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精神分析

島とか出会いとか

毎日暑い暑い以外の記憶がない。二度寝する合間に洗濯はした。そういえば昨日も月がスッキリ輝いていて「きれい!」とみあげた。目線を上げたら「この木はオリーブ?」とオリーブに気づいた。オリーブといえば小豆島だけど小豆島には本当にたくさんのオリーブが植えられている。木の名前を知らなくても「これはオリーブ!これも!」と堂々と言える素敵な島です。小豆島は醤油造りも有名。私が料理に使う二大調味料はオリーブオイルと醤油なのでありがたい島でもありますね。自転車でいろんな道を走った。地区によって雰囲気が違って楽しかったな、小豆島。

長期休みになると2泊か3泊でいろんな土地へ行くのだけど一応日本の有名な都市は回ったので最近は行くなら島かな、ということで最近だと(といってもコロナ以前)しまなみ海道の島々、淡路島とかにいった。この夏は地続きのところへ行くけど色々行きたいな、島。30年くらい前に行った式根島が楽しすぎたせいで島への憧れが作られたのかもしれない。写真部の合宿らしき集団と同じ宿だった。部屋に鍵はなくお刺身は美味しすぎた。式根島はシマアジの養殖で有名だ。私たちは写真部のちょうどよい被写体だったらしく恥ずかしそうに許可を取りにきたり夜になると花火を分けてくれたりかわいい人たちだった。式根の地図に載っている道はほとんど全て歩いた。人が通った形跡がない道を蜘蛛の巣を祓いつつ、蛇に驚きつつ進んだところに突如ひらけるのが唐人津城。つい東尋坊と間違ってしまうがここには誰もいなかった。ただただ荒涼とした絶景。ここから落ちたら誰にも見つけてもらえないねといいながら海を眺めていると心静かになった。旅に出るとそういう瞬間が増える。これまでの道のりを全く読めないこれからを思い出すでも思いを馳せるでもなくなんとなく感じる。

好きな作家のご家族と話しながらパートナーへの敬意を感じた。数年前にあの席で一緒だったと言われるまではじめましてみたいな感じで話してしまっていたが色々思い出した。ただただ楽しく喋ってしまった。前もそうだったよ、そういえば。親世代の方との素敵な出会いもあった。私が住む街に息子さんが暮らしていたことがあるそうでとても嬉しそうな素敵な笑顔で色々聞いてくれた。その地域の図書館員の方の工夫も教えてくれてその方とも会えた。特に約束もせずたまたま会ったから話すような関係もいい。

今日はどんな一日になるかな。とりあえずすでに暑い。どうぞお大事にお元気で。

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精神分析

ブックレビューエッセイを読むなど。

鳥がよく鳴いている。元気ってことかな。生きてるってことではある。昨晩の帰り道、大きな木から大きく長くジーって聞こえてピタッとやんだ。思わず見あげた。こんなに木があってもそのひと声だけで夜は静かだった。毎朝毎朝蝉がジュワジュワいってると思いながら歩いているけど転がってるのをみるとほとんどメカだなと思う。それと比べると鳥たちの声の主張豊かなこと。なにかな。私にはわからないけど元気ならいいね。

作って冷やしておいた麦茶を今朝も飲む。花火柄のコップで。黒い液体を入れたらもっと夜空の花火っぽい感じになるだろうけどアイスコーヒーくらいが限界かしら、黒に近い飲み物って。麦茶みたいな空の色のときってあるよね。これは何か起きるのでは、というような不穏な空のとき。今日はどうかな。とりあえず暑いだろう、ということはわかるけど。花火はきれいね。

昔つきあっていた人に誘われたけど行列で入れなかった店にはじめて行った。朝は行列はなかった。モーニングセットを食べた。アイスコーヒーと。おいしくなかった。たいていのものをおいしくないとは思わないのだけどここのはおいしくなかった。行列の目当ては多分パフェ。長居してそうな常連も多そうだからそれで混むというのもあるのかな。おいしくなくて安心した。うまくいかなかったわけだ。その人はいつも「話題」を探し振りまくのが得意だった。

昨晩、ポストを開けるとIPAジャーナルが届いていた。ここですでに何度か書いた米国の精神分析家オグデンの一番新しい本の書評が載っている!しかも書いているのはMichael Parsons、すぐに読み始めた。長い。IPAジャーナルの書評はこんなに長く書いていいものなのか、と思って見直したらブックレビューエッセイだった。

精神分析における読むこと、書くことに対するオリジナリティあふれる探索にますます磨きをかける本書の書誌情報はこちら。

Coming to Life in the Consulting Room: Toward a New Analitic Sensibility, Thomas H. Ogden, London and New York, Routledge, 2022, 175pp., £29.99, ISBN: 978-1-032-13264-8

組織から比較的自由な立場で精神分析臨床を続けながら論文や小説を書くオグデンの患者理解は深い。昨日も書いたがそれは理解を超えたところのなにかで存在に関することだ。彼らがいかに自分を存在させることに苦労しているか、それは思わず出る言葉以外で掴むことはなかなか難しいのではないか、というのは私の実感だが私はそれを書くことでしか前に進めないのだろう、オグデンに従えば。

28度設定だと少し動くと暑い。無理せず、とかいっているうちに色々大変なことになっているができない無理はできないからこのままいこう。皆さんもどうぞご無事でご安全に。

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精神分析

日々とか仕事とか

まだ朝の光とはいえ陽射しが強い。明け方の空はもっと弱々しい感じでほんのりピンクがきれいだった。オフィスのそばの銀杏の緑の濃さに迫力を感じながら歩いていたら黄色い葉っぱがパラっと落ちてきた。秋?まだ子どもの葉っぱみたい。見上げた葉の密集ぶりに全く日の当たらない部分ができてしまうからかななどと思った。季節の花々が次々に咲く新宿中央公園でもこの時期はこぞって目をひいていた花々から水が抜け色が失われていく。陽射しにどんどん色を濃くしていく緑の中やそばでもいろんなことが起きている。

同じ曜日、同じ時間にやってくる人たちの話を聞き続ける毎日。人って理解するとかされるとかいう対象ではないと感じる。なんというかそんなこと無理というか。最初はまだ理解するされるの世界にいるというかそうじゃないとどうしていいかわからないからそこに自分をとどめておく感じだけどその人を理解するために二人で協力しようとするとすごい断絶や距離が明らかになることもあれば「あぁ」と二人で同時に同じような感触を掴むこともある。たとえば「みんな死ねばいいのに」という言葉が思わずでたとしたら「みんなって」と聞く人もいるかもしれないけどその時点でその憎しみの向けようのなさを失っていることを知る二人の間での思わずの言葉には反応よりも沈黙。持ち堪えることを二人でする。しつづける。何か別の思考が生じるまでお互いに身を委ねつつ。精神分析の場合、技法っていったってものすごいシンプルで設定と約束事が守られていればあとは延々同じことを続けるだけ。今年はラカン派ではないフランス精神分析の勉強会に出ているがフランスではカウチの使用や頻度は設定の一部ではなるが大きな位置を占めるわけではなく自由連想が精神分析を基礎づけていると考えているらしいと聞いた。たしかにフランスの精神分析の辞典や教科書をみるとカウチで高頻度ということより自由連想をするということで精神分析は定義づけられている。カウチ、高頻度は自由連想という困難な作業を支えていく環境として重要なのだろう。環境あってこその対象の使用というのはウィニコットの理解を借りると実感しやすい。

早朝、昨晩掃いた玄関前の葉っぱをゴミ袋に入れたり結構前に枝切り鋏で落としておいた山椒の木の枝をもっと細かくしてゴミ袋に入れたりしていたら蚊に刺された。こんな格好してたら当然刺されるとわかっていたが玄関を入ればすぐ置いてある虫除けをしなかった。痒い。辛い。昨晩、ひっくり返っていた蝉にほうきが触れたらジジジっていったからまだ生きてると思って今朝まで放置していた。今朝はもう動かなくなっていた。

猛暑猛暑。今日も気をつけていきましょう。

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精神分析、本

関わったら見守る

麦茶をゴクゴク。水分!でもあまり減らない。けどまた作った。水分とっていきましょう。さっき窓を開けたけどあまり風を感じず閉めて冷房をつけた。滑る窓だから気をつけながら。ベランダに一歩でもでれば風を感じたかもしれない。風の通り道に立てるかどうかはその一歩の違いが大きいときもある。まあいい。今朝も早くから仕事だ。

嘘つきな愚痴り上手って言葉、なんか変かもと思いつつ使った。嘘つき「で」愚痴り上手でもいいのだろうけど嘘ついて人傷つけておいてなに上手につらがっちゃってんの、という意味であれば前者の方がしっくりくる気がする。言葉は感覚の問題だけど調べていくと意外と本質的な差異にもとづいた判断してたりもするから無意識ってすごい。

先日、『「日本に性教育はなかった」と言う前に
ブームとバッシングのあいだで考える
』堀川修平著(柏書房)刊行記念イベント、松岡宗嗣×堀川修平「性教育から考えるバッシングの過去・現在」をアーカイブ視聴した。性教育の歴史や実態を知るうえで大変勉強になったがこういうのは内容よりもなぜそれらをあえて言っていく必要があるのかという当事者やそれに関わる人たちの切迫感を受け取ることで学び続けることが大事なんだなと思った。すぐに「自分とは関係ない」という態度をとりがちな私たちという指摘を聞き流してはいけない。みんな関係あるのだから。一度関心を向けたならその先を見届けよう。見たくないものは見ないことができてしまう私たちだからこそ。自分が嘘つきであることだってすぐに忘れてしまう私たちだからこそ。いやもちろん「そんなつもりはない」のだけれど。

眠い。今朝も早くから仕事。月末事務仕事もイヤイヤやろう。今日は木曜日。

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精神分析

Reading Freud’s Patients Memoir, Narrative and the Analysandなどに関するメモ

COURRiER Japonのフロイトに関する記事の原文が読みたいな、と思っていたら山本貴光さんがくっつけてくれた記事を見つけた、と以前Twitterに書いた。そのメモをまとめておく。

ハアレツ紙(イスラエルの有力紙)に掲載された記事(英語版)はこれ。

Ofer Advert, “Angry Outbursts and Erotic Insinuation: What Freud Was Really Like”(2021.08.05)

https://haaretz.com/world-news/.premium.MAGAZINE-angry-outbursts-and-erotic-insinuation-what-freud-was-really-like-1.10089349

記者のOfer Aderetも取材されたReading Freud’s Patients Memoir, Narrative and the Analysandの著者アナト・ツール・マハレルもおそらくフロイトと同じくユダヤ人の歴史を共有していると思いつつKindleでこの本を読んだ。

この本に出てくるフロイトの患者たちはフロイトの伝記などにも登場するがこちらが読みやすいかも。

『フロイト : 視野の暗点』 Breger, Louis著,里文出版

患者の体験を通じてフロイトの精神分析実践を垣間見ることができる本で最近書かれたのがThe History of Psychoanalysis Series,のAnat Tzur MahalelのReading Freud’s PatientsMemoir, Narrative and the Analysand(Routledge, 2020)である。この本はWinner of the 2021 ABAPsa Book Prize Awardを獲得している。

それ以前だとBeate Lohser&Peter M. Newtonの”Unorthodox Freud The View from the Couch”しかなかったそうだ。高価な本だが試し読みができる。

https://www.guilford.com/books/Unorthodox-Freud/Lohser-Newton/9781572301283/reviews?utm_medium=social&utm_campaign=share-widget&utm_source=twitter.com

ちなみに『心の革命  精神分析の創造』(みすず書房)のジョージ・マカーリがこのLohser&Newtonの本のレビューをIPAジャーナル(1997)に書いているが、翌年には著者のPeter Newtonがこのレビューを a careless review だとして”Dear Sir,”で始まる文章を寄せていり。書いていることとやっていることが違うのでは問題、に対する読者の誤解に対する懸念、というか「ドイツ語でフロイトを読める私たちとしては」とストレイチー訳を批判しつつ書かれた手紙(?)は興味深い。

一方、Anat Tzur Mahalelは文芸批評の手法を取り、回想録の別の読み方を提供してくれル。

この本の「シリーズ編者による序文」はPeter L. Rudnytsky。フロイトが息子のように愛した精神分析家フェレンツィの『臨床日記』を重ねながらの紹介にしみじみした。https://www.msz.co.jp/book/detail/08695/

これまで患者の書き物は分析家のそれより周辺的な扱いを受けてきたがAnat Tzur Mahalelは患者の回想録を「精神分析文学」として文芸批評の対象とし、The author-analysandsたちを個別の患者というより「フロイトの患者」というグループとして扱う。

精神分析実践は、「メジャーな言語」に束縛されたマイノリティである自分が「ある言語の内において、その言語の外に出る」ことといえる。著者は序文でドゥルーズとガタリが見出した「マイナー文学」を引用し、フロイトの患者による回想録もそれとして理解することの意義を記す。

cf.1.叢書・ウニベルシタス 1068『カフカ マイナー文学のために〈新訳〉』      2.ジル・ドゥルーズ&フェリックス・ガタリ著, 宇野 邦一訳『ドゥルーズキーワード89』 堀 千晶&芳川 泰久(著) せりか書房

著者がドゥルーズ&ガタリ『カフカ マイナー文学のために』から引用するのはここ。

「穴を掘る犬のように、巣穴を作る鼠のように書くこと。そのために自分自身の未開の地点、自分自身の方言、自分だけの第三世界、自分だけの砂漠を見出すこと」

ー第3章「マイナー文学とは何か」33頁

引用はされていないけれどここも大事かと。

「マイナー文学の三つの特性とは、言語の脱領土化、個人的な事項がじかに政治的事項につながるということ、言表行為の集団的アレンジメントである。」

「偉大なもの、革命的なものは、ただマイナーなものだけである。」

ー第3章「マイナー文学とは何か」

アナト・ツール・マハレルの本では当然オグデンも登場する。聞くこと、書くこと、夢見ることについて考えるときには必ず引用される論文はこちら。邦訳も出ているはず。

Ogden, T. H.

 “A Question of Voice in Poetry and Psychoanalysis.” Psychoanalytic Quarterly 67, 426–448. (1998).

The History of Psychoanalysis Seriesといえばこの本もそう。

『アタッチメントと親子関係 ーボウルビィの臨床セミナー』(金剛出版) ボウルビィ著  バッチガルッピ編  筒井亮太訳 のなかでボウルビィも言っている。

「患者の報告する実体験に敬意を払うこと、それがきわめて大切だと思います」

ミラノ・セミナーでの言葉だ。

Series EditorsはBrett KahrとPeter L. Rudnytsky。「シリーズ編者による序文」でブレット・カーも引用している箇所だ。

https://routledge.com/The-Milan-Seminar-Clinical-Applications-of-Attachment-Theory/Bowlby-Bacciagaluppi/p/book/9781780491677

https://kongoshuppan.co.jp/smp/book/b587826.html

さて、最初に登場するのはアメリカの精神科医、Joseph Wortis

02. Fragments of an Analysis with Freud by Joseph Wortis: Criticism and Longing

フロイトの被分析者の体験談の多くは1970年代にでている。しかしWortisは分析が終わって5年後、フロイトが亡くなって数ヶ月に早くも回想録を書いた。

この題名はもちろん「あるヒステリー分析の断片」(1905)=症例「ドーラ」と関連している。

患者が体験を早急に第三者に開きたくなるのには理由がある。端的にいえば、彼にとってフロイトとの分析がbad analysisだったからだろう。

しかしそれを「書く」行為が明らかにしたのは単に精神分析がもつ限界だけではなかった。常にongoing であること、著者は、この本であとから登場してくるH.D.の体験を素材に無時間性に関する学術論文も書いているが、そこでの議論とも通じるように思う。

ジョセフ・ウォルティスの『フロイト体験 ーある精神科医の分析の記録』(1989,岩崎学術出版社)は前田重治先生監訳。前田先生は東京で分析を受けていたときに古澤平作先生に本書を紹介されたと「解説」で書いている。

前田重治先生はご自身の体験も本にされているし、おすすめしたいご著書はたくさんあるけどきたやまおさむの歌を知っている人なら誰でも楽しめるのはこれかも。

→「良い加減に生きる 歌いながら考える深層心理』(2019, 講談社現代新書)著:きたやまおさむ&前田重治

前田重治先生の『「芸」に学ぶ心理面接法 初心者のための心覚え』(誠信書房)も。

ジョセフ・ウォルティス『フロイト体験 ーある精神科医の分析の記録』の次にminor textとして取り上げられるのはS.ブラントン『フロイトとの日々ー教育分析の記録』(日本教文社、馬場謙一訳)。

03. Diary of My Analysis with Sigmund Freud by Smiley Blanton: From a Deadlock of Silence to the Act of Writing 

ブラントンの回顧録は妻のマーガレットにより編纂されたもの。この本をざっと読みながら元の回顧録や症例研究にあたるなかで精神分析体験に第三者が関わることのリスクについても考えさせられるだろう。ブラントンのこの本も前田先生の覚え書も目を逸らしつつ読む感じになってしまった。

 ちなみに前も書いたがOgden,T.H.の関連論文と翻訳本もメモ。

 “On Psychoanalytic Writing.” International Journal of Psychoanalysis 86, 15–29. (2005).

“Reading Harold Searles.” In Rediscovering Psychoanalysis: Thinking and Dreaming, Learning and Forgetting. London and New York, NY: Routledge, 133–153.(2009).

