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とりあえず

今回は投句しないことにした。いつもは「投句することに意義がある」と大慌てで作った10句を速達で送っていたけれど。

と書き出してみたけれど保育園にいかなければ。そこにいけばどうにかなる。「きちゃえば全然元気なんです」登校しぶりの子どもの状態か。私は学校にもいかずバイトばかりしていたし「きちゃえば元気」な子どもの状態はわかるようでわからない。

とりあえず動かねば。

(何時間たったかな)

とりあえず動くことに成功し、いってしまえば仕事きっちり(したと思う。子どもたちかわいい。先生方がんばっておられる。)、今日は昼間に時間をとりやすい月曜日ではないかと神保町へ。

目的は大学時代からの友人のやたみほさんとイロキリエ作家の松本奈緒美さんの2人展「アミエとキリエ」。場所は神保町の大きめの通りに面したブックハウスカフェ。子どもの本の専門店、ということでぐるっと見わたすだけでも楽しい気持ちになりました。小さなギャラリー的スペースもいちいち魅力的。今度じっくりめぐりたい。突然の訪問にも関わらずやたさんもちょうどカフェにいらして近況報告。この前、時間があいたときに「今ならいける!」といつもと違う電車に乗ったはいいが神谷町と間違っており結局いけなかった。でもそのときはやたさんもこられない日だったからラッキー。同じくやた作品ファンの店長さんもいらしてお話できました。イロキリエ作家、松本奈緒美さんの作品(特に鳥!)もとても素敵でみんな連れて帰りたいと思ったのですがすでに売約済の赤いシールが。でも私もお気に入りの鳥さんと出会えました。展示の期間が終わったらお引き取りするの。楽しみです。大きな本屋さんのとても小さなスペースに手作りのぬくもりというか、超絶不器用の私には信じがたい技術と労力があふれていてほんとすごいと改めて思いました。超絶器用といえばやたさん、松本さんはもちろん、山本貴光さんや國分功一郎さんが紹介している『Dr.STONE』(原作:稲垣理一郎、作画:Boichi)を思い出しますね。最近読み始めました。久しぶりに漫画を読むのと老眼が進んでいて読みづらいなと思っていたのですが、とても面白い。山本さんは『世界を変えた書物』(著:山本貴光 編:橋本麻里)の紀伊國屋書店新宿本店限定特典のリーフレットのなかで「もしもその科学の知識や技術がなかったら・・・・・・」というところでこの漫画に触れておられます。このリーフレット自体もとてもおすすめ。「思いやりってなに?」という方にもぜひ手に入れていただきたい。山本さんの文章自体にそれを感じられると思う。國分さんの最近のお仕事『スピノザ 読む人の肖像』『國分功一郎の哲学研究室』にも丁寧に地道に長く関わっていくことの価値を教えてもらっているしみなさんに感謝。「とりあえず」の毎日でもなんとかね、と思えますように。この後もがんばりましょう。

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読書

門前で遊ぶ

この時間も静か。蝉はみんな粉々になってしまったのだろうか、なんらかの形で。命の長さなど気にもせず。夏休みもおわる。いっぱい遊びましたか?

今朝は東海道散歩土産、豊橋の名舗、御菓子司「若松園本店」の「ゆたかおこし」をいただいた。コーヒーと。最近は和菓子もコーヒーといただくのって普通になってきた気がする。昨日はあんみつを頼んだから緑茶がついてきてそれはそれでそっちの方がピッタリという気もしたけど。ずっと同じ文化にいたのはそっちだもんね。「ゆたかおこし」は数年前の朝ドラ「エール」で主人公が美味しそうに食べていたことでも知られる、とあるけどそんな場面もあったかな。甘さも乾き具合もお茶請けと呼ばれるにふさわしい感じがする。朝はこっちもカラカラ身体だからな。「エール」もずっと見ていたわけではないけど主役の二人が美しく瑞々しくとぼけた感じもあって素敵だった。豊橋かあ。通り過ぎたことしかない。

それにしても静かだ。今日もゴロゴロしながらあれこれ考えてたからすでにこんなことしている場合か、という感じなんだけどざっと書こう。私はざっと書くけど紹介する本はどれもとても丁寧に書かれているのでじっくり読もう。

昨年の読書会で『理不尽な進化 増補新版 ー遺伝子と運のあいだ』を取り上げ、著者の吉川浩満さんにもオンラインでご参加いただいた。その吉川さんの随筆集『哲学の門前』が昨日発売された。緑の文字、かわいいフォントで書名と著者名が記号的な門の周りに配置されているおしゃれな表紙。この本のもとになったのは、紀伊國屋書店発行、豪華執筆陣によるフリーペーパー『scripta』での連載だが、この連載は昨年の読書会の前に私がTwitterでめちゃめちゃ推したものだ。著者の姿勢を紹介するのにもっとも適切だと思ったから。その連載を大幅に加筆修正したのが今回の単行本。

昨年、読書会に参加してくださったみなさんは私も含め進化論の素人ばかり(フロイトの思想に大きな影響を与えたそれに対して精神分析をやっている私たちが全くの素人ではちょっといけない)で『理不尽な進化』によってようやく「このお寺ってここにあったんだ」という感じでその門前に立たせてもらった。今回、その門前で遊ぶのは「哲学」。

「知的な活動には遊びが必要であり、だからこそ友人が必要でもある」234頁

本は友だち。吉川さんのこれまでのご著書や対談など多彩なご活動に触れたことがない読者にとっては捉えどころのない不思議な本と感じるかもしれない。最初からいつも通り平易な文章でこれは「入門書」とはちがうということを書いてくれているが「門前書」を知らない私たちが思い浮かべるのはやはり「入門書」だと思うし、「「哲学」はどこ?」となってしまいそうな気もする。哲学者はそれっぽい感じでは登場しない本だし。

