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散歩 読書

刀剣、公園、日本

東京の日の出は6時21分。すっきりと寒そうな空。宇宙飛行士の油井亀美也さんがあげてくれた宇宙の日の出の動画がとてもきれいだった。11月初旬、新潟の彌彦神社の宝物殿でみた刀たちを思い出した。きれいだった。丁寧に説明をしてもらいながら様々な日本刀をみたのが山形県上山市の蟹仙洞だと思うが、今年8月に閉館してしまったらしい。なんと・・・。これまで出会ってきた人たちのなかに刀剣好きな人はわりといていろんな話を聞かせてもらった。私も好きだが、ほとんどオタクのみなさんの語りには驚いてばかりだった。推しの話をするときの輝きや力強さはいまやアセスメントの指標のひとつだ。2017年、初台の物件で開業することを決めたとき、刀剣博物館が近いのが楽しみでいっぱい通うぞ、と思ったのに9月、ちょうど私がオフィスで仕事をはじめたときに両国に移転してしまった。貼り紙をみてガーンとなった。墨田区はSCとか幼稚園巡回で身近だから気楽にいけるけれど近所とは全然違う。オペラシティアートギャラリーだって近くなくても行っただろうけど毎日仕事をする場所の近くにある特別感。手ぶらでいけるし。

それにしても冬らしくなってきた。紅葉がとてもきれいで公園で読書とかしたいなとか思うけどとどまるには私には寒い。西新宿はベンチが多くて新宿中央公園のベンチでのんびりしている人をたくさんみかける。新宿白糸の滝と名付けられたミシシッピアカミミガメたちがいる水辺と新宿駅方面へ続く西新宿の高層ビルがみえるきれいなベンチでくつろぐ人たちをみるのは楽しい。公園全体の整備が進んで、なんか辛いなあ、と思いながらみていた工事中の景色が順々に新しくなっていく。私が毎年親しんで楽しんで開花を待っていた花たちはただの道になった。上を見上げれば高い木々の紅葉と鳥の声は前のままで誰を気にすることなく大きなため息をつける場所もあるけれど。アメリカデイゴは花の時期が長いらしく、いついってもまだ咲いている、という印象がある。

昨晩はずっとエアコンをつけていた。加湿器もつけた。加湿するとぬくぬくさが増す気がする。辛いニュースをぬくぬくしながらみていられるのは幸せな環境かもしれないが背筋が凍るような事態が進行していそうで怖い。辻田真佐憲の『「あの戦争」は何だったのか 』(講談社現代新書 2780)に靖国神社の遊就館が

「今日においても実質的に″日本を代表する戦争博物館″としての役割を果たしているといっていい」

と書いてあってそうなのか!と驚いた。外国人観光客も多く訪れているらしい。偏ったことばかりが書いてあるのではないか、という疑いはこれを読めば薄まるが、「負の歴史」を因果関係ではなく単なる事実として記憶に残る記録として展示していく公的な機関の必要性は強まるばかりではないか。そういうものが作られないための準備ばかりされているような気がしないでもないが。私は辻田さんの本は挑発的な部分を誤読してしまったらどうしようと思いながら読むのだけどこれも大変勉強になった。言いっぱなし、使われっぱなしの言葉や出来事をどう未来につながるものに育てて形にしていくか、ということを考えないといけないのだろう。「反省」って言葉とか。

アンドレ・グリーンの罪と恥に関する論文を読んだので、それについて書こうと思ったのに日本に思いをはせてしまった。罪と恥も土居健郎の「甘え」の文脈で考えているから結局日本に住む日本人として色々考えるのは当然だが。

いいお天気でうれしい。暖かくして温かい飲み物と一緒に過ごしましょう。

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散歩 精神分析

余裕

珍しくのっぺりした曇り空。鳥たちは元気そう。東京のどこもかしこも紅葉してきていつもの道も鮮やか。大きな柿の木は小さな柿をたくさん実らせてたくさんの鳥の声が聞こえてくるし(姿は飛び立つときしか見えない)、薔薇が一本だけ柵を飛び越えて咲いているのも素敵。もうちょっと寒いのだけど歩いていればすぐ温まる季節だからできるだけ歩いてる。目的なく歩いていたら行きたかったチーズケーキ屋さんが入っているビルが三角定規の形だと気づいて驚いた。秋は空を見上げることが多いからいつもと違う景色に気づく。朝早くてまたもや買うことはできなかったけど。と、私は呑気に散歩できる東京にいるけど秋田とか岩手とかクマが生活圏に出ているところは今までみたいに景色を楽しんだりできないのかも。本当に学校とかも心配ですよね。コロナがようやく落ち着いたかと思ったら別の脅威が、と何も気にせず何も考えず過ごせる時間がどんどん奪われていったら人間関係にもじわじわ影響が出てくるに決まってる。みんなにとってどうにもならないことだってわかっていても誰のせいでもないと思うことは私たちには難しい。自分を責めたり他人のせいにしたりどこかに常に原因を求める。ただただ状況を追いながら自分の状態を丁寧に観察することの重要性なんてまず実際的な余裕をくれという話になって贅沢品みたいな扱いになる。自分の心は物質的な何かとは関係なく働く可能性をたくさん秘めていていつでもどこでも触れていいはずのものだけど実際はそうはいかない。わたしたちは自分で自分を自分が他人をがんじがらめにすることでどんどん世界を狭くする。そうやって自分の心を守っている。動かせば動かすほど広げれば広げるほど辛いことが増えることもまた確かだから。本当に難しい。でも希望を、常に希望を、そして信頼を。いろいろ怖くて色々不安で、そういう毎日にほっこりする瞬間や口元が綻ぶ一瞬を。良い1日になりますように。

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散歩 精神分析

新潟県弥彦村、エルリッヒ論文、村田沙耶香

東京。暗い。今朝は寒くない?暖房はつけるけど。夏の間、冷蔵庫に入れておいたフィナンシェを熱いお茶といただこう。柿もある。あっという間に秋になり、明日11月7日(金)は立冬。なんでも冷蔵庫に入れていた季節がようやく終わったのになんて慌ただしい。週末、新潟で時間があるなかで紅葉を楽しめたのはよかった。新潟駅も朱鷺メッセ周辺も赤に黄色に美しかったが、弥彦公園もみじ谷が素晴らしかった。まだ一分とか案内されていたが十分!十分きれいだった!弥彦山に登る予定の人と一緒に行ったのだけどあいにくの雨で一緒に弥彦神社やもみじ谷を散策。紅葉山もいろんな色に色づいていたから晴れていたらさぞ鮮やかだったでしょう。弥彦駅に着いたときは大雨でお店の軒下で雨宿りしたり、小さなお菓子屋さん分水堂菓子舗でパンダ焼き(人気!)を食べたり、そのお向かいのおもてなし広場で足湯で温まっているうちに小雨になり出発。彌彦神社までの道歩きも楽しい。弥彦神社では菊まつり開催中。いろんな菊があるねえ、と菊まつりに出会うといつも思う。大きな神社で鹿園もあって、良いニワトリたちもいっぱいいた!こんな豪華な並びは珍しいのではないか、と思った。彌彦神社を出てまた散歩しながら弥彦公園もみじ谷へ。とてもきれい。夜はライトアップもするとのこと。山の方へ伸びる道を見つけて行ってみたら湯神社に続く鳥居が続いていた。こんなところに異世界への入り口が、という雰囲気。細い道をどんどん行ってみたが10分くらい歩いても先が見えず、ふたたび登りにさしかかった。そのあと、弥彦ブリューイングに行ってから帰りたかったから霰も降ってきたので引き返した。あとから地図を見るともう少しで到着だったらしい。湯神社って面白い名前、と思ったけど弥彦温泉発祥の地なんだって。弥彦ブリューイングも無事にやっていてお店の人たちといろんなお話をして楽しかった。これはこれで色々書きたいがまたどこかで。帰り道は小雨だったけど寒かったー。これからこういう季節が来るのだなあ、と怯えた。寒いの本当に辛い。でも新潟はいいところだったな。東京から遠くないし。新潟市なら精神分析で開業してもやっていけるかもしれない、というか私は日本全国を巡りながらそこで精神分析で食べていけるかということは必ず考える。「最初はここのクリニックで雇っていただけないかな」とか奄美大島でも思った。奄美大島はね、住んでいる人やコロナ禍で移住してきた方とお話をした限り、コミュニティの繋がりの効果がすごそう。そこに精神分析的理解を活かすことはもちろんできるだろうけどね。

テレビをつけた。今日の東京は気温より寒いらしい。昨晩、月を楽しみにオフィスを出たら何も見えなかった。今日は見えるかな。

昨日、Erlich, S. (2025) Is psychoanalysis relevant to the Israeli–Palestinian conflict?. International Journal of Psychoanalysis 106:165-173をめぐる、エルリッヒとマイケル・パーソンズのやりとりについてちょっと書いた。

エルリッヒ先生は1937年生まれの88歳。ドイツ生まれのユダヤ人で幼いときに「水晶の夜」も体験し、ドイツを出てイスラエルで育ったという。この論文の中にもKristallnacht、1948 Arab–Israeli War、Yom Kippur War、Palestinian rocket attacks on Israelの体験について触れている。つまり当事者として、かつ精神分析家として書いている。今回のやりとりによって、エルリッヒが強調したいところが明確になったのはよかった。以前この論文を読んだときには気づかなかったことや外的現実をどう捉えるかという昔からある議論の再考を促された。イスラエルという国の歴史を学んではいるけど、立場が違えば書き方も変わる。私はどう書いたらいいか全くわからないのでとりあえず身近なところで話すことからしてるけど。

IPAの精神分析家になってよかったと思うのは精神分析を世界中の他の国と共有するものとしてリアルに考えらるからで分断とか特権とか権力とかいう言葉をたやすく使いたくない状況に身を置けるから、精神分析の限界についてずっと意識的でいられるから、かもしれない。

昨日、村田沙耶香『世界99』が第78回野間文芸賞を受賞したとのこと。そりゃそうでしょう!とこの文芸賞についてよく知らないけど思った。あれはすごかった。朝ドラ「ばけばけ」も人間のぞくっとさせるところを描いているが、村田沙耶香が書く人間は酷すぎて、でも知っている世界すぎてもうなんと形容していいかわからない。うわあ、うわあ、ということの連続をなんでもないような筆致で書く村田沙耶香が恐ろしくて大好き。おめでとうございます。

なんだか寒くなってきた。厚着しよう。どうぞ良い1日を。

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散歩 精神分析

新潟で、学会で

朝焼けがきれい。連休は新潟を満喫した。信濃川沿いをたくさん歩き、大きな橋をいくつか往復し、たくさん写真を撮った。いつもと違うことを感じたり考えたりしたかというとそうでもないし、新潟の方言もそんなに違いを感じなかったし、群馬出身で新潟はスキーとかで身近なせいか、親しみやすい街だった。植物園や弥彦山の方にも行った。激しい雨に降られた時間もあったが、ずっと雨予報だったわりに傘が必要ない時間も多かったし陽射しを楽しめる時間もあった。幸運でした。

精神分析学会は私はあまりコミットしていないが教える側として若い方の話は聞く。でも学問としての精神分析に自分が何を期待しているかと、学会に何を期待しているかは全く別物だと思うので、それぞれがじっくり自分の仕事や生活を考える機会があればいいと思う。私は学問としても実践としても精神分析を実際に使用する立場としてそういう時間と空間を守っていきたいと思う。

今回、私は人は人をそんなに簡単に信頼しないというか、素朴に信頼という言葉を使うことはできないんだ、という話もしたが、同じ病理を持っていてもあまりに違うひとりひとりとの関係を辿るときに素朴な信念は同じような物語を導きやすいように思うので細やかな使用を心がけたいと思う。

今日は若い頃から自閉症児の親の会とのつながりでご一緒してきた人生の大ベテランの方に会いにいく。地域に根ざした事業を着実に展開されてきたエネルギーはものすごいものがある。久しぶりだりだなあ。限られた時間だけど色々お話をうかがってこよう。

今日は火曜日。連休後は曜日の確認が必要。一日だけ短い1週間がんばりましょう。

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散歩 精神分析

歩いた。

夜明けまでまだ時間がある。いつもよりずっと早く眠りについたので何回目覚めても夜明けが遠い。おなかがすいた。

昨日は3万歩も歩いてた。学会初日は土地勘がないから行きはバスを使ったけど帰りは歩いてみたら意外と近かった。なので昨日は朝イチの司会担当だったけどのんびり歩いていった。信濃川が日本海に流れ出るあたり、佐渡汽船ターミナルのほうまで川に浮かぶ船を新鮮な気持ちで眺めながら歩いた。まだ少しだけ時間があったので朱鷺メッセ31階の展望台に向かったらエレベーターが全然来ない。私が先頭だったので私ボタン押したよね、と心配になってもう一度押してみたりしたがライトもついてるし大丈夫、でもこない、後ろにのびてきた列にドギマギしていながら待っていたらようやく来た。360度みられる仕様ではなかったが朝は雨ではなかったので思ったより遠くまでみえた。海はいいね。ひろーい、と思いながらもさっきのエレベーターがくる遅さを心配してすぐに戻った。ちょうどのぼってきた人たちがいてすぐにのれた。で、会場に駆け込み発表者の方とご挨拶して無事にお役目を終えた。いろんな人の意見をきくのは面白い。

それからはずっと歩いていたわけだが、ちょっと道を変えたり、向かう方角が逆になったり、同じ方角でも反対側の道路を歩いたりするだけで景色が変わる。本当に変わる。朝昼夜でも全然変わる。お天気が変わるだけでもびっくりするくらい変わる。画家が何枚も何枚も同じ場所を描く理由がわかる気がする、とかいってそんな理由ではないかもしれないが、画家の目にはわたしが感じるよりずっと微細な違いがみえているわけだからすごく違う景色がみえるのだろうねえ。それを絵にしてくれたのを私たちはみているから美術館とかは楽しいのだね。それにしてもアパホテルはどこいっても本当にいい場所に建ってるなと思う。ランドマークにしやすい。

新潟のいいところをたくさん知れたのでいろいろ書きたいけどいいか。今日もお仕事終えたら歩こう。雨っぽいけど。

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俳句 散歩 精神分析

新潟の朝

新潟の朝、だが空はまだ夜中。昨日、ホテルの窓からみえた無機質なビルは暗闇に溶けてしまったみたいで形がみえない。たいていはひとつふたつ電気がついている部屋があるし非常口とかなんらかの明かりはあるからここまで真っ暗は珍しい。雨は降っているのだろうか。昨日は予報と反して晴れ間もでたがひどく降ったりもした。

第71回日本精神分析学会にきている。昨日、朝早い新感線で東京をでた。昨日の東京は朝から暖かくて薄手のダウンを羽織って出てしまって失敗したか、と思ったが新潟駅に着いたら寒くて、一度向かったバス停から慌てて建物に退散。ストールまでまいてしまいました。バスがでる時間に戻るとさっきは2、3人しかいなかったバス停に長蛇の列。がーん、と思ったが乗れた。登山に行くときに登山口に向かうバスに長蛇の列ができることが多いのがバスって結構な数の人を乗せてくれるんだなあ、と思っていたので今回も乗りはぐれることはないだろうと、そばの人が乗れるかどうか何度も心配しているのを聞きながら吞気に構えていたら乗れた。ありがたい。しかし厚着をしてしまったのはここでは失敗。途中、混雑した車内で「あつい・・・」とつぶやく声が聞こえて心の中で強くうなずいた。人は知らない相手にもこうして応答しているものですね。SNSなんてまるで長い付き合いかのような応答が多いけど、日常のみえない応答癖が可視化された世界なのかもしれないですね。わからないけれど。

今回は依頼された仕事のみで当日にバタバタ準備するようなこともなく、と思ったけどなんでもパスワード、なんでもカード時代に適応できていないことが可視化され(可視化って言葉を使いたくなっている)、進行形で困っているけどどうにかはなるので困り感は少ない。がっかり感は強い。

とはいえ、次の締切まで少し余裕がある(はず)ので移動時間は仕事もせず景色と音楽を満喫した。車窓から移り変わる天気と山や田んぼを眺めつつ、オアシスのLIve’25 Tour Official Setlistを聴き、お隣の方が長岡で降りてからはノリノリだった。時間も空間も余裕があるって本当に大事。ハンドクリームとか化粧水に時間をかけてはいいことをしている気分になった。自分を意識していたわるのは病気のときだけに必要なわけじゃない。いたわり方を知らないといざというときにできないのだから大事。

先日、第71回角川俳句賞を受賞した句友の千野千佳さんの受賞作「愛嬌」50句が載っている『角川俳句』を買うついでに紀伊国屋書店に長居して至福だった。千佳さんは新潟県出身だからせっかくだから千佳さんの故郷で買うぞ、と思っていたのだった。

匙いれてドリア浅しや漱石忌

アイロンをンと押しつける年の暮れ

とか取り合わせにも千佳さんの豊かな生活と俳句大好きな感じがみえる。生活をほんのり明るくほんわか面白く切り取る千佳ぢから。

団扇の子はうばうに風送りけり

虫売にこどもたやすく近づきぬ

これらも誰もが知っているはずの生命力を改めて描写する包容力を感じる。私は結構千佳さんの句で泣いてしまうことがあるのだけど、力の抜けた言葉ってこんなにたくさんあるんだ、ってなんだか励まされる。精神分析は言葉が仕事道具だけどこういう普遍的な言葉を使うにはあまりにも意味に囚われている世界だと感じる。フロイトはそこから言葉をつまみだすことをやってくれたはずなんだけど、それがいかに困難な試みであるかも示した。だからいろんなことが必要なんだと。人間社会は難しい。その人にとって支えとなるような言葉を一緒に生み出しておおらかに生活していきたい。

