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お菓子 仕事 俳句

確定申告、橋本多佳子の句集

昨日は雨が降った。昼も夜も降ったらしい。昼間、外に出たら道路が濡れていた。傘をさしている人もいたからほんの少し前まで降っていたのかもしれない。

雨は大船渡の火災を少し鎮めたらしい。もっと早く降ってくれればと思わざるを得ない。土の中にはまだ熱源があるとのこと。完全に鎮まりますように。すぐに大きく細やかな支援が入りますように。私もできることを探そう。

確定申告、ああそういえば、と後回しにしているものを次々思い出す。よくわからなくて後回しにしていたものだから友達に教えてもらいながらする。毎年、こうして、いろんな人と愚痴を言い合いながらする作業だ。開業仲間が多いのは心強い。こういうのはいろんなものの持ち寄りと分け合い。期日には間に合うだろう。色々納得いかないが。お金をもらわずにすごく労力かけているものには何もくれなくてお金をもらった分からは取られていく。なんなんだろう。仕事ってお金にならない部分がかなりあるけどね。

以前も書いたがコロナ禍、オンラインで話していた句友が教えてくれた橋本多佳子の句集をちょこちょこ読んでいる。馬車の時代を経験しているんだな、と思う。私はその音も揺れも映画やドラマの中でしか知らない。

仏蘭西租界

春曉の路面かつかつと馬車ゆかす
 
春曉の街燈ちかく車上に過ぎ
 
幌の馬車春曉の街の角に獲し

春曉の外套黑き夫と車上
 
春曉のひかり背がまろき馭者とゆけり
 
春曉の靄に燐寸の火をもやす

これらは多佳子が夫と上海、杭州へ旅したときのものだ。昭和10年5月、これが夫との最後の旅となったという。

毎日10,000歩以上歩いていた日々は終わったが週平均だとなんだかんだそのくらいになる。意識して歩いているわけでもいろんなところに移動しているわけでもないのに不思議だ。鳥たちは実物でも写真でも実によく歩く。飛べるのに。飛ぶ方が労力いるのかな。

今日は頒布のみのお菓子屋さんを営む友人のフロランタン。北杜市での生活も長くなってきた。

「バタークッキーの上に、キャラメルアーモンドが乗ったクッキーです。リッチなバター感の歯応え良いクッキーが、香ばしいキャラメルアーモンドをまろやかに包み込みます。」

と紹介されている。この紹介プリントもいつも嬉しい。そしてこのフロランタン、とっても美味しい。花豆のケーキも最高だったがこっちはまた別の感動がある。そしてプレゼントにつけてくれた丸子紅茶のこの自然な甘みはすごい。ほんわか。今日はよく晴れそう。外も光に覆われ始めた。週末、良い1日になりますように。

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俳句

朝の会話、斎藤志歩さんの俳句

曇り空。房総のお土産「旅するプリン」のいちごミルクの色は鮮やか。パッケージのイラストもかわいい。

昨日、朝、カーテンを開けたらベランダや向こうの家の屋根にうっすら雪が積もっていた。夜のうちに雨へ変わったのに思ったより白かった。滑らないようにあまりゴツくない雪対応のブーツを履いて玄関を出たら道路は普通の雨上がりの道路だった。久しぶりに履いたせいか親指のところが痛かったのでいつものスニーカーに変えた。寒かったけど手袋をしなくてもひどく悴むこともなかった。大きなポケットに突っ込んでいたからかもしれないけど。

そういえば先日、電車で向かいの角に立っていた小さな女の子のところになん駅か過ぎてから乗ってきた多分高学年の女の子が歩み寄った。小さな女の子は嬉しそうにすぐそばで手を振った。この二人のおしゃべりがとてものんびりでかわいらしかった。雪を見たことがない小さな子にスキー場で降るんだよと教える大きな子。スキー場も行ったことがない、と少し黙る小さな子。どんなブーツを履くのという質問も素敵だった。またしばらく間があって、大きな女の子が優しい声でいつもの男の子はと聞くとまたまたしばらく間があってあの子は雨の日は遅いのと小さな子がいい二人で少し笑いあった。通勤の電車でこんなかわいらしく穏やかな会話を耳にできるとは。

言葉の良さでいえば昨日の朝日新聞「(あるきだす言葉たち)」の「烏貝」という斉藤志歩さんの連作もとても素敵だった。私は穏やかで静かな句が好きなので斎藤志歩さんの俳句はどれも大好き。言葉の引き出しが多いのは間違いなのにそれをたくさん使っている感じが全くしない。第一句集『水と茶』(左右社)はタイトルもいいが良い句集だった。岸本尚毅さんの帯も本当にそうだなというものだった。

夕東風へ黒板消しを打ち合はす 斎藤志歩 ー『水と茶』より

黒板消しを打ち合わす文化は1992年生まれの斎藤さんにもあった。今もあるだろうけど減っていくだろう。夕東風はもう少し寒い時期の春風か。夕方の空はどんな色の日だったのだろう。黒板消しの出す色付きの煙が溶けていく空は。斎藤さんはすごく寒い日にすごく寒がっていてもあったかい空気を出せそうな人で、一度お会いしたことがあるが、雰囲気も俳句と同じだった。新聞に載ってくれて嬉しい。みんなに読んでもらえる。

鳥たちが何か言っている。きみたち、今日ちょっと遅いよね。私もか。良い一日になりますように。

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俳句 精神分析、本

俳句、サラ・コフマン

お天気がイマイチ。昨日は光がいっぱいだった。

NHK俳句は堀田季何さん。「けりをつける」の「けり」って切れ字の「けり」だったのか!句友の名が!すごいなあ。でも私も先日、句会で出した二句両方に特選と佳作をいただいたので、最近の地道な習慣にご褒美をいただいた気分。引き続きがんばろう。

昨日は止まると寝てしまいそうだ、とちょっとカフェに寄って作業を始めたらそこで眠ってしまった。サラ・コフマンのフロイト読解が参考になっているので読んでいるのだけど文章が難解。私の読解力の問題もあるだろうけど、この文章はイマイチではないだろうか。難しい。サラ・コフマンはフロイトの読解方法をフロイトに適用する。フロイトの自己分析に厚みが出る。そしてコフマンは夢と遊び(芸術)を大切にしていると思う。たださすが哲学者。しつこい。エピグラフは

「好ましき事はすべて、三つでやってくる」。ジャン・パウル

あ、読んでいたのは『人はなぜ笑うのか? フロイトと機知』(人文書院)です。ひたすら「三」にこだわっている。精神分析は二を抜け出すための三だけど三を分解していくことも大事。そのためにはこのこだわりも大事か。

今日はどんな一日になるかな。いいことありますように。

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俳句

句友

起きたらカーテンの向こうに月が見えた。久しぶりにきれいな夜明けも。

昨年、句友を二人喪った。プライベートは何も知らない。お一人は少し年上でお一人は結構年下なのでは、と推測している。俳句と選評だけを通じたつながりだった。私はお二人の句が好きだった。そういう人は多かった。DMでのやりとりは亡くなる当日か前日まであった。それぞれが所属する結社誌に彼らへの追悼文が書かれた。私は会ったこともない彼らの俳句を読んでは泣いた。自分でも不思議なくらい悲しくなった。わたしたちが、というより、少なくとも私は、なによりも言葉によって人を愛したり憎んだりしているのかもしれない。あの絵文字を送りあってから3ヶ月が経つのか、と結社誌の巻頭を飾るその人の俳句をまた読んだ。そうそう、こういう俳句を私たちとのオンライン句会でも書く人だった、とまた泣いた。私が一日一句を突然始め、習慣化できているのも彼らのおかげなのだろう。

アンドレ・ルロワ=グーラン『身ぶりと言葉』に言語活動の表象(シンボル)として象形(フィギュラチフ)芸術と書字(エクリチュール)に関する記述があるのだが、と書いていたらピンポンが。こんな早朝に。色々あるもんだ。

とりあえず無事に過ごしましょう。

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俳句 料理 精神分析

サバカレー、フランス語、忘れ物

朝です。ご近所のおうちたちがオレンジ色に照らされています。朝から印度カリー子さんの「3ステップで作る!ちょうどいいサバカレー」を作って少しいただきました。味見程度と思ったのにおいしくて食べてしまった。さばの水煮缶はカリー子さんが使っているのと同じものにしたけど塩加減は私は相当少なくていいかも。あ!今気づいたけどレモン汁を入れるのを忘れた。ガーン。まあ、すごく簡単だからまたすぐ作りましょう。ココナッツミルクも余っているしね。

最近フランス語の勉強をサボっていたことがバレてしまった。隠し立てしていたわけでもないけど指摘された。Duolingoを毎日やることでヨシとしてしまっていた。もちろんそれでは読めるようにも話せるようにもならないとわかっている。やらないよりは当然マシだと思う。うーん。YouTubeを使って勉強している人が多いことは知っているが私は本当に動画が苦手。映画とかは別。注意力散漫だから画面上の情報が多いYouTubeが苦手なんだと思う。なので帰りの電車で情報を集めポッドキャストで教材をチョイス。そんなことをしていたら一日一句作るという習慣が早くも崩れそうになった。気づいたら夜。というか昨日は結社誌のための10句を選んだことでやった気になっていた。

冴え返るとは取り落とすものの音 石田勝彦

いい句だ、と書くなり少し不安になる。写しまちがえていないだろうか。せっかくの句を私の書き間違えのせいで変なリズムの句にしてしまっていないだろうかなど。いつもそうだ。書いたあと、何度も確認してしまう。自分自身の句にもそのくらい気配りができるとよいのかもしれぬ、がとりあえず2句作っただけでよしとした。今日も実景から作ろう。

先日、一緒にエレベーターを降りた人が突然カバンをゴソゴソしはじめた。忘れ物を探す仕草はみな同じ。私は忘れたことに気づかずいろんな人にお世話になってきたが気づくときはそうなる。こうなるよねー、と思いながら待っていたら見つかった。よかった。

よく勉強した週末だった。それでも普段より余裕があるのは助かる。習慣作りも地道にがんばっていこう。今週も良いことありますように。

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お菓子 俳句 読書

フィナンシェ、伊達公子の番組、中村哲の本

神奈川県横浜市青葉区市ヶ尾のパティスリー グランウールのお菓子をもらった。まずは抹茶のフィナンシェからいただきます。あずきが入っているのね。わりとさっぱりしていていいかも。カフェインレスのコーヒーとね。最近のカフェインレスのコーヒー、紅茶はとてもおいしいのね。ありがたい。パティスリーグランウールのお土産には秋冬限定の「時間ショコラ~トキショコラ~」という素敵な名前のお菓子も入っていた。立春をすぎたとはいえいよいよ冬みたいな寒さだものね。俳句も春の季語で作ろうとするとあたたかみが増してしまいちょっと実感とそぐわないと思ったけど「春の霜」とか「春の」をつければ本当は春なんだけどね、という感じもでるかなと思ってそうした。立春前は「日脚伸ぶ」とか「日向ぼこ」とか冬だけど春が近いですよ、みたいな感じのお天気でしたね。

昨晩、Eテレで伊達公子の「最後の講義」という番組をやっていた。聴講していたのはみんな女性。ある方が今後子どもを持ちたいとかなった場合にキャリアが中断することについての質問をしていた。こういうとき、やっぱり質問する側は緊張してしまうし、不安が溢れてしまうし、涙ぐんでしまうんだよね。その不安が具体的でなくても、今直面していることではなくても、こういうときの情緒って口に出してはじめて感じるものでもあるんだよな、とこれまでお会いしてきたいろんな女性患者さんのことを思った。トップクラスの人の話を聞くってとても大事よね。トップクラスではなくても自分と同じような体験をしている人の話を聞くことはとても大事。それ以前に人の話から学べる姿勢を持っていることが大事だけど子どもでも大人でもまずはその部分が育ってきて、すると「テレビでこういうのやってて」とか「友達が何なにって言ってて」と自分のあり方を考えるときに人を参照することが増える。暖かい文脈で。まずは暖かさをいっぱい知って少しずつ人の話を聞ける自分を育てていくことが大事なんだなあといつも思う。この仕事しているから特にだと思う。

私は中村哲さんの言葉からたくさんのインパクトを受けてたくさんのことを学んでいる。澤地久枝が聞き手となった『人は愛するに足り、真心は信ずるに足る アフガンとの約束』も読みたい。澤地久枝もいい。『完本 昭和史のおんな』は上下合本がほしいけど書籍代がかかりすぎているのでセーブ。合本でなければどこかにあると思うし探すべし。洋書が高すぎるんだよねえ。はあ。高いからきちんと読むのでそういう意味ではセミナーとかにお金かけるよりずっとお得だとは思ってるけど。あ、そうだ。週末までにもっと読まねばならないものがあるのを忘れていた。それも英語だったかなあ。そのチェックからせねば。もっとかしこくなりたいけどしかたないね。今日も自分の持ち物で一生懸命やりましょう。ためいきまじりだけど。鳥が鋭く鳴いて去っていった。元気ならいいな。暖かくして過ごしましょう。

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俳句 言葉

冬帽子、女が書く場

今日は朝焼けが見られる。すごく寒くなるというのは明日から?今日から?今年は筋トレで代謝が上がった、とか言っているけど私の厚着は尋常ではないので単に厚着のせいかもしれない、と昨日少し不安になった。昨日電車でそばに立っていた男性二人(無関係)が電車の揺れによろめいた。二人とも似たようなあまり見かけないよろめきかただったので思わずパチクリみてしまった。一瞬笑いそうになってしまったが失礼なので一句したためた。「ドリフかよコケる男の冬帽子」(季語=冬帽子)。ドリフももう通じないのかもなあ。

ボーヴォワールとか読んでて、というか女が読むこと、書くことについて興味と必要性を感じている私はふと心理学や精神分析の雑誌に有名ではない女の投稿欄がつくられたことはあったのだろうかと思った。新聞の投書欄とかは今もあるよね。昔の雑誌はそういう欄多かったと思う。以前、金剛出版から出ている『臨床心理学』に「女性の発達臨床心理学」という連載があってこれは書籍化もしたと思う。そういうテーマに特化した連載もいいけどもっと気軽に投稿できる場、というか、やっぱり現場を一時的に離れている人が気軽に、「日常という視点から」学問を語る場はあった方がいいのでは。フロイトだって日常生活から学んだわけだし。SNSはもう良くは機能しないと思うし、私は信頼できない媒体を育てるような課金とかもしたくないし、その場を使うこともできるだけ避けたいと思ってる。でも私はこうやってダラダラ書くのがほぼ趣味だし、特に誰に見てもらいたいというのがない人はこういう個人の場でいいと思うけど、多くの人はもっと知ってほしい気持ちを抱えているわけで、特に女性にはそういう場が少ない。育児しながら、障害や病気を抱えながら専門家として感じていること、学んでいることはたくさんあるはずで、それを短いエッセイやコラムやSNSとは異なる「つぶやき」コーナーに投稿してもらえたら心理学と日常生活はもっと多様に繋がれると思う。今は決まった人ばかりが書いているけど人はものすごく異なる体験をそれぞれがしているわけだからそこからの実感を専門的な視点で言葉にしてみるという場を作れたらいいなと思った。ストレスマネジメントとか、ブランクからの復帰の様子とか、女であることの大変さ、とを女だから体験したこととか共有してもらったら研究にも臨床にも別の視点を持つことができるかもしれないしさ、とな。これも虚子が「台所俳句」の雑詠欄をつくって女性たちを俳句の世界に引き入れたことは大きな業績だよなあ、と思ったから。和歌の世界には錚々たる女性メンバーが育ったのに俳句は男ばかりだったからねえ。今や女の方が多いわけだけど。とにかく今はまだまだ場を作ることの方が大切な時代であって女の場所はとにかく制限されているという自覚を援助職である専門家こそ強く持つべきではないかと私は思っているのだな。ウェブ記事よりまずは専門家向けの雑誌のコーナーとしてやった方がいいと思うんだなあ。慣れていないことをやるときはある程度小さい集団を対象としたほうがフィードバックも感じやすいし書いた側の安全感も守りやすいと思うから。私がオフィスでやっている勉強会は男性もいるけど女性の方が多いので彼女たちが主体的に言葉にできる場を作っていかないとなあと思うことも多い。自分で開拓するにはハードすぎると思うよ、現状。声の大きい言葉の達者な人たちでなくてもこの仕事は言葉で伝達されているものなのでその表現を拾う場が増えたらいいなと思う。モデルって大事だから。