でも大丈夫。吉川さんはご自身の生活をいろんな風に切り取ってそこで感じたあれこれをあーでもないこーでもないと内省する。月日は過ぎていく。私たち読者はそれらの出来事を共有しているうちにもやもやといろんな気持ちになっていく。つまり哲学的状況が生じてくる。もちろんそれにどう取り組むかは自由だ。それは門前でこそ迷える自由でもある。

繰り返す。

「知的な活動には遊びが必要であり、だからこそ友人が必要でもある」

この本は出逢いに溢れている。自分はこんなに人に恵まれてこなかったから、という方も大丈夫(二度目)。私たちは日々誰かしらに出会っている。仲良くすることを出会いと呼ぶのではない。出会う相手は人だけとは限らない。誰かが存在する世界で何かに出会う。生活というのはその連続で、そこで私たちはすぐに忘れてしまうような小さなことから今すぐに解決を迫られるような切迫感のある事柄にまで出会い続けている。その状況自体が遊びの場であり学びの場、哲学の場になりうる。どんなにさっぱりと切り替えの良い人でも立ち止まったり躓いたり道に迷ったりすることはある。「そんなときどうしたらいいの?」「みんなはどうしてるの?」と聞きたくなることもあるだろう。「みんな」のことはわからない。「それぞれ」だから。この本はその「それぞれ」のひとりとして良い先輩、良き友の役割を果たしてくれる。

6章「友だち」ではきちんと(?)ドゥルーズとガタリも登場する。吉川さんと「哲学の劇場」を主宰する山本貴光さんが大学時代から今に至るまでの関係をお互いに説明しあってくれるこの章は長年のファンにとっても楽しく読めると思うし、新しい読者の方にも「へー、こういう関係もあるんだなあ」と新鮮に読めると思う。超個人的には「私、この名前でよかった」と思った。

今日もそれぞれに哲学的状況が生じるでしょう。それをそれと思わずともそれぞれの感じや気持ちや言葉や行動が大切にされますように。

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精神分析、本

わからないから

8月14日のイベントにお招きする川柳作家の暮田真名さん、言葉といえば私的にはこの人たちである飯間浩明さん、川添愛さん、山本貴光さんの鼎談を目当てに『ユリイカ』2022年8月号(青土社)を買った。最初に読んだのは鈴木涼美「ギャル的批判能力は時代おくれなのか」、あと山本ぽてと「語尾とうしろめたさ」。お目当てから先に読むとは限らないのさ。この二人のも注目していたけれど。

鈴木涼美さんが「一億総ライター的なSNS社会」と書いている。確かに。でもSNSにいるのはほんの一部の人たちでもある。実際、私の周りはSNSのアカウントを持っていてもほとんど使っていないし、臨床心理士資格認定協会に対する働きかけを行う(返事はまだない)時にもそれを思い知らされた。今再び話題になっている宗教や宗教二世のこともSNSによってこれだけ公にされる時代になったことは驚きだが、臨床で地道にそれらと関わってきた身としてはそこで公にされることの意味や影響については日々考えさせられる。報道されることもそれはその人のあるいはその出来事の一面である可能性については当たり前と思っている。事件は一人では起こせないのだ。そして自分がそこにどのような形で関わっているか、いないかなは誰にもわからないのだ。もしかしたら自分のつぶやいた一言がなんらかの影響を与えていたらとか考えたらきりなく物事は繋がっていくがそれはあり得ないことでは決してないだろう。

社会運動の研究家の富永京子さんがSNSでのたやすい共感についてツイートしていたが確かにSNSにはなにも知らないのに口調だけみたら(SNSは視覚的だね)親しい間柄みたいなのもたくさんある。

千歳烏山の小さなアパートに住んでいた頃、夜男性の声で電話があった。寝ぼけていた私は誰だっけと思いながら知っている人と思って適当に返事をしていた。相手がそういう口調だったから。そのうちに相手が適当なお世辞を言って「ごめんね」と電話を切った。あれはなんだったんだろう。SNSで生じていることもそんなに変わらないだろう。そういうことがもっと簡単に、人から見える場で行われるところはだいぶ違うけど。

人には決して他人にはわからない、自分にもわからない領域がある。勝手に悔やまれたり悲しまれたり「共感」されることに激しい怒りを喚起されることもある。わかろうとすること自体が結構暴力的なのだ。土居健郎が「わかる」ことにこだわり、藤山直樹は土居が序文を書いた著書で事例によってその侵入性を示した。『精神分析という営み ー生きた空間をもとめて』(岩崎学術出版社)の最初の症例がまさにそうだ。人は簡単ではない。わかること、わかられることに一面的な価値を与えることはできない。だからなにというわけではない。ただそうなんだと思いながら、その人自身にも触れられないこころの領域を想定してそれを尊重したい、そうしながらそばにいたいな、そうするしかないもんね、わからないから、と私は思うのだ。

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精神分析、本

悩める朝に

明るい。朝はとりあえずカーテンを開ける、というのは大切なことですね。内側がどうであれ外側くらい大切にしないと。

この前、ゲンロンカフェでやっていた安田登さんと山本貴光さんの「心を楽にする古典講義──『古典を読んだら、悩みが消えた。』刊行記念」イベントをアーカイブで見た。

昨年夏には安田登×玉川奈々福×山本貴光「見えないものの見つけ方」イベントにもいった。それは『見えないものを探す旅 旅と能と古典』刊行記念イベントだった。

安田登さんはとてもたくさん本を書いているんだな。今回の『古典を読んだら、悩みが消えた。』もとてもユニーク。今ちょっとエネルギーがないので書きたいことも書けないけど出版社のページをぜひチェックしてみて。と言いたいのだけど目次が載っていないのが残念。