オグデンの著作で訳されているのは多分これらです。

2冊目『こころのマトリックス ー対象関係論との対話』4冊目『「あいだ」の空間 ー精神分析の第三主体』5冊目『もの思いと解釈』6冊目(かな?)『夢見の拓くところ』

Rediscovering Psychoanalysis  Thinking and Dreaming, Learning and Forgetting→『精神分析の再発見 ー考えることと夢見ること 学ぶことと忘れること 』(藤山直樹監訳、 木立の文庫) 

The New Library of Psychoanalysisのシリーズから新刊も出た。それについてはすでに書いた

このシリーズはクライン派の本は結構訳されていると思う。独立学派は昨年でたハロルド・スチュワートと同じくスチュワートが書いた『バリント入門』。

以上メモ。関連の本を読んでいるのでこちらに付け足すかも。

資料作るの忘れてこんなことしてしまった。作ろう。

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精神分析

身体、環境

昨晩のベランダも気持ちよかった。今朝も気持ちいい。冷房もつけていない。これから暑くなるのだろうけど。麦茶を作っておく季節にもなった。出かけるまでに冷まして冷蔵庫に入れないといけないけど時間がない時にはたくさんの保冷剤を巻き付けるようにして冷やす。ある映画でカエルがたくさんよじのぼって身体を埋め尽くしていく場面を見たけどあんな感じ、でもないな。今ちょっと思い出しただけ。両生類というのは不思議な生き物だよね。私たちも本来そんな感じなんだろうけど。昨日世界水泳に出るような人の身体の特徴についても聞いてやっぱり生まれ持った身体が違うんだなあと思った。

精神分析家のウィニコットは環境も遺伝だと言ったのだけど、これってこれだけ書くと「えー」と思うと思う。説明されれば「ふーん、そうなのかあ」と思うのだけど、と書きながらここでは詳細書かないけど(本がそばにないので私の説明ではさらに曖昧になる可能性がある)どうして誤解されないそうな言葉でそういうこといったんだろ、と思ったりする。こうやって引っかかる人が出てきて「どういうこと?」って探索するからいいのかな。かまってちゃんパターンとは違うんだと思う。ウィニコットはgood enoughな注意を向けることを前提にしている人だから。かまってちゃんパターンはその注意の不足が前提にある。

寝不足なわりに何も進んでいないしもうだめだー。と毎日なってるけど今日も始めましょう。今日は火曜日(確認)。

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仕事

大暑、すもも

昨晩は久しぶりにベランダでゆっくりした。少し冷えるくらいの風は部屋に入ってしまうとあまり感じられずまた外に出た。昨日は暮れゆく空をキレイキレイ言いながら帰ってきたが夜の青もとてもきれいで西の空には弓形の月が爽やかに光っていた。とても気持ちよかった。昨日7月23日は二十四節気でいう大暑。一年で最も暑さが厳しくなる頃。8月7日頃までをそういうがその後も暑いは暑いだろう。ふと「あ、秋の風だ」「秋の空だ」と感じる日も遠くはないのだろうけど。昨日はあまり間をおかず二つのグループの事例検討会をしていたので外に出たのは夕方だった。歩いて新宿に出ると浴衣の人もちらほら。私のオフィスからは神宮球場の花火が見える。この時期はヤクルトスワローズ主催試合の5回裏が終了すると花火が上がる。たいていは音を聞くのみだけどこの前はグループのみんなに見せることができた。思わず大きな声をあげていた。夏だ。

7月20日にはすももをもらった。その日は府中の大國魂神社の『すもも祭』だったそうだ。11世紀半ば、朝廷から派遣された源頼義、義家父子が、奥州安倍氏平定(前九年の役)に向かう途中、大國魂神社に戦勝祈願、戦勝御礼詣りをした際の神饌の一つが李子(すもも)だったとのこと。そこからすもも市がたつようになったそうだ。赤い網に入った少し緑がかったすももは2、3日常温でということだった。もういいかなと冷蔵庫に入れて今朝いただいた。すもも、久しぶり。千歳烏山に住んでいた頃、八百屋さんで「すももだー」と喜んでいたらソルダムという品種を教えてもらってその素敵な名前にも盛り上がって買って帰った。今日いただいたすもももソルダムだそうだ。皮が少し厚かったので剥いた。飴細工のような艶やさと赤ともオレンジともいえないような美しい色に感激。かぶりついたときの絶妙の酸っぱさも懐かしい感じで子供の頃を思い出した。

昨日はとても丁寧な議論ができた。現場の「慣習」として意識していないことも外の目を借りればその違和感に気づける。環境と対象の使用についても話した。外からは見えないその人の痛みや苦しみがどんなものか、それがどうなることが「良い」のか。終わりのない問いばかり。だからこそ話し合う。その時点ではそういう感じなんだ、ということの積み重ね。今日も一日。

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精神分析、本

『まんが親』、フロイト技法論集から「勧め」論文。

おなかが気持ち悪い。おなかすいてないのに食べたのがいけない。すいてないなら食べなければいいのだけど食べないわけにもいかないのよね。食べてる間はおいしいし。あとでこうなるのもわかってるけど。

昨晩も今朝も吉田戦車の『まんが親』を読みながら時折声を出して笑っている。ほんとこどもあるあるで面白いんだけどさすが漫画家は子育てに苦労しながらも子供の言動をメモしてネタにしてるのね。面白いと思ったものを掴むのがうまいからこっちも面白いけど「え?そこ?」みたいなことを書く人がいたらいたらで面白いかもしれない。が、子供の言動こそが「え?そこ?」に満ち溢れているからどこを拾ってもあるあるとして面白いのかもしれない。大人はつまんねーな、と言ったところでおれも大人だし、というか相当大人。若くはないが私よりはずっと若いみなさんに教える立場になってからもそこそこの年数が経つが一方でまだ訓練途上でもある。分析、スーパーヴィジョン、セミナーの三本立て。そして毎月のミーティング。セミナーはもう規定時間数は修了しているが勉強に終わりなしなので今も参加することもある。先生方の教え方からも学ばないといけない。

昨晩は私が主催するReading Freudで『フロイト技法論集』(岩崎学術出版社)の「治療の開始について(精神分析技法に関するさらなる勧めⅠ)」(1913)を読んだ。先月読んだ「精神分析を実践する医師への勧め」(1912)の続きとして読める。「精神分析を実践する医師への勧め」の22−23頁でフロイトは患者に自由連想を要求する精神分析を実践する医師であるならば患者と同じように以下のような態度を維持する必要がありますよ、ということを書いている。単なる技法の羅列ではなく、これこれこうするならばこれだってそうなのだからこれこれこういうふうにすべきでしょう、みたいな書き方をフロイトはよくしていると思う。説得力がある。

「単に何か特別のことに注意を向けることなく、耳にするすべてに対して(私が以前に名付けたものと)同様の「平等に漂う注意」を維持することである。」

「すべてに等しく注意を向けるという規則が、批判や選択なく思いついたことをすべて話さなければならないという患者への要求に対する必然的な対応物であることはわかることだろう。」

「医師に対する規則は、次のように表現することができるだろう。「自分の注意能力に対してあらゆる意識的な影響を差し控え、自分の『無意識的記憶』に完全に身をゆだねるべきである」。あるいは純粋に技法的に表現するならばそれは「やるべきことはただ聞くことであり、何であれ覚えているかどうかに煩わされるべきではない。」

など。これに続いて記録をとらないことの勧めも理由つきで書かれている。そして私が最も好きな一文もそこに。

「一方、最もうまくいくのは、言ってみれば、視野に何の目的も置かずに進んでいき、そのどんな新たな展開に対しても驚きに捕まってしまうことを自分に許し、常に何の先入観ももたずに開かれたこころで向き合う症例である。分析家にとっての正しいふるまいとは、必要に応じてひとつの心的態度からもう一方の心的態度へと揺れ動き、分析中の症例については思弁や思案にふけることを避け、分析が終結した後にはじめて、得られた素材を統合的な思考過程にゆだねることにある。」

この論考の後半は分析を行なう人は自分も分析を受けるべきだということがいくつかの観点から書かれている。

「他の人に分析を行おうとする者は全員、あらかじめ自分自身が専門的知識をもつ人に分析を受けるべきである」

「自分自身のこころのなかに隠されたものを知るようになるという目的が、はるかにより素早くより少ない感情的犠牲で達成できるだけではない。書物から学んだり講義に参加したりすることでは決して得られないような印象と確信とが、自分自身とのつながりにおいて得られるのである。」

など。21頁から33頁、全部で21段落。コンパクトだ。

昨日読んだ「治療の開始について(精神分析技法に関するさらなる勧めⅠ)」(1913)は35頁から61頁、全45段落。前の「勧め」論考の2倍近く頁を割いて「さらなる勧め」をフロイトはする。

こちらは「治療の開始について」とあるように分析を実践する医師の基本的な態度というよりは初回面接や治療初期の段階における設定や患者も疑問に思うであろう事柄(お金や時間)に対する態度について詳細に書かれている。まさに今日、私がグループで中堅のみなさんと話し合う事柄だ。

そろそろNHK俳句の時間だから細かく書かないけど「まずこれ読んで」と言いたい。

それではどうぞよい一日を。

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朝、読書、漫画

お隣のガラガラが聞こえた。朝には朝のパターンがある。ソファで断続的に寝る起きるを繰り返してしまった。全然朝という感じがしない。身体が昨日の夜のまんまという感じ。リズムを崩すとパターンも崩れる。夏休みに一気に体調崩さないように(ありがち)用心せねば。健やかな毎日を送りたいのさ。

今週は芥川賞、直木賞が話題になるなか寺山修司を読んでいた。大雑把に言えば思春期に俳句、その後に短歌、その後演劇、と表現の場を変えていった寺山修司。個人的な興味は彼の演劇にあるが作品として強烈なのはやはり短歌。『寺山修司全歌集』の後半は特に圧倒される。それにしてもこの人も母に対する想いの強さのハンパなきこと。この人「も」と書いたのは宮崎駿の『君たちはどう生きるか』をみて宮崎駿にもそう感じたから。この題名、覚えられないんだなあ。誰かと話すとき直されてばかり。今もきちんと書かなければと確かめるために「なぜ君は生きるのか」で検索してしまった。重なってはいるけど全然違った。別の本が検索結果に表示された。でも「なぜ君は生きるのか ジブリ」で検索したら「君たちはどう生きるか」が出てきた。よかった。映画もとてもよかった。冒頭、主人公が走るシーンが一番好き。もう最初から母への想いに貫かれているように感じた。感動はそこからというわけではなくこれまでのどのジブリ作品にも描かれてきた疾走シーンと違って今回は死にゆくものの生命の力をすごく感じてものすごく感動した。昔話の王道ともいえる仕組みも散りばめられていてとても楽しくもあった。それにしてもジブリ作品に出てくる料理はいつもなんて美味しそうなんだろう。特にパン。あのパンとバターが食べたいよー。

子供たちはもう夏休み。親たちは大変だ。みんなで子供を見る仕組みができたらいいなと思う。私はNPOで活動していたときにそういう環境が普通にあることを知ってその結果赤ちゃんの頃から知っている子供がたくさんいる。余裕があると成長って面白いと思えるけど親だけで見ていたらルーティンを確保するので一杯一杯だろう。うーん。実用的な助けにはならないけど吉田戦車の『まんが親』を子育て中のみなさんに贈ってあげたりするのはいいかもしれない。ここだけ抜いてもわかりにくいかもだけど「超正しい子供理由!」とかすごく共感できるエピソードばかりだから。

大人も子供もそれぞれ色々あるけどとりあえず無事に過ごそう。良い週末を!

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フロイト読書会など

暑い!と言おうとして「うん?そうでもないか」となるような気温ですね、今日は。表示は30度だけど。あっつい紅茶を飲んでも汗をかきません。代謝の問題だったりして。今日は和菓子処かわはら「横浜銘菓 港の丘」とFIkaのとてもかわいいクッキー。たくさんあったかわはらのお菓子はこれでおしまい。ご馳走様でした。美味しかったです。Fikaのクッキーは箱もとても可愛くていただくととても嬉しい。クッキー好きさんへの贈り物にもはなまる。

昨晩はフロイト読書会のアドバイザーでした。やっぱり最初からしっかり読んでいくと概念の成り立ちの最初から追えるせいか以前読んでいたときよりも緻密だし修正もきく。立ち戻るポイントをいくつも持てるようになると理論を自分仕様に変えてしまう心配は減るから地道って大事よね。精神分析なんて毎日のように延々同じことをやり続けていてひどく不毛な一方でそれを不毛というにはあまりにいろんな作業を自分の見えない部分がしていて反復はただの物語では全くなくなりまさに今ここで治療者と患者が起こす出来事となる。言葉だけではとても表現できない、自分を超えている何かが自分を強く動かすことがあることをお互いに実感する。フロイトは多くの患者との臨床体験において目の前の患者に大きく心揺さぶられただろう。それは「大変だった」「びっくりした」「辛かった」というような感情体験ではなく自然の驚異みたいなもので届かなくとも自分もその一部として探究せざるを得ないことだったのではないか。本当に大きく揺さぶられることがなければここまでのことはできない。言葉でならなんだって言えるがその言葉が実感とどう結びついているかは非常に重要だろう。精神分析の設定もその揺さぶりに持ち堪えるためにある。環境の準備がないところでお互いの生身の感情が動くとしたらそれは暴走しやすいし破壊に繋がりやすい。思いがけないことはどうしても起きてしまうし自然破壊のように環境破壊を繰り返したりもするがなすすべなしにはしない。共存とは何かを考える。そんな感じ。

ビリー・ジョエルが来日するという。16年前の東京ドーム、行きました。アルバムもほとんど持っていたけど意識的にものすごいファンとかではなかった。それだけ聴いてたらファンなのでは、と自分でも思うが意識的にはハードロックバンドに夢中だった。みんな長生き、というのも変な表現だけどこの歳になると死は遠い世界の話ではない。コロナのせいもあるだろうけどまだ生きててくれてたんだ、と思うことは増えた。私のためにではなくても誰のためでもなくてもそう思う。誰かの死について考えようとしてもその人やその人の周りの生について考えるしかないのだけどなんだかいろんな気持ちになりますね。

今日は金曜日。どうぞお大事にお過ごしください。

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かつしかけいた『東東京区区』

部屋は涼しくも暑くもないけどこのルイボスティーを飲んだら暑くなってしまう。飲みたいけどちょっと我慢。フルーツを先にいただいて水分補給しました。もうすでに熱中症っぽい症状に何度かなっているが水分補給って難しいなと思う。水分取ってもずっと暑いところにいたらだめみたいだし意識しているのだけどどっかで注意が足りないのかしら。私は一人だとあまり冷房つけないからそれもいけないのかもしれない。あ、隣のおうちの雨戸がガラガラ音を立ててる。おはようございます。昨日は芥川賞と直木賞の発表直後に本屋さんに行ったのだけど店員さん走ってた。市川沙央さんの『ハンチバック』、受賞おめでとうございます。早速「芥川賞受賞作!」という札がピンで止められていた。「(賞の)発表があったばかりだから」と店員さんは慌ただしく動きながら営業の人に遠くから大きな声で謝っていた。営業の人もなすすべなしという感じで帰っていった。ここの店員さんはとても親切だけど多分そんなにキャパが広くない。聞き慣れた声を聞き、時折走って通り過ぎる店員さんを見送りながら賞の発表があるって大変なことなんだなと思った。

先日から紀伊国屋書店新宿本店で大きく場所をとって紹介されているかつしかけいた『東東京区区』もやっと買えた。noteに書いたけどこの前から紀伊国屋書店に向かう地下道からの入り口が閉鎖されていてこの暑いのに地上を行かなくてはいけないのです。駅から近いけど。閉鎖されているのを忘れてまた地下から行ってしまった。もー。あまり考えず1階、2階、3階をうろうろしていろんな話題の本をみながら「ないなあ」と思って確認したら8階だった。そうか、コミックだものね。コミック売り場ですよね。ありました。サイン本は有人レジで(私はセルフレジ使うの下手だからどんな時も有人レジだけど。友人レジってうっちゃった)とあったから聞いてみたらありました。サラさんのイラストだー。サインと一緒に描いてくれてました。サラはインドネシア人と日本人の両親のもとに足立区で生まれたそう。大学生でイスラーム教徒です。このおはなしはサラさんが葛飾区立石のエチオピアのカフェに立ち寄るところから始まります。そこで出会ったのがカフェを営むエチオピア出身のお母さんと小学生のセラム。二人が道に迷っているときにこれまた偶然葛飾区亀有に住む中学生春太と出会います。お散歩友達になったこの3人が東東京を散策しながらその歴史やそこでの人々の思い出、それぞれの考えと出会っていくこのマンガ、街の描写もリアルでのんびり念入りに散歩したくなりました。東東京、いわゆる下町には馴染みがあるので知っている景色もたくさん。でも全然知らなかったということばかりで(登場人物たちでさえそうでした)とても懐かしく興味深くこの本のルートを休みのお散歩コースにしようとか、句友たちと吟行もいいなとかワクワクしながら読みました。立石図書館、小岩図書館も出てくるし区の図書館やこの地域の学校の図書室に置かれるべき本かも。こうやって自分たちのいる場所、育ってきた場所を知れたらとてもいいと思うのです。

最近ノスタルジックになる本ばかり手に取っている気がするけど自分の体験に沿ってくれる素材があるってありがたいことですよね。外部記憶装置としても本に助けてもらっています。話題になる本ばかりではなくそれぞれがそれぞれに気になった書物と良き出会いをもてますように。涼しいお部屋で隙間読書を楽しめたらいいですね。それでは今日もお気をつけてお過ごしください。

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お菓子 散歩 精神分析

寄り道、新ハムレットオンデマンド配信、カチカチ山

暑い。でも朝はまだ冷房が効くのが早い気がする。今朝のリビングは31度だった。28.5度設定。0.5度ずつ変えられるようになったのっていつからだろう。その差をどのくらい身体がキャッチしてるかわからないけど。

