書いておこう。ちょっと確認しながら書かないとだろうから。LUNA SEAはB’zより少し遅い登場だった。なんでもB’zが基準になっとる。

今朝も何も進まないまま寝不足。大変なことだぞ。羊羹とお茶の組み合わせは早々にいただいたが。日差しが優しくなったのにもホッとする。バタバタと移動しながらの日々だから辛かったんだ、夏は。電話もしなければいけないんだ。まずい。気づいたそばからその前に思い出した予定が抜けていく。大丈夫じゃないな。が、こういうことは珍しくないので単にしっかりしなさいという話か。なんでも寝不足のせいにしてないで。昨日は早速買ったばかりの高性能イヤホンが行方不明になり泣きそうになった。なくさないように派手な色のポーチに入れねば、と思ったところまでしか記憶がなかった。帰り道まで気づかずにいられたのはよかった。仕事詰まってるのに気になっちゃって、というのでは困る。患者さんたちもいろんな音楽聞いてるよなあ。この仕事してるといろんな学校や仕事や音楽やゲームや習慣の話を聞くので世界は広いなと感じる。自分のことを話すというのは他人のことを話すということでもあるのでお会いしたことのない人が聞いたり読んだりしているものまで知っていたりする。私は最近再びジャズを聴き始めたおかげでずっと音楽活動をしてきた先生といろいろ話すことができた。黒人音楽のような手応えのある「相手」の登場は日本にはありうるだろうか。小さな差異に非対称を見出すことでは話を聞く気などない相手に抵抗することはできないだろう。いつの間にかのっぺりと「きみたちも似たようなもんですよ」と呑み込まれなんだかんだそこに安住している自分を見つけたりしないだろうか。それも見ないふりでいくのだろうか。傷つきはすべて「個人的なトラウマ」として処理される可能性はないだろうか。行けるところまで見て見ぬふりで?実際、そうなっていると感じないだろうか。日本の精神分析は日本の文化に向けられたものである必要がある。患者が生きる場所自体の分析を同時に行うために大切な対話ができたのはよかった。

今日も冷たい冷たい世界ちゃん、おはよう。秦野たばこ祭の「火」は幻想的に燃えていた。どこで熱くなるかは人それぞれ。それなりの緊張感と切迫感を維持したいと思うがどうだろう。

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お菓子 音楽

羊羹、お茶、音楽

PC前に突っ伏して寝ていた。よく働きよく遊びよく疲れている。が、翻訳とか書き物とかは全然進んでいない。なぜだ。やっていないからだ。

南側の窓を4分の1開けた。これまでは半分。それ以上は開かない。戸袋がないから。大学生のとき一人暮らしをしていた仙川の小さなアパートは雨戸があって戸袋があった気がする。いや違うかも。どこかで私は戸袋に窓を入れるのが下手だな、と落ち込んだ記憶がある。ああいうのに上手いも下手もあるのかよ、と思うかもしれないがあるんだよ。不器用な人は本当に驚くようなことに苦労しているものなのだ。今はとにかくゆっくり動く、仕組みをよく見る、人の真似をする、それでも無理ならやってもらう、ことが上手くなった。最初のステップである「ゆっくり動く」が最大の難関だったが優しい人たちの上手な声かけが徐々に内在化され今は不安や恐怖や眠気が強いとき以外はまるで落ち着いている人のように振る舞うことも可能になった。

戸袋といえばこれももうどのくらい前になるのか。母と京都の町屋に泊まったことがあった。とてもとても古い建物でとてもとても高齢に見える女性がお孫さんと思しき方と一緒に経営されていた。お二人ともとても素敵でお二人の姿が見えなくなるたびに母と静かに盛り上がった。建物も古さゆえの不便はあれど私の語彙では表現できないがとてもよかった。あの町屋はもうなくなってしまったはずだけどまた行きたい。

今朝は、暑い間は食べる気がしなかった羊羹をようやく開けた。熱いお茶と一緒にいただきたかったから。羊羹は数年前、河口湖に行ったときにふらっと入って一目惚れした「富士菓匠 金多留満」の「富士山羊羹  甲州もも」。今回はお土産でもらった。パッケージはまるで洋菓子。桃と羊羹の断面がいろんな向きで配置されているピンク基調の絵柄なのだがよく見ると少し面白い。かわいいピンクのワンピースに羊羹の柄を描かないでしょう、桃は描いても、という感じ。フフフ。かわい面白い。さて、少しの弾力を感じながら小さなナイフを入れる。伊万里の青木陶房で買った水色の小皿にそっと置く。青木さんもとても素敵だったな。土のこととか色々教えてくださった。お茶も夏の間は開けなかった滋賀のお土産、中村農園の「土山煎茶」。爽やか。緑がきれい。少し暑くなってトレーナーを脱いだがまた着た。今朝は少し寒いくらい。

お茶といえば来月はルピシアのBOOK OF TEAが出ますね。知ってるかな。いろんなお茶を丁寧に、でも気楽に飲みたいな、という紅茶好きな方に特別な贈り物をしたいときにはこの一冊(一箱)。最初にいただいたとき、大感激した。みんなであれこれ言いながら分け合うのも楽しいです。お茶とか陶器とかはそのヴァリエーションの多さに本当に驚く。葉っぱとか土とか基本は同じなのにね。

今朝はNubya Garcia『Source』。ゆったりかつ力強いサックスが心地よい。最近は柳樂光隆の記事が私の音楽の指針。どの記事も背景がしっかり書かれていてその人の個人史としてもジャズの歴史としても興味深いし勉強になるし紹介されている音源が素晴らしい。あと彼らが所属していたり受けてきた教育の話がとても参考になる。多様性を実現しようとするチャレンジャーたちの資質と地道な努力が素晴らしい音楽とともに受け継がれる土壌づくりにもしっかりと目配りが利いている。上質のグループで教育を受けられることは本当に素晴らしいこと。そういう人たちを単に「恵まれている」とするのではなくそういうグループ作りが可能であることを私たちはまず知らないといけないのかもしれない。ヌバイア・ガルシアのインタビューはこれ

今日は再び月曜日。色々あったはずの9月も体感5日分くらいでしたね。そうでもないですか。日常は慌ただしいけど心の中の時間だけは過去にも未来にもどこかへも引き伸ばす工夫をしながらなんとか過ごしましょうか。

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読書 音楽

秋、80年代、ラジオ

涼しい。半袖だと少し寒い。今日は長袖で出かけられる。嬉しい。別にいつでも長袖着たければ着ればいいじゃん、という話ではないのである。どんな格好してても暑いぜ(でも電車は寒いぜ)、という日々がようやく終わってのびのびと秋の服を着られるのが嬉しいのだ。今年は本当に「秋なのに」という残念な気持ちが続いた長い長い夏だった。これ当然「春なのに〜♪」のメロディにのせて書いているわけだけどこの曲は春に期待しすぎだ。「春なのに」ではなく「春だから」だよ、と突っ込む人もいたと思う。現実、春は別れの季節なのだ。そう考えると「秋なのに」は暦に引っ張られすぎかもしれない。お天道様がそうならそうなんだよ、と素直に長い残暑を受け入れることも大切かもしれない。でも暦はもともとお天道様の事情に合わせて生活してきた人たちが作ったものなのだからそれが合わなくなってくるというのは環境問題、マジでやばいですよ、という話でもあるのである。本当に。ちなみに「春なのに」は1983年1月11日に発売された柏原芳恵の12枚目のシングル(by wikipedia)である。当時はみんな「こんにちは、柏原芳恵です」と真似していた。私はひたすら「ハロー・グッバイ」の冒頭を歌っていた。「紅茶のおいしい喫茶店♪」と。でも「こんなかわいいカップになりたい」とは思わない、と話したら「えー、そう?」と言われた。なりたい人もいるのか・・。「美女と野獣」のチップを思い浮かべた結果らしいが、あれ魔法かけられちゃてるわけだし。ちなみに(二度目)宮本浩次が歌う「春なのに」もいい。宮本浩次は何を歌ってもいい。

身体の強張りが強い日はこうしてタイプするのも苦痛だが一度座った場所から動くのももっと苦痛、ということでどうでもいいことをばーっと書いてしまった。いや、どうでもよくない。1980年代の歌と共に育ってきたのだから。どの曲も歌詞はツッコミどころ満載だがとても切なくもなる。

この前、 HelloTaroさんのニセコのコミュニテイラジオの番組RadioAmbient 026 : The Bookends Vol.01にお邪魔して主に私たち世代の曲に谷川俊太郎の詩を載せて遊ばせてもらった。ストリーミングありなのでよろしければ。ただおしゃべりをしているだけなのだが1970年代生まれの方には響く曲もあるかもしれない。

今流れているのは小沢健二「愛し愛されて生きるのさ」♫

良い日曜日を。

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精神分析、本

binocular visionなど。

雨?南側の大きな窓を開けたらやはり雨。さっきは「降り始めた」と思ったがずっと降っていたのだろうか。そういえば昨晩はひどい雨の中を帰ってきたのだった。ジーンズも雨用のはずのスニーカーも少し寒くて羽織った薄手のパーカーも結構濡れたがもう帰るだけだからと全く気にならなかった。濡れたものは乾かせばいいだけだから簡単でいい。今朝は涼しいが熱気の澱みを感じてエアコンを短時間つけた。

昨晩、友人に“binocular vision”について聞かれた。精神分析家ウィルフレッド・R・ビオン が使用した言葉だ。ビオンはできるだけ抽象度の高い言葉、意味に汚染されていない言葉、例えば数学で使われるような言葉を用いた。binocular visionはvertexのひとつでありそれをviewpointとは言わないというようなことである。binocular visionは双眼視とか両眼視とか複眼視とか訳される。簡単にいえば二つあるいはそれ以上の異なるvertex(頂点)から一つのものを見るということだ。日本の精神分析家の北山修が『共視論』(講談社選書メチエ)で述べたのは発達心理学の用語であるjoint attentionを拡張したものだった。母と子が二人で同じものを見ることについて北山は浮世絵研究を基盤に論を展開した。ビオンも母子関係をモデルにしているが彼が注意を向けたのは乳児と乳房の関係というようなより早期の原初的な関係でありbinocular visionはひとりの人の内的な複数の視点のことである。他に、精神分析の対象を眺めるためのvertex(頂点)として“reversible perspective”や“hyperbole”などもある。これらの複数の頂点、パースペクティヴがどのように“selected fact” (選択された事実)と連接していくのか、あるいは別のfactと連接していくのかを見立てていくのも精神分析家の仕事だがそこに正解があるかというと「ない」というしかないのですべきことはひたすら現象の描写ということになるだろうか。

ビオンの解説としてわかりやすいのは松木邦裕『精神分析体験:ビオンの宇宙』(岩崎学術出版社)だろう。

ちなみにそこには「’双眼視(もしくは両眼視)binocular visionは、ふたつの異なる視点からひとつのものを見ることの大切さを取り上げています。平たく言うなら、同時に複数の視点を持つことです」と書いてある。シンプルだ。

今日はビオンとウィニコットの「退行」概念についてのセミナーがあるので友人が質問を投げかけてくれてよかった。セミナーは英語なので思い込みによる理解は避けたいがどうなることやら。

そして秋彼岸。お墓参りに出かける方は足元お気をつけて。

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精神分析 音楽

「個人的なこと」、「場の安全」?