「自分より強くてイヤなやつがいるなら」「自分の気持ちをうまく言葉にできないなら」「自分は陰キャだと思うなら」「コミュニケーションで失敗しがちなら」などなど私たちがよく悩む事柄に対して古事記、和歌、平家物語、能、おくの細道、論語を解釈しながら応えるという超難易度高い人生相談を安田さんは誰にでも読める形で実現してくれました、というかわいい表紙(中の漫画もかわいい)のすごい本。読んでいるうちになんか昔見たことあるあれ、聞いたことあるあれって本当はこういうことだったんだ、とか思っているうちに悩みにも別の意味が与えられて「まあこれでいいのかな」と思えると思います。お悩みがなくても私は夢の話とかすごく面白かった。能は特に興味深いなと感じます。ゲンロンのイベントで「みんな必ず寝るけど必ず起きるでしょ」(超雑な抜粋です、アーカイブでチェック)というようなことを安田さんが話していたのだけどこれ本当にそうで、この流れで話されたこともよかった。本では能は“「残念」を昇華する芸能”と書かれていてフロイトのいう個人的な無意識の産物とは違うよ、というようなことが書かれています。今は精神分析は個人のこころを集団的なものとして扱う視点があるので安田さんの書いてあることは本当にそうだなぁと思うのでした。

なんだか文章がバラバラしてしまうな、今朝は。いつものことか。私が悩んでいることもこの本にあるから読み直すことにしよう。

そうだ、昨年のイベントでは能の「忘却と疲労」のお話がとても印象的でブログにも書いた。コロナ禍だったけど現地で見られてラッキーだった。少人数で間近で見られた安田さんと玉川奈々福さんのおくの細道の実演は迫力とユーモアがあったし、一緒に声に出して読むのも新鮮だったし(今回のイベントでもやってたね)、山本さんがお天気のせいか何かで電車が止まっちゃって遅れちゃったことが起きたのもおくの細道の世界と相俟って面白かった。

朝から楽しかったことを思い出せたことに安心した、今。こころを集団として、全部私だけど全部私だけではない部分で構成されていると考える。変化しつづけていると考える。いろんなことは「変わらない」と感じられることの方がずっと多くて「もういやだ」ということばかりかもしれないけどこころを集団的かつ力動的なものと捉えれば綻びや虫喰いを見つけたときこそ変化のチャンスかもしれない。とはいえあまり思い切らずにいこう。行動化っていうのはあまりよくない、私たちにとっては。

ふー。なんとか今日も過ごしましょうね。東京は気温もちょうどよさそうです。

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読書

詩集『ひのひかりがあるだけで』さわださちこ

最近の家電はなんでも音楽だな、と洗濯が終わった音を聞いた。「最近の」とかいっているが最初にそう思ったのはもう随分前のはず。月日が流れるのは早い。

昨年春、友人が編み物で作った作品を届けにきてくれた。私たちが卒業した大学に講師として勤めながら作品を作り続ける彼女と昔話をするなかでさっちゃんが自然豊かな土地へ引っ越したと聞いて驚いた。彼女たちは以前二人で詩集を出していた。その詩集は賞を取って授賞式のときの二人が写ったポストカードを私も持っている。詩集もいただいた。『ねこたちの夜』という詩集だ。

毛糸で編まれた薄い紺色の夜に大きな三日月の下、影を作ってたたずむ猫の表紙がとてもかわいらしく、掌サイズのそれを開けばさっちゃんが願う通り” 今の自分が本当にかきたいことを、子どもにもわかるやさしい言葉で”書いた言葉がたっぷりの余白に優しく配置されていた。詩集は余白が多いのがいい。そういえば山本貴光さんの『マルジナリアでつかまえて2 世界でひとつの本になるの巻』(本の雑誌社)に詩集は出てきただろうか。詩集の余白は余白という文字な気がするのでそこに書き込むとしたら上書きになってしまう、など一瞬思った。

「ああ 今日も

きみに おはようが言えた

そのことが こんなにもうれしい」

ー「こまる」より抜粋 『ひのひかりがあるだけで』さわださちこ

さっちゃんの10年ぶり2冊目の詩集からの引用だ。昨日、帰宅したらポストに入っていた。ありがとう。さっちゃんの字、変わらない。

やっぱり表紙は猫。今回はやぎ公さんというさっちゃんが惚れ込んだという画家さんが描いている。

「ねこで よかったね

なんにも しんぱいしないで」

ー「ねこは」より抜粋

クッションにすっぽりとおさまりなんの心配もなさそうな顔で眠る猫が本当にシンプルな線だけで描かれている。さっちゃんの猫でよかったね、こんな素敵な詩集にも登場してるよ。

ウクライナの猫たちが浮かんだ。先日、瓦礫となった街を紹介する記者が放送中に猫を見つけ戦争が始まって以来はじめて笑ったというようなことを話していた。

さっちゃんの優しい視線を思い出す。さっちゃんはいつも微笑んでいた気がする。のんびりとはっきりとしたことをいうイメージ。きっと今もそうだ。私の友達はマイペースでのんびりとしている人が多くてこうして作品を作る友達は特にそうだ。

「だれにも おそわることなく できたこと

そして やすみなく つづけてきたこと

すーはー すーはー

すって はいて すって はいて」

ー「いき」より抜粋

さっちゃんは「子どもにもわかる言葉で」というのをいつも心がけている。この場合の「わかる」は知的な理解という意味ではないだろう。あなたの生はいつも肯定されている、それが伝わりますように、というさっちゃんの願いだ。私はそう思っている。

