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精神分析

あつさとか静けさとか。

風が気持ちいい。カラスが大きな声を出しながら通り過ぎた。今朝は柿と葡萄とカントリーマアムの秋っぽいやつを紅茶と一緒に。温かい飲み物をエアコンなしで美味しくいただける季節、ありがたい。なんか昨日は暑かったけれど。あと夜、アイロンをかけたら暑かった。自分の家で手作業で仕上げているクリーニング屋さんは昔だったらすごく暑かったことでしょう。それに対しても素敵な工夫がありそうだけど。今はあまりみなくなったかなあ。地元で長くやってきたクリーニング屋さんもなくなってしまった。荻窪の小児科や保育園で働いていた頃、教会通りにごはん食べに行ったり、お散歩やお買い物に行ったりしたけどそこに東京社というクリニーニング屋さんがあって閉まっていても外観が好きでよく写真を撮った。きれいな水縹色の壁と不思議な作りの建物。この夏はこんなに暑かったけど作業はどうされていたのだろう。荻窪の古い商店がどんどんなくなっていくのをちょうど目にしてきたけど、再開発たって、ねえ。川勢も老朽化で無くなってしまったらしいし、街の顔としてありつづけてくれた店も大切にされないのっぺりした世の中って寂しい。

まだ朝の静けさが続いている。あと少ししたら駅に向かう人の足音が聞こえ始める。私もその一つになる。

つけたばかりのエアコンとかけたばかりの洗濯機とこうしてタイプをする音、そして時々、もぐもぐする音と飲み物が喉をごくんとする音、季節が秋で、これが夜だったらこれだけでものすごく静か。これが朝だと全然違う。朝は意外と音が多い。太陽が登り始めた頃。鳥が起き出した頃。谷川俊太郎の詩が書いてそうな景色が次々と立ち上がり始める時間。この種の音が少しする場合の静けさとただただ続く釧路湿原を行くときの静けさも全然違う。釧路湿原を歩き始めたら大地が揺れた。地震だった。どこにも誰もおらず、それ以上揺れないことを見込んでまた歩き始めたのは何年前か。比較的大きな地震だった。再生可能エネルギーの促進か自然保護か、って自然保護に決まってるだろう。釧路湿原をひとりで歩いてみたらいい。自分も自然の一部であり、常に生かされているという感覚が少しでもあるのであればわかるだろう。

私は今日までの原稿を書かねばならないのだった。当初とは異なるテーマを思いついてしまったのでまだ半分くらいしか書けていないのでほぼ無理だと思うのだけど。万が一書けたとしても内容的にも採択されなそうだけどこの数時間でできるところまでやって、今回無理なら次回の下地にしよう。続けていこうと思ったのに全然ダメだったな。まあ、お仕事は今日もがんばりましょう。良い1日になりますように。

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自律神経、『W・R・ビオンの三論文』

朝焼けがきれいだった。でもまだ早くて「自律神経を整えるには」と考えながらぼんやりしていた。南の窓からの風が冷たくて気持ちよくて離れたくなくてベッドに本を持ち込んでみたけど寝っ転がってぼんやり本を読むのが昔よりずっと億劫になってきた。好きなものを両立できないって悲しい、とか思いながらしかたなく起きて家事をした。今日も印度カリー子レシピにするか。きのこも色々買ってこよう。一年中食べてるけどやっぱり秋の食材といえばきのこでしょう。とはいえこの前どこかのファミレスで松茸のメニューがあって松茸はここで食べなくてもいいかなあなど話した。特別感あるものは食べられたら嬉しいけど食べなくてもいいし食べるなら特別な感じで食べたいとか思う。

日曜日は唯一早めに夕飯を食べられる日なのでダラダラ食べてしまった。夜に作業をする時間があるぞ、と思ったのに気づいたら寝ていた。ぼんやりやリラックスが得意なのはいいけど、私が個人的に怖いのはそれで消化が悪くなること。胃腸の働きを正常にしたい。色々気をつけているんだけどな。

こうしていてもなんかいつもと違うリラックスがほしくてラジオをつけてみた。昔は朝はずっと聴いていた番組。ラジオの台本を書くバイトに応募しようとしたこともあった。なんでしなかったのか。当時は今よりずっといろんなもの書いていたし、エネルギーあったから出しちゃえばよかったのに。採用されなくてもいい経験になったかもしれない。私のことだから郵送(当時はなんでも郵送)が面倒だったのかもしれない。すごくありうる。変わってない。

昨日、寝落ちする前に開いていたのは、昨日書いたフロイト「心理学草案」がらみで『W・R・ビオンの三論文』(2023,岩崎学術出版社)。この翻訳も日本の精神分析家の福本修先生。編者のクリス・モーソンは2020年に急逝。ビオンの二人目の妻、フランチェスカとともにビオン全集の編集に関わったクリス・モーソンの仕事を引き継げる人なんているのだろうか。この本は各論文(講演記録)にクリス・モーソンの編集後記がついていて、本の半分くらいの分量があるのではないか。そこがおすすめ。いろんな事情や背景やいろんな資料があるんだなあと驚くし、その内容も勉強になるし面白い。序言はロナルド・ブリトン。

昨日は午前も午後も別のグループで事例検討会をしていた。午前は初回面接のグループ。午後は仲間内で定期的にやっているグループ。ビオンは第一論文「記憶と欲望」(1965)で「臨床報告」と呼ばれるものは現実の経験だったものの変形物だという。でも、とビオンはそこを入り口にもっと広い問題を語っているので部分的に引用することはしないけど(したいけど)、ビオンがこの講演の中でフロイトに倣って言う「人は本当にほとんど盲目になる必要がある」の部分に関してフロイトを引用しておこう。いや、フロイトを引用しているモーソンの編集後記を引用しよう。

「フロイトは一九一六年五月二五日(原注だと五月一三日)のルー・アンドレアス=ザロメへ宛てた手紙の中で、それに言及した。フロイトが手紙で述べているのは文章を書くという行為についてだが、彼が「私は、すべての光を一つの暗所に集中させるために、意味のまとまり、調和、修辞そしてあなたが象徴的と呼ぶあらゆるものを放棄して、自分自身を人為的に盲目にしなければならない」と書くとき、彼は明らかに、精神分析的な注意自体に言及していたーーそれは、分析者が「自分自身の無意識を受信機のように、患者が送って来る無意識に向ける」(フロイト、一九一二、一ー五頁)ことを可能にする、平等に漂う注意にとって必要な条件である。」

フロイトを読んでいるとビオンの言っていることの含蓄も実感する。ビオンの方がフロイトより心揺さぶる書き方してくれるし。ウィニコットほど変なマイルドな感じがしないし。どの書き方も好きだけどビオンの誠実さは特に好きだな。原著で全集を買ったのはウィニコットの方だけど。

もうこんな時間だ。今日も暑くなるんだって。ただでさえ夏の疲れが残っているでしょうから無理せず過ごしましょう。お元気で!

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精神分析

早朝雑事、「心理学草案」、Kohon論文

今日は曇りなのかなあ。光はあるけど水色とグレーと白がどれも薄く混じり合ってる。どんよりしていないのはいいね。風も涼しい。

とだけ書いて果物とお菓子でお茶して、朝早くから大掛かりな掃除というか色々した。が、まだこんな時間。余裕で間に合う。

昨晩はReading Freudで「心理学草案」の第三部、主に「注意」について書かれているところをじっくり読んだ。欠席の人が多かったのともうすぐ読み終わってしまうのでかなり丁寧に読んだ。そしてアンドレ・グリーンを楽しく読むモチベーションが高まった。今年度はあれやこれやでグリーンの購読会にあまり参加できていないけど一、二年前と比べるとずいぶん理解が深まった気がする。「心理学草案」を精読せねば、という気持ちもグリーンを読んでから強くなった。オグデンはウィニコット発が多いけど最近の議論はそもそもフロイトの初期に戻りつつのアップデートな感じがしている。「心理学草案」だけ読んでも何が何だかだが、症例論集、技法論集、メタサイコロジー論をはじめ、フロイトの書いたものをずっと読んできたなかで読むと「注意」という概念ひとつとってもそれが精神分析の中でどう扱われてきたかに関心が向くから楽しい。ビオンはフロイトは「注意」に関する研究を展開しなかった、といってるけど、そう言いながら自分が展開しているわけなので源流を読んでおくのは大事。昨日は「草案」の中でも「接触障壁」について検討しているKohonの論文があると教えてもらったので帰ってからそれを読んでいた。2014年のInt. J. Psychoanal., (95)(2):245-270、Making contact with the primitive mind: The contact‐barrier, beta‐elements and the drives。

公開されている部分のアブストラクトはこんな感じ。正確には原文を

臨床ヴィネットを出発点として、ビオンの「接触障壁」の概念――「精神現象を二つのグループに分け、一方は意識の機能を、もう一方は無意識の機能を果たす」(Bion, 1962)――と、それがフロイトの欲動理論といかに関わるかが探究される。ビオンの概念は、フロイトが『心理学草案』(1950[1895])で記述した「接触障壁」と比較される。この比較を通じて、ビオンのメタサイコロジーのさまざまな側面、とりわけビオンが量的・エネルギー的に「刺激の付着‘accretions of stimuli’」と記述した「ベータ要素beta-elements」という概念が明らかにされる。接触障壁の機能を介したβ要素の処理は、フロイトが述べた欲動の「拘束‘binding’ 」の発展形として理解される。ただし、ベータ要素は内から生じる衝動だけでなく、「未処理の」外的刺激も含む点で異なる。「β要素」と「欲動」は、ともに心が知りうるものの限界を定める概念として理解される。さらに臨床素材が提示され、著者の主張――すなわち、ビオンの接触障壁および関連する概念(α機能、コンテインメント)は、フロイトのメタサイコロジーの経済的・エネルギー的側面に照らして理解されるべきである――が論証される。

最初から臨床ヴィネットがくる書き方で興味深いけど長い。長すぎる。のでちょっとずつ。こんなことよりすることあるけど関係ないことばかりしてしまうな。人間らしいといえば人間らしいか。さあ、いいお天気になってきた。いいことありますように。

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俳句 精神分析 読書

よあけ、気づき、分析家の自由

どの向きの窓を開けても暗い。夜明けが遅くなってきた。ユリー・シュルヴィッツ作の「よあけ」を思い出す。静けさと美しさに驚く絵本。読んでなくても見たことがある人は多いかも。うちにもあるはずなんだけどどこだろう。あれは瀬田貞二訳。瀬田貞二は中村草田男の俳誌の編集長もやっていたはず。翻訳家は俳句も上手そう。あとで調べてみよう。

昨日の朝、馴染みのクリーニング屋さんの小さな花壇に朝顔が咲いていた。大きかった。少し散歩してまたそこを通るともう萎んでいた。びっくりした。

岸本尚毅の朝顔の句を読んで、私は本当に注意力が足りないなと思っていた。じっと観察してそのものになってから広がる世界。私には到底難しい。それにしてもどんな句だったか。朝顔のしぼみて暗き海があり、だっけ。岸本尚毅の先生だった波多野爽波の句も読んだがそれも忘れてしまった。注意力も記憶力も足りなすぎるが、自分のできていない部分に細かく気づくと「ちょっとそこ注意してやってみよう」と思えるのは彼らがいい先生だからだろう。押し付けるわけでもなく「あ、俳句ってこんな感じなのか」という直感的な良さをくれる。それがモチベーションになる。

小さな気づきも大事だが、もう本当に書き仕事は進まない。仕方なく自分の関心がなんだったかを忘れるというまさかの事態が起きないように細々とインプットを続けている。サンフランシスコで開業している精神分析家トーマス・オグデンの今のところ一番新しい著書、What alive means: On Winnicott’s “transitional objects and transitional phenomena”は表題論文という感じなので読み応えがあった、というか、オグデンが書いてきたこと、やってきたことがますます洗練されていくのを読むのはすごく勉強になる。オグデンも読者自身が発見し創造していくことを求める書き手なので私も色々考えながら読んでいる。オグデンはウィニコットと同じく精神分析家である、精神分析家になることをものすごく意識的に言語化している人なので、精神分析実践を伴うとその言葉にますます切実さを感じるし、まだその感覚わからないな、と感じることもある。この論文は、ビオン、シミントン、ピック、コルタートを引用しながら自分の症例を通じて分析家の考える自由と分析の形や枠組みを検討している。この作業はオグデンがフロイトを読み直すことを含めてずっとやってきている仕事だと思う。

オグデンがこの本のこの論文の最後の方で参照するNeville Symington (1983) “The Analyst’s Act of Freedom as Agent of Therapeutic Change”(International Review of Psycho-Analysis, 10: 283–291)の“a certain [restrictive] patterning of unconscious knowledge” なのだけど、この論文をPEPで読む権限は私にはないので(お金払えば読めるだろうけど)ネットで読める範囲のものを読んだ。でもこれこの論文のどこに書いてあるのか探せなかった。

オグデンの論文だとこんな感じで訳せる。

「Symington1983)は、分析家の「考える自由」についてBionの続きから論を起こす。Symingtonにとってthe analyst’s freedom to think は分析家が自らを「ある種の(拘束的な)無意識の知のパターニング “a certain [restrictive] patterning of unconscious knowledge” 」から解き放つ能力に依存する。分析の開始時から、分析の二者はひとつの「corporate entity」の一部となり、そこから分析家は、独立した思考が可能であり、かつそれに責任を持つ分析家としてのアイデンティティを回復しなければならない。」