紀伊国屋では普段いかないような棚とか新潟が特集されているコーナーも二度見して戻ったりした。新潟はやっぱりお酒。酒造巡りもしてみたい。そういえば来年の手帳があるな、と思ってみていたら新潟県人の手帳みたいなのがあって面白かった。同じ建物にLoftが入っていたのでそこものんびり巡った。すごく久しぶり。そこにも手帳がたくさんあった。長年、手帳を使ってきて全然使いこなせていないことがわかったので、 あまり考えずに適度な値段の気に入ったのを買ってそれに私が合わせていこうと思ったのが昨年。今年もそういう感じで買ってみたけどホテルに戻って改めてみたら文字が薄い?私の目のせい?と思ったけどやっぱり薄いと思う。薄いほうがかえってよくみようとするから見間違えない、とか私の場合はあるかもしれないが、大事なところを際立たせるのに蛍光ペンとかいらない感じはする。インクがなくなって文字が薄くなったとかならちょっと面白い(問題ではあるが)と一瞬思ったけどこんな均一に薄くすることはできないからこれがおしゃれだったりするということかもしれない。なんでも拡大しないといけなくなった私も逆方向の刺激を入れていく必要があるのだろう、きっと、とさっきまた開いてみたが今日もやっぱり薄かった。あれは夢だったのではないか、という期待も少しあった。

そんなこんなで荷物を増やしていたら肩と腰がきつくなってきたのでホテルに荷物を置きにいこう、とカラスの群れみたいなのを見上げながら歩いていたら突然すごい雨が降ってきてびっくり。さっきまで太陽もちらほらでていたのに。あと5分待ってくれればよかったのに一瞬でかなり濡れた。すごく大きな雷も鳴って、ビニール傘も一回ひっくり返ったけど元通りにできた。大変だったけど一日中雨と思っていたから降らない時間に歩けたのはよかったのかな。少し眠ってからまた外にでたらまた強い雨。ホテルから一番近いお店に駆け込んだ。弱雨になったので一番近いコンビニの場所を店員さんに聞いて向かった。店員さんが説明してくれているときになにかで笑いあったのだけどなんだったか。人って本当に小さなことで顔見合わせて笑ったりしているもんだ。よきことだ。外に出たら、駅が意外と近いことに気づいたのでちょっと寒かったけど教えてもらったとは別のコンビニ(新潟は都会)を通り過ぎ駅へ向かった。おなかまわりがでるショート丈の服を着ている人たちが寒い寒いといっていた。関西の言葉のように聞こえた。駅ビルには期待通りかわいいものやおいしそうなものがあって自分用とお土産用の新潟お菓子を買った。角打ちもあってたくさんの人が新潟のお酒を楽しんでいるようだった。角打ちいいよねえ。大好き。イギリスのパブみたいなもんだね。

学会ではIPA基準の精神分析の事例を用いてその導入のところから話し合った。最初にコンパクトな講義をしてくださったのは教会のほうの会長でもある古賀先生。「アセスメントのスーパーヴァイザー」という言葉でイギリスの精神分析の訓練ではアセスメントのみのSVも枠組みとしてあるのかあ、ととてもいいなと思った。私もそういうSVを提供しているけれど、そう契約してやっているわけではないな。初回面接グループはアセスメントに特化しているから今後のグループのためにも大変勉強になる時間だった。いろんな人の意見はいろんな人の言葉でもあるのでそれぞれの言葉で私の言葉を受け取ってもらえてよかった。コミュニケーションはズレから生じるはずだから。参加者のみなさんもなにかいいものを持って帰ってくださっていたら、と願う。

今日も朝だけお仕事。新潟のおいしいお米を食べてがんばりるれろ。東京はどんな感じだろう。離れるとすぐわからなくなる。いつものみんなも元気で過ごしてほしい。良い一日を。

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お菓子 散歩 精神分析

土偶の焼き菓子、学び

朝は冷える。気持ちのいい季節はもう終わってしまったのかしら。悲しい。今朝は、熱い紅茶と茅野駅そばのアニバーサリーチロルの土偶の焼き菓子をいただく。かわいい。美味しい。長野県茅野市、棚畑遺跡、中ッ原遺跡から発掘された二つの土偶は国宝。お名前は『縄文のビーナス』と『仮面の女神』。ふむ。いつ名付けたのだろう。この洋菓子屋さんは地元の名産品を取り入れたお菓子も多くてお土産にはぴったり。土偶たちは茅野市尖石縄文考古館に行けば会える。

まだ外は雨が降っているのかな。窓を開けてもよくわからない。降っていなさそうだけど時々雨粒がどこかに当たる音が聞こえてくる。どこかに溜まった雨が落ちているのかな。

昨晩、仕事が終わってエレベーターに乗ってから傘を忘れたと気づいた。夜は雨が降るっていってたのに。私のところへくる人たちもみんな持っていた。1F押しちゃったけど下まで行ってまた戻るか、と思ったが、開いた自動ドアから傘を持たずに歩いている人たちが目に入ったのでそのまま外へ出た。降っていない。駅に着くまでにほんの少し降り始めた。最寄駅も傘をさすほどではなく助かった。

先日、植物園に行った。花の名前も木の名前も何度見ても聞いても覚えられないけど植物園は楽しい。今回もトリカブトの花がきれいに咲いていたのを見た気がするのだけど写真に残っていない。植物園で見たのではなかったのかも。私は多分特定の植物にアレルギー反応があって歩いていると痒くなることが多いのだけど今回は大丈夫だった。いろんなところを歩いているうちにどの植物に反応しているのかわかってくるのかもしれない。

それにしても連日眠い。すぐにウトウトしてしまって仕事以外の作業が全く進まない。どうにかせねばとも思うけどいつもそうといえばそうなので時間を一気に使える自分が現れてくれるのを待つか。いや、地道にやらないと。今日は投句締切もある。1ヶ月が早すぎる。学会の役割も引き受けたからやらないと。精神分析実践の現実は言葉で伝わるものでは決してないけど、技法的な部分はどんな臨床をしていても共有できる部分は多いのでそこら辺を意識して話しあえたらいい時間になるのではないかと思う。知的な理解だけなら本を読んだほうがいいので、観念的な話からは距離を置きたい。臨床は人それぞれが全く異なる心模様で過ごしている日常からの学びなので知的な理解より心がいろんなふうに動かせるかどうかが大事。いつも似たような動かし方をしていたら同じ言葉しか出てこない。世界は広いから異なるものに開かれた学びを共にできる人が増えたら楽しい。個人的にはこじんまりやりたいけどどうなることやら。

なんか寒い。良い一日になるといいですね。

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俳句 散歩 音楽

秋三日目。

暗いうちから掃除した。空が濃いグレーになって濃い紺になりつつある。もうすぐ日の出。今朝はノラ・ジョーンズをかけた。きれいな柔らかい声。柳樂光隆さんが今年もノラ・ジョーンズにインタビューしていた。今週の来日公演に向けて楽しそうなノラが素敵。自分の大好きな楽曲を信頼できる人たちと演奏できるなんて最高だろうな。昨年リリースのVisionsはとっても生き生きしたアルバムだったからライブ行ける人はいいなあ。インタビューに音源あるよ。レポートもいっぱい読もう。

秋3日目。昨日も気持ちよくて遠回りしてオフィスへ行った。新宿中央公園でも昨日、今日はパークマルシェ開催。フリーマーケットみたいのもやっているみたいだった。先週まで鳴いていた蝉の声もしずまり、剪定を終えてなんとなくひっそりした花壇を抜けて公園側から熊野神社へ降りた。赤、水色、黄色の屋台。紅白の垂れ幕が見えた。あんず飴は赤の看板。「スーパーボールすくい」の文字はカラフル。お祭りの日の朝っていい。神社に入るとまだ何もない鉄板、きれいに積まれたじゃがいも、一つの屋台にまだ一人ずつ。パラソルの下のラムネ、足を派手に動かす蛸の絵、サッポロの味じゃがバター、味の王様フランクフルト、広島風お好み焼き、超大盛り焼きそばなどなど。いつもひっそりの本殿、社殿が搬入のための小型トラックに隠れてますます静か。それでもやっぱり主役感があるのは伝統ある神社だからか。本殿横の小さな神社の狛犬は面白い表情をしているのだけどかなり昔からいるみたい。西新宿の小さな一角のいつもと違う土曜の朝。良い寄り道だった。

たのしさは支度にありて秋祭 鷹羽狩行

一日の秋にぎやかに祭りかな 正岡子規

狛犬がおどけて笑ふ秋祭 阿波野青畝

そういえば、まだ暑かった少し前に句友たちが以前吟行していた東高根森林公園にいった。みなさんのやりとりを見ながらいいなあと思っていたのだ。彼らは吟行先を選ぶのが本当に上手。まだまだ知らない素敵な場所がたくさんある。東高根森林公園は小田急線向ヶ丘遊園からバスで生田緑地を過ぎて田園都市線溝口駅まで向かう途中にある。生田緑地ばら苑へ行こうかと思ったらまだ開園していなかった。10月16日から文化の日までだそう。向ヶ丘遊園で降りたのは久しぶりで新しいお店がたくさんできていた。昔、ここに住んでいた友達の家に心理検査を教えてもらいにきたなあ、など思い出しながらバスの時間まで散歩した。若い頃は仕事の後、友達の家に泊まり込んで勉強することが多かった。元気だった。溝口駅行きのバスは途中からたくさん人が乗ってきて驚いた。何もなさそうな場所なのになんでだろう、と思ったけどそのあとも続々人が乗ってきてバス利用の地元の方が多いってことかな、と思った。バスを降りて少し行くと白い曼珠沙華がたくさん咲いている鉢があった。その辺で方向を間違っていることに気づききた道を戻ると公園のきれいな案内板がすぐに見えた。私は湿地が好きなのだけどこの公園も水も緑も豊かですごく良かった。植物を眺めながら歩いているうちに結構上の方まで登っていた。

病める手の爪美しや秋海棠 杉田久女

みづうみに鰲を釣るゆめ秋昼寝 森澄雄

秋らしさを待ち侘びて小さな秋を探しながら残暑を過ごしたが、思い返す景色の色は着実に季節が進んでいたことを教えてくれる。立秋って本当に立秋っぽい空になるんだな、とか実感もしていたけど暑過ぎた残暑のせいで言葉と体感と景色が脳内でなんかチグハグしていた。ようやく一致した感じ。

新涼や白きてのひらあしのうら 川端茅舎

これね、私はまだ経験していない感じ。

新涼や起きてすぐ書く文一つ 星野立子

これはすごくわかる。これだって毎日書いてるけど気分が全然違うものね。今日も涼しいといいな。もう流石にあの暑さには戻らないでしょう、と思うとそれだけで身体が楽な気がする。

良い日曜日になりますように。

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散歩 精神分析

寺家ふるさと村、Reading Freud

空が明るくなってきた。今日は曇りなのかな。ピンクがかってくるのではなくグレーが薄くなるしかたで朝になっていく。天気予報は東京は午前中は晴れ、午後は雨が降ったり雷が鳴ったりするみたい。今朝もエアコンはつけておらず扇風機で外からの弱い風を循環させている。明日は一気に気温が下がるらしい、といっても28度とかだけど。日本はどうなってしまうのだろう。

先日、横浜市の寺家ふるさと村へ行った。田園都市線青葉台駅、小田急線柿生駅からバスで行ける。横浜はみどり税だっけ、独自の税金をとって横浜みどりアップ計画を実施している。寺家ふるさと村四季の家もその「ウェルカムセンター」のひとつとして機能しているらしい。東京在住在勤の私も緑に関する税金をとられていると思うのだけど何税だっけ。こんなのとるならきちんと緑守ってよ、と怒った覚えがあるのに税金の名前を忘れてしまった。いかん。寺家ふるさと村の寺家は「じけ」と読む。バス停を降りるとすっかり実った稲が広がっている田んぼと藁で束ねられた刈り取られた稲が並べられた谷戸田が広がっていた。とてもきれい。その日もまだ暑かったけど素敵な里山の秋景色。春に田植えして夏には青青と育った稲たちもきれいだっただろう。それにしても子どもの頃はすぐそばにあった田園風景にいちいち感動するようになってしまった。GWに金沢から和倉温泉まで七尾線に乗ったときも空と雲がそのまま映り込む水田が続いていて何枚も写真を撮った。

横浜市のみどり税にも文句はでているだろうけど、この寺家ふるさと村は結構賑わっていて四季の家のレストランも混んでいた。お蕎麦と鰻のお店みたい。外のベンチでお弁当を食べている人もいた。四季の家では蕎麦打ちとかイベントも色々開かれているらしい。私たちはそこでお手洗いに寄ってから里山散策スタート。田んぼの脇の道をいくと熊野神社の階段が見えた。田んぼの向こうの人影に目をやると親戚の集まりらしき人たち。お墓参りかしら。家族っぽい集まりには友達や他人とは違う距離感が作り出す形、みたいなものがある気がする。熊野神社への階段は少し急でいかにも里山の神社という佇まいだった。脇道を降りて再び田園風景を歩く。いろんなカカシが田んぼを守っていた。少しいくと釣り堀の池に。誰も言葉を交わさず、ほぼ等間隔で動きのない池にただ静かに釣り糸を垂らしていた。釣り堀はいい。市ヶ谷のとか何度か行ったことがある。そこから森へ続く坂へ。通勤の距離で行けるハイキングコースは理想的。道もほどよく整備されていた。いろんな虫や植物がいてまだ青い柿もまだ緑の栗もまだ黄緑のどんぐりも待ち望んだ秋を地味に彩っていた。この前までどこにいってもたくさんいた蜂は少し減ってきたように思えた。スズメバチ注意の看板は一年中かかっているだろうし、スプレーは作業場のそばに置いてあったけど。途中の池はあまりきれいではなかったけど近くの木々でハンモックでくつろいでいる人たちもいて気持ちよさそうだった。森を抜けると再び田んぼ。小さな子どもたちが稲刈り体験かカカシ作りか田んぼの中で楽しそうな声をあげてるのをみられた。ミャクミャクのカカシもいたが、多くのカカシは名無しだろう。子どもたちに聞けば「あれが〇〇ちゃんの」と指差して教えてくれることはあるだろうし、近くによれば名札が付いていたりする場合もあるとは思うが。帰りはあまり本数の出ないバス停からちょうどよくバスに乗れた。ナスの畑とぶどう畑の間にあるバス停にはすでに二人並んでいてそれぞれ文庫本を読んでいた。何を読んでいるのかなあ、と思ったがわからず。結構厚い本だった。

そういえば、Reading Freudで精神分析の創始者であるフロイトがその早期に展開した神経学的な仮説「心理学草案」(『フロイト全集1895-99年 心理学草案 遮蔽想起』岩波書店)読んでいるが、メンバーのなかで、これがまるで「物語」かのように共有されはじめた瞬間があった。

「心理学草案」(1895)は

«[Aこの草稿の]狙いは、自然科学的心理学を提供すること、言い換えると心的諸過程を、呈示可能な物質的諸部分の量的に規定された状態として表し、こうして[SE/GW心的諸通程を]具象的で矛盾のないものにしょうとするものである。

というものであらすじがあるようなものでも要約できるようなものでもないにも関わらず。フロイトは精神分析を知らずとも多くの人が知っている名前だし、少し知識のある人ならフロイトとフリースの関係でこれが書かれたことも知っている。フリースを知らなくてもフロイトは常にそれなりに濃い関係で読み手なり聞き手なりを持っていたから自ずとその言説はコミュニケーションの結果として読まれ、そこに共通の物語が生じやすいのかもしれない。

今日はもう木曜日か。1週間早い。良いことありますように。

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テレビ 散歩

アンパンマン、環境

今日は曇りかな。休日なので朝に朝ドラを見る。朝ドラ「あんぱん」気に入っている。主人公のぶの子どもたちへの眼差しがずっとあたたかいのが好き。私もまだ自分が子どもみたいな時から赤ちゃんから大学生、誰かの「子ども」までいろんな人たちに関わってきたし、今も関わっているけどその眼差しにはかなり変遷があるな。いろんな申し訳なさが襲ってくる。でも本当にたくさんの子どもたちと会ってきたことで随分成長させてもらった気がする。いろんなことを今も世代を超えて教えてもらっている。アンパンマンは、私は子どもの頃はあまりみていなかったけど、大学生のときに小さな子に「かいて」と言われ、全く絵心のない私の下手なアンパンマンで泣かせてしまったことがいつも思い出される。申し訳なかった。今ならあれよりはマシなものを書けるが子どもたちは「ちがう」と首を横にふることも多いので、子どもたちの指導のもと修正していく。「こう?」「こうかな」「これでどうだろ」とか言っている間にいちいち「ごめんごめん」「ごめんね」が入るのもしかたない。とりあえずアンパンマンの色に塗ってしまえば、とか思うこともあるが色塗りはたいてい子どもが自分からはじめるのでしたことがない。「ここ黒くして」と輪郭をかくことを頼まれることはあるけど。あの輪郭や枠組みを求められるときのじんわりした気持ちもたくさん経験してきた。中井久夫の風景構成法という描画も私はよく使うのだけど、あれは最初に治療者が枠を書く。そういうのと繋がっているのだ、きっと。こぼれ落ちないように、大切ななにかが。形にすることで生まれてくるように、見えていなかったなにかが。

昨日、なんとなく眺めていたテレビでどこかに海の平均気温が2度上昇して生えたての若草を食べる渡鳥に影響が出ていると言っていた。胸が痛む。私たちは環境にある程度守られてきて、自然は人間よりずっと厳しいときもあるけど基本的にはものすごく優しい。その自然が変わってしまったら私たちというよりこの先の人間までずっとあまりよくない影響を受けることになる。旅にいい、山に登り、海辺を歩く、観光客としてそこを訪れ話を聞いていると農業、林業、漁業の今を垣間見ることがある。たいてい厳しい話だ。知らないことがたくさんあるけど知ろうとしていきたいと思う。だから今日も歩く。

良い一日でありますように。

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俳句 散歩 精神分析

祭り、花壇、フロイト

昨晩は少し暑くて起きたがエアコンをつけたらすぐに寒くなって消した。すごく暑かった数日前よりエアコンの効きが良くなっている気がする。この夏、エアコンも酷使されっぱなしで寿命が縮んだのではないか。よくがんばってくれたおかげで私は生き延びたが家電は高いから引き続きがんばってほしい。