<詩集>

ひのひかりがあるだけで』さわださちこ 詩・やぎ公 画

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読書

習慣

本を読みながら歩いてくる小学生がいる。片時も目を離せないかのように、もうすっかりその世界に入っているかのように、すれ違ったことにさえ気づかずに(多分)そのままの姿勢で歩いていく。

うまく避けるものだな、あるいはこちらが避けているのか、人間の視野は広いんだか狭いんだかわからないからな、など思いながら私も歩き続ける。

大きなリュックを前に抱えて指で小さくトン、トンとしながらiPhoneを見ている人がいる。それは最近の私。iPhoneに入れたKindleで本を読んでいるのだ。そんな習慣なかったのに。いちいち老眼鏡を出すのもめんどくさいから歩きながら読むなんてことしなかったのに。不思議だ。なぜか。

ひとつはそうでもしないとなかなか本を読む時間がないということ。ただこれは私がなんでもかんでも読みたくなるからであって、むしろ早く読んでおしまいなさい、という本を落ち着いて読むべき、と毎日自分に注意しているけれどなかなかいうことを聞かない。

もうひとつはiPhoneを新しくして容量が増えたのでたくさん本を入れておけるようになったということ、本来メインで使おうと思っていたKindle paperwhiteよりも動作が早いということ、索引に載っていない自分的キーワードで検索したいときが多い私にとっては大変便利であるということ、そのままツイートもできるし(私のツイートは大体メモ置き場)何よりiPhoneの画面は小さくて(文字も大きめ設定)1ページに収まる文章が少ないということ。「もうひとつ」と書いたのに一気に書いてしまった。

あ、なぜ1ページに収まる文章が少ないとよいかというと英語で読むときは構文がわかりやすいし、没頭しすぎて轢かれたりぶつかったりすることもなく適度に外に注意を向けていられるから(もちろん意識的に注意もしている)。

デメリットについては以前すでに書いた。マルジナリアを使えないことと段落番号をどんどん振っていく作業がしにくいこと。

まあ、こんなことを書いている場合でもないのだが、今夜は数年前から続けているオンラインのフロイト読書会のアドバイザーをつとめる日でPC前に待機していたので、習慣って変わるんだな、と思い、もちろん他にもさまざまな要因が絡みあってのことだとは思うが、これからも変わるであろう習慣の記録として(というのは今思いついたことだけれど)なんとなくピン留め的に書いてみた。

参照

『マルジナリアでつかまえて 書かずば読めぬの巻』(2020、山本貴光、本の雑誌社)

https://www.webdoku.jp/kanko/page/4860114450.html

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精神分析

「理不尽な進化」メモ

8月8日「理不尽な進化ー遺伝子と運のあいだ」(ちくま文庫)オンライン読書会メモ

理不尽な進化 増補新版 ─遺伝子と運のあいだ 』

吉川 浩満 

著者の吉川浩満さんにもご参加いただいたこの読書会、終わるなり「面白かった!」などなど肯定的な感想をいただきました。オンラインイベントは反応も早い!ありがたいことです。吉川さんのお人柄に惹かれた方も多かったようですね。むべなるかな。

吉川さんにもご参加の皆さんにも楽しい時間を共有していただき感謝感謝です。職種、領域関係なく面白いものは面白いと感じられるのは素敵なことですね。どうもありがとうございました。

さて、この読書会に向けてTwitterなどでメモっていたものをまとめてみました。断片寄せ集めの私のためのメモですが、本をお読みになった方の想起のヒントにはなるかもしれないので一応。

まずは、読書会と関係ありませんが、ドーキンスにつながるファラデー『ロウソクの科学』 W・クルックスによる序文。かっこいいので。

「この講演を修得する子どもは、火についてアリストテレス以上に理解する。」「科学のともし火は燃えあがらねばならぬ。炎よ行け。」

かっこいいです。

その伝統のレクチャーに『利己的な遺伝子』のドーキンスが登場し、それが本になったのが『進化とは何か ドーキンス博士の特別講義』。その解説も吉川浩満さん。

吉川さんは解説の最後で「知的好奇心の追求は旧来の価値観との対決へといたらずにはいられない。ときとしてそれは探求者を既存の善悪を超えた場所へともたらすことすらあるだろう」と書かれています。この時すでに『理不尽な進化』を書かれていた著者が誰かを思い浮かべるとしたら『理不尽な進化』の主人公グールドだったのではないか、など考えました。

さて、唯物論でも神秘主義でもなく、還元か創発でもなく、日常(=社会)に潜む問題とお付き合いするために、私たち素人と科学を橋渡ししてくれる吉川さん、そしてコンビ(「哲学の劇場」)での共著も多い山本貴光さん。お二人は「素人」でいつづけることで日常的な問題と学問を繋げ、どっちかに落っこちない対話の仕方を教えてくれます。

おすすめの共著本『人文的、あまりに人文的』(本の雑誌社)『脳がわかれば心がわかるか』(太田出版)

吉川さん多趣味!音楽、卓球p209、ハーレーダビッドソンp 213

勝手に作成、プレイリスト

「地上の星」中島みゆき p18

It’s Only Rock ’n’ Roll p21 by The Rolling Stones

Theme From Jurassic Park by John Williams

The Long And Winding Road p25 by The Beatles

「生命の歴史は、より優れた存在へと向かう一直線の道のりなどではまったくない」

Dinosaur Act by Low

肉体関係 By クレイジーケンバンド p37

人にはそれぞれ事情がある By 真島昌利 p85

シークレット・エージェント・マン RCサクセション p130

問いの答えだけでなく、問いの意味そのものを考え直してみるとそれまでとは違う眺望が開けるかもしれないよ、というのが著者のいつもの姿勢。ここでも一貫しています。

序章

進化論は万能酸(デネット)15

文庫版p28~30の「用語についてー若干の注意点」

総合説、ネオダーウィニズム(基本)

自然淘汰 natural selection

ちなみに主要登場人物は

ラマルク、ダーウィン(基本)、

デイヴィッド・ラウプ、

ハーバート・スペンサー、

スティーヴン・J・グールド(この本の主役)、

リチャード・ドーキンス(超有名)、ダニエル・デネット

など。

三葉虫のクレーム電話(想像して) p24

失敗から学べ→「みんな何処へ行った?」©️中島みゆき

生き残りより絶滅から、勝者より敗者の側から

→ラウプ どうして99,9%は絶滅?

