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お菓子 音楽

11月30日朝

うっすら明るくなってきた。うっすらでウルスラを思い出した。魔女の宅急便。今朝熱いお茶とあんぽ柿といづみやさんの「すかのわ」。いずみやさんのウェブサイトには

「横須賀の船をモチーフに「うきわ」の形をした焼きドーナツ。
メープルきなこの贅沢な味わいが口いっぱいに広がります。」

とのこと。ほんまや。美味しい。うきわ真っ二つにしてしまったけど。そもそも沈まないで。

今、ジャズピアニストのエメット・コーエンが来日している。行きたかったなあ。これもおなじみ柳樂光隆さんのインタビューとそこにある音源をぜひ。今年一番好きになったピアニスト。アルバム『Future Stride』は何度も聴いた。今も聴いている。周りに音楽を楽しむ人がたくさんいるライブハウスに来たみたいな気持ちになれる。実際のそれを体験したかった。ピアノを作った人は本当にすごいと思う。それではピアノの歴史をみてみましょう、ということでウィキペディアをみてみる。ふむふむ。すごく詳しいので途中まで。誰か弾いてるときのグランドピアノってウキウキする。叩いて鳴らす音楽。このPCのキーボードも一音ずつ音が違ったら今の私はどんな音楽を奏でているのかな。素敵な文章だと素敵な音楽になったりするのかな、やっぱり。

それにしても眠い。帰ってくるのが遅いというのもあるけど帰宅後は何もできないままきちんとした格好で眠りもせず朝が来てしまう。そりゃ眠いさ。寝てはいるんだけど。

この前、4歳児とzoomで話した。「あみさん、スヌーピー好き?」というから「好き好き」と答えつつ何かなと思ったらその子のセーターがサングラスをかけたスヌーピーだった。まあ、かわいい。褒めると恥ずかしそうに満足そうに画面の外へ行ってしまった。しばらくしてまたその子が「あみさん、ネイルしてる」と。へ?ちょっと映った指がそんなふうに見えたのかな。おしゃれ爪に見えた?ありがとう。全然しないのだけどたまにはしましょうかね。今の子は「ネイル」っていうのね。かわいい。今日もチビさんたちとのお仕事がありますね。お互いがんばりましょ。

それにしても眠いのよ。エメット・コーエンの音楽のせい?心地よいの。寝てしまう前に出かけましょう。みなさんもどうぞお元気で。

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音楽

Mama,I Want To Singとか。

あっつい紅茶と隣町の美味しいパン屋さんのちっちゃいパン。おなかの調子は相変わらずだけど元気は元気。寝る場所にはいつも失敗。でも失敗なりに工夫が進んでちょっと寝心地良くなってしまっている。まずい。『Mama, I Want To Sing』のCDをオン。カセットも聴けるコンポ。いつから使ってるのだろう、というか全然使わなくなっていたけどラジオを聴きたくて手の届く場所に移動してきた。CDは差し込んで入れるタワー型のラックから。これはこれであなたはどこから?いつから?Mama, I Want To Singの歌はすごかった。特にD’atra Hicks。その後はCDはあまり出してないみたいだけど舞台は続けているのかな。私よりちょっと年上くらいだと思う。は!もう引退してたり?そういう歳だったり?私も遠くない感じ?ああ。私の引退は私が決める、なんだけど、私の場合。「セーフティーバーは私がおろす」風に言ってみた。あれつい真似しちゃう。TDLなんてどのくらい行っていないんだろう。小さい子がいる友人のお供的な感じで行くことは一時よくあったけど。みんなもうすっかり大人だ。大きい音に大きな声で泣きだしたチビさんを抱っこして小さい子用の場所、名前を忘れてしまったけどなんとかタウンみたいなところのお店に入って音とお別れしていろんな仕掛けにこっちも実際びっくりしたりしているうちにご機嫌になって全然足のつかない、というか座面にほぼ全部乗るくらいのちっこい身体で上手に座ってちっこい両手でジュースを飲んでニッコリ、で、また泣く、みたいな。大きい音苦手なんだもんね。ディズニーは音すごいよね、と改めて感じるよ。でも子供用サービスもすごいというかうまい。シールとかきちんと忍ばせてるんだよね。チビさん、ビクって警戒してもニコニコパッと出されたシールは思わず受け取ってしまってママに見せてご機嫌、みたいな。魔法だと思っちゃうよね。

『Mama, I Want To Sing』は1988年の大ヒットミュージカル。私はミュージカルは見ていないはずだからあとからサントラを買ったのだろう。『天使にラブソングを』はもう少し後だ。ゴスペルはこれらのイメージだったからNYのハーレムにある教会に連れていってもらって聞いたゴスペルにはびっくりした。すごいスピリチュアルな感じであまり統一感なかったけど教会音楽とゴスペルはまた違う?でもゴスペルって言われたと思うから同じかな。D’atra Hicksは無料で通えるゴスペルのスクールに行っていたという記事を読んだと思うのだけど今検索しても見当たらない。夢?柳樂光隆のいろんなジャズミュージシャンへのインタビューを初めて読んだときにすごく印象に残ったのはその教育資源の豊かさだった。小さい頃から無料でプロの音楽に触れて学べる場所があったら才能ある子のチャンスは広がるよね。日本でもそういう場所が増えたらいいな。音楽はいいよ。何も準備いらないし。私の仕事もそういう意味ではいいよ。身体がそこそこ健康ならできる。ということで今日もがんばりましょう。グループ2つ。みんなはなにするのかな。寝正月まであと1ヶ月ちょいだよ。私は旅に出るさ。楽しみに過ごそう。みなさんも良い日曜日をお過ごしくださいね。

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お菓子 音楽

マドレーヌ、ソフィア・レイなど。

またまずい寝方をしてしまった。顔が潰れているのか腫れているのかわからない変な感じになっている。暖房はつけっぱなしだったからあったかいのはいいけど。さてあったかい紅茶と横須賀土産のマドレーヌ。昨日はよこすか海軍カレーマドレーヌを食べた。今日は普通のだけどでっかい。半分ずっこ。っていう?半分ずつと半分こが混ざってるのかしらね。

今来日しているホルヘ・ローダーとソフィア・レイのアルバムからSofia Rei & Jorge Roeder “Callejon de un solo caño“From “Coplas Escondidas”. ソフィア・レイも楽器みたい。ひとりでいろんな音が出せてしまう。素敵な声。

しまった、関連でジョン・ゾーン(JOHN ZORN)のことを調べ始めてしまった。『The Book Beri’ah, Vol. 1 – Keter』は Sofía Rei & JC Maillard。うむ。30分も経ってる。ジュリアン・ラージが参加しているジョン・ゾーンのアルバムは、と調べていたら「哲学者ジル・ドゥルーズの著作と思想に触発されたアルバム「Multiplicities: A Repository of Non-Existent Objects」の第2弾」というのがディスクユニオンのページで出てきた。今はそれを聞いている。Multiplicities II: A Repository of Non-existent Objects