昨晩は通りかかった神社のお祭りにもいった。といっても通り過ぎただけだけど商店街のスピーカーから流れる祭囃子、町内ならではの案内、提灯にしかない明るさ、自転車で走りながら子どもたちが大きな声で交わす「またあしたね!」。突然、雨が降り出して自転車置き場に避難。雨雲レーダーと巨人〜阪神戦の結果を確認している間に止んだ。よく歩いた。

年よりが四五人酔へり秋祭 前田普羅

暑すぎて放置していた我が家の小さな花壇と玄関も少しきれいにした。剪定の時期ではないが、時間があるときにやっておかねばと剪定鋏でジャキジャキとパキパキの中間くらいの力で根元で陽もあたらず黒くなっていた千両の枝とすっかり大きくなった山椒の木の枝を切った。土も少し耕したら知らない大きな根っこを発見。君は誰、とびっくりしたけどまだ確認できていない。なんの根っこだろう。それにしても、剪定用の鋏、もう少し鋏部分が大きいのを買えばよかった。山椒の枝は少し太くなるとすごく硬いしトゲトゲしているから切りにくい。安全で使いやすくはあるから枝が逞しくなる前に適切な季節に切ればいいのだろうけど。昨日は風も気持ちよく少し涼しくなったとはいえ大きなゴミ袋に葉っぱや枝を片付け終わる頃にはやっぱり汗だくでクタクタ。肩もバキバキになった。今日の筋肉痛を恐れていたけど今はまだ大丈夫みたい。遅れてくるかもしれないけど。

昨日からオグデンが引用しているフロイトの文章が見つからなくてなんでだろうと思っていたらオグデンの本の誤植だと思う、多分。Freud, S. (1911b). The history of the psychoanalytical movement. SE, 14とあるけどThe History of the Psychoanalytic Movementは1914年だと思います。私もたやすく引っぱられてしまった。論文名見ればわかるじゃんね。まだまだな。オグデンが引用するフロイトも私は好きで、今読んでいる論文はオグデンの主張も好き。こういうの読みながら自分でも「ああ、そうか、あそこでフロイトがこう書いていたのはここに繋がっているかもしれないんだ」という発見があるくらいにはフロイトを読み続けてきてよかったなあとしみじみ思う。すごく時間がかかるしエネルギーも使うけど精神分析が関わる人の心ってそういうものだからな。

今日もあれやこれやがんばろう。今日のNHK俳句は岸本尚毅先生。一番好き。良い日曜日になりますように。

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テレビ 散歩

山、野球

明るい。夜の間、静かに進んだ皆既月食とは全然趣が違う。時折、うとうとしながらベッドからずっと見ていた。月が暗くなると星が明るく見えた。月食が始まる前の月はすごく明るかった。今日は暑そう。昨日も暑かったのかもしれないけど早朝から奥多摩の山に行ったので一番暑い時間は「水が冷たい!」「風が涼しい!」とか言って過ごせた。山頂は蜂と蠅がすごくて富士山だけ眺めて早々に降りてきた。石破首相、辞任表明のニュースになんだかうんざりしたが身体を動かし水や岩や木々と触れ、空を眺め、たくさん汗をかき、温泉で汗を流すことで少し落ち着いた。日本はどうなっていくのか。自然はどうなっていくのか。これまでいろんな場所で会って、話をしてきた人たちのことをたくさん思い出した。温泉で一点を見つめたまま動かない母親と一生懸命話し続ける子供の姿も心に残った。みんながもっと気楽に暮らせるような社会に、とは政治家は考えていなそう。負担ばかり増える。

夜はプロ野球を見ていた。私の周りは阪神ファンが多いので優勝を喜んだ。私が知っている選手たちはもう監督とかで現役の選手たちはあまり知らない。阪神の岩崎は好きなので昨日も素敵で泣いた。選手たちは活躍しても活躍しなくても色々言われて大変だなと思うが、私は好きな選手が活躍できず辛辣な評価をされていてもそういうことを言わず応援しつづけるタイプ。意地悪な言葉を言ってもしかたない。岩崎くらいベテランになるとそういうのも消化済みという感じでコメントも慣れた感じだが。

精神分析家のみんなと何かやろうと考えるのは楽しい。自分の考えもそこから広げていけたらよいが。今週もがんばりましょ。

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お菓子 散歩 読書

お菓子、海、夢。

ベランダに出たら風を感じた。涼しくないけど気持ちいい。ちょうどいいキウイと長野県茅野駅そばのきれいな通りにあるかわいい洋菓子屋さんアニバーサリーチロルの「セロリーのパイ包み」を友だちがくれた神戸の紅茶と一緒に。「茅野特産のセロリーを当店にて砂糖で煮て、白あんとドッキングし、パイ生地で包みました」というお菓子。あんがほんのり緑。いろんな地域発のお菓子があって楽しい。

いろんな地域でいろんなお話を聞いていると驚くことばかり。特に海が身近な人たちのお話には。週末も海辺で驚いてばかりいた。

今日もすごく暑いのか。昨日もすごい暑さだったが海の近くにいたせいか時折とても涼しい風が吹いてきた。山でも風の通り道みたいなところがあって暑いとずっとそこにとどまっていたくなるが海辺は日陰がないから日傘必須。時折、急な風で裏返っていたけど。海の家も賑わっていた。今年は通常より長く営業しているのかしら。海水の温度が上がっていつもの魚が全然取れないという話も聞いた。「今朝もそこからたっくさんの船が出ていったのに帰ってきたら」など漁港で具体的に言われると漁の様子もまざまざと見えてきてほんと温暖化怖い、という気持ちになる。青森に行ったときも最近の魚や原発のことなどその場で聞いたからすごく心にきた。本当に本当にまずいんだ、考えなくては、行動しなければ、と思うから勉強もするし、いろんな地域の人の話を聞くことがますます大切に思える。昨日は90歳の方のお話も聞いた。この街のことはもう自分しか知らない、と語り部の役割を引き受けてくださっているようだった。ハキハキと詳細ながら簡潔にわかりやすく説明してくださってずっと聞いていたかったけど切り替えもしっかりしていて日々の営みの強さを感じた。

そういえば昨晩、村田沙耶香が選ぶ本、みたいな感じで「その本、私も大好き!」と思ったが全部夢だった。夢の中ではその本のことをはっきりと思い出していたのになんの本だったかもわからない。好きな本はたくさんあるけど多くのことは忘れられていく、私の場合だけど。言われれば「そうだったそうだった」となるときもあるけど「そうだったっけ」となることも多い。それでもいろんな本を読んでいろんな土地へ行っていろんな人と会うことは楽しい。精神分析のように日々を積み重ねていく仕事もだから好きなんだと思う。歴史を紡ぐ、人を繋ぐ、文化を大切にする。破壊より創造を。外からの変化ではなく自分で感じられる変化を。

今日も無事に過ごしましょう。

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Netflix 散歩

アニメとか。

早朝というのに窓を開けたらムッとした空気が停滞していた。風がほしい。二日前の秋風が。

昨日もとても暑かったが「夏のおすすめ」というメニューを見て食べ物はもう夏ではないな、と違和感を感じた。相変わらずとうもろこしには惹かれるし、ゴーヤも食べたくなるけれど。

夏休みの間にいろんな人と話していろんなおすすめをされた。そのひとつが「鬼滅の刃」。Netflixでまたみはじめてしまった、『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』手前で止まっていたのに。見始めるとやっぱり止まらず泣きながら見た。炭治郎がいい子すぎるとか思っていたけど炭治郎がこういう人であることが重要であることがよくわかった。炭治郎はナルシストではないから水面に映った自分が他者としてきちんと機能した。あの場面もよかった。これ、連載はもう終わっているはず。すごい。

この前、プラネタリウムで「ゆるキャン」という番組を知った。山梨県身延町が聖地とのこと。身延かあ。この前書いた不登校の子たちと長い休みを過ごしていた廃校があっちの方だったから身延は身近だった。身延山も文句を言う子どもたちと一緒に登った。そんなに大変じゃなかったと思うのだけど今だと私も文句言いながら登るのかな。また行ってみたい。

また眠くなってきた。何か書いているとすぐに眠くなる。今日で8月も終わり。良い1日にしましょ。といっても昨日と同じ暑さだときついな。気をつけて過ごすべし。

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散歩 映画

眠気とか散歩とか。

キウイとデラウェア。どっちも別々の甘さ。果物はいい。でも食べるとすぐに眠気が襲ってくる。今もぼやぼや。

眠いときって余計なことをしたくなるみたいで、この前、夜はそのままベッドで寝ればいいのにストレッチポールに寝てゴロゴロしてたらウトウトして、ゴロンって落ちて「やっぱりなあ」となった。こういうのってほぼ絶対こうなるってわかってるのにどうしてやってしまうのだろう。これ、腰やられる危険もあるからやっちゃいけないってわかってるんだけどね。

昨日は夕方から散歩をした。池袋に行ったのでそこから早稲田あたりまでほぼ都電沿いを。バス停で知らない人とおしゃべりもした。都電荒川線もさくらトラムって名前になってから長いよね。路線の半分くらい、早稲田から王子駅くらいまでの地域は学童クラブの仕事で通ってもいたからそこそこ詳しいと思うけど荒川区になると全然わからない。だから昔行った場所がいつまでも更新されずに心に残っている。今はどうなっているのだろう。

この前見た日本の映画が私は全然知らない若い俳優がたくさんでていたのだけど、どんどん見分けがつかなくなってきているので関係性を掴むのに時間がかかった。子供の頃はアカレンジャーとか色で分かれてたり、今思うとわかりやすさに溢れた世界だったと思うけど子供の頃の方がそういうのなくても見分ける能力あったと思うんだよね。子供って意外なところで記憶してるから。今は繰り返し学習が一番効果がある脳になっている気がする。繰り返し学習苦手なのに。

兎にも角にも今日は月曜日。また1週間頑張りましょう。

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俳句 散歩 言葉

819、街、トレーニング

今日8月19日は俳句の日。ハイキングの日でもある?この前のNHK俳句のゲストが近藤良平さんで、もちろんお題は「踊」だった。8月はバスや電車から盆踊り大会の準備や最中の様子を目にした。あの提灯の灯りと賑わいが持つ熱もそこで交錯する思いも蘇る思い出もひんやりを味わいながらふと客観的になる瞬間も人混みを離れたときのちょっとした安堵も全部いい。いろんな人がいろんなことをしながらいろんな気持ちでそこにいる、いられる場として地域に残っていけばいいなと思う。

など思いつつ身近な人に盆踊りのことを聞いてみたらなんと子どもの頃、自分の地域にそういうのはなかったという。都会だからというより、町内会によるのか、ああいうのは。

その人がアルバイトをしていたコンビニはまだ同じ駅前で営業を続けている。内装は変わったというし、常連だった近所のケーキ屋さんもまだある。私も年に数回、その人の思い出話を懐かしみに利用する。

コンビニといえば村田沙耶香だが「となりの脳世界」に収録された「歌舞伎町の店員」というエッセイも秀逸だ。この店員は村田沙耶香さんご自身のこと。先日、歌舞伎町で働いていた身内の話をしたばかりだったからなおさらこのエッセイを思い出したのかもしれない。どの街にもいろんな仕事がある。

この前、朝10時くらいの公園でサンドイッチを食べた。ほとんど日陰のないその公園にはアスリートみたいな男性がひとりなにか食べていた。私はいつから咲いているのか、干上がってしまいそうな薔薇の横のベンチに腰掛けた。普段、サンドイッチはあまり食べないがこのパン屋さんのはおいしいと知っていた。トマトの酸味とモッツァレラのほんのりした甘さがぴったり。幸せと思う傍らで蚊を警戒。数日、気温が下がったせいか、今年はあまり出会わずにいた蚊が一気に身近になった。早速腕が痒い。UVパーカーで覆われた腕が。なぜ。そこへ背後に人の気配、と思って振り向いたら鳩。羽音はしなかったのに。若者はいつのまにかいなくなっていた。誰もいない日向ばかりの公園では鳩の着地音がこんなに響くのか、と驚いていたらバサ、バサッと今度は羽音。着地する鳩が増えていく。嫌な予感はしていたが私の足元に向かってくる鳩たち。こんな小さなサンドイッチ狙い?それともこの時間はみんなここに集まる時間なの?実際、オフィスのそばの道ではそういう時間がある。決まった時間に餌をくれちゃう人が来るのを彼らは知っている。怖くなって最後の一口を立ちながら食べてその場を離れた。薔薇は乾いても美しく、秋の薔薇なのか夏の薔薇の名残なのかわからぬまま愛でて去った。

仕事の合間の筋トレも再開。今も腰が痛いけど昼間は忘れていた。いつものメニューをそれなりに正確にこなせた。体幹はだいぶ強くなったので首を調整中。これが結構きついが筋トレ始めてから肩こりはないので姿勢の軸になるところはしっかり鍛えていきたい。それにしてもこの年でこんなきついトレーニングするようになるとはね、と思う。それは精神分析を受けていた時もずっと思っていたけど。この年でこんな小さい子みたいに心揺らしちゃってそれに付き合ってもらえるとはね、と。いろんな土地のいろんな人と話すにも昔からの友人と話すにも毎日の目の前の人と話すにも自分の心がいろんなふうに作動することを許容できる自分でいることは精神分析家としては必須だし、いろんなことが豊か。楽しいこと、面白いことは探求すればキツさは伴うけどそういうのもひっくるめての楽しさ、というのはそういうのが好きな人たちはみんな言ってる。最近、私が触れたところだと牧野富太郎とか。練馬区立牧野記念庭園に行ったからさ。

魔がさして糸瓜となりぬどうもどうも  正木ゆう子

今日もがんばろう。

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散歩

腰が痛い。鹿に会った。

キッチンの小窓を開けた。風がない。大きな窓は開けない。カーテンもまだ開けない。腰が痛くて何もしたくない、と思いつつ無花果を朝から食べられるなんてなんて幸せ、と冷蔵庫を開けた。体調イマイチで登山をやめて駅周りの観光に切り替えたのに2万5千歩も歩いてしまったのが腰にまずかったか。蝉が結界を張っているような森が気になって向かってみたら遠くから見えた木の階段の前に小さな公園があった。たくさんの雀が木槿に潜りこんだり飛び出したりして賑やか。公園があるなら少し安心かな、と熊が出たら怖いな、という気持ちを落ち着けつつ歩くとすぐに人家に続くアスファルトへ出て森への行き方を見失った。そのうち出るかな、と鮮やかな花々やカーブミラーに映る見事な雲や美しい緑の田んぼを写真に撮りながら歩いていると前方にその森が現れた。と同時にそこには鹿がたくさん。私が驚いて立ちすくんだのがわかったのか、それなりの距離があるのに向こうもパッと顔をあげ一斉に背中を向けてあっという間に森に消えた。野生の鹿だ。奈良の鹿なら馴染みがあるし、山に行けば時々出会うことはある鹿だがあれだけの数の野生と出会うとは。一瞬の出来事だったがそこから自分もやや野生化したのか歩きに歩いていたら歩きすぎた。15時頃、駅に戻る途中に広告で気になっていたお茶のお店の前を通ったので寄ってみた。お昼を食べるにはおなかの調子が悪かったので(けど)途中の素敵な洋菓子屋さんで買った小さなクッキーを3枚しか食べていなかった。朝、駅の観光案内所でもらった地図を広げてみたがよくわからない。地元の人に「ぜひ行ってみて」と言われた場所に行きたかったが現在地がわからず距離が測れない。野生の感覚はいつのまにかゼロになっていた。しかたなくお店の人に「私が今いるのはどこでしょうか」と地図を見せながら聞いてみたら一緒に見てくれた。お店の人も最初は笑っていたが「えー、なんだこの地図。どこだ?」と言っていた。安心した。私は地図の読めない人ではないが、集中力がないのですぐに見るのをやめるか別の何かをみてしまう悪い癖がある。でも今回は地図が悪かった。なんとなく理解して美味しいお茶をいただいてまた歩き出すと朝みた景色にすぐ出会った。あれ?もうここまできていたのか、とようやく頭の中に地図が描けた。

それにしても腰が痛い。ぶらさがり健康器がほしい。実家にあったときは父親の、みたいな感じでほとんど使わなかったがぶらさがるだけの効果をわかっていなかった。自力で身体を伸ばすということがどれだけ難しいか。私の仕事は座りっぱなしで腰に悪い。痛み止めを打っても効き目がなかったぎっくり腰のひどい痛みを経験してから予防には励んできた。今回もこのくらいなら動けるのでまだいいがいつもと微妙に違う動きになるのでもっと悪くする危険は高まる。気をつけて動くことにしよう。座って作業するの辛いけど短時間ずつやるか・・・。良い1日にしていきましょう。

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Netflix テレビ 哲学 散歩 映像 映画 精神分析

戦争に関する番組をみたり。

早朝から歩いた。曇り空だけど蒸し暑い!