<序章~第二章のテーマ>p27

悪かったのは遺伝子?それとも運?という疑問を携えて生物の歴史を眺めてみると異なった眺望が開かれるかも。

<第三章~終章>

思考課題(=どうしても考えることを強いられてしまうような問題、避けて通れない問題)

→【見立て】これまでとは異なるパースペクティブから生物の歴史を眺めてみる。その時に手がかりにするのが絶滅。絶滅は遺伝子のせい?それとも運?という疑問。思考課題に取り組むことで素人に誤解や混乱を呼び、専門家たちに反目と争いをもたらす進化論に潜む共通の要因が見えてくるかも。それこそが進化論の尽きせぬ魅力の源泉では?(p27)

第一章の表層⑴

①地球上の生物種の99,9%は絶滅する(事実!)

②アメリカの古代生物学者ラウプ登場「大絶滅-遺伝子が悪いのか運が悪いのか?」(平河出版、渡辺政隆訳)

Extinction: Bad Genes or Bad Luck?(序文グールド)

③ラウプの「絶滅のシナリオ」3つ

1、弾幕の戦場

2、公正なゲーム

3、理不尽wantonな絶滅

「生物史の名士たちをも滅ぼすそのような難事業が可能なのは、ある種の生物だけを生き延びさせるという選択性と、生物の能力や実績などおかまいなししにルールを押しつける気まぐれさを兼ね備えた、このシナリオ(=理不尽な絶滅シナリオ)」(p74)

だけど「絶滅現象、とりわけ大量絶滅事変による理不尽は絶滅は、生物進化の歴史において重大な役割を担ってきた」(p78)、

つまり「大量絶滅事変は、後継者たちに進化的革新(イノベーション)のための作業場(ワークプレイス)を提供する。そしてそれは進化的革新の内容を指示(ディレクション)することはないものの、その可能性と限界を規定(プロデュース)するのである」(p78)

だったら、進化のイメージが「もうちょっとだけ(本書の言う意味で)絶滅寄り、理不尽寄りになったらいいな」。「生存寄り、競争寄り」ではなくて。

でも「アンフェアで理不尽なもの」にたいしてどうやってフェアプレーを?「五輪競技ならいざ知らず」(p82−83)

そこで進化論の内容理解の水準で、第一章で見てきた絶滅に関する事実と考察がどのような意義を用いるかを考えてみよう。(p84)

まずは「誤解を理解する」(第二章冒頭p 92)ことから始めよう。「私たちは進化論が大好きである」(序章冒頭)、でも「私たちは進化論を根本的に誤解しているのではないか、私たちが愛しているのはじつは別のなにかなのではないか」というのがここでの問い直し。

私たち素人はこの第三のシナリオを見ないように、なかったことにしようとしているいるのではないか、なぜか、それはめんどくさいから。(ここ好き。p85)

なぜまたいかにして誤解してしまうのか(p93)を知るために進化論の中心アイデアであるダーウィンの「自然淘汰説」を吟味し直す第二章。ここでは、自然淘汰説にたいする私たち素人の理解の理解と誤解の理解をしてみよう。

ここ確認。「理不尽さ」=運と遺伝子の絡み合いにつけられた名前。(p90)

【問い】「誰が生き残るのかの優劣の基準は?」

→【模範解答】

「自然淘汰によって生き残る者=適者=(適応したものというより)結果として生き残り、子孫を残す者(あるいはそう予想される者)。

私たちが進化論のイメージに投影しがちな人間的観点からみた強者や優者とは関係がない。」

進化の理不尽さ=ゲームのルールが勝手に変更される事態(p96)

でも何度言っても取り違える。(p99) 模範解答があっても誤解はあらたまらないのはどうしてか。「誤解が生じるそれなりの事情」があるから、と著者は考える。(p100)

哲学的問題、哲学的困惑に対しては「新たな事実を探し求めるのではなく、問題そのものの成立と構成を明晰に理解しようと努める」(p102)

誤解のもとー「言葉のお守り的使用」鶴見俊輔。これは仕方ない。どうしても進化論をそうにしか用いることはできない、と著者。

①論理的な理由 自然淘汰のキャチフレーズ「適者生存」 スペンサー(p112) トートロジー(p120)

トートロジー問題が「進化論のお守り化」の根っこにあるので、いまとなってはまともに検討されることもないのだけど「この本の目的のためには何度でも時代遅れの議論を蒸し返す」(p122,123)としてトートロジー問題を詳細に吟味。

「適者生存」survival of the fittestが論理学的な厳密な意味においてトートロジーであるかどうかとか、どのようにすればトートロジーを回避できるかというようなことではない。疑惑のターゲットとなっているのは、「適者」(適応した者)であるかどうかは「生存」(生き延びて子孫を残したかどうか)を抜きにしては決められないの?ということ。(p124)

やっぱり「私たち素人はそうした学問的な限定を解除したうえで進化論を利用しようとする」。希望、絶望、楽観、悲観等を投影していただけの日常使用の進化論用語を(まるで法則であるかのように)宇宙の森羅万象(スペンサー)にたいして無制限に適用しがちだから。(p136)