なんか蒸し蒸しする。まだ冷たい麦茶を飲んでいる。もう9月も22日というのに。もう22日か。言ってみて改めて意識する。どうしよう・・。

あるイベント会社の会員の自動更新が減っているという。どうしてだろう。私もやめた。私の場合は小さな抵抗として。女を部分対象として扱い、扱えない女には暴力的に振る舞い、そう扱える女とは依存関係を維持し、そうすることで自らを使ってくれるホモソーシャルな場ともwin-winであろうとする人を知識人として扱い登壇させる場にお金を払うことは性的搾取の温床の維持に貢献することになるから。個人の戦いなんて誰にも理解されないかもしれないが、そう感じながら戦っている人はたくさんいるというのも事実だ。個人的なことを個人的なこととして考える大切さを知っているからむやみに「私も同じだよ」と言わない。だからそれぞれ孤独だけどそれを維持することも必要なんだ。精神分析は社会的に、政治的に自分を抑圧、否認、解離することで消去してきた人に「個人的なこと」を個人として語る場を提供する。そういうイベントスペースとは真逆の機能。こういうプライベートな空間を維持するためにはそれを脅かす場にたやすく課金するなどしないという努力も必要。私が会員の自動更新をしなかったところで登壇者たちは何も困ることはない。そこではない場所で十分に稼げている社会に「適応」した人が登壇する場所だから。それでも、ということ。

喪失をモーニングワークすることができない時代。実際の身体をもつ人間同士の関係を「リセット」できるかのように振る舞う人が高度なAI技術について語ったり「人は誤る。失敗する。そういうものだ」とかいっているのを見ると「なかったことにしたいだけじゃん・・・」と呆れる。痛みに触れることができないのだろう。相手から脅かされたと感じるとすぐにビビって被害的になってありったけの知識を駆使してこちらを加害者にするスキルも高い。痛い想いするくらいなら相手の心も身体も壊してもいいことになってるみたい。すごいことだ。人の痛みを理解する基盤を自らが壊す。大変な時代だ。そういう人が「場の安全」とか言ってるのをみると驚く。自分の「安全」ばかり考えている人が?安全ってなんだっけ?場づくりについてはずっと考えていかないとすぐに何か良くないものの温床になる。難しい。

Samara Joyの声は優しいなあ。昔、サラ・ヴォーンが大好きでよく聞いていたことを思い出した。個人的なことを大切にできる場をそれぞれが維持できることを願って。

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音楽

蚊。音楽。

パッとしない空。光が差したようなあとはあるけど。どの方角の窓を開けても窓のほうに手を差し出せば風を感じるけどスーッとは入ってこない。

「北八ヶ岳ロープウェイ プレミアムコーヒー 深く濃いブレンド」をゆっくりゆっくり落としてりんごのお菓子といちごのお菓子と一緒にお盆にのせてパソコンの前へ。おなかの調子はずっと悪いので大好きないちじくは我慢。やっと買いやすい値段になってきたのに。お盆をテーブルに置いて座ろうとするとなにやら黒いものが。一瞬怯んだら見失った。そしたら今度は私の大事な「もりりんご」の上に!なんで私ではなくてそっちを吸おうとするのか全然わからない!と思って少し追いかけっこ。大きいがそんなに動きは早くない。なのに捕まらない。「もりりんご」をやられたショックに結構本当に呆然としつつ蚊取り線香に火をつけにキッチンへ戻る。ずっと昔から集めていた素敵なデザインのマッチ箱の中身はもう湿気っているからチャッカマンで。よくこんな名前をつけたものだ。うちもハンガーのこと「ハンガマン」とよんで歌もあるけど。自分につける虫除けスプレーはあるけどこの部屋に夜までゆっくりされても困る。蚊取り線香は喉をやられるからあまり使いたくないのだけどしかたない。エアコンつけたけどドアを開けたまま足元に置く。蚊取り線香を持って戻ってきてから見かけないのですでにこの部屋にはいないのかもしれない。それならそれでいいけどなんで私ではなく「もりりんご」を・・・。お菓子をとられた恨みは大きいぜよ。自分でもびっくりするくらい元気なくなった。胃腸の健康よりお菓子を優先しているというのに邪魔をするとは。もー!蚊め!「亀」って出たらどうしようと打ちながら一瞬思ったけど大丈夫だった。

そして音楽を聴きすぎて仕事が全くはかどらない。Cyndi Lauper ”Time After Time”なんて好きすぎて何回もきいてしまう、しかも歌詞をしっかりきいてしまう。まさにtime after timeなのだがこれはとても悲しい曲。シンディが当時付き合っていたマネージャーとの歌。こんな素敵な歌にできたんだからむしろ別れてよかったじゃん、と慰めた人もいたかもしれない。いないかもしれない。そんなことは誰にもわからないけど多くの人が共感できるからこそ今でも人気があるのはたしか。恋だけの話ではないが、だれかとの関係を表現するときどこをどう取り上げるかでまるで印象は変わってしまう。自分がどう表現したいかということに尽きる。意識的な目的は色々だろう。相手にこう思われたいとかとりあえず吐き出したいとか特定の相手にだけ伝わればいいとかこの部分だけは正確に伝えたいとかまるで逆のことにしておきたいとか。小説家でもなければ表現は大体ステレオイプで何度書き直しても結局「下書き保存」してばかりだったり書いているうちにアホらしくなって「こんなの書くくらいだったらこの曲きいてたほうがいいわ、こっちのほうがよっぽどしっくりくるわ(関西弁風に読んでください)」ということでシンディ聞いてしまうかもしれない。逆にどんな手垢にまみれた言葉だろうと自分で書いておくことに意味があると感じて書き続ける人もいるかもしれない。この曲だって歌詞はわりとよくある感じだから。でもこのメロディにこの韻をのせるのは最強という感じがする。どっと切なくなってしまう。一曲リピートで何度も何度も。

もうこんな時間だ。蚊め!ショックを受けてる時間が長すぎた。バカみたいだ、木曜日の朝。

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音楽

9月20日朝

毎日眠くてしかたない。すっきりしない。カーテンも朝一番に開ける気にならない。麦茶は潤すために飲む。胃腸もずっとすっきりしない。でもいつもの居酒屋にはいきたい。毎日ほとんどの店がラストオーダーを終える頃に帰るのでよかったかもしれない。時間があったら私の胃腸は耐えられなそう。私の自我は信用ならない。

ジョン・バティステ『World Music Radio』(Verve/Interscope, 2023年)を聞いている。面白いし美しいし楽しい。スパイク・リー監督の『Red Hook Summer』の音楽も手掛けてるそうだけど日本未公開。ピクサーのにも参加していたみたいだけどみていない。スパイク・リーは別の映画も音楽がらみで先日教えてもらったばかり。

radikoタイムフリーは7日前までなのかあ。がびーん。聞き逃しも聞き逃した。TOKYO FMのTHE TRADで9月12日にやった柳樂光隆さん @Elis_ragiNa ゲストの「秋のジャズ新譜大収穫祭」聴きたかった!

ジョン・バティステのインスタで自宅らしきところでピアノを弾いている場面がみられるのだけど千葉雅也さんもこういう構図で自分のピアノ場面を撮っていた。これがピアノ弾き的にはベストなのかな。写真の構図も難しいけど面白い。

なんだか爪の伸びが早い気がする。夏は髪が伸びるのが早いと聞いたが爪も早いのか。爪的にはまだ夏ということか。まだまだ暑いのは事実だが夜はだいぶいい感じになってきた。

今こんなことをしている場合ではないのだが、頭の中ですべきことがぐるぐるまぜこぜになっているのを感じるのみで手が動くままにしている。とりあえず全部持ち歩いては手をつけずそのまま持ち帰る重たいだけの日々。今日はさらに重たくなる。筋トレにもならず腰が痛くなるだけなのに。まあ、がんばりましょーね。

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コミュニケーション 音楽

「博覧強記」、継続、音楽。

地震か。Yahooの地震情報によると震源地は宮城県沖、最大震度4、マグニチュード5,5とのこと。東日本大震災以来、ずっとこの地域で大きめの地震が続いているように思えてしまうのは果たして気のせいだろうか。震災の2ヶ月後から郡山、石巻、南三陸、相双地区、塩釜などいくつかの被災地に行ったが、そこで見たり聞いたりしたものが地震のたびに最近のものとして蘇り続けるからだろうか。とにかく起きたとしても再び眠ることができますように、被害が出ないように、と祈るばかり。

外では夜明けに向かうまだ暗い空の中、カラスが大きな声で鳴いている。小さな声を出すこともできるのだろうか。

私は「博覧強記」という言葉をSNSやある言論プラットフォームのおかげでたやすく信じることをしなくなった。「おかげ」というのは変かもしれないが今のそれは特に人間性と関係していない薄っぺらいものであるという認識ができたのでこの言い方にもなる。優しく穏やかに嘘をつきホモソーシャルな基盤(「つまりオレ」と心で呟く、みたいな)に貢献しない女を見下し、時には実際に傷つけながらなんか哲学っぽいこと語られても、という話でもある。SNSとコロナによって「博覧強記」さんたちの棲みつく環境は豊かになった。傷つけられた人たちの記憶が薄れる機会も奪われた。トラウマの時代は回復を見込めなくなりただ生き延びることを迫られるようになった。それについてなんか偉そうなことを書いたりするのもそういう人たちだったりする。救ってくれると思った場所も地獄だった、みたいなお話が古びないのはそれが現実だからだろう。

さて、週末は個別的で特別な対話に時間を割いた。アセスメントと「最低限のことをやっていく」ということについて。この仕事はこの二つを継続的にやっていくことで、それを可能にするのもこの二つを継続的にやっていくことなのだが自分のしていることの公にはしない部分の言語化も必須。言葉だけならなんだって言えるのは最初に書いた通り。

音楽もたくさん聞いた。昔からの友人にたくさんの音源を聞かせてもらったり由来を教えてもらったりもした。そしてnoteにも書いたが子ども世代と音楽の交換のようなこともした。ジョン・バティステも聞いているというAdoの新曲DIGNITYは稲葉浩志作詞、松本孝弘作曲でいかにもB’zで切なくドラマチックだった。Adoはいろんな声を出せる。Official髭男dism、Mrs.GREEN APPLE、back number、GReeeeN、藤井風、優里などを聴き比べながら私の世代の音楽と重ね合わせて紹介したりした。

今日もどうなることやら。防衛と武装などせずにいられたら楽かもしれないが人の心は勝手にそれらを必要とするので過剰さにだけ気付ければよいがどうなることやら。

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あれはなんだったんだろう コミュニケーション

反転、バウンダリー

人って簡単にこうなる。やってること変わらないじゃん。反転反転反転。どちらにも転ばず両面見せながら人を憎まずやっていくのはそんなに難しいことだろうか。そもそも憎むほど愛してる?もしそうなら体を張れるのでは?なんの覚悟もなく女のおいしいところだけ使う搾取男を「賢人」とか「知の巨人」とか簡単に言い換え虚像を実像にたやすく変換できるSNS時代、だらしない身体は快楽のためにはがんばるがその時間が過ぎればすぐしんどくなる。自分を気持ちよくさせてくれる人以外に心を動かすのは負担。女も男も公私混同で共謀する、様々な形で。バウンダリーの問題は難しい、と外国の人とも話した。あれこれの事件も起きるわけだ。自分を部分ではなく全体としてみてくれる人たちと今日も一日。

https://note.com/ami3note/n/na7eaf5e3366a?sub_rt=share_pw

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精神分析

旅のこととか。

日の出が少しずつ遅くなる。西の方はまだまだ明けない。夏の旅は日の出の早い方へ。冬の旅は日の出の遅い方へ。昔からの友人に旅の話をした。「うちは転勤族だったから」ときいてそういえばそうだった、と思った。海沿いの街に住むその人に案内されながら時々車が身体すれすれに通るのを避けながらその人の前を歩いた。便利か便利じゃないか、というのも誰にとって?何を目的にする場合?そういう便利さからはあえて離れたい、とか色々ある。日本全国旅をしていると地域によって観光客に対する態度は異なる。もちろん個人の性質もあるだろうけど「見かけない顔だね」と囁き合うシーンをテレビなどで見たことがあるだろう。異質なものに対する態度はその土地が歩んできた歴史や文化と関係があるように思う。旅するなかでいろんな体験をしてきたが毎回興味深いのは地元の人との関わり。あったりなかったりする関わり。

