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イベント 精神分析 趣味

ルイーズ・ブルジョワ展、共有

きれいな空。まだ濃い。熱い紅茶が美味しい。

六本木の森美術館でやっている「ルイーズ・ブルジョワ展:地獄から帰ってきたところ 言っとくけど、素晴らしかったわ」へ行った。もっとゆっくりみたかったがエネルギーも足りなかった。かなり疲れたがとてもよかった。27年ぶりの日本での展覧会ということだが、私はこの人の名前は知っていた。彼女が精神分析に長く通っていたので精神分析の文脈で。ジュリエット・ミッチェルが結構最近も取り上げてきた気がする。そしてメルツァーとの共著で有名なメグ・ハリス・ウィリアムズも彼女について書いている。ジュリエット・ミッチェルはフェミニストだとは思うけど、精神分析的にはラカン派でもなさそうだし、いまいち位置付けがよくわからない。メグ・ハリス・ウィリアムズはメルツァーと共著を書くくらいだからクライン的に作品を解釈するわけだけど、私は今回実際に作品をみて乳房とペニスの結合はこうやって表現できるのか、とすごくびっくりした。布と糸を使うのも彼女の人生にはずっとあったものなのだろうけど意識と無意識をそれらで表されるとものすごく新鮮でちょっと考えてみたいことが増えた。

昨日はネット上でもみんな谷川俊太郎の話をしていた。本当にたくさんの投影をうけている詩人なんだなぁ、と少しおかしかった。普段の人間関係で共有というと片方しかそれを喜んでいない場合もあるがあそこまで歴史も長く懐の深い音の世界だと誰もが密かに好きでいられる部分をもてるのもいい。おおざっぱな判断と解釈はみんながいっていることを自分の発見として自分だけが満足となる場合が多いけど特別なときだけではない感覚は共有できなくても全然いいが表面的ではないのでじんわり共有できる場合も多い。谷川俊太郎の詩のように押し付けがましくなくいきたい。あれこれ大変だが今日もがんばろう。

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俳句 散歩 趣味

霜田あゆ美さんの個展。

朝焼け。昨日は夕暮れもきれいだった。オフィスにいると西の空は見えないのだけど高層マンションの窓に映る。紅葉もしてきた。きれいに色づいた大きな木から鳥たちがたくさん出てきて驚いたり、野良猫が急に横切ったり、いろんなところでいろんなことやものを目にしている。はずなのに俳句が作れない。

俳句日めくりカレンダーに載っていた秋の鳥の俳句。

鶺鴒や廊下の窓を拭く係 加藤かな文

海光に浮力のありて鳥渡る 今瀬剛一

うーん。なぜこういう言葉を思いつくのか。言われてみれば知らない言葉では全然ないのに俳句として成り立つ言葉選びができるのがすごい。先日名古屋で場所を変えぬ川鵜を3羽みた。その対岸や川中で白鷺がアクティブなのと対照的だった。どちらも季語としては夏だから今使うなら「冬の川鵜」とかにする必要があるのだろう。「月」は秋以外は「春」「夏」「冬」をつける。月といえば秋ってことで。私はどの季節も「鳥ー」「月ー」と毎日呟いているけど季節は全体として感じることが大切ね。

先日、句友のイラストレーター、霜田あゆ美さんの個展に行った。今年もあゆ美さんのカレンダーを入手できた。昨年はあゆ美さんが作るのが間に合わなかったとのことでたまたま出会えたあゆ美さんの師匠の安西水丸さんのカレンダーを飾っていた。毎回、とても素敵な作品ばかりで全部ほしい!と思うけどそれでは我が家やオフィスがギャラリーになってしまう。それ以前に買えない(労力を思えば安すぎる値段ではあると思う)。しかし、私のオフィスには一点だけあゆ美さんの作品があるのだ!なんとなんと。前回か前々回の個展ですっごく気に入って買わせてもらった。毎日見られる場所にお迎えできるなんてなんと幸せ。今回、これが素敵、これが好きと話していたらあみさんは変なのが好きと言われた。そうなのよ。あゆ美さんのイラストはとってもあたたかくてちょっと変なのが多いのよ。そこが大好き。今回は布を使った作品もあってそれもとってもよかった。生地であんな色が出せるのかあ、と思った。技術的には出せるのだろうけどあゆ美さんの使う色の組み合わせがすごいんだよね。とってもときめいた。表参道のそのギャラリーに行くのははじめてではなくて迷わずにいけたのだけど作品をみていい気持ちになっていたら帰りは迷ってしまった。あの辺は何もない方に出てしまったら逆へ行けば大抵どうにかなる、とわかってるけどこの方法は全然学びにはならない。なので私は毎回迷っている。行きは一生懸命地図とか見るけど帰りはいろんな素敵な作品で頭も心も満たされちゃってるからねえ。個展は今日まで。小さなギャラリーだけど見応え十分。幸せだったなあ。お時間あればぜひ。