「トートロジー的なものとしての適者生存は、むしろ進化論(ダーウィニズム)の経験的研究を可能とする条件」(三浦)だから「部分と全体を混同してはならない」(ソーバー)(p126-127)

②歴史的経緯(p145)

非ダーウィン革命 ボウラーの指摘。ダーウィン登場→ねじれた受容。「非ダーウィン革命」

ラマルクの発展的進化論「生物は決まった目的・目標に向かって順序正しく前進的に変わっていく」。社会ラマルキズム。

→より一般化&拡張、スペンサー!「適者生存」の発案者。宇宙の森羅万象を説明する壮大な進化思想。社会ダーウィニズム。スペンサー主義。158

→総合説(ネオダーウィニズム)1940年代、自然淘汰説復活!生物進化を自然主義的に説明する道を拓いた。

でもどっちの進化論も進化中。分業体制あるいは解離的共存 (p167)

①科学理論(検証可能な仮説形成のための基準としての自然淘汰説) ⇄    ②世界像(「世界とはこういうものだ」というイメージ。「言葉のお守り」(情報量ゼロ)として機能)

なぜ共存できるか。→進化の理不尽さの排除。「理不尽さからの逃走」

科学か、おとぎ話か。

第三章 ダーウィニズムはなぜそう呼ばれるか

素人の誤解から専門家の紛糾へ。地上での地図作成から地下水道をめぐる闘争へ。グールド(異端)vsドーキンス(主流派)&デネット(強い。p209の紹介秀逸)

「適応主義」と呼ばれる方法論をめぐってなされた論争は「本当には終わっていない」「争点そのものは生きている」(p178) だからまた蒸し返すぞ、と著者。

進化の理不尽さをめぐる論争(第一章)→私たち素人の「理不尽からの逃走」(第二章、私たち素人)→理不尽をめぐる闘争(イマココ第三章、専門家)

スティーヴン・ジェイ・グールド(アメリカの古生物学者・進化理論家)ー「適応主義adaptationism」批判ースパンドレル論文(共著者、リチャード・ルウォンティン)(p182)

・実際の生物の歴史は偶発的な事件や事故に満ち満ちており、すべてが自然淘汰のおかげなどということはできない。いまあるような生物の多様性がかたちづくられるのには、自然淘汰以外のさまざまな要因が関与してきた p183 →自然淘汰による適応のみを重視するのではなく、それを制約する非淘汰的な要因にも目を向ける多元主義的アプローチを提案 p203

・「適応主義」=「パングロス主義パラダイム Panglossian paradigm」ー最善説的先入観(p194)では? cf.ライプニッツ

リチャード・ドーキンス(イギリスの動物行動学者)の反論(p196)

・問いの組み替え、ハチの「コンコルド行動」(p202)

→総合説/ネオダーウィニズムの適応主義はパングロス主義ではない。p204 おとぎ話が取り組んできた問いにたいして、科学的な答え(科学的ななぜなぜ物語)を与えるものとしての適応主義プログラム(真打ち登場)

ダニエル・C・デネット(アメリカの哲学者)の追い討ち(p208)

グールド「なぜなぜ物語はいらない」、ドーキンス「なぜなぜ物語は必要だ」、デネット「むしろそれ以外になにがあるんだ?」進化論における適応主義の意義は、それがヒューリスティクス(発見的方法)であること!

著者の好きなものたち登場:卓球,犬209、かっこいいカブトガニ、ハーレー

エリオット・ソーバー再登場「リサーチプログラム」としての適応主義プログラム(進化論)。「彼(グールド)が本当に「なぜ」という疑問を問いかけ、それに答えたいならば、適応主義者になるしかないのだ」(デネット)。。。

適応主義=ダーウィニズムにおける機能主義の別名(p225) 

ダーウィン以降の生物学とエンジニアリングの結婚(デネット)p230 、手順=アルゴリズム

Ex.チャーハン (p234)

ドーキンスからグールドへ「偽りの詩」「ロマンに満ちた巨大な空虚」(p247)

最強の進化生物学者は「適切な用法・用量をお守りください」ができる注意深さを備えている。(p248)

でもグールドは負けを認めない。「グールドは戦う土俵をまちがえたのだ」(p252)

→土俵を分けるとしたら「生命の樹」「自然淘汰」という現代の進化論の柱で?スケールを変えてみればグールドにも軍配?

本書の目的は論争が私たちに提起する思考課題を理解すること。グールドが「依存しつつの抵抗」©️斎藤環、不利な挑戦をやめなかった理由は?(p256)

グールドの敗走は、第二章で論じた私たちの誤解や混乱と無縁ではないのでは?むしろ鏡像では?

終章 理不尽に対する態度

グールドの地獄めぐり

「グールドの敗北を知ることは、私たち自身を知ることでもあるのだ。これがこの終章のテーマ」(p264)

グールドが貫いた「理不尽に対する態度」

適応主義による歴史の毀損に抗して、ありうべき歴史の擁護と回復を行うこと。(p267)

①現在的有用性ー生物が持つ特徴がなんの役に立っているのか

②歴史的起源ーそれがどのような経緯でそうなったのかということ

①② の区別

地雷=「説明と理解」論争

グールドの問題(p292)  方法論と存在論のカテゴリー錯誤

オーギュスト・コントの実証主義p298、ハイデガー、ガダマー「真理と方法」p302

先入見

グールドが守りたかったものー歴史と偶発性(p316)

p322 進化という語(ダーウィンも色々考えちゃうよね)

理不尽にたいする態度 p330からはじっくりお読みいただければ。

科学と、素人である私たちの事情などほぼ関係がないとしても「関係がない」からこそ生じる往復運動に関わることで「見たいものを見る」危険を回避できるかもしれません(p245&P392~参照)。