あーだめだ。これ仕事行けないよ。あとで柳樂光隆が何か書いていないか探そう。彼の記事は私みたいな初心者にも本当にいい。

今日は移動も多いし大変だな。ちょっとした時間に翻訳しないと。昨日は朝少し進んだけどその後は全然進まなかった。11月中にやらないと。お待たせしてしまっている。

しかし、ソフィア・レイの明るさと深さの両方がある声は素敵ね。いつのまにか『The Book Beri’ah, Vol. 1 – Keter』は Sofía Rei & JC Maillardに戻っていた。

今日は今日も今日こそなんかいいことあるといいね。いい音はそこら中にあるね。いい景色も。今日はまた冬らしい気温に戻るのかな。本当に寒くなるのはこれからだけど。こわいこわい。暖かくしてお過ごしくださいね。

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舞台 読書 音楽

11月23日朝

今朝はいつだかどこだかのホテルからもらってきたほうじ茶。いい香り。昨日はコンビニで珍しくほうじ茶を買った。冷たいのはあまり飲まないのだけど「あんこたっぷり!シュー」と。変なところに「!」があるなと思ったけど別の種類の「シュー」もあるのね、きっと。

昨晩も遅くまで本を読んでいたのは覚えているけどどうやってベッドにいったのか覚えていない。きちんとベッドにいて起きたときが夢かと思った。

乾燥がひどい。ユースキン使っても乾燥で傷見たいのができてしまう。足首が乾燥するのは靴下があってないとかあるのかしら。むくみもひどいし。あったかいほうじ茶で循環良くなるかしら。

今日はウィニコットフォーラムに登壇。オンラインだから登壇ではない、ということを書くために登壇と書いてみた。どこまで言葉を曖昧に使うかとかも含めてウィトゲンシュタインをもっと引用しながら話したかったけど咀嚼が追いついていないので古田徹也さんの本を紹介だけしてウィニコットの「ひとりの赤ん坊というのはいない」というテーゼ(っていう?)を中心に日常語で書くことと絡めてお話しするよ。

昨晩は2022年11月に出た『言語はこうして生まれるー「即興する脳」とジェスチャーゲームー』モーテン・H・クリスチャンセン、ニック・チェイター著 、塩原通緒訳。ちょうど一年前だね。これすごく読みやすいのだけどいつも途中までになってしまう。なぜだろう。面白いのにね。とまた古田徹也さんの本を読んでいた。こっちは決して読みやすいとは思わないけど読んじゃうのはこっち。ふティぎ。お茶を飲んでいる時は「ち」が全部「ティ」になる癖がある。言語はこうして生まれる。

朝からjon batisteとSamphaの動画をみて相変わらずコーシャス・クレイ聞いてまた素敵な余韻に浸ってしまう。違うのを聞きたいなと思いつつ戻ってきてしまう。そしてこんな感じの曲もやるのね、と以前の曲からも発見。MVも面白い。不動産屋さんで働いてたんだって、コーシャス。あんないい声で物件紹介されたらきっとおうちもいいおうちと思って借りてしまうかもなっ。

大急ぎで色々書きまくった勢いでさらに書いておきたいけど眠くなっちゃった。ケムリ研究室の『眠くなっちゃった』は本当に悲しくて素敵なお話だったな。ケラ&緒川たまきはほんと素敵カップル。前にしもきたでお二人を見かけたけど緒川さんがケラさんにくっついてニコニコおしゃべりしててすごくかわいかった。ケラさんが緒川さんをはじめて使った舞台も思い出すなあ。あれは何年前だろう。別役実の脚本だったっけ。

今日はみなさんおやすみかな。それぞれいい1日になるといいですね。いいこと降ってきたり落ちてたりしますように。

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俳句 音楽

日曜日

いいお天気。南側の大きな掃き出し窓からも西側のわりと大きな窓のブラインドの向こうもオレンジ。きれいな空。東京は晴れかな。今日はゆっくり。NHK俳句を見た。忘れていた書き物を一気に仕上げて大きな机を覆っていた本を一度全部本棚にしまった。今はまた別の書き物のための本が出ている。今日のNHK俳句は南風主催の村上鞆彦さん。熱い紅茶とアルフォートを食べながら見ていた。なんかしょっちゅうアルフォートもらっている気がする。昨日は雪見だいふくのCMを見てコンビニに雪見だいふくの「白い恋人」バージョン買いに行っちゃた。別の新作デザートも買っちゃったからアイスはまだ。絶対普通の白いのが一番美味しいと思うのだけど「白い恋人」も大好きだからつい。オフィスのそばのコンビニで見つけて気になっていたの。あ、また甘いものの話になってしまった。村上鞆彦さんはとっても素敵。南風のみなさんの句も村上鞆彦さんの佇まいとか話し方とかもとても好き。とか言ってるけど今月は自分の結社の句誌に出す俳句も気づいたら締切を過ぎていた。今気づいたよ。ああ。とりあえず出すのが目標だったのに。全然余裕がないな。あ、NHK俳句のゲストは山崎ナオコーラさんだったのだけど子育て俳句よかった!「母の友」で本紹介(だったかな)もされていたはず。今日は都会にも出るから本屋さんへ行ってみよう。オフィスのある初台は新宿から歩いて15分くらいなわりに都会ではないからね。コンビニの数と高速道路の近さは都会だけどね。

洗濯物を外に干してきた。晴れるみたい。そんなに気温も低過ぎないみたい。低過ぎないというのは服装でどうにかなる気温ということ。

ああ、今日も切羽詰まってるのに日曜日というだけでなんだか気持ちがのんびりしている。チョコ食べたのに朝ごはん食べに行きたいとかなってる。別にいつも行かないじゃん、日曜だからって。そうね。せいぜい電源のあるカフェに朝からこもってるとかだよね。逃避せざるをえない状況ってことだよ。ならこんなこと書いてないで早くやりなよ。えーん。わかってるよー。でもあそこのパン屋さんの美味しいスープが思い浮かんじゃったんだよー。行きたいー。でもだめ。あそこは日曜日は多分遠くからくる人も多いから混んでる。ああ。どうしてあんな小さな駅までわざわざみなさん・・・。うーん。とりあえずやるか。紅茶冷めちゃった。

BGMはずっとコーシャス・クレイ。来日中。昨日すでにライブがあったのかな。お、今日明日か。なんだこれ、「60秒でわかるコーシャス・クレイ」だって。後で見てみよう。アルバムに参加していたジュリアン・ラージはこの前来たばかりだから別の人がギターするんだよね。ジュリアン・ラージとのはこれ。とてもとても素敵。

もうさっきから頭の隅っこの方で怖い自分が「早くやれよ」とうるさい。はいはい。やりますやります。返事は一回。はい。大人だからうざいとか言わない。大体私が子供の時にうざいなんて言葉なかった。

さ、がんばりましょう。

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音楽

雲、ジュリアン

この時期は夏より淡い白の大きな雲がじーっと浮かぶ。今朝もそんな感じ。東側の雲は朝日のいれものみたいになっててオレンジがはみでてるのもきれい。まだ空気は秋。冬の鋭い感じがない。紅葉も今本格的にきれい。2週間前の広島もきれいだったけど東京のほうが遅く感じる。実際どうなのかしら。