今朝は雑炊を食べてぽっかぽか。暖かくして過ごしましょうね。

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お菓子 イベント 俳句

豆、習慣

今朝は朝焼けの様子が少し違う。雲が多く空はまだら模様。昨日焚いたお香と朝ごはんの匂いが混ざっている。そんな変でもないけどちょっと変。今朝のデザートは苺。嬉しい。しかも美味しい。果物は当たり外れが少し心配だけどこれは美味しい。もう春なのね。今日は2月1日。立春は3日。ということは明日は節分。もうお豆食べてしまった。お正月が終わってすぐにスーパーには鬼の絵が書かれた豆菓子が並び始めた。私が買ったのは「でん六」の「マメにするのだ!アソート」。赤塚不二夫のキャラクターが書いてあったから。昨日食べたお豆はレレレのおじさん。レレレのレー。お掃除する人を見かけると「レレレのレー」が浮かぶことがあるけどなんか失礼な気がして楽しくなることを一瞬控える。掃除してるのおまえじゃないじゃろ、ってね。でも大好きキャラだわ。

1月16日から1日一句は作ってもう10日以上過ぎた。なんか習慣化してきた。私はこれは精神分析の効果だと思っていて、分析家になってから習慣化したことがいくつかある。いつも締切前日に速達で出すか、オンラインだったら締切時間ぎりぎりに出すかだった俳句が習慣化するとは。句会に出る習慣もつけたいけどこれは時間を確保するところからだから難しいので結社にこだわらず行けるものに行こうと思う。この前出た句会は平日昼間だったせいか年上の方が多く、私が俳句をする前にイメージしていた俳句の世界が広がっていた。全国的にも俳句はまだ高齢の方に馴染みのある文化かもしれないけど私が所属する結社は私より若い人たちもたくさん活躍しているし、というか書いていて思ったのは私もすでに若くないわけで私がいう若いは少なくとも20代ではない。俳句は短いのがとにかく魅力なので好きなんだけど読むには漢字が難しいのと語彙力が必要なので調べる習慣がついていないと大変。辞書をひく習慣がオンラインで辞書使うようになってからいまいちうまくいかないんだよね。というより複数のことを同時にすることができないから辞書引き始めるとずっと辞書読んだりしはじめてしまうわけで、オンラインだとそれもせず別の何かを調べ始めたりしてしまうからなんだな。とまずは自分の今の行動の癖を知るところから別の習慣作りははじまるはず。作る分には自分の持ち物でやればいいという面もあるけど私の場合はインプット足りない。語彙力って使えないと意味がないとまでは言わないけどあまり意味がないわけで言語化とお勉強ができるかどうかがあまり関係ないのと似ているところがあるわけです。私はお勉強も平均的なうえに言語化するときの語彙が乏しいわけで日常生活に支障はないけど俳句生活には支障がある。これは続けていきたい趣味だから多分積み重ねでなんとなく今よりはましにはなっていくとは思うけど作る習慣もまだ1ヶ月経っていないからどうなることやらだわね。忙しいとかいってないで今日も何か見たらパッとつくろ。

2月かあ。早いねえ。なんとかやっていきましょう。

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俳句

ガザ、日向ぼこ、荻外荘

夜明け。とてもきれいなオレンジを見られた。これは多分ヒヨドリの声。カラスの鳴き声だけは確実にわかるのにね。

鵯のこぼし去りぬる実のあかき 蕪村 「蕪村遺稿」

パレスチナ自治区ガザ地区、19日に発効されたイスラム組織ハマスとイスラエルの停戦合意に基づく人質と拘束者の交換が行われているとのこと。人質解放の場にガザの群衆が集まって事故が懸念されるとのことなんだけどみんなどんな気持ちで集まっているのだろう。これは「集まっている」というのだろうか。そもそもの居場所はあるのだろうか。ガザはもうすぐ31日になる時刻か。夜は眠れるのだろうか。

村上鬼城の俳句に

うとうとと 生死の外や 日向ぼこ 鬼城

がある。季語「日向ぼこ」には生死を読んだものが多い、と聞いて私もこの前そう思った、と思った。耳が悪く、貧困に苦しんだ鬼城にとっての「生死の外」は、「日向ぼこ」は、どんな心地のものだったのだろう。その人にしかわからない感覚が言葉に包まれることの大切さを思う。

荻窪の小児発達クリニックに勤めていた頃、お昼は外で過ごしていた。美味しいパン屋さんもお弁当屋さんも近くにあった。図書館の公園で食べてそのまま時間ぎりぎりまで本を読んだり太田黒公園まで足を伸ばして散策したりした。クリニックはのちに駅の反対側に移ったので荻窪は駅の両側ともわりと詳しい。クリニックを辞めたあとも保育園巡回の仕事で荻窪にはそれなりにきていた。しかしどんどん忙しくなりオフィス、保育園、自分の分析、またオフィスという生活でごはんを食べたりお散歩したりする余裕は無くなっていた。荻窪はその間に随分変わった。私がいつも買っていた美味しいパン屋さんは駅そばの人気店になった。先日、久しぶりに荻窪で降りた。気に入っていたカフェやごはんやさんはまだ元気そうに営業していたけど注意の張り紙が増えていた。どこも色々大変なのだろうか。今回は角川庭園が目的地だったがまずは大田黒公園をのんびり散策し、復元待ちだった荻外荘へも寄った。大田黒公園の梅にメジロがいて梅の花びらを落としながら頭をあっちこっち動かして蜜を吸っているのがかわいくてたくさん写真を撮ったが動きまくるから目がつりあがったり歪んだような写真ばかりになった。さて、荻外荘は近衛文麿が昭和12年から昭和20年12月に自死するまで過ごした邸宅である。昨年、近くを歩いたときはまだ工事中で公開が始まったら行こうと決めていた。昭和15年7月、東條英機らと「荻窪会談」を行った部屋の壁紙や調度品、近衛文麿が自決した部屋の「黙」という字、いろんなものが視覚に残りなんともいえない気分になった。近衛文麿は服毒自殺、東條英機は死刑、岸信介は釈放、と辿っていると暗澹たる気持ちになる。「黙」でよかったのか?

色々考える。それぞれの平和が普遍的なものでありますように。

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俳句 読書

朝ごはんとか俳句とか。

まだ暗い。カラスが大きな声で鳴いている。今日はスッキリ晴れるみたい。

朝ごはんが大好き、ということを何度か書いたことがある。堀井和子は『ぱっちり、朝ごはん』(河出文庫)に「1日3食、朝ごはんでもいい!」と書いている。「私も!」と一瞬手をあげそうになったが最近の私は朝ごはんにあまり力をいれていない。早朝に「つくおき」をするせいでそれをちょっとつまんでしまいむしろ夜ごはんっぽくなっている。あんなに大好きだった私の朝ごはんはどこへ行ってしまったのだろう。

「私は1日3食、朝ごはんを食べてもいいくらい朝ごはんが好きで、夜は明日の朝ごはんを楽しみにして寝る。」

と堀井和子はいう。わかる。私も同じことを言っていた。かつては。とはいえ、堀井和子の場合、パンは自分で焼いているし、記憶に残っているのは南仏だし、とっても素敵な感じで私の朝ごはんとはだいぶ違う。それでも私は朝ごはんを楽しみに寝ていた毎日を取り戻したい、というのも食卓に置きっぱなしにしていたこの本をパラパラしたから思っただけではあるけれど。

この前、橋本多佳子の句集で

雪しまきわが喪の髪はみだれたり 橋本多佳子

という句を見つけて「雪しまき、カックイイ!」と思って一句作ってみたがどうひっくり返してみてもぼやんとした句にしかならなかった。その後、岸本尚毅が朝日新聞に書いていた記事を読み写生についてちょびっと考え「雪しまき」なんて雪国で生活したこともない私には使えない季語なんだからカックイイとかで作ってはならぬ、と別の句にした。我ながら単純だが反省したらすぐに実行すべし。体験が言葉を強くすることは毎日体験中だもの。

週末は数年ぶりに一年一回の会が復活する予定。コロナの間に変わったこと変わってないことなんであれ再び共有できることの幸せを噛み締めたい。良い週末に向けてがんばろう。

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俳句 読書

冬らしさ、宇多喜代子『俳句と歩く』を少し読んだ。

今朝は少し空の様子が違う。冬らしいというのはこういう空のことかもしれない。天気予報は晴れみたい。昨日の西日もいかにも冬で新宿方面から西へ向かう人はみんな片手をあげて強い日差しを遮っていた。ものすごい発光。この前、とてもよく晴れた日、少し川沿いを散歩した。前から来る人のボタンとかランニング中の人の袖の一部とかみんなどこかしら光っていて冬だなと一句作った。しばらく歩くと小さな白い鳥が川縁をぴょこぴょこ歩いていた。多分ハクセキレイ。その歩みに合わせてその水浴びを観察した。尾羽をぴょこんと水につけては飛び上がるくせに川縁ぎりぎりのところを歩いててとてもかわいい。今日はあったかいから入っちゃおうかな、でもお水は冷たいからな、みたいな逡巡に見えた。これも句にした。でも途中から「尾羽ぴょこぴょこみぴょこぴょこ」→「尾羽ぴょこぴょこ日向ぼこ」とかなってしまった。音は気に入ってるけどパクリだしねえ。この前、ちょっと図書館に寄ったら宇多喜代子『俳句と歩く』(角川俳句ライブラリー)を見つけてパラパラした。鈴木しづ子を探し疲れ果て出会った老人の一瞬と宇多さんの一瞬の描き方にグッときた。戦争を知っている世代にしかわからない記憶の作動がある。そして養蚕の話。蚕を飼うことも桑の葉畑も私にとって当たり前の景色で、体験だった。でもそれもいつの間にか見えなくなった。宇多喜代子さんは昭和10年生まれ。私がこれからどんな長生きをしたとしてもあんな語り方はできないだろう。これからもし私も戦争を体験するとしても。とても薄っぺらい時代を生きてきたのかもしれない。だから先達の語りに惹かれるというのはある。読書の恵みは計り知れない。みんないい本と出会えますように。

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お菓子 俳句

保田小学校と秋桜子

夜明けの空。配色も月の配置も完璧でとてもきれい。

『桜の園』大千穐楽か。ケラリーノ・サンドロヴィッチが2020年版、幻の『桜の園』の稽古場最終日の写真をSNSに載せてくれてる。すごく楽しみにしていた舞台。まさかコロナという感染症によって全公演中止になるとは思わなかった。ケラさんによるチェーホフ四大戯曲。全部見られた人が本当に羨ましい。

千葉県安房郡鋸南町保田の道の駅は「保田小学校」というそうだ。そこのお土産をもらった。この道の駅、給食メニューが食べられたり、教室のような宿泊施設もあって楽しそう。日帰り入浴もできる。金次郎もいる。びっくりしたのは校歌の歌詞が水原秋桜子だったこと。私は昨日、日々を吟行とするためにということを考えていて小川軽舟の『俳句入門』(角川俳句ライブラリー)の第11章「「吟行」をどう生かすか」」をパラパラ読み、そこで紹介されていた秋桜子の第一句集『葛飾』をほしいな、と思ったばかりだった。なので秋桜子がなぜ保田?と驚いてしまった。さっき調べたら「町報きょなん」のバックナンバーを読めるサイトがヒットし、そこに秋桜子と保田のつながりが書いてあった。

保田小学校校歌について

伊丹信太郎と秋桜子について

なるほど。小学校は平成26年3月に閉校したそう。こうして道の駅として地域の交流の場になったのはとってもいいこと。ここは元小学校らしく子供の遊び場もきちんとあるらしい。一時期、全国の「道の駅」に出かけようと思って色々行っていた時期があったのだけど最近は行った場所にあったら行く、という感じでこだわらなくなっていた。でも地域交流の拠点としてその町の歴史を受け継ぐ大事な場所だから今度からもっときちんとまわろう。いつもその地域のお野菜やお菓子やお惣菜やお酒ばかり見てしまうから。今回のお土産は「保田どら 保田小びわつつみ」。水色のランドセルの形をしたお菓子。千葉県産びわあんをかわいく包んだ小さいお菓子。かわいくておいしかった。

今週も色々いいことあるといいですね。良い一日を。

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お菓子 俳句

くるみ信玄餅、『現代日本文学大系95 現代句集』(筑摩書房)

朝は特に目がよく見えないなあ。でも朝焼けはきれい。もっと上空からみたらとってもきれいだろう。冬、朝早くからオフィスで仕事をしていると世界中と言ったら大袈裟だけど新宿区、渋谷区、世田谷区を覆う朝焼けがものすごくきれい。明治神宮の森も都会の建物たちもオレンジ色に輝きながら染まる。毎日毎日都会にいるわけだから都会の現代的な俳句が作りたいなと思っているけどなかなか難しい。読んでてスッと入ってくるのは昔の句だし。

それはそうと今朝は北杜市のお土産、金精軒のくるみ信玄餅。これのことは前にも書いたかもしれないなあ。一箱に一つの個包装。風呂敷を結ぶような形になっている箱を開くとくるみを持ったリスさんが登場。くるみ一つを手に、一つはそばに置いてある。かわいい。箱の側面には金色で縁取った葉っぱ。袋をあけてのっぺりした楕円形のお餅をぬっとお皿に出す。美味しそう。うん。美味しい。熱い緑茶と頂いております。桔梗屋と同じタイプの信玄餅もあるけどこれはこれで黒蜜とかきな粉とか自分でかけなくていいから気楽ね。あの作業楽しいしあれで美味しくなるわけだけどきな粉を飛ばさずにあの袋の上できれいに食べる自信がないから下にさらに皿を重ねる。風情があっていいけどね。

この前、土井善晴さんのレシピでひじきの煮物を作ったんだけど生姜いっぱいのレシピですごく気に入った。生姜大好き。生姜が入っている飲み物も大好き。生姜紅茶とか常備。でも常備しちゃうとあまり飲まなかったりする。ペットボトルで生姜が入っている飲み物があるとすぐ買ってしまうのに。オフィスから近いオペラシティに成城石井が入っているからそういう飲み物が豊富で危険。さっきペットボトルで生涯が、って打ち間違えた。生涯をペットボトルに詰めてはいけないわ、と一瞬思ったけど投壜通信とか思えばそういう形の詰めかたもあるかもなと思ったりする。咳。きな粉でむせた。飛ばないようにお餅にくっついているタイプなのにさすがきな粉。

この前、『現代日本文学大系95 現代句集』(筑摩書房)をなんとなく開いて『鬼城句集』の序文の虚子にふーんとちょっと思うところあり、別のもパラパラしていて橋本多佳子の『紅絲』にの序文を読んだ。書いたのは山口誓子。実作者にとっての批評という観点から多佳子への信頼を示す誓子の文章が素晴らしい。そういえば私は『橋本多佳子全句集』を持っているではないか、とKindleをチェック。あった。コロナ禍で句友が勧めてくれた。つまみ食いするように読んでいたから序文をきちんと読んでいなかった。多佳子の句集の序文は全部山口誓子が書いているらしい。句集『信濃』には序文がない。『海燕』の序文もかっこいい。

「女流作家には二つの道がある。」

から始まる文章。性別は男と女しかいない、という言葉とはだいぶ違う現実味がある。最近、私が俳句を再び丁寧に始めようと思っているのは世界の言葉がどんどんおかしくなっているからかも。思考のない言葉は怖い。

さて、私が持っている私が持っている『現代日本文学大系95 現代句集』(筑摩書房)は昭和五十年六月十日発行の初版第三刷。2021年八月十四日に購入したらしい。当時の定価は2300円。私も古本でそのくらいの値段で買った。箱が壊れかけており、表紙にシミ、汚れがあるけど中はきれいでこれだけの句集が入ってこの値段はすごく安いと思う。どれだけの句集かというと以下。


