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『妊娠・出産をめぐるスピリチュアリティ』をざっと読んで

妊娠・出産をめぐるスピリチュアリティ』橋迫瑞穂著(集英社新書)が届いていたのでざっと読んだ。ざっとでも内容が入ってくるシンプルな書き方と構成(というのかな)。章立ては出版社のHPを参考にしていただきたい。

この本の主題は「妊娠・出産のスピリチュアリティがどのような内容を現代社会に示しているのだろうか。それが社会に広まった背景として、何が考えられるのだろうか」という問題について考えてみることである。

スピリチュアリティには「教義や教団組織がないのが特徴」ということで、それはつまり検閲、禁止の外部にあるということだと思うが、それゆえにか「生成される価値観や世界観はモノや情報を媒介として広まりを示すことがある」という。

本書では、2000年代以降の「スピリチュアル市場」における主要コンテンツ3つが取り上げられ、宗教学者の堀江宗正と同じ観点から、書籍を中心とするメディアを素材とし、社会学の質的調査法の手法である言説分析を用いて分析が行われている。

コンテンツは「子宮系」「胎内記憶」「自然なお産」の3つ。女性にはどれも「あー知ってる」という範囲の言葉だと思う。これらのワードを用いて会話をしたことがある人にはその体験をきいてみたい気もする。ごく自然にそれを良いものとして語る人、良さそうなものはなんでもやってみようと一情報として気楽に取り入れている人、なんらかの価値の押し付けを嫌って「そんなのデタラメだよ」と相手に諭す人、その場では話を合わせるがその後、その相手と距離をとる人、医学的な知見をもとにその正当性を説く人などなど様々な体験があるだろう。

本書は多様な消費者を抱える「スピリチュアル市場」から主要なコンテンツを抜き出し分析することで、妊娠・出産をめぐる女性たちがそこでどのような消費者であることを求められているのかを浮き彫りにする。

より詳細にいうと、各コンテンツが「スピリチュアル市場」に現れるまでの流れを踏まえ、日本におけるこれらの言説を書籍を素材に概観し、再度「スピリチュアル市場」との関連でそのコンテンツが果たす役割や問題を分析することで、妊娠・出産をめぐる女性たち(と同時に子ども)を取り巻く状況を浮かび上がらせようとする。

「自然なお産」という「医療が内包するイデオロギーへの対抗」として培われてきた「スピリチュアル市場」の「総仕上げ」である概念に向かって、「子宮系」「胎内記憶」というコンテンツについて知るうちに、読者はリスクを伴うとしてもそこに自分の居場所、あるいは希望を見出そうとする女性たちの姿を見つけ出すかもしれない。そしてそれはもしかしたら自分の姿と似ているかもしれない。

子どもを持つことについて「常に決断と絶え間のない努力を」要求されてきた女性にとって、子どもを産むことは間違いなく価値があることだと言ってもらえること、しかも「医師」の言葉がそれに科学的な根拠を与えてくれるとしたらそれほど心強いものはない、のかもしれない。

著者は、宗教学者の島薗進にならってスピリチュアリティという言葉を新霊性運動・文化とほぼ同じ意味に用いて、それ以前の歴史においては不可分だった妊娠・出産と宗教、呪術が何をきっかけに分離してきたかについて様々な文献を用いて記述する。たとえば月経を含めた妊娠・出産の母胎となる女性の身体性に対する見方の変化、妊娠・出産の医療化がそれである。またそれらに影響を与えたウーマン・リブなどのフェミニズムとの関係にも注意を払う。

宗教ブーム、主に島薗が取り上げたオウム真理教での女性の位置づけがまとめられている箇所(32頁〜)は興味深い。母親としての役割を強化するにしても母親になるという選択を無効化するにしてもその極端なあり方を迫られるのは当事者である女性と子供である。それぞれの事情に基づき、それぞれの選択をするというような複数の選択肢はそこにはない。また著者も指摘するように、妊娠・出産はそのプロセスありきで女性単独でなし得ることではない。つまり男性の関与が必須な出来事のはずの議論に男性が登場しない。もっともこの事態はすべてのコンテンツにおいて見出される傾向であるらしい。

また著者は、宗教社会学者のピーター・L・バーガーの宗教の「世俗化」論を参照しながら「スピリチュアル市場」の拡大を描写し、妊娠・出産が神聖化から「世俗化」、そして「再聖化」という流れをたどってきたことを示す。その様子は各コンテンツについて詳細に検討される第二、三、四章で知ることができる。

なるほど「スピリチュアル市場」は女性たちに選択の機会を増やしただろう。書店で女性向けの雑誌コーナーなどに行けば、女性の医師の写真やヨガのポーズをきめた若い女性の写真が表紙を飾る本を見つけるのはたやすい。妊娠・出産体験談も芸能人のものに限らず求めれば読むことができる。

これらのコンテンツに投影されるのは女性たちの意識や価値観であり、消費者側からそれらに求められるのは、肯定的(もちろん何を肯定と感じるかは人それぞれだ)な受容であり、妊娠、出産という内外からの制約とともに暮らす日々において具体的に役立つ何かであろう(ここでも役立つとはいかなることかという問題はある)。

本書で取り上げられる3つのコンテンツ「子宮系」「胎内記憶」「自然なお産」、これらはいずれも医学、科学の言葉で語ることができる一方、当事者による「身体や感性や直観をも含み込む知」によって語られる領域でもあり、スピリチュアルに関心のない層にも、そして一枚岩ではないフェミニズムの領域ともゆるやかに(この本で印象に残った言葉)つながっていきやすい曖昧な形式をなしている。

いずれにしても、それまで「穢れ」として共同体に管理あるいは排除されてきた女性の身体性は不可視な領域を保ちつつ、主体的に関われるものとしてその位置づけを変えつつあるということらしい。そしてそのプロセスで「スピリチュアル市場」に生じた生産者と消費者の相互的、流動的な関係は、特に孤独を感じやすくなるこの特殊な期間の女性たちに能動性をイメージさせるのかもしれない。無論それが、頼るのではなく努力をせよ、痛みや苦しみを乗り越えて「母親らしさ」「女性らしさ」をつかみ取れ、という要請に応えることにつながるリスクも含むわけだが。

さて、本書で最初に取り上げられるコンテンツ「子宮系」(第二章)は、それに関する書籍の執筆者のほとんどは女性であり、医療従事者が最も多く、鍼灸師やヨガ・インストラクターなどもいる領域だそうだ(51頁)。私はヨガをするので中身は知らなくとも著者の名前や馴染みがある謳い文句の書籍が登場するたび、知っているのに知らなかったこと、特に実践するわけでもないが特に疑問も持っていなかったことの少なくなさに苦笑した。現在のコロナ禍においても「生活や意識を変える」ことが求められてきた。しかし、果たして私たち人間はそんなにコントロール可能な存在だっただろうか、という疑問は疑問のままだ。いずれにしても切実な苦悩に短期的な「癒し」を提供する情報は貴重だろう。しかしそれを提供する側の個人的な物語やイデオロギーを透かしみるとき、ジェンダーバイアスなど現代社会がかかえる問題は依然としてそこにあることに本書は気づかせてくれるのである。

2つ目に取り上げられるコンテンツは「胎内記憶」(第三章)だ。著者はアップリンク渋谷で「かみさまとのやくそく」を見て大きな戸惑いを覚えたという。「胎内記憶」は胎教とリンクしている。本書では種田博之による胎教についての先行研究と数冊の書物、それらと「胎内記憶」についての書物(そのほとんどが産婦人科医の池川明によるという)を比較することで「胎内記憶」の特徴を明らかにする試みがなされる。この領域は男性の執筆者が多いのも特徴という。

「胎内記憶」が持つ意味や価値は一読しただけではピンとこないかもしれない。少なくとも私はそうだった。なので著者の戸惑いも理解できる気がするが、一方でこのコンテンツは人気もあるらしい。たしかに、私の仕事柄、知らない話ではないし、私が聞く個別の話からすればこのコンテンツが人気がある理由はわかるような気がする。しかし、ここでは本書から読み取れる以外のことはひとまず脇に置いておくべきだろう。著者が言説分析という手法を選択したことで得た広がりを経験によって別のものに変形することは避けたい。

ただ、「胎内記憶」に対して思ったことはメモ程度に書いておこうと思う。すでに書いたように切実な苦悩に短期的な「癒し」を提供する情報は時に必要だ。しかし、ただでさえ不安が強いこの時期になされるべきは、まだみぬ子供の行く末を「こうすると(orしないと)こうなる」的に直線的に予言することでは決してないし、infantの語源を無視して胎児に言葉や人格を与えることでもないだろう。しかし「胎内記憶」はそういう方向を向いているように思う。

この章に限らずだが、母になる女性に負わせるものを少しでも減らす、預かる、小分けにするなどしながら、彼女たちが自分を許す(=罪悪感を持つ)物語を「胎内記憶」に語らせずとも大変な日々を過ごしていけるように気を配ること、何ができるわけではない、という無力をともにすること、そういう言葉のいらない関係の必要性を思う。

「スピリチュアル市場」のマーケターには明らかに前者の方が向いている。一方、後者の態度を維持することは、母親と胎児の関係を重要視する(≒孤立させる)結果、父親をいなくてもよい存在、最初からいなかったかのようにする可能性を減らすかもしれない。妊娠・出産のプロセスはひとりでは生じ得ないということはすでに書いた。不安の軽減という観点からいえば、「胎内記憶」に語らせなくても、二人の大人のペアで、あるいはユニットで、生まれくる胎児について、親になる不安について語り合う方がいろんな不安に対応できると思うがどうだろうか。

最後、3つ目のコンテンツはすでに何度か登場している「自然なお産」である。「自然なお産」は「妊娠・出産をめぐるスピリチュアリティの、いわば総仕上げとして設定されてきた」と著者はいう。そしてそこには次の第五章でみるフェミニズムの影響がある。なぜなら「自然なお産」は、「男性中心の医療体制において妊娠・出産が組み立てられてきたことに対する異議申し立てでもあった」からだ。

2000年代に「自然なお産」に関する書物が倍増し「スピリチュアル市場」の興隆とともにこのコンテンツが顕在化したという。ちなみにこのコンテンツの書き手は産婦人科医や助産婦がほとんどで、女性の書き手が比較的多い傾向にあるという。また欧米からの影響が強いのも特徴だそうで、海外の「自然なお産」との違いも興味深い。

さて、「自然なお産」の一応の定義は「医薬品や医療にできるだけ頼らずに、女性が主体的な意識を持ってお産に向き合うこと」(113頁)とある。また「自然なお産」は、「子どもを分娩する体験そのものが神聖な意味を持つという価値観に接続している」。(121頁)

ここでもいくつかの書物が取り上げられるが、なかでも強烈かつ対照的なのが「自然なお産」のパイオニア、産婦人科医の吉村正、そしてホメオパシーを日本に広めた由井寅子だ。

両者は、母となることを重視し、母となる過程として「自然なお産」の意味を強調したが、彼らにとって「自然なお産」はすべての母親と子どもにとって好ましいこととは限らず、弱い母体や子どもが「自然」によって「淘汰」される機会でさえある、という。著者が少ない言葉で指摘するようにそこに優生思想的な要素を見出すのはたやすい。

ここでも本文から引用するが、彼らには「お産が母体にとっても、子どもにとっても「命がけ」であるべきだという信念」がある。「スピリチュアル市場」の形成に大きな影響を与えた由井寅子は、医療を排した「自然なお産」の重要性を繰り返し説く。母親として愛情を持ち強く生きるというとき、この「強い母親」とは子どもの死をも乗り越えらえる内面性を備えた母親のことを指している。また、由井にとっての「自然なお産」とは、健康な子どもとそうではない子どもとが、いわば峻別される機会であり、そこにも「自然淘汰」という差別的とも言える価値観が透けて見えるのである。自分自身がシングルマザーで二人の子供を育てた経験があるせいか、由井にとって「母になることとは、父親の役割をも凌駕する存在になること」らしい。

ここまで客観的な立場を維持し、問題点の指摘も著者自身の主張も最小限に留めていたかのようにみえた著者は、3つのコンテンツの分析の最後でこう述べる。「問題なのは、日本における「自然なお産」の言説には、生命の権利を許容する優生思想的な傾向が見られることである。」「第三者が、妊娠・出産に介入することは私的な領域に踏み込む行為であり、それが妊婦の安全性を時に揺るがしかねない危うさを含んでいることを考慮すれば「自然なお産」の促進は決して軽視できないことである。」と。

また「この背景には現在の産科医療が男性中心であることに起因する問題がある」。著者は「自然なお産」における「自然」とは、医療が内包するイデオロギーへの対抗として培われてきた概念と言えるだろう、と述べる。(144頁)

さらに、この章では、男性の位置づけが海外と日本では異なることにも言及している。「海外における言説では、男性はお産に介入する医療を象徴する存在というフェミニズム的観点からの医療批判が垣間見られるが、日本ではあまり強調されない」。また「海外では分娩とセックスが同列に論じられるのに対して日本では男性は分娩や育児における補助としてのみ登場するにすぎない。男性はあくまで補助的、脇役的な位置づけ」「妊娠・出産の担い手たる女性の存在を聖性視し、男性にとって不可視の存在として設定している。」「逆にいえば妊娠・出産において男性は何ら責任を負うことがなく、最初から免責された存在として見なされていることを指す。」「こうした状況が男性の産婦人科医によってより強調されているのも興味深い点」とここで述べられておりペアとして対等に支え合う男女を見出すことは難しい。

これらにフェミニズムとの関連を見出すのは自然な流れであり、本書はそのまま「女性・「自然」・フェミニズム」と名づけた一章へ向かう(第五章)。この章だけは読むのに少し苦労した。

ここまでの分析から見えてきた「妊娠・出産のスピリチュアリティ」における女性の身体性そのものになされる価値づけ、そしてその価値づけにおいて「自然」という言葉が持ち出されるのがこうした言説の特徴である一方、「妊娠・出産のスピリチュアリティ」をめぐる言説ではフェミニズムが遠景に置かれたり、あるいは捨象されたりしている、ということに著者は触れ、「日本社会において、こうしたフェミニズムの排除が置かれるのはなぜか」ということを検討する。

ここで参照されるのは疫学者の三砂ちづる、評論家の青木やよひというフェミニズムに対して対照的な立場をとってきた二人の議論である。そして青木のいう「自然」を批判する社会学者の江原由美子、三砂の主張を「宗教」であり「女性嫌い」が透けて見えると批判するウーマンリブの旗手田中美津らも登場する。

批判が向けられているのは「身体性とジェンダーとが不可分という前提に基づき、自明のものとする見解そのもの」だという。一方、著者は別のパースペクティブに立つ。著者は、ここまでみてきたような妊娠・出産と「自然」との結びつきについて、聖性が持ち込まれている点が見過ごされている点に着目する。そして、フェミニズムとスピリチュアリティの接点である「自然」という言葉の役割や意味について整理するために、三砂(フェミニズムに批判的)と青木(エコ・フェミニズムの枠組み)という対照的な二人の議論を「自然」という観点から整理する。

この二人は「女性の身体性を「自然」と結びつけることで、聖性を付与している点で共通している」。一方、「妊娠・出産と「自然」を結びつける立場にありながら、その方法や目的において、特に母と家庭に向けた視線」が異なるという。

たとえば三砂の見解を貫くのは「女性が子どもを産んで家族をつくり、その子どもがまた家族を作ることへの絶対的な肯定」である。一方、「やさしさや暮らしの感覚を含めた感性の復権要求」こそが女性解放運動のあるべき姿ととらえ、「産む性である女性のトータルな自己実現」を価値あるものと位置づけ、「性」の分類を行い、その先に包摂的、超越的な「自然」を見出した(152-153頁)青木。彼らの考え方の類似点や相違点など詳細はぜひ本書で確認してみてほしい。

それにしても三砂が女性の「身体性」に向けるフェティシズム、そこを彩る「超越的な色彩」は日常のそこかしこでみられるような気がする。

さて、ここまで読み進めれば「スピリチュアル市場」のコンテンツはあくまで、母となり保守的な家族や家庭に居場所を見つけることへと接続しており、そのために、女性の身体性と「自然」との結びつきが強調されるのだという現状(180頁)にも納得がいくだろう。

何となく書き始めたわりになんだかずいぶん長くなってきてしまったのでこの辺りにしておくが、素人の印象として、第五章で著者はこのかっこ付きの「自然」の扱いに手を焼いたのではないかというような気がした。そしてもしかしたらこれが言説分析の難しさなのではないか、とも感じたが、私は言説分析に全く明るくないのでいずれ学び、このような印象についても再考できたらと思う。

第六章はそれまでの議論のまとめと今後の課題が書かれている。もっときちんと読めばさらなる発見があるに違いないが、とりあえずの要約(というかほぼ引用)と感想をメモがわりに書いてみた。