隙間時間に友達とおしゃべりして連れてきてもらった道を戻るのではなく神社のほうへ。あ、通りの名前は知ってる。この通り、この前も見たけど繋がってるってことか、と陽射しを辛がりながら歩く。明らかにこの前通ったばかりみたいな景色だがこれはどっちにいけばいいんだろ、と左へ。あ、いつも突然現れる美術館はここかあ、行くときはのんびり寄り道しながらいくから全然道を覚えない。知っている道なのに知らない感じ。ここはどこだろう、と思ってると間もなく馴染みの景色へ。別の駅から帰りたかったのに降りた駅に戻ってしまった。あーあ。都会は難しいな。美味しそうなお店も見つけたけどまた偶然通りかかるまでは忘れちゃうな、きっと。その時はもっと時間があって偶然お腹も空いていますように。寄りたい。

五戸真理枝さん演出で6月、PARCO劇場で上演された 『新ハムレット〜太宰治、シェイクスピアを乗っとる!?〜』が今日から7月25日(火)までオンデマンド配信とのこと。劇場なんて遠くて行けなかったよ、みたかったよ、という人はぜひチェックしてみてください。太宰の命日である「桜桃忌」にはすごくかっこよくてすごくうじうじしたハムレットを演じた木村達成とこんな舞台を作ってしまう天才、五戸真理枝のアフタートークショーも収録されているとのこと。舞台の3分の1のお値段です。夏の夜のシェイクスピア、太宰のハムレットはやや暑苦しいけど女たちも魅力的。

太宰といえば河口湖町にカチカチ山(天上山)というのがあってハイキングにもいいしロープウェイでも山頂に行けるのだけど山頂も色々遊べて楽しいの。たぬき茶屋もあるしかわらけ投げもできる。もちろん太宰のカチカチ山の場面を辿れる場所もありますよ。面白いです。

今朝は太宰繋がりで河口湖土産、私的(多分多くの人にとって)No.1のフジヤマクッキー。オンラインでも買えるけど現地からきたそれらは少し山頂の雪が溶けたりしていてそれはそれで趣というもの。今回も美味しいです。

はあ、パソコンあっつい。熱い紅茶も飲んじゃったからあっつい。きれいさっぱりして出かけましょう。でもきっと外に出るなりダランデロンってなって電車でキンキンに冷やされてまたダランデロンってなっての繰り返しだろうけどね。毎日ぐったりしがちやわ。みなさんもどうぞお大事にお過ごしください。

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散歩 読書

カフェ、アイドル、比嘉健二著『特攻服少女と1825日』(小学館)を読み始めた。

暑すぎる日に寒すぎないカフェを探した。土地勘のある場所だから使い勝手のいいカフェの寒さは大体知っている。あそこなら、と思って自動ドアを入ったらさむっ。入った途端にさむっ。やっぱりやめよう。涼みに入ったみたいな感じになった。ならあそこは、とまた少し歩く。え、ここ2階だったんだ、地下だと思ってた、というと2つあるんじゃない?と言われた。なんだその発想は、と思ったらそばに同じ薬局が2つあったからという。なるほど。ほんとなんでこんなそばにね。でもこの薬局、わりと2軒の距離が近いところにあったりするよね。カフェは2階にしかなかった。お互い10年ぶりくらいかもと話しながら大きい4人掛けのテーブルへ。寒くない。やったー。気楽に動きすぎて上着を忘れたのだ。超寒がりの私は定期を忘れても上着は忘れないのに。どこもかしこも寒いでしょ、夏は。週末は外でぼんやりしすぎて熱中症っぽくなってダウンしたけどね。夏生まれなのに全然上手に過ごせない。体調の崩し方も歳とって変わってきてるし困ったもんだ。

遠くでアイドルグループが歌うのを大きいパラソルの下からぼんやり眺めていた。ご当地アイドルとして自分たちで店のプロデュースもしながらいろんなところでライブをしているとのこと。自分たちプロデュースのライブ場所を持っているのはすごいよなあ。小さな野外ステージを降りるなり物販。手売り。遠くてあまりよく見えなかったけど踊りがザ・アイドルという感じで「推しの子」を思い出した。この暑いのにめちゃくちゃ動く。すごい。名前紹介とかもパターンが決まってるよね、グループって。すごいリズム。それに呼応して客席からあがる野太い声。ほお。様式美、といえば比嘉健二著『特攻服少女と1825日』(小学館)をKindleで読み始めた。体調を崩すと活字も読めなくなるがなんとなく読む気になったので安心した。

表紙がすごくいいのはKindleでもわかる。内容は出版社のサイトを見てほしい。ためし読みもできる。暴走族とヤンキー、レディース、田舎の山の麓育ちの私にはとても身近だが今はもうその形式自体古いのだろう。彼らの面子を重んじるあり方や様式美を渋谷センター街に見出すことは難しい。コギャルだってもう昔の話だろう。加害とか被害とかいうわけ方も知らず性愛と暴力に翻弄されるような10代の居場所探しの日々が意外なほどゆったりした時間感覚で著者自身の本作りの歴史と並行して書かれているこの本にひたすらノスタルジックな気持ちになるのは世代ゆえか。体調ゆえか。レディースと名乗ったティーンズたちは大人になっても魅力的だ。そう描かれる。文章に勝手に著者の想いを想像してはやはりノスタルジックな気持ちになった。居場所という言葉も苦手だがこの本にはしっくりくる。しかしまだ途中。

今日もすでに暑い。昔の夏の思い出を語ったりしよう、寒すぎないカフェとかで。どうぞお気をつけて。今日は火曜日。忘れないように(忘れそう)。

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コミュニケーション 精神分析 読書

問う

問われることを極度に嫌う人が問いを大切にするのはなぜかという問い。問いって本当に終わりなきもの。一問一答が見えなくしているものについてはこの前のグループでも話し合った。一問一答で問いを狭め仮の答えを欲しがっているとしたらそれはなぜか。こぼれ落ちるものが増えるだけとわかっているのに余計なことをしてしまうのはなぜか。子供といると「なに?」「なんで?」とよく聞かれる。泣き叫ぶ赤ちゃんにこれかなあれかなと何かを提示しても泣かれるばかり。なすすべなしと「うんうん、やだね、泣いちゃうよね」と抱っこしていると指しゃぶりを始めたりさっき拒んだおもちゃを気にするそぶりを見せたり。答えってなんだろう、と問いはいくらでも出てくるが答えってなに?「適応」ってなに?というのもよくある問い。誰に?何に?あなたに?社会に?あなたが社会ってやつ?「逸脱」ってなに?何から?どこから?あなたのルールから?お互いにお互いのこと考えたらそんなに差はできないはずだよね。いろんなことは差異で語ってるんだよね、私たち。みんな違ってみんないい、とか悪いとかではなくてとりあえずみんな違う、ただそこからなんだよね。違う?永遠に問いの型にすることはできるのだけどどっかで答えを決めたいね、仮でいいから、という場合もある。同じ、違うというマッチング課題は具象と抽象の行き来を見ることもできるけどずっとそこでゆらゆらしていられないことってある。朝がきたら仕事行かなくちゃ、学校行かなくちゃ、とか実際それをするかどうかはともかくなんらかの「次」っていつも準備されていてプレシャーをかけてくる。身体を自由に動かせなくなってしまった人と目で話す。これ?こっち?次は?これ?・・・と繰り返す。目の光を追っているような気がしてくる。それがいつの間にか言葉になる。できるだけ言いたいことと近い言葉でありますように。願いながら問い、仮の答えを探し、それを繰り返しなんとなくのまとまりを一緒につくる。言葉にならないものが言葉になっていく。それが正しいか間違いかはともかくとして。「クィア・アイ in Japan!」の印象的なシーンを思い出す。プライベートな関係は外からは見えないもので溢れてる。だからプライベートなわけで自分のあり方に侵入されない場所がないと人は壊れてしまう。ウィニコットのいう「孤立」がありうる場所を。問いの基本は相手がいるということ。=言葉があること。耳が聞こえない親である斎藤陽道さんご夫妻と子供たちの関わりを描く斎藤陽道さん原作のNHK Eテレの手話アニメーション「しゅわわん」で斎藤さんが「好き」という手話の起源を考えるシーンがあった。人はなぜ起源を考えるのだろう。なぜルーツを探るのだろう。『帝国の追放者たち 三つの流刑地をゆく』(柏書房)の著者は流刑地を辿りながら追放された3人が見たであろう「陸の端とその先の果てしない海」を眺める。そして自分がここにいる理由を見出す。「存在するものはすべて、なんらかのかたちで痕跡を残す。(中略)ここでは、ほかの場所では不可能なかたちで、その人たちを取り戻すことができる。」私たちは、相手や別の可能性を想定する問うという行為を言葉以前からしてきた。ウィニコットのいう「孤立」はその源泉なのだろう、ということに仮固定しておく。そして次へ。きっとまたここへ。その繰り返しを問いとともに。今日はお休みの人も多いだろうか。すでに暑いけどどうぞお気をつけて。お大事にお過ごしください。

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散歩

魚の匂い、散歩

リビングへいったら魚くさかった。自動的に南側の大きな窓を開けた。あれ?昨日魚なんて食べてないぞ、とあとから思う。バタバタと家事をして落ち着いてみると魚くさくない。匂いの方に合わせて魚を焼いた気になってしまったが夢の続きだったのかもしれない。夢も覚えていないけれど。

先日ランチをして歌舞伎町から区役所通りに出て鬼王神社で水琴窟の音を聞き小泉八雲記念公園へ。お花の綺麗な小さな公園。今日は小さな通路に食パンが何枚もばら撒かれていた。「誰、こんなに散らかして!」と袋をもった人が片づけにきた。そばで写真を撮っていた人を見上げるとその視線の先には鳩たちが絵みたいに並んでいた。私も写真を撮って角を曲がるととても色白のきれいな人と大きなカメラを持った人が出てきた。松江城の裏にある小泉八雲記念館もまた行きたい。城山公園内には稲荷神社がある。所狭しと狐がいる景色は圧巻だ。八雲の散歩コースだったそうだ。明治通りを渡り戸山公園へ。明るいコープの前を通り高齢の方々数人がぼんやり座る前を通り大きな団地のなかをいく。昭和に戻ったかのような風景はすぐに木々に変わる。箱根山公園は山手線の内側では最高峰の築山。標高は44.6メートル。頂上で風に吹かれた。水遊びを楽しむたくさんの子供たちの声を聞き木々の写真を撮りながら早稲田口へ。早稲田大学の演劇部らしき人たちが本を片手に集まっていた。早稲田駅を通り小道へ。坂が多い。しばらく歩き新宿区立漱石山房記念館へ。夏目漱石が生まれ、亡くなった土地。多くの草稿や装丁を見ることができた。二階の壁には作品の断片がバラバラと展示してありも懐かしく印象深くまた読み直したくなった。一階にはブックカフェもあり漱石が読んだ洋書なども読むことができる。それなりに長居したがもっとゆっくりきたい。猫はかわいい。等身大の漱石人形とお話をしているかのような写真も撮った。本当にお話してみたかった。

なんとなく散歩の記録を書いてしまった。焼いてもいない魚の匂いから頭の中を辿っていたらいつの間にかそうなった。このコースははじめてではないが悪くないな。暑いときは新宿駅西口からバスでくるのもあり。蝉の声を浴び汗もかいたが散歩にはちょうどよい曇り空でありがたかった。今日は日差しも強そうですね。ヒー。気をつけて過ごしましょう。

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読書

読書、学び

どんなに暑くてもあったかいお茶は美味しい。相変わらず長津田の菓子処かわはらのお菓子。今日は「おのたち」。ひらがなのそばに小さく漢字で「お野立」と書いてある。戦時中に天皇陛下が立ち寄ったところということらしいです。だから菊紋みたいなかわいい形なのね。原材料は小麦粉、砂糖、卵、バター、白餡、チーズ。チーズだったのか!良い並びですね。バラバラと並べるだけで美味しいものが出来上がるとわかりますね。

昨日は移動途中に図書館に寄りました。久しぶりに行ったけど冷房がちょうどよくて快適でした。調べ物に行ったのですが結局持っていた本を貪り読む時間になってしまいました。昨晩ツイートしたこちらの二冊。

『帝国の追放者たち』(柏書房)のことは昨日も少し書いたけど同時代をそれぞれの国で生き、故郷(ルビはホーム)から別の見知らぬ土地へ流された3人の人生をたどり、実際にその足取りをたどる紀行文学(っていうんだって)。故郷とかホームシックという言葉なんてあまりに使い古されているように感じていたけど使い古されるほどに捨てきれぬ言葉なんだと感じた。

最近、トランス差別に関わる編集者や作家の方々が本が「間に合わなかった」とそれがその時期に必要だから書かれ出版されたにも関わらず被害を食い止められなかったことを悔やむような言葉を書いていたけど本ってきっと私の仕事と同じで即効性とかないと思う。SNSで「これ読んで勉強して」みたいな言葉がヘイトを吐く人たちに向けて書かれたりするのを見るけど学ぶ気などサラサラないからそういう言葉が吐けるわけだからそういう意味では本って無力でさえある。読んでも都合のいいようにしか解釈しないでしょう、きっと。残念なこと。ものすごい読書家で書評とかいっぱい書ける人でも単純なやりとりを悪意まじりでしか読めない人だっているのもよくあること。急に「それはどこに書いてあるんですか」とか圧かけてきたり。コミュニケーションって文字のやりとりだけではないなんてそれこそ多くの本に書いてあるのでは、と思うけど意外と書いてないのかしら。だとしても書かなくても伝わることってたくさんあるはずだよね、相手を人として扱うならば。学びは結局姿勢の問題なのかも。実際、学びってどこでも可能で『帝国の追放者たち』を読みながら私は在日の人やトランスの人たちのことを想った。それそのものが書いていなくても人の人生から大切なものを奪う人たちの思惑とそこを流されずに(あるいは流されながら)生きようとする人たちの物語として浮かびあがるものは共通する。文庫化された『パチンコ』も日本が朝鮮半島を統治下に置いた年から物語は始まる。場所は釜山の島。ここでも故郷とは、母国とは、という問いを立てざるを得ないがこの本は人物描写が驚くほど繊細で自然に心を重ね揺さぶられてしまうのが一番の特徴だと思う。状況がなんであれ彼らは生きていてその苦悩や優しさに胸打たれる。傍観者になんかなれない。そういう気持ちを起こさせてくれる本は知識とは異なる形で学びを提供してくれている。むしろ知識より生々しい形で直接的に。良い本に出会えてよかったです。

さて今日は土曜日。三連休の方もいらっしゃるでしょう。少し涼しいといいですね。引き続き熱中症には十分お気をつけてお過ごしください。

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精神分析

囚われ、連帯、『帝国の追放者たち 三つの流刑地をゆく』(柏書房)を読み始めた。

すでにのんびりしてしまった。やらねばいけないことは山ほどあるのにのんびりもできてしまう。人間のキャパを舐めてはいけない。と思いたいが、私たちの心はものすごく何かに囚われやすいことも事実だろう。死に囚われてしまった人に対して反射的に何か言いたくなるときそれは抵抗かもしれない、自分がそれに囚われないための。人は人を使って生き延びているだけかもしれないのに不快さや不安を感じると相手ごと自分から切り離そうとする。「私よく知らないし」とか「え?関係あると思ってたんですか?」みたいな感じで。嘘くさいがそういう人たちも本気だ。それはそれで囚われている。切り離すことなどできない。

私は「連帯」という言葉が苦手だが人は人を使って生き延びている、というか「いかなる人生も自己もひとつの統一体ではないこと(p.15)」を自由と連帯の側面から描写する本と出会った。『帝国の追放者たち 三つの流刑地をゆく』(柏書房)というきれいな青い表紙の本だ。ここには3人の流刑囚が登場する。柏書房のwebマガジン「かしわもち」(note)から引用しよう。ありがたいことにプロローグも公開されているのでそこだけでもぜひ。「ホームシック」についての印象的な記述が本書で著者と辿る流刑囚三人の物語の導入となる。

「本書はある流刑囚三人の物語です。すなわち──フランスによってニューカレドニアへ送られたパリ・コミューンの闘士、ルイーズ・ミシェル(1830-1905)、イギリスによってセントヘレナへ送られたズールー人の王、ディヌズールー・カ・チェツワヨ(1868-1913)、ロシアによってサハリンへ送られたウクライナの人民主義者、レフ・シュテルンベルク(1861-1927)。より大きな自由とホームの理念のために、目の前の自由とホームを犠牲にした者たちの生涯を著者は辿るのです。」

最初は名前や地名に馴染むのに少し苦労した。異国へ向かうときに最初に生じる言葉の混乱。でもそれも最初だけだろう。まだ読んでいる途中だ、ということで読みたいのであと一冊、すごく力強い本に出会ったけどそのことはまた今度書くことにしよう。

今日はジャスミンアールグレイと生チョコのお菓子をいただいた。治療後の歯が痛いが食べることもやめられない。困った困った。

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精神分析

お菓子、毒、親密さ

今朝は横浜市緑区長津田の老舗和菓子処かわはらの「長津田さやか」をいただいています。なるほど、これはブルーベリーのお味なのですね。私は美味しいとか好きとかはわかるのですが味から原材料を想像するとかが本当に苦手です。柑橘系の何かが入ってるのかな、くらいの曖昧さでならわかるけれども。知って驚いてもう一度食べてなるほどと思うの繰り返しですね。毒見係とかできなそうです。少量の毒だったらすぐには死なないでしょうけどちょっと変な味だぞ、とか判別できないといけないのでしょうか、この係って。映画『ゴッドファーザー3』に出てくるカンノーリを巡るシーンを思い出します。大学生のとき、長期休みは不登校の子どもたちと山中にある廃校になった小学校で一緒に生活をしていました。みんなで校庭から続く山道を散歩していたとき植物博士のスタッフが「触らないで!」と大きな声を上げました。私はそこではじめてそれがトリカブトだと知りました。それまでも見たことはあったでしょう。でも知らなかった。そんなものやことばかりです。

私の主な仕事は特定の相手との親密さと信頼に基づく相互交流ですが親密さと信頼を築くまでが大仕事です。カウチ上で自由連想をすることによって思っても見なかったことを話してしまう、他人になど見せたことのない態度をとってしまう、自分の意識的なコントロールを超えた「思わず〜してしまう」自分と出会うのは苦痛な作業です。よっぽどの切迫感を持って自分の問題として取り組みたい気持ちがないと取り組むのは難しいでしょうし危険もあるでしょう。

最初は聞いてもらえるだけで信頼できた、親密になった気がした。自分でも知らない自分が出てくる、思ってもみなかった反応が返ってくる。不安。不快。世界は自分用にできていない。不快。不安。自分がそこでどんな防衛を使って生き延びてきたかなど暴かれたくない。それはそうせざるをえなかったというだけの話なのに人は「暴かれた」と感じてしまう。最初の親密さは剥がれ落ち別の「近さ」が二人の関係を難しくする。親密ってなんだろう。不信感が渦巻く。言葉が性愛と攻撃性に塗れていることに気づき始める。不安。不快。自分にそんなところがあるはずはない。不快。不安。でも知らないといけない気がする。このままでは自分はまずいかもしれない。想起は続く。不快。不安。抵抗。防衛。反復。いいかげん反復に気づく。防衛がきかなくなる。不快。「こんなはずじゃなかった」「そんなつもりじゃなかった」何を言っても言い訳をしているように感じる。不快。不安ということさえ伝えたくなくなる。何も言いたくない。何も言ってほしくない。それでもここにいて同じことを続けていく。なんで?