おなかの調子が悪くて仕事以外じっとしてる時間が長い。やることがたまってく。ただでさえ時間が止まってたんだなと気づいてショックを受けてたのに。そのショックの身体化かもね。あーあ。しょうがないね。調子悪いと音楽も刺激になっちゃってイヤホン忘れて元気なくしてた日々はどこへという感じ。それでも昨日延々流していた、というよりPC前でウトウトしっぱなしの間に繰り返し流れてたのはジュリアン・ラージの新曲”omission”。

宣伝用に一部切り取られたのがずっと流れてたんだけどここちよかった。ギターの可能性だけではなくて一緒にやる人たちの演奏の可能性も広げていくのがすごいと思う。コーシャス・クレイのアルバムのギターもジュリアン・ラージなんだけど生で聴いたらどうなっちゃうんだろうというくらいきれいな重なり合い。本当はきれいって言葉じゃ全然足りないのだけどこれだけ良いとどの言葉でも当てはまるからいっかみたいな気分にもなってしまう。彼らの緻密かつ考えと正反対な気がするけど言葉にするとしたらもっと体験しないとって感じ。ライブいくとか。トップミュージシャンたちは背景を作るのも最高に上手。どの世界でもそれは同じか。デザイナーの世界もそうだよね。分業が素晴らしい。心理臨床も分業として考えればいいのだけどなかなかそうもいかないのでしょうね。私世代までは多分そうやってきたと思うのだけど。心なんてそもそも全体で語ろうとするからおかしなことになるんじゃないの?と思ったりするもの。

はあ。早く通常の状態に戻りたいな、と思ったけど通常でもたいして変わらない疑惑が出てきた。それもそうか。まあ、できる範囲で行ける範囲までやりましょう。寒いけど紅葉楽しもうね。

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音楽

和ジャズ!

寒い。キーボード打つときに手の付け根の方の平たいところが当たって冷たい。熱い紅茶と久々の柿と昨日と同じりんご。お薬を飲もうとしたら落としてしまった。這いつくばるように探したのにない。どこまでコロコロしてしまったのかしら。転がる形態でもないのに。

今朝も昨晩に引き続き和ジャズ!今度はリアルサウンドの記事で柳樂光隆さんがインタビュー記事を書いていた。数日前に名前を聞いて気になっていた稲垣次郎というジャズミュージシャンの記事。まだ前編なんだけどやりとりが可笑しい。その場にいたら思わず笑ってしまいそうな瞬間がいっぱい。いなくても笑ってしまったけど。この年代の人はすごいね。90歳。本当に単純に好きなもの取り入れてやりたいことやってくぜ、という感じが好き。ものすごい人たちとも普通に対等で飄々としてていいよねえ、こういうの。

マイルス・ディヴィスに関してもこんなやりとりが。

――それはシンパシーみたいなものもあるわけですか?

稲垣:それはないですね、自分とはちょっと違うなって(笑)。

なんかシンプル!!面白い。私が当時大好きだったピンクレディの後ろにもいらしたのね。秀樹もですって。

音、かっこいいですよ。ロックとジャズはどんどんいい関係になりそう。最近ここであげるようなジャズ・ミュージシャン、みんなどの分野とも誰とでもセッションできそうな人ばかり。石若駿とかの世代とか30代は稲垣次郎の世代がやりたかったことをこれまた自然に展開させてるのではないかしら。よくわからないけど柳樂さんの記事を読んでいるとなんかそんな気がする。ルーツを意識し歴史を忘れさせないジャズと少年の心を意地でも忘れないロック、両方大好き。ネガティブな部分もなんでもきちんと出ちゃうのもいい。稲垣次郎さんかっこいい。アルバムはこちら

『WaJazz Legends: Jiro Inagaki – Selected by Yusuke Ogawa (Universounds)』

配信リンクはこちら

和ジャズ!ブギウギの笠置シズ子の少し下の世代ということになるね。歴史は面白い。その曲で今もみなさん繋がってますよ、とお伝えしたいミュージシャンがたくさん。「あ、そう」とか「へえ」というお返事かもね。繋ぐためにはじめたわけでもなかろうから。

さてさて色々大変じゃ。でもグッドミュージックbe with you!

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お菓子 音楽

1987年、高尾のお菓子、Jazz

月曜日になってしまった。どうしましょう・・・。雨が降っているのね。寒くはないけど首にストールを巻きましょう。昨晩、阪神の応援で騒いだわけでもないから喉が痛いとかではないけど肌が出ているところはなんかひんやりする。今日も明日も日中は暑いくらいらしいけど8日(水)は立冬。きっと急に冬を感じる瞬間が訪れる。毎年そうですから。昨日の阪神は強かったですね。今年はずっと強かったわけだけど日本シリーズでも勝つとは。私は岡田、掛布、真弓時代の阪神を知っているので岡田監督が前の優勝の時は27歳だったというのを聞いて時の流れをしみじみ感じたのでした。当時は毎年巨人ー阪神戦、いわゆる「伝統の一戦」というものを後楽園球場に見にきていた。今wikipediaで「後楽園球場」を見たところ

「最後のパ・リーグ公式戦は1987年10月13日の日本ハム-近鉄戦で、近鉄先発の吉井理人がプロ初完投勝利を挙げている。最後のナイター開催試合は10月17日の巨人-ヤクルト戦で、巨人のサヨナラ勝ち。最後のセ・リーグ公式戦は10月18日の巨人-広島戦で、巨人の吉村禎章が4ボール2ストライク(4ボール目の見落とし)から本塁打を打っている。最後のNPB主催試合は10月30日の日本シリーズの巨人-西武第5戦で、最後の投手は西武の工藤公康、最後の打者は篠塚利夫だった(結果は三振だった)。」

馴染みの名前ばかり。前回の阪神優勝は1985年。私が最も野球をよく知っていた時代かもしれない。野茂がドジャースに入団するのはその10年後。いまだに野茂は偉かったよね、という話をする。

そういえば昨日はまた同世代で BUCK-TICKの櫻井敦司を偲んでしまった。BUCK-TICKのデビューは1987年。後楽園球場閉鎖と同じ年。1987年のwikipediaには

「5月25日 – 森高千里が「NEW SEASON」で歌手デビュー。9月12日 – マイケル・ジャクソンが後楽園球場で来日コンサート。9月20日 – おニャン子クラブが解散。12月24日BOØWY、渋谷公会堂にて解散宣言。」

はあるのにBUCK-TICKデビューはない。なぜだ。それにしても「そうか、これはこの年だったか」と思う出来事ばかり。38年。うーん。

ストールしてコーヒー飲んでたら暑くなったので巻き巻きをぐるぐる外したら今度は寒い。なんなんだ。今朝のお菓子は高尾のお土産。めじろ台に店舗があるパティスリーメゾンの高尾ラスクとマドレーヌ。ラスクはカステラを焼き上げてるんですって。今朝は黒蜜味をいただきました。マドレーヌも蜂蜜使ってて美味しい。蜂蜜大好き。

昨晩からグレッチェン・パーラトを聴いている。音楽の記録はTwitterとnoteにしていこうかな。なんとなくすでにそうなってる。時間があるときにメモ的に。グレッチェンは少し前に聞いてその優しい歌声にすっかり虜になってしまったのです。グレッチェンと一緒にやっていたベッカ・スティーヴンスもいい。

“’Cause there’s only now,
change all your thoughts from loneliness to solitude,
sacred,
the space that you’ve found.”