そういえばこの本はどこの棚に置かれるのか、といえば、ちくま文庫の棚だと思うけど、単行本の時はどこに置かれていたのかな。「アートの本にもサイエンスの本にもしたくなかった。アートもサイエンスもという本にしたかった」p424

文庫版のための書き下ろし、付録「パンとゲシュタポ」は力強い宣言のよう。重たくも希望あり。

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精神分析

終わりのない仕事

なんだかひどく疲れる。見て見ぬふりをできるものもあればできないものもある。難しいのは見て見ぬふりができるのは最初からしっかり見ていない場合であって、二度見とかしちゃってきちんと目に入れてしまったら見て見ぬふりなどできなくなることだ。見て見ぬふり、というのは他の記憶とまぜこぜにしてなかったことにできる程度にしか見ない、ということではないか。もしそうできない場合は見て見ぬふりは失敗し、むしろしっかり見てみるまで気になってしょうがなくなってしまったりするのではないだろうか。

精神分析の訓練の間はものが書けない、と妙木先生がおっしゃっていた。どこかに書いてもいらしたと思う。これはとてもよくわかる。別に訓練が終わったら書けるかというとそうでもないだろうし、訓練中に書いている人だってもちろんいる。

でもおそらく妙木先生が言っているのはそういうことではない。ものすごく書ける彼でさえそういう状態に陥るのだ。

精神分析は自分の人生を差し出すような試みである。何かを形にする行為ではない。

吉川浩満さんが山本貴光さんとの共著「人文的、あまりに人文的』でロビン・G・コリングウッド『思索への旅ー自伝』を取り上げている。コリングウッドが提唱した「問答倫理学」は、命題や作品に接するときには、「誰それはこれをどんな問題に対する解答にしようとしたのか」と問うような態度のことらしい。

私はいつも通り精神分析という体験と結びつけて考えているわけだが奇遇なことに(?)コリングウッドは哲学をやる以前は考古学をやっていたそうだ。フロイトもまた考古学には強い関心を向けていた。

やっているのは常に問題の再構成だ。そして「問題」とは、精神分析でいえば現在の在り方であり、過去の出来事なのだろう。そしてそれを語るさまざまな症状を持った(人は誰でも症状を持つ)その人の身体と言葉、暫定的な私という存在が「解答」なのだろう。一体、私という暫定的な解答は今のところどんな問題を示しているのか。

もちろん精神分析ではこれは一人の作業ではなく精神分析家との作業として思考される。技法としてはそのはずだ。それをなすべく、精神分析家も一定の訓練を受けており、自分自身も精神分析家との間に自分を差し出した経験を持ち、それがどんな出来事か知っており、解体しそうな患者にそれと気付かせないように抱える腕を持っているはずだ、理論的には。

そしてそれもまた錯覚であり、幻想であることを知らせるのもまた精神分析なのだろう。終わりのない仕事だ、生きている限りは。

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精神分析、本 読書

『ウィトゲンシュタインの愛人』を読み始めた

デイヴィッド・マークソン『ウィトゲンシュタインの愛人』(木原善彦訳、国書刊行会、2020)を読んでいる。隙間時間にパラパラしているのでなかなか進まないけれどとっても好きな書き方でワクワクする。

Kindleの不便なところ、あ、これ早く読みたくてあまり得意でないKindleで買ってしまったのだ。そうそうKindleの不便なところ、1、マルジナリアに書き込みできないこと。2、紙の本とページが対応していないところ。

デバイスや設定によってページ数も変わっちゃうし。大きい字にできるのは老眼にはありがたいけど。

でもこの本はKindleでよかったかも、私には。

主人公の語りはさながら自由連想。夢を語るように自由に景色を行き来する。この世界はこの主人公だけのものだ。今のところ圧倒的に孤独な。身体の変化だけがかろうじて時間に一貫性を与えているようだけどそれもずいぶんぼやけてきたらしい。豊かな知識で一見饒舌な語りだがとてもとても乾いている。何が燃えても彼女には風景の一部だ。しかし時折情動に突き動かされたかのような様子も見せる。一体、この話はどこへ進んでいくのか。進むのを拒むように揺れ動く景色。

こういう書き方が私はとても好きだ。好きな接続詞がいくつも出てくる。あぁ、この書き方がとても好きだ、と読み始めてすぐに思った。そしてKindleでよかったと思った。

もしかして、と思って、ちょっと先走って検索してしまった。やっぱり、と嬉しくなった。好きな接続詞がたくさん使われている。こういうときKindleって便利だ。どんな単語も検索ができる。

もちろん翻訳だから元の単語はわからないけど、木原善彦さんの翻訳は山本貴光さんと豊崎由美さんがとてもいいといっていたからとても信頼できる。信頼の連鎖。

本の読み方は色々あるが、山本貴光さんが『文体の科学』か『マルジナリアでつかまえて』で私と同じような、いやもっとずっとマニアックな方法で本を全方向から楽しんでいるのを知ってとても共感した。無論あちらはプロの文筆家でありプロのゲーム作家なのでその緻密な方法には驚くばかりだ。

山本さんは吉川浩満さんと「哲学の劇場」という動画も配信していてそこでも本の読み方について話していた。

ちなみにこの『文体の科学』もすぐにほしくてKindleで買ってしまったけど山本さんの本は紙の本で買うべきだった。わかっていたはずなのに欲望に勝てなかった。せっかく載せてくれている資料がKindleだと全然楽しくないことを学んだからいいけど。失敗から学ぶことばかりだ。

ばかりだ、と二回使った。

早朝から家事を済ませ、こうして短時間書く作業はとても楽しい。この時間に読めばよかった、と今気づいたけど。

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『グラディーヴァ』と手紙

グラディーヴァ ポンペイ空想物語 精神分析的解釈と表象分析の試み

前に書いたように『グラディーヴァ』にもいくつかの翻訳がある。種村訳はフロイトの『妄想と夢』論文とセットで種村氏と森本庸介氏の論考も読める。こちらはヴィルヘルム・イェンゼンの小説と訳者山本淳氏の表象分析のセット。