さてさて今日もいきましょうかね。色々どうにかなりますように。

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趣味

富永京子さんポッドキャスト

姫栗もなか。上手に割れず。クシャッとなってしまった。緑茶が美味しい。

昨晩も富永京子さんのポッドキャスト『仕事の合間』を聴きながら帰った。富永さん、本当に話すのが上手。おもし論文といって興味深い論文の紹介もしてくれるのだけどその説明もものすごい上手。上手という言葉にしてしまうと簡単なんだけどなんていうのかな、専門的な分野のこともこっちが全く興味を持ったことのないことも同じような楽しさの話にすっと変換しながら話してくれてるというか、疲れた帰り道でぼんやり聞いてるだけなのに耳はきちんと興味を持ててしまっている、というか社会運動の研究者は本当にいろんな人の声に耳を傾けているだろうからそもそも聞き手のことをよくよくわかっている人なのかもしれないねえ。元々そういう能力の高い人なのかもしれないし。そうそう、富永さんはいろんな人と美味しそうなアフタヌーンティーをしててすごく楽しそうなのだけど研究者同士とか狭い範囲の人と話すことが多いんだって。そこで話されている研究者同士の話の再現も「ほー」と思うのだけど、それ以外の人とのいわゆる雑談をものすごく新鮮に楽しんでいる富永さんの話も面白かったよ。私なんて仕事以外は雑談しかしていないから逆にそんなことがそんなふうに楽しいのか!と思ったり。またね、その紹介する話題も絶妙で、しょっちゅうそんな話してる人たちなら尚更ノれる話題だったりね。自分の言葉で喋っている人の話ってすっと入ってくるからいいのかもねえ。なんか好きなもののこと書いてると気持ちが和んでくるね。いいことだ。

とかいって逃避している場合か。場合じゃない。なんか頭がおかしいんだもん。だもんじゃない。はい。がんばりましょう、できる範囲で。

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趣味

12月30日(土)朝

暗い。気持ちも暗いというかひどい人が平然とフェミニストに味方、というかなんていうのそういうの、偉そうに評価、というの?あなたはそこから何も学べていないけど読み物としては知的に興奮したわけですね、ヴァージニア・ウルフも媚びるためのグッズではなくて人なんですよ、あなたみたいな心性に傷つけられた一人の、と思う。与えることと搾取することを同時にやっている人は与えることが免罪符になりがち。あなたをいつも支持してくれるそのフェミストが書いているのはあなたみたいな人の振る舞いですけどね、と変化しない背景にある構造にうんざりする。こんなでは告発以外に道がなくなるのも当たり前。結局エネルギーを使うのはやられた側。おかしいだろう。とムカついたりしていて何も進められなかった。

昨晩、外で人が騒ぐのが聞こえた。怒鳴り声ではなく楽しそうだったからいいけど。今もまた。まさか昨晩と同じ人たちではないと思うけど酔っ払いだな、このテンションは。忘年会だったのかな。