Becca Stevens BandのWeightlessに収録されている Weightlessという曲の歌詞なんだけどウィニコットみたい、と思いながらウィニコットはsolitudeという言葉を使ったかどうか、と考えていた。isolationを使ってはいるけど。

もうこんな時間か。辛いな。辛くてもお菓子は美味しく感じるんだからいいことですよね。みんなにも「あーこんな状態なのに空はきれい」とか「もう秋が終わっちゃうけど今年も紅葉みられた」とかほんのり良い感じのことがありますように。

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音楽

11月3日早朝

星がきれいと空を見上げたら月がまだ高いところにいた。

始発で新幹線の止まる駅まで向かう。この時間でもそれなりに人がいる。いつもより荷物が軽い。急ぎの書き物があるがPCiPadももってこなかった。大きいノートは持ってきた。断片は集めてあるから順序を考えよう。

おなかがすいた。大きい荷物を持っている人は連休でどこかいくんだね。私はひと仕事しにという感じ。とにかく書かねば。なのに。まあがんばりましょう。

今私が一番恐れているのはイヤホンの充電がきれること。柳樂光隆のnoteのおかげで私の音楽生活が戻ってきた。ただ書いてあること以上に調べるのは我慢してる。行きたい店もいっぱいあるがそれは普通にいけないので諦められる。でも調べものは隙間時間でできてしまうからまずい。優先順位大事、と他人にいうのだから自分もね、と戒め戒め。

昨日はジョシュア・レッドマン“Where Are We”のアルバムと、アルバムでカヴァーされたり引用されたりしている原曲の両方を聴ける柳樂光隆のプレイリストの両方を聞いていた。ヴォーカルがとてもゆったりしていて気持ちよく眠れてしまいそうだったが寝てはならぬ時間だった。世知辛い世の中じゃのう。

周りに続々と人が集まってくる。この時間でもおしゃべりしてる人たちが元気で羨ましい。私の仕事はそこそこ身体が元気ならできるからよかった。愛想とか忖度とか大変だよね。しなくてもいいものをどうしてしているのかって自分もその循環に巻き込まれてそれを要求する側にもなってるからだよね。人間関係は難しいね。

よく寝てちょうどよく食べて無理せず過ごしましょう。車窓にはまだ暗い朝。今日最初に鳥の声に気づくのはどこになるかなあ。イヤホンしてたら聞こえないから充電きれてもいっか。

どうぞ良い一日をお過ごしください。

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音楽

お菓子、鳥、Alabaster DePlume

寝不足です。起きていてもぼんやりしがちなので眠った方がよかったのに切羽詰まりすぎています。

昨日は「りんごの道明寺」というのをはじめていただきました。赤白の道明寺を混ぜ合わせてりんご餡を包んだ和菓子。あと栗きんとん。熊本の球磨栗というのを使っているんですって。調べたら「人吉球磨地方は日本有数の栗産地」とのこと。この地名って友人が昔勤務していたところだと思うのです。どっちのお菓子も小さくてかわいくて秋のおやつにぴったり。夜おやつとしていただきました。

眠い、という言葉しか出てきませんねえ。熱い紅茶を入れてきました。

この前、なんだこの声は、とあまりきれいではない声に空を見上げたら水色のきれいな鳥が数羽、桜の木に降り立っていきました。写真を撮りたかったのですが葉っぱに隠れてしまうのと動きが速くて。水色だから見つけやすいかと思ったのですがこれまた絶妙な水色、薄い空色で全然目立たないのです、木に入ってしまうと。そしてこの桜の木、かなり老木なせいか紅葉もせずすでに枯れ枯れで外から見るとスカスカなのに大きめの鳥の姿も隠してしまえるのですね。毎年「これ桜だったよね?」と思うくらい枯れ枯れなのですが毎年きれいに花が咲くのです。不思議です。変な鳴き声のきれいな鳥が電線に止まったところをようやく写真に収められました。何の鳥だろう、と写真から検索してみるとオナガ!私の知っているオナガと違う、というよりは私は本当のオナガを知らなかったのですね。気づいておりませんでした。私がオナガだと思っていた鳥さんはどなただったのか・・・。ね、ピヨ、とそばにいるHANSAのひよこに話しかけてみますが無表情ですね、やはり。この子、お店で何羽か並んでいるときには一番いい表情があった気がしたのだけど、と思ってもう一度見てみたらさっきよりかわいく見えます。なんなのでしょう。

最近、再び音楽生活なのですが、最近の音源の8割は音楽評論家で大学の講師もされている柳樂光隆さんが公開されているインタビューからです。noteに課金もしているのですが公開のペースが早くて、あー、追いつかないよー、と嬉しい悲鳴をあげております。高橋ユキさんもそう。記事の更新がしっかりしててしかも内容も濃く、あー、追いつかないよー(嬉)となるのでした。

10月28日に柳樂光隆のnoteで公開されたAlabaster DePlume(アラバスター・デプルーム)のインタビューは大変興味深く心に残るものでした。ロンドンを拠点に活動するサックス奏者で作曲家だそうなのですが学習障害を持つ方に音楽を用いて支援をしていたりそこで生まれたメロディーを作曲に生かしていたりというお話は支援に関わる立場としても興味深いのですがそれよりもこの人なら相手が誰であっても対話を試みるだろうし、その人のための音楽を奏でてくれるんだろうなと思わせる内容でした。このインタビューはzoomで行われたようですが、最初から相手に対するリスペクトフルな態度に驚きました。独特のペースを感じさせる語りにこちらも耳を傾けるようにして読んでいると時折スピリチュアルにも感じる語りが現れて胸を打たれます。音源を聴いてみるとまたびっくり。不思議な揺れと控えめな音の重なりあいが静けさと懐かしさを呼び覚ましてくれるような音楽で、今は知らない国の小さな祈りの場のような曲が流れています。調べたらTo Cy & Lee: Instrumentals Vol. 1に収録されているSong of the Foundlingという曲だそう。うん?Foundling?捨て子という意味でいいのでしょうか。みなしごハッチを思い浮かべました。

このお二人の対話は静かでお互いの声が同じ音量とペースで響いてくるような心地よいものでした。でもとても不思議、と思ってAlabaster DePlumeを少し検索してみたら海外での対面のインタビューなどもみることができました。少し「やっぱり」で少し悲しくなるようなものもあってそれはすぐにみるのをやめてしまいました。当たり前のリスペクトに少し身を引く人がいるのもよくわかります。でも、と私は思ったのでした。