シミントンの元の論文だと超自我と絡めた説明になってるようだけどオグデンは超自我という概念を好まないのか?この辺ももうちょっと見直し。オグデンはウィニコットを中心に引用するが結局フロイトに戻る。私はつまみぐいだとできない実践のために訓練積んできたから地道な作業だけどやらねばねえ。雑な言葉遣いで精神分析という治療文化を自分の理解の範囲に押し込むなんてことしないためにも。それじゃ面白くなくなってしまうものね。どうしても分析における二者はそういうナルシシスティックな共同体になりやすいわけだけど、そこから自由になる能力を発展させよ、ということなのだろうし。

それにしても・・と言っていてもキリがないのでとりあえず今日をはじめましょう。良いことありますように。

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テレビ 精神分析

朝の光

全方位、空がきれい。夏の間、大きな窓のせいで部屋が異様に熱くなってしまうのでブラインドの上に東側の窓に遮光シートをつけていた。朝の部屋が薄暗いのは嫌だったけどあの暑さだと通常溶けないものまで溶けそうだった。それを外した。ちょうど日の出の時刻。部屋が明る句なっていく。この1週間、家ではエアコンいらずでとても気持ちよかった。秋になって仕事が捗るような気分でいたが自分の書き物は全く進まず。締め切りに間に合わなそう。10月末までのはがんばろう。仕事ではない「お手伝い」は心も身体も普段とは違う部分を使っているが、個別に疲れる作業にしたくないので私の心身の全体に馴染ませていきたい。涼しくなって身体は楽になったから色々工夫できたらいいな。

花壇とベランダを有効したいと20年くらい言い続けている。引っ越してから数年はいろんな植物が部屋の中にもあったが枯らしているうちになにもなくなった。豆苗とか、キッチンで再生できるものはやるけど。あとミョウガはよかった。放っておいても何年もなってくれた。また植えよう。あとはとりあえずベビーリーフを植えよう。プランターだけはたくさんあるし、種まきにはちょうどいい時期みたいだし。それにしても体感では陽射しが気持ちいいけど視覚にはまだ結構強い。朝の光ではあるけれど。

今日は朝ドラ「あんぱん」最終回か。いいドラマだった。メルヘンという言葉が久しぶりに心に響いた作品でもあった。私はアンパンマンは大人になって子どもたちと関わるまでよく知らなかったけど「詩とメルヘン」は大好きだった。そのうち高知県香美市のやなせたかし記念館アンパンマンミュージアムに行きたい。アンパンマンはのぶさんとの子どもたちだからおうちを建ててあげないと、って建てたんだっけ。なんかそんな話をどこかで聞いた気がする。子供がいるんだからおうちがないと、というのは生きるには食べ物がないと、という発想と同じだと思う。そこに人がいて生きていこうとしてるんだから必要なものを、という感覚を忘れないでいたい。そういう「普通」の発想とは異なる行為が世界中で行われているわけだけど、だったらなおさら。

今日も寄り道しつつがんばろう。いい一日になりますように。

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写真 精神分析 精神分析、本 言葉

朝ドラ「あんぱん」、藤山直樹「精神分析家、鮨屋で考える 再び」、中井菜央「ゆれる水脈」

祝日があると曜日感覚も身体感覚もなんかおかしい。それでも明け方の空はいつもきれい。ずっとこのくらいの気温であってほしい。絶対そうならないってわかっていてもそう願ってしまう。

朝ドラ「あんぱん」、最近は毎日冒頭から泣いている。見る時間はバラバラだったがとても好きな朝ドラになった。SNSでのコメントも楽しかった。朝ドラも大河も大体決まった人たちの秀逸なコメントやとっても素敵なイラストを見て楽しんでいたのだけどたまに「え!フィクションにそんなこと求めるの?」「全部は書いたり見せたりできないのが作品ってものでは」「私たちがすでに知っているような人たちがいかに名を残さない人たちに支えられたかという話なのでは・・・」となるコメントを見かけたりもした。こういうことはみんなで話す会を開いたりして、そこにある程度知られた人がいる場合にもよくある。そんなとき私は「ハテ?」となる。すでに名もあって、語る場も持っている人の話はほかで聞けるけど、こういう場ではそうではない人の声こそ面白いのではないの?と思ったりする。そうやっていつも同じような人同士で対話?するグループみたいなのができて、そういう人が権威的に「権威」を語ったりするようになるのかもな、と思う。

話飛ぶけど、子供たちが口々にしゃべっていることをよくわからないけどなんだかすごいぞ、と一生懸命聞き取る方が、いつも同じ人が同じようなこと話しているのを聞くよりずっと楽しいんだけど、と私は思っている。子どもという生物の説得力は大人の言葉よりずっと力がある。

あるいは、ひっそりと、「うまく言えないんだけど・・・大きな声では言えないんだけど・・・ほんとは自分はこう思ってるんだ・・・」という語りを聞くことの貴重さ。それができる場はとても大事だし、誰にも知られていない自分の、誰にも触れられたくない自分を守ることの価値って今はほんの一部の人としか共有できなくなっているのかもしれない。守りたいのは本当に小さなことかもしれないのにあなたのことを知りもしないよく知られた人に抱えてもらいたい。そんな大きな願いで自分を保ちたくなる時代なのかもしれない。

この前、ハイキングで山から降りてくる途中、大きな鉄塔が立っていた。「すごい」と見上げているとそばにいた多分少し年上の人が「すごいよねえ、こんなの人間が立てるんだから」と笑った。本当にそう。いろんな山に道ができているだけでも「一体どうやって」と驚くのに、この鉄塔、これと同じものがあっちの山にもこっちの山にもずっと続いてるってことでしょう、一体どうやって、どのくらい時間をかけて、と思う。空高く伸びる鉄塔を一緒に見上げならちょっとお話ししてその人は先に降りていった。でもすぐに追いついてしまった。結構岩が多いしどうしようかな、と思って距離をとっていると向こうが止まってくれた。お互い「すいません」「ありがとうございます」と言い交わし、先に行かせてもらった。この日、その人と私は同じルートを歩いていたようだったけど時間をかける場所がちょこちょこ異なっていたようで抜きつ抜かれつした。そのたびに知っているような知らないような雰囲気で交わす一言がなんだか面白かった。

なんて話、どうでもいいようでいて、ハイキング仲間に話すと楽しく盛り上がったりする。みんな似ているけどちょっとずつ違う体験を話したり聞いたりしながら山でのコミュニケーションのあれこれに思いを馳せる。こういう「持ち寄り」が新しいコミュニケーションにつながったり、安全につながったりする。最近、熊が怖くて気軽に山道を歩けなくなっているが、これからもどうにか自然と過ごしていく必要がある私たちには大切な会話だ。

WEBみすずで精神分析家で日本精神分析協会の訓練分析家でもある藤山直樹先生の鮨の連載が再び始まっていた。みすずの連載は紙で届かなくなってからほとんど読まなくなったがこれはWEBで読んだ。藤山先生の連載は「精神分析家、鮨屋で考える 再び」。第一回は「鮨が生き続けること」。「生き続ける」ということに限界を感じつつ生き生きとそれにチャレンジしつづけるのは鮨も精神分析も同じだし、鮨屋の危機感を老齢となった精神分析家はもちろん強く共有している。

今は精神分析基礎講座と名前を変えたが、当時まだ対象関係論勉強会と呼ばれていたセミナーで、藤山先生の夏のグループの案内をもらった。申し込みからすごく緊張して、オフィスに伺ったのが先生の一冊目の単著『精神分析という営み』が出版されたときだから2003年。そのグループで一緒だった人たちの数人とはその後も関係が続き、当たり前だがそれぞれ20歳ずつ歳をとった。私もそうだが、精神分析家になった人もいる。

あの頃の日本の精神分析は活気があったと思う。小此木啓吾も土居健郎もいた。当然だが、彼らが遺したものは良いものばかりではない。まだ内側にいなかった私もそのあとすぐに様々な噂を聞くことになったが、自分のことで精一杯だった私は、精神分析でもなんでもただただ学べることが楽しかった。重度の自閉症の人たちと週末を過ごしながら教育相談員やスクールカウンセラーをやり、クリニックでの臨床も、塾の講師もしてた。とりあえず臨床家でありたかったし、精神分析を受けるためにも稼ぎたかった。若かった。

ここ数年、子育てがひと段落して久しぶりに学会にきたという友人やその頃からの付き合いの友人ともそんな昔話をすることが増えた。「あの頃はよかったよね」と言いたくなる感じを「なんか変わったよね」みたいな曖昧な感じで表現することも多くなった。時代が変わるとはそういうことなのだ。それでも修行の期間が長い私たちは簡単に去るわけにはいかない。私なんてまだ始まったばかりなのに、いつまで続けられるのだろう、と身体の不調や加齢を実感するにつけ不安になる。藤山直樹の年齢になればますます切実ななにかを感じることになるだろう。小さな日本の小さな訓練組織である協会の基盤づくりをしながら下の世代を育てることは、すでに整った組織で数多くの訓練分析家が機能している国のインスティチュートとは事情が異なる。今回の連載にはニューヨークに渡った馴染みの寿司職人、中澤親方という人を訪ねたときのことが書かれている。似たような危機を見据えながら下の世代を育て、自分が愛し、信じた文化が生き延びることを願い、自らも日々のそれを仕事として営む。しかも生き続けるためには生き生きと、というのはウィニコットとオグデンと藤山直樹の受け売りでもあり私の実感でもある。そんなあり方が人間にとってもっとも自然な姿だったらいいのに、と私は思うが、現実はそうではないような気がする。どうなるのかどうするのかどうしてくれるのか、とか言っていないで、私や私たちができること、したいことを模索していくことが必要だろう。何を言ったところで時間は有限だ。たくさんの支えを得ながら楽しめたらいい。

WEBみすずには8月号まで写真家の中井菜央さんの「ゆれる水脈 写真 表象の先に」が連載されていた。写真家ならではの細やかな観察と広がりのある言葉選びが魅力的で、知っている場所でまるで知らなかった景色を見せてもらっているような気持ちになる不思議で豊かな連載だった。新章を加えた書籍化が予定されているとのこと。楽しみに待ちたい。

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精神分析

心と身体

西の窓を開けたら向かいの家を薄いオレンジ色が覆っていた。南の窓から見える家はまだなのに。建物の高さで個々の家に訪れる日の出は違うということ。この時間の山の中はまだ暗いだろう。

頭を使う仕事の前に低山に登った。普段の筋トレに加え、時折、ハイキングをするようになってから、ハイキング用の筋力と体力が戻ってきたようで平均より(ヤマレコで比較)速いスピードで行って帰ってこられるし、帰ってからも仕事ができる。イレギュラーな用事と比べたら全く疲れない。標高300メートル台くらいなら簡単ではあるけど、遊びではなく合間にいくハイキングは、考えや気持ちを整理するためでもあるので岩場や水辺やそれなりの起伏はほしい。とはいえ、これも心の状態がよければそんなものなくても山は十分豊かで様々な驚きや発見をくれる。しかし、私がこういう目的でハイキングをするときは当然心の状態があまりよくない、あるいは少しでもよくしたい、というときなのできちんと目を開かせてくれるもの、耳を傾けさせてくれるもの、自分の貧しい感覚でも気づきをくれる外部を必要としているときだ。心が豊かなときはなんでもない見慣れた植物にレオ・レオーニが描いた平行植物を重ねたり、そういう知覚のジャンプができるわけだが、何かに囚われているときはまず自然界の秩序に触れて自分のちっぽけな囚われやこだわりに別の視点を持ちこみたい。しかもそれを限られた時間で、となると、環境に求めるものが増えてしまう。この前も「なんかこの道つまんない」とダラダラ続く緩いのぼりを歩きながら今私が「つまんない」と思っているありうる理由を口にしてみた。意識できている腹が立つ事柄と出来事が本当に腹を立てるようなものだったか、ということを考えながら一気に言葉にしながらこの山道を「つまんない」とか思っているのは「つまんねーな」「面白くねーな」という私の気分であって、道がやや整備されすぎて障害物がないとか薄暗い杉林ばかりで鳥も鳴いていない、とかそういうせいではまったくないんだよな、と思った。そしてそういえばなんでこの森、こんなに鳴き声が少ないの?オナガのぎゃーっとした声しか聞こえてこないぞ、とか耳がしてくれていた仕事に気づく。こうやって感覚が流れ出すのを動きながら待つ作業。