この数ヶ月、ずっと戦争に関するドキュメンタリーをちょこちょこみていた。ヒトラー、チャーチル関連の作品を見終えたあとは「NHKスペシャル 新・ドキュメント太平洋戦争」のシリーズなどをみていた。昭和館とかにたくさん資料があるからまた行かなとな。デジタルアーカイブはこちら

昨晩は地上波で『火垂るの墓』をやっていたのでそれもみてしまった。何度見ても目を背けたくなるが、好きなシーンもたくさんある。後半の節子がひとりで遊んでいるシーンはもうどうしようもなく尊い。尊厳を守ろうとする子どもたちが守られることを当たり前としないのが大人の世界なのかもしれないが、それでも本当にこういう尊い子どもたちはこれからも生まれてくる。

NHKスペシャルもエゴ・ドキュメントという当時の日記や手記の引用や分析から太平洋戦争の知られざる側面に迫っていたが、『火垂るの墓』をみるとアニメーションの力はすごいなと思う。いろんなドキュメンタリーを見ているときはひたすら言葉をなくす感じというか、思考停止になる感覚ばかりで、何を見たり聞いたりしても何も感じなくなっているのは私ではないか、という不安に襲われたが(それこそが戦争という現実の怖いところなのだろうと思うが)アニメーションはというか『火垂るの墓』はひとりひとりの人間の重みがずっしり伝わってきて、それは思考を促すもので、想像力が勝手に刺激される感じがする。だから見るのはとても辛いのだけどまだ感じられる自分は何を感じ、何を考え、どう生きていくのかということを考えさせてもらえる。それは全然知的な理解ではなくて、単に情緒を伴った人間の自然な振る舞いなのだろうけど。自然さや本来さなんてすぐに失われて、実はそっちが本質だった、みたいな言い方に導くのが戦争なんだと思う。たとえそうだとしてもそれに抗うように人間はできているという信念を貫いていきたい。

それにしてもお盆の期間、東京は人が少なかった。いつもなら夕方にいったらほぼ何もないような安い八百屋さんにもしかして、と思って寄ってみたらいいものがまだ少し残っていて買えた。大好きな無花果まで安いのに残っていた。この前、スーパーで高くて諦めたばかりだったからテンションがあがった。ハチミツとかでドレッシング作って無花果のサラダにしてみたり楽しんだ。時間があるときにやっておきたいことはたくさんあるけどバタバタするのももったいないからのんびりできて幸せだった。八百屋さん的にはちょっと苛立つ状況なのかブツブツおっしゃっていたけれど。安く売るというのは全部さばくというのが条件だろうからなあ。私は買えてありがたかったけどヤキモキする時間帯ってあるのだろうなあ。

お天気はどうなるのかしら。みなさんの地域はどうでしょう。大雨の影響が大きかった地域のみなさんも元気でありますように。

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散歩 精神分析、本

築地、岡田温司『映画が恋したフロイト』

朝は目が見えにくい。なんでだろう。夜の間、リラックスしすぎてピント合わせる緊張感を取り戻すのに時間がかかるとか。わからん。不便だ。朝が一番捗るのに。

まだあまり暑くない。エアコンもまだつけなくて平気。冷たい麦茶で喉を潤す。

昨日は仕事が午前中だけだったので用事がてら築地市場へ寄ってみた。すごく久しぶり。今は築地は場外市場しかなく場内市場の跡地は大掛かりな再開発が計画されている。どうしたいんだ、東京。浜離宮の生態系に影響したりしないのだろうか。築地は場内の魚がし横丁に数回行ったことがあるがそれも場内市場が豊洲に移るずっと前のこと。場外は2度目かも。前は連れていってもらったのでいいものを食べたが今回は普通に歩いて抜けただけ。小道を覗くといろんな店がぎっしり。こんな感じだったっけ。外国の人がいっぱい。ほとんどの店が英語の案内を出していた。日曜は卸売市場が休みだからいろんな店がまとまって入っているビルは閉まっていた。ここなら一人でも気楽に入れそうだから今度きてみたい。オフィスからなら京王新線→大江戸線利用。生ものを出している店はこの気温で大変だろうなあと思ったけどずっと前からやってきたことだから大丈夫かどうかは感覚で判断できるのだろう。買って帰る人もそういうとこ気をつけるの上手なんだろうなあ。私も保冷バッグとか一応使ってるけどできるだけ無難にと思うからこの時期は生ものはほとんど買わない。築地場外市場の場合、そこで食べるのを楽しみにしている人が多いのだろうし。昨日は日差しが強かったが日傘をさすのも憚られる混雑が遠くからでもわかった。散策してみようと小道を覗いてみたけど人混みに気圧されてあっさり表通り(?)に退散。スッキリした東銀座の方へ向かってしまったが、せっかくきたのにこれではいかん、と戻り、小道探索。歌人の大森静佳さんが朝日新聞デジタルに寄せていた大阪・関西万博をめぐる短歌とエッセーを思い出し、私も気持ちだけはあんなふうに観光地と触れたいと思い直し戻るとさっきとは別の景色に見えた。この前、知らない土地を急ぎ足で歩いているときも帰りはきっとこの景色は違うふうに見えるからランドマークを覚えておかないと迷うかも、と一本道なのに心配したのを思い出す。

いろんな国の人。いろんな食べ物。いろんな言葉。市場は休みでもここは活気があった。築地本願寺にもはじめて行った。荻窪の荻外荘を設計した伊東忠太(1867-1954)の設計。荻外荘は入澤達吉の別邸だったが、今では近衞文麿が自決した書斎が有名だろう。場所の違いがあるとはいえ、同じ人が築地本願寺の図案も書いているとは。築地場外市場とはまるで真逆のどーんと広い外観にも驚いたがそのエキゾチックな雰囲気にもあんぐりした。いろんなところに動物がいるのには和んだ。内部も天井が高くすごく広い。法要をライブ配信するセットも整っていて寺の世界も色々だな、と思った。寺婚のパンフレットもあった。別の建物にはカフェやショップもあって昨日はたくさんの人が並んでいた。おいしそうだった。小さなショップには数珠とか築地本願寺と書かれたお菓子とかが売っていた。大きな寺にはこういうのあるものなのね。そこを通り抜けるとすぐ地下鉄日比谷線築地駅。納骨堂も駅直結なのか、とびっくりした。こういうのって東京メトロと浄土真宗が話し合ってそうするものなのかな。正門の近くには大きな鉢に蓮が伸びていて一輪だけ咲いていた。連日見られたねえ、と思いながら写真を撮ろうとしたけど一輪しか咲いていないからじっくり写真を撮っている人がいて私は適当にシャッターを切った。

岡田温司先生からいただいた『映画が恋したフロイト』(人文書院)を読み始めた。フロイトがハリウッドからのオファーを断った話は有名だけどこの本もそこから始まっている。これまでの映画の本は映画タイトルの索引(膨大でびっくりする)があったと思うのだけどこの本にそれはない。内容はいつも通りすごく読みやすくて面白い。映画に詳しくなくても、精神分析に詳しくなくてもエンタメとして読めると思う。岡田先生はものすごく多作だが、この本でも最近話題になったばかりの本や映画も引用されていて移り変わりの早い時代に過去を繋ぎ止めておく力がすごい。精神分析家としても人文学の専門家がこういう仕事をしてくださることは本当にありがたいし、写真好きとしても映像の歴史と精神分析が重ねられているだけで楽しい。特に第1章は週末の精神分析的心理療法フォーラムでの私たちのシンポジウムでお話しされたことと重なっているのでご参加された方にはぜひ読んでほしい。映画でもこういうことが言えるのか、って楽しめると思う。チャップリンの作品をめぐるフロイト先生の態度もコンパクトに書かれているのにすごく面白い。精神分析理論は単独だと難しく感じるかもしれないけれどフロイトが日常生活における失敗から色々言っているように生活と密着したものだし、夢と映像って極めて関係が近い。今、オンラインで動くフロイトをみられるのも映像技術があってこそ。なんでもかんでも映像になる現代にこのワクワクを取り戻すのは難しいかもしれないけれどこういう本を読むことによってそれは可能。少し遡れば感じることのできるワクワクをみなさんもぜひ。

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Netflix イベント 写真 散歩

写真とか街とか。

雨止んでる。昨晩、オフィスを出たら結構降っていてびっくり。慌てて折りたたみ傘を出した。今日のお天気はどうなのかしら。さっき窓を開けたらもう暑かった。

先日、「被曝80年企画展 ヒロシマ1945」をみに東京都写真美術館にいった。受付の横のチラシ置き場に「おとなり美術館散歩」というマップがあった。おなじみ太田垣晴子さんのイラスト。かわいい。手に取ってみると東京都写真美術館と東京都庭園美術館までのMAPが見どころつきで書かれていた。1.8km、徒歩約30分とのこと。この二つの美術館を同日に行ったことがなかったし、目黒区と港区でお隣というか、そういえば庭園美術館は目黒駅から行くもんね。わざわざ白金台に出ない。写真美術館がある恵比寿駅でも目黒寄りだしたしかに近い。そうか。私は恵比寿ー渋谷間は結構歩いているし東京は狭いですね。

この前、久しぶりに渋谷駅から桜丘町、代官山を通って恵比寿までいった。Shibuya Sakura Stageがすっかりオープンしていた。朝早かったから通り抜ける人しかみなかったけど私が慣れ親しんだ景色はなくなった。少しずつ変わっていくのを見ていたけど一年ぶりくらい。駅からの歩道橋もサクラステージに続いていた。渋谷駅前の再開発であおい書店が閉店したのが2018年。その前はJTBだったか。ながーく親しんだ街だから変な感じ。しょっちゅういっていた定食屋もなくなった。一方、少し駅から離れればなにも変わっていないな、とも感じる。街を全部変えるなんてやりたくても無理だもんね。破壊はいくらでもできたとしても、と思ったのはNetflixでみた『ヒトラーとナチス』を思い出したから。ガザだってあれだけの殺戮が行われているのにガザはある。ありつづけてほしい。死なないでほしい。というか殺すなよ。東京都写真美術館でみた「被曝80年企画展 ヒロシマ1945」にも言葉を失った。感情も失いそうになった。静かに、きちんと怒りが伝わってくる展示だった。広島や長崎に行けなくても東京が近い人はいってみたらどうだろう。同時にやっている「ルイジ・ギッリ 終わらない風景」もすごくいい。絵画と写真はそう簡単に分けられるものではないということがよくわかる。モランディのアトリエの写真はちょっとびっくりした。モランディの絵そのものだ、と。あと光とか雪とか自然が作る在不在にも。楽しみにしていた展示だったので駆け足だったけど行ってよかった。あとミロ展も大急ぎで行ってきた。これももっとゆっくりみたかったけど行けただけよかった。晩年の作品をみたかったので初期の作品はかなりざっとしか見ていないが黒の使い方が最初から印象的。スペイン内戦の頃の俳句的な表現もあり非常に興味深かった。芸術家は何があっても作り続けていた。ミロ展はまたやってくれるように思う。今回は巡回展はないみたい。そういえば「ルイジ・ギッリ」の写真にはトリエステの景色もあり、ショップには須賀敦子の対談集が売っていた。「トリエステの坂道」は本当に素敵な文章で綴られた短編。須賀敦子って一時すごく読まれていたと思う。特にトリエステは。水村美苗とか米原万里とか母国語以外を自由に使える人の日本語は別格の美しさがある気がする。うまくいえないけれど。今日の移動本は須賀敦子にしよう。求めていた景色に急に出会えるような気がする。

どうぞ良い一日をお過ごしください。

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散歩 精神分析

火曜日

7月。いいお天気。さっき窓を開けたら夜のひんやりがまだ残っている感じがした。そういえば最近、帰り道の三日月がとてもきれい。

山形のさくらんぼをいただいた。甘酸っぱいとはまさにこのこと。私が公園で眺めていたさくらんぼたちは鳥たちに美味しく食べられたのかな。梅の実はいつまでもなっているのにさくらの実はなくなるのが早かった。新宿中央公園の梅の木は剪定されてさっぱりしていた。

フロイトやゲーテのイタリアへの情熱とか思うと私はそういうのないな、と思っていた。どうしても!みたいな強い気持ちがあるって行動に結びつくからいいな、とは思うけど、まあいいか、となる。しかもこの暑い時期なんてできたら何もしたくない。週末は関西に行くけど。暑いだろうなあ。泊まりでいって万博とか行けたらよかったけど時間もないし、暑いし、とやはりなる。彼らは基本的に体力があるね、色々読んでいると。私もない方ではないけど温存したい。今は温存という言葉さえ不適切な気がする。なんてこんな涼しい部屋で言っているのもどうかと思いますよね。原稿書かねば。

今日も無事に過ごしましょう。

参考文献:

岡田温司著『フロイトのイタリア―旅・芸術・精神分析』(2008、平凡社)

ゲーテ著『イタリア紀行』(上・下)鈴木芳子訳 (2021,光文社古典新訳文庫)

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散歩

自然

暑い。エアコンをつけていてもなんとなく暑い。ぼんやりしてしまう。昨晩のうちに色々家事をしておいてよかった。

昨日は自然と戯れた。今年はあやめをあまり見ていなかったけどとても素敵な湿原でワイルドなあやめをたくさん見られた。絵画に描かれるあやめもこういう姿がモデルになっていたりするのだろうけど、ワイルドなものをワイルドなままに描くって本当に難しいこと、というか自然があるから絵画にそれは求められていないのかもしれない。注意を宙吊りにしたまま、かつ枠内で形にすること。あとは受け手の力だなあ。自然はそこにいて何も考えず身体を投げ出していればいいから、というか特に見ろとも感じろとも考えろとも言われていないし、まあ、絵画も言われていないのだけど作り手側がすでにそれをしているからこっちの注意も固定しがちだし、石に躓くとか風が読めないとかそういう突発的なことも起きないわけだからあとは想像力でとなる。目を瞑ってもたくさんのことを感じる自然を心の中に持ち込んでみる目を養いたい。

この前、小さな居酒屋に連れていってもらってそこで面白かったことを書きたいけど、朝のうちに作業しないとだ。今週もがんばりましょう。

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散歩 精神分析

日曜日

まだそんなに暑くない。昨日の夕方、少し外に出たらすごい風だった。オペラシティのあまり人が通らない通路に咲く花にカメラを向けたが花より風を写す感じになった。実のなる木は強風をものともせずどっしり。たくさんなっていたけどなんの実だろう。

Reading Freudで読んでいる『心理学草案』、ようやく夢の話に入ってきた。ニューロンの量とか動きの話にも慣れてはきたが、イメージが難しいので具体例が出てくるとありがたい。それにしてもあの緻密な思考は尋常ではない。当時、ヒステリーの患者たちから受けていたインパクトをどうにか科学的な言葉にしようとしたのだろう。時折出てくる図もとてもシンプルなものだがあれこれ言いながら見ていてると少しわかったような気にもなるから不思議だ。粘るべし。いずれ破棄される理論と分かっていても部分がその後重要な全体を成すことを知っているのだから。

はてさて、今週に限っていつも以上にPCに向かう時間がない。移動時間でうまい具合にいい感じのアイデアが浮かんでくれないだろうか。なんて考えている時点でダメな気がするが希望は大事。というかそれを願うしかない。

なにはともあれ6月最後の日曜日。二つあるカレンダーの一つはもうめくってしまった。7月のカレンダーは鹿さんがいる。いい一日になりますように。

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散歩 読書

「原〜」とか。

窓を開けた。早朝のバイクの音。新聞配達の音とは限らない。一軒一軒止まるあの音とは違うし。あまり風がない気がする。昨日は降ったり止んだり変なお天気だった。夜、オフィスを出ると降っていなくて「よかった」と思ったのも束の間、すぐに傘をさすことになった。風が強かったのは昨日だったか一昨日だったかもっと前だったか。

毎朝、花や木の定点観察をしているつもりだが、昨日の状態を覚えていないから大雑把な観察しかできてない。それでも季節が着実に進むのを感じるし、何年も気づいていなかった場所に咲く花に気づいたりもする。

ゲーテは愛するシチリアのパレルモでこんなことを書いた。
かくもいろいろな、みずみずしい、新たなものとなった形姿をまのあたりにすると、「この一群のなかに《Urpflanze (原植物)》を発見できないだろうか?」といういつもの酔狂な考えが、またもや念頭に浮かんだ。そういうものがあるはずだ!もし も植物がみな一つの原型にならって形成されてゆくのでないとしたら、あれやこれやの形をとっているものが、どうして同じ植物だと分かるのだろう。

一七八七年四月十七日、火曜日、『イタリア紀行』の一節である。ゲーテがいう<原植物>は地層の断面も含むようなもので、植物だけでなく、動物にも<原動物>という原型を想定した。全ては(言い過ぎかも)そこからの変容であると。この『イタリア紀行』はフロイトのイタリア旅行を支えた書物だが、ゲーテはほとんど遁走のような形でイタリアに向かった。フロイトはこういう冒険はしない。きちんとしているし、怖がりなところもあるから。ゲーテのこの本は翻訳によって印象が異なると思うけど新しい方の訳はわりとテンションの高いゲーテを想像する。

原型の発見は魅力的だが、なぜ人は「原型」が好きなのだろう。「原〜」を想定しないとはじまらないということはあるだろうが別に想定しなくてもいいのではないか、と思うこともある。でもそれは時間的にという場合か。私が植物で季節以外のものを感じ取っていないせいかもしれない。発見する眼を私も持ちたいな。とりあえず熱中症に気をつけて無事に過ごすことから始めましょう。どうぞ良い一日を。

 

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散歩 読書

セルフレジ、本の本

蒸し暑くない。遅くまで除湿運転していたせいかな。今日も風がないみたい、と思ったけど南側の大きな窓を開けたら外で涼しい風が動いていた。

昨日は保育士さんたちとケースカンファレンスだった。すごく長く続いている関係の園だけど保育士さんたちは知らない人がすごく増えた。それでも昔から知っている先生たちのおかげでなんか馴染みの人みたいになっているのがいつも面白い。あまりに大変だな、と思うことが多いけど無理せずやっていってほしい。