また月曜日がやってきてしまいましたね。皆さんもGOOD MUSICと出会えますように。

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音楽

マグ、ヌバイア・ガルシア

洗濯物が思ったより多くて辛かった。というより早く次のことをせねばなのに、という焦りでそう思ったのかも。色々大変なんだ。この柿、美味しい。駅向こうの八百屋さんの。この街に越してきたときはすぐそばに八百屋さんがあったのにな。そのあとにできたお花屋さんとは仲良くしていた。そのあとには何ができたんだっけ。古いアパートの1階部分をいつでも撤退できるような簡素さで使っていた店たちだった。みんなどこかでお店続けてるかな。熱いお茶飲もう。今日はマグカップに緑茶を入れた。持ち手があるのにそうではないところを持ったらあちち。当たり前だ。湯呑みの底辺を熱くならないようああいう風にしたのも工夫だよね。マグの持ち手だってくっついてるのに熱くならないのだから不思議。はじめてこんなような形の入れ物ができたのってすごくすごく昔でしょう。土器から?最初は道具を使ってなかったのだものね。すごいことだ。小さいとき、みんなで雨に向かって口開けたりしたでしょう。自然に対する飢餓感と恵みを知る瞬間だったのかしら。そういえば子供の頃、学研か角川かどこか忘れちゃったけど漫画「日本の歴史」の日照りの場面はとても怖かった。ガザの水や電気はどうなっているのだろう。人がこんなに工夫ができるようになった時代に人を殺すなんておかしい。すごくすごく昔から言葉ひとつで人を殺せることはあったかもしれないけど、いや、なかったかもしれない。言葉はいつからこんなに暴力的なものになったのだろう。

音楽はいい。はずなのに、というか、いいものだから?いいものを攻撃するのは人間の原初的な心性なわけだけど加齢だけでは大人になれない。破壊と殺戮を繰り返してきたのは大人だもの。イスラエルの音楽フェスで襲撃にあったDJの方のyoutubeを少しみた。音が出せなかったから字幕で。もうなんともいえない気持ちになった。どうか少しでも早く普通の感覚を普通の生活を取り戻すことができますように。

昨日、blue note東京で初来日公演を果たしたロンドン出身のサックス奏者、ヌバイア・ガルシアのインタビューを読んだ。インタビュアーは柳樂光隆。媒体はRolling Stone Japan。来日前にもデビューアルバムを介したインタビューを再掲してくれていてそれでヌバイアのことを知ってデビューアルバム『Source』を何度も聞いた。来日公演の様子をSNSで知って私も行きたかったよーと思った。今回のインタビューはヌバイアが通り抜けてきた音楽ジャンルの多彩さに驚かされた。音源もたくさんで全部チェックする時間がない!のが残念だけどリミックス・アルバム『Source ⧺ We Move』が素晴らしくてずっと身体を揺らしてしまって仕事にならない。記事と一緒にいろんな音源チェックしてみて。今日の気分に合うものが見つかるかもしれない。

あと最近ずっと聴いているこれも柳樂光隆のインタビューで名前が出てきたThe YAYennings Quartetのデビュー作『Scott Ave』(2019)。軽やかで淡々としていて明るい。乱れなさの醸し出す明るさって仕事するにはちょうどいい。

さあ、今日もどうぞご無事で。東京は爽やかないいお天気です。みなさんのところはどうでしょう。どうかお元気で。

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仕事 言葉 音楽

言葉とかTシャツとか初回面接とか。

寝てるときに右足首を左足首にかける癖があるようで自分の足の重さのせいで痺れたり痛んだりしている。力の抜けた人間の身体は重いとはいえ両方とも自分なのに。どの雪崩れからここへきたのか舌津智之『どうにもとまらない歌謡曲 七〇年代のジェンダー』(ちくま文庫)を手に取った。パラパラしつつ最近私は歌のない曲か歌詞が聞き取れない曲ばかり聴いているなと思った。もしかしたらとんでもない歌詞の曲を口ずさんだりしていたりして、と思うことはハードロックに没頭していた高校時代にもあったがそんな感じ。色とサイズがかわいくて気に入っていたTシャツの文字がスラングだと英会話の先生に笑われたときは赤面した。好きだった人が半ば押しつけるように買ってくれたTシャツには差別用語として受け取られてもおかしくない言葉が書いてあった。自分で選びたかったな(ツライ)。音楽はどうなのだろう。差別的で暴力的な言葉を使う人でも誰の胸にも響くような音楽なら奏でられたりするのだろうか。するのだろう。差別用語をモノに包んで贈り物にだってできるのだし。言葉は相手がいればその影響を受けざるを得ない。自分が何かを言って相手から返ってくる言葉は自分が発した言葉の影響を受けていることは忘れられがちだが、という話を初回面接のグループでした。力動的な心理療法家としてアセスメントする場合、防衛のあり方などはそのコミュニケーションにおいても反復されるので自分のあり方抜きでアセスメントはできないだろう。治療者は目の前の人が何に困っているのかを把握するためにいつもその人が取りがちなコミュニケーションに対して開かれている必要がある。たとえ相当苛立ったりしたとしてもどうして今この人とそうなっているのかということを自分が発しているものを含めて考える。だから自分の特徴を知っておく必要がある。そのために訓練はある、という話をした。

別の本のことを書こうと思っていたのだが眠くなってしまった。二度寝はできぬ。準備せねば。新しい1週間もがんばりましょう。

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言葉 読書 音楽

かわいいといえば、とか。

眠い、すぐに眠ってしまう。急に涼しくなったから身体がついていかないという人が多い。私もそうなのかもしれない。あくびばかりでる。仕事のことで音声入力を使ったら変換間違いがおかしかったのでふざけて関係ないことも入れてみた。「あくびが出てしまう」と適当な口調で言ってみたら「歯茎がでてしまう」と出た。変換後の文章を文字としてみても変換前になにを言ったのかわからない。「粘着の間違い」ってあるんだけど私はなにを言ったのだろう・・・。英語だったらもっとひどいんだろうなあ。「人間は弱いかな」とかもある。絶対こんなこと言っていない。弱いだろ。言ってもいないのに返事しちゃった。こういうことって実は日常的に起きているのかもしれない、と思うと少し心配ね。でもそこから生まれる遊びもあるかな。ここでもたまに変な間違いしてるんだろうね。

私が思わず「かわいい」というと「かっこいい」と言い直す園児がいた。「かっこいい」と言い直すと満足そうだった。彼女は結構大きくなっても「かわいい」という言葉がしっくりこないようでみんなが「かわいい」というものにもそんなに興味がもてないようだった。「きれい」「すてき」という言葉はとても自然に使っていた。ちっちゃい子が「すてき」とかいうとかわいい。その子の前で赤ちゃんのことを「かわいい」と言ったら「私は?」と言われた。あらあら。「すごくかわいい」と言うとそこそこ満足そうだった。