親密さってそんな感じではないかと思っています。その人の部分ではなく全体的な個別性に出会うことは当事者であっても難しくましてや他人が、でしょう。判断も行動も速すぎないほうがいい。特に他人のことに関しては。精神分析は判断と行動からは遠い治療だと思います。時間をかけて目的もなくわからないならわからないなりにそんな自分とそれを見ている相手に持ち堪えていく。そういう時間を積み重ねていくことで快原理ではなく思考過程を優位に作動させることができるようになり反射的ではなく時間をかけることができる心のスペースを少しずつ広げていく、そんな治療法です。誰かになにかを無闇に押しつけるのではなく無理や我慢ではなく自分でゆらりゆらりと思考しながら抱えていけますように。困難とわかりつつもそこに価値を見出せますように。

東京は今日は曇り空です。引き続き暑さにお気をつけてお過ごしください。

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精神分析

子供の調子

冷房を効かせすぎた。しまわずによけておいていただけの羽布団をまた引き寄せてしまった。起きたら身体の半分が熱かった。きちんと閉まって冷房には注意しよう。ただでさえバテてるのに風邪までひきたくない。保育園の子たちがお腹の風邪とかアデノウイルスとかヘルパンギーナとかでお休みしていると聞いたり「今日久しぶりの保育園なんだよね(だから調子が出ないんだよね)」ときいたりするとこんな小さいのにかわいそうにと切なくなる。本人はニコニコ元気でも身体が追いついていないことも多くなんか調子悪そうだなと思ってお熱を測ると37度後半、これから上がるかも、ということは多い。私は主に0歳から3歳までの子供をたくさん見ているのでまだ言葉以前の子たちが多く子供の変化に気づくのは本人より大人だ。傷であればそれがどんなに小さくても(ただでさえどこもかしこも小さい)本人に見えるので指差しで教えてくれることもあるし彼らは絆創膏を貼るのも好き。ケアされてる感じがするのだろうか。剥がれて同じ絆創膏がないと泣いてしまったりも多い。子供の絆創膏ってかわいいのがたくさんあるしね。この時期は熱中症もとても心配。大人も絶対気をつけたほうがいいけど子供は気をつけてあげていてもあっという間になってしまうから本当に油断できない。この時期は気温が高すぎるから保育園ではお散歩に行けないのだけど屋内でも熱中症にはなる。お茶とか飲んでくれない子だとほんとに心配。人間、必要なものを摂取するとは限らないのね。確かに今私が摂取したのは暑くて食べる気がしないとか思いながらも「カントリーマアムチョコまみれ」だし摂取しなくてもいいものは食べたくもないのにつまんじゃったりするし。昨晩のポテチとチーザでおなかきもちわるいし。大人は自己管理ですものね。でも大人だからね。子供は調子崩すと本当に心配。いつもは小さくてもすごく逞しく感じる身体が本当に頼りなくさらに小さく見えてずっと泣いているのをずっと抱っこし続けるしかないこともある。保護者も保育者も気が抜けないうえに心細いだろうし本当に大変。みんな今日もあっついけど元気に過ごすんだよ。子供への心配は尽きないですね。子育てツイートとかいつもいろんな気持ちになりながら眺めています。

あ、なんか結構長く書いてしまった。準備しなくては。精神分析を子育てのメタファーで語ることについてSNSでブレストしていたので保育のこと書いてしまったのかな。ブレストは嘘だな。ブレストしようと思って電車でひとこと書いただけだ。忙しくて自分が何を考えていたかすぐ忘れてしまうからとりあえず書いていること多いけど展開させずに終わっていることも多い。がしかし、今日も忙しい。移動も辛い。ふー。兎にも角にも暑さには気をつけましょう。

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精神分析

くずきり、失敗、スヌーピー

首の痛みが治らないな。ヘルニアが悪化してるのかな。嫌ね。さっきいただいた抹茶くずきりを半分にしようと思ったら大惨事。大というほどではないけどやや惨事。というか「惨事」だけでも結構な感じね、いざ書いてみると。くずきりってどんなだっけと思いつつも知っているものとしてきちんと思い浮かべなかったのがいけなかった。こういうことは失敗したから思うだけだけど。まず抹茶が入っている小さな袋を開けるところで失敗。横にちょびっと開けるはずが縦に裂けるように開いてしまった。でも抹茶が少し親指にかかった程度で被害は少なかった。幸運。くずきりが水分とともに麺状で出てくるのはわかってた。でも水分量と麺が滑り出てくるスピードに対応できなかった。また少しこぼしてしまった。お盆の上だからよかったけど。抹茶は最初黒蜜かなと思って(抹茶くずきりって書いてあるのに)、とか小さな思い込みを重ねながらぼんやり行動するからこうなる。私みたいに不注意で不器用な人は普通よりも意識的に行動しないと叱られたりこいつ大丈夫かと思われるようなことをしでかすので療育を学んでから気をつけてきたのだけど相変わらずですな。あと怖い人といると失敗する。緊張してさらになんだこいつ感が強くなる(というかそういう感じを醸し出す人だから怖い)。前に私は好きな人だったんだけど向こうはイライライライラしてて(嫌われてたんだろうね)買ってきてくれた小さなお菓子を小袋から手に出してあげるときにこぼしてしまった。怖くて緊張してしまったのね、きっと。というか絶対そうなんだけど好きだったんだよね。とてもとても悲しい思い出。今も思い出すと怖いし悲しい。身体の記憶として残ってしまってる。不注意や不器用がある子どもが失敗しては怒られてさらに失敗を重ねるのってこういうこと。何ができなくても怖がらせるのは良くないよね、という普通のことを思う毎日ですね。

この前、南町田クランベリーパークにあるスヌーピーミュージアムに行った。高校生の時、演劇部がスヌーピーのキャラクターが登場するというかエレベーターに閉じ込められた世界がその世界になりそれぞれがその時間をそのキャラクターで生きるような、いや、全然違うかもしれない、まあでもスヌーピーの主なキャラクターたちが繰り広げる劇をやったのをみた。私の高校の演劇部は強豪校(というのかな)でレベルも高かった。今も、というかコロナ前まではたまに高校演劇も見ていたけどうまさとはなにかと考えさせることが多かった気がする。なんかもうこの年齢の子たちのエネルギーだけで満点じゃん、とやられてしまうときもあればそもそも自分にはできないことをしている時点で「すげー」と思ったりもする。スヌーピーのキャラクターの成り立ちとかシュルツ自身のこととかよく知らなかったのでとても面白かったしアニメーションとかいろんな展示もワクワクしたし、漫画もたくさん展示されていてどれも意外性と深みがあったしすごく楽しかった。漫画だと全部読んでも全然疲れないね。「ライナスの毛布」というのは多くの人に伝わる言葉だよね。そういう引き継がれる言葉が残っている作品ってすごい。写真はライナスのことを好きなチャーリー・ブラウンの妹のサリー。ちゃっかりはっきりしててかわいい。

You play with the cards you’re dealt.. Whatever that means.

スヌーピーの言う通り。火曜日もなんとか過ごしましょう。外はすでにとっても暑そうですよ。どうぞお気をつけて。

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心構えとか

地震で起きた。ネットを見たら福岡佐賀に線状降水帯による雨に対する警報が出ていた。昨年末から年始は佐賀、福岡にいたがどの辺がどうなってしまっているのだろう。佐賀はあまり災害がないと聞いたこともあるがどんな様子なのだろう。どうか被害が広がりませんように。自然に対してはいつもなすすべなしというかなしても予想を超えてくるという推測は立つ。心構え的なものが有効である程度であってくれますように。

「心構え」について昨日の勉強会で話した。余計なことをしないための、相手の言葉を奪わないための何か特定の方法があるわけではない。むしろどうしても生じてしまうその事態を最小限にしていく、というよりその影響を知るためにはそうなっていることを実感を持って認識することから始める必要がある。「頭ではわかる」が実感を伴った理解に変わればそれ自体が心構えになる。技法は模倣できるが心構えは模倣できないから患者との経験から学ぶしかない。というか臨床はその連続でしかない。

今日は頭がモヤモヤしていてすぐにウトウトしてしまう。最近寝ぼけてヒヤヒヤすることも多い。寝るときもエアコンを使用するようになり快適に眠ってはいるけれど。夢で「郷土料理という幻想」について講義をしていたのだが最近吉本隆明の『共同幻想論』を再読していたせいだろうか。食べ物のことばかり考えているからだろうか。郷土料理についても実際に話したか、そういえば。今朝のお菓子は梅のお菓子。梅の実はもうおしまいかな。昨日は銀杏並木の木陰を歩きながらその枝にびっしりと銀杏がなっているのを見て驚いた。いつの間にこんなにたくさんなったのだろう。まだ大きくなるとも聞いた。

今日は月曜日。眠いけどはじめましょう。

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精神分析

ここ数日でいろんな川を渡った。川を渡ると景色が変わる。電車で座って本を読んでいても川にさしかかればわかる。顔をあげる。視界が開ける。しばらくその景色をじっとみる。毎回少し感動する。いつも同じ時間に小田急線で多摩川を渡っていた頃は夕焼けが美しい時間でその変化で季節の移り変わりをはっきりと感じることができた。いちいち感動した。京成線が中川を渡るときの景色も好きだ。スカイツリーのある景色もいいが何もないかのように見える景色もいい。夜東京へ戻るときも川が近くなれば景色が変わるから気づく。遠くに街の灯りが遠ざかっていくのを眺めながらまた感動する。慣れることなく感動するのだから不思議だ。海が視界に入れば毎回身を乗り出してしまうのと同じか。これは私が海なし県育ちだからではないと思う。新幹線で富士山が見えれば車内がなんとなくざわめきシャッターの音が聞こえたりもする。スカイツリーのある景色といえば、かつしかけいた『東東京区区』単行本第1巻発売がもうすぐだ。楽しみ。

中井久夫が亡くなってもうすぐ一年になる。私は1週間の夏休みをとっていて神保町にいた。ランチの店が開くのを待っているときに友人のツイートで知った。中井久夫のそばで働いている人たちや近い世代の先生方から話を聞くことは多かった。私は一度だけ研修会で見たことがあるがそんなに強い印象は残っていない。中井先生がどうというより壇上の先生方の会話は今だったら色々言われるであろう会話だったのは覚えている。まだSNSがそういう使われ方をされていない時代だった。私が中井先生の仕事で一番馴染みがあるのは風景構成法だ。年齢、性別、症状問わず多くの患者さんに描いてもらった。その項目の一つに「川」がある。詳細は書かないが川が風景に及ぼす影響と川の個別性に毎回驚かされた。それが川だとは全くわからないものもあった。目の前で「川」を描いてもらうようにいうのは私なので私にはわかるしその人にとっては間違いなくそれは「川」なのだ。そういう共有もよかった。

それぞれの心に残る景色があるだろう。全国を旅しながら別の季節にきたら全く別の景色を目にするのだろうと想像することもある。美しく広がる草原を「きれい」と言ったら津波で全て流された後だと聞き愕然としたことも思い出す。私の仕事は出来事と景色を見せてもらうように聞く仕事だからこれからもその個別性に驚き続けるのだろう。私が誰かとしたはずの体験も私の中にしまわれたものと相手の中にしまわれたものでは違う。それにとても悲しい想いをしたり回復できない衝撃を受けることもあるけれど差異こそが現実でひとりひとりの体験は絶対に大事だからいろんな気持ちになりながら今日も過ごすのだろう。こういうことってすぐ忘れてしまうこともであるからいちいち驚いたり感動したりするのかもね。

今日も暑そう?まだよくわからないな。屋内でも屋外でも熱中症には気をつけて過ごしましょうね。あと車内の冷房にも。どうぞ良い1日を。

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精神分析

土曜日、出会い、心

除湿をつけた。窓も少し開けた。エアコンは設定温度に向けて初動がんばってくれるので音がいつもより大きいというか風の音が強い。蝿虎がその下でじっとしている。でもそこじゃ風が当たらないよ。真下すぎる。いいのか、それで。涼んでるわけじゃないのだから。あ、少し動いた。とかしている間にどんどん時間が過ぎていく。あっという間に土曜日だ。

今週はたくさんの人と会った。無事に過ごせただけでも嬉しいし、新しい出会いも集団でイキイキ仕事ができるのもおもしろたのしく普段の仕事のための学びにもなる。イレギュラーな形でしか対応できないが長年続けているものは今後もやっていけたらと思う。

小さいパウンドケーキを半分とフルーツティーをいただいた。部屋もだいぶ除湿されてきた(のか?)。涼しくはなってきた。最近これを書くときはPCを腿の上に置いてダラダラ書いている。腿が熱い。暑い。そして書き始めるとどうしてこう眠くなるのか。

今度の旅ではどんな人に会えるかな、と話した。どこかへいけば誰かと出会う。話す。別れる。そんなことの繰り返しだ、日々は。あえて出会いを求める時期やそれが必要な状況もあるかもしれないが私は大体流されるままやってきた。めんどくさがりなのだろう。自分で強く求めた出会いは精神分析に関するものだけかも。まあ、出会ってしまえば出会い方がその後にものすごく大きな違いを生じさせるかというとそうでもなく起きることはそんなに変わらずひどいことも起きる。そういうのはしかたない。後悔できる類のことでもない。傷つきながら苦しみながらそれでもまた繰り返す、日々を。そしてひどく苦しい気持ちから回復できなくてもそれとは関係ない場所ですごくくだらないことをして笑っていたりもする。笑えない状況でも笑えてしまうのだから人間はすごい。死が間近でもそういうことは生じる。人間は常にon goingだ。こうするときはこういうもの、みたいなものを持っているくせに、パターンを反復しがちなくせに、自分を自分が超えてしまう。誰の力なのかしら。ひとりで生きているのでない以上、自分にはどうしようもない部分が大部分。気持ちを感じるのは自分だから防衛が必要になるのかもしれない。大変なこといっぱいあるもんね。心を守る必要と工夫。

さっき何かの本のことを思い出して書こうと思った瞬間に忘れた。なんだっけ。まあいいか。必要となればまた思い出すだろう。必要ならまた電話かけてくるでしょう、というのと同じ。最近は文字文化だからそういう感覚って薄れているのかもしれないけどね。

というわけで良い土曜日をお過ごしください。

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ポテンシャル

南側の大きな窓を開けて洗濯物を干した。レースのカーテン、さらに洗濯物の向こう、向かい側のマンションのドアが開いて人が出てきた。お互い早うございますね。おはようございます。

重たい障害や疾患のある子どもといるとその限界を頭では分かりつつそのポテンシャルに驚くことが多い。進行性のものであってもそうだ。先日、朝比奈秋の「植物少女」を読んだと書いたが著者は医者だと聞いてなんとなく納得した。日々、病に触れていると注意を向けるところも優先的に使われる言葉も変わってくる。著者は小説を書き始めてから医者の仕事と一旦かなりの距離をとった時期があるらしい。「普通の」人が使う言葉の世界に戻ってくる時間だったのだろうか。「普通」と折り合いをつけた通じる言葉で語られたとしてもその原型が変化することは少ないだろう。精神分析でいえば原光景みたいなものだ。そこは善も悪も幸も不幸もないぐちゃぐちゃとしたどちらかというと暴力的かつ甘美な場だ。つまり性的な場だ。今は「性」と言葉はそういうものとして使われることは少ないように思う。文学作品を読めばそんな性は溢れているというのに。私が進行性の、あるいは回復や治癒の見込みはないといわれる障害や疾患を持つ人に感じるポテンシャルの源泉もそういった意味での性にあると思う。アンドレ・グリーンがラカン、フロイトに回帰しつつウィニコットを中心とするイギリスの精神分析家の理論を踏まえた情動を中心に据える議論を展開しているがそういうものを読むときも性をそのような性として「普通に」捉えることができないと議論はすれ違うばかりのように思う。対象関係論は対人関係のことを扱っていないということもできるがその実感は自分を脅かしつつも生かし続ける性の力を生々しく実感していないと意味を取り違えるかもしれない。その取り違いにさえ無意識という言葉で何かをいうことは可能なわけだが無意識という言葉をゴミ箱的に使うのも違うのでそういうものだとそのままにしておく必要があるのかもしれない。多くの具体的な出来事を思い浮かべながら曖昧なことを書いているがなかったことにしないための行為のひとつだ。今日もなんとかはじめよう。