セルフレジ難しくて嫌い、と思いつつも最近はセルフレジばかり。そんなある日の馬喰町。NewDaysのキャッシュレス店舗というものを発見。交通系電子マネーをタッチして入店する仕組み。ちょうど入ろうとしていたカップルの大きい人の方が何度やっても開かないのをみてチャレンジする勇気がしぼんだが、もうひとりの人がやってみたらあっさりピッていって自動ドアがあいた。少し時間があったので地下道をトコトコトコトコ、馬喰町と浅草橋、この二つの駅はここでつながっていたのね、と戻ってきて再びさっきのNewDays。今度はドアの前に誰もいない無人キャッシュレス店舗へドキドキしながら近づく。ピッ。あっさり入れた。しかも涼しさ独り占め。その日は電車の中が寒すぎることもなくありがたかったけどひんやりしているところもやはりありがたい。セルフレジって盗難とかにはどう対応するのかな。いつも行くスーパーはセルフレジじゃないから気に入っていたのにセルフレジになってしまった。疲れてぼんやりしてスーパーに寄って、レジ袋を真ん中にかけてピッてしないで全商品を入れて帰ろうとしてしまったことがある。自分で気づいてもう一度カゴに出してピッてして袋に入れてをやり直しなんと二度手間、と悲しくなった。まあそれでもありがたいのはレジがそこそこの台数あるから急かされないということ。レジ袋を開けるのにいくら手間取っても私のペースでできる、とはいえ、間違って支払わないで持って帰ってきちゃったということは起こりそうな気がする。だいたいスーパーに行くときってバタバタか疲れ切ってるかの時間だからありうる。ほんと今日は危ないな、というときは有人レジに並べばいいか。なんか優先席に座るような感覚だけど、優先席だって座ってはいけないわけじゃないんだしね。そういえば、この前東京駅のNewDaysでセルフレジがすごい列で店員さんが「有人レジあいています!」って一生懸命声張り上げてくれてたのでそっちにいったら誰もいなくてこれはなんなんだ、となった。

この前、読んでいると書いた坂本葵さんの『その本はまだルリユールされていない』、すごくよかった。図書館、釣堀、製本、活版、そして懐かしい本たちから立ち上げる世界とそれぞれが抱える思い、すれ違うようですれ違わない、くっつくようでくっつかない、表とか裏とか合わせ鏡。みんな違う色と太さの糸で何かを繋ぎ合わせながら生きている。そんなことを思う本だった。スクールカウンセラーもこうやって普通に登場するようになったんだねえ。私がスクールカウンセラーをやっていた頃はお部屋もなくて図書室の隣の倉庫みたいなお部屋を借りたことがあった。資料好きの私には薄暗いその部屋は幸せ空間で、お隣の図書室の司書さんと仲良くなり、私のところへくる子供たちともいろんな本を読んだ。子供の頃から本や図書室は大切な居場所だった。本が糸で閉じられていること、紙質というものがあることにも確かに驚いていた昔々。この本には大切な相手をなくした人もでてくる。まだ一緒にいた頃の思い出も今はもういない相手と紡ぐ日々も暖かい関わりの中で大切にされますように、やっぱりそういう世界がいいよ、と思った。

須賀敦子さんのことも思い出したから今日の通勤読書は『コルシア書店の仲間たち』にしよう。美しい日本語。美しい日本語を可能にするためにはまずは選挙か。『トリエステの坂道』もまた読もう、とか言っていないで原稿を作らねばなのか。困った。頑張ろう。せめて熱中症に気をつけよう。

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散歩 精神分析 趣味

麦茶、紫陽花、クレー

今朝も風がない。どの向きの窓を開けても風が入ってこない。冷たい麦茶を飲む。今年も麦茶を作り始めた。少し前にそろそろかなと思って作ってみたらそれほど消費しなかったからやめてたけどここまで暑くなると需要も増えるだろう。昨日、ごくごく飲んだつもりのペットボトルの水が半分しか減っていなくて自分でびっくりしているのだけど。水分を取るのが下手なせいでいつもどこか不調なのかも。

近所の紫陽花がまだまだきれい。新宿中央公園の大きな紫陽花はだいぶ茶色くなってさらにマダラになってきた、と思ったのだけどあの茶色って別の葉っぱが落ちているのではないかな。紫陽花って立ち枯れることはあるけど葉っぱ自体がポロポロ枯れて落ちることはないだろうから。葉っぱじゃなくて花、あ、花でもないか。装飾花の方。ガクのこと。近所にしても公園にしても私が日々出会う紫陽花は木の下で直射日光にさらされている時間は少ないから茶色に錆びちゃうみたいにはならないけど、ここ数年の尋常じゃない暑さで株の体力も衰えるのではないかしら。自分の体力がどんどん衰えていくから投影しているだけかもしれないけれど。

今度、精神分析がらみでパウル・クレーの話をするので『クレーの日記』をどこに置いたっけと探していた。あの黒い表紙の。と思ったらあれって息子のフェリックスが編集したものだからということでできるだけ元のままの新版が出てた。知らなかった。クレーとカンディンスキーは多分親が好きだったのだろう。実家にあった大きめのカード(というのかわからないけど)を持ってきていて開業したときにオフィスに飾っていた。でも端っこがよれちゃったので今はクリアーファイルに入れている。谷川俊太郎の『クレーの絵本』『クレーの天使』も持っている。クレーはフロイトの20年後くらいに生まれて同じくらいに死んだ人。スイスで生まれたドイツ人でスイス国籍は死んでから認められたんだっけ。忘れてしまった。大抵のことは忘れられていく・・・。

しかし朝から蒸し暑い。バナナを凍らせているからスムージーでも作るか。混ぜるだけだし。熱中症に気をつけて過ごしましょう。

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散歩

曇り。新宿中央公園。

カラスの声は大きい。今日も涼しい。曇り空だけど雨は降っていないみたい。そろそろ梅雨の準備をしなくちゃ、というかしたい。下駄箱の掃除をしたい、というかしなくちゃ。うーん。色々工夫したいスペースがあるけどずっと放っておいてるなあ。

散歩は順調にしている。といっても郵便局とか銀行とか行くついでに西新宿、初台、参宮橋あたりをぐるんとするくらいだけど。最近は花々や木々が楽しみだから薔薇がたくさん咲いている公園やいつもの新宿中央公園には結構行っている。

新宿中央公園のちびっこ広場にはいろんな国のいろんな子どもや親や人たちがいて面白い。この前は「やだ!」と鋭く大きな声を出しながら「ダン!」と足を踏み鳴らすのを繰り返している子どもがいた。というかこういう行動はよく見かける。「地団駄を踏む」というのはもう少しスピードがあるイメージだからちょっと違うかな。お父さんの顔をまっすぐ見上げなら「1ヤダ」につき「1ダン!」。そしてあの視線。断固とした意志。お父さんはいつものことという感じだったけど少し疲れた様子で赤ちゃんを前に抱えたまま「あと一回ね」と送り出していた。送り出されたその子もニッコニコというわけではなく怒った顔のままなんとも言えない声を発しながら滑り台の階段の方に走っていった。

はじめてこの公園にくる人たちもいる。「あんな大きいじゃぶじゃぶ池がある!」と赤ちゃんを胸に抱え、誰も入っていないベビーカーを押したお母さんたちが歓声のような声を上げた。7月になったらオープンしますね。またくる余裕がありますように。じゃぶじゃぶ池のそばには大きなタイサンボクが花開き始めた。大きな白い蕾たちも見えた。目線を戻せばシモツケも紫陽花もきれい。どんどん入れ替わる花たちがいつも楽しい。

砂場にはクジラがいる。どの時間にも静かに佇んでるそのクジラが私は好き。しょっちゅう写真に撮ってる。時間や季節や背景の色が違ってもクジラはひっそり。この前、楽しそうな笑い声が聞こえたので振り向いたら1歳くらいと3歳くらいの子供がちょこんと大きなクジラの背に乗っていた。ちっちゃい子の方が大興奮でお姉ちゃんのちょっとした仕草を真似ては笑い、お父さんお母さんを交互に見ては手をたたいて笑い、その笑いを向けられた方がそこまでおかしいのかという様子で困ったように笑ったりみんなで大笑いしたり実に楽しそうだった。

今日は曇り空の中、どこへ寄り道しましょう。新宿に行かねばならない用事があるが、ねばならないことはなんとなく面倒だ。別の寄り道をして紛らしながら行こう。どうぞ良い一日を。

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お菓子 イベント 散歩 精神分析

『横尾忠則 連画の河』展@世田谷美術館

光が入ってきた。新しくしたレースのカーテンが風に揺れている。今朝もくしゃみが止まらない。とりあえずあたたかいお茶と箱根のお土産「箱根の坂」抹茶味。定番。

『横尾忠則 連画の河』展に行った。場所は世田谷美術館。ようやく行けた。1936年生まれの横尾忠則の2023年、2024年の作品がメイン(だと思う)。「連画」は「連歌」とかけているわけだが大変面白い試み。篠山紀信が撮った一枚の写真から連日展開される自由連想世界。楽しかった。88歳、最後の大きい(?)展覧会になるだろうとのこと。

「大きい(?)」は世田谷美術館の大きさが「大きい?」だから?いろんな人に見てほしいなあ。横尾忠則が生きているうちに感想を書けるっていいことな気がする。ご本人はコロナの後遺症が大変らしい。早く回復して描き続けてほしい。連日描き続けることの意義は連日自由連想の世界にいる私にはとても大きいと思える。世田谷美術館で見られてよかった。無駄がないのにゆったりした構成でやっぱりそんなに大きい展覧館ではなかったのがまなおさらよかったのではないかな。企画展の「世田谷でインド」も大変興味深かった。横尾忠則は三島由紀夫を尊敬していることも知った。こんな有名な画家なのにどういう人だか全然知らないからNHKとかでやっている番組をチェックしようと思う。すごくインパクトが、というよりなんていうのかな、とにかく88年間生きて描き続けてきた人の大らかさとか正直さとかスケッチを含め当たり前のように筆を動かし続ける胆力とかなんか包容力がすごかった。今こうして書きながらあそこもう少しじっくり見ておけばよかった、とかいろんな絵が思い浮かんでいる。こうやって連日楽しめるのも素敵なこと。皆さんも機会があればぜひ。

すごく強い光が入ってきた。さっきの光とは全然違う。今日は晴れるのかな。昨日は予報に反して寒かった。部屋の中は蒸し暑くて温度調節難しい。くしゃみはいつのまにか止まった。どうぞ良い一日を。

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散歩 精神分析、本

ビオンの論文とか辞典とか、シモツケとか。

ひんやり。昨日は半袖でいる時間が長かった。オフィスも蒸し暑くて除湿運転をつけたり消したりした。夜、外に出たら寒かった。道ゆく人は半袖の人が多かった。私は寒さ対策だけは怠らないのでしっかり上着を着込んでいた。冷房の時期でまたすぐに喉がやられそう。もうすぐ学術大会で色々喋る必要があるけど大丈夫かしら。健康になりたい。

昨晩、クリス・モーソン編の『W・R・ビオンの三論文』(岩崎学術出版社)を読んでいた。原著は“Three Papers of W.R. Bion” Edited by Chris Mawson, Routledge, 2018.。翻訳は福本修先生。各論文に編者であるクリス・モーソンの「編集後記」がついている。これが大変興味深い。クリス・モーソンは『W・R・ビオン全集』の編者でもある。福本先生の補遺も「あとがきに代えて」ということでついている。ビオンもだいぶ読み慣れたせいか、そんな新しいことが書いてあるとは思わなくなった。身近な先生のお話を繰り返し聞いている感じ。これは講演録で、原稿なしでビオンが話したものを書き起こしたもの。話すことと書くことの違いはすごくあると思う。講演や講義でのビオンはどっか苛立っているようでもあり、なんかイキイキしていていて好き。キーツのNegative capabilityがかなりしっかり取り上げられているからビオンのこれを引用する人は絶対読むといいよ。『注意と解釈』と一緒に。三論文の方はコンパクトな本ですぐに読めるし、なんて20年前は全然思わなかったと思う。意味がわからないままみんなでうちで読み合わせとかした。その後たくさん解説書も訳されたし、今は本当になんでも学びやすい状況でいい。一方、というわけでもないが、ラファエル・E, ロベス・コルボの『ビオン事典』(金剛出版)は使いづらい。事典なのに索引がない。これ原著からそうなのかなあ。翻訳されたものをあいうえお順で並べているわけだから英語つきの索引は欲しかったなあ。索引ないからパラパラめくっていたら「原始ー現実対象」Prote-real objectの項目に「生気あるものと生気ないものとの違い」p95を参照と書いてあった。これ一つの項目になっているんだ、と思ってパラパラ。142ページに登場。ビオンのAnimateを「生気あるもの」と訳しているのね。ウィニコットのAlivenessとはだいぶ違う。こうやって使用しながら自分で索引作っていくのがいいかもしれない。

毎日少し先の駅まで遠回りしてお花を眺めてる。紫陽花がどんどん色づいていく道とまだまだ緑一色の道と。新宿中央公園は紫陽花の道があるけどそこはまだまだな感じだったな。亀たちは元気だった。相変わらず工事中で「私が愛でていたあの木はどこ?」とやや夢遊病のように木を探す気持ちもなるが季節の移り変わりを花々で知れるのは素敵なことだと思う。シモツケの咲く前がとても可愛くてたくさん写真を撮った。仁丹みたいな状態の時が一番好き。

今日はどんな一日になるかな。良いことありますように。

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散歩 精神分析

新緑、共有できる言葉

空が薄い。風はそんなに感じない。昨日の昼間の風はすごかった。オフィスから新宿へ向かった。新宿パークタワーのそばは特に風が強い。帽子をおさえながら信号待ちをした。朝はそうでもなくて誰もいないブランコも揺れていなかった。朝の新宿中央公園では父親と子供の組み合わせを3組くらいみた。大きな木々の新緑がとてもきれいで見上げながら歩いた。その足元の日陰には西洋シャクナゲやつつじが満開。桜はすっかりほかの緑に紛れている。桜の緑はもうすでに深くたくましい。

近所の老木がついに切られた。今年も桜のあとにそこに絡まるように枝を広げ切っていた藤が咲いた。藤が咲いて数日、朝通るたびに写真を撮ろうと思っていた。もう少し晴れた朝に、と思っていた日の帰り道、それはもうなかった。老木なりに逞しい太い幹が突っ立っていた。都会の住宅街にありながら放っておかれたまま時期がくれば咲き、散るを繰り返すこの木がとても好きだった。驚いて言葉も出なかったがいつ切られるのだろう、と思っていたのも本当だ。ようやく、と思ったのも。

近藤良平さんがテレビに出ている。紫綬褒章を受賞とのこと。「サラリーマンNEO」の映像が流れた。これは大宮エリー脚本ではなかったか。大宮エリーさんが亡くなったニュースにも驚いた。

昨日は初回面接の事例検討グループ。グループはふたつあり、こっちのグループの初回だった。メンバーは変わらず。このグループは知識を入れるためのグループではなく自分のやっていることを自分の言葉で意識できるように事例を素材に助け合っていくもの。人の事例を聞いて自分のことを振り返り頭を抱えることもしばしば。人に意見をするときにそれが自分への問いかけにもなっていることを実感していることはとても大切。専門家同士のグループでも患者さんといるときでもそう。言葉を出したならその反応を待つ、受け取る、その繰り返し。

臨床というのは本当に難しい。私がこう書く場合、私は精神分析的に話を聞くことの複雑さについて考えている。精神分析的にというのは、言葉を字義通りに捉える、同時に言葉を隠喩として捉える、というダブルトラックで聞くこと。なぜなら精神分析は無意識を想定するから。言葉はなにかを同定するとともに別のなにかを現わしていると考えている理論だ。生育歴と現病歴は同じ人の同じ時間に生じた出来事を多面的に捉える軸であり、それは人生のどんな時点で起きたことなのか、なにがトリガーとなって症状化したのか、あるいは問題として形になったのか、その経緯において繰り返されているパターンを捉えるには発達や病気に対する知識が必要なのは前提だ。私は印象や直観は大切だけど使わないでいいと思う、といつもいっている。まずそこに頼って物語的なものを作る人をたくさんみてきたけど、専門家ならではの技術はそれではないだろう。何かの専門家というのはその専門家集団の一人であるということで個別の技術ではなく理論に基づく、という前提にたてば「どのアプローチでも」=臨床心理学なりなんらかの専門的な臨床技術の基本は学習済み、ということであり、それらは本で学べる範囲でもあり学習はそんなに難しくない。一方、患者は具体的な体験を生きてきた人でそこでその人ならではの言葉の使い方をしてきた人だ。それを個人の印象や直観で何か別のものに変えないためにそれらの基本を前提として理論を使用する。精神分析の場合、この言葉なるものを言葉そのものとして扱ってきた学問で、木で言えば幹の状態を見つつ共有できる言葉にし、枝葉の広がり方、花のつけ方、身のなり方のパターンを捉え、共有できる言葉にできるように、それぞれの言葉を聞いている。もちろん自分の言葉も聞いている。自分が勝手に文脈を変えている場合、その地点に戻れるように。印象や直観ではこれができない。心を使う、的な表現を私が嫌うのは論理的に考えうることの重要性が共有されていないと感じるときなんだと思う。漫才が面白いのは共有できる言葉があってこそだからな、とかも考えた。

つらつら書いたがもう出かけなくては。今日もがんばろう。

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散歩 精神分析、本

雨、Reading Freud初回

明るくなってきたと思ったら一気に部屋がオレンジになった。今日はいいお天気みたい。昨日、ちょっと用事を済ませてバス停に並んだらポツリポツリ。降り始めたな、傘借りておいてよかった、と思っていたらどんどん雨脚が強くなってただ真っ直ぐ立っているだけなのにそこそこ濡れた。バスに乗っている間に雨脚は弱まって降りるときには普通の雨の日と同じだった。でもオペラシティに寄ったら人がいっぱい。突然の雨に傘がなかった人たち。新国立劇場で公演があるときとは全く違う色合い。つまり似たようなスーツの人たちがたくさん。みんなGWとはいえいつも通り仕事してらしたのね。仲間仲間。と知らない人を勝手な仲間意識で労いつつ本屋さんを一周してオフィスに戻った。オペラシティの成城石井にもぶらりとして知覧の紅茶を買ってみたけど結局飲まないまま夜まで仕事をして帰ってきた。本屋さんも成城石井も見ているだけで楽しい。

夜は今年度初回のReading Freudだった。5人の女性たちとフロイト『心理学草案』( 『1895-99年 心理学草案 遮蔽想起』 (岩波書店))を読み始めた。初回ならではの緊張感もちょっとよかった。

«[Aこの草稿の]狙いは、自然科学的心理学を提供すること、言い換えると心的諸過程を、呈示可能な物質的諸部分の量的に規定された状態として表し、こうして[SE/GW心的諸通程を]具象的で矛盾のないものにしょうとするものである。» p5(388)