フロイトを読むときは時間が許す限り関連文献も読んでいる、というか読みたくなってしまう。このグラディーヴァ本のオリジナリティは、「『グラディーヴァ』をめぐる書簡」について書かれているところだ。作品と解釈をめぐり、イェンゼンと精神分析家が、あるいは精神分析家同士が交わした15通の手紙が取り上げられている。シュテーケルからイェンゼン、ユングからフロイト、フロイトからユング、イェンゼンからフロイト、フロイトからイェンゼン、といった具合に。

手紙というのはその内容だけではなくて、書かれ方、送られ方、受け取られ方などいくつかの側面から手紙の書き手についても教えてくれる。

置かれている立場、その人のペース、リズム、パーソナリティなどいろんなことが手紙には断片的に現れる。フロイトが出した手紙に淡白な返事を出すユングとか、フロイトを立てつつも苦言を呈するイェンゼンとか、せっかちですぐ反応がほしくなってしまうフロイトとか。

「応用精神分析」という用語はラカンによってその意味を変えたが、フロイトを読むときはフロイト自身のテキストとそれを取り囲む政治、社会、文化、思想などの文脈の双方を参照する必要があることは間違いない。

手紙はその双方の橋渡しをする。イタリアに強い思い入れがあるフロイトがイタリアから出した手紙は岡田温司『フロイトのイタリア 旅・芸術・精神分析』でも読めるはず(またもや発掘が必要)。

それにしてもなんでも分析対象にするものだ。今となっては、私たちが家族や身近な人を精神分析することは危険というのは共通認識だが、文学や芸術に対する分析ってどうなのだろう。危険ではないだろうけど、なんだか偉そうだよね、と思ったりもする。小さい時から文学に助けられてきたせいかもしれない。

私は大学生の時、夏目漱石の病跡学をやりたいと思っていたが、それも偉そうだったかも。夏目漱石は実家に全集があって、今でも文庫で持ち歩くことはよくあるほどに好きだから触れたかったのだとは思うけど。今だったらどうかな。精神分析は治療としてだけでいいかな。文学とは山本貴光さんの『文学問題(F+f)+』みたいに関われたらいいなと思うけど、あれはすごい本だからなぁ。私は人に対してあのようなエネルギーを注いではいるような気はするが。

またもやとりとめなく書いてしまった。朝のウォーミングアップ終了。身体も動かさないと。

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「適切な」

バンクシーがロンドンの地下鉄で書いた絵を清掃員の人が気づかずに消していたというニュース、バンクシーも計算済みで描いているのですよね、多分。「交通局は、マスクなどの着用を促すメッセージを伝える適切な場所を提供したいとコメント」とニュースにあったけど、これはバンクシーに対してってことかな。バンクシーは「適切な場所」が地下鉄だったのでしょうけど、ねずみがくしゃみしているわけだし。

バンクシーって男性?女性?今「彼」とかくか「彼女」と書くか迷ったけど、それもどっちでもよくしておくことが大事なのかしら。

「適切な」って言葉、私も使うけど使いながらいつも微妙な気持ちになります。そういえば最近はKYって聞かないかも。空気読めないってなに、と思っていたので良いことのような気がします。ところでKYは看護のテキストだと「危険予知」という意味です。危険予知トレーニングは「KYT」。言葉はそれが置かれる文脈や文化でいくつもの意味になるから面白いというか厄介というか・・。

人もそうかもしれません。一例ですが、吉川浩満さんが山本貴光さんとやっている YouTubeチャンネル「哲学の劇場」で東浩紀『哲学の誤配』を「2020年上半期の本」としてあげていました。そこで話されていたことです。彼らと(私も)東浩紀さんはほぼ同年代で、昔からの読者としてその多彩な言論を知っているわけだけど、この『哲学の誤配』は韓国の人が韓国の読者のために東さんにしたインタビューなので、彼がどんな人か知らない人も彼のこれまでの活動をシンプルに追える構成になっていて、それがかえって東浩紀という人の本質を浮かび上がらせるよね、というようなこと(ちょっと違うかもですけど)を話しておられました。

東さんは彼自身が自分はそもそもデリダ研究者で、と自己紹介しなければならないほどその像が断片化してしまっているようで大変そうだな、とただの一読者ですが思います。少なくとも人をそういうふうに捉えてしまうと対話するのは難しいだろうなあと。ちなみに「哲学の誤配」(白)とセットで出たのは『新対話篇』(黒)。彼はゲンロンカフェという対話の場を提供している開業哲学者(他にそんな人いるのかな)で、同じく開業して生活している私はそこにも親近感を感じています(心理士は開業している人はそこそこいます)。

対話はその人の全体から編み出される言葉のやりとりだから、対話相手によってその人の像が変わるとしても、それは決して断片にはなり得ないと思いませんか。奥行きや広がりは生じるとしても。でも、もし、断片化するために人の話を聞くということがあるとしたら、それはその人に対する受け入れ難さがあるからかもしれないな、とも思います。確かに「私の知らないあなた」と出会うことを避けたり、自分がみたいようにしかみない、ということも私たちの日常かもしれない。

言葉も人もそれが置かれる場所、いる場所によってその姿を変えてしまう。でもだから私たちは流動的で、潜在性をもった存在でいられるのかもしれないですね。いつも決まった場所で決まった言葉の範囲内で生活しなさい、それが「適切な」あり方、とか言われたら私は嫌、というか辛いです。

今日も雨ですねえ。足元お気をつけておでかけください。