30代でまだ元気だった頃、心がそんなに健やかだったとは思えないが、分析を受ける前でまだ自分のダメさに本気で気づいていなかった分、何も考えずに生きていられたのだろう。やたら体力があってトレランをやろうと道具を揃えようとしたことがあった。トレラン用のリュックがあまりにも似合わずショックだったところまで覚えているが、その後忙しくなったのか、分析的な治療(分析ではない)を受け始めたせいか、トレランどころか運動もしなくなった。ヨガは続けていたか。時間さえあればどこまでも歩いていく癖はあったのとまだ自分で開業する前でいろんな勤務先が川や山が近くてしょっちゅう散歩していたのでなんとなく足腰の健康は維持されていたのかもしれない。50代になってこれだけ動けるのはとてもありがたい。こういうことを本当にありがたいと思うようになったのも加齢やいろんな理由で心身の様々な不調を経験したから。若いときに「若い人にはわからない」と言われた理由が本当によくわかる。経験した人にしかわからないことを共有するためにはその経験をすることが大事なのではなくてこの「わからない」という体験、つまり経験とは本当にその人独自のものだ、ということを身をもって体験する必要があるのだろう。

今朝はおいしいおいしい葡萄を食べた。ただ「ぶどう」と書かれた片面がセロハンで透明になっている三角袋に入って送られてきたのだけどすごくおいしい。巨峰なのかな。冷凍しておいたぐり茶の新茶も開けた。ようやく熱いお茶をのんびり楽しめる気候になった。身体も心もできるだけまともに動くように整えて行けたらいいなと思う。今日は水曜日。間違えないようにしよう。

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睡眠、ロジカルに。

東の空がすごくきれい。ピンクがかった鱗雲。早朝から小皿を割ってしまった。随分前から使っているムーミンのお皿。最初は5個あったのに今は2個しかない。この1年で2つ割った。一番手に取ることが多いお気に入りのお皿だからその分リスクも高いのか。比較的きれいに割れると知っている安心感からかそれほどショックを受けずにあっさり片付けられた。昨晩もたくさん頭と心使って言語化もして疲れたのでとりあえず眠って回復せねば、と睡眠に挑んだ、といっても気づいたら寝ていた。睡眠に関する研究はたくさんあれど、なかでも信頼性の高い知見を参照しつつ、自分の生活と自分の感覚を頼りに自分にとって最良と思われる睡眠を確保するのがベターなのだろう、と思うのだけどなかなか難しい。私は同じ曜日の同じ時間に同じ人と会っていく仕事だからはじまりとおわりは毎日ほぼ同じだけど日中がごちゃゴチャする日がある。外部での仕事とか生活の色々とか、ここで時間を確保するぞ、と気合を入れてスケジュール調整しても毎日のことではないし、イレギュラーなことも多いし、私の管理を超えた部分が多いので、休息もうまく取れないし、睡眠もうまく取れないし、となる日もある。移動もものすごいラッシュとかはもう何年も避けてるけど東京のラッシュは朝早いし、昼間は行き先によって全く様相が異なるので、ルーティンになっていないことはリサーチも追いついておらず「今日は運がいい!」とか結果オーライ思考で、全部運のせいにしかねない。リサーチといっても、私の生活とメインの仕事のためにいかにエネルギーを確保するかが目的なので様々な情報を頼りに自分でやってみて「これならいける」「これよりはこっちのやり方の方がいい」とか実証していくしかないのである。そのうち慣れる、から、そろそろ慣れてきた、となるまでには身体が持たなくなるかもしれないし、また別の事柄で日常はたやすく崩れるかもしれない。そういういつ何が起きてもおかしくない毎日を「まあなんとかなる」と腹をくくることは気持ちではできるが疲れるとますます失敗が増えたりするので、そうそうなりゆき任せにもできないのが現状。若い頃の嘘みたいな体力なんてもうとっくにないし、それでも昔より観察力と思考力と忍耐は身についているはずなので細々と獲得してきたものを生かすべし。ということで毎日疲れ切りながら生活の仕方を模索するのは悪くない。

中年に差しかかってからずっと精神分析を受けながら年を重ねてきた。本当にたくさんの臨床現場を開業一本に変更していく中で、自分のやってきたことが何に繋がっているのかを考えられた時間は本当に助けになった。自分が精神分析家として仕事をはじめてから、それまでよりずっと、人々には本当に様々な、本当に複雑な事情があるという現実を突きつけられるようになったので、なにかをたやすく判断したりしないことがもっとも大事なような気がして、持ち堪えることにものすごくエネルギーを使うようになってきた。だから身体のメンテナンスにも気を遣うようになった。やりとりにおいては物事はもっと複雑なのだから論理的に考える必要があるのではないか、と主張するようになった。それはとても当たり前のことなのだが、大抵できていない、というというと反論もあるだろう。そういう反論にエネルギーで消耗したくないのだ。それはそうだろう、と。それだけのことだから。それにしても、まさか私が論理的であることを強調するようになるとは。でも精神分析を体験して、結局それがもっともシンプルにトライすべきことなのではないかと思うようになった。そもそも、に立ち返ったり、おかしくなったときにもう一度最初から落ち着いて、きちんと観察して、ロジカルに考えてみよう、と。そうできるようになるまでにものすごく揺さぶられたがそれもプロセス。自分ひとりでは独りよがりな論理を振りかざして怖くなったり恥ずかしくなったりしたかもしれない。二人でいると最初はもっと強烈に感じた。独りよがりで幼い自分に気づくための二人設定だから一方ではすごく抱えてもらっているのだけど渦中にいると悪いことばかり起きているような気さえした。自分がこんなに赤ちゃんみたいになるとは思っていなかった。大人が赤ちゃんみたいな心性になるというのは特殊な事態だが赤ちゃんってこんな感じに泣いたりわめいたりひとりで楽しそうにしたりしてるんだろうな、という体験だったってこと。赤ちゃんの鳴き声や笑い声と言葉ってシームレスだからそういう言葉を体験した。本当に大変だったけど。

今日は身体も頭も使う。体調崩さずに過ごしたい。

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大河ドラマ「べらぼう」とか。

いいお天気。昨晩、部屋が少し蒸し暑くて窓を開けた。寒いくらいの風でも少し嬉しかった。夏掛けもほしくないくらいの暑さは楽しくない。季節はなにかしらで工夫して楽しみたい。

楽しくないといえば、昨夜の大河ドラマ「べらぼう」で恋川春町が死んだ。大好きなキャラクターだったし、その生き様死に様に泣きに泣いた。取り締まるやつなんて屁だ。「屁♫」をやるときにもう春町先生はいないのか…。悲しいし寂しい。洒落や皮肉を笑えない世界なんて全然楽しくない。

精神分析は面白いものだ、とアダム・フィリップスはいった。『精神分析というお仕事: 専門性のパラドクス』参照。妙木浩之訳。そうだよ。この「面白い」が通じない人にはなりたくないけど言葉の世界はどんどん危ない方へ向かっていると思う。もう超自我なんて機能しない心の世界が主流なのかもしれない。

週末お祭りの射的でピチッとした薄いTシャツを着たおじさんが男の子たちに「switch2もあるよ」といっていた。「switch2もあるの!」と驚きの声をあげる子どもたちのほうが嘘っぽくて笑えた。彼らはその露店の前でどこで手に入れたのかプラスチックの剣でチャンバラをしながらおじさんに見守られていた。

今日も今日という日常で面白さを探す。作る。「おもしろくねーな」という人のそばで軽やかに面白がる人がいてまた別の誰かの言葉に怒ったり笑ったりする。「べらぼう」はこのあと辛いことが増えていく。そこをどう面白がっていくのか。とても楽しみだ。

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秋三日目。

暗いうちから掃除した。空が濃いグレーになって濃い紺になりつつある。もうすぐ日の出。今朝はノラ・ジョーンズをかけた。きれいな柔らかい声。柳樂光隆さんが今年もノラ・ジョーンズにインタビューしていた。今週の来日公演に向けて楽しそうなノラが素敵。自分の大好きな楽曲を信頼できる人たちと演奏できるなんて最高だろうな。昨年リリースのVisionsはとっても生き生きしたアルバムだったからライブ行ける人はいいなあ。インタビューに音源あるよ。レポートもいっぱい読もう。

秋3日目。昨日も気持ちよくて遠回りしてオフィスへ行った。新宿中央公園でも昨日、今日はパークマルシェ開催。フリーマーケットみたいのもやっているみたいだった。先週まで鳴いていた蝉の声もしずまり、剪定を終えてなんとなくひっそりした花壇を抜けて公園側から熊野神社へ降りた。赤、水色、黄色の屋台。紅白の垂れ幕が見えた。あんず飴は赤の看板。「スーパーボールすくい」の文字はカラフル。お祭りの日の朝っていい。神社に入るとまだ何もない鉄板、きれいに積まれたじゃがいも、一つの屋台にまだ一人ずつ。パラソルの下のラムネ、足を派手に動かす蛸の絵、サッポロの味じゃがバター、味の王様フランクフルト、広島風お好み焼き、超大盛り焼きそばなどなど。いつもひっそりの本殿、社殿が搬入のための小型トラックに隠れてますます静か。それでもやっぱり主役感があるのは伝統ある神社だからか。本殿横の小さな神社の狛犬は面白い表情をしているのだけどかなり昔からいるみたい。西新宿の小さな一角のいつもと違う土曜の朝。良い寄り道だった。

たのしさは支度にありて秋祭 鷹羽狩行

一日の秋にぎやかに祭りかな 正岡子規

狛犬がおどけて笑ふ秋祭 阿波野青畝

そういえば、まだ暑かった少し前に句友たちが以前吟行していた東高根森林公園にいった。みなさんのやりとりを見ながらいいなあと思っていたのだ。彼らは吟行先を選ぶのが本当に上手。まだまだ知らない素敵な場所がたくさんある。東高根森林公園は小田急線向ヶ丘遊園からバスで生田緑地を過ぎて田園都市線溝口駅まで向かう途中にある。生田緑地ばら苑へ行こうかと思ったらまだ開園していなかった。10月16日から文化の日までだそう。向ヶ丘遊園で降りたのは久しぶりで新しいお店がたくさんできていた。昔、ここに住んでいた友達の家に心理検査を教えてもらいにきたなあ、など思い出しながらバスの時間まで散歩した。若い頃は仕事の後、友達の家に泊まり込んで勉強することが多かった。元気だった。溝口駅行きのバスは途中からたくさん人が乗ってきて驚いた。何もなさそうな場所なのになんでだろう、と思ったけどそのあとも続々人が乗ってきてバス利用の地元の方が多いってことかな、と思った。バスを降りて少し行くと白い曼珠沙華がたくさん咲いている鉢があった。その辺で方向を間違っていることに気づききた道を戻ると公園のきれいな案内板がすぐに見えた。私は湿地が好きなのだけどこの公園も水も緑も豊かですごく良かった。植物を眺めながら歩いているうちに結構上の方まで登っていた。

病める手の爪美しや秋海棠 杉田久女

みづうみに鰲を釣るゆめ秋昼寝 森澄雄

秋らしさを待ち侘びて小さな秋を探しながら残暑を過ごしたが、思い返す景色の色は着実に季節が進んでいたことを教えてくれる。立秋って本当に立秋っぽい空になるんだな、とか実感もしていたけど暑過ぎた残暑のせいで言葉と体感と景色が脳内でなんかチグハグしていた。ようやく一致した感じ。

新涼や白きてのひらあしのうら 川端茅舎

これね、私はまだ経験していない感じ。

新涼や起きてすぐ書く文一つ 星野立子

これはすごくわかる。これだって毎日書いてるけど気分が全然違うものね。今日も涼しいといいな。もう流石にあの暑さには戻らないでしょう、と思うとそれだけで身体が楽な気がする。

良い日曜日になりますように。

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俳句 精神分析

子規忌、岸本尚毅

曇り?うちから見える屋根が濡れてるけど降ってはいない様子?すこーし降ってたりするのかしら。窓を開けるととても涼しい風が入ってきた。やっとこさ秋二日目。気持ちいい。のんびり冬に向かっていってほしい。

昨日、九月十九日は正岡子規の忌日だったので青空文庫でも読める『墨汁一滴』『病牀六尺』をパラパラしていた。子規忌は糸瓜忌、獺祭忌ともいう。

糸瓜は秋の季語。子規が亡くなる直前、最後に作った三句

糸瓜咲て痰のつまりし仏かな

痰一斗糸瓜の水も間にあはず

をとゝひのへちまの水も取らざりき

糸瓜の水には去痰作用があるとされていた。子規はまさにこれから仏とならんとする自分のことを俳句にした。これらの句碑は東京都台東区根岸の子規庵にある。昨日は子規庵の糸瓜(へちま)が3年ぶりにぶらさがったそう。

まだすっごく暑かった8月31日、朝日新聞朝刊歌壇俳壇面で月1回掲載される「俳句時評」をデジタルで読んだ。担当しているのは俳人の岸本尚毅。軽やかで面白くて大好き。NHK俳句の選者でもある。

岸本尚毅が取り上げたのは今年四月に再刊(四十二年ぶりだそう)された正岡子規『俳諧大要』(岩波文庫)のこの部分。

“この本のなかで、子規は「空想と写実と合同して一種非空非実の大文学を製出せざるべからず」と説いた。”

ここでまず引かれるのは子規の四天王の二人、高浜虚子と河東碧梧桐。

赤い椿白い椿と落ちにけり 碧梧桐

流れ行く大根の葉の早さかな 虚子

ちなみに四天王のあと二人は石井露月、佐藤紅緑だ。記事を読むと子規がいった「一種非空非実の大文学」の「非空非実」とはなにか、という問いがいまださまざまな答えを導くものらしいとわかる。写実とは、というだけでも虚子と碧梧桐では異なるのだろう。