刊行する気もないのによくこんなもの書くよなあ、と思うが、それならではの緩さが垣間見られて面白い。理論としてまとめてしまうと重要だけど書き方ほどは面白くない。フロイトの思考プロセスの記述の仕方がフロイトってこういう書き方するよね、と思えるのは楽しい。私たちはすでに情報という概念があり、心的装置というものを手に入れた状態からのスタートだからフロイトとは持ち物が全然違う。フロイトからしたら「ニューロンという概念を手に入れた!」というところか「Dr.STONE」のように一歩ずつ、みんなで。私たちも逆方向から一歩ずつ、みんなで歩み寄ろう。

今日の初回面接の事例検討グループでも記憶、時間、言語について何か言えるかもしれない。いいお天気だから仕事したくないけどがんばりましょ。今日のNHK俳句は斎藤志歩さんも能町みね子さんも出るのでは?楽しみだ。

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散歩 読書 音楽

鳥、GreenDay、瀬尾まいこ『その扉をたたく音』

早朝家事完了。曇ってるけど少しだけ洗濯物を外に出してお掃除。花粉も落ち着いてきたかなと思って。雀がどこかそばで一定のリズムで鳴いている。ベランダにくればいいのに。いいものがないからこない?餌ってことだよね。うーん。昔はベランダで植物置いていたのだけど日差しが強すぎたり風に弱かったりで置かなくなってしまったからねえ。鳥たちには魅力ないよね。近所の角の家は小さな庭に中くらいの木が何本かあってこの春はじめてそこに巣箱が設置されていることを知った。今までなかったと思うのだけど。そこは柿も夏蜜柑もなって私にも魅力的なのだから鳥にはもっといいのだと思う。カラスはゴミの方に行ってしまうせいかそこでは見かけない。以前はその家のそばの別の角に大きな家があってそこの高い木にカラスが巣を作るから駆除の人がきていた。絡まったハンガーを取るのはとても大変そうだった。奄美大島に行ったときは、金網でできた大きなゲージにカラスがたくさん捕まっているのを見た。畑への被害が大きいからと聞いた気がする。共存って実はとても大変だ。

昨晩、瀬尾まいこの『その扉をたたく音』に出てくるGreen Dayの曲を聴いていたら、さっきネットでGreen DayがHollywood Walk of Fameの星をGETと出ていた。まだGETしていなかったんだねえ。おめでとう。私にとってGreen Dayは若いバンドで少し下の世代の男の子たちがバンドでやっていたと思う。彼らももう大ベテラン。若いバンドというのは彼らの音楽自体にそう感じてきたからというのもあるかもしれない。瀬尾まいこのこの小説はいろんな曲が登場するのも楽しくて懐かしくて関わることの良さと切なさを感じて泣いてしまう。実際はこんなこと、なんて小説に思う必要なし。小説ってそういうものだし関わりの要素でいったら実際にこういうものはあるのだから。別の文脈でちょうど『そして、バトンは渡された』も話題になっていたし瀬尾まいこを一気するのもいいのではないか。他人の生活にあれこれ首突っ込んだところで事実なんてわからないし似たような言葉しかやりとりされないけど小説は豊かに気持ちが動くよ。

とかいっているうちにもう四月後半になってしまった。どうしましょう。がんばりましょう。部屋が光でいっぱいになってきたけど今日は曇りらしい。あ、日中は晴れるみたい。蒸し蒸しするって。湿度が高くなってきたのね。なんか周りで風邪をひいている人が多い。気をつけて過ごしましょうね。連休楽しめるように予防予防。良い一日になりますように。

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散歩

日曜

今朝は鳥たちの声があっちこっちから聞こえる。まだグレイの空が賑やか。お隣の雨戸が開いた音がする。みんな早起き。今朝は風が少し強いのかな。時折、うねる音がする。

瀬尾まいこ『その扉をたたく音』がテーブルの上にある。うちは瀬尾まいこ全部揃ってるかも。瀬尾まいこも国語の先生だった。夏井いつきとかのことを思い浮かべて「も」と書いた。大学の時に詩人や作家の先生に教わったがどれも楽しかった。貴重な体験だったと思う。友達も詩人になったり絵本作家になったり。ドールハウスを作っていた友達もいた。才能だけではない彼女たち彼らの、なんていうのか、熱量というほど熱いものではなくて、何かもっと淡々としていて、習慣化されていて、何年も積み重ねられてきた経験と学びのプロセス。それを知っているのは幸運なことだと思う。

別の大学だった友達が先生になったのだけど学生に「陽キャ」と言われんだよ、びっくりでしょ、と言っていた。すごくびっくりしたし、笑った。私たちの頃はそういう言葉は使われていなかったと思うがその人は明らかに「陽」のキャラではなかったし、今も私たちからしたらそうではないと思う。なにより本人がびっくりしている。そういうものだ、外からの見え方って。自分がどんな感じかは自分でも決める必要ないし「前はああだったけど今は」みたいななかにも「いやいや前からそういうとこあった」というのも常だし、人は自分でもわからないいろんな面を持っているからいろんな驚きとともに。

今日は日曜日。休息大事。昨日は日が暮れたあとは気持ちよくて梅と躑躅の中を寄り道しながら帰った。梅の実がたくさんなっていた。葉っぱも実も緑だから気づきにくいけど近づくとびっくりするくらいたくさんなっている。躑躅も赤白ピンク紫といろとりどり。季節の動きが可視化されている。そのスピードに驚くけれどここまでやってきた自分のいろいろを信頼して過ごそう。

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散歩

すっきりした空。昼間は暑くなってきたけど夜の気温がちょうどよくて嬉しい。昨晩の月もきれいだった。更待月。

毎日、いろんな花壇の花々に立ち止まる。すぐそばから雀たちが飛び立つ。そこにそんなたくさんいたんだ、とこっちがびっくりする。

桜が葉桜になったあともどんどん季節の花が咲く。近所のモッコウバラが家のフェンスを突き抜けて道路側にはみ出していた。たくましい。私のオフィスのそばも塀いっぱいのモッコウバラ。独特の黄色がかわいい。

この花は、そっちいかないよー、こっちだよ、と誘引が必要。人間社会では。

小さな子とお散歩している気分ですね。そっちいかないよー、というとちょっと止まって振り返ってニコッてしてまたいってしまう。結局そっちにしばらく歩調合わせてなんとなく行くべき方向に注意を移していくのと同じ。うまくいかない場合、というか時間がかかる場合も多いけどね。大人的時間で測ると。でも子供にはそういうマネジメントが必要。

もう少し大きくなったら何かに「明け暮れる」ことも大事かも、むしろ明け暮れてくれよ、いや、そんな明け暮れてないで、とかコミュニケーションは状況によって異なると思うけどあくまで相手の主体性を奪わない範囲でのマネジメントが大事。支配的なコントロールになりがちだから、人間のコミュニケーションは。動物も危機のときはそうだと思うけど。

そういえば、すこし前にウグイスの鳴き声を聞いて上手なのにびっくりした。山へ行くと大抵「うん??」とこっちがなるような鳴き声でこれから練習してうまくなっていくのね、とか思っていたのだけど、ウグイスが「ホーホケキョ」と鳴くのも季節によるんだって。下手が上手いになるわけではなかった。失礼しました。

今日も散歩しながら仕事へ行こう。いろんな発見がありますように。どうぞ良い一日を。

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精神分析における観察

きれいな空。さっぱりした朝焼け。昨日の朝は前日の雨風に小さな花たちはみんなうつむきがちだった。あの雨の夜、点字ブロックの向こうにカエルが濡れながら佇んでいた。カエルは夜でもわかる。ゾワっとした。山の蛙には随分慣れてきて鳴き声が聞こえれば探すほどになったがアスファルトの蛙にはまだゾワっとしてしまう。結構大きかった。数年前、いやもっと前になるか、春になると近所の庭や道に大きなヒキガエルが現れた。川が近いから、と言われたがそんなに近いか?ヒキガエルにとってはそんなに近くないのでは?など思ったがその後はどうしたのだろう。先日のも彼らと近い関係だろうか。轢かれたりせず天寿を全うしてほしい。

毎日、花々を愛でながら歩いている。次から次へ咲く彼らの写真を撮る。一日の終わりに眺めると名前をまた忘れている。毎年春がくるたびに調べては忘れる。覚えるという行為をもう少し自覚的にする必要があるかもしれない。今は画像検索でお花の名前は調べやすい。簡単に調べられるから覚える気にならないというわけではない。それ以前からのお話。ならばせめて書いておこう。この二日間で写真に撮ったのはドウダンツツジ、ミツバツツジ、ロボウガラシ、オオキバナカタバミ、トキワガマズミ、マメナシ、サルビア、ジューンベリー、ハナズオウ、などなど。

ようやく6月の精神分析協会の学術大会のパネルの原稿を書き始めた。まだメモ程度だけど一応今月中に書かねばならない。私は、自閉症に想定される原初的なバイセクシュリティなど現代の精神分析が対象とする主体性なき主体においてセクシュアリティが果たすものはなにか、形になる以前のそれについて書いてみようかと思う。書いている途中に全く別のものになるかもしれないが。この概念はDidier Houzelが詳しいので調べたらHouzelはフランスの乳幼児観察についても書いていた。

Infant observation and the French model Didier Houzel ーーThe International Journal of Psychoanalysis: Vol 93 , No 1

Houzelは精神分析の訓練に乳幼児観察が必須と考える立場らしい。私は違うな。HouzelがIPA(国際精神分析学会)所属のフランス精神分析協会と限定しているのはフランスには精神分析の団体が乱立しているから議論が生じている場を明確に示す必要があるからだと思う。イギリスのタヴィストッククリニックのトレーニングで乳幼児観察が必須なのは、そのように全体のシステムが組織化されているからだろう。IPA所属の各国の協会のトレーニングシステムはそれぞれ異なるから乳幼児観察を組み入れるためにはシステム自体の変更も迫られるだろう。そう考えると現時点では優先順位はそんなに高くはないのではないか。日本の協会では、というかIPAでは子供の精神分析に関する訓練システムの確立はこれから。話し合いは行われているけど。私はそれが整ったら子供の精神分析の訓練も受けたい。英語が全然追いつかないからもっと頑張らねばだけど。乳幼児観察自体は乳児がいる状況はそれぞれのこころに様々なものを引き起こすのに十分だし、それを記録に残したりグループ内で言語化したりすることもコミュニケーションの困難や支持的要素に気づく大切な機会だ。それらは精神分析実践において必然的に生じることだし精神分析的であることのイメージを育てるにはいいと思う。それを訓練システムにおいて必須とするかどうかというのはこうした議論が必要なのだろう。

原稿を書き始めると大学所属ではなく臨床中心の生活を送っている女性精神分析家として何が言えるのかな、ということも意識するし、不安にもなるけれどとにかく実践と実感からものを言えるようになりたい。言うだけなら簡単だが患者不在の思弁は精神分析を治療者のためのものに変えていってしまう。いくらマイナーな治療でもそこには患者がいる。フロイトから受け継がれてきた「観察」という姿勢は大切にしたい。

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写真 散歩

偶然とか。

空が薄い色。昨日は一昨日成功した防寒対策と同じにしたら暑すぎて荷物は増えるわ体温調整うまくいかないわで疲れてしまった。暑さというのはなんともしがたいね。昔は暑い方がなんともなくいられたのに。そんなこんなで何もしたくないところにからあげ屋さんに並ぶ人を見かけなんこつを買ってみた。少し時間がかかるというからさらに荷物を増やしてどうすると思いながら後でとりにくることにして近くのスーパーへ。持ちきれなくなってきた荷物を整理しようとベンチにどさどさと荷物をおいたらレタスが袋からコロンコロン。あらあら。こうもなりますよね、と拾いあげた。で、からあげ屋さんに戻った。袋には「こつ」と書かれていた。なんこつは「こつ」なのか。ももやむねはそのままでいいんだろうねえ。手羽もそのままだよね、きっと。そういえばレタスコロコロで思い出したどうでもいいことなんだけど、この前、都庁の前でロケやってたのですよ。通りがかったら紙袋からオレンジが転げ落ちるシーンをやっていた。東京でオレンジそんな紙袋につめこまないだろうけど人と人をつなぐ偶然を作り出すにはこういう場面がないとなのだな、と思ってちょっとみてたらやっぱりオレンジコロコロしてた。そこにきちんと人が駆け寄る。なるほど。定番。と思った。オレンジってきれいに目立つからああいう場面にピッタリと思った。レタスじゃねえ。

そういえば、この前、はじめてのカフェに行ったら漫画とかCDとかが並んでる棚に「のと鉄道」という写真集があってしばらくみていた。そうしたらお店の人が「差し上げますよ」と。びっくり。その写真家さんとお知り合いだからまた持ってきてもらえるから、と。今度能登に行くんです、おお、そこに載ってる運転手さんも知り合い、あ、そうなのですね、などお話した。きれいな写真がたくさん。嬉しいな。こんなこともあるのですね。感謝。能登のみなさんが元気でありますように。

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AI 散歩

新宿中央公園の整備

いいお天気。カーテンを開けた。窓も開けた。風も優しい。でも開け放つにはまだ寒い。閉めた。熱い紅茶を飲んでいる。暑くなってきた。

私のオフィスは新宿中央公園のそばなのでしょっちゅう通り抜けたり佇んだり散歩したりしにいっている。昨年から大掛かりな工事が始まり見慣れた景色がどんどん仮囲いに囲まれ、いつのまにか姿を消していった。新宿区にとって大事な木だったはずの「銀世界」という梅も今年のつぼみもたくさん撮ったこぶしもあっという間になくなった。2025年2月21日更新の「公園だより」には普通に

”園内では銀世界のように白い花を咲かせる

「銀世界」が沢山の花を咲かせています。”

と書いてあった。これを書いている人はそのすぐ後にこの木が根こそぎなくなることを知っていたのだろうか。今はすでに何もない。

AIにこんなときの気持ちを聞いてみた。
まず「それはとても切ない出来事ですね。」と共感してくれた。そして以下の気持ちを例に挙げた。

  • 喪失感:毎年親しんでいた風景が突然失われたことによる、深い虚しさや寂しさ。
  • 裏切られたような気持ち:園内の花便りが満開の写真を載せていたにもかかわらず、実際にはその後すぐに伐採されたことによる、情報とのギャップへの戸惑い。
  • 置いてけぼりにされた感覚:愛着をもっていた場所が、何の前触れもなく変えられてしまい、自分の気持ちがそこに顧みられていないような感覚。
  • 無力感:大切に思っていたものがあっけなく消えてしまったことへのどうしようもなさ。

本当にAIは賢い、というか、データがこういうということは多くの人はこう思うわけで、と言えるのも今だけなのかしれない。あの木々や花々があっさり茶色い土にならされたように一年後に同じことをAIに話したら「それはよくある出来事ですね」で終わるのかもしれない。「だからどうした」まではいわないか?いうか?全く腹立つ。誰に腹を立てたらいいのか。工事の発注をした人が悪いわけでもないし、こんな計画、ひとりで決めるわけでもないし、オリンピックのための整備のときもやったことだしもう慣れてしまったのかもしれないし、結構多くの人にとってはすでに「だからどうした」なのかもしれない。公園の工事は来年まで続く。来年の今頃はきっと何事もなかったかのように、今潰されそうになっているチューリップではないチューリップが咲き乱れたり、私が撮影していた薔薇ではない薔薇の芽が育ったりしているのだろう。代わりはいくらでもいる、みたいな。感謝とかないのかな。絶対的な神はいなくても小さな何かが宿っているものと思わないのかな。私のショックとモヤモヤは続く。毎日見ていた景色があっさりなくなった時の衝撃は強かった。自分がいつもと別の道を歩いているのか(一本道なのでそんなはずはないのに)と何度か近辺を往復したりした。あそこは、あそこは、と別の場所も歩いてみた。私が18歳の頃に通っていた公園の姿は何年も前になくなっていた。当時、会えば言葉を交わしたホームレスの人たちもいなくなった。ベンチが増えたにもかかわらず。排除は段階的に進むものであり、そのプロセスを直接目にしていない人には何のインパクトももたらさない、というか知ろうとしなければそれが起きたことも知ることはできない、ということも知った。新宿中央公園はデモの出発地として申請すれば使える場所でもあるが、公園整備反対のデモは起きなかったと思う。悲しい。今までありがとうと草木に対して思う。それぞれのものや場所や人に歴史があることを忘れないようにしようと思う。

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散歩 言葉

言葉

今日は曇りなのかな。薄着の暖房いらずで朝を過ごせるのが楽ちん。

武蔵野の公園で見られる花や野鳥のパンフレットが素晴らしい。さくらにもほんと色々ある。オオカンザクラとか河津桜は随分メジャーになってきた気がするが桜といえばソメイヨシノ。みんなの桜、という感じがする。お別れや出会いの時期にちょうど咲くのもいいのかもしれない。

昨晩、帰りの電車でポニーテールの子を見かけて春だなあと思った。洋服に合わせた黒いシュシュだったのだけどいろんな色のシュシュを想像して一句作った。先日はダチョウ倶楽部の「押すなよ」の話をしながら一句作った。そのまま書いて季語をつけただけでこのままだと句会には出せないような575だが私の日記がわりにはなる。ああ、この日にみんなでダチョウ倶楽部の話をしたんだな、と。芸人の話をしながらダチョウ倶楽部のネタが看護の技として使われているという話をしたのだった。作家で言語学者の川添愛さんも『言語学バーリ・トゥード』で「押すなよ!」を取り上げている。思い通りにならないとすぐにコミュニケーションをやめるか、依存という形で思い通りを実現したことにしがちな現代、意味と意図のずれを楽しむ余裕が忘れられませんように。エンタメがソーシャルな視点からしか見られなかったりするのもつらい。誰かの言葉も作品もいろいろあっての積み重ねだろうし受取り手が一気に同じような観点から何か言い出すと黙るしかないみたいになってかえって何も変わらないのではないか。反射的に言わねばならないことはあるけど、それがやりとりを拒むことになるのであれば別のやり方の方がいいのでは、と私は思う。やりとりが成立する関係ならありだろうけど。とにかく相手あることということ。