気になったお店に入ったらカレー屋さんだった。女性ひとりでやっている店だった。私はそういう店にひきつけられるらしい。もう11年だという。もともとこの土地の人ではないが子育てをしながら定住したらしい。小さな小さな店なのに話から推察するにかなりのやり手だ。近所の人にも親しまれているらしく適度な繋がりも感じさせられた。若い人が友達の結婚に関してあれこれ話す仕方もビッグママへの報告という感じだった。なんとなく一緒に笑い合ったりして昔からの知り合い気分になった。カレーもメニューにある写真通りに美しくおいしかった。

今日は移動が多い。みんないい一日になりますように。

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散歩 趣味

小島善太郎記念館とか。

オフィスから少し足を伸ばしていけるとしたら、って突然なんの話かといえば梅園の話。私のオフィスは京王新線の初台駅が最寄りだから百草園とか(駅も「百草園」)小田急線の参宮橋も10分くらいで行けるので梅ヶ丘駅の羽根木公園とかがお勧めかな。百草園は急坂をゆくので運動不足の人はこちらへ。百草園の少し先、えー、せっかく登ったのにまた下るの、という感じで降っていくと小島善太郎記念館というのがあってそこは今次女(昭和2年生まれ)の方が館長をされてて皆さん大変丁寧に説明をしてくださいます。おばあちゃんのうちへ遊びにいっていろんないいもの見せてもらいながら思い出話を聞くみたいな時間を過ごせますよ。百草園方面に戻るにはさっき下った坂をまた登らないとだけど。山道よりアスファルトの坂の方がきついけどがんばって!駅から少し歩くけどモグサファーム直営のジェラートのお店もいってみて。街道だから歩きやすいし辿り着いていただくジェラートは特に美味しいから。でも食べる場所は外のベンチだから晴れている日がいいんじゃないかな。今日とかよさそう。いいなあ。私も行きたい。

さっき書いた小島善太郎は洋画家で多摩の方の絵をたくさん書いているのだけど記念館には私が実家から眺め慣れていた妙義山の絵も数枚あってそうそうこの雰囲気と思った。八王子市夢美術館もおすすめされたからいってみたいなあ。

論文の精読とかして頭が働かないから、というか、これをもとに話し合うのにすでに力尽きているってどういうこと?こういうこと。素敵な景色と美味しいもので楽しくのんびりしたい。あ、でも今日じゃないけど楽しみな予定をひとつ思い出した。あーあ、とため息つきつつやるしかないね。みんなはどうするのかな。それぞれの日曜日、良いことありますように。

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『諏訪敦 眼窩裏の火事』@府中市美術館へ行った。

保育園の仕事と精神分析の訓練(主に分析とSV)が休みに入り時間ができたので諏訪敦 眼窩裏の火事』Fire in the Medial Orbito-Frontal Cortexへ行ってきた。場所は府中市美術館。府中駅から30分毎に出るちゅうバスを利用した。

予備知識もなく行ったが息を呑んだ。人間の死というより死にゆくという動きが淡々と着実に進行していく様子が本当に写真と絵画の間を揺らぐように描かれていた。これは絵画なのだけど。写真であり映像でもあるように感じた。

第3章「わたしたちはふたたびであう」と名付けられた部屋に展示されたシリア内戦を取材中に銃撃され亡くなったジャーナリストの山本美香の肖像画には強く惹かれた。彼女が亡くなった後に描かれたこと、その隣に並ぶパートナーの佐藤和孝の肖像画を見た後だったこと、彼らの情報は後から作品リストに書かれた説明を見て知ったのだが強烈な印象を残した理由はその中にあるように思う。

大野一雄を舞う姿を描いた作品の前で同じポーズをとろうとするキャップにジーンズの中年男性がいたが同じような感触だったと思う。私の腕も自然に持ち上がったから。

それなりに来館者はいたが各部屋でひとりきりになるような時間もありじっと佇みながら時間をかけて回ることができた。

常設展も充実していた。

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写真 言葉 趣味

映画、写真、まなざし

今朝は南側の大きな窓の間近、いつもより近くで鳥たちが鳴いて飛び去った気がした。今はだいぶバラけた個別の声が聞こえるだけ。

ケイコ 目を澄ませて』の友達同士のおしゃべりのシーン、本当に素晴らしかったなぁ。言葉を話すとはこういうことかとその手話の美しさに圧倒された。

いつまでも子供でいたいあの人の言葉にもっとも欠けていると感じた自然な「流れ」。

上原沙也加のニコンサロン(新宿)での個展「眠る木」にも連日行ってしまった。そこに写されていないものを写せる写真家なんだなあと涙が出た。「写真集、届いたら楽しんでくださいね」「楽しみます。とても楽しみ」と話した。