鶏頭の十四五本もありぬべし 子規

は私が好きな一句なのだけどこれはいかにも非空非実では?ない?わからないが「ぬべし」がいい。

この教えは『俳諧大要』「第七 修学第三期」の最初の方に書いてある。


「第三期は文学専門の人に非ざれば入ること能わず。」とある。「第二期は知らずの間に入りをることあり。第三期は自ら入らんと決心する者に非れば入るべからず。」と続く。なるほど。日本でIPAの精神分析家になるためには日本精神分析協会に入らなければならないというのと同じか。確かに入るかどうか決めるために別の分析家と分析をするくらい決心が必要だった。分析を受けることと生業としての精神分析家になることは全く違うから。この前後でも子規はいいことしか書いていない。本当そうだなあ、と思いながら読める。夏目漱石が子規と過ごした日々のことを書いている文章も相当面白いのだが、どこに入っているのか。とにかく子規は、岸本尚毅もいうとおり、若くして亡くなってもずっといろんな人の心に生き続けている。

岸本尚毅が俳句にした子規はこれらとか。

健啖のせつなき子規の忌なりけり

子規の世は短かりけり柏餅

子規の忌やわが子を刈つて丸坊主

子規の柿茅舎の柿と潰えけり

私は岸本尚毅の墓の句が好きなのでそれを引いて子規のみならずいろんな俳人を私の中で生き続けさせたい。

墓親し陰に日向に落花して

柿潰れシヤツだらしなく墓に人

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お菓子 精神分析 精神分析、本

涼しい。

昨夜はみんなが傘をさしているなかこのくらいならいいかなと折りたたみ傘を開かないまま歩いていたら駅に着いた。濡れていなかった。深夜、雨脚が強まる音が聞こえた。雷も鳴り始めた。停電になったら嫌だなあ、と懐中電灯を探したがなかった。実家から持ってきた真っ赤な大きいラジオ付き懐中電灯があった。これ間違ったとこをカチってやると大きなサイレンが鳴っちゃうんだよな、と思いながら慎重にライトの電源を探してカチッとした。案の定何もつかなかった。そりゃそうね、と電池カバーを外すと単1が3本。おお、大きな音がするわけだ。最近、電池を取り替える必要がある家電は単3ばかりだったから単1はどこかな、とちょっと探したけど、もう寝ないと、と結局何もせず朝になった。まだ暗いうちに起きてしまったけど停電にはならなかったみたい。雷はそんなにひどくならなかったのかも。起きなかったし。早朝はまだ結構雨が降っていたが明るくなるにつれて雨も止んだ。短くても秋らしさを感じられるのは嬉しい。

今朝は銚子のまちの駅、銚子セレクト市場で買った「ふるさと」の「地球展望館」というお菓子。丸くしたパイナップルが乗った丸いタルトみたいなお菓子。これが地球ってことね、きっと。地球と月ってこと?「地球展望館」って名前、「地球の丸く見える丘展望館」に違いないのだけど(違うのかな)結構大胆に略したなとちょっとおかしかった。第21回菓子博有功金賞だそう。有功金賞というのがあるのね。アールグレイと美味しくいただきました。

昨日はオグデンの最近の二冊、Coming to Life in the Consulting Room Toward a New Analytic SensibilityとWhat alive meansの自分用訳を少し整理した。結構たまっていた。でもファイルの整理が悪いせいか同じところを訳したものが複数異なるファイルに入っていたり、ちょこちょこ修正したのはどっちだろう、となったりした。うーん。

とりあえず今日をがんばろ。涼しい!

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散歩 精神分析

寺家ふるさと村、Reading Freud

空が明るくなってきた。今日は曇りなのかな。ピンクがかってくるのではなくグレーが薄くなるしかたで朝になっていく。天気予報は東京は午前中は晴れ、午後は雨が降ったり雷が鳴ったりするみたい。今朝もエアコンはつけておらず扇風機で外からの弱い風を循環させている。明日は一気に気温が下がるらしい、といっても28度とかだけど。日本はどうなってしまうのだろう。

先日、横浜市の寺家ふるさと村へ行った。田園都市線青葉台駅、小田急線柿生駅からバスで行ける。横浜はみどり税だっけ、独自の税金をとって横浜みどりアップ計画を実施している。寺家ふるさと村四季の家もその「ウェルカムセンター」のひとつとして機能しているらしい。東京在住在勤の私も緑に関する税金をとられていると思うのだけど何税だっけ。こんなのとるならきちんと緑守ってよ、と怒った覚えがあるのに税金の名前を忘れてしまった。いかん。寺家ふるさと村の寺家は「じけ」と読む。バス停を降りるとすっかり実った稲が広がっている田んぼと藁で束ねられた刈り取られた稲が並べられた谷戸田が広がっていた。とてもきれい。その日もまだ暑かったけど素敵な里山の秋景色。春に田植えして夏には青青と育った稲たちもきれいだっただろう。それにしても子どもの頃はすぐそばにあった田園風景にいちいち感動するようになってしまった。GWに金沢から和倉温泉まで七尾線に乗ったときも空と雲がそのまま映り込む水田が続いていて何枚も写真を撮った。

横浜市のみどり税にも文句はでているだろうけど、この寺家ふるさと村は結構賑わっていて四季の家のレストランも混んでいた。お蕎麦と鰻のお店みたい。外のベンチでお弁当を食べている人もいた。四季の家では蕎麦打ちとかイベントも色々開かれているらしい。私たちはそこでお手洗いに寄ってから里山散策スタート。田んぼの脇の道をいくと熊野神社の階段が見えた。田んぼの向こうの人影に目をやると親戚の集まりらしき人たち。お墓参りかしら。家族っぽい集まりには友達や他人とは違う距離感が作り出す形、みたいなものがある気がする。熊野神社への階段は少し急でいかにも里山の神社という佇まいだった。脇道を降りて再び田園風景を歩く。いろんなカカシが田んぼを守っていた。少しいくと釣り堀の池に。誰も言葉を交わさず、ほぼ等間隔で動きのない池にただ静かに釣り糸を垂らしていた。釣り堀はいい。市ヶ谷のとか何度か行ったことがある。そこから森へ続く坂へ。通勤の距離で行けるハイキングコースは理想的。道もほどよく整備されていた。いろんな虫や植物がいてまだ青い柿もまだ緑の栗もまだ黄緑のどんぐりも待ち望んだ秋を地味に彩っていた。この前までどこにいってもたくさんいた蜂は少し減ってきたように思えた。スズメバチ注意の看板は一年中かかっているだろうし、スプレーは作業場のそばに置いてあったけど。途中の池はあまりきれいではなかったけど近くの木々でハンモックでくつろいでいる人たちもいて気持ちよさそうだった。森を抜けると再び田んぼ。小さな子どもたちが稲刈り体験かカカシ作りか田んぼの中で楽しそうな声をあげてるのをみられた。ミャクミャクのカカシもいたが、多くのカカシは名無しだろう。子どもたちに聞けば「あれが〇〇ちゃんの」と指差して教えてくれることはあるだろうし、近くによれば名札が付いていたりする場合もあるとは思うが。帰りはあまり本数の出ないバス停からちょうどよくバスに乗れた。ナスの畑とぶどう畑の間にあるバス停にはすでに二人並んでいてそれぞれ文庫本を読んでいた。何を読んでいるのかなあ、と思ったがわからず。結構厚い本だった。

そういえば、Reading Freudで精神分析の創始者であるフロイトがその早期に展開した神経学的な仮説「心理学草案」(『フロイト全集1895-99年 心理学草案 遮蔽想起』岩波書店)読んでいるが、メンバーのなかで、これがまるで「物語」かのように共有されはじめた瞬間があった。

「心理学草案」(1895)は

«[Aこの草稿の]狙いは、自然科学的心理学を提供すること、言い換えると心的諸過程を、呈示可能な物質的諸部分の量的に規定された状態として表し、こうして[SE/GW心的諸通程を]具象的で矛盾のないものにしょうとするものである。

というものであらすじがあるようなものでも要約できるようなものでもないにも関わらず。フロイトは精神分析を知らずとも多くの人が知っている名前だし、少し知識のある人ならフロイトとフリースの関係でこれが書かれたことも知っている。フリースを知らなくてもフロイトは常にそれなりに濃い関係で読み手なり聞き手なりを持っていたから自ずとその言説はコミュニケーションの結果として読まれ、そこに共通の物語が生じやすいのかもしれない。

今日はもう木曜日か。1週間早い。良いことありますように。

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イベント 精神分析

回帰

今日の東京の日の出は5時25分。毎日1分ずつ遅くなる。金曜日から急に涼しくなるらしい。明日は雷の予報も出ているのね。昨晩の新宿の空は大きな雲が層になっていて明るく感じた。東京だから?星かと思って眺めていた小さくて白いものはいつのまにか雲に隠れた。飛行機だったらしい。オフィスのそばでいつもみる飛行機は都庁やオペラシティに突っ込むのではないか、というくらい低空飛行だからあれはなんだったんだろう。UFO?と思うのはいろんなところでUFOの話を聞きすぎているからか。能登地震があった翌年の5月は石川県羽咋市の宇宙科学博物館、コスモアイル羽咋にも行った。宇宙人がたくさんいて展示も本格的ですごく楽しかった。最近だと千葉県銚子市の地球の丸く見える丘展望館でもUFOの映像をみた。経営困難による廃線の危機を「ぬれ煎餅」などで乗り切ってきた銚子電鉄の犬吠駅が最寄り。途中のひまわり畑が圧巻だった。以前は、展望館でUFO召喚イベントとかもしていたらしい。銚子電鉄に乗ること自体が目的の人もいるし、観光だと犬吠駅で降りる人がほとんどかも。駅前の回転寿司屋さんも犬吠埼灯台もとてもいい。そういえばこの前、京王線新宿駅の売店で銚子電鉄のぬれ煎餅を見かけてびっくりした。「まずい棒」もあったのかな。銚子電鉄と京王は何繋がりなのだろう。銚子電鉄が京王線の車両を使っているとか?私の実家の方のローカル線はたしか井の頭線の車両だったからそういうのもありうるかも。鉄道はそれ自体、旅の醍醐味。昔の面影も届ける大切な手段。盛り上がってほしい。

不注意で色々予定を入れまちがったり、アプリを使ったあれこれができないのは、最近の携帯が私には小さすぎるからではないかと思い至った。Duolingoだってパソコンでできればいいのに。。。と思っていたらパソコンでもできるというではないか。私が知らないだけだった。いざやってみたらやりづらいのは携帯が小さすぎるせいではなく、どちらにもメリットデメリットあるという普通のことに気付かされただけだった。でも携帯とPCではやれることが違う気がするので両方使ってみようと思った。これも少し前に書いた習慣を崩すことの一環になるかも、と少しワクワク。この話をしたら「ボケ防止ですね」と言われた。まあそうなんですけどね。

ボケ防止で思い出したのだけど、最近思うのは、私は死ぬまで本を売ることをしないだろうなということ。もちろん売るための本なんて書けないというのもあるけれど、本を書いている人たちは目的がはっきりしている人が多いなと気づいて、私は特に自分の中にそういうものを見出せないから、こういう毎日のパーソナルで他愛もない発見をメモ的に記しておくのがあっているんだな。もちろん国内外での発表は続けたいし、協会のジャーナルには投稿していくだろうけど。それにしてもこういうのだってすぐ忘れてまた少ししたらそういえばDuolingoってパソコンでもできるんだって、とか戻りかねない。自分だけのことならそれでいいわけで、というか、相手あることだって何度でも聞き直していいわけよね、人は。何度も同じ話するのだって人なんだから。精神分析なんてほんと何度も何度も同じ話をしたりする。けど、それも全く同じということは全くないのだな、とか考えているのがフフフという楽しみだったりする。自分のことってよくわからないから、何度も同じ道で迷っちゃったりはしないかもしれないけど、またここに出ちゃったよ、みたいなことはあるわけだし。回帰するともいう。

フロイトは「代替形成や症状は抑圧されたものの回帰の指標」であるとして欲動との関係で抑圧を精密に捉えようとした。メタサイコロジー論のひとつ「抑圧」論文でフロイトは三つの神経症、つまり不安ヒステリー(動物恐怖症など)、転換ヒステリー、強迫神経症を取り上げて抑圧のメカニズムを記述する。1915年の三論文「欲動と欲動の運命」「抑圧」「無意識」は、フロイトの症例とともにセットで読んだほうがいいと思うけど、私たちがReading Freudで読んでいる「心理学草案」が前提とした神経学的な仮説に基づいた思弁ではない方法、つまり臨床観察に基づく基礎づけをフロイトが試みたものたち。とても面白い。もちろん「痛み」とか「草案」からすでに印象的な取り上げ方をされているテーマは引き継がれている。