カラスがすぐそこで鳴いている。そっちからのこの声は珍しい。今日もがんばろう。

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散歩 読書

白州正子の番組とか

まだ早い。洗濯物を干した。

昨晩、白州正子の番組をやっていた。私は鶴川のクリニックに勤めていたから、というわけではないが武相荘にも行ったことがある。鶴川は本当によく歩いた街だった。駅の両側はすぐに山なので散歩していたらいつのまにか人の家の畑に入ってしまって呼び止められたこともあった。クリニックは駅前だったが武相荘は結構上の方だ。小田急線鶴川駅から徒歩でも行けるが行きはバスをお勧めする。入場料がすごく高いな、と思ったがせっかくなので行った。とてもいい家でさすが正子と次郎という感じだった。実家に白洲正子の本があったので文化人であることは知ってはいたが鶴川でご一緒するとは。次郎のことはドラマなどで見ていたがかっこいい人ということ以外いつもあまり残っておらず、私は正子にしか興味をもてなかった。正子は14歳で女性として初めて能の舞台に立ったことでも知られている。昨年、もっともインパクト受けた小説『大使とその妻』の「貴子」は白州正子を思い出させた。昨晩の番組のナビゲーターはなんと細川護煕。エピソードもさすが。最後の方しか見られなかったが面白かった。

昨日は週末の読書会に向けてダナ・バーステッドブリーンの本の一章を読んでいた20ページくらいかな。英語だとものすごく読むスピードが遅くなるので全然進まず。しかもその速度だと内容が入ってこず。困った。著者がこの章で何を言いたいのに辿り着くまでで時間切れ。困った。

乾燥がひどい。唇もかかとも。花粉もねえ。私の大好きな街、帯広の雪のニュースに驚いているし心配でもある。1日で100cmって。53年ぶりの積雪量(積雪深?)ということは以前にも経験した人はいるのだろうけどみなさんどうしているのだろう。被害がでませんように。雪崩とかも起きませんように。

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散歩 読書

沖縄。岸政彦『はじめての沖縄』。散歩。

今朝は「高尾ポテト」。京王線橋本で買ってくれたそう。これは何度もいただいている。今回は3種類。今朝はメープル。しっとりスイートポテト。美味しい。冬にはこういうポクッとしたお菓子を熱いお茶といただくのが素敵。

沖縄都市モノレール ゆいレールのD-51が歌うテーマソング「おきなわ」をかけながら岸政彦『はじめての沖縄』を久々に手に取った。謝辞には先日亡くなった打越正行の名前もある。私がはじめて沖縄へ行った頃、まだゆいレールは通っていなかった。打越正行も生きていた。昨年11月には「ひめゆり学徒隊」の生存者である与那覇百子さんが九十六歳で亡くなった。2019年焼失した首里城正殿は2026年秋に再建される。沖縄戦から今年で80年。私は久々に沖縄へ行った。

岸政彦はこの本の序章で、沖縄の人びとと内地の人びとの「区別」は実在すると明確にし、

境界線の「こちら側」にはっきりと立ち、境界線の向こう側を眺め、境界線とともに立ち、境界線について考えたい

と書いた。沖縄の人たちは親しみやすくよく喋る、と言っていいほど私は多くの人と出会っていないが今回もそんな印象を受けた。そして境界線も感じた。一方、私が知識で勝手に引いてきた境界線は今回私が移動した範囲では感じなかった。ゆいレールが変えたものもあるだろう。前回は沖縄の人に助けてもらいその人に憧れた。

私は何か書き物をしなくてはならないとき、いつもより念入りに散歩をする。そうしたいと思っているが、いつのまにかいつも通りぼんやりキョロキョロした散歩になる。思索にふけることもなく鳥の声がした枯れ木の前に立ち止まる。濡れ落ち葉は慎重に踏み、粉々になる大きな葉っぱは避けて歩く。そうこうしているうちに原稿のことはどこかへ行ってしまう。そして締切ギリギリになんとか書く。それでも拙くともそれができるのはこういう散歩のおかげだと思っている。何かを手放してみてもそれは要素として蠢き続けている。それがいつのまにか曖昧な形をなし何とか書き言葉になってくれる。そんなイメージ。そこには身体の動きが必要なんだと思う、私には。沖縄のことはまだ書けない。書く必要もないのだがこんなブログにさえ書けない。散歩が全然足りない。また行きたい。

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お菓子 イベント 俳句 散歩

満月、俳句、「昭和のくらし博物館」@大田区

朝焼け。緑茶。熱湯のままいれてしまった。あれだけあったお菓子が底をつきそう。今年も美味しいお菓子をたくさん食べた。そういえば昨日いただいた素敵な焼き菓子があるのだった。緑茶にしてしまった。ガーン。明日、コーヒーでいただこう。

昨日も月がピッカピカだった。今年最後の満月だときいて夜ベランダに出たら空のずっと上の方で星と星の間に黄色い月が輝いていた。オリオン座もくっきり。冬の空だ。寒い寒いとすぐに部屋に戻った。

深夜締切のネット句会、今回もギリギリ。推敲せず。次回こそしっかり推敲!と思って数年が過ぎた。今回のお題の一つは鍋料理。平井照敏の『新歳時記』をパラパラしていたら狸汁、鯨汁(鯨鍋)、河豚汁(ふぐ鍋、ちり鍋)、葱鮪(鮪鍋)などがあった。冬は汁物だな、やはり。私は「牡丹鍋」で一句作った。ジビエの話をしたばかりだからちょっと創作で実体験じゃないけど。自分の鍋エピソードを思い出そうとしたのだけどエノキが好きとか白菜が溶けるとか具を譲り合うとかおじやにするとか食べすぎるとかは思い浮かぶけどエピソードがなかなか浮かんでこない。ネットで「鍋 思い出」で検索したら違う国の人たちと囲んだ鍋の話とかうちは鍋といったらこれ、みたいな話が載っていた。私は家族以外と鍋を囲んだことってそんなにないかも。いや、そんなことないか。はっきり映像として思い出せないんだよなあ。鍋は簡単だから冬はよくやるわけでこの冬はそういう場面に意識的でありたいわん。

もう年末。年賀状、買ってこないと。普段一番会うのは精神分析協会の人たちだけど年賀状のやりとりってしたことないかも。やりとりする枚数も減ってきたけど年賀状でしかやりとりしていない人もいるからあちらからこなくなる限りは出しましょうかね、と思っている。いつからか喪中ハガキも多くなった。中山美穂と同世代の私たちはみぽりんの死を悲しむと同時にお風呂気をつけねば、特にお酒飲んだときは、と話している。数年前と比べたら本当に死が身近になった。仕事はまだまだしたいなあ。

先日、東急線多摩川線下丸子駅前の大田区民プラザへ行った。デザインフェスタのローカル版といった感じの展示販売イベントに出している友人に会いに行った。みなさん、すごかった。売れたらいいなあ。私がもっとお金持ちだったらなあ。それにしてもこの施設は本当駅前なのもいいし、すごく使い勝手がいい施設だと思った。その日もいろんな催しが開かれていて老若男女いろんな人がいた。せっかくなので大田区の別の施設にも寄ろうと「昭和のくらし博物館」にも行った。こんな小道の普通のお家っぽい所に博物館なんてびっくり。昭和26年に経った公庫住宅初期のお家が当時の暮らしを体験できるように開放されている。見たこともない家電もあったが昭和生まれの私はまだ懐かしめるものがたくさんあった。スペインからのお客さんも来ていて昭和のおもちゃコーナーのところで一緒になった。駒とか竹馬とかを一緒にやった。スペインにも駒と似た遊びがあるとのこと。私も彼も紐を巻くのが下手で回せなかったがニコニコした。ホッピングもやった。懐かしい。すごく久々。庭に出るためにお借りしたサンダルで2、3回できた。自分の靴ならできるかもしれない、と嬉しかった。「子供の頃は簡単にできたのにねえ」と職員さんがニコニコと見守ってくれた。私は子供の頃からできなかったが「軽かったですしねえ」とか言ってしまった。全ての部屋が楽しかったが長居したのは2階の子供部屋。姉妹とお兄ちゃんの3人のお部屋で長女の学校の先生との連絡帳や姉妹で遊んだというお人形とその着せ替えなどもかわいく懐かしく戦中、戦後の子どもたちは私にとってまだそんな遠くないなと思った。その時代を生きた人のお家へ遊びにいった感じで楽しかった。お庭には夏みかんとか柿の木もあって眺めていたら鶯がきて、そのあとまた鶯がきて、つがいかしら、すばしっこいね、など知らない人と話したりのんびりした。少し歩いていると小さな商店街があり、もちつきのお知らせなどが貼ってあった。神社もそろそろそんな雰囲気。私たちいろんな初詣の準備に出会ってきたね、と話しながら大田区の保存樹林や神社の本殿の裏側、全然目立たないところにある立派な彫刻を眺めたりした。上を見ても下を見ても銀杏が金色に輝いていてそれがメインだったかな。ちょっとの時間でもだいぶ豊かに遊べる。昨日は3つの事例検討会があったけどどれもすごく勉強になったし今週もがんばろう。

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散歩

新宿駅からオフィスまで(地下道)

暗い。iphoneの天気予報では今日は曇り。寒そう。昨日は風が冷たかった。フードをかぶって早足で歩いて新宿駅へ向かった。新宿駅南口ならまっすぐ行けば着くが寒さに耐えきれずワシントンホテルから地下道へ入った。この時期は地下道に人が増える。雨の日もそうだ。患者さんも慣れてくると新宿駅から歩いてくる方が多いようなので一応、地下道の説明をしておこうかな。オフィスの最寄りの駅は京王新線新宿駅から一駅の初台駅なのだけどルミネ地下一階そばの京王新線新宿駅の改札には入らず大江戸線を右手にみながら新宿南口地下街「KEIOMALL ANNEX」を進む。朝は都庁へ向かう人でいっぱいだ。いろんな展覧会のポスターが貼ってあるのがいい。KEIOMALLを過ぎてもそのまままっすぐ行くとすぐに「ワンデーストリート」地下通路に入る。新宿にはいくつか地下道があるのでこちらのマップをご参考に。「ワンデーストリート」に入ったらあとはまっすぐ行くだけ。地下道自体はまっすぐではなくくねくねしているところがあるので少し心配になるかもしれないが突き当たりまで行けば右手に都庁、左手にワシントンホテルがある。オフィスへはワシントンホテル側に出て甲州街道を初台方面に数分。新宿パークタワーに寄りたい人は新宿駅からシャトルバスも出ている。20分ごとだっけな。パークタワーにはリビングデザインセンターOZONEとザ・コンランショップが入っている。開業した頃は雑貨もいろいろあってよくいったが今は大きめの家具ばかりであまり楽しく無くなってしまった。カフェもなくなってしまったし。あまり行ったことなかったけど。情報センターでいろいろな雑誌を見るのは楽しい。コロナで随分変わった気がする。今年はついに大きなクリスマスツリーがなくなって光る球体がツリー状に積み上げられいろんな色にライトアップされる形になった。これはこれで夜みるときれいだけど諸々簡易になっていく印象。私は雑多な感じが好きなんだけどなあ。まあ、私のためにある建物ではないから仕方ない。面白そうなイベントは増えたけど多くの人の会社帰りに合わせた時間帯だったりするからその時間こそ忙しい私は行けない。この前なんて縁日の準備してて何やら楽しそうだった。こうやって設営するんだ、と大変興味深かった。エレベーターが多いからやりやすいんだろうな、とか思ったりした。私のオフィスもエレベーター2台あればいいのに、と思う時間帯もあるけど、誰も乗っていない時間も多そうだからなあ。点検があるとエレベーター使えないからその日の予定をずらさなくてはいけないこともあり、必要なこととはいえ、今年はその回数が多かった気がする。全館停電にしての点検とか。耐震構造自慢のきれいなオフィスビルなんだけどね。この時期は朝の日差しが部屋にきれいに差し込んで外からドアを開けるとキラキラしていて素敵。暖かいし。夏から秋にかけて開業したからこんなふうに日差しが入るって知らなかった。植物にはあまりよくない環境だけどカーテンを開けると明治神宮の森が遠くに広がっている。参道のそばだからね。今は森が秋色でとてもきれい。私は鳥好きだけど一時期鳩がベランダにいついてしまって困ったことがあった。面接中、すぐそばでポッポポッポ言われると鳥の言葉がわからないから辛い。どうして欲しいのかしら。あの頃、どうやって別の場所へ行ってもらったのだったか忘れてしまったけど今はたまに手すりを歩いて横切るくらい。すぐそばに餌をまいてくれる場所もあるしね。奄美大島の鳥たちは元気かなあ。今日はまだ東京の鳥の声が聞こえない。夢で面接で患者さんがしようとしていることについて考えていたみたいでそのまま起きてしまったからそれをメモしておこうと早起きしたのだけどオフィスへの行き方ブログになってしまった。別の場所に書きましょ。どうぞ良い一日をお過ごしください。

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イベント 写真 散歩

出不精ながら

今朝は河口湖チーズケーキガーデンの特売抹茶ケーキ。チーズは入っていないから余った抹茶で作ったりしてお安かったのかしら。安かったんだって。ポロポロするけどそのポロポロもちまちま食べたくなる美味しさ。いい香りだし。河口湖の紅葉の名所「もみじ回廊」もそろそろかな。東京もだいぶ色づいてきましたね。立冬を過ぎたとはいえようやく秋になったのでアクティヴになりたいけどなんか暑かったり寒かったりで今日はお出かけ日和だみたいな気分にならないというか、元々出不精なだけだけど、色々行きたいな、と思うばかり。でもこれは行っておかねば、というものでオフィスから行きやすいところには立て続けに行きました。もっと寒くなったらいよいよどこにも行きたくなくなるから。

上原沙也加さんの台湾を舞台にした写真展は馬喰横山駅から数分。近いのに迷ったから汗かいたけどオフィスのある初台からは一本。

細井美裕さんの初個展「STAIN」は神宮前2丁目。神宮前にはオフィスから西参道を歩いて明治神宮へ入り、明治神宮を抜ければ着くのだけど神宮前2丁目は駅からちょっと遠い。千駄ヶ谷駅から行くのとたいして変わらない気がする。あの辺は好きな通りなんだけど私の中では目的なく歩いていると出るような場所で全然通りを覚えられず毎回迷い、今回もギャラリーのすぐそばを何度も通り過ぎて汗だくになった。なんでこの季節に汗かかなあかんのか、と思いつつ。

そして瀬尾夏美さんたちNOOKの事務所「Studio 04」でやっている「現代・江東ごみ百鬼夜行」。江東区西大島の大きな団地の一階。西大島も初台から一本。

どれも行ってよかった。世田谷文学館とかはもっと行きやすいのだけどちょっと変わったところにいきたい欲望も働いてしまう、でも行きやすいところ、と思ってしまうし。絶対行きたい展示があと二つあるけどこれらは遠くはないが面倒・・・。来年「美」について語る機会をもらったので美しいもの、こと、にはたくさん出会いたい、というか体験から考えたいが。

新宿中央公園が毎日きれいだからいいか。今日は雨なのかな。でも晴れてきたかな。いいこともあるといいですね。

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散歩 精神分析

すずなり、無意識

先日、名古屋の知らない駅で降りて横断歩道を渡り終えたら後ろからおばあさんが呟いた。「すずなり」という言葉だけが聞きとれた。なんだろう、とキョロキョロ横を向いたり上を向いたりしていたら結構高いところに柿がすずなり!小さな丸いオレンジがたくさん。鈴なり、まさに。昨晩、いつもの遊歩道に小さな柿が落ちていた。こんなところに柿あったっけ、とまたキョロキョロ。あった。この狭い道だとその高さは見ないな、見えないな、という場所に柿がすずなり。あのおばあさんのことを思い出した。私に話しかけてくれたのかなあ。少し距離があったから柿を見つけてそのすずなりぶりにびっくりしてなんとなく後ろの方にいるおばあさんに会釈をしただけだった。教えてくださってありがとうございます。自分では見つけられない景色、毎日歩いてたってそうなんだからましてや知らない街でなんて。声を大事にしたい。

エレンベルガーの『無意識の発見』を少し読み直した。無意識を発見したと言われる第一人者のフロイトだが、それを発見させたのはブロイアーと一緒に治療した「アンナ・O」と言われた患者だ。後にアンナ・Oはベルタ・パッペンハイムという社会事業の先駆者であるとわかるのだが、エレンベルガーはこの治療の成果に関する嘘を指摘している。実は、患者もフロイトもこの治療は失敗だったと言っていた。ブロイアーはこれでフロイトと離れるわけだが、フロイトがブロイアーの非難をするのは『ヒステリー研究』の20年後だ。精神分析の設定はこの頃まだ使用されていない。ブロイアーは開業医であり、診察と入院によって彼女を治療していた。つまり無意識はカウチの上で発見されたのではない。もちろん無意識という言葉自体はずっと以前からあったわけで、しかし現代はそれはほとんど重要視されないわけで、それでも精神分析はそれについて考え続けているわけで・・・。うーん、いろんな気持ちになるが自分の立場を明確にしないことには前提の修正もできない。ふわふわと周りで何かいうことは簡単だが患者がいて自分がいてという状況が現実にあるのだから歴史の見直しと思考は続く。

今日もがんばろう。

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俳句 散歩 趣味

霜田あゆ美さんの個展。

朝焼け。昨日は夕暮れもきれいだった。オフィスにいると西の空は見えないのだけど高層マンションの窓に映る。紅葉もしてきた。きれいに色づいた大きな木から鳥たちがたくさん出てきて驚いたり、野良猫が急に横切ったり、いろんなところでいろんなことやものを目にしている。はずなのに俳句が作れない。

