早朝、賑やかに鳴いていた鳥たちは5時半を過ぎた頃にはもう遠くへいってしまったようだった。今朝は重たい空の色だが気温的には凌ぎやすい。昨日もだいぶ過ごしやすかったが、夕方首元に浴びた西日には本当に焼かれた感じがした。
以前、フランス、ラカン派の精神分析家、コレット・ソレール(C.Soler)の『情動と精神分析 ラカンが情動について語ったこと』(福村出版)の書評を書いた。そのときにソレールの別の本も読んだが、整理しないまま放置していた。別の文書を探すときにソレールのWhat Lacan Said About Womenのメモが出てきた。「9 An Infantile Neurosis」ではウィニコットのピグルが取り上げられているのでそこだけはきちんと訳しておこうと思った痕跡がある。それほどインパクトのある章でもないが、ラカン派の考えがベースにありつつ、ラカン派なのに、と感じる部分も確認でき、ソレール独自の臨床感覚による修正がそこには加わったのだろうと思われた。
たとえばラカン派らしいところをざっと訳すとこんな感じ。
>>子どもはまた、解釈する者(interpreter)であり、謎を読み解く者(decipherer)でもあるからである。そのような存在になるためには、子どもs/heはまず言語の構造のなかへ入らなければならない。そして、シニフィアンとシニフィアンとのあいだの間隔(interval)が主体を十分に穿ち、そのことによって主体自身が解釈を求める存在となるのである。ここで決定的なのは、〈他者〉の謎との出会いである。その謎が完全に埋め尽くされないかぎり、子どもは誰もが、〈他者〉──とりわけ母親──の語ること(dire)について、自分自身の読みを打ち立てようと努める。私たちは、ごく幼い子どもでさえ、〈他者〉が言ったこと(dits)だけではなく、その沈黙や矛盾、嘘、つまりその言説のあらゆる裂け目に細心の注意を払っていることを知っている。もちろん、それは子どもの存在そのものに関わる問題だからである。子どもが解き明かそうとしているのは、自らがどのようにしてこの世に生まれたのかという秘密であり、さらに、自らの性の秘密でもある。こうして、解釈する者は再び解釈される者として現れる。そして、その人が行うあらゆる解釈の秘密は、この解釈の結び目(knot of interpretations)のうちに存しているのである。このことを踏まえると、ラカンが「ジェニー・オーブリーへの二つの覚書」の最後で言及している施設症候群(institutionalization syndrome)において、子どもに何が欠けているのかが理解できる。子どもの生命維持に必要な要求needは、比較的匿名的な世話によって満たすことができる。しかし、ラカンのいう「特別に向けられた関心(particularized interest)」が欠けているために、子どもは解釈する〈他者〉を失うだけでなく、自らが解釈すべき他者をも失ってしまう。その結果、子どもは匿名ではない欲望のなかで、自らの存在を成立させることができなくなるのである。
というようなところはラカン派らしい記述だし、そうですよね、という箇所でもあるが簡単に納得してはいけない部分でもあるだろう。
そしてソレールらしいのはこの辺かな、というところをざっと訳す。
>>幼児神経症を探すということは、まず何よりも、「去勢コンプレックスを探す」ということである。周知のように、去勢コンプレックスとは複雑な構造をもつものであり、単に身体の切断や損傷のイメージが存在することに還元されるものではない。それは、去勢不安という中心的な情動をめぐる一つの精巧な構成であり、フロイトが幼児神経症と呼んだものと実質的に重なり合っている。この点について私は、ミシェル・シルヴェストルの見解に従いたい。すなわち、幼児神経症と成人神経症とは、同質的でも対称的でもない、という見解である。彼が述べているように、成人神経症は解決されることがない。というのも、それは性関係において不可能なものを補う働きを担っているからである。それに対して、幼児神経症は、狂気に陥ることのないあらゆる主体にとって、ほとんど必然的に通過しなければならない過程である。そして、そのような精神病ではない主体の一人ひとりについて、私たちはその痕跡だけでなく、その解決の仕方をも見出すことができる。それを必然的な通過点と呼ぶことは、同時に、それが一つの発達段階であることを意味している。今日では、私たちはもはや「発達(development)」という言葉をあまり用いない。しかし、結局のところ、時間的な推移(diachrony)もあれば、典型的な段階も、やはり存在するのである。
いや、ここは「発達」に対する眼差しをフーンと思った箇所でこっちの方がそれっぽいかな。
>>去勢コンプレックスとは、母親のファルス的欠如との出会いに対する子どもの応答である。というのも、去勢は主体の側に直接刻み込まれるものではないからである。去勢が主体に作用するのは、まず〈他者〉──ここでは母親──の欠如が現実のものとなり、その欠如に応える対象とは何なのか、という問いが立ち現れることによって初めて可能になる。そこで私は、去勢コンプレックスに苦しめられていた一人の少女、すなわちウィニコットの『ピグル』を取り上げることにした。この症例では、私の関心は分析家であるウィニコット自身よりも、むしろ小さな被分析者であるピグルのほうに向けられている。というのも、私にはウィニコットは、少しばかり彼女のあとを追っているように思われるからである。
いや、ここもソレールっぽいというよりラカン派っぽいという感じか。理解はできるのだけどなんかいまいちインパクトがないような感触があり、当時もダラダラ読んでしまったのだろう。もっときちんと読めば手応えのある記述にも出会えるかもしれないが。という感じで読みなおしていた。ウィニコットの「ピグル」が取り上げられていることだけでも新鮮ではある。
昨晩、夜遅くに作った茄子とひき肉のおかずがいい匂いだけどこれが残ったまま出かけるのは嫌だな。この部屋、カーテン閉め切って出かけてもものすごく暑くなるからせっかくのいい匂いが気持ち悪い匂いになっちゃう。しっかり換気してから出かけるとしましょう。良い一日になりますように。