そういえばこれもどうでもいい話なんだけど、私はAmazonのオーディブルって無料期間に少し聞いたことしかなくて携帯の読み上げ機能でキンドル本を聞くことがある。これがかなりストレス、と同時に面白かったりもする。メタサイコロジー論は多分そんなに間違えて読まれないと思うけど、読まねば、みたいな目的があるときはそういう間違いはストレスでしかないかもしれない。ちょっとした息抜きとして聞いているときは読み上げの間違いは逆に面白みになったりもする。よくある読み上げの間違いは耳が自動変換するようになっているのでいちいち引っかからないけど、自然に思い浮かばない区切りや変換がされるときは、手を止めて文章を確認して「えー」となったり本当に知らない単語だったりする。英語の読み上げもフランス語が混ざっていたりすると急に声が変わったりして覚醒水準は上がるけど聞くだけではわからない場合が多いので、英語は地道に自動翻訳に助けてもらいながら書いたり読んだりしないといけない。自動翻訳もまだ辞書機能とかの使い方がよくわかっていないな、そういえば。そのポテンシャルを全然いかせていない気もするのだけどすごく助かってはいる。AI翻訳はみんな駆使しているみたいで私も教えてもらったのだけど使いこなせない。こんなでもどうにかなる世の中であってほしいな。パソコンだって普及していなかった時代に生まれているので素朴に自分の身の丈でやっていきたいよ。アナログ思考も大事でしょう。

この前、時計屋さんへ行ったときも思った。そこはこだわりの店主さんだからちょっと緊張するのだけど大事な時計を預かったのでみてもらいにいった。ついでに自分の時計も電池が切れてしまったので変えてもらった。そっちは1時間くらいでできるというので指定の時間を少しすぎたくらいに受け取りにいった。小さなビニール袋に小さなクッション付きで入れてくれていた。お礼を言いながら受け取ると携帯電話と近づけないように、と早口で言われた。一緒にいた人も少し驚く素早い指摘に「すいません!」と携帯をしまって時計をはめた。こういう切迫感は緊張するけどプロの仕事だもんね、と思う。私が文明の利器を使いこなせないという話とは全然違うけど。ところで、さっきから「携帯」と書いているけど書き言葉にするといつも違和感がある。iphoneとか書かないと通じなかったりして、とか。でも大抵は文脈で通じるよね、多分。

昨日、なんでだか忘れたけど倉橋由美子と三島由紀夫のことを考えていた。倉橋由美子が書くかっこいい登場人物に会いたかったのかも。いや、先日、神奈川近代文学館へ行ったからか。常設展には今回もいい感じの三島由紀夫がいた。お目当ては開催中の企画展「中島敦の手紙展――おとうちゃんからの贈り物」。行きたかったのだ。『山月記』は教科書で読んだのが最初だったか?覚えていないけど漢文の授業で読んだ気がしてしまっている。途中からはどんどん読めるけど最初が難しいんだよね。かっこいい文体で大好きだった。今回の展示は、パラオ滞在中に息子とやりとりした手紙が中心。次男は当時まだ小さくてお返事は書いていないけど長男の手紙が子供なりのしっかりさで次男の様子も伝えてくれている。中島敦の子供たちはあまりに早くに亡くなった父親の思い出とどう生きたのだろう、戦争の時代を。

昨日の朝ドラ「あんぱん」は戦争が終わったあとの父の顔も知らぬ子どもや孫世代が登場した。この重たさと悲しみに触れれば戦争が終わることがないんだと知る。だからこそすぐに終わらせねばならないのに。一日一日が平和を願う気持ちで過ごせたらいいのに。せめて今日、せめて明日、って少しずつ先延ばししながらずっと平和を願って、本当に平和が訪れますように。

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精神分析 精神分析、本

残暑、オグデン“Coming to Life〜など。

曇り。なんだかまだ蒸し暑い。よく動いてるし体温調節もできてると思うのだけど今年は汗に皮膚が反応しやすくて結構辛い。なんで自分の皮膚から出るものでやられないといかんのだ。しっかりして、と思うがいい子に薬を塗る。めんどくさいねえ。

週末、オンライン投句の締切に向けて、角川の秋の歳時記を電車でパラパラ見ていた。季語「残暑」の例句がいかにもじっとりしてて笑ってしまった。みなさん、さすが。

昨日は勉強をサボったが、そういえば、とオグデンのComing to Life in the Consulting Room : Toward a New Analytic Sensibilityの4章 Destruction Reconceived: On Winnicott’s ‘The Use of an Object and Relating through Identifications’を参照しようとメモを探したが、ない!これって2016年にInternational Journal of Psychoanalysisに掲載されたものだから、絶対どこかにメモしているはずなんだよー、と思ったがない。またか、と自分のこういうダメさに慣れているのもどうかと思えばないものはないのでもう一度読み始めたらやっぱりすごく難しい。これ、前も苦労したけどすごく面白かったのは覚えていたのでなんとか読んでいた。

オグデンのこの論文は、ウィニコットの「対象の使用と同一化を通して関係すること」の精読。Whar alive Means 6章 Like the Belly of a Bird Breathing: On Winnicott’s “Mind and Its Relation to the Psyche-Soma”. International Journal of Psychoanalysisでウィニコットの「心とその精神ー身体との関係」を読解しつつwrite Winnicottをするオグデンのことを前に書いた。


「私がウィニコットの論文を読解する「創造的読解creative reading」では、ウィニコットの文章を解き明かし解釈するだけでなく、主題に対する私自身の応答も提示する。ウィニコットが読者に各自の理解を委ねる箇所では、私が暗に含まれていると受け取る意味を肉付けすることで「ウィニコットを書くwrite Winnicott」。ウィニコットがほのめかすにとどめた着想を私が展開する。」

似たようなことはすでにこのDestruction Reconceived: On Winnicott’s ‘The Use of an Object and Relating through Identifications’の論文の冒頭にも書いている。こんな感じで。

「この論文ではあまりに多くのことがほのめかされるにとどまっているので、読者はそれを読むだけでなく、書くことにも参与しなければならない。本稿で私が展開するアイデアは、ウィニコットの論文に対する私自身の読むことと書くこと——私がそれをどう理解するか、そしてより重要には、それを用いて私が何を作り出すか——を示すものである。」

とか、その先でも

「それは、母親が「現実であるがゆえに破壊されつつあり、破壊されつつあるがゆえに現実になりつつある」瞬間に、対象が実際に生き残ることが決定的に重要であるという考えである。私は今なお、この言葉を読むと頭がくらくらする。この一対の考えを何とか理解しようとして、多くの時間を費やしてきた。対象が「現実であるがゆえに破壊されつつある」とはどういう意味なのか?ここで人は、ウィニコットの論文を「書く」ほかない。なぜなら、彼は決定的に重要な考えを、説明されることなく、ただほのめかされるだけの極めて捉えがたい形に残しているからである。」

ぶれないオグデン。この論文が面白いのは、オグデンがウィニコットを読む仕方が、理解が、変わってきたこと、その場所を明確にしていること。最初から丁寧に読んでいくことで明らかになっていくウィニコットの言いたいことに豊かな思考とともについていくオグデンは楽しそうだし、それを読む私も楽しい。読むことの楽しみだな。またすぐ忘れてしまわないように今度はメモの保存を工夫せねば。これまでも工夫してきたつもりなのになあ。どうすればいいんだろう。

まあ、今日は火曜日。これは要確認。今週もがんばろう。

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テレビ 散歩

アンパンマン、環境

今日は曇りかな。休日なので朝に朝ドラを見る。朝ドラ「あんぱん」気に入っている。主人公のぶの子どもたちへの眼差しがずっとあたたかいのが好き。私もまだ自分が子どもみたいな時から赤ちゃんから大学生、誰かの「子ども」までいろんな人たちに関わってきたし、今も関わっているけどその眼差しにはかなり変遷があるな。いろんな申し訳なさが襲ってくる。でも本当にたくさんの子どもたちと会ってきたことで随分成長させてもらった気がする。いろんなことを今も世代を超えて教えてもらっている。アンパンマンは、私は子どもの頃はあまりみていなかったけど、大学生のときに小さな子に「かいて」と言われ、全く絵心のない私の下手なアンパンマンで泣かせてしまったことがいつも思い出される。申し訳なかった。今ならあれよりはマシなものを書けるが子どもたちは「ちがう」と首を横にふることも多いので、子どもたちの指導のもと修正していく。「こう?」「こうかな」「これでどうだろ」とか言っている間にいちいち「ごめんごめん」「ごめんね」が入るのもしかたない。とりあえずアンパンマンの色に塗ってしまえば、とか思うこともあるが色塗りはたいてい子どもが自分からはじめるのでしたことがない。「ここ黒くして」と輪郭をかくことを頼まれることはあるけど。あの輪郭や枠組みを求められるときのじんわりした気持ちもたくさん経験してきた。中井久夫の風景構成法という描画も私はよく使うのだけど、あれは最初に治療者が枠を書く。そういうのと繋がっているのだ、きっと。こぼれ落ちないように、大切ななにかが。形にすることで生まれてくるように、見えていなかったなにかが。

昨日、なんとなく眺めていたテレビでどこかに海の平均気温が2度上昇して生えたての若草を食べる渡鳥に影響が出ていると言っていた。胸が痛む。私たちは環境にある程度守られてきて、自然は人間よりずっと厳しいときもあるけど基本的にはものすごく優しい。その自然が変わってしまったら私たちというよりこの先の人間までずっとあまりよくない影響を受けることになる。旅にいい、山に登り、海辺を歩く、観光客としてそこを訪れ話を聞いていると農業、林業、漁業の今を垣間見ることがある。たいてい厳しい話だ。知らないことがたくさんあるけど知ろうとしていきたいと思う。だから今日も歩く。

良い一日でありますように。

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俳句 散歩 精神分析

祭り、花壇、フロイト

昨晩は少し暑くて起きたがエアコンをつけたらすぐに寒くなって消した。すごく暑かった数日前よりエアコンの効きが良くなっている気がする。この夏、エアコンも酷使されっぱなしで寿命が縮んだのではないか。よくがんばってくれたおかげで私は生き延びたが家電は高いから引き続きがんばってほしい。

昨晩は通りかかった神社のお祭りにもいった。といっても通り過ぎただけだけど商店街のスピーカーから流れる祭囃子、町内ならではの案内、提灯にしかない明るさ、自転車で走りながら子どもたちが大きな声で交わす「またあしたね!」。突然、雨が降り出して自転車置き場に避難。雨雲レーダーと巨人〜阪神戦の結果を確認している間に止んだ。よく歩いた。

年よりが四五人酔へり秋祭 前田普羅

暑すぎて放置していた我が家の小さな花壇と玄関も少しきれいにした。剪定の時期ではないが、時間があるときにやっておかねばと剪定鋏でジャキジャキとパキパキの中間くらいの力で根元で陽もあたらず黒くなっていた千両の枝とすっかり大きくなった山椒の木の枝を切った。土も少し耕したら知らない大きな根っこを発見。君は誰、とびっくりしたけどまだ確認できていない。なんの根っこだろう。それにしても、剪定用の鋏、もう少し鋏部分が大きいのを買えばよかった。山椒の枝は少し太くなるとすごく硬いしトゲトゲしているから切りにくい。安全で使いやすくはあるから枝が逞しくなる前に適切な季節に切ればいいのだろうけど。昨日は風も気持ちよく少し涼しくなったとはいえ大きなゴミ袋に葉っぱや枝を片付け終わる頃にはやっぱり汗だくでクタクタ。肩もバキバキになった。今日の筋肉痛を恐れていたけど今はまだ大丈夫みたい。遅れてくるかもしれないけど。

昨日からオグデンが引用しているフロイトの文章が見つからなくてなんでだろうと思っていたらオグデンの本の誤植だと思う、多分。Freud, S. (1911b). The history of the psychoanalytical movement. SE, 14とあるけどThe History of the Psychoanalytic Movementは1914年だと思います。私もたやすく引っぱられてしまった。論文名見ればわかるじゃんね。まだまだな。オグデンが引用するフロイトも私は好きで、今読んでいる論文はオグデンの主張も好き。こういうの読みながら自分でも「ああ、そうか、あそこでフロイトがこう書いていたのはここに繋がっているかもしれないんだ」という発見があるくらいにはフロイトを読み続けてきてよかったなあとしみじみ思う。すごく時間がかかるしエネルギーも使うけど精神分析が関わる人の心ってそういうものだからな。

今日もあれやこれやがんばろう。今日のNHK俳句は岸本尚毅先生。一番好き。良い日曜日になりますように。

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俳句 精神分析 精神分析、本 言葉

梨、子規、サンガマ

夜はクーラーがいらなくなった。喉の心配が少し減って嬉しい。ちょっと調子悪いとマスクをする癖がついているけど気をつけるべきことなんて少ないほうがいいに決まっている。今朝はまだ少し雨が降っているみたい。見えないくらいの雨が。

梨腹も牡丹餅腹も彼岸かな 正岡子規

梨を食べている。豊水。おいしい。子規って1867-1902(慶応3年-明治35年)で35年しか生きていないのに(「のに」ってこともないけど)お菓子とか果物とかの俳句が多いイメージ。楽しい。

牡丹餅の昼夜を分つ彼岸哉 正岡子規

うちも昔、おはぎのやりとりしていた気がする。毎年、あんこ・きなこ・黒ゴマの三色で作って持ってきてくれた人もいた。父の仕事の関係の人だったような気がするけど私の中では「おはぎの人」となっていた。