自分に意地悪な人は理論武装してもいくら愛想よく気遣いに溢れた振る舞いができても意地悪がこぼれでてしまう。それに気づいたり傷ついたりしてしまう人は亡き者に。攻撃的で衝動的な自分が嫌で仕方ないから他人を使う。自分を保つ。写真には写らない。けど写ってる。誰もが歴史と場所に痕跡を残してる。いずれ誰かに、と。

残酷な現実があるから成立するまなざし。それを単純化しないことが大切な気がしている。普段はごく普通の思いやりで、何かを指弾するならできる限り冷静に正確に。他者とは利用や馴れ合いではない協力を。孤独で冷徹な自分を十分に感じつつ。

あー。寒くて動きたくないけど仕事行かねば。みなさんもお身体お大事にお過ごしくださいね。

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短詩 趣味

短詩とか編みメーションとか。

眠い、寒い、しか言わなくなる季節がやってきました。そして今日締切のこれらもどうしましょう。というか(といって目を逸らしちゃだめ)「寒い」だけがこの季節特有ですね(逸れた)。「眠い」は俳句の季語で考えれば春ですものね。「春なのに」があれば「冬なのに」もあると。お別れも季節問わずありますし。中島みゆきの曲のことです。「春なのにーお別れですーかー♪」なんか♪マーク書くとご機嫌な曲みたいだけど多分まだ東京が遠かった頃の切ない歌です。

昨日は歌人の絹川柊佳さんがネットプリントで出されていた短歌6首を何度も声に出して読みました。恋することと死ぬことみたいなお互いに内包し合う分かち難い感覚の配分が絶妙でした。高校生や大学生にご親戚がいる方はぜひ絹川さんの歌集『短歌になりたい』(短歌研究社)を贈ってあげてください。その時期ならではのモヤモヤや不安や痛みが幅広い素材と共にどこかあっけらかんと歌われています。毎日死にたいと言いながらなんだかんだ生きている大人の私たちにもよいかもしれません。

絹川さんのことを教えてくれたのは、今年8月に心理士(師)対象のイベント講師にいらしてくださった川柳人の暮田真名さんです。同期でおられるのだったか、絹川さんの才能に驚嘆したとおっしゃって勧めてくださいました。

暮田真名さんはますますご活躍の場を広げておられるようでお話ししていると親のような気持ちになる世代の私もなんだか嬉しいです。先日は絹川さんのネットプリントと一緒に、暮田さんと俳人の斎藤志歩さん、歌人の榊原紘さんの短詩集団による「砕氷船」も入手してきました。斉藤志歩さんの第一句集『水と茶』(左右社)が刊行されたので「斉藤さんおめでとう号」でした。ほんと才能もすごいけど楽しいみなさんで短詩の未来は明るそうです。

編みメーション作家のやたみほさんの作品と共に写真を載せておきます。やたさんとイロキリエ作家の松本奈緒美さんの2人展が11月いっぱい神保町にある子供の本専門店ブックハウスカフェで開催されていたのですがそれについてはもう書きましたっけ。忘れてしまいましたが小さなスペースにとっても緻密でかわいい世界が広がっていてうわぁとなりました。松本さんのきれいな小鳥さんをお引き取りにあがらねば。オフィスにお迎えするのです。ブックハウスカフェはカフェもゆったりしているので絵本好きの方には特にお勧めです。

はあ、それにしても寒いですねえ。東京はこれから晴れるみたいです。どうぞお元気でお過ごしくださいね。

絹川柊佳,「砕氷船」,やたみほ
イロキリエ作家,松本奈緒美
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趣味