內藤鳴雪『鳴雪句集』村上鬼城『鬼城句集』尾崎放哉 『大空」前田普羅『普羅句集』阿波野靑畝『万両』富安風生『草の花』芝不器男『不器男句集』川端茅舍『川端茅含句集』松本たかし 『松本たかし句集」渡邊水巴『白日』中塚一碧樓『一碧楼一千句(抄)』原石鼎『花影』星野立子『立子句集』種田山頭火 『草木塔』三橋鷹女『魚の鰭』富澤赤黄男『天の狼』山口青邨『雪国』高野素十『初鴉』白田亞浪『定本亜浪句集』日野草城『旦暮』野見山朱鳥『曼珠沙華』橋本多佳子『紅絲』西東三鬼『今日』細見綾子『冬薔薇』篠原梵『雨』金子兜太『少年』澤木欣一 『塩田』飯田龍太『童眸』石原八束『空の渚』角川源義『秋燕』秋元不死男『万座』加倉井秋を『真名井』石川桂郎『竹取』森澄雄『花眼』野澤節子鳳『蝶』荻原井泉水『大江』

山本健吉の解説が付録でついている。これは山本健吉を読むといい、と言われた関係で買ったのだろうなあ。買っておいてよかった。今の値段だと高いから。

もうこんな時間。今日もがんばりましょう。

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Netflix 俳句 短詩 言葉

『アンメット』、俳句文学館

大寒。とはいえ6時の時点で6度ある。東京の日の出は6時49分。少しずつ空が白っぽくなってきた。沖縄の日の出は7時18分。冬に西に旅に行くと早朝散歩はいつも真っ暗。その分暗くなるのは遅い。光のあり方は生活にかなり影響を与えているだろうからその土地の風土を知ることはとても大切。大学のとき、何かの授業で風土について色々と学んだ。和辻哲郎を読むばかりでなく、何の授業だったか。「風土」という言葉の印象ばかり強く肝心の中身を覚えていない。

『阿修羅のごとく』で満足したのに『アンメット-ある脳外科医の日記-』を見始めて1週間で見終わった。アンメットは満たされていない、という意味なのね。満たされるってなにかしら、とは思うけど若い頃よりは確実に満たされやすくなっている。そしておそらくこれは記憶容量と関連している、と思う。ドラマの影響で言っているのではなくて。いや、もしかしたらそうかもしれないけど。精神病院で働いていた頃、神経心理検査を色々実施した。ドラマで失語症や半側空間無視に対する新たな理解が加わった。症状の個別性の部分ではあるけど。ドラマでは高次脳機能障害のように器質的な病変が存在する症状がそれだけでは説明がつかない記憶のあり方とともに密な人間関係で描かれていて何度も泣いた。主人公二人の相槌の仕方が印象に残った。杉咲花の食べっぷりも素敵であんな小さい顔の小さな口でどうしてそんなに大きい一口が可能なのかとびっくり。

『阿修羅のごとく』で昭和を満喫したが、週末は俳句で明治、大正、昭和を感じた。新宿区百人町の俳句文学館で昨年11月から開催されている「俳人協会所蔵名品展 近現代俳句の歩み1」を鑑賞した。とても小さな展示室は17音の世界にぴったりだった。作品数としては多くないがおなかいっぱいになった。たった17音が刺激する世界はとても広いのでこれ以上あると疲れて丁寧に鑑賞できなかったと思う。文字のインパクトもすごかった。五大家俳句寄書の軸装や本人直筆の色紙や短冊で俳句をみた。五大家とは高浜虚子と4S(青畝、誓子、素十、秋櫻子のこと。

蚊いぶしの紬をさらふ追風哉 阿波野青畝

畑打や池田の鯉を手捕つたり 山口誓子

餅花の火燵布団に照りはえぬ 高浜虚子

芦刈のそこらさまよふ一人かな 高野素十

啄木鳥や落ち葉をいそぐ牧の木々 水原秋桜子

秋桜子の句は知っていた。4Sの句でもネット上では探せないものもあり、彼らの作品の膨大さを思った。

小鳥来て午後の紅茶のほしきころ 富安風生

麗しき春の七曜またはじまる 山口誓子

雪はしづかにゆたかにはやし屍室(かばねしつ)石田波郷

などの句も文字と共に心に残った。

昨年5月、老衰で亡くなった鷹羽狩行を偲ぶコーナーもあった。

数といふ美しきもの手毬唄 鷹羽狩行

しずけさに加はる跳ねてゐし炭も 鷹羽狩行

にウキウキした。

紅梅や枝々は空奪ひあひ 鷹羽狩行

有名な一句。やはり迫力がすごい。近所の公園では梅が咲き始めた。この景色は私も実景として体験できる。俳句は実景が基本なのがいい。

さて、今日は大寒。冬苦手なのに冬を満喫したくてスーパーのお菓子の棚で「冬限定」と書いてあるお菓子を買い占めてきた。といっても3種類しか見つけられなかった。

大寒の天気つゞきの檜垣かな 富安風生

大寒と敵のごとく対ひたり 富安風生

富安風生の句も心に残るものが多いことに気づいた。好きなのかもしれない。どうぞ良い一日を。暖かくしてお過ごしください。

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俳句

成人の日、絶滅危惧種

今日は暖かい、でも明日は寒くなるみたい、と昨日いろんな人から聞いた。昨晩の帰り道、すでに風が冷たく昼間の温もりはどこかへ消えていた。深夜ソファでうとうとして寒さで目が覚めた。潜り込んだベッドも冷たくてできるだけ小さい面になるように丸まった。

年末年始の休みのあとは様々な土地のお菓子が集まる。知っているものもあれば知らないものも懐かしいものも。直接会えない相手が多いのでそれにまつわるエピソードを聞くことができないのが残念。

1月第二月曜日13日は成人の日だった。今年自分や娘が成人した人やこれから自分や娘が成人の日を迎える人がいろんなふうにこの日のことを語るのを聞いてきた。女の子はとにかくお金がかかる日でもある。その地域での育ちや関係性が見直される日でもある。当日を迎えるまでに色々と思い悩むことも多い。ただの通過点というわけにはいかなくするのが儀式の狙いでもある。そういう話をただただたくさんしよう、というのが私の仕事である。

成人の日の華やぎにゐて孤り 楠本憲吉

色あふれ成人の日の昇降機 斎藤道子

角川『俳句』で句友や主宰や好きな俳人の句を読みながらみんななんて正確に日本語を使っているのだろうと思う。これをこう読むのは言い過ぎではないか、とかいう話の水準が違う。その言葉の意味をギリギリまで広げるかつきねけるならもっと別の工夫も施している。私もせっかく沖縄へ行ったのだからと色々と思い出していた。琉球開闢伝説にもあらわれる、琉球王国の聖地「斎場御嶽」では池にシリケンイモリがたくさんいてみんなで彼らを眺めた。沖縄ではレッドリストで準絶滅危惧種だとそこでボランティアガイドをしている人が教えてくれた。前回の年末年始、奄美大島で一緒になった家族の子が見つけて感動していたのもシリケンイモリだ。その子はイモリを家でもたくさん飼っているらしくお父さんと大興奮で私も興奮した。イモリは夏の季語で今の季節に使うなら冬眠だなと思ったが沖縄では冬眠していなかった。ガイドさんがハブも冬場は少ないから沖縄の温度でも冬眠するのではないか、と言っていたが、昨日調べたら「ハブは冬眠しません」と書いてあった。沖縄の明るい雰囲気を纏ったあのゆるーいガイドさん(しかし仕事きっちり)なら「え、しないのー。してるのかと思ったー」と沖縄の発音で笑うだろう。絶滅危惧種といえば、と夏井いつきの『絶滅危急季語辞典』をパラパラ。載っているはずもないかと思いながら索引でイモリを探したがやはりいなかった。しかし尾類馬(じゅりうま)という沖縄の季語を見つけた。

説明を引用する。

ジュリ(尾類)は沖縄の方言で遊女を指す。陰暦の正月二十日、那覇市の旧辻遊郭で遊女を二組に分け、練り歩いたもの。獅子舞と弥勒神をそれぞれ先頭に、板でできた馬首を腰にくくりつけ、紫の長布と絶型衣装を着て手綱をもち、「ユイユイユイ」と囃す。春駒(「絶滅寸前季語辞典』ちくま文庫版三六八頁参照)の一種。那覇三大祭にも数えられる伝統行事である。

とのこと。「ゆいゆいゆい」といえば沖縄だがこういうところでも使われるのか。今の大河ドラマでも遊郭は描かれているが、尾類馬も女性団体等の非難や資金面を理由に中止されたり復活したりした経緯があるらしい。この絶滅危急季語辞典は2011年刊行だから今はまた違う状況があるのかもしれない。この本には例句も載っているが尾類馬を使った例句に夏井さんがお手上げとなっているのもあって面白かった。今年はもっと俳句のことをというか正確な日本語を意識して読書もしていきたい。

と書いているうちに空が白みを増してきた。良い1日でありますように。

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俳句

「初」を並べる。

そろそろ日の出の時間、まだ外は暗いけど。手元に『風と雲のことば辞典』がある。今の空を表すことばはどれがいいだろう。昨日はどんな風が吹いていたっけ。昼間は風もなくとってもきれいな青い空が広がっていたのは覚えているのだけど。「何処吹く風」ということばもこの時点にのっている。歳時記からこの辞典と重なりそうなことばを探してみよう。あいの風、青嵐、青東風、青田風、総索引の最初のページに出てくるこれら、みんな夏。新年の歳時記を見ると初東風、初凪、初霞、「天文」に分類されるものはみんな載っているかもしれない。今年も15日が過ぎた。あっという間に日常が、とかいっていないでもっと新年気分を味わえばよかった、と昨日歳時記を見ながら思った。なんでも「初」をつけておけば新年の季語になるのではと思いながら、そういえば私、今年、全然「初なんとか」って言っていない気がすると思った。「初夢」すら言っていない気がする。頭の中で「初夢どんなだったっけな」と思ったのは覚えている。初詣はいった。「行った」の方のいった、ということは「言って」もいる。このブログだって「初日記」とか題名つければよかったし、階段をえっさほいさと登って辿り着いた首里城からの「初景色」だって言えた。正月はハイキングにいった。「初富士」は私は身近ではないが「初淺間」なら身近だし、「初ハイキング」とか言っておくのもありだった。「初笑い」はあのときか、このときか。あゆ美さんのカレンダーの表紙をめくって一月の素敵なイラストを見たときだって「初暦」な気分だった。「初鏡」はいつだったか。「初稽古」は筋トレに使えばよかった。「初電話」は今はあまり使わないけど「初メール」とか「初LINE」とかならいえた。もう15日だけどまだ15日。今年は夏が長いとか言っていても過ぎてみたらあっという間に夏気分を忘れた。歳時記を見る限りまだ新年の句でいける。今夜締切のオンライン句会の題も新年の季語がいくつかあがった。なんとなくの移り変わりを楽しむのが季節なのだからやはり旬のものと過ごしながらそれを楽しみたい。

初芝居その楽屋訪ふ女たち 高浜虚子

初夢の大きな顔が虚子に似る 阿波野青畝

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俳句 短詩 言葉 読書

恩田侑布子『星を見る人 日本語、どん底からの反転』を読んだ。

朝焼けがはじまる。東の空が赤くなってきた。西の空はまだ夜気分。久しぶりに長い時間、読書をした。大体30分ごとに乗り換つつ移動時間を全て同じ本に費やした。読んでいたのは恩田侑布子 『星を見る人 日本語、どん底からの反転』(春秋社)である。恩田侑布子は樸(あらき)俳句会の代表を務める俳人だ。評論でも第23回Bunkamuraドゥマゴ文学賞を受賞するなど多分俳句の世界を超えて有名な人なのだと思う。私は精神分析以外の世界の誰がどうというのをよく知らないが恩田侑布子の名前は恩田侑布子編『久保田万太郎俳句集』(岩波文庫)で知っていた。2021年刊行なのでコロナ禍、句友たちとオンラインで話しているときに話題になったのかもしれない。大高郁子さんがイラストを描いた久保田万太郎の小冊子も我が家にあるはず。句友たちと浅草へ吟行に出かけた頃に入手したものだったと思う。あれはお正月だった、たしか。記憶がコロナ前かコロナ禍かコロナ以降くらいの雑な分類になっていていろんなことが断片的。とても楽しかったのに。

さて『久保田万太郎俳句集』の解説でも居場所定まらぬまま明治、大正、昭和に幅広いジャンルの言葉を送り出した万太郎の俳句に特別な日本語で賛辞を捧げた恩田侑布子だが、最新の評論『星を見る人 日本語、どん底からの反転』でも筆捌きが見事。休日にのんびり好きな本を読めるなんて至福、と思いながら手に取ったのに最初から結構な緊張感があり、これは至福というよりなんというか、読めること自体は幸福だが、たしかに憂うべき現代の言葉の状況、そしてそれに加担しているに違いない自分の鈍感さ、適当さを思うと呑気な気分でもいられなかった。しかし、読み進めると著者の内に積み重ねられた言葉の自由自在さにだんだん気持ちが明るくなっていった。石牟礼道子を「みっちん」と呼び、その突き抜けた言語感覚に賛辞を送り、草間彌生の芸術を皮膜とその深さの二面性から捉え、荒川洋治の詩集に溢れる言葉の隠喩性を正確な引用で示す。そしてその後はやはり久保田万太郎、そして飯田蛇笏、三橋敏雄、大牧広、黒田杏子などなどと続く。緩急自在、剛柔自在の文章はこうやって時間をかけて味わうに限る。まだ途中なので楽しみに次の余暇を待とう。

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お菓子 イベント 俳句 散歩

満月、俳句、「昭和のくらし博物館」@大田区

朝焼け。緑茶。熱湯のままいれてしまった。あれだけあったお菓子が底をつきそう。今年も美味しいお菓子をたくさん食べた。そういえば昨日いただいた素敵な焼き菓子があるのだった。緑茶にしてしまった。ガーン。明日、コーヒーでいただこう。

昨日も月がピッカピカだった。今年最後の満月だときいて夜ベランダに出たら空のずっと上の方で星と星の間に黄色い月が輝いていた。オリオン座もくっきり。冬の空だ。寒い寒いとすぐに部屋に戻った。

深夜締切のネット句会、今回もギリギリ。推敲せず。次回こそしっかり推敲!と思って数年が過ぎた。今回のお題の一つは鍋料理。平井照敏の『新歳時記』をパラパラしていたら狸汁、鯨汁(鯨鍋)、河豚汁(ふぐ鍋、ちり鍋)、葱鮪(鮪鍋)などがあった。冬は汁物だな、やはり。私は「牡丹鍋」で一句作った。ジビエの話をしたばかりだからちょっと創作で実体験じゃないけど。自分の鍋エピソードを思い出そうとしたのだけどエノキが好きとか白菜が溶けるとか具を譲り合うとかおじやにするとか食べすぎるとかは思い浮かぶけどエピソードがなかなか浮かんでこない。ネットで「鍋 思い出」で検索したら違う国の人たちと囲んだ鍋の話とかうちは鍋といったらこれ、みたいな話が載っていた。私は家族以外と鍋を囲んだことってそんなにないかも。いや、そんなことないか。はっきり映像として思い出せないんだよなあ。鍋は簡単だから冬はよくやるわけでこの冬はそういう場面に意識的でありたいわん。

もう年末。年賀状、買ってこないと。普段一番会うのは精神分析協会の人たちだけど年賀状のやりとりってしたことないかも。やりとりする枚数も減ってきたけど年賀状でしかやりとりしていない人もいるからあちらからこなくなる限りは出しましょうかね、と思っている。いつからか喪中ハガキも多くなった。中山美穂と同世代の私たちはみぽりんの死を悲しむと同時にお風呂気をつけねば、特にお酒飲んだときは、と話している。数年前と比べたら本当に死が身近になった。仕事はまだまだしたいなあ。