菅島に泊まったときの話をした。菅島は三重県鳥羽市、伊勢志摩と呼ばれるあたりの離島の一つだ。その人は三重にも住んでいた時期があるが離島のことはあまり知らなかった。菅島には鳥羽マリンターミナルから市営定期船でいく。船がくると多分島の人たちが続々と荷物を積み始めた。鳥羽湾最大の島、答志島に最初に寄り散策をした。島の生活、島の祭事に関わるであろうもの、狭い道路、突然開ける海、猫、歴史を感じさせる佇まいだった。そこから宿泊先の菅島に移動した。旅館の人が迎えにきてくれた。行きはほとんど何も話さなかった。魚が干されているのをたくさん見かけた。答志島の活気とは打って変わってとても静かだった。誰にも会わない道は海沿いなのにいつの間にか海が見えないくらいの木々に囲まれ夕日が沈むまでに灯台にたどり着けるかわからなかった。その後の記憶はあまりない。別に何が起きたわけでもない。魚が干されている四角い網、木々の間からチラチラ見える海、私たちしかいない大広間と御膳、そんな断片的な場面と独特の静けさだけが私に残った。翌日、宿を出て船の出る場所まで送ってもらった。昨日と同じ人が島のことを話してくれた。最初彼が口を開いたことに少し驚いてしまったがなんだか少し嬉しかった。

友人の案内で海を離れてまっすぐ歩いていたら駅に出た。お店はどこも混んでいるようだった。最初の店は予約で満席、二つ目の店も満席と言われてドアを出てエレベーター前の狭いスペースを挟んだ数歩先のガラス窓はイタリアンだった。入ってみた。入れた。とても美味しかった。たくさんの話をした。お互い生活が変わってもなんでも話し合える関係は全然変わらない。楽しかった、と駅へ向かうと時間を調べてあった電車が電光掲示板に出ていなかった。人身事故でダイヤが乱れてるとアナウンスがあった。乗り換えが増えるだけで電車の本数はある駅だ。私より心配そうに見送ってくれる友人の変わらなさにもほっこりした。

今日も一日仕事だ。いろんな土地での出会いや思い出を自分の背景に海みたいに広げながらそこで遊ぶようにでも真面目な顔して仕事したい。いい気持ちで二度寝したらこんな時間になってしまったけど。どうぞ良い日曜日を。

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上原ひろみ新作とクラリネット

ゴミ捨てにいった。私より早く家の前の道に誰かいる音がしていた。もう昼間みたいな音を立てて。ゴミを持って外に出ると誰もいなかった。隣の家はまだ起きていない。あの窓がガラガラと音を立てるんだ。ゴミを捨ててタイマーをかけていた除湿機に溜まった水を捨ててまたかけた。玄関には靴もたくさんあるから除湿は必須。とはいえ毎日同じ靴ばかり履いている。最近はいつ雨が降ってもいいように傘は持たずともずっと雨用のスニーカーだし。靴は服よりも使ってあげないと悪くなる気がする。持っているのはスニーカーばかりだけど生地によってはすぐはきにくくなる場合もある。不思議だ。生地の特性とかをしればうまいお手入れもできるのだろうけど。靴屋さんみたいに壁に貼り付けるみたいに並べれば手に取るかな。なんでも一番ちょうどいい場所にあるものを使ってばかりだから。

コンビニのレジ横にあったというスイートポテトをもらった。角切りりんごが入っているとあって確かにポテトというよりアポー。紅茶が合う。

柳樂光隆による上原ひろみのインタビューを読んだ。衣装もすごくかわいい。米ラジオ局「NPR」のTiny Desk Concertの音源が最高。最高すぎて何度も何度も聴いてしまう。

SET LISTは 新作”Hiromi’s Sonicwonder”から”Sonicwonderland” “Wanted”の2曲。トランペットの Adam O’Farrillがすごくいいと書いてあったが実際すごかった。ドラムはGene Coye、音が小さいってあったけど本当にそう。ベースはHadrien Feraud。あとでアルバムも聴いてみたい。私はベースはビリー・シーンとダフ・マッケイガンくらいしか名前を覚えていない。ギタリストはたくさん知っているけど。それももうだいぶ忘れたか。楽器として好きなのはベース。昔付き合っていた人もベーシストだった。低音の方が好きなんだろう。このアダム・オファリルのトランペットもクラリネットみたい。ああ、素人すぎてなんと表現していいかわからない。

小さい頃からピアノを習っていた。隣の市まで子供だけで電車で通った。ボックスシートではないドアのそばの二人がけの席でちょっとしたことでずっと笑いをこらえるように笑っていた。うるさくする子供ではなかった。たまに喧嘩もしたがお互い少し心細かったのかすぐに仲直りした。車内で編み物をしている高校生がいた。みんな三つ編みだからあの学校だ、とわかるようになったのはもう少し経ってからだ。父の整髪料の匂いがすると父がいるのでは、と探した。仕事をしている父を知っているのにここにもいると思うのだから電車はまるで夢の中だ。駅のドムドムでジュースを飲んだ。ドムドムの象さんはいつもそこにいてくれた。ピアノの先生はきれいでしっかりした人だった。ピアノの才能が特にない私は順番を待っている時間が大好きだった。とにかく綺麗がいっぱいだった。綺麗なカップで紅茶を淹れてくれる。最初はいい子にそこで待つ。すぐに飽きる。綺麗な花柄のトイレットペーパーを点線でちぎってポケットに入れたり勝手に外に出てマンションの生垣を綱渡りするようにひと回りして戻ってきたりした。マンションの周りは同じ植物ばかり、と思ったのもその頃。一番楽しかったのは先生が一緒に暮らしていたクラリネット奏者のお部屋に入ること。細身で優しくて小さく笑う人だったがそこで会ったことはあったのだろうか。いつも誰もいなかったような気がする。私の記憶ではその部屋はとても小さかった。いつもドアのそばの低めの本棚の前に座り込んで音楽雑誌を見ていたから中の広さを気にしたことがなかった。今思い出してもそんなに広いマンションではなかった。クラリネットの練習部屋だったのかもしれない。雑誌の中でもクラリネットはトランペットより上品で私はなんだか誇らしかった。クラリネットの音というか多分その人が奏でるからなんだけど、その音に魅了されたのはそこでだったからやっぱり彼はいたのかもしれない。アダム・オファリルのトランペットをきいて彼のクラリネットを思い出した。

冬休みはいろんなライブに行きたい。旅先で出会う音楽もいい。そろそろワイヤレスイヤホンを買うか。ずっと音楽と離れていた気がするけどそろそろ昔みたいに一緒に。

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夏と秋の間、時間軸

今朝の空もきれい。オフィスの窓からはずっと遠くまで空が見える。夏の雲と秋の雲が共演する季節。単にダイナミックなだけではなく、単にコントラストがはっきりしているだけではなく、うっすらと落ち着きが宿る。特に昨日は風がなかったせいかもしれない。絵画みたいな空だった。その空の下の明治神宮の森は空よりも少しだけ秋らしく緑に少し錆びたような色が混じり始めていた。昨晩の空は夜の萌黄色という感じで緑がかってみえた。明日は雨なのかな、と空を見上げながら帰ってきた。実際、今日は雨が降り出すみたい。移動の時間と重ならないでほしいけどちょこちょこ移動してるからどこかで雨にあたるのは仕方ないか。明後日は?くもりのち晴れか。悪くない。

今朝はこの秋はじめての柿。ワケアリみたいな感じで4個入りで安く売られている和歌山産の柿。袋がかわいくて柿の時期が終わるまで今年もきっと何度も買ってしまう。最近スーパーで買い物をするたびに合計金額に驚く。いつも似たようなものしか買わないのに物価が高すぎる。海外に行けるだろうか。柿は見かけより熟していた。おいしい。硬いのも熟しているのも好き。

インスタでお花が開くタイムラプス映像をじっと見ていた。ずっと見てしまう。小さい頃、部屋のお花がいつ開くのかと植木鉢と同じ高さで寝そべるように頬杖をついてずっと見ていた。お水をあげるとピクンと動くのを目にすることができたが開花を見るには時間も忍耐も足りなかった。いつの間にか寝てしまい目覚め慌てて花を見ても眠る前と何も変わっていなかった。小声で声をかけたり歌を歌ったりしてみたが声も変わってるし歌も下手だからあまりいい刺激にならなかったかもしれない。でも花こそ変わった形や色に溢れてるから人間の変さなどきっとどんぐりの背比べ。タイムラプスやスローモーションという手法は私が待っていた長い長い時間をぎゅっと縮めてその繊細な動きを鮮やかに見せてくれる。大体の植物は頭をグイッともたげるようにして立ち上がりゆらめく。そのしなやかなこと。大野一雄なら表現できるかもしれない。植物とも動物とも境界をぼかせる人間もいるのだ。表現というのはすごい。私は時間軸が異なる世界に感動することが多いような気がする。だから精神分析とかやるのだと思う。絵本とか子供の本とかだと引き出しとか庭の穴とかが時間軸の異なる世界への入り口になる。でも植物といたり動物と暮らしたりすると時間軸は自ずと揺らぐ。あと赤ちゃん。

あー。社会の時間はもう私にこれを書くのを続けさせてくれない。突破することもできるが合わせることで得るものも多いから出かけますよ。みなさんもどうぞお元気で。

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カーディガン、チョコレート、いちょう並木のセレナーデ

窓の外がきれい。でも風が足りない。朝晩はだいぶ涼しくなった。昨日の帰り道、Tシャツの上にカーディガンを羽織っていたことを駅に着くまで忘れていた。冷房対策と夜の気温対策が同じ服でいけるという時期ということ。

誰かと会うたびにちょこちょこお菓子とか小物を贈り合うが、そろそろチョコレート好きの友人にあげられるかも。ずっと外にいるのでなければ溶けないだろう。棚に並ぶチョコを眺めてその人の顔が思い浮かんでも手にとれない時間が結構長かった気がする。だってここにこうやって書く程度には何度も同じことを思ったから。チョコレートは気楽に買える範囲では日本のチョコが一番おいしい気がする。DARSとか出たとき「あーこれおいしい」と思った覚えがあるし。アポロとかかわいいのも最高。あー。秋だからモンロワールの葉っぱのチョコとかもプレゼントにいいか。そういえばDARSのCMってオザケンだった。

オザケンはこの季節だったら

♪きっと彼女は涙をこらえて 僕のことなど思うだろ いつかはじめて出会った いちょう並木の下から♪

ですかね。 「いちょう並木のセレナーデ」。

仕事が全然進んでいない。隙間時間にひたすら訳すとかしないと翻訳の仕事は進まない。ウィニコット協会の抄録は絶対今日書こう。

そうそう、私がはじめて読んだウィニコットの論文は「食欲と情緒障害」(1936)だったと思う。今は精神分析家になられた妙木浩之先生が『小児医学から精神分析へ ウィニコット臨床論文集』の読書会をしていらしてそこに参加した初回が第1章のこれだった。私にとって最も印象に残っている論文でもある。もちろん内容的には重要論文と言われるものはこの本の別の章のものだったりするのだけどインプリンティングみたいなものだ。最初に出会ったものを親だと思う、みたいな。その後もよくわからないなりにウィニコットだけは読み続け、よくわからないからクラインとフロイトの購読会に何年も参加し、そこでいろんな分析家の論文に触れ、今は自分で読書会を持つようになったし、精神分析家になる訓練まで受けてしまった。同一化ってこういうプロセスなんだな、と事後的に感じているのが今。

とか言っている間に作業をしましょう。少ししか時間がなくなってしまった。なくなって、とうったら「な苦なって」とでた。テレパシー。今日は木曜日。なんとか過ごしましょう。

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朗読、絵本

鳥たちが少し鳴いてまた静かになった。窓を全部開けてみたけど作業するには暑くて少しの隙間を残して閉めてエアコンをつけた。エアコンの音。風が涼しい。でも冷えるばかりで自然ではない。