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本、お菓子、雨

「推しの子神回」ですと?まだアニメ3話目の私についていけるはずのない展開があるのね、きっと。今夜も見よう。

雨ですね。雨の音でどこに何があるかわかったりする。私の場合はすでに目でも見てるから。目の見えない人は耳がその代わりをするらしい。

『聴こえない母に訊きにいく』の五十嵐大さん@daigarashiと『わっしょい!妊婦』の小野美由紀さん@MIYUKI__ONOのTwitterスペース「エッセイを通して社会を描く」を聞き始めた。

聴こえない母に訊きにいく』(柏書房)は最初から泣いてしまった。書かれていない出来事や気持ちがシンプルな文章に染み渡っていて読むと浮かび上がってくるそれらに揺さぶられてしまった。雨の日にピッタリ。母の静けさには迫力さえ感じた。それは耳が聴こえないから、それでも親になったから、という単純な話ではないのだろうと思う。個人の体験は個人だけのものではない以上、語りえないものに溢れてる。この本でいえば父はあまり登場しない。なぜだろう。私の仕事は書かれていないことの方に注意を向ける。そのようなことも含め、ありがちな物語に回収しないように耳を傾けるべき一冊だと思う。『わっしょい!妊婦』はまだ読んでいないけどお二人のお話を聞いているとすごそう。昨日も目の前で妊婦さんたちが3人で話していた。ひとりは明らかに妊婦だとわかったが聞こえてくる話だとこの人も?この人も?と思ったが見た目ではよくわからなかった。妊婦とはそういう状態だということかもしれない。「こんなのが出てくるってすごいことだよね」「ほんとほんと」という会話を聞きながら「こんなのを出せるってすごいことだよ」と思っていた。3人は何度も「〇〇ってすごいことだよね」と言い合っていた。自分のことなのに自分にはわからない、そういうものが神秘として語られるのかもしれないけど妊娠、出産、子育ての現実は神とかいるなら助けてくれよという出来事の連続だからそのすごさに対して全方位からまともな眼差しが向けられたらと願う。

雨が降る。雨が降る。眠気がとれない。お菓子(五日市土産、「里の娘」)は食べた。美味しいお茶も飲んだ。被害の出ている地域は大変だろう。昨日、妊婦さんたちの話を耳にしながら各地の被害状況を見ていた。いろんな場所でいろんなことが起きている。どうぞご無事で。ご安全に。

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ネットワーク、注意、暮田真名「うわの空のすすめ」

今朝も風が気持ちいい。台風とか天候の乱れの予兆ではないよね、と天気予報を見る。九州に大雨の予報、土砂災害に厳重警戒とのこと。こういうとき無事かどうか連絡せずとも知れるのがTwitterだったのだけど今後どうなるのかな。私は東日本大震災のときにTwitterをはじめた。震災後すぐの5月にNPOで被災地へ行きその活動をつなげていくためだった。阪神・淡路大震災のときは関西に友達がたくさんいた時期だった。グループでの付き合いだったからネットワークができていたのはよかったが当時Twitterがあったら何がどう違っただろう、と考えることはある。九州は土砂災害の被害が多く地盤も緩んでいるところが多いだろう。毎回九州に大雨というニュースを見聞きすると旅で行ったときに目にした水害の痕を思い出す。どうか被害が生じませんように。

今週はイレギュラーなことが多いので少し気を張っている。心配は主に体調面だが。常に慌ただしいので自分の状態から気を逸らしておけるのは悪くない。囚われる暇があると余計に気になってしまうということもある。逆に痛みが強いときなどはその痛みがどんな感じかをつかむために集中することがある。これまでとどう違うのか、違わないのかをつかむべく。状態としては結構大変でもその後の回復を予測できるときがあるから。

昨晩は除湿も冷房もつけずに南側の大きな窓を開けていた。風が気持ちよく月がとてもきれいだった。見えたものをシンプルに言葉に置き換えていく俳句、そこに情緒が加わる短歌、景色よりも言葉の意味よりも言葉の並びや音が何かを醸し出してくる川柳、これらを短詩と括ることができるがそれぞれの違いは興味深い。

6月30日に川柳人の暮田真名さんの電子書籍が発売された。「次世代の教科書」シリーズ編集部による暮田真名さんへのインタビューをまとめた「うわの空のすすめ」(金風舎)。題名からして暮田さんらしい。昨夏、臨床心理士、公認心理師向けのイベントにゲスト講師としていらしていただいてから仲良くしているが経験に対して素直かつ貪欲なのが面白く魅力的。若さだけが理由ではないだろう。

「私にとって川柳との出会いは、自己否定の堂々巡りを断ち切る鋏のようなものでした」

と暮田さんは冒頭に書いている。高校生や大学生には特に響くであろう言葉も多い。私は暮田さんがどのように言葉を拾っているかに最初から興味があったのでそれについても話されていてさらに関心を深めた。精神分析は視覚も聴覚も普段とはだいぶ異なる注意のもとに使っている。フロイトはそれを「平等に漂う注意」といった。今日もぼんやりとなにかを待つようにやっていこう。短詩仲間とのオープンチャットも作った。ようこそ、いらっしゃいませ、おいでなさいませ、とお出迎えするときみたいに言葉を迎えられたらいいなと思う。

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ユヌクレ、南信州、ヤキフェス?

北側の小さな窓からスーッと風が入り込んできた。南側の大きな窓を開けたときには感じなかったのに。今朝はユヌクレさんのバターサンドを半分。大人気のパン屋さんはコロナ禍でオンラインショップに切り替えたまま南信州へお引越しされるとのこと。南信州ってどこ?おお、長野の南か。静岡側。そりゃそうか。南信州だもんね。飯田市が一番大きいみたい。人口は172,921人(2008年1月現在)とウィキペディアから。今は2023年、その後の人口はどうなっているのかしらと調べたら96,507人(2023年6月)。こんな減ってるの!?と思ったけど前者は南信州地域の人口。私が調べたのは飯田市のみでした。びっくらした。私の友人も長野に引っ越して商売をしているけど南信州ではない。長野は広いからなあ。色々いってるけど南信州かあ、いったことないと思うなあ。飯田って日本一の焼肉街なんだって。行きたい。朝はユヌクレ、たくさん歩いてお昼はそば、夜は焼肉というコースで。「焼来肉ロックフェス」ってなに!?楽しそう。日本一長い鉄板で焼肉?ギネスに挑戦?あ、世界一か。ギネスだもんね。すごい。楽しそう。流しそうめん的発想かな。あれも「世界一長い」ってあったよね。世界一小さな鉄板だと味がわからなくなっちゃうし、そうめんも流れてもらうにはそうめん以上の長さが必要だし食べ物で競われるのは長さの長い方とか大きさの大きい方なのかな。モノだとどれだけちっこくできるかも競うよね。スプーンおばさんとかアリスは本人の制御を超えているし競ってないなぁ。焼來肉ロックフェスは今月22日と23日か。昨年もやったのね。2021年は中止、2020年は配信。今年はどのフェスも復活かな。色々行けるように体調気をつけないとですね。なんでも食べられる胃腸がほしいです。胃腸が悪いとずっと眠いし好きなものを我慢しなくてはいけないのは悲しいですから。我慢できなくて半分食べちゃったけど、バターサンド。このあと気をつけましょう。火曜日もどうにかこうにか過ごせますように。

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回復、時間感覚

さっきベランダに出たら鳥の鋭い声がした。よく聞く声なんだけどお名前が相変わらずわかりませぬ。でもいつもこんなにずっとは鳴いていない気がする。あまり風もないけど気温も高すぎない様子。でも部屋に入ってもカーテンを開けなかった。冷房の効果を気にする程度には外は夏だもの。数少ないお休みをすっかり体調回復に使ってしまったけど痛がりながら寝っ転がりながらかき氷やあんみつ食べにいきたいとかやりとりしてた。機能が衰えると欲望の健全さを感じますね、普段は困ったもん扱いの欲望さんにも。もちろん欲望によって破滅(しっくりこない言葉だけど)することもあるけれど。身体の痛みやだるさって本人にしかわからないし死もいつおとずれるかわからないんだな、ということは実感を持って知るようになりつつあるけど実際に起こることについては全然知らない。自らの死が間近なことを予測しながらSNSに「これが最後になるかも」と言葉を残す人もいるしまだ幼い我が子が重度の障害を抱えつつ生きた軌跡を残すご家族もいる。今私が思い浮かべた子はすでに亡くなっているので過去形にしたけど存在を確かめるためにSNSを利用している人も少なくないように思う。赤ちゃんの頃から何度も手術を繰り返していた子が小学生になったと知りお祝いをいうことができたのもSNSのおかげだった。動くこともままならないまま限られた人たちと日々を過ごしていると、と色々書いたけど消した。ものすごく大変なことだ。漫画『Dr.STONE』(原作:稲垣理一郎、作画:Boichi)で突然石になってから復活する日までの時間を主人公が数えながら持ち堪えていたが孤独や狂気から辛うじて身を守る手段のひとつが時間感覚を維持するということなのかもしれない。トラウマは時間感覚を破壊する側面を持つがその場合SNSはさらなる外傷と関係してくるかもしれない。断片化されたこころに断片的な言葉の取り入れは困難である場合が多いだろうから。また眠くなってきてしまった。どうなることやらだが委ねられるだけ委ねよう。また1週間がんばれたらいいね。

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観たり読んだり。

まだそんなに気温高くないですね。鳥たちの声は聞こえません。なぜなら早朝からNetflixを見ているから。きっと今日も鳥たちは元気。「離婚しようよ!」はとてもおもしろかった。特に5話までが。今は「バーレスク」。朝から観るものでもないかもだが観たかったんだ。クリスティーナ・アギレラ大好き。楽屋でのDon’t touch my stuff!というセリフに反応してしまった。ケンブリッジに6週間いった時に寮で2週間同室だったコロンビアの子に私が圧を込めていったセリフ。Shit!なことが多かったぜ。一度本気でキレたら部屋に寄り付かなかくなったけど。不良少女たちみたいな雰囲気で妹分のような子たちはかわいかったし仲良くしてたんだけどな。腹たつ。私も相当やばいと思われたみたいだけど知らんがな、仕掛けたのそっちやろ、とまだ元気な20代でした。今でも同じことされたら同じことする気がするけど。戦略なんて増やしたくないしね。しかしシェールもかっこいいな。

『新潮』7月号で朝比奈秋「植物少女」を読んだ。これまでにない母と娘の関係を見せられた気がして深いため息をついてしばしぼんやりした。「離婚しようよ!」で「生きているのか死んでいるのかわからない」というセリフがあった。生き「ている」ことを主人公たち以外の人物からも見せつけられた。意志ってなんだろう。

今日も見たり読んだり出かけたりしよう。言葉にならないことが多いな、なんだか。どうぞ良い一日を。

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肉まん、ボロ市、『ねこたちの夜』

ほっかほかの肉まん。蒸した方がしっとりするけど今朝は電子レンジ。加減が難しいですよね、こういうのって。書いてある通りやってもあちちって火傷しちゃうこともあるし。とっても美味しい鹿港があるあたりは12月と1月に2回開かれる「世田谷ボロ市」で有名。駅だと東急世田谷線上町、世田谷、松陰神社あたり。コロナ禍のボロ市ってどんなだったか・・・。今年はすごく盛り上がっていました。普段見たこともない、使い方もわからない雑貨を眺めたりお話聞いたりちょこちょこ歩き食べしたり。アンジュというレアチーズケーキが特に美味しいプラチノというケーキ屋さんが出すココアがこの寒い時期にぴったり!あー、早く冬が来ないかなあ、とは全然思わないけど毎年行きたくなる伝統行事です。世田谷通りは美味しいお店も多いしお散歩にもピッタリ。馬事公苑のそばには古井由吉も住んでいた。馬事公苑もオリンピックで使うために閉園となってすっかり変わってしまった。というか新しくなってから行っていない。とってもいいところで世田谷まつりか何かのときに偶然友達家族に会ってまだ5歳の子とじゃんけんしたのは何年前かな。もう中学生だから約10年前か。生まれる前から知ってるんだよー、なんてその子は知らないし子供は子供の大変さがあるに違いないけど意外といろんな大人があれこれ考えながら見守ってるものよ、うざいだろうからあえてそんなこと言わないだけで。また何かのお祭りで偶然会いたい。夏祭りの貼り紙もそろそろ見かけるのではないかしら。7月ですね。いまそばにある総合俳句誌「俳壇」は4月号だけど。本はこんな夏の朝でもあっという間に全く別の時間、別の季節、別の場所に連れていってくれる。友達のさわださちこさんの最初の詩集『ねこたちの夜』も昨晩見つけた。ここにいたのね、猫さんたち、という感じの表紙は編みメーション作家のやたみほさんによるもの。この詩集は三越左千夫少年詩賞を受賞されています。

てぶくろのはんたいは?

っていうから

こたえたら

ろっかいぶたれた

くやしくて

いいつけたら

「わるい おにいちゃんねえ」

おかあさん わらった

へんだな わたしも

おこりたいけど わらっちゃう

てぶくろ

ろくぶて

そうか

うーん

ー『ねこたちの夜』(2012、出版ワークス)

また冬を取り上げてしまった。まだ、というより今日から7月というのに。ろくぶて、懐かしい。あれはなんだったんだろう。きちんと6回ぶたれてたよね、大体の人は。123456!って早口でいう相手に。なんだったんだろう・・・。今日はもういいかげんにしてくれよ案件もある。ろくぶてに笑いながら腹を立ててた頃が懐かしいわ。ぶち返すにも微妙な感じあるしね。たしかに。ここまできたら最後まで丁寧に緻密にやりましょ。

暑さからも冷房からもちょうどよく距離とってがんばりましょ。

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心ない人、心と経済、夏のお花

寝たり起きたり。寝違えたわけではないというか、仕事中に急に寝違えたような首の痛みがきてそれからずっと痛くてそれでうまく眠れないみたい。暑いというのもあるね。

心ない人についてずっと考えている。性的な加害性を持つ心ない人(自分の加害性は相手に押し付けるような心はあったりする)が信田さよ子や小川公代を引用して暴力やケアについて被害者の味方みたいな立場を維持しているのをみると心ないというよりもあなたの心はどうなっちゃってるのと怖くなる。でもこれも外からはわからない。信田さよ子だって相談に来なければ助けることはできないからSNSとかで発信してくれていると思うのだけどSNSの言葉ってこうやって都合よく利用されることもしばしば。

「私はそんなことされてないしむしろ優しくされてるしそういうのは個人的なことだと思う」という人も多い。もちろん個人的なことですよね。でもそれを個人的なこととして片付ける個人が多いという意味では社会的なことですよね。個人的なこととかいっている人が「フェミとは距離とってまーす」(こういう軽薄さを伴う場合が多い)とか「ひどいことしてくるのは大抵女」とか雑な分類で何かいってたりするのもよくあること。都合がいい言葉の選択。

ペットが子供代わりみたいな関係がペットが死んで変わることもある。というよりペットが死んだらペットによって繋がれていた関係だったとわかる、みたいなことはペットがいなくても起きる。たいていの関係には媒介がある。利害とかも媒介となりうる。いつの間にか死んだペットを自分の寂しさの象徴として利用していたり。モーニングワークはそういうものではないし、二者関係によって第三者を慈しんでいたならその第三者を喪失したら二者関係がワークの基盤になるが相手を想う心があまり育っていない人は自分の痛みや葛藤を抱えることがすでに難しく快を維持する二者関係以外はしんどいからどこかへ追いやってただただスッキリしたい。商魂逞しい場合、ネタ化、商品化によってさらに誰かの痛みや孤独を強めたりする。「黒歴史」として書いて売っていることもあるだろう。「こういう現実を生きるために」という本だって書いてしまうかもしれない。その場合「なかったことにするために」が正確な題名だと思うけど。

こういう現実を生きるために何にお金を使うかはもっと大切に考えないとだな。貧しい時代なんだもの。心と経済の繋がりを具体的な体験と離れない形で考えて行けたらいいですね。

今日は友達がくれたクラブハリエのちっちゃいバウムをいただきました。とってもかわいいし美味しかったです。お花もいただきました。夏のお花、明るくて大好きです。

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ラジオ、かつしかけいた、7月へ

Good morning. It’s five o’clock, from the J-WAVE Singin’ Clock♪

ってずーっと変わらないよね。学生時代はひたすらJーWAVEだった。今も聞くと当時の人たちがたくさん喋っててみなさん親になったりしてるのね。ずーっと声だけ聞いてるからCMとか別の場所で聞くと「あ、J-WAVEの人だ」と思ったり、J-WAVE主催のライブに行ったり、台本というのかな、そういうのを書くバイトに応募しようとしたりしたなあ。どうして書かなかったのか。きっといつも通り怠惰のせい。

ラジオのこと書きながらも頭は別のことも考えていてさっきはまんが家、イラストレーターのかつしかけいたさん @ktsksketch「路草」で連載していた『東東京区区』の単行本第1巻発売楽しみだな、とか思っていた。連載冒頭の作品紹介を引用させていただきます。

「自分が生まれ育った「東東京」は、まだまだ知らないことばかり……。偶然知り合った年齢も性別もルーツも〝まちまち 〟な三人が、「東東京」の街を探検・散策し、その新たな魅力や今まで知らなかった場所、気付かなかったことを見つけ出していく地元発見冒険譚 。 」

面白そうでしょう。東東京、いわゆる「下町」ですよね。墨田区はスクールカウンセラーをしていた学校はなくなってしまったけどその頃の繋がりで今でも幼稚園に仕事にいくし、江戸川区の病院でも長く働いていた。その頃にかなり歩いていろんな駅やバスを利用してみたりしていた。精神病院の朝は早かった。患者さんたちも早朝から並んでいたし近所の公園でもよく見かけた。NPOで市川(総武線)や市川真間(京成線)北国分(北総線)も身近だった。前に江戸川区の病院で仕事したあと歩いてみようと思ったら江戸川に橋がない!結局市川橋まで歩いて夜のミーティングというか飲み会に行ったのでした。この漫画はインドネシア人の父と日本人の母をもつサラさんがエチオピア出身のセラムちゃんのお母さんが営むエチオピア料理店@立石に入るところから。地図を手に道に迷っているうちに春太くんと出会うよ。東京出身の人ほど東京タワーに行かないというのをよく聞くけどここは下町。スカイツリーがそういう場所。スカイツリーの完成は2012年。押上の友達の家でカレーパーティーをしたときにはまだできていなかった。そっちの方にいくたび、押上の街がどんどん変わっていく様子を聞いたのを思い出す。

わたしはかつしかけいたさんのイラストや写真も好き。街をこんな風に切り取れるのはその全体を知っているからなのかな。単行本はAmazonでも予約が始まっているそう。私は本屋さんで買うけどチェックしてみてくださいね。お散歩好きの人には特におすすめ。

ジャークチキンって言葉がラジオから流れてきた。最初に聞いたのはいつだろう。「邪悪チキン」って悪い顔をした鳥さんを思い浮かべたでしょ、最初はみんなも。そんなことない?フェス飯の話か。そういう季節だねえ。私はまだコロナ警戒中だから空いてるフェスがあるなら行きたい。適当に踊ったり歌ったりしたい。歌と踊りといえば今Netflixで「ヘアスプレー」配信中。すごく元気でるミュージカル映画です。昼間は外出たくないけど夜、花火したり外で遊びたいね。松戸の花火屋さんを思い出した。江戸川でやったなあ。懐かしい。今年も浴衣着よう。受け継がれてきたものも大切にしないとね。楽しいことばかり考えてるけど外に出るのは憂鬱ね。暑そうだもの。まあ、今日も一日なんとかやりましょう。週末は7月!