先日、東急線多摩川線下丸子駅前の大田区民プラザへ行った。デザインフェスタのローカル版といった感じの展示販売イベントに出している友人に会いに行った。みなさん、すごかった。売れたらいいなあ。私がもっとお金持ちだったらなあ。それにしてもこの施設は本当駅前なのもいいし、すごく使い勝手がいい施設だと思った。その日もいろんな催しが開かれていて老若男女いろんな人がいた。せっかくなので大田区の別の施設にも寄ろうと「昭和のくらし博物館」にも行った。こんな小道の普通のお家っぽい所に博物館なんてびっくり。昭和26年に経った公庫住宅初期のお家が当時の暮らしを体験できるように開放されている。見たこともない家電もあったが昭和生まれの私はまだ懐かしめるものがたくさんあった。スペインからのお客さんも来ていて昭和のおもちゃコーナーのところで一緒になった。駒とか竹馬とかを一緒にやった。スペインにも駒と似た遊びがあるとのこと。私も彼も紐を巻くのが下手で回せなかったがニコニコした。ホッピングもやった。懐かしい。すごく久々。庭に出るためにお借りしたサンダルで2、3回できた。自分の靴ならできるかもしれない、と嬉しかった。「子供の頃は簡単にできたのにねえ」と職員さんがニコニコと見守ってくれた。私は子供の頃からできなかったが「軽かったですしねえ」とか言ってしまった。全ての部屋が楽しかったが長居したのは2階の子供部屋。姉妹とお兄ちゃんの3人のお部屋で長女の学校の先生との連絡帳や姉妹で遊んだというお人形とその着せ替えなどもかわいく懐かしく戦中、戦後の子どもたちは私にとってまだそんな遠くないなと思った。その時代を生きた人のお家へ遊びにいった感じで楽しかった。お庭には夏みかんとか柿の木もあって眺めていたら鶯がきて、そのあとまた鶯がきて、つがいかしら、すばしっこいね、など知らない人と話したりのんびりした。少し歩いていると小さな商店街があり、もちつきのお知らせなどが貼ってあった。神社もそろそろそんな雰囲気。私たちいろんな初詣の準備に出会ってきたね、と話しながら大田区の保存樹林や神社の本殿の裏側、全然目立たないところにある立派な彫刻を眺めたりした。上を見ても下を見ても銀杏が金色に輝いていてそれがメインだったかな。ちょっとの時間でもだいぶ豊かに遊べる。昨日は3つの事例検討会があったけどどれもすごく勉強になったし今週もがんばろう。

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俳句 散歩 趣味

霜田あゆ美さんの個展。

朝焼け。昨日は夕暮れもきれいだった。オフィスにいると西の空は見えないのだけど高層マンションの窓に映る。紅葉もしてきた。きれいに色づいた大きな木から鳥たちがたくさん出てきて驚いたり、野良猫が急に横切ったり、いろんなところでいろんなことやものを目にしている。はずなのに俳句が作れない。

俳句日めくりカレンダーに載っていた秋の鳥の俳句。

鶺鴒や廊下の窓を拭く係 加藤かな文

海光に浮力のありて鳥渡る 今瀬剛一

うーん。なぜこういう言葉を思いつくのか。言われてみれば知らない言葉では全然ないのに俳句として成り立つ言葉選びができるのがすごい。先日名古屋で場所を変えぬ川鵜を3羽みた。その対岸や川中で白鷺がアクティブなのと対照的だった。どちらも季語としては夏だから今使うなら「冬の川鵜」とかにする必要があるのだろう。「月」は秋以外は「春」「夏」「冬」をつける。月といえば秋ってことで。私はどの季節も「鳥ー」「月ー」と毎日呟いているけど季節は全体として感じることが大切ね。

先日、句友のイラストレーター、霜田あゆ美さんの個展に行った。今年もあゆ美さんのカレンダーを入手できた。昨年はあゆ美さんが作るのが間に合わなかったとのことでたまたま出会えたあゆ美さんの師匠の安西水丸さんのカレンダーを飾っていた。毎回、とても素敵な作品ばかりで全部ほしい!と思うけどそれでは我が家やオフィスがギャラリーになってしまう。それ以前に買えない(労力を思えば安すぎる値段ではあると思う)。しかし、私のオフィスには一点だけあゆ美さんの作品があるのだ!なんとなんと。前回か前々回の個展ですっごく気に入って買わせてもらった。毎日見られる場所にお迎えできるなんてなんと幸せ。今回、これが素敵、これが好きと話していたらあみさんは変なのが好きと言われた。そうなのよ。あゆ美さんのイラストはとってもあたたかくてちょっと変なのが多いのよ。そこが大好き。今回は布を使った作品もあってそれもとってもよかった。生地であんな色が出せるのかあ、と思った。技術的には出せるのだろうけどあゆ美さんの使う色の組み合わせがすごいんだよね。とってもときめいた。表参道のそのギャラリーに行くのははじめてではなくて迷わずにいけたのだけど作品をみていい気持ちになっていたら帰りは迷ってしまった。あの辺は何もない方に出てしまったら逆へ行けば大抵どうにかなる、とわかってるけどこの方法は全然学びにはならない。なので私は毎回迷っている。行きは一生懸命地図とか見るけど帰りはいろんな素敵な作品で頭も心も満たされちゃってるからねえ。個展は今日まで。小さなギャラリーだけど見応え十分。幸せだったなあ。お時間あればぜひ。

さてさて今日もいきましょうかね。色々どうにかなりますように。

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俳句

NHK俳句とか。

窓を開けた。朝焼けがきれいだった。鳥が鋭く鳴いた。寒くない。朝の準備をしてほうれん草の胡麻和えを作り置き。ほうれん草って美味しいけど水を絞るのが難しくないですか?胡麻がいい匂い。最近は野菜もとても高いので少し遠い八百屋さんで買い置きする。直売所もそのくらいの距離にあるといいのだけどちょっと回り道すぎる。うーん。

NHK俳句は堀田季何さんの回。名句を改悪したものから考えるの面白い。やっぱり名句ってすごいな、と思う。私の最初から悪い句も名句にしていただきたいな。今月は結社誌の締切か。今日は一仕事したら吟行しようかな。恐れていた通り急に寒くなってしまったから涼しくなったら行こうと思っていた場所に全然行けてない。というか私はどちらかというとこもって本読んだり音楽聴いたりしていたい。外に出ても公園でぼーっとしながらそういうことしたい。めんどくさがりなのね。

今日のNHK俳句はオノマトペ「独創的である」「説得力がある」の2点が大事とのこと。そうだなあ。こうやってPCを打つのはカタカタだとありきたりでしょう。のんびり打つと?と・と・とって感じ。乾いた変化のない音は難しいのかしら。ほうれん草を茹でる音はぽこぽこだと普通。どんなだったかなあ。ひたひた、しとしともありきたりだしねえ。うーん。難しい。あー、友人の句が取り上げられている!こういうの嬉しいだよね。ちっちゃい痛み、ちっちゃい欠落感かあ。季何さんの鑑賞もいいけど友人の俳句素晴らしい。いつも着眼点が全然違う。私はそういう才能はないからとりあえずもっと良く観察しよう。何年も言い続けて毎回参加することに意義がある、という言い訳で終えているけどまあ続けましょう。やめたい!と強く思う立場でも状況でもないし何かを見て何かの言葉にするというのは日常だからそのまんまやりましょ。どうぞ良い1日をお過ごしください。

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俳句 精神分析

蚊とか。

秋の朝の空の雲の美しさ。知らない人の足音のひとりひとりの違いの判別。単に「の」をたくさん使いたい気分。今日も薄着で大丈夫そう。薄着でいられるのはいいけどまだまだ毎日刺されてる、蚊に。長いスカートの日も足首を刺される。なんなんだ。もっと楽に刺せる人おるでしょう。でも蚊にとっては大きなスペースなのかもね、長いスカートと足首の間。しっかし小さいのに威力あるわ。

秋の蚊のよろ〳〵と来て人を刺す 正岡子規

秋の蚊は季語。秋の深まりととも弱々しくなるというけどもたもたくるわりに逃げるのも遅いから結局居座るみたいになってこっちが刺される。むー。

前にここで(あ、なんか急にフォントが変わった。どう反映されるかわからないからこのままにしておこう)フロイトとラカンの「愛」について書いた。最近ラカンをたくさん読むようになって十川幸司&立木康介がいうようにラカンは本当に愛の分析家だった。愛といっても日常で使う愛ではなくて。

そうだ、原稿書かなきゃ。なんでいちいち忘れるんだ?締切間近なのに。意味わからん。がんばろう。気持ちいいお天気になるといいね。昨日は変なお天気だった。どうぞ良い一日を。

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Netflix 俳句

10月20日

風がある。窓から顔を覗かせると少し寒い。部屋は暖かい。まだ何もつけなくても大丈夫。昨日はノースリーブに七分袖カーディガンを羽織っていた。10月後半でそんな服装なんて。今年は全然わからないなと思って重ね着するための夏服はまだ片付けていない。片付けてもすぐそこにあるけど。気温差があるからリュクに小さくたためる上着も持ち歩いてるけどこのくらいの薄い重ね着でずっと過ごせたらいいのに。一番楽なのは袖なしだけど日光で肌がボロボロしてしまう。どの時期も肌に色々あるわん。

今日はいつも以上にぼんやり。NHK俳句は「栗」。栗おいしいよねえ。でも外で食べるかお裾分けしてもらうか買うかばかりで自分で茹でないなあ、栗。今年の夏は枝豆も茹でなかったしなあ。青菜は茹でるけど今年は電子レンジ使ってる気がする。今はパスタも少量の水で茹でられるし。パスタもうちで作らなくなったなあ。まいにちのようにパスタ作っていた時期もあったのに。お水をたっぷり使ったあと捨ててしまう(きっと捨てずに有効活用している人もいる)お料理ってほかに何があるかな。冬って水いっぱい使うけど捨てないお料理ばっかり。おでんもお鍋も。やっぱり温まるには水分大事。

この前、テレビで『アリス・イン・ワンダーランド』を少し見た。赤の女王、とってもかわいくて笑ってしまう。白の女王はアン・ハサウェイ。何みても超魅力的。演技力だなあ。ティム・バートンの世界にピッタリだった。ミュージカルもやるんだよね。みたい。何かで見られるのかな。私はそういう情報を探すのが下手すぎる。精神分析の文献以外全然上手に調べられない。というか精神分析のはひたすら量にあたってるうちに出会っているだけだから何も上手じゃないか。

いいかげん終わらせねばな仕事が二つ。10月いっぱい。移動が長いからそこでがんばるか。ああ。難しいんだよなあ。道は見えてきた気はするけど。ま、がんばりましょ。風邪ひかないように服装気をつけて過ごしましょ。良い一日を。

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俳句

秋の朝、玉藻

窓を開けた。気持ちいい。今朝は今のところまだ冷房をつけていない。数日前から朝に冷たい麦茶も欲しなくなっているが一応作っておく。今年も麦茶のパックを使い切らなかった。温かいのも飲めばいいのだが、温かい飲み物はいただくことも多くてわりといつも豊富なのだ。昨晩はアイスティーも作ってしまったので今朝はそれを飲む。いつからか氷を作る習慣をやめてしまったのもあまり冷たいのものを欲しないからなのかもしれない、と今思った。でも料理に使う時もあるしまた作ろうかな、とも今思った。

昨日、古い古いエアコンのフィルターを掃除して干しておいた。それをまた取り付けた。フィルターは部屋によって汚れ方が全然違う。その部屋にあるもの、窓の向きや大きさなどいろいろなものを改めて意識した。

天道虫と天道虫だましを見分ける自信がない。なんて突然言い出したのはめくったまま置いておいた俳句日めくりカレンダーの

天道虫だましの中の天道虫 高野素十

を読んだから。

5月28日の日めくりを3か月経っても堪能できるのは気持ちがまだ5月の頃のままだから、というわけでもなかろう。今年の夏は十分に過ごした。残暑もそろそろ終わっていい。それにしてもこの時期の俳句の小さきものたちへの眼差しがあたたかい。

5月26日 亀の子の泳ぎ始めし水の皺 山尾玉藻

日々、新宿中央公園の亀を愛でて過ごす私にも見えていたはずの景色がこんな一句になる。たしかに彼らの移動の後には水の皺ができる。彼らの作る水の皺は私たちの足跡と同じ。消えていくけど残ってる。

山尾玉藻は俳句結社「火星」主宰。創刊者である岡本圭岳、差知子の長女として生まれた。玉藻6歳の時の俳句が結社のウェブサイトに載っている。なんとなく気になってサイト内を読んでいたら山尾玉藻が父について語った文章も載っていた。圭岳より二回りも若く、前妻の二人の子供の育児も任された母親は苦労したらしい。母、差知子はこんな句も残している。

花の昏くれさみしさを子に見てとらる 

ー句集『花筐』『岡本差知子句集』

色々と知ってから玉藻6歳の時の句を読むと少し切ない。しかし玉藻は家庭を顧みず俳句一筋に生きた父を明治の男という括り以上に俳句という文化を作ってきてくれた先達の一人として受け入れているようであり、彼女自身もまたその歴史を継承し、その語り部となっている。なにかに「なる」ということは過去よりも未来に向かう落ち着きを得ることなのかもしれない、と思った。

気温が上がってきた。そろそろ冷房をいれるか。

人の香に身をほどきけり秋の蛇 玉藻

句集『人の香』

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俳句 精神分析

俳句、恥、駱駝

起きたらまだ夜があけてなかった。夜明けが遅くなってきたのかなと時計を見たらまだ明けるような時間ではなかった。あまりにすっきり起きてしまったけどこれでは寝たことにならないとまた寝た。眠れないからiphoneで角川の俳句歳時記を開いた。「秋」→「時候」と進んで最初に出てくる季語は「秋」。「時候」に分類されている季語は46語。秋で一番多いのは「植物」。189個。春も夏も「植物」が最多。冬は一気に乏しくなって「生活」に分類される季語がグッと増える。冬と新年は分けられているけど重なって掲載されているものも多い。さて、季語「秋」を開いて最初の例句は

此秋は何で年よる雲に鳥 芭蕉

これはこの前も引用したかな。

芭蕉が死ぬ少し前に作った句。古今和歌集の

何をして身のいたづらに老いぬらむ年の思はむことぞやさしき

が意識されている様子だけどこの「やさしき」が「恥ずかしい」という意味だと知ったときは驚いた。この「やさし」は「痩す」が形容詞化したもの。芭蕉と古今和歌集の詠み人知らずさんは同じような情緒を体験していたらしい。

精神分析でも「恥」は大事な情動だ。岡野憲一郎先生がIPAジャーナルに載せたのも「恥」についての論文だった気がする。本にも色々書いていらしたと思うのであとで見直そう。最近はラカンが「恥」について多くを述べていることを知った。記述が回りくどいので何を言いたかったかよくわからないが恥が社会的な情動であるという点は芭蕉も詠み人知らずさんもラカンも共通した認識なのだろう。

まだ暗い時間に歳時記で「秋」の俳句を読みながら一番素敵に思ったのは

金秋や人待つ駱駝膝を折る 岩淵喜代子

鳥取砂丘で見た景色を思い出した。私は動物が膝を折る仕草がとても好き。時間がゆっくり止まるような感じがとても好き。動物には「恥」はないね、きっと。生き恥を晒す、とか絶対言わないと思う。ある種の圧を感じさせる言葉だね、「恥」は。駱駝が膝を折る仕草を今日は何度も思い出しそう。とりあえずNHK俳句を見ましょう。今日の選者は誰かな。その前に洗濯物を干そう。

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俳句 言葉

雨、朝顔

雨が降り始めた。空から真っ直ぐに落ちてくる。水分量多くたまに膨らむように落ちてくる直線たち。風はまだ吹いていない。

朝顔の紺の彼方の月日かな 石田波郷

今日の日めくりは波郷。季語は「朝顔」。朝顔ほど普通に親しまれている花も多くないだろう。初秋の季語となる。朝顔は紺色だけではないがあえて「紺」と言われると夜明けの空もイメージされる。朝の空は闇を水で溶かしのばすように薄くなるけどこの朝顔には凝縮された日々がある。「彼方」は「忘却の彼方」などいうように時間的な遠さを示すのはいうまでもないが、朝はたしかにそこにいたのに昼過ぎには萎んでいる朝顔からは感じられない時間感覚がある。色褪せる前のはっきりした紺色はこの雨の朝も彩っているだろうか。

あさがほやはやくも夢で逢ひし縁 久保田万太郎

万太郎の散文で心に残る文章がある。恩田侑布子編『久保田万太郎俳句集』(岩波文庫)から引用する。

「ー〝影〟あってこその〝形〟である。

ということを書いた。

ー〝影〟あってこその〝形〟・・・・・・

便宜、これを、俳句の上に移して、〝影〟とは畢竟〝余情〟であるとわたくしはいいたいのである。そして〝余情〟なくして俳句は存在しない。すなわち、俳句の生命がその表面にだけあらわれた十七文字の働きだけで決定せられるる運命しかもたないものであるなら、こんな簡単なつまらない話はないのである。表面にあらわれた十七文字は、じつは、とりあえずの手がかりだけのことで、その句の秘密は、たとえばその十七文字のかげにかくれた倍数の三十四文字、あるいは三倍数の五十一文字のひそかな働きにまつべきなのである。」