友人が朗読のファイルを送ってくれた。小学生の頃、教科書をもらったら国語だけはすぐに全部読んでいた。朗読も大好きだった。指されると嬉しかった、ような気がする。今も保育園でまだ絵本でさえ重たそうに持って膝に乗ってくる子たちに読み聞かせをする。辿々しい足取りでみんな違う絵本を持ってくる。「読んで」とはまだ言えないが目の前にぐいぐい差し出してくる。かわいい。最初に持ってきた子の絵本をみんなに見せるように読みはじめるとさっきまでぐいぐい自分の本を差し出していた子たちの動きが止まってそのままの姿勢で絵本に見入る。読みながら立ち尽くして絵本に吸い込まれそうになっている子のそばの床をトントンとする。座る。目線は絵本から離れない。読み終わると「もっかい!」と小さな手で同じ絵本をもう一度開いてくる。さっき自分の絵本を読まれなかった子たちが再び目の前にいろんな絵本を押し付けてくる。「じゅんばん」となんとなく掴んでいた順番で次の子の絵本を受け取る。別の子がそれを叩き落とすようにして自分のを差し出す。一応受け取って床をトントンとして座ってもらって3番目の子にアイコンタクトをしてうんうんと頷く。その子に表情でお礼をして2番目の子の絵本を読みはじめる。どうしてこれが通じるんだ、と思いながら。大学の臨床センターで幼児グループをみていた頃もよく任せられた。その頃は今よくみている0、1、2歳よりも大きい幼児さんだったがADHDや自閉症など発達の困難を抱えている子たちだった。すぐにどこかへ行ってしまう子供たちもいたが私が絵本を読む時間は療育の後のフリーの時間だったのでみんな自由にしていてよかった。それでも絵本には力があるのだろう。遠くにパーっと走っていってもドアのところから絵本をじっとみている子もいた。隣で急に大きな声を出すので「どうぞ」という気持ちで床をトントンすると隣に座って絵本は見ずに言葉を聞いているようだった。

あ、朗読のこと。いつの間にか友達が送ってくれたファイルの再生が終わっていた。私もこれにチャレンジする予定。

もう13日か。まずいな。みんなはどんな感じだろう。どうぞ元気で。

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精神分析って。

窓を開けずにキッチンであれこれしてパソコンの前にきた。キッチンの小さな窓は開けっぱなしで寝た。その前に立った時にあまりいい風が入ってくるようなイメージを持てなかったのかもしれない。椅子に座ってすぐにエアコンのスイッチを押した。鈴虫が今日はそばで鳴いている。

今朝、宇多田ヒカルのインスタがネットニュースになっていたが私もこの写真はインスタで見た。ほんと子供ってすぐに大きくなる。こうやって私生活を守りながらあれだけの仕事をしていることにも驚嘆する。宇多田ヒカルは精神分析に助けられたそうだし私も助けられてきた。では何が助けになったかというと精神分析を体験した人とは共有できると思うがその人たちとさえ言葉で共有できるかというと心許ない。むしろその共有できなさについて言葉にすることになる。私のところへ来る人は専門家に話すのははじめての人もいれば別の場所にかかったことのある人もいるし多くは医療にかかりながらだ。彼らは以前のカウンセリングや医療での体験を「話を聞いてもらえて」とか「問題を整理してもらえて」と話すことが多い。精神分析にもその側面は含まれるが混乱の中、狂気に陥らずに混乱したままいられるようになるとか、自分にしかわからないことを自分にしかわからないこととして大切にできるようになるとかいうことを助けに感じていることが多いと思う。異質なものや人に対してバウンダリーを揺さぶられつつもメタで考えられる自分の機能を失わなくなる。ほとんどの場合、「適応」はいつの間にかよくなる。憎んでいた人や場所を愛せるようになるとかではないけれど「最悪!」と思いつつも憎しみに覆われることも減るし、覆われている自分に自分で気づけるようになるので行動が変わる。外側は何も変わっていないのに自分が別のしかたでそこにいられるようになる。あるいはいてはいけないことを認識できるようになる。もちろんそのプロセスは反復のプロセスでもあり何度も似たようなことは起きる。その度に狂気に陥りそうになる。でも精神分析が機能していればその反復は少なからず治療者との間にも起きている。だから外側のことではなく今ここのこととして扱える。同じものをお互いの場所から眺め対立したり共有したりする。「そっちからはそう見えるのか」という驚きに素直に驚くことができず「こっちからはこうにしか見えないのだからこうなんだ」と言い張ったりしながら少しずつ別の可能性に開かれていく。このプロセスにおける二人はとても対等で直接的な関係だ。でもこの局面にこそ関係の非対称を持ち込みたくなるのも事実。差異はあるものとせず差異のせいでこうなっているという考えにとらわれてなんとか自分の立ち位置を維持する。それはある意味なけなしの努力でもある。変わることは怖いことだから。などなど。体験してみなければわからないことを言葉にしていくことの意味などない、とは全く思わない。自分の知らない場所の方が知っている場所よりずっと多いなんて当たり前なのだから。「そういう場所があるんだ」と知るところから旅が始まるのと同じ。精神分析状況を両方の立場で体験しているから観光案内としてもそんなに間違ったことは書いていないと思う。でも考えは変わるかもしれないからこういうことも書き続けると思う。もう準備せねば。今日は火曜日。なんとかやりましょう。

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北杜市、シャトレーゼ、環境。

今日は虫も鳥も遠い。PC前にきたのが遅かったからか。ハーブのパウンドケーキをハーブティーと。どちらもとても優しい味。ケーキ職人の友人が暮らす山梨県北杜市で今週末だかいつだか何かのイベントに参加すると大学のときの友人が言っていた。詩とか本のイベントかな。ほかにも知り合いが北杜市のイベントに出ると話していた。みんなが知らずに同じ場所で出会っていたりするのかな、と思いながら聞いていた。北杜市が合併する前、不登校の子どもたちと廃校になった小学校で長期休みを過ごしていた頃、みんなを連れてシャトレーゼのアイス工場へ行った。工場見学はとても楽しくてみんな食べ放題のアイスを競い合って持ち帰ろうとしていた。すぐ溶けるってわかってるのに。さっきウェブサイトを見たらこれまでの工場見学はコロナ禍の2020年に休止し、2022年4月に再開中止の発表。その後は有料の体感ツアーという形で見学は再開された様子。食べ放題はないらしい。もう25年以上前のことだがみんなが嬉しそうに楽しそうにそこにいられるような場を作ってくれたことに感謝。今でも話題にするほど楽しい時間だった。

シャトレーゼは私が子どもの頃にできたのだと思う。どういう出会いだったか忘れたけれど小さな衝撃のようなものを受けたのを覚えている。田舎の子供が知っていたアイスとは違うというよりも多分私が驚いたのはその売り方だったような気がする。今はシャトレーゼは素敵なケーキ屋さんのような店舗ももっていてそれを見たときにも驚いた。この変化に対する大きくはないがそれなりに何かを考えさせる驚きをうまく表現することができないが別の文化と出会ったような感じだったのかもしれない。

違う文化といえば、先日、外国からきた訓練分析家資格を持つ精神分析家と話す機会があった。そこでオーストラリア精神分析協会のトレーニングシステムの話を聞いた。精神分析家になるためには訓練を受けなければいけないがその訓練を受けている人たちを候補生candidateと呼ぶ。私もその一人だ。

日本精神分析協会は東京支部、福岡支部の二つがあるのだが、オーストラリア精神分協会にはシドニー支部Sydney Branch 、メルボルン支部Melbourne Branch、アデレード支部Adelaide Branchの3つの支部がある。

そこでは、
the candidates of the three different Branches of the Society meet interstate three times per year to share their clinical and theoretical experiences.

ということでin personで年に3回、州を超えて3支部の候補生が一同に会する機会があるという。精神分析の訓練は組織によって違いがあるとはいえかなりハードだ。そんななかこういう機会が候補生たちに対して設定されているのはとても心強い。

人はそれぞれ少しずつだが大きく異なる文化を持つ。日々、多くの人のこころの動きに細やかに出会っていくためには異なる文化に対する自分のあり方を常に内省し、変化させていく必要がある。そのためにはそういう違いをたくさん体験していくしかない。同じ場所でも別のしかたで立つために訓練を続けている今、環境側の整備も同時に必要だ。いまだcandidateとはいえ普段は教える立場でもある。次世代に向けて何ができるかも自分が訓練でどう変われるかにかかっているのだろう。

シャトレーゼに一緒に行った彼らとも本当にいろんなことがあった。今思えば私たちはそれほど歳が離れていなかった。元気だろうか。私のできなさを笑いからかいそれでも頼ってくれたりもした。感謝。私たちはみんな違うけどみんな似たようなものでもある。大学のときの友達とは会うたび「変わらないねー!」だが彼らからはすごく老けたと言われるだろう。現実、そうなのだ。同じか違うかより変われるかどうか。今日はどんな感じだろう。慌ただしいがなんとかやろう。みなさんもどうぞ良い1週間を。

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言葉。

洗濯機が回る音。いや、洗濯機を回す音?洗濯槽が回る音?洗濯槽も洗濯機の一部だからやっぱり洗濯機が回る音?元に戻ってくるまでのくるりんくるりん。言葉が醸し出す空間をくるりんくるりん。

「でもなんかそういうふうに言いたくないんだよなぁ」「なんで(笑)」言葉を使うというのはそこに含まれる命令に従うことだから?ピクトグラムだってそう。なんでそのマークのある方へ入らなくちゃいけないの?なんで三つしかない丸の色で止まったり進んだりしなくちゃいけないのさ、といって赤信号を渡ったら死んでしまうこともある。それはそれで縛られちゃってる。私は赤信号を突っ切って走ってきた車に轢かれそうになったことがあるが自分が間違ったのかと混乱した。その後、赤信号を突っ切っている車を数回見つけて「そういう場合もある」ということを確認したが。

言葉はずっと遊ばせておくと遊ばなくなってくる。楽しくてはじめた遊びがそのうち捕まるような悪さになっているなんてこともある。精神分析は言葉遊びというよりは言葉が遊ぶ生き生きした感じが好きなのであって患者のそれを大切にしたい治療法なのだと私は思っている。そしてその遊びは抑圧という心の動きを細かに想定してこそ成立する。抑圧されたものに気づくプロセスには痛みが伴う。自分ひとりの言葉がそうではなくなるから。押さえつけられているように感じるから。好きに話させてもらえない。ごまかしていては伝わらない。小さい子が叱られたときに大きな声で言ってはいけない言葉を何度も何度も繰り返して親の言葉を遮る。あれは悲痛な叫びだ。言葉で縛るのはやめてよ、と。自分は自分を大切に閉じ込めていたいんだ、という言葉が相手に通じるとわかると少し相手が自分に入ってくる。そして長い時間をかけて他人がいても言葉が遊ぶようになってくる。むしろ他人がいたほうが言葉が自由と感じたり。抑圧は治療者の言葉(非言語を含む)が患者の心を、という流れだけではなく患者の言葉(非言語を含む)が治療者の心を、という流れもある。陣初期のコンピューターで陣取りゲームをやったことがある。あんなシンプルではないがいつの間にか自分の陣地が減っているような感覚、それを取り戻そうという動き、いろんなことが二人の間に生じる。「コミュニケーションが成立しない」と言って切り捨てるのは簡単そうで簡単ではないから何度もそう思いながらずっと一緒にいたりもする。争いも消えないが仲直りの機会も残り続ける。コミュニケーションをしたいかどうかは重要だが。

たくさん言葉を聞いてたくさん言葉を使った後にひとりになる。別の音が聞こえてくる。別の言葉が生まれてくる。昔やった言葉のひとりあそび。最近は遊ばなくなった言葉と短時間戯れるように過ごす。言葉を使うことはとても疲れる。別のものに気づく余裕をなくすこともある。精神分析は毎日のように会うけど会わない時間の方がずっと多い。そのことがいかに重要か。音楽も聴き続けない。邪魔が入る。電源を落とす。それを聞いていないときに聞こえてくる音にノル。今日も一日。

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「地続き」にしない

お湯を沸かして残りのカポナータを温めてゴミ捨てにいった。涼しい。昨晩はタオルケットでは寒いくらいだった。雨は上がっていたが湿気がすごい。鈴虫。通りにはまだ誰もいなかったが家の中で人々が起きているような気配があった。今日は隣の家の窓が開いていない。土曜日だから少しゆっくりなのだろうか。ゴミ箱はすでに結構いっぱいだった。開け放したままの玄関に戻って昨日面倒で捨てなかった除湿器の水を捨てた。いっぱいになっていない。しょっちゅうかけていたからか。でも表示は湿度76%。この数字の方が溜まった水の量よりリアルなはずもないが体感はこっちに近い。空気はどれだけ水を閉じこめておけるのだろう。溢れてこぼれ落ちたものが雨か。メタファーとしても涙と近い。再び除湿器をONにした。「ワイド」「4時間」、あといくつか設定があったが変えるのはタイマーくらいだから忘れてしまった。