とりあえず

今回は投句しないことにした。いつもは「投句することに意義がある」と大慌てで作った10句を速達で送っていたけれど。

と書き出してみたけれど保育園にいかなければ。そこにいけばどうにかなる。「きちゃえば全然元気なんです」登校しぶりの子どもの状態か。私は学校にもいかずバイトばかりしていたし「きちゃえば元気」な子どもの状態はわかるようでわからない。

とりあえず動かねば。

(何時間たったかな)

とりあえず動くことに成功し、いってしまえば仕事きっちり(したと思う。子どもたちかわいい。先生方がんばっておられる。)、今日は昼間に時間をとりやすい月曜日ではないかと神保町へ。

目的は大学時代からの友人のやたみほさんとイロキリエ作家の松本奈緒美さんの2人展「アミエとキリエ」。場所は神保町の大きめの通りに面したブックハウスカフェ。子どもの本の専門店、ということでぐるっと見わたすだけでも楽しい気持ちになりました。小さなギャラリー的スペースもいちいち魅力的。今度じっくりめぐりたい。突然の訪問にも関わらずやたさんもちょうどカフェにいらして近況報告。この前、時間があいたときに「今ならいける!」といつもと違う電車に乗ったはいいが神谷町と間違っており結局いけなかった。でもそのときはやたさんもこられない日だったからラッキー。同じくやた作品ファンの店長さんもいらしてお話できました。イロキリエ作家、松本奈緒美さんの作品(特に鳥!)もとても素敵でみんな連れて帰りたいと思ったのですがすでに売約済の赤いシールが。でも私もお気に入りの鳥さんと出会えました。展示の期間が終わったらお引き取りするの。楽しみです。大きな本屋さんのとても小さなスペースに手作りのぬくもりというか、超絶不器用の私には信じがたい技術と労力があふれていてほんとすごいと改めて思いました。超絶器用といえばやたさん、松本さんはもちろん、山本貴光さんや國分功一郎さんが紹介している『Dr.STONE』(原作:稲垣理一郎、作画:Boichi)を思い出しますね。最近読み始めました。久しぶりに漫画を読むのと老眼が進んでいて読みづらいなと思っていたのですが、とても面白い。山本さんは『世界を変えた書物』(著:山本貴光 編:橋本麻里)の紀伊國屋書店新宿本店限定特典のリーフレットのなかで「もしもその科学の知識や技術がなかったら・・・・・・」というところでこの漫画に触れておられます。このリーフレット自体もとてもおすすめ。「思いやりってなに?」という方にもぜひ手に入れていただきたい。山本さんの文章自体にそれを感じられると思う。國分さんの最近のお仕事『スピノザ 読む人の肖像』『國分功一郎の哲学研究室』にも丁寧に地道に長く関わっていくことの価値を教えてもらっているしみなさんに感謝。「とりあえず」の毎日でもなんとかね、と思えますように。この後もがんばりましょう。

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俳句 映画 趣味

居酒屋。映画『冬の旅』。

「はい、南蛮」カウンター越しにあまりに自然に渡されたのでつい受け取ってしまった。「南蛮、ここじゃないと思う」というと「すいませーん」とホール係の女性がすぐに受け取りにきてくれた。耳が遠くなったなと感じていた。彼は間違いを正す方だった。常連客との雑談が増え目つきの鋭さがなくなってきたように感じていた。心配なんだ。安くておいしくて通い続けてる。コロナの間はテイクアウト用のおばんざいセットを出していた。これも店で楽しめる以上に多彩なおばんざいばかりで真似して作るのも楽しかった。ビニール袋には入らない大きな正方形の箱を平に持たなければならないので風呂敷に包んでくれていた。店が再開してから再び通うようになった。大体決まった曜日に行くがいつもいつも会う人は特にいない。でも大体の常連には会っていると思う。何度も目だけ合わせて話したことのない人も若い頃から通っているらしきお酒大好きな人もみんなひとり。「ありがとうございました」包丁を握りながらクリッとしたつぶらな瞳でしっかりこちらをみて送り出してくれた。長生きしてくださいね。店長の息子たちもそれぞれに店を出して味を受け継ぐ人はいるし彼らの店も大好きだけど私はこの小さな居酒屋が一番好き。まだまだお願いいたします。