水にまだあをぞらのこるしぐれかな 久保田万太郎

時雨は冬の季語。一文字だけ漢字で書かれた「水」はたしかに「余情」を湛えている。同じくこの俳句集の「散文」に収録されている「文字に対する敏感」についても書いている。耳が痛い。

朝顔を「彼方」よりも明確な時間感覚におくと以下のような句がある。

朝顔のあすのつぼみやいなびかり 久保田万太郎

土砂降りに明けて朝顔の瑠璃ひとつ 水原秋櫻子

嵐のあけ朝顔一つ咲き居たり 尾崎放哉

嵐には早めに去ってほしい。朝顔はしっかりとそのツルをどこかに巻きつけて耐えているだろうけれど。どうぞお気をつけてお過ごしください。

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俳句

敗戦日、大雑把に。

海底のごとく八月の空があり 阿部みどり女

終戦と知る母の顔かがやかに 黒田杏子

敗戦日非業の死者と風の島に 金子兜太

大雑把に言えば猛暑や敗戦日 池田澄子

暮れはててなほ鳴く蝉や敗戦日 石田波郷

終戦の日。

昭和20年、敗戦後まもなく生まれた人に会いに行きます。自分自分と押し出さずとも思う相手、思ってくれる相手がいれば自ずと現れる自分。空を見上げ、いつもの道を行き、知らない街を歩き、出会う花を観察し、人を待ち、出会い、いろんな人や景色や出来事の話をする。それを何気なくできる日々を、時代を生きていられることは幸運なことだと思うのです。戦争が終わる。その「日」で終わる。それはとても不自然な「人間」ならではのやり方です。実は何も終わっていないのでしょう。敗戦後まもなく生まれたその人は母親のおなかの中にいたときに空襲にあい川の中へ逃げたそうです。もちろんその人の意志ではなくその人の母の意志による行動ですがその行動をさせたのは誰でしょうか。自分の意志など曖昧なものだと私は思っています。それでもそういうつながりの中に自分が含まれていないわけではないので大雑把ながらしっかりと身の回りの世界と触れていきたいと思います。生活をすることは誰かを思うことであるという実感を大切にしていきたいと思います。

どうぞみなさんも良い一日をお過ごしください。

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俳句

魚の骨とかお盆とか

昨晩の魚の匂い。サバの匂い。ちょっと血の混じったような匂い。骨抜きに失敗したのでwebで方法をチェック。「料理の基本!」だって。そうですよね。そうなのでしょうね。でも私には昔から難易度が高い魚の骨。骨をきれいに取りながら食べる人が身近にいるけどその人は釧路で炉端焼きに行ったときも焼いてくれる大ベテランの女性店主にも褒められていた。有名な店だったが今は次の代の方が継いでいるらしい。ということを知ったのももう何年も前。みんな歳をとって次の世代に継いだり継がなかったり。ウィキペディアで「炉端焼き」を調べたら炉端焼きの発祥は第二次世界大戦後の宮城県仙台なんだって。釧路かと思ってた。

“「炉ばた」の一番弟子が大阪府で、二番弟子が北海道釧路市栄町で、ほか3人の弟子が青森県や福島県などで炉端焼きの店を出した(大阪府の店は既に閉店)。”

とのこと。それはそうとこの記事、いろいろな点で興味深いのだが「また、1960年代以前の日本の農業では人糞を使っていた」という記述にびっくり。「化学肥料が戦前と同等の生産量にまで回復したのは1950年頃。」ですって。実家にいた頃はそう数は多くないけど近所にも牛がいて「田舎の香水」も身近だったし、バキュームカーも普通に見かけていたからそんなびっくりでもないか。公衆衛生の歴史はとても大事だよね。平成26年版厚生労働白書労働白書に「第1章 我が国における健康をめぐる施策の変遷」がある。コロナもこの歴史に書き加えられていくだろうし、諸々なかったことにしないようにされないようにしないと。

ずっとめくっていなかった日めくりをめくる。一年も半分過ぎたとか言ってからもそれなりの日々が過ぎた。今日の日めくりは

長き脚もらひて立てり茄子の馬 明隅礼子

お盆ですね。馬というと『スーホの白い馬』をあの赤い服の表紙とともに思いだす。

日めくりを過去側にめくると

魂迎ふ闇を涼しき草の音 鷲谷七菜子

お盆初日ですね。迎え火を焚くのは真っ暗な夜があってこそ。明日は終戦の日。なかったことにしないように、されないように。

どうぞ良い一日をお過ごしください。

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俳句 読書

風、俳句らしさ

キッチンの窓を開けたらカーテンが少し揺れた。でも風は入ってこない。多分南側の大きな窓を開けたらスーッと涼しい風が入ってくるだろう。開けてみた。入ってこなかった。そして暑い。空を見ると秋を感じるのに気温が秋を感じない。残暑というには情緒が足りない。いや、情緒は外側を捉える自分の方にあるとしたらそれは私側に足りない。冷房の温度を下げるのではなく扇風機をつけた。風を欲している。台風ではなくて。

投句の〆切が重なった。今回も一気に作って推敲しないまま出すことになるがなんとか数は揃った。「推敲の時間が楽しい」とか言えるようになりたいが間に合うように作っただけよしとする。

岩波書店の月刊広報誌『図書』8月号を本屋さんでもらってきた。日本文学研究者で翻訳家のディエゴ・マルティーナの文章を読んだ。「ウンガレッティの“俳句”と感性」。webでも読める。「俳句らしい何か」とは何か。ウンガレッティという人はイタリアの詩人だそうだ。ここには彼が第一次世界大戦の戦場で書いた詩がのっており、これは自由詩か俳句かという話がされている。そもそもイタリア語なのに、と思うかもしれないが、近年、俳句はイタリアでも人気があり、翻訳された句集が書店に並んでいるという。もちろんディエゴ・マルティーナさんが翻訳した句集も。そしてなんと教科書にも授業にも取り入れられているという。

私も小6のときに授業でやった。覚えているのは塾の宿題。はあ、作らなくては、と今と変わらない感じで575、57577を組み立てる。俳句と短歌を作る宿題だった。短歌に「ひまわり」を使って俳句に「月」を使った、ということは季節はどっちだ。ちょうど今頃の宿題だったのだろう。俳句は母に叱られてしょんぼりした気持ちのまま月を眺めながら作った。俳句のことは575で作る以外わかっていなかったが、つまらない俳句であることは自分でもわかった。しかし、創作する楽しさが少し湧いたのか、その後に作った短歌は結構大胆にできて大層褒められた。昔から単純だったのだろう。私はいまだにとりあえず575、そして当時よりは季語を意識して作るくらいのことしかしていないし、詩人でもないから、これが俳句か詩かなんて問いも立てる必要がないのだが俳句の先生は俳句の中に詩を感じることが大事だとおっしゃるし、特に分ける必要もないのだろう。ディエゴ・マルティーナさんの文章もそんな結論を導いている。

あ、洗濯物ができた。外に干そうかな。昨日は夕方の風は気持ちよかったけど朝は暑かった。今日もそんな感じかな。どうぞ良い1日を。

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俳句

秋、石、露

昨日の光の強さは異世界に行ったみたいだった。地下鉄を降り、地上に出ると世界が白く輝いていて「光ってこんなに白かったっけ」と少し混乱した。空の色が見えない。火のそばに寄ったときみたいな熱さ、だったか、とにかく暑かった。

此秋は何で年よる雲に鳥 芭蕉

芭蕉が亡くなる半月ほど前に作った句だそうだ。51歳だった(はず)。ほぼ私の年齢だ。体調を崩すことはそれまでもあっただろうがこの年のはなにかが違ったのだろう。加賀乙彦が『わたしの芭蕉』でこの句について何か書いていた。と思って本を探したが見つからなかった。いつものことだ。

此石に秋の光陰矢のごとし 川端茅舎

茅舎は「石」と「露」をたくさん読んだ俳人だった。病気を患っていた茅舎にとっても日々はあっという間に過ぎゆくものだったのだろう。しかしこの句は芭蕉の読む秋よりはっきりとした存在感がある。茅舎は43歳で亡くなった。

岸田劉生に師事した画家でもあった茅舎の目は儚さを力強く読む。

金剛の露ひとつぶや石の上 茅舎

露は秋の季語。「きごさい歳時記」で子季語を見ると「白露、朝露、夕露、夜露、初露、上露、下露、露の玉、露葎、露の秋、露の宿、露の袖、袖の露、芋の露、露の世、露の身、露けし」など。

石の上で破れることもなく水を湛える露の姿は自然に視覚化され絵画となる。「茅舎浄土」と虚子が讃えた世界を示す。

先日、茅舎の腹違いの兄である川端龍子の絵を見た。茅舎も龍子も高浜虚子の「ホトトギス」に属し、龍子はその表紙も提供している。

硯かと拾ふやくぼき石の露 芭蕉

石と露といえば西行に大きな影響を受けた芭蕉が伊勢神宮参拝の折、二見ヶ浦で読んだ一句。

茅舎の露の句とはだいぶ異なるが過ぎゆく年月に儚くもたしかに存在しつづけた人たちの言葉が大切にされる社会でありますように、と思う。と書いていても自分の俳句は一向に作れない。〆切間近。無理やもしれぬ。がんばろう。

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俳句

マジック、表記など。

4時半でだいぶ明るい。ちょうど日の出の時間。きれいな空。気温もちょうどいい。今日は本が2冊届く予定。置き配のための工夫をまだしていない。どうか雨が降りませんように。一応「こちらにお願いします」とマジックで書いて貼ってみよう。養生テープでいいよね。マジックはいっぱいもらったばかり。私もそんなに使わないのだけど持っていってって言われてたくさんもらった。そんなに使わないけどマジック好きだからありがたくいただいた。太くて大きい文字を書くのって楽しい。お習字も長く習っていてやっている間は有段者だったけど辞めてからいろんな字を試すようになって毛筆の感覚は全く覚えていない。大人になってから趣味でやっている友達もいるけどそういうのはよさそう。落ち着くんだって。字はきれいなのもいいけどその人らしいなって思える字が好きかも。私はいつのまにかこだわらなくなって今は自分でも読めないな。新聞配達のバイクの音。朝早くから大変。紙の新聞取っている人って今はどのくらいいるのかしらね。あ、マジックの良さについて書こうと思っていたら脱線してしまった。良さというかマジックって名前がいいよね、私が使ってるのはマッキーだけど。と思って由来を調べてみたらマッキーってマーキングから来てるのね。マジックインク→マジッキー→マッキーかと思った。なんとなくガーン。マッキーでみんな名前書いたと思うけどなんらかの思い出がないかな。油性というものを知ったとき驚きませんでした?「油」って言葉もなかなか威力あると思うんだよね。あ、そうだ。私は今日速達で俳句を出さなくてはいけないのだった。危ない。昨日慌てて作ったのに忘れていた。「油」がどうこうとか書いているのだって昨日ひらがなと漢字の表記について考えていたからだろうな。無意識ありがとう。駄句でも出すことに意味がある、という段階から何年経っても抜けないけどそれでいいのだ。句友たちの素敵な句が読める幸せは捨て難いし。俳句は目で見るもの。そもそも読むというのはそういう行為なわけで、など考えて下手な俳句でも見栄えを少しよくしたいと「蛇苺」を「へびいちご」と書いたりしてみたのだ。明治神宮の参道とは違う土の道にへびいちごが実をつけるのだけどひっそりと可愛らしくてそれを以前俳句にした。私のオフィスは明治神宮の西参道というマイナーな方の参道にあるので森に親しみにいくのですよ。今回は推敲したバージョンを出す。さてさて急いで清書しないと。そしてきちんと投函しないと。はあ。自分に信頼がおけない。でもこうして書いて意識化したからさっきよりは思い出せる自分になっているはず。今日締切のも明日締め切りのも作らねばだけどまずは清書→速達で投函。がんばりましょう。がんばらなくてもできるだろということからがんばらなくてはいけないのは大変、とか言っていないでやりましょう。どうぞ良い一日をお過ごしください。

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お菓子 俳句

眠い、あたたかい、ありがたい。

毎日毎日あったかいお布団で寝ないとダメだよ身体痛くなる、とおよげたいやきくんの替え歌として歌う、脳内で。ウトウトして起きるたびに腕が痺れてるからまた麻痺になったらまずいなと思うのだけど寒くなるなりよりだめになる。

薄目あけ人嫌ひなり炬燵猫 松本たかし

ああ、炬燵でひとりぬくぬくしたい、が我が家に炬燵はない。なくてよかった。仕事に行けない。

そういえばオンラインでやってる小さな句会で俳句を打ちこんでいる間に寝落ちして一句しか投句しなかったうえに選句するのを忘れるという失態をまたさらしてしまった。毎日毎日なにかの理由で謝る事態が発生している。全て自分が発生源。ごめんなさい。でもみなさんいつも通り優しくてあたたかくて素敵な選評までいただいてとてもハッピーでした。人に恵まれてるのにいつまでもだめなオレはどうしたらよかんべ。今月も俳句の雑誌に句友たちの句がいっぱいのってるんだ。発売されたら買いに行かねば!選評も面白いの。そんな観点があるのか!と目を見開いてばかり。手動かさんとね、わたしも。

今朝はアーモンドとチョコのマフィン。あったかい。美味しい。あっついコーヒーとね。昨年からカフェインとりすぎたみたいで調子悪くしたから気をつけながらね。日々、気をつけねば、ということが多すぎるからこの優先順位は低そうだけど。しかし持つべきは友。ありがたいことだ。ありがとうございます。今日もよろしく。みんなも元気で。

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俳句 音楽

日曜日

いいお天気。南側の大きな掃き出し窓からも西側のわりと大きな窓のブラインドの向こうもオレンジ。きれいな空。東京は晴れかな。今日はゆっくり。NHK俳句を見た。忘れていた書き物を一気に仕上げて大きな机を覆っていた本を一度全部本棚にしまった。今はまた別の書き物のための本が出ている。今日のNHK俳句は南風主催の村上鞆彦さん。熱い紅茶とアルフォートを食べながら見ていた。なんかしょっちゅうアルフォートもらっている気がする。昨日は雪見だいふくのCMを見てコンビニに雪見だいふくの「白い恋人」バージョン買いに行っちゃた。別の新作デザートも買っちゃったからアイスはまだ。絶対普通の白いのが一番美味しいと思うのだけど「白い恋人」も大好きだからつい。オフィスのそばのコンビニで見つけて気になっていたの。あ、また甘いものの話になってしまった。村上鞆彦さんはとっても素敵。南風のみなさんの句も村上鞆彦さんの佇まいとか話し方とかもとても好き。とか言ってるけど今月は自分の結社の句誌に出す俳句も気づいたら締切を過ぎていた。今気づいたよ。ああ。とりあえず出すのが目標だったのに。全然余裕がないな。あ、NHK俳句のゲストは山崎ナオコーラさんだったのだけど子育て俳句よかった!「母の友」で本紹介(だったかな)もされていたはず。今日は都会にも出るから本屋さんへ行ってみよう。オフィスのある初台は新宿から歩いて15分くらいなわりに都会ではないからね。コンビニの数と高速道路の近さは都会だけどね。

洗濯物を外に干してきた。晴れるみたい。そんなに気温も低過ぎないみたい。低過ぎないというのは服装でどうにかなる気温ということ。

ああ、今日も切羽詰まってるのに日曜日というだけでなんだか気持ちがのんびりしている。チョコ食べたのに朝ごはん食べに行きたいとかなってる。別にいつも行かないじゃん、日曜だからって。そうね。せいぜい電源のあるカフェに朝からこもってるとかだよね。逃避せざるをえない状況ってことだよ。ならこんなこと書いてないで早くやりなよ。えーん。わかってるよー。でもあそこのパン屋さんの美味しいスープが思い浮かんじゃったんだよー。行きたいー。でもだめ。あそこは日曜日は多分遠くからくる人も多いから混んでる。ああ。どうしてあんな小さな駅までわざわざみなさん・・・。うーん。とりあえずやるか。紅茶冷めちゃった。