俳句日めくりカレンダーに載っていた秋の鳥の俳句。

鶺鴒や廊下の窓を拭く係 加藤かな文

海光に浮力のありて鳥渡る 今瀬剛一

うーん。なぜこういう言葉を思いつくのか。言われてみれば知らない言葉では全然ないのに俳句として成り立つ言葉選びができるのがすごい。先日名古屋で場所を変えぬ川鵜を3羽みた。その対岸や川中で白鷺がアクティブなのと対照的だった。どちらも季語としては夏だから今使うなら「冬の川鵜」とかにする必要があるのだろう。「月」は秋以外は「春」「夏」「冬」をつける。月といえば秋ってことで。私はどの季節も「鳥ー」「月ー」と毎日呟いているけど季節は全体として感じることが大切ね。

先日、句友のイラストレーター、霜田あゆ美さんの個展に行った。今年もあゆ美さんのカレンダーを入手できた。昨年はあゆ美さんが作るのが間に合わなかったとのことでたまたま出会えたあゆ美さんの師匠の安西水丸さんのカレンダーを飾っていた。毎回、とても素敵な作品ばかりで全部ほしい!と思うけどそれでは我が家やオフィスがギャラリーになってしまう。それ以前に買えない(労力を思えば安すぎる値段ではあると思う)。しかし、私のオフィスには一点だけあゆ美さんの作品があるのだ!なんとなんと。前回か前々回の個展ですっごく気に入って買わせてもらった。毎日見られる場所にお迎えできるなんてなんと幸せ。今回、これが素敵、これが好きと話していたらあみさんは変なのが好きと言われた。そうなのよ。あゆ美さんのイラストはとってもあたたかくてちょっと変なのが多いのよ。そこが大好き。今回は布を使った作品もあってそれもとってもよかった。生地であんな色が出せるのかあ、と思った。技術的には出せるのだろうけどあゆ美さんの使う色の組み合わせがすごいんだよね。とってもときめいた。表参道のそのギャラリーに行くのははじめてではなくて迷わずにいけたのだけど作品をみていい気持ちになっていたら帰りは迷ってしまった。あの辺は何もない方に出てしまったら逆へ行けば大抵どうにかなる、とわかってるけどこの方法は全然学びにはならない。なので私は毎回迷っている。行きは一生懸命地図とか見るけど帰りはいろんな素敵な作品で頭も心も満たされちゃってるからねえ。個展は今日まで。小さなギャラリーだけど見応え十分。幸せだったなあ。お時間あればぜひ。

さてさて今日もいきましょうかね。色々どうにかなりますように。

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お菓子 散歩

鎌倉

雲が多い。天気予報は晴れだけどこれからどこかへ消えていくのかな、雲。鳥たちはまだそばにこない。もう飛び去ったあとかもしれない。遠くでカラスがしきりに鳴いている。洗濯機が水を回している。

先日、鎌倉へ行った。藤沢まで通っていた時期もあり身近ではあるが相変わらずどこへ行っても記憶が曖昧だ。北鎌倉と鎌倉の違いもよくわかっていなかった。鎌倉駅へ降り立つとずいぶん変わった印象を受けた。前にこの辺で、など思い出話をしながら大混雑の鶴岡八幡宮前の信号を渡り一条恵観山荘へ向かった。道なりにまっすぐまっすぐ歩く。「岐れ路」は右へ。左手に杉本寺が見えたので立ち寄る。お寺にまっすぐ向かう階段は登れず迂回。苔がすごいせいかな、と思ったらそこは「苔の階段」という名前がつけられていた。石畳の苔が抹茶チョコレートみたいで写真をとった。受付の高齢の女性はまるで眠っているような姿勢のままゆっくり手を動かしていたがこちらがお金を渡したことを忘れてしまいみんなで少し焦った。すぐに転がっている新しい千円札を「あったあった」と見つけたが。降りてきたときには受付にはもう誰もいなかった。またまっすぐ歩く。すぐに報国寺へ。私が以前きたと思っていた場所とはずいぶん違う場所だった。美しい竹林は健在。受付は行列。枯山水をのぞむ宅間谷という谷戸に出ると気持ちのいい風が一気に通り抜けていって驚いた。どうしてあそこだけ、谷間だとこんなに変わるものなのかとびっくりした。石庭を眺めるベンチがあるせいもあるがたくさんの人がそこでくつろいでいた。日中は半袖でいられるくらい暑い日だった。一条恵観山荘にははじめていった。少し足を伸ばせば着く場所なのにどうしてこれまで行っていなかったのだろう。江戸時代の初期の建物でお花が美しい素敵な建物。後陽成天皇の第九皇子であり、摂政・関白を二度務めた一条恵観によって営まれたと書いてあった。皇族の茶屋とのこと。野趣あふれる庭をあえて作れる優雅さ。とても素敵だった。来た道を戻る頃には行列ができていたパン屋さんはもう落ち着いており、外のベンチでのんびりカフェしている人たちがみえた。やっぱり鎌倉はいいな。仕事にくる感じで来られる距離なのも恵まれている。

今朝は「やまなし上野原 あんどうなつ」。菓子処植松さんの人気商品。すぐに売り切れてしまうそう。熱いお茶といただきましょう。空の雲が薄くなりつつある。今日も無事に過ごしましょう。

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散歩 読書

幸田文展など。

鳥が鋭い声で鳴いている。朝焼けがまだ残っている。今日は晴れるのかもしれない。朝焼けが曇り色になることなく空全体に光が行き渡りつつある。そういえばこの前、空の色々な色をどう表現したらいいかと書いたが、実はいろんな色の表現があった。確かに聞かされれば文学作品の中にそれらは出てきていた。普段づかいの言葉にしていないとすぐに遠いものになる。

週末はあまり寒くなかったので仕事を追えサクサクっと出かけた。まずは本八幡。オフィスから一本。都営新宿線の終点。JRも通っている。本八幡は江戸川区の精神科病院に勤めていたときや市川のNPOで色々やっていた頃に何度か行った。久しぶりに降りた。本八幡駅から市川コルトンプラザと往復するシャトルバスへ。コルトンプラザもNPOの何かの行事で車で連れていってもらったことしかなかったので新鮮だった。自分で行くとどこかどこだか全くわからず苦手なGoogleマップを怖々使いながら目的地へ。西新井の看護学校にはじめて行ったときに早めに行って入ったショッピングモールで迷ってしまい早く行った意味が全くなかったことを思い出す。目的地はコルトンプラザお隣の市川市文学ミュージアム。幸田文展を見に行った。母も幸田文や青木玉を敬愛しており私にも買ってくれた。私は倉橋由美子、米原万里、幸田文、水村美苗、森茉莉とかが好き。なんだかんだ女ばかりだな。夏目漱石とかも研究対象にしたいくらい好きだったけど病跡学は私には向いていないと今は思う。フロイトみたいにヒステリーや強迫神経症や恐怖症を明らかにしたい、という強い意志と目的があればいいけど。それに今の時代はあまりいい受け取り手が育たなそう。多様な受け手はいるのだろうけど精神病理学。話し合える相手が多いって大事。精神分析は少ないながらいるからよかった。さてさて幸田文。はっきりしている女たちの文章ははっきりしているそういう態度が作られるまでの紆余曲折を見せてくれる。骨太になるにはいろんな経験を通りぬけ、いろんな人と関わってこそ。幸田露伴は早くに妻を亡くし後妻、児玉八代をとったけど不仲だった。文はまだ5歳、弟もまだ小さかった。露伴は家事の一切を知っていたらしく幸田文は露伴から家事から何から何まで教わったと書いた。この部分、露伴の美意識が面白いのだけど忘れてしまった。私は今読み直すなら文が60代、70代になってからの作品か。私は日本全国を旅するようになってから旅と自然災害がセットになっていて、それほどまでに日本には災害が多いということなのだが『木』『崩れ』は今の私にはとても響くものがある。そこが被災地と呼ばれていなくても山に登れば痛々しい痕跡を目にすることもしばしばだ。公害に苦しみ続ける街もある。この冬は屋久杉に会いに行こうと思ったがまた今度にした。夏はまた能登へ行く。今度は被害の多かった地域へ。もう何かの被害が重なることがありませんように、と願う。ただでさえ日々を重ねる心は感じやすくなっていたりもするだろう。幸田文が自然の摂理に仕方なしと思いつつ人間に期待し力むしかない自分になんともいえない、とまで書いて思ったが文はなんともいえないなんて言わずに木や崩れ、そしてそこで生活する人々に会いに行き書き続けた。感じ続けるために知り続けるために。これぞ関わりという気がする。私は今回幸田文の展示を見ながら被災地にこうやって関わる必要があると感じた。というよりこうやって関わればいいのか、という学びを得た。旅先にしていた土地に水害や地震があったとき、私たちはそこに観光客として出向いていいものか躊躇する。ある程度の時間が経てば観光地でもある被災地は観光客に来てほしいと願う。でも観光地は観光だけで成り立っているわけではない。ただでさえ見知らぬ土地のようになってしまった場所でよそ者の顔なんて見たくもないだろうなどと想像する。家の中の人と目があって昼間なのにカーテンがひかれた場面を思い出す。それでも私たちは自然の状態を知る必要があるのだろう。能登にもまもなく冬が来る。もう一年が経つ。関わり方を考えていこうと思う。

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散歩 音楽

お菓子、音楽、お昼

曇色。水色ともグレーともいいがたい。空以外だったらなにがこんな色をしているかな。柿を剥いた。大きい柿。スーパーの柿はもう種なしばかりだからつるんとしてる。種子があると動物の顔みたいでかわいいのにね。のにね、といってもない方がいいけど。ほんのちょっとだけ渋いところがあったけどほぼ甘くて美味しかった。今日は高倉屋珈琲でポイントが溜まったらもらえるクッキーをもらったのでそれも。「おいしいよー」と言われてコーヒーと一緒にもらったのだけどほんとおいしい。私の好きなサクサク具合。ポロポロするからお皿が必要なやつ。あ、また高倉屋って書いてる。正しくは高倉町珈琲店。失礼いたしました。私の行動範囲にもあるといいのに。

KNEECAPを聴き始めたらすぐに止まってしまった。何度も止まってしまう。Spotifyがおかしくなったのかな、と試しにサマラ・ジョイにしてみたら普通に聴ける。それはそれでおかしいな。またKNEECAPに戻る。今度は聴ける。うむ。全然違う感じの音楽にすれば何かが変わる、というわけではなかった。当たり前だ。当たり前?仕組みがよくわからない。もう止まらないでほしいな。パソコンの問題だったらもっと嫌だけど。KNEECAPのラップはアイルランド語がわからないけど、というか英語でも部分的にしかわからないけど、ずっと聴ける。色々して戻ってきたら終わっていた。どうして途中で突然席を立ってしまうのだろう。目的なく書くからか。音楽はLiam Gallagher John Squireになってる。これは今日の天気と逆をいく軽やかさ。またKNEECAPに戻る。今日はこっちの方がいいな。時々ずっとラップ聴いていたい感じになるんだよね。エミネムの『8 Mile』の頃、ちょうど身内がLAにいてUniversal Studios Hollywoodに行った。でっかいポスターがドーンと貼ってあった。私はエミネム大好きだったのでずっと眺めていた。でっかいからずっと眺められていた。映画に詳しくないけどすっごい楽しかったな。日本のも行ってみたい気もするけど混んでそうな場所は避けがちな近年。オフィスのお隣の新宿さえ西しか行かないし。西口は高層ビルと新宿中央公園が主だけど外でごはん食べられるスペースがたくさんなのは素敵。この時期は雨でなければ昼頃はお外にたくさんの人。ずっとオフィスにいるのも息が詰まるよね、多分。私もいろんな職場に勤めてきたけどお昼まで一緒にいる必要なくね?と思うことは何度もあった。なんでこんな狭いところでみんなで食べる必要があるのじゃ、家族とだってこの距離で食べないよ、という場所もあったし。慣習みたいになってる職場ってあるのよね。でも義務でもないしその時間はお給料出ない(雇われている間は全部時給生活だった)のになぜ、ということで私は色々街を探索しながらいいお天気の日は公園のベンチで食べてた。一緒が楽しい職場もあったけど。怒る人がいないときはみんなプチ料理したり。それぞれ自分が楽な形を日々模索する方が面倒な場合もあるか。確かに私もたいしておいしいと思っていないお店に惰性でいくことも多いものね。それはそれでそのお店のいいところってことになるし。

水村美苗の『大使とその妻』を少しずつ読んでる。どうしても「大使館」と打ってしまうな。今も間違えた。すごくよくてずっと読んでいたいのだけど時間がない。でもこのペースでいいのだ、これは。静かにゆっくり進む。今日も気持ち的には余裕をもっていけたらいいね。お風邪など召されませんように。

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散歩

秋、外ごはん

東京の日の出は5:55。まだまだ暗い。今日は曇のち雨みたい。朝焼け見られないかな。カラスが鳴いとる。みんな朝早いね。昨日の空はこれぞ秋空という感じでずっと眺めていられた。オフィスのそばの玉川上水旧水路のベンチも公園も人がいっぱい。ひとりで何か食べている人や三人でお弁当食べている人やはじめて会ったらしい犬にすっごく懐かれている人やその犬や「幸せねえ」と声をかけている飼い主さんやビニールシートから元気に立ち上がる子どもとか木陰でバイクを止めて何かしている人とか。犬にすごく懐かれていた方とお連れの方は民族衣装なのか全身オレンジで遠くからみたらオレンジの三角コーンとオレンジの金木犀が連なっていて素敵だった。はじめての相手にこんなにすりすりするものなのかぁ、かわいいなぁ、とグレーのモジャモジャの小さい犬に優しい視線と声かけをしているみなさんの会話を聞きつつ通り過ぎた。玉川上水もいつもいく新宿中央公園も西新宿のビル群も座るところが多くていい。外ごはんに最高の季節でしょう。今日は雨で無理かもしれないけど最近外ごはんしている人がとっても多くてなんか楽しい。気持ちいい空の下で色づきはじめた木々を眺め穏やかな雰囲気を感じながらのんびり食べられたら時間としては短くても心洗われる。私もこの前キッチンカーでアジアごはんを買って公園のベンチで食べた。少し離れたところでくつろいでいた人が雑草のお掃除をするからと移動をお願いされてて私もそのうち移動しないとかなと思い前もって近くのビルのベンチにできる場所へ移動。そこにも人がちらほら。ありんこが近くまできては何にもありつけずうろうろしていたおいしかったな、あのキッチンカー。8種類くらいから4種類選べるアジアンセットみたいなのにしたんだけどどれも美味しくて豪華だった。でも最近はキッチンカーも高いね。物価高いから仕方ないのだろうなあ。一人でやるのも大変だろうし。

昨日、隙間時間に書き物を少し進めたんだけど、ちょっと本を見返したらなんか全然違う理解が生じてしまって書き直すことになりそう。急に「ああ、こういうことが言いたかったのか」ってなることないですか。なんか急に別のまとまりが立ち上がってくる感じ。これが誤読じゃないとありがたいのだけど私の限界ってことでこれでいこう。もう新しい理解生じてこないでね。書き直す暇ないから。つらいよー。今日も長いぞ。がんばろう。どうぞよい一日を。

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散歩 精神分析

春、ジャズ?、ツバメ

ちょっと筋肉痛。クロネコやAmazonのおかげで旅支度が少し進んだ。なによりも友達のおかげだが。感謝感謝。しかし本来一番やらねばならなかった準備…ぐちぐち(まとめちゃおう)。ぐちぐちいうのもそこそこめんどくさいわね。

早朝に洗濯機をかけた。洗わねばならないものを入れ忘れた。別に今日洗わなくてもというものはいれた。なんなん自分。

昨日の昼間は半袖で動けた。新宿中央公園の桜が葉桜になりお隣の八重桜の濃いピンクがフットサルコートと空に映えた。新緑が眩しくて赤い三角コーンにハート柄のなにかがまかれていた。お花の時期は赤いコーンも悪くないけどおいてもおかなくても良さそうな場所のコーンはこのくらい目立たない方がいいかもね。ちっこい球根はすごい数のチューリップを咲かせいろんなツツジも満開に近かった。亀たちも誰が上に乗ろうと気にしない様子で重なり合ってのんびり。新宿でさくっと用事を済ませてまたオフィスに戻った。亀って重さとか乗っかられて煩わしいとかないのね。私は10キロくらいのデッドリフトは余裕だけど(多分)足ちょっと踏まれるとかでも嫌だな。どうなってるのかな、亀さんたち。たまにまじまじと見てみるのだけどただただのんびりしておられてかわいい。

公開されてたジャズのプレイリストを適当に選んで歩いた。耳に止まった音楽は曲名もプレイヤーもわからないままお気に入り登録した。夜になってまた耳に止まった。今度は画面を見てみた。同じ人の曲を昼間登録していたとわかった。緑のチェックがはいっていた。私はこの人が好きなのかもと思ってチェックしたらネイト・スミスという有名なドラマーの曲だった。知らなかった。これはジャズというよりなんていうの?ジャンルはわからないけど違うノリで聞いていた。かっこよくてアルバムもいくつかチェックして少し前のアルバムをお気に入りに登録した。電車でリズムを刻んだが変な動きだったかもしれない。

モッコウバラでいっぱいの壁を左手に眺めながら歩いていたら右手の狭い芝生に3種類くらいの鳥がいた。鳩とスズメとあの子は誰やろ。よく見かけるベーシックな鳥なのに忘れてしまった。ガーン。校庭で遊ぶ子どもたちみたいだった。色々いる。そういえばこの前ツバメをみた!木曽路でみたたくさんのツバメを思い出して一句作ったばかりだった。素敵だよねえ、ツバメ。昨日の朝、北海道の友人が送ってくれた春景色に映っていたマガモも陽射しですごくきれい色になってた。東京はそろそろ夏の日差しだね。春短かった気がする、と書いてみたけどそんなことないか。日々の寄り道で十分満喫した。今日も少し寄り道とか遠回りとかしちゃおう。どうぞお元気で。