職業の分らぬ家や枇杷の花 正岡子規

という句も好き。枇杷が好きだからというのもあるがこれも私だったら「あの枇杷の家」「あの枇杷の家の人」とか言っていたと思う。面白い句だと思う。

毎日のように分析家のところへ通っていた頃、通り道に枇杷の木が一本だけあった。私は毎日、毎季節、身がなるまでも身がなってからも眺め続け写真もたくさん撮った。最初の数年はその大きな道に枇杷の木があることに気づいていなかった。

精神分析を受けるとこれまで気づかなかった景色に気づくことが増える。現実の景色のお話。心の景色も連動はしているに違いないが。私の患者さんたちもそうだ。そしてこんなに毎日のように通っていたのに、と自分で驚く。こういう驚きがとても多いのが精神分析だと思う。自分でもびっくり、という体験はいろんな情緒を引き起こすけど、それまでの年月はそれにお互いが持ち堪えられる準備期間でもあるのでなんとか二人でとどまる、味わう。

子規は病床にありながら一日一日を豊かに生きた。俳句は単に生活の切り取りではない。わずかな文字数が見せてくれる景色に潜む意外性に心躍る。

昨日、なんとなく出口顯『声と文字の人類学(NHKブックスNo.1284)』をパラパラしていた。

この本に、南米ペルーの先住民ピーロが植民地制度アシエンダのSIL教育のもと読み書きを身につけたという話がある。そこで引用されるのがSILの指導なし識字能力を身につけたサンガマの説明である。

「私は紙を読む方法を知っている。それが私に話しかけてくるのだ。彼女が私に話しかけてくる。紙には身体がある。私はいつも彼女を見る。私はいつもこの(文字が書いてある)紙を見る。彼女には赤い唇があり、それで語りかけてくるのだ。彼女は赤く彩色された口がある身体をしている。彼女には赤い口がある。」

サンガマは「書かれた文字(writing)を音声言語の表象とは考えていない」のである。

「西洋の人間にとって文字は発話を符号化(encode)したものであり、符号の解読コードを知る者は誰でもメッセージを読むことができる。声を物質化したものが文字であるという西洋の考え方にサンガマも同意したであろう。しかしサンガマが聞いていた声は、文字とは「別の声」であり、声を発する紙は「文字」の外見とは異なる身体を持つ。紙はメッセージを担う生身の女として現れサンガマに話しかける。彼が聞いているのは女の声である。サンガマにとって読み方を知っている者とは、コード解読の術をマスターした者というより、印刷されたページが女に見える「眼」を持ち、女が言うことを聞き分けられる「耳」を持つ者なのである。読むこととは女の話すことを聴くことなのである。」

俳句もオグデンがウィニコットを原著で読めというのも同じだな、と思った。俳句もその人の文字で書かれていると見えてくるものが変わる。ウィニコットも。その潜在性=創造性であり、読み手にもそれは求められるものなのかもしれない。

いい俳句作りたいな。言葉を豊かにしないと。とりあえず今日もがんばりましょう。

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精神分析

お手伝いとか精神分析とか。

風が気持ちいい。昨日は弱雨が降ったり一時的に寒いくらいだったり陽射しで暑くなったり強雨になったり空も大忙しだった。私もハードだった。書き物が全く進まない。でも身体を使いながら感じることも多く、この年齢になってわかることの多さ、この年齢までとりあえず生きてこられた幸運さなどを思うと同時に「お手伝い」を健やかになせる自分でありたいと思った。動けない人の代わりに動いている過程で出会うその人に関する評価とか出来事とかもあたたかく胸に留めたい。「ケア」とかとは違う「お手伝い」のなにか。それを大事にしたい。

精神分析を始めると親を知ろうとする動きが増える。自分を知ろうとすることは環境を知ろうとすることでもあるのだろう。頻回の設定でカウチに横になると自分でも「え、なんで?」「ずっと忘れてた」という記憶が次々と出てきたりする(それを言葉にできるかはまた別の話)。それは直ちにじぶんごととして語れるおものではない。ボラスの言葉でいえば乳児だった私たちは自分は最早期から人間的な過程の内部にいることを知っているし、それを変形性状況と認識するからこそ、変わりたい(最初は(相手を)変えたいだったりする)という欲望を持って分析の場を訪れるともいえる。だからかどうか、親と関われる状態なら色々聞いてみたくなるし、もう話せなくても次々に思い出される記憶と対話が始まったりもする。設定の力は大きいし、言葉の拘束力も可能性も大きい。

現代の精神分析は心の中の自己表象や対象を欲動、情動、記憶などが連動した力動的過程(退行を含む進化か)と見做している。私がオグデンやボラスを読むのは内的あるいは内在化された対象関係と外的あるいは外在化された対象関係の動きの詳細に関心があるが、欲動理論をそれと分けて考えるのも違うと思うのでフロイトの構造論を再検討しつつ主体が対象と、あるいは対象になしていることを論じるアンドレ・グリーンの存在も重要となる。フロイトは素朴な対人関係の記述はするが心的構造の記述に対象関係の文脈を持ち込むことはほとんどなかった。しかし『喪とメランコリー』の有名な一説に示されるように、動機づけ原理となる欲動に対する対象の影響力を無視していたわけでもない。しかし、内的な対象と対象関係を欲動論に付け加えたのはフェレンツィ以降だろうし、現実の対象との同一化に注意を向けることを強力に打ち出したのは小児科医でもあったウィニコットである。では、精神分析を特徴づけてきたエディプスコンプレックスはこれらのどこに位置づけられるか。私はエディプスコンプレックスという概念は今も今後も有効だと考えているが、それを発達的な観点でどこに位置づけるかは、環境の位置付けと同様、難しいものがあるなと感じる。精神分析は言葉と言葉のやりとりだが、この言葉が機能している水準というのを私は最も重視するし、それは情動が喚起される瞬間を正確に読み取っていくことと関係している。

こういうことを書いている間に先日思い浮かんだアイデアを思い出せないかなあと思っているのだが全然蘇ってこない。私ももう一度カウチに戻れば浮かんでくるだろうか。そんなことはないな。そういう水準で言葉は使われなくなっていた。今思うとカウチでのアウトプットはまさに記憶なく欲望なくとなっていった。これは分析家側の体験とも一致してると思う。分析状況は夢見の場でもあるが、その場合の夢とはなにかについても考えが変わった、というよりビオンがすごく読みやすくなる程度には体験を積み重ねられた。最初の数年間のあれはなんだったんだろう。偽りの自己との戦いだったか。過ごす必要のあった時間には違いないがきつかったな。しかし患者になることで知ることの多さたるや。もちろん知るべき、とは全然思わない。大抵の場合、それをしたい人がすればいいことばかり。「お手伝い」も大抵の場合はそう。が、しかし、となってくるとまた難しいことがたくさん。ケアとかなんとかいう言葉を使うことが増えそう。

オグデンの引用をしようかと思ったけど時間がなくなった。今日も少し雨が降るらしい。良い一日になりますように。

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言葉

空がきれいなピンクと水色。南側の大きな窓を開けたら涼しい風が流れこんできた。気持ちいい。鳥たちはまだそんなに鳴いていない。昨日も少し欠けて猫の目みたいになってきた満月が輝いていてきれいだった。それにしても見るたびに位置が全然違うように見えるのは絶対私の勘違いなのだろうけど変化が早く感じる。そういえばボラスの本にconstellationが出てきてここは「星座」って訳したいな、と思ったところがあった。

Being a Character:Psychoanalysis and self Experienceのintroduction

we do this many times each day, sort of thinking ourself out, by evoking constellations of inner experience.のとことか。

言葉は大切にしたい。

時折、SNSを開くとびっくりするような言葉遣いに出会うことがある。日常生活で知らない相手から言われたら暴力でしかないような言葉はSNSでも同じように暴力だと思うし、身内から言われたって暴力だと思うのだけど、つまり暴力的な言葉はどこで言ったとしても暴力的だと思うのだけど、向こうが「そんなつもりはなかった」といえばそう感じたほうに問題があるみたいになるのかもしれない。明らかにサイズも力も優っている相手が近距離で大きな声を出しているだけでも十分圧を感じるけど、そういう場合、優位なほうが調整をするものだろう。子供に対する大人がそうであるべきように。大人の場合、どうしようもない場合はこちらからきちんと離れることが調整となる場合も多いけど、それさえ叶わない場合もある。相手が個人であろうとなんでであろうと直感的に気に入らない、信頼できない、と感じたものに対して距離を取るのではなく、ある程度一般的な意見をもとに「ふーん、自分はそうは思わないけどね」で済ますでもなく、自分が納得できるような説明を求める、それがないと攻撃する、みたいな態度がとても多い場なのはなぜか。とても怖い。電車で知らない人に近距離で覗き込まれて何か言われたときと同じくらい怖い。合わなかったから、信頼できなかったら関わらない、という選択を行使してほしい。させてほしい。攻撃はそこに終始する限り何も生まない。とにかくよく知らない相手のあり方を印象で否定するものではない、というのは基本ではないのか。

今日はとても慌ただしい一日になる予定だけどお天気も気持ちいいし、私も気持ちだけゆったり過ごせるようにしよ。良い一日になりますように。

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実、ボラス、ワーズワース

日の出がゆったりしはじめた。朝のピンクは季節によって全然違う。昨晩は帰り道、月はあいからずピカピカで草むらからは虫の声が静かに絶え間なく響いていた。夏の蝉とは大違い。秋はざわめきよりもメロディー。地球の熱がちょうどよく下がりますように。今朝の私はゴージャスにシャインマスカットで熱を下げよう。秋の果物が送られてきて幸福。秋は果実の季節。小さな柿が道路にたくさん落ちてくるようになった。少しオレンジになっているものもあれば果実ならではの浅い緑のものも。みんな渋いのかな。つい食べることばかり考えてしまう。この前、縦に薄い線が入っているかわいい木の実を眺めながら柿だーとか言っていたけど、柿ってあんな線入ってないよね、と今、落ちた柿のことを思い浮かべながら思った。なんだろう、あの実は。よく通る道の大きな木で、たしかに柿の木だったと思うのだけど。

何をやっても曖昧だし、すぐに忘れてしまうのでここがメモ置き場となっているわけだけど、適当ながらも翻訳の断片を載せているので興味のある方には参考くらいにはなるだろうと思う。へー、そんなこと書いてあるんだ、自分も訳しちゃおう、と下訳くらいのものが集まっていけば翻訳されてないから触れられないという状況を防げる。今は自動翻訳があるわけだからどの言語でも下訳の下訳くらいは簡単にできる。

ということで今朝もChristopher Bollas(クリストファー・ボラス)の3番目の著書、Being a Character: Psychoanalysis and Self Experienceからウィニコットが引用されている部分を書いておこう。引用というか参照か。ボラスはその多くをウィニコットから引き出している。題名は「キャラクターであること 精神分析と自己経験」くらいでしょうか。

>>私たちは各自、世界を照らし出すこうした対象の無数の只中に生きている。それらは幻覚ではない(確かに存在する)。しかしその本質は、ラカンのいう「現実界」に内在するものではない。その意味は、ウィニコットが「中間領域」あるいは「第三の領域」と呼んだ場所——主体が物と出会い、対象によって存在が変形するまさにその瞬間に意味が付与される場所——に宿る。中間領域の対象とは、主体の心的状態と物の性質とのあいだの妥協形成である。

ボラスとオグデンは相互に引用したり参照したりしていないようなのだけど、いっていることはとても似ている(のか?)。対象をどう位置づけるかという観点は同じだと思う。

後に続く文章も世界中の文化に詳しいボラスならではの広がりで興味深い。ちなみにボラスは俳句にも詳しいので、翻訳されているどれかの本の日本語版への序文では芭蕉を引き合いに出している。その俳句をというより、詩集が本屋から消えることについてだった気がする。あとで見てみよう。さて、続き。

>>オーストラリアの荒野では、アボリジニの「ウォークアバウト(※通過儀礼のひとつ)」は「ドリーミングthe dreaming」と呼ばれる。神々が世界を夢見る以前、そこは何の変哲もない平原だった。だが今や風景は物質化した形而上学であり、一本の木も岩も丘も、夢見られたものの一部である。この世界を彷徨いながら、アボリジニは地物理的対象に出会い、それらに触発されて自らの神学・文化・共同体、そしてもちろん自己を想像し、それらを媒介にして自分自身を思考する。Cowan の言うところのこれはイマジナル知覚imaginal perceptionである。

このあと引用されるのはワーズワースとシェイマス・ヒーニー。素敵。大学の学部時代は詩人の先生の講義も受けられてとても楽しかった。ワーズワースは猪熊葉子先生の授業でやったのかも。いいねえ。ワーズワースの詩を思いながら草原を散歩したいね。でも今は熊が怖くて気軽に自然の中へ行けない・・・。もちろん彼らとてそんな気楽ではなかったかもしれないが。

今日はどんなことがあるかな。別の場所に忘れた日傘を取りに行かねば・・・。。なくしたのでないだけマシか。今日もがんばりましょう。

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パウンドケーキ、ボラス“Being a Character”

朝はだいぶ涼しくなってきた。まだ時折アブラゼミの声が聞こえる。鳥たちも元気。この前、近所でオナガが大きな声を出していた。山とは鳥の鳴き声もずいぶん違って聞こえる。