かわいいといえば暮田真名さんの川柳に「かわいい」という言葉を使ったものがあったがなんだったか。(「かっこいい」だった!in『ふりょの星』左右社)暮田さんが「暮田真名以外」というアカウントに載せているstand.fmのラジオが秀逸。やっぱり頭がいい。声もいい。喋り方もいい。淡々とした一人漫才も面白い。一人喋りがこれだけうまいのだから漫才もできちゃうだろう。というか漫才の才能がある人は一人喋りがうまいのだろう。なんてことない出来事の一部を広げていくしかたが新鮮ですごくいい。記憶力もいいのだろう、というか暮田さんはとても頭のいい人だと知っている。川柳に記憶力は必要ないと暮田さんはおっしゃると思うのだけど辞書に載っていない言葉を含め、語彙力は絶対に必要だと感じる。あと軸のブレなさ。教え方とかもびっくりするくらい上手なのですよ、暮田さん。誰にでも通じるものにする工夫をずっとしている気がする。川柳をというよりあの教え方を体験しにいくのもいいんじゃない?と思ったりする。それにしても暮田さんの文化は新しい。最近「くるり」の新譜が出たが「くるり」くらいだと共有できるのかな。ブルース・スプリングスティーンは共有できないかも・・・。知識としてはできるけどこの熱狂とかあの想いとか。最近、柳樂光隆のプレイリスト「for Joshua Redman”Where Are We”」に大好きなブルース・スプリングスティーンを発見して再び聞いている。柳樂光隆さんの記事を読むようになってよかった。自分の音楽の歴史が想起されたことに驚いた。記憶力ないのに。Netflixでは今も『SPRINGSTEEN ON BROADWAY』が見られる。『ボーン・トゥ・ラン ブルース・スプリングスティーン自伝』(早川書房)と繋がってるんだと思う。この本はファン必携。かわいい赤ちゃんのときの写真から始まりますよ。赤ちゃんはかっこいいとはいわないよね、あんまり。行動にはいうと思うけど。そうか、彼女は「かわいい」は見かけのことというか全体を表す言葉としてはしっくりこなかったのかもな。

今日はいいお天気。乾燥もはじまった。身体大切に過ごしましょう。

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お菓子 音楽

羊羹、お茶、音楽

PC前に突っ伏して寝ていた。よく働きよく遊びよく疲れている。が、翻訳とか書き物とかは全然進んでいない。なぜだ。やっていないからだ。

南側の窓を4分の1開けた。これまでは半分。それ以上は開かない。戸袋がないから。大学生のとき一人暮らしをしていた仙川の小さなアパートは雨戸があって戸袋があった気がする。いや違うかも。どこかで私は戸袋に窓を入れるのが下手だな、と落ち込んだ記憶がある。ああいうのに上手いも下手もあるのかよ、と思うかもしれないがあるんだよ。不器用な人は本当に驚くようなことに苦労しているものなのだ。今はとにかくゆっくり動く、仕組みをよく見る、人の真似をする、それでも無理ならやってもらう、ことが上手くなった。最初のステップである「ゆっくり動く」が最大の難関だったが優しい人たちの上手な声かけが徐々に内在化され今は不安や恐怖や眠気が強いとき以外はまるで落ち着いている人のように振る舞うことも可能になった。

戸袋といえばこれももうどのくらい前になるのか。母と京都の町屋に泊まったことがあった。とてもとても古い建物でとてもとても高齢に見える女性がお孫さんと思しき方と一緒に経営されていた。お二人ともとても素敵でお二人の姿が見えなくなるたびに母と静かに盛り上がった。建物も古さゆえの不便はあれど私の語彙では表現できないがとてもよかった。あの町屋はもうなくなってしまったはずだけどまた行きたい。

今朝は、暑い間は食べる気がしなかった羊羹をようやく開けた。熱いお茶と一緒にいただきたかったから。羊羹は数年前、河口湖に行ったときにふらっと入って一目惚れした「富士菓匠 金多留満」の「富士山羊羹  甲州もも」。今回はお土産でもらった。パッケージはまるで洋菓子。桃と羊羹の断面がいろんな向きで配置されているピンク基調の絵柄なのだがよく見ると少し面白い。かわいいピンクのワンピースに羊羹の柄を描かないでしょう、桃は描いても、という感じ。フフフ。かわい面白い。さて、少しの弾力を感じながら小さなナイフを入れる。伊万里の青木陶房で買った水色の小皿にそっと置く。青木さんもとても素敵だったな。土のこととか色々教えてくださった。お茶も夏の間は開けなかった滋賀のお土産、中村農園の「土山煎茶」。爽やか。緑がきれい。少し暑くなってトレーナーを脱いだがまた着た。今朝は少し寒いくらい。

お茶といえば来月はルピシアのBOOK OF TEAが出ますね。知ってるかな。いろんなお茶を丁寧に、でも気楽に飲みたいな、という紅茶好きな方に特別な贈り物をしたいときにはこの一冊(一箱)。最初にいただいたとき、大感激した。みんなであれこれ言いながら分け合うのも楽しいです。お茶とか陶器とかはそのヴァリエーションの多さに本当に驚く。葉っぱとか土とか基本は同じなのにね。

今朝はNubya Garcia『Source』。ゆったりかつ力強いサックスが心地よい。最近は柳樂光隆の記事が私の音楽の指針。どの記事も背景がしっかり書かれていてその人の個人史としてもジャズの歴史としても興味深いし勉強になるし紹介されている音源が素晴らしい。あと彼らが所属していたり受けてきた教育の話がとても参考になる。多様性を実現しようとするチャレンジャーたちの資質と地道な努力が素晴らしい音楽とともに受け継がれる土壌づくりにもしっかりと目配りが利いている。上質のグループで教育を受けられることは本当に素晴らしいこと。そういう人たちを単に「恵まれている」とするのではなくそういうグループ作りが可能であることを私たちはまず知らないといけないのかもしれない。ヌバイア・ガルシアのインタビューはこれ

今日は再び月曜日。色々あったはずの9月も体感5日分くらいでしたね。そうでもないですか。日常は慌ただしいけど心の中の時間だけは過去にも未来にもどこかへも引き伸ばす工夫をしながらなんとか過ごしましょうか。

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読書 音楽

秋、80年代、ラジオ

涼しい。半袖だと少し寒い。今日は長袖で出かけられる。嬉しい。別にいつでも長袖着たければ着ればいいじゃん、という話ではないのである。どんな格好してても暑いぜ(でも電車は寒いぜ)、という日々がようやく終わってのびのびと秋の服を着られるのが嬉しいのだ。今年は本当に「秋なのに」という残念な気持ちが続いた長い長い夏だった。これ当然「春なのに〜♪」のメロディにのせて書いているわけだけどこの曲は春に期待しすぎだ。「春なのに」ではなく「春だから」だよ、と突っ込む人もいたと思う。現実、春は別れの季節なのだ。そう考えると「秋なのに」は暦に引っ張られすぎかもしれない。お天道様がそうならそうなんだよ、と素直に長い残暑を受け入れることも大切かもしれない。でも暦はもともとお天道様の事情に合わせて生活してきた人たちが作ったものなのだからそれが合わなくなってくるというのは環境問題、マジでやばいですよ、という話でもあるのである。本当に。ちなみに「春なのに」は1983年1月11日に発売された柏原芳恵の12枚目のシングル(by wikipedia)である。当時はみんな「こんにちは、柏原芳恵です」と真似していた。私はひたすら「ハロー・グッバイ」の冒頭を歌っていた。「紅茶のおいしい喫茶店♪」と。でも「こんなかわいいカップになりたい」とは思わない、と話したら「えー、そう?」と言われた。なりたい人もいるのか・・。「美女と野獣」のチップを思い浮かべた結果らしいが、あれ魔法かけられちゃてるわけだし。ちなみに(二度目)宮本浩次が歌う「春なのに」もいい。宮本浩次は何を歌ってもいい。