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鳥、言葉、同時

鳥たちが蝉みたいに一斉になくのをどう表現したらいいのかなと思いながら楽しく聞いていた。少し資料に目を通したり、流れてきた政治家の演説を少し聞いている間に鳥たちはどこかへいってしまったらしく今外はとても静かだ。

いろんな音が聞こえるがさっきまで道路の方に感じていた人の気配ももうない。カラスは時折通り過ぎるし。車が走り去る音も聞こえる。でもまだまだ朝の音だ。

パソコンがフリーズしてしまったので再起動かけた。私たちも寝て起きて再起動。立ち上がりの遅い自分を棚上げして文句言っちゃいけないよなあ、と立ち上がりの遅いパソコンの画面を眺める。でも私の立ち上がりが遅いからきみたちみたいな人、人じゃなくて何?もの?機械に助けてもらっているわけだから早く立ち上がって、とも思う。どっちにしても待つしかないが。

のんびりとだが立ち上がったのでこうしている。こんなことしている場合でもないが動きたくない。どうしましょう。今日もいろんな人と会って私は主に聞く方で一緒に考えて一緒に言葉にしていく作業をする。そういうときは言葉の意味以外、言葉が発せられる行為そのものをぼんやり観察している。精神分析ではそのときの自分の発話などの行為とそこで生じている逆転移も同時に観察している。決まった目的のために、たとえば何か特定のことを伝達するために言葉を使う場ではないので彼らは彼らの文法のままに言葉を使い思考し発話する。いろんなことが同時に起きていて表層に浮かんでくるものを発話し続けている彼ら自身も戸惑いながらだ。こんなことが言いたかったわけじゃないんだけど、とか思わず言っちゃったけど、とか「けど」「でも」「だって」など自分の中で整合性を保つ努力をしながら浮かんだことをそのまま言葉にしようとしてはその困難と不可能に直面する。自由連想ってこんな感じ、ということを書きたかったわけではなかったのだけど指にまかせていたらそうなったのだから書きたかったのだろう、といろんなことは事後的、というのも精神分析の特徴で抵抗や批判にあうところだ。でもそういうもんじゃないのかな。あとからいくら正確に文字にしたところでなんの意味もないということはよくあること、というかそこにはなんらかの反復を見出すことはできるから重要は重要なんだけどその人の転移とか抵抗とかセクシュアルだったりアグレッシブだったりする空想とかそいう諸々は精神分析のルールにそって現れてくるものだからその方法では扱えないんだな。フロイトの技法論集も参照。

いろんな鳥たちが一斉にいろんな鳴き声でいろんな風に鳴いている感じなのかもね、私たちの言葉も。身体と欲動と言葉。いろんなことに順番はないしどっちかということもない。分けられないまま同時に起きてることに身をひたす。まだ風が気持ちいいです。どうぞ良い1日を。

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Juicy by 土居健郎

いただいたメロン、とっても美味しかった。ジューシー。土居健郎が藤山直樹の最初の本『精神分析という営み 生きた空間をもとめて』(2003、岩崎学術出版社)の序文で使った言葉だ。

「英語にジューシ(Juicy)という形容詞があるが、彼の書く文章がまさにそれである。」

この本が出た夏、私ははじめて藤山直樹先生の単発のグループに出た。そこでこの本を購入した(たしか著者割)。一緒だったみんなとはその後も精神分析を学び合う関係でありすでに精神分析家になった人もいるし別の道を選択した方もいる。

私は土居健郎のことは土居先生と呼ぶほど身近ではなく、パトリック・ケースメント(うろ覚えだが)が来日してケースカンファレンスがあったときに発言する土居健郎をみてその迫力に圧倒された。土居健郎が亡くなったときのことは相田信男先生がどこかに書かれていたし、先生方からもお聞きした。土居健郎の著作も一人でもセミナーでも多く読んできたしいろんな人から話も聞いた。みなさん、なにかしら土居先生とのイキイキしたエピソードを持っていて土居先生はオープンな人なんだなあ、あんなど迫力なのに、と思っていた。藤山先生がケース理解に関してなにか大切なことを伝えてくださったあと「って土居健郎がいってた」というのもいつも面白かった。いまや私も訓練中とはいえ臨床家としては教える立場になったので「って土居健郎がいってたって藤山先生がいってた」と言ってみたりすることもある。それに「ような気がする、がいっていないかもしれない」とか曖昧なことを言ったりもする。伝達とは不確かなものだ、というか先生方の考えにだって変遷がある。「前はそんなこと言ってなかったじゃん」ということだって普通にある。というかそれが普通だ。

それにしても『精神分析という営み 生きた空間をもとめて』はいい本だ。フロイトとの対話が基盤にあり、オグデンの考えに強い影響を受けながら一人の精神分析家と患者たちひとりひとりのパーソナルな出来事がまさにイキイキと書かれている。土居健郎はこれをジューシ(Juicy)と表現したんだな。私はものすごくパーソナルな精神分析というものを普遍的なものとして記述するって転移、逆転移を軸に展開する世界をこうやって描写することなんだ、と思い「これを読む先生の患者さんはみなさんご自身のことかと思うかもしれない」とお伝えしたことがある。先生は「そうかもしれないね」と笑っていた。どこにいっても相手を変えて反復を繰り返す私たちのこころは身体を借りて今日も誰かとの間に自分を見出しては否認するだろう。とりわけ分析に通う患者はそれとの距離に敏感だ。自分のこころなのになぜこんなにも遠くにおいてしまいたいのか。自分で自分のことを嫌う。そんなような表現は日常的でよく聞きもする。「自分のことが好きになれない」とか。でも精神分析は好きとか嫌いとか対人レベルの何かではなく自分にもどうにもならない快と不快という原初的なセクシュアリティのレベルで生じる情動と衝動を扱う治療だ。そこには砂漠もあれば泥沼もある。オアシスは空想でならありそうだ。土居健郎が藤山直樹の本の序文で「精神分析という営みにはどのような陥穽が潜み、またそれがどのような醍醐味をもたらすものであるか」と書いているが非常に際どいモノだと思う。

今日はどんな1日になるだろう。あまり聞かない音を立ててバイクが通り過ぎた。御殿場のお菓子屋さんの抹茶パウンドが美味しかった。たくさんの主語があるね、世界には。どうぞ良い1日をお過ごしください。

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思いやり

さっきまですごく賑やかだった鳥たちの声が少なく、遠くなった。もうお出かけですか。早いね。私も今日はいつもより早く出よう。昨日バタバタ急いでてやるべきことを残してきてしまった。今日もバタバタだから朝のうちにやっておかねばまたすぐ1日が終わってしまう。

子供のいない夫婦の夫側が妻と妻以外のパートナーにどういう優劣をつけがちかということについて話しながら書いていた。子供という絶対にお世話が必要な相手がいる場合は実際はなんのお世話もしていなくとも時間的にも気持ち的にもそれなりに拘束されるので別。誰かを大切にする仕方って人それぞれだけど葛藤なく分けて考えていること自体に優劣が発生しているよね、という話。「葛藤なく」が大事。本人なりの葛藤とかはちょっと別。行動と状況から推測。ほとんど葛藤する必要のない状況が多いから、そういう人の場合。色々話しながら考えていくとやっぱり子供やお世話のニードがある相手がいるかいないか、いなくてもそういう相手の存在というものをリアルに考えざるを得ない状況にあるかないかで相手のことを思うこころ、一言でいえば思いやりというものが求められる状況は異なるから何をどう問題にしていくかは変わってくるよね、という話。公私混同しながらダラダラ時間使えてしまうような関係でももちろん思いやりはあったほうがいいけどなくてもそういう相手がいる場合と比べたら深刻にはならない場合の方が多いでしょう。周りを巻き込むこともあまりないし。都合よく離れる理由が最初からたくさんあるから。もちろん一番身近な人がそういう思いやりを大事にする人だったらものすごい負担をかけるだろうけど。障害や病気はもちろん、子供や高齢者のケアについて考えるときにそういう切迫感にどれだけ浸されているかは重要なんだな。「子育てしかしてなくて」と申し訳なさそうに女に言わせる社会はそういう切迫感に耐えられず自分なりの葛藤に留まっている人たちの思いやりのなさから生じているといってもいいかも、これは男女限らずだけど。でも今はまだいくら形整えても結局無意識的に男頼みにならざるをえないのが自然な状態なわけだから女は現実的に相当な状況にならないとこういうこと考えるの抵抗あるかもね。今も具体的な人のことがたくさん思い浮かんでいるのだけど引き続きやっていこう。また話そう。

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再会

西側の窓を開けた。鳥の声が直接入ってきた。窓の外で溜まり込んでいたような風も。気持ちいい。書き出すと眠気がくる。コーヒーを淹れた。詩を書く友達の手作りパウンドケーキも切ってきた。ラジオからは多分テクノ。昔テクノを勉強しにドイツに行った教え子がいたがなぜドイツだったのか。小さな頃から大変な想いをしていた。テクノにはまってからがすごかった。今思えばあまり年齢も変わらなかった。いつも穏やかに微笑みながらそばにいて少しだけ面白いことをたまにいう人だった。今もその人の話をたまにすることがある。どうしてるんだろうね、とその人を思い出す私たちはなんとなく笑ってしまう。そういう人だった。

隙間時間に出かけた。本当によく笑った。出会ってから30年。連絡をとるとき少しドキドキしたんだ、というとすぐに共感してもらえた。やりとりを続けてきた友だちもいるが卒業以来はじめて会う人もいた。会えばすぐにわかる程度に見かけも変わっていないことに安堵して笑い、震災やコロナだけでなく様々な出来事をそれぞれが生き延びてきたことをみんなでねぎらいあった。小さな大学で毎日のように顔を合わせていた日々を卒業したあと、それぞれが過ごしてきた日々を聞きながらふと交わされるやりとりが当時と変わらずそれにもびっくりしあった。外からみたらだいぶ変わったに違いないけどね、と笑いつつ。入学後間もなく同じ時間、同じ車内でそんなことが起きていたのか、とはじめて知ったのもすごく可笑しかった。私は長生きしそうとか言われながら同窓会幹事にさせられたわりになんの仕事もしてこなかったけどみんなのおかげで今回とてもいい形で再会を果たせた。とりあえずというかなによりもみんな生きていてよかった、という一方で身近で亡くなった人の話をしたりもした。そういう体験が増えてくる年齢でもある。廃部寸前の弱小バドミントン部が数年後優勝を果たすチームになっていたのにも驚いた。私が部長のときは相手チームが私たちに向けるやや見下したイメージ通りのかわいいユニフォームで、しかしそこそこ粘る、が楽しむための戦略だった。強豪相手に意外と粘るから悔しくて泣いてた人もいた。イメージで人を馬鹿にしちゃいけないね、というメッセージは伝わる人には伝わったんじゃないか。

優しくたくましいみんなの日々が今日も豊かでありますように。それぞれの毎日が大切にされる社会でありますように。今朝はNHK俳句、斉藤志歩さん。鑑賞がよすぎて毎回感動しちゃう。楽しみ!

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あれはなんだったんだろう うそもほんとも。 お菓子

余裕のなさとか

缶がガラガラと大量に落とされる音を聞いて目が覚めた。多分大量のレモンサワーの缶がプラスチックの箱の中に投げ込まれたのだろう。ベランダから覗こうかと思ったが外に出られる格好ではなかったのでやめた。でもまあ起こされたついでにと着替えて裸足で靴を履き外へ出た。風が弱い。もう少し吹いてくれていいのに。通りにはすでに誰もいなかった。箱の中は予想通りレモンサワーの缶で底は見えなくなっていたがいつもみたいに溢れんばかりではなかった。スーパーの3円のビニール袋を傾けて発泡酒とビールテイスト飲料の缶をガラガラと箱に落とした。レモンサワーが見えなくなった。ビニール袋に一本がくっついて落ちてくれないので手で剥がして置いた。ほとんど乗らない私のマウンテンバイクもどきにかけた傘がまだ少し濡れている気がしてわかりづらい平面のボタンを押し込んでサドルに立てかけた。薄い日陰ができた。まだ光が弱い。今日も曇り空だろうか。キッチンに戻ると一本だけ缶が置いてあった。捨て忘れた。朝そこに立った時に「これも捨てなくちゃ」と思ったのにな。

さて今日は教えてもらたチーズケーキのお店に寄りたいのだけど移動時間を考えると余裕がなさそうだ。うーん。でもキャロットケーキが届く予定もある、そういえば。以前散歩コースに美味しいキャロットケーキを出してくれるお店があった。人気のある店だったが遠くへ移転してしまった。移転先は結構田舎で車がないといけない。相変わらず地元の人に愛されているらしく売切の毎日らしい。よかった。キャロットケーキは見た目もとってもかわいい。見かけると思わず寄っていってしまう。こんがりした茶色にクリームチーズの白。この前も外から覗いたパン屋さんにキャロットケーキを見かけて思わず寄っていってしまった。そこのは断面が正方形ですごくきれいな地層みたいだった。惚れ惚れした。でもかなり大きい。一人分のカットみたいなんだけど。うーん。なんかもったいないから誰かといるときにしようと泣く泣く諦めた。その日から通りかかるたびに「今日はあるかな」とガラスの向こうを探してしまう。あると嬉しくなる。ないと「これからかな」「もう売り切れちゃったのかな」と思う。そしてチャンスがある日に限って余裕がないか忘れてしまうかする。美味しいものがそこかしこにあるからな。

あら。大きな声がして赤ちゃんが泣き出した。大丈夫かしら。この辺、また赤ちゃんが生まれてたんだ。しばらく聞こえてなかったんだけど。赤ちゃんの泣き声もどんどん変わる。保育園の子どもたちも元気かな。土曜保育はいつもと違うおもちゃで遊べるかもしれないね。みんな色々あるだろうけど元気に育つんだよ。