なにもする気がするせずただ眠れなかったというだけの寝不足をなんとか取り戻した。元々睡眠時間は長くない。どこでも眠れるからだろうか。昔は電車のドアの隅っこに立ったままガクンってなることも多かった。見かねて席を譲ってくれた人もいた。年上の人だった。「ベッドで寝なさい」と言ってもらえるのは子どもだけか。大人になってもそういう部分は子どものときのままという人もいるか。そうやって親と子供みたいなパターンになっていくこともあるのかもしれない。自分の性質の強い部分を強化する相手は対象として選択されやすいだろうから。

先日、音楽評論家の方にこのブログを引用されてびっくりしてしまった。閲覧数が平均より増えるとなのかなんなのかわからないのだけど通知がくるのだ。「読まれてます!」という通知はnoteだったか。いろんなところに書き散らしているのでそれぞれの文言を忘れてしまった。引用はその方の記事について書いたからに違いないけどその人のだから、と辿ってきた方々にこんな文章でなんだか申し訳ない気もした。きちんと考えて書くような文章は公にしない文章の方が多い。考えたからといって大した文章が書けるわけでもないが姿勢として。考えるでもなければ溢れてくるとか?というわけでもない。キーボードに手を置いて起きたばかりのことを書き始めると自然に浮かんでくる他愛もないことを書いているだけだから時間切れで突然終えてしまうことも多い。でもその人の記事がとてもよかったということが伝わったのならそれはそれでよかった。そういえば昨日はすごく久しぶりにブログを書かなかったな、と思ったら書いていた。寝ていなかったから時間軸が狂ったのかもしれない。

少し前に『中央公論』2022年10月号掲載の大山顕さんの文章を読んだ。漫画『東東京区区』のかつしかけいたさんが写真の色づけに関して紹介していた。

寝なかったその日にベッドで一瞬見た夢がカラーでも白黒でもなかった気がしたのとインスタで結構見かけるモノクロのポラロイド写真の数枚が重なって思い浮かび、写真の色づけに連想が飛んだ。

大山顕さんは写真家だ。記事はネットで途中まで読めるが私は全文を読みたかったのでKindle Unlimitedで読んだ。「戦前・戦争写真のカラー化は何を見えなくしたのか――色づけが生み出すスペクタクル」という記事である。写真に残された記憶を色付けによって現在の自分たちと「地続き」「身近」にすることについて彼はこう書く。

ー「地続き」「身近」にしないことの重要性があるのではないか。自分に引き寄せて感じたり考えたりすることは、いつでも良いことなのだろうか。遠く隔たったことを、そのままにして考え続けていくことが重要な場合もあるのではないか。そうでなければ、「当事者」が最も「正しく」なってしまう。ー

夢はどちらにでもになりうる。見たのは眠っている自分だけで最初から「正しく」などありようがない。

触感が強く残った一瞬の夢だった。精神分析状況は夢見と覚醒を行き来する場だ。今日はひたすら覚醒している必要がある時間があり言葉を信じて使う必要もある。勝手に自分たちと「地続き」にしない。私はそれを心がける。

窓を開けているとやはり少し寒いくらい。気温の急激な変化に体調を崩す人も多いだろう。どうかお大事に。良い週末を。

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雨。資源。

雨がいろんなところを叩く音が聞こえる。鈴虫も鳴いているけどいつもみたいにきれいに声が響かない。その場所から動けないのかな。それとも動いてそこにやってきたのかな。

「娘は絶対日本から出させる」「力のある女性は日本から出た方がいい」というような言葉をよく耳にするようになった。切迫感のあるメッセージだと思う。頭はいいらしいが幼児的な快楽優先の男性に気持ち悪さを感じながら戦ってきてくれた力ある女性たちの危機感は大きい。互いに甘えあってwin-winの世界にいる男女もたくさんいるがそれは多くの場合部分的な関わりなので、子供がいたり、普通に第三者的な視点を持っている人なら遅かれ早かれ自分と向き合わざるをえなくなる。このままでいいのか、と。いつまでも子供でいられる立場の人は永遠少女とか少年でいることに満足を見出す余裕もあるかもしれないからそれはそれ。でも永遠少女やお勉強はできて自分のダメさもふざけながら上手に自己開示できている男性に「ほんとそういうところが・・」なんて真顔で言おうものなら引きつった笑いか小さな舌打ちとともに不機嫌になって急に相手を見下した態度をとる人は多いわけで、戦う女性たちはそのあまりに薄っぺらい正体に怒りを通り越してヤバさを感じるのだろう。コミュニケーションが成立しないという判断のもと「こんなところにはいてはダメだ」あるいは「いさせてはダメだ」と。たしかに。「いさせてはダメ」というのは実際に守るべき相手に対して思うことでもあるし、自分の尊厳なるものに対してもだろう。一方、尊厳は守りたいが、たいして力のない私はここにいるしかない、というか与えられた場所でどんな工夫ができるかを考えることをまずするかもしれない。怒りに打ち震えたり吐き気と涙でぐちゃぐちゃになったり、何も手につかずここから動けないという状態になってもそういう自分をぼんやり観察する。そういう時はぼんやりか極端かのどっちかにならざるをえないから眠れないときみたいな少し変になった頭と身体で観察を続ける。狂った世界ではこちらも少なからず狂うこともを許容しないと知らないうちに迎合して本当に心が死にそうな気がする。だからぎりぎりのところに留まる。自分の資源があまりない場合は相当な切迫感がないと行動の判断って難しいけど心が壊れてしまうと死を行動と勘違いしてしまうこともあるから本当に危険。なのでひとりではなく専門家か、普通に思いやりのある人と。彼らが変わることは偶然何か起きないかぎり多分期待できない。自分が変わることも一人では多分相当難しい。だからまるで知らない人(繰り返すけど専門家か、普通に思いやりのある人、あと常識のある人)に相談してみるのもいいと思う。相手や世界に対するあれこれを吐き出しつつそこで反復される自分の心のありように目を向けてみる。それはときとしてこの国から離れたくなるくらい気持ち悪かったその人たちよりもずっと不快なものとの出会いになるかもしれない。でも他人のものより自分のものの方が取り扱いは安全にできる。ときに自分を傷つけたり誰かを傷つけたくなることもあるだろうけどどうにかして持ち堪える力も同時に芽生えていく。そういう心の変容って本当にあるから自分にはそんな力ないし、と本当はすごく気持ち悪いのに気持ちよくしてあげなくて大丈夫、と言いたい。そしてそんなこと言わなくてもいい日がくると願いたい。今はとても無理だけど。なんとか生き延びよう。そうだ、前の職場の人とごはん食べにいく日程決めなければ(=こういうのもありがたい資源)。

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「サイダーのように言葉が湧き上がる」とか寒立馬の作品とか。

「フライングドッグ」の設立10周年記念作品『サイダーのように言葉が湧き上がる』をNetflixで見た。2020年5月の公開予定がコロナで延期され、2021年7月に公開された映画だそうだ。

俳句をやっている友人が「高校生の俳句は本当に高校生が作ってて大人のは黒瀬珂瀾という人が作ってるんだって。よかったよ」と教えてくれた。二人の高校生が出会うまでのオープニングがとてもカラフル。誰かを想うことで防御一方だった過敏さを超えていく二人と彼らを取り巻く人たちの優しさの描写がシンプル。ところどころスマホに打ち込まれる俳句が意外なほどパワフル。

よい映画だった。

台風が近づいているのか。移動に支障が出たら嫌だがなにより被害が出なければよいが。

映像作家の小田香さんという人が、青森県の下北半島で寒立馬を題材に監督作品を作っているという。「かんだちめ」と読む。朝日新聞デジタルの記事で読んだ。小田香さんは大島渚賞の第1回受賞者とのこと。坂本龍一が強く推したそうだ。8月初旬に巡ったばかりの下北半島、下北半島に住むガイドさんがこれまで扇風機しか使ったことがないのに今年はエアコンを導入せざるをえなかったというこの夏の炎天下、のんびりとたくさん歩きながらいろんなことを感じた。この作品はぜひ見たい。その記事に小田香監督が寒立馬を撮影する写真が載っていたがちょうど私たちが行った頃のだった。すぐそばに津軽海峡と太平洋が広がり、それを分ける位置に真っ白な尻屋崎灯台が立つ。国の重要文化財であり日本の灯台50選に選ばれているとのこと。

さて、記事には

「放牧中の寒立馬はかつて、身近で見ることができたが、人が馬に蹴られたり突かれたりするトラブルが相次ぎ、柵越しにしか見られなくなった。」

と書いてあるが、どうやらペットを連れた人とのトラブルもあったらしい、と現地で聞いた。動物と人間の関係は難しい。

そういえばこれは先日ここで文句めいたことを書いた青森県立美術館のプロジェクトの一環だそうだ。素晴らしい活動だと思う。

忘れないようにここにメモしてしまうけどそれが小さなアザであろうと小さな裂き傷であろうと心踏み躙られる体験と重なればその傷自体が消えても痛みは消えることはない。ただ変化はする。単純に薄くなるとか、いずれ消えていく、とかではなく、景色でも人でも外とのなんらかとの関わりにおいて心がふと軽くなったりほっこりすることがある。逆に急に吐き気を催したり突然涙が止まらなくなることもある。そうなることはわかっていてもそうなるときはそうなってからでないとわからない。「またか」と思うのはそうなってからだ。そのときに思い出せるのが心を支えるなにかの方であることをいつも願う。その「なにか」が直接的な関わりだけではなく外からふとやってくるものであることも確認したい。

さてさて、今日はどんな1日になることやら。なんとかはじめましょうか。

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博物館とか美術館とか。

紅茶とフロランタンと粉砂糖のかかった丸いホロホロしたクッキー。名前を忘れてしまった。昨日、緑道を歩いていたらアゲハがフワフワよりも速いスピードで横切っていった。名前のわからない葉っぱのそばをこれまた結構なスピードで舞い降りたり浮かび上がったりしていた。花はないのに何を探してるんだろう。私は少しずつ近づきなかなか写真に収まってくれないアゲハを何回も撮った。きれいに写せたのも数枚あった。アオスジアゲハ。少し光沢のある水色の小さな四角が帯状の模様を作っていてとてもきれい。我が家の小さな花壇の山椒は最初はアゲハの幼虫に食われてばかりだったがいまや時々切り落とさなければならないくらい立派な枝を伸ばしている。どこが転機だったのだろう。花壇にアゲハがやってくると「むしろ今は食べ放題ですよ、ぜひ食べて」と心の中で伝える。料理で使う山椒の葉なんてほんと数枚だから。箱根登山鉄道 「入生田」駅からすぐのところに神奈川県立生命の星・地球博物館がある。以前ここで見た蝶の標本が素晴らしかった気がする。蝶のすごい標本というのは全国回っている間にいくつか見た気がするが多分私がこういうときに思い浮かべているのはこの博物館のだ。河口湖でもそういう展示があったかもしれない。とても心に残っている博物館なのでまた行きたい。今ならもっと違う楽しみ方もできそう。当時よりきちんと観察する力が身についたと思うから。いろんなところへいっていろんな人と話していると「ほらここ」と言われ何かをきちんと見る機会が多い。自分では気づかなかった部分に目を向けさせてもらえる体験はその後の自分の目の力になる、思い出と共に。