身体の強張りが強い日はこうしてタイプするのも苦痛だが一度座った場所から動くのももっと苦痛、ということでどうでもいいことをばーっと書いてしまった。いや、どうでもよくない。1980年代の歌と共に育ってきたのだから。どの曲も歌詞はツッコミどころ満載だがとても切なくもなる。

この前、 HelloTaroさんのニセコのコミュニテイラジオの番組RadioAmbient 026 : The Bookends Vol.01にお邪魔して主に私たち世代の曲に谷川俊太郎の詩を載せて遊ばせてもらった。ストリーミングありなのでよろしければ。ただおしゃべりをしているだけなのだが1970年代生まれの方には響く曲もあるかもしれない。

今流れているのは小沢健二「愛し愛されて生きるのさ」♫

良い日曜日を。

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精神分析 音楽

「個人的なこと」、「場の安全」?

なんか蒸し蒸しする。まだ冷たい麦茶を飲んでいる。もう9月も22日というのに。もう22日か。言ってみて改めて意識する。どうしよう・・。

あるイベント会社の会員の自動更新が減っているという。どうしてだろう。私もやめた。私の場合は小さな抵抗として。女を部分対象として扱い、扱えない女には暴力的に振る舞い、そう扱える女とは依存関係を維持し、そうすることで自らを使ってくれるホモソーシャルな場ともwin-winであろうとする人を知識人として扱い登壇させる場にお金を払うことは性的搾取の温床の維持に貢献することになるから。個人の戦いなんて誰にも理解されないかもしれないが、そう感じながら戦っている人はたくさんいるというのも事実だ。個人的なことを個人的なこととして考える大切さを知っているからむやみに「私も同じだよ」と言わない。だからそれぞれ孤独だけどそれを維持することも必要なんだ。精神分析は社会的に、政治的に自分を抑圧、否認、解離することで消去してきた人に「個人的なこと」を個人として語る場を提供する。そういうイベントスペースとは真逆の機能。こういうプライベートな空間を維持するためにはそれを脅かす場にたやすく課金するなどしないという努力も必要。私が会員の自動更新をしなかったところで登壇者たちは何も困ることはない。そこではない場所で十分に稼げている社会に「適応」した人が登壇する場所だから。それでも、ということ。

喪失をモーニングワークすることができない時代。実際の身体をもつ人間同士の関係を「リセット」できるかのように振る舞う人が高度なAI技術について語ったり「人は誤る。失敗する。そういうものだ」とかいっているのを見ると「なかったことにしたいだけじゃん・・・」と呆れる。痛みに触れることができないのだろう。相手から脅かされたと感じるとすぐにビビって被害的になってありったけの知識を駆使してこちらを加害者にするスキルも高い。痛い想いするくらいなら相手の心も身体も壊してもいいことになってるみたい。すごいことだ。人の痛みを理解する基盤を自らが壊す。大変な時代だ。そういう人が「場の安全」とか言ってるのをみると驚く。自分の「安全」ばかり考えている人が?安全ってなんだっけ?場づくりについてはずっと考えていかないとすぐに何か良くないものの温床になる。難しい。

Samara Joyの声は優しいなあ。昔、サラ・ヴォーンが大好きでよく聞いていたことを思い出した。個人的なことを大切にできる場をそれぞれが維持できることを願って。

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音楽

蚊。音楽。

パッとしない空。光が差したようなあとはあるけど。どの方角の窓を開けても窓のほうに手を差し出せば風を感じるけどスーッとは入ってこない。

「北八ヶ岳ロープウェイ プレミアムコーヒー 深く濃いブレンド」をゆっくりゆっくり落としてりんごのお菓子といちごのお菓子と一緒にお盆にのせてパソコンの前へ。おなかの調子はずっと悪いので大好きないちじくは我慢。やっと買いやすい値段になってきたのに。お盆をテーブルに置いて座ろうとするとなにやら黒いものが。一瞬怯んだら見失った。そしたら今度は私の大事な「もりりんご」の上に!なんで私ではなくてそっちを吸おうとするのか全然わからない!と思って少し追いかけっこ。大きいがそんなに動きは早くない。なのに捕まらない。「もりりんご」をやられたショックに結構本当に呆然としつつ蚊取り線香に火をつけにキッチンへ戻る。ずっと昔から集めていた素敵なデザインのマッチ箱の中身はもう湿気っているからチャッカマンで。よくこんな名前をつけたものだ。うちもハンガーのこと「ハンガマン」とよんで歌もあるけど。自分につける虫除けスプレーはあるけどこの部屋に夜までゆっくりされても困る。蚊取り線香は喉をやられるからあまり使いたくないのだけどしかたない。エアコンつけたけどドアを開けたまま足元に置く。蚊取り線香を持って戻ってきてから見かけないのですでにこの部屋にはいないのかもしれない。それならそれでいいけどなんで私ではなく「もりりんご」を・・・。お菓子をとられた恨みは大きいぜよ。自分でもびっくりするくらい元気なくなった。胃腸の健康よりお菓子を優先しているというのに邪魔をするとは。もー!蚊め!「亀」って出たらどうしようと打ちながら一瞬思ったけど大丈夫だった。

そして音楽を聴きすぎて仕事が全くはかどらない。Cyndi Lauper ”Time After Time”なんて好きすぎて何回もきいてしまう、しかも歌詞をしっかりきいてしまう。まさにtime after timeなのだがこれはとても悲しい曲。シンディが当時付き合っていたマネージャーとの歌。こんな素敵な歌にできたんだからむしろ別れてよかったじゃん、と慰めた人もいたかもしれない。いないかもしれない。そんなことは誰にもわからないけど多くの人が共感できるからこそ今でも人気があるのはたしか。恋だけの話ではないが、だれかとの関係を表現するときどこをどう取り上げるかでまるで印象は変わってしまう。自分がどう表現したいかということに尽きる。意識的な目的は色々だろう。相手にこう思われたいとかとりあえず吐き出したいとか特定の相手にだけ伝わればいいとかこの部分だけは正確に伝えたいとかまるで逆のことにしておきたいとか。小説家でもなければ表現は大体ステレオイプで何度書き直しても結局「下書き保存」してばかりだったり書いているうちにアホらしくなって「こんなの書くくらいだったらこの曲きいてたほうがいいわ、こっちのほうがよっぽどしっくりくるわ(関西弁風に読んでください)」ということでシンディ聞いてしまうかもしれない。逆にどんな手垢にまみれた言葉だろうと自分で書いておくことに意味があると感じて書き続ける人もいるかもしれない。この曲だって歌詞はわりとよくある感じだから。でもこのメロディにこの韻をのせるのは最強という感じがする。どっと切なくなってしまう。一曲リピートで何度も何度も。

