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精神分析

オグデン(2025)の論文を読んだ。

空がまだグレー。昨日のちょうどお昼頃、外に出たら熱中症になったかと思った。夜は気持ちいい風が吹いていたけど日中の日差しは危なかった。休日とかで外にいる時間が長い場合は登山用の夏用長袖Tシャツを着ていたからなんとかなったけど、普通に半袖着てたら皮膚が大変。日光と汗にやられやすいから薬常備。

サンフランシスコの精神分析家、トーマス・オグデンの最新刊を読みながら、ひとつ前のも読んだり、今年のIPAジャーナルに掲載されたOgden TH. Inventing psychonalysis with each patient. Int J Psychoanal. 2025 Jun;106(3):473-488.も読んだりした。これ前にも読んだ気がすると思ったけど読んでもすぐ忘れてしまうし、考えるために読んでいるからまあいいかとなっている。ジャーナルは電子版で読めるから移動時間に自動翻訳でサクサク読めてありがたい。公開されているアブストラクトの冒頭はこちら。

The author posits that for an analytic treatment to be alive and effective, the analyst must invent psychoanalysis with each patient. In responding to the question, “What does it mean to invent psychoanalysis with each patient?” the analyst must first ask himself, “What does it mean to become a psychoanalyst?” and “What is it that defines psychoanalysis.” Further, “What is distinctive about the practice of psychoanalysis?”

直訳だと

著者は、分析的治療が生き生きと効果的であるためには、分析家は患者ごとに精神分析を新たに発明しなければならないと主張する。「患者ごとに精神分析を発明するとはどういう意味か」という問いに答えるにあたり、分析家はまず自らに問わねばならない——「精神分析家になるとはどういうことか」「精神分析を定義づけるものは何か」と。さらに「精神分析実践において特異なものは何か」と。

そして「著者は、各患者と共に、その二人ならではの精神分析の形をどのように発明しているかについて、臨床例を提示する。」

ということで、オグデンがこれまでも書いてきた分析的な枠組みを変更した場面を先人たちの考えを引用しながらひとりの精神分析家としてたくさん描写しつつ、これらの問いに戻る経験豊かな精神分析家ならではの論文でとても実践的。精神分析には精神分析ならではの出来事がたくさんあるし、その精神分析家と患者のペアならではの判断というのもたくさんある。

Ogden, T. H.2016. Reclaiming Unlived Life: Experiences in Psychoanalysis. (New Library of Psychoanalysis). London:  Routledge. 邦訳は『生を取り戻す 生きえない生をめぐる精神分析体験』(上田勝久訳)。

Ogden, T. H.2024. “Rethinking the Concepts of the Unconscious and Analytic Time.” International Journal of Psychoanalysis 105:  279–291.

Ogden, T H.2024. “Ontological Psychoanalysis in Clinical Practice.” Psychoanalytic Quarterly 93:  13–32.

を読んでおくとオグデンが伝えたいことをさらに別の形で感じ取れるかもしれない。

オグデンは2024年の論文で
The idea of the unconscious itself is beginning to be viewed as an idea as opposed to a “fact”. Freud (1915)considered “incontrovertible” (167) the existence of the unconscious, an aspect of mind “behind” or “beneath” the conscious mind. To my thinking, the unconscious is an idea, a brilliant idea, an idea immensely helpful in organizing my ideas when working with patients. But it is just an idea (Ogden 2024)

と打ち出した。それも維持。

私がこだわっているAlivenessもまたそれによって捉えられる性質のものではない、とオグデンは言う。よってUnlivedの訳も自分の実践から実感を持ったものにしたいが私は『セカンド・チャンス』スティーブン・グリーンブラット&アダム・フィリップス著で訳者の河合祥一郎があとがきで書いている意味で訳したい。

「生きていない人生」と訳したが、原語unlived lifeは「生きなかった人生」の意味も含む。過去を振り返る視点で言うなら「生きなかった人生」になるし、現状や未来に目を向けて、今の人生とは別の人生を夢想するのであれば「(まだ)生きていない人生」という意味になる。

こういうインプットが9月半ばまでにアウトプットに繋がっていけば9月末締切のものに間に合うかもしれないけど難しそうだなあ。こだわりを捨てればいいのだろうけど。臨床歴は長くても精神分析の実践はまだ乏しいから書けないんだよなあ、ということはわかっている。実感が足りない。オグデンみたいに精神分析家が長生きして、実践を伴ったことを書き続けてくれることは本当に大事。長生き大事。健康に気をつけて過ごしましょう。