今日は七十二候でいう「地始凍(ちはじめてこおる)」。小春日和に安心しつつ少しずつ大地も冬支度。

凍てつく大地で若い女性が死んだ。とてもかわいい寝顔と同じ死顔で。

アニエス・ヴァルダ「冬の旅」の話。楽がしたい、自由に生きたい、それが何を意味するかなんてどうでもいいのだろう。他人がそれをなんと言おうとそれが求めうるものである限り彼女は歩き続ける。ヒッチハイクで移動しては薄っぺらいテントで眠る。大きなリュックと臭気に塗れながら。汚い女と言われながらも出会う人たちを魅了し水や食糧、仕事と居場所をえる彼女の求め方は最低限のそれで相手のケアや憧れを引き出すのはすでに大人になった彼らが失ったあるいは得られなかったものを彼女に見出すかららしい。一方、彼女の在り方そのものが喪失の結果のようにも見え、これ以上の喪失を拒むもののように感じられた。それゆえ彼女は繋がりとどまることに対して受け身でしかいられない。彼女が追い出される場面で放った言葉がまさに今の私が使いたかった言葉で心に残ったのだが記憶に残っていない。まさにそう言ってやりたい、そんな言葉だったが言う機会も同時に失っているので思い出す必要もない。彼女の怒りが突発的に表現される場面には少し安心した。彼女の名前のイニシャルが貼り付けられた肩掛けバッグのスクールガールっぽさがその年齢の危うさに対するこちらの親心を掻き立てたのかもしれない。私もまたすでに失っている側のひとりで彼女のような頑固さや意地や必ず再び歩き出す力は持っていない。彼女に対する無力は今は世界に対するそれのような気もするが、凍てつく大地で寒くて眠れずママと口にする、もしくは倒れたまま死んでいくような厳しい環境にもない。

もう行かねば。放浪ではない日常をなんとか今日も。

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『貴婦人の来訪』を見ての連想

細身の背の高い若い男性が子供の笑顔のまま踊るように大きく回った。同時にやはり華奢で背の高い無邪気そうな若い女性が嬉しそうに大きくスカートを翻した。さらに地べたに座りこんでいた芸術家が描いていた垂れ幕がパタパタパタと波打った。電車が通り過ぎたのだ。この貧しい街の駅には決して停まることのない特急が。もちろん舞台に電車はやってこない。音と光と彼らの動きが特急が通り過ぎたことをvividに表現していた。人間の身体はすごい。

やや冗長で噛み合わないはじまりをみせた舞台は主演の登場を得てこれから起こる不穏な出来事へと緊張感を増していく。誰も止めていない。しかし視線に囲まれている。自分が動けば引き止められる。自分はここから逃れることはできない。目の前にようやく止まった各駅停車に乗り込むことがどうしてもできない。混乱し絶望に支配されていく様子を相島一之が巧みに演じていた。

大学生の頃、重度の自閉症の青年たちが暮らす施設へ出かけて週末を共に過ごしていた。ある男性は次の一歩を踏み出すまでに何十分もかかった。彼らは大きな声を出したり楽しそうな音を出しながら笑うことはあっても言葉はでなかった。突然顔を近づけてきて手をひらひらさせながら何度も私にぶつかりそうになるくらいの距離まで頭を前後に揺らす間、彼は私をじっと見ていたけれどそれは私を通り抜けて背後に向かうような視線で私に何かを見出そうとする目ではなかった。数年間、彼らと時間を共にし、さまざまな場所に出かける中で私は彼らと随分馴染んでいた。彼らには彼らのペースと決まりがあった。それらは私たちにも多かれ少なかれあるけれど。私はいつも通り静かにそばにいて、彼は大きな身体を小さく何十回か前後に揺らしたあと一歩を踏み出し一緒にお散歩に出かけた。音、光、場所、差異に敏感な彼らにとってこの世界はとても住みにくいだろう。元気だろうか。私たちは同年代だったから彼らももうおじさんだ(男性ばかりだった)。ご家族はご健在だろうか。みなさん、元気でいてほしい。