BGMはずっとコーシャス・クレイ。来日中。昨日すでにライブがあったのかな。お、今日明日か。なんだこれ、「60秒でわかるコーシャス・クレイ」だって。後で見てみよう。アルバムに参加していたジュリアン・ラージはこの前来たばかりだから別の人がギターするんだよね。ジュリアン・ラージとのはこれ。とてもとても素敵。

もうさっきから頭の隅っこの方で怖い自分が「早くやれよ」とうるさい。はいはい。やりますやります。返事は一回。はい。大人だからうざいとか言わない。大体私が子供の時にうざいなんて言葉なかった。

さ、がんばりましょう。

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俳句 精神分析、本

句友、一生(という時間)

暗い時間に呟きをコピペして長文にして呟きの方を消した。ここではただ指任せで書いている。空の明るさだけで起きてしまうとまだ早すぎる。トモコスガさんが「オランダの夜10時過ぎが明るすぎ」と写真を載せていた。さっきまでの東京の空と似たような色。でもないか。こっちはなんか黄色がかってる気がする。

週末、句会でたくさんの人と会って楽しかった。みんなは3年ぶりといっていたけど私は句会自体にほとんど出られていないのでもっとぶりかもしれない。新井素子さんがいらした句会ぶり。あの日と同じ服を着ていたことに会場で気づいた。同じ季節だったのだろう。コロナのおかげでと書くのは間違いかもしれないがコロナ禍ゆえに声だけの交流が始まった句友もオンラインのみで交流していた句友もいて「ここでははじめまして」と笑い合った。会えると思っていなかった遠くに住む句友も前日の激しい雨にも負けず現地入りしていてとても嬉しかった。夏の着物でいらした方たちの生地や帯にも見入ってしまった。とても素敵だった。私も自分でちゃっちゃと着付けできれば仕事あと急いで行かねばであっても着物に着替えて行きたいけどそんな日がくるとは思えない。

昨日は同じメンバーで2年目を迎えたスモールグループでの事例検討会でこちらも毎回のことだがとても勉強になった。一応私は指導する側だけど指導というよりファシリテーター役。役割としても学びが大きい。初回面接を検討する月一2時間半の会だが今回も妙木浩之先生の『初回面接入門』(岩崎学術出版社)にすでに書かれていることを実感して笑い合った。笑えるのは何回も読んだはずなのに何もわかっていなかったということに気づくからだ。臨床的な実感は本の中にあるようでない、でもある、ということなのだろう。

そんな日がくるとは思えない、というので思い出した。昨晩スーパーに寄ると私の前に店を出た人が1リットルパックのぶどうジュースとストローを持っているのが見えた。私が一生やらないであろうことをこの人はこれからするのだなあと思った。あの手持ちの雰囲気からしてこのあとおうちで紙パックからストローで直接飲むんでしょ。150mlくらいだったら私もグラスで飲む機会もあるかもしれないがぶどうジュース1リットル、紙パックからストローで、はないなぁ。多分、きっと一生ないな、と思った。誰かはしていても私は一生しないであろうことなんて数えきれない。することよりもしないことの方が多いに決まってる。なのに「一生ないな」と思う対象がこれかよ、という感じもあるが日常の発見というのはそういうものでしょ?いちいち正確に本を読むことからはじめなくても(そんな読書家なのにそれ、みたいなのもあるから)豊かな日常はそこかしこにある。臨床も同じ。

さっきから激しく鳴いている君は誰なのだ?ヨシキリ?昨日はムクドリが二羽茂みにいた。この時期のムクドリはやたら茂みにいるのだけど低いところのほうが美味しいものが多いのかしら。そこにウグイスみたいな鳥もやってきたんだけどホーホケキョって鳴かなかった。あなたはどなた?なめらかな羽に見えた。

友達が主に怒りに共感するメールをくれた。女の辛さを共有できる女友達がいるのはありがたい。彼女とも会いたい。幸いなことに私はコロナで失った人はいなかった。途轍もない苦しみは知ったし人はいつ死ぬかわからないという実感は強くしたけど。今日もいろんな人と会い、話す。主に聞くほうだけど。試行錯誤を続けよう。なんとか持ち堪えよう。「もちこたえる」か。昨晩の大河は悲しかった。おっと、ネットで拾えた歴史の資料を読んでしまった。こういうところが慌てて失敗する原因を作ってるって流石にこの歳になればわかってる。でも治らないな。どうにかなると思ってるからだろうな。ダメね。そんなこんなであっという間に時間が経ってしまう。いや、辛く苦しいときは時間なんてあっという間に経ってほしいかもしれない。そうなるとそれは無理なんだ。辛いね。でもなんとかやろう。そうはしたくない、そうはなりたくない、という気持ちに素直にやっていけたらいいように思う。

今朝のお菓子は以前働いていた神奈川県大和市のおみやげでした!

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仕事 俳句

ミーティング、「ブラック・サバス」、俳句

雨の音がしなくなった。耳をすます。やっぱりしない。あ、するかな。鳥がさっきピチューピチューピチューって高い声で鳴いてたけどみんなも早起き。

昨日はとても重要なミーティングがあった。ここまでくるのに一年かかった。が、まだ続く。代表者のひとりとして動いていることは最後まで丁寧に。女3人でやってるけど結構楽しい。住んでいる地域もバラバラだからリアルで会ったこともなく小さな子供たちを抱えながらのミーティングも毎回さくさくせざるをえない。でもこの仕事だからお互いのことを手早く知ることに慣れているのかもしれない。この一年でお互いに色々あったこともなんとなく知りつつなんとなく近況報告しつつ。もちろん親密になるというのとはまた別だし「運動」の先頭に共に立つというのは緊張感も伴うものだけど違いを丁寧に補い合うこと自体楽しい。考えや見方が違うからこそ共にやる意味がある。そうか、私たちは「違う」ということに慣れているのがいいのかもしれないな。この仕事は「いろんな人がいる」と実感しつづける仕事だから。障害や病気を持つ人たちと長く関わってきているから何か考えるときにその人たちの生活が常に頭にある。違和感のあるものと共に生きざるを得ない人たちの話をたくさん聞いているとこっちも「なんでそこそんな簡単に根拠なく進めちゃうわけ」みたいなことに敏感になる。臨床は患者さんやクライエントと協力してやるものだから。「ケア」という言葉は当てはまらないように感じるな。お互いにハードだよね、思いもかけないことがたくさん起きるから。本当はそんなことは日々起きてるんだけど人間の処理能力ってすごいから大体のことはパターンに組み込めて違和感少なくできてしまう。密になるとそこが崩れる。だからハード。でもそこに転機も面白さもあるんだと思う。私は今回東京に住みいろんな意味で恵まれている立場だからこそやっておいた方がいいだろうと彼らと協力体制を組んだけどすごく勉強にもなっている。かなりの程度「普通」に生活できている人がやっておいた方がいいだろうということはたくさんあるし育てる仕事をしている責任もあるからいってることとやってることの差異を少なくしていきたい。

その大事なミーティングの前に大急ぎで俳句を作り速達で投函した。ネット句会の締切にも間に合った。いつもギリギリだけど俳句はいい、短くて。15日締切の分も作らねば。明日か。

さっきニュースで見たんだけどイギリスでヘビメタバレエ「ブラック・サバス」の公演があるんだって。オジー・オズボーンもOKしたと。見たい。日本でもやってくれないかな。私の青春時代を支えてくれたミュージシャンたちはもうかなりの歳だ。私だって残された時間の方を意識するわけだ。

今日は私がマネージしている臨床家のみなさんとのグループ。グループでの作業はそれまでの自分の見え方や感じ方を揺さぶるけれど正解があるわけでもないからせめて自分がいってることやってることの確認をしておきたいね、常に戻れるポイントを作っておくことは責任ある作業には必須だと思うし。私も勉強しよう。そして鳥や花もみにいこう。新宿中央公園とか明治神宮がお散歩範囲のオフィスでよかった。昨日私の写真を見て「似てる!」と送ってくれた動画に「私のは明治神宮」と返したらそこも明治神宮だった。似てるどころか同じではないか!とびっくりした。森で見上げる空の形はすごい。森が作る空の形というのかな。明治神宮はお花はあまりないけど蛇イチゴの小さな実がなっててかわいい。それも昨日俳句にした。

はあ、昨日はまたもや句友たちが賞をとったり嬉しいニュースもあったしよかったなあ。がんばっている人たちがきちんと評価されるってそのがんばりを知っている周りの人にも幸せをもたらすね。本人がすっごく喜んでるのも楽しい気持ちになるし。昨晩はたくさんの「おめでとう」「嬉しい」が流れてきた。もちろん私も送った。前に小さな句会を長く維持していくには駄句を出す人も必要なのではという話になった。私は駄句出し係みたいな感じだけど存在意義は十分感じる。評価にこだわるほど真剣にコミットしていないことはよくないのかもしれないけれどいろんな人が同じことしてるのって面白い。いろんな句に触れているとたまにいい句もできちゃうしね。なんでもやり続けてみるもんだ、変な無理をしない範囲で。無理自体はどうしても生じてしまうのだけどそれが過剰じゃないことが大事だよね。

ということで今日も無理なく良い一日をお過ごしください。

明治神宮
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俳句 写真 散歩

花々

行き慣れた家をピンポンした。門からお庭をのぞいたら見慣れないきれいな花がスラッと長く立つ枝に散らされたように咲いていた。人が出てきた。飯能で見つけた「食べる甘酒」を渡しながらこのお花って前からあったかという話をする。おとうさんといっしょに買った苗で昨年は花が咲かなかったという。だから気づかなかったのか。しかもどうだんつつじだという。え、私が知っているどうだんつつじはいつもの散歩道で見る茂みのようなものなのにこんなにすっと背高く咲くものなのか。きれいなピンク。お庭はほかにもこの時期のお花が美しく咲いていた。あやめ?ジャーマンアイリスって言うんだって。ドイツのあやめか。よくわからないのだけどこっちにも似たようなのが咲いていたのよ。へえ、あっちのは?などおしゃべりをして別れた。「おとうさん」は昨年一月に亡くなった。元気そうでよかった。

「どうだんつつじ」と打ったら「灯台躑躅」と出た。打ち間違えたともう一度打ったら自動変換の候補に「満点星」ともでた。あれ?なんで?また打ち直したらまた同じのがでた。これ、どちらも「どうだんつつじ」と読むそうだ。「満点星」でそう読ませるのはなかなか難易度高いが散らされたように咲く花が空に散らばる星々に似ているということだろうか。wikipediaには

「「ドウダン」は、枝分かれしている様子が昔、夜間の明かりに用いた灯台(結び灯台)の脚部と似通っており、その「トウダイ」から転じたもの。満天星の表記は本種の中国語名の表記をそのまま引用し和名のドウダンツツジの読みを充てたもの。」

と書いてあった。そうなのか。お花をラテン語の学名で見ることは多いが中国語名を意識してみるのも面白いかもしれない。深夜、少しだけ片付いた床でむくみのひどい足を伸ばしながら『花のことば辞典』(講談社学術文庫)を見ていた。また片付け途中でみつけてしまった。古田徹也さんがどの本か忘れてしまったが言葉の本のどれかを出されたときに選書リストにあげていた本だ。文庫サイズの辞典はありがたい。その頃は毎日意識しなくても感じられる風や雲の方に注意が向いていてこちらも古田さんの選書で知った『風と雲のことば辞典』をパラパラすることはあったが花の辞典の方はあまり見ていなかった。パラパラ。俳句だ。

「花は夏・秋・冬にも咲くが、ただ「花」といえば、桜に敬意を著して春の季語である。」

下の4句が並べられていた。

花の雲金は上野か浅草か 芭蕉

草越しに江戸も見えけり花の山 一茶

花更けて北斗の杓の俯伏せる 山口誓子

人体冷えて東北白い花盛り 金子兜太

たしかに。見えてくるのは桜、ですよね。そう聞いたからそう見えるだけかな。北斗七星の三つ星を杓に見立てるとは知らなかった。「暦生活」のサイトにわかりやすく書いてあった。

「アイリス」が「あ行」の最初のページに載っている。「アヤメ科アヤメ属の栽培多年草」と。うちの花壇にも植えてみようかな。紫のお花は梅雨に向けての構えをしっとりと作ってくれる。すぐに咲かなくても次の年に咲くかもしれない。

携帯電話には花の写真がたくさん。あっという間に日が過ぎるのでこういうサイトに使おうかと思った頃にはもうその花は枯れ落ちていたりする。季節はめぐる。外は雨の音。さっき南側の大きな窓からのぞいたときは降っているように見えなかったのに。今日は一日雨みたい。写真を撮る余裕はなくてもたくさんの木や花に出会うでしょう。辛いことも悲しいこともたくさんだけど紛らわしながらなんとか過ごしましょうか。どうぞご無事で。ご無理なく。

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俳句 精神分析

晩春、「ねば」、津山

今朝は昨日に引き続き「菓詩処 石井」の「甲州路の菓詩 志ほの山」白餡のほう。包み紙にキラキラの文字で書いてある和歌は同じものでした。昨日はキラキラしてて読みにくかったけど一度読めてしまうと二度目はすんなり。なんでも触れてみるものですね。

ぼんやりしているうちに春も終わってしまいそう。春以前からもう何ヶ月もこんな感じでどうしましょう。すでに晩春ですよ。GW明け5月6日は立夏。立春、雨水、啓蟄、春分、晴明、穀雨、で立夏。

3月を切り抜けたのも嘘みたいだったけど4月はどうなるのかな。あと少ししかない。昨晩もメールの山に埋もれさせたまま忘れてて慌てて提出した書類があったしもうダメかも。こんなことばかり。でもこんなでもやるしかないですね。今月も家賃が払えることに感謝。精神分析がラカン理論のように形骸化してしまわないように実践を続ける場所を維持せねば。候補生の会のニュースレターも作らねば。大抵のことは「ねば」ではないのだけどこれらは「ねば」。

「これはマスト」という表現っていつ頃から使われ始めたの?学生時代は聞いたことなかった気がする。この20年くらい?でもこういう外国語からきたカタカナ用語って意外とすごく昔からあったりするんだよね。明治の文学とか読んでるとしょっちゅう出てくるし。正岡子規の幼名は升(のぼる)なんだけど帝大哲学科に入学する年の三月、同級生に宛てた手紙の署名が「野球」。なんて読ませたかわかりますか?もちろん「ノ・ボール」です。子規の野球愛。俳人の言葉遊び。にしても「ノ・ボール」ってどうなのさ、って突っ込んだかしら手紙をもらった大谷藤次郎(是空)は。是空は美作国西北條郡西苫田村大字山北、今の岡山県津山市の生まれ。津山には小さい頃から何度か行ったことがある。川でお魚とったりお城へ行ったり。何か買ってあげると言われても当時からあまりほしいものもなく赤べこを買ってもらった。赤べこといえば福島だと知ったのは大人になってからだけどいまだに私は赤べこをみると津山に思いがいく。かわいいよね、赤べこ。多分はじめて自分で選んで買った漫画は「キャプテン翼」だけどこれも津山の商店街の本屋さんに子供だけで行ったときに買った。当時「からだのしくみ」の図鑑にもはまっていたな、そういえば。と仕事が積まれていようと、回復できない気持ちを抱えていようと自由連想しながら生きている木曜日の朝です。

みなさんはどうでしょう。東京はいいお天気で暑くなるみたい。梅雨がくる前に傘をささないでお散歩できる時間を楽しみたいな。「ねば」だけはこなしながらなんとかやりましょうかね。どうぞご無事でできたら元気でいらしてくださいね。

ひたむきな薔薇というか下向きに咲く薔薇を下から撮った。

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俳句

石川啄木って

はたらけど はたらけど猶わが生活楽にならざり ぢっと手を見る

石川啄木

ひとしごとして石川啄木のことを書いていたら寝てしまった。寝よう。

起きた。コーヒー&羊羹。昨日は八つ橋をいただいたのでそっちにしようかと思ったけど可愛いオレンジ色っぽい羊羹にした。羊羹って自分では買わないけどいろんな羊羹があるんだね。美味しい。