昨日、不買運動について一瞬考えた。人物と作品は関係ないと私は思っているがそう思えない関係があることも知っている。作品によって名を成した人に心も体も弄ばれ仕事もままならず収入も減った人がその人がいろんな種類のパートナーに囲まれて平然と次の作品に向かっていることを知ったらまた日常の行為とかけ離れたよくみれば軽薄なだけの作品(と関連した諸々)に金が入って相手を利用する資源や機会を増やすのかと不買運動に乗り出すことは十分にある。ただ、サークル的関係は解体しない方向で動くから運動と呼べるほどの大きな動きにはならないだろうし多くの女もそこに巻き込まれているわけだからシスターフッドなんてまるで感じられずまた絶望と孤独に陥るだけけかもしれない。それでも「声をあげる」としたらそれは決して黙らない相手に「こんな状態でもまだ生きてるよ」ということを知らせたいからかもしれない。でもそれだって軽薄に知性を活用して人を騙しながら誰かと嘘っぽい幸福な関係を築いている人は自分がしたことまで知的に面白がって距離をとれてしまうのですでに切り捨てられている可能性が高いかもしれない。毎日、高橋ユキさんのツイートでいろんな事件を知るのだけどああいう犯罪とこういう搾取って量と程度以外でどうわけていくわけ、とそこに連続性を見出しながらもそれが法的に罪ではなければ罪ではないという事実に戦う気力すらなくなることだってある。罪悪感を感じない人でも法的に「罪」というレッテルを貼られたら罪人になるわけだけどそれはレッテルでしかないし反転可能な場合もあるから難しい。むしろ法的には被害者とされる人の方が孤独で小さな抵抗を試みるたびに罪悪感に苦しんでいたりもする。都合よく使われ言葉を限定され身体は発散の場所にされ我慢は労われるどころか言葉にしなかったことを「どこに書いてあるんですか」と責められたり。「傷つく」という言葉を簡単に考えたりいろんな側面から検証しないとと検証もせず言っているだけの人はこういう目にあったことがない幸運の持ち主かもしれない。そんな余裕ないことっていっぱいあるんだけど。仕事をしないと生活が維持できないから怒りや気持ち悪さや理不尽に学ぶしかないとどうにかこうにか切り替えようとしてもすごく時間も気力も奪われてどうにもできない体験ってしたことある人って多いと思うんだけどだからといって他人は他人。そういうときだけ割り切れる。誰だって自分のことが一番大事で気持ちよくいたいものね。意味とか価値とか考える余裕もなくそういう目に遭い、それでも生きているという事実に応じていくしかない状態で自分のことも誰のことも殺めず生きていくためにはどうしたらいいのだろうと苦しい夜を過ごす人たちはどうすればいいのでしょうね。言葉で追い詰め身体を傷つける人に限って「そうしないためには」とか他人事のように言ったり書いたりしはじめるからせめてそういうときはすかさず「あのときのあれはなんだったんだろう」と呟くくらいはしておくとかね。不買運動も小さな抵抗。小さな抵抗は小さな祈り。届かずとも自分が生きていくために、と思えばいいのかしらね。

今朝はローゼンハイムのバウムクーヘンと紅茶でした。外はいつの間にか日差しでいっぱい。難しいことだらけだけど今日も一日、なんとかかんとか。

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お菓子 精神分析、本

Netflix、フロイト読書会、お菓子

早朝からNetflix三昧してしまった。「その女、ジルバ」とか「クィア・アイ」とか。「クイア・アイ」相変わらずいいわ。この上品なハイテンションも好きだしみんなすごくよく相手の話を聞くしいうべきことをはっきりいうところも好き。ポジティブになるって一人じゃできないもんね。大事にされて真剣に考えてもらえることは時にうざいし拒否したい気持ちの方が大きくなることもしばしばだけど変わらなければという人には欠かせない関わりになる。クィア・アイはそれぞれの専門性を生かしたチームでやってるのもすごくいい。変化のためにはいろんな方向からの支えを準備していくことが大切になる。前もってではなくて同時進行で。前もっては難しい。何が起きるかは誰にもわからないから。でもパターンというのはあるから積み重ねられてきた歴史は大切。だから勉強も必要なのね。友達も大切。積み重ねといえば何年も続けているフロイト読書会、フロイト全集を最初から読んできて主要論文は2巡目、3巡目になるわけだけどみんなの読み方がすごく変わってきた気がする。こうなるとみなさん優秀だから私は教わることの方が増える。「それは精神分析でなくても理解可能」という範囲での対人関係的な読み方ではなくなってきて、自分の枠組みを壊して広げた感じ。強烈なわからなさの中で持ちこたえてるとこういうことが自然に生じる。多分みんなはまだ「わからないわからないわからない」の中にいるような気持ちでいると思うけど。わからないはそりゃそうでしょう。わかるというのがどんな状態なのかと聞かれたらわからないでしょ。だからわかるわからないの軸はとりあえずなくしてその場にとどまることでいいんじゃないかな。人間関係だってひどい人はいっぱいいるけど心ある人もいっぱいいるから判断は速すぎない方がいいかもね。違和感は大切にした方がいいけど。

今朝は相変わらず長野のお土産の「栗のガトーショコラ」でした。なめらかな生地で小さくてきれいで美味しかった!

今日も雨?今はくもり。このまま降らないといいね。傘持ち歩くとなくしちゃうもの(そういう人多いでしょ?)。それでは今日もご無理なく。余裕なくすと悪循環始まっちゃうからいろんなこと受け止めつつも真に受けすぎず距離取りすぎずゆらりゆらりやれたらいいかもね。わからないけどね。

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精神分析、本

早朝『ヒステリー研究』を読んでいた

深夜と明け方の間くらいからスズメが鳴いていた。夏至を過ぎても日の出はまだ早い。「日が短くなったなあ」と感じる日は本当にいつの間にか訪れる。毎日毎日空の変化を感じていたとしても。なつかれくさかるる、あやめはなさく、はんげしょうず・・・と唱えていたとしても。あ、薬の飲み忘れに気づいた。何か唱えるって大事かもしれない。

空から少し暗い色が抜けてきたのをみてフロイト『ヒステリー研究』を読んでいた。新しくした遠近両用のメガネが合わず本を読むのに一苦労、ということで前のメガネを使っている。またメガネ屋さんにいくのに時間作るの辛いな。さてフロイトとブロイアーの共著でありながらその対立点が明確になった『ヒステリー研究』。岩波版だと『フロイト全集2』。1は失語症論。3は心理学草稿。4、5は『夢解釈』。『夢解釈』を精神分析の始まりとすることが多いけどそのエッセンスはその前夜に全て、といえるくらい出揃っている、と思えるほどその後も長く検討が続けられる論点が提示されている。フロイトとブロイアーは二人とも臨床医であったがヒステリーに性的要因を見出すフロイトにブロイアーはつきあいきれなかったようだ。というより実際にアンナ・Oの治療をしていたのはブロイアーであって、強烈に性的な感情を向けてくる患者といたらそこで生じる混乱や衝動に対処することにいっぱいいっぱいになってしまい理論的考察をする余裕などないというのが臨床的リアリティであるようには思う。ましてやそれを性的なものとして捉えるのはかなり勇気が必要なのではないだろうか。今、精神分析を実践する私たちだって性的なものに対する態度は様々な否認と抵抗と共にありその捉え方や表現に決まったものがあるわけではない。性的なものは言葉にすればするほど混乱を生じさせるようなところがあるし。ということを学ばせてくれる本でもあるのだ、これは。精神分析における「重層決定」「情動」という言葉の登場もこの本の理論的部分と言われている。もちろんこれらの言葉自体は他の分野でもすでに使われていた。今読んでいるフランス精神分析の本は「情動」に関する考察でまるごと一冊という感じだし何年経っても謎なのに重要という概念は結構あるものだ。

もうこんな時間。準備準備。今日は再び雨が降りそう?こっちはまだ降っていません。少し涼しいのは助かりますね。どうぞお元気でお過ごしくださいね。

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夏至、衣更、コンポ

朝の風が涼しい。夏至ですね。太陽は一番高いところへ。今日から昼間が少しずつ短くなっていく。体感とは違うけどその事実を知っていると毎年この日がとても寂しい。私の場合、朝の仕事、昼の仕事、夜の仕事があるわけではないけれど「日が長くなりましたね」「夏至ですね」と天候のお話をするのは朝とか昼間にくる人たち。「よく降りますね」ももしかしたらそうかもしれない。夜ってあまりお天気の話しなくないですか?「昨日の雨は大変だった」とか少し前の話をすることはあっても。そんなことないかしら。

衣更、「ころもがえ、ころもがへ」と読むけどこれは初夏の季語ですね。私はここ何年も衣更は少しずつ少しずつ。5月が特にそうだと思うのだけどまだ厚手の上着を来たくなったり半袖でも大丈夫そうな日があったりする。半袖を着て上着を羽織ろうかな、くらいの日に夏服が入っているタンスからその日着る服と似たような数枚をもってきてさすがにもうこれは着ないかなという厚手の冬服をそのスペースに置く。その繰り返しをしているうちにいつの間にかその季節仕様の服がそばにくる仕組み。ずっとしまわれっぱなしの服もあるけどね。つい同じのばかり着ちゃうから。

コロナ禍でオンラインの仕事ができるようにその初期に一気に整えた。その後も少しずつ仕事と生活のバランスを考えながら部屋を変えているが先日、西側の大きな窓に向いたこの大きなテーブルはここでなくてもいいのではないか、と急に力仕事をはじめた。うちの場合、動かさねばならないのはほとんど本なのでいろんなところに本を積み上げ直し部屋のほぼ真ん中にどーんと机を置いてみた。景色が全く変わった。大きな本棚にスペースも見つけた。懐かしい写真たてと写真も。どうしてもっと早くこうしなかったのかしら。でももし最初がこうだったら数年経ってこの前までそうだった場所に移動して「どうしてもっと」とか言っていたかもしれないものね。

三段ボックスの組み立てに苦戦しているときにたいして使っていなかったコンポ(という言い方自体懐かしい)でラジオを聞いていた。東京に来てから結構長くテレビもなかったしずっとラジオ生活だった。よい。音楽のサブスクもやめた。コンポのそばに積んであったCDやたくさんのカセットやMD、これら全部この小さなコンポで聞けるのだから、と場所を変えた大きなテーブルにコンポを置きラジオを聞きCDを聞きはじめた。今日はなぜかずっと一枚だけそばに置いておいたSonny Rollins、Way out west。1957年製作、発表。私が買ったのは1991年。

CDの取り出し口の小さなボタンを押して英語教材を取り出しソニー・ロリンズを入れた。すぐにあの音が聞こえてくることを期待していた。CD ReadingがTrack1とかに変わるのを待った。あれ?表示が変わらない。NO DISCとでた。えー、入れたばかりですよ、ともう一度取り出し口のボタンを押して一度取り出してもう一度入れてみた。CD Reading、でまたNO DISC。なんでやねん。でもこういう動作自体なんか慣れてるわ、と思って数回やったあと電源を落とし、またつけた。小さく何かが回転するような音が聞こえた。CD Reading→CD1。やったー。入れ直す、電源を落とす、ってこういう機器の危機に対する基本動作だよね、と思った。

昨晩は仕事後も会議があったから今日の資料を作る余裕がなかったのにまたどうでもいいことを書いてしまった。資料作りの方を日課にすべきかしら。でもきっと無理。こういう頭空っぽにして手作業する時間が必要なの。ああ。間に合うかな。がんばろう。夏至だよ、一年に数回しか言わないから言っておこう。今日は昨日より涼しい風が入ってくるけど夏至です。みなさんもどうぞお元気でお過ごしくださいね。

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お菓子 精神分析、本

お菓子、Webちくま、メタ

今週は信州のお土産で朝を過ごしています。昨日のはnoteに載せてしまったけど「ヌーベル梅林堂」の「くるみやまびこ」ハーフ。アンガディーネ(伸ばすって知らなかった)みたいなお菓子でとても美味しいのだけどウェブサイト見てびっくり!7年間保存できる「くるみやまびこロングライフ」バージョンもある。信州だから登山用の非常食にもと。すごい。私の想像ではロングライフバージョンは少し乾いた味がしてる。それにしても「7年」というのはどういう基準から算定されたのかしら。すごい。今日はお土産さんのSHINSHU BLACK TEA COOKIE & CREAM 信州 紅茶のミルククリームサンドクッキー。これ美味しい。ザクザクした生地と紅茶のクリーム。なんだか懐かしい味がする。

いちいち動きを止めるような衝動が生じるけどそこそこのスピードで進まなくてはいけない。みんな他人を利用しながら生きているということに痛みを感じつつ自分がそうしている仕方を確認しつつ。とどまるには自分をメタで見ていくしかない。

本が助けになる人にはWebちくまのこんな連載もいいと思う。堀越英美さん(@fmfm_nknk)の新連載「あなたの悩み、世界文学でお答えします。」。面白かった。

https://www.webchikuma.jp/articles/-/3127

私はジェインみたいになれない、「強火と弱火を自在に操る」なんて、という人もいるでしょう。というか大抵の人はそうでしょう。でもその物語を読んでいるときは少なからず主人公に同一化するわけで実際にそうなれるかどうかよりもひとときでも違う自分になれる自分を発見することの方が大事なのかも。だって「私にはできない」でも「私なんてどうせ」という言葉でも相手になってみようとした結果の言葉でしょう。相手の立場になってみる方法なのね、読書は。最初から拒否的になることだって生じるでしょうけどそれはそれ。自分の気持ちが自分の想定とは異なる方向に動く予感を感じるだけで苦しくなる場合だってある。それもそれ。そういう心の状態にひどく傷つけられる場合もあるけどそういう心は傷つくことをしたくないのだから心を動かせる側がメタを目指したほうがいい。弱者だから傷つく、苦しむ、という場合もあるけれど強者(大抵変化を嫌う人)の脆弱さの投影を引き受けている側面も大きいと思う。だから憎みつつもそれに覆われてしまわないことが大切なのでしょう、ジェインのように。でもこれはやはり文学でのお話。それはそれはひどい結末のお話も「単なるお話」と思うこともできるね。物語に入ってみて出てきてなにかを思うとき、それは入る前よりも自分を客観視できる状態なんじゃないかな。すぐにそうできなくなってしまうかもしれないけど。実際の人間と関わるっていうのは大変だ。でも人がいる限り、人でいる限りしかたないからプチメタ大事かもね。ヘビメタみたい。また言葉遊びに入ってしまうからこの辺にしとこう。プチコントロール。明日は夏至。寂しいな。とはいえ暑さに気をつけて過ごしましょう。

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さくらんぼ、風、鳥

山形からさくらんぼが届いた。二つに仕切られた箱にぎっしり。ツヤツヤ。キラキラ。さくらんぼは「桜桃の実」という季語でもある。「きごさい歳時記」によると「セイヨウミザクラは、明治以降日本へ導入された後、主に山形県で海外品種をもとに育種が行われ、日本の代表品種である「佐藤錦」や「紅秀峰」等の品種が作出された。」とのこと。その山形県からやってきたさくらんぼ♫音符みたい。かわいい。まずは「常温で」と教えてもらった。たしかに!冷やしたあととは全然違う甘味。そうね、果物って冷やさないで食べるときのそのままの味が格別だよね、忘れとったわ。保存の場合、カルピス漬けにして凍らせるのも美味しいと聞いたのだけど保存するまでもなくあっという間になくなってしまいそう。でも大切にいただきたいし。でも1秒でも新鮮なうちにいただきたいし。ああ、美味しいものを美味しくいただくにはいろんな葛藤があるのね。

さっき南側のベランダにでたら風がとても涼しかった。東の空がピンクがかってマーブル状になっていてとてもきれい。部屋に入ったらまたむっとした空気。全部窓開けてるのにさっきの涼しい風はどこ?今は西の窓からすごく静かに涼しい風が入ってくる。もうちょっと気づかれるように入ってきてもいいんだよ。目隠しで中途半端に開けているブラインドがカタカタいうけどそれも季節の音だから大丈夫。気にせず吹いて、でも強すぎず。なんて人間はわがままなのかしら。いう通りにしてもらえないって知ってるからいろんなこと言えてしまう。言う通り思った通りにしてもらえないから嫌になって何も言わなくなってしまう人もいるけどそれは人間同士のお話。人間って難しいというより時折めんどくさい。自然と暮らすことも本来はとても大変なことで次世代、またその次の世代とすごく先を見越して共存の道を探る必要があるのでしょうね。今元気に鳴いている鳥たちもそこに森があるって証拠だもの。空はなくならない?鳥が飛ばない空ってある?南極にも北極にも鳥はいるのね(調べた。大体渡り鳥だって。)ペンギンも鳥だよね。面白いよね、ペンギンって。ずーっとみていられる、というか生き物ってみてて飽きない。だからこの仕事してるのかな。

昨日はじめてお喋りした人たちのことを思い出してフフッてなった。ペンギンから思い出したのかな。自分の自由連想を追うのも難しいわね。

最近、フランス語再び、という気持ちが高まってきているけどその前に英語をどうにかせんとね。その前にさくらんぼ♫

Il faut de tout pour faire un monde.

