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残暑、オグデン“Coming to Life〜など。

曇り。なんだかまだ蒸し暑い。よく動いてるし体温調節もできてると思うのだけど今年は汗に皮膚が反応しやすくて結構辛い。なんで自分の皮膚から出るものでやられないといかんのだ。しっかりして、と思うがいい子に薬を塗る。めんどくさいねえ。

週末、オンライン投句の締切に向けて、角川の秋の歳時記を電車でパラパラ見ていた。季語「残暑」の例句がいかにもじっとりしてて笑ってしまった。みなさん、さすが。

昨日は勉強をサボったが、そういえば、とオグデンのComing to Life in the Consulting Room : Toward a New Analytic Sensibilityの4章 Destruction Reconceived: On Winnicott’s ‘The Use of an Object and Relating through Identifications’を参照しようとメモを探したが、ない!これって2016年にInternational Journal of Psychoanalysisに掲載されたものだから、絶対どこかにメモしているはずなんだよー、と思ったがない。またか、と自分のこういうダメさに慣れているのもどうかと思えばないものはないのでもう一度読み始めたらやっぱりすごく難しい。これ、前も苦労したけどすごく面白かったのは覚えていたのでなんとか読んでいた。

オグデンのこの論文は、ウィニコットの「対象の使用と同一化を通して関係すること」の精読。Whar alive Means 6章 Like the Belly of a Bird Breathing: On Winnicott’s “Mind and Its Relation to the Psyche-Soma”. International Journal of Psychoanalysisでウィニコットの「心とその精神ー身体との関係」を読解しつつwrite Winnicottをするオグデンのことを前に書いた。


「私がウィニコットの論文を読解する「創造的読解creative reading」では、ウィニコットの文章を解き明かし解釈するだけでなく、主題に対する私自身の応答も提示する。ウィニコットが読者に各自の理解を委ねる箇所では、私が暗に含まれていると受け取る意味を肉付けすることで「ウィニコットを書くwrite Winnicott」。ウィニコットがほのめかすにとどめた着想を私が展開する。」

似たようなことはすでにこのDestruction Reconceived: On Winnicott’s ‘The Use of an Object and Relating through Identifications’の論文の冒頭にも書いている。こんな感じで。

「この論文ではあまりに多くのことがほのめかされるにとどまっているので、読者はそれを読むだけでなく、書くことにも参与しなければならない。本稿で私が展開するアイデアは、ウィニコットの論文に対する私自身の読むことと書くこと——私がそれをどう理解するか、そしてより重要には、それを用いて私が何を作り出すか——を示すものである。」

とか、その先でも

「それは、母親が「現実であるがゆえに破壊されつつあり、破壊されつつあるがゆえに現実になりつつある」瞬間に、対象が実際に生き残ることが決定的に重要であるという考えである。私は今なお、この言葉を読むと頭がくらくらする。この一対の考えを何とか理解しようとして、多くの時間を費やしてきた。対象が「現実であるがゆえに破壊されつつある」とはどういう意味なのか?ここで人は、ウィニコットの論文を「書く」ほかない。なぜなら、彼は決定的に重要な考えを、説明されることなく、ただほのめかされるだけの極めて捉えがたい形に残しているからである。」

ぶれないオグデン。この論文が面白いのは、オグデンがウィニコットを読む仕方が、理解が、変わってきたこと、その場所を明確にしていること。最初から丁寧に読んでいくことで明らかになっていくウィニコットの言いたいことに豊かな思考とともについていくオグデンは楽しそうだし、それを読む私も楽しい。読むことの楽しみだな。またすぐ忘れてしまわないように今度はメモの保存を工夫せねば。これまでも工夫してきたつもりなのになあ。どうすればいいんだろう。

まあ、今日は火曜日。これは要確認。今週もがんばろう。

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祭り、花壇、フロイト

昨晩は少し暑くて起きたがエアコンをつけたらすぐに寒くなって消した。すごく暑かった数日前よりエアコンの効きが良くなっている気がする。この夏、エアコンも酷使されっぱなしで寿命が縮んだのではないか。よくがんばってくれたおかげで私は生き延びたが家電は高いから引き続きがんばってほしい。

昨晩は通りかかった神社のお祭りにもいった。といっても通り過ぎただけだけど商店街のスピーカーから流れる祭囃子、町内ならではの案内、提灯にしかない明るさ、自転車で走りながら子どもたちが大きな声で交わす「またあしたね!」。突然、雨が降り出して自転車置き場に避難。雨雲レーダーと巨人〜阪神戦の結果を確認している間に止んだ。よく歩いた。

年よりが四五人酔へり秋祭 前田普羅

暑すぎて放置していた我が家の小さな花壇と玄関も少しきれいにした。剪定の時期ではないが、時間があるときにやっておかねばと剪定鋏でジャキジャキとパキパキの中間くらいの力で根元で陽もあたらず黒くなっていた千両の枝とすっかり大きくなった山椒の木の枝を切った。土も少し耕したら知らない大きな根っこを発見。君は誰、とびっくりしたけどまだ確認できていない。なんの根っこだろう。それにしても、剪定用の鋏、もう少し鋏部分が大きいのを買えばよかった。山椒の枝は少し太くなるとすごく硬いしトゲトゲしているから切りにくい。安全で使いやすくはあるから枝が逞しくなる前に適切な季節に切ればいいのだろうけど。昨日は風も気持ちよく少し涼しくなったとはいえ大きなゴミ袋に葉っぱや枝を片付け終わる頃にはやっぱり汗だくでクタクタ。肩もバキバキになった。今日の筋肉痛を恐れていたけど今はまだ大丈夫みたい。遅れてくるかもしれないけど。

昨日からオグデンが引用しているフロイトの文章が見つからなくてなんでだろうと思っていたらオグデンの本の誤植だと思う、多分。Freud, S. (1911b). The history of the psychoanalytical movement. SE, 14とあるけどThe History of the Psychoanalytic Movementは1914年だと思います。私もたやすく引っぱられてしまった。論文名見ればわかるじゃんね。まだまだな。オグデンが引用するフロイトも私は好きで、今読んでいる論文はオグデンの主張も好き。こういうの読みながら自分でも「ああ、そうか、あそこでフロイトがこう書いていたのはここに繋がっているかもしれないんだ」という発見があるくらいにはフロイトを読み続けてきてよかったなあとしみじみ思う。すごく時間がかかるしエネルギーも使うけど精神分析が関わる人の心ってそういうものだからな。

今日もあれやこれやがんばろう。今日のNHK俳句は岸本尚毅先生。一番好き。良い日曜日になりますように。

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梨、子規、サンガマ

夜はクーラーがいらなくなった。喉の心配が少し減って嬉しい。ちょっと調子悪いとマスクをする癖がついているけど気をつけるべきことなんて少ないほうがいいに決まっている。今朝はまだ少し雨が降っているみたい。見えないくらいの雨が。

梨腹も牡丹餅腹も彼岸かな 正岡子規

梨を食べている。豊水。おいしい。子規って1867-1902(慶応3年-明治35年)で35年しか生きていないのに(「のに」ってこともないけど)お菓子とか果物とかの俳句が多いイメージ。楽しい。

牡丹餅の昼夜を分つ彼岸哉 正岡子規

うちも昔、おはぎのやりとりしていた気がする。毎年、あんこ・きなこ・黒ゴマの三色で作って持ってきてくれた人もいた。父の仕事の関係の人だったような気がするけど私の中では「おはぎの人」となっていた。

職業の分らぬ家や枇杷の花 正岡子規

という句も好き。枇杷が好きだからというのもあるがこれも私だったら「あの枇杷の家」「あの枇杷の家の人」とか言っていたと思う。面白い句だと思う。

毎日のように分析家のところへ通っていた頃、通り道に枇杷の木が一本だけあった。私は毎日、毎季節、身がなるまでも身がなってからも眺め続け写真もたくさん撮った。最初の数年はその大きな道に枇杷の木があることに気づいていなかった。

精神分析を受けるとこれまで気づかなかった景色に気づくことが増える。現実の景色のお話。心の景色も連動はしているに違いないが。私の患者さんたちもそうだ。そしてこんなに毎日のように通っていたのに、と自分で驚く。こういう驚きがとても多いのが精神分析だと思う。自分でもびっくり、という体験はいろんな情緒を引き起こすけど、それまでの年月はそれにお互いが持ち堪えられる準備期間でもあるのでなんとか二人でとどまる、味わう。

子規は病床にありながら一日一日を豊かに生きた。俳句は単に生活の切り取りではない。わずかな文字数が見せてくれる景色に潜む意外性に心躍る。

昨日、なんとなく出口顯『声と文字の人類学(NHKブックスNo.1284)』をパラパラしていた。

この本に、南米ペルーの先住民ピーロが植民地制度アシエンダのSIL教育のもと読み書きを身につけたという話がある。そこで引用されるのがSILの指導なし識字能力を身につけたサンガマの説明である。

「私は紙を読む方法を知っている。それが私に話しかけてくるのだ。彼女が私に話しかけてくる。紙には身体がある。私はいつも彼女を見る。私はいつもこの(文字が書いてある)紙を見る。彼女には赤い唇があり、それで語りかけてくるのだ。彼女は赤く彩色された口がある身体をしている。彼女には赤い口がある。」

サンガマは「書かれた文字(writing)を音声言語の表象とは考えていない」のである。

「西洋の人間にとって文字は発話を符号化(encode)したものであり、符号の解読コードを知る者は誰でもメッセージを読むことができる。声を物質化したものが文字であるという西洋の考え方にサンガマも同意したであろう。しかしサンガマが聞いていた声は、文字とは「別の声」であり、声を発する紙は「文字」の外見とは異なる身体を持つ。紙はメッセージを担う生身の女として現れサンガマに話しかける。彼が聞いているのは女の声である。サンガマにとって読み方を知っている者とは、コード解読の術をマスターした者というより、印刷されたページが女に見える「眼」を持ち、女が言うことを聞き分けられる「耳」を持つ者なのである。読むこととは女の話すことを聴くことなのである。」

俳句もオグデンがウィニコットを原著で読めというのも同じだな、と思った。俳句もその人の文字で書かれていると見えてくるものが変わる。ウィニコットも。その潜在性=創造性であり、読み手にもそれは求められるものなのかもしれない。

いい俳句作りたいな。言葉を豊かにしないと。とりあえず今日もがんばりましょう。

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精神分析

お手伝いとか精神分析とか。

風が気持ちいい。昨日は弱雨が降ったり一時的に寒いくらいだったり陽射しで暑くなったり強雨になったり空も大忙しだった。私もハードだった。書き物が全く進まない。でも身体を使いながら感じることも多く、この年齢になってわかることの多さ、この年齢までとりあえず生きてこられた幸運さなどを思うと同時に「お手伝い」を健やかになせる自分でありたいと思った。動けない人の代わりに動いている過程で出会うその人に関する評価とか出来事とかもあたたかく胸に留めたい。「ケア」とかとは違う「お手伝い」のなにか。それを大事にしたい。

精神分析を始めると親を知ろうとする動きが増える。自分を知ろうとすることは環境を知ろうとすることでもあるのだろう。頻回の設定でカウチに横になると自分でも「え、なんで?」「ずっと忘れてた」という記憶が次々と出てきたりする(それを言葉にできるかはまた別の話)。それは直ちにじぶんごととして語れるおものではない。ボラスの言葉でいえば乳児だった私たちは自分は最早期から人間的な過程の内部にいることを知っているし、それを変形性状況と認識するからこそ、変わりたい(最初は(相手を)変えたいだったりする)という欲望を持って分析の場を訪れるともいえる。だからかどうか、親と関われる状態なら色々聞いてみたくなるし、もう話せなくても次々に思い出される記憶と対話が始まったりもする。設定の力は大きいし、言葉の拘束力も可能性も大きい。

現代の精神分析は心の中の自己表象や対象を欲動、情動、記憶などが連動した力動的過程(退行を含む進化か)と見做している。私がオグデンやボラスを読むのは内的あるいは内在化された対象関係と外的あるいは外在化された対象関係の動きの詳細に関心があるが、欲動理論をそれと分けて考えるのも違うと思うのでフロイトの構造論を再検討しつつ主体が対象と、あるいは対象になしていることを論じるアンドレ・グリーンの存在も重要となる。フロイトは素朴な対人関係の記述はするが心的構造の記述に対象関係の文脈を持ち込むことはほとんどなかった。しかし『喪とメランコリー』の有名な一説に示されるように、動機づけ原理となる欲動に対する対象の影響力を無視していたわけでもない。しかし、内的な対象と対象関係を欲動論に付け加えたのはフェレンツィ以降だろうし、現実の対象との同一化に注意を向けることを強力に打ち出したのは小児科医でもあったウィニコットである。では、精神分析を特徴づけてきたエディプスコンプレックスはこれらのどこに位置づけられるか。私はエディプスコンプレックスという概念は今も今後も有効だと考えているが、それを発達的な観点でどこに位置づけるかは、環境の位置付けと同様、難しいものがあるなと感じる。精神分析は言葉と言葉のやりとりだが、この言葉が機能している水準というのを私は最も重視するし、それは情動が喚起される瞬間を正確に読み取っていくことと関係している。

こういうことを書いている間に先日思い浮かんだアイデアを思い出せないかなあと思っているのだが全然蘇ってこない。私ももう一度カウチに戻れば浮かんでくるだろうか。そんなことはないな。そういう水準で言葉は使われなくなっていた。今思うとカウチでのアウトプットはまさに記憶なく欲望なくとなっていった。これは分析家側の体験とも一致してると思う。分析状況は夢見の場でもあるが、その場合の夢とはなにかについても考えが変わった、というよりビオンがすごく読みやすくなる程度には体験を積み重ねられた。最初の数年間のあれはなんだったんだろう。偽りの自己との戦いだったか。過ごす必要のあった時間には違いないがきつかったな。しかし患者になることで知ることの多さたるや。もちろん知るべき、とは全然思わない。大抵の場合、それをしたい人がすればいいことばかり。「お手伝い」も大抵の場合はそう。が、しかし、となってくるとまた難しいことがたくさん。ケアとかなんとかいう言葉を使うことが増えそう。

オグデンの引用をしようかと思ったけど時間がなくなった。今日も少し雨が降るらしい。良い一日になりますように。

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実、ボラス、ワーズワース

日の出がゆったりしはじめた。朝のピンクは季節によって全然違う。昨晩は帰り道、月はあいからずピカピカで草むらからは虫の声が静かに絶え間なく響いていた。夏の蝉とは大違い。秋はざわめきよりもメロディー。地球の熱がちょうどよく下がりますように。今朝の私はゴージャスにシャインマスカットで熱を下げよう。秋の果物が送られてきて幸福。秋は果実の季節。小さな柿が道路にたくさん落ちてくるようになった。少しオレンジになっているものもあれば果実ならではの浅い緑のものも。みんな渋いのかな。つい食べることばかり考えてしまう。この前、縦に薄い線が入っているかわいい木の実を眺めながら柿だーとか言っていたけど、柿ってあんな線入ってないよね、と今、落ちた柿のことを思い浮かべながら思った。なんだろう、あの実は。よく通る道の大きな木で、たしかに柿の木だったと思うのだけど。

何をやっても曖昧だし、すぐに忘れてしまうのでここがメモ置き場となっているわけだけど、適当ながらも翻訳の断片を載せているので興味のある方には参考くらいにはなるだろうと思う。へー、そんなこと書いてあるんだ、自分も訳しちゃおう、と下訳くらいのものが集まっていけば翻訳されてないから触れられないという状況を防げる。今は自動翻訳があるわけだからどの言語でも下訳の下訳くらいは簡単にできる。

ということで今朝もChristopher Bollas(クリストファー・ボラス)の3番目の著書、Being a Character: Psychoanalysis and Self Experienceからウィニコットが引用されている部分を書いておこう。引用というか参照か。ボラスはその多くをウィニコットから引き出している。題名は「キャラクターであること 精神分析と自己経験」くらいでしょうか。

>>私たちは各自、世界を照らし出すこうした対象の無数の只中に生きている。それらは幻覚ではない(確かに存在する)。しかしその本質は、ラカンのいう「現実界」に内在するものではない。その意味は、ウィニコットが「中間領域」あるいは「第三の領域」と呼んだ場所——主体が物と出会い、対象によって存在が変形するまさにその瞬間に意味が付与される場所——に宿る。中間領域の対象とは、主体の心的状態と物の性質とのあいだの妥協形成である。

ボラスとオグデンは相互に引用したり参照したりしていないようなのだけど、いっていることはとても似ている(のか?)。対象をどう位置づけるかという観点は同じだと思う。

後に続く文章も世界中の文化に詳しいボラスならではの広がりで興味深い。ちなみにボラスは俳句にも詳しいので、翻訳されているどれかの本の日本語版への序文では芭蕉を引き合いに出している。その俳句をというより、詩集が本屋から消えることについてだった気がする。あとで見てみよう。さて、続き。

>>オーストラリアの荒野では、アボリジニの「ウォークアバウト(※通過儀礼のひとつ)」は「ドリーミングthe dreaming」と呼ばれる。神々が世界を夢見る以前、そこは何の変哲もない平原だった。だが今や風景は物質化した形而上学であり、一本の木も岩も丘も、夢見られたものの一部である。この世界を彷徨いながら、アボリジニは地物理的対象に出会い、それらに触発されて自らの神学・文化・共同体、そしてもちろん自己を想像し、それらを媒介にして自分自身を思考する。Cowan の言うところのこれはイマジナル知覚imaginal perceptionである。

このあと引用されるのはワーズワースとシェイマス・ヒーニー。素敵。大学の学部時代は詩人の先生の講義も受けられてとても楽しかった。ワーズワースは猪熊葉子先生の授業でやったのかも。いいねえ。ワーズワースの詩を思いながら草原を散歩したいね。でも今は熊が怖くて気軽に自然の中へ行けない・・・。もちろん彼らとてそんな気楽ではなかったかもしれないが。

今日はどんなことがあるかな。別の場所に忘れた日傘を取りに行かねば・・・。。なくしたのでないだけマシか。今日もがんばりましょう。

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機能重視、write&read

東の空がきれいなピンク。昨日も昼間は暑かったけど確実に秋を感じたあとだと気持ちは爽やかでいられる。ある程度根拠のある明るい見通しを持てるだけで生活は大きく変わると思う。

この夏は登山用品が活躍した。あれだけ暑いとやや危険を感じるから機能性重視となり、私の場合、陽射しと汗から皮膚を守ることで皮膚科に行く回数を減らせるので、どうせハイキングもするし、ということでグッズを増やした。今年、購入してよかったな、と思ったのはモンベルのWIC.フィットロングスリーブTシャツ。モンベルは店舗が多いから行きやすいというのもあるけど機能的なものが多いと思う。この前、海辺を長く歩いたときにもダメージを受けずにいられた。一つあるだけで色々楽ちん、みたいなのがいい。結局同じものばかり使っちゃうし。

昨日はせっかくやる気を出したわりに作業は全然進まなかった。メモや書いたものの管理も下手すぎるんだと思う。同じ論文も何度も読んでは忘れてるし、読んだときのインパクトをもっときちんとした形にしておかないと、と何十年思えば実行に移せるのだろう。ツイート程度の量ならいくらでもかけるし、それを積み重ねておけばいいか、と思ったこともあるけど、扱う素材は羅列的に記述できるものではないので、膨らみを持たせながら思考を巡らすにはある程度の量できちんと書かないといけないんだな。わかっちゃいるが。

サンフランシスコで開業している精神分析家トーマス・オグデンの本を読んでいることは何度も書いているが、今のところ一番新しいWhat Alive Meansの6章に入っているOgden, T. H. (2023) Like the Belly of a Bird Breathing: On Winnicott’s “Mind and Its Relation to the Psyche-Soma”. International Journal of Psychoanalysis 104:7-22は2年前に読んでいた。オグデンのクリエイティブ・リーディングシリーズの14作目、ウィニコットの「心とその精神ー身体との関係」を読解しつつwrite Winnicottをするオグデン。この論文の面白いところはここだし、実際、Psycheは脳ではないし、Somaはbodyではないとか分けておくべきものを分けておいたり、内と外の間を安易に分けないという作業が必要な論文なので、write Winnicottは大事。オグデンがこれについて書いているのはこんな感じ。


「私がウィニコットの論文を読解する「創造的読解creative reading」では、ウィニコットの文章を解き明かし解釈するだけでなく、主題に対する私自身の応答も提示する。ウィニコットが読者に各自の理解を委ねる箇所では、私が暗に含まれていると受け取る意味を肉付けすることで「ウィニコットを書くwrite Winnicott」。ウィニコットがほのめかすにとどめた着想を私が展開する。」

よい。これについていくとウィニコットの理解も深まるという仕組み。ただ、ウィニコットを前もってしっかり読んでおくことも必須なので、writeの前にreadかよという感じになるかもしれないけど同時にやるのが大事。というのを私は頭ではわかってるけどこれが私の課題。読むのは好き。書くのがだめ。でも周りの人と会話しているとアイデアは色々浮かぶからまずはそこを書き留めるところからかな。いくつになってもベイビーステップ。とにかくオグデンがcreative readingする論文は大変重要な論文たち。途中までのは一冊の本にまとまっていると思う。

とりあえず良い日曜日を。

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ドラマ、Mac、HOKUSAI、ボラス

夜中、雨の音で目が覚めた。今も結構降っている。ひどくならないといいがほかの地域はどうなんだろう。

今朝は野木亜紀子脚本の「連続ドラマW フェンス」をみていた。昨年映画「ラストマイル」をみて、それを楽しめるように関連ドラマ「アンナチュラル」「MIU404」もみた。どれもおもしろかったけど「ラストマイル」はそういう準備もして、かつ映画館で見たから面白かったという感じかも。昨年だったら友達に勧められてみた篠﨑絵里子脚本(子鹿ゆずる原作、大槻閑人(漫画・作画)「アンメット ある脳外科医の日記」の方がよかったかな。テレビドラマだと女性の脚本家が活躍しているようにみえる。

それにしても私のMacBook AirOSはもうだめかもしれない。Apple Storeに行くと「ヴィンテージ!」と「今はここにこんなのないんですよ」とか嬉しそうに教えてもらえるが高値で引き取ってもらえるわけではなく故障したらしたで「もう部品がないかも」と言われ続けながらなんとか生き延びている。OSはMonterey12.7.6からアップデートできないので入れられないアプリも増えてきた。どうしよう。でもこうやって動くうちは使い続けることは決まっている。

映画『HOKUSAI』監督は橋本一、脚本、橋本一、河原れん、葛飾北斎の青年期を柳楽優弥、老年期を田中泯が演じ、この切替の仕方は大胆ながら自然。大河ドラマ「べらぼう」のおかげで私の中の江戸文化年表の基準となった蔦屋重三郎も登場。阿部寛が静かな迫力(背の高さだけでもインパクトある)があって素敵だった。それにしても田中泯の動きがとにかく素晴らしい。表情も含め、全部が躍動している。鬼滅を見ながらも思ったが筋肉を全部動かせたらいいのに。筋トレしていると驚くが、自分でコントロールしながら使っている筋肉のわずかなこと。それでも少しずつ使い方うまくなっていると思うけど。肩こりとかは全然なくなって美容師さんにも驚かれた。今日は台風のせいだと思うけど身体が変。頭痛には耳くるくるマッサージをした。耳も大事ね。身体はみんな連動して補い合っているはず。そういう部分のひとつひとつに注意を向けられたら器官言語みたいに多義性が上手に伝われる言葉を紡げるのかもしれない。

昨日、クリストファー・ボラスが読めない、ということを書いたが、ボラスの精神分析以外の仕事に目を向けると、あ、なんか読めるかも、という感じになり、少し読み進めた。ボラスのいう
The Evocative Object はウィニコットの移行対象の変形だと思うが、より動的で情動に関わるものらしく、ウィニコットの使うingをくっきりと浮かび上がらせる対象のように思う。ボラスとグリーン、ボラスとオグデンをつなぐのもこういった対象の機能なんだろうな、と思うとなんかわかる気がする、という感じになった。ボラスもオグデンもアメリカにしっかり根ざしているのに英国精神分析に馴染んでいるというところに独特の香りを感じるのかもしれない。英国精神分析は豊かだよね。

ということで今日は台風に気をつけつつ過ごしましょう。

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オグデン(2025)の論文を読んだ。

空がまだグレー。昨日のちょうどお昼頃、外に出たら熱中症になったかと思った。夜は気持ちいい風が吹いていたけど日中の日差しは危なかった。休日とかで外にいる時間が長い場合は登山用の夏用長袖Tシャツを着ていたからなんとかなったけど、普通に半袖着てたら皮膚が大変。日光と汗にやられやすいから薬常備。

サンフランシスコの精神分析家、トーマス・オグデンの最新刊を読みながら、ひとつ前のも読んだり、今年のIPAジャーナルに掲載されたOgden TH. Inventing psychonalysis with each patient. Int J Psychoanal. 2025 Jun;106(3):473-488.も読んだりした。これ前にも読んだ気がすると思ったけど読んでもすぐ忘れてしまうし、考えるために読んでいるからまあいいかとなっている。ジャーナルは電子版で読めるから移動時間に自動翻訳でサクサク読めてありがたい。公開されているアブストラクトの冒頭はこちら。

The author posits that for an analytic treatment to be alive and effective, the analyst must invent psychoanalysis with each patient. In responding to the question, “What does it mean to invent psychoanalysis with each patient?” the analyst must first ask himself, “What does it mean to become a psychoanalyst?” and “What is it that defines psychoanalysis.” Further, “What is distinctive about the practice of psychoanalysis?”

直訳だと

著者は、分析的治療が生き生きと効果的であるためには、分析家は患者ごとに精神分析を新たに発明しなければならないと主張する。「患者ごとに精神分析を発明するとはどういう意味か」という問いに答えるにあたり、分析家はまず自らに問わねばならない——「精神分析家になるとはどういうことか」「精神分析を定義づけるものは何か」と。さらに「精神分析実践において特異なものは何か」と。

そして「著者は、各患者と共に、その二人ならではの精神分析の形をどのように発明しているかについて、臨床例を提示する。」

ということで、オグデンがこれまでも書いてきた分析的な枠組みを変更した場面を先人たちの考えを引用しながらひとりの精神分析家としてたくさん描写しつつ、これらの問いに戻る経験豊かな精神分析家ならではの論文でとても実践的。精神分析には精神分析ならではの出来事がたくさんあるし、その精神分析家と患者のペアならではの判断というのもたくさんある。

Ogden, T. H.2016. Reclaiming Unlived Life: Experiences in Psychoanalysis. (New Library of Psychoanalysis). London:  Routledge. 邦訳は『生を取り戻す 生きえない生をめぐる精神分析体験』(上田勝久訳)。

Ogden, T. H.2024. “Rethinking the Concepts of the Unconscious and Analytic Time.” International Journal of Psychoanalysis 105:  279–291.

Ogden, T H.2024. “Ontological Psychoanalysis in Clinical Practice.” Psychoanalytic Quarterly 93:  13–32.

を読んでおくとオグデンが伝えたいことをさらに別の形で感じ取れるかもしれない。

オグデンは2024年の論文で
The idea of the unconscious itself is beginning to be viewed as an idea as opposed to a “fact”. Freud (1915)considered “incontrovertible” (167) the existence of the unconscious, an aspect of mind “behind” or “beneath” the conscious mind. To my thinking, the unconscious is an idea, a brilliant idea, an idea immensely helpful in organizing my ideas when working with patients. But it is just an idea (Ogden 2024)

と打ち出した。それも維持。

私がこだわっているAlivenessもまたそれによって捉えられる性質のものではない、とオグデンは言う。よってUnlivedの訳も自分の実践から実感を持ったものにしたいが私は『セカンド・チャンス』スティーブン・グリーンブラット&アダム・フィリップス著で訳者の河合祥一郎があとがきで書いている意味で訳したい。

「生きていない人生」と訳したが、原語unlived lifeは「生きなかった人生」の意味も含む。過去を振り返る視点で言うなら「生きなかった人生」になるし、現状や未来に目を向けて、今の人生とは別の人生を夢想するのであれば「(まだ)生きていない人生」という意味になる。

こういうインプットが9月半ばまでにアウトプットに繋がっていけば9月末締切のものに間に合うかもしれないけど難しそうだなあ。こだわりを捨てればいいのだろうけど。臨床歴は長くても精神分析の実践はまだ乏しいから書けないんだよなあ、ということはわかっている。実感が足りない。オグデンみたいに精神分析家が長生きして、実践を伴ったことを書き続けてくれることは本当に大事。長生き大事。健康に気をつけて過ごしましょう。

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オグデン、習慣を崩す

カーテンも開けず自分が訳したオグデンの文章について考えていた。自分の訳だから怪しいが、オグデンが引用するウィニコットも大矢訳で確認しながら訳していると、この訳はこの方がいいのではないかなあ、と私のくせに思ったりする。これがウィニコットやフロイトでなければひっかからない(そこまで読みこんでいないからひっかかれない)けどこだわって読み続けているものに関してはこうなる。でもこういう作業こそオグデンがいうクリエイティブリーディングなので面白い、が最近の隙間時間は演題に出したい原稿が全く書けないことからの逃避としてその作業に占められている。やった気分になりたいだけ、という感じがして良くない。

こういう逃避癖も治らないが、元々の注意力のなさとか落ち着きのなさに加え、おそらく加齢のせいで、あれどこだっけ、それなんだっけ、これいつのだっけ、やったと思ってたのに、などが増えてきた。なので、というわけでもないが、休み中に会った友人が最近お財布を持たなくなったといっていたのをヒントに習慣を少しずつ変える、というか、ほぼ意識しないで扱えるようになっていたものに対して少しずつ「あれ?」となるポイントを作ることで覚醒する瞬間を増やすということを始めた。最初は私もいつものお財布をもたない、ということをしてみた。案の定、色々困った。でもこの作戦は私にあっているかもしれない、と思った。最低限必要なものを吟味するにもいい機会。自分で自分を騙すみたいな戦略が意味のわからない人もいると思うが、そういうのに引っかかってしまう人もいるのだ。注意と記憶の問題は簡単ではないのだよ。

そうだ、オグデンに戻るけど、私がこだわっているWhat Alive Meansの8 Discovering a personal life On Winnicott’s “The capacity to be alone”にオグデンが以下のように書いている。


「友情friendshipを私は、部分的には幼少期の遊び経験の観点から考える。孫娘たちとの経験では、彼女たちは私をカーペットに巻くこと(誕生の模倣?)に興味を示し、役割(母親、父親、息子、娘、教師)を割り当てて、私たちに、互いに話し合う親や、教師と話す親や、赤ん坊を世話する親を演じさせる。これは昇華された性的感情の観点から構想されるかもしれないが、それは私が孫娘たちと遊んでいるときに感じることではなく、またウィニコットが自我ー関係性として念頭に置いているものでもない。自我ー関係性ego-relatednessは、「イド関係」
 “id-relationships” すなわち「生のかたちであれ昇華されたものであれ」愛の関係とは区別されるべきである。」

となる。これ最後の「生」を「なま」とルビを振って読ませるのが日本語訳なんだけど、これは昇華との対比だからそのままの、とか未加工のとかじゃダメだったのかなあ、と思ったりする。

と、私がここで注意を向けたのはそこではなくて、オグデンが孫娘と遊んでいる!というところ。オグデンは息子との共著はあるけどあまりパーソナルなこと書かないから珍しいなと思った。でも私が見落としているだけかもしれない。

もうこんな時間。今年はあまりスイカを食べなかったな、と思って秋の果物からスイカに戻ってみたけどいまいちだった。来年はきちんと一番美味しい時期にいただきましょう。

どうぞ良い週末をお過ごしください。

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暦、オグデン、ウィニコット

今朝は冷房をつけず窓を開けたまま。少し蒸し暑いけど風を感じると気持ちいい。ようやく!と思うけどまた暑くなるらしい。でもこうやって季節は先に進んでいく。8月28日から9月1日くらいまで第四十一候「天地始粛 (てんちはじめてさむし)」 。日本の気候も変わった、と心配しているが、七十二候はしっくりきてることにいつも驚いてしまう。

驚いてしまうといえば最近まとめたオグデンのWhat Alive Meansの8 Discovering a personal life On Winnicott’s “The capacity to be alone”でオグデンが


「ウィニコットが自らの思想を表現するために、フロイトの構造モデル――イド、自我、超自我――の用語を採用するたびに、私はいつも驚かされる。ウィニコット独自の思考は、身体的衝動(イド)、道徳的判断と理想化(超自我)、そして対立する内的要求と外的現実のあいだでバランスを取り統合しようとする努力(自我)から成る“委員会”というメタファーに、新たな次元を加えている。」

と書いている。直訳だとわかりにくいかもしれないけど、私もウィニコットの


「個人的に、私は自我-関連性(ego-relatedness)という言葉を用いるのが好きである。この言葉は、自我生活とでも呼ぶべきものに繰り返し起こる紛糾事態であるイドー関係(id-relationship)という言葉と、かなり明確な対照をなすので好都合なのである。」

にはなんでーと思う。オグデンはウィニコットがこの言葉によって新しい次元を持ちこんだみたいなことを書いたあとに


「ウィニコットの貢献におけるこうした側面を踏まえると、なぜ彼が「自我関連性」と「イド関係性」という用語を用いたのか疑問に思うかもしれない。この問いに対する答えは持ち合わせていないが、ウィニコットにとって重要なのは、「フロイト派」ではない。「真の」精神分析家ではないと非難されることを避けることが重要だったのだろう。メラニー・クラインはフロイト派ではないと非難され、代わりに「クライン派」(この用語は大論争(Controversial Discussions)の期間中にアンナ・フロイトによって造語されたと言われている)と呼ばれていた。 クラインは自らの全く異なる死の欲動概念を指すために、フロイトの用語「死の欲動」を用いることで「フロイト派」としての資格を維持しようとしたのかもしれない。ウィニコットも独自の「自己」と「欲望」という用語を使わず「自我」と「イド」という用語を使用している点で、同様のことをしているのかもしれないが、これはあくまで私の推測に過ぎない。」

と書いている。正確な訳は原著をチェックしていただきたいがまあこんなようなことを書いている。

私はこれに対してもなんでーと思う。クラインもウィニコットもフロイトへの忖度はあっただろうけど、ウィニコットの場合、精神分析用語から離れずに自分の言いたいことを言うにはどうしたらいいかということをすごく考えていたからじゃないのかな。ウィニコットは精神分析理論に環境の重要性を持ち込むという大仕事をしながら、何が精神分析であるかをいつも明確にしようとしている。新しいものを持ち込むときに古い理論を雑に踏み荒らしたり用語を適当に使わないということにウィニコットはいつも意識的だったと思う、私がウィニコットを読んできた限りは。

にしてもego-relatednessとid-relationshipという用語は奇妙だなあと思う。どちらもひとりでいるけどお互いそこにいる、というcapacity to be aloneはego-relatednessと関連している。まあ、この論文は短いからオグデンが読み込むみたいにいくらでも深掘りできるというのはある。ウィニコットの場合、発見はいつもこちらに委ねられている。がんばろ。

もう8月も終わる。こんなことをしていては演題を提出できない。でも書けないんだなあ。がんばろ、と自分を励ましつつやってみよう。

なんだか暑くなってきた。良い一日になりますように。

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アンガーマネージメント、時間

暑い。梨が少し蜜がですぎた感じになっていたけど美味しく食べられた。よかった。

昨日、なぜか忘れたけど怒りについて考えていた。今は会社でアンガーマネージメントの研修とか当たり前になっているけど、一定の人に効果があると思う。なんでも一定の人には効果があるとはいえ、「まず落ち着け」みたいに自分に語りかけている人はそれなりにいるわけでそれを認知、思考、感情、行動などの側面から見直したり、自分の状態や対処行動の記録をとったり、相手にブワッと怒りを向ける前に自分に注意を向けてそれがなんであるかを知ったうえで、怒るべきことには怒れるように、そうでない怒りはある程度収められるようにコミュニケーションスキルを考えていくことはかなり有効だ。そのためには時間が必要なので「まず落ち着け」と数秒は耐えることが必要になる。

一緒に住んでいる相手とか物理的な距離を取りにくい相手だと「またか」という失望が加わるし、色々なんとも難しいが、お互い全く違う時間が流れているとか全く常識が違う、ということは当たり前といえば当たり前で、そういうのは時間経過で折り合いがつくものでもないので、あまり理由つけすぎない程度に「まあしかたないか。相手は相手、自分は自分のすべきこと、やりたいことをやろう」と思えたら楽だろう。相手のことを思うことは大事だが、自分を見失うと怒りは相手に向かいやすくなる。まず自分を取り戻す数秒を、という感じか。

時間というのはとても大事だが、人は直線的な時間のみに生きているのではないというのはベルクソンを読めば深められる。読まなくても前に書いた平井靖史さんの本や動画でベルクソンを学べる。

オグデンも“What Alive Means: Psychoanalytic Explorations”の8. Discovering a Personal Life: On Winnicott’s “The Capacity to Be Alone”でそこに触れている。この論文については前も書いたがウィニコットの“The Capacity to Be Alone”はオグデンの”creative readings”シリーズの15番目である。

From the perspective of synchronic time, one would not have to say that the internal environment comes to play the role once played by the external object mother. In- stead, one could conceive of the individual’s past experience of the mother as external object as an impression left on the infant that becomes part of who the infant is (not as an internal object). The concepts of an internal and an external world need not be invoked; instead, one is thinking about past and present experience in relation to who the infant is and is becoming.

オグデンがいっているのは、ウィニコットは直線的(diachronic)に外的対象である母親が内的環境の役割を果たすようなる、というような書き方をしているが、共時的(synchronic)に母とともにあった経験のimpressionsが、乳児の存在を構成していると考えた方がいいのではないか、ということらしい。その方がウィニコットの “actually to be alone” に含まれる逆説を活かせるのではないかと。

うーん。わかる。すごくわかる。対象と環境の関係は本当にどう書いていけばいいのだろうねえ。6月の協会の大会でもそこに焦点化したものを発表したけどオグデンは引用しなかったな。いまいちついていけていなかったからウィニコットのことばかりになった。creative reading続けたい。

今日もあっつい。気をつけて過ごしましょう。

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因幡の白うさぎフィナンシェ、Dana論文、オグデン

毎日、空が明るくなる前に起きてしまう。そこからすぐなにかやりたいわけでもないのでカーテンの向こうに強い陽射しを感じるまでは寝ていよう、とぼんやりしていた。ウトウトしてすごく眠ったと思ったがそんなに時間は経っていなかった。そんなのを繰り返しているうちにNHK俳句の時間になったのでテレビをつけた。桃も剥いた。桃もとてもちょうどよく熟していて皮は引っ張るとつるんと向けてどろっとせずにきれいな形に切れた。果物の水分って贅沢。美味しかった。食べたらまた眠くなった。コーヒーをいれよう。寿製菓の「白ウサギフィナンシェ」をお茶菓子にしよう。有名な「因幡の白うさぎ」の洋菓子バージョン。「古事記」の神話「因幡の白兎」は有名だけど、この夏、その神様が祀られている白兎神社に行ったの。鳥取駅からバスで行けるのだけどそのバスだとその後の行程を考えたとき、白兎神社にいられる時間が短くなってしまうからちょうど出るところだった山陰本線で無人駅の末恒駅で降りて30分くらい歩いていった。おかげで結構時間が取れたし、面白い神社だった!地元の人って様子の方がひとり、またひとりと兎いっぱいの小さな神社に参拝に訪れていて、私がみたのはみなさん割と年配の男性ばかりだったのも興味深かった。

さてさて勉強のメモをしておこう。

昨晩は、Dana Birksted-Breen ”The Work of Psychoanalysis Sexuality, Time and the Psychoanalytic Mind”に収めれている6 PHALLUS, PENIS AND MENTAL SPACEを読んだ。少し前に準備したのですっかり忘れていたがみんなと話しているうちにDanaはこういうことを言いたいのだろうと考えていたことが口から出た。思い出せなくても話しているうちに出てきてそうそうそうだったとなることは多い。この人の論文は膨大な理論的裏付けがあるので、それらの歴史的変遷をこちらが踏まえている必要がある。勉強勉強。

が、今の頭の中はオグデンとそれにヒントをもらいつつ深めるウィニコット。特にウィニコットのgoing on beingについて。これは胎児の状態といえるが、ウィニコットは生まれてまもなくの状態もその延長と考えているのだろう。ウィニコットはこの特別な時期における母親と胎児の体験を彼らの時間感覚で書いているのだと思う。

オグデンThomas H. Ogdenは、サンフランシスコで開業している精神分析家。今のところ、彼の一番新しい著書、What Alive Meansもだいぶ読み進めた。次回、アプライしたい演題に向けて再読したのは7 Transformations at the dawn of verbal language。オグデンがこの章の後半で引用するヘレン・ケラーのThe Story of My Life(1903)はヘレンがサリヴァン先生との間で、前言語的な記号の世界から言語的に象徴化された世界に開かれるプロセスを描いている。言葉によってヘレンの時間がそれまでとは異なる感覚で大きく動き出す瞬間ともいえるだろう。書いてあるのはこんな感じ。

With the acquisition of verbally symbolic language, there developed a new way of experiencing, a new way of coming into being, and a new way of being alive. Emotions that she had not previously been able to feel-repentance and sorrow and love-Helen became able to experience. It is not that these feelings were latent and were waiting to be unearthed. This is emphatically not the case.

These feelings were created for the first time when Keller entered the world of experience verbally symbolized. “Everything had a name, and each name gave birth to a new thought… every object which I touched seemed to quiver with life.” Names are not simply designations for feelings and things, they are ideas about feelings and people and things. Language gives rise to a qualitatively different realm of experience, a realm in which one is both subject and object, one is able to think of oneself thinking, one is alive to levels of meaning, range of emotion, complexity of feeling, and forms of experiencing not previously attainable.

「言語的な象徴言語(verbally symbolic language)を獲得することで、まったく新しい経験の仕方、新しい存在の仕方、そして新しい生のあり方が生まれた。ヘレンは、それまで感じることができなかった感情――悔恨、悲しみ、愛――をはじめて経験できるようになったのである。だが、これらの感情がもともと心の奥に潜んでいて、掘り起こされるのを待っていたわけではない。断じてそうではない。これらの感情は、ケラーが言語によって象徴化された経験の世界に足を踏み入れたとき、初めて創造されたのである。「すべての物には名前があり、それぞれの名前が新しい思考を生み出した……私が触れたすべての物が、生命の震えを帯びているように見えた」。名前は、単に感情や物のラベルではない。それは感情や人や物についての思考そのものである。言語は、質的に異なる経験の領域を生み出す。その領域では、人は主体であり対象であり、自分自身を考えることができる存在であり、意味のレベル、感情の幅、感情の複雑さ、そしてこれまで到達できなかった経験の形態を生きることができる。」

直訳だけど。

この記述の前にオグデンの分析的第三者の記述があって、病理的な分析的第三者Pathological forms of the analytic third (“the subjugating third” (Ogden, 1996))が出てくるのだけどここは保留。the analytic thirdってこういう形態変化するものではなくてもっとニュートラルな概念として登場したのではなかったっけ、と思ったから。あとで確認。

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大雨のニュースとか。

今朝は鹿児島に大雨特別警報のニュース。能登の大雨も相当大変そうだったが大丈夫だろうか。私は昨晩もきれいな月をみた。地球はどうなっているのだろう。

生命の起源を宇宙に置くとしたら災害は単に人間のものではない。だとしても小さなひとりひとりの命がおびやかされないことも同時に考えなくては。異質なものとの出会いがこれまで大切にしていたものを変えてしまうとしても徐々に、という変化のありように注目したい。ウィニコットがgraduallyを強調したように。

オグデンがウィニコットのpotential spaceを検討する論文でこういっている。

This transformation of unity into ‘three-ness’ coincides with the transformation of the mother-infant unit into mother, infant and observer of mother-and-infant as three distinct entities.

ユニットが「三者性」へと変形することは、母子ユニットが、母、乳児、そして母—乳児を観察する第三者という三つの異なる存在へと変形していくことと符合している。

この変形プロセスをさらに細かく検討しているしかたがとても興味深いのでそれも確認しておきたい。

でも朝はとりあえず身体を使おう。目覚めてから難しいことは考える。

早く大雨警報が解除されますように。被害が広がりませんように。

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子どもの場合、IRED、オグデン“What Alive Means”

東京の日の出は6時51分。少しずつ早くなる。日の出の前から空は明るくなる。薄明。太陽の力ってすごい。気温は10度を下まわることが増えた。雪国の人たちの知恵が私にはないし、東京の交通機関にもそれはないと思う。なので雪は降らないで春になってほしい。でも子どもたちが喜ぶか。子どもだけのSNSがあったら雪国の子たちも雪をたまにしか見ない子も雪を見たことのない子もどんなことを書くのかな。大人とは全然違うこと書きそう。大人がいつもいっているであろうことを書く場合もあるだろうけど。子どもの心理療法もやってると大人とは全く違うプロセスを観察することになるというか、大人より細かくプロセスを振り返ることを一緒にやっているように感じる。物語が作れる、とかではなくて「あのときは多分」という感じで不確実ながら反復していた何かに対して仮説をたてるのが大人より普通になされやすい。あとしたくないことをしたくないということの罪悪感とか普通に本音を出せるようになる。大人は治療者に会う前からすでにいろんなところで自分を少しずつ失いながらくるからゆっくりゆっくり何度も同じところをぐるぐるしながらそんな自分にもそれをどうにかしてくれない相手にも苛立ったり不平不満を募らせたりしながらで、で、そんな気持ちになるとますます窮屈になって、と相手の反応を自分で思った以上に参照してしまうのかもね。だから言葉から論理的に導かれることを照らし返すだけでも「指摘された!」といやあな気持ちになってしまったりする。指摘されるって自分で気づいていることでも意外なことでも嫌なものなんだよね。というか論理的なことって腹が立つものだよね。私は何よりも論理的であることが大切だと思っているけれど。これは大人もだけど自分のことを気楽に振り返れるようになると論理性は増す。回りくどいことしなくても大丈夫ってなるからじゃないかなと思ってるけど。

国際精神分析学会(IPA)でInter-Regional Encyclopedic Dictionary (IRED) という辞書を作っていて、いろんな国の翻訳チームがそれぞれの国の言葉に翻訳をしている。それぞれ自分の仕事で忙しくしながらこういう作業もしているからすごく大変でようやく校正段階。一年ぶりくらいに見直したけど中身はすごく勉強になる。難しいけど。こういうのが世界中の言語になるってすごいことだと思う。もちろん無償でやってるけど世界中の精神分析家の考えが幅広く引用されているのも魅力。なので校正がんばりましょう。今週中、ってあと1日か・・・。

昨日はその翻訳しながら年末に出たオグデン(T.H. Ogden)の最新刊“What Alive Means Psychoanalytic Explorations”をちょこちょこ読んでしまった。表題論文はウィニコットの可能性空間を「移行対象と移行現象」の論文でいつも通りの細やかさで検討したもの。そのうえで臨床素材を用いて分析の枠組みを変更することの意味を探る論文。明確な考えが書いてあるわけではないけれど枠組みの変更というのは精神分析のプロセスの結果として生じるのでそんな意識的なものではないんだよね。ウィニコットが使うnegativeという言葉も検討されていたけど最近身近なA.グリーンとの比較とかはなかった。参考文献に挙げられてはいたけど別の文脈でだった気がする。ウィニコットを再検討するなら欲動論を持ちこんだほうが曖昧で感覚的な議論から抜け出す道が見えそうな気がするのだけどオグデンはそれはやらない。グリーンはする。それにしてもウィニコットが言っていることは検討しがいがある。オグデンがずーっとそのクリエイティブリーディングをしているのもわかるというかそうせざるを得ない相手だよねえ、ウィニコット。今日も読む時間作ろう。その前にどうにか仕上げたい。その前に寒さをどうにかしたい。体調管理しつつがんばりしょう。

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漫画、フロイト、オグデン

昨晩は大正ロマン関連を色々チェック。旅に出るから。袴で街をそぞろ歩きしたい。今朝は吉田戦車『伝染るんです。』をパラパラ。少しずつ積み上げられた本と論文の整理をせねばと単に別の場所に移動させるようなことをしているときに見つけてしまった。ちっこい文庫。『はいからさんが通る』ではなくこっちを見つけてしまった。これ帯もつけっぱなしにしてたんだ。1巻「読んだらキケン!』2巻『不条理来襲』3巻『枠組み破壊』4巻『爆発的伝染力』5巻『非常識の完結』。『伝染るんです。』なんだから4巻のはどうかな。まあ大きなお世話かな。今こんなことしてる場合じゃいないんだよー(泣)。でも面白いよー。それにしても部屋がひどいことになっている。

Reading Freudも事例検討グループも始まったからインプットを増やしていかないとなのに別のことばかり調べてしまう。英語論文とか最近ちょっとしか読んでないからめちゃくちゃ読むの遅くなってるし。そんな賢いわけではないのだから真面目にやらないとなのにね。あー、吉田戦車とか大和和紀天才。フロイトと同じくらい読むべきものたちと思う。

一応、私が読書会でいつも言っているフロイトの書き方に意識を向けることについて話すためにオグデンの2002年の論文を再読したのであげておこう。これはオグデンの単著に入っていただろうか。訳されていないけど誰かが編集している本に入っていることは知っているけど書名を忘れてしまった。漫画読んでないでこちらをチェックしないとね。

Ogden, T. H. (2002) A New Reading of the Origins of Object-Relations Theory. International Journal of Psychoanalysis 83:767-782

The author presents a reading of Freud’s ‘Mourning and melancholia’ ということでフロイト全集14の『喪とメランコリー』をオグデンが再読。この論文は対象関係論のはじまりと言われている論文。これは十川幸司訳の『メタサイコロジー論』にも収録されているからそっちで読むといいかも。フロイトが短期間で一気に書き上げたというメタサイコロジー論文の中でも最重要。

オグデンが重要と考えるのはvoice。太字は私が太くしました。

the way he was thinking/writing in this watershed paper.

オグデンはのちに‘object-relations theory’(対象関係論)と呼ばれる心の改訂モデルの背景にあるフロイトの考えを以下に要約。

(1) the idea that the unconscious is organised to a significant degree around stable internal object relations between paired split-off parts of the ego

(2) the notion that psychic pain may be defended against by means of the replacement of an external object relationship by an unconscious, fantasied internal object relationship

(3) the idea that pathological bonds of love mixed with hate are among the strongest ties that bind internal objects to one another in a state of mutual captivity

(4) the notion that the psychopathology of internal object relations often involves the use of omnipotent thinking to a degree that cuts off the dialogue between the unconscious internal object world and the world of actual experience with real external objects

(5) the idea that ambivalence in relations between unconscious internal objects involves not only the conflict of love and hate, but also the conflict between the wish to continue to be alive in one’s object relationships and the wish to be at one with one’s dead internal objects.

要約だけだとまあそれもそうかという感じかも。症例の話がないとということで興味のある方は本文も読んでみてください。

ちなみにオグデンは下に書くフロイトの論文の終わりの部分を引用して患者の実際の生活に根ざしていないと精神分析もthe self-imprisoned melancholic who survives in a timeless, deathless (and yet deadened and deadening) internal object worldと変わらないよ、ということでこの論文を閉じています。

Freud closes the paper with a voice of genuine humility, breaking off his enquiry mid-thought:

—But here once again, it will be well to call a halt and to postpone any further explanation of mania … As we already know, the interdependence of the complicated problems of the mind forces us to break off every enquiry it is completed—till the outcome of some other enquiry can come to its assistance .

オグデンは少しだけ省略してしまっているので十川訳の方からこの部分を引用しておきます。
「しかし、ここでは再び立ち止まり、まずは身体的苦痛、それからその苦痛と類似した心的な苦痛の持つ経済論的な性質への新たな理解が得られるまで、マニーについてのさらなる解明は延期するのが適切だろう。周知のように、錯綜した心的な問題は相互に関連しているため、他の研究成果を役立てられるようになるまで、このような研究は不完全なまま中断せざるをえないのである。」

これぞフロイトの書き方という感じがする。フロイトには常に次へ継続するための中断がある。実際、ここに書かれたことは継続的に探究され別の論文に書かれています。フロイトを読み始めるとこうやって読み続けることが必要になってしまうことをみんな無意識的に知っていて敬遠してしまうのかな。ここに書いてあることがよく掴めなくてもまた出てくるから大丈夫、ということを私はよく言うけど。精神分析みたいな心の探求は時間がかかってしまうのですよ、反復につぐ反復を扱うから。まずは反復を認識するところから時間がかかるし。うーん。体験と結びつくと多分かなり読みやすくなるのだけど読むために体験するわけではないしね。精神分析を体験するのはフロイト全集を買うよりもお金もかかるしそう簡単におすすめできるものでもないし。うーん。悩ましいですね。とりあえず読んでいきましょう。

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11月2日朝、追記はオグデンのウィニコット読解

朝、起きたての息って音が独特。うーんと唸りながら大きく長く伸びをした。精神分析は週4日以上カウチに横になって自由連想をするのだけどカウチでの息遣いは横になった瞬間や寝入るまであとは朝のそれに近い気がする。こんなことを意識するのはこの技法くらいか。

そうだ、『フロイト技法論集』は引き続きおしていきたい。というか精神分析を基盤とするどんな技法を試すのであれフロイトの主要論文は共有されていないとお話にならない。

暖房、今日は足元のファンヒーターのみ。これそろそろ危ないのではないか、というくらいの年数使ってるけど危なげない音を立てて順調に温かい風を送ってくれる。なんて優秀。気持ちがどうしようもなくても寒いのはどうにかしたい。そんなときしがみつかせてくれる。が、そうすると熱すぎるし危険。人を癒すって大変だ。いつからかそういうものを求めなくなくなったというか普通に癒されてしまうことが増えたのかな。毎日、大変な状況、ひどい気持ちを抱えてくる人たちの話を聞き、たまに私も何か言いながらふと笑い合うこともしょっちゅう。それは一般的な癒しとは違うのかもしれないけどなんか心持ちが変わる瞬間ではある。もちろんそんなに持続するものではないし、1セッションの間にも揺れ続けるわけでそれを継続することでいつの間にかそれまでとは異なる感触に気づいて驚くわけだけど。時間をかけて。そうなの。時間かかるけどというか時間かけましょうね。自分のことだから、自分のことは周りと繋がっているから。辛くて辛くて本当に辛いけど大切にしよう。

今日は移動時間が隙間時間。何読みましょうか。國分功一郎さんの『スピノザー読む人の肖像』(岩波新書)って買いましたか?すごい熱量ですよ、最初から。ライプニッツから。続き読もうかな。でもオグデンの最新刊も今度は訳しながら読みたいしな。ま、電車での気分で。

みんな朝ごはんは食べるのかな。私はお菓子と果物とコーヒーばかり。子どもの頃は朝ごはん食べないと叱られるでしょ。実際朝ごはん食べてきてない子どもって午前中の体力が持たないんですよね。みんなが食べられる状況にあるとよいのだけど。私なんか省エネに次ぐ省エネだけど子どもにはそれも難しい。しなくてもいいことだし。今日もがんばりましょうね、なにかしらを。

追記

結局オグデンを訳しているのでメモ。

2021年12月にThe New Library of Psychoanalysisのシリーズからでたオグデンの新刊”Coming to Life in the Consulting Room Toward a New Analytic Sensibility”

私が訳しながらと言っているのはウィニコットの1963、1967年の主要論文2本を読解しているチャプター。

Chapter 2: The Feeling of Real: On Winnicott’s “Communicating and Not Communicating Leading to a Study of Certain Opposites”

Chapter 4: Destruction Reconceived: On Winnicott’s “The Use of an Object and Relating Through Identifications”

オグデンがウィニコットの言葉の使い方ひとつひとつに注意を払いながら読むと同時に自分の言葉の使い方にも注意を払いながら書く仕方はあまりに緻密で読むのも大変だけど読解をこんな風にしていくことこそ精神分析の仕事でもあるし大変でも楽しい。

たとえばここ。Kindleだからページ数よくわからないけど2章の袋小路コミュニケーションの前。

The idea of communicating “simply by going on being” may represent the earliest, least differentiated state of being that the infant experiences, and that experience may lie at the core of the non-communicating, isolate self. (I twice use the word may because these are my extensions of Winnicott’s thinking.)

精神分析学会の教育研修セミナーでビオンとウィニコットの再読を続ける先生方と行った「知りえない領域について―ビオンとウィニコットの交差―」で取り上げた論点でもある場所。オグデンもこだわってる。ちなみにここで吟味されているウィニコットの論文は新訳、完訳ver.がでた『成熟過程と促進的環境』(岩崎学術出版社

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グッドイナフで

蝉がジージーずっと元気。早朝、洗濯物を干しながらなんか蝉って世界をのっぺりした感じにするよね、と思った。いつもの森で鳥はまだ眠っていたみたいだけど流石にこの時間になると元気いっぱい。さっきからずっと同じリズムでピッピピーってないてるけどなんだい?というか私も誰にも通じない言葉であなたに話聞いてもらいたいことがあるよ。

ウィニコット (1971)は「心理療法は遊びの領域、つまり患者と治療者の遊びの領域が重なり合うところで行われる」と述べ、オグデン (2006)は「分析家と被分析者が「共有された」(しかし個人的に体験された)無意識的構築物の「漂い」(Freud 1923)を感じ取るところの、もの想いの状態を育むための努力」が重要であるとした。これらは精神分析が相互性に基づいた間主体的な場の生成によって展開することを前提としている。

実際の治療はこの前提を作り出すところか始まるといってもよいだろう。サリヴァンがいう共人間的有効妥当性確認(consensual validation)にいたる過程がまず必要と言い換えてもいい。

治療のみならずお互いが前提を共有することのなんと難しいことよ。治療と普段のコミュニケーションは状況がだいぶ異なるけどプライベートでもコミュニケーションは常に悩みの種。見て見ぬふりをして、なんとなく何も感じていないふりをすることもしばしば。「私だったらこうする」「私だったら絶対しない」ということはあるけどそれは私の前提であって二人の前提ではないことの方が多い。お互い大切なものは違うし、大切にする仕方が違う、だからといって想いあっていないわけではない。ただその出し方は違う。ずればかりだ。そこに攻撃性を含む場合だってある。でもそれだって人間関係では当たり前のこと。通じない、通じさせたくない、隠しておきたい、お互いの自由を守りつつお互いを悲しませたり寂しくさせたりしないことは多分不可能なんだ。我慢して悲しんででも寂しくて泣いて怒ってぶつけてまた辛い状況になってそれでも乗り越えられたら乗り越えてあるいはいずれ回復するまで壊れていく。できたら壊れない方向へお互いが最大限の努力をできることを願うけどそれも相当不可能なこと。私たちは委ねる形ではなく歪んだ形で自分の欲望を実現しようとする動物だと思うんだ。

治療状況はこの不可能と思える努力をお互いがかなりの程度やり遂げられる設定になっている。時間と場所を守り金銭のやり取りをする。設定をかたくすることで関係に生じる曖昧さに有限性を持ちこみ仮の形を与える。出典をメモするのを忘れたが北山修は言葉の曖昧な使用に着目し、「何かをはっきりと言うことは常に選択であり、同時に別の何かを言わないことでもあるが、曖昧化obscurationは、日本語に必要な基本的レトリックであるとして、それを「置いておく」ことの重要性を述べた。日常生活では関係が近くなればなるほどこの「置いておく」ことができない現実がくっついてくるが、治療状況はそれがかなりの程度可能なほどにいろんな要素が持ち込まれない設定になっている。錯覚を可能にするにも条件が必要だ。空想の余地を与えること。それは隠されていることがあからさまになりやすい現実では難しい。

現実の難しさを考えれば考えるほど治療の枠組みがいかに重要であるかが見えてくる。欲望を飼いならす、ということが精神分析では言われるがそれも程度の問題だ。私からしたらグッドイナフな程度に、というしかない。悲しんだり寂しがったり怒ったり、そういう感情を相手が持っていることに気づいたり、そういう能力を持つことでさらに苦痛だったりするわけだけどそれらをなくしたら人間ではなくなってしまう。だからグッドイナフで。あえて見るなの禁止を破ることもなかろう。そこは悲劇の発生の場でもあるのだから。

今日もひどく暑くなるらしい。まずは無事に過ごそう。

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詩の朗読

平熱のまま、この世界に熱狂したい 「弱さ」を受け入れる日常革命』(幻冬舎)の著者、宮崎智之さんが詩の朗読(暗誦!)を始めたと知った。聞いてみた。詩はパーソナルなものだ、と改めて感じた。

精神分析家のトーマス・オグデンの近著”Coming to Life in the Consulting Room Toward a New Analytic Sensibility”に彼がこれまでもずっと取り上げてきたロバート・フロストが登場していたので読んでみた。

8:Experiencing the Poetry of Robert Frost and Emily Dickinsonという小論がそれだ。オグデンは初期の著作から”creative readings”の試みを続けている。これは以前のブログでも触れた。最新刊である本書のオグデンはもうその極に達する、というとon goingだと言われそうだけどさっぱりしていてもう十分に死を意識しながら生きているのだろうなと感じた。この世には自分だけは死なないと思っているのではなかろうかと疑いたくなるような人も少なからずいると思う。私は虚しさや儚さと触れ得ないこころを感じとるときにそう疑ってしまう。オグデンはそれを否認しない。

オグデンはこれまでもボルヘス、ロバート・フロストを頻繁に引用しcreative readingを続けてきた。ここではエミリー・ディキンソンの詩を引用している。多分はじめての引用。

ちなみにこの小論の初出は2020. Experiencing the Poetry of Robert Frost and Emily Dickinson. Psychoanalytic Perspectives 17:183-188である。

私は彼らの詩自体にもようやく興味が沸いたので調べてみた。岩波文庫『アメリカ名詩選』『対訳 フロスト詩集』『対訳 ディキンソン詩集』の3冊がとても役に立った 。詩は面白い。

そうだ、宮崎さんの朗読に触発されたという話。細々とフロストやディキンソンを読み、ネット上でそれらの朗読を聞き詩を読むのはとても難しいと改めて感じていたところに宮崎さんの試みとも出会った。私も試してみた。読んだのは先日ここでも取り上げたさわださちこ『ひのひかりがあるだけで』。やっぱりとてもとてもいい。恐々自分の朗読を録音してみた。なんか変だ、やっぱり。私が詩から受け取ったものが私の声では表現できない。難しい。

夜になり「文章ならどうだろう」と思い立ちこれまた大好きな作家、小津夜景の『フラワーズ・カンフー』の短い散文を読んで録音してみた。こっちの方がまだマシかもしれない。が、なんと、とっても短い文章なのに自分の声を聞いてる間に眠ってしまった。私は私に読み聞かせをする意図などなかったのに。「あみさんの声は眠くなる」と言われてはきたがまさか自分が寝るとは。びっくりした。

これまでたくさんの子供たちに読み聞かせをしてきた。療育のグループで紙芝居を、お膝で赤ずきんを、抱っこしたままあやふやな記憶の断片を。これからもしていくだろう。精神分析の仕事も詩を読む体験ととても似ている。だからオグデンもそれを続けてきたのだ。私ももう少し体験を増やしてみよう。

朝はとてもそんな時間がないが(こういう文章をばーっと書くのとは訳が違うから)また夜かな。今夜かな。今日を過ごしてみて手に取りたくなった本から何か読もうかな。そう考えてみると今日を過ごすのが少しだけ楽しみになる。なりませんか。なにはともあれもうだいぶ朝も深まってきました(とは言わないけど)。よい1日になりますように。

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オグデンを読み始めた

昨年、邦訳が待ち望まれていた『精神分析の再発見 ー考えることと夢見ること 学ぶことと忘れること 』(藤山直樹監訳)がようやく出版された。原書名はRediscovering Psychoanalysis ーThinking and Dreaming, Learning and Forgetting。https://kaiin.hanmoto.com/bd/isbn/9784909862211

オグデンのこれまでの著作はRoutledgeのサイトで確認できる。https://www.routledge.com/search?author=Thomas%20H.%20Ogden

『精神分析の再発見』以前に邦訳されたのはおそらく2冊目の著書『こころのマトリックス ー対象関係論との対話』、4冊目『「あいだ」の空間 ー精神分析の第三主体』、5冊目『もの思いと解釈』、6冊目(かな?)『夢見の拓くところ』の4冊だと思う。つまり12の著書のうち5冊が邦訳されたことになる。未邦訳のものも翻訳作業は進行中のようでそう遠くないうちに日本語で読めそうでありがたい。

2021年12月にはThe New Library of Psychoanalysisのシリーズから新刊が出た。このシリーズはクライン派の本はすでに何冊も訳されているが、独立学派のものは昨年邦訳がでたハロルド・スチュワートの著作と、そのスチュワートが書いた『バリント入門』くらいだと思う。オグデンの最新刊はComing to Life in the Consulting Room Toward a New Analytic Sensibility

オグデンは本書でフロイトとクラインに代表される”epistemological psychoanalysis” (having to do with knowing and understanding) からビオンとウィニコットに代表される”ontological psychoanalysis” (having to do with being and becoming)への移行とその間を描写する試みをしているようだ。

この本はこれまでに発表された論文がもとになっているが、私はまずはオグデンがその仕事の初期から行ってきた”creative readings”に注目したい。読むという試みは常に私の関心の中心にある。

オグデンは『精神分析の再発見』においても「第七章 ローワルドを読む―エディプスを着想し直す」(Reading Loewald: Oedipus Reconceived.2006)と「第八章 ハロルド・サールズを読む(Reading Harold Searles.2007)とローワルド、サールズの再読を行っている。

これまで彼が行ってきた精神分析家の論文を再読する試みには

2001 Reading Winnicott.Psychoanal. Q. 70: 299-323.

2002 A new reading of the origins of object-relations theory. Int. J. Psycho-Anal. 83: 767-82.

2004 An introduction to the reading of Bion. Int. J. Psycho-Anal. 85: 285-300.

などがある。

ほかにも詩人フロストの読解などオグデンの”creative readings”、つまり「読む」仕事は精神分析実践において患者の話を聴くことと同義であり、それは夢見ることとつながっている。

オグデンの新刊”Coming to Life in the Consulting Room Toward a New Analytic Sensibility”ではウィニコットの1963、1967年の主要論文2本が取り上げられている。

Chapter 2: The Feeling of Real: On Winnicott’s “Communicating and Not Communicating Leading to a Study of Certain Opposites”

Chapter 4: Destruction Reconceived: On Winnicott’s “The Use of an Object and Relating Through Identifications”

まだ読み始めたばかりのこの本だが、50年以上前に書かれた論文がなお精神分析におけるムーヴメントにとって重要だというオグデンの考えをワクワクしながら読みたいと思う。

オグデンがウィニコットとビオンに十分に親しむ(ウィニコットの言い方でいえばplayする)なかでontological psychoanalysisをhaving to do with being and becomingと位置付け、「大きくなったらなにになりたい?」という問いを”Who (what kind of person) do you want to be now, at this moment, and what kind of person do you aspire to become?”とbeingとbe comingの問いに記述し直し、ウィニコットの”Oh God! May I be alive when I die” (Winnicott, 2016)を引用しているのを読むだけでもうすでに楽しい。

そしてすでにあるオグデンの邦訳が広く読まれ、精神分析がもつ生命力を再発見できたらきっともっと楽しい。

本当ならここでもっとオグデンについて語った方が読書案内になるのかもしれないがここは雑記帳のようなものだからこのあたりで。

そういえば中井久夫『私の日本語雑記」の文庫が出ましたよ。おすすめ!

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オグデン『もの想いと解釈 人間的な何かを感じとること』

「耳だよ、それをやるのは。耳だけが本当の書き手で、本当の読み手だ。」(Frost 1914)

オグデンは『もの想いと解釈 人間的な何かを感じとること』(大矢泰士訳.岩崎学術出版社,2006)の第7章「精神分析における言葉の使用について」のなかで、上記のフロストの言葉を引用し考察を加えたプリチャードの「耳のトレーニング」という言葉を引用している。(ややこしい)

オグデンは「分析の言説は、隠喩的な言語を発達させることを分析のペアに求める。その隠喩的な言語とは、ある瞬間において考え、感じ、身体的に体験するということ(つまり、その人に可能な範囲で、人間として生きていること)がどんな感じがするかを反映している響きや意味の創造に適した言語である。」と書いた。

そして分析家は「高圧的な教訓主義を回避するようにしつつ、言語の機微に調律する患者の能力を強化し、また分析の言説のなかで患者自身の思考、感情、知覚などをいっそう十全に捉え/創造するように言語を使う能力を強化する努力」、つまり「耳のトレーニング」という体験を分析で提供する、と述べた。

分析において二人の間で交わされる些細な言葉を分析家の耳がとらえ、ふたりで共にいるための言語を創造しようとする患者の無意識的努力をそこに見出すこと、「どんな感じがするか」という体験を捉え、創造する言語を生かし続けること、分析の頻回の設定はささやかで繊細な作業(耳のトレーニング)の積み重ねのためにあるのかもしれない。