どうしても電車に乗り込むことができない。誰も引き止めてなどいないのに。そこに視線があるだけで。カフカだ、と思った。この戯曲はスイスの劇作家、フリードリッヒ・デュレンマットの『貴婦人の来訪』であってカフカの『掟の門』ではない。これは人間が持つ普遍的な心性なのだろう。苦しい。あなたをそこに押しとどめ、進むこともひくこともできないままそこで死ぬように仕向けているのは一体誰なのだろう。

そういえば、昨年8月、最終回を迎えた吉川浩満さんのscripta (紀伊国屋書店、電子版あり)での連載『哲学の門前』がこの8月、単行本になって登場するそうだ。日常的に「掟の門」性と付き合い続け思索を重ねてきた著者がひとりのモデルとしてその付き合い方の断片を見せてくれたこの連載がさらに多くの読者を得てそれぞれが門前で死ぬことなく生きるすべを見いだせたらいいと思う。どうにかして生き残ろう、みんなで。

デュレンマットの戯曲における主人公は「逃げろ」と言われてもそうすることができなかった。誰も引き止めていないのに、身体的には。私たちを捉えるのは実際の腕だけではない。言葉、過去、思い込み、誰かを思う気持ち、あらゆる出来事から私たちは自由ではない。街の住民の貧困は彼の命と引き換えに救済された。しかしそれは果たして生きている、豊かになったといえるだろうか。

たくさんの人がでてくるこの舞台、どの人物の造形も見事だった。殺人がサイコパスによってではなく葛藤できるはずのひとりひとりの個人の集団心性に基づく狂気によって行われるとき、それは決して他人事ではないという気持ちにさせられる。私は終始、共感ゆえに舞台上の人物たちに嫌悪感を感じていた。愛が裏切られたゆえに苦しみ続け富の力で復讐を実行しようとする今や老齢の女性を演じた秋山菜津子はいつものことだが素晴らしかった。悲しみ、切なさ、かつて愛した男の棺を慈しむように抱く姿には心揺さぶられた。後半は終始涙ぐんでいた。

制作に知り合いがいる、しかもオフィスからお財布ひとつで仕事の合間に行けるという理由でいったので後から知ったのだが『貴婦人の来訪』は「新国立劇場 演劇 2021 / 2022シーズン」のシリーズ「声 議論, 正論, 極論, 批判, 対話…の物語」のひとつとして上演されたものだった。それに関する対談記事も観劇のあとに読んだ。

「正論」、患者からもよく聞く言葉だ。それって何、だから何、「正しさ」って何?私たちがもっとも囚われやすいそれに今日も私自身、惑わされるだろう。私が感じていること、考えていること、伝えたいこと、どれもこれも間違っているのではないだろうか、こんなことを言ったら嫌われてしまうのではないだろうか、たとえそれが「正論」でもそれは防衛であり攻撃である可能性を含むだろう、だから怖い。伝えればまた心閉ざされてしまうかもしれない。触れ得ない関係になるかもしれない。

コーヒーをこぼしてしまった。ほとんど飲み終わっていたが私は数cm分飲み残してしまう癖がある。PCはスタンドに立てていたので濡れたのはテーブルだけで済んだ。よかった。早速心が揺れたのだろう。すぐにこんなになってしまうのだから困ったものだ。少し敏感になっているのかもしれない。不安が強まっているのかもしれない。気をつけて過ごそう。すぐに忘れてしまうだろうけど。これまでもこれでやってきたのだからなんとかなるだろうとも思う。

こぼしたせいかコーヒーのいい香りが再び広がっている。なんだかなぁ・・・。今日からまた新しい一週間だ。週末の様子は月曜日の様子でわかると保育士の先生たちが言っていた。家族と過ごした時間が小さな彼らにとってどんなものだったか思いを馳せながらいつも通りの保育をする先生方を思い浮かべる。私もなんとかいつも通りやれたらいい。みんなもなんとかそれぞれのペースで、あまり掟や決まりにこだわらず縛られず過ごせたら。大きな地震があった地域の方もどうぞお気をつけて。