思い出といえば青森県立美術館はとてもまわりにくかった。最初から館内が複雑でまわりにくいと言われていちいち案内されるのだが、この案内のせいでまわりにくかった。美術館の設計がどうであれ私は一度入ったら自由にまわりたい。次はあっち今度はこっちあれれどこ行くんですかこれはこっちいやいやお手洗いへあああちらへあれれこちらはご覧になりましたか今お手洗いへ行ってきてはいはいそうですかこっちはご覧になりましたかはいさっきあそうですかなど今やっている「生誕120年 棟方志功 メイイキング・オブ・ムナカタ」は十分に楽しみつつも疲れてしまった。あまりの声の指示の多さに途中からはイライラもしてしまった。どうして簡単な地図と矢印とか視覚情報ではいけないのか。点字だってあっただろうか。美術館では視覚優位になっているので聴覚情報とバランスが悪いと疲れるのだろう、と今思った。余裕があるとこういうことも考えられるがあのときは疲れきった。そのあとに奈良美智の「あおもり犬」へ向かおうとしたらここからだとすぐそこなのにそこのドアは配慮の必要な人用だから、と一度外へ出て階段を登って、と疲労とイライラに少し拍車がかかった。こちらがこれだけ動きにくいとなると障害のある人とか妊婦さんとかにも全然使いにくいのではないか。人の声での指示はできるだけ少ない動線づくりというのが重要なのでは、と保育園でいうようなことを思いながら歩く。いた。あおもり犬。でかいのはわかっていたがかわいい。このおかげで元気を取り戻したがいやはや、自由度大事。

それにしてにも以前青森にきたときに三内丸山遺跡はいったのに青森県立美術館にはいった覚えがない。時間はあったと思うのだけど。すぐそばだし。まあ一度は行けてよかった。八戸市美術館は真逆でとてもオープンな空間で作家との距離も近くその時やっていた展示も非常に印象的だった。また行きたい。八戸ブックセンターでは行政の人とたくさんお話できたし楽しかったな。

しまった、もうこんな時間。いかねば。どうぞ良い1日を。

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精神分析

林芙美子「漣波」、リモコン、寿命

遅い時間のごはんが消化されない。アタリマエジャ。ソリャソウダ。ごはんを食べたあとまた林芙美子『トランク 林芙美子大陸小説集』(中公文庫)をパラパラした。やっぱり面白い。芙美子は4本の連載を書きながら突然死んだ。今回の文庫にはその中のひとつ「漣波ーある女の手記」が収められている。1951年、芙美子が死んだ年に中央公論社から「漣波ー或る女の手記,女家族,菊尾花(新方丈記)」を収めた『漣波』が出ておりそのあとがきを書いたのは川端康成だった。今回の文庫『トランク』にはそれが付録として収録されている。「漣波ーある女の手記」は手記なので一人称で書かれており「三十歳を越えた私は、十七歳の、あの時から、まるで一呼吸(ひといき)で現在になったような気がしてなりません。」と十七歳のときに女中としてパリで体験した出来事がとても無垢ぶった様子で書かれていて大層面白い。気持ちが昂ったり急に冷めたりうっとりしたり意地悪な気持ちになったり男性との関係で経験する体温の変化を十七歳ならではの無邪気さでなんとなく大袈裟に描写しているのがとてもかわいい。最後に(絶筆)とあるのでこれが未完であるとわかるが書かれなければこの余韻のまま何も気づかないかもしれない。

今朝はすでに暑い。エアコンをつけた。西の窓の左後ろの方でカラスが一声鳴いたあと少し早いリズムで何度か鳴いた。

昨日、とうとうエアコンのリモコン(なんでも「コン」だな)に何も表示されなくなりついに運転を切ることができなくなった。電池を変えよう変えようと思っていたのだが小さなリモコンの動かせる部分を全て(と言ってもスムーズに動くのは1箇所のみだが)動かしても電池を入れる場所がわからず変えていなかった。でも今回ばかりはまずい。消さないで出かけられない。こんなときこそインターネット(久しぶりにきちんと言った)。「ナショナル」と品番を入れて検索。「ナショナル」は2008年にブランド名として廃止されたが私がここに住んで15年くらいだからナショナル最後の世代のエアコンということになるか。やはり世界をつなぐインターネット。同じように困る人はやはりいるらしくすぐに動画が見つかった。なんてことはない。私が何度も滑らせていたカバーの下の方をねじるようにして力を入れて開ければよいだけだった。おかげで「運転 切/入」を押したらピッと消えてくれて出かけることができた。消したら急に鈴虫の声が聞こえ始めた。そういえば冷房をつける前もすごく鳴いていた。同じ鈴虫だろうか。ずっとそこにいたの?私ここにきて15年くらいなんだけどみんなは?検索。鈴虫は卵が孵化してから約4ヶ月、成虫の寿命は約1、2ヶ月しかないそう。「人の手で大切に育てたとしても冬は越せないため、」と読んで悲しくなっていたら「次の年も飼育を楽しむには産卵・繁殖させる必要があります。」と続いていた。Oh…。

今日やるべき事務作業や翻訳作業の資料はひとつのファイルに入れた。分けるとあっという間にどこかへ分散してしまうことがわかったから(何回もやってるけど)「2006世界バスケ日本開催!」と大きく書いてあるファイルに入れた。どこかでもらったのだろう。中学時代バスケ部だった私は一時バスケ観戦もよくしていたから。今回の「FIBAワールドカップ2023」は日本すごかった。前回日本で開催したのが2006年だからこのファイルもこの家にきた頃のものか。ものは大雑把な時計代わり。私は物持ちが良すぎるから時計としてはどんどん大雑把な機能しか果たせなっていくものたちだけどそれぞれの寿命をなんとか生きましょうかね。

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精神分析

お菓子、クリップ

キッチンの窓を開けたら珍しく鳩の声が一番最初に聞こえた。今は西の窓の向こうで鈴虫が鳴いている。あ,鳴かなくなった。鳥たちがガヤガヤとなにか言っている。どんなことがやりとりされているのだろう。やりとりとは限らないか。人間には思いもよらない何かがたくさんあるのだろう。

今朝は友人の手作りフロランタン。吉祥寺の小さなお店を閉じてから何年経つのだろう。オンラインにお店を出すわけでもなく、季節ごとにケーキと焼き菓子セットを届けてくれる形式。山梨県北杜市から。その人のこだわりにきちんと答えてくれる土地なのだろう。引っ越してからもうだいぶ経つ。小さな段ボール箱を開けるといつもの小さな紙にその人の書いた字が見えた。栗の実のことも書いてあった。「竹のクリップはプレゼントです」とある。箱の中をみるとクシャッとされた薄ピンクの硬めの紙に守られたいつもの蝋引き袋がある。蝋引き袋というのを私はそれまで知らなかった。おしゃれで機能的。袋はいつもはない細長い竹のピンで留められていた。そっと外す。口はとても小さく挟む力はほとんどない。端っこを押して開く仕組みでもない。挟むというより留めたいものをそっと差し込むようにする。いざ挟むと結構しっかりしている。ゼムクリップよりもずっと繊細にみえるけど竹は強い。ケーキの紹介文が書いてある和紙のような紙を差し込んでその確かさを頼もしく思った。その人みたい。竹のクリップは竹細工職人さんに作っていただいたとのこと。嬉しい。フロランタン、とっても美味しかった。少しずつ大切にいただこう。

今日はいつもの仕事の前にあれこれやっておかねばならないことがたくさん。困った。いつも困っている。とりあえずやろう。夜中より雨の音が弱まっていると思うのだけど今日は一日雨なのだろうか。雨は大事。いい音。どうか静かに降ってくれますように。自然に対しては願うばかり。

月曜日、なんとかはじめよう。

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精神分析

おばあちゃん

「うん?三日」と思う。昨日は「うん?二日?」と思った。一昨日は「(略)」と思ったがいよいよ〆切日だ。毎月毎月誰も見ていないのに声も出さずこんなことを繰り返している。「ちっ、暦なんかあるから、グレゴリウスめっ」とか思っても〆切は遠ざからない。というか暦って多分ないと困る。毎月毎月ほぼ同じように数字で区切ってもらえるからかろうじて〆切だって思い出せるわけだ。これが1ヶ月40日とかだとちょっと感覚狂うかもしれない。40人学級より30人学級の方が運営はうまくいくはずだ。何月が31日まであるんだっけ、と小学生のとき、友達が指で確認していてめっぽうかっこよかった。私も真似したが山と谷、どっちが30日でどっちが31日かを忘れてしまったりそもそも最初の手の形が違ったりする。しかもチョンチョンって2回やって折り返さなければならない。難易度が高い。なので結局「8月は31日まで」というのを基準にあとは大体変わりばんこと覚えていた。私の誕生日を祖母は死ぬまで「8月31日」と思っていて毎年「亜美ちゃん、8月31日、お誕生日おめでとう」とお手紙とお小遣いをくれた。おばあちゃん、私の誕生日は30日だよ、といつもほっこりした。

そうそう、おばあちゃん、と祖母に向けてお話したくなるがBack to realityの声が聞こえる

そうそう、おばあちゃん、昨日ね、友達がとっても美味しいお店に連れていってくれたの。前菜がシャインマスカットといちじくと生ハムだったの。すごいでしょ。最高でしょ。夏に青森に行ったんだけどね、その話とかしながらなんとなく群馬の話も出たの。そしたらシェフが「生ハムは群馬のですよ」って。そー、びっくりでしょ。向いてるんだって、群馬、生ハムに。あのからっ風が。あの冷たい乾燥した風が生ハムの熟成にいいんだって。前髪は凍るし肌は粉吹いちゃうしいいことなんてないと思ってたのにね。「からっ風、いいとこあるじゃん」って思わずいっちゃったよ。

あ、天の声を無視してしまった。Back to reality.あなたは9月は本当にまずいよ。がんばりなさい。あぁ、おばあちゃん、私こんな歳になったけどまだこんななんだけどなんとかやってるよ。おばあちゃんは元気かな。なんで死んだ人にそう思っちゃうんだろ。私の記憶の中で彼らがみんな元気でいてくれたらいいなと思うからかな。また話そう。今日も元気でね。

おばあちゃんといえば

Woman’s Best 13 韓国女性文学シリーズ10​『私のおばあちゃんへ』나의 할머니에게

ユン・ソンヒ、ペク・スリン、カン・ファギル、ソン・ボミ、チェ・ウンミ、ソン・ウォンピョン 著​ / 橋本智保 訳

はとてもよかった。

私も着々とおばあちゃんに向かっている。戦争を知っている祖父母は長生きした。その時代に生きるってどんな感じだったんだろう。うん。やっぱりまた話そう。なんらかの形で。岸政彦さんたちの本とか生活史の本もたくさん出てきた。私も聞こう、話を。

みなさんもどうぞお元気で。

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精神分析

『デオナール アジア最大最古のごみ山 くず拾いたちの愛と哀しみの物語』(柏書房)を読みはじめた。

よく寝たと思ったけどそんなに時間は経っていなかった。

人の身体を傷つけて心を踏みにじった人がしんどいしんどい言いながら嘘ついたままやりたいことやって偉そうに人間ってこういうものみたいにいっていると唖然とする。嘘、しない。そういう人だから。「知性」も自分の暴力的な関わりをなかったことにして突き進むために利用するならそんなのなかったほうがよかったのでは、と思うけど、そんなこと知らない人には大層役に立っていたりもするのだから大きなお世話だろう。見えないところでなされる暴力が裁かれることは少ない。自分の快楽に忠実な人が起こす様々な事件も事件にならなければなんにも問われない。事件になっても関わっていなければ心壊されることもない。そんな安全がほしい?ほしいだろう。それが人間。なのか?疲れる。胃が痛い。

昨日は金曜日の仕事をしていたのにどこかで土曜日だと思って病院に行きそびれた。朝の予定を間違えたからだろう。不注意な人間にはよくあることだ。辻褄を合わせようとするから。一度間違って「あれ?」と思う。特にトラブルにならなければすぐに忘れる。でもどこかで最初間違えたときのモードが残っている。それがどこかに出てしまう。気をつけててもそういうことは起きる。完全に忘れるのも問題だがそれこそ不可能なことだ。困った。胃が痛い。