句会で毎回お題を出すのだけどこの前私が出すことになってなんとなく「啄木忌」にしたの。学生の頃、友達の函館のご実家に遊びに行ったときに友人の父親がドライブに連れて行ってくれてその時に立待岬にある啄木のお墓を教えてくれた。函館を満喫した旅だった。イカもさばいたし。イカ釣り船はすごく酔うからやめときなと言われてやめた。多分そのときのことがどこかで心に残っていたんだと思う。でも実際俳句を作ろうとしたら私啄木のことそれ以外何も知らないのでは、と気づき色々調べてみたわけです。そしてあーこの人は結構ダメな人だなあと思ってしまった。色々あったのはわかる。でも全ての人に色々はある。なぜこうなっちゃうの、ということが多すぎないか、啄木。そして父。女たちのことは彼らの行動を受けてどう行動したかという描写の方が多いのでよくわからないが、啄木に関してはもうちょっと考えて行動しようよ、というエピソードにあんぐりした。樋口一葉と同じで20代で亡くなっていることを思うと若さのせいもあるだろうし才能があり過ぎたからからというのもあるかもしれない。そうかもしれないが、若くても若くなくても才能があってもなくてもそれはそうなるという予測は大抵の人はつくからやらないんだと思うよ、ということをやり過ぎているように思うよ、啄木。でも友達や周りの人に恵まれたみたい。若山牧水が啄木の臨終間際の様子を書いている文章を読んで泣いてしまった。金田一京助もその間際までそばにいたのだものね。看取ってくれる人がいるのはせめてよかったと思うけどそこには父もいたんだよね。そして妻(啄木の母)をなくしたばかりなのに子まで失うとは、という和歌を読んだという。これも若山牧水の文章に書いてあったのかな。調べたばかりなのにどこに何が書いてあったか忘れてしまったけどそういうエピソードを学びました。

だから俳句の歳時記とかで「啄木忌」の例句はこういう感じなんだなあと納得した。

便所より青空見えて啄木忌 寺山修司

うつうつと夜汽車にありぬ啄木忌 藤田湘子

など。

啄木忌は4月13日。その日は盛岡にある啄木記念館は無料だそうです。盛岡を旅したときに行けばよかった。盛岡駅からバスで15分って書いてあったかな。その前に俳句を作りながら啄木をしのぶことにします。

今日は水曜日。なんとなく疲れを自覚しはじめる曜日ですね。みなさんもどうぞご無事で。ご安全に。

写真はこの本より引用。

『情報の歴史21–象形文字から仮想現実まで』

監修:松岡正剛監修

編著:編集工学研究所&イシス編集学校

発行者:編集工学研究所

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あれはなんだったんだろう コミュニケーション 俳句

俺俺倫理に抵抗す

鳥が鳴いてる。句友が増えていく。年齢も職業も知らないで俳句を巡ってやりとりしているだけの人も多いがむしろその言葉選びにその人らしさはでているようにも思う。句会はクローズドだけど俳句は誰にでもできるし私がいる句会はどれもとてもオープン。楽しいし勉強になる。

noteで「あれはなんだったんだろう」解明のため俺が倫理みたいな人を取り巻く家族やそこそこ歳をとった永遠少女や飼い犬のことをネタとして書きつけるときはとても嫌な気持ちになる。気持ち悪いパターンが一切変わらないから。一方で言葉豊かな句友たちと話しているといろんなことに気づく。普段使いの言葉で身も蓋もなく景色を描写する。読み方も自由なので自分では気づけなかったであろうことにもたくさん気づく。こんな豊かさを背景に搾取と依存によって退行を維持する人たちのことを考え続ける。考えるのが嫌でというかそのキャパが少なすぎて不快なものはすぐに外に押し付けてしまうのだろうから大人がやるべきことをやりましょう、という感じ。西村賢太みたいに書きたいけど全く無理なので逆に身も蓋もないことを書いて俺俺倫理に身の回りの人が騙されないように注意しないと。しないとってこともないけどこれからを生きる世代がせめて人の身体を弄ぶようなことをしないように、そうされないように、とかすごく最低限のことを考えてしまう。そういうことが普通に起きているから。どんなに知識が豊富で口がうまくても言葉がパターン的で深みがなくなんか自分のことばかりと感じる人と関係が近くなったとき、違和感さえ否認しなければ悲しい思いをしなくてもすむかもしれない。いろんな要因で自分で自分を騙すことをする私たちだから事態は変わりにくいけどまずは知ることで抵抗、対抗。退行するなら専門家のいる安全な場所で。何がなくともやっていきましょう。今日もどうぞご無事で。

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俳句 言葉

滑らかに。

領収書全部やっつけたぞ、と思ったけどamazonで買った本が未入力だった。あーあ。どこかでわかっていたはずだぞ。あーあ。私の支出はとてもわかりやすく家賃、書籍、訓練費、その他という感じ。ほかにほしいものも必要なものもないから問題ないけど。あ、甘いものにお金使いすぎなのは問題かも。オフィスのある西新宿は新宿の雑踏は越えるけど歩けばコンビニ、セブン、ファミマ、ローソン全部にあたる。ミニストップも遠くない。こんな環境で我慢とか無理、とか環境のせいにしたくもなるけど変わらない自分なりに少し工夫をしましょうね、と思うのですけどね。春は、夏は、秋は、冬は、と全部の季節を言い訳にできちゃうからなあ。加齢が最も現実的なストッパーかも。

今日は3月14日火曜日。日めくりは「花種を蒔きて呪文を掛けておく 太田土男」つちおさんって読むのかしら。お名前とピッタリの一句。花種は春に蒔く種のことで夏か秋に咲く花の種ですって。どんな呪文を掛けましょうか。すごく先のことより少し先の季節に向けて欲張らずに。うーん。呪文というとなんか怖い花が咲きそうだけど種を蒔く人が掛ける呪文なんだから花に何かを託すわけだよね。何を託しましょうか。適当に呪文めいた何かを唱えながら種蒔きすること自体楽しそうでいいことありそうだからそれだけでもいいか。でも「無事に咲いて」と願うのだって小さくない願いかもしれない。だからどうかそれまで無事にいられますように、呪文が守ってくれますように、って考えるとどんなのがよいかしら。とかいっている間にきっと季節はどんどん先へ。どうにもならないこともたくさんあるけどとりあえずとりあえずでどうにかこうにか生きていけるように願う言葉をそのまま呪文に。大江健三郎さんが光さんと一緒にうちの大学にいらしたのはいつだったか。仙川あたりによくいるけれど見かけても声をかけないでください、と上品におっしゃっていたっけ。なんだかいろんな人が引き伸ばしてくれた時代が終わりに向かっているようでとても寂しいけれど亡くなったことではじめてその言葉を知る世代もあるでしょう。少しずつ少しずつ。断絶よりは滑らかに。

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俳句 短詩

高浜虚子、暮田真名、千野千佳

すごいな。世界が光で溢れてるじゃないか。とかいってまたぼんやりする。こんな時間になっちゃった。もうどこまでサボれるかチャレンジみたいになってるな。いつになったら少しはまともに動けるようになるんだろう。

3月、本当に大変なことになるぞー。でも今日はまだ2月、とかすぐに「ダイエットは明日から」的な言葉が出てくる。自分で自分の首をしめるということを人間は平気でするのですね。私だけかな。

これよりは恋や事業や水温む 

きょっしーの句です。高浜虚子ね。これは卒業する学生たちに向かって送ったんだって。ほんと、こんな気持ちになりたい。角川書店の『俳句歳時記 春』にも収録。私は同じく角川の『合本 俳句歳時記 第四版』Kindle版で知りました。

一を知つて二を知らぬなり卒業す 高浜虚子

これもほんとそうだねえ。虚子の句は俳句に興味がなくても楽しめる人が多いと思うな。いい句だと思いません?自分でも作れそうな。もちろん作れないのだけどそう思わせてくれる親しみやすさが虚子の句にはある。ふらんす堂の高濱虚子句集『遠山』は新装版が出てるから興味をもたれた方はチェックしてみてくださいね。私は暮田真名さんに教えてもらって買ったのだけどコンパクトなのがまず素晴らしいし、楽しい句集です。俳句の魅力はなんといってもその短さ!と私は思っている。短歌とか「長いなあ」と思ってしまう。暮田さんは川柳の人だけどいっぱい読んでるから俳句の話も楽しくできる。同じ575だしね。川柳は77もあって暮田さんの77は面白いよ。

余力があれば荒廃しよう 暮田真名

77。私は荒廃する余力もないというか荒廃ありきみたいになってるな。荒廃したら余力はないよ、これも77だけどそりゃそうだろうみたいなのは現代川柳ではないんだなあ。ちなみに暮田さんのは歌人の大橋なぎ咲さんとのユニットによるネットプリントの総集編『当たり』に収録。『遠山』と同じくコンパクト。紅白でかわいい本です。

私と川柳の偶然の出会いを作ってくれた千野千佳さんが先日、星野立子新人賞に輝きました☆

花筵たたまんと立つ二人かな 千野千佳

これ『角川俳句』3月号に収録された受賞作のうちからのたった10句の中のたった1句なんだけど「花筏」と誤植。「はないかだ」はたたまないでしょ。コピペすれば間違えないわけだけどもう1句、誤植があるのです。なんでかな。多分読めば「あれ?」ってわかるのでこれも興味のある方はみてくださるとよいかも。「大きさ」ではなく「大きな」が○です、とだけ書いておこう。早く訂正してほしいな。

今は梅が満開。あと1ヶ月もすれば桜。二人でたためるくらいの花筵でお花見もいいかもですね。私は大体歩き花見だけど。北沢川緑道とかきれいです。

千佳さんと暮田さんのユニット本を作りたいという夢があるのだけど余力どころか、という感じだからだれかー。素朴で新鮮。正直でユーモラス。虚子みたいなお二人です。

なんかカラスが怖い鳴き声をあげている。怖さにも色々あるよね、とまた暗い気分になりそうだから楽しい気持ちのまま切り上げよう。またここで会えたら会いましょう。

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俳句 読書

『スティーブ&ボニー』、3月11日、春の雨

寝不足。眠い。色々思い出したり考えたりしていると陰鬱な気分になってくる。さっき安東量子『スティーブ&ボニー』(晶文社)から引用したツイートをした。私はつながるための言葉を戦いの言葉に変換され言葉を交わすことに絶望したことがある。やっぱり、とどこかでわかっていたはずなのに希望を持ってしまったことにも重ねて絶望した。安東さんは絶望しながらも動き続ける。それをたやすく希望の証左とはいえないだろう。ただ福島で生きてきた人、福島を生きる人にとって絶望したからといって切り離すなんて何を?という感じではないだろうか。そんなことできないから絶望しながらでもこうやって生きてるんだよということではないのか。この本はアメリカで開かれた原子力に関する会議に招待された安東さんの孤軍奮闘日記でもあり様々な交流の物語でもある。そこでの講演内容を知れるのも貴重だし、それに対する聴衆の反応と安東さんの想いを知れるのはもっと貴重だ。あと1ヶ月でまた3月11日がやってくる。何度も何度も記憶を戻し、あれはなんだったんだろうと問い続ける。せめて誤解に基づく非難を回避する努力なら続けていけるのではないだろうか、こういう研究と現場を行き来する実践家の本を読むことで、と改めて思った。

空が明るくなってきた。今日の東京は「冷たい雨。今日との気温差に注意。」なの?昨晩、電車の液晶テレビ(っていうの?)でそんな予報を見た。まだ天気予報は変わっていないだろうか。「春の雨」という季語みたいに明るく暖かなイメージの雨ならいいけれどきっと違う。だって寒い。

ちとやすめ張子の虎も春の雨 夏目漱石

そうそう。今週も「ちとやすめ」と言い合いながら過ごしましょうか。リラックスするのはとても難しいことだけど力の抜けた柔らかな言葉をかけあうこと自体がそんな一瞬をくれると思うからまず言葉だけでもかな。どうぞ今日もご安全に。

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俳句

春眠

眠い。外あまり寒くない。こんな厚着してたら当たり前か。歩いたし。

キンコンキンコン何かが鳴ってる。ほんとの鳥も機械の鳥も鳴いてる。やっぱりこうしてると寒い。電車に乗った。あったかい。

静か。

電車で作業せねばなのにこんなことしてる。だめだねえ。期限あるからやるけど。

マスクしてると老眼鏡がくもる。

マスクするしないまで自由じゃなくなる日がくるとはねえ。介入すべきところってほかにいっぱいあるでしょう。

とってもおいしいまんまる金柑をもらったので3つ食べた。すごくおいしいけど2つにしておけばよかった。金柑は秋の季語なのね。春でもこんなおいしいのに。隣の家の金柑は今年は実がならなかった、気がする。見る時期を間違えたのかしら。いやいや意識しなくても気づくからそこに金柑の木があると知ったのだ。多分実を結ばなかった(なんか悲しい言葉)か少なかったかだろう。あんなキラキラしてたらわかるもんね。

死にたれば金柑の門くぐりゆく 岩田奎

そうなのか。死にたれば…

ああ眠い。生きるというか起きねば。みなさんは今日は?それぞれですね。こう書きながらウトウトしてしまう。どうぞお元気でお過ごしください。朝の光が眩しいです。

春眠をむさぼりて悔なかりけり 久保田万太郎

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俳句

こども、チョコ、小川軽舟

「○○ちゃん(むにゃむにゃ)アーンアーンしちゃったの」とさっき久しぶりに会ったばかりの2歳の子が手を繋いだ私を見上げながらいう。するともう一方の手を繋いでいた子が「アンパンマンが(むにゃむにゃ)」という。そうだった、この通りのおうちの塀にはなぜか小さいアンパンマンがいるのだ。今日もいるかな。あー鬼か。「おにはーそと、ふくはーうちしたの」というと二人が「おにはーそと、ふくはーうち」を楽しそうに繰り返し跳ねるようにするので手綱を引くように手を握り直す。小さな手。でも力が強いし動きが早い。赤ちゃんのときから知っているせいか季節ごとにしか会わないのに会えばいつもいろんな報告をしてくれる。しりとりのような、自由連想のような話に行きつ戻りつしているうちに公園に着いた。「○○先生がいたの」と鬼役を先生がしていたこともあっさり教えてくれた。わかってても泣いちゃうよね。

コンサル先でバレンタインデーとチョコをもらった。ここも年に2、3回しかいけないがいつもいろんなお菓子を持たせてくれる。この日は鏡餅のおかきも。揚げたてじゃなくてごめんなさいと。いやいや全然。とってもおいしい、と食べていたら別の小さな紙袋に入れたおかきも持たせてくれた。帰ってからいただいたチョコをみたら岡本のチョコ!私の苗字ではなくて神戸の岡本というところ。大好きな街。学会で行ったはずなんだけどいくたびにたくさん歩いておいしいお店が見つかっちゃうから大変でした。この街は俳人たちの暮らす(暮らした)街でもあって今も生きている代表的な俳人でいえば小川軽舟さんが住んでいらした。今はわからないけど『俳句と暮らす』(中公新書)の4章「散歩をする」を読むと俳句にイメージを膨らましてもらいながら岡本のこともそこで暮らした俳人たちのことも知ることができます。この本、ただ生活をすることの豊かさが書かれているとってもいい本です。私は何もわからないままはじめて連れていってもらった句会が軽舟さんたちとの小さな句会で、その頃は結社とか主宰とかいう俳句界での言葉も知らなかった。軽舟さんは『鷹』という大きな伝統ある結社の主宰だったのでした。その時にあっさり言われたひとことにちょっとショックを受けたけど言い当てられてしまったような恥ずかしさと面白さもあり、それから何年もあとになってまた誘われて俳句を始めたのもほとんど作らないわりに句友たちと繋がっていられるのもああいうはじまりがあったおかげかもしれないとか思った次第でございます。