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精神分析

夢とか快とか

寝たり起きたりしているうちに朝になった。寝苦しかった。除湿もつけていたしちょうどいい感じだったのに。難しい文献を読んで頭がおかしくなっているのかもしれない。今日も暑そう。昨日は特別なお弁当を食べた。塩気に弱い私には少ししょっぱかったけどすごく美味しかった。塩分も大事ですね。そういえばかわいいオリーブオイルとバルサミコ酢もらったんだ。バッグから出しておかねば。いつも持ち歩いてしまうから。バッグ開けるたびに「あ、出すの忘れた」となる。マイドレッシングセットとして持ち歩くならまだしもね。

こんなことしてないで色々片付けないとなあ。ウィーンにも行きたい。フロイトがいたBerggasse 19へ。義務を思い出したら願望で打ち消してしまった。快原理。でも本当に叶わぬ夢にしないようにしたい。

フロイトは「夢はひとつの願望充足である」とその機能を位置付けた。これは「快楽」と結びつけられるかもしれないが、フロイトによる「快」はとりわけ無意識においての「快」は前意識や意識にとっては必ずしも快ではない。フロイトの「快」や「一次過程」(eine andere Lokalität)の彼岸については『快原理の彼岸』とラカンによる発展を追う必要があるが夢がどこからどこへどうやって何をしようとしているのかを考えることは面白い。夢が不在の表象を代理するものとして(ラカンだったら来るべき表象とかいうんだっけ?)なにかしらのスプリットされた主体部分を呼び寄せるものだとしたらウィニコットが「夢を見られない」ことを主訴として精神分析を求めたのはその切迫した不安、あるいは切迫することができない不安に突き動かされてのものだったのかもしれない、など思ったりした。

うーん。そんなこと言っていないで出かける前にお片付けをしましょう。今朝はコーヒー&チヨコレイト。夜はビールが飲みたいな。そんな季節の朝ですよ。どうぞみなさんもご無理なく。

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精神分析

線、差異、チーズ

光が強い!でもまだ朝の光。昨日バス停に向かうとき、強い光とビルやマンションと道路沿いの木々が作り出す暗さというか黒さに強く夏を感じた。建物の間から見上げる海みたいな空は真っ白な雲が数えられる形で浮いてた。こんな綺麗な色の海はあまり見たことがないのにそう思った。道路沿いの植え込みには濃い紫の紫陽花が咲いていた。知らなかった。

いろんな人の話を聞きながら語られている土地を想像し、景色や場面を想像し、それぞれの体験に近づこうとする。どんな感じなのか聞きながら。似顔絵を描いてもらうように。彼らが描写しようとしているものとそれを聞きながら私が描写しているものは異なるだろう。警察官だったらその正確さを要求するだろうが私の仕事は正確さよりどこから線が始まり、どこが強調されるかということを大切にしているように思う。夢を聞く場合も同じだ。断片が部分に、部分が全体に、そしてまた断片に、その動きを繰り返しているうちに見えてくる別の景色こそ「あ、それ、そんな感じ」となることが多い。差異を作り出すことができたらそれは本当に大切な一歩となるように思う。私たちはずれや差異を掻き消す方向を目指しがちだから。

今も頭の中に最近読んだいくつかの戯曲のことが頭にあるがそれについては昨日も今日も書く気がしない。ここでは手が止まってしまうようなこと、手を止める必要があることは書かない。だから大抵似たようなことばかり書くことになるけどこの繰り返しの中で自分が感じる差異に日々助けられているような気もしないでもない、今書きながら思っただけだが。読んだ戯曲には結構考えさせられているのだろう。だから簡単に書けないんだ、きっと。

インスタでブーラッタチーズを果物と豪快に合わせている写真を見た。なんだろうブーラッタチーズって。絶対美味しいに違いないけど楽しそうな名前だね。ブーラッタ♪ブーラッタ♪ってズンチャッチャのリズムでいける。あーいいな。トマト、蜂蜜、生ハム、メロン、あとは美味しいオリーブオイルとかで食べるんでしょ、きっと。素敵素敵。

昔、渋谷のスペイン坂でね、と思い出を書きたくなったけど積まれるばかりの本や資料が目に入っちゃったからやめとく。はあ。暑さに負けずに過ごしましょうね。朝の強い光はだいぶ空全体に馴染んで見かけは穏やかなお天気です、東京。どうぞお元気でお過ごしください。

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精神分析

邪悪道

規則的に鳴く鳥を脳内で真似る。毎日いろんなニュースがあるなあ、と脳内でため息をつく。Netflixで「ミニオンズ」をみた。最高にキュートじゃないか。悪の側があんなだったら能天気でいられるのに。最近善人面した悪人が多すぎるのではないか。むしろそっちが主流なのか。私はすぐに「邪悪」認定されるから善人ヅラしていないらしい。よかった。このままいきたい。「私が邪悪だっていうんですか」と聞かれた。めんどくさいのでとりあえず否定した。そう言われると「そうかもね」と思ってしまうけどめんどくさいからそういうのやめようよ、と思う。「悪いのは自分じゃない、お前が邪悪だ」と悪を押し付けたい人の単純な反転。あなたの周りはそんな単純な善悪でできているんですか。そう思い込んでるからいつもしんどいんじゃないんですか。薄くて浅い関係で毒にも薬にもならないちょっと気の利いたことを呟くのは大得意だものね。単純な「いいね!」をもらいすぎたのかしら。そういう関係は「いいね!」、傷つかなくて。でもそれはそうではない関係で誰かを弄んだり見下したり貶めたりしていい理由にはならないんだよ。そういうことは本からは学べないから知らなかったかもしれないけど。自分の思ってもみなかったことを問われるとイラッとした態度で一生懸命積み重ねてきた本の知識で説明を繰り返すか怪訝そうに首を少し傾けて小さなため息をついて圧をかけて黙らせる。「何その態度、子供?」なんて言おうものならもっとめんどくさくなるので「お勉強」と思ってきちんと耳を傾ける。世間ではそういう人が善人、賢人扱いされて本気度の少ないベタベタダラダラしたサークル的世界で気持ちよさを追求しているのだから、そういう世の中に慣れていかなければ、それが「大人」になるということ、というわけでは全くない。うんざりするが「はいはい、邪悪なのは私ですね。その通りです」ということで正しく邪悪道で精進していきたいものだ。

noteにメモったが、と昨日読んだ戯曲のことを書こうと思ったけどそのエネルギーがない。脳の働きが鈍い。すでに疲れているがなんとかやろう。

note:

日本劇作家協会 戯曲デジタルアーカイブ

青空文庫>91日本文学>912戯曲

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精神分析

鳥、涙、アセスメント

今日は鳥たちが早くからとっても賑やか。いろんな声に耳を傾けているとあっという間に時間が経ってしまう。鳥たちがこうやって毎朝鳴き続けてくれることで気持ちが少し明るくなる。身体の実際の痛みは癒えても謝らないとまずいという気持ちにさせられるほどの言葉の攻撃で受けたダメージには蝕まれ続けている。眠れないまま朝を迎えてしまった人にも彼らの声が届きますように。

SNSで見かけるお店やお花がきれいな場所に行きたいな。早朝散歩を復活させてもいいかもしれない。大学2年生の時だったか、夏に1ヶ月サンディエゴのSDSUに滞在した。朝5時だったか、毎朝みんなでランニングをした。海でもよく遊んだ。全身真っ黒になってしまい先生にこの地域の皮膚癌の発症率データと共に怒られた。最初は食べられなかったカフェテリアの甘いお菓子もいつの間にか食べられるようになった。だだっ広い道路をでっかいスーパーに向かって歩いていると車の中から差別用語を叫ばれた。

鳥たちがどこかへいってしまった。あ、鳩の声はする。くぐもった声で一定時間鳴いてまた黙る。なぜか目がしみて痛い。涙が出る。悲しいのかもしれない。

目の前の人が急に黙る。それまで低い声で落ちついてしゃべっていたのに。一言だしてはつまる。涙が溢れてくる。泣いていたのか。一度涙が溢れてしまうと止まらない。じっと一緒にいる。自分ではどうにもできなくて、とやってくる人たちの緊張の糸が切れる瞬間はいつも突然訪れる。「大変でしたね」という言葉に堰を切ったように泣き出すこともあるが大抵は意外な瞬間に。ずっとひとりでやってきたのか、こんな感情を秘めたまま。そうせざるをえなかったわけには歴史を伴う事情があるのだろう。あるいはそれまでの歴史を断ち切られるような出来事が。まだわからない。本人だってそうだろう。それでも心は動いた。その動きをどう捉えるかがアセスメントのもっとも重要なところだろう。もぐらたたきのもぐらのようにどの出来事に対しても同じように衝動が強まるのか、突然海に投げ出されたかのように自分の涙に溺れそうになるのか、驟雨のように泣き泣き止めば雨など降らなかったかのような、でもさっきまでより明らかにしっとりした連続性をもったストーリーを紡ぐのか。

いつもより広く開けた西側の窓から冷たい風が入ってくる。さっきまでは感じなかったのに。カラスが数羽、大きな声を出し合っている。心はまだ動くだろうか。時折不安になる。

シャワーを浴びて散歩に出て一度帰ってきても仕事に間に合う。まだそんな時間だ。梅雨の晴れ間でもなく曇り空だが雨の降っていない空はこの時期貴重だ。人気のない住宅街でまだ眠っている人をそこかしこに感じながら昨晩と同じように咲いているであろう花々に顔を寄せる。あ、脳内で散歩してしまった。そういうことではない。今日も実在の概念を広めにとっていこう。なんとなくそう思った。

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ゾロ目を待つように。

444だ、と32、33、34と時計が進むのを待った。44444!よし!時計のゾロ目まちはいつから?見逃したってまたいずれくるのに?そうだよ。生きてる限りゾロ目と会うチャンスは失われないのにいつだって見逃すから待つんだよ。

ベケットが死んだのは1989年、1999年だったらややゾロ目。死ぬのをあと10年待っていてくれたら。ややゾロ目のために?ありえない。でも子供のときの私たちのゾロ目待ちにかける情熱は結構なものではなかったか。

1999年は松木邦裕、藤山直樹、十川幸司が精神分析のオフィスを開業した年だ。私は大学院を修了した年だ。なんとかまだ生きてるな、みんな。

突然、友をなくすような体験を何回かしたことがある。理由がなんであれ「どうして」と問い続けることになる突然の喪失の最たるものが死だ。親密でいる間は知らなくてもいいことだって知ってしまえていたのに。どうして、と絶望に打ちひしがれながらでもどこかで理由づけができていたのに。

ああ、ハーブティーで身体が熱い。窓を開けているが風が入ってこない。と書いたら少しだけ風を感じた。意識が風を捉えたのか。多分違う。風を呼び続けその到来を待ち続けなくとも事足りるほどの風はこの土地には吹いている。多分。

幼い頃、雨乞いをする姿を何かの漫画でみた。日照りが作物の、ひいては人の死ももたらすことは容易に理解できた。怖かった。でも子どもの世界では人々に限界が近づく頃に嘘みたいに雨が降った。みんなが空を見上げ手のひらに雨を感じ泣きながら感謝を捧げる、奇跡への。そんな描写だった。『ゲゲゲの鬼太郎』にも「ひでり神」が出てくる。なかなかなダメキャラでキュートなのでチェックされたし。ゲゲゲはなんでカタカナなのかなあ。意味より音、外来感を表しているのか。ひでり神は中国の神話からきてるからどちらかという漢字由来でその漢字が難しいからひらがな+漢字なのかもしれない。

なんでも神の怒りとしてそれを鎮めるためにいろんな工夫をするのもありだがそれはもう奇跡を待つしかない場合ではないか。言葉で通じるうちは声をあげ続けてもいいかもしれない。なんの仕打ちかと考える以前に起きたことをそのまま描写する仕方で。人間界で絶望を与える相手を変えることは奇跡でも起きなければ難しいかもしれないがなんにしたってそんな人と同じ世界を生き延びなければならないのであれば外在化は最小限にしてただ事実を身近な場所で、と思ったりする。見たくないものは見ない、問われたくない問いは悪い問いと認定しそれ以上考えない、あらゆる「正当防衛」に味方してくれる問いを立てられない(決まった問いしか立てられない)相手とだけ一緒にいる、そういう狭さというか基本的に相手を見下した神様的態度は神にもどうにもできないだろうから「あなたからしたらそういう描写になるだろうけど私からしたら」ということを事実と共に淡々と繰り返しなんとなく応答を待つ。問う形にしないのはそういう人からは応答はないと知っているから。応答を待つのはそれとは別の偶然を知っているから、かもしれない。

鳥たちが一気にざわめきだした。次のゾロ目はいつ。6時を回ったらそれはしばらくやってこない。今日も一日なんとかかんとか。

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効果、違和感、『まちがえる脳』

スズメ、カラス、きっとほかにも色々と。おはよー。今朝はハーブティー。ジャンキーなスナックの背で胃がもたれている。目の前に「チョコレート効果CACAO72%」があるけど一体どんな効果が?ほう。カカオポリフェノールがたくさん入っていると。ポリフェノールって何に効果があるんだっけ。ほう。抗酸化作用。この前おなかがすきすぎてなんとなく身体に良さそうというか悪くはなさそうと思って買ったのだけどなんとなく謳い文句で買っているものって多いと思う。普段のお菓子はやたら吟味した挙句いつもと同じものを買ったりするけど。大体チョコならすぐにおなかぺこぺこをおさめてくれるのではと思って買うのにこれ低GIでもある。ということは血糖値をあげたい時には不向きでは。でも一枚食べるだけでも落ち着いたから結局は情報より少しの行動の効果という気がする。今は目の前にあっても食べる気がしないなあ。おなかが気持ち悪い。おなかは気持ちではないからこの言い方は変か。でも言いますよね。違和感というのは気持ちだものね。おなかは気持ちと直接繋がってる感じがする。特に子供の場合。私は小さい頃からおなかいたくなりがちな子供だったけど大人になってもずっとそうだと当時みたいな切なさはほとんど感じない。おなかと気持ちというのは脳と(身体と)心のことでもあると思うけど。櫻井芳雄『まちがえる脳』(2023,岩波書店)は面白かった。「ニューロンの発火」がキーワード。心を脳に属しつつも脳をメタ制御するものと捉えることで互いの可能性を残しておく描写。脳がまちがえるというよりはこちらの意識が追いつかない部分をこちらが間違いとか間違えとか言っているという感じかもしれない。「失敗」とかいうときも結構近いものを感じるなあ。そしてこれからもずっと追いつかないわけでしょ、自分のことなのに。精神分析で「自我」があまりに多種多様な役割を与えられてしまったのはこういうわけか、と思ったりした。なんだか水分が足りないなあ。以前よく通った個人営業のタイ料理屋さんでスイカがデザートだった。小さく切ってあるのに赤と緑と黒の点々。スイカは見た目も本当に可愛い。スイカマニアの友人が鳥取のスイカが一番美味しかったっていってた。名前を忘れてしまったけど。最近フルーツ不足かも。かも、というのは多分そんなことないからなんだけど今不足しているとそんな気持ちになってしまう。あ、もうこんな時間だ。色々やらねば。なんとかやっていきましょう、きついけど。辛いけど。まだ火曜日だけど。

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傘、移動、言葉

雨雨雨。まだ傘を直しにいけていない。姿形が同じビニール傘であってもそれぞれ誰かのもの。シールを貼った私のビニール傘と同じところに入れておくね、と見た目では誰のかわからない透明なビニール傘を傘立てを区切る正方形に一緒にさした。ちょっとしたことなんだ、区別するということは。

カプセルホテルって意外なところにあって意外と高いのね。時期にもよるみたいだけど。ひと区間を移動しながら移動にまつわる話から経済観念の話になってその人らしさみたいなことで笑いあった。同じ職業で同じくらいの稼ぎがあっても移動手段や泊まる場所の選択はそれぞれ。遠方からやってきた人と一緒に移動できる日々がまた訪れたからこんな雑談ができた。

実際に遠い目をしながら聞き流したり大抵の人が遠い目になった話を聞いて驚いたりもした。ものはいいようだなあ、と呆れつつ感心もした。言葉はいろんなことができてしまうから面白くもあるけど大変だなあと思う。他人事ではないが。

「大変でしたね」の一言でいろんなことが通じて笑い合った。言わずともわかる、むしろ言葉にしないほうが終わらせられる。残された時間を費やすべきところに費やしたいという大仰なことを考えているわけではない。自分のやりたいようにしたい人がどんな防衛を使い、どういう攻撃性に突き動かされているかがそれなりにわかる場合はやるべきことだけやるというドライなモードに切り替えるというだけ。ただそうすることにも労力がいるので言葉少なに労い合える関係があるというのはありがたいことだ。

UPするの忘れてうとうとしてしまった。眠たい月曜日。がんばろう。

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精神分析

『新ハムレット』@PARCO劇場

劇場の前で流れている映像に池田成志がうつって思わず飛び上がって喜んでしまった。携帯やPC上でその画像は何度もみていたのに。映像だったから?多分違う。そのすぐあとに本物と会えるという嬉しさからだろう。長年ファンだと言い続けてきて毎回観劇のために感激感涙してきたがあまりに久しぶりでこんな反応をしてしまうほど好きだったとは自分にびっくりだ。

観たのはPARCO劇場開場50周年記念シリーズ『新ハムレット~太宰治、シェイクスピアを乗っとる!?~ 』作:太宰治(新潮文庫刊『新ハムレット』より)上演台本・演出:五戸真理枝。最高の席で久しぶりの観劇。そして池田成志。五戸真理枝さんは句友。真理枝さん演出の舞台は二度目。シンプルで想像力を掻き立てられる舞台だった。出演は木村達成、島崎遥香、加藤諒、駒井健介、池田成志、松下由樹、平田満。私は勝手に池田成志が主演だと思い込んでいたが主演は木村達成。私ははじめて知ったが有名な人らしい。止まっていても動いていてもすごい見栄えの良さ!ものすごい長台詞を絶妙にこなし、ラップもうまい!衣装の着こなしもすごかった。これ太宰のハムレットでもシェイクスピアのハムレットでもどっちでもピッタリではないか。偶然隣り合わせた句友は早速ファンになった様子。わかる。が、私は成志。こんなに長く演劇を続けてくれていてありがとう、という気持ち。自由自在な面白さと不気味さにまた会えて嬉しい。原作を読もう読もうと思っているうちに当日になってしまった。新潮文庫の本は劇場ではすでに売り切れと聞いた。そりゃ買いたくなりますよね。ということで帰宅してすぐに検索。青空文庫のがKindleで0円で読めるようになっていた。ありがたい。原作に本当に忠実だったんだなあ。驚いた。心に残った台詞の数々を改めて文字で読むとまた別の、いや別というより舞台と重なり合ってよりシャープさと深みを感じた。上演台本、演出の五戸真理枝さんのお仕事は昨年、オフィスそばの新国立劇場でやっているのを知り当日券でみた『貴婦人の来訪』が私にとっての最初。演劇のお仕事をしているのは知っていたがすごかった。このあと真理枝さんは第30回読売演劇大賞最優秀演出家賞を受賞された。斬新な脚本と舞台作り素晴らしかった。達者な役者たちが繰り広げるこの不思議な世界に多くの人が足を運ぶ機会をもてますように。

台詞というか太宰の引用をしたいが時間がない。今日は一日雨かな。結構降っている感じの音だ。移動めんどくさいな。でも行かねば。準備準備。どうぞみなさんも出かける方は足元にお気をつけて。