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イベント 精神分析

花火、禾乃登、フロイト草稿

風が気持ちいい。洗濯物が揺れすぎているのが心配だがすぐに取りこむから大丈夫。今日もこれから暑くなるみたい。風も朝の光も確実に秋なのに。夏休み中は東京ヤクルトスワローズ神宮花火ナイターといってヤクルトの試合の5回裏終了時には300発の花火が上がっていた。初台のオフィスは新宿にも原宿にも近く、神宮球場はそのちょっと先。毎年、夏の毎日に花火が窓から見えるなんて特別。大体仕事中なので音を聞くだけだけど。それも8月31日で終わった。今日9月2日から6日頃まで七十二候「禾乃登(こくものすなわちみのる)」。処暑の末候。たしかに暑さも峠を越した感じはあるからやっぱり暦は気候変動にまだ対応できてる。これからも五感と言葉が離れすぎることのありませんように。

昨日、9月1日はイレギュラーな予定の時間がわからなくなって確認したり、8月末までの締切にきづき慌てて書いて送るなどした。焦った。私個人の夏休みはとっくに終わっていたがいつも学校の夏休みモードに気分も身体も合わせてしまう。子どもの話もたくさん聞くからかも。それはそれで楽しいことだが時間ができるとこの暑いのに精力的に遊んでしまい、翌日の疲れを気にするという繰り返し。実際、疲れはそんなに感じないが割と大きなもの忘れをしている時点で疲れているかもしれない。あるいはこれまでもそうだったジャンという話か。どっちにしてもあーあだよ。

時が経つ早さには困るけどオフィスのカレンダーをめくってまた楽しい気分になった。霜田あゆ美さんのイラストのカレンダーは毎年、毎月楽しい。

昨晩、Reading Freudの準備としてフロイト『心理学草案』のことを考えていて
松山あゆみ「メランコリーと初期リビード経済論 : フロイト草稿G「メランコリー」のリビード論的意義」(2010)を読んだ。

フロイトの草案は全集に載っている『心理学草案』だけではない。この論文では題名の通り、草稿Gを精読することで、リビドー経済論の観点からフロイトのメランコリー論の起源をそこに見出している。こんなものを送りつけられたフリースがどのくらいフロイトの頭の中にあることを理解したのかは不明だが、フロイトにとってはとにかく相手がいることがまずは重要だっただろうし、フリースがいてくれたおかげで精神分析の種がたくさんまかれた。初期にまかれた種を乱暴に交雑することなく、起源として大切にすること。乳児期を大切にするのと同じこと。それは単に過去に原因を求めている、とはわけが違う。歴史を大切にするということ。9月からまたReading Freudがんばろう。

身体大切に過ごしましょう。良い一日になりますように。

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お菓子 散歩

お菓子、海、夢。

ベランダに出たら風を感じた。涼しくないけど気持ちいい。ちょうどいいキウイと長野県茅野駅そばのきれいな通りにあるかわいい洋菓子屋さんアニバーサリーチロルの「セロリーのパイ包み」を友だちがくれた神戸の紅茶と一緒に。「茅野特産のセロリーを当店にて砂糖で煮て、白あんとドッキングし、パイ生地で包みました」というお菓子。あんがほんのり緑。いろんな地域発のお菓子があって楽しい。

いろんな地域でいろんなお話を聞いていると驚くことばかり。特に海が身近な人たちのお話には。週末も海辺で驚いてばかりいた。

今日もすごく暑いのか。昨日もすごい暑さだったが海の近くにいたせいか時折とても涼しい風が吹いてきた。山でも風の通り道みたいなところがあって暑いとずっとそこにとどまっていたくなるが海辺は日陰がないから日傘必須。時折、急な風で裏返っていたけど。海の家も賑わっていた。今年は通常より長く営業しているのかしら。海水の温度が上がっていつもの魚が全然取れないという話も聞いた。「今朝もそこからたっくさんの船が出ていったのに帰ってきたら」など漁港で具体的に言われると漁の様子もまざまざと見えてきてほんと温暖化怖い、という気持ちになる。青森に行ったときも最近の魚や原発のことなどその場で聞いたからすごく心にきた。本当に本当にまずいんだ、考えなくては、行動しなければ、と思うから勉強もするし、いろんな地域の人の話を聞くことがますます大切に思える。昨日は90歳の方のお話も聞いた。この街のことはもう自分しか知らない、と語り部の役割を引き受けてくださっているようだった。ハキハキと詳細ながら簡潔にわかりやすく説明してくださってずっと聞いていたかったけど切り替えもしっかりしていて日々の営みの強さを感じた。

そういえば昨晩、村田沙耶香が選ぶ本、みたいな感じで「その本、私も大好き!」と思ったが全部夢だった。夢の中ではその本のことをはっきりと思い出していたのになんの本だったかもわからない。好きな本はたくさんあるけど多くのことは忘れられていく、私の場合だけど。言われれば「そうだったそうだった」となるときもあるけど「そうだったっけ」となることも多い。それでもいろんな本を読んでいろんな土地へ行っていろんな人と会うことは楽しい。精神分析のように日々を積み重ねていく仕事もだから好きなんだと思う。歴史を紡ぐ、人を繋ぐ、文化を大切にする。破壊より創造を。外からの変化ではなく自分で感じられる変化を。

今日も無事に過ごしましょう。