というわけでみなさんもそれぞれの街で今日もご無事に過ごされますように。面白い景色にも出会えますように。写真はもうすぐ咲きそうな河津桜です。

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俳句 言葉

個人、関心、句友

今日は雨の予報なんですね。たまには降らないと地球水不足になってしまうけど今日は降らないでほしかったな、なんて個人的な事情はね、ああ、個人的な事情って本当に世界には関係のないこと、というか、相手が傷つこうか死んでしまおうがやりたいことをやる人はやり続けるものですね。世の中で関心を向けられるべき人は現在それを得ている人たちではないのはたしかでしょう。あからさまな差別をしている人たちはいうまでもなく、口先だけの心優しき強者も弱者には見えないコミュニティでもこれまで通りの賞賛と共感を得られるでしょうから色々なかったことにして弱者も共存するコミュニティにいい顔して入り込むのは避けてほしい。それはこういう文章を書くという行為であっても同じことだと思っています。とかいったところで傷つけられた個人がそう思っているだけの場合は集団における印象というのは変わることはないし、支持と共感のおかげで弱者を差別する自分を上手に後悔して過去の「失敗」にできてしまう人のほうが肯定的な関心と評価を得るのが「ふつう」です。構造的な問題、と日々激しい口調で言っている人でさえたやすく巻き込まれてしまいますから。声をあげるなんて怖くてしかたなくなりそうです。一方、日々死にたいと思いながらもなんとか生きている弱い立場の人たちに例外なく優先的に関心を向け一緒に考えていくことができるのもまずは個人でしょうから、まずは自分ということになるでしょうか。

昨日は久しぶりに句友の連載や句評をたくさん読んで残酷な社会との関わり方のひとつとしての俳句に励まされました。彼らはとても優れた書き手ですが書き手として生活しているわけではないし俳句で食べていく人もごくわずかでしょう。基本的にわざとらしさを嫌う俳句同様、自由で気楽な雰囲気を感じる文章はいつも新鮮です。一方的ではない関係で地道に言葉のやりとりに支えられながら今日も一日。

ああ、雨ですかねえ、東京は。鳥は今日も元気そうです。みなさんもどうぞご無事にお過ごしください。

スヌーピーに鳥の友ある日永かな 斉藤志歩

斉藤志歩『水と茶』(左右社)より

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俳句 散歩

春の光、黒酢豚、落椿

色々難しいしひどいな。そして色々進まないな。どうしましょう。

今日寒くないですか?空は薄い水色。色からして寒そう。昨日はやっぱり立春を過ぎると光が違う!と感動したのに。そういえば連日月がきれいだったけど昨晩が満月だったみたい。みましたか、空。とってもきれいでしたよ。

お昼を外で食べようかなと思ってでも食べたいものが見つからなくてようやくあそこに行こうと決めて2駅電車に乗って行ってみたら並んでいる・・そんなに人気がある店だったのか。仕方ないから美味しい肉まんでも買うかとその近くのお店へ向かったら大行列。えー。ここは人気店だと知っていたけどこんなに並ぶの?休日の様子を知らなかった。それも仕方ないからトボトボ歩いてあそこはどうかなあと向かった先は少なくとも外には誰も並んでいない!前のカップルと一緒と間違われないように少し離れて、と思ったら背の低い私など見えていなかったらしく心配ご無用でした。店の外の看板に綺麗な字で書いてあった黒酢豚をお願いした。てっきり定食形式かと思ったら実は単品でそれにご飯とかスープをつけることもできるよということだったらしく酢豚は2、3人で取り分けてもいいくらいのボリュームだった。隣の人は麻婆豆腐。余裕できれいに食べてた。胃腸の弱い私は食べられるかなあと思いつつも白いお皿の中でキラキラの黒酢に浸るように置かれた茶色くて丸いお肉たちと上にたっぷりふわっと乗せられた白髪ネギの組み合わせに感動。食べる直前に隣の人がスープに胡椒をふったせいかひとつくしゃみをしてしまった。そして見栄えに感動しながらとろっとろの黒酢からお肉と白髪ネギを掬い上げて口に入れたら大きくてうまく噛めず、しかも最初の一口は黒酢にむせてしまった。でも美味しい!時間をかけて最後まで美味しく美味しくいただいたけどこのまま電車で乗るにはお腹がおもたすぎるということで行きは電車できたのに帰りはお散歩。行きも歩けばよかった。だって春をすごく感じたから。その光のなかを歩きながら黒酢豚のキラキラを思い浮かべてたけど取り合わせで俳句を作るには私には難易度が高かった。大体の俳句の結社には自分の俳句からよかったものを選んで載せてもらえる結社誌というのがあるのだけど私が所属する結社は年4回の発行。前回は色々無理だったので投句できなかった。毎回どんな駄句でも直前に作って速達で送ることになっても出してはいたのだけど何もできないときってあるからしかたないですね。今回はなんとか出したいけどどうなることやら。先のことはわからないけどとりあえずひとつずつ直近のことからやりましょう。やれるかな。

今日の俳句日めくりカレンダーは

落椿とはとつぜんに華やげる 稲畑汀子

今日は汀子さんですか。先日『稲畑汀子俳句集成』の読書会に出たばかり。椿ってほんと地面で咲き直すかのようにきれいに落ちますよね。ちょうどそんな写真を少し前に撮ったから載せておきましょう。それでは、また。もろもろなんとかなりますように。

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俳句 読書

句友とか『青春と読書』とか。

「花の郷 バター」

美味しそうなお名前。美味しいです。町田の社会福祉法人花の郷さんのクッキーをいただきました。

おー、句友の句がNHK俳句に!加藤シゲアキが好きな句と言っている。句も人も素敵な友がたくさんです。大好きな千野千佳さんも北斗賞の佳作に入ったし。みんないつもすごい。千佳さんの三句は昨日『月刊 俳句界 2月号』で読んだ。特別だけど普通、でもやっぱりなんだか特別、今回もそんな景色が爽やかでした。

そして私たちの俳句の先生、堀本裕樹先生が毎月連載されていた「才人と俳人 俳句交換句ッ記」は最終回。ゲストはやはり又吉直樹。やっぱりとてもよかった。載っているのは集英社のPR誌『青春と読書』です。

そしてこの2月号には山本貴光さんが今野真二『「鬱屈」の時代を読む』(試し読みあり、集英社新書)の書評を書いておられます。前にゲンロンカフェでお二人の対談をみましたけど日本語の言語学についてとても楽しくおしゃべりしててホヘーすげーと思いながら楽しみました。ということで読み始めたらこりゃまたすごい。言葉を丁寧に探索していくのが言語学なわけだけどこの本は言葉にならない、あるいはまだ言葉としての形も持っていないものがどう言葉になっていくのかという言語化のプロセスを本当に豊富な文献の引用を通じて緻密に記述、描写してくれています。普段やりがちな雑な言葉の使用(例えば「レッテル」貼り)に対する反省も促される一冊になりそうです(まだ途中)。

ちなみに今野真二『日本語の教養100』(河出新書)刊行のときは山本貴光さんと往復書簡を交わされていました。それはこちらで読めます。

今日も色々(雑かな)あるでしょう。鬱屈した「気持ち・感情」はなかなか言葉にならないかもしれないけれど言葉を大切に人を大切につまりは自分を大切になんとか過ごしましょう。

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俳句 読書

コーヒー、銀杏、俳句

腰が痛い。指も痺れる。でもこれは危機は脱したな。別の危機はあれど私にできることがあるとすれば最小限のことをするということのみ。よけいなことをしない、誰かを巻き込まない、とにかくシンプルに、というのがモットーだけど相手あることは私だけそう言っててもしかたないし先に何が起きるかは誰にもわからないので受け身でいる。

美味しいコーヒーを入れてもらった。「美味しいコーヒー淹れてあげる」と言われたからコツを色々聞いてみた。「落ち着いて淹れる」みたいなシンプルな言い方だったが確かにコーヒーを驚かせてはいけないというのは聞いたことがある。最初に聞いたときは「コーヒーが驚くのかよ」と思ったけれどゆっくり静かに少しずつ起こしてあげるように淹れるんだってそのときは教わった。今朝も言い方は違うけど似たような感じだった。「落ち着いて」というのは私には難しいからこだわりのコーヒーは淹れてもらうに限る。味はよくわからないけれど美味しいということはわかる。美味しかった。

銀杏の雄雌両方の実をもらった。銀杏は雌株しか実を結ばないようだが実自体には雄雌両方いて、雄は二面、雌は三面なんだって。おばさんたちなんでも知ってる。初対面でも子供に色々教えるみたいに教えてくれる。私も大人になれば色々物知りになるのかと思っていたけど全然違った。でも知らないことばかりでもこうして教えてもらえばいいのだからおばさんになっても無理することもないということは知った。母が歴史に詳しくてそれも「私も大人になれば」とまたまた単純に思っていたがそんなことも全然なかった。当たり前だ。今は小学生とかが教えてくれたりする。勉強している世代の頼もしさ。おばさんたちのは経験知だからくっついてくるエピソードも生活とシームレスで面白い。

昨日は仕事の合間に「稲畑汀子俳句集成読書会 わたしの汀子俳句」というオンラインの読書会に出た。『稲畑汀子俳句集成』(朔出版)は1万2千円!でも5400句近く入っていて昨年5月の発売からすでに3刷。きれいな装丁の「栞」つきで大好きな 宇多喜代子や大輪靖宏、長谷川櫂、星野椿が寄稿。読書会に出たおかげで捲り方がわかった。

読書会のホストは汀子の息子さんの稲畑廣太郎(『ホトトギス』主宰)、ゲストは佐藤文香(翻車魚、鏡)、堀田季何(『楽園』主宰、『短歌』同人)村越敦(澤)、山口亜希子(編集者、書肆アルス)、今橋眞理子(ホトトギス)。テーマは「音」。汀子との距離の違いが生む読みの違いに触れられていたのも面白く、みなさんの対話でひとつひとつの句が瑞々しく生き返るようだったし、俳句界の重鎮というイメージの汀子の姿もまた一人の人として愛しげに語られていてこういうモーニングワークはとてもいいなと思った。

新宿中央公園の脇の道の梅も咲き始めたし春ですね。寒いですけどね。暖かくしてお過ごしください。こちらは汀子の5歳下池田澄子の句。音も文字も楽しくないですか?

また春が来たことは来た鰐の顎 池田澄子

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俳句 読書

1月7日小寒

太陽の運行をもとに一年を24等分したのが二十四節気。まずは一年を立春、立夏、立秋、立冬で4等分。それを今度は6等分。春は立春に始まり雨水、啓蟄、春分、清明、穀雨、夏は立夏に始まり小満、芒種(かっこいい)、夏至、小暑、大暑、秋は立秋から処暑、白露(きれいだよね)、秋分、寒露、霜降、冬はまず立冬、そして小雪、大雪、冬至、小寒、で大寒まで。

ちなみに今は1月7日。睦月、二十四節気でいくと小寒。それをさらに3つに分ける七十二候だと芹乃栄。せりすなわちさかう。あらあら七草粥の日?前にいただいた茅乃舎の炊き込みご飯の素の賞味期限がやばかったから慌てて作ったというか混ぜ込んで炊いたチキンライスをいただいてしまったよ。美味でしたからよしとしませう。チキンライスも炊き込みご飯に入るんだねえ。出汁を売るってすごい発想なのではないか?はじめて茅乃舎を知ってだしの試食?試飲?をさせてもらった時にはなんか変な気持ちだったけど美味しかった。今の時期は寒いから温かいだし汁だけでも幸せよね。暖かく暖かく。

ちなみに毎年宇多喜代子さん監修の「俳句の日めくりカレンダー」をもらっているのだけど今日1月7日はね、みんな大好き池田澄子さんの一句。2021年年末に出た『本当は逢いたし』(日本経済新聞出版)は私の周りにも愛し愛されている人の多い池田澄子さんの豊かさに包まれる句集エッセイだった。1936年生まれの澄子さん、宇多喜代子さんはその一つ年上。戦争を知っている世代のこのお二人の女性たちの声は俳句でも散文でもとても魅力的。

松の内どこでマスクをはずすのか 池田澄子

また書いてしまった。今年こそは俳句をがんばらねば(毎年言ってる)。

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俳句 映画 趣味

居酒屋。映画『冬の旅』。

「はい、南蛮」カウンター越しにあまりに自然に渡されたのでつい受け取ってしまった。「南蛮、ここじゃないと思う」というと「すいませーん」とホール係の女性がすぐに受け取りにきてくれた。耳が遠くなったなと感じていた。彼は間違いを正す方だった。常連客との雑談が増え目つきの鋭さがなくなってきたように感じていた。心配なんだ。安くておいしくて通い続けてる。コロナの間はテイクアウト用のおばんざいセットを出していた。これも店で楽しめる以上に多彩なおばんざいばかりで真似して作るのも楽しかった。ビニール袋には入らない大きな正方形の箱を平に持たなければならないので風呂敷に包んでくれていた。店が再開してから再び通うようになった。大体決まった曜日に行くがいつもいつも会う人は特にいない。でも大体の常連には会っていると思う。何度も目だけ合わせて話したことのない人も若い頃から通っているらしきお酒大好きな人もみんなひとり。「ありがとうございました」包丁を握りながらクリッとしたつぶらな瞳でしっかりこちらをみて送り出してくれた。長生きしてくださいね。店長の息子たちもそれぞれに店を出して味を受け継ぐ人はいるし彼らの店も大好きだけど私はこの小さな居酒屋が一番好き。まだまだお願いいたします。

今日は七十二候でいう「地始凍(ちはじめてこおる)」。小春日和に安心しつつ少しずつ大地も冬支度。

凍てつく大地で若い女性が死んだ。とてもかわいい寝顔と同じ死顔で。

アニエス・ヴァルダ「冬の旅」の話。楽がしたい、自由に生きたい、それが何を意味するかなんてどうでもいいのだろう。他人がそれをなんと言おうとそれが求めうるものである限り彼女は歩き続ける。ヒッチハイクで移動しては薄っぺらいテントで眠る。大きなリュックと臭気に塗れながら。汚い女と言われながらも出会う人たちを魅了し水や食糧、仕事と居場所をえる彼女の求め方は最低限のそれで相手のケアや憧れを引き出すのはすでに大人になった彼らが失ったあるいは得られなかったものを彼女に見出すかららしい。一方、彼女の在り方そのものが喪失の結果のようにも見え、これ以上の喪失を拒むもののように感じられた。それゆえ彼女は繋がりとどまることに対して受け身でしかいられない。彼女が追い出される場面で放った言葉がまさに今の私が使いたかった言葉で心に残ったのだが記憶に残っていない。まさにそう言ってやりたい、そんな言葉だったが言う機会も同時に失っているので思い出す必要もない。彼女の怒りが突発的に表現される場面には少し安心した。彼女の名前のイニシャルが貼り付けられた肩掛けバッグのスクールガールっぽさがその年齢の危うさに対するこちらの親心を掻き立てたのかもしれない。私もまたすでに失っている側のひとりで彼女のような頑固さや意地や必ず再び歩き出す力は持っていない。彼女に対する無力は今は世界に対するそれのような気もするが、凍てつく大地で寒くて眠れずママと口にする、もしくは倒れたまま死んでいくような厳しい環境にもない。

もう行かねば。放浪ではない日常をなんとか今日も。

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俳句 未分類

台風、見通し

台風が近づいているらしい。外国だと台風には名前があるよね、と思ってwikiをみてみた。今はアジア名というのもあって日本からは「琴」とか「山羊」とか星座に由来した名前を提案してるんだって。最初「日本 yagi やぎ 」の並びを見たとき2度見したけど星座ね、なるほど。琴座って久しぶりにみた。アメリカのハリケーンは人の名前で好き勝手に投影できてしまうせいか「それは合わないのでは」とか思わないけど日本の台風は数字で呼ばれているのしか聞いたことがない気がする。

今空は静かなのだけど台風前のなすすべなしな感じってこれまでの経験からきているのかな。時折強く吹く風、そしてまた静けさ、突然降っては止む雨、そしてまた、という繰り返しにリズムを見いだせないことが見通せなさに対する諦めを生じさせてるのかな、とか。

今思い出したのだけど今日速達で出さなくてはいけない俳句を投句用紙に清書していない。昨日のうちにやろうと思って持ち歩いていたのに投句用紙が載っている結社誌もない。どこ?持ち歩いていてオフィスで出しておいてきてしまったのか・・・。多分そうだ。もー。締切間際に作って安心、という態度もいただけないが、無くしものの多さよ・・・。こういうのは何度もやっているので予測がつく。見通しがつく。相手は台風ではなく自分だもの。なのでなすすべなしではないが、こんな自分にはいつも軽く眩暈がする。やろう。探そう。なかったら別の手をうとう(あるのかよ)。

あー。兎にも角にも台風でもなんでも自然にはなすすべなし、とはいえ、被害が生じませんように。気をつけて過ごしましょうね。