もうこんな時間だ。蚊め!ショックを受けてる時間が長すぎた。バカみたいだ、木曜日の朝。

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音楽

9月20日朝

毎日眠くてしかたない。すっきりしない。カーテンも朝一番に開ける気にならない。麦茶は潤すために飲む。胃腸もずっとすっきりしない。でもいつもの居酒屋にはいきたい。毎日ほとんどの店がラストオーダーを終える頃に帰るのでよかったかもしれない。時間があったら私の胃腸は耐えられなそう。私の自我は信用ならない。

ジョン・バティステ『World Music Radio』(Verve/Interscope, 2023年)を聞いている。面白いし美しいし楽しい。スパイク・リー監督の『Red Hook Summer』の音楽も手掛けてるそうだけど日本未公開。ピクサーのにも参加していたみたいだけどみていない。スパイク・リーは別の映画も音楽がらみで先日教えてもらったばかり。

radikoタイムフリーは7日前までなのかあ。がびーん。聞き逃しも聞き逃した。TOKYO FMのTHE TRADで9月12日にやった柳樂光隆さん @Elis_ragiNa ゲストの「秋のジャズ新譜大収穫祭」聴きたかった!

ジョン・バティステのインスタで自宅らしきところでピアノを弾いている場面がみられるのだけど千葉雅也さんもこういう構図で自分のピアノ場面を撮っていた。これがピアノ弾き的にはベストなのかな。写真の構図も難しいけど面白い。

なんだか爪の伸びが早い気がする。夏は髪が伸びるのが早いと聞いたが爪も早いのか。爪的にはまだ夏ということか。まだまだ暑いのは事実だが夜はだいぶいい感じになってきた。

今こんなことをしている場合ではないのだが、頭の中ですべきことがぐるぐるまぜこぜになっているのを感じるのみで手が動くままにしている。とりあえず全部持ち歩いては手をつけずそのまま持ち帰る重たいだけの日々。今日はさらに重たくなる。筋トレにもならず腰が痛くなるだけなのに。まあ、がんばりましょーね。

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コミュニケーション 音楽

「博覧強記」、継続、音楽。

地震か。Yahooの地震情報によると震源地は宮城県沖、最大震度4、マグニチュード5,5とのこと。東日本大震災以来、ずっとこの地域で大きめの地震が続いているように思えてしまうのは果たして気のせいだろうか。震災の2ヶ月後から郡山、石巻、南三陸、相双地区、塩釜などいくつかの被災地に行ったが、そこで見たり聞いたりしたものが地震のたびに最近のものとして蘇り続けるからだろうか。とにかく起きたとしても再び眠ることができますように、被害が出ないように、と祈るばかり。

外では夜明けに向かうまだ暗い空の中、カラスが大きな声で鳴いている。小さな声を出すこともできるのだろうか。

私は「博覧強記」という言葉をSNSやある言論プラットフォームのおかげでたやすく信じることをしなくなった。「おかげ」というのは変かもしれないが今のそれは特に人間性と関係していない薄っぺらいものであるという認識ができたのでこの言い方にもなる。優しく穏やかに嘘をつきホモソーシャルな基盤(「つまりオレ」と心で呟く、みたいな)に貢献しない女を見下し、時には実際に傷つけながらなんか哲学っぽいこと語られても、という話でもある。SNSとコロナによって「博覧強記」さんたちの棲みつく環境は豊かになった。傷つけられた人たちの記憶が薄れる機会も奪われた。トラウマの時代は回復を見込めなくなりただ生き延びることを迫られるようになった。それについてなんか偉そうなことを書いたりするのもそういう人たちだったりする。救ってくれると思った場所も地獄だった、みたいなお話が古びないのはそれが現実だからだろう。

さて、週末は個別的で特別な対話に時間を割いた。アセスメントと「最低限のことをやっていく」ということについて。この仕事はこの二つを継続的にやっていくことで、それを可能にするのもこの二つを継続的にやっていくことなのだが自分のしていることの公にはしない部分の言語化も必須。言葉だけならなんだって言えるのは最初に書いた通り。

音楽もたくさん聞いた。昔からの友人にたくさんの音源を聞かせてもらったり由来を教えてもらったりもした。そしてnoteにも書いたが子ども世代と音楽の交換のようなこともした。ジョン・バティステも聞いているというAdoの新曲DIGNITYは稲葉浩志作詞、松本孝弘作曲でいかにもB’zで切なくドラマチックだった。Adoはいろんな声を出せる。Official髭男dism、Mrs.GREEN APPLE、back number、GReeeeN、藤井風、優里などを聴き比べながら私の世代の音楽と重ね合わせて紹介したりした。

今日もどうなることやら。防衛と武装などせずにいられたら楽かもしれないが人の心は勝手にそれらを必要とするので過剰さにだけ気付ければよいがどうなることやら。

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音楽

柳樂光隆のnoteを読んだ。

穏やかな朝。鳥たちは元気だろうか。蝉や鈴虫の音に気を取られていた。もちろん毎日姿をみているのは鳥が一番多いのだけど耳が拾うのが。

柳樂光隆のnote更新のメールがきた。先日、Rolling Stoneに公開されたジャズハープのブランディー・ヤンガーへのインタビュー記事がとてもよくてnote 「review is a diary」に課金した。オンラインの記事に課金することはほとんどないのだが哲学者の千葉雅也、ノンフィクション作家の高橋ユキの文章にはしている。それぞれリサーチもすごいし対象に対して真摯、誠実な書き方はお金を払ってでもというよりお金を払って読んで大切にしていきたい。

今回の柳樂光隆のnoteは「about SF JAZZ COLLECTIVE:21世紀LAジャズの拠点(6,800字)」。

“「SFジャズ」はアメリカでのジャズの普及と発展に貢献してきた団体で、コンサートの企画から、LAの子供から大人、プロを目指す若者からジャズに興味を持ち始めたリスナーまで、様々な人たちに向けてジャズに触れる機会とジャズを学べる環境を提供してきた。それらの多くは前述のSFジャズ・センターで行われている。”

ということなのだがその活動がすごい。ときめく。6800文字ぎっしりその魅力でいっぱいなのだが引用されているたくさんの音源も素晴らしい。こんなふうに書ける柳樂光隆も教育者として優れているのだろう。ジャズを学ぶことはアメリカの歴史や社会状況やそれが生まれた土地について学ぶことでもある。だからこそ適切でエキサイティングな教科書が必要だしそれを実践で見せてくれる先達が必要だ。ああ、なんて羨ましい!と思うがこの記事から学んだそのエッセンスを自分の仕事に活かすことならできなくはない。毎日慌ただしくて読んだり書いたりする時間がないが音源がたくさんあるとそれを聞きながら移動したりもできるから本当にありがたい。

今日も無事に夜を迎えらえるように陽射しの中へ出かけよう。子どもたちも夏休みが終わってしまったね。早く学校に行きたかった子もまだまだどこにも出かけたくない子もみんなみんなとりあえず無事に一日をすごせますように。