『デオナール アジア最大最古のごみ山 くず拾いたちの愛と哀しみの物語』ソーミャ ロイ 著/山田 美明 訳(柏書房)を読みはじめた。発売前、柏書房のnoteに公開されていた冒頭を読んだときにすでに言葉を失った。巨大なごみ山に捨てられた大きなガラスびん。そこに詰め込まれた臍の緒がつながったままの三つ子の赤ん坊。それをそっと抱きかかえ埋葬したのはそんなごみ山に暮らす子どもたちだった。これはノンフィクションである。ムンバイを拠点とするジャーナリスト、ソーミャ・ロイが2013年に出会ったゴミの山、デオテールごみ集積所を8年以上にわたり調査、インタビューをしてきた記録だ。物語はデオテールごみ集積所でくず拾いをしながら暮らすコミュニティ、特に大人になる一歩手前、18歳になろうとするファルザーナー・アリ・シェイクを中心に進む。

また読み耽ってしまった。今日も無事に過ごそう。

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音楽

柳樂光隆のnoteを読んだ。

穏やかな朝。鳥たちは元気だろうか。蝉や鈴虫の音に気を取られていた。もちろん毎日姿をみているのは鳥が一番多いのだけど耳が拾うのが。

柳樂光隆のnote更新のメールがきた。先日、Rolling Stoneに公開されたジャズハープのブランディー・ヤンガーへのインタビュー記事がとてもよくてnote 「review is a diary」に課金した。オンラインの記事に課金することはほとんどないのだが哲学者の千葉雅也、ノンフィクション作家の高橋ユキの文章にはしている。それぞれリサーチもすごいし対象に対して真摯、誠実な書き方はお金を払ってでもというよりお金を払って読んで大切にしていきたい。

今回の柳樂光隆のnoteは「about SF JAZZ COLLECTIVE:21世紀LAジャズの拠点(6,800字)」。

“「SFジャズ」はアメリカでのジャズの普及と発展に貢献してきた団体で、コンサートの企画から、LAの子供から大人、プロを目指す若者からジャズに興味を持ち始めたリスナーまで、様々な人たちに向けてジャズに触れる機会とジャズを学べる環境を提供してきた。それらの多くは前述のSFジャズ・センターで行われている。”

ということなのだがその活動がすごい。ときめく。6800文字ぎっしりその魅力でいっぱいなのだが引用されているたくさんの音源も素晴らしい。こんなふうに書ける柳樂光隆も教育者として優れているのだろう。ジャズを学ぶことはアメリカの歴史や社会状況やそれが生まれた土地について学ぶことでもある。だからこそ適切でエキサイティングな教科書が必要だしそれを実践で見せてくれる先達が必要だ。ああ、なんて羨ましい!と思うがこの記事から学んだそのエッセンスを自分の仕事に活かすことならできなくはない。毎日慌ただしくて読んだり書いたりする時間がないが音源がたくさんあるとそれを聞きながら移動したりもできるから本当にありがたい。

今日も無事に夜を迎えらえるように陽射しの中へ出かけよう。子どもたちも夏休みが終わってしまったね。早く学校に行きたかった子もまだまだどこにも出かけたくない子もみんなみんなとりあえず無事に一日をすごせますように。

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精神分析

心の作用

今日もいいお天気らしい。暑くなりそうなのだけどもう「暑」という字は使いたくない。暦のほうに寄せているわけでもないけど最近は朝は冷たい麦茶と温かい紅茶を両方いれる。そして最初に飲むのは温かい方。身体的には起きたらまず冷たい水を一杯、とかいうから冷たい麦茶の方が喜ぼれるのかもしれないが私の身体はもう秋仕様らしい。それにこれまでだって「身体にいい」生活にこだわってきてもいない。大体いろんなお菓子に喜ぶ日々をやめるなんてできない。いつまでも喜べる身体でいられるために健康に気をつけるんだよ、と言われたとしてもそこまで身体に悪いことしているわけでもない。弱い胃腸を信じられるところまで信じたい。

自傷行為は自分の身体へのチャレンジだと思う。自分は自分にどこまで耐えうるか確かめるための。嗜癖という苦痛な快が和らげてくれる瞬間を少しでも引き伸ばしながらなんとか生きようとする心の作用。

誰にもいえない状況で傷つけられた体験を声にしようとするとき、そこには大きな痛みと恐れが伴う。「また傷つくだけだよ」「だったら言わなければいいじゃない」と制止がかかる。「それだって自傷行為みたいなもんなんだからやめなよ」と。そうだろうか。自傷の日々から逃れたくて、他害の恐れからできるだけ遠くにいきたくて自分のこころを守ろうとする行為が?立場を利用して人の性を軽く、乱暴に扱う人に対してもの言いつづけることが?もっと痛い想いするのだから、あるいはもっと絶望が深まるのだから、と制止してくる声は平然と嘘をつきながら人を傷つけた歴史を黒歴史としてヘラヘラと処理するような、あるいは記録がない、証拠がない、と言い続ける加害者に寄り添う声なのだろう。

みみをすます。自分の。他人の。他人から向けられた自分への。痛みと生きることのいたしかたなさを簡単に「しかたない」と言わないために、粘り強くそこにいつづけるためになんらかの工夫を。

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精神分析

ブルース・フィンク『精神分析技法の基礎』をパラパラするなど。

ベランダにハンガーにかけたバスタオルなどを干した。いいお天気。部屋に入ったらベランダの風はついてきてくれなかった。なんでなんだろう。外だと気持ちよく感じた風は確かに「吹いている」のに。窓は開けたままなのに。

それにしても疲れた。多分、夏に。あと難しい本に。

ブルース・フィンクの『精神分析技法の基礎 ラカン派臨床の実際』を再読した。これは難しくはない。が、パッとしない。電話分析の可能性についての章はカウチでの自由連想を頻度よりも強調するフランスでは特にオリジナリティが高いのだろう。「電話分析に特有の難点」が詳細に書いてあるのもいい。そしてフィンクは高頻度であることを重要であると考えているというか、ラカン派は変動時間セッションを行なったりするので時間に対する感覚は独特なのでその辺の考察はもっとほしい。この本には変動時間セッションを行う分析家が電話分析を行う際の具体的な手続きも書いてある。フィンクくらいになれば直接会いにいける距離にいないがフィンクによるラカン派のセッションを受けたいという患者は多いのだろうからその経験が蓄積されているのだろう。やはり本人が多く体験している臨床事例から書かれたものは思弁的でなくこちらの思考も促される。ラカン理論が臨床としっかり接続していくためにはラカン派ではない私たち実践家もラカンを読んでいく必要がある。フロイトと同時に。現在のフランス精神分析の中心はラカン派でいう「精神病」事例についての議論が盛んだと聞いた。日本の精神分析の遅れも指摘されたが臨床ありきであることを考えればフランスほど精神分析が根付いていないこの国とフランスではまるで異なることが生じるのは当然といえば当然であって遅れているわけでもなかろう。フロイトやラカンへの回帰に基づく理論の更新という点ではその議論が当たり前に盛んなフランスとは比べ物にならないかもしれない。フィンクもこの本に書かれた議論を読むことでラカンを読むインスピレーションを与えたいようだ。たしかにラカン派の本を読むとラカンとフロイト読まねば、となるいい循環は確実にある。

今朝は出雲土産のバウムクーヘンを食べた。昨晩は熱海土産のお饅頭を食べた。お菓子がますます美味しい季節はもう少し後。どちらもとても美味しいけどもっと涼しかったらあっついお茶や紅茶ともっと楽しめそう。秋よ、深まれー。

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精神分析

色々、境界、尻屋崎

南側の窓をドーンっとならないようにスーッと開け、リビングの大きな窓も同じように慎重にスーッと開け、パタパタ家事をしてから思い出したように東側の窓を開けた。ここの窓はそんなに慎重にならなくても大丈夫。西側はブラインドの向こう。見える空の色が全部違う。きっと土色の空とか月色の空とかもあるのだろう。星色の空は難しそう。どうしても太陽の影響を受けそうだから。海の色だってほんとうに色々で驚く。八月初旬に行った青森県下北半島を囲む海も様々だった。青にもいろんな青があり時間や波の様子でも全く変わる。

本州最北東端の尻屋崎はその先端に尻屋埼灯台がたち、津軽海峡と太平洋の境界地点となっている。灯台は真っ白で美しく、レンガ作りの灯台としては日本一の高さだそうで上ることもできるそうだが今回はちょうど閉館時間を過ぎたところだった。この上からみたらどこまでも続く海とそこにもある境界とそれが見えないことをますます実感しただろう。上らずとも右側に振り向けば草原の寒立馬たちがゆったりと草をはみ、海岸には家族たちが岩場に遊び、西側にはもう少しで沈みそうな夕日とお墓。え、お墓?とバスの出発の時間が近づいていたが少し早足で近づいてみた。遠くから見たよりも近く間に合いそうだったのでもっと近くへ早足で行ってみた。岩場の先には第二進徳丸殉難者の碑が立っており、そのそばにお地蔵さんもいた。この津軽海峡は海難事故が多発する難所だったという。手を合わせてもう一度海をぐるっと見渡しバスへ急いだ。

寒立馬は以前は囲いもなく放牧されていたそうだがペットを連れた観光客となんらかのトラブルがあり柵が設置されたそうだ。宮崎県の都井岬みたいだったのかな、と少し残念だったが激減しているという寒立馬の保護は大切だ。もうそれほど小さくはないが子馬らしき馬が母親らしき馬の首元にひたすら鼻を擦りつけるようにしてやがて乳を吸うようにおなかの方に首をもぐりこませていた。その横でのんびりと佇んでいた馬が突然ドボドボとホースのような尿を放出した。コロナでなくなってしまった日曜日の句会で「尿をにょうと言った人がいたけどしとと読みます」と先生に言われた。「にょう」と読んでしまったのは私で少し恥ずかしかったけどすっかり覚えた。芭蕉が宮城で読んだ句、

蚤虱馬の尿する枕もと 芭蕉

も馬の尿の音のインパクトをよんでいる。

それにしてもこの夏はものすごく日焼けした。炎天下をあれだけ歩けばそりゃそうかという感じだが左腕だけはっきりとTシャツ焼けをしている。最初なんの線かと思ってしまった。身体にも色で境界ができる。境界なんて曖昧なものを無理やり消すことも自ら作り出すこともしたくない。いろんなものはグラデーション。スペクトラムという言葉はなんだか使われすぎな気がする。いろんなものいろんな人、今日も色々色々だ。

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精神分析

江ノ島へ

横になったまま足にあたる窓からの風を確かめていた。いつもより冷たい風が足に触れながら通り過ぎていく。秋だ。

リビングの窓を開ける。昨晩突然焚いたお香の香りが残っている。これは昔誰かにもらった外国のお香。大きな象が描かれた派手でかわいいパッケージ。いや大きな象かどうかはわからないか。今朝も適当に出しっぱなしにしていた日本の短いお香に火をつけてみた。実家からもらってきたのがたくさんある。ヨガを教えてくれた友達の家に遊びにいったときお香が当たり前のように焚かれていた。引っ越したあとのおうちでも。今は京都にいるその人と京都の自宅そばで会ったときもその人が選んでくれたお店はお香が焚かれていた。二人目の子がまだ赤ちゃんだったか、まだおなかの中だったか忘れてしまったが上の子が誰が何を言っても「チンチン!」とゲラゲラ笑いながら答えるばかりの時期だった。まあそれでもコミュニケーションは何の問題もなく成立していたのだからそれでもいいのかもしれない。いや、よくないか。

週末は精神分析のことしか考えていなかったが江の島にいる人から突然「あみさんもくる?」とメッセージが届いた。なんとなく「いく」と返事してからほんとにいくのかよと思ったが夏の終わりに何か特別なことがあってもいいなと思った。突然の誘いに乗ってそれなりに時間のかかる場所へ行くというのは特別だ。藤沢まで通勤していたのだからすっごく遠いわけではないが当時は仕事があればどこにでもいっていた時期だ。Psychoanalytisches Institut BaselのGerald Personnier先生のセミナーに出たあとフランス語と日本語の区別もつかない(つまりどちらも聞き取れていない)ぼんやりした頭で電車に乗った。乗り換えはしたがずっと座れたので楽ちんだった。Personnier先生は日本にも詳しくて日本語も少しお話になる先生でとても親しみやすくかなり自由にいろんな話ができた。時折先生方がフランス語で盛り上がってしまって完全に置いていかれていたが色々話しているうちにフランス語も聞き取れるような感触になっていた。単に頭が疲れていて知っている単語を拾っていただけなのだが。Personnier先生が谷崎潤一郎の名前を出した。『陰翳礼讃』という言葉を拾ったので(日本語だけど)車内で読んだ。江の島では江の島灯篭というイベントが開催されていた。『陰翳礼讃』じゃん、と思ったのはあとからだ。例によって車内から海が見えただけでひとり密かに身を乗り出しているうちに江ノ島駅に着いた。諏訪神社のお祭りだったそうで半纏姿の人がたくさんいた。コンビニで鎌倉ビールを買って飲みながら江の島へ向かう。島への通路はこちらに戻ってくる人たちもたくさんいたが向かう人もたくさんいた。日は沈んでいたが空はまだ明るかった。いろんな人がいろんなものを食べたり飲んだり並んだり笑ったり喋ったりしている中を歩きながら神社への階段へ向かった。少しずつ暗くなってきた。入り口の瑞心門に影絵のような大きな龍が現れたり深い緑の木がピンクに染められてまるで花が咲いているようだったり照明での演出がとてもきれいだった。道の両脇には影絵灯籠が並べられ幻想的だった。島の上の方にあるサムエル・コッキング苑に着く頃にはもうだいぶ暗くなってきて南国の木々の間をゆっくり歩いた。音楽が聞こえる方へ行くと小さなステージがありひとりでいくつもの楽器を使う人が奏でる音楽の中、たくさんの人がくつろいでいて子どもたちはトランポリンで跳ね続けていた。展望台シーキャンドルに数回エレベーターの順番待ちをして上った。どんどん空は暗くなっていき月がとてもきれいだった。雲に隠れてもこんなに海を照らすものなのか、と感動した。いい夜だった。子どもたちの夏休みももうすぐ終わる。いつまでもトランポリンで跳ね続ける感覚を心に蘇らせながら私は彼らを眺めていた。

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精神分析

新宿メトロ食堂街、千葉雅也『ツイッター哲学」とか保存保管について。

変な時間に寝たり起きたりしてしまった。一度起きたときに暑かったからリビングに置いてあった扇風機を持ってきてつけた。一番弱い風で首振りの設定にしていたのに、起きたらなんだか喉が痛い。やばい!と喉を温めるためにというか昨日作っておいたからカポナータを温め直して食べる。墨絵の美味しいパンと一緒に。墨絵は今はない新宿の地下街にあった。墨絵自体は店舗を増やしている。なくなったのは新宿メトロ食堂街という地下街だ。追分だんご本舗でよくお土産を買って丸の内線に乗ったりした。そのうちその地下街自体が大好きになってしまっていろんなお店を利用するようになった。墨絵は異彩を放つ高級感で席と席の間隔はとても狭いのにいつも行列ができていた。私も中で数回食事をしたことがあるが利用するのは主にパン屋だった。通りがかりに小さいパンを一つ買って移動しながら食べていた時期もある。今だったらそんなことしないだろう。胃腸が弱いのは今も昔も変わりないが当時はどんなに時間が無くても何かを食べたかったしそういう時間だからこそ食べるものも決まっていた。どこもかしこも変化が激しいが私の移動の中心だった新宿西口は本当に変わった。小田急デパートもハルクだけになり新宿駅全体が枠組み自体を大きく変えようとしている。昨日はオフィスから新宿南口へ向かったらルミネ前の大きな交差点の一角が白い壁に覆われていた。あそこも変わるのか、と信号の反対側からなんとなく写真に収めた。

私は写真部だったわりに保管とか保存をする能力がないらしく、写真でせっかく保存したのにそれをどうやって整理したり保存したらいいのかわからない。わからないというよりはやっていない。SNSで自分が若かった頃の新宿の写真を見つけるといまだにホームなので今はこんな感じだよ、と話しかけたくなるような気分になる。

千葉雅也が2020年に『ツイッター哲学 別のしかたで』(河出文庫)という本を出した(今は文庫化)があれがどれだけ貴重な記録か、と今になって思う。とはいえ千葉雅也はここで哲学をしているのであって記録を提示しているのではない。千葉雅也という哲学者はいつも静かにオリジナリティ溢れるしかたで日常を哲学するしかたを提示してくれる。何度も書いているがいまだ門前とはいえ哲学の世界を私の遊び場にできているのは千葉雅也と國分功一郎のおかげだ。この本についても感想を書くべきだった。写真よりも文章の方が保管がしやすいし。千葉雅也は日本語も美しく情報に対する軽薄さや横柄さもなくとても真摯な書き手だと思う。そういう人がツイッターといういろんなものが渦巻く場所でこういうつぶやきをしていたことが示されるだけでもSNSに対して別のみかたが可能になるだろう。工夫に工夫が重ねられた一冊だ。それにしても「ツイッター」。今もURLがtwitterなのでなんて呼んでもいいのだろうがとりあえずそれは「エックス」に名前を変えた。この本は千葉雅也がカタカナで「ツイッター」と書いているのもいい。

どれもこれも保存保管にまつわるお話。今日は朝からフロイト読書会。これも保存保管にまつわるお話。午後はフランスの精神分析家を交えての勉強会。

みなさんもどうぞよい一日をお過ごしください。

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精神分析

生き物本、料理本、なぞる。

早朝、ベッドから外を見ると空が少しだけピンクがかってとてもきれいだった。今はすでにグレーと水色の間みたいな色でのっぺり。

昨晩、徳間書店から出ている『スタジオジブリの 生き物がいっぱい』をなんとなく見ていた。友達の犬がテトというのだけどもちろんナウシカから。テトは本当にかわいい。友達の犬もすごくかわいかった。おうちに行く時間があった頃はよく会っていたけどまだ元気なのかしら。聞いてみよう。これ巨神兵もラピュタのロボットも紹介されてるけど「生き物がいっぱい」という言い方だとちょっと雰囲気が違う気がするけど生き物ではあるな、たしかに。コダマとかマックロクロスケはやっぱりかわいい。マックロクロスケって「ススワタリ」という名前がついていたのか。知らなかった。ネコバスも生き物だなあ、そういえば。絶妙な生き物がいっぱいだな、ジブリ。

何年かぶりに調味料ポットを買った。何十年ぶり?グッドデザイン賞のかわいいのを見つけてパッキンがしっかり閉まるのを何度も確認して買った。家で一度洗って乾かしてパッキンを閉めてお砂糖とお塩をそれぞれに入れたのだけどなんか密閉されない。おかしい。お店ではきちんと閉まったのに。付け方はあっている。持ち上げたりして色々と確認するが頼りない感じでしか閉まらない。困る。中のすり切り板のせいか、と思って取り外した。閉まる。うーん。すり切り板の付け方もあっていると思うのだけどなあ。売っていたときはこれはセットされた形ではなかったのだっけ。まあいいか、閉まるなら、とすり切り板を外して利用することにする。多分あってもうまく使えないだろうから。

ゆっくり料理する時間はないけど料理本が好き。随分たくさん持っている。東京に出てくるとき『暮しの手帖版 おそうざい中国料理』と中華鍋を親にもらった。私のは平成九年発行。今は装丁が変わったみたい。これ1、2、とか手順の番号がふってあるのとないのがあるのだけど読み物として楽しいし写真もとても綺麗。素揚げするものが多いから不注意ゆえ揚げ物を避けている私が実際にこの通りに作ることはないのだけど置いておくだけでも素敵なever greenな一冊。揚げ油使わないものをここから作ってみようかな。そういえばこの前、本屋を出たらちょうどお昼の時間になるところでビルのレストラン街に1人の人や3、4人のグループが続々と向かうのが見えた。あまりおなかが空いていなかったけど冷やし中華の看板を見つけて今年一回は食べておかねばと入った。ベーシックな色合いのきれいな盛り付け。麺の量が多くなくて助かった。『暮らしの手帖版 おそうざい中国料理』には「冷麺四題」として「蒸しなす」「揚げ魚とかまぼこ」「えびとトリで」「麻醤麺ふう」のレシピが載っている。文字のフォントも可愛い。「えびとトリで」の「で」がいいしこれ作ろうかな。丁寧なレシピの後に「おそばは、ゆでて水洗いしたてに限りますが、具のとり合わせや分量、タレの味つけ薬味、香辛料には、べつにキマリはありません。お好きなように加減して下さい」とかこだわりと適当をうまく混ぜこんだ文章もいい。「あとがき」は「とと姉ちゃん」のモデルの大橋鎭子。この本の料理を引き受けてくれたシェフ(漢字が打ち出せない)と花森安治のエピソードも書いてある。『暮しの手帖』は実家での生活にずっとあった。八月初旬に訪れた八戸ブックセンターではバックナンバーの表紙がズラーっと並べられたスペースがあり興奮した。母に家事を教わったことはない。こういう素敵な本や美味しい料理や慌ただしい子育てをそばで感じながら育った。環境って、教育ってと考えることが多い仕事だ。自分の体験はほとんど当てにならないが思い出として大切ではある。そう素直に思えるようになったということかもしれない。その気候に持ちうる持ち物で知恵と工夫を書かれた通りに真似てみる。なぞる作業。今日も一日。

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精神分析

板かりんとう食べたり高橋ユキさんの記事読んだり。

おしゃれ着洗い用洗剤(商品名以外だとなんて言えばいいのだろう)で洗った服たちを外に干した。一番太陽に近い服が光を纏っている。服も日焼けしちゃいそう。陰干しの方がいいのだろうか。でもこの日差しを無駄にするのもイヤ。出かけるまで我慢して、と服に対して思う。

8月初め、浅虫温泉に泊まってブラブラしていたら久慈良餅店という看板を見つけた。地元のお菓子らしい。惹かれた。ホテルの数軒先に店を見つけた。立派。永井久慈良吉餅店という。あとで寄ろうとホテルに戻り翌日浅虫水族館へ行った。そしたら水族館のショップにも久慈良餅が売っていた。出来立てが運び込まれているようだった。地元の連携はほかのシーンでも目にしたが地方では特別なことではないだろう。いや、地方に限ったことではないだろう。私の住む小さな街の商店街でもその店のパンやコーヒーを同じ街の別の店でいただけたりもする。大切なことだ。久慈良餅の賞味期限は製造日入れて7日間と書いてあった。食べたいけどそれなりに重量のある羊羹のような包みで一人分に切ってあるような包装のものはない。お土産にするにしてもみんなに切り分けてすぐに捌けるような職場はないから7日間だと難しいかなど考えながら水族館の帰り道に永井久慈良餅店へ寄った。線路沿いの小さな道の方にも小さな入口があった。作業着のままお店の人が出てきた。迷った挙句、この後の行程も考え久慈良餅を諦め「板かりんとう」というもうひとつの名物を買った。それを今食べている。危険。かりんとうは止まらない。しかも歯が割れやすい私はまた歯医者さんに呆れられてしまう。でも美味しい。なるべくそっと噛む、といってもそっとじゃ噛めないので力を入れる。おせいべいとかかりんとうとか硬いものが噛む歯があるからこそのお菓子なんだから耐えられるはずというか耐えて。どうしてかりんとうってこんなに美味しいのだろう。「板」って珍しい。

しまった。高橋ユキさんの記事を読みふけてしまった。『現代思想』からの抜粋。

「なにとぞ執行猶予を」被害女性は耳と鼻から出血…再犯のDV男をぬか喜びさせない名物裁判官が放った“衝撃の一言” https://bunshun.jp/articles/-/65086

すごい。事件内容もひどいし裁判官もインパクトあるが高橋さんたち傍聴マニアの人たちの視点がとても興味深い。実際に見ている裁判の数が違うから大抵はこうなるものがそうならないときの見方の細やかさや驚きが半端ない。そしてそれを書くのもうまい。

もう準備しなくては。今日もいろんなことがあるに違いないけどなんとかできるものはなんとかしていきたいものです。どうぞ良い一日を。