大きなトラックが通り過ぎた。この道を通るのは早朝から長距離を移動するトラックではないと思う。昨日の昼間も秋だなんて嘘だみたいに暑かった。日中の同じような時間にいろんな配送会社の人が汗だくで大きな荷物を走るようにして運んでいるのをみながら大変だね、ありがたいね、と話すことがいつもより多かった気がする、この夏。

季節ごとに届くパウンドケーキ、秋はハーブとスパイスのパウンドケーキと丸子紅茶のパウンドケーキ。この丸子紅茶はとっても美味しくてケーキにしても香りがとてもいい。

また余裕のない平日となり、日曜日に考えていたことがどこかへ行ってしまった。日曜の間にやっておけばよかった。

引用しないと決めたChristopher Bollas(クリストファー・ボラス)をちょこちょこ読んではいる。文学として魅力的でなんとなく読んでしまう。

例えばBeing a Character: Psychoanalysis and Self ExperienceのIntroductionの冒頭をなんとなく訳すと

>私たちは皆、ある特定の香りが、まるで子ども時代の遠い村から呼びかけてくるかのように感じられる、あの胸を打つ瞬間を知っている。過去へ手を伸ばし、遠い昔の自己体験のエッセンスに触れられるかのように。人生のとても特別な時期に流行した音楽を耳にしても、呼び起こされるのは単なる記憶というより、イメージや感情、身体の鋭敏さに満ちた内的で心的な星座である。たとえ「この匂い、子どもの頃、うちの庭にあった花の匂いだ!」と誰かに言葉で説明しようとしても、内的体験の質感を伝えきることはできない。

みたいな。プルーストやシェイクスピアが偉大なのはもちろん、それを自由に取り込んで精神分析理論と重ね合わせて書く仕方が魅力的。おお、マドレーヌ、とパウンドケーキを食べながらでも喚起される香り。

ちなみにボラスがここで書いているのは、単なる対象としてというより過程として重要性を持つボラスが変形性対象(transfomational object)と呼ぶもののこと。この部分は国際精神分析学会(IPA)が無料で提供しているIREDという事典の日本語版でもすでに訳されている。そこから引用する。

>>Bollas(1987)は、母親が「全体的な対象として幼児にとって人間化される」前は、「母親は変形の領域あるいは源として機能している」と主張した。したがって、「母親は、他者としてまだ十分に同定可能ではないが、変形の過程として経験される。そして、この早期の存在の特徴は、大人としての生活の中で、 対象が変形のシニフィアンとしての機能のために求められる時、対象希求の特定の形式において生き続けている。」(1987)

Bollas の「対象の統合性」については、Bollas(1992, p4)は次のように書いている。これもIntroductionの一部。

>>かなり驚きなのであるが、対象関係論では、個人の投影のコンテ イナーとして見なされている対象のもつ際立った構造にほとんど思考が向けられていない。確かに対象は私たちを持ちこたえてくれる。しかし、十分皮肉なことに、まさに対象が私たちの投影を保持してくれるからこそ、一つ一つの対象の構造的特徴がさらにより重要になってくるのである。と言うのも、再経験の際に、 自身の自然な統合性に従って私たちを処理してくれるコンテイナーに、私たちは、 私たち自身をも預けるのだから。(引用ここまで)

そうそう。対象と環境の関係について表現する際にはここを押さえておきたい。精神分析の事典となるとここしか引用しないけど、このあとのボラスの表現に私はむしろひかれる。次は私の直訳だから間違っているかもだけどメモとして書いておく。ボラスが続けて書くのはこんな感じ。

>たとえば、思春期初期に野球の技に由来する喜びの感情をシューベルトのハ長調交響曲に投影し、同じ週にガールフレンドへのエロティックな反応をサリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』に投影したとしよう。大人になってこれらの対象に出会えば、そこに蓄積された自己体験が喚起されるだろう。

良き。とか言っていないでやることやりましょう。どうぞ良い一日を。

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テレビ 散歩

山、野球

明るい。夜の間、静かに進んだ皆既月食とは全然趣が違う。時折、うとうとしながらベッドからずっと見ていた。月が暗くなると星が明るく見えた。月食が始まる前の月はすごく明るかった。今日は暑そう。昨日も暑かったのかもしれないけど早朝から奥多摩の山に行ったので一番暑い時間は「水が冷たい!」「風が涼しい!」とか言って過ごせた。山頂は蜂と蠅がすごくて富士山だけ眺めて早々に降りてきた。石破首相、辞任表明のニュースになんだかうんざりしたが身体を動かし水や岩や木々と触れ、空を眺め、たくさん汗をかき、温泉で汗を流すことで少し落ち着いた。日本はどうなっていくのか。自然はどうなっていくのか。これまでいろんな場所で会って、話をしてきた人たちのことをたくさん思い出した。温泉で一点を見つめたまま動かない母親と一生懸命話し続ける子供の姿も心に残った。みんながもっと気楽に暮らせるような社会に、とは政治家は考えていなそう。負担ばかり増える。

夜はプロ野球を見ていた。私の周りは阪神ファンが多いので優勝を喜んだ。私が知っている選手たちはもう監督とかで現役の選手たちはあまり知らない。阪神の岩崎は好きなので昨日も素敵で泣いた。選手たちは活躍しても活躍しなくても色々言われて大変だなと思うが、私は好きな選手が活躍できず辛辣な評価をされていてもそういうことを言わず応援しつづけるタイプ。意地悪な言葉を言ってもしかたない。岩崎くらいベテランになるとそういうのも消化済みという感じでコメントも慣れた感じだが。

精神分析家のみんなと何かやろうと考えるのは楽しい。自分の考えもそこから広げていけたらよいが。今週もがんばりましょ。

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精神分析 精神分析、本 読書

機能重視、write&read

東の空がきれいなピンク。昨日も昼間は暑かったけど確実に秋を感じたあとだと気持ちは爽やかでいられる。ある程度根拠のある明るい見通しを持てるだけで生活は大きく変わると思う。

この夏は登山用品が活躍した。あれだけ暑いとやや危険を感じるから機能性重視となり、私の場合、陽射しと汗から皮膚を守ることで皮膚科に行く回数を減らせるので、どうせハイキングもするし、ということでグッズを増やした。今年、購入してよかったな、と思ったのはモンベルのWIC.フィットロングスリーブTシャツ。モンベルは店舗が多いから行きやすいというのもあるけど機能的なものが多いと思う。この前、海辺を長く歩いたときにもダメージを受けずにいられた。一つあるだけで色々楽ちん、みたいなのがいい。結局同じものばかり使っちゃうし。

昨日はせっかくやる気を出したわりに作業は全然進まなかった。メモや書いたものの管理も下手すぎるんだと思う。同じ論文も何度も読んでは忘れてるし、読んだときのインパクトをもっときちんとした形にしておかないと、と何十年思えば実行に移せるのだろう。ツイート程度の量ならいくらでもかけるし、それを積み重ねておけばいいか、と思ったこともあるけど、扱う素材は羅列的に記述できるものではないので、膨らみを持たせながら思考を巡らすにはある程度の量できちんと書かないといけないんだな。わかっちゃいるが。

サンフランシスコで開業している精神分析家トーマス・オグデンの本を読んでいることは何度も書いているが、今のところ一番新しいWhat Alive Meansの6章に入っているOgden, T. H. (2023) Like the Belly of a Bird Breathing: On Winnicott’s “Mind and Its Relation to the Psyche-Soma”. International Journal of Psychoanalysis 104:7-22は2年前に読んでいた。オグデンのクリエイティブ・リーディングシリーズの14作目、ウィニコットの「心とその精神ー身体との関係」を読解しつつwrite Winnicottをするオグデン。この論文の面白いところはここだし、実際、Psycheは脳ではないし、Somaはbodyではないとか分けておくべきものを分けておいたり、内と外の間を安易に分けないという作業が必要な論文なので、write Winnicottは大事。オグデンがこれについて書いているのはこんな感じ。


「私がウィニコットの論文を読解する「創造的読解creative reading」では、ウィニコットの文章を解き明かし解釈するだけでなく、主題に対する私自身の応答も提示する。ウィニコットが読者に各自の理解を委ねる箇所では、私が暗に含まれていると受け取る意味を肉付けすることで「ウィニコットを書くwrite Winnicott」。ウィニコットがほのめかすにとどめた着想を私が展開する。」

よい。これについていくとウィニコットの理解も深まるという仕組み。ただ、ウィニコットを前もってしっかり読んでおくことも必須なので、writeの前にreadかよという感じになるかもしれないけど同時にやるのが大事。というのを私は頭ではわかってるけどこれが私の課題。読むのは好き。書くのがだめ。でも周りの人と会話しているとアイデアは色々浮かぶからまずはそこを書き留めるところからかな。いくつになってもベイビーステップ。とにかくオグデンがcreative readingする論文は大変重要な論文たち。途中までのは一冊の本にまとまっていると思う。

とりあえず良い日曜日を。

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俳句 精神分析 精神分析、本

秋、俳句、書き物

秋の朝だ。光が柔らかい。春のウキウキとは違う静かな喜びを感じる。嬉しい。

昨晩、久しぶりに中国茶の器を使った。白湯を飲んだなのにとても美味しく感じた。白くて小さな器。昨日は涼しかったからペットボトルでグビグビ水分補給をする必要もなかった。かわいい茶器を自然に手に取り冷めたお湯を注ぎ腰を下ろして一息。身体が季節に合わせた道具を勝手に手に取ったぞ、とそれも嬉しかった。

秋の訪れとともにさらに嬉しいニュースがあった。初対面でファンになった句友が念願の大きな賞をとった。俳句に対する情熱を知っているからとても嬉しかった。彼女ならこれらの瞬間もきっと素敵な俳句にする。私は俳句は全然だめだけどこういう瞬間を素敵だなと発見できる自分でいられただけで満足、とか言っていたら怒られそう。いや、私の師匠は怒らない。全然ダメでも俳句にすることを勧めるだろう。賞をとった彼女の俳句は誰でも知っているのに知らなかった日常を読む。絶対彼女みたいな俳句は作れないのに俳句、私にも作れそう、楽しそう、と思わせてくれるこれからの俳句界に必要な人。すでにいくつかの賞を取っているが、これからますます多くの人に知られていく。俳句界はいいな。楽しくなっていきそう。

私もがんばらなくちゃ、とひとつ書き物の目標を作った。できるのか。でもエントリーしちゃったから書く。子どもの遊びについても年内に書かなくては。年内なら大丈夫かな、と思ったけどこの過ごし方では無理な気がする。そろそろ暑さのせいにもできないから気持ちよさを感じつつしっかりしましょう。はい。

アメリカの精神分析家のクリストファー・ボラスのことを書いていたが、今引用するには理解が足りないのでウィニコットとアンドレ・グリーンに戻った。これはボラスを理解するのにも役立つのは間違いないとはいえ、精神分析の主要概念から振り返るような議論が多いから難しいは難しい。主体とは、とか。イギリスとフランスの違いが濃く出る言葉。フランス語よりは英語のほうができるのでとりあえず英国精神分析の伝統に乗るけど。ラカン派の勉強もまだまだ足りないし。まあ、足りずとも使える程度までは足らせましょ。

空がきれいで本当にうれししい。何度も言ってしまう。昨晩の月もとってもきれいだった。良い一日になりますように。

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Netflix テレビ 精神分析 精神分析、本

ドラマ、Mac、HOKUSAI、ボラス

夜中、雨の音で目が覚めた。今も結構降っている。ひどくならないといいがほかの地域はどうなんだろう。

今朝は野木亜紀子脚本の「連続ドラマW フェンス」をみていた。昨年映画「ラストマイル」をみて、それを楽しめるように関連ドラマ「アンナチュラル」「MIU404」もみた。どれもおもしろかったけど「ラストマイル」はそういう準備もして、かつ映画館で見たから面白かったという感じかも。昨年だったら友達に勧められてみた篠﨑絵里子脚本(子鹿ゆずる原作、大槻閑人(漫画・作画)「アンメット ある脳外科医の日記」の方がよかったかな。テレビドラマだと女性の脚本家が活躍しているようにみえる。

それにしても私のMacBook AirOSはもうだめかもしれない。Apple Storeに行くと「ヴィンテージ!」と「今はここにこんなのないんですよ」とか嬉しそうに教えてもらえるが高値で引き取ってもらえるわけではなく故障したらしたで「もう部品がないかも」と言われ続けながらなんとか生き延びている。OSはMonterey12.7.6からアップデートできないので入れられないアプリも増えてきた。どうしよう。でもこうやって動くうちは使い続けることは決まっている。

映画『HOKUSAI』監督は橋本一、脚本、橋本一、河原れん、葛飾北斎の青年期を柳楽優弥、老年期を田中泯が演じ、この切替の仕方は大胆ながら自然。大河ドラマ「べらぼう」のおかげで私の中の江戸文化年表の基準となった蔦屋重三郎も登場。阿部寛が静かな迫力(背の高さだけでもインパクトある)があって素敵だった。それにしても田中泯の動きがとにかく素晴らしい。表情も含め、全部が躍動している。鬼滅を見ながらも思ったが筋肉を全部動かせたらいいのに。筋トレしていると驚くが、自分でコントロールしながら使っている筋肉のわずかなこと。それでも少しずつ使い方うまくなっていると思うけど。肩こりとかは全然なくなって美容師さんにも驚かれた。今日は台風のせいだと思うけど身体が変。頭痛には耳くるくるマッサージをした。耳も大事ね。身体はみんな連動して補い合っているはず。そういう部分のひとつひとつに注意を向けられたら器官言語みたいに多義性が上手に伝われる言葉を紡げるのかもしれない。

昨日、クリストファー・ボラスが読めない、ということを書いたが、ボラスの精神分析以外の仕事に目を向けると、あ、なんか読めるかも、という感じになり、少し読み進めた。ボラスのいう
The Evocative Object はウィニコットの移行対象の変形だと思うが、より動的で情動に関わるものらしく、ウィニコットの使うingをくっきりと浮かび上がらせる対象のように思う。ボラスとグリーン、ボラスとオグデンをつなぐのもこういった対象の機能なんだろうな、と思うとなんかわかる気がする、という感じになった。ボラスもオグデンもアメリカにしっかり根ざしているのに英国精神分析に馴染んでいるというところに独特の香りを感じるのかもしれない。英国精神分析は豊かだよね。

ということで今日は台風に気をつけつつ過ごしましょう。

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鬼滅とかボラスとか。

南側の大きな窓を全開にしても風が入ってこない。気温がまだそんなに高くないからいいけど。昨晩は半月がもっと膨らんできれいだったのにベランダからは見えなかった。なぜ半月基準か、といえばその日に月と星の話をしたから。8月の月の暦は1日:上弦 9日:満月 16日:下弦 23日:新月 31日:上弦だった。キッチンの窓からはすごく気持ちのいい風。ありがたい。

深夜、早朝と『鬼滅の刃』を見続け、ようやく追いついた。でも今のところ無限列車編までが一番よかったかな。ここまで見たら『劇場版「鬼滅の刃」無限城編 第一章 猗窩座再来』も見ないとか、と調べたらまだ混んでるのね。すごい人気だ。“英語字幕版上映”もそろそろ始まるとのこと。

勉強がなかなか進まないから読み慣れてきたオグデンばかり読んでいたけどナルシシズムに関する文献はちょこちょこ読んでいる。ウィニコットとアンドレ・グリーン関連でクリストファー・ボラスもチェックしてるが読みにくい。邦訳はすでに何冊か出ているのだけど私が確認したかったThe Mystery Of Thingsの邦訳『精神分析という経験 事物のミステリー』Dead mother,dead childとWording and telling sexualityが割愛されている。ガーン。

Three Characters: Narcissist, Borderline, Manic Depressive: by Christopher Bollas, Bicester, Oxon, Phoenix Publishing House, 2021もチェックした。

iphoneのメモが煩雑でボラスが書いていること以上に自分の言いたいことがわからないが、キャラクターは「性格」で訳していいのか、とかなんでボーダーラインと躁鬱と「ナルシスト」なの(ナルシシズムじゃなくて)、とか、これって「性格」の類型なの、とかナルシストのところで神話から入るのは大賛成なんだけどエコーの解釈ってこうなの、とか思っていたらしい。


ボラスの思考を詳細に追いたいならStreams of Consciousness: Notebooks 1974–1990とStreams of Consciousness: Notebooks 1991–2024が出たけど、ビオンの自伝と理論を合わせて読むようには読めない気がする。精神分析の文献でさえ追いにくいのだから楽しめなさそう。ビオンの自伝なんて辛くてそういう意味では楽しくはないけど読書体験としてはとても豊かだったが。私に文学的要素が乏しいからボラスを読めないのかなあ。関心領域はものすごく被っていると思うのだけどな。

台風はどうなったか。被害が出ませんように。

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オグデン(2025)の論文を読んだ。

空がまだグレー。昨日のちょうどお昼頃、外に出たら熱中症になったかと思った。夜は気持ちいい風が吹いていたけど日中の日差しは危なかった。休日とかで外にいる時間が長い場合は登山用の夏用長袖Tシャツを着ていたからなんとかなったけど、普通に半袖着てたら皮膚が大変。日光と汗にやられやすいから薬常備。

サンフランシスコの精神分析家、トーマス・オグデンの最新刊を読みながら、ひとつ前のも読んだり、今年のIPAジャーナルに掲載されたOgden TH. Inventing psychonalysis with each patient. Int J Psychoanal. 2025 Jun;106(3):473-488.も読んだりした。これ前にも読んだ気がすると思ったけど読んでもすぐ忘れてしまうし、考えるために読んでいるからまあいいかとなっている。ジャーナルは電子版で読めるから移動時間に自動翻訳でサクサク読めてありがたい。公開されているアブストラクトの冒頭はこちら。

The author posits that for an analytic treatment to be alive and effective, the analyst must invent psychoanalysis with each patient. In responding to the question, “What does it mean to invent psychoanalysis with each patient?” the analyst must first ask himself, “What does it mean to become a psychoanalyst?” and “What is it that defines psychoanalysis.” Further, “What is distinctive about the practice of psychoanalysis?”

直訳だと

著者は、分析的治療が生き生きと効果的であるためには、分析家は患者ごとに精神分析を新たに発明しなければならないと主張する。「患者ごとに精神分析を発明するとはどういう意味か」という問いに答えるにあたり、分析家はまず自らに問わねばならない——「精神分析家になるとはどういうことか」「精神分析を定義づけるものは何か」と。さらに「精神分析実践において特異なものは何か」と。

そして「著者は、各患者と共に、その二人ならではの精神分析の形をどのように発明しているかについて、臨床例を提示する。」

ということで、オグデンがこれまでも書いてきた分析的な枠組みを変更した場面を先人たちの考えを引用しながらひとりの精神分析家としてたくさん描写しつつ、これらの問いに戻る経験豊かな精神分析家ならではの論文でとても実践的。精神分析には精神分析ならではの出来事がたくさんあるし、その精神分析家と患者のペアならではの判断というのもたくさんある。

Ogden, T. H.2016. Reclaiming Unlived Life: Experiences in Psychoanalysis. (New Library of Psychoanalysis). London:  Routledge. 邦訳は『生を取り戻す 生きえない生をめぐる精神分析体験』(上田勝久訳)。

Ogden, T. H.2024. “Rethinking the Concepts of the Unconscious and Analytic Time.” International Journal of Psychoanalysis 105:  279–291.

Ogden, T H.2024. “Ontological Psychoanalysis in Clinical Practice.” Psychoanalytic Quarterly 93:  13–32.

を読んでおくとオグデンが伝えたいことをさらに別の形で感じ取れるかもしれない。

オグデンは2024年の論文で
The idea of the unconscious itself is beginning to be viewed as an idea as opposed to a “fact”. Freud (1915)considered “incontrovertible” (167) the existence of the unconscious, an aspect of mind “behind” or “beneath” the conscious mind. To my thinking, the unconscious is an idea, a brilliant idea, an idea immensely helpful in organizing my ideas when working with patients. But it is just an idea (Ogden 2024)

と打ち出した。それも維持。

私がこだわっているAlivenessもまたそれによって捉えられる性質のものではない、とオグデンは言う。よってUnlivedの訳も自分の実践から実感を持ったものにしたいが私は『セカンド・チャンス』スティーブン・グリーンブラット&アダム・フィリップス著で訳者の河合祥一郎があとがきで書いている意味で訳したい。

「生きていない人生」と訳したが、原語unlived lifeは「生きなかった人生」の意味も含む。過去を振り返る視点で言うなら「生きなかった人生」になるし、現状や未来に目を向けて、今の人生とは別の人生を夢想するのであれば「(まだ)生きていない人生」という意味になる。

こういうインプットが9月半ばまでにアウトプットに繋がっていけば9月末締切のものに間に合うかもしれないけど難しそうだなあ。こだわりを捨てればいいのだろうけど。臨床歴は長くても精神分析の実践はまだ乏しいから書けないんだよなあ、ということはわかっている。実感が足りない。オグデンみたいに精神分析家が長生きして、実践を伴ったことを書き続けてくれることは本当に大事。長生き大事。健康に気をつけて過ごしましょう。

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花火、禾乃登、フロイト草稿

風が気持ちいい。洗濯物が揺れすぎているのが心配だがすぐに取りこむから大丈夫。今日もこれから暑くなるみたい。風も朝の光も確実に秋なのに。夏休み中は東京ヤクルトスワローズ神宮花火ナイターといってヤクルトの試合の5回裏終了時には300発の花火が上がっていた。初台のオフィスは新宿にも原宿にも近く、神宮球場はそのちょっと先。毎年、夏の毎日に花火が窓から見えるなんて特別。大体仕事中なので音を聞くだけだけど。それも8月31日で終わった。今日9月2日から6日頃まで七十二候「禾乃登(こくものすなわちみのる)」。処暑の末候。たしかに暑さも峠を越した感じはあるからやっぱり暦は気候変動にまだ対応できてる。これからも五感と言葉が離れすぎることのありませんように。

昨日、9月1日はイレギュラーな予定の時間がわからなくなって確認したり、8月末までの締切にきづき慌てて書いて送るなどした。焦った。私個人の夏休みはとっくに終わっていたがいつも学校の夏休みモードに気分も身体も合わせてしまう。子どもの話もたくさん聞くからかも。それはそれで楽しいことだが時間ができるとこの暑いのに精力的に遊んでしまい、翌日の疲れを気にするという繰り返し。実際、疲れはそんなに感じないが割と大きなもの忘れをしている時点で疲れているかもしれない。あるいはこれまでもそうだったジャンという話か。どっちにしてもあーあだよ。

時が経つ早さには困るけどオフィスのカレンダーをめくってまた楽しい気分になった。霜田あゆ美さんのイラストのカレンダーは毎年、毎月楽しい。

昨晩、Reading Freudの準備としてフロイト『心理学草案』のことを考えていて
松山あゆみ「メランコリーと初期リビード経済論 : フロイト草稿G「メランコリー」のリビード論的意義」(2010)を読んだ。

フロイトの草案は全集に載っている『心理学草案』だけではない。この論文では題名の通り、草稿Gを精読することで、リビドー経済論の観点からフロイトのメランコリー論の起源をそこに見出している。こんなものを送りつけられたフリースがどのくらいフロイトの頭の中にあることを理解したのかは不明だが、フロイトにとってはとにかく相手がいることがまずは重要だっただろうし、フリースがいてくれたおかげで精神分析の種がたくさんまかれた。初期にまかれた種を乱暴に交雑することなく、起源として大切にすること。乳児期を大切にするのと同じこと。それは単に過去に原因を求めている、とはわけが違う。歴史を大切にするということ。9月からまたReading Freudがんばろう。

身体大切に過ごしましょう。良い一日になりますように。

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お菓子 散歩 読書

お菓子、海、夢。

ベランダに出たら風を感じた。涼しくないけど気持ちいい。ちょうどいいキウイと長野県茅野駅そばのきれいな通りにあるかわいい洋菓子屋さんアニバーサリーチロルの「セロリーのパイ包み」を友だちがくれた神戸の紅茶と一緒に。「茅野特産のセロリーを当店にて砂糖で煮て、白あんとドッキングし、パイ生地で包みました」というお菓子。あんがほんのり緑。いろんな地域発のお菓子があって楽しい。

いろんな地域でいろんなお話を聞いていると驚くことばかり。特に海が身近な人たちのお話には。週末も海辺で驚いてばかりいた。

今日もすごく暑いのか。昨日もすごい暑さだったが海の近くにいたせいか時折とても涼しい風が吹いてきた。山でも風の通り道みたいなところがあって暑いとずっとそこにとどまっていたくなるが海辺は日陰がないから日傘必須。時折、急な風で裏返っていたけど。海の家も賑わっていた。今年は通常より長く営業しているのかしら。海水の温度が上がっていつもの魚が全然取れないという話も聞いた。「今朝もそこからたっくさんの船が出ていったのに帰ってきたら」など漁港で具体的に言われると漁の様子もまざまざと見えてきてほんと温暖化怖い、という気持ちになる。青森に行ったときも最近の魚や原発のことなどその場で聞いたからすごく心にきた。本当に本当にまずいんだ、考えなくては、行動しなければ、と思うから勉強もするし、いろんな地域の人の話を聞くことがますます大切に思える。昨日は90歳の方のお話も聞いた。この街のことはもう自分しか知らない、と語り部の役割を引き受けてくださっているようだった。ハキハキと詳細ながら簡潔にわかりやすく説明してくださってずっと聞いていたかったけど切り替えもしっかりしていて日々の営みの強さを感じた。

そういえば昨晩、村田沙耶香が選ぶ本、みたいな感じで「その本、私も大好き!」と思ったが全部夢だった。夢の中ではその本のことをはっきりと思い出していたのになんの本だったかもわからない。好きな本はたくさんあるけど多くのことは忘れられていく、私の場合だけど。言われれば「そうだったそうだった」となるときもあるけど「そうだったっけ」となることも多い。それでもいろんな本を読んでいろんな土地へ行っていろんな人と会うことは楽しい。精神分析のように日々を積み重ねていく仕事もだから好きなんだと思う。歴史を紡ぐ、人を繋ぐ、文化を大切にする。破壊より創造を。外からの変化ではなく自分で感じられる変化を。

今日も無